妙心寺  塔頭  退 蔵 院

妙心寺には塔頭が四十六ケ寺あり、塔頭の多さでは京都の禅寺では一番を誇る。2017年の秋の紅葉の見ごろの季節に洛西を訪れ、妙心寺の塔頭では退蔵院が公開していた。ここは、日本最古の水墨画と言われる国宝 瓢鮎図(ひょうねんづ)で有名であるが、拝観して美しい庭園が、数多くあり、かつ紅葉の名所であることを知った次第である。退蔵院は今から600年以上前の応永11年(1404)の建立された山内屈指の古刹(こさつ)である。方丈(本堂)は妙心寺第三世であり、かつ退蔵院開祖である無因宗禅師を祀っている。退蔵院の境内にはこの方丈を取り囲むように作庭された枯山水庭園「元信の庭」、方丈南方の850坪に及ぶ池泉回遊式庭園「余香苑」(よこうえん)と、異なる趣きの庭園が広がっている。今回は、庭園と紅葉を中心に写真を楽しんで頂きたい。

山門   薬医門              桃山時代(16世紀)

退蔵院の山門であり、薬医門である。枯山水庭園公開中であった。紅葉が美しく、園内は満員の状態であった。なお、今回の京都巡礼の中で、初めての満員状態であった。

陽の庭(左)  陰の庭(右の庭)   枯山水          昭和時代

昭和の作庭である。敷砂の色が裳となる2つの庭は、物事や人心の二面性を伝えている。陽の庭(左)には7つ、陰の庭には8つ、合計15の石が配されている。敷砂の対比と石使いの調和が見事である。

紅しだれ桜

11月ともなれば、桜の葉も落葉している。4月に公開してくれれば、見事な桜が拝見できたであろう。

重要文化財  方丈      慶長4年(1597) 桃山時代(16世紀)

応仁の乱後、慶長4年(1597)に再建された方丈である。江戸末期に宮本武蔵が、ここに居住して精神修養の場として修行したとされている。この堂内には国宝瓢鮎図(ひょうねんづ)を所蔵している。

国宝  瓢鮎図(ひょうねんづ) 大巧如拙筆  室町時代(15世紀)

本図は、右上隅の大岳周崇による序に書かれているように、「丸くすべすべした瓢箪(ひょうたん)で、ねばねばした鯰(なまず)をおさえ捕ることができるか」という「新様」(新しいテーマ)を、将軍足利義持が「僧如拙」に命じて新様(新しい画風)で描かせ、また五山の諸僧をして一詩を詠ましめたものであり、当時の五山の名僧三十一名による賛がある。禅宗の絵としては。最も有名である。(なお、写真は、2016年の「禅(心をかたちに)」の展覧会で入手したものである)

「源信の庭」

狩野源信(狩野派2代目)が作庭した庭として著名である。勿論、原案を源信が描き、作庭は阿弥衆が行ったものである。この庭は、枯山水の分類上、典型的な枯池式枯山水に属する。吉河氏によれば、方丈を慶長年間に再建した時に、かなり方丈の建物が庭園に食い込み、その地割も枯池の東部が変化したと見られるそうである。

あずまや

まわりの紅葉が美しい。

余香苑(よこうえん)            昭和時代

池泉回遊式の昭和の名庭である。なだらかな勾配の「余香苑」は造園嘉の中根金作氏によって設計され、昭和40年に完成し、昭和の名庭と謳われるまでに成長した。桜、蓮、楓など一年を通して華やぐ庭園の中心には瓢鮎図にちなみ「ひょうたん池」が配置され、池のせせらぎや鹿威しの音色が楽しめる。背景に「あずまや」が見える。

 

寺院の名称である「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるように陰徳(人に知られないようにして良い行いをする)を積み重ね、それを前面に打ち出すのではなく、内に秘めながら布教していくという意味がある。600年の歴史を有する塔頭であるが、庭園は新しく昭和に出来たもので、明るい印象に包まれたお寺であった。紅葉の季節であった為、人の波に包まれたことは止むを得ないことである。

(本稿は、古寺巡礼京都「第31巻 妙心寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」、吉河功「京の庭」、退蔵院パンンフレットを参照した)

清浄な伽藍  妙 心 寺

妙心寺の地名は花園であるが、これは花園天皇(1297~1348)が若い頃から崇仏の念厚く、立派な学者でもあった。天皇の深く心を寄せられたのは宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、すなわち大燈国師(だいとうこくし)であったという。天皇は建武2年(1235)39歳の時に髪を下ろして法王となられた。大塔国師は、2年後に病気になり、法王は大いに驚き、後はどうしたら良いかとお尋ねになったところ、国師は「私の弟子の開山慧玄(かいざんえげん)こそ、その人であります」と答えられた。国師が示寂してから、開山の行方を捜し、漸く美濃の山里に草庵を結んでいる関山を見つけ、法王の離宮の改めて禅刹(ぜんさつ)とされた。これが正法山妙心寺の起こりである。時に、歴応5年(1242)開山が65歳の時であった。五世拙堂宋朴(せつどうそうぼく)の時に、室町幕府は、妙心寺を弾圧し、応永6年(1399)、応永の乱を機に足利義満は、山隣派の妙心寺を没収し、菁連院の所管とした。応永の乱で拙堂宋朴が大内義弘(おおうちよしひろ)に組したというのが、その言い掛かり的理由であった。妙心寺の名前は龍雲寺と改められたが、34年後に変換してきた。様々な事件の後、応仁元年(1467)応仁の乱が起こり、時の妙心寺の住持であつた雪江宋心(せっこうそうしん)が六世であった。妙心寺は焼け、文明9年(1477)、後土御門天皇から妙心寺再興の綸旨を得た。妙心寺の再興と発展の基礎造りに尽力した雪江宋心は文明18年(1486)6月に、79歳をもって寂した。現在、妙心寺は境内13萬坪、塔頭47、緒堂伽藍の揃った大寺院である。臨済宗妙心寺派大本山となり、全国に3500余の関係寺院を擁する、禅宗としては最大の規模を誇るまでになった。

重要文化財  南総門        慶長15年(1610)  桃山時代

切妻造、本瓦葺の薬院門(やくいんもん)で、慶長15年(1610)につくられた。伽藍の南北軸線をややずらして東寄りに建てられいる。妙心寺の表門として威厳を備え、かつ人々の通用門となっている。

重要文化財  三  門(さんもん)   慶長4年(1599)桃山時代

二重二層の入母屋造で、木部に朱塗の彩色を施し、左右に山廊(さんろう)がつき、ここから二層上階にあがる。京都の禅宗寺院の東福寺三門、大徳寺三門に続いて古い三門建築である。毎年6月18日には二層上階で観音繊法会(かんのんせんぽうえ)、7月15日には三門施餓鬼が行われる。

重要文化財  仏殿     文政10年(1827) 江戸後期(19世紀)

三門の後方に南面して建つ。入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗仏殿である。内部には須弥壇があり、後方左左右に脇仏壇が設けられている(重文)。現仏殿以前の仏殿が大破したため、文政10年(1827)に再興された。

重要文化財  法堂(はっとう)   明暦3年(1657) 江戸時代初期

仏殿の後方に建つ。一重裳階(もこし)付、明暦3年(1657)江戸時代初期の建築である。山内で最大の堂宇である。開山300年を記念して承応4年(1655)から明暦3年(1657)にかけて建造したものである。妙心寺は諸堂揃った大寺院と称するが、諸堂伽藍とは、仏殿、法堂(はっとう)、庫裏、僧堂、三門、浴室、東司(とうす)の7棟である。

法堂天井  雲龍図  狩野探幽作   明暦2年(1656)江戸時代初期

法堂の内陣には、狩野探幽(1602~74)の筆による蟠龍(ばんりゅう)が描かれている。普通、天井に貼るが、ここのは直接板に描かれている。「探幽法眼筆」と署名されている。この妙心寺の雲龍図は「八方睨みの龍」と言われ、法堂のどの位置から眺めても、見る者を睨んでいる。探幽が生きた龍を活写したのだから、ぎょろっとした眼が動くのも納得できる。この法堂の落慶供養は、万治元年(1658)に愚堂禅師によって営まれている。

国宝  梵鐘          天武2年(698) 白鳳時代(7世紀)

法堂内部に安置されている梵鐘は、日本最古の紀年銘を持つ梵鐘である、「徒然草」の中で、兼好が「およそ鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし・・浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」と述べている。もとは浄金剛院(廃寺)にあったものである。近年まで除夜のにはテレビでその音を全国に響かせていたが、現在は現役を引退である。なお、九州大宰府の観世音寺の鐘も日本最古をうたうが紀年銘がなく、お寺では妙心寺の鐘と兄弟鐘としていて、日本最古を謳っている。こちらは現役で、今でも鐘は撞かれている。

重要文化財  浴室      明暦2年(1656)江戸時代初期

三門の東に西面し、正面5間、中央入口は桟唐戸の上に蟇股(かえるまた)と唐破風をつけている。通称「明智風呂」と呼ばれ、明智光秀(1528~82)の叔父で塔頭大嶺院の開基である密宗和尚が光秀の菩提を弔って、天正15年(1587)に創建したと伝える。現在の建物は明暦2年(1656)の建築である。

重要文化財  浴室内部「明智風呂」    明暦2年(1656)江戸時代初期

内部には唐破風を正面に向けた蒸し風呂形態の浴場と洗い場がある。現在でも使用できるほど守備整って貴重な遺構である。これだけ完全に、浴室設備が残っている寺院は無いと説明された。妙心寺参拝者に人気の建造物である。

重要文化財  大方丈       承応3年(1654)江戸時代初期

法堂と寝殿をつなぐ廊下の東に南面する。承応3年(1654)に上棟された、一重、入母屋造、杮葺である。仏殿、法堂などの仏殿形式と対照的に、中世以来の住宅形式の伝統を守りながら、規模は雄大で木割りは太い。北・東・西には広縁、正面には大広縁がめぐり、室内には仏間と南面の室中を中心とする。

重要文化財  北総門           慶長15年(1610)桃山時代

境内の北、一条通りに北面して建ち、切妻造、本瓦葺の薬師門(やくしもん)である。南総門とほぼ同じ形であるが、ひとまわり大きく、更に簡素である。

清浄な伽藍 妙心寺

妙心寺の諸堂と、内部の石畳の通路で、住民には南北通路として、良く利用されている。しかし、観光客には閉鎖的で、一番拝観したい障壁画は見せてくれない冷たい妙心寺である。

 

境内13万坪、塔頭47、諸堂伽藍の揃った、日本屈指の大寺院である。堂内には相阿弥、狩野源信、長谷川等伯、海北友松(かいほゆうしょう)、狩野山楽等の名画(襖絵等)が多数ある。残念ながら、お寺は解放せず、偶に春秋に公開することがるらしいが、私は残念ながら、一度も拝観したことが無い。提案がある。どこか紀念の年、例えば三門420年紀念祭に、1年間を通して公開し、後は十年に一度位の公開にしてはどうか。是非、名画の数々を、この眼で確かめておきたい。妙心寺は、南門から北門に到る通路(石畳)は、常に公開され、南北の通り道として利用者の多いお寺である。にも拘わらず、有名な障壁画は、全く公開しない、極めて不親切なお寺である。大衆的であるが、非公開の冷たさが目立つお寺である。是非、美術愛好家のために、秘蔵の障壁画を1年間通しで公開する企画を立てて頂きたい。そうすれば、更に好きなお寺として記憶に残るのだが、残念である。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第31巻  妙心寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都 洛西」を参照した)

嵯峨   大  覚  寺

都の西北に位置する嵯峨野の大覚寺は、嵯峨天皇によってこの地に営まれた嵯峨離宮に端を発する。嵯峨天皇は平安京の北西部に広がる嵯峨野をこよなく愛され、大同4年(809)に即位されたとき、妃の壇林皇后との新居として造営された宮廷苑池であった。ときに平安遷都から間もない頃で、世の中は安定せず、大同5年(810)には、平城京への複都をはかる薬子の乱(くすこのらん)が起こった。大同元年(806)に唐から帰朝し、九州大宰府に留まっていた弘法大師は、嵯峨天皇の即位間もない大同4年夏に、京都の高雄山(現在の神護寺)に入った。薬子の乱に際しては、弘法大師は、高尾山において国家安泰を祈願する仁王経大法会(にんのうきょうだいほうえ)を執り行った。これもご縁となり、嵯峨天皇と弘法大師の親交が深まり、造営間もない離宮へ大師もしばしば足を運び、中国の事情や文化・芸術について嵯峨天皇と親しく会話されたことが伝えられている。注目すべきは、弘仁2年(811)に嵯峨天皇が、離宮の中に五大明王をまつる五覚院を造立されたことである。ここに弘法大師が刻まれた五大明王が安置された。鎮護国家と衆生救済を五大明王に祈願することは、弘法大師が嵯峨天皇に奨めたためと見られる。嵯峨天皇の離宮・嵯峨院が大覚寺として再出発したのは貞観(じょうがん)18年(876)2月のことで、離宮を寺に改めたのは、嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇の皇后であった正子内親王であった。これを受けて、清和天皇は大覚寺を勅許された。嵯峨院は、承和元年(876)2月に嵯峨太政天皇の御所となり、同年10月には寝殿が落慶した。従って、大覚寺の起源は、承和元年(876)である。大覚寺は何度も兵火によって焼け、今日の宸殿、西寝殿が皇居から移築されたのは、元和から寛永年間(1615~44)にかけてであって、江戸時代初期の建物である。真言宗大覚寺派を名乗ったが、大正13年(1924)に、高野山・仁和寺と合同して古義真言宗となった。京都盆地の中で、いまも王朝の景観を止めている嵯峨野の大覚寺では、毎年中秋の明月に龍頭鷁首(りゅうとうげきす)船を大沢池に浮かべて観月の会が催され、秋の風物詩となっている。

式台玄関 木造入母屋造瓦葺(もくぞういりもやつくりかわらぶき)江戸時代(17世紀)

正面に銅板葺の唐破風を備える。妻飾りは木連格子懸漁(きつれんこうしかけぎょ)付で、その様式や軒まわりの構法などは、宸殿に近いものがある。宸殿の移築とともに付随して移されたものと目される。

重文  宸殿  入母屋造、桧肌葺、        江戸時代(17世紀)

式台玄関の東にある御殿風の大建築である。妻飾り、破風などに装飾をこらされている。建築史の研究によれば、後水尾(ごむずのお)天皇に入内して東福門院の、元和5年(1619)に女御御所の宸殿が、寛永度の造営中、明正天皇(後水尾天皇と東福門院の子)の仮皇居として用いられた、内裏竣工後、不要になったので、大覚寺に下賜されたものと見られている。御所の建物らしい風格がある。

宸殿内部                 江戸時代(17世紀)

 

内部には主室が4つあり、中央の最大の室は牡丹の間で33畳、その東の柳松の間が18条。天井も、前者が折上下組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、後者は格天井と、豪華な仕上げである。襖絵は狩野山楽の作(文化財保護のため複製に入れ替え)であり、原作は極めて豪華である。

村雨の廊下                江戸時代(17世紀)

緒殿舎をつなぐ回廊も、大覚寺の特徴の一つである。両側には、手摺(高爛)があり、ときに真直ぐ、ときには曲がって、歩むごとに目に入る景色は変化していく。嵯峨御所と呼ばれる大覚寺、その雅やかさをいっそう感じさせる。

重文 正寝殿 お冠の間          桃山時代(17世紀)

正寝殿の中心になる最高位の室で8畳。後方4畳が上段で一段高く、玉座を設け、奥に張台構(ちょうだいかまえ)、向って右に平書院と言う具合に、京都御所常御殿の上段と同じような設えとなっている。正寝殿は、12の部屋を持つ書院造りである。

名所  大沢の池

弘仁5年(814)頃、嵯峨天皇が離宮としてつくられた嵯峨院庭園の池で、日本最古の人工の林泉(林や泉水のある庭園)とされる。中国の洞庭湖になぞらえ、庭湖とも呼ばれる。池には天神島、菊の島と庭湖石がある。この写真は、紅葉に染まる夜の「大沢の池」の写真である。

重文 不動明王像   明円作 安元2~3年(1176~77) 平安時代後期

平安時代初期、大覚寺創建時の尊像は弘法大師作と伝えられているが、現存しない。その復興期と見られる平安時代後期の像である。金剛夜叉・軍陀利(ぐんだり)の各明王像の台座に安元2年(1176)と同3年の墨書銘があり、前者には、七条殿弘御所(こごしょ・後白河上皇の御所)で仏師明円(みょうえん)が造立し自ら寄進した旨記されている。明円は12世紀後半の有力仏師で、その唯一の現存作例である。不動明王以外の4像は、当時講堂像を忠実に模写したものである。

重文 大威徳明王像(左)   明円作    平安時代後期         重文 軍荼利明王像(右)   明円作    平安時代後期

平安時代後期の作で、明円仏師の作である。東寺講堂の忠実な模写であり、出来栄えは良い。

十一面観音立像                     平安時代後期

頭の上に頂上仏と、十の頭上面をあわせて十一面。観音菩薩の慈悲があらゆる方向に向かうことを象徴している。腰をわずかに左にひねり、左足を踏み出す姿は、この菩薩が世間を練り歩いて衆生を救う存在であることを示すものである。定朝様式を引き継ぐ平安時代後期のあでやかな作風を示す。少年のように愛らしい表現から円派の製作と想定されている。

愛染明王坐像               嘉暦3年(1328) 鎌倉時代

愛染明王(あいぜんみょうおう)は、愛欲貪欲(どんよく)を菩提心で浄菩提心に変えると言われる。儀軌どうり、三目六臂(目が三つ、腕が6本)、怒りをあらわにした憤怒相で、獅子冠を戴き、日輪型の光背を背に、宝瓶から生じる蓮華上に坐す。保存状態が良く、後補が少ないうえ台座底面に「嘉暦三年戊辰正月一日」という墨書銘があって、嘉暦3年(1328)鎌倉末期作と判明する規準作である。台座部分に、舎利と抹香入りの裂袋が納入されていた。

 

平安京が1000年を超える都と定まったのは嵯峨天皇の時であるとする認識が歴史家の間では定説である。これは鴨長明が方丈記の中で「おほかた、此の京のはじめ開ける事は嵯峨天皇の御時、都と定まりけるより後、すでに四百年を経たり」と述べている。ことに嵯峨天皇は唐の文物に人一倍関心をもったことから、いわゆる唐風文化が花開いたのである。遣唐使によってもたらされた知識にもとづき、宮中の殿舎や京中の条坊に唐風の名が付けられたのも嵯峨朝であり、また漢詩文が好まれ、神泉苑その他でしばしば詩賦の会がもたれる一方、「凌雲集」(りょうんしゅう)以下の漢詩集がはじめて勅撰され、新渡の塔風俗である喫茶がたちまち宮廷貴紳の間に広まっていった。今日の京文化の基礎を作ったのかも知れない。溢れるほどの外国人観光客を見て、改めて京都文化の奥深さ、その基礎を築いた人に、思いを馳せた次第である。

 

(本稿は、古都巡礼 京都「第28巻 大覚寺」、探訪日本の古寺「第9巻     京都 四)を参照した)

嵯峨  清 凉 寺

日本人にとって、京都は心のふる里である。その京のみやこは洛西に嵯峨、名勝の嵯峨嵐山の渡月橋をわたって北へ、一本道を歩む続けると、山陰線が道を横切っている。それを超えてさらに歩き続けること、5,6分で、その道の突き当りに釈迦堂の山門が聳え立つ。見上げるような山門は、嵯峨野のシンボルである釈迦堂である。正しくは五台山清凉寺という。釈迦堂の名前で親しまれているのは、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、今から千年以上も前、中国の宋に渡り、五台山清凉寺に留学し、帰国する際に請来した栴檀釈迦頭瑞像(せんだんしゃかずいぞう)を本尊として、落西の愛宕山を五台山になぞらえて、中国の五台山清凉寺を移したてようと発願(ほつがん)したことによる。この栴檀頭像(せんだんずぞう)は、「三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来」として、ひろく信仰されていることによって、釈迦堂としてながく民衆の信仰を得て今日にいたっている。仏教では、釈迦没後500年間は「正法(しょうぼう)」、その時期を過ぎると次の500年は「像法(ぞうほう)」の時代とされ、それ以降は「末法(まっぼう)の時代とされた。平安時代の日本では、その「像法」がつきて「末法」に入る最初の年が永承(えいしょう)7年(1052)と考えられていた。この頃の歴史の年表を見ると京の都は何度も大火があるし、大地震や洪水、飢饉や疫病の流行など恐ろしいことが続いている、五濁悪世(ごじょくあくせ)そのもののこの世であった。この末法突入の時期に、日本では阿弥陀如来像が、この世を救うと信じられていた。この「三国伝来の釈迦如来」も、末法の時代の「救いの仏」と信じられたに違いない。事実、寛和2年(986)、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から将来し、いま清凉寺の本尊として祀られるのが釈迦如来像である。間もなく来る末法の時代に恐れ慄いていた貴族や庶民が、この珍しい生身の釈迦如来像に、深い信仰心を抱いたことは当然と思う。また、この地は、「源氏物語」の主人公・光源氏(ひかるげんじ)の山荘とお堂であったと伝わる。

山門(仁王門) 入母屋造 本瓦葺         江戸時代(18世紀)

「嵯峨釈迦堂」の名前で親しまれている五台山清凉寺の正面に聳えるのがこの仁王門である。一見して、上層が大きいのに気づくが、これはこの門が江戸末期、安永6年(1776)の再建であり、その頃の様式手法をよく示しているためである。和様の色彩を残しながらも前体的に禅宗様式が強く出ているもので、江戸時代中・末期の仏堂や門などに一般的に広く行われたもので、折衷様の一種である。なお、上層部内部には十六羅漢像が安置されているそうだ。

本堂  一重、入母屋造、本瓦葺、           江戸時代(18世紀)

仁王門の後方、少し左寄りに建つ大建築である。この本堂は清凉寺式釈迦如来像を安置されていることでも有名である。昔は(昭和30年代までは)十大弟子も安置されていたが、現在は、それは霊宝館に移されている。現在のお堂は江戸初期、元禄14年(1701)に再建されたものである。この宮殿は五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進と伝える禅宗様式の壮大華麗な建物である。

阿弥陀堂  入母屋造、本瓦葺、文久3年(1863)江戸時代末期(19世紀)

清凉寺の前身である棲霞寺(せいかじ)の名残の堂といい、本堂に向かって右にある。健築としては新しく、文久3年(1863)の再建である。内部は前方外陣、その後方内陣には、国宝「阿弥陀三尊像」が、かって安置されていた。(今は霊宝館に安置されている)この阿弥陀堂の前身である棲霞寺とは、ここの源融(みなもとのとおる)の山荘であったとされる。嵯峨天皇の皇子で左大臣でもあった源融は、「源氏物語」の光源氏(ひかるげんじ)のモデルと言われている。平安の昔から、嵯峨は貴族の別荘であったので、「源融」が、ここの山荘を構えていてもうなづけるのである。皇子で臣下に降りた貴公子は、また時代一の風流人でもあったのであろう。紫式部は「源氏物語」の舞台に、嵯峨を度々取り上げている。光源氏の嵯峨の別荘という位置は、清凉寺の地域をあてているように思われる。現在の阿弥陀堂は融時代の山荘の名残りである。融(とおる)の山荘は棲霞寺(せいかじ)となり、融の薨ずる間際に出来上がった丈六の阿弥陀仏を本尊としている。観音・勢至の脇侍を従えた三尊そろった威容は、平安初期の浄土教の名残を見せ、素晴らしいものである。嵯峨光仏という名で呼ばれた千年の歳月、信仰を集め続けてきた。

多宝塔 下層方形、上層円形 元禄16年(1703)江戸時代初期(18世紀)

仁王門を入って左手に多宝塔がつつましやかに立っている。方三間、二重、下層方形、上層円形平面の形通りの多宝塔である。寺伝では、元禄13年(1700)に江戸音羽・護国寺で出開帳があり、その時に一般大衆の寄進を受け、3年後の同16年(1703)の建立したものである。型通りの多宝塔であるが、全景も美しく、江戸時代多宝塔の一典型である。初層内部には多宝如来がお祀りしてある。

国宝 釈迦如来立像        中国製  平安時代(10世紀)

寛和2年(986)7月、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から渡来し、いま清凉寺の本尊としてまつられる釈迦如来立像である。像の制作者は台州の仏師張延皓(ちょうえんこう)と張延襲(ちょうえんしゅう)兄弟で、二人の名は像の背面に刻まれている。太宗皇帝が宮中に秘蔵しており、奝然(ちょうねん)が拝して感激した「優填王(うえんおう)の釈迦像」は、インド僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)が中央アジアの亀慈国(きじこく)から中国へ伝えたと言われる。優天王とは、4,5世紀の仏教伝説に登場するインド・カウシャンビー国のウダヤナ王のことで、説話では、たまたま釈迦が天に昇って生母摩耶夫人(まやぶにん)のために法をといた時、王は地上から釈迦の姿が消えたのを悲しみ、栴檀(せんだん)をもって釈迦の姿を彫らせ、釈迦に対すると同じように礼拝した。これがインドにおける仏像の初例となったと言う。しかし、釈迦を人の姿で表すこ仏像がはじめてつくられたのは、紀元後の1世紀ごろ、インドの西北ガンダーラ地方であり、釈迦在世中(紀元前5~4世紀)から、あったものではない。したがって優填王の説話は後世の制作であるが、この説話が成立したころ(4,5世紀)のインドでは、釈迦の生身(しょうしん)をうつしたと信じられた仏像があり、これが「優天王の釈迦像」として広く信仰をあつめられたものと考えられる。この釈迦像の形姿は、4,5世紀ごろインドから中央アジア一帯にかけて流行した仏像の形式であり、平安以前の日本彫刻には前例がない。清凉寺様式の摸刻は、文化財指定のものに限っても20点、未指定品をふくめると80余点となる。また昭和28年(1953)に、この像内から内蔵品が多数発見され、すべて国宝に指定されている。

国宝  阿弥陀如来像   木造(中央)      平安時代(9~10世紀)国宝  勢至菩薩像    木造(向って右)    平安時代(9~10世紀)国宝  観音菩薩像    木造(向って左)    平安時代(9~10世紀)

清凉寺の一隅に阿弥陀堂としてのこる棲霞寺(せいかじ)の本尊、阿弥陀三尊像である。棲霞寺は右大臣源融(みなもととおる)(源氏物語のヒロイン光源氏)が山荘をいちなんでいた棲霞観(せいかかん)を、融の死後、二人の遺児が父にかわって施入し創建した寺である。平安前期(9世紀)の終わり頃になると、それまで圧倒的な信仰を集めていた薬師仏への信仰にかわり、来世の幸福を司る阿弥陀仏とその西方浄土に対する信仰が貴族たちのこころをとらえはじめた。先に指摘した、正に末法(まっぼう)の時代の到来である。阿弥陀如来を本尊とするお寺が建てられるようになった。棲霞寺(せいかじ)の本尊も阿弥陀三尊像である。現在では、清凉寺の一堂に名を留めるのみであるが、かってはこのお堂が、この寺の主流であったのである。阿弥陀三尊像は一木造、漆箔、彫眼の像で、中尊は弥陀の定印、左右脇仏は他に例のない密教風の印相を結び、これまた類例の少ないにぎやかな臂釧(ひせん、腕かざり)をつけている。中尊の肩は広く量感に富み、ふかく刻んだ着衣の襞(ひだ)も動感にあふれ、相好も切れ長の眼、張った頬に重厚な雰囲気を見せている。脇侍仏も同様で、広い肩、ふかい衣文、肉づきのよい重厚な表情と、中尊と共通する特色を見せるているが、ほそい胴はひろい肩に較べてやや調和を欠くようである。

重要文化財  文殊菩薩騎獅像           平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩とともに本尊釈迦如来像の脇侍となる文殊菩薩像である。独尊像でつくられることもあったが、普賢菩薩と一対で釈迦の脇侍としてまつられることも多い。形姿は獅子に乗り、右手に剣、左手に経巻を持つのが通例である。しかし、頭髪は菩薩に通例の高い宝珠を結っている。しかも両手はいずれも肘から先が後世の補作であり、持物の剣と経巻も新しいことから、この像が初めから文殊菩薩としてつくられたかどうか問題となる。恐らく、当初は観音菩薩であったものを、ある時期、文殊菩薩につくり変え、釈迦像の脇侍としたのではないかと思われる。

重要文化財  普賢菩薩騎象像          平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩は本来、成仏のもとである菩提心を象徴し、行願(ぎょうがん、実行と意志)をつかさどるといわれるが。法華経は女性が成仏できることを説く数少ない経典であるので、平安時代後期になると、女性の信仰と深くむすびついて普賢菩薩の画像や彫刻が多数つくられた。そのため、普賢菩薩は普通、女性的で、優雅な姿で表現されている。独尊像としてあらわされることも多かったが、文殊菩薩と一対で釈迦の脇侍となることも少なくない。しかし、この普賢菩薩像は、形は通例と違い、半跏の姿勢で白象に坐し、持物をとる形は、東寺講堂の帝釈天像と全く同一である。顕教では普通、立像でよろいの上から衣をまとう姿で表されるが、密教では東寺講堂の帝釈天に代表されるように、衣の形式もちがうし、座法も水牛の上に半跏の姿で座っている。この普賢菩薩像は、間違いなく密教の帝釈天像の形姿である。いま普賢菩薩と呼ばれるこの像は、はじめ帝釈天としてつくられたのを、ある時期、普賢菩薩に転用し、文殊菩薩と併せて一組にしたと考えた方が、良いようである。

重要文化財  兜跋毘沙門天像          平安時代(10世紀)

東西南北の四方位を守護する仏教の尊像を四天王といい、そのうち北方天が多聞天と呼ばれる。多聞天は普通、他の三天とともに四軀一具として安置されるが、多聞天のみは独尊像としてつくられることも多く、その場合は特に毘沙門天の名で呼ばれる。兜跋毘沙門天の独特の形姿に起源は西域」のキジール、もしくはコータン地方の武人の服装から発していると考えられる。清凉寺像は、東寺像を原像として多くの摸刻像が造られたことになるのであろうか?

重要文化財  十大弟子立像(冨楼那像)     平安時代(10~11世紀)

釈迦に多くの弟子がいたが、そのうちとくにすぐれた十人の高弟を選んだのが十大弟子である。冨楼那(ふるな)は最年長者で、弁論を得意とし、説法第一と称された。「冨楼那の弁」という言葉もある。十大弟子像は、いわばこの世に実在した高僧の肖像彫刻である。いずれも遠い過去の人々であるため、表現はおのずと空想化や理想化が加わって非個性的な描写になることが多い。

 

清涼寺と言うと、三国伝来の釈迦如来像が話題になることが多いが、実は、ここは「源氏物語」のモデル「源融(みなもととおる)」の山荘であった「棲霞寺」(せいかんじ)の後に出来たものが清凉寺であり、むしろ平安時代の貴族の山荘が先に話題になるべきである。しかし三国伝来(インドー中国ー日本)の釈迦如来像に話題に集まり、何時の間にか平安時代の山荘の話が欠けてしまった。それだけに、一隅に存在する阿弥陀堂や、かって堂内にあった国宝阿弥陀如来三尊像が霊宝館に安置されていることを知る人も少なくなった。私が訪れた11月の下旬は、京都は紅葉を求める人で一杯であったが、この清凉寺に参拝する人は少なく、それもせいぜい釈迦堂までで、霊宝館は私1人の参拝であった。この素晴らしい、国宝・重要文化財の数々を紹介するため、長い文章になってしまった。是非、拝観の機会がある方は、平安時代の貴族の山荘の跡地であり、素晴らしい仏像群が霊宝館に祀られていることを思い出して頂きたい。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第21巻  清凉寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」を参照した)

京都   広 隆 寺

京都・太秦(うずまさ)の地に広隆寺がある。私は、学生時代から京都へ来れば、必ず広隆寺を拝んでいた。理由は、この寺の本尊である弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)を拝観するためである。この弥勒菩薩像は、奈良・斑鳩(いかるが)の里にある中宮寺の弥勒菩薩像にそっくりであると言われる程の美人仏であり、学生時代から愛して止まない仏様である。京福(けいふく)電鉄の太秦駅(うずまさえき)から歩いて3分程の場所に、京都最古のお寺である名刹・広隆寺の南大門(仁王門)が現れる。何度も火災にあうたびに僧侶が仏様を運びだしのであろう。傷も殆どつかない仏像群が霊宝館に祀られれている。国宝17体、重要文化財31体、その殆どを秘仏にすることなく、拝観できるのは、このお寺の大らかさを示すものであろう。私は、仏像博物館とでも呼べる例宝殿を拝するために、何十回と足を運んだのである。仏殿をしっかり拝観したのは、多分、今回(2017年11月)が初めてであるかも知れない。広隆寺にほど近い場所に「蛇塚」と呼ばれる巨大な横穴式石室がある。蛇塚と呼ばれるのは、かって蛇が群棲していたからだと言われ、古墳を盗掘から守るために毒蛇を放ったと言われるが、定かではない。この石室こそが、広隆寺を建立した秦氏(はたし)一族の首長を葬ったものとされている。この石室一つとっても、秦氏の勝れた技術力と強大な力の跡を偲ぶことができる。秦氏一族は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来人であり、大陸から土木灌漑、養蚕、機械、酒造り、そして自然暦を日本に伝えたのである。その家系を調べると、広隆寺を建立した河勝(かわかつ)の二代前に河公(かわのきみ)という人物がおり、川に関係のある名をともに持つことがわかる。秦昭王(はたあききみ)が桂川に堰(せき)(ダム)を設けて治水を行い、そこから水を引いて広大な水田を開いたと言われている。この堰(せき)が造られたので、渡月橋から下流を大堰川(おおいがわ)と呼んだと言われている。この昭王は河公と同一人物であると言われ、「太子伝」によれば、聖徳太子が大堰(おおい)を訪れ、近くに仮宮を設けたという。この仮宮が川勝寺(せんしょうじ)となり、平安遷都で北に移ったのが広隆寺であるという。川勝寺の名称は、河勝(かわかつ)から命名されたものだろう。広隆寺には桂宮院(けいぐういん)(太子堂)と呼ばれる鎌倉時代の八角円堂があり、中に聖徳太子16歳孝養像が安置され、秦氏と太子の交流を今に伝えている。広隆寺の建立は、推古11年(603)とされ、山城最古の寺院であり、法隆寺とともに聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされる。しかし、平安遷都後の弘仁9年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の僧道昌によって再興され、更に久安6年(1150)にも再び焼失、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものである。しかし、仏像だけは二度の火災に遭いながらも、奇跡的に難を逃れた。かくして広隆寺は、仏像博物観と呼んで良いほど数多くの傑作を今日に伝えている。

南大門(総門)  三間一戸の楼門        元禄15年(1702)

再建さえた楼門で、南面し、入母屋造桟瓦葺である。上層の軒は二重で、腰の周囲に廻縁を廻らし、手法は和様であるが、僅かに唐様を加味している。正面左右の金剛柵内に仁王像を安置しているが、製作年代は恐らく室町時代と考えられる。現在では、この門が総門となっている。

重要文化財  講堂            平安時代(永万元年ー1165)

楼門を入るとすぐ見える本瓦葺四柱造の建物で、五間四面、斗栱は和様出組、内部は化粧屋根裏となっている。京都最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれる。

国宝 阿弥陀如来像            平安時代(12世紀)

この像は弘仁時代と伝えられ、木造漆箔である。顔は豊満な輪郭を示し、体躯も肩幅広く、両肘を張り堂々とした落ち着きを見せ、重厚な感じを与える。光背は簡素であるが、像との調和が良い。

上宮王院太子伝(本堂)          享保15年(1730)

入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。非公開であるが、毎年11月22日に開扉される。

霊宝殿                  昭和時代

広隆寺は各時代の仏像、仏画、古文書等を数多く所蔵している京都随一の古名刹である。従来は、この霊宝殿の中に、ガラスケースを設け、その中に多数の仏像を安置していたが、ガラス戸を空け、あまりにも美しい半跏思惟像に惹かれ、京都大学学生が、キスをしようとして抱きつき、指を折ってしまった。以後、ガラス戸を止め、オープン式にして、半跏思惟像は、本尊として、やや奥まった場所に安置し、簡単に近づけないように変わった。壁面に沿って、数十体の古仏が整然と並ぶ様は、素晴らしい。日本一、拝観し易い霊宝殿である。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像     国宝一号  飛鳥時代(7世紀)

釈迦仏に代わって、この世のすべての悩み、苦しみを御救い下さる慈悲の仏である。用材は赤松であり、製作年代は飛鳥時代である。私は、朝鮮渡来の仏像であると思う。秦氏が朝鮮からもたらしたものであろう。わが国の国宝第一号であり、奈良・中宮寺の弥勒菩薩像と比較されることが多い。私は、中宮寺の半跏思惟弥勒菩薩像に惹かれる。この広隆寺弥勒菩薩像には、学生が、ガラス戸を開けて中に入り、キスをしようとして仏様の指が折れたという話は、あまりにも有名な事件である。事後、お寺では、仏像の陳列様式を変え、壁に沿って一列に並べる見易い方式になったが、この弥勒菩薩像は、本尊のように真中に据え、なかなか近づけないように工夫しているが、開架式を維持し、仏像を拝観する上で、最高の状態にしている。お寺の見識に感服した。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像      朝鮮製  飛鳥時代(7世紀)

「日本書記」によれば、聖徳太子没後1年の推古31年(623)、新羅から遣使があり、太子供養のために仏像1体、舎利、幡一具、小幡十二条を貢納したとある。この仏像が、この弥勒菩薩半跏思惟像である。本像は眼が大きく切れが長く伏目で口元を引き締めていることから「泣き弥勒」とも呼ばれる。堂々とした飛鳥仏(朝鮮製)である。金色が色濃く残っているのは、永年秘仏扱いされてきたからであろう。

国宝  不空羂寂観音像              天平時代(8世紀)

天平時代の作で、八臂の立像であり、全身はすらりと伸び、均整のとれた端麗な姿である。お顔は、高雅で、肉付きは引き締まっていながら弾力性を感じる。贅肉を一切作らぬ巧妙な造り方である。また衣文の彫り方も強い隆起を示す渦文を表し、柔軟流麗である。光背は円形光背のまわりに五つの火焔をつけた板光背である。

国宝  十一面千手観音立像           平安時代(9世紀)

弘仁時代(810~823)の作で千手観音の彫刻像の儀軌通りに十一面四十二臂像に作ってあり、各臂の持物も儀軌の規定に従っている。漆箔像であり、頭部から足までと、合掌する二臂と鉄鉢を持つ二臂は一木彫成であって、他の部分は繋ぎ合わせて作っている。堂々たる威厳のある相好を示している。

国宝  十二神将像(摩尼羅像)          平安時代(9~10世紀)

定朝の弟子である仏師長勢の作と伝えられている。薬師の守護神であるかた十二軀ともそれぞれ顔は怒りを表し、身には甲冑を付け、手には剣、鉾、弓等の武器を持ち、岩座上に立っている。躍動する姿が巧みに作られ、一々変化そ示している。藤原時代の作で、わが国最古の木彫りの神将像である。

国宝  桂宮院               慶長3年(1251)鎌倉時代

境内の西北部に桂宮院(けいきゅういん)、別名八角円堂がある。慶長2年(1251)に、中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根桧皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に法珠を載せている。中央に聖徳太子像、右側に阿弥陀如来像、左に如意輪観音像を安置する。(公開は4,5,10,11月の日曜、祝日のみ)

広隆寺を訪ねたのは久しぶりである。霊宝殿の仏像の並べ方がすっかり変わっているのに驚いた。あれほど、世間を騒がせた学生事件を受けても、公開姿勢を堅持する広隆寺の逞しさに感服した。とにかく、国宝、重要文化財の仏像類が多い事では京都随一であり、一見の価値はある。私が訪れたのは2017年11月下旬の紅葉の季節のせいか、霊宝殿は、私一人であった。紅葉だけが京都ではない。これだけの仏像が並ぶお寺を拝まない人は不幸だと思った。是非、京都へ立ち寄る場合は、広隆寺を拝観して頂きたい。なお、紅葉の季節に京都の西部(洛西)を訪れる場合は、山陰線を利用することをお勧めする。バスで1時間以上要するところを、20分位で到着する。私には、新しい発見であった。

 

(本稿は、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、宮本健次「京都 特別な寺」、パンフレット「広隆寺」を参照した)

紅葉に包まれた北野天満宮

2017年11月下旬に京都・北野天満宮を参拝した。天満宮は言うまでも無く、菅原道真公をお祀りする神社である。現在は、むしろ合格祈願の神様として篤い信仰を受けている。歴史を遡れば、延喜3年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された九州大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊(みたま)信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目に、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を戻し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥)が、自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に造り直されたと言われる。永延元年(987)に初めて直祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。西暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣の称が贈られた。如何に、天変地異に慄き、天満宮に頼ったかかが判る。幕末の神仏分離令まで三院家の社僧が、代々神官を務めた。天正15年(1587)10月、境内において豊臣秀吉による北野大茶会が開催された。この大茶会の場所として北野が選ばれたことは、聚楽第からもほど近く、秀吉が朝駆けに参詣することも多く、なじみ深い場所であったからだろう。あるいはそれ以上に、北野社が中世以来、詩文の神として一般の深い信仰を集める、庶民群集の場ともなって、京都では祇園とともに東西の遊楽の場でもあったことが原因であろう。江戸時代の頃には道真の温霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。明治4年(1871)に官幣中社に列するとともに、「北野神社」と改名された。旧称の北野天満宮に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。

北野天満宮の大鳥居

楼門

北野天満宮の楼門で、大鳥居から一列に並んでいる。

重要文化財  中門(三光門)           桃山時代

北野天満宮の中門である。この門から拝殿を包む西回廊も重要文化財に指定されている。

国宝  拝殿            慶長12年(1607) 桃山時代

慶長12年(1607)に建立された建物である。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする。権現造社殿である。唐神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。屋根はすべて桧肌葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合せて1棟としており、国宝に指定されている。

国宝  拝殿(お土居からみた)       慶長12年(1607)桃山時代

お土居の上から拝んだ拝殿の横顔である。

御土居(おどい)            天正19年(1591)桃山時代

秀吉が農村にせまった間地と刀狩の意欲は、京都にも迫った。それは聚楽第を構想したとき、既に京都という王城の地に根本的な変化を迫るものであった。それは聚楽第を中心とした城下町化の方向である。まず天正18年(1590)平安京の規模に基ずく町割りを整理し、寺町ー高倉間、堀川以西・押小路以南の地域には、半町ごとに南北の道路をつけた短冊形の新地割を断行した。そしてそのうえで翌天正19年(1591)閏正月、秀吉は禁裏西片の六丁町を大名屋敷とすることとし、従前より居住の廷臣らに替屋敷を与えているのである。つぎに市中散在の寺院を東の京極および安吾院付近にあつめ、前者を寺町、後者を寺の内と称した。最後に、同じ年(天正19年ー1591)、総延長五里二十六町におよぶ御土井(おどい)を建設した。東は加茂川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条という新しい京都の境域を示したのである。いわば聚楽第を中心とした京都の城塞化であった。秀吉はその竣工を、その年の5月に親しく視察した。現在、御土井が残っている場所は少なくなったが、京都市内に何カ所も残る。特に北野天満宮の御土井は紅葉で有名である。

御土井の紅葉

御土井の紅葉を3枚示した。今や、紅葉の観光地として、天満宮御土井の紅葉は、京都では最も有名な観光場所となっている。

 

11月から12月にかけて京都は、紅葉を求める観光客で、満員であり、ホテルもなかなか取れない程である。北野天満宮に事寄せて、是非、今回は京都の紅葉を楽しんで頂きたい。

 

(本稿は、「日本の歴史{第12巻  天下統一」、「ウイキペディア」、「楽々京都」を参照した)