東京富士美術館  東山魁夷展

東山魁夷(11903~1999)展が、東京富士美術館で開催され、大勢の観客を集めている。今年は、東山魁夷生誕110年に当たり、東京国立近代美術館でも、今秋に大掛かりな「東山魁夷展」の開催を予定している。今年は、東山魁夷の主要作品が、東京で観覧できる好機である。今回の展覧会は、長野県信濃美術館の東山魁夷観が改修されるため、その間を利用して、その主要作品を中心にして、若干の個人蔵作品も含めて78点を展示する、かなり大がかりな展覧会であった。東山魁夷は明治41年(1908)に横浜に生まれ、1911年(明治44)に一家をあげて神戸に転居し、そこで幼少年期を送った。1926年(大正15)、東京美術学校に入学し、同級生には橋本明治らがいた。在学中を通じて特待生に選ばれた。夏、友人と天幕を背負って信州を旅し、木曽川を遡り御嶽山に登る。初めて接する山国の雄大な自然に深い感銘を受けた。1931年(昭和8)同校を卒業し、引き続き研究科に進み結城素明に師事し、自ら考えた「魁夷」を雅号とする。第12回帝展に卒業制作「焼岳初冬」を出品し入選した。1933(昭和8)同校研究科を修了し、8月、西洋美術研究のためドイツに留学した。第1回日独交換奨学生に選ばれて、以後2年間の留学費をドイツから支給された。1947(昭和22)第3回日展に出品した「残照」が特選・政府買い上げとなり、風景画家として立つことを決意した。その後、日本画壇の重鎮として、風景画を中心に描き、1973(昭和48)、唐招提寺御影堂の障壁画を描くことになり、日本各地の海岸、山地を取材した。これが完成し、1982年(昭和57)に日本橋・高島屋で「東山魁夷 唐招提寺全障壁画展」を開催した。1990年(平成2)長野県信濃美術館に併設して「東山魁夷館」が開館。1999(平成11)91歳で没した。従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。7月、東山開館を望む長野市の善光寺大本願寺花岡霊園に葬られた。日本画の風景画の第一人者であった。なお、今回は、東山魁夷美術館の作品のみを取り上げた。

花明り東山魁夷作1964~66(昭和39~41)56~58歳京都市円山公園

昭和30年代半ば、「京都は今描いていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いてください」という作家・川端康成の言葉が魁夷の心を動かし、「京洛四季」(けいらくしき)連作へと導いた。この「花明り」は、京洛四季の一作品であり、京都円山公園の「枝垂桜」を描いたものである。正に、この頃の円山公園の桜が一番美しい時代であった。京都の桜と言えば、まず円山公園の「枝垂桜」である。

北山初雪 東山魁夷作 1964~66(昭和39~41)56~58歳京都府周山街道

この作品も「京洛四季」(けいらくしき)連作の一点である。周山街道に沿う北山杉が初冠雪した様子を描く優品である。この展覧会では、「京洛四季」から6点が選ばれていた。魁夷の代表作の一つである。風景画のみでなく「祇園祭」などの行事を描いたものもある。

水辺の湖 東山魁夷作 1972(昭和47) ドイツ北部・オイティン

この作品は、(白馬の見える風景」シリーズの1点である。東山魁夷がドイツ・オーストリアを旅行した際に訪れたドイツ北部の町オイティンに取材した。「魔弾の射手」で知られる作曲家ウェーバーの生地であるオイティンには幾つかの湖がある。その岸辺の草はまだ枯れたままであるが、春の近いことを感じさせる頃だったという。早朝の湖面を這う朝霧が晴れてゆくその静かな湖のなかに、東山は、草を食んでいるかのような白い馬を描き入れている。1960年代の北欧に取材したシリーズは晩年まで、「青の世界」が圧倒する。しかし、私には、日本の風景を彩る「東山ブルー」と、北欧を彩る「東山の青」とは、異なるように感じる。

夕静寂 東山魁夷作 1974年(昭和49)66歳 長野県~岐阜県・奥保高

前年から唐招提寺御影堂第一期障壁画の画材を捜すために、冬の日本海岸から出発して、初夏の頃には黒部や飛騨に歩を進めた。高山から平湯峠を超えて、穂高岳と笠が岳に挟まれた奥穂高の、渓谷に進むと、東山が期待していたような、谷間から山肌に縫いつくように霧が立ち昇ってゆく様子を眺めることができた。ただ、この作品では霧は入れず、青一色で描いたものである。画面の上部にわずかに空を覗かせた構図は、山岳の高さと険しさを表している。そして濃紺一色を配した山容において、わずかな色美の差を使いながら山の深さを表現しようとしているのはまさに絶妙である。最終的な画面で最大のポイントとなっているくの字に曲がった滝は、想像で描かれたものだろう。静寂を表現するために、無音ではなく、あえて描かれた滝の水音によって緊張感がもたらされている。

黄山雨過 東山魁夷作 1978年(昭和52)70歳 中国安徽省・黄山

黄山は、中国の名山の一つとしてその美しさを讃えられ、多くの文人墨客が水墨画、漢詩などの題材とした。浸食によって作られた断崖絶壁の峰が林立し、峰と霧や雲が織りなすさまは黄山三奇(奇岩、奇松、雲海)と言われ、まさに仙境の名にふさわしい地である。東山魁夷にとって、唐招提寺障壁画第二期の題材として、揚州、桂林とともに描きたかった場所でもあった。中国側の規制もあってなかなか取材の希望が叶わず、やっと登れた時は70歳になっていた。東山魁夷の執念が見て取れる一図である。

静唱 東山魁夷作 1981年(昭和56) 73歳 フランス・パリ郊外・ソース公園

ソース公園は、フランスのパリ郊外にあり、200ヘクタールの広さを持った市民の憩いの場である。もともとは国王ルイ14世の宰相のコルベール(かの重商主義者のコルベールである)の邸宅と庭園であったが、近代になって公園として整備された。彫刻や噴水などが点在し、運河、湖沼などもあり自然保護区にも指定されている美しい公園である。全体を淡い灰青色で統一して、早朝の気配を感じさせるとともに、構図を一層引き立たせている。

春兆 東山魁夷作 1982年(昭和57)74歳 デンマーク・コペンハーゲン

コペンハーゲン近郊のフレーデンスポー宮殿の庭園には広大な自然林がある。暗く高い針葉樹の森は冬を象徴し、その近景に垂れかかるような対照的な小枝には、さながらレースカーテンのように、樹々の新芽が無数に萌えている。北の国の長い冬から春の予兆が見える森の新しい息吹に、命の強さを感じたのであろう。

緑響く 東山魁夷作 1982年(昭和57) 74歳 長野県茅野市の御射鹿池

八ケ岳山麓の蓼科高原には、湖沼や渓谷が織り成す深山の景観が見られる。その奥蓼科にひっそりと佇むこの御射鹿池(みしゃがいけ)の名は、神に捧げるための鹿を射るという、諏訪大社に伝わる神事に由来している。初夏の鮮明な緑の原生林に囲まれた清らかな雰囲気と、それを水面に映す神秘性によって、東山作品のなかでも自然の、奥深さを追求した代表的な作品である。連作「白い馬の見える風景」の最初の記念品的な作品である。「緑響く」はシリーズのなかでも最も人気の高い1点である。この展覧会のポスターにも、この作品が使用されている。

静映 東山魁夷作  1982(昭和57) 75歳 長野県・斑尾高原の希望湖

長野県民文化会館の緞帳を依頼された東山魁夷は、長野の人々に親しみのある風景を考えた。緞帳の極端に横長のプロポーションに合せるために、清澄な山の湖である希望湖を選んだ。季節は初夏、早朝の静かな情景を想起した。希望湖は長野県の北西部、斑尾山のさらに奥にある。周囲がおよそ2.5kmの小さな湖であり、白樺や橅(ぶな)の原生林に囲まれた静かで美しいところである。私は「東山ブルーの最高傑作である」と考えている。東山魁夷の74,5歳頃の作品には優れたものは多いと思う。

緑の窓 東山魁夷作 1983年(昭和58) 75歳 ドイツ・ラムサウ

ラムサウは、ドイツとオーストリアの国境に近い山岳地帯にあって、背後にはドイツ有数の高山ヴァッツマン山がそびえている。大と森と湖を望む風光明媚な観光地・保養地としても有名である。本作品は、そこで体験した一瞬を捉えたものである。画家は、空に浮かぶ白い雲に、心を洗われた思いがし、詩人ならば一遍の詩が生まれたであろうが、自分は画家だからスケッチブックを開いてスケッチし、自宅に戻ってアトリエで制作したと述べている。

夕星 東山魁夷作 1999年(平成11)90歳 長野県長野市善光寺花岡霊園

91歳で没した東山魁夷の絶筆である。東山魁夷が葬られた善光寺後方の花岡霊園を想起させる風景である。木立や水面に映る影を中ほどに集め、夕空にひとつ輝く星は、あまりにも抒情的な光景である。

 

東山魁夷の作品78点を集めた展覧会であったが、結局74,5歳頃の作品を集中的に取り上げた結果になつた。画家の好きな「青色」の作品ばかりになったが、実は「行く秋」などドイツで描いた黄色の絵も含まれていたが、あえて私の好きな「東山ブルー」の作品が中心になりたのは止むを得ないことだと思う。東山魁夷の15歳の自画像が油絵で描かれ、最初に陳列されていたが、本来、画家は洋画家を目指していたらしい。しかし、日本美術学校に入学した時は、日本画科であり、私としては日本画家でよかったと思う。彼の「道」の習作が7点も並んでいたが、完制作は東京国立近代美術館にあり、この「美」でも紹介したことがある。しかし、1作のための7件も習作を作るものかと驚いた。更に「道タペストリー」が1995年(平成7)に西陣織で織布として陳列してあったが、「道」が、かくも作家にとって大事な作品であつたのかと、驚きを新たにした。画家の執念のようなものを感じた。参考までに、信濃美術館の東山開館について述べておきたい。作品を見てもお分かりの通り、日頃、東山魁夷は長野県を風物を愛し、長野県の風景を題材ににして、いくつかの秀作を発表している。生地でもなく、自宅でも無い長野市に東山魁夷が作品と図書を、寄贈し、県は1990年(平成2)4月に、信濃美術館の東山魁夷館として開館した。収蔵品は、現在、960余点に及び、展示室では約70点を常時展示し、年6回程度の展示替えを行っている。善光寺の境内に近い場所にあり、私は度々、この美術館に足を運んでいた。しかし、見ただけで記録を書かなかったため、記憶に残るのは2,3点であった。「美」を書くことによって、この大半は記憶に残るだろう。

(本稿は、東山魁夷館「東山魁夷・永遠の風景」、東京国立近代美術館「名品選  2016年、東山魁夷「唐招提寺全障壁画」を参照した)

山種美術館  生誕150年記念・横山大観ー東京画壇の精鋭

近代日本画の第一人者と言われる、横山大観(1868~1958)の生誕150年と没後60年にあたる本年、山種美縦館の大観作品を一挙公開した。美術館の立地が良いせいか、思いがけない満員状態(2月12日の休日)驚いた。流石に大観人気であると思った・横山大観は常陸国(ひたちのくにー茨城県)に生まれ、1899年に東京美術学校に第1期生として入学し、下村観山、菱田春草とともに、岡倉天心の薫陶のもと、橋本雅邦らの指導を受けた。明治31年(1898)には天心に従って東京美術学校を離れ、日本美術院の創設に参加した。茨城県五浦(いづら)での研鑽時代を経て、天心没後の大正3年(1914)には日本美術院を再興した。天心の遺志を継いで、生涯にわたり新たな日本画の創造につとめ、国民的画家としての評価を確立した。大観は、山種美術館の創立者・山崎種二に最も親しく交流した画家の一人であった。今回は、山種美術館が蒐集した大観コレクション全40点を展示し、更に再興院で活躍した安田靫彦、前田青邨、東京美術学校で学び日展で活躍した山口逢春、東山魁夷など、大観と交流を持った画家たちの作品も併せて展覧した。

楚水の巻(一部・朝) 横山大観作    明治43年(1910)

横山大観が「楚水の巻」「燕山の巻」の水墨画を制作した事情をコレクターであった小津與衛門に宛てた書簡が残っており、これによりうかがい知ることができる。その書簡の大意は次の通りである。「今夏の中国旅行の紀念としてかねてより描いた燕山、楚水の二巻が出来上がりました。二巻のうち楚水の巻は揚子江付近の風景を理想化して描きました。特別な景色ではありませんが、この地方の北方に較べて、概ね湿潤で気候の変化も多いので、全巻を1日のうち、朝、昼、雨、夕の四場面に別けました。(中略)楚水の巻を先に描き、燕山を後に描いたのは、ただ旅行の順序に従ったからです。当画巻の材料は、紙は唐紙、墨は驪龍珠、筆は湖北湖南の羊毫よりできたものなどを使用しました。使ったものは全て中国に関係のある物であります。先ずは長巻が出来ましたので、上に書いたような次第を申し添えたくてしたためました」

燕山の巻(一部・天壇・北京城壁等) 横山大観作  明治43年(1910)

先の手紙の「燕山の巻」に関する部分を引用する。「燕山の巻は南に較べて乾燥しているため、一日の大気の変化を試してみませんでした。また、一日の様子を描くと表現が重複するため、それはこのまなかったので避けました。ただ、燕山の巻には、初めて天壇、北京上壁、景山宮、崇文門を示しました。」(最後略)

作衛門の家 紙本裏箔・彩色・1双 横山大観作  大正5年(1916)頃

右隻に家畜の牧草を刈って家路につく農夫、左隻には木々に囲まれた彼の家が描かれる。馬小屋では馬が主人の足音を聞きつけ、耳をピンと立てて待っているさまが描かれている。画面を覆うように植物が描かれて、その緑青の濃淡によって草深い山村の素朴な情景を際立たせている。明治後期、大観は輪郭線を用いない没線描写による作品を次々に発表し、朦朧体(もうろうたい)と酷評されたながらも日本画の近代化を推進していったが、大正期には伝統への回帰を見せ始める。本作品では、裏箔(絹地の裏から金箔を貼り付ける技法)を用いた木立の奥の仄明るさを表現することに成功している。樹木や笹の葉の自在なタッチに南画の雰囲気をたたえ、鮮やかな緑色にやまと絵風の華やかさが見られる。

喜撰山(きせんやま) 紙本・彩色・軸 横山大観作 大正8年(1919)

第6回再興院展に出品された二曲一双屏風風の「喜撰山」の試作と考えられる作品で、喜撰法師(きせんほうし)の歌「わが庵(いお)は、都のたつみ しかぞすむ よを うじ山と ひとはいふなり」で知られる宇治の喜撰山を描く。金箋紙(きんせんしー裏に金箔を押した鳥の子紙の表面を薄く剥いだもの)を用いた最初期の作品と見られる。地肌にひそんんだ金色を活かした独特の深みのある赤色は、画家が意識的に山肌の赤さを表現するために使用したことがうかがえる。この金箋紙の試みは、常に日本画の革新を目指した大観のあくなき探究の現れといえよう。

叭呵鳥(はっかちょう) 紙本・彩色・軸 横山大観作  昭和2年(1927)

この作品に描かれている破呵鳥とは中国産のムクドリ科の鳥のことである。叭々鳥(ははちょう)・八哥鳥(はっかちょう)とも書き、その名の由来は、飛翔するときに翼の白い斑点が、「八」の字に見える、八つの声で啼くなど、諸説がある。全身が黒く、嘴(くちばし)の元に冠羽(かんむりばね)があるのが特徴である。中国の瑞鳥として親しまれ、花鳥画の主題になっている。日本でも中世以来流派を問わず、花鳥画、あるいは吉祥の画題として描き継がれている。この作品では鋭い眼つきの叭呵鳥(はっかちょう)がイヌビワの木にうずくまる姿を描き、水墨と淡彩によって抑制の効いた画面に仕上げている。

富士山   絹本・彩色  横山大観作   昭和8年(1933)頃     霊峰富士  絹本・彩色  横山大観作   昭和12年(1937)     不二霊宝 紙本金地・彩色 横山大観作   昭和24年(1949)

横山大観は生涯に2000点余りの富士山を描いたと言われている。山種美術館も多数所蔵している。横山大観は富士山について、次のように書いている。(大観画壇等)「私は富士山をよく描く。今も時折描いています。恐らく、今後も描くことになるか、それは私にもわかりません。一生のうち富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。自分から進んでいつも富士山ばかり描くというのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです。こんなわけで、今までに沢山の富士山を描いていますが、まだ富士山に登ったことは一度もありません。それにしても富士山が好きです。あの山容がとても好きです・(中略)また富士山を眺める場所によっても異います。吉田口、御殿場、山中湖口から見た富士、みな各々特徴があって、どれをこうということは言えません。(後略)

心神(しんしん) 絹本・墨画淡彩  横山大観作   昭和27年(1952)

「心神」の名に相応しく、どっしりとした神々しい富士である。大観は富士について「古い本に富士を”心神”とよんでいる。心神とは魂のことであるが、私の不二観といったものも、つまりはこの言葉に言いつくされてている。」と述べている。(「私の富士観」)この作品は、山種美術館を設立する際に大観から「美術館を作るなら」という条件で購入を許されたものであるそうだ。

年暮る(としくるる) 紙本・彩色・額 東山魁夷作  昭和43年(1968)

沢山の大観を囲む画家の中で、私の好きな東山魁夷氏の作品を選んで最後の締めくくりにしたい。昭和30年代半ば「京都は今描いていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」という作家・川端康成氏の言葉が魁夷の心を動かし、「京洛四季」(けいたくしき)連作へと導き、昭和43年(1968)に銀座・松屋で開催された「京洛四季展」で18点の本画と36点の習作、スケッチが発表された。「年暮る」は「東山ブルー」と称される青(群青)が美しく、静寂の中にしんしんと降り積もる雪の音、おごそかに鳴り響く除夜の鐘の音まで聞こえそうな作品である。人物は描かれていないが、手前の民家の灯りが人のいとなみとぬくもりを感じさせる。私の好きな1点である。それにしても「京都は今描いていただかないと なくなります」という川端康成の発現は、「古都」の作家らしい意見であった。最近の京都を歩いて見ると、私が住んだ昭和50年代とは、すっかり変わっており、特に四条通りや烏丸の辺りの変わりようには、只驚くのみである。

 

 

今年は横山大観生誕150年に当り、東京国立近代美術館でも、「横山大観展」が開催される予定である。山種美術館の大観の蒐集作品はかねてより定評があり、幸い見学する機会に恵まれた。実に多くの人々が集まる様を見て、「大観は日本を代表する近代画家」であることをひしひしと感じた。大観等が東京美術学校を負われた岡倉天心と行動を共にした茨城県五浦(いずら)の地を訪ねたことがあり、彼らの日本画を近代化する努力を詳しく知ったので、「横山大観展」は是非拝観したいと願っていた。山種美術館は噂に違わず、大観の優品を40点も有し、そのすべてを展示してくれた。更に、天心と同時期に活躍した画家の絵画も沢山並んでいた。お勧め出来る美術展である。機会があれば、是非拝観をお勧めする。

 

(本稿は、図録「山種美術館の横山大観  2018年」、図録「山種美術館近代日本画名品100」、原色日本の美術「第26巻 近代の日本画」を参照した)

 仁和寺   宝 物

御室の「仁和寺」には、宝物も多い。現在は大正15年(1926)に建築された霊宝館内に安置され、春・秋の年2回公開される。その時期に訪れれば、仁和寺に伝わる宝物類を拝観することができる。平安時代のものが多いが、中には江戸時代の仁清の花生け等も含まれる。中には空海が唐から持参した宝物も含まれている。古美術の好きな人には見逃せない霊宝館である

霊宝館                     大正15年(1926)

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霊宝館は、大正15年に建築された仁和寺の保有する宝物類を保管・展示する機関である。春・秋2回の展示が行われるので、その時期を確認して訪れることをお勧めする。私は、空海関係の宝物が多いことに驚いた経験がある。真言宗仁和寺派総本山であるだけに、真言密教に関する宝物が多いのは当然である。

国宝  阿弥陀如来坐像  木造 乾漆         平安時代(9世紀)

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仁和4年(888)創建の仁和寺金堂の本尊である。常識的には、創建時もしくはその前に建造されたと思われるが、専門書(美術全集)は9世紀末ないしは10世紀の制作と解説する。頭躰部をヒノキの一材剥ぎとするもので、後頭部と、躰背面に、別々に長方形の穴をあけて内剥を行い、蓋板を嵌め、全身に漆箔(しっぱく)をおいている。童顔をおもわせる目鼻立ちの面相はふっくらと丸い。身体全体をまるく太った姿が特徴である。全体に醸し出される穏やかさは、西方浄土の仏ならではのものであろう。密教寺院でこのような阿弥陀を本尊とするのは、寺を発願した父の光孝天皇の追善菩提を願う宇多天皇の意思と、浄土教を胚躰させつつあった天台宗の思想が背景にあったとも考えられる。

国宝  阿弥陀三尊像のうち左右脇侍像  木造 漆箔  平安時代(9世紀)

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阿弥陀如来に沿う容貌、体躯を表現した菩薩立像である。観音と勢至菩薩であるが、頭上の化仏、水瓶を表す通常の形をとらないので、どちらが観音・勢至とするか不明である。阿弥陀如来像と同時期に制作されたとするのが常識であろう。従って9世紀後期と考える。

重要文化財  愛染明王坐像  木造彩色       平安時代

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愛染明王は、頭上に獅子冠を被り、憤怒相に三目六臂(さんもくろっぴ)で、六臂に金剛鈴などの持物を執る。怪異の中にもふっくらと穏やかな雰囲気を漂わせて、平安時代後期に遡る作例である。愛欲と煩悩を絶つ仏で、男女和合や子の誕生を願う敬愛(けいあい)法、増益(ぞうやく)法の本尊と信仰された。

国宝   孔雀明王像  絹本着色      北宋時代

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仁和寺では平安時代以来、旱魃や疫病・天変地異・天皇中宮の出産などがあると、歴代門跡が孔雀妙法という密教修法を修し、効験(こうげん)が極めて高いことが有名であった。この修法の本尊が孔雀明王で、空海の伝えた画像が用いられた。また中国から新たな画像が次々と舶載された。本像は北宋に遡る貴重な慰令である。三面六臂(さんめんろっぴ)の明王が、孔雀に乗って来臨した様を描く。素晴らしいい秀作である。

重要文化財  別尊雑記(全57巻の内) 紙本白描   平安~南北時代

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天台宗円城寺から出て真言宗に転じ、醍醐寺を経て高野山に住んだ心覚(1117~80)が、晩年の象安年間(1171~75)に撰述した密教図像集である。仁和寺本は、全57巻のうち46巻が平安時代後期の制作で、11巻が鎌倉から南北朝時代の補作になる。広く白描図とも言われる。「鳥獣戯画展」で、東京国立博物館の土屋貴裕研究員が、図録の論文で「鳥獣戯画の伝来」の稿で「鳥獣戯画は高山寺で描かれたものではなく、別の場所で描かれ、高山寺へもたらされたことは間違いあるまい。」「平安時代後期、絵画の制作と供受において、寺院と世俗が交錯するような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい。」「それでは、具体的に鳥獣戯画はどこで描かれたのか。あくまで推測に過ぎないが、仁和寺を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は「天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。さらに、高山寺と仁和寺が非常に密接な関係を結んでいたという点も重要である。」この提言は、私には「聞くべき意見」と考えられる。この場合、仁和寺にも、高山寺にも白描図が多数保管されていることも、また類推する材料になるであろう。

国宝 三十帖冊子   紙本墨書          平安時代

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弘法大師空海(774~835)が延暦23年(804)から大同元年(806)までの入唐中に、長安・清隆寺の恵果(けいか)阿闍梨から伝受相承した密教経典・儀軌を書写し持帰ったものである。空海の自筆以外に唐の写経生が書写し、同時に入唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)筆と伝える部分も含む書道史上の至宝であり、最古の粘葉装冊子本としても知られる。東寺から一時高野山に出て、再び東寺の秘宝として護持された。文治2年(1186)守覚親王がこれを借覧し、以来仁和寺蔵経に納められることになった。これは、通常は経蔵に納められている。

国宝 宝相華華陵頻伽蒔絵冊子箱        平安時代img887

長方形の被蓋(かぶせふた)づくりの箱である。身・蓋の素地は、麻などの布を型に当てて成形し、漆を塗って固める(そく)、つまり乾漆の技法によるとされる。全面に黒漆を塗り、蓋表および身側面は金銀粉を撒いた平塵地(へいじんじ)とし、宝相華唐草・華陵頻伽(かりょうびんが)・鳥・蝶・瑞雲の文様を、金銀の蒔絵で表している。この箱は空海が入唐中に師の恵果から得た儀軌や法典などを書写し、30冊の冊子に仕立てた、「三十帖冊子」を納めるものである。延喜19年(919)11月、冊子を納入するため新造された箱一合が、内裏より東寺の権大僧正観覧のもとに送られた。冊子と箱は東寺に納められたが、文治2年(1186)仁和寺の守覚親王が借用して以後、仁和寺に伝来することになった。

重要文化財  色絵瓔珞文花生  仁清作       江戸時代(17世紀)

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仁和寺が再興されて間もない正保4年(1647)頃、寺の許可を得て門前に陶器窯、御室窯を開いたのが野々村仁清である。京焼の初期の名工で、特に色絵の手法を大成したことで知られる。この花生は、仏具の尊形花瓶に倣った形で、瑠璃・七宝を彷彿とさせる金・緑・青・黄の色絵で表した瓔珞文(ようらくもん)も仏器にふさわしい。仁清本人が開窯初期に仁和寺に寄進した作品である可能性が高く、御室焼きの最も由緒の確かな名品である。

 

大内山を背にして建ち並ぶ伽藍堂塔は見事である。京都には宮廷の雰囲気を持つ寺院が少なくないが、中でも天皇の御願による仁和寺は別格の存在である。寛永期(1624~44)の再興にあたり内裏より下賜された紫宸殿(金堂)や清涼殿(御影堂)なども王朝の風格に彩りを添えている。しかし、何と言っても霊宝館に安置される国宝類には、格段の風格を感ずる。阿弥陀如来三尊像が、密教寺院に相応しくないことは、かねて感じていたが、平安時代には既に叡山には、浄土教の思想が胚胎していたことを痛感した。また、仁和寺のお家芸であった孔雀修法で使用する宋代のきわめて貴重な孔雀明王像の存在も大きい。また、東寺の宝物であった「三十帖冊子」を借りたまま、返却しないで、寺宝にしてしまった仁和寺の「ずうずうしさ」も門跡寺院の風格であろうか?「別尊雑記」から「鳥獣戯画」の誕生を予想した研究員の思いも楽しい思い付きである。江戸初期に仁清という稀有の陶工に活躍の場を与えた御室は、華道御室流により仏への献花と生活芸術としての池花の精神的昇化を勧め、さらに京都きっての観桜の場を人々に提供してきた。仁和寺の蔵する多数の宝物が、すべて宮門跡としての歴代御室の長い営みの賜物であることを、強く感じた。

 

(本稿は、古寺巡礼京都「第22巻  仁和寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、原色日本の美術「第5巻 密教寺院と定観彫刻」を参照した)

 仁和寺   御 殿

二王門の前を通る通路は、周山(しゅうざん)街道と呼ばれる若狭への重要交通路の入り口にあたり、それは既に真言宗の山寺として開かれた高雄神護寺(たかおじんごじ)へと至る、清浄な宗教空間への入口、つまり聖地と俗地の境界であったのである。天皇が王城鎮護の意図を仁和寺建立に込めたとするならば、それを具現する密教修法の場として、この地はまことに相応しかったのである。仁和寺は、真言密教の寺院であると同時に、宇多天皇(867~931)が寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(899)10月に出家し、法皇となり、仁和寺の一隅に住房を建て、移住し、法皇の住まいとする僧坊を御室(おむろ)と言い、それが現在の御殿の部分である。法皇のお住まいに当たる御殿は、仁和寺同様に何度も焼失したが、明治20年(1887)になると御殿の大部分が火災にあい焼失した。このとき寛永の再興時に、御所の常御殿(つねごてん)が移築された宸殿(しんでん)が焼失したのは、かえすがえすも残念なことであった。その後宸殿などは大正3年(1914)までには再建され、これが現在御殿と呼ばれている仁和寺本坊である。明治末から大正期にかけての御殿の復興にあたっては、当時の建築・絵画・作庭の粋を集めての造営が行われた。現在、二王門をくぐって参道の左方にある勅使門、宸殿、黒書院、白書院、霊明殿など御殿と称される建物がそれにあたる。また、仁和寺は、日本の文化との関係が深い。例えば、兼好法師は「徒然草」のなかで仁和寺の僧侶が鼎(かなえ)を倒さ(さかさ)に被って、人々に囲まれてよろめき出てきて、僧衣の胸もとに絶えず流れ出る鮮血に染められる様を描いている。この寺の南の双ヶ岡(ならびがおか)に隠棲していた兼好法師は、当時の寺にまつわる多くの噂話しを、そのよしなしごとの記録の中に書きとどめていたのである。兼好の趣味は一貫して王朝への憧れであった。だからこそ、平安の面影を伝えるこの寺の近くに隠宅を構えたのであるし、王朝的な好色を礼賛すると同時に、現実の女性たちには嫌悪の限りを尽くして悪口を列ねているのだ。

重要文化財  勅使門              大正2年(1913)

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二王門と中門の間の西側に建つ門である。本坊の正式な門で、前後を唐破風、左右を入母屋とした桧肌葺屋根の四脚門である。設計は宸殿と同じく亀岡末吉で、大正2年(1913)に竣工した。特に目を引くのが彫物装飾で、虹梁、蟇股、柱上から欄間に至るまで埋め尽くし、鳳凰の尾羽根や宝相華(ほうそうげ)・牡丹の唐草の流れる様は、19世紀末からヨーロッパで流行したアール・ヌーボーを彷彿とさせるものである。伝統的な和様に近代の汎世界的潮流を取り入れた作品である。

宸殿(しんでん)                大正3年(1914)

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宸殿は、御殿の主屋で紫宸殿と同じ入母屋造りの桧皮葺きの建物である。まるで貴族の邸宅をみるような穏やかで優美な風情をみせ、内部は三室にわかれ、右側上段の間には床、棚、付書院を構え、本格的な書院造りとなっている。この建物の設計は当時の京都府技師であった亀岡末吉なよるもので、また床棚や絵や二の間・三の間の襖絵などはすべて原在泉筆である。まるで「絵巻物などにみられる貴族邸宅」そのままであると言われる。そしてその白砂を敷き詰めた庭先には、内裏を模して左近の桜、右近の橘が植えられたのである。

宸殿庭園                   江戸時代

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五重塔を借景とし、池泉とその向かいの樹木の中に茶室・飛濤亭(ひとうてい)が配されて、完璧な景色である。寛永復興期の作庭で、元禄3年(1690)に大改造された。明治20年(1887)の火災で荒れた状態であったものを、明治末から大正期の本坊再興期に、小川冶兵衛の設計により再整備したものである。明治の造園とは思えない、王朝の雰囲気がある。

黒書院                   明治42年(1909)

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宸殿の西にあるが、旧安井門跡の寝殿を移築したものとされたものである。襖絵は堂本印象である。入母屋造・瓦葺の建物である。書院建築で黒書院は最も奥向きの居住空間という意味合いが強いが、仁和寺では門跡の公式対面所として用いられた。設計は安田時秀で、明治42年(1909)に竣工した。

霊明殿                   明治44年(1911)

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黒書院の北の渡り廊下と階段を行くと、宝形造、檜皮葺の霊明殿に行き当たる。薬師如来坐像を本尊に祀り、歴代門跡の位牌を安置する。中世仏堂の趣きを漂わせる建物である。この明治~大正の再建により、二王門から広い参道を進んで、中門からなかの堂搭が建つ伽藍の地域と、参道の左手の勅使門から中の御殿の部分という現在の仁和寺の景観が出来上がったのである。

重要文化財  茶室 飛濤亭(ひとうてい)     江戸時代(19世紀)

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宸殿から北側の庭を眺めると、五重塔とともに茂みの中に入母屋造の茅葺屋根が見える。飛濤亭は、天保年間(1830~44)の建物とみられる。茶室は四畳半で、貴人口の南に洞床(ほらどこ)という隅柱まで錆壁を塗り回した床があり、反対の西側には腰障子を立てる。

重要文化財  茶室  遼廓亭(りょうかくてい)   江戸時代(19世紀)

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霊明殿西側の庭に建つ。尾形光琳(おがたこうりん)の好んだ茶室とも伝え、天保年間(1830~44)頃まで仁和寺前竪町(たてまち)にあったものを移築しと伝える。東南の二畳半台目の茶室である。全体の意匠は織田有楽斎(おだうらくさい)好みの如庵(じょあん)に似ている。

 

仁和寺の前の通りは、周山(しゅうざん)街道へつづく道である。丹波国野々村(現在の南丹市美山町)出身の陶芸家野々村仁清(ののむらにんせい)は、御室で窯を構え、「仁清」銘の御室焼(おむろやき)を生み出した。仁清の「仁」の字は、仁和寺から取ったといわれる。この仁清に陶芸を学んだのが尾形光琳(おがたこうりん)の弟の乾山(けんざん)である。光琳と乾山の兄弟は、仁和寺の門前に暮らしたという。その住居は、後に仁和寺の境内奥に移築された。風雅な茶室、遼廓亭(りょうかくてい)が、それであると伝わる。江戸時代の初期、光琳や乾山、仁清や道八(どうはち)たちが集まって、ひとつの文芸復興運動であったのである。彼らが復興しようとしたものは、長い戦闘によって荒廃に帰した王朝の優雅の伝統美学であったのである。この寺の門前に、かって仁清は窯を開いた。御室焼(おむろやき)である。あの壺の美さに、私はこの寺の歴代の門跡によって伝えられて来た、宮廷美意識の反映を見ないではいられないのである。また光琳の弟の乾山の窯もこの寺の西北、つまり乾(いぬい)の方角にあった。かれは自らその地に因んで「乾山」と号していた。瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)は「京の茶室ー名僧と語る茶の心」の中で、次のように記している。「江戸時代、仁和寺前堅町にあった尾形光琳の住居を移したといわれる遼廓亭は、万事御所風の本坊を通り抜けていった目には、ふいにどこかの山家(やまが)に迷い込んだような、ほっとした気分に、しおり戸の前からなる。この建物は、光琳の弟乾山が住んでいたとともいわれ、兄の光琳の建てた家に、乾山がいたということだろうか。四畳半の座敷の二方は小縁がつき、庭に面していて明るく、床の間と違い棚が付いている。その南側につづいた四畳半の入口に腰高障子が引違についていて、ここが玄関になる。白い障子を見ると、茶室というより、やはりこの中で誰かが日常の生活をしているようななつかしさが感じられる。」話は変わるが、昭和20年(1945)、日本が敗戦を迎えた時に、近衛文麿(このえふみまろ)が、昭和天皇を仁和寺に迎えて出家することで、占領軍との間を収拾しようという計画があったというエピソードがある。その相談に、仁和寺を訪れた近衛文麿が、霊明殿の扁額を揮毫したとのことである。しかし、「昭和史」が何冊も発行されているが、この秘話を伝える記事は全く見当たらないので、やはり作り話だったのであろう。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22  仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ  洛西」を参照した)

 仁和寺  伽 藍

仁和寺は、王朝を想い起させ、宮廷的美意識を感じさせるお寺である。しかし、お寺の歴史を辿ると、それは焼失と再建の歴史である。仁和2年(886)に光孝天皇が大内山の南麓に建立しようと発願した寺院が、翌年8月の光孝天皇の死去により、天皇の第七皇子である宇多天皇(867~931)が引き継いで造営を完成し、仁和4年(888)8月には、その金堂で供養が行われた。寺号は、年号を取って仁和寺と名付けられた。宇多天皇の治世は菅原道真の登用などを行い、寛平(かんぴょう)の治とも称されるが、藤原氏との軋轢もあり、天皇は寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(897)に出家し、法王となった。そして延喜4年(904)に、仁和寺の一廓に住房を建て、移住した。法皇の住まいとする僧坊を、御室(おむろ)と言い、それが地名となった。仁和寺歴代は、そのときの天皇の皇子が承継することが、鎌倉時代まで行われ、それ以降も明治初年に至るまで、ほとんど宮家出身の人達で、皇室とつながりが強い寺としての性格が継続された。平安時代後期にには、仁和寺を中心として、その周囲に子院が建立され70余を数えるほどとなった。仁和寺の伽藍も、元永2年(1119)4月の火災によって多くの堂舎を失った。保延元年(1135)になって、再建供養が行われ、仁和寺全体としては、平安時代から室町時代始めまで、おおむね隆盛が続いた。しかし、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)9月に、ほとんどの堂舎が焼亡した。一面荒野となった御室一帯が、再建の途についたのは江戸時代になってからである。徳川家光将軍は、金20万両を寄進し、再建は慶長年間(1596~1615)に建てられた内裏の建て替えを行い、その取り壊された旧殿舎の多くを仁和寺に移築しようとしたものである。正保3年(1646)10月に造営が完了し、翌4年(1647)2月に開眼供養が行われた。現在の金堂、五重搭など中門からうちの建物のほとんどと二王門は、この時期に造営されたものである。真言宗御室派の総本山である。

重要文化財  二王門   江戸時代(官営14年~正保元年~1644)

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境内正面に建つ巨大な二王門である。(通常仁王門と書くものであるが、仁和寺では二王門と書く。理由は知らない)柱間5間のうち中3間を戸口とし、左右各1間に仁王を安置する。禅宗風ではなく、和様にまとめられ、平安時代の面影を残すとされる。法親王による法灯をともし続けた門跡寺院らしさを意図したものであろう。正面に立つと、堂々たる威容であるが、威圧的ではない。それは禅寺とは違って、屋根の反りにも、瓦の配列にも、いかにも平安町風の優美さが流れているからである。なかに入ると、広場のように広がっている参道がゆっくりと続く。

重要文化財  中門             江戸時代

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二王門の奥にあり、その中に金堂・五重搭・観音堂等が建つ伽藍中心部の入口に当たる門である。柱間3間の八脚門で、中央戸口を通して金堂の偉観が拝される。二王門と同じく和様の構成である。

重要文化財  五重搭     江戸時代・寛永14年(1637)再建

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伽藍中心の東に建つ塔で、塔身の高さは32.7メートルで、寛永14年(1637)の建立とされる。しかし、昭和の屋根瓦葺き替えで、寛永21年(1644)の墨書のある土井瓦が発見され、この頃に完成したようである。東寺五重塔と同様、上層と下層の幅の差があまりない江戸時代の姿である。古代の和様スタイルを踏襲する塔である。初層西側には大日如来を象徴する種子(しゅじ、梵字)の額を懸ける。

国宝  金堂        江戸時代・寛永19~21年(1642~44)

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仁和寺の中心の堂宇である。慶長年間(1596~1615)造営の内裏紫宸殿を賜り、寛永19年から21年(1642~44)にかけて移築したものである。屋根を瓦葺きして西庇を取り除いた以外、紫宸殿の外観を残した結果、門跡寺院らしい佇まいを残している。仁和寺の伽藍の中で、唯一、平安時代を思わせる建物であり、国宝に指定されている理由が納得できる。江戸時代の建物であるが、桃山時代を感ずる建物で、如何にも御所らしい。密教寺院でありながら、本尊として阿弥陀三尊を祀るのは、仁和寺創建時の金堂本尊に倣うものだそうである。(内部は拝観できない)

重要文化財  観音堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

金堂の手前、西寄りに建つ。仁和寺創建の40年後、延長6年(928)の建立とされ、今の建物は寛永年間(1624~44)の諸堂再興時に再建された。正面を全て板扉とするのは、三十三間堂など平安時代後期の形を取り入れたものであろう。千手観音菩薩立像を本尊とし、後三世明王立像、不動明王立像を両脇侍とし、風神・雷神立像を配し、更に二十八部衆立像を配するものである。平成27年には、解体修理が行われ、その展覧会が初めての観音堂の公開であった。「仁和寺と御室派のみほとけ展」では、この観音堂の内部の全ての尊像が配置され、大勢の観客の眼を引いた。まるで江戸時代(17世紀)の世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。

重要文化財  御影堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

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境内の北西側に建つ檜皮葺き、宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇で、弘法大師空海の像を祀る。今の建物は、慶長年間(1596~1615)造営の内裏清涼殿の部材を賜り、寛永年間に再建されたものである。昭和の屋根葺き替えで垂木に「せいりやうでん」と墨書のあるのが発見された。金堂の外観は、大師のお住まいという意を込めて、軽やかで瀟洒な姿に変えている。例の菅原道真が九州大宰府に左遷されることになった時、彼は保護者であった宇多法王に訴えるべく、この仁和寺に駆け付けたのであったが、丁度、折悪しく法王はこの御影堂で修法中であったので、空しく待ち尽くしたという言い伝えがある。その時、道真が詠んだのが「流れ行くわれは水屑(みくず)となりはてぬ きみ柵(しがらみ)となりてとどめよ」の歌である。法皇はそれを読んで、直ちに参内したのだが、さまたげられて帝に面会できず、道真の運動は効を奏さないまま終わった。

重要文化財  経蔵       江戸時代

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金堂東側に建つ3間四面の宝形造、瓦葺の建物で、寛永年間に堂宇再興を取りしきった顕証上人が、経典、密教儀軌(ぎき)など膨大な数の聖教(しょうぎょう)類や古記録を整理・保管するために造営を計画した。内部には回転式の八角輪蔵(りんぞう)が設けられ、収納の効率化が図られている。外観は花頭窓(かとうまど)を設け、円柱に大きく膨らむ粽(ちまき)を設けるなど、禅宗様で統一される。

重要文化財  九所明神本殿       江戸時代

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五重塔の北東に3棟の社殿が並び建つ。仁和寺の初代別当、幽仙が勧請した伽藍鎮守で、今の建物は寛永の伽藍再興に伴い建立された。3神社には9座の神々を祀っている。この並び方は鎌倉時代まで遡るそうである。各殿の正面には、寛永21年(1644)建立の石燈籠が建つ。

 

全部の建物が、江戸時代の再建であるが、流石に内裏紫宸殿を賜っただけあり、まるで平安時代の様相を呈している。井上靖は、京都大学の学生時代に、等持院の近くに下宿していた。青春時代のとめどない物想う時間を、仁和寺の石段で過ごしていたそうである。井上靖の「日本古寺巡礼」には「仁和寺」の項に次のような文が残っている。「印象が最も深いのは、月明かりの夜の仁和寺楼門付近だ。私は学生時代の4年間と、勤めをはじめてからの数年を京都で過ごしたが、この仁和寺を今も忘れることができない。とりわけ、秋の月が素晴らしい。私はしばしば仁和寺を訪れ、短編の素材としたことがある。」「真野川端署長は”花見頃の夜明けの風景が良い。ほんとうに春の朝という感じがする”という。背丈がせいぜい2,3メートルという御室桜は八重の桜。大正13年に名勝に指定されたものだが、ツツジのように根元から枝が張っている。だれもいないとき、ほのぼのと白む朝明けに、静かに露を含んだ桜の風情はまた格別だろう。それにも増して、月明かりの夜は美しい。白い壁と、緑に映える草と、灰色の通り。山門の、年齢を刻んだ木組の力強い交叉。裏側に回れば土塀にはめこまれた瓦が、規則正しく影を落としている。西国八十八カ所を模して、通称御室に作られた八十八カ所はアベックのハイキングコースでもある。お寺が”庶民とともに”歩みはじめたころ、人々は別の楽しみを見つけ、別の思い出を秘めて、仁和寺を訪れるのである。」なお、仁和寺は世界遺産に指定されている。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、図録「仁和寺と御室派のみほとけ」を参照した)