畠山記念館  近代数寄者の交遊録

近代日本経済を支えた実業家の多くが茶の湯を第一の趣味にしていた数寄者(すきしゃ)と呼ばれた。その筆頭にあげられるのが藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。彼らは、旧大名家の蔵や、神仏分離令によって逼迫した寺から流出した、膨大な古美術の蒐集に向かい、そののちに蒐集品を活かすことのできる茶の湯へ踏み入れたのである。特に益田孝は、維新後、世界初の総合商社となる三井物産を創業して三井財閥の大成に貢献した財界人であった。畠山記念館の創設者・畠山一清(即翁・1881~1971)は鈍翁に見込まれて数寄者への道へと導かれた。鈍翁との年齢差は34歳あり、二人の交友は、鈍翁が亡くなる直前の数年間であったが、密度の濃いものであった。なかでも深い友情を伝えるのが、「柿の蔕茶碗」である。今年は、鈍翁80年忌に当たることから、即翁と鈍翁を結ぶ一つの線となった「柿の蔕茶碗」を披露する茶会を切り口に、表記の美術展が開催されることになった。まず、昭和12年(1937)11月29日に茶会が開催された。これは即翁が新茶亭をまず鈍翁に披露し、京都毘沙門堂旧蔵の「柿の蔕茶碗」でもてなした茶会の様子から説明したい。

秋色に染まる畠山記念館の入口

畠山記念館の入口から撮った写真である。紅葉に染まり、秋色を帯びた畠山記念館の入口正面を写したものである。畠山即翁の蒐集品(主として茶道具、能面、能衣装等)を展示する美術館であり、私は、少なくとも年1回は訪れている。閑静な美術館であり、私のお気に入りの美術館である。今年は11月24日(金)の午後3時頃に訪れている。

竹自在   千李休作             桃山時代

在辛斎宛ての李休添状が付属している。在辛斎については詳らかでないが、修理の斡旋状のようである。添状が道具に対して大きな価値を有することが示されている。これから記す茶道具は、昭和12年(1937)11月29日に行われた茶会に使用された道具を紹介するもので、客は鈍翁夫妻、横井半三郎(夜雨・1883~1945)の3名であり、「柿の蔕茶碗」を、鈍翁に招介することが目的であった。

瓢花入(ひさごはないれ)銘木菟(みみずく)  千道安作  桃山時代

瓢箪や夕顔の実で作った花入れは、竹や籠花入と比肩する侘びた風情が備わっているものである。上方に花窓を大きく穿ち、頭も目も大きな木菟(みみずく)になぞらえて銘とした本作は、愛らしくふくよかな形と、古色を帯びた肌が茶味を感じさせる。姫路藩酒井家に伝来したものである。千道安は利休の長男である。

重要文化財 志野水指 銘古岸(こがん)       桃山時代

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉薬・絵文様において優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとしたふくらみに対して頸のしばりは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。内箱の蓋裏には、表千家九代了々斎による「絵瀬戸水さし 古岸ト号」の箱書きがある。

重要文化財 柿の蔕(へた)茶碗  銘 毘沙門堂    朝鮮時代

柿の蔕とは褐色の素地にごく薄い透明釉を掛けて、あたかも焼締めのような味わいを持たせた茶碗を言い、伏せておいた形が柿の帯に似ることに因む名勝である。京都山科の毘沙門堂旧蔵であったことから、この銘がある。藤田美術館所蔵の「大津」と共に、柿の蔕の代表作として並び称されている銘碗である。実はこの茶碗は隠居の身であった鈍翁が購入を断念した品で、当日の道具組には、実業においても茶においても崇敬した大茶人、鈍翁に対する心づくしが示されている。ここで並べた道具類は、当日の茶会に用いられた茶道具の一部である。

毘沙門堂狂歌  益田鈍翁筆     昭和13年

この書には、次のようなことが書かれている。「くやしいといふもおもしろの世や 九十二歳鈍翁」、「毘沙門堂」、「柿の蔕ひとつか老いのおもひ出に」     柿の蔕茶碗を手に入れることができなかったくやしさを狂歌にしたものである。相伴の横井夜雨に与えたものであるが、のちに畠山即翁に贈られた。鈍翁と即翁の交情を物語る一幅である。この先は、鈍翁が一代で築いた膨大なコレクションの内、即翁が入手した名品の一部を紹介する。

絵高麗梅茶碗(えこうらいうめちゃわん)          明時代

絵高麗とは「絵付けのある朝鮮産の茶碗」と解するが、現在は中国北方系磁州窯の製品とする説が有力である。内外面に漬け掛けされた白化粧の上、外側面に鉄絵で施文されているものを指す。なかでも梅鉢茶碗には鉄絵あるいは白土で七曜文が点彩され、それを梅花に見立ててこの名がついている。この茶碗は後者、帯状に施された鉄釉上に白土による七曜文が五箇所あり、灰青色の帯に梅鉢文の鮮やかな対比が見所となっている。加賀前田藩の家臣本田家に伝わった茶碗だが、梅花文は前田家の家紋にも通じ、因縁を窺わせる。その後益田鈍翁の所蔵となり、内箱・外箱ともに鈍翁による「絵高麗 茶碗 梅鉢」・「加州本田家伝来」の箱書きを持つ。

御所丸茶碗  銘堅田               李朝時代(17世紀)

御所丸茶碗は、朝鮮との交易船「御所丸」で将来されたため、この名があると言われる。古田織部の好みで造られたとも、島津義弘が運んだとも言われるが、確証はない。黒釉と白釉が掛け分けられたものと、白釉のみが掛けられたものがあり、俗に前者を黒刷毛、後者を白刷毛と呼んでいる。この茶碗は、全体が楕円形に歪んだ沓形で、作為の強い黒織部の沓形茶碗に近似する。口縁から胴にかけ黒釉の刷毛目が荒々しく廻り、白釉とのコントラストを見せている。伝来・小堀遠州・益田鈍翁

共筒茶杓  狩野探幽作               江戸時代(17世紀)

櫂先は幅広く、ゆったりとしてしかもきりっと立ち、中節から手許まで追取り一面に皮が削られている。探幽は、高野山金剛峰寺金堂障壁画の潤筆料として弘法大師筆「座右銘」十六字一巻を譲られたが、のちにこの巻物は鈍翁の入手するところとなり、明治29年(1896)品川御殿の自邸で披露され、この茶会が大師会の始まりであった。(後に、この大師会の会長は、畠山即翁が承継している)探幽は大師流の書もよくするなど弘法大師崇敬者であったことから、鈍翁がこの茶杓を所蔵することにも因縁が深い。

志野撫四方酒野呑(しのなでよほうさけのみ)      桃山時代(17世紀)

この酒呑は、大正の初め、鈍翁が当時としては破格の1万円という高値で買い求め、終生愛玩し、よほどの客でなければ用いなかったという。二重の箱の両方に鈍翁の書付が記されているが、中でも「愛什」の言葉に鈍翁の想いが込められている。酒呑の逸品であり、実に愛らしい。鈍翁の気持ちが判る。

 

近代数寄者と呼ばれる人たちは、文明開化の時期を過ぎ、自国のアイデンティを身に付けることの必要性に迫られた文化人達で、内務大臣の井上薫(世外)、藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、東武鉄道の根津嘉一郎(得庵)、「電力の鬼」松永安左衛門(耳庵)、東急電鉄の後藤啓太(古経庵)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。明治、大正、昭和の政治、経済を動かした人々であり、茶道に引き込まれていったのである。日本美術の海外流出を防いだ意義は大きい。畠山一清(即翁)は、近代数寄者の最後を飾る人物であったと言えよう。

 

(本稿は、図録「近代数寄者の交遊録  2017年」、図録「四衆愛玩 壱 1909年)、図録「四衆愛玩 畠山即応の美の世界 2011年」、千宗屋「茶 利休と今をつなぐ」を参照しした)

北斎とジャポニズム展  北斎と風景画(2)

北斎漫画について、その成り立ちを説明しておきたい。漫画とあるので、現在のコミックを想想される方も多いだろうが、「北斎漫画」は絵手本の意味である。北斎は文化前・中期の読本挿絵での活躍もあって、門人の数は増える一方であった。しかし、門人のみを対象にした絵手本を出版することは困難であったのであろう。「北斎漫画」初編が出版されたのは文化11年(1814)で、北斎没後の明治11年(1882)までに15編が刊行されている。実に68年の歳月を要している。如何に、「北斎漫画」が人気を得たかが分かるであろう。なお「北斎漫画」は、現在も出版されており、15編の分冊もあるし、1冊にまとめたものもある。外国系ホテルへいくと、この1冊の「北斎漫画」が1室に1冊ずつ用意されていることがある。私が見た「北斎漫画」全一冊は6千円であった。因みに、版画で15巻にして36万円という高額品も出版されている。次に「富嶽三十六景」の出版は天保元年(1830)に広告が出ている。そして刊行が始まるのは、同じ年からである。宣伝文は様々な場所から望む富士山を描き別けたことを売り物にしており、富士というモチーフで統一した名所絵揃物であると謳っている。「富嶽三十六景の成功は、浮世絵にいろんな効果をもたらした。一つは名所絵におけるベロ藍(プルシアン・ブルー)と呼ばれた舶来の化学顔料の効果を証明したことである。もう一つは「異例の売れ行き」を示したことである。三つ目は揃物として、次世代に繋がったことである。西洋の受け入れ前に、日本の浮世絵の世界でも「富嶽三十六景」の果たした役割は大きい。

「北斎漫画」七編 葛飾北斎作  文化14年(1817)江戸時代(19世紀)

「阿波の鳴門」の渦巻を描いた北斎漫画である。モネは、この北斎漫画七編と、「富嶽三十六景」甲州石班沢の両者を保有していた。

ベリールの嵐  クロード・モネ作   1886年

モネが1886年にブルターニュ半島の付け根のベリールに制作旅行に行って高所から海を見下ろしたとき、「北斎漫画」七編の「阿波の鳴門」の構図が頭に浮かんだことであろう。画面いっぱいに荒れる海と岩だけが占めるこの構図は、波のエネルギーとそれに抗うかのような岩の存在感を表している点で、両者に深く共感している。

富嶽三十六景甲州石班沢天保元~4年頃(1830~33)江戸時代(19世紀)

甲州石班沢はまずベロ絵のみで色づけしている浮世絵であり、そのことでまず有名である。更に、漁師の頭を頂点に岩と投げ網のつなが二等辺三角形をかたちづくり、かつ遠景の富士と相似形をなす図で、幾何学的な浮世絵としても有名である。

ベリールの海  クロード・モネ作   1890~91年

水平線を描いた素描「ベリールの海」は、海に突き出た岩の形に関心を払っているという点で、「富嶽三十六景 甲州石班沢」の構図により近い。

おしをくりはとうつうせんの図 葛飾北斎作 文化初期1804~07)頃

尖ったオック岬、グランカン  ジョルジュ・スーラー作 1885年

点描で画面を構成する点描派(新印象派ーシニャニック、クロスなど)でも、浮世絵に対する関心は高く、繰り返し語られている。特に、この「尖った岬、グランカン」と「おしをくりはとうせんの図」の構図の類似は驚くべきものである。風変わりな波の形とそっくりの尖った岩、共通する水平線と、点のように表されれる空に舞う海鳥など。北斎の浮世絵はたとえば1833年のビングの日本美術展などで広く紹介されていた。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏  葛飾北斎作 天保元~4年頃(1830~33)

北斎の最も有名な作品で、むしろ日本の浮世絵の代表作であろう。従って解説の必要はないだろう。西洋ではグレート・ウエーブの名で親しまれている。

交響曲「海」楽譜  クロード・ドビュッシー作  1905年

クローセルと親しい関係にあったドビュッシーは、この北斎の有名な浮世絵を所有し、「海」と題した交響曲の楽譜に図像を転用した。グレート・ウェーブは、画家のみならず、音楽家にも、インスピレーションを与えたのである。

波  カミーユ・クローデル作  1897~1903年

クローデルはダイナミックな大波を彫刻作品で実現した。水浴の主題が持つ牧歌的雰囲気は、ここで自然の雄大さを前に影をひそめている。抽象的な波の形は、幻想的な波の形となり、日本美術の流麗で装飾的な波の表現となっている。

 

「エッフェル塔三十六景」  アンリ・リヴィエール作  1888~1902年

北斎の「富嶽三十六景」をはじめとした名所絵は、同一のモチーフで繰り返し描き、シリーズとして展開させるアイデアを西洋にもたらした。これに触発されリヴィエールは、パリ市内の各所から眺めたエッフェル塔の諸相を季節の移ろいのなかに描きだし、リトグラフ集「エッフェル塔三十六景」に仕立てた。1889年のパリ万博に向け、塔の建設が開始された1888年に本作も着手され、1902年までに36点が完成、500部限定の冊子として出版された。この絵は「13番 バッシー河岸より」と題された絵である。

富嶽三十六景駿州片倉茶園ノ不二 葛飾北斎作天保元~4年頃(1830~33)

西洋において、「富嶽三十六景」や「富嶽百景」の連作を持った意味は大きかった。ひとつの山の姿を様々な時間や角度から描く北斎の連作への意識は、日本の美術に無関心を装ったセザンヌにも、強く働きかけたと考えられる。1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けたことは、北斎の影響だったろう。(図録の意見)

サント=ヴィクトール山 ポール・セザンヌ作  1886~87年

量塊として認識されている西洋の山の風景をセザンヌが、このような輪郭線でとらえる表現は生まれなかったとと思われるし、1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けることもなかっただろう。比較的早い時期の、この絵においては、両側の外側から挿し出してくる枝や、対角線を組み立てたような平野の表現が、「富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二」に良く似ている。

サント=ヴィクワール山とシャトー・ノワール ポール・セザンヌ作 1904~06年

サント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 1904~06年

いずれもセザンヌの最晩年の作である。この2作は、むしろ「富嶽百景」三編「武蔵野の不二」の抽象化された空間表現に近い.

 

日本の浮世絵が西洋美術に新風を吹き込んだジャポニズムは、古くから知られている。しかし、何故、北斎の作品が誰よりも多くインスピレーションを与えたのだろうか。私は、北斎の作品のバリエーションが豊富であったことだと思う。人物や植物、動物、風景など対称も多彩だし、版画から肉筆まで幅広い手法を自在にこなす技術である。特に、北斎には「北斎漫画」など絵手本的な作品が15編もあり、何でもありと言っても過言ではない。だから、盛んに参照、引用され、インスピレーションの泉になったのであろう。対象物への親密でユーモラスな視線、大胆な構図といった北斎作品の特質が、西洋の画家達の創作意欲を刺激したのであろう。

 

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム展特集」、図録「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展 2014年」、大久保純一「北斎」を参照した)

北斎とジャポニズム展  北斎と植物画、風景画(1)

鎖国の国、謎の国であった日本について西洋諸国に詳細な報告を残したのは、出島のオランダ商会員たちであったが、彼らは同時代の北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。なかでもシーボルトは、北斎に言及し、絵本から取った画像を1832年に刊行する「日本」に複製として掲載したのである。西洋では日本への関心が非常に高まった。そうした中、ルネサンス以来の美術の規範に閉塞感を感じていた西洋の芸術家たちが、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、そのエッセンスを消化しながら、自らの創作活動を展開した。この現象が、ジャポニズムである。特に、浮世絵師・葛飾北斎の存在感は圧倒的であった。人物から風景まで、森羅万象を大胆にかつユニークに描いた北斎は、参照される頻度も群を抜いていた。モネやゴッホの事例は、先の「華麗なるジャポニズム展」で、充分披露されたが、近年、世界的にジャポニズムの研究が進む中で、北斎の影響はイギリス、フランスに止まらず、広い地理範囲に、また絵画だけでなく、彫刻や工芸、グラフィック・デザインなど様々な分野にわたっていたことが明らかになった。今回は、北斎と植物、風景画の一部について記載することにした。西洋の絵画のジャンルのなかで植物は花瓶に活けられて描かれた。自然から切り離され、やがて枯れてゆく一時の華やぎを見せる花々には「死を忘れるな(メイント・メモリ)」というキリスト教のメッセージが託されていたのである。反対に、花鳥画をはじめとする日本美術では、花々は地上に根を張って空を仰、ときに風に吹かれ、ときに蝶がその周りを飛び交う蛙が葉の上で休む。こうした大きな自然の一片として植物を捉えたが、彼らが見た日本美術のなかには、北斎が描いた花々も含まれていたに違いない。また風景画も驚きをもって取り入れられた。

牡丹に蝶 葛飾北斎作 天保2~4年(1831~33)頃江戸時代(19世紀)

画面いっぱいに花を配する大胆なトリミングは、従来の日本の絵画のでも他を凌駕するものがある。風に逆らいながら飛ぶ蝶の姿形も見事である。

黄色いアイリス クロード・モネ作   1914~17年頃

花の絵と言えば西洋では静物画として描かれる習慣があった。その際、花は切り取られて花瓶に活けられたものである。日本で描かれる「花鳥画」は、型にはまった花の描写ではなく、自然の中に風が吹き蝶やトンボが飛び交う姿を描くものであった。クロード・モネの「黄色いアイリス」は、画家が自然に近づくことでクローズアップされ、画面の中央を堂々と占めている。モネの「黄色いアイリス」は、後のモネの「睡蓮」の連作を想定させることでも、重要な絵画であろうと思う。

「ばら」 フィンセント・ゴッホ作   1890年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、89年5月上旬には自ら療養院に入った。この「バラ」は療養院の荒れた庭のバラの茂みを描いたものだろう。淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は浮世絵やジーグフリード・ビングの「芸術の日本」の挿図など、日本美術の影響が見てとれる。

「北斎漫画」四編 葛飾北斎作 文化13年(1816) 江戸時代(19世紀)

日本美術になじみ深い雪景色図である。ナンシー派のガレやドーム兄弟の装飾品や、北欧の画家に影響を与えている。

冬  アクセリ・ガッレン=カツレラ作   1902年

北欧(ヘルシンキ)の画家たちが至近距離で描いた雪景色は、北斎の影響を強く受けている。この地ではいち早く日本美術を受容した。豊かな自然を描く伝統のあった北欧では、日本の自然表現も受け入れやすかっただろう。ここから先は、「北斎と風景画」に移る。

「富嶽百景」二編  葛飾北斎作 天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

「富嶽三十六景」は、知らない日本人はいないと言っても良い浮世絵の最高傑作である。しかし「三十六景」と言いながら、実は46図あることは、案外知られていない。それと同様に「富嶽三十六景」は有名であるが、この「富嶽百景」と呼ぶ連作があることも案外知られていない。「富嶽百景」は冊子形式3冊で、墨のみで描かれている。白黒の刷り本である。これも良く売れた本であるが、色彩が付いていないため、現在では知る人が少ない。太宰治が「富嶽百景」の中で次のように述べている。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度、北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル塔のような富士さえ描いている」と書いている。この「富嶽百景」の「竹林の不二図」は、面白い構図である。

木の間越しの春  クロード・モネ作   1878年

風景画を描く時に、西洋ではルネサンス以降のなかでは、まず画面の中心に消失点を想定して、そこに画面両側からの直線が交わるように構図を組み立てることが必要とされてきた。印象派はこのような規則に縛られずに、自らの体験を様々に表現したが、このモネの作品のような例はさらに斬新であった。この「木の間越し」の風景は、北斎の「富嶽百景」のなかの「竹林の不二」と似通っている。

「ボルディゲラ」 クロード・モネ作  1884年

この作品の構図も前出の「木の間越の春」同様、北斎の「富嶽百景」の「竹林の不二図」に似通っている。影響を受けたのであろう。

「富嶽三十六景 東海道保土ヶ谷」葛飾北斎作天保元~4年(1830~33)頃

この松並木越しに見る富士山の表現は、その赤い幹と葉のリズムが、行き交う人々とともに、活気のある画面を作り出している。

ヴァランジュヴィルの風景 クロード・モネ作  1882年

モネはこの北斎の東海道保土ヶ谷図の構図を模倣するのではなく、常に自らの体験をしようとするのである。本作については、モネは海を見晴らす道沿いにリズミカルでひょろっとした木々の並木を発見したのである。

陽を浴びるポプラ並木  クロード・モネ作  1891年

1891年の初夏から秋にかけて、モネが取り組んだのは、ジヴァルニー近郊のエプト川岸辺の「ポプラ並木」の連作である。この連作では、季節や時刻、天候の違いにより光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作も含め「ポプラ並木」の連作は、翌1892年春、パリの画廊で展示され、「積み藁」に続いて、大きな成功をモネにもたらした。この作品も北斎の影響があるような気がする。

「富嶽三十六景 駿州江尻」 葛飾北斎作  天保元~4年(1830~33)頃

甲州三島超と比較すると、軽やかな木が特徴であり、強風にうねりながら揺れる様が描かれている。北斎は、文政末から天保前期にかけて、まるでこの間にため込んだ画想をはき出すように、数多くの錦絵揃物を生み出している。「富嶽三十六景」など、今日の北斎の評価を不動ににしている名所絵揃物の多くはこの時期に描かれている。また、北斎の活躍によって浮世絵における名所絵がジャンルとして確立された。

「アンティーブ岬」 クロード・モネ作  1888年

モネが描いたこの作品の構図に、北斎の「富嶽三十六景 駿州江尻」の構図が、大きな影響を与えたものと思われる。

 

ジャポニズムとは、西洋の美術家たちが自分の芸術を発展させるために、日本美術の表現方法を取り入れた現象で、19世紀後半に生まれたものである。産業革命やフランス革命を経た当時の西洋は、社会が著しく変化していた。その中で、モネやドガといった印象派を中心に、画家たちもルネサンス以降の遠近法から脱脚した新しい表現を模索していたのである。装飾的な平面の構成や、絵が物を途中で断ち切るなどの大胆な構図を特徴とする浮世絵は印象派が目指す方向と一致していたと言える。画家たちは衝撃を受けるとともに、浮世絵の要素を自分の作品にどんどん取り込んでいった。変革を求めていた西洋の美術界にとって、浮世絵は大いなる触媒になったのである。当時、最も影響を与えた絵師が葛飾北斎だったのである。理由として「群を抜く画力や構図の妙に加え、圧倒的な作品の数と、花鳥画や名所絵、美人画など何でもこなす幅の広さがあったから」と、三浦篤・東大教授は説明する。

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム特集」、日経新聞「2017年11月18日 文化」、図録「ボストン美術館  2014年」、日経大人のOFF「2017年8月号」、大久保純一「北斎」を参照した)