嵯峨  清 凉 寺

日本人にとって、京都は心のふる里である。その京のみやこは洛西に嵯峨、名勝の嵯峨嵐山の渡月橋をわたって北へ、一本道を歩む続けると、山陰線が道を横切っている。それを超えてさらに歩き続けること、5,6分で、その道の突き当りに釈迦堂の山門が聳え立つ。見上げるような山門は、嵯峨野のシンボルである釈迦堂である。正しくは五台山清凉寺という。釈迦堂の名前で親しまれているのは、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、今から千年以上も前、中国の宋に渡り、五台山清凉寺に留学し、帰国する際に請来した栴檀釈迦頭瑞像(せんだんしゃかずいぞう)を本尊として、落西の愛宕山を五台山になぞらえて、中国の五台山清凉寺を移したてようと発願(ほつがん)したことによる。この栴檀頭像(せんだんずぞう)は、「三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来」として、ひろく信仰されていることによって、釈迦堂としてながく民衆の信仰を得て今日にいたっている。仏教では、釈迦没後500年間は「正法(しょうぼう)」、その時期を過ぎると次の500年は「像法(ぞうほう)」の時代とされ、それ以降は「末法(まっぼう)の時代とされた。平安時代の日本では、その「像法」がつきて「末法」に入る最初の年が永承(えいしょう)7年(1052)と考えられていた。この頃の歴史の年表を見ると京の都は何度も大火があるし、大地震や洪水、飢饉や疫病の流行など恐ろしいことが続いている、五濁悪世(ごじょくあくせ)そのもののこの世であった。この末法突入の時期に、日本では阿弥陀如来像が、この世を救うと信じられていた。この「三国伝来の釈迦如来」も、末法の時代の「救いの仏」と信じられたに違いない。事実、寛和2年(986)、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から将来し、いま清凉寺の本尊として祀られるのが釈迦如来像である。間もなく来る末法の時代に恐れ慄いていた貴族や庶民が、この珍しい生身の釈迦如来像に、深い信仰心を抱いたことは当然と思う。また、この地は、「源氏物語」の主人公・光源氏(ひかるげんじ)の山荘とお堂であったと伝わる。

山門(仁王門) 入母屋造 本瓦葺         江戸時代(18世紀)

「嵯峨釈迦堂」の名前で親しまれている五台山清凉寺の正面に聳えるのがこの仁王門である。一見して、上層が大きいのに気づくが、これはこの門が江戸末期、安永6年(1776)の再建であり、その頃の様式手法をよく示しているためである。和様の色彩を残しながらも前体的に禅宗様式が強く出ているもので、江戸時代中・末期の仏堂や門などに一般的に広く行われたもので、折衷様の一種である。なお、上層部内部には十六羅漢像が安置されているそうだ。

本堂  一重、入母屋造、本瓦葺、           江戸時代(18世紀)

仁王門の後方、少し左寄りに建つ大建築である。この本堂は清凉寺式釈迦如来像を安置されていることでも有名である。昔は(昭和30年代までは)十大弟子も安置されていたが、現在は、それは霊宝館に移されている。現在のお堂は江戸初期、元禄14年(1701)に再建されたものである。この宮殿は五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進と伝える禅宗様式の壮大華麗な建物である。

阿弥陀堂  入母屋造、本瓦葺、文久3年(1863)江戸時代末期(19世紀)

清凉寺の前身である棲霞寺(せいかじ)の名残の堂といい、本堂に向かって右にある。健築としては新しく、文久3年(1863)の再建である。内部は前方外陣、その後方内陣には、国宝「阿弥陀三尊像」が、かって安置されていた。(今は霊宝館に安置されている)この阿弥陀堂の前身である棲霞寺とは、ここの源融(みなもとのとおる)の山荘であったとされる。嵯峨天皇の皇子で左大臣でもあった源融は、「源氏物語」の光源氏(ひかるげんじ)のモデルと言われている。平安の昔から、嵯峨は貴族の別荘であったので、「源融」が、ここの山荘を構えていてもうなづけるのである。皇子で臣下に降りた貴公子は、また時代一の風流人でもあったのであろう。紫式部は「源氏物語」の舞台に、嵯峨を度々取り上げている。光源氏の嵯峨の別荘という位置は、清凉寺の地域をあてているように思われる。現在の阿弥陀堂は融時代の山荘の名残りである。融(とおる)の山荘は棲霞寺(せいかじ)となり、融の薨ずる間際に出来上がった丈六の阿弥陀仏を本尊としている。観音・勢至の脇侍を従えた三尊そろった威容は、平安初期の浄土教の名残を見せ、素晴らしいものである。嵯峨光仏という名で呼ばれた千年の歳月、信仰を集め続けてきた。

多宝塔 下層方形、上層円形 元禄16年(1703)江戸時代初期(18世紀)

仁王門を入って左手に多宝塔がつつましやかに立っている。方三間、二重、下層方形、上層円形平面の形通りの多宝塔である。寺伝では、元禄13年(1700)に江戸音羽・護国寺で出開帳があり、その時に一般大衆の寄進を受け、3年後の同16年(1703)の建立したものである。型通りの多宝塔であるが、全景も美しく、江戸時代多宝塔の一典型である。初層内部には多宝如来がお祀りしてある。

国宝 釈迦如来立像        中国製  平安時代(10世紀)

寛和2年(986)7月、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から渡来し、いま清凉寺の本尊としてまつられる釈迦如来立像である。像の制作者は台州の仏師張延皓(ちょうえんこう)と張延襲(ちょうえんしゅう)兄弟で、二人の名は像の背面に刻まれている。太宗皇帝が宮中に秘蔵しており、奝然(ちょうねん)が拝して感激した「優填王(うえんおう)の釈迦像」は、インド僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)が中央アジアの亀慈国(きじこく)から中国へ伝えたと言われる。優天王とは、4,5世紀の仏教伝説に登場するインド・カウシャンビー国のウダヤナ王のことで、説話では、たまたま釈迦が天に昇って生母摩耶夫人(まやぶにん)のために法をといた時、王は地上から釈迦の姿が消えたのを悲しみ、栴檀(せんだん)をもって釈迦の姿を彫らせ、釈迦に対すると同じように礼拝した。これがインドにおける仏像の初例となったと言う。しかし、釈迦を人の姿で表すこ仏像がはじめてつくられたのは、紀元後の1世紀ごろ、インドの西北ガンダーラ地方であり、釈迦在世中(紀元前5~4世紀)から、あったものではない。したがって優填王の説話は後世の制作であるが、この説話が成立したころ(4,5世紀)のインドでは、釈迦の生身(しょうしん)をうつしたと信じられた仏像があり、これが「優天王の釈迦像」として広く信仰をあつめられたものと考えられる。この釈迦像の形姿は、4,5世紀ごろインドから中央アジア一帯にかけて流行した仏像の形式であり、平安以前の日本彫刻には前例がない。清凉寺様式の摸刻は、文化財指定のものに限っても20点、未指定品をふくめると80余点となる。また昭和28年(1953)に、この像内から内蔵品が多数発見され、すべて国宝に指定されている。

国宝  阿弥陀如来像   木造(中央)      平安時代(9~10世紀)国宝  勢至菩薩像    木造(向って右)    平安時代(9~10世紀)国宝  観音菩薩像    木造(向って左)    平安時代(9~10世紀)

清凉寺の一隅に阿弥陀堂としてのこる棲霞寺(せいかじ)の本尊、阿弥陀三尊像である。棲霞寺は右大臣源融(みなもととおる)(源氏物語のヒロイン光源氏)が山荘をいちなんでいた棲霞観(せいかかん)を、融の死後、二人の遺児が父にかわって施入し創建した寺である。平安前期(9世紀)の終わり頃になると、それまで圧倒的な信仰を集めていた薬師仏への信仰にかわり、来世の幸福を司る阿弥陀仏とその西方浄土に対する信仰が貴族たちのこころをとらえはじめた。先に指摘した、正に末法(まっぼう)の時代の到来である。阿弥陀如来を本尊とするお寺が建てられるようになった。棲霞寺(せいかじ)の本尊も阿弥陀三尊像である。現在では、清凉寺の一堂に名を留めるのみであるが、かってはこのお堂が、この寺の主流であったのである。阿弥陀三尊像は一木造、漆箔、彫眼の像で、中尊は弥陀の定印、左右脇仏は他に例のない密教風の印相を結び、これまた類例の少ないにぎやかな臂釧(ひせん、腕かざり)をつけている。中尊の肩は広く量感に富み、ふかく刻んだ着衣の襞(ひだ)も動感にあふれ、相好も切れ長の眼、張った頬に重厚な雰囲気を見せている。脇侍仏も同様で、広い肩、ふかい衣文、肉づきのよい重厚な表情と、中尊と共通する特色を見せるているが、ほそい胴はひろい肩に較べてやや調和を欠くようである。

重要文化財  文殊菩薩騎獅像           平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩とともに本尊釈迦如来像の脇侍となる文殊菩薩像である。独尊像でつくられることもあったが、普賢菩薩と一対で釈迦の脇侍としてまつられることも多い。形姿は獅子に乗り、右手に剣、左手に経巻を持つのが通例である。しかし、頭髪は菩薩に通例の高い宝珠を結っている。しかも両手はいずれも肘から先が後世の補作であり、持物の剣と経巻も新しいことから、この像が初めから文殊菩薩としてつくられたかどうか問題となる。恐らく、当初は観音菩薩であったものを、ある時期、文殊菩薩につくり変え、釈迦像の脇侍としたのではないかと思われる。

重要文化財  普賢菩薩騎象像          平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩は本来、成仏のもとである菩提心を象徴し、行願(ぎょうがん、実行と意志)をつかさどるといわれるが。法華経は女性が成仏できることを説く数少ない経典であるので、平安時代後期になると、女性の信仰と深くむすびついて普賢菩薩の画像や彫刻が多数つくられた。そのため、普賢菩薩は普通、女性的で、優雅な姿で表現されている。独尊像としてあらわされることも多かったが、文殊菩薩と一対で釈迦の脇侍となることも少なくない。しかし、この普賢菩薩像は、形は通例と違い、半跏の姿勢で白象に坐し、持物をとる形は、東寺講堂の帝釈天像と全く同一である。顕教では普通、立像でよろいの上から衣をまとう姿で表されるが、密教では東寺講堂の帝釈天に代表されるように、衣の形式もちがうし、座法も水牛の上に半跏の姿で座っている。この普賢菩薩像は、間違いなく密教の帝釈天像の形姿である。いま普賢菩薩と呼ばれるこの像は、はじめ帝釈天としてつくられたのを、ある時期、普賢菩薩に転用し、文殊菩薩と併せて一組にしたと考えた方が、良いようである。

重要文化財  兜跋毘沙門天像          平安時代(10世紀)

東西南北の四方位を守護する仏教の尊像を四天王といい、そのうち北方天が多聞天と呼ばれる。多聞天は普通、他の三天とともに四軀一具として安置されるが、多聞天のみは独尊像としてつくられることも多く、その場合は特に毘沙門天の名で呼ばれる。兜跋毘沙門天の独特の形姿に起源は西域」のキジール、もしくはコータン地方の武人の服装から発していると考えられる。清凉寺像は、東寺像を原像として多くの摸刻像が造られたことになるのであろうか?

重要文化財  十大弟子立像(冨楼那像)     平安時代(10~11世紀)

釈迦に多くの弟子がいたが、そのうちとくにすぐれた十人の高弟を選んだのが十大弟子である。冨楼那(ふるな)は最年長者で、弁論を得意とし、説法第一と称された。「冨楼那の弁」という言葉もある。十大弟子像は、いわばこの世に実在した高僧の肖像彫刻である。いずれも遠い過去の人々であるため、表現はおのずと空想化や理想化が加わって非個性的な描写になることが多い。

 

清涼寺と言うと、三国伝来の釈迦如来像が話題になることが多いが、実は、ここは「源氏物語」のモデル「源融(みなもととおる)」の山荘であった「棲霞寺」(せいかんじ)の後に出来たものが清凉寺であり、むしろ平安時代の貴族の山荘が先に話題になるべきである。しかし三国伝来(インドー中国ー日本)の釈迦如来像に話題に集まり、何時の間にか平安時代の山荘の話が欠けてしまった。それだけに、一隅に存在する阿弥陀堂や、かって堂内にあった国宝阿弥陀如来三尊像が霊宝館に安置されていることを知る人も少なくなった。私が訪れた11月の下旬は、京都は紅葉を求める人で一杯であったが、この清凉寺に参拝する人は少なく、それもせいぜい釈迦堂までで、霊宝館は私1人の参拝であった。この素晴らしい、国宝・重要文化財の数々を紹介するため、長い文章になってしまった。是非、拝観の機会がある方は、平安時代の貴族の山荘の跡地であり、素晴らしい仏像群が霊宝館に祀られていることを思い出して頂きたい。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第21巻  清凉寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」を参照した)

京都   広 隆 寺

京都・太秦(うずまさ)の地に広隆寺がある。私は、学生時代から京都へ来れば、必ず広隆寺を拝んでいた。理由は、この寺の本尊である弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)を拝観するためである。この弥勒菩薩像は、奈良・斑鳩(いかるが)の里にある中宮寺の弥勒菩薩像にそっくりであると言われる程の美人仏であり、学生時代から愛して止まない仏様である。京福(けいふく)電鉄の太秦駅(うずまさえき)から歩いて3分程の場所に、京都最古のお寺である名刹・広隆寺の南大門(仁王門)が現れる。何度も火災にあうたびに僧侶が仏様を運びだしのであろう。傷も殆どつかない仏像群が霊宝館に祀られれている。国宝17体、重要文化財31体、その殆どを秘仏にすることなく、拝観できるのは、このお寺の大らかさを示すものであろう。私は、仏像博物館とでも呼べる例宝殿を拝するために、何十回と足を運んだのである。仏殿をしっかり拝観したのは、多分、今回(2017年11月)が初めてであるかも知れない。広隆寺にほど近い場所に「蛇塚」と呼ばれる巨大な横穴式石室がある。蛇塚と呼ばれるのは、かって蛇が群棲していたからだと言われ、古墳を盗掘から守るために毒蛇を放ったと言われるが、定かではない。この石室こそが、広隆寺を建立した秦氏(はたし)一族の首長を葬ったものとされている。この石室一つとっても、秦氏の勝れた技術力と強大な力の跡を偲ぶことができる。秦氏一族は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来人であり、大陸から土木灌漑、養蚕、機械、酒造り、そして自然暦を日本に伝えたのである。その家系を調べると、広隆寺を建立した河勝(かわかつ)の二代前に河公(かわのきみ)という人物がおり、川に関係のある名をともに持つことがわかる。秦昭王(はたあききみ)が桂川に堰(せき)(ダム)を設けて治水を行い、そこから水を引いて広大な水田を開いたと言われている。この堰(せき)が造られたので、渡月橋から下流を大堰川(おおいがわ)と呼んだと言われている。この昭王は河公と同一人物であると言われ、「太子伝」によれば、聖徳太子が大堰(おおい)を訪れ、近くに仮宮を設けたという。この仮宮が川勝寺(せんしょうじ)となり、平安遷都で北に移ったのが広隆寺であるという。川勝寺の名称は、河勝(かわかつ)から命名されたものだろう。広隆寺には桂宮院(けいぐういん)(太子堂)と呼ばれる鎌倉時代の八角円堂があり、中に聖徳太子16歳孝養像が安置され、秦氏と太子の交流を今に伝えている。広隆寺の建立は、推古11年(603)とされ、山城最古の寺院であり、法隆寺とともに聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされる。しかし、平安遷都後の弘仁9年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の僧道昌によって再興され、更に久安6年(1150)にも再び焼失、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものである。しかし、仏像だけは二度の火災に遭いながらも、奇跡的に難を逃れた。かくして広隆寺は、仏像博物観と呼んで良いほど数多くの傑作を今日に伝えている。

南大門(総門)  三間一戸の楼門        元禄15年(1702)

再建さえた楼門で、南面し、入母屋造桟瓦葺である。上層の軒は二重で、腰の周囲に廻縁を廻らし、手法は和様であるが、僅かに唐様を加味している。正面左右の金剛柵内に仁王像を安置しているが、製作年代は恐らく室町時代と考えられる。現在では、この門が総門となっている。

重要文化財  講堂            平安時代(永万元年ー1165)

楼門を入るとすぐ見える本瓦葺四柱造の建物で、五間四面、斗栱は和様出組、内部は化粧屋根裏となっている。京都最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれる。

国宝 阿弥陀如来像            平安時代(12世紀)

この像は弘仁時代と伝えられ、木造漆箔である。顔は豊満な輪郭を示し、体躯も肩幅広く、両肘を張り堂々とした落ち着きを見せ、重厚な感じを与える。光背は簡素であるが、像との調和が良い。

上宮王院太子伝(本堂)          享保15年(1730)

入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。非公開であるが、毎年11月22日に開扉される。

霊宝殿                  昭和時代

広隆寺は各時代の仏像、仏画、古文書等を数多く所蔵している京都随一の古名刹である。従来は、この霊宝殿の中に、ガラスケースを設け、その中に多数の仏像を安置していたが、ガラス戸を空け、あまりにも美しい半跏思惟像に惹かれ、京都大学学生が、キスをしようとして抱きつき、指を折ってしまった。以後、ガラス戸を止め、オープン式にして、半跏思惟像は、本尊として、やや奥まった場所に安置し、簡単に近づけないように変わった。壁面に沿って、数十体の古仏が整然と並ぶ様は、素晴らしい。日本一、拝観し易い霊宝殿である。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像     国宝一号  飛鳥時代(7世紀)

釈迦仏に代わって、この世のすべての悩み、苦しみを御救い下さる慈悲の仏である。用材は赤松であり、製作年代は飛鳥時代である。私は、朝鮮渡来の仏像であると思う。秦氏が朝鮮からもたらしたものであろう。わが国の国宝第一号であり、奈良・中宮寺の弥勒菩薩像と比較されることが多い。私は、中宮寺の半跏思惟弥勒菩薩像に惹かれる。この広隆寺弥勒菩薩像には、学生が、ガラス戸を開けて中に入り、キスをしようとして仏様の指が折れたという話は、あまりにも有名な事件である。事後、お寺では、仏像の陳列様式を変え、壁に沿って一列に並べる見易い方式になったが、この弥勒菩薩像は、本尊のように真中に据え、なかなか近づけないように工夫しているが、開架式を維持し、仏像を拝観する上で、最高の状態にしている。お寺の見識に感服した。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像      朝鮮製  飛鳥時代(7世紀)

「日本書記」によれば、聖徳太子没後1年の推古31年(623)、新羅から遣使があり、太子供養のために仏像1体、舎利、幡一具、小幡十二条を貢納したとある。この仏像が、この弥勒菩薩半跏思惟像である。本像は眼が大きく切れが長く伏目で口元を引き締めていることから「泣き弥勒」とも呼ばれる。堂々とした飛鳥仏(朝鮮製)である。金色が色濃く残っているのは、永年秘仏扱いされてきたからであろう。

国宝  不空羂寂観音像              天平時代(8世紀)

天平時代の作で、八臂の立像であり、全身はすらりと伸び、均整のとれた端麗な姿である。お顔は、高雅で、肉付きは引き締まっていながら弾力性を感じる。贅肉を一切作らぬ巧妙な造り方である。また衣文の彫り方も強い隆起を示す渦文を表し、柔軟流麗である。光背は円形光背のまわりに五つの火焔をつけた板光背である。

国宝  十一面千手観音立像           平安時代(9世紀)

弘仁時代(810~823)の作で千手観音の彫刻像の儀軌通りに十一面四十二臂像に作ってあり、各臂の持物も儀軌の規定に従っている。漆箔像であり、頭部から足までと、合掌する二臂と鉄鉢を持つ二臂は一木彫成であって、他の部分は繋ぎ合わせて作っている。堂々たる威厳のある相好を示している。

国宝  十二神将像(摩尼羅像)          平安時代(9~10世紀)

定朝の弟子である仏師長勢の作と伝えられている。薬師の守護神であるかた十二軀ともそれぞれ顔は怒りを表し、身には甲冑を付け、手には剣、鉾、弓等の武器を持ち、岩座上に立っている。躍動する姿が巧みに作られ、一々変化そ示している。藤原時代の作で、わが国最古の木彫りの神将像である。

国宝  桂宮院               慶長3年(1251)鎌倉時代

境内の西北部に桂宮院(けいきゅういん)、別名八角円堂がある。慶長2年(1251)に、中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根桧皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に法珠を載せている。中央に聖徳太子像、右側に阿弥陀如来像、左に如意輪観音像を安置する。(公開は4,5,10,11月の日曜、祝日のみ)

広隆寺を訪ねたのは久しぶりである。霊宝殿の仏像の並べ方がすっかり変わっているのに驚いた。あれほど、世間を騒がせた学生事件を受けても、公開姿勢を堅持する広隆寺の逞しさに感服した。とにかく、国宝、重要文化財の仏像類が多い事では京都随一であり、一見の価値はある。私が訪れたのは2017年11月下旬の紅葉の季節のせいか、霊宝殿は、私一人であった。紅葉だけが京都ではない。これだけの仏像が並ぶお寺を拝まない人は不幸だと思った。是非、京都へ立ち寄る場合は、広隆寺を拝観して頂きたい。なお、紅葉の季節に京都の西部(洛西)を訪れる場合は、山陰線を利用することをお勧めする。バスで1時間以上要するところを、20分位で到着する。私には、新しい発見であった。

 

(本稿は、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、宮本健次「京都 特別な寺」、パンフレット「広隆寺」を参照した)

紅葉に包まれた北野天満宮

2017年11月下旬に京都・北野天満宮を参拝した。天満宮は言うまでも無く、菅原道真公をお祀りする神社である。現在は、むしろ合格祈願の神様として篤い信仰を受けている。歴史を遡れば、延喜3年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された九州大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊(みたま)信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目に、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を戻し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥)が、自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に造り直されたと言われる。永延元年(987)に初めて直祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。西暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣の称が贈られた。如何に、天変地異に慄き、天満宮に頼ったかかが判る。幕末の神仏分離令まで三院家の社僧が、代々神官を務めた。天正15年(1587)10月、境内において豊臣秀吉による北野大茶会が開催された。この大茶会の場所として北野が選ばれたことは、聚楽第からもほど近く、秀吉が朝駆けに参詣することも多く、なじみ深い場所であったからだろう。あるいはそれ以上に、北野社が中世以来、詩文の神として一般の深い信仰を集める、庶民群集の場ともなって、京都では祇園とともに東西の遊楽の場でもあったことが原因であろう。江戸時代の頃には道真の温霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。明治4年(1871)に官幣中社に列するとともに、「北野神社」と改名された。旧称の北野天満宮に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。

北野天満宮の大鳥居

楼門

北野天満宮の楼門で、大鳥居から一列に並んでいる。

重要文化財  中門(三光門)           桃山時代

北野天満宮の中門である。この門から拝殿を包む西回廊も重要文化財に指定されている。

国宝  拝殿            慶長12年(1607) 桃山時代

慶長12年(1607)に建立された建物である。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする。権現造社殿である。唐神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。屋根はすべて桧肌葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合せて1棟としており、国宝に指定されている。

国宝  拝殿(お土居からみた)       慶長12年(1607)桃山時代

お土居の上から拝んだ拝殿の横顔である。

御土居(おどい)            天正19年(1591)桃山時代

秀吉が農村にせまった間地と刀狩の意欲は、京都にも迫った。それは聚楽第を構想したとき、既に京都という王城の地に根本的な変化を迫るものであった。それは聚楽第を中心とした城下町化の方向である。まず天正18年(1590)平安京の規模に基ずく町割りを整理し、寺町ー高倉間、堀川以西・押小路以南の地域には、半町ごとに南北の道路をつけた短冊形の新地割を断行した。そしてそのうえで翌天正19年(1591)閏正月、秀吉は禁裏西片の六丁町を大名屋敷とすることとし、従前より居住の廷臣らに替屋敷を与えているのである。つぎに市中散在の寺院を東の京極および安吾院付近にあつめ、前者を寺町、後者を寺の内と称した。最後に、同じ年(天正19年ー1591)、総延長五里二十六町におよぶ御土井(おどい)を建設した。東は加茂川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条という新しい京都の境域を示したのである。いわば聚楽第を中心とした京都の城塞化であった。秀吉はその竣工を、その年の5月に親しく視察した。現在、御土井が残っている場所は少なくなったが、京都市内に何カ所も残る。特に北野天満宮の御土井は紅葉で有名である。

御土井の紅葉

御土井の紅葉を3枚示した。今や、紅葉の観光地として、天満宮御土井の紅葉は、京都では最も有名な観光場所となっている。

 

11月から12月にかけて京都は、紅葉を求める観光客で、満員であり、ホテルもなかなか取れない程である。北野天満宮に事寄せて、是非、今回は京都の紅葉を楽しんで頂きたい。

 

(本稿は、「日本の歴史{第12巻  天下統一」、「ウイキペディア」、「楽々京都」を参照した)