シャガール展   三次元の世界

マルク・シャガール(1887~1985)はユダヤ系ロシア人で、20世紀絵画の世界的巨匠である。私には、甘美な幻想を色彩豊かに描き続けた大画家というイメージがある。しかし、このシャガール観は、この展覧会を観て大きく変わった。彫刻、陶芸など約60点の立体作品が並んだシャガール展は日本で初めてだそうだ。彼はロシアに生まれたが、早くからパリに来てエコールド・パリの一人となった。ユダヤ系ロシア人の純朴な民衆的な感覚で、幼い時に聞いた童話や、故郷の農民の生活や、恋愛の幸福を楽しくうたう。彼の夢の中では、人間や動物はまるで童話のように、のんびりと平和に空中を自由に飛び回っている感覚である。1911年のキュビスムの運動の真只中のアンデパンダンに突然彼の絵が現れた。薄紅色の牛や、緑色の豚など非現実的な色彩を用いているが、勿論フォーブではなく、画面の構成はキビュビスムの影響は認められるものの、キビュスムでもない。ギョーム・アポリネールは、この新しいエスプリを目ざとくも認め、これをシュール・レアリスムと呼び、大いに好意を持った。後世、このシュール・ナチュレル(超自然)からシュール・レアリスムという言葉が生まれたのである。1914年にアポリネールの推薦によりドイツにおいて大展覧会を開催した。シャガールは、この展覧会のついでに一寸ロシアに帰省している内に第一次世界大戦が起こり、そのままロシアに止まり、1922年までパリを留守にした。

誕生日 シャガール作 油彩・カンヴァス1923年 AOKIホールデイングス

1915年に制作された「誕生日」(ニューヨーク近代美術館)を、1923年にシャガール自身が模写したもので、画面サイズも含めて細部に至るまでほぼ原画を忠実に仕上げられており、両者を見分けるのは困難であるそうだ。シャガール自身の思い入れの深さがわかる。描かれているのは1915年7月7日のシャガールの誕生日に、恋人のベラが花を抱えて彼の部屋を訪れた場面である。これからほぼ2週間後の7月25日に二人は正式に結婚している。お互いを思い合う気持ちの高まりを表すように、シャガールの体はふわふわと宙を舞い、大きく首を曲げて恋人のベラに優しく口づけをしている。不自然なほどに捻じ曲げられたポーズは、愛のもどかしさと力強さを、ベラの大きく見開いた瞳は驚きと喜びを伝えている。

誕生日(彫刻) シャガール作  大理石  1968年頃   個人蔵

「誕生日」大理石は、半世紀近くを経てこの場面を立体的に置き換えたものだが、シャガールに取ってこのテーマはどれほど大切なものであるかを教えてくれる。同じ頃に「ふたつの頭部と手」という大理石の彫刻も展示されていた。シャガールに取って、とほど大切な思い出であったのだろう。

散歩  シャガール作  彩色陶器  1961年    個人蔵

シャガールの陶器の表面に施された絵付けは、過去の絵画に使用したイメージの似ているものが多いため、絵画の焼き直しのような印象を受けやすいが、詳細に分析すると壺や皿といった支持体の形に添った改変が加えられ、あるいは全くそれまで存在しなかったイメージも少なくなく、作者が独自の表現を模索していることがわかる。シャガールがいかに陶器の形を生かしながら絵付けを施しいるかがわかる。「散歩」と言えば現在ロシア美術館が所蔵する初期の代表作が思い浮かぶが、壺に描かれたイメージは全く異なる、独立した作品である。

エルサレム(嘆きの壁) シャガール作 油彩・キャンヴァス 1931年個人蔵

1931年、シャガールはテルアヴィヴ市長の招待を受けて、妻ベラや娘のイダと共にパレスチナを訪れた。聖地エルサレムにも滞在した。ユダヤ人としての出自を持つシャガールにとって、この時間が特別な物であったことは想像に難くない。帰国後には、半世紀後に出版されることになる「聖書」のエッチングに取り掛かっている。嘆きの壁は、ユダヤ教徒が祈りを捧げる場所として知られるが、元はヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁の一部とされる。「エルサレム 嘆きの壁」では、壁を左側にして、透視遠近法で奥行きを感じさせる空間が演出されている。壁の前に3人が祈りを捧げている。「嘆きの壁」には、5月に、現職の大統領としては初めて訪れたトランプ大統領が、壁に手をついて祈りを捧げたことがそうである。シャガールには、「エルサレム」と題する絵があり、ずっと後退した位置から壁を含む神殿跡全体を大きく視野に収めた絵である。

ハダサラ病院付属ユダヤ教会堂のステンドグラス墨・グワッシュ1961年個人蔵

ヘブライ大学ハダサ病院内のシナゴーグに設置するステンドグラスの依頼を受けたシャガールは、1959年頃から下絵の制作を始め、3年間にわたってこの仕事に取り組んだ。除幕式が行われたのは1962年2月である。シナゴーグの4面の壁に、それぞれ3面ずつ、計12面のステンドグラスを設置したもので、このテーマに選ばれたのはヤコブがその死に際して祝福したイスラエルの12支族であった。この絵は「ナフタリ一族」である。各支族の性格を表すに当たってシャガールは、人の姿を描くことを禁じるユダヤ教の教義に基づき、人物の登場をしない表現を選択した。ナフリ族は雌鹿と称された(「創世記」49章)ので雌鹿によって表した。

逆さ世界のヴァイオリン弾き シヤガール作 油彩・キンヴァス1929年個人蔵

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代は、シャガールにとって、人生の中で最も安定した時代であった。画家は時折、キャンバスを回転させて描くことで、作品に幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間を生み出されたキャンバスの中で故郷のヴァイオリスクの風景も歌いだし踊り出しているようである。

画家と妻 シャガール作 油彩・キヤンヴァス 1969年 AOKIホールディングス

シャガールの絵画作品には、絵画をいくつかの色面に塗り分けたものがある。色は赤や青など原色が多く、塗り分け方にははっきりした法則があるわけではない。色面ごとに場面は異なるようでいながら、複数の色面をまたいで描かれるモチーフもある。大きな花瓶の花束と若い女性は、ベラが花束を持って来た場面であろうか?

黄色の裸婦 シャガール作 油彩・砂・キャンバス 1967年  個人蔵

とんがり帽子を被った道化師を中心に、青緑色の山羊、ラッパを吹く人物などが画面左側に、月、花束を持つ緑色の裸婦などを画面左側に配した構図はほぼ正方形の作品である。背景は赤と濃緑色で塗り込められているが、画面下方にはヴィテブスクの街並が見えることから、画かれている人物たちは宙に浮かんでいる状態のようである。3点の似た作品があるが、これが一番完成度が高くモデリングがなされて立体感が作りだされ、背景よりも空間を感じさせる表現となっている。

たそがれ シャガール作 油彩・カンヴァス 1938~43年 個人蔵

シャガールはたびたび愛する者同士の結びつきを二重肖像として表している。アメリカ亡命期の1943年に完成したこの作品は、パレットを手にした画家が青く塗られた顔面に、白色の女性の横顔が重なっている。画面の外側から取んできたような髪をなびかせたこの女性の唇は、画家の唇とぴったり重なっており、あたかもミューズとして創造の息吹を吹き込んでいるようである。

ヴィデブスクの上に横たわる裸婦 シャガール作 油彩・カンヴァス 1933年個人蔵

灰色の空の下、生気を失ったように描かれた故郷の風景の中で、左端の花束とそこから生まれ出たような女性の裸体だけに生命力を感じ取ることができる。しかし、空に浮かぶその女性も、目の前の現実から顔を背けるように後姿で描かれる。この頃、ドイツではナチスによる反ユダヤ主義の嵐が吹き始めていた。

天蓋の花嫁 シャガール作 油彩・キャンヴァス 1949年 AOKIホールデイングス

本作には、シャガールのミューズであった二人の女性への思いと故郷ヴィテブスクへの望郷の念が象徴的に表現されている。ユダヤの結婚式が執り行われる赤い天蓋の前で抱き合う花嫁と花婿は天に昇るように縦に伸びている。傍らには彼らを祝福するように大きな花束が描かれている。二重肖像になった花嫁の顔には、黒髪の亡きベラと当時のパートナー、金髪のヴィアージニア・ハガードの面影が映し出されていると言われる。

聖母子 シャガール作 石膏  1952年        個人蔵

シャガールには珍しい「聖母子」という主題を単独で扱った作品である。肘を張って上げた両腕で、胸の中央に幼子を掲げる聖母は、その強い正面性とシンメトリカルで安定した体形によって威厳と生命力を伝えている。本作では、対照的に両側に張り出した腕の表現には、当時手がけていた陶器作品の造形の影響を指摘することができる。

 

陶芸を経て51年から彫刻作品に取り組んだシャガールは、祖国ロシアとルーツであるヨダヤ民族の伝統を承継している。旧約聖書もモチーフにした石彫は、その一例で、土俗的なまでの生命力には目を奪われる。この巨匠の豊富な芸術は、モダニズム絵画の文脈だけでは語りきれない。そのことを如実に示す展覧会となった。12月3日まで開催されている。

 

(本稿は、図録「シャガールー三次元の世界  2017年」、日本経済新聞社「2017年10月4日号」、福島繁太郎「近代絵画」、ポーラ美術館図録「コレクター 鈴木常司と美へのまなざし」を参照した)

運  慶  展 

興福寺中金堂再建特別展として、「運慶展」が東京国立博物館にて9月26日より11月26日まで開催されている。私は、初日に出かけたが、驚いたことに9時半のオープン前から延々長陀の列が出来て、入館までに約30分かかるという驚くべき集客力である。よほど主催者に名前を連ねる朝日新聞社が無料券を配布したのだろうと勝手な憶測をしたが、館内にも沢山の人が熱心に仏像を拝観されている様を見て、大変驚いた。日本人はかくも仏教に熱心であるのか、仏教美術に関心があるのかと驚いた。例えば、この前の「タイ~仏の国の輝き~」の初日はガラガラであった。何故、運慶という仏師の展覧会になると、かくも大勢の人が集まるのか、判らない。しかし、「仏師 運慶」に興味を抱く方が大勢いることは、私にとっては大変嬉しいことであり、是非、運慶仏の美しさ、リアル感を感じて頂ければ幸いであり、是非、奈良・京都の古仏を拝観して頂きたいと思う。さて、仏師の氏名が明らかになるのは何時頃からであろうか?仏教伝来の頃、飛鳥時代の仏師・鞍造止利(くらつくりとり)の名は有名である。飛鳥寺に今も残る重文・飛鳥仏は止利仏師の作であることは日本書記にも記されて、有名であり、日本史の教科書にも載っている。また法隆寺の金堂の「釈迦三尊」像も止利の銘があることから、止利仏師作とされ、国宝に指定されている。(但し、私は飛鳥時代に遡る仏像ではないと思っている)しかし、奈良時代の名作、薬師寺の三尊仏、新薬師寺の十二神将像、興福寺の八部衆(例えば阿修羅像)の作者名は不明である。仏師の名前が明らかになるのは平安時代の半ばの定朝(じょうちょう)からであろう。定朝様式として、日本初の和風の仏像としてもてはやされた。これが鎌倉期に入る頃になると、仏師の名は一気に広まった。治承4年(1180)12月に平重衡(しげひら)の軍勢が、奈良の東大寺と興福寺を中心にした南都焼打ちを行ったことは、史上あまりにも有名な事件である。この知らせを聞いた右大臣九条兼実(かねざね)が日記「玉葉」(ぎょくよう)治承4年12月29日の条に、「世ノタメ人ノタメ、仏法王法ハ滅尽シ了ルカ、オヨソ言語ノ及ブトコロニアラズ、筆端ノ記スベキニアラズ、天ヲ仰イデ泣キ、地ニ伏シテ哭シ数行ノ涙頬ヲ拭ウ」と書きとどめている。この平安末期、鎌倉初期の東大寺、興福寺の復興に仏師たちが活躍する場が生まれ、その仏師名が明らかになった。この時代の仏師は、定朝から別れ、院派、奈良仏師(慶派)、円派の3派に別れ、それぞれの特徴をだしていたが、奈良仏師として東大寺、興福寺の再興に力を尽くしたのが、奈良仏師派の慶派で、康慶、運慶、湛慶、康弁などであり、中でも「運慶」が一番知られている。従って、この稿では「運慶」の造仏を中心に見て行く。運慶は鎌倉時代に目覚ましい活躍を見せた仏師であり、父康慶のもとで学び、造像をともにしていた。運慶の生まれた年ははっきりしないが1145年頃と推定される。最初の作品は安元元年(1175)の銘記のある円成寺の「大日如来」とされている。奈良仏師の造る仏像の作風は、定朝の穏やかな作風ではなく、深浅のはっきりした彫り口が特徴である。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176)奈良・円成寺

本像は胸前で智拳印という印相を結ぶ、真言密教の教主・大日如来の像である。運慶最初の造像例として名高い。私は、昭和57年(1982)10月に、わざわざこの像を拝観するために奈良の円成寺まで出かけた記憶がある。現存する運慶の作品のうち、最も早い20歳代の作例であり、傑作である。台座の裏側に書かれた墨書には安元2年11月24日に像を造りはじめたこと、完成は翌年10月であること、銘の最後には、大仏師康慶の実弟子運慶という署名と花押が添えられている。父の名前も出てくるが、その完成までに1年近くかかっており、等身大の仏像の制作期間としては異例に長いことから、運慶自身の作(工房の作ではない)と見て間違いないだろう。弾力まで感じさせる瑞々しい肌の表現には、運慶の特徴が表れている。また玉冠、胸飾りなどの金物の出来具合も極めて良好である。まだ平安時代の趣きを残すが、胸を張った姿勢、胸を引き締めた側面観などに、平安時代に好まれた仏像の形とは異なる作風が打ち出されている。また奈良仏師がいち早く取り入れた玉眼を用いている。

乗用文化財 仏塔 運慶作 木造・漆箔 鎌倉時代・文治2年(1186)興福寺

興福寺西金堂に伝来した釈迦如来像の仏頭にあたる。奈良時代の天平6年(734)に創建された西金堂は、治承4年(1180)12月に、興福寺の多くの堂舎もろともに平家による南都焼討ちにより焼失した。西金堂は再建され、釈迦如来像の造像に、大仏師として起用されたのが運慶であった。この像は、江戸の大火(享保2年-1717)により現在の頭部のみとなった。この像は、豊かな肉着きと大振りな目鼻立ちが、いかにも鎌倉初期の慶派の作らしい。生気あふれる造形を持っている。この像は、円成寺の大日如来坐像に次ぐ、運慶の最も初期の作例の一つである。またこの事績から、興福寺の復興造営において、寺内では運慶が相当の立場を得ていたことがわかる。

国宝 毘沙門天立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治2年(1186)願成就院

伊豆の願成就院は、北条時政が文治5年(1189)に創建した北条氏の氏寺であり、北条政子の実家の氏寺である。私は、伊豆の温泉に行く場合は、必ず願成就院にお参りすることにしている。運慶作の重要文化財(旧)であった阿弥陀如来坐像、不動明王像、毘沙門天像を拝観するのが楽しみだった。奈良仏師の運慶が、何故この伊豆の地に仏像を作成したのか不審に思ったこともあったが、鎌倉時代は武士の時代であり、まして北条家は、家臣団の中では、最も頼朝に近い存在である以上、依頼があれば駆けつけたのであろうと推察した。今回の運慶展では毘沙門天立像等が出品されていた。何時の間にか、国宝に格上げされていたのには驚いた。ここでは毘沙門天立像を解説したい。文治2年(1189)5月に、願成就院で阿弥陀三尊を中尊として、不動明王と毘沙門天立像を脇に配して造像が始まった。この願成就院の仏像は、飛躍的な変化を遂げた仏像となった。本像は大きく腰を左にひねり、高い位置に右手を上げて鉾を持つ姿は、それまでの神将形像とは異なって颯爽とした勢いを感じさせ、大きな魅力となっている。また、顔立ちにも、理想的な写実性を実現しようとした運慶の構成力が発揮されている。

重要文化財 不動明王立像 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治5年(1189)浄楽寺

浄楽寺の阿弥陀三尊像と同時に造られた不動明王立像と毘沙門天立像は、珍しい尊像構成であり、願成就院に倣っている。不動明王立像は、左目をすがめ、「へ」の字口として、口の両端から牙を上下に出す不動明王の作法にのっとった顔の形をしている。また右手に剣を持ち、左手で羂索を執るという姿勢も、一般的な不動明王の姿である。しかし、堂々たる姿は願成就院諸尊と同じく、運慶が打ち出した新しい趣向を、十分に伝えてくれている。運慶の造る像は、鎌倉幕府の御家人の間で評判にを呼んだのであろう。この後も、栃木・光得寺の大日如来像など、運慶の東国における造象は続いている。

国宝 八大童子立像 六躯(の内2躯) 木造、彩色、載金、玉眼 建久8年(1197)金剛岑寺                           衿羯羅童子          制多伽童子

 

八大童子は、もともと高野山の一心院本堂の像で、後に檀上伽藍の不動堂本尊として、平安後期の不動明王とともに祀られている。6躯が運慶作の国宝である。あとの2躯は後補作品である。不動明王の眷属は衿羯童子と制多伽童子として三尊で表わされる例が多いが一般的であり、八大童子は珍しい。特に衿伽羅童子、制多伽童子は、玉眼の効果が活きて童子の内面を表すかのような面貌表現とともに、実際の童子を見る思いがある。童子にしては豊かすぎるほどの量感的な肉親表現をとりながらも、なお野卑に陥らずに理知的に表したところに、運慶の優れた技量がみて取れる。

国宝 無着菩薩立像 世親菩薩立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代 建暦2年(1212) 興福寺北円堂                      無着菩薩立像        世親菩薩立像

 

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼討によって焼失した。復興は遅れ、正治2年(1200)頃からようやく始動した。無着・世親菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親像を3度拝観している。一度は北円堂の特別開扉の時であり、一度は興福寺国宝展(1997)で、三度目は今回の「運慶展」である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵出来る傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルを日本人の僧を使った。無着、世親は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとせず、むしろ、遠い過去の偉大さを、圧倒的な立体の存在感で表そうとした。ここに総監督としての運慶の意図が、十分うかがえる。私は、運慶の作品の中で、いや日本の肖像彫刻の中で、鑑真像と並ぶ最大傑作と評価したい。

国宝 四天王立像 四駆 運慶一門作 木造、彩色、鎌倉時代(13世紀)興福寺南円堂

現在、南円堂に安置されているが、果たして最初から南円堂の安置仏であつたかどうかは、疑問が呈されている。最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するからである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。現在、各像は岩座を踏んでいるが、この岩座は後補と見られるので、かっては邪鬼を踏んでいた可能性もある。運慶一門の湛慶、康運、康弁、康勝が担当したと思われるが、四天王は玉眼を採用せず、瞳を浮彫にする理由も不明である。今の所運慶作と確定は出来ないと思う。

 

運慶の造った仏像は何体あって、そのうち何体が「運慶」作かは疑問である。図録では31体説を採用しているように見えるが、実は確実なところは不明である。像内納入品や付属品に運慶の名が記されている像が17体ある。同時代の史料から確認できる像が1体で、そのほか13体は像内納入品のX写真や作風から推定されている。(これで31体となるー図録より)運慶は貞応2年(1223)に世を去ったが、鎌倉仏像の基礎を造った作家として一時代を築いた。慶派仏師として快慶、湛慶、康弁等多数の鎌倉仏師を生み出しており、鎌倉時代の武士階級の気風を良く表している。

 

 

(本稿は、「運慶  2017年」」、図録「興福寺国宝展  1997年」、原色日本の美術「第9巻  中世寺院と鎌倉彫刻」、古寺を行く「第1巻  興福寺」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

江戸の琳派芸術展

この展覧会は、江戸時代後期に活躍した絵師・酒井抱一(1761~1828)と、抱一門きっての俊才・鈴木其一(1796~1858)の絵画の展覧会であり、出光美術館の総力を結集したものである。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一は、能や茶のほか連歌、狂歌、俳諧に親しみ、さらには遊里での遊びに長けていた。さまざまな文芸の中で、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年記念法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳諧や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくりあげたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人鈴木其一は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)の抱一没後、その個性を開花させ、独特な作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風をも吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚にみられる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。宗達ー光琳ー抱一という琳派の絵画の流れのなかで、其一作品がその範疇に収まるものかどうか、今後さらに検証が加えられた後、その結果は明らかになるだろう。私は、若沖をしのぐ鈴木其一の大ブームを予測している。

夏秋草図屏風草稿  酒井抱一作 紙本着色 文政4年(1821)出光美術館

 

この草は、酒井抱一による「夏秋草図屏風」の下書きと考えられる。この絵は、抱一の光琳への敬慕が込められた作品の下書きであり、都市文化の花開く江戸の地で光琳画を変装したものである。銀地を背景にして「雷神図」の裏に突然の裏に突然の驟雨に打たれた夏草を描き、「風神図」の裏に野分立つ秋草を鋭い形態感覚で描き出す。夏草図では突然の雨で地面に水がたまり庭只海となり、秋草図では蔦の葉が空に舞う。このように時節の植物を描くだけでなく、風立つ一瞬の情景を切り取った表現によって、夏秋の季節感の対比をより際立たせているのである。作品に付属する文書からは、この画事を巡る三つの事柄が明らかになっている。「一橋一位殿」すなわち第十一代将軍・徳川家斎の実父・徳川治貞の注文であること、尾形光琳の「風神雷神図」の裏面へ描くことが下絵の段階ですでに意図されていたこと、そして、文政4年(1821)抱一が61歳の11月9日に下絵が完成したことである。

風神雷神図 酒井抱一作 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

黄金の大地を闊歩するかのごとき風神と雷神の姿は、俵谷宗達(?~1640頃)によって画かれた。宗達は、北野天神縁起絵巻に図像の原型を求めながら、説話の畏怖性を削ぎ落とし、自由闊達な二神の姿を金地の大画面に解き放ったのである。宗達の「風神雷神図屏風」(建仁寺)は、それからおよそ100年の時を経て尾形光琳に模写された。さらにその百年後に描かれたのが、酒井抱一のこの屏風絵である。抱一本の表現は基本的に光琳本にもとづく。光琳との差は、色の塗り方や線の引き方に、抱一の志向が確かに見える。抱一本は、さっぱりとした瀟洒な画面に仕上げている。今日、風神雷神図は、宗達ー光琳ー抱一という「琳派」の画家達に結び付ける、最も象徴的なアイコンとして膾炙している。抱一は文政9年(1826)刊行の「光琳百図」後編の掉尾を、光琳本の「風神雷神図」に飾らせている。抱一こそ、琳派の風神雷神図を、宗達ー光琳ー抱一という画家たちに結び付けたのである。

八橋図屏風  酒井芳一作  紙本金地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、カキツバタと八橋を描く。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表したカキツバタが、ほがらかな場面を作り出している。光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)を忠実に倣って描いている。しかし橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画のカキツバタの花群を減らして整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。

紅梅図屏風 酒井抱一作  紙本銀地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。表絵が誰の作品であったかは不明である。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。

燕子花屏風 酒井抱一作 絹本着色 享和元年(1801) 出光美術館

抱一が琳派作品を学習し始めた頃の作例とされる。光琳やその弟子たちが好んで描いた燕子花というモチーフが画面中央を余白として上中央から画面下方へCの字を書くように円環的に配置されている。群青の鮮やかな花弁のなかで三輪だけの白の花を潜ませたり、葉先に蜻蛉がとまる情景を描いている。先例を踏襲するだけでなく、抱一自身の制作意図を打ち出している。それは抱一が文学的趣向を強く含ませよとする造形意識によるものであり、俳諧の素養が強く生かされているのである。

三十六歌仙図 鈴木其一作 絹本着色 弘化2年(1845) 出光美術館

光琳の三十六歌仙図から琳派の絵師たちが描き継いだ画題である。常套的ともいえるその画面に、其一は表具まで丹念にえがきこんだ描表装とした。抱一と弟子たちがしばしば用いた手法である。天地には白地に鮮明な青波を描き、その上に赤、青、緑で彩った扇を流し、中廻しには連続模様の蜀江文が極めて細密に描き混まれてる。歌仙たちの衣服も色鮮やかで、先行作品とほぼ同じ色が使われている。しかし掛軸の縦長構図としたことで色彩の配置に乱れが生じてしまうところを、束帯の黒の連なりによって統一感をもたせるように配置しており、其一の卓抜した色彩構成の技が示されている。

秋草図 酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出路美術館

12ケ月花鳥図の揃い物は、やがて月次絵(つきなみえ)という本来的な脈絡から切り離され、単独、もしくは対幅の絵として広く所望されたと思われる。直立薄を支えに芙蓉や、桔梗、藤袴の草花をバランスよく配置したこの絵は、八月の一図とモチーフや構図を通わせている。しかし、画面上部に浮かんでいた月を退けたり、芙蓉の茎にヒタキ類の小禽を一羽添えたりするろころが、画家の新しさを見せている。

秋草図屏風 鈴木其一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

うっすらと墨を刷いた絹地の画面に、可憐な秋の草花が配される。左右の端に引手跡があることから、もとは襖二面であったかものが現状に仕立て直されたことがわかる。葛の蔓と葉が揺らめくように画面をつたい、その周囲には、薄、吾亦紅(われもこう)、桔梗、藤袴、撫子、鬼灯(ほうずき)といった多彩な草花のほかにも、野菊の近くに蟋蟀(こおろぎ)の姿をとらえるなど、画面の随所に鈴木其一の微細な感覚を見ることが出来る。

秋草図屏風  鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

冷え寂びた銀地の光彩のなかに、秋の草花の可憐な姿がとらえられる。葛が大振りな葉を表しながら右上に向かって蔓を伸ばし、そのまわりに萩、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花が競うように繁茂している。この絵は、其一による抱一学習の成果を象徴的に伝える一図といえる。画面上部に準備された色紙型には、「万葉集」の山上憶良が秋の七草について詠んだ二首が記されている。

藤花図 鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀)  出光美術館

画面の左端には引手跡が残り、もとは仏間の襖絵を改装したものと伝わる。幹を複雑に絡ませながら枝葉を伸ばし、豊かな花房を垂加させる藤が、巨大な画面に描かれる。其一には藤の花を描いた絵画が多い。しかし、この絵の趣向はずいぶん異なっている。本図における色彩の諧調は花びら一つ一つの連なりを合理的に表すためのものではなく、全体として花房の姿を質感豊かに描くために用いられる。躍動感あふれる魅力的な造形をつくり上げている。本紙の全面にまかれた銀砂子も柔らかな光で、水墨画のように仕立てられた藤花の軽妙な描写を演出している。其一30歳代半ばのものと思われる。

遊女と禿  酒井抱一作  絹本着色 天明7年(1787) 出光美術館

茶屋の前の遊女と禿を描く。遊女は高名な五明楼扇屋の花扇その人、画面上部には、著名な戯作者・大田南舖(1749~1823)の狂歌を、花扇みずからがしたためた賛文が認められる。さながら当時の花柳界における大御所のそろい踏みとなっている。おそらくそれを実現させたのは、この絵が武家の貴人・酒井抱一によって制作された、という特別な事情にもとずく。尾形光琳の画風に目覚める前の抱一は、このような絵画(肉筆浮世絵)を制作していた。天明7年(1787)は、抱一27歳の時である。何よりも、署名や印象がなければ浮世絵師・歌川豊春(1735~1814)の作と見まがうほどの女性の特徴的な顔立ちは、若き日の抱一がいかに師豊春美人に心酔し、その再現を目指していたかを如実に物語るものである。

立葵図  酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

一目見ただけで、尾形光琳やその弟・乾山の手による立葵図の構成を踏まえていることが判る。但し、その色彩には、今までの立葵図とはまったく異なる感覚を見せている。一枚一枚の明確に描き別けることなく柔和な白一色で塗られた花弁は、中心付近に淡く桃色が挿される。酒井抱一が光琳風に傾倒しはじめて程なくして描かれたものである可能性がある。箱書きから姫路藩酒井家の家老職関係筋に伝来したことがうかがわれる。

十二カ月花鳥図貼付屏風(3、4、5月)酒井抱一作江戸時代(19世紀)出光美術館

  

抱一が得意とした十二カ月花鳥図は、花や鳥や虫を自由に組み合わせて、十二図を一組としている。懸幅装が四組、屏風が二組残されている。この屏風は、その内の一組である。ここでは、(旧暦)3月、4月、5月の部分をお見せする。文政6年(1823)の年紀が記されているものがあり、その他は文政7年以降の作と考えられる。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

右に源氏梅のような紅梅同樹の梅を置き、その廻りを囲むように牡丹、燕子花、蒲公英などの春秋の草花が描かれている。左の楓木は未だに青葉のものと色を染めたものが混在する。その下方には桔梗、水仙などの草花が添えられている。強い色彩効果が生み出されている。其一の個性がいかんなく発揮されている。色面が強調されて、それぞれのモチーフは輪郭線を感じさせない表現となっている。其一以外はたどり着けない造形感覚を主張している作品であり、傑作である。

 

この展覧会では、王朝的な美意識に支えられた京都の「琳派」を受け継ぎつつ、江戸と言う都市の文化を美意識のもと、小気味よい表現世界へと転生させた「江戸琳派」の特徴とその魅力を伝えるものである。酒井抱一の門下からは、魅力的な弟子たちが数多く輩出したが、中でも近年注目を集めているのが、鈴木其一である。鮮烈な色彩と明快な画面構成に個性を発揮する其一の絵画には、むしろ師・抱一よりも強い光琳志向を感じさせるものがある。鈴木其一については、昨年の「鈴木其一展」で、詳しく伝えたが、江戸琳派芸術では、抱一と並んで、欠かせない絵師である。私は、鈴木其一の大ブーム出現を予想している。

 

(本稿は、図録「江戸の琳派芸術  2017年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、図録「江戸琳派の旗手 鈴木其一展  2016年」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)