2017年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた、「黒川孝雄の美」10点を選ぶ季節が来た。昨年(2016年)から始めたこの年間の振り返りは、お蔭様で多くの読者を集めることが出来た。「黒川孝雄の美」を書くために、私は多大な時間を費やしている。「何のために?」と問われると正解は無いが、敢えて言えば、私の美術遍歴を、このような形でまとめておきたいからである。実は、この「美」を書き始めて5年になるが、何故書くか問われると返答に窮することになる。実は、この文章を書かないと、美術展の内容が殆ど記憶に残らないことが、この「美」を書き始めて、はっきり判った。折角の時間を使って、見学に行く美術展が、数年経つと殆ど記憶に残らないことは、如何にも残念である。そんなことから、この「美」を書き始めた。直接のきっかけは、名古屋大学経済学部S31年卒の喜寿記念文書の「幾山河」に出筆を勧められ、「私の大和古寺順礼の思い出」を書いたことが出発点であり、それまでは、まさか美術記事を私が書くことは夢にも思っていなかった。               古寺巡例ならば、学生時代から60年以上の経歴があり、多分書く資格はあると思うが、一般美術展を記事にする等、思いもしないことであった。決して日本、西洋の美術史に詳しい訳ではなく、ただ好きだから、美術展を見学に行くだけのことであった。幸い、30年以前から、展覧会の図録を求め、一応読んで、保管してあった。私の書斎に入った人は一様に驚く。それは過去の美術展の図録が数百冊が並んでいるからで、「貴方にはこんな趣味があったのですか?」等から話題が弾むことが間々あった。正に見かけによらない趣味と見えたのであろう。しかし、過去30年間の図録をすべて保管している人もいないであろう。美術を専門にする美術史の先生や、記事を書く学芸員ならば、当然かも知れないが、アマチュアの精々趣味程度の興味しか持たない人が、何百冊という図録を保管していることは、異様だろう。私の書斎は、ぐるりと本箱に美術展の図録が取り囲んでおり、正に異様にである。                                   さて、今年は、本稿を加えて69稿となり、その記事を書くためには、美術展を見に行く時間、図録を詠みこむ時間、過去の図録や参考図書を読む時間、それから原稿を書く時間、ブログにまとめる時間等をまとめれば、多分、一つの記事を書くために4日程度の時間を要する計算になる。年間トータルすれば、飛んでもない時間を費やしているわけだが、最近は仕事も少なくなり、この「美」のブログを書くために生きているいるようなものである。思えば不思議なことを始めたものである。  さて、今年は68回の記事があり、しかも収獲も多い年であり、10点に絞るのに1日掛った。思い切って10点にしたが、非常に残念な記事も多い。今年は、何故か、「茶の湯」関係の展覧会が多かったが、ここを「楽家一子相伝の芸術」に絞り込んだ。また、浮世絵によるジャポニズムに関する優れた展覧会が、今年は多かった。特に「北斎とジャポニズム展」は優秀であったが、どうしてもゴッホ展に惹かれ、ゴッホに絞って、何とか10点にまとめた。

第1位 「入江一子百彩記念シルクロードに魅せられて」  2017年2月5日四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ」1992年100号第60回記念独立展

入江さんという作家の名前は全く知らなかった。たまたま、上野の森美術館の前を通ったら、この展覧会が開催されており、「シルクロード」に魅せられて思いがけず入館した。(予定しない入館は、今年、この1回のみであった)堂々たる100号の絵が並んでおり、とても百歳の人が描ける絵では無い。実に素晴らしい入江美術に魅入られて、その後、「入江一子シルクロード記念館」(杉並区)まで、訪ねる結果となった。この「青いケシ」の傑作は立川中央病院の受付に掛っている。「中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニャン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。(中略)日隆(りーろん)の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子供が世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の歌」を歌いながら、籠の中に花を採って歩いています。翌朝にはクーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのが見え始めました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく青いケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ネースキャンプに向かって下りて行きました。(色彩自由より)

第2位 岩佐又兵衛 重文 山中常盤物語絵巻2017年4月7日 MOA美術館第四巻 侍従は常盤を抱きさめざめと泣く

盗賊たちは常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。

第3位 没後90年 萬鐡五郎展 2017年8月7日葉山美術館(神奈川県立)重文 裸体美人  1912年(明治45) 東京国立近代美術館

美術学校卒業制作の一つが、この「裸体美人」であり、主席で入学した萬の卒業成績は19人中16位であったそうである。外光派を引っ提げて、美術学校教綬となった黒田清輝にとっては、到底見逃せない作品だったのであろう。16位という卒業成績は、この「裸体美人」という、日本における後期印象派を受容した最初の作品を見逃がすことのできない作品だったのであろうと推察する。萬は後に、この作品について「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と述べているように、画面からは炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホの、そして剛直な筆致で単純化された裸婦の表現にマチスを見出すことは容易だろう。(後略)

第4位 長府藩毛利邸と公山寺         2017年9月8日     国宝  公山寺  仏殿   鎌倉時代(嘉暦2年ー1327年)

長府の毛利邸を辞する時、公山寺というお寺がすぐ上にあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って公山寺(こうざんじ)を何の予備知識も無く、訪問した。公山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで、鎌倉円覚寺の舎利殿と同様式で、鎌倉時代の仏教建築の代表的な建物である。なお、時間的には午後4時頃であったとため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。資金を提供したのは、大内氏と思うが、果たして大内氏が14世紀の鎌倉時代に大をなしていたかが、確認が取れない。私の調べた範囲では、資金提供を特定する記事は無かった。専門家以外は殆ど知られない国宝では無かろうか?

第5位  運慶展                  2017年10月8日 国宝  無着菩薩立像 世親(ぜしん)菩薩立像 運慶作 建暦2年(1212)

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼打ちによって焼失した。復興は遅れ、正冶2年(1200)頃からようやく始動した。無着、世親(ぜしん)菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親菩薩立像は2度拝観している。一度は興福寺国宝展(1997)である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵できる傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルに日本人の姿を使った。無着、世親像は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとしている。ここに総監督としての運慶の意図が、十分ぬうかがえる。私は、運慶の作品の中で、最高の傑作と評価したい。

第6位 狩野元信 天下を納めた絵師    2017年11月8日      重文 四季花鳥図(旧大仙院方丈障壁画)     室町時代(16世紀)

大徳寺大仙院方丈では、室中に相阿弥が瀟湘八景図を描き、元信が旦那の間に「四季花鳥図」と衣鉢之間に「禅宗祖師図」を担当した。制作は永正5年(1513)頃であり、現存する元信の作では最古である。この作品では、画題の骨組みとなる松や岩、滝などを水墨で描き、一方、画面の主役である美しい花や珍しい鳥の絵は、いずれも着色で、しかもほぼ実物大に描かれている。大仙院四季花鳥図の中には、一つの作品の中に和の要素と漢の要素が併存している。これもまた、元信の「漢にして倭を兼ねる」(本朝画談)画風を表している。元信の代表作であり、最古の作品例である。(なお大仙院は2016年1月16日の「大徳寺塔頭・大仙院」の中で、「石庭の寺」として詳しく報告しているので、ご確認いただきたい)

第7位 ゴッホ展 巡りゆく日本の夢(1)    2017年12月12日  花魁(渓済英泉による)  ゴッホ作    1887年

ゴッホはパリのピングの店の熱心な顧客となり、日本美術、中でも浮世絵に熱中したようである。そして1886年5月に、「パリ・イリュストレ」誌の日本美術特集号の表紙に掲載された英泉の花魁(おいらん)の浮世絵を、ゴッホは油絵でなぞった。英泉を写しているが、花魁の額の周りには、ピングの店で見たのか、さまざまな浮世絵から借用したモチーフを自由に解釈して、ゴッホ独自の華やかな花魁姿に仕上げている。ゴッホは日本の版画の伝統が、今やフランス印象派のなかで再生すべきものと考えたのであろう。明晰な線、強烈な色彩の対照、色彩の明るさは、事実、印象派にとっても、ゴッホにとってもきわめて大きなひとつの足がかったのである。私は、ゴッホはこの作品で、印象派より一歩前身したように思う。ゴッホが模写した浮世絵は、現在のところ3点知られているが(渓済英泉”雲龍打掛の花魁”)、「歌川広重”名所江戸百景/大はしあたけの夕立”)、「歌川広重”江戸名所百景”亀戸梅屋敷”)、いずれの模写においても、ファン・ゴッホはオリジナルな版画を忠実に写し取るのではなく、原作にはない強烈な原色を用いたり、背景のモチーフを自由に組み合わせたりしている。

第8位 小田野直武と秋田蘭画(1)          2017年1月1日 重文  不忍池図  小田野直武作         江戸時代(18世紀)

この大画面作品はかって掛軸であったが、今は額装となっている。これが山形県で発見されたとき、落款があるにも関わらず、そのときの所蔵者は、司馬江漢(しばこうかん)の作品を思っていたという逸話が残っている。秋田蘭画が忘れられた存在であったことを物語っている。近景に花卉を大描写し、それにオランダ銅版画の影響を受けた遠景を配するという、もっとも秋田蘭画らしい構図を用いている。しかし、近景の芍薬の花は鉢植えとなって地面に置かれて、遠景は江戸名所の写生であるなど、現実感を強める努力が見られる。この絵は短い直武の生涯のうち、比較的晩年の円塾期に描かれたと思われる。そして最晩年の直武は東洋的な花鳥画を洋風化する段階をしだいに脱して、この絵の背景に見られるような特定の場所を写す風景画に進んでいったと考えられる。なお、図版ではみえないが、芍薬の蕾に二匹の蟻がたかっている。小虫が花や果物にたかる絵は中国の宋元画にあるが、これはそのような漢画の伝統を物語るとともに、直武の科学的な観察力を示している。

第9位  茶碗の中の宇宙  楽家一子相伝の芸術    2017年5月15日重文  赤楽茶碗  銘 無一物  初代 長次郎作  桃山時代(16世紀)

「無一物」の銘は六祖禅師慧能(えのう)禅師の偈頌(げじゅ)からとられた。高台が丸く、中に兜巾(ときん)渦巻がある。高台のまわりに竪しわがある。口縁は平に近く、見込には茶溜りがない。赤釉はかさかさした感じで、粉を吹いたような肌である。色は薄い赤茶色である。一切の装飾性を抑え、削ぎ落とした志向性は、簡素を推し進める抽象表現を感ずる。

第10位 バベルの塔展            2017年6月24日     バベルの塔  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

今回の展覧会は、この絵を見る為に、私は半日を費やしたのである。実に見事な絵であり、感激した。旧約聖書の冒頭に「創世記」がある。その中身は「アダムとイブの原罪」、「楽園追放」、「アベルを殺すカイン」、「ノアの洪水」、そして神話的部分の最後に当たるのが「バベルの塔」である。この物語の骨子は、思い上がった人々による「天まで届く塔」の建設を試み、その高慢さに立腹した神は「言語の混乱」により、互いの言葉を理解出来ないようにして全地に散らせたのである。「バベルの塔」は多くの画家によって描かれたが、ブリューゲルは少なくとも2作を作っている。彼はイタリア留学の際に見たローマのコロッセイムが下書きになったことは間違いあるまい。旧約が初めて印刷されたのは15世紀後半であった。以降、多くの画家がこれを描いたが、ブリューゲル以前は四角い低層の塔として描かれていた。ブリューゲルが描いた螺旋状のの巨塔を目にした当時の人々は、さぞ驚いたことであろう。バベルの塔は、人間の高慢に対する教訓としての物語である。戒めを強調するため、神々の怒りが強風となって塔を崩壊させる様子を描く画家もいた。しかし、ブリューゲルはむしろ、物語の途中である塔の建設場面を描いている。ボイスマン美術館のシャーレル・エックス館長は「神の怒りよりも、人間が挑戦する場面を選んでいる」と話す。他の追随を許さぬブリューゲルの特徴は「マクロとミクロの統合」である。すなわち巨視的な視点に基ずく大胆かつ明快な構図とディテールにおける驚くべき細密描写が無理なく両立している。「バベルの塔」に描かれた人間の数は1400人余人に及ぶという。豆粒よりも小さい人々が描き混まれている。ブリューゲルは螺旋状に塔を描くことにより、まるで無限大に、塔が拡大できるように思わせる。兎に角、16世紀の絵画とは思えない同大な「バベルの塔」である。

 

なお、望洋会へのブログの更新については、佐藤、中山の両学兄に大変お世話になりました。篤くお礼申し上げます。

ゴッホ展  巡りゆく日本の夢(2)

1877,1888年はファン・ゴッホにとって特別な、そして恐らく最も幸福な時期であった。パリ時代の後半からアルル時代の前半にわたるこの2年間を「ゴッホのユートピア時代」と呼んで差し支えないだろう。この時期、彼は「日本」と「日本人」をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、芸術家の共同体を実現しょうとした。それは他の人の目には子供じみた夢以外の何物でもなかった。この共同体に参加したのはゴーギャンひとり、しかも、共同体生活は悲惨な結末とともに崩壊することになる。しかし、それでも「夢」は画家の心を支え、画家には恐ろしいほどの霊感力と力を授けたのである。

寝室  ファン・ゴッホ作  1888年   ファン・ゴッホ美術館

アルルの「小さな黄色い家」に移り住んだゴッホは、ここを「芸術家の家」に、「共同生活の場」にすることを夢見ていた。家具から額の絵まで、そのため、「性格のあるもの」にしょうと望んだゴッホは、彼にふさわしいベッドとして、鉄のベッドではなく、農夫用の大きな頑丈なものを選んだ。椅子もまたぶこつな農夫用のもの、壁面には、「ウジェーヌ・ボックの肖像」、「ミリエの肖像」を始め「自画像や彼自身の作品を飾った。(この「寝室」は数点の異なる作品があり、他のものが掛けられている絵もある)この作品は、「陰影を消し去って、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」と書簡で述べている。私は、日本の浮世絵版画から学んだ要素を取り込んだアルル時代の到達点を示す作品であると解している。ここに描かれているのは、ベッドと机、椅子2脚、額絵数点という簡素な部屋である。ゴッホは後年「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡潔を欲する気持ちをもってほしいと願っている。日本人はいつも非常に簡素な室内でくらしてきたが、それでも偉大な宗教家が,あの国でうまれたではないか」と述べている。

タラスコンの乗合馬車 ファン・ゴッホ作1888年 ヘンリー&ローズ・パールマン財団

窓の鎧戸の緑、馬車を彩る緑と赤、影と空の平面的な青、壁の黄色、地面のあおみがかった灰色など、鮮やかな色面のコントラストが強調されており、南仏特有のまばゆい太陽の光を想起させる。馬車に立てかけられたはしごが、構図を引き締めるとともに、空間に奥行きをもたらしている。(なお、本作品は日本初公開である)

アルルの女(ジヌー夫人)ファン・ゴッホ作 1890年 ローマ国立近代美術館男の肖像      ファン・ゴッホ作 1888年 クレラー=ミュラー美術館

 

この二つの絵画は、描かれた時期は異なるが、いずれも背景は明るい色面で、浮世絵の大首絵や美人画などの影響を感じさせる。また人物の性格や感情の表現にしても「市川海老蔵の竹村定之進」(写楽)、「三世岩井条三郎の三浦屋の高雄」(歌川國定)のように、目や口にわずかに表現をつけることによって達成しようとしている様子がうかがわれる。

オリーブ園 ファン・ゴッホ作  1889年  クレラー=ミュラー美術館

ファン・ゴッホは1889年6月にオリーブの樹を描いている。オリーブはサン=レミの療養院の近くでよく見られるモチーフだった。以降、ファン・ゴッホは画面に人物を入れたり抜いたりしながらオリーブ園を15点描いている。糸杉やオリーブの樹といった南仏のプローバンスの典型的なモチーフを、ファン・ゴッホはサン=レミ時代には盛んに取り上げているものの、アルル時代には、むしろ避けるかのように作品には描いていない。プロヴァンスでの生活が1年以上経った頃、彼は現地の風景の中の特徴的なモチーフを理解しようと熱心に取り組み始め、作品の主役として描いていった。「オリーブ園は実に特色豊かで、何とかそれを捉えようと懸命になっている。あるとことは緑色、あるところはもっと青く、あるところはまた緑がかり、ブロンズ色になり、それが黄色、ピンク色、紫あるいはオレンジ色から鈍い赤土色にまでなっている地面の上では白く見える。」

渓谷(レ・ベイル)ファン・ゴッホ作 1889年 クレラー=ミュラー美術館                 「歌川豊国/五重三次名所図会 坂の下 岩窟の観音」

  

 

1889年10月頃には、屋外での制作許可が下りて、ゴッホは療養院近くのオリーブの木や糸杉に集中的に取り組んだ。10月にはアルビーユ山脈に連なる山に登るなど、屋外での制作に精力的に取り組んだ。岩場や山間の渓流などを主題に取り上げ制作に励んでいる様子を、ベルナールに次のように書き送っている。「ぼくは渓谷の大作に取り掛かっている。非常に固い二つの岩山の裾の間を一条の流れが走り、第三の岩山が谷間に行く手をふさいでいる。こうしたモチーフはたしかに美しいメランコリーがあるし、まったく荒涼たる場所で制作するのは楽しい。そこでは風に何もかも吹き倒されないようにしてイーゼルを石の中へ叩き込まねばならい」ファン・ゴッホ自身は渓谷を描いた2点のうち、10月に制作した方を習作、12月に制作した本作を完制作と考えたらしい。彼は本作の方が「より構成に無駄の無いデッサンで、情熱が抑えられ、色も鮮やかだ」と弟テオに述べている。そして同年3~4月に開催された第6回アンデパンダン展に他の9点とともに出品されると、人々の称賛を得た。本作は歌川広重の「五十三次名所図会/四十九 坂の下岩窟の観音」と共通していおり、山道を歩く人物が風景に溶け込むように描かれる点についても、こうした浮世絵版画からの影響と考えられる。

アニエールの公園  ファン・ゴッホ作  1887年  個人蔵

1887年の春から、ファン・ゴッホは風景画に一層重点を置くようになり、パリ近郊のアニエール制作に出かけた。この作品は、新印象派の点描技法を取り入れ、かつ、日本の浮世絵版画を独自に吸収した、自由な解釈による空間構成が現れる。「アニエールの公園」では、印象派や浮世絵版画のように地平線を画面から排除した構図を取っている。かつ画面の三分の二が地面に集中している。

蝶とけし  ファン・ゴッホ作  1889年 ファン・ゴッホ美術館

サン=レミとオーベル=シュル=オワーズで過ごした最晩年の時期、ファン・ゴッホは、花や昆虫、木の枝などの小さなモチーフをクローズアップの非対称の構図で描くようになった。これらは日本の花鳥画を思わせるものである。具体的には「江戸名所百景/亀戸梅屋敷」や「新選花鳥尽し」といった浮世絵、ピングが「芸術の日本」で紹介した複製画、ピエール・ロティの「お菊さん」の挿絵など、パリ時代に出会った日本美術の作品が影響を与えている。

 

1890(明治23)年7月29日、パリの北西部に位置する小さな町オーヴェル=シュル=オワーズの宿屋ラヴー邸の一室でゴッホは息を引き取った。37歳であった。それは、最愛の弟テオ、そして最晩年の画家を世話した医師ポール・フェルデイナン・ガシエに看取られた、ひっそりとした死であった。ファン・ゴッホの死からおよそ20年を経て日本でこの画家の招介が始まった。最初に熱心だったのは「白樺派」の人々であった。雑誌「白樺」に、ゴッホの作品が次々に招介され、大正期から昭和初期にかけて熱狂の渦は徐々に広がり、渡仏した日本人の多くがファン・ゴッホの作品と足跡が残るオーヴェールへと赴くことになった。この頃、ガシェ医師はすでに世になく(1909年没)、ガシェの手元の20点あまりのコレクションは息子ポール・ルイ・ガシエが大切に守り伝えた。オーヴェールはまさに「ファン・ゴッホ巡礼の地」となった。ガシェ家には、来訪した日本人の名が記された芳名録3冊が残された。(現在は国立ギメ美術館蔵)芳名録には里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三、斉藤茂吉、橋本観雪、式場隆三郎、荻巣高徳氏などの署名があった。(芳名録は、展覧会で展示している)ゴッホは「日本に恋をした」が、また日本人も「ゴッホをこよなく愛した」と深く思った。ゴッホ程深く日本人に愛された画家も少ないだろう。

 

(本稿は、図録「ゴッホ展  巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、現代美術全集(第8巻  ゴッホ」を参照した)

ゴッホ展  巡りゆく日本の夢(1)

本展覧会は、ファン・ゴッホ(1853~1891)が日本の美術、中でも浮世絵に魅せられた事実を明らかにすることが目的である。ファン・ゴッホは1885年(33歳)に、パリに居を移し、弟のテオと合い、印象派に接触した。既に、この頃から浮世絵に興味を持っていた。1888年(34歳)の時に画商ピングの店に通い、屋根裏部屋の膨大な浮世絵を見る機会を得た。この浮世絵との出会いが、ファン・ゴッホのジャポニズムの大きなきっかけとなった。彼は大量の浮世絵を研究し、模写し、画家として浮世絵から多くの事を吸収していった。やがて日本の鮮やかな色彩世界を求めて、陽光降り注ぐ南仏に向かった。アルルに落ち着いたファン・ゴッホは、このあと自分はもう「日本にいるのだ」と感じながら37年の生涯の内で最も幸福な1年足らずの時間を過ごし、次々と傑作を描き上げて行った。ここで彼は草を描き、やがて植物のデッサンを描き、次いで季節、自然の景観、最後に動物、そして人物を描くようになった。ファン・ゴッホの思い描いた「日本人」は、ファン・ゴッホ自身の理想であった。「日本人」という理想人物を、そして「日本」と言う名の理想社会、ユートピアを想像の世界につくりあげた。ここにファン・ゴッホのジャポニズムの最大の特徴がある。ゴーギャンとの共同生活は、わずか2ケ月で崩壊した。ゴッホは精神病を発症し、自分の耳を切り取ったのである。そこでファン・ゴッホは「日本の夢」から覚めることになった。しかし、ゴッホが浮世絵に熱中し、日本を夢見ていた1887年から1888年にかけてのわずか1年あまりの期間は、彼にとって創作意欲に満ちた最も幸福な期間であった。その後もファン・ゴッホは浮世絵から吸収したものを自分自身の芸術のなかでさらに深めていった。

画家としての自画像  ファン・ゴッホ作  1887年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホには自画像が多い。また、意外に人物像が一番多い。色彩は豊かで明るくなり、動きのある筆触が認められる。鏡に映る自分自身を凝視する瞳には、背景の淡い青色と呼応するように緑が置かれている。画架を前に筆を取るこの自画像は、パリ滞在中の最後期に描かれたものである。同じ時期に描かれた一連の自画像のなかでもひときわ大きく、かつ入念に描かれている。図録では、この「画中の表現にはどこかに翳り(かげり)を感じさせる」と解説している。その理由として、ゴーギャンや弟テオに宛てた手紙から、この時期、ファン・ゴッホはパリでの生活に倦み(うみ)疲れていたことがうかがえる、としている。ゴッホは、このパリで画商・ピングの屋根裏で膨大な浮世絵を見る機会に恵まれ、それがゴッホのジャポニズムのおおきなきっかけになったのである。ファン・ゴッホはパリを後にして南仏アルルへ向かうのである。

花魁(おいらん)(渓済英泉による)ファン・ゴッホ作 1887年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホはパリのピングの店の熱心な顧客となり、日本美術、中でも浮世絵に熱中したようである。そして1886年5月に、「パリ・イリュストレ」誌の日本美術特集号の表紙に掲載された英泉の花魁(おいらん)の浮世絵を、ゴッホは油絵でなぞった。英泉を写しているが、花魁の額の周りには、ピングの店で見たのか、さまざまな浮世絵から借用したモチーフを自由に組み合わせて背景に描き、更に色彩も自由に解釈して、ゴッホ独自の華やかな花魁姿に仕上げている。ゴッホは日本の版画の伝統が、今やフランス印象派のなかで再生すべきものと考えたのであろう。明晰な線、強烈な色彩の対照、色彩の明るさは、事実、印象派にとっても、ゴッホにとっても極めて大きなひとつの足掛かりとなったのである。私は、ゴッホの作品で、印象派より一歩前身したように思う。ゴッホが模写した浮世絵は、現在のところ3点知られているが(歌川広重”江戸名所百景/亀戸梅屋敷)、(渓済英泉”雲龍打掛の花魁”)、(歌川広重”江戸名所百景/大はしけあたけの夕立)、いずれの模写においても、ファン・ゴッホはオリジナルな版画を忠実に写し取るのではなく、原作にない強烈な原色を用いたり、背景のモチーフを自由に組み合わせたりしている。

雲龍打掛の花魁 渓済英泉作  縦大判錦絵2枚続き  千葉市美術館

この作品が、「パリ・イリュストレ」誌の1886年5月号「日本特集」の表紙に載ったのである。多分、ゴッホは、この表紙の花魁を参考にして、油絵の浮世絵を作成したのであろうと考えている。雑誌に載せる時に、左右反転していることには、ゴッホは気付いていなかったと思われる。

カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ ゴッホ作 1887年ファン・ゴッホ美術館

描かれているのはパリのカフェ「ル・タンブラン」の女主人アゴティーナ・セゴトーリである。ファン・ゴッホは1887年の春に彼女の店で浮世絵展を開催している。これはゴッホの所蔵する浮世絵と友人たちのものも含まれていたと思われる浮世絵を展覧したものであるが、彼にとっては浮世絵を勉強するにの大いに役立ったことだろう。その時のものだろうか、女性像の浮世絵がかけられているように見える。女主人と図録では招介しているが、私は職業的なモデルではないかと考えている。ロートレックの作品にも登場するとする説がある。

アイリスの咲くアルルの風景ファン・ゴッホ作1888年 ファン・ゴッホ美術館

1888年2月20日に、ファン・ゴッホは南フランスのアルルの街に降り立った。喧騒のパリを離れたファン・ゴッホにとって、陽光と色彩にあふれるアルルはまさに別天地であった。この地を彼は、しばしば「日本のイメージ」に重ね合せていた。この「アイリスの咲くアルルの風景」は、従来の西洋画の植物画の常識を大きく覆すものであった。西洋では、植物は、枝から切って(死んだ)花生けに活ける花が常識であった。ここで彼は、地に生えたアイリスや黄色い花を描いた。ゴッホは目の前に広がる南仏の風景に憧れていた日本の風景を重ね合せて語っている。ファン・ゴッホが好んで描いたアイリスの花は、画家にとって南仏を象徴する花であり、ひいては理想郷としての日本を想起させるモチーフであった。また、この作品では、遠景の建物や中景の木々、近景のアイリスの花などに、ファン・ゴッホが浮世絵から学んだ繊細な点描が認められる。ファン・ゴッホは、浮世絵から日本人の運筆の素早さと簡潔な点描に感心し、素描や油絵を描く際に取り入れていた。

糸杉の見える花咲く果樹園 ファン・ゴッホ作 1888年 クレラー=ミュラー美術館

アルルの春の花の季節に、ファン・ゴッホは精力的に取り組んだのである。この「果樹園」の絵で、明確に意識された陰影の無い平板な色彩表現がすでに見られる。ファン・ゴッホが日本美術から受けた影響を自分なりに咀嚼して、自身の様式を模索していたプロセスがよく判る。弟テオへの手紙には次のように述べている。「ぼくは夢中で仕事をしている。木々は花盛りだし、底ぬけに陽気なプロバンスの果樹園を描きたいと思ったのだ」と。

花咲くアーモンドの木 ファン・ゴッホ作 1888年 ファン・ゴッホ美術館

この絵と良く似た絵を見たことがある。それは、ファン・ゴッホ作の「グラスに活けたアーモンドの小枝」であり、同じファン・ゴッホ美術館に所蔵されているものである。ゴッホはアイリスと同じようにアーモンドの花も好きだったのであろう。弟テオ宛ての手紙で、ファン・ゴッホは次のように述べている、「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。(中略)その人はただ1本の草の芽を研究しているのだ。しかし、この草の芽がやがて彼にあらゆる植物を、ついで四季を、自然の大景観を、最後に動物、そして人間像を描かせるようになる」この絵では、陰影の無い平板な色彩表現が見られ、浮世絵から受けた影響を、咀嚼して自分自身の様式を創ろうとしているこおとが分かる。

種まく人 ファン・ゴッホ作 1888年  ファン・ゴッホ美術館

ゴッホには1890年に描いた「種まく人(ミレーによる)」と題する作品がある。今回の作品は、類似を求めれば、むしろ歌川広重の「江戸名所百景”亀戸屋敷”」に基づいたもので、近景に大きく木の幹を拡大して描く大胆な描写が目を引く。左上から右下に向かう対角線上に配された樹木の幹が、左側の人物像とともにシルエットのように描かれている。また、夕日が大きく描かれているのも、大きな特徴だろう。私は、この太陽は、ミレーの作品の誇張であると思っている。とにかく1888年には多くの作品を発表した年である。日本に対する憧れ、浮世絵への関心が一番強かった時期であると思う。

ムスメの肖像  ファン・ゴッホ作 1888年 プーシキン美術館

アルルでファン・ゴッホはピエールロティの小説「お雪さん」を読んだ。ロティが日本に海軍将校として滞在した体験をもとに書いたこの小説は、当時大いに人気を博した。読み終えて間もなく、ファン・ゴッホはアルルの少女をモデルにして、小説に出てくる「ムスメ」の風貌になぞらえて肖像画を制作した。「お菊さん」にはこのムスメという言葉について、次のように記している。「ムスメというのは若い少女もしくは非常に若い女を意味する言葉である。それはニッポンの言葉の中でも一番きれいな言葉の一つである。」ロティは「ムスメ」という言葉の中に、フランス語の「口をとがらす」と「かわいい顔」とが含まれていると述べている。この展覧会では残念ながらデッサンしか展示されていなかったが、油彩画も作成されている。ここではデッサンを紹介している。ゴッホン日本に対する強い憧れが見られる。

夾竹桃と本のある静物 ファン・ゴッホ作  1888年 メトロポリタン美術館

上記のデッサンで、ファン・ゴッホは少女の「かわいい小さな手の中」に夾竹桃の花を持たせている。「お菊さん」のなかにも、ムスメと夾竹桃が一緒に記述されている場面があるそうだ。夾竹桃はゴッホにとっては、特別な意味があるようである。アルルの黄色い家に住み始めた直後に、「ぼくはまた、門の前に樽植えにして夾竹桃を二本、植えようと思っている」と弟テオに書き、また別の手紙では「夾竹桃ーああー恋をささやく」と記している。夾竹桃のモチーフは、ほぼアルルの時代に描かれている。これは南仏では広く分布した植物なので、アルル以前には描かれなかったと思われる。夾竹桃は彼にとって、ユートピアである「日本」に対する憧れを重ね合せたモチーフだったのであろう。

 

ファン・ゴッホに取っては、日本のイメージは理想郷であったのであろう。しかし同時にこのユートピアは、ただ彼の夢のなかだけに現れた、この世のどこにも存在しない場所であった。アルルに落ち着いたファン・ゴッホは、自分はもう「日本にいるのだ」と感じながら37年の生涯の中でもっとも幸福な一年足らずの時間を過ごし、次々に傑作を生み出していった。「日本の夢」の中で、画家は次のような手紙を書いている。「まるで自分自身が花であるかのような自然の中に生きる。こんな素朴な日本人がわれわれに教えてくれるもの、それこそ真の宗教と言っていいだろうか。日本美術を研究すれば、もっと幸せになるに違いないと僕には見える。因習まみれの世界で教育され、働いている僕らを自然へ回帰させてくれる。」「日本の画家たちは、ほんのわずかな金しか稼がず、一介の労働者のように暮らしている」ファン・ゴッホは「日本」という理想社会、ユートピアを想像の世界につくりあげたのである。ここにファン・ゴッホのジャポニズム最大の特徴がある。ジャポニズムについては、既に「北斎とジャポニズム」で明らかにしたが、ファン・ゴッホほど、日本を理想郷と思った芸術家は、いなかった。

(本稿は、図録「ゴッホ展  巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギヤン展  2016年」、現代世界美術全集「第8巻 ゴッホ」を参照した)

 

畠山記念館  近代数寄者の交遊録

近代日本経済を支えた実業家の多くが茶の湯を第一の趣味にしていた数寄者(すきしゃ)と呼ばれた。その筆頭にあげられるのが藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。彼らは、旧大名家の蔵や、神仏分離令によって逼迫した寺から流出した、膨大な古美術の蒐集に向かい、そののちに蒐集品を活かすことのできる茶の湯へ踏み入れたのである。特に益田孝は、維新後、世界初の総合商社となる三井物産を創業して三井財閥の大成に貢献した財界人であった。畠山記念館の創設者・畠山一清(即翁・1881~1971)は鈍翁に見込まれて数寄者への道へと導かれた。鈍翁との年齢差は34歳あり、二人の交友は、鈍翁が亡くなる直前の数年間であったが、密度の濃いものであった。なかでも深い友情を伝えるのが、「柿の蔕茶碗」である。今年は、鈍翁80年忌に当たることから、即翁と鈍翁を結ぶ一つの線となった「柿の蔕茶碗」を披露する茶会を切り口に、表記の美術展が開催されることになった。まず、昭和12年(1937)11月29日に茶会が開催された。これは即翁が新茶亭をまず鈍翁に披露し、京都毘沙門堂旧蔵の「柿の蔕茶碗」でもてなした茶会の様子から説明したい。

秋色に染まる畠山記念館の入口

畠山記念館の入口から撮った写真である。紅葉に染まり、秋色を帯びた畠山記念館の入口正面を写したものである。畠山即翁の蒐集品(主として茶道具、能面、能衣装等)を展示する美術館であり、私は、少なくとも年1回は訪れている。閑静な美術館であり、私のお気に入りの美術館である。今年は11月24日(金)の午後3時頃に訪れている。

竹自在   千李休作             桃山時代

在辛斎宛ての李休添状が付属している。在辛斎については詳らかでないが、修理の斡旋状のようである。添状が道具に対して大きな価値を有することが示されている。これから記す茶道具は、昭和12年(1937)11月29日に行われた茶会に使用された道具を紹介するもので、客は鈍翁夫妻、横井半三郎(夜雨・1883~1945)の3名であり、「柿の蔕茶碗」を、鈍翁に招介することが目的であった。

瓢花入(ひさごはないれ)銘木菟(みみずく)  千道安作  桃山時代

瓢箪や夕顔の実で作った花入れは、竹や籠花入と比肩する侘びた風情が備わっているものである。上方に花窓を大きく穿ち、頭も目も大きな木菟(みみずく)になぞらえて銘とした本作は、愛らしくふくよかな形と、古色を帯びた肌が茶味を感じさせる。姫路藩酒井家に伝来したものである。千道安は利休の長男である。

重要文化財 志野水指 銘古岸(こがん)       桃山時代

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉薬・絵文様において優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとしたふくらみに対して頸のしばりは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。内箱の蓋裏には、表千家九代了々斎による「絵瀬戸水さし 古岸ト号」の箱書きがある。

重要文化財 柿の蔕(へた)茶碗  銘 毘沙門堂    朝鮮時代

柿の蔕とは褐色の素地にごく薄い透明釉を掛けて、あたかも焼締めのような味わいを持たせた茶碗を言い、伏せておいた形が柿の帯に似ることに因む名勝である。京都山科の毘沙門堂旧蔵であったことから、この銘がある。藤田美術館所蔵の「大津」と共に、柿の蔕の代表作として並び称されている銘碗である。実はこの茶碗は隠居の身であった鈍翁が購入を断念した品で、当日の道具組には、実業においても茶においても崇敬した大茶人、鈍翁に対する心づくしが示されている。ここで並べた道具類は、当日の茶会に用いられた茶道具の一部である。

毘沙門堂狂歌  益田鈍翁筆     昭和13年

この書には、次のようなことが書かれている。「くやしいといふもおもしろの世や 九十二歳鈍翁」、「毘沙門堂」、「柿の蔕ひとつか老いのおもひ出に」     柿の蔕茶碗を手に入れることができなかったくやしさを狂歌にしたものである。相伴の横井夜雨に与えたものであるが、のちに畠山即翁に贈られた。鈍翁と即翁の交情を物語る一幅である。この先は、鈍翁が一代で築いた膨大なコレクションの内、即翁が入手した名品の一部を紹介する。

絵高麗梅茶碗(えこうらいうめちゃわん)          明時代

絵高麗とは「絵付けのある朝鮮産の茶碗」と解するが、現在は中国北方系磁州窯の製品とする説が有力である。内外面に漬け掛けされた白化粧の上、外側面に鉄絵で施文されているものを指す。なかでも梅鉢茶碗には鉄絵あるいは白土で七曜文が点彩され、それを梅花に見立ててこの名がついている。この茶碗は後者、帯状に施された鉄釉上に白土による七曜文が五箇所あり、灰青色の帯に梅鉢文の鮮やかな対比が見所となっている。加賀前田藩の家臣本田家に伝わった茶碗だが、梅花文は前田家の家紋にも通じ、因縁を窺わせる。その後益田鈍翁の所蔵となり、内箱・外箱ともに鈍翁による「絵高麗 茶碗 梅鉢」・「加州本田家伝来」の箱書きを持つ。

御所丸茶碗  銘堅田               李朝時代(17世紀)

御所丸茶碗は、朝鮮との交易船「御所丸」で将来されたため、この名があると言われる。古田織部の好みで造られたとも、島津義弘が運んだとも言われるが、確証はない。黒釉と白釉が掛け分けられたものと、白釉のみが掛けられたものがあり、俗に前者を黒刷毛、後者を白刷毛と呼んでいる。この茶碗は、全体が楕円形に歪んだ沓形で、作為の強い黒織部の沓形茶碗に近似する。口縁から胴にかけ黒釉の刷毛目が荒々しく廻り、白釉とのコントラストを見せている。伝来・小堀遠州・益田鈍翁

共筒茶杓  狩野探幽作               江戸時代(17世紀)

櫂先は幅広く、ゆったりとしてしかもきりっと立ち、中節から手許まで追取り一面に皮が削られている。探幽は、高野山金剛峰寺金堂障壁画の潤筆料として弘法大師筆「座右銘」十六字一巻を譲られたが、のちにこの巻物は鈍翁の入手するところとなり、明治29年(1896)品川御殿の自邸で披露され、この茶会が大師会の始まりであった。(後に、この大師会の会長は、畠山即翁が承継している)探幽は大師流の書もよくするなど弘法大師崇敬者であったことから、鈍翁がこの茶杓を所蔵することにも因縁が深い。

志野撫四方酒野呑(しのなでよほうさけのみ)      桃山時代(17世紀)

この酒呑は、大正の初め、鈍翁が当時としては破格の1万円という高値で買い求め、終生愛玩し、よほどの客でなければ用いなかったという。二重の箱の両方に鈍翁の書付が記されているが、中でも「愛什」の言葉に鈍翁の想いが込められている。酒呑の逸品であり、実に愛らしい。鈍翁の気持ちが判る。

 

近代数寄者と呼ばれる人たちは、文明開化の時期を過ぎ、自国のアイデンティを身に付けることの必要性に迫られた文化人達で、内務大臣の井上薫(世外)、藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、東武鉄道の根津嘉一郎(得庵)、「電力の鬼」松永安左衛門(耳庵)、東急電鉄の後藤啓太(古経庵)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。明治、大正、昭和の政治、経済を動かした人々であり、茶道に引き込まれていったのである。日本美術の海外流出を防いだ意義は大きい。畠山一清(即翁)は、近代数寄者の最後を飾る人物であったと言えよう。

 

(本稿は、図録「近代数寄者の交遊録  2017年」、図録「四衆愛玩 壱 1909年)、図録「四衆愛玩 畠山即応の美の世界 2011年」、千宗屋「茶 利休と今をつなぐ」を参照しした)

北斎とジャポニズム展  北斎と風景画(2)

北斎漫画について、その成り立ちを説明しておきたい。漫画とあるので、現在のコミックを想想される方も多いだろうが、「北斎漫画」は絵手本の意味である。北斎は文化前・中期の読本挿絵での活躍もあって、門人の数は増える一方であった。しかし、門人のみを対象にした絵手本を出版することは困難であったのであろう。「北斎漫画」初編が出版されたのは文化11年(1814)で、北斎没後の明治11年(1882)までに15編が刊行されている。実に68年の歳月を要している。如何に、「北斎漫画」が人気を得たかが分かるであろう。なお「北斎漫画」は、現在も出版されており、15編の分冊もあるし、1冊にまとめたものもある。外国系ホテルへいくと、この1冊の「北斎漫画」が1室に1冊ずつ用意されていることがある。私が見た「北斎漫画」全一冊は6千円であった。因みに、版画で15巻にして36万円という高額品も出版されている。次に「富嶽三十六景」の出版は天保元年(1830)に広告が出ている。そして刊行が始まるのは、同じ年からである。宣伝文は様々な場所から望む富士山を描き別けたことを売り物にしており、富士というモチーフで統一した名所絵揃物であると謳っている。「富嶽三十六景の成功は、浮世絵にいろんな効果をもたらした。一つは名所絵におけるベロ藍(プルシアン・ブルー)と呼ばれた舶来の化学顔料の効果を証明したことである。もう一つは「異例の売れ行き」を示したことである。三つ目は揃物として、次世代に繋がったことである。西洋の受け入れ前に、日本の浮世絵の世界でも「富嶽三十六景」の果たした役割は大きい。

「北斎漫画」七編 葛飾北斎作  文化14年(1817)江戸時代(19世紀)

「阿波の鳴門」の渦巻を描いた北斎漫画である。モネは、この北斎漫画七編と、「富嶽三十六景」甲州石班沢の両者を保有していた。

ベリールの嵐  クロード・モネ作   1886年

モネが1886年にブルターニュ半島の付け根のベリールに制作旅行に行って高所から海を見下ろしたとき、「北斎漫画」七編の「阿波の鳴門」の構図が頭に浮かんだことであろう。画面いっぱいに荒れる海と岩だけが占めるこの構図は、波のエネルギーとそれに抗うかのような岩の存在感を表している点で、両者に深く共感している。

富嶽三十六景甲州石班沢天保元~4年頃(1830~33)江戸時代(19世紀)

甲州石班沢はまずベロ絵のみで色づけしている浮世絵であり、そのことでまず有名である。更に、漁師の頭を頂点に岩と投げ網のつなが二等辺三角形をかたちづくり、かつ遠景の富士と相似形をなす図で、幾何学的な浮世絵としても有名である。

ベリールの海  クロード・モネ作   1890~91年

水平線を描いた素描「ベリールの海」は、海に突き出た岩の形に関心を払っているという点で、「富嶽三十六景 甲州石班沢」の構図により近い。

おしをくりはとうつうせんの図 葛飾北斎作 文化初期1804~07)頃

尖ったオック岬、グランカン  ジョルジュ・スーラー作 1885年

点描で画面を構成する点描派(新印象派ーシニャニック、クロスなど)でも、浮世絵に対する関心は高く、繰り返し語られている。特に、この「尖った岬、グランカン」と「おしをくりはとうせんの図」の構図の類似は驚くべきものである。風変わりな波の形とそっくりの尖った岩、共通する水平線と、点のように表されれる空に舞う海鳥など。北斎の浮世絵はたとえば1833年のビングの日本美術展などで広く紹介されていた。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏  葛飾北斎作 天保元~4年頃(1830~33)

北斎の最も有名な作品で、むしろ日本の浮世絵の代表作であろう。従って解説の必要はないだろう。西洋ではグレート・ウエーブの名で親しまれている。

交響曲「海」楽譜  クロード・ドビュッシー作  1905年

クローセルと親しい関係にあったドビュッシーは、この北斎の有名な浮世絵を所有し、「海」と題した交響曲の楽譜に図像を転用した。グレート・ウェーブは、画家のみならず、音楽家にも、インスピレーションを与えたのである。

波  カミーユ・クローデル作  1897~1903年

クローデルはダイナミックな大波を彫刻作品で実現した。水浴の主題が持つ牧歌的雰囲気は、ここで自然の雄大さを前に影をひそめている。抽象的な波の形は、幻想的な波の形となり、日本美術の流麗で装飾的な波の表現となっている。

 

「エッフェル塔三十六景」  アンリ・リヴィエール作  1888~1902年

北斎の「富嶽三十六景」をはじめとした名所絵は、同一のモチーフで繰り返し描き、シリーズとして展開させるアイデアを西洋にもたらした。これに触発されリヴィエールは、パリ市内の各所から眺めたエッフェル塔の諸相を季節の移ろいのなかに描きだし、リトグラフ集「エッフェル塔三十六景」に仕立てた。1889年のパリ万博に向け、塔の建設が開始された1888年に本作も着手され、1902年までに36点が完成、500部限定の冊子として出版された。この絵は「13番 バッシー河岸より」と題された絵である。

富嶽三十六景駿州片倉茶園ノ不二 葛飾北斎作天保元~4年頃(1830~33)

西洋において、「富嶽三十六景」や「富嶽百景」の連作を持った意味は大きかった。ひとつの山の姿を様々な時間や角度から描く北斎の連作への意識は、日本の美術に無関心を装ったセザンヌにも、強く働きかけたと考えられる。1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けたことは、北斎の影響だったろう。(図録の意見)

サント=ヴィクトール山 ポール・セザンヌ作  1886~87年

量塊として認識されている西洋の山の風景をセザンヌが、このような輪郭線でとらえる表現は生まれなかったとと思われるし、1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けることもなかっただろう。比較的早い時期の、この絵においては、両側の外側から挿し出してくる枝や、対角線を組み立てたような平野の表現が、「富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二」に良く似ている。

サント=ヴィクワール山とシャトー・ノワール ポール・セザンヌ作 1904~06年

サント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 1904~06年

いずれもセザンヌの最晩年の作である。この2作は、むしろ「富嶽百景」三編「武蔵野の不二」の抽象化された空間表現に近い.

 

日本の浮世絵が西洋美術に新風を吹き込んだジャポニズムは、古くから知られている。しかし、何故、北斎の作品が誰よりも多くインスピレーションを与えたのだろうか。私は、北斎の作品のバリエーションが豊富であったことだと思う。人物や植物、動物、風景など対称も多彩だし、版画から肉筆まで幅広い手法を自在にこなす技術である。特に、北斎には「北斎漫画」など絵手本的な作品が15編もあり、何でもありと言っても過言ではない。だから、盛んに参照、引用され、インスピレーションの泉になったのであろう。対象物への親密でユーモラスな視線、大胆な構図といった北斎作品の特質が、西洋の画家達の創作意欲を刺激したのであろう。

 

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム展特集」、図録「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展 2014年」、大久保純一「北斎」を参照した)

北斎とジャポニズム展  北斎と植物画、風景画(1)

鎖国の国、謎の国であった日本について西洋諸国に詳細な報告を残したのは、出島のオランダ商会員たちであったが、彼らは同時代の北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。なかでもシーボルトは、北斎に言及し、絵本から取った画像を1832年に刊行する「日本」に複製として掲載したのである。西洋では日本への関心が非常に高まった。そうした中、ルネサンス以来の美術の規範に閉塞感を感じていた西洋の芸術家たちが、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、そのエッセンスを消化しながら、自らの創作活動を展開した。この現象が、ジャポニズムである。特に、浮世絵師・葛飾北斎の存在感は圧倒的であった。人物から風景まで、森羅万象を大胆にかつユニークに描いた北斎は、参照される頻度も群を抜いていた。モネやゴッホの事例は、先の「華麗なるジャポニズム展」で、充分披露されたが、近年、世界的にジャポニズムの研究が進む中で、北斎の影響はイギリス、フランスに止まらず、広い地理範囲に、また絵画だけでなく、彫刻や工芸、グラフィック・デザインなど様々な分野にわたっていたことが明らかになった。今回は、北斎と植物、風景画の一部について記載することにした。西洋の絵画のジャンルのなかで植物は花瓶に活けられて描かれた。自然から切り離され、やがて枯れてゆく一時の華やぎを見せる花々には「死を忘れるな(メイント・メモリ)」というキリスト教のメッセージが託されていたのである。反対に、花鳥画をはじめとする日本美術では、花々は地上に根を張って空を仰、ときに風に吹かれ、ときに蝶がその周りを飛び交う蛙が葉の上で休む。こうした大きな自然の一片として植物を捉えたが、彼らが見た日本美術のなかには、北斎が描いた花々も含まれていたに違いない。また風景画も驚きをもって取り入れられた。

牡丹に蝶 葛飾北斎作 天保2~4年(1831~33)頃江戸時代(19世紀)

画面いっぱいに花を配する大胆なトリミングは、従来の日本の絵画のでも他を凌駕するものがある。風に逆らいながら飛ぶ蝶の姿形も見事である。

黄色いアイリス クロード・モネ作   1914~17年頃

花の絵と言えば西洋では静物画として描かれる習慣があった。その際、花は切り取られて花瓶に活けられたものである。日本で描かれる「花鳥画」は、型にはまった花の描写ではなく、自然の中に風が吹き蝶やトンボが飛び交う姿を描くものであった。クロード・モネの「黄色いアイリス」は、画家が自然に近づくことでクローズアップされ、画面の中央を堂々と占めている。モネの「黄色いアイリス」は、後のモネの「睡蓮」の連作を想定させることでも、重要な絵画であろうと思う。

「ばら」 フィンセント・ゴッホ作   1890年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、89年5月上旬には自ら療養院に入った。この「バラ」は療養院の荒れた庭のバラの茂みを描いたものだろう。淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は浮世絵やジーグフリード・ビングの「芸術の日本」の挿図など、日本美術の影響が見てとれる。

「北斎漫画」四編 葛飾北斎作 文化13年(1816) 江戸時代(19世紀)

日本美術になじみ深い雪景色図である。ナンシー派のガレやドーム兄弟の装飾品や、北欧の画家に影響を与えている。

冬  アクセリ・ガッレン=カツレラ作   1902年

北欧(ヘルシンキ)の画家たちが至近距離で描いた雪景色は、北斎の影響を強く受けている。この地ではいち早く日本美術を受容した。豊かな自然を描く伝統のあった北欧では、日本の自然表現も受け入れやすかっただろう。ここから先は、「北斎と風景画」に移る。

「富嶽百景」二編  葛飾北斎作 天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

「富嶽三十六景」は、知らない日本人はいないと言っても良い浮世絵の最高傑作である。しかし「三十六景」と言いながら、実は46図あることは、案外知られていない。それと同様に「富嶽三十六景」は有名であるが、この「富嶽百景」と呼ぶ連作があることも案外知られていない。「富嶽百景」は冊子形式3冊で、墨のみで描かれている。白黒の刷り本である。これも良く売れた本であるが、色彩が付いていないため、現在では知る人が少ない。太宰治が「富嶽百景」の中で次のように述べている。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度、北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル塔のような富士さえ描いている」と書いている。この「富嶽百景」の「竹林の不二図」は、面白い構図である。

木の間越しの春  クロード・モネ作   1878年

風景画を描く時に、西洋ではルネサンス以降のなかでは、まず画面の中心に消失点を想定して、そこに画面両側からの直線が交わるように構図を組み立てることが必要とされてきた。印象派はこのような規則に縛られずに、自らの体験を様々に表現したが、このモネの作品のような例はさらに斬新であった。この「木の間越し」の風景は、北斎の「富嶽百景」のなかの「竹林の不二」と似通っている。

「ボルディゲラ」 クロード・モネ作  1884年

この作品の構図も前出の「木の間越の春」同様、北斎の「富嶽百景」の「竹林の不二図」に似通っている。影響を受けたのであろう。

「富嶽三十六景 東海道保土ヶ谷」葛飾北斎作天保元~4年(1830~33)頃

この松並木越しに見る富士山の表現は、その赤い幹と葉のリズムが、行き交う人々とともに、活気のある画面を作り出している。

ヴァランジュヴィルの風景 クロード・モネ作  1882年

モネはこの北斎の東海道保土ヶ谷図の構図を模倣するのではなく、常に自らの体験をしようとするのである。本作については、モネは海を見晴らす道沿いにリズミカルでひょろっとした木々の並木を発見したのである。

陽を浴びるポプラ並木  クロード・モネ作  1891年

1891年の初夏から秋にかけて、モネが取り組んだのは、ジヴァルニー近郊のエプト川岸辺の「ポプラ並木」の連作である。この連作では、季節や時刻、天候の違いにより光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作も含め「ポプラ並木」の連作は、翌1892年春、パリの画廊で展示され、「積み藁」に続いて、大きな成功をモネにもたらした。この作品も北斎の影響があるような気がする。

「富嶽三十六景 駿州江尻」 葛飾北斎作  天保元~4年(1830~33)頃

甲州三島超と比較すると、軽やかな木が特徴であり、強風にうねりながら揺れる様が描かれている。北斎は、文政末から天保前期にかけて、まるでこの間にため込んだ画想をはき出すように、数多くの錦絵揃物を生み出している。「富嶽三十六景」など、今日の北斎の評価を不動ににしている名所絵揃物の多くはこの時期に描かれている。また、北斎の活躍によって浮世絵における名所絵がジャンルとして確立された。

「アンティーブ岬」 クロード・モネ作  1888年

モネが描いたこの作品の構図に、北斎の「富嶽三十六景 駿州江尻」の構図が、大きな影響を与えたものと思われる。

 

ジャポニズムとは、西洋の美術家たちが自分の芸術を発展させるために、日本美術の表現方法を取り入れた現象で、19世紀後半に生まれたものである。産業革命やフランス革命を経た当時の西洋は、社会が著しく変化していた。その中で、モネやドガといった印象派を中心に、画家たちもルネサンス以降の遠近法から脱脚した新しい表現を模索していたのである。装飾的な平面の構成や、絵が物を途中で断ち切るなどの大胆な構図を特徴とする浮世絵は印象派が目指す方向と一致していたと言える。画家たちは衝撃を受けるとともに、浮世絵の要素を自分の作品にどんどん取り込んでいった。変革を求めていた西洋の美術界にとって、浮世絵は大いなる触媒になったのである。当時、最も影響を与えた絵師が葛飾北斎だったのである。理由として「群を抜く画力や構図の妙に加え、圧倒的な作品の数と、花鳥画や名所絵、美人画など何でもこなす幅の広さがあったから」と、三浦篤・東大教授は説明する。

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム特集」、日経新聞「2017年11月18日 文化」、図録「ボストン美術館  2014年」、日経大人のOFF「2017年8月号」、大久保純一「北斎」を参照した)