「東京⇄沖縄」展   沖縄ニシムイ美術村編

1930年代以降、沖縄と東京の画壇は、東京に学んだ沖縄出身の画家を通じて関係を深めていった。落合と池袋には、沖縄から上京し東京で絵を学ぶ画家や詩人が暮らしていた。沖縄の女性を多く描いた名渡山愛順、落合と池袋にともに棲みシュルレアリスムの影響を受けた山本恵一らである。彼らは戦後、今の那覇市の北東部、首里にニシムイに移り住み、戦争で壊滅的な打撃を受けた沖縄の美術運動を推進してゆく。1930年代に、沖縄を訪問する画家が急増する要因として、1937年に沖縄行きの航路が時間短縮されたことがある。沖縄は、観光地としても注目を集めるようになり、藤田嗣治や北川民治などの画家たちも沖縄に来た。そして1940年には、当時東京美術学校の学生であった野見山暁冶(のみやまぎょうじ)が、春休みを利用して赴いている。

孫 藤田嗣治作 油彩・カンヴァス 昭和13年(1938) 沖縄県立博物館

なかでも昭和13年(1938)の藤田嗣治の沖縄訪問は、地元紙「琉球新報」でフランス帰りの世界的な画家の来沖として連日、大々的に報じられた。藤田と沖縄を結びつけたのは南風原であった。南風原が同じ池袋モンパルナスに暮らす画家の竹谷富士雄、加治屋隆二を案内するために沖縄旅行を計画したところ、藤田が同行を申し出たのである。報道新聞によると藤田一行は同年4月27日から約3週間にわたって沖縄に滞在した。彼の滞在中には新聞社主催で講演会や展覧会が行われ、訪問は歓迎された。この「孫」は、沖縄特有の亀甲墓と年老いた女性とふたりの子供が描かれている。この作品に描かれた姉弟は南風原の子供達で、背景に描かれているのは南風原の妻の実家の墓だという。沖縄旅行から戻った藤田は、沖縄を題材にした作品を二科展に発表した。藤田の沖縄訪問は、日本各地の風物を描いた藤田に新たな画題を与えたと同時に、沖縄の画家たちにとっても「沖縄」を再発見するきっかけとなった。

沖縄風景 北川民治作 油彩・カンヴァス昭和14年(1939)沖縄県立博物館

北川民次は大正2年(1913)にアメリカに渡り、アート・スチューデンツ・リーグに学んだが、メキシコ革命後の壁画運動に参加し、13年間をメキシコ美術運動のなかで生活し、メキシコ美術史のなかに記録される画家となっている。北川は1930年代末頃に沖縄を訪れ、この「沖縄風景」や「海王丸ニテ」などを制作している。

沖縄の女 名渡山愛順作油彩・カンヴァス昭和31年(1956)沖縄県立博物館

沖縄は1944(昭和19)年の十・十空襲により壊滅的な状態となり、多くの住民の命が奪われ、那覇市の市街地では建物の9割が破壊された。1945年1月には沖縄本島に上陸し、その後、住民を巻き込んだ地上戦があった。その直後から、沖縄は米軍の占領下に置かれるのだが、海軍が文化人類学的視点を重視し、沖縄の文化芸術は早くから保護される対象となった。彼らは沖縄の伝統文化を高く評価し、美術展覧会や舞踊公演、残された文化財を集めた博物館の設立などに尽力した。山元らを中心に「沖縄美術家協会」が結成され、画家たちは自立の道を探ることになる。1948年に文化部が解消されることもあり、彼らは東恩納を離れニシムイ美術村を新たに設立した。かっての首里城下に位置する、米軍の”ゴミ捨て場”になっていたニシムイと呼ばれる地域にニシムイ美術村を建設することにした。東京美術学校を卒業した名渡山愛順は1950年に沖縄女性を描き始める。その一つが、この「沖縄の女」である。

若衆こてい節 名渡山愛順作 油彩・カンヴァス 昭和45(1970)個人蔵

沖縄の伝統と文化を残すために描いた作品だろう。

貴方を愛する時と憎む時 山本恵一作 油彩・合板 昭和26年(1951)沖縄県立博物館

ニシムイ美術村の画家たちは、自身の活動に止まらず、広く沖縄の美術文化の発展にも貢献した。現在に続く沖縄美術展覧会は、沖縄における美術文化振興を目的に「沖縄タイムス」の創刊1年の紀念事業として始まった。山元の「貴方を愛する時と憎む時」は、昭和26年(1951)の第3回出品作品である。この作品は、この展覧会での優秀作品を決める投票で、専門家投票の第1位を獲得した。廃墟を背負いながら明日へと歩み出す沖縄の戦後を象徴する代表作である。

塔 安谷屋正義作 油彩・砂・カンヴァス昭和33年(1958)沖縄県立博物館

安谷屋の作品もまた、1954年頃から形が単純化されていく。壺や人物などが輪郭だけで表現され半抽象的な画風へと展開する。さらにその輪郭線を追求した作品が第1回創斗会で発表した「塔」である。熱心なキリスト教徒の両親を持つ安谷屋は「バベルの塔」のイメージを重ねながらこの作品を完成させた。「塔」を発表し以降、安谷屋は軍艦や軍港などの直線的で無機質な人工物をモチーフとして選択した。

望郷 安谷屋正義作 油彩・カンヴァス 昭和40年(19659沖縄県立博物館

さらに1960年代に入ると、安谷屋の作品において基地が重要なテーマとなる。”望郷”には、基地の歩哨に立つひとりの米兵が描かれている。妻の節子の回想によると、安谷屋は昭和42年(1967)まで、太平洋戦争で召集され兵隊だった頃の夢を見ており、机の上にも「直立不動の兵隊の姿や軍艦らしきもの」も描き残されていたという。戦争によってあらゆる文化財を失った上に、彼の言葉を借りれば「歴史的、地域的重荷」を背負った沖縄の複雑な立場が安谷屋の作品の中には表現されている。

 

本展のタイトルである「⇄」は、沖縄から東京へ絵を学ぶために上京した沖縄出身の画家たちや東京から画題を求めて沖縄へゆく画家たちの物理的な行き来に加え、上京した画家たちや詩人が故郷沖縄を見つめ、帰郷した画家が再び東京の画壇を通じて自らの絵画を問い直すというふたつの場所の行き交う想いも同時に示している。戦前から戦後にかけて東京と沖縄の、戦争と占領により混乱が生じ、自由を剥奪された時代にアトリエ村の画家たちがどのように対峙したのか、今後も解明が進められるべき課題であろう。「沖縄と占領(基地の残存)」という問題は、極めて今日的な課題であり、安谷屋の「望郷」は、極めて今日的な課題を描いた作品であり、”ずしり”と心に響く名作である。

 

(本稿は、図録「東京⇄沖縄展 2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「近代日本の美術  東京国立近代美術館」、神奈川県立近代美術観コレクション選 絵画 明治から1960年まで」を参照した)

 

 

 

「東京⇄沖縄」展   池袋モンパルナス編  

画家たちが住んだ芸術村というと、パリのモンパルナスやモンマルトルが有名であるが、日本の画家で良く知られた場所に、東京の落合と池袋がある。後者は「池袋モンパルナス」と呼ばれ、その研究が今も進む。東京の板橋区立美術館で「東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ村」展は、この落合と池袋というアトリエ村と沖縄の古都首里に生まれたニシムイの芸術家村の密接な関係を解き明かす展覧会である。展示はまず落合から。渡欧前の1920年代はじめ落合に新居を建てた佐伯祐三や、松木俊介など、戦前の落合丘陵には、日本美術史を飾る数々の俊英が居を構えた。

下落合風景(テニス) 佐伯祐三作 油彩・カンヴァス 大正15年(1926)新宿区

和様折衷の邸宅の並ぶ落合の風景を描いたのは佐伯祐三である。彼は大正10年(1921)に知人を通じて落合に土地を入手し、アトリエを新築した。フランスと日本を行き来しながら制作を続けた佐伯がこのアトリエで過ごしたのは4年足らずの間であったが、ここでは「下落合風景」の連作を完成させている。本展出品の「下落合風景(テニス)」は、「目白文化村」にあったテニス場が描かれている。住宅に囲まれたテニスコートの踏みならされた赤土の地面が、佐伯特有の筆遣いで生き生きと再現されている。佐伯はパリの街角と同じように、落合の住宅地を興味深く繰り返し描いた。

郊外  松本俊介作 油彩・板 昭和12年(1937) 宮城県美術館

松本俊介は昭和11年(1936)、結婚を機に落合に暮らし始めた。この頃、松本は二科展に入選した若手画家であったが、その後の彼の代表作の多くは落合のアトリエで生まれている。緑に囲まれた洋館の前に子どもたちや犬が遊ぶ情景を描いた、この「郊外」は、彼の暮らす落合をモチーフにしたと言われている。「N駅近く」(1940年、東京国立近代美術館)や「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館)をはじめ、この界隈の景色を利用した作品は複数あり、落合の地は松本の創作の発想源となった。

顔(自画像) 松本俊介作 油彩・板  昭和15年(1940)個人蔵

落合時代に描いた松本の自画像である。この頃、並行して発行した総合文化雑誌「雑記帳」では、林文子をはじめ落合の隣人に原稿を依頼していたが、やがてこの雑誌も資金難で廃刊したが、本格的な戦争に入る直前のささやかながらも存在した、知識人たちの交流の場であり、その雰囲気は落合と重なる。

新宿風景 長谷川利行作 油彩・カンヴァス 昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

長谷川俊行は、画家達を訪ねて池袋に出没した。彼は、本作「新宿風景」をはじめモダンな東京の街の光と影を描き、それらの作品は二科展などで高く評価されていた。芸術と酒を愛し、地位や名誉、身なりなどに構うことなく、ひたすら絵画に情熱を注いだ長谷川は、池袋の若手画家たちに作品共々一目を置かれていたが、自己破滅型の画家であり、太平洋戦争開戦1年前の昭和15年(1940)に亡くなった。

野菜と果物 南原風朝光作油彩・カンヴァス昭和15年(1940)沖縄県立博物館

南風原は、日本美術学校に学び、1930年代中頃から池袋の住人となった。「野菜と果物」は池袋で制作された。昭和15年(1940)に行われた紀元二千六百年奉祝美術展覧会で入選した作品である。この作品は、机の上に洋ナシや栗、かぼちゃが並んだ静物画で、その奥には群青色の海原と空が広がっている。艶やかな野菜と果物の色彩は、沖縄の紅型などを思わせる。また背景に広がる海は東京と沖縄、そして家族の暮らす台湾を行き来した南風原の源風景のようだ。夜になると南風原は「珊瑚」等池袋駅周辺の泡盛の店に現れた。

グラジオラス 靉光作 油彩・板 昭和17年(1942)頃 横須賀美術館  鳥     靉光作 油彩・カンヴァス 昭和17年(1942)頃宮城県美術館

かって池袋モンパルナスにあったアパート「培風寮」に暮らしていた頃の靉光(あいみつ)は、部屋に切株や死んだ雉などのモチーフを持ち込んで繰り返し描き、絵画の発想源とした。彼は日本画に宋元画の技法を取り入れ、薄塗りした絵具や線を重ね合せることにより「グラジオラス」や「鳥」のように繊細であると同時に色彩もイメージも重層的な画面を作り上げた。靉光の作品や制作方法は、寺田や麻生をはじめ周囲の画家たちを刺激し、彼らは競うように日本のシュルレアリスム絵画を模索した。しかし、シュルレアリスム運動は、その発祥の地であるフランスで共産主義思想と接近していたため、日本でも共産主義と結びつけ考えられるようになった。日本におけるシュルレアリスム絵画の先駆者とされた福沢一郎を代表に靉光や井上や寺田らをはじめシュルレアリスムに関心を持つ画家が多く参加したため、思想を取り締まる特別高等警察より要注意団体として監視されていたそうである。日本のシュルレアリスムびは政治的な主義主張はなかったが、1941年4月に福沢が治安維持法違反の容疑で逮捕された。この一部に、池袋モンパルナスに暮らす画家たちは動揺した。同年11月に福沢は釈放されるが、美術文化協会は「国民美術の創世」を宣言し、会員たちはシュルレアリスム絵画の発表をしないよう通達がなされた。

女 吉井忠作 油彩・カンヴァス 昭和15年(1940) 宮城県美術館

日本におけるシュルレアリスムの流行と並行して1930年代の中頃より、画家たちが関心を寄せたのは、アヴァンギャルドとは対極にあるような古典絵画であった。池袋モンパルナスに暮らしていたこの「女」吉井忠作は、古典中の古典、レオナルドダヴィンチの「モナ・リザ」の構成と似ている。大地を背景に4分の3正面で描かれている点において、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の作品の影響を指摘できる。

自画像 靉光作 油彩・カンヴァス 昭和19年(1944)東京国立近代美術館

1946年(昭和21)に、上海で戦病死した靉光(あいみつ)の自画像である。この自画像が、暗い時代に意志を持って生きる画家の心象風景が浮かび上がる名作である。戦時下の池袋モンパルナスで誕生した象徴的なグループの一つに「新人会」がある。この会は昭和18年(1943)に麻生三郎、井上長三郎、寺田政明をはじめとする池袋の住人を中心に靉光、糸園和三郎、松本俊介など8人により結成された。新人会展で、松本俊介も「Y市の橋」、麻生三郎の「うつぶせ」、靉光の「自画像」などが、戦意高揚画一色のなかで、あまり紹介されることのなかった身辺の家族の姿といった日常的な作品が発表された。

 

戦前、腺中の暗い時代に描かれた絵画の中でも、比較的戦時色の無い絵画が集められた展覧会であった。戦争中の画家たちのため、若くして死んでいった人たちの作品もあり、よくぞこれだけの作品を集めたものだと感心した。板橋区立美術館へは、初めて訪ねてみたが、立派な図録を作り、過去の展覧会の図録や絵葉書も安くして売っていた。東京の展覧会の会費や、図録、絵葉書が高騰し、求め難い時代になったが、ここでは極めて良心的な価格で、区立美術館が維持されていることに感心した。板橋区に住む住人と思われる人たちが多数展覧会に来ていた。これら住民の支持の中で成り立っているのであろう。今後も出来るだけ区立美術館、市立美術館を訪れ、地域の美術館を応援していきたい。今回は、松本俊介、靉光など、通常滅多に見られない絵画を、これだけ多数、良くぞ集まったものだと感心した

(本稿は、図録「東京⇄沖縄  2018年」、日本経済新聞社2018年3月7日「芸術家村の不思議な関係」、図録「名品選 東京国立近代美術館のコレクション」、図録「神奈川県立近代美術館コレクション」を参照した)

 

至上の印象派展  ビューレル・コレクション  ポスト印象派編

印象派と呼ばれた中から、いろいろなグループが生まれた。本稿では、ポスト印象派として点描派、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギヤンを取り上げる。3人の共通点は無いが、時期的に印象派の後を継ぐ世代であり、一般的に後期印象派と呼ばれることが多いから、このような区分を採用した。ビューレル・コレクションでは、この後、フォーヴィズム、キュビズム等と呼ばれる前衛画家が大勢出てくるが、「至上の印象派展」には、馴染まない前衛画家は省略をして、まず新印象派(別名 点描派)の登場は、1886年に開催された最後の印象派展においてであった。新印象派の代表的な画家はスーラーやシニャックであった。彼らは、揺れる水面や陽光の移ろいを捉えた印象派の作品に影響を受けた。スーラーが新印象派の記念碑的な大作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を描いたのは1884年であった。またオランダ出身のフィンセント・ファン・ゴッホは、1888年のパリ滞在で、印象主義、新印象主義を知り視覚と技法を一新して強烈な色彩による感情表現への道を歩み始めた。ゴッホとアルルで共同生活に失敗したポール・ゴーギャンは印象主義の感覚主義的な現実描写に対して明快な反対を掲げ1888年にいわゆる総合主義の様式を確立した。従って、この3人を「ポスト印象主義」で一括りすることには無理があるが、あえて、「ポスト印象派」としてまとめてみた。

ジュデッカ運河 ヴェネツィア、朝 ポール・シニヤック作 油彩・カンヴァス 1905年

シニヤックは、1880年にパリで開催されたモネの展覧会を見て画家になることを決意した。間もなくモネやシスレーの影響を感じさせる風景や静物を描き始める。1884年無審査、無償を原則とする新しい展覧会サロン・デ・ザンデパンダンの創立会員となり、「アニエールの水浴」を出品したスーラーと出合う。この作品の点描技術に魅せられたシニャックは、スーラーと共にその理論の研究を更に深め、1886年までには科学的色彩理論に立脚した完全な点描によって作品を制作するようになった。この頃、美術批評をするフェリックス・フェネオンと出合い、彼はスーラーとシニヤックの試みを「新印象主義」と名付け、熱烈に擁護した。シニヤックは終生、新印象主義の理論に忠実で、晩年になるまで点描を続けた。絵画と並んでシニヤックが情熱を傾けたのは船旅であり、ヨットの操縦であった。ヴェネツィアの景勝地を描いた作品も、そういった旅の成果の一つである。画面中央に聖堂をどっしりと配し、手前の運河には何艘ものゴンドラやヨットを浮かべた風景は、大きな点描で埋め尽くされ、まるで空間全体が揺らいでいるように、あるいは靄に包まれているように見える。しかも白い色調で統一されているために奥行きや立体感も稀薄になり、画面が限りなく平面化に向かっている。

古い塔  フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・板に貼られた紙カンヴァス 1884年

ファン・ゴッホ(1853~1890)の「古い塔」は、1883年12月に両親の住むニューネン(オランダ)に移り住み、以後2年間をこの地に住んだ。「古い塔」は、このニューネン滞在期に描かれた作品である。画家は1884年5月にニューネンの教会堂を管理していたヨハネス・シャフラーから部屋を借り、そこを制作の場としていた。自作の絵画や素描に加え、モデルに着せるための衣装などさまざまな物にあふれたアトリエからは、15世紀末ごろに建てられたとされる廃墟となった教会を目にすることができ、ファン・ゴッホはこの古びた塔を繰り返し画布に留めた。本作品では廃墟となった塔が中心的モチーフとなっている。画家は「古い教会の塔、ニューネン(農民の墓地)」では、この塔の屋根が崩れ落ちた状態を描いている。つまりファン・ゴッホが描きたかったのは、朽ちて行く教会、宗教と、永遠に続く生のいとなみの対比である。人間が作り上げた制度としての教会や宗教はいずれ朽ちていくが、神はなくならない、そして農民のいとなみもなくならない。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1885年3月、父のテオドルスが急死すると、周りの人々との関係も悪化し、ファン・ゴッホは、ベルギーのアントウェルペンに向かった。翌1886年1月、アントウェルペンの王立美術学校アカデミーに登録し、人物画及び石膏像の素描を学んだ。しかし、ベルギーでの生活も長続きせず、1886年2月末、ファン・ゴッホは弟テオのいるパリに移った。オランダ時代のファン・ゴッホは、バルビゾン派の画家達に大きな影響を受けていた。とりわけ、ジャン・フランソワ・ミレーに深い感銘を受け、ミレーと同じく、暗めのトーンを支配する画面の中に労働に謹み、慎ましやかな生活を営む農民の姿を数多く描いた。パリに出て直ぐに通い始めたフェルナン・コモンの画塾では満足した指導は受けられなかったものの、エミールベルナールやトュールズ=ロートレックら若き画家たちに出会い、芸術について議論し、刺激を受け合った。この時期、オランダ時代の暗い色調を放棄し、明るい色彩を取り入れるようなった。さらに、第8回印象派展を目にする機会にも恵まれた。この時期の印象派展にはルノワール、シスレーらは不参加で、代わりにジョルジュ・スーラーやポール・シニャックら新印象主義の画家が参加していた。新印象派の絵画から色彩対象の方法を深く理解するに至った。また、日本の浮世絵との出逢いも大きな影響を与えた。パリでの生活が2年目を迎えた頃に描かれた本作品では、ファン・ゴッホが色彩への新たなアプローチを試みたことが窺える。画家の背景は、緑、橙、水色の短い線で塗られ、互いの色彩が混ざり合うことなくその明度を保っている。ジャケットの襟の緑の縁には、ピンクの点を配し、茶色との対比でよりいっそう明るさを主張している。パリ滞在中、ファン・ゴッホは30点近くもの自画像を描いたとされる。

アニエールのセーヌ川にかかる橋 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1886年にパリに出ると、ファン・ゴッホは印象派の絵画を目にする機会に恵まれた。他の印象派作家と同じように、戸外での制作に取り組むようになった。1887年の夏には、19世紀産業革命によって労働者が増加し、余暇を過ごす場所もできた。パリ光背のアニエールに足を運び、日の光を浴びる風景を描いた。この「アニエールのセーヌ川にかかる橋」に描かれた鉄橋や紅い蒸気船は、近代を象徴するモチーフである。画面奥に描かれた橋の更に奥には、煙を出す工場の煙突が描かれており、郊外の工業化を示す印でもある。アニエールでの制作は、色彩の表現を研究していたファン・ゴッホにとって満足の行く成果を上げていたようだ。ピンクのドレスを身に付けた女性の持つパラソルの赤と川面を彩る青と黄色など、印象派の絵画とは一線を画すファン・ゴッホ独自の色彩表現が綿密な構図の中に発揮されている。

日没を背に種まく人 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年

1888年11月21日に弟テオの宛てた手紙の中で「太陽のような、巨大なレモン色の円盤がある。黄みどりの空にはピンク色の雲がある。地面は菫色だ。種まく人と木はプルシャン・ブルーで大きさは30号だ」と画家が記した作品こそ、ミレーの「種まく人」に想を得て制作された本作品のことである。また、画家は本作品と類似する「種まく人」(ファン・ゴッホ美術館蔵)も制作している。それはサイズを小さく、より激しい色使いと筆触の粗さを特徴とする。(昨年の「ゴッホ展~巡りゆく日本の夢」に出品されていた)本作品には長年のミレーへの敬愛が明確に表れている一方で、アルル時代の画家の関心が認められる。前景には濃紺で描かれた人物が、背景には黄緑色の空にに黄色い夕日が大きく描かれ、色彩の対比は各モチーフの存在をよりいっそう際立たせている。太いリンゴの木は、画面を分断しているが、この構図は日本の浮世絵から借用したものであろう。

二人の農婦 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァスに貼られた紙 1890年

1888年12月23日、ゴーギャンとの関係が悪化し、精神障害の激しい発作を起こしたファン・ゴッホは自らの耳を切り落す事件を起こす。アルル精神病院での療養で肉体的には回復したものの、この頃からゴッホは、激しい発作に見舞わらるようになり、自身でも精神の崩壊を危惧し始めた。事件の翌月の1月には退院して制作を開始するが、発作を繰り返し、自ら申し出てアルル北東のサン・レミにあった精神病院に入院している。修道院の経営する病院であったが、精神医学の未発達であった当時、この種の病院の実態はむしろ監獄に近かったのでは無いだろうか。本作品は1890年の春に制作された。画面には雪の残る畑で農作業に勤しむ二人の農婦が描かれている。病院の個室の窓から外の景色を眺める日々を送る中で、弟テオから送られたミレーの複製画をもとに故郷のオランダで目にした勤勉な労働者の姿を描くようになった。本作品はそのうちの一つで、ミレーが1857年に描いた「落穂拾い」(オルセー美術館蔵)に想を得て制作された。本作品では、雪の間から緑の葉をつけた作物を掘り起こそうとする農婦が描かれている。厳しい自然の中で、懸命に労働に向き合う農婦の姿を描くことで、ファン・ゴッホは画面に故郷へのノスタルジックな想いを込めたのである。このサン・レミのタッチの渦巻く空の雲は、正にサン・レミのゴッホのオリジナルな渦巻く雲である。

花咲くマロニエの枝 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1890年

サン・レミとオーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年の時期、ファン・ゴッホは、草花や昆虫、樹の枝などの自然のモチーフを描くことが多かった。セーヌ川の支流のオワーズ川沿いの小さな村で、ファン・ゴッホは命を絶つ寸前まで制作に意欲を燃やし、わずか2ケ月に70点もの作品を制作した。この「花咲くマロニエの枝」は、オーベル=シュル=オワーズで制作されたファン・ゴッホの最晩年の作品の一つである。この作品は、ファン・ゴッホがこの段階に至ってもなお、新印象主義のスタイルを独自に発展させていたことを示している。画家の死後、弟のテオは本作品をポール・ガシェ医師に寄贈した。ガシェ医師はファン・ゴッホがオーヴェールに移住してからすぐに親しくなった素人画家で、絵のモデルも務めた。また、同時代の画家の作品を蒐集したことで知られており、ファン・ゴッホの作品も多数所蔵していた。ビューレル・コレクションには7点ありファン・ゴッホの作品の中で唯一の花の絵画である。

肘掛け椅子の上のひまわり ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス1901年

ひまわりは、ファン・ゴッホとゴーギャンを結びつける重要なモチーフであった。彼らがパリで出合った時に、ゴーギャンはファン・ゴッホが描いたひまわりのある静物画を称賛し、その小品2点と自身の作品と交換する。またゴーギャンがアルルにやって来ることになった時、ファン・ゴッホは共同生活を送る「黄色い家」を絵画で飾ることを企てて「ひまわり」の連作を制作し始め、ゴーギャンを迎える準備を整えた。さらに、ひまわりが置かれた肘掛け椅子もまた、ゴーギャンにとってダン・ゴッホとの思い出に欠かせないものであった。ファン・ゴッホはゴーギャンと共同生活を送るために、「黄色い家」のために、用意した豪華な肘掛け椅子の方をゴーギャンに差し出し、自らは簡素な藁座面の椅子を使用した。本作には当然ながらこうした経緯が含まれており、ゴーギャンは椅子に自分のサインを入れて自身の分身のように扱い、まるで肘掛け椅子(ゴーギャン)がひまわり(ファン・ゴッホ)を抱くようなかたちで描いている。これらのひまわりのある静物画が完成したのは、ゴーギャンが亡くなる2年前のことである。かれは晩年に懐かしい記憶の糸をほどきながら、すでに亡き友人に思いを馳せて、これらの作品を描いたのであろう。

贈りもの ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス  1902年

1891年4月、ゴーギャンは文明化された社会から逃れるために、フランスを離れ、タヒチに向かった。その2ケ月後、首都のパペテーに到着するが、そこには植民地化された町並みであり、失望感を覚えた。その後、ゴーギャンはパペーテから80キロほど離れたマタイエアに移り住み、現地で出合う人々やその暮らしの様子を鮮やかな色彩によって想像を交えて描き、幻想性あふれる作品を数多く生み出していった。その後、1893年9月に再びタヒチに戻った。1901年9月16日、さらなる野生の残る地を求めて、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移り住み、最晩年の時を過ごした。この「贈りもの」は、このマルキーズ諸島在住中に描かれた作品である。本作品には、ヒヴァ・オア島で出合った二人の女性が描かれている。彼女たちが佇む小屋の窓からは、別の小屋の屋根が見える。つまり、ここでゴーギャンが描いているのは2階建ての小屋の2階に当たる場所で、画家自らが「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の家)」と呼んだ建物の一室である。画面左の女性が花を手に持ち、隣の赤子を抱いた女性に差し出そうとする儀式的な場面、物静かで穏やかな物腰、生まれたばかりの乳児が母親の腕の中に身を委ねる姿勢からは、1901年に制作された「黄金色の女たちの肉体」(オルセー美術館蔵)に通じるような楽園の雰囲気が醸し出されている。新しい生命の誕生を祝うこの光景には、キリスト教美術の図像は描かれていない。しかし、キリスト教絵画の聖母子像の伝統に連なっていることは明らかである。マルキーズ諸島には、生命の誕生を祝うために人々は花を贈る伝統があり、本作品での姿に西洋の祈りのポーズが重ねられている。本作品ではとりわけ女性の肌の表現に画家の関心があることが窺える。

 

今日、ファン・ゴッホとゴーギャンを印象派の画家と呼ぶことは全くない。ポスト印象派と呼ばれることが多い。実際にゴーギャンは、第4回印象派展から5回に亘り印象派のグループ展に参加し、批評家からも印象派と見られた時期がある。それに対し、ゴッホは、最後となる第8回の印象派展を観たとき「不完全で、見苦しく、ひどい描き方」と酷評したが、その後いくつかの展覧会で目にするうちに、次第に称賛へと変わり、印象派の画家は「眼に触れるすべてのものを、画壇で名を馳せている多くの大家より見事に描ける」と評するほどになった。一方、1870年代からパリに暮らしたゴーギャンは、絵筆を執り始めた頃から印象派の作品に親しんだ。株式仲買人として成功した時期には、自らも同時代の作品を取集した。かつゴーギャンは技術や表現だけでなく、印象派の画家を巡る社会的評価にも注目していた。一方、ファン・ゴッホは、印象派を二つのカテゴリーに分けていた。既に評価を得て、大通りに位置する画廊で作品を展示及び販売できる画家とみなした。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロなどを彼は「大通りの印象派」と呼んだ。一方、まだそれほど売れていないスーラー、ポール・シニヤック、ゴーギャン、ロートレック、エミール・ベルナールたちを、彼自身を含め「裏通りの印象派」とした。1888年4月3日頃の弟テオに宛てた手紙で、「ぼくはまさに”裏通りの印象派”で、今後もそのままありたいと思っている」と述べている。一方、ゴーギャンは、かれが疑いなく印象派から多く学んだうえで、新しい表現を獲得していく様に端的に示している。「大通りの印象派」の画家とその作品は彼にとって憧れ、学ぶ対象であると同時に、ファン・ゴッホが「裏通りの印象派」であり続けたいと述べたように,彼ら自身の表現を展開していく足掛かりとなるものであった。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展 ビューレル・コレクション 2018年」、図 録「ゴッホとゴーギャン展  2017年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」西岡文彦「謎解きゴッホ」、国府寺 司「ゴッホ 日本の夢に掛けた芸術家」を参照した)

至上の印象派展  ビューレル・コレクション  印象派編

ビューレル・コレクションは、スイスの実業家エミール・ゲオルク・ビューレル氏(1890~1956)によって収集されたもので、印象派絵画を中心とした、約600点の西洋美術からなるプライベート・コレクションである。彼の興味はフランス印象派にあったが、印象派のルーツを探るために、16世紀から18世紀のオランダ絵画やヴェネツイア派の絵画などを積極的に購入するだけでなく、印象派の理解を深めるために、ナビ派、フォーヴィスム、キュビスムなど、1900年以降のフランス前衛絵画を買い求め、世界でも稀にみるコレクションを形作っていった。2008年に盗難事件にあい、美術館が閉館されたため、以降このコレクションの全貌を確認できる機会は失われた。2020年にこのコレクションは一括してチューリッヒ美術館に移管されることになった。従って、ビューレル・コレクションを楽しむ機会は、日本のこの展覧会が最後となるであろう。今回の展示作品は、64点で、16世紀から18世紀のオランダ派やヴェネツィア派、印象派、ポスト印象派、更にナビ派、フォーヴィズム、キュビスムなど、1900年以降の傑作も多数含まれているが、「至上の印象派展」の名前に惹かれて拝観した美術展であるので、印象派、ポスト印象派に絞って紹介することにした。結論として「至上の印象派展」になったことは、非常に嬉しく、かつ心の癒しとなった。是非、拝観されることをお勧めする。

ベルヴェの庭の隅 エドュアール・マネ作 油彩・カンヴァス  1880年

明るく光に満ちた画面を特徴とする本作品は、晩年のマネが印象派の画家達に影響を与えたことを示している。1874年8月、マネはアルジャントュイでモネとルノワールと一緒に絵画制作に励んだ。この時、マネは戸外での制作を決定的に受け入れるようになった。細かいタッチを重ねて、明るい画面を作り出すモネの影響を受ける一方で、マネは風景を描くよりも人物を研究することに関心を向けたのだった。そして、モデルや友人を自然の中に配して、中心となる人物が周辺の風景と一体化する場面を作り上げることを目指したのである。本作品でも、マネは読書に没頭する紺色のジャケットを着たマルグリットを、鑑賞者のまなざしが向くように画面中心に据える一方で、彼女が周囲の花や草木と調和するように細かいタッチを巧みに用いている。光と鮮やかな色彩にあふれた本作品は、若き画家たちとの交流を示している。通常、マネは「印象派の父」と呼ばれているが、ただの一度も「印象派展」に出品したことは無かった。マネの本心は印象派に無かったのではないだろうかと私は思う。マネの「印象」は、現代人の心に潜む闇を描きだそうとしたのではないだろうか?

ヴェトュイユ近郊のヒナゲシ畑クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1879年頃

マネに対し、モネこそ心底からの「印象派主義者」であったと思う。1870年代後半、モネはさまざまな困難に見舞われていた。1877年には最愛の妻カミューユの健康状態が悪化し、1878年にはパリから約60キロ離れたヴェトュイユに移住した。それから1年後に、カミーユは32歳の若さで亡くなった。ヴェトュイユの生活は1881年まで続いた。モネはヒナゲシ畑のその奥に広がる街の光景が見渡せる場所にイーゼルを立て、細かいタッチによってヒナゲシの花を生き生きと描き出している。その繊細な筆の動きは、奥に見える街の風景と明らかに異なっている。モネは燃えるようなヒナゲシ畑の広がるヴェトュイユの風景を描きだした。自然の光景の中に女性や子どもを描くのは印象派絵画の典型例であり、ここでもモネは人物(大人1人、子供3人)を描いている。ヒナゲシの花束を抱える白いドレスを着た女性は、臨終間際のカミューユと見做すことは出来ず、女性の右側に描かれた二人の男児に関しては、その年齢から考えるとモネの二人の息子(ジャンとミシェル)が描かれたと考えるのは不自然で、むしろ描かれた女性はアリスで、少年たちはアリスの息子で、この頃6歳と2歳の子供の可能性が高い。

ジヴェルニーのモネの庭 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1895年

1880年6月にラ・ヴィ・モデルヌ画廊で開いた個展が好評を博し、その後作品が売れるようになった。経済的な余裕を得たモネは、夫と離別したばかりのアリス・オシュデとその子供たちと暮らすことを考え、1883年4月にジヴィエルニー移って9,600平方の広さを誇る敷地を借りた。そして7年後の1890年11月、モネはジヴェルニーに家と土地を購入し、その庭を自らが思うように手を入れることに専心するようになっていった。モネは絵の知識を生かし、光と影が差す場所を計算しながら広大な土地に色とりどりの花々が咲き誇るように庭を造成した。1892年、その前年に未亡人となったアリスと正式に結婚した。本作品はジヴェルニーの家の前にある「クロ・ノルマン(ノルマンディーの囲いの庭)」の光景が描かれている。アリスの息子ジェルメールの記憶によれば、青いブラウスに赤い上着を重ね、麦藁帽子を被る赤毛の女性は、アリスの連れ子の中でも特にお気に入りのモデルであったシュザンヌである。光りを浴びてアイリス、シャクヤク、ゼニアオイ、バラ、フジによって彩られた「クロ・ノルマン」を描くにあたって、画家は抑揚のある筆致を重ねている。ダリアに手を触れるシュザンヌはその存在を主張することなく、万華鏡のように輝きながらさまざまな色彩に埋め尽くされる風景の中にみごとに溶け込んでいる。

陽を浴びるウオータール橋、ロンドン クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1899年

普仏戦争が勃発した1ケ月後の1870年8月、モネは徴兵を逃れるためにパリを離れ、ロンドンに向かった。ロンドンではシャルル=フランソワ・ドビーニから画商デュラン=リュエルを紹介され、それ以降ドュラン=リュエルはモネをさまざまな形で支援していく。ロンドン滞在でポサロとともにジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナーやジョン・コンスタンブルの作品を積極的に見て回った。1871年1月普仏戦争の休戦協定が結ばれ、同年秋にモネはフランスに戻った。モネは、その後ロンドンを数回訪れている。とりわけ1899年、1900年、1901年の3回の滞在では、国会議事堂、ウォータール橋、チヤーリング橋という大きな建造物を主要なモチーフとする連作を制作した。ロンドン連作は円熟期を迎えたモネの代表作であり、1904年にデュラン=リュエル画廊で37点が公開された。この「陽を浴びるウォータール橋、ロンドン」は正に一連のロンドン連作に属する作品である。モネはテムズ河畔のサヴォイ・ホテルの部屋から見える光景を画布に留めた。画面の中心となるのは1871年に開通したウォールタール橋で、画面右手前には帆船が描かれている。モネはロンドンの近代化を象徴する建造物をモチーフとしながらも、橋の堅牢な構造を感じさせることなく、光が反射する水面と霞(かすみ)が織り成す幻想的な世界を軽やかな筆触によって描き出している。

控室の踊り子たち エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1889年頃

ドガの関心は、競馬と踊り子であった。オペラ座の定期会員であったドガは、その舞台裏にも足しげく通い、稽古場の控室の様子を積極的に描いた。また、ドガは踊り子たちが置かれた社会的状況をも示していた。「エトワール」(オルセー美術館蔵)では、舞台上で可憐に舞う踊り子を舞台袖から見つめる黒いタキシードの男性を描き、若い踊り子が娼婦と変わらず、性的な対照として欲望される存在であったことを示している。ドガが踊り子を主題に作品に取り組むようになったのは、1872年頃からである。1870年代後半から横長の画面の中に稽古場の踊り子を描くことを試みる。ドガは、人物の左右のいずれかに集めて描くようになり、時には画面に深い奥行き感を作り上げていた。本作品では舞台の控室で準備をする踊り子たちの様子が描かれている。横長のカンヴァスが使用されているが、画面のトーンが全体的に暗く、群像が画面の大半を占めているため、ここでは奥行の表現は曖昧にされている。絵具は素早く粗いタッチで塗られている。この筆の運びにより人物の顔はぼかされていて、その表情をうかがい知ることは出来ない。

可愛いイレーヌ ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1880年

1870年代後半から80年代にかけて、ルノワールは洗練された裕福な人々の知遇を得るようになり、その多くは肖像画制作の依頼を受けた。ルノワールとカーン・ダンベール家の出会いも、この時期に当たる。裕福なユダヤ人銀行家のルイ・カーン・ダンベール伯爵とその妻ルイーズは、美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」の編集長であり、銀行家、美術史家、美術蒐集家としても活動し、印象派の画家たちの支援者であったシャルル・エフリュシを通してルノワールと出合った。ルノワールには、カーン・ダンヴェール夫妻の5人の子供のうち3人の娘たちと、伯爵の弟アルベール・カーン・ダンヴェールの肖像画の注文が寄せられた。本作品はカーン・ダンベール夫妻の長女、イレーヌを描いたものである。イレーヌを描いた本作品は、ルノワールによる子どもの肖像画を代表する傑作の一つとして知られている。本作品は1881年のサロンの好評を得たため「ガゼット・デ・ボザール」誌(1881年7月号)にルノワール自身によって制作されたデッサンが掲載された。

夏の帽子  ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1893年

1881年のイタリア旅行でポンペイの壁画やルネサンス期の巨匠ラファエロによるフレスコ画等に感銘を受けたルノワールは、印象派から離脱してゆく。その後、固い輪郭線を用い、モチーフの質感と量感の表現を追求する古典芸術に魅了され、自身の作品でも実践し、印象派から離れた。このようないわゆる「アングル様式」と称されるスタイルによって多くの作品を生み出したルノワールだが、1880年代後半になると徐々にこの古典様式から離れ「真珠色の時代」に移行する。リボン装飾が付いたレースの帽子をかぶった褐色の髪の少女が、もう一人の金髪の少女が見に付けている麦わら帽子に赤いひなげしなどの草花を飾っている姿を描いた本作品は、この「真珠色の時代」におけるルノワール作品の特徴を示す好例である。

赤いチョッキの少年 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1880年

「赤いチョッキの少年」は、セザンヌの画業を語る際に必ず言及される高名な作品である。描かれているのは、イタリア出身のプロのモデル、ミケランジェロ・ディ・ローザと伝えられてきたが、詳細は不明である。1886年に亡くなった父の遺産を手にしたセザンヌは、プロのモデルを雇う余裕もあったのであろう。彼にはさまざまなポーズを取らせて、本作品を含む4点の油絵と2点の水彩画を仕上げた。本作品に採用された伝統的なメランコリーなポーズは、セザンヌの1870年代から80年代の作品にはほとんど見られないが、90年代にはしばしば取り上げられている。この作品で特筆すべきは、その鮮やかな色彩のハーモニー、そして長く引き伸ばされた腕に見て取れる、造形的な自立性であろう。少年の頃、長く伸びた腕を覆うシャツ、右端のソフアの上に載る四角い紙は光を反射して白く輝き、その周囲に配された、ヴォリュームのあるカーテン、少年の膝をつく椅子の濃い色調と、鮮やかな対比を見せている。そして、まさに本作の主役とも言えるチョッキが、その内部に置かれることで、色彩のリズムが完成している。もう、印象派というより抽象絵画に近づいているように私は思う。セザンヌは一時期、印象派に近づいたが、本格的な印象派の画家では無かったと思う。

パレットを持つ自画像 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1890年頃

本作品は、パレットと絵筆を手にしてカンヴァスに向かうセザンヌ自らの姿を捉えた自画像である。その堂々とした体躯は、簡素で無骨な仕事着に包まれている。セザンヌは生涯に、およそ25点の自画像を制作したが、初期の表現主義的な自画像を除いては、画家としての職業や設え(しつらえ)もそこに加えることはなかった。画家の姿だけを簡素に素直に描きだした自画像は、社会から超絶し、孤独に制作に励んだセザンヌの生き方そのものを反映しているように思う。そういう意味で、セザンヌの自画像の中で最大を誇るこの作品は、画家としての姿を明確にしているという点で例外的な自画像と言える。

睡蓮の池、緑の反映 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1920~26年

1883年に、ジヴェルニーに移り住んだモネは庭造りに熱中し、自宅の前に多種多様な花の咲く「花の庭」を造った。その後さらに拡張し、池を造成して睡蓮を浮かべた「水の庭」を造った。1890年代後半から、この池がモネの絵の主要なテーマとなった。最初の池の連作では、日本風の太鼓橋を中心に、池とその周囲が大きく捕えられていた。その後、1903年から描き始められた連作では、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけで画面が構成するようになった。この「水の池」を舞台にモネは、実に200点以上もの睡蓮の池を描いている。その後、妻のアリスと長男のジャンの死や、白内障による視力の悪化からしばらく制作は滞るが、1914年、地下室に放置されていた睡蓮の花を見付けたモネは、親友の政治家、ジョルジュ・クレンマンソーの励ましもあり、再び装飾画への情熱を取り戻した。翌1915年には、睡蓮の大装飾画のためのアトリエを建てて制作に没頭し、1920年には国家への力作の寄贈も決まったが、最晩年には体力の低下により制作ははかどらず、最終的にオランジュリー美術館に渾身の22点が納められたのは、モネ没後の1927年のことだった。モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエには、寄贈されなかった同サイズの装飾画が残されていた。ビューレルは1951年にこのアトリエを訪れ、そのうちの2点(睡蓮の池、アイリス)と「睡蓮の池、夕暮れ)を購入した。これらは、その後すぐにチューリヒ美術館に寄贈された。この(睡蓮の池、緑の反映)は、ビューレルが1952年に新たに購入した作品である。200×425cmという大作の睡蓮の池を見るにのは私にとって初めての体験であり、多分今後も無いだろう。さて、私は、生涯を貫いて印象派であったのは、モネ一人であると思う。改めて、モネ論の一文をものしたいと思う。

 

クロード・モネは批評家から「印象派」における中心的な風景画家と認識されるようになるが、それは特に彼の作品が多面的だったからである。長い時間をかけて探した末に、1883年にモネはセーヌ川沿いにあるジヴェルニーに一軒の家を見つけ、そこを終の棲家(ついのすみか)として手を入れ続けた。「ジヴェルニーのモネの庭」は、後にモネが池のある広々とした風景に拡張していったが、その庭の最初の部分を見せる作品である。そこから出発して、遂にモネは国家から懇望されて、「睡蓮の庭」の大作を寄贈するまでになった。終生変わらぬ印象主義を貫いたモネについては、更に研究を深めて、オリジナルな「モネ論」をいつか展開したい。ここまで書いたら、日経新聞の2月27日(火)の記事に次のような記事があった。「国立西洋美術館は26日、戦後、所在が不明になり、2016年にパリのルーブル美術館で見つかった印象派の画家モネによる油絵「睡蓮ー柳の反映」の寄贈を受けたと発表した。」記事によれば、横4メートル、縦2メートル弱というから、正しくこの「緑の反映」と同じサイズの作品である。修復の上、19年6月に公開するとのことであるので、改めて報告したい。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展  ビューレル・コレクション 2018年」図録「モネ展 マルモッタン美術館所蔵 2015年」、吉川節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、図録「オルセー美術館 印象派の誕生  2014年」を参照した)

仁和寺と御室派のみほとけ   御室派編

仁和寺御室派は、第二次大戦後に成立した真言宗の宗派の一つであり、全国に約790寺で形成されたものである。実は近世以前から仁和寺の末寺であった寺院を戦後に集めて形成されたもので、歴史的に仁和寺とその末寺の姿をよく受け継いでいる。本展には、全国から選りすぐりの優品が集められており、御室派の実力を見せつけられた感じがする。中には、既に優品として拝観した仏像(例えば葛井寺ーふじいでらーの千手観音菩薩坐像)等もあるが、大半の仏像、宝物は初見であり、かつ秘仏が多い。良くぞ、これだけの名品を集めたものだと、感心し、実に楽しく拝観させて頂いた。前期。後期にの2回にわたり、それぞれの優品を見せて頂いた。今年の大きな収穫であった。この展覧会を主宰された関係者各位に厚く御礼申しあげたい。御室派編では、特に関心の高かった仏像に特化した解説となった。

国宝  千手観音菩薩坐像 奈良時代(8世紀)  大阪・葛井寺(ふじいでら)

本展覧会の最大の呼び物である。(後期展示)私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の中の最優秀作品と評価している。葛井寺は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点付近に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来系氏族が集まり、5世紀に巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建立された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面をいただき、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手と像をまわりに半円形に広がる脇手とをあわせて1041本の手を持ち、各手の掌には眼が描かれる、十一面千手観音菩薩坐像である。インド初期密教が生み出した変化観音の一つである。本像の作風は天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。私も、法華堂に安置されていた日光・月光菩薩像と良く似ている面があると思う。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の制作年代は天平年間の前半頃と見るべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手が美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本あったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。従って、日本にある天平時代の千手観音菩薩像で千本を超える手を持つ観音像は、本像のみである。葛井寺像の頭上には、正面に化仏(けぶつ)立像があるほか、中央の一番高い位置に仏面、その周囲に十個の面がある。これは十一面観音菩薩像と同じで、観音の目はすべての方向に向いていることを示している。この仏像の美しさは他に類例を見ない。是非、一度拝観されることをお勧めする。この仏像は秘仏であり、葛井寺を拝観しても拝めないことが多いので、是非会期中に拝観をお勧めする。

国宝  十一面観音菩薩立像   平安時代(8~9世紀)  大阪・道明寺

道明寺は、葛井寺(ふじいでら)から約2キロ東に位置する寺である。応神天皇など巨大古墳が点在するこの地域は、古くから栄えた土地であった。道明寺は、平安時代には「土師寺」(はじでら)と呼ばれており、この地域を本拠としていた豪族で、菅原道真の祖先に当たる土師氏(はじし)の氏寺として7世紀に創建された寺である。現在、本寺の本尊として本堂に安置されている。本像の作風は、京都・長岡市に所在する宝菩提院(ほうぼだいいん)の菩薩半跏像に通じており、宝菩提院像が造られたと推定される長岡京時代(784~793)に近いと考えられる。

重要文化財 釈迦如来坐像 鎌倉時代(13世紀)  宮城・龍宝寺

京都・清凉寺に安置された釈迦如来像を摸刻したもので、各地に百体を超える清凉寺摸刻像があるが、その出来栄えはさまざまで、この龍宝寺像は中でも中実に原像を写した鎌倉時代までさかのぼる優品である。龍宝寺は伊達家(だてけ)の祈願寺として知られ、御室派では最も東に位置する寺院である。

重要文化財降三世明王立像像高252.4cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前に位置し、前谷と後谷がせまる谷間の地に開かれた古刹である。本寺に伝わる縁起などには、平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえたむろまろ)の宿願によって、大同年間(806~810)に開創されたと伝えられ、また「国内で無双の伽藍」とたたえられたという。降三世明王(ごうざんせみょうおう)、深沙大将(じんじやだいおう)の2メートルを超える巨像は、本尊である半丈六(丈六の半分、像高は約145センチ)の薬師如来像の両脇侍として、鎌倉時代の和様建築で、国宝の本堂に安置されている。降三世明王は、五代明王の一つで東方に安置される尊覚である。髪を逆立て、顔は左右と背面に一面ずつ合計四面あり、本面は三つの眼を怒らせて牙をあらわにし怒りの表情を見せている。降三世明王が開口するのは珍しい。八本の腕を持ち、足下にヒンドュー教の神である大自在天(だいじざいてん=シヴァ神)とその妃の烏摩(うま)を踏み付けると言う奇怪な姿をしている。

重要文化財 深沙大将立像像高256.6cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

降三世明王と両脇侍となる深沙大将(じんじゃたいしょう)はインドへ求法の旅に出た高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)を、砂漠で救ったという守護神である。日本においては、彫刻として独尊か、執金剛神と一対に造られる例が一般的であるが、降三世明王とともに安置されるのは他に類例をみない。この類例のない組み合わせの三尊像は、いずれもヒノキの一材から頭部と体部の主要部分を彫り出し、後頭部や背面から内刳りをする、当時としては古式な一木造りの技法で造られており、また両者の様式も共通している。

重要文化財 馬頭観音菩薩坐像  鎌倉時代(13世紀) 福井。中山寺

中山寺は、「若狭富士」と称される福井県小浜町の青葉山の西側、若狭湾を一望する中幅腹に所在する。本堂は、天文2年(1543)に建立された建物で、その本堂に安置され、厳重な秘仏として守り伝えられてきた。脇侍としては鎌倉時代後期の毘沙門天立像と不動明王立像が安置されている。本像は三面八臂で、胸前にかまえた二本の手で根本馬口印を結ぶ、三面(本面のみ三眼)ともに憤怒の表情をした坐像である。秘仏のためか、非常に色彩が鮮やかに残って、美しい馬頭観音坐像である。運慶次世代の慶派の作風に通じるものがある。いずれにしても13世紀後半には下らない頃の非常に優れた彫刻である。若狭周辺には、仏像の優品が多い。

重要文化財 不動明王坐像  木造・彩色 平安時代(10世紀) 広島・大聖院

大聖院(だいせいいん)は、厳島神社のある宮島に所在し、明治時代初年までは同社に付属する別当寺(べっとうじ)であった。本像は、大正9年(1920)に本寺である仁和寺の新乗院から移され、近年までは、島内最高峰である弥山(みせん)の山上にまつられていた。明王は、7世紀のインドで成立した新しい密教の尊格であり、怒りと恫喝(どうかつ)によって生じた衆生(しゅじょう)を正しい方向に導く使命を持つ。不動明王は、密教の中心的な教主である大日如来の化身とされ、日本には9世紀初頭に空海によってもたらされた。京都の東寺講堂の不動明王坐像と同じ図像で、いわゆる大師様(だいしよう)と称される。美しい色が残るのは、秘仏扱いを受けたものだろうか?

重要文化財 如意輪観音菩薩坐像木造・彩色 平安時代(10世紀)兵庫・神呪寺

神呪寺(かんのうじ)は、兵庫県西宮市の北部にある標高310メートルの甲山(かぶとやま)の麓に所在する名刹である。私事になるが、昭和40年代前半に、私はこの甲山の近くの夙川(しゅくがわ)付近に住んだことがある。その頃に家族一同で甲山に登り、炊飯を楽しんだ場所であり、大変神呪寺を懐かしく思い出した。神呪寺から見降ろす景色は、西宮市、芦屋市を一望できる絶景の場所であった。さて、本尊の六本の腕(六臂)を持つ如意輪観音像は、平安時代初期に空海が中国より請来した両界曼荼羅(りょうかいまんだら)に描かれており、それ以降、真言密教の尊格として造像の事例が増えている。本像はヒノキの一木造りの像である。左脚部は後補である。秘仏として扱われていたように記憶する。

重要文化財 千手観音菩薩坐像(中央)  平安時代(12世紀)徳島・雲辺寺 重要文化財 毘沙門天立像(右) 平安時代・寿永3年(1184)徳島・雲辺寺重要文化財 不動明王立像(左) 平安時代(12世紀) 徳島・雲辺寺

弘法大師にゆかりのある四国八十八幡霊場の第六十札所に当たる雲辺寺(うんぺんじ)には、それにふさわしい古像が伝来する。本尊(中央)の千手観音菩薩坐像は、その像内に墨書銘を持つことで古くから知られている。また手は千手と言いながら、実は42本である。これは1本の手で25の願いをかなえるとして、40本の腕で千手を示し、これに本来の腕である2本を足して42本とすることが、平安時代以降慣習化された。あわせて、毘沙門天立像ならびに不動明王立像は、少し遅れて追加で造立されたものとみられ、かって千手観音三尊像を構成していた。現在毘沙門天立像は本尊とともに収蔵庫に安置されている。不動明王像は護摩堂(ごまどう)に安置されている。像内に制作年と作者名を記す毘沙門天像は注目を集めてきたが、近年、修理をほどこされた不動明王立像からも銘文が発見され、作者が同じであることが明らかになり、一揃いとして造立された可能性が推測されている。毘沙門天像の像内には、腰辺りに「寿永3年(1184)六月二十二日」という年紀と共に、雲辺寺僧願西が施主となり、「亜州」つまり徳山在住であった仏師慶尊(けいそん)に造らせたことが判明した。おそらく、本尊の千手観音に対し、遅れて二像を加えたものであろう。御室派の古刹にこうした三尊構成が見られることは重要で、徳島と高知、香川を結ぶ交通の要衝であったこの地の特性も伝えている。

 

仁和寺は、今から1100年あまり前の平安時代に開創されたお寺であるが、以後の長い歴史のなかで、今日の御室派(おむろは)諸寺院とさまざまな縁(えにし)が取り結ばれてきた。現在、御室派寺院は約790寺を数える。そこには、両者の歴史がしっかり刻み込まれている。この「御室派編」では、普段は公開されない秘仏を含めて、全国各地の御室派寺院の貴重な仏像を通して、御室派の広がりと、その信仰が作り上げた美を一堂に集めて展覧したものである。私自身、葛井寺の千手観音菩薩坐像(国宝)以外、拝観したことのないみほとけ達であった。大変貴重な秘仏の数々を拝観することが出来て、有り難く楽しい展覧会であった。(最近の情報によれば、東京国立博物館の入場には1時間以上の待ち時間が必要となり、葛井寺(ふじいでら)の千手観音菩薩像(国宝)の拝観が大人気のようである。江戸時代の出開帳以来初めて東京への出品であり、今後も東京出品は、数百年後になるだろうとの思惑からであろう。是非、この機会に拝観されることをお勧めする)

(本稿は、図録「仁和寺と御室派のみほとけ  2018年」、京都古寺巡礼「第22巻 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ 洛西」を参照した)

仁和寺と御室派のみほとけ   仁和寺編

東京国立博物館で2018年1月16日より3月11日まで、「仁和寺と御室派のみほとけ」展が開催されている。(副題として「天平と真言密教の名宝」)私は、既に「仁和寺、伽藍、御殿、宝物」の3偏を書き綴ったが、この展覧会は、また見栄えある素晴らしい第一級の展覧会であった。この展覧会を2回に分けて連載するが、第1回は「仁和寺  宝物」と重複する部分があるが、それはご寛容頂きたい。特に素晴らしいのは、御室派(おむろは)と呼ばれる全国に広がる、仁和寺を総本山とする全国約790寺の真言宗御室派寺院の秘仏(中には33年間に1回公開するという超秘仏も含まれる)が多数出展されている。京都洛西の景勝地、御室(おむろ)に伽藍を構える仁和寺は、仁和4年(888)、宇多天皇によって開創された。初め、父帝光孝天皇が御願寺(ごがんじ)として着工されたが、落慶をみずに崩御されたため、その遺志を継いだ宇多天皇が創建したことに始まる。以降、歴代天皇の厚い帰依を受けながら、代々の皇族が住職(御室)となる門跡寺院として高い格式を誇ってきた京都有数の古刹であり、現在は全国に約790寺院ある真言宗御室派の総本山でもある。この展覧会は、平成24年12月から着手した仁和寺の観音堂をはじめ金堂、御影堂(みえどう)の大修理が完了したことを紀念して開催されたもので、仁和寺および御室派の寺宝を一堂に展望できる、わが国初めての展覧会である。最初に「仁和寺編」をまとめたが、これは「仁和寺  宝物」と重複する部分が多いが、そこはご寛容いただきたい。

国宝 阿弥陀如来坐像  木造漆箔  像高 89.5cm 平安時代 仁和寺

故光孝天皇の1周忌の法会の本尊が、今霊宝館に安置されている阿弥陀如来坐像及び両脇侍仏と推察される。阿弥陀如来坐像は、像高が90センチ程度で、腹前で「阿弥陀の定印」を持つ阿弥陀如来の中で、およそ制作年代が分かる現在最古の像である。寛平8年(896)に供養された京都・清凉寺の阿弥陀如来坐像(棲霞寺本尊ー「清凉寺」にくわしく解説した)をはじめ、これ以降、定印を結ぶ阿弥陀如来像は、平安時代を通じて盛んに造像されるようになった。仁和寺が天台寺院として創建されたことからすれば、当初、仁和寺に安置された仏像も天台宗の枠組みの中でつくられたと考えるのが自然であろう。現在、仁和寺が真言密教寺院であることや、中尊の阿弥陀如来座像が密教的な性格を持つ定印を結ぶことから、本像が密教修法の本尊として造られたとする見解が妥当だろう。

国宝 阿弥陀三尊像のうち左右脇侍 木造漆箔  平安時代  仁和寺

本尊の脇侍仏で観音菩薩・勢至菩薩であるが、頭上にそれぞれ化仏(けぶつ)、水瓶(すいびょう)を表す通常の形をとらないので、どちらを観音。勢至とするかが説が一定しない。平安時代の後期の金工を思わせるが、同時期の彫刻である醍醐寺如意輪観音像の宝冠とも近似するので、やはり当初の仏像と見るべきであろう。

国宝 薬師如来坐像  円勢・長円作  康和5年(1103)平安時代 仁和寺

霊明殿の本尊である。元は仁和寺北院の本尊で、空海請来と伝える本尊が焼失したので、康和5年(1103)に本尊が仏師円勢と長円親子によって再興されたものである。白檀(びゃくだん)による壇像(だんぞう)である。像高はわずか11センチほどで、台座を含めても21センチ弱の小さな像である。後屏(こうびょう)には日光・月光菩薩立像、円形の頭部には七躯の七仏薬師坐像、台座の腰部にはそれれぞれ十二神将が三躯ずつきわめて精緻に浮彫りされている。火災に遭う前の根本像は空海ゆかりの像だと伝えられており、再興像である本像は、根本像の材質、大きさや形式を忠実に受け継がれていると考えられる。平安時代後期壇像の傑作の一つである。

国宝 孔雀明王像  絹本着色  中国・北宋時代(10~11世紀) 仁和寺

重層的な彩雲を背景に、孔雀に乗った異形の明王がまさに今、地上に降り立つ姿を描く。三面六臂像に描かれる。三面のうち、正面は菩薩の慈悲相であるが、対照的に左右面は暴悪相であり、左面は開口の阿形、右面は閉口の吽形で表現されている。腕は左右第一手は合掌、第二手は弓と箭(や)、第三手は金剛杵(こんごうしょう)と戟(げき)をそれぞれ持つ。六臂像の経典は、もともと日本で究極の秘密、極深秘と言う扱いであったがために、現在六臂像に合致する儀軌(ぎき)は見つかっていない。特筆すべきことはその写実性である。明王や孔雀の顔だけでなく、羽の一枚一枚に到るまで詳細に描かれている。

国宝 十二天像 毘沙門天像  平安時代 台治2年(1127)京都国立博物館

台治2年(1127)、宮中で行われていた後七日後修法(ごしちにちみしほ)の際に掛けられていた十二天像が焼失した。その際、宇多法王ゆかりの仁和寺円堂後壁の画像をもとに描かれたのが十二天像である。失われた仁和寺円堂の様子がうかがえる貴重な作例である。本図は、十二天像のうちの毘沙門天像を表す。

国宝  三十帖冊子  空海ほか筆  平安時代(9世紀)  仁和寺

弘法大師空海が、在唐中(804~806)に長安の清龍寺恵果阿闍梨(746~806)らから密教経典などを、唐の写経生のほか空海自身も書写し持ち帰ったものである。元来三十八帖あったものであるが、現在は三十帖となり、この名で呼ばれるようになったのである。本書は東寺経堂から高野山、そして東寺に戻されてきたが、文治2年(1186)主覚法親王が借覧し仁和寺大聖院経蔵に収め以後、そのまま返還しないで、今日に到ったものである。借りたまま返さないということになるだろう。

国宝  医心法  紙本墨書  5帖   平安時代   仁和寺

「医心法」は、日本における現在最古の医学書(全三十巻)である。平安時代の鍼(はり)博士丹波康頼(たんばやすより)(912~995)が天元5年(982)に撰述し、清書したのち、永観2年(984)に奏進した。中国の前漢から隋・唐時代の「黄帝内経」(こうていないきょう)や「備急千金要法」「養生要集」ほかの医学書を100種以上使ってまとめており、現在ほかの医学書が失われているものも多いため中国の医学研究においても重要視されている。

国宝黄帝内経太素23巻紙本墨書平安時代(仁和2~3ー1167~68)仁和寺

中国伝説上の黄帝である黄帝と名医岐伯(きはく)の問答形式で書かれた医書「黄帝内経」の注釈書で、特に医学理論を論じる。これは典薬頭(てんやくのかみ)を襲った医家、丹波家に伝来した古写本23巻で、「医心法」を撰述した康頼の7代の孫、頼基の書写になる。仁和寺には泰素のほかに、鍼灸など臨床の治療について注釈した「黄帝内経明堂」(国宝)2巻が伝存する。こちらは永仁4年(1296)と永徳3年(1383)に、やはり丹波家で書写された。

国宝  御室相承記  6巻  紙本墨書  鎌倉時代   仁和寺

仁和寺門跡初代の宇多天皇(空理)から、第7世道法親王(尊性、後高野御室ー1166~1214)まで歴代門跡の事績を記録した年代記である。各門跡Ⅰ世ごとに巻が当てられ、第6世守覚(しゅうかく)法親王の巻を欠くので、全6巻が伝わっている。法会や密教修法を行った月日や場所、関係者まで記述され、平安時代から鎌倉時代初期までの仁和寺の動向を知る最重要資料である。

国宝 高倉天皇宸翰消息  紙本墨書  平安時代(治承2年ー1178)仁和寺

高倉天皇(在位1168~80)の中宮、平徳子(たいらとくこ、健礼門院)は、父清盛の六波羅亭で天皇御子を生もうとしていた。時に治承2年(1178)。仁和寺第6世主覚心法親王は、安産祈願の孔雀経法を修し、無事皇子が生まれた(のちの安徳天皇)。この消息は、修法の効験と、先年三条烏丸内裏での同法の霊験も殊勝であったことを合せて謝する内容である。守覚法親王は高倉天皇の兄で、消息の冒頭「大法無事結願、喜悦」と、18歳で父親となった天皇は、兄に対して素直な喜びと謝意を表す。天皇は現存唯一のこの宸翰を残し、わずか2年2カ月後に崩御する。

 

「仁和寺と御室派にみほとけ」の仁和寺編は、先の「仁和寺  宝物」と似たテーマであり、幾つかオーバーした事例もあるが、いずれも「仁和寺」を語る上で欠かせない宝物である。さて、仁和寺の歴史を見ると、火災の焼失の歴史であり、特に応仁の乱では、京都全域が壊滅状態になるが、仁和寺も応仁2年には東軍の兵によって堂塔のすべてが焼かれた。いまに伝わる本尊などの仏像や経典、宝物は、仁和寺近くの双ヶ岡(ならびがおか)の麓にあった真光院に移されていたため難を逃れたと考えられる。応仁の乱からの再建が始まるのは江戸時代初期のことである。よくぞこれだけの宝物、仏像類が無事、現在まで伝わったものだと感心した。「日本人の物持ちの良さ」が端的現れた事例であり、先人各位のご努力に感謝したい。

 

(本稿は、図録「仁和寺と御室派のみほとけ   2018年」、京都古寺巡礼「第22巻 仁和寺」、日本古寺探訪「第9巻 京都Ⅳ 洛西」を参照した)