北斎とジャポニズム展  北斎と人物画、動物画(1)

「HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」という副題を持つ、「北斎とジャポニズム展」が国立西洋美術館で10月21日より2018年1月28日まで開催されている。江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)の作品110点と、その影響を受けた西洋の画家の作品約220点が、一堂に会する大規模な展覧会である。北斎と言えば、昨年両国に「すみだ北斎美術館」が誕生し、話題を集めた。初回こそ見学したが、2回目以降は見たことが無い。理由は「図録」が発行されないことである。図録の無い美術展には、私は行かないことにしている。それは記憶が曖昧になり、いずれ忘れてしまうからである。図録は、あの程度の美術館では、毎回発行は難しいだろう。それならば、写真なしの「説明録」を学芸員が作成し、写真は別途販売すれば良い。顧客を呼び込む基本を忘れている美術館には、如何にハードに金をかけても顧客は集まらない。さて、日本の浮世絵が幕末に西洋に流れ、ジャポニズムが一大ブームになったことは、「華麗なるジャポニズム展」で2014年の展覧会で有名になった。私の記憶によれば、「浮世絵は、日本から西洋に輸出された陶磁器を保護するために巻かれたものが話題を呼んだ」ということであった。この知識は、多分美術書を読んだとからと思うが、今年のNHKの番組の中でも同じ内容(「北斎漫画」が使用されていた)が放送され、多分事実なのだろうと思い込んでいた。今回の展覧会で、まず、その知識が大きく変わった。それは、次のような経緯であったと図録では説明している。日本が1854年に開国してから、西洋では次々と日本に関する紀行書が刊行されれた。これらは外交官たちが来日して見聞きした日本の歴史、社会、風俗、地理などを紹介した書物であるが、そこには日本人の手になる挿絵が多数掲載されていた。1850年代から1870年代までに出版されたこの類の書物には、それが誰の絵であるかは記載されないまま、画像だけが複製されたのである。最も多く使われたのが葛飾北斎の「北斎漫画」全十五編と「富嶽百景」全三冊であった。彼らは、北斎が何者であるかは殆ど関心がなく、日本の風俗や情景を表すのに、極めて都合の良い面白い絵として挿絵に使ったのだった。一方、フランスやイギリスでは、開国後早くから美術商が日本の美術品や工芸品を扱うようになり、芸術家、批評家、愛好家たちがそれらを蒐集したり評論したりしていた。彼らは関心を持った北斎について、「オクサイ」「ウクサイ」「ホフクサイ」等呼んだり書いたりした。その論調は当初単なる「興味深い画家」であったが、やがて「日本でも最も偉大な画家」というレッテルを貼るまでになった。この「北斎とジャポニズム」は、3編に分けて連載することとした。第一編は「北斎と人物、植物」であり、日本の北斎から影響を受けた画家、工芸家の作品を並べる。なお、文書で説明は出来るだけ簡単にして、作品主体に編成する。

「北斎漫画」十二編 葛飾北斎作 天保5年(1834)江戸時代(19世紀)

背中を拭く女 エドガー・ドガ作  1889~92年頃

浮世絵には庶民や遊郭の女性たちの日常生活の様子が多く描写されているが、北斎はこうした人々のくつろいだポーズや滑稽な姿を鋭く観察し、「北斎漫画」などに掲載した。このような姿勢は、取り澄ましたモデルの姿を描くドガの眼を引き、新しい裸婦像が生まれた。本来なら隠されるべきヌードは、マネやクールベの活動によって、ヌードの意義が問われる時代となり、ドガは、自然にふるまう人物が「窃視」されていることを意識せずに取る、本能的なポーズを描いたのである。

「絵本庭訓往来」初編 葛飾北斎作文政11年(1828)江戸時代(19世紀)

髪を結ぶ少女 ベルト・モリゾ作  1893年頃

浮世絵を多数保有し、家の壁に飾っていたモリゾはドガと少し違った姿勢で、同時代の女性達の日常生活を描くのに、北斎が見た様な飾らないありのままの動作を、親近感をもって描いたのである。

「北斎漫画」十一編の内 葛飾北斎作        江戸時代(19世紀)

右下の力士の姿を見てもらいたい。次の、ドガの絵との関連を考えてもらいたい。

踊り子たち ピンクと緑 エドガー・ドガ作   1894年

この絵は、この展覧会のポスターや案内書に出され、まるでこの美術展の目玉の扱いである。腰に手を当てた「踊り子たち ピンクと緑」の踊り子は、似たようなポーズを繰り返し素描で研究されているが、「北斎漫画」十一編の相撲取りのポーズと類似していることから、ドガはおそらく強い関心を持っていたものと考えられる。ドガの所蔵していた北斎の浮世絵や版本のコレクションは、一括して売られ、中身はわかっていない。

「画本千文字」 葛飾北斎作  天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

舟遊び  クロード・モネ作 1887年

北斎の影響は、私は印象派に一番大きな影響を与えていると思う。戸外での遊びは印象派の時代の新しい主題の一つであった。モネやルノワールは舟遊びの主題を繰り返し描いたが、ジヴェルニー移って1880年代半ば頃から描きだしたエプト川での舟遊びは、新しい構図への挑戦であった。画面に右から侵入する船と人物を俯瞰構図で大きく描き、岸辺の情景は大胆に除外され、水面だけが切り取られるという大胆な構図が適用されている。舟遊びの人物を拡大して描く表現や俯瞰図は浮世絵からのヒントだったが、大画面に水面だけを描くという挑戦は、のちの睡蓮の連作へとつながってゆく。画期的な秘薬であったろう。このように考えると、浮世絵の影響は、予想以上に大きいことが理解できる。

「百物語 さら屋敷」葛飾北斎作 文政2年(1819) 江戸時代(19世紀)

表情豊かでときに滑稽な北斎の幽霊や妖怪たちは、想像力を羽ばたかせてこの世ならぬ世界を描いた象徴主義、またはその流れをくむ表現主義の画家たちを魅了したに違いない。

「聖アントワーヌの誘惑」第一集 オデイロン・ルドン作 1888年

ルドンによる怪物は、構図もさることながら、陰鬱さのなかにユーモアさえ感じさせる点でも、北斎の描く幽霊の図に接近している。

2.北斎と動物画                             北斎と動物画に移る、西洋では動物画は、博物学的な関心を背景として、狩猟画から派生したものであった。したがって自然全体を想起させる導入口として動植物をとらえる花鳥画とは異なる自然観に根ざしていた。ジャポニズム以前の西洋では、とりわけ小動物や鳥、魚、爬虫類や昆虫といった小さな生命は、宗教的な象徴や寓意、あるいは静物画に添えられることはあったにせよ、その生きた姿が作品の主要なモチーフになることは殆ど無かった。西洋の動物表現に影響を与えた日本美術のなかでも、「北斎漫画」を筆頭とする北斎の絵手本が果たした役割は大きい。

「北斎漫画」六編  葛飾北斎作 文化14年(1817)江戸時代(19世紀)

競馬場にて  エドガー・ドガ作  1866~68年

ドガは1860年代の終わり頃から競馬場の情景をモチーフとして描いた。それは競馬場が、マネ曰く「パリの生活を表す市場、鉄道、港、地下、公園、競馬などの一つとして、当時のブルジョワに人気の」スポットであり、着飾った男女が社交や戸外でのスポーツ観戦を楽しむ場だったのだからである。この「競馬場にて」においては、出走を待つ静止した馬たちの中央の、まさに遠近法の消失点の位置にいる跳ねる馬が目を引く。1頭だけ異なったポーズのこの馬は、「北斎漫画」六編の右頁端上から二段目の騎馬を切り取って貼り付けたように見える。

「北斎漫画」十五編  葛飾北斎作    江戸時代(19世紀)

兎のいる屏風 ピエール・ボナール作     1902年頃

屏形式の西洋画は珍しい。私は、初めて見た。これもジャポニズムだろう。銀箔や漆を思わせる2色の地で上下に区分され、上部にはニンフとサテュロスの戯れと風景の断片が、下部には「北斎漫画」十五編を想起させる簡潔な描線で表される野兎の群れが描かれている。

「北斎漫画」二編 葛飾北斎作 文化12年(1815) 江戸時代(19世紀)

 

栓付瓶:蝙蝠・芥子  エミール・ガレ作  1889~92年

ガレはロベール・モンテスキューの詩「蝙蝠」(1892年刊)の出版を記念して栓付瓶を制作した。闇や不吉を象徴するコウモリ、眠りと結びつく芥子をモチーフにした本作は、退廃的な闇夜を想起させる。ガレはこの象徴派の世界観を表わすにあたり、北斎をも取り込んだようである。ガレにはトンボや蛙を取り込んだ花瓶などもあり、浮世絵を積極的に採用するジヤポニズム作家であった。

 

 

鎖国の間、日本については詳細な報告を残したのは、シーボルトを始めとする出島のオランダ商館員たちであったが、彼らは北斎の絵本や肉筆画を母国に持ち帰り、広く西洋社会に広がった。日本が1854年に開国してから時を置かず、来日した外交たちの日本についての紀行書が刊行された。そこには北斎の手による挿絵が多数掲載された。画像だけが複製され、日本の風俗や情景を表すのに都合の良い絵として挿絵に使われたのである。一方、イギリスやフランスでは、開国後早くから日本の美術品を売る店ができ、愛好家たちが群がった。西洋になかった斬新な表現をするこの画家について評論やコメントを残し、やがて「日本でもっとも偉大な画家」というレッテルを貼るまでになった。北斎が民衆の画家であることから、共和主義者たちが彼を大画家として持ち上げるようにしたと考えられる。この編では、北斎が西洋の絵画、工芸で、どのように取り入れられ、愛好されたかを部分的ではあるが伝えたものである。更に、北斎と植物、北斎と風景画等を逐次取り上げたい。

 

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム展特集」、図録「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展 2014年」、大久保純一「北斎」を参照した)

重要文化財  長谷川等伯障壁画展

長谷川等伯(1539~1610)は、戦国時代から桃山時代に生き、果敢に天下一の絵師への道を切り開いた男として有名である。等伯は現在の石川県七尾市に生まれ、始めは「信春」(のぶはる)と名乗り、能登地方には「信春」落款のある日蓮宗関係の仏画が多数伝えられている。信春は30代前半頃に妻子と共に上洛し、実家の奥村家の菩提寺・本延寺の本山である本法寺の塔頭・教行院に身を寄せた。町絵師として扇絵等を描いていたと伝えられるが、天正17年(1589)に千李休が寄進し、利休が秀吉より切腹を命じられた原因とも言われる大徳寺山門の内部の天井画と柱絵には「長谷川等伯五十一歳筆」の款記があり、等伯の作と言われている。等伯と利休の関係は深く、利休没後に「千利休像」(表千家不審庵蔵)を描いており、その賛者は大徳寺111世・春屋宗園(1529~1611)である.宗圓は大徳寺山門の落慶法要を担当していたのである。天正15年(1591)豊臣秀吉の嫡子・鶴松がわずか3歳で没する。等伯は、鶴松の供養のために創建された祥雲寺の障壁画を担当することになる。「楓図壁貼図」「松に秋草図屏風」は等伯の金碧壁画の代表作として、現在は智積院に伝えられている。しかし、この頃、成功を手にした等伯は様々な不幸が襲う。天正19年(1591)等伯の良き理解者であった利休が自刃し、文禄2年(1598)には、祥雲寺に「桜図襖」を描いた長男・久蔵が26歳の若さで没している。等伯はこの頃より、制作の中心を水墨画に定め、「竹林猿猴図屏風」(大徳寺蔵)など猿猴を多く描くほか、日本水墨史上の傑作である「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)を描いている。南禅寺塔頭の天珠庵は、暦王3年(1340)に南禅寺の無閑普門の塔頭として創建された。その後、戦乱の世を経て荒廃していたが、雲岳零主が住持となったとき、雲岳の銘が細川幽斎夫人だった関係から、幽斎が天綬庵を細川家菩提寺として、復興した。現存する方丈は、棟札によって、慶長7年(1602)8月に建立されたことが分かる。障壁画もその折の制作とみなされ、等伯64歳の制作ということになる。晩年における等伯の水墨人物画の基準となる作品である。

南禅寺天綬庵   写真

南禅寺の塔頭である天授庵の写真である。

天授庵方丈の部屋割りと障壁画について

天授庵方丈には、室中(真中)に「禅宗祖師図」、上間二乃間に「商山四皓図」、下間二乃間に「松鶴図」が描かれている。いずれも長谷川等伯の制作であると考えられている。(落款は無い)今回の展覧会は、2期に別れ、第1期には「禅宗祖師図」が、第2期には「商山四皓図」が展示された。

重文  禅宗祖師図 爛瓉煨芋図(らんさんわいうず) 長谷川等伯作 桃山時代

一番左側の「爛瓉煨芋図」は、中国唐代の名僧、懶瓉和尚(らいさんおしょう)の故事を描くもの。石窟に隠れ棲む和尚の所に皇帝の勅使が参内を求めて来たが、和尚は牛の糞を燃やして暖をとりながら芋を焼いて食べている真っ最中。涙や鼻水を垂らして食おうとする和尚に勅使が、その鼻水を拭いてはどうですかと言うと、「俺は今、一大因縁のために工夫中である。鼻を拭う手間が惜しい。俗人に法を説く暇もない」と、参内を断ったという話である。

重文 禅宗祖師図 南泉斬描(なんせんざんびょう) 長谷川等伯作 桃山時代

この絵は、一匹の猫をめぐって争う僧徒を戒めるべく、その猫を切断したという中国唐代の故事の名僧、南泉普願の故事を描くもの。南泉の気迫漲る表情は迫力満点。対照的に、絶対絶命の猫には、その辺にいる猫を描き込んだかのような親しみやすさがあふれている。愛情をこめて描かれた、憐れなその姿といたいけない表情に目をこらしたい。

重文 禅宗祖師図 趙州頭戴草履図(じょうしゅうずたいあいず)長谷川等伯作桃山時代

南泉は、先ほどの出来事を弟子の趙州に話し、「汝ならばどうするか」と問いかけた。すると趙州は、何も言わずに履いていた草履を脱いで頭に乗せ、出ていった。趙州は、おどけているような態度で、猫を殺した南泉の行為を揶揄しているかのようである。この行動に対して南泉は、「お前がいたならば猫を救えたものを」と、趙州の機知を讃えたと伝えられている。ここでは鬼気迫る南泉の飄々とした表情が印象的である。この他に「船子夾山図」があり、全部で16面である。

重文 商山四皓図(しょうざんしこうず) 長谷川等伯作 桃山時代

上間二乃間に8画面で描かれている。この絵は、中国・秦末、乱世を避けて陜西商山に入った東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、用理先生(ろくりせんせい)の四人の隠士(いんし)で、皆髭(ひげ)や眉が皓伯(真っ白)の老人であったので四皓(しこう)と呼ばれた。西側四面に一人、南側四面に三人、それぞれ騎驢(きろ)姿で描かれている。天授庵方丈画において、人物のサイズはこれまでになく拡大し、必要最小限のモチーフによって、それぞれの画題を過不足なく表している。

松鶴図(しょうかくず)部分  長谷川等伯作  桃山時代

下間二乃間に描かれたのが松鶴図である。松や鶴は長寿をあらわす吉祥画題として、古来描かれている。この襖絵では五羽の鶴が描かれている。伏せている2羽の鶴は、いかにもくつろいだ表情をしている。少ない筆致で的確に鶴の体躯を表現しており、筆遣いには勢いを感じさせる。

重要文化財  等伯画説 日通作  桃山時代   本法寺蔵

日蓮宗の本山「叡昌山本法寺」は、法華宗を信仰した長谷川等伯とのゆかりの深いお寺である。30代前半頃に能登から上洛した等伯は、本法寺の塔頭・教行院に身を寄せており、本法寺には等伯の絵画だけでなく、貴重な資料が残されている。そのなかの「等伯画説」は、本法寺10世の日通が、等伯との談話のなかで聞いた絵画に関する話題を97条に亘って書き記した冊子本である。日通(1551~1608)は、堺の豪商である油屋一族の出身で、本法寺中興の祖とされている。「等伯画説」は、記された内容から成立時期は天正10年(1582)頃と考えられる。桃山時代を代表する画人である等伯の芸術観が記されている。かねてこの冊子を見たいと考えていたが、思いがけない場所で見る機会に恵まれ、特に印象に残った作品であった。

重要文化財 玉甫紹琮像  長谷川等伯作  桃山時代  高桐院蔵

沓を沓床に脱ぎ、竹箆(しっぺい)を手にして曲彔(きょくろく)に座る玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)(1546~1613)を描いている。簡略な筆致ながら、対象の特徴を的確に捉えている。玉甫は細川幽斎の弟で、幽斉の長子である細川忠興により慶長7年(1602)に創建された大徳寺塔頭(たっちゅう)高桐院(こうとういん)の開祖である。高桐院には等伯の襖絵があったとされる。(現在は確認されていない)尚、高桐院には数年前に訪れたことがあるので、いずれ「美」に記事を記載したいと思っている。

 

永青文庫は、肥後の細川家の美術館で、目白駅の近くにある。立地的には行きやすい場所であるが、私は今回が初めての見学であった。長谷川等伯の障壁画が何枚も並ぶと聞けば、何が何でも拝観に出かける筈である。極めて見応えのある内容であった。南禅寺の塔頭である天珠庵の等伯障壁画は2010年の「没後400年 長谷川等伯」展で観たことはあるが、あまりにも展示品が多く、深く印象に残っている訳ではない。今回の展覧会は2期に分かれ、天珠庵の襖絵全32面を公開するもので、細川家ならではの企画であった。直ぐ目の前に、桃山時代の傑作が並ぶ様は、夢のような印象であった。襖絵の墨絵は、視難くて、この「美」の写真を通してでは、残念ながら、あまり印象には残らないと思う。出来れば、是非、ご自身で拝観していただきたい。残念ながら、写真を販売しておらず、雑誌や図録からの転写であるため、非常に視にくいと思う。また、この展覧会で、重要文化財「等伯画説」を直接見る機会に恵まれ、非常に幸運であった。等伯の理解には欠かせない資料である。この点は、大変有り難い機会であった。

 

(本稿は、「永青文庫99号 重要文化財 長谷川等伯障壁画展 2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、安倍龍太郎「等伯上下」、田中英道「日本美術史全史」、日経新聞 2017年9月29日号「ガイドワイド」を参照した)

岩佐又兵衛作 国宝  舟木本・洛中洛外図

京都の中心部と郊外の景観を俯瞰して描いた図が「洛中洛外図」である。室町時代から江戸時代を通して数多く制作された。横長の画面に京都のパノラマが広がって四季が巡り、御所をはじめ公家の御殿、武家の屋敷、名高い社寺、名所をとりあげて、さらにそこに暮らす人々の生活を描き出した風俗画である。現在知られている洛中洛外図は百点ほど存在している。その発端は応仁の乱(1467~77)だと言ってよいだろう。戦火で京都の街は焦土と化し、「洛中洛外図」が扇面図などに描かれるようになった。戦乱によって、はじめて京都市街の姿を絵に表す意味が生まれたと言える。洛中と洛外とあわせた「洛中洛外図」が生まれたのは、遣明船で中国に渡った禅僧たちによって、北宋の都、開封内外の賑わいを描いた「清明上河図」のような都市図が日本にもたらされたことも大きな要因であった。現在、室町時代に描かれた「洛中洛外図」は三作品が知られている。江戸時代になると、洛中洛外図屏風は新たな姿となる。京都を東からみて徳川家康の築城した二条城を大きくとらえ、洛西地域の景観を描いた画面と、御所と洛東、つまり秀吉が築いた方広寺大仏殿や、人々が祇園祭に熱狂する様子などが対になるような画面構成となった。そして京都には将軍が不在となった後、京都は観光都市化し、洛中洛外図自体の意味も変容していく。屏風絵の供受者も天下人のような武将ではなく、各地の大名、あるいは花嫁道具の一つとして買い求めるものとなった。今回は、2016年に新たに国宝指定された、舟木本・洛中洛外図に焦点をあててみたい。理由は、作者が岩佐又兵衛とされることや、私が洛中洛外図の中で一番好きだからである。

国宝「洛中洛外図」舟木本 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)東京国立博物館        左隻                     右隻

「舟木本」(以下このように略す)は、戦後間もない昭和20年代の初め、滋賀県長浜市の医師、舟木栄氏が、彦根の古美術商から手に入れた。昭和24年(1949)、渡岸寺参拝の道すがら、同氏の宅に立ち寄った美術学者源豊宗(みなもととよむね)氏は、部屋に立ててあったこの屏風に目をとめる。又兵衛作だと直感した。狩野永徳筆の国宝「洛中洛外図ー上杉本」は中でも有名であるが、「舟木屏風」も描写内容が生き生きとした、個性的作風という点で、永徳のものにひけをとらない。というよりも、人々の生活をとらえた描写のユニークさにおいて「洛中洛外図屏風」の中でもっとも異彩を放つもの、と言ってよいだろう。鴨川の流れが左上から右下へ流れ、左右の画面をつなぐ。右隻の右に豊臣秀吉が建てた方広寺の威容を大きく描き、左隻左方に徳川家康が建造した二条城を置いて対峙させている。全体で7メートルを超える大画面となり、洛中洛外図屏風の中でも特異な画面構成をとったものとなっている。右隻は大仏殿と豊臣秀吉を祀る豊国神社が人々でにぎわい、四条河原の喧騒を描き、左隻に六条三筋街の遊郭を細かく描写している。巨大で華麗な幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)たちが寺町を下がっている。店先での商いや、街路をゆく芸能者などが通りを埋める。左上に紫宸殿前で舞楽を催す御所を描き、そのすぐ近くに二条城の威容を描いている。東寺五重塔の上から眺めた景観を描いたものとも言われている。この図は、現世ー浮世への欲望を主題とした浮世絵につながる作品といえるのである。人物の身振りは誇張され、いずれ現れる浮世絵の人物たちを彷彿させる。作者の岩佐又兵衛が浮世絵師の祖と言われる所以である。(又兵衛作については別途論じたい)

舟木本  大仏殿楼門前

誘っているのは女性である。侍女が男性を手招きしている。

舟木本 大仏殿  鐘楼

慶長19年(1614)に完成した梵鐘である。鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」とあって、これを徳川家康に咎められ、大阪夏の陣のきっけとなった。

舟木本  五条大橋

天正17年(1589)、豊臣秀吉が大仏殿の参拝のため新たに付け替えた五条大橋、橋上に花見返りの集団が踊り騒ぎ、賀茂川を上る船頭も驚いて見上げている。

舟木本  四条河原 人形浄瑠璃

源義経が母常盤の仇討をする「阿弥陀棟割」と「阿弥陀の霊験譚「山中常盤」の場面である。又兵衛が「山中常盤絵巻」という大作を発表しているが、その一場面である。

舟木本 六条三筋町 中の町

二条城築城のため慶長7年(1602)に六条界隈に移転した遊郭。上中下の三筋の通りがあった。「中の町」遊女たちが牡丹や菖蒲を手に持って身をくねらせながら踊る様子を、男たちが袖や扇で口元を隠しながら見つめている。これは、まるで浮世絵である。

舟木本 祇園祭

鉾は描いていない。それは、多数の人物を表現するために省いたものである。寺町通りから四条通りへ進む大きな幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)風流。笠鉾の前では鬼面のものや赤毛を被った赤熊(しゃぐま)が笛太鼓で囃す。

舟木本  御所

鳥兜の舞人が舞う正月節会。

舟木本  二条城

家康建築の二条城。天主は慶長11年(1606)に完成した。家光が後水尾天皇行幸を迎えるため、寛永元年(1624)に大改築に着手する前の姿である。

 

舟木本「洛中洛外図」を岩佐又兵衛作として、論を進めてきたが、異論は勿論ある。又兵衛を発掘した辻惟雄氏は「奇想の系譜」の中で次のように述べている。「舟木本・洛中洛外図屏風は、慶長末年の京都の市民の活気に満ちた生活ーとくにその享楽的な側面の諸相を、旺盛な好奇心と風刺精神によって描き出している点、風俗画の新傾向のさきがけとしての画期的な意味を持つものであり、しかも人物表現の特徴に又兵衛のそれと似た点があるところから、彼の京都時代の作ではないかと推測する向きもあるのだが、描かれている人々の野趣に満ちた闊達な表情は、又兵衛の内面的資質とはあまりにも無縁でありすぎる。むしろこれは「又兵衛前派」というべきすぐれた無名の画人の筆と考えたい」と述べ、又兵衛作を堅く拒否している(1970)。2008年に刊行された「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」の中で。、「舟木本屏風左隻第四扇中央の、薬屋前で口をあけていなないている馬を、「山中常盤」第三の草津の宿で、子供に手綱を引っ張られ、苦しそうに口を開けている気の毒な馬のユーモラスな表情と比べてみた。舟木本屏風の馬の長い頸が、引っ張られていっそう長くなった様が、山中常盤の馬に読み取れる。両者の馬が同じ画家の筆から生まれたことはもはや疑えない。舟木屏風は又兵衛作だ!」として、舟木本が岩佐又兵衛作あることを認めている。実に37年後の意見変更である。又兵衛研究の第一人者の意見であるだけに重い。なお「洛中洛外図と障壁画の美」の解説は、東京国立博物館であるので、考証はしっかりしていると思う。私は、出展された7艘の洛中洛外図の中では、この舟木本が一番好きである。風俗画として一番魅力がある。この図が描かれたのは、辻惟雄氏は慶長年末(1615年頃)としているが、「洛中洛外図と障壁画の美」の解説でも慶長20年(1615年頃)としており、又兵衛の京都時代の作として一致している。この洛中洛外図から、浮世絵又兵衛の名が生まれたとするのは、やや難点があるが、又兵衛の京都時代の絵が、現在これしか確認できない以上、やや飛躍があっても、この「洛中洛外図」をもって、浮世絵又兵衛と呼ばれたことを実証する以外に方法は無いだろう。

 

(本稿は、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」を参照した)

狩野元信展   天下を治めた絵師

狩野元信(147?~1559)は、室町時代より400年間に亘り日本画壇の中央を担ってきた狩野派の二代目である。狩野派とは、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門集団であり、元信は始祖・正信(まさのぶー1434~90)の息子として生まれた。正信は優れた画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中でも最も高く評価されているのみならず、工房の主催者として勝れた能力を発揮した。画技と統率力、組織力に抜群に優れた絵師であった。幕府の御用絵師となった狩野派は、日本絵画史上最大の画派へと成長していくが、その繁栄は二代目元信なくして語れない。狩野派の台頭を支えた要因の大きなものに、「画体」(がたい)の確立がある。従来の漢画系の絵師たちは、中国名家による手本に倣った「筆様」(ひつよう)を巧みに使い分け、注文に応えた。元信はそれらの「筆様」を整理・発展させ真・行・草(しん、ぎょう、そう)の三種の「画体」を生み出した。その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な制作活動を可能にした。襖や屏風などの制作時には弟子たちが元信の手足となって動き、質の高い大画面を作成することに成功した。すなわち、オルガナイザーとしても、素晴らしい能力を発揮したのである。また父・正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師であったが、元信はさらにレパトリーを広げ、日本の伝統的なやまと絵の分野にも乗りだした。濃彩の絵巻や、金屏風の伝統を引き継ぐ金碧画(きんぺきが)など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、やまと絵の画題にも積極的に挑戦し、特に扇絵制作は、工房を維持する上で、重要な仕事となった。このように和漢の分野で力を発揮し、元信工房は多様なパトロンを獲得していった。なお、本稿では、元信の作品を中心に開設する。図録には、初代正信、中国画人の優品が多数紹介されているが、極力、元信の作品の作品を中心とする。

重要文化財 四季花鳥図 狩野元信 (旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)

大徳寺大仙院方丈では、室内に相阿弥が担当した瀟湘八景図を描き、元信が旦那乃の間に「四季花鳥図」と衣鉢乃間に「禅宗祖師図」を担当した。制作は永正十年(1513)頃であり、現存する元信の作品としては最古である。この作品では、画題の骨組みとなる松や岩、滝などを水墨で描き、一方、画面の主役である美しい花や珍しい鳥の絵は、いずれも着色で、しかもほぼ実物大に描かれている。大仙院四季花鳥図の中には、ひとつの作品の中に和の要素と漢の要素が併存しているのである。これもまた、元信の「漢にして倭を兼ねる」(本朝画談)画風を表している。元信の代表作であり、かつ最古の作品例である。(なお、大仙院は2016年1月16日の「大徳寺と塔頭・大仙院」の中で「石庭の寺」として詳しく報告しているので、ご確認いただきたい)

重要文化財 禅宗祖師図(部分)狩野元信作六幅(旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)京都国立博物館

この障壁画は衣鉢(いはつ)乃間に設えられたもので、元信の真筆と認められている真体人物の代表作である。この部分は5.六祖渡航、6.徳山托鉢、の場面である。すなわち5、五祖・弘忍(ぐにん)が六祖・慧能(えのう)を送る場面、6.まだ食事の合図が無い内に、鉢を持って出てきた徳山宣鑑(とくざんせんがん)禅師を見て、弟子の雪峯義存(せっぽうぎぞん)が声をかけ、徳山は戻るが、後にその真意を悟る話が表されている。巨岩や土埞、樹木、橋などの山水景物の描き出す力強い線や、モチーフを重層的に組み合わせる構築的な構図、人物の表情を的確に捉える筆さばきなど、いずれも出色の出来栄えである。

浄瓶踢倒図(じょうへいてきとうず)狩野元信絹本墨色一福室町時代(16世紀)

京都市指定有形文化財に指定されている唐時代の人物画であり、無款であるが、元信真筆とされる行体人物画である。この主題は、唐時代の高僧・百丈懐海と弟子の司馬頭陀が、湖南にある潙山に住山せしめる者を弟子からひとり選ぶことになり、善覚首座と霊祐典座の二人が候補となった。百丈は浄瓶を示し、「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」という公案を与えたところ、霊祐は瓶を蹴倒して立ち去った。その結果、霊祐が選ばれたという。本図では向かって右が霊祐、左の岩座に坐す老僧が百丈、袈裟を着ていない奥の人物が司馬頭陀、手前が善覚であろう。元信は同じ画題を「禅宗祖師図」でも取り上げているが、それぞれの表情は本作の方が豊かである。

本湍図(ほんたんず)「元信」印 紙本淡彩一福室町時代(16世紀)大和文華館

「本湍図」は典型的な元信様式の真体山水図で、秋元公爵家から原三渓の手に渡った名品であり、一本の掛軸となっている。画面左下に「元信」の朱文壺形印があるが、掛軸に改装時に捺されたものであろう。岩の細かい皺法や濃い青を基調とする彩色から、元信本人ではなく、有力な弟子の作とする指摘があるが、力強い流水表現など、作者の腕の確かさがうかがえる。

重要文化財 瀟湘八景図 狩野元信筆 紙本墨画 四幅 室町時代(16世紀)東海庵

元信による行体山水図のなかで、最も高く評価されている作品である。瀟湘八景とは中国・湖南省で瀟水と湘水という二つの川が合流し、洞庭湖にそそぐ景勝地を八つの景観として描く画題を言う。本作では一福に二景ずつ表されている。このような描写はともに室町幕府に仕える相阿弥から、大仙院での共同制作を通じて学んだものと言われているが、元信はモチーフや構図をより明確にし、判り易い画面に仕上げている。各福の右下に捺される「元信」朱文津語形印は基準印の一つである。

群雁図屏風 「元信」印 紙本墨色 六曲一双 室町時代(16世紀)サントリー美術館

松が枝を指し伸ばす水辺に七羽の雁が群れて身を寄せている。左方を眺める雁の視線の先には燕が飛んでいる。元は六曲一双の右隻に当たり、「花鳥図屏風下絵」の四双目の下絵に類例を見出せる。画面の右端下方には「元信」朱文壺形印が捺されている。筆写については諸説あるが、元信自身の可能性が高いと思われる。松の針葉や枝振りなど細部の筆致から見ても、やや工房的性格も認められる。

重要文化財 酒伝童子 「元信」印 紙本着色一福 室町時代(16世紀)サントリー美術館

源頼光が家来の四天王である綱・侯時・末武・及び藤原保昌らを引き連れ、八幡・住吉・熊野の緒神の加護を得て、近江国伊吹山に住む鬼神・酒伝童子を退治する物語を描く。この絵巻は小田原北条氏の第二代・氏綱(1487~1541)の発注によるもので(異説がある)、絵は狩野元信、奥額は三条実隆が担当しており、当時の京都でも第一級の文化人たちが集結している。絵に関しては、場面によって描写の精粗に差があるため、最も優れた出来栄えを示す第一巻は元信、第二・第三は有力な弟子が中心になって制作に当たったとする説が有力である。第三巻(写真)は、鬼が泥酔し、本来の鬼の姿に戻った童子の寝所に討ち入り、見事にその首を刎ね、退治するクライマックスである。童子は首を切られてなお毒気を吐き掛け、頼光に噛みつくが、氏神から授かった帽子甲の力で無事であったという。絵からは土佐派を始めとするやまと絵系絵師の絵巻から学んだ様子が見えて取れる。狩野派は、やまと絵の絵巻物まで、注文を取るようになったのである。

月次(つきなみ)風俗図扇面流し屏風「元信」印紙本金地着色室町時代(16世紀)京都・光願寺

川面を背景に、まるで扇流しのように散らされた二十四面の扇面は、京名所や祭礼、年中行事を表す。画題は正月の左義長(さぎちょう)から、六月の祇園山鉾巡行まで、一年のうちの上期のものに限られる。(右側)現状は六曲一双のみ伝わるが、おそらく当初は、下期のもう一隻とあわせて月次風俗を描いた一双屏風であったと考えられる。実際に扇として使用された折り目の残る各扇面には、元信の基準印の一つ「元信」朱文壺形印が捺されており、永承13年(1516)から天文17年(1548)頃に、元信工房で制作されたことが確実な扇として貴重である。元来、扇絵は主としてやまと絵系や町絵師系によって生産されていた。しかし元信は、新しい顧客獲得を見込んで、扇絵制作に積極的に乗り出した。扇絵を新たに求め始めたのは、京都町衆であろう。なお、この屏風は、私は江戸時代に、現在の屏風の形にされたものだと考えている。

白衣観音像 狩野元信  紙本着色 一福 室町時代(16世紀)ボストン美術館

この白衣観音像を見た時に、私はこの絵は一度見たことがると思いだした。帰って図録集を調べたら1983年の「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」の図録に掲載されていた。34年前に一度見た白衣観音像を、思い出した勘には驚いたが、名品中の名品である。忘れる訳がない。元信の確実な作品である。全体を墨隈して幽遂な崖下の空間に、二重の光背を負い禅定印(ぜんじょういん)を結んで結跏賦座(けっかふざ)した白衣観音を描く。胡粉塗の白衣に墨の衣文線、頭の飾り、胸の瓔珞(ようらく)には金泥、頭髪は白群色であらわした正面向きの像容である。背景の懸崖や岩の皺、波頭に見られる手堅い技法を本格的に取り入れている。私は、この仏像の神々しさに、自ずから頭が下がった。元信による仏画の最高傑作である。仏画は本来、仏画の専門職人が制作するものであったが、狩野派は、確実に仏画の部門で最高傑作を造りだしている。この神々しさは、34年経っても忘れることが出来ない傑作である。なお、本作は阿波の蜂須賀家の旧蔵品で、山中吉兵衛(後の山中商会)からフェノロサが購入し、愛蔵していた。

重要文化財 神馬図額 板字着色 2面 室町時代(16世紀)兵庫・加茂神社

正信自身の署名と花押の捺された大型絵馬は、室町時代の絵馬の中でも、有数の名品である。瀬戸内海の重要港湾として栄えた室津の鴨神社に伝来し、奉納者は弥延長門守乃家の名が記される。播磨守護であった赤松政村の被官であった。制作年代は明らかでないが、絵馬各所に天文8年(1539)など16世紀中頃の年紀を伴う落書きが複数ある。従って、天文初頭、1530年代の元信画と見て間違いない。資本を蓄積した商人や有力大名のみならず、在地領主層にも狩野派の信奉者が浸透したことを示している。いわばパトロン層の拡大である。

 

狩野派の元祖は、狩野正信(1434~1530)であり、最初に記録に現れるのが寛正4年(1463)、30歳の時である。相国寺の僧・季瓊真蘂(きけいしんずいー1401~1530)が私費を投じ、自坊である雲頂院の将堂に観音及び十六観音の壁画を画かせたのが「性玄」こと正信であった。この季瓊は陰涼職(いんりょうしき)という地位にあり、将軍が参禅や法を聴くために相国寺内に設けた陰涼軒を預かっていた。正信が室町幕府の御用絵師に上り詰めた背景には、足利将軍と密接な関係があった季瓊の推挙があったと推察される。正信は、次に文明15年(1483)、50歳の時、将軍の座を譲った足利義正(1436~90)が隠居所として造営した東山御所、いわゆる東山殿において、日常生活の場となる常御所の障子絵を担当している。その後、延徳2年(1490)には義政の葬儀のための法体像を描いている。正信は更に第九代将軍・義尚(1465~89)関係の画事も請け負っており、延徳元年(1489)には義尚の病気平癒の祈願に用いるため、弥勒像の制作を行っている。正信は義尚の母である日野富子(1440~96)の葬儀用肖像画も描いており、将軍家と密接な関係を作った。本来、仏絵師たちの専門領域であった仏画や、やまと絵系絵師たちが手掛けていた肖像画の領域までレパトリーを拡張していた。二代目の狩野正信は父・正信の遺産を受け継ぎ、狩野派の画風や、その組織を確立していく。正信については、本文で詳しく書いたが、正信の狩野派にもたらした成果をまとめてみると、次のようになるだろう。1.狩野永納の「本朝画伝」には、「狩野派は元信の代に「天下画工の長(おさ)となったと記されている。2.正信は筆様では無く、真体、行体、草体の三種の「画体」を創り出し、元信様式としてマニュアル化することで、一定の品質を保った作品群を生み出す土壌を創った。3.一方で、やまと絵の分野においても特筆すべき活動を見せている。狩野派は漢画を専門とする絵師集団と理解されてきたが、元信の時代になり、やまと絵の領域にも進出し、和漢両方の画題や手法を使いこなせることが狩野派の宣伝文句となり、レパトリーを広げ、大勢の需要者を造りだした。「本朝画伝」では「狩野派は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」と記されている。元信の孫・永徳や、永徳の孫・探幽と狩野派の稀代の大天才が相次いで登場したことにより、「狩野派ブランド」に大きな信頼が寄せられるようになった。正に、二代目正信が、歴代狩野派の中で最も優れた画力を持ち、かつ組織力、経営力を持つ稀有の能力を発揮したことが、狩野派が400年に亘り、画壇の頂点に君臨し続けた、大きな要因であった。

 

(本稿は、図録「狩野源信  天下を納めた絵師  2017年」、図録「ボストン美術館 日本絵画名品展 1983年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

春日大社   国宝殿の神宝

春日大社には、かねて宝物殿があったが、この度、第60回造替式を紀念して、新しく「春日大社 国宝殿」が新設され、多くの観光客が参拝に集まっていた。私も昨年(2016年)11月に新しく生まれ変わった「国宝殿」を訪ねた。この項では、「春日大社 千年の至宝」で伝えなかった武器、兜類を解説することにした。

春日大社   国宝殿の写真                                                   展示場の外観                入口

新しい国宝殿は写真に見る通り、入口と展示場が廊下で繋がっている。入口で入場券を渡すと、次の部屋は”真っ暗”な部屋であり、恐ろしくて歩けない。壁伝いに、少しずつ歩くと、やがて次の部屋へ移る。此の部屋には春日灯籠が数個懸っており、多少明るくなる。この部屋を過ぎると、鼉太鼓(だだいこ)(複製)が2個並ぶ部屋へ移る。

鼉太鼓(だだいこ)の外観

だ太鼓の概容を、外部から撮影したものである。だ太鼓は舞楽に用いる楽器であり、左右で一対となる。宮廷芸能である雅楽は平安中期に左右区別が生じ、左方を唐楽系、右方を高句麗系に分類して用いる。春日大社には源頼朝による寄進という伝承のあるだ太鼓が一対あり、この写真は昭和51年(1976)の複製である。

国宝  本宮御料古神宝類  黒漆平文装剣     平安時代(12世紀)

飾剣は高位の公家が佩用する刀装で、朝廷の儀式に参列する際、正装姿で見に着けた最も格式の高い太刀である。原型は奈良時代に舶載された唐太刀(からたち)に求められ、平安時代になると、刀剣が焼刃のない鉄身となるなどして早くから儀仗化した。この太刀は、柄(つか)を白鮫皮包として黒漆塗りの鞘に宝相華とおぼしき文様を平文で表した痕跡が残る。

国宝  菱作打刀                南北朝時代(14世紀)

付属の箱に「奉納 春日御社剣一腰(菱作打刀)右為財奉納如件 至徳2年5月22日(花押)」とある。至徳2年(1385)に藤原北家勧修寺(かしゅうじ)流の支流である葉室長宗が、この太刀を奉納したことがわかる。こうした奉納経緯がわかる刀剣は極めて珍しい。更に当時の刀装名称が確実に把握できる点も稀有である。

国宝 赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)(梅鶯飾)鎌倉時代(13世紀)

大鎧は、馬に跨って矢を射ることを目的に生まれた甲兜であり、胴の右脇で引き合わせ、広く開いた隙間を脇盾でふさぎ、大腿部を防御するため前後左右に草摺をつける。さらに、頭に星兜、胸上に栴檀の板と鳩尾の板、両肩に袖を加えるのが基本である。この大鎧は、本殿に隣接する宝蔵にあったことが知られ、同社のなかでも特に大切にされていたことが知られる。

国宝赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)(竹虎雀飾)鎌倉時代(13~14世紀)

この大鎧は、わが国の甲兜のなかでも、その華やかさにおいては屈指の作例として著名である。前作等と共に宝蔵に収められていたことが知られている。全体を緋色と呼ばれる茜(あかね)で染めた鮮烈な赤糸で威し、随所に繊細な彫金を施した金銅の金物をつけ、その色彩的なコントラストは目にもまばゆい。

国宝  籠手(こて)           鎌倉時代(13世紀)

籠手(こて)は、鎌倉時代においては弓を射るのに適した「片籠手」と呼ばれる左手と腕を守るものが一般的で、両側を守る「緒籠手」(もろこて)は討物合戦が普及した南北朝時代にから主流となった。この籠手は、諸籠手の最初期の作例とされ、かっては興福寺勧修坊に伝来し、源義経が兄・頼朝に追われた際、この籠手を同坊に残していった伝承から「義経籠手」とも呼ばれた。

 

ここで紹介した武器・武具は、単なる武器。武具ではなく、本質的には制作当時の最高の技術と高度な造形感覚を結集させて誂えられた「特別な宝」であり、決して武具ではない。ここに示した刀剣や甲兜は、見事な装飾に飾られ、これらの刀剣や甲兜が、単なる武器・武具ではなく、神へ奉納する最高の品であることを物語るのである。

 

(本稿は、図録「春日大社 神々の秘宝」、図録「春日大社 千年の至宝 2017年」を参照した)