お江戸散歩  大名庭園から庶民信仰まで

昔の勤務先のOBグループ有志で、毎年行う秋の「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。最初の計画では、23日の予定であったが、台風上陸のため、1日延期したものである。この日は例年快晴に恵まれるが、今年は台風のためか曇りで写真の出来栄えが悪い。一行は20名余で、90歳代から65歳までの定年組のグループである。今回は、大名庭園で有名な六義園(りくぎえん)から、巣鴨駅近くの「とげ抜き地蔵」まで約2キロの道を2時間かけてゆっくり廻るコースである。江戸の名残りと、庶民の町「巣鴨通り」まで、東京の、古き、良き街並みを楽しんだ。

六義園の正門としだれ桜

六義園は、徳川六代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(よしやす)が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。元禄8年(1695)に加賀藩の下屋敷跡を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観を持っ回遊式築山泉水庭園を造り上げた。柳沢は、将軍のお側用人で、綱吉の寵愛を受けた人であったので、このような大庭園が造れたのであろう。(艶吉との関係は藤澤周平の「市塵」に詳しい。なお「市塵」は優れた本である)園内には、幾つも見所があるが、「しだれ桜」が一番有名だろう。現在は、こんな容姿である。なお、しだれ桜は、染井吉野の満開から5日程度遅れて満開となることが多い。その時は、庭園は一番賑わい、多分写真は、他人様の頭越に撮ることになるだろう。

六義園の地図

拝観料を払うと、「特別名勝 六義園」というパンフレットをくれる。その中に園内の地図があるので、ここに紹介した。

内庭大門

建物と庭園の入口に内庭大門が立つ。大門と呼ぶほど大きな門では無いと思ったが、建物は、なかなかしっかりした建物で、多分お寺の門に匹敵するほど、しっかりした門である。

大名屋敷跡

内庭大門を入ったすぐ左側に「六義館跡」(りくぎのやかたあと)の縦看板がある。目立たない場所であるので、大部分の人はこの碑におは気遣かないと思うが、私には極めて重要なモニュメントである。地図の上では、「宣春亭」と「心泉亭」の辺りである。ここからの眺めが大切である。吉保(よしやす)はどのような庭園を見ていたのか、大名の立場で庭園を眺めることが出来る。

妹山・瀬山(いものやま・せのやま)

お屋敷の座敷(通常は、屋敷の一番奥にあるー現在の通路の一番池に近い場所)から、庭園を眺めれば、目の前に島があり、妹山・瀬山という二つの高みが写真左湍に見える。

肉筆浮世絵 美人鑑賞図 寛政2~4年(1790~92)歌川春章作出光美術館

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」という展覧会を見た時、ひときわ大きい肉筆浮世絵が目立った。解説によれば、この美人達がたむろするお屋敷は、六義園ーすなわち柳沢家の座敷だろうとのことであった。確かに、浮世絵では屋敷内の座敷にたむろする美人が11人いる。これに見える庭園は、正に池の中の妹山・瀬山と思われる二つの山が、ややオーバーに描かれている。浮世絵は江戸庶民の楽しみであると思い込んでいたが、この肉筆浮世絵は1点もので、かつ絹本着色で69.4cm×123.4cmと極めて大きい浮世絵である。図録の中で出光美術館の渡海信彦氏が「俗中の雅」という小論文を寄せている。それによれば、この肉筆浮世絵は二代大和郡山藩主・柳沢信熈(のぶときー1724~92)が注文制作したとしている。浮世絵は庶民だけでなく大名まで愛した絵画であることを知った。1点もので、かなり高額な謝礼であっただろう。美人画としては破格に大きい画面であり、極めて上質な絵具を惜しげもなく使って仕上げられた「美人鑑賞図」は、特定の注文主の意向に沿ったカスタム・メイドと考えるのが妥当との見解であり、邸宅主の柳沢氏を注文主と想定するのは当然であろう。この肉筆浮世絵を見て、是非、この判定の可否を判断したいと思ってこの散歩に参加したが、渡海学芸員の論文に全面的に賛成することにした。さて、柳沢氏の屋敷であるが、江戸末期まで、火災に遭うこともなく明治を迎えたそうである。明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備し、この時周囲を赤煉瓦の塀で囲ったそうで、関東大震災による被害も殆ど受けず昭和13年(1938)に東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日まで生き延びた。東京都内では、宮城と同じ位、稀有の存在である。三菱財閥にお礼を言いたい。

大和郷(やまとむら)

六義園の西側本駒込6丁目の白山通りまでの間一体を大和郷(やまとむら)と呼ぶ。江戸時代は加賀前田家の中屋敷であつたところであり、明治維新後、六義園とともども三菱財閥の岩崎弥太郎の所有となった。大正時代に入り木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土地を市民に開放しようとする運動が起こり、松濤(渋谷区)や西方(文京区)などが代表的な例である。正に大正デモクラシー運動の成果であろう。岩崎家も六義園西側の土地を市民に開放することとし、当時の建築界の重鎮・東大教授の佐野利器に設計を委ねて、大正11年(1922)から分譲を開始したゆとりある土地区画を整然とした道路の街並みは高級住宅街として「大和郷」とネーミングされた。現在はマンション街となっているが、この写真の部分は、まだ高級住宅街の面影が残っている。

徳川慶喜公の梅屋敷跡

大成奉還を行った15代将軍・徳川慶喜公は、静岡で長い謹慎生活を送っていたが、61歳の時(明治30年ー1897年11月)に巣鴨に移り住んだ。こ屋敷は中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥には故郷の水戸に因んだ梅林があったことから、町の人々から「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ、親しまれた。しかし、巣鴨邸の横に鉄道(現在の山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌って、明治34年(1901)に小日向第六天町に移転し、明治35年(1924)に公爵に叙され、貴族院議員にも就いて、実に35年振りに政治に携わることとなった。大正2年(1913)その地で感冒により死去。享年77歳。徳川将軍の中では最長であったそうだ。

真性寺

「江戸六地蔵尊」の一つとして知られるこのお寺は、真言宗豊山派醫王院真性寺と言う。起立年代は不詳である。元和元年(1615)境内には松尾芭蕉の句碑があった。大きな傘を被り、杖を持つお地蔵様であり、庶民信仰の寺である。江戸の六海道の出入口に置かれ、旅の安全を見守ってくれる。(巣鴨は中山道の出入り口である)関八州江戸古地図、江戸図ほか多くの文献から真性寺界隈は交通の要衝として賑わっていたことが伝わっている。現在も巣鴨商店街の近くであり、賑わっている。真性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいた地蔵坊正元という人が願主となり、宝永3年(1706)造立の願を発してから14年間の間に、おおよそ同型の地蔵菩薩像6体を造立された中の1体で、4番目に造られた銅製の坐像で、この像の完成は正徳4年(1714)9月である。毎年6月24日に行われる百万編大念仏大念珠供養では、全長16m、541個の桜材の珠からなる大念珠を500~600名で廻し江戸六地蔵の供養を行う。10月24日にも、大勢の方が参詣に参られている。江戸の庶民信仰は、現在まで生き残っている。

とげ抜き地蔵尊  高山寺

「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺は、正式には曹洞宗萬頂山高山寺と言う。慶長元年(1596)に江戸湯島に開かれ約60年後に下谷屏風坂に移り、巣鴨へは明治24年(1891)に移転してきた。ご本尊は「とげぬき地蔵」として延命地蔵菩薩であるが、秘仏として拝観は出来ない。高山寺本堂に安置されている。江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1675)で、当時の檀徒の一人「屋根屋喜平治」は妻を亡くし、その供養のため「聖観音菩薩像」を、この寺に寄進した。この聖観音菩薩像に水を掛け、自分の悪い所を洗うと治るという信仰がいつしか生まれた。これが「水洗い観音」の起源である。その後、永年に亘ってタワシで洗っていた聖観音菩薩の顔などもタワシで洗っていたため、次第にすり減ってきたので、平成4年(1992)11月に、新しい聖観音菩薩の開眼式を行い、同時にタワシを廃し布で洗うことになった。散歩当日の「水洗い観音」は、行列をなして、私も水を掛け、布でふいてきた。江戸の庶民信仰は、21世紀の今日まで生き続けていることを感じた。

 

今回の「お江戸散歩」も内容が充実し、わずか二時間の散歩であるが、江戸=東京の底知れぬ魅力を再発見する散歩となった。特に六義園は、肉筆浮世絵を見て以来、是非現地を見て、座敷からの景色を確認したいという思いが強かったが、正しく、「美人鑑賞図」は「柳沢邸」に間違いなく、浮世絵が江戸庶民のみならず、大名にまで愛好がおよんでいたことが確認でき、永年の謎を解くことができた。また、江戸の庶民信仰が、今に息づいており、大勢の善良な市民が日常的に参詣している姿に感銘した。日本人は無信仰であり、本人も無信仰と言ってはばからない姿に接するが、結構、形を変えて信仰心は生きているのでは無いだろうか?

 

(本稿は、パンフレット「特別名勝 六義園」、図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、「東京都の歴史散歩 上」、ウィキペディア「真性寺・高岩寺」を参照した)

素心伝心 クローン文化財 失われた刻(とき)の再生

シルクロード特別記念展として、東京芸術大学で、クローン技術を利用した文化財の展示会が開催されている。現代社会において文化財保護は厳重に保管される一方で、強く公開が求められている。この保管と公開の両立という課題を解決するため、東京芸術大学では芸術と科学技術の融合による高精度な文化財の複製「クローン文化財」の技術開発に着手した。「クローン文化財」とは、最先端のデジタル技術と伝統的なアナログ技術を融合し、人の手技や感性を取り入れることによって、単なる複製ではなく新たな芸術を生み出すことを目指している。文化財のクローンをつくることで、劣化を避けるためにオリジナルの公開を制限しながら、常時オリジナルと同価値、あるいはそれ以上のものを公開できるという発想である。コピーやレプリカと訳されるような単なる複製品ではなく、オリジナルと同素材、文化的背景など芸術のDNAに至るまでを再現する、まさしく文化財のクローンなのである。今回、芸大が総力を挙げて、「シルクロードの文化財」のクローン文化財を造り上げ、それを公開展示したものである。(なお「クローン文化財」を理解するためには、今回の図録を購入し、熟読されることをお勧めする、)本展覧会では古代シルクロードの各地で花開いた文化を代表する遺産をクローン文化財として甦らせる企画である。絹の道シルクロードは仏教の道である。インドで生まれた仏教は、シルクロードを通ってギリシャ、ローマ、イラン等の文化と融合し、グローバルな文化様式が生まれ、さらに中国において大きな変容を遂げ、東アジア仏教美術の様式が形成された。現在、シルクロードの文化財は様々な危機に直面している。実物を鑑賞することが難しい作品が多数ある。このクローン文化財の一部は、展覧会終了後、故国に「帰還」する予定である。シルクロード美術の伝統は残念ながら多くの地域で途絶えてしまったが、その終着点である日本では幸運にも今日まで継承してくることができた。「クローン文化財」の展示は「浮世絵のクローン文化財」展として「ハイカラー覚醒するジャポニズムーボストン美術館スポルデイング・コレクション」展(2015年4月)、「G7伊勢志摩サミット」(2016年5月)で、「バーミヤン東大仏天井壁画のクローン技術による復元」展示を行って好評を博している。

法隆寺金堂壁画         2014年開催「別品の祈りー金堂壁画ー」

法隆寺金堂壁画は文句なく、わが国の壁画の最高傑作である。その制作年代については、各種の意見があるが、芸大の意見としては、法隆寺の焼失後、金堂が再建されたのが、和銅4年(711)までには完成し、それと共に壁画も、それまでに完成していたとの見解であり、以後この説に従う。しかし、金堂壁画は、昭和24年(1949)1月26日に、壁画の模写中に火事を起し、焼失した。損傷した壁画は建築資材と共に、収蔵庫に収められている。今回展示された「法隆寺金堂壁画」は、損傷前に撮影されたガラス乾板やコロタイプ印刷、鈴木空如(秋田県仙北市)らの模写等、あらゆる美術資料を参考にされた。集めた資料をもとにすべての壁画資料をデジタル化し画像を統合していった。画像の編集と印刷のみデジタル技術に頼り、それ以外の質感再現や彩色仕上げは、伝統的な方法を用いることで模写技術は承継された。昭和の再現模写において発生した作業者の技術差や感覚差による完成模写の恣意的差異を限りなく小さくすることが可能となった。かくして完成した「法隆寺金堂壁画」は、2014年春に「別品の祈り」と題して公開された。この写真は、この2014年の「別品の祈りー法隆寺金堂壁画ー」の写真である。

法隆寺金堂の釈迦三尊像                 クローン像

法隆寺金堂の釈迦三尊像のクローン像である。但し、脇侍仏が左右入れ替わっている。図録の説明は「美術史における先行研究を踏まえて脇侍(わきじ)の左右を入れ替えて配置した」と説明するのみで、如何なる研究に基づくかは、語っていない。なお、釈迦三尊像は、無条件に飛鳥仏と説明しているが、異論があることは述べておきたい。なお、クローン像の作成については、図録44ページに詳しく説明されているが、詳細な技術論であるので、再現は控えたい。

釈迦三尊像の光背銘                   クローン製

釈迦三尊像の光背には、有名な光背銘が彫られている。文章の一番最後(左側下部)には、次の銘文が刻まれている。「司馬鞍止利仏師造」は「司馬造りの首(おびと)とり仏師造る」と読むのであろう。この光背銘も後世の作とする有力な異説がある。この光背銘もクローン製品である。

敦煌幕高窟(ばっこうくつ)                 山河満理 写す

中国甘粛省の西端部に位置し、1987年に世界遺産に登録された幕高窟(ばっこうくつ)石窟、鳴沙山の断崖に千年に渉ってつくられた多数の洞窟内には仏塑像が安置され、美しい壁画が描かれている。敦煌の文化遺産を守り伝える敦煌研究院では、飛躍的に増加した観光客により、文化遺産の劣化が加速度的に進むという懸念から一部の石窟では、拝観者を制限している。

第57窟 主室西壁の写真             敦煌研究所より写真提供

敦煌窟内での写真撮影は厳禁されている。これは、敦煌研究所より提供されたものである。本来、この展覧会は「クローン 展覧会」であり、この57窟もクロー壁画・像が展示されていた。しかし、図録には、肝心のクローン壁画・像を採用しないで、この写真しかないため、止むを得ず、写真を提示した次第である。クローン像は、この写真とは相当異なっている。塑像は、真中の釈迦仏と、向って右手の脇侍仏の2体のみで、他は作っていない。解説によれば、後世の補正が多く、原像を維持しているのは二尊のみなので、二尊を再現し、他の仏像は、再現しないままで57窟を再現している。第57窟は典型的な唐代のものである。この57窟は現在公開されていない。それは飛躍的に増加する観光客の吐く息が、文化財を劣化させるためである。将来、クローン文化財による57窟が出現するかも知れない。それでも見学したい人は多いだろう。

敦煌莫高窟57窟  主室南壁          敦煌研究院より画像提供

この石窟は「美人窟」よ呼ばれる。それは、この窟の観音菩薩像(向って一番左側の尊像)の絵像は、端正にして秀麗、なまめかしく鮮やかで、人呼んで「美人菩薩」といい、これに因んで石窟も「美人窟」と呼ばれる所以である。この壁画は緻密かつ華やかで、「細部精緻にして甚だ華麗」(歴代名画記)な唐代の画風が随所に現れている。井上靖氏は「敦煌 砂漠の大画廊」の中で「第57窟の美しい胸飾りを付けた観音菩薩像」と名指しで「眼につく仏像」を挙げている。私は、敦煌の土産物として、この美人観音像の掛軸を買ってきて、時々懸けて楽しんでいる。肝心のクローン像の写真は無い。ここで注意して頂きたいのは、壁画を取り巻く千仏像である。色彩は黒くなっているが、作者の信仰心の高さが窺える。第57窟は白眉の出来栄えである。

バーミヤン石窟の写真                 安井浩美氏撮影

かって玄奘三蔵が訪れ、仏教文化の繁栄を表すように光り輝いていたアフガニスタン・バーミヤンの東西大仏は、2001年にタリバーン・イスラム原理主義勢力によって破壊された。この写真は、大仏破壊後の石窟を示す写真である。

バーミヤン東大仏破壊の跡            共同通信・ニューズコム

タリバンによって破壊されたバーミヤン東大仏立像の跡である。天井壁画も失われた。この展覧会では、破壊された前の1970年代に撮影されたポジチブフィルムと、後に計測された仏龕の3Dデータをもとに合成し、ラピスラズリを始めとする絵具で彩色し、東大仏天井壁画「天翔る太陽神」を復元しようとする試みである。

バーミヤン東大仏天井絵復元図                 クローン絵

2016年東京芸術大学で行われた天井絵の想定復元図である。彩色はしてあるが、中央に大きな欠損が残ることに、注意して頂きたい。

天井絵の復元と、その天井絵の完成を見上げる人達

2016年の天井絵のクローン復元が完成し、アフガニスタンからの留学生たちも含んで撮影した写真である。今回の展覧会も、この写真と同じ条件で展示された。この展覧会終了後、クローン文化財の一部は、故国へ「帰還」する予定である。

 

文化財は唯一無二の物であり、その真正性は本来、複製は不可能である。東京芸術大学では、劣化が進行しつつある或いは永遠に失われてしまった文化財の本来の姿を現代に甦らせ、未来に継承していくための試みとして、文化財のクローンとして復元する特許技術を開発し、今回展示を試みたのである。この展覧会では古代シルクロードの各地で花開いた文化を代表する遺産がクローン文化財として甦ったことを示すものである。失われたり、劣化したりした文化財をクローン技術で、再生、復元する今回の試みは、文化財の「保護」と、「公開」という難問題に対する一つの問題提起であろう。

 

(本稿は、図録「素心伝心ークローン文化財 失われた刻(とき)の再生 2017年」、シルクロード「全12巻」、図録「敦煌石窟の珍品 1999年」を参照した)

生誕120年記念  東郷青児展

二科会を中心に活動した洋画家・東郷青児(1897~1978)の生誕120年を記念して、初期から1950年代までの作品による回顧展が、東郷青児記念館で11月12日まで開催されている。東郷は明治30年(1987)に鹿児島市に生まれ、5歳の頃に一家で上京した。東郷鉄春(本名)は、青山学院中学部時代、「東青児」の雅号で「海女」と題した裸体画などを雑誌に投稿する早熟な文芸少年であり、武久夢二の「港屋」に通い、芸術家の奔放な生き方に憧れたという。東郷は、最初の個展を大正4年(1915)、18歳の時に日比谷美術館で開催した。きっかけは作曲家の山田耕作との出会いであった。東郷は山田から欧州の前衛芸術について知識を得ると共に、東京フィルハーモニーの練習場にスペースの提供を受け、そこで音楽をテーマにした作品を描き、初個展として発表したのである。この時の出品作の大胆な色彩とデフォルメが、首都新聞に「所謂未来派、立体派のような」と取り上げられた。この個展が東郷に二科会展への道を開いた。二科展は新しい美術を志す美術家たちの在野団体であり、大正3年に文部省美術展覧会(文展)から独立して公募展を始めたのである。東郷の初個展を見た有島武郎が弟の生馬に話し、生馬の勧めで二科展に「パラソルをさせる女」を出品し、初出品にして二科賞を受賞した。それ以降、東郷は国内で最初期の前衛的画家と見做さるようになった。東郷は大正10年(1921)から渡仏し、7年間の長期滞在となり、油絵だけでなく生活と一体になった欧州の芸術文化全般に見解を広め、ピカソや藤田嗣治と親しく接したようであるが、滞仏中の東郷の足取りは不明な点が多い。

パラソルさせる女 油彩・キャンヴァス  大正15年(1916)陽山記念館

大正5年(1916)の東郷青児の第2回個展を訪れた作家の有島武郎は、「東郷青児の絵画展を観に行く。彼は未来はの絵をかく唯一の芸術家である」と、その日の日記に書いた。彼は、その個展のことを弟の生馬に話し、ぜひ見るように勧めたという。生馬の勧めで東郷は、その年の第3回二科展に、この絵を出品し、二科賞を受賞した。これ以来、東郷青児は「未来派の画家」という呼称が付いて廻った。東郷自身は次のような回想文を書いている。「有島生馬先生の勧めで第3回二科展に”パラソルの女”という二十五号大の油絵を出品した。海浜のピーチ・パラソルの影に水着の女を配置してそれを萬崋鏡のような色彩の交錯で、思う存分デフォルメしたようなものだったが、写実万能の当時だったから、相当に問題となった。すでにピカソの立体派や、マリネッティの未来派がぼつぼつ理論的に紹介され始めていたけれど、まだそれを実地にやって見るような変わり者もいなかったと見えて、日本の画壇にとっては、私の作品が、その方面の第一号となったわけであるである」と記している。大正7年(1918)の「文章世界」新年号の「現代美術実録」で、東郷は、「独学にて洋画を研究し、未来派の画家として知らる」として紹介されており、「未来派」の呼称が定着したようである。

サルタンバンク 油彩・キャンヴァス大正15年(1926)東京国立近代美術館

サルタンバンクとは道化師、軽業師などの大道芸人のことである。東郷画集の中で、次のように語っている。「この絵が出来上がった時は天下を取ったように嬉しかった。早速ピカソを僕のアトリエに引っ張って来て見てもらった。”自分の絵を見るような気がうする”というピカソの評には”ぎゃふんとまいった”。藤田(嗣治)もわざわざ身に来てくれた。まさに、得意の絶頂を味わったようである。しかし、渡仏7年間の間に、東郷は独自のスタイルを探究し、ピカソ、マリネッテイ、藤田等と交流していた。

超現実派の散歩 油彩・キャンヴァス 昭和4年(1929)東郷青児記念館

東郷は、「東郷青児画集」のなかで、この絵について次のようの述べている。「超現実派の散歩とは、散歩のつもりでも超現実派の試運転をやった意味である。僕は超現実派の中に含まれている時間、空間、ノスタルジーなどを一番鋭敏に感じる。理論は嫌いだが、只純粋にこれだけを抽出してみた」。「超現実派の散歩」と題する作品は、その後4年間NO4まで出している。この連続する題名には、何等かの東郷の表明が込められているように思える。二科展出品作に「超現実派の散歩」という題名をつけておきながら、「若し僕らの仕事を超現実派と呼称するなら、少なくとも僕は閉口する」とも言っている。要するに、東郷にとって「超現実派」とは、常に前衛であろうとする東郷の意志表明であろう。昭和4年(1929)に始まる試運転と何だったのか?東郷の試運転の時期は、「超現実派の散歩」を描いている時期、すなわち1929~1933年頃と推定できる。それは丁度大衆主義と職人主義を自覚し推進する時期と重なる。その過程にあって、彼の絵画は、より滑らかな肌合いを獲得し、美しい女性像へと変化していく。大衆主義と職人主義への傾向を強めていくことが、彼の試運転だったのかも知れない。

聖道女 油彩・キャンヴァス 昭和10年(1935) 高松市美術館

名前は聖道女といかめしいが、実は昭和9年(1934)終わり頃から10年(1935)にかけて、似た絵を5枚画いている。その内の1枚が、この絵画である。「少女、1935年、印刷、紙、額装」を描いた時に東郷は、次のように述べている。「少女 東郷青児 この絵は空想だけで描いたもので、私が普段やっている仕事とは随分かけ離れている。地塗りをしたり艶出しをしたりする替りに、ブランシェの細目へいきなり描いた。私はいろんなことをやる時が一番楽しい。昭和9年の終わり頃から10年の夏頃までに、この手のものを5枚描いた。興味のあるテーマにぶつかると飽きるまでいろいろな角度からやってみるのが私の癖である。大きさは8号、5日位かかって仕上げた」。その1枚が、この「聖道女」であり、殆ど同じ絵が3枚展示されていた。未来派、超現実派から大きく変化した時期であった。

山の幸 油彩・キャンヴァス 昭和11年(1936) シェラトン都ホテル

1930年代、新興産業が活性化し、新たな富裕層が出現するなかで、百貨店は消費文化の発信源、大衆娯楽の拠点として躍進を遂げていく。そうした中、東郷は京都の丸物百貨店(現近鉄百貨店)内の装飾壁画を、藤田嗣治とともに手がける機会を得た。東郷は、「山の幸」を描き、古典的量感と牧歌的雰囲気を備えた清楚な女性像を描いた。ここには未来派、超現実派など前衛の面影は全くない。これが東郷の言う試運転であったのである。東郷は藤田という大先輩から、教えを受けて大きな感銘を受けている。東郷は、当時を回想して「日本での壁画Ⅰ号は京都の丸物の大衆食堂に描いたもので、たしか2間に5間位のものだった。この時は、同じ丸物の喫茶室に藤田嗣治先生が壁画を描き、助手の若い二科の連中と1ト月位の間、ひどく楽しい生活を続けた」と言っている。(芸術新潮56年10月1日刊)

舞 油彩・キャンヴァス 昭和13年(1938)  東郷青児美術館

東郷青児は、記事の中で次のようにお述べている。「今年の(1938年)二科展に出品した「織女」と「舞」は、天平風俗の私らしい絵を描いて見ないかという注文で、わざわざ奈良に出かけた挙句出来た作品である。奈良の古い彫刻は芸術品というより神品で、あれを見ていると千年という時代的な悠久さに圧倒されて終う。であるから私は現代の夢に天平の衣を着せるという手近な方法を取る以上の冒険はやらなかった。婦人像とベールは私の習慣的な作品で、表情の中に今日を表現すべく相当に苦心した。美しく冷ややかな女の顔が私は好きなのである」

裸婦  モザイクタイル 昭和27年(1952) INAXライブミュージアム

東郷は、戦後(1947)の二科会に「裸婦」と題した絵画を出品した。また「官能」という雑誌の創刊号(1948年7月)の表紙に裸婦を描いており、挑発的な絵である。この時代、戦後の退廃という気分の中で「女性の裸体」を見せたり、描いたりするのが時代の気風であった。東郷は、1947年に伊奈製陶(現LIXIL)が商品化した「アートモザイク」と呼ばれるタイルを使用した絵である。10mm角と小さく色数も豊富で、本作も20色のタイル約13、600枚を使用して制作された。紺色の楕円窓や女性の姿態のそれぞれにタイルと目地の色を同系統にするなど、絵画的な施工がなされている。東郷は、微妙な濃淡や細部の形まで原画のイメージに沿って仕上げたと考えられる。

望郷  油彩・キャンヴァス 昭和34年(1959) 東郷青児記念館

毎日新聞社主催の日本国際美術展では、第4回と第5回展に一般入場者の投票による「大衆賞」が設けられた。第4回では東郷の「バレリーナ」が、第5回展では、この「望郷」が連続して大衆賞を受賞した。「望郷」は、私が東郷青児に持つイメージそのもであり、これが大衆賞に選ばれたことは、東郷青児がいかに大衆に愛される画家になったかの証しであろう。なお、大衆賞はこの2回だけで、後は廃止されたそうである。ここにきて(1959年代)、私たちが抱く東郷青児の基本が固まったと言っても言い過ぎでは無いだろう。私は、この「望郷」に浮世絵の美人画を重ねて見る思いがする。特に、長い首をかしげる様は、浮世絵の美人画ではないだろうか?

レダ  油彩・キャンヴァス 昭和43年(1965) 東郷青児記念館

第53回二科展(昭和43年ー1968)に出品された作品であり、今や東郷は文句なしの、大衆に愛される大画家となった。この辺りが、裸婦を描く最後の頃と思う。むしろやさしい「憂いある美女」を描く時代が始まる。

若い日の思い出油彩・キャンヴァス昭和43年(1968)損保ジャパン日本興亜

典型的な東郷の「憂いある美女」の絵画である。東京火災(現損保ジャパン日本興亜)は東郷の二科展出品作品を買上げ、毎年カレンダーに印刷して得意先に配布していたそうである。東郷自身は、1960年代以降、貧困などの社会的テーマや、アフリカや西アジア諸国のエキゾチシズム、絵具を厚く盛上げた抽象的な構成などへと挑戦を続けるが、安田火災(東京火災の後身)は西欧風の叙情的な(私の「憂いある」)女性像を独自に東郷から購入してカレンダーに掲載するようになり、可憐な女性像を描く画家という東郷像が浸透する一因になった。

 

 

東郷青児が未来派、前衛派、超現実派など抽象画を描く画家から出発したことは、全く知らなかった。むしろ、自由ヶ丘のケーキ屋(モンブラン)の壁画や包装紙(これは今でも使用しているそうだ)を手掛けた「憂いある女性像」を美しく描く画家であると思い込んでいたが、今回、家内の要望もあり「東郷青児展」を観て、180度東郷青児に関する見方が変わった。抽象画から出発し、雑誌や図書の装丁を行い、むしろデザイナー的な感覚で仕事をした時代や、藤田嗣治と組んで百貨店の壁画を描くなど、商業デザイナーのような感覚で受け入れられていた時代があったことを知った。しかし、私にとっては、東郷青児は永遠に「憂いある美人」を描く画家である。東郷青児の1周忌の回顧展で植村鷹千代氏が「いわゆる東郷様式」と呼んで要約した、次の3点こそ、私の東郷青児観である。「1.誰にでも判る大衆性、2.モダーンでロンアチックで優美、華麗な感覚と詩情、3.油絵の表現技術にみられる職人的完璧さと装飾性、」。こんなに素晴らしい要約は私には出来ないが、相変わらず「憂いある美人」を描く天才と評したい。なお、余談ながら、東郷青児と女性スキャンダルは切り離せない話題である。中でも作家の宇野千代が、昭和5年4月頃に、取材にきて、直ちに同居が始まり、約4年間続いた事件である。宇野千代は、この事件を「色ざんげ」という小説に仕立てている。しかも、きっかけは、宇野千代がガスで情死する様を描くために、情死事件を起こした東郷青児を取材に来た時からである。宇野千代は「生きて行く私」という本の中で、次のように書いている。「東郷は毎日毎日、偽札を作るように絵を描き、私はそれを風呂敷に包んで売り歩く。考えようによっては、信じられないような生活が続いた。」(生きて行く私」より)こういう文章を呼んでも、私の東郷青児に関するイメージはいささかも変わらない。「憂いある美人」を書き続ける画家である。

 

(本稿は、図録「生誕120年  東郷青児展  2017年」、宇野千代「生きて行く私」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

シャガール展   三次元の世界

マルク・シャガール(1887~1985)はユダヤ系ロシア人で、20世紀絵画の世界的巨匠である。私には、甘美な幻想を色彩豊かに描き続けた大画家というイメージがある。しかし、このシャガール観は、この展覧会を観て大きく変わった。彫刻、陶芸など約60点の立体作品が並んだシャガール展は日本で初めてだそうだ。彼はロシアに生まれたが、早くからパリに来てエコールド・パリの一人となった。ユダヤ系ロシア人の純朴な民衆的な感覚で、幼い時に聞いた童話や、故郷の農民の生活や、恋愛の幸福を楽しくうたう。彼の夢の中では、人間や動物はまるで童話のように、のんびりと平和に空中を自由に飛び回っている感覚である。1911年のキュビスムの運動の真只中のアンデパンダンに突然彼の絵が現れた。薄紅色の牛や、緑色の豚など非現実的な色彩を用いているが、勿論フォーブではなく、画面の構成はキビュビスムの影響は認められるものの、キビュスムでもない。ギョーム・アポリネールは、この新しいエスプリを目ざとくも認め、これをシュール・レアリスムと呼び、大いに好意を持った。後世、このシュール・ナチュレル(超自然)からシュール・レアリスムという言葉が生まれたのである。1914年にアポリネールの推薦によりドイツにおいて大展覧会を開催した。シャガールは、この展覧会のついでに一寸ロシアに帰省している内に第一次世界大戦が起こり、そのままロシアに止まり、1922年までパリを留守にした。

誕生日 シャガール作 油彩・カンヴァス1923年 AOKIホールデイングス

1915年に制作された「誕生日」(ニューヨーク近代美術館)を、1923年にシャガール自身が模写したもので、画面サイズも含めて細部に至るまでほぼ原画を忠実に仕上げられており、両者を見分けるのは困難であるそうだ。シャガール自身の思い入れの深さがわかる。描かれているのは1915年7月7日のシャガールの誕生日に、恋人のベラが花を抱えて彼の部屋を訪れた場面である。これからほぼ2週間後の7月25日に二人は正式に結婚している。お互いを思い合う気持ちの高まりを表すように、シャガールの体はふわふわと宙を舞い、大きく首を曲げて恋人のベラに優しく口づけをしている。不自然なほどに捻じ曲げられたポーズは、愛のもどかしさと力強さを、ベラの大きく見開いた瞳は驚きと喜びを伝えている。

誕生日(彫刻) シャガール作  大理石  1968年頃   個人蔵

「誕生日」大理石は、半世紀近くを経てこの場面を立体的に置き換えたものだが、シャガールに取ってこのテーマはどれほど大切なものであるかを教えてくれる。同じ頃に「ふたつの頭部と手」という大理石の彫刻も展示されていた。シャガールに取って、とほど大切な思い出であったのだろう。

散歩  シャガール作  彩色陶器  1961年    個人蔵

シャガールの陶器の表面に施された絵付けは、過去の絵画に使用したイメージの似ているものが多いため、絵画の焼き直しのような印象を受けやすいが、詳細に分析すると壺や皿といった支持体の形に添った改変が加えられ、あるいは全くそれまで存在しなかったイメージも少なくなく、作者が独自の表現を模索していることがわかる。シャガールがいかに陶器の形を生かしながら絵付けを施しいるかがわかる。「散歩」と言えば現在ロシア美術館が所蔵する初期の代表作が思い浮かぶが、壺に描かれたイメージは全く異なる、独立した作品である。

エルサレム(嘆きの壁) シャガール作 油彩・キャンヴァス 1931年個人蔵

1931年、シャガールはテルアヴィヴ市長の招待を受けて、妻ベラや娘のイダと共にパレスチナを訪れた。聖地エルサレムにも滞在した。ユダヤ人としての出自を持つシャガールにとって、この時間が特別な物であったことは想像に難くない。帰国後には、半世紀後に出版されることになる「聖書」のエッチングに取り掛かっている。嘆きの壁は、ユダヤ教徒が祈りを捧げる場所として知られるが、元はヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁の一部とされる。「エルサレム 嘆きの壁」では、壁を左側にして、透視遠近法で奥行きを感じさせる空間が演出されている。壁の前に3人が祈りを捧げている。「嘆きの壁」には、5月に、現職の大統領としては初めて訪れたトランプ大統領が、壁に手をついて祈りを捧げたことがそうである。シャガールには、「エルサレム」と題する絵があり、ずっと後退した位置から壁を含む神殿跡全体を大きく視野に収めた絵である。

ハダサラ病院付属ユダヤ教会堂のステンドグラス墨・グワッシュ1961年個人蔵

ヘブライ大学ハダサ病院内のシナゴーグに設置するステンドグラスの依頼を受けたシャガールは、1959年頃から下絵の制作を始め、3年間にわたってこの仕事に取り組んだ。除幕式が行われたのは1962年2月である。シナゴーグの4面の壁に、それぞれ3面ずつ、計12面のステンドグラスを設置したもので、このテーマに選ばれたのはヤコブがその死に際して祝福したイスラエルの12支族であった。この絵は「ナフタリ一族」である。各支族の性格を表すに当たってシャガールは、人の姿を描くことを禁じるユダヤ教の教義に基づき、人物の登場をしない表現を選択した。ナフリ族は雌鹿と称された(「創世記」49章)ので雌鹿によって表した。

逆さ世界のヴァイオリン弾き シヤガール作 油彩・キンヴァス1929年個人蔵

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代は、シャガールにとって、人生の中で最も安定した時代であった。画家は時折、キャンバスを回転させて描くことで、作品に幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間を生み出されたキャンバスの中で故郷のヴァイオリスクの風景も歌いだし踊り出しているようである。

画家と妻 シャガール作 油彩・キヤンヴァス 1969年 AOKIホールディングス

シャガールの絵画作品には、絵画をいくつかの色面に塗り分けたものがある。色は赤や青など原色が多く、塗り分け方にははっきりした法則があるわけではない。色面ごとに場面は異なるようでいながら、複数の色面をまたいで描かれるモチーフもある。大きな花瓶の花束と若い女性は、ベラが花束を持って来た場面であろうか?

黄色の裸婦 シャガール作 油彩・砂・キャンバス 1967年  個人蔵

とんがり帽子を被った道化師を中心に、青緑色の山羊、ラッパを吹く人物などが画面左側に、月、花束を持つ緑色の裸婦などを画面左側に配した構図はほぼ正方形の作品である。背景は赤と濃緑色で塗り込められているが、画面下方にはヴィテブスクの街並が見えることから、画かれている人物たちは宙に浮かんでいる状態のようである。3点の似た作品があるが、これが一番完成度が高くモデリングがなされて立体感が作りだされ、背景よりも空間を感じさせる表現となっている。

たそがれ シャガール作 油彩・カンヴァス 1938~43年 個人蔵

シャガールはたびたび愛する者同士の結びつきを二重肖像として表している。アメリカ亡命期の1943年に完成したこの作品は、パレットを手にした画家が青く塗られた顔面に、白色の女性の横顔が重なっている。画面の外側から取んできたような髪をなびかせたこの女性の唇は、画家の唇とぴったり重なっており、あたかもミューズとして創造の息吹を吹き込んでいるようである。

ヴィデブスクの上に横たわる裸婦 シャガール作 油彩・カンヴァス 1933年個人蔵

灰色の空の下、生気を失ったように描かれた故郷の風景の中で、左端の花束とそこから生まれ出たような女性の裸体だけに生命力を感じ取ることができる。しかし、空に浮かぶその女性も、目の前の現実から顔を背けるように後姿で描かれる。この頃、ドイツではナチスによる反ユダヤ主義の嵐が吹き始めていた。

天蓋の花嫁 シャガール作 油彩・キャンヴァス 1949年 AOKIホールデイングス

本作には、シャガールのミューズであった二人の女性への思いと故郷ヴィテブスクへの望郷の念が象徴的に表現されている。ユダヤの結婚式が執り行われる赤い天蓋の前で抱き合う花嫁と花婿は天に昇るように縦に伸びている。傍らには彼らを祝福するように大きな花束が描かれている。二重肖像になった花嫁の顔には、黒髪の亡きベラと当時のパートナー、金髪のヴィアージニア・ハガードの面影が映し出されていると言われる。

聖母子 シャガール作 石膏  1952年        個人蔵

シャガールには珍しい「聖母子」という主題を単独で扱った作品である。肘を張って上げた両腕で、胸の中央に幼子を掲げる聖母は、その強い正面性とシンメトリカルで安定した体形によって威厳と生命力を伝えている。本作では、対照的に両側に張り出した腕の表現には、当時手がけていた陶器作品の造形の影響を指摘することができる。

 

陶芸を経て51年から彫刻作品に取り組んだシャガールは、祖国ロシアとルーツであるヨダヤ民族の伝統を承継している。旧約聖書もモチーフにした石彫は、その一例で、土俗的なまでの生命力には目を奪われる。この巨匠の豊富な芸術は、モダニズム絵画の文脈だけでは語りきれない。そのことを如実に示す展覧会となった。12月3日まで開催されている。

 

(本稿は、図録「シャガールー三次元の世界  2017年」、日本経済新聞社「2017年10月4日号」、福島繁太郎「近代絵画」、ポーラ美術館図録「コレクター 鈴木常司と美へのまなざし」を参照した)

運  慶  展 

興福寺中金堂再建特別展として、「運慶展」が東京国立博物館にて9月26日より11月26日まで開催されている。私は、初日に出かけたが、驚いたことに9時半のオープン前から延々長陀の列が出来て、入館までに約30分かかるという驚くべき集客力である。よほど主催者に名前を連ねる朝日新聞社が無料券を配布したのだろうと勝手な憶測をしたが、館内にも沢山の人が熱心に仏像を拝観されている様を見て、大変驚いた。日本人はかくも仏教に熱心であるのか、仏教美術に関心があるのかと驚いた。例えば、この前の「タイ~仏の国の輝き~」の初日はガラガラであった。何故、運慶という仏師の展覧会になると、かくも大勢の人が集まるのか、判らない。しかし、「仏師 運慶」に興味を抱く方が大勢いることは、私にとっては大変嬉しいことであり、是非、運慶仏の美しさ、リアル感を感じて頂ければ幸いであり、是非、奈良・京都の古仏を拝観して頂きたいと思う。さて、仏師の氏名が明らかになるのは何時頃からであろうか?仏教伝来の頃、飛鳥時代の仏師・鞍造止利(くらつくりとり)の名は有名である。飛鳥寺に今も残る重文・飛鳥仏は止利仏師の作であることは日本書記にも記されて、有名であり、日本史の教科書にも載っている。また法隆寺の金堂の「釈迦三尊」像も止利の銘があることから、止利仏師作とされ、国宝に指定されている。(但し、私は飛鳥時代に遡る仏像ではないと思っている)しかし、奈良時代の名作、薬師寺の三尊仏、新薬師寺の十二神将像、興福寺の八部衆(例えば阿修羅像)の作者名は不明である。仏師の名前が明らかになるのは平安時代の半ばの定朝(じょうちょう)からであろう。定朝様式として、日本初の和風の仏像としてもてはやされた。これが鎌倉期に入る頃になると、仏師の名は一気に広まった。治承4年(1180)12月に平重衡(しげひら)の軍勢が、奈良の東大寺と興福寺を中心にした南都焼打ちを行ったことは、史上あまりにも有名な事件である。この知らせを聞いた右大臣九条兼実(かねざね)が日記「玉葉」(ぎょくよう)治承4年12月29日の条に、「世ノタメ人ノタメ、仏法王法ハ滅尽シ了ルカ、オヨソ言語ノ及ブトコロニアラズ、筆端ノ記スベキニアラズ、天ヲ仰イデ泣キ、地ニ伏シテ哭シ数行ノ涙頬ヲ拭ウ」と書きとどめている。この平安末期、鎌倉初期の東大寺、興福寺の復興に仏師たちが活躍する場が生まれ、その仏師名が明らかになった。この時代の仏師は、定朝から別れ、院派、奈良仏師(慶派)、円派の3派に別れ、それぞれの特徴をだしていたが、奈良仏師として東大寺、興福寺の再興に力を尽くしたのが、奈良仏師派の慶派で、康慶、運慶、湛慶、康弁などであり、中でも「運慶」が一番知られている。従って、この稿では「運慶」の造仏を中心に見て行く。運慶は鎌倉時代に目覚ましい活躍を見せた仏師であり、父康慶のもとで学び、造像をともにしていた。運慶の生まれた年ははっきりしないが1145年頃と推定される。最初の作品は安元元年(1175)の銘記のある円成寺の「大日如来」とされている。奈良仏師の造る仏像の作風は、定朝の穏やかな作風ではなく、深浅のはっきりした彫り口が特徴である。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176)奈良・円成寺

本像は胸前で智拳印という印相を結ぶ、真言密教の教主・大日如来の像である。運慶最初の造像例として名高い。私は、昭和57年(1982)10月に、わざわざこの像を拝観するために奈良の円成寺まで出かけた記憶がある。現存する運慶の作品のうち、最も早い20歳代の作例であり、傑作である。台座の裏側に書かれた墨書には安元2年11月24日に像を造りはじめたこと、完成は翌年10月であること、銘の最後には、大仏師康慶の実弟子運慶という署名と花押が添えられている。父の名前も出てくるが、その完成までに1年近くかかっており、等身大の仏像の制作期間としては異例に長いことから、運慶自身の作(工房の作ではない)と見て間違いないだろう。弾力まで感じさせる瑞々しい肌の表現には、運慶の特徴が表れている。また玉冠、胸飾りなどの金物の出来具合も極めて良好である。まだ平安時代の趣きを残すが、胸を張った姿勢、胸を引き締めた側面観などに、平安時代に好まれた仏像の形とは異なる作風が打ち出されている。また奈良仏師がいち早く取り入れた玉眼を用いている。

乗用文化財 仏塔 運慶作 木造・漆箔 鎌倉時代・文治2年(1186)興福寺

興福寺西金堂に伝来した釈迦如来像の仏頭にあたる。奈良時代の天平6年(734)に創建された西金堂は、治承4年(1180)12月に、興福寺の多くの堂舎もろともに平家による南都焼討ちにより焼失した。西金堂は再建され、釈迦如来像の造像に、大仏師として起用されたのが運慶であった。この像は、江戸の大火(享保2年-1717)により現在の頭部のみとなった。この像は、豊かな肉着きと大振りな目鼻立ちが、いかにも鎌倉初期の慶派の作らしい。生気あふれる造形を持っている。この像は、円成寺の大日如来坐像に次ぐ、運慶の最も初期の作例の一つである。またこの事績から、興福寺の復興造営において、寺内では運慶が相当の立場を得ていたことがわかる。

国宝 毘沙門天立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治2年(1186)願成就院

伊豆の願成就院は、北条時政が文治5年(1189)に創建した北条氏の氏寺であり、北条政子の実家の氏寺である。私は、伊豆の温泉に行く場合は、必ず願成就院にお参りすることにしている。運慶作の重要文化財(旧)であった阿弥陀如来坐像、不動明王像、毘沙門天像を拝観するのが楽しみだった。奈良仏師の運慶が、何故この伊豆の地に仏像を作成したのか不審に思ったこともあったが、鎌倉時代は武士の時代であり、まして北条家は、家臣団の中では、最も頼朝に近い存在である以上、依頼があれば駆けつけたのであろうと推察した。今回の運慶展では毘沙門天立像等が出品されていた。何時の間にか、国宝に格上げされていたのには驚いた。ここでは毘沙門天立像を解説したい。文治2年(1189)5月に、願成就院で阿弥陀三尊を中尊として、不動明王と毘沙門天立像を脇に配して造像が始まった。この願成就院の仏像は、飛躍的な変化を遂げた仏像となった。本像は大きく腰を左にひねり、高い位置に右手を上げて鉾を持つ姿は、それまでの神将形像とは異なって颯爽とした勢いを感じさせ、大きな魅力となっている。また、顔立ちにも、理想的な写実性を実現しようとした運慶の構成力が発揮されている。

重要文化財 不動明王立像 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治5年(1189)浄楽寺

浄楽寺の阿弥陀三尊像と同時に造られた不動明王立像と毘沙門天立像は、珍しい尊像構成であり、願成就院に倣っている。不動明王立像は、左目をすがめ、「へ」の字口として、口の両端から牙を上下に出す不動明王の作法にのっとった顔の形をしている。また右手に剣を持ち、左手で羂索を執るという姿勢も、一般的な不動明王の姿である。しかし、堂々たる姿は願成就院諸尊と同じく、運慶が打ち出した新しい趣向を、十分に伝えてくれている。運慶の造る像は、鎌倉幕府の御家人の間で評判にを呼んだのであろう。この後も、栃木・光得寺の大日如来像など、運慶の東国における造象は続いている。

国宝 八大童子立像 六躯(の内2躯) 木造、彩色、載金、玉眼 建久8年(1197)金剛岑寺                           衿羯羅童子          制多伽童子

 

八大童子は、もともと高野山の一心院本堂の像で、後に檀上伽藍の不動堂本尊として、平安後期の不動明王とともに祀られている。6躯が運慶作の国宝である。あとの2躯は後補作品である。不動明王の眷属は衿羯童子と制多伽童子として三尊で表わされる例が多いが一般的であり、八大童子は珍しい。特に衿伽羅童子、制多伽童子は、玉眼の効果が活きて童子の内面を表すかのような面貌表現とともに、実際の童子を見る思いがある。童子にしては豊かすぎるほどの量感的な肉親表現をとりながらも、なお野卑に陥らずに理知的に表したところに、運慶の優れた技量がみて取れる。

国宝 無着菩薩立像 世親菩薩立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代 建暦2年(1212) 興福寺北円堂                      無着菩薩立像        世親菩薩立像

 

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼討によって焼失した。復興は遅れ、正治2年(1200)頃からようやく始動した。無着・世親菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親像を3度拝観している。一度は北円堂の特別開扉の時であり、一度は興福寺国宝展(1997)で、三度目は今回の「運慶展」である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵出来る傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルを日本人の僧を使った。無着、世親は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとせず、むしろ、遠い過去の偉大さを、圧倒的な立体の存在感で表そうとした。ここに総監督としての運慶の意図が、十分うかがえる。私は、運慶の作品の中で、いや日本の肖像彫刻の中で、鑑真像と並ぶ最大傑作と評価したい。

国宝 四天王立像 四駆 運慶一門作 木造、彩色、鎌倉時代(13世紀)興福寺南円堂

現在、南円堂に安置されているが、果たして最初から南円堂の安置仏であつたかどうかは、疑問が呈されている。最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するからである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。現在、各像は岩座を踏んでいるが、この岩座は後補と見られるので、かっては邪鬼を踏んでいた可能性もある。運慶一門の湛慶、康運、康弁、康勝が担当したと思われるが、四天王は玉眼を採用せず、瞳を浮彫にする理由も不明である。今の所運慶作と確定は出来ないと思う。

 

運慶の造った仏像は何体あって、そのうち何体が「運慶」作かは疑問である。図録では31体説を採用しているように見えるが、実は確実なところは不明である。像内納入品や付属品に運慶の名が記されている像が17体ある。同時代の史料から確認できる像が1体で、そのほか13体は像内納入品のX写真や作風から推定されている。(これで31体となるー図録より)運慶は貞応2年(1223)に世を去ったが、鎌倉仏像の基礎を造った作家として一時代を築いた。慶派仏師として快慶、湛慶、康弁等多数の鎌倉仏師を生み出しており、鎌倉時代の武士階級の気風を良く表している。

 

 

(本稿は、「運慶  2017年」」、図録「興福寺国宝展  1997年」、原色日本の美術「第9巻  中世寺院と鎌倉彫刻」、古寺を行く「第1巻  興福寺」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

江戸の琳派芸術展

この展覧会は、江戸時代後期に活躍した絵師・酒井抱一(1761~1828)と、抱一門きっての俊才・鈴木其一(1796~1858)の絵画の展覧会であり、出光美術館の総力を結集したものである。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一は、能や茶のほか連歌、狂歌、俳諧に親しみ、さらには遊里での遊びに長けていた。さまざまな文芸の中で、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年記念法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳諧や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくりあげたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人鈴木其一は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)の抱一没後、その個性を開花させ、独特な作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風をも吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚にみられる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。宗達ー光琳ー抱一という琳派の絵画の流れのなかで、其一作品がその範疇に収まるものかどうか、今後さらに検証が加えられた後、その結果は明らかになるだろう。私は、若沖をしのぐ鈴木其一の大ブームを予測している。

夏秋草図屏風草稿  酒井抱一作 紙本着色 文政4年(1821)出光美術館

 

この草は、酒井抱一による「夏秋草図屏風」の下書きと考えられる。この絵は、抱一の光琳への敬慕が込められた作品の下書きであり、都市文化の花開く江戸の地で光琳画を変装したものである。銀地を背景にして「雷神図」の裏に突然の裏に突然の驟雨に打たれた夏草を描き、「風神図」の裏に野分立つ秋草を鋭い形態感覚で描き出す。夏草図では突然の雨で地面に水がたまり庭只海となり、秋草図では蔦の葉が空に舞う。このように時節の植物を描くだけでなく、風立つ一瞬の情景を切り取った表現によって、夏秋の季節感の対比をより際立たせているのである。作品に付属する文書からは、この画事を巡る三つの事柄が明らかになっている。「一橋一位殿」すなわち第十一代将軍・徳川家斎の実父・徳川治貞の注文であること、尾形光琳の「風神雷神図」の裏面へ描くことが下絵の段階ですでに意図されていたこと、そして、文政4年(1821)抱一が61歳の11月9日に下絵が完成したことである。

風神雷神図 酒井抱一作 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

黄金の大地を闊歩するかのごとき風神と雷神の姿は、俵谷宗達(?~1640頃)によって画かれた。宗達は、北野天神縁起絵巻に図像の原型を求めながら、説話の畏怖性を削ぎ落とし、自由闊達な二神の姿を金地の大画面に解き放ったのである。宗達の「風神雷神図屏風」(建仁寺)は、それからおよそ100年の時を経て尾形光琳に模写された。さらにその百年後に描かれたのが、酒井抱一のこの屏風絵である。抱一本の表現は基本的に光琳本にもとづく。光琳との差は、色の塗り方や線の引き方に、抱一の志向が確かに見える。抱一本は、さっぱりとした瀟洒な画面に仕上げている。今日、風神雷神図は、宗達ー光琳ー抱一という「琳派」の画家達に結び付ける、最も象徴的なアイコンとして膾炙している。抱一は文政9年(1826)刊行の「光琳百図」後編の掉尾を、光琳本の「風神雷神図」に飾らせている。抱一こそ、琳派の風神雷神図を、宗達ー光琳ー抱一という画家たちに結び付けたのである。

八橋図屏風  酒井芳一作  紙本金地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、カキツバタと八橋を描く。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表したカキツバタが、ほがらかな場面を作り出している。光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)を忠実に倣って描いている。しかし橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画のカキツバタの花群を減らして整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。

紅梅図屏風 酒井抱一作  紙本銀地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。表絵が誰の作品であったかは不明である。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。

燕子花屏風 酒井抱一作 絹本着色 享和元年(1801) 出光美術館

抱一が琳派作品を学習し始めた頃の作例とされる。光琳やその弟子たちが好んで描いた燕子花というモチーフが画面中央を余白として上中央から画面下方へCの字を書くように円環的に配置されている。群青の鮮やかな花弁のなかで三輪だけの白の花を潜ませたり、葉先に蜻蛉がとまる情景を描いている。先例を踏襲するだけでなく、抱一自身の制作意図を打ち出している。それは抱一が文学的趣向を強く含ませよとする造形意識によるものであり、俳諧の素養が強く生かされているのである。

三十六歌仙図 鈴木其一作 絹本着色 弘化2年(1845) 出光美術館

光琳の三十六歌仙図から琳派の絵師たちが描き継いだ画題である。常套的ともいえるその画面に、其一は表具まで丹念にえがきこんだ描表装とした。抱一と弟子たちがしばしば用いた手法である。天地には白地に鮮明な青波を描き、その上に赤、青、緑で彩った扇を流し、中廻しには連続模様の蜀江文が極めて細密に描き混まれてる。歌仙たちの衣服も色鮮やかで、先行作品とほぼ同じ色が使われている。しかし掛軸の縦長構図としたことで色彩の配置に乱れが生じてしまうところを、束帯の黒の連なりによって統一感をもたせるように配置しており、其一の卓抜した色彩構成の技が示されている。

秋草図 酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出路美術館

12ケ月花鳥図の揃い物は、やがて月次絵(つきなみえ)という本来的な脈絡から切り離され、単独、もしくは対幅の絵として広く所望されたと思われる。直立薄を支えに芙蓉や、桔梗、藤袴の草花をバランスよく配置したこの絵は、八月の一図とモチーフや構図を通わせている。しかし、画面上部に浮かんでいた月を退けたり、芙蓉の茎にヒタキ類の小禽を一羽添えたりするろころが、画家の新しさを見せている。

秋草図屏風 鈴木其一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

うっすらと墨を刷いた絹地の画面に、可憐な秋の草花が配される。左右の端に引手跡があることから、もとは襖二面であったかものが現状に仕立て直されたことがわかる。葛の蔓と葉が揺らめくように画面をつたい、その周囲には、薄、吾亦紅(われもこう)、桔梗、藤袴、撫子、鬼灯(ほうずき)といった多彩な草花のほかにも、野菊の近くに蟋蟀(こおろぎ)の姿をとらえるなど、画面の随所に鈴木其一の微細な感覚を見ることが出来る。

秋草図屏風  鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

冷え寂びた銀地の光彩のなかに、秋の草花の可憐な姿がとらえられる。葛が大振りな葉を表しながら右上に向かって蔓を伸ばし、そのまわりに萩、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花が競うように繁茂している。この絵は、其一による抱一学習の成果を象徴的に伝える一図といえる。画面上部に準備された色紙型には、「万葉集」の山上憶良が秋の七草について詠んだ二首が記されている。

藤花図 鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀)  出光美術館

画面の左端には引手跡が残り、もとは仏間の襖絵を改装したものと伝わる。幹を複雑に絡ませながら枝葉を伸ばし、豊かな花房を垂加させる藤が、巨大な画面に描かれる。其一には藤の花を描いた絵画が多い。しかし、この絵の趣向はずいぶん異なっている。本図における色彩の諧調は花びら一つ一つの連なりを合理的に表すためのものではなく、全体として花房の姿を質感豊かに描くために用いられる。躍動感あふれる魅力的な造形をつくり上げている。本紙の全面にまかれた銀砂子も柔らかな光で、水墨画のように仕立てられた藤花の軽妙な描写を演出している。其一30歳代半ばのものと思われる。

遊女と禿  酒井抱一作  絹本着色 天明7年(1787) 出光美術館

茶屋の前の遊女と禿を描く。遊女は高名な五明楼扇屋の花扇その人、画面上部には、著名な戯作者・大田南舖(1749~1823)の狂歌を、花扇みずからがしたためた賛文が認められる。さながら当時の花柳界における大御所のそろい踏みとなっている。おそらくそれを実現させたのは、この絵が武家の貴人・酒井抱一によって制作された、という特別な事情にもとずく。尾形光琳の画風に目覚める前の抱一は、このような絵画(肉筆浮世絵)を制作していた。天明7年(1787)は、抱一27歳の時である。何よりも、署名や印象がなければ浮世絵師・歌川豊春(1735~1814)の作と見まがうほどの女性の特徴的な顔立ちは、若き日の抱一がいかに師豊春美人に心酔し、その再現を目指していたかを如実に物語るものである。

立葵図  酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

一目見ただけで、尾形光琳やその弟・乾山の手による立葵図の構成を踏まえていることが判る。但し、その色彩には、今までの立葵図とはまったく異なる感覚を見せている。一枚一枚の明確に描き別けることなく柔和な白一色で塗られた花弁は、中心付近に淡く桃色が挿される。酒井抱一が光琳風に傾倒しはじめて程なくして描かれたものである可能性がある。箱書きから姫路藩酒井家の家老職関係筋に伝来したことがうかがわれる。

十二カ月花鳥図貼付屏風(3、4、5月)酒井抱一作江戸時代(19世紀)出光美術館

  

抱一が得意とした十二カ月花鳥図は、花や鳥や虫を自由に組み合わせて、十二図を一組としている。懸幅装が四組、屏風が二組残されている。この屏風は、その内の一組である。ここでは、(旧暦)3月、4月、5月の部分をお見せする。文政6年(1823)の年紀が記されているものがあり、その他は文政7年以降の作と考えられる。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

右に源氏梅のような紅梅同樹の梅を置き、その廻りを囲むように牡丹、燕子花、蒲公英などの春秋の草花が描かれている。左の楓木は未だに青葉のものと色を染めたものが混在する。その下方には桔梗、水仙などの草花が添えられている。強い色彩効果が生み出されている。其一の個性がいかんなく発揮されている。色面が強調されて、それぞれのモチーフは輪郭線を感じさせない表現となっている。其一以外はたどり着けない造形感覚を主張している作品であり、傑作である。

 

この展覧会では、王朝的な美意識に支えられた京都の「琳派」を受け継ぎつつ、江戸と言う都市の文化を美意識のもと、小気味よい表現世界へと転生させた「江戸琳派」の特徴とその魅力を伝えるものである。酒井抱一の門下からは、魅力的な弟子たちが数多く輩出したが、中でも近年注目を集めているのが、鈴木其一である。鮮烈な色彩と明快な画面構成に個性を発揮する其一の絵画には、むしろ師・抱一よりも強い光琳志向を感じさせるものがある。鈴木其一については、昨年の「鈴木其一展」で、詳しく伝えたが、江戸琳派芸術では、抱一と並んで、欠かせない絵師である。私は、鈴木其一の大ブーム出現を予想している。

 

(本稿は、図録「江戸の琳派芸術  2017年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、図録「江戸琳派の旗手 鈴木其一展  2016年」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)