元興寺(がんごうじ)  極楽堂・禅室と境内

日本書紀・朱峻天皇元年(588)に、飛鳥の地に巨大な寺院が建立された模様が、次のように書かれている。「蘇我大臣亦(ま)た本願(ねがひ)の依に(ままに)飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起つ(たつ)。」即ち、崇峻天皇元年に法興寺を起工したのであり、日本書紀では、法興寺、飛鳥寺、元興寺の3つの名称を持つ寺である。この日本で最初に建てられた法興寺は、1基の塔に3つの金堂を備え、金銅でできた釈迦如来像(現在の飛鳥大仏)、石でできた弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれ本堂の本尊とした本格的な寺院である。やがて都は飛鳥から藤原京へと遷る。「続日本紀」によれば養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京へ遷したという記録が見られる。この移築に関しては、元興寺極楽坊本堂の建築材を年輪年代法で測定したところ、法興寺創建に近い588年頃に切られた木材であることが判明したので、寺の移転は間違い無い事実である。しかし、飛鳥の地には、その後も飛鳥大仏を祀る飛鳥寺が存在しているので、移建に際しては金堂以外の僧坊などの周辺建物を解体移築したものであろう。なお、元興寺は、平成10年(1998)にユネスコの世界文化遺産の一つに登録されている。

重要文化財  東門  木造建築物   室町時代初期(14世紀)

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元興寺の正門である。一間一戸の四脚門という構造形式で、屋根は本瓦葺き、もとは東大寺西南院(さいなんいん)にあったものを応永年間(1394~1428)に移築した建物で、応永18年(1411)と箆書きされた瓦が使われていることから、室町時代初期まで遡る建築と考えられている。

国宝  極楽堂(本堂) 木造建築物  奈良時代(8世紀)

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養老2年(718)に飛鳥から平城京に移築された元興寺は、現在、本来僧侶の居住施設であった僧坊である。極楽堂(坊)も、この僧坊の一部が「極楽坊」として発展したものである。元興寺の僧坊には「智光曼荼羅」と呼ばれる極楽浄土を描いた絵(曼荼羅)が置かれている。平安時代以降、阿弥陀仏のおられる浄土への信仰が高まり、浄土の姿を見ることが出来るこの曼荼羅(まんだら)に対する信仰が盛り上がり、多くの人々がここへ訪れるようになった。その結果、元興寺の堂舎が次々と衰退していくなかで僧坊の一部のみが「極楽坊」として発展していったのである。

国宝 極楽堂(本堂)  木造建築物   奈良時代(8世紀)

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極楽堂を南側(庭園側)から眺めた写真である。屋根に黄色い瓦が見えるが、行基葺き(ぎょくきぶき)伝わる瓦であり、飛鳥時代の瓦と伝えられている。

国宝  極楽堂(本堂)内陣  木造建築物  奈良時代(8世紀)

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曼荼羅堂(まんだらどう)とも呼ぶ。東を正面とし、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)ともに六間で、正面に一間の通り庇(ひさし)が付く本瓦葺きの建物である。「寄棟造(よせむねつくり)」で、妻入り(つないり)」という珍しい建物であり寛元2年(1244)に東室南階大房(ひがしろなんかいだいぼう)(僧坊)の東半分を切り離して改築し、今の姿になった。この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の一房がそのまま取り込まれていることである。まさにこの一房が、極楽坊と呼ばれた智光法師(ちこうほうし)がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央一間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇(しゅみだん)と厨子(ずし)を置く。さらに周囲を拾い外陣(げじん)が取り巻き、「念仏講(ねんぶつこう)」など多くの人々が集うことを可能とした。この改築を契機として納骨の場へと発展し、極楽往生を願う多くの人々が集い、祈る場へと変化したのである。

重要文化財  智光曼荼羅厨子  絹本着色   室町時代(15世紀)

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通常、寺院の本尊は仏像であるが、元興寺極楽堂(本堂)には智光曼荼羅(ちこうまんだら)が本尊である。智光曼荼羅とは、奈良時代、元興寺で学んだ僧侶・智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図のことであり、青海曼荼羅、当麻曼荼羅とともに日本三大曼荼羅と呼ばれている。そのため、それが安置された堂に極楽坊・極楽堂の名が付けられた。平安時代末期より極楽往生を願う浄土教信仰(じょうどきょうしんこう)が広がり、それによって智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、「七大寺日記」などの貴族の日記や「覚禅抄」(かくぜんしょう)などの仏教書にしばしば登場する。これらに智光曼荼羅が、約一尺(約30cm)四方のものであったと書かれている。このように智光曼荼羅の正本は奈良時代から、元興寺極楽坊で大切に守られてきた。しかし、宝徳3年(1451)土一揆により起きた火災で元興寺周辺が罹災した際、難を避けるため禅定院(ぜんじょういん)に移された智光曼荼羅は、建物もろとも焼亡してしまった。しかし、元興寺には様々な智光曼荼羅写しが存在していた。この厨子入本は、約50cm四方の大きさで絹の布に描いた絹本着色板貼りのもので、春日厨子に納められている。明応7年(1498)頃の成立とされる。これ以外に板絵本(重要文化財)、軸装本、尊覚開版本等が残っている。

国宝  禅室(僧坊)  木造建築物   鎌倉時代

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元興寺僧坊の姿を伝える建物である。旧僧坊の平面を生かし鎌倉時代に改築したものだが、細部に当時の埼信様式であった「大仏様」(だいぶつよう)を巧みに使用している。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。屋根の一部に飛鳥時代の瓦を使って、行基葺き(ぎょうきぶき)を復元している。室内は南、中央、北と三室に区分されていたと考えられている。現在は、東側3房分を大きな部屋にしているが、西側の一室は僧坊時代の様子を復元している。

講堂の礎石(うち1組)  3個在り    鎌倉時代

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綜合収蔵庫の北側に並ぶ三基の礎石は、平成10年(1998)に奈良市教育委員会が中屋敷町で発掘調査を行った際に発見したものである。礎石は江戸時代始めに穴を掘って埋められていたものと考えられる。いずれも上面に直経80~90cmほどの柱座を持つ。礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを想像できる。

浮図田(ふとでん)   鎌倉時代~戦国時代

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元興寺を訪ねると、まず目に付くのは境内に整然と並べられた石塔である。これらは近年まで禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものであるが、昭和63年(1988)現在の形に並べ直され、浮図田(ふとでん)と呼ばれている。因みに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、石塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。これらの石塔には様々な形態のものが存在する。もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」(ごりんとう)である。五輪塔は密教の教義をもとに作り出された塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来(だいにちにょらい)と阿弥陀如来を塔の形で表したものである。

舟形五輪塔    戦国時代~江戸時代前期

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この「五輪塔」と、数は少ないが「豊筐印塔」(ほうきょういんとう)の二つの塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟形五輪塔板碑(ふながたごりんとういたひ)と呼ぶ。この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多い。興福寺大乗院の菩提寺墓所の一つとなっていたので、僧侶の石塔が多い。

その他の石塔

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このほかに箱型の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫した地蔵石龕仏(じぞうせきがんぶつ)、自然石に文字を刻んだ自然石碑など様々な種類の石造物が、浮図田以外にも境内に置かれている。江戸時代以降の法柱状のいわゆる「墓石」がほとんどないが、これは江戸時代前期に元興寺が徳川家のための祈祷を行う寺(御朱印寺ーごしゅいんじ)として指定されたことで、通常の町民の墓寺として機能しなくなったことによるものである。

国宝 薬師如来立像 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良国立博物館寄託

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平安初期の木彫りの代表作である。羅髪や両手首先を除き、足元はもとより台座の蓮肉部まで含めてカヤの木の一材から彫成する。肩幅の広いゆったりとした体型、渦文(かもん)や翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を駆使した、深く自在に刻まれた衣のひだ、腹部や大腿部の充実した肉取りなど、存在感あふれる造形である。伝来は不明であるが、江戸時代には元興寺の五重塔に安置されていた。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 鎌倉時代(13世紀)奈良国立博物館寄託

 

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左手に華瓶(けびよう)を握り、下げた右手に錫杖(亡失)を執る長谷寺式の十一面観音立像。左耳上の頭上面は奈良時代末~平安時代初期制作の乾漆造。左胸の条帛に表された渦文(かもん)や、深めに刻まれた徑部の衣文、膝付近をわたる天衣の装飾的な表現など、やはり奈良~平安初期の像に通ずる要素が認められ、古像の復興像としての性格をもつもの。本像の作風は、鎌倉時代前・中期に南都を中心に活動の知られる仏師善円の作風にきわめて近い。国宝、重要文化財が なぜ総合収蔵庫に納められていないのか、不思議である。

 

日本最古のお寺の歴史を引き継ぐ元興寺は、現在では小さな寺域になっているが、かっては「ならまち」の下に埋もれ、その確かな文物は残り少なくなったが、三ケ所の史跡(極楽坊境内・塔跡・小塔院跡)と、関連する重要文化財や町名などに往時を偲ばせるものがある。平安時代末期より極楽往生を願う浄土信仰が広がり、智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、平安貴族や庶民から篤く信仰されるお寺として栄えた。しかし、寺院としては戦国時代の終わりに近い時代に、元興寺中枢部が町になり始め、江戸時代に入ると急速に都市開発が進むようになった。その背景は、織田・豊臣政権が奈良に進駐することを契機に、それまでの元興寺を支えてきた古い権威が奪われてゆき、江戸幕府の成立でこれが決定的になったというところではないだろうか。東大寺、興福寺を訪れる人は多いが、この元興寺こそ、日本一古い歴史を持つ寺であり、中世には庶民信仰の拠点でもあった。興福寺の下、猿沢池の南にある元興寺を、是非奈良見物の際に加えて頂きたい。元興寺の名称は、「仏法元興之場 聖教最初之地」に由来し、法興寺(飛鳥寺)を前身とする、わが国仏法興隆を願った歴史、基礎仏教の初傳を誇った寺名を有しているのである。

(本稿は,図録「わかる!元興寺 2014年」、、図録「なら仏蔵館 名品図録 2010年」、図録「なら仏蔵館 名品図録 2016年」を三照した)

RE 又造    加山又造展

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。今回奇妙なRE 又造という展覧会が恵比寿のEBIS303イベントホールで開催された。一応主催者はテレビ東京、グッドスピード、企業家俱楽部、有限会社加山が名前を連ねている。日経新聞のガイドワイド爛(2018年4月6日号)で「RE 又造」(4月11日~5月5日)、恵比寿・EBIS・303イベントホール。戦後の日本画界をリードした加山又造の華麗な屏風絵や版画を中心にした展覧会。現代作家による最新技術を使った映像演出も見どころ。入場料2000円)という記事を見付けて、僅かな時間を割いて、見学に行ってきた。主催者が誰か、絵葉書はあるか、図録はあるか等基本的知識も無しに見学に行った。私見としては、面白い「加山又造展」であり、記録に残す価値があると判断し、「美」に採録した次第である。加山氏の代表作は一応網羅していると思うが、絵画そのものではなく、映像を中心に構成した美術展であった。加山又造は、京都市生まれ。父は西陣織の衣装図案を業としていた。京都美術学校工芸科を経て、1949年に東京美術学校を卒業し、山本岳人に師事した。各種展覧会に出展し、新人賞等を多数獲得している。何時の間にか、日本画の大家となり、1966~72年には多摩美術大学教綬をつとめる。1973年日本芸術大賞を受賞した。1974年に創画会が結成され、同時に彼も会員となる。私は、加山又造は現代の琳派と位置付けている。1927年生まれ、2004年死去。享年76歳。2003年に文化勲章を受章している。なお、作品の順序は「出品目録」の番号に従って、年代順ではない。

倣北宋寒林雪山 紙本墨画  六曲一双  1992年   個人蔵

古今東西のさまざまな画業をあさりつくした加山が、晩年になって最も心を傾けたのは、古代中国の水墨山水画であった。傾倒はまず、南宋から元にかけての書家から始まったが、究極的には、北宋時代(960~1127)の画家、李成(りせい)、范寛(はんかん)、郭熙(かくき)などの作品であり、語り出すと止まらなくなる程であった。この「倣北宋水墨山水雪景」は、北宋水墨山水に倣った2作目のの作品である。タイトルの倣は「ならう」の意味である。古名画の真意をくみとり、咀嚼しようとする積極的な試みをいう。単なる模倣ではない。「その絵画性は神仙思想を帯びて怪異だが、高い精神、境地の表現となっており、実に素晴らしいというほかない」と加山は語っている。「倣北宋水墨雪景」では、画面中央奥に屹立する屏風のような堂々たる山塊を大きく配し、見る者との間に巨大な空間を設定している。中国の画論にいう、高々と見上げる「高遠形式」の画法山水画で、范寛の特色とされた。この作品について加山は、「北宋水墨山水の実験的倣作は、前年に引き続きこれが二度目である。この作では発想をより自由に延ばして雪景にしてみた。しかし、苦心を重ねながら、考えていたほどのスケールを得るに至らないたらなかった。再び試みて、苦い経験を乗り越えねばならないと思っている」と述べている。常に自信満々に見えた加山が、多少の苦渋の念をここに吐露したことは珍しい。

おぼろ 紙本彩色  四曲一双  1986年   個人蔵

「おぼろ」では染職工芸の「ろうけつ染め」の手法を使っている。加山は、この頃から自分の生まれ育った京都の文化、その優雅さや凄み、自分のルーツというものを意識し始めたような気がする。円山公園のしだれ桜を月夜に描いたものである。月に雲がかかっているのはリアルである。

狐 紙本彩色  額装   1942年    広島県立瀬戸田高等学校蔵

御子息の話によれば、加山は動物が好きで京都にいた時も動物園に通って写生をされたそうである。東京美術学校在学中は上野動物園に通いつめて動物の写生を繰り返していたそうである。しかし、この狐は、動物園に飼われた狐ではない。野性味あふれる狐で、こんな孤高の狐は見たことがない。極めて攻撃的で、誰にも馴染まない、個性あふれた孤高の狐である。これだけ魅する狐は少ない。

黒い鳥  紙本彩色  額装    1959年       個人蔵

ご家族によれば、「特にカラスは山ほど描いていました。興味をそそられた存在だったようです。カラスに対して父はシンパシーを感じていたように思います。あるいは自画像の積りで描いていたのかも知れません。父は生来、体が小さくて左利き、子供のころは喘息持ちでみんなにいじめられていたそうです。人には明かさなかったのですが、かなり強いコンプレックスを持っていました。それを払拭させたのが日本画家の横山操先生でした。それまでは内面に向かうような絵を描いていた父が、自分の想いを画面にぶっつけるようになりました」しかし、この「黒い鳥」は、私から見ると、決して内向的な絵では無い。むしろ攻撃的な激しい鳥の性格が現れているように思う。素晴らしい絵では無いだろうか。闘争心を感ずる。

冬  紙本彩色   1957年         東京国立近代美術館

辻惟雄氏は、この「冬」はブリューゲルの影響が見て取れると言われる。枯れた樹木を厳しい感じで描いているそうである。確かに、冬枯れの野原に狼が吠え、鳥が舞っている姿は厳しい冬を感じさせる。洞窟壁画やシュールレアリズムの影響を受けていると先生は言われるが、私は、そんな昔の話ではなく、現代の厳しい孤高を感じずにはいられない気がする・

火の島  絹本着色  六曲一双    1961年   今治大三島美術館

(この絵は最大の絵で各(167.6×261.0)で、3つに分割して写真を入れてみたが、どうしても2枚しか入らないので、止むを得ず、一番左の長い裾野の部分をカットして2枚に収めたので、全体像を表していないことをお断りする。)この「火の島」は、噴煙の桜島を描いたものである。海上には雄大に突き出た火山が、地球の遙か奥底から高温の溶岩と高圧のガスを天空に吹上げ、轟音を響かせている様は、非常に美しいと加山は語っている。以来加山は、火山にひかれ、数えきれないほど登り火山を描いた。ひとつことに凝ると、とことんまで突き詰めないと済まない人だった。この絵は、初めの金屏風への制作だった。画商は「しっかりしたつくりの金屏風を見つけたから、思い切って描いてみたら」と置いていってくれたものという。絹本に純金のやき箔が落ち着いた光沢を放っていた。それは凄絶な豪華さで、それを最大限に生かすには火山でなければならず、装飾様式のものでなければならないと画家は腹をかためた。折しもこの頃、加山は横浜・鶴見の自宅にアトリエを新築した。六曲一双の高さ1.6メートル、一双で幅7メートルの大画面をゆったりと広げることができるようになったのである。得意を胸に、「ともかく強引にねじ伏せるように画面を作った」と意気込みのほどを述べている。用いる色も金、赤、プラチナに限り、「どこまで轟くものの強烈さを出したかった」という。心の高ぶりが伝わってくる。加山は「私は私の絵の中にいつも生命があるようにと念じながら毎日を送っている」と述べている。彼の作品には強烈な生命感がみなぎっている。その「絵の中の生命感」とは中国の言葉を使えば「気韻生動する画面」のことではないかと思う。

月光波涛 紙本墨画  四曲一双  1979年     イセ文化基金

加山は、父の内懐(うちぶところ)に、カンガルーの子供のように鎮座して、目の前の紙を眺めて育ったといわれる。父親の懐を離れた加山は、父の仕事部屋で、図案志望のお弟子さんたちに遊んでもらいながら、一日を過ごしたという。虚弱体質に生まれた加山は、中学生になるまでは、体のどこかが痛かったと述懐している。「子供心に、このやっかいな肉体と折り合って生きていくいためにはどうしたらいいかと真剣に考えた。そして、何かをあきらめるしかないと悟った。まわりの人が望んで可能なことでも、私には無理なことがある。だから努力をしても、人なみの事は望まないことだと、そう私は開き直ったのだ」と書いている。加山はそうしたコンプレックスをバネにして、終生、不屈の闘志で生き抜いたのだと思う。この「月光波濤」について、98年の図録で次のように記している。「和紙に胡粉の上澄みを数度引き、エアガン、バイブレーター噴霧器、染色的手法、数種類の銘墨の併用、と、現在自由に出来るあらゆる手段をぶち込んでみた。私は、音にならぬ音、停止した動感、深い、しずけさを表現してみたいとおもった、」この浪のしぶきの表現は、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をしのぐ快挙だと思った。画面中空にふわりと浮かぶ月は、単なる点景の域を超えて、さながらスパームーンの威風堂々の姿をしのばせる見事な存在感である。

春秋波濤  絹本着色  六曲一双   1966年   東京国立近代美術館

この絵画は、国立近代美術館で何度か拝観したことがある。今回は、別に4重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種の山を4枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。こんな企画も、今回の展覧会の面白さであった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。現実にはありえないこの表現は、大阪・金剛寺の「日月山水図屏風」(室町時代)が四季を屏風一双に現しているのに触発されたものだろう。本作では、技法的にも載金(きりがね)など伝統的な技法を駆使されている。二つの山の間でうねる波は様式化されているが、その表現には逆遠近法が駆使されている。加山は、1960年代に入ると、やまと絵や琳派の伝統に基づきつつ、それを現代的に捉え直し、自然を装飾的に再構成する方向へと進んだ。晩年には水墨の世界に取り組んだ。

身延山久遠寺天井画 墨龍  紙本墨色    1984年  身延山久遠寺

法華宗の本山、久遠寺には、天井画の墨龍と、襖絵がある。10年ほど前に私は、家内と久遠寺を訪れたことがある。残念ながら、加山又造の作品があるとは知らず、展望のみを楽しんできた。今回初めて天井画の墨龍を拝観することができた。日本画家として、最後には山水画にたどり着き、お寺の天井龍と襖絵を描いたのであろう。縦9M、横9Mの大きさは、天龍寺に比較すると、やや小さめである。日本画家は大成すると、不思議にお寺に作品を遺すものである。色はやや黄身がかかっているのが特徴かも知れない。

天龍寺 法堂天井画 雲龍図  白土墨画  1997年  臨済宗総本山天龍寺

加山は、次のように述べている。「水墨画。それは中国五千年の歴史に輝く、全人類的意味で最高の絵画表現である」(加山又造全集第4巻)この言葉通り、晩年になって「倣北宋水墨山水風景画」等を描いている。最晩年の作が、この天龍寺 法堂(はっとう)の雲龍図である。畢生の大作である。天井は縦10.6M、横12.6M、厚さ3センチのヒノキの板159枚を張り合わせ、全面に黒の漆を施し、白土を塗った上に龍を描いた。この絵の制作のため、加山は、神奈川県藤沢市鵠沼に、小ぶりの体育館ほどもあるアトリエを提供してもらった。加山は「私の履歴書」(日経紙)の中で、次のように述べている。「私は生まれつき体の小さいせいもあって、大きな絵を描くことにかぎりないあこがれを抱いてきた。大きな絵を描いてみたい。それは幼い頃からの素朴なねがいであり、生きがいのようなものだった」と述べている。最晩年になり天龍寺の雲龍図を描いたことは、加山の画家としての最後を飾るに相応しい絵であった。天龍寺は渡月橋から近いのため、非常に行きやすいお寺であり、雲龍図は公開しているので、京都へ行く機会がある方には拝観をお勧めする。

黒い薔薇の裸婦 紙本彩色  四曲一双   1976年  東京国立近代美術館

加山の子息の加山哲也氏(画家)は、次のように回想している。「黒い薔薇の裸婦」という裸体像では、シルクスクリーンを使用したのですが、そのことも大論争を巻き起こしました。しかし、父は(これほど使いやすい技法が光琳や宗達の時代にあったら必ず使っていたはずだ。現在に生きる私たちだからこそ使える技法なのだから、大いに使うべきだ)と言っていた。そういう父でしたが、筆遣いの名手でありました。私が父に最初に言われたのは、(日本画は線一本であらゆるものを表現できる。細くて強い線、細くて柔らかい線、太くて弱い線など、様々な線を使い分けられるように練習をしなさい。祈りのこもった線を画けるようにならないと絵描きにはだめだ。たとえ一本の線でも祈りを込めて描けば、観者はそれが地平線なのか水平線なのか、たちどころに理解する)と言われました。線に関する一家言を持った画家でした。」

 

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。しかし、残念ながら、今日まで「加山又造展」を見たことが無かった。今回「RE又造」と題する変わった加山又造展を見学した。図録は写真のみで解説はない。展覧会場でも、各々の絵画にはコメントは一切無い。光線を使って加山の世界を再現することは珍しく長けている絵画展であり、「RE又造」という名称も変わっている。何か前衛芸術の世界に招かれた感覚であった。しかし、永年望んだ加山又造展には違いない。展示された作品には満足した。出来れば、国立近代美術館等が開催する「加山又造展」を見てみたい。

 

(本稿は、図録「RE 又造展   2018年」、「ONBEAT 2018年12月号」、日本経済新聞社2018年2月4日、2月11日「美の粋」、「名品選」東京国立近代美術館、を参照した)

プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光

私は、プラド美術館よりもベラスケス(1599~1660)の絵画見たさに、この展覧会を見学した。ベラスケスは、私の記憶する一番最初の西洋画家であり、スペイン王家の宮廷画家として記憶に残っている。それは、父が買い求めた「西洋美術全集」のなかの、スペイン王家を飾る一番素晴らしい絵画がベラスケスであり、王家の一家の中の可愛い王女を描かれた「ラス・メニーナス」(1656)を是非拝観したいという小学校時代の思い出の名画を見る為に、出かけたのである。70点近い絵画を見た最後に、私の希望した絵画が無いため、学芸員に説明を求めたところ、その絵(「ラス・メニーナス」)や、他の王家一同の絵画は、プラド美術館の至宝であり、外部に貸し出したことは一度もないとのことであった。希望が叶わずがっかりしたが、それでもベラスケスの絵画7点も見られたので、一応満足して美術館を出ることが出来た。さてプラド美術館は、スパイン王室によって収集されたスペイン、イタリア、フランドル絵画を中心に、1819年に王立の美術館として開設されたものである。この展覧会は、日本とスペインの外交関係樹立150周年を記念して、プラド美術館の収集作品のうち、ベラスケスの作品7点を軸に、17世紀絵画の名作61点を合せて、約70点を紹介するものである。プラド美術館は現存する約120点のベラスケス作品のうち約4割を所蔵しているが、その重要性のゆえに館外への貸し出しを厳しく制限している、そうした中で日本において7点もの傑作が一堂に展示されるのは、特筆すべきことである。(この部分は、図録の「ごあいさつ」より引用した。これさえ知っていれば、「ラス・メニーナス」が展示される訳がないことが、事前に理解できた。)これに較べると、日本は、フランスへ「鑑真和上像」を貸し出したことがある。これはフランスが日本に「モナ・リザ」を貸し出してくれたお礼であると聞いたことがある。17世紀のスペインはベラスケスを始めリベーラ、スルバランやムリュリョなどの大画家を排出した。彼の芸術を育んだ重要な一因は、歴代スペイン国王がみな絵画を愛好し取集したことがあげられる。国王フェリペ4世の庇護を受け、王室コレクションのティチアーノやルーベンスの傑作群から触発を受けて大成した宮廷画家ベラスケスはスペインにおいて絵画芸術が到達しえた究極の栄光を具現化した存在であった。本展はフェリペ4世の宮廷を中心に17世紀スペインの国際的なアートシーンを再現したものである。

ファン・マルテネス・モンターニスに肖像 ベラスケス作 油彩・カンヴァス1635年頃

この作品は、画家が制作中の彫刻家の肖像を描くという、珍しい作品である。描かれているのは、16世紀末から17世紀前半、セビーリヤで最も重要な彫刻家の一人であったモンタニュースとされている。ベラスケスが修行時代を送っていたときには、すでに名を知られた彫刻家であり、ベラスケスの師であるフランシス・パチェーコとも親交があった。彫刻家は、繻子のようなつやのある黒い宮廷服に身を包み、右手に箆を持ち左手で粘土像支え、胸を張り姿勢を正した半身像で描かれている。彫刻家が制作しているのは国王フェリペ4世の頭部の粘土像である。この像は、ブロンズによるフェリペ4世騎馬像を制作する際の参考として、フィレンツェの彫刻家ピエトロ・タッカのもとに送られたものと考えられる。国王と一面識もない、イタリア彫刻家に送るための胸像制作が、モンタニエースに委託されたのである。ようやく無事に完成したタッカの彫刻は、現在マドリード王宮前のオリネンテ広場の中央に堂々としたその姿を見せている。

聖ベルナドゥスと聖母 アロンソ・カーノ作 油彩・カンヴァス1657~60年

簡素な礼拝堂の中で、祭壇の前に白衣の修道士が跪き、祀られた幼子イエスを抱いた聖母マリアの彫刻が乳房から彼の口をめがけて母乳を注いでいる。手前には、聖人に向かって手を合わせて祈りを捧げる目撃者が描かれている。この一風変わった場面に、私は驚いた。この場面は、12世紀にシトー会修道院長を務めた神学者クレルヴォーの聖バルナンドスの生涯にまつわる、神秘の授乳の物語を表している。それは幾つかのヴァージョンが伝わるが、本作が依拠しているのは1119年にフランスのシャチヨン=シュル=セーヌという町のサン・ヴォルル聖堂で起こったものとするものだろう。マリア信仰のあついことで知られたベルナルドゥスが彼女の前に祈りを捧げ、いつもより熱意を込めて「あなたは母たることをお示しください」と口にすると、彫像が生を得て動き、3滴の乳をペルナンドスの唇に垂らせた、というものである。この幻視の逸話は13世紀末のスペインで創案されたとみられ、その後17世紀末の同国において、マリア信仰の高まりとともに頻繁に表されるようになった。本絵画は、当時のスペイン彫刻が単なる美術作品ではなく、どのような力を持つと見られていたかについて、端的に教えてくれている。

メニッポス ベラスケス作 油彩・カンヴァス  1638年頃

髭を生やした老人が外套を羽織りこちらに背を向けて立ち、今にもその場から去らんとするかのようである。肩越しに我われの方を振り返っている。彼の立つ空間は室内であることだけが漠然と理解され、彼の足元には広げられた本や壺などが雑然と並んでいる。この男は、18世紀初頭の財産目録の記述、および画面左上に記された銘文(ベラスケスの手によるものではない)から、古代ギリシャの犬儒学者派の哲学者メニッポスであることがわかる。かれはかって奴隷で、その後金貸しとして財をなすもののそれを失い、自ら命を絶ったと伝えられる。本作はマドリード近郊にあった狩猟休憩場の装飾として、寓話作家として名高いイソップと対をなすべく、ベラスケスによって描かれた。トーンの装飾全体にいかなるプログラムがあったかのか、そしてそれをどのようにしてベラスケスが制作に関与したのか、詳しい経緯はわかっていない。

マルス ベラスケス作 油彩・カンヴァス   1638年頃

本作は、エル・バルドの森にあった狩猟休憩場のために制作された。国王フェリペス4世は狩猟を好み、1636年にはこの狩猟休憩場の内部装飾のためにルーベンスとその工房にオウイディウスの「変身物語」、古代の哲人、狩猟や動物を主題とした作品など100点を超える作品を依頼している。この塔の装飾のため、ベラスケスはメニッポス、やイソップに次ぐ古代世界3人目の人物として、軍神マルスを描いた。「マルス」という主題は、王家の狩猟のための休憩室にはふさわしい主題と言える。狩猟は、平和の時代にあって「戦い」の疑似体験でもあった。フェリペ4世をはじめ、ハプスブルグ王家の人々が狩りを好むようになったのは、そのような伝統があったからである。本作で画家は軍神マルスをあくまでも現実の戦士と捉え、その疲れ切った姿を描いている。戦いから戻り、鎧を脱ぎ武器を置いた戦士の姿である。このマルスの姿をフェリペ4世と結びつけ、メランコリックなポーズは、疲弊するスペインの姿であるとの解説もある。1640年代、スペインは幾度かの戦いによってその軍事力は弱体化する一方であった。

音楽にくつろぐヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェリッオ作 油彩・カンヴァス 1550年頃

寝台に横たわる裸婦は、クッションにもたれ体を起し、左手で仔犬をあやしている。女性の首元や腕には豪華な装飾品が光る。足元に座る若いオルガン奏者は、左手を鍵盤にのせ、体を大きくひねり、女性と仔犬に視線を向けている。手摺の向うには、ポプラ並木の連なる風景が広がり、サテュロス像の立つ噴水やクシャク、タカジカのつがい、肩を寄せ合って歩く恋人たちがいる。並木道の先には街が見える。本作は、ティツィアーノが繰り返し手がけたヴィーナスとオルガン奏者を主体とする絵画の一つである。裸婦を眺めるオルガン奏者の存在は、観者が自身を奏者に重ね合せ、裸婦を眺めることを促す新たな仕掛けであろう。知的なユーモアと官能性を兼ね備えた本作品は、注文主の期待に巧みに応え、ヨーロッパに広くパトロンを得たティツィアーノならではの創意に満ちた絵画と言えよう。

狩猟姿のフェリペ4世 ベラスケス作  油彩・カンヴァス 1632~34年

マドリード近郊のエル・バルドの森にある狩猟休憩室のために描かれた、狩猟服姿の国王の肖像画である。離宮もあるエリ・バルドの森は、王家の人々が毎年秋になると狩猟を楽しむために必ず訪れた場所であるが、その狩猟の合間の休憩時などに王家の人々が私的に利用する施設が狩猟休憩場であった。17世紀前半に増改築工事が行われ、それに伴なって、無味乾燥な内部の壁を華やかにするための絵画作品が、内外の画家に対して発注された。スペイン人画家としてベラスケスも「イソップ」、「メニッポス」、「マルス」など、10点余りの作品を描いた。本作に描かれた国王フェルペ4世は、制作年代を考えれば、年齢が20歳代後半から30歳頃であり、いまだ体力、気力を失わず、狩猟の腕前も確かであり、政治手腕を発揮して王国スペインを統治した時代で、有能なる為政者としての姿がここにはある。狩猟用の衣装をまとった国王は右手に長い銃を持ち、その銃の横には猟犬を従えている。力強さに溢れた国王の姿である。

バリューカスの少年  ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1635~45年

矮人(わいじん)の肖像画である。ビスカヤ地方の出身でその名をフランシスコ・レスカノーといい、1634年に宮廷に上がり、王太子バルタサール・カルロスに仕えたとされている。その出身地から「ビスカイーノ(ビスカヤ人)」とも呼ばれていた。王太子の死から3年後の1649年に25歳で没している。本作はモデルが12,3歳頃だとすれば、1636年頃に描かれたと考えられる。「バリエーカスの少年」という呼称は、1794年に王宮の財産目録作成に際して付されたものである。画面右奥にはマドリード近郊の王家の狩猟場、グアダラマの山系が眺望されるが、この景色はベラスケス作の「狩猟服姿の王太子バルタサール・カルロス」の景色とも重なる。レスカーノは道化や矮人(エナーノ)たちが宮廷で着用していた濃い緑の衣服を着ており、彼が王家の随員であることが明示されている。このように矮人たちは、主人たちの私的な用向きが仕事であった。

王太子バルタサール・カルロス騎馬像ベラスケス作油彩・カンヴァス1653年頃

王位継承者の王太子バッタサール・カルロスの凛々しい公式騎馬像である。王太子は王族の期待と希望を担って1629年10月17日、父国王フェリペ4世とフランス・ブルボン王家から嫁いだ王妃イサベルとの間に誕生した。当時、ベラスケスはイタリア遊学中のために不在で、国王は、幼い王太子の肖像を寵愛の「予の宮廷画家」のみに描かせるよう早急な帰国を心待ちしていたという。王都マドリードの郊外に離宮ブエン・レテイーロの造営が始まった頃である。本作はそれから数年後の1635年頃、ほぼ竣工した休息と娯楽のための離宮レティーロ内でその中核をなす唯一の政治的な空間、「諸王国の間(サロン)」を飾るために制作された。ここは諸外国の大使や要人が必ず訪ねる公的な場所であった。王太子の装いや持物、馬のポーズや彼らを取り巻く清澄な風景を理解するためには、この絵が掲げられる場(トポス)と他の絵画装飾、その機能をひもとくことから始めなければならない。王太子の顔から緑の丘陵に至るまで、自由闊達で簡略化したベラスケス一流の近代的描法が全面的に息づき、賦彩も「絶対色感」のような揺るぎなく、ベラスケスはもう成熟の域に到達している。パノラミックな山岳風景はアルカサル山系の写実であり(季節は3月頃か)、遠ざかるに従いブルーの色調が深まる流麗な空気遠近法が駆使されている。この展覧会の白眉の作品である。

東方三博士の礼拝 ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1619年

ベラスケスがマドリードの宮廷に王付き画家として迎えられるのは1623年の秋であるが、その4年前の1619年に故郷のセビーリヤで描いた宗教画が本作である。1920年頃に行われた修復で聖母の足元の石の側面に年紀が発見され、当初は最後の数字の判読に議論があったが、現在では、最後の数字は9と読むことで意見の一致を見ている。描かれた主題は、マタイによる福音書第2章の「東方の三博士(マギ)の礼拝」であり、誕生したばかりの幼子イエスに敬意を表するために、3人の博士が東方から贈り物を携えてやってくるという場面である。伝統的にこの主題を扱う絵画では、幼子イエスを抱く聖母の足元に、3人の中でも最年長のカスパールが跪き、黄金の贈り物を捧げる様子が描かれてきた。しかし、ベラスケスはこの作品で、聖母の目の前の、我々鑑賞者に一番近い位置に跪くのは、年老いた王ではなく若い王であり、この主題の伝統的図像との相違が見られる。余計なモチーフを排除した画面の中で、その一番手前側、右上から左下へ対角線上に配置された聖母、幼子イエス、若い王はとりわけ目立っているが、なかでも画面左上からの光を受けて明るく輝く、白いおくるみを巻かれた幼子イエスは、見る者の注目を強くひきつける。十字架上での磔という未来がまっているのであり、画面右下の隅に描かれたアザミは、その受難を控えめながらもはっきりと示しているのである。

 

プラド美術館の絵画を、ベラスケスを中心に見て来たが、やはりベラスケスは、表面的な写実主義だけでなく、絵画を超越したリアリズムに到達した西洋美術史における最高峰の画家の一人と評価することが出来るだろう。宮廷画家という枠は外せないが、17世紀のスペインを代表する画家の第一人者であったと思う。

 

(本稿は、図録「プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光  2018年」、高橋秀爾「西洋美術史」、木村泰司「西洋美術史」を参照した)

寛永の美  江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽

寛永年間(1624~44)は、参代将軍徳川家光と大御所秀忠によって、幕藩体制の基礎が固められた時代として記憶されているが、文化的にも新たな潮流が生まれた時代として、歴史家の注目を集めてきた。歴史家・林家辰三郎氏は、昭和28年に「寛永文化論ー日本的伝伝統の起源をたずねて」という論文を発表している。簡単にまとめれば、寛永期こそ、中世の文化と近世の文化の結節点であったと主張された。寛永文化論は、暴走華麗な桃山文化の後、いきなり元禄文化が花開いたわけではなく、朝廷、幕府、町衆など各層のサロン的結びつきの中から大きな文化興隆期があったとする見方である。この展覧会では、その造形的な特徴と美意識に特に注目し、「きれい」という言葉に代表される瀟洒で洗練された美をクローズアップしている。まずは、新時代への胎動から見て行きたい。

鹿下絵古今和歌集断簡 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

もとは「新古今和歌集」巻四、秋歌上の和歌二十八首が散らし書きされた全長20メートルに及ぶ長巻だったが、昭和10年(1935)に裁断されて上下二巻となり、さらに上巻が分割されたものの一つが本作である。巻物形式特有の時間的な展開によって秋の野における鹿の群れの生態を描く。上巻の参場面に当たる本作では、座り込んだ一群の鹿が右上から左下へと斜めに列をなし、光悦の書はそれに呼応するするように描き込まれ、書画一体の趣をなす。現在米国シアトル美術館に蔵される下巻の末に「徳有才光悦」の落款と「伊年」の朱文印があることから光悦書、俵谷宗達下絵の作品と分かる。

蔦下古今集和歌色紙 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 慶長11年 サントリー美術館

金泥のみで蔦の下絵を描き、その上に「新古今和歌集」巻四・秋歌上に所収される前大僧正慈円の和歌を散らし書きした色紙。生い茂る蔦には、顔料や墨の滲みを利用した宗達の特徴的技法「たらし込み」が用いられ、葉の質感が見事に表現されている。その下絵に対して、光悦は蔦の葉の重なりや蔦が垂れる様子に呼応して字の配置や書体を工夫しており、最後の句の「秋」を大きく描いて季節を強調している。文字と絵画が調和した優品である。「慶長十一年十一日」の年紀と光悦の落款印章をともなう一連の作品である。

柳下絵古今和歌集色紙 本阿弥光悦書 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

宗達による金銀泥の柳図の上に、光悦が「古今和歌集」巻第五・秋歌下に所収されるよみ人知らずの和歌を記している。柳の葉は水気の少ない金泥で描かれ、鋭利な線で表現された葉先が画面に緊迫感を与えている。一方、大きく描かれた葉などには、水気を含んだ筆が使用され、繊細な滲みやぼかしの表現が見られる。線の肥瘦を見事に使い分けた光悦の筆は上から下へと流れる柳の葉に寄り添うように書かれている。

伊勢物語図色紙「水鏡」近衛尚嗣筆(殿俵谷宗達画)江戸時代(17世紀)サントリー美術館

百二十五段本「伊勢物語」の第二十七段「水鏡(盥のかげ)」を描いた作品である。一夜限りで来なくなった男を恨み悲しむ女が、盥の水に自分の姿が映るのを見て、自分のほかにもう一人物思う人がいた、と歌を詠むところを男が立ち聞きするという場面である。本作は益田鈍翁旧蔵の一連の色紙のうちの一枚で、個々の色紙の作風に異動が認められることから、制作は宗達と工房の絵師による共同作業と見るのが妥当であろう。本作の裏書には「近衛大将様」とあり、これは近衛尚嗣を示すものと考えられている。本作は寛永年間における宗達の画業と、さまざまな文化人たちの身分を超えた交流」を示す点で、寛永文化の様相を良く伝える作品である。

源氏物語画帳 園基副詞 住吉如慶画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

後水尾院(1596~1680)は、その長い生涯の中で朝廷と幕府の関係に配慮しつつ、宮廷文化の再興に力を注ぎ、寛永文化の中心人物として活動した。後水野尾院は率先して和歌を中心とする古典文化の研究を進め、宮廷周辺では古典復興の気運が高まった。ここに示す源氏物語の五十四帖それぞれの一場面は約17センチ四方の小画面に描き、それに呼応した詞書の色紙とともに画帳にまとめたもの。色彩は淡く、透明感があり、優美、精緻な筆で丹念に描き混まれている。各人物の可憐な表情や樹幹の形態、葉の表現など、如慶の源氏絵の典型作例に位置付けられる。「土佐広通」の印からは、制作年代が寛文三年(1863)の住吉派の再興以前であることが分かり、詞書の園基幅の筆跡などと合せて、承応(1652~55)のころの制作と推測される。本作の色彩などから、狩野探幽をじはじめとする江戸狩野派様式と親近感が指摘される。また描かれる殿舎や調度にかんしても、古典からの引用によって復古的な様相を描く場面もあるが、几帳や襖障子の意匠は繊細で装飾的となり、屏風などの画中画も淡彩となるものが多く、寛永期の「きれい」の趣向が混入しているとする見解がある。

小袖屏風 小袖 二曲一双  江戸時代(17世紀) 国立歴史民俗博物館

鬱金色(うこんいろ)の絖地(ぬめじ)大柄な菊花型と帯状の文様を藍で塗り染め分け、菊花型には複数の菊唐草、帯状にはさらに目の細かい鹿子絞を配置している。鬱金の地には単弁の菊花と鹿子絞を配置している。空間をゆったりととり、一つの大柄な文様を中心に据えるところは典型的な寛永小袖の特色である。この小袖については野村正次郎の著した「時代小袖雛型風」目録によると、「後水野尾天皇第三皇女昭子内親王ご着用」と記した在銘の裏裂が存在することが示されており、近衛尚嗣へ嫁いだ後水野尾院と東福文院の次女・昭子内親王所用とみられている。

冠形大耳付水指 修学院焼 江戸時代(17世紀)    滴翆美術館

万治二年(1659)ごろ落成したとみられる後水野尾院の別荘、修学院離宮には寛文年間に窯が築かれた。ここで焼かれた焼物を修学院焼と呼ぶ。この修学院はたびたび皇族や公家に下賜されたことが記録に残っている。「冠型大耳付水指」は、修学院焼を代表する作品として知られるもので、円筒の袴をつけた形が逆さにした公家の冠に似ていることから、このように呼ばれている。左右均整のとれた瀟洒な趣の中に、独特の作為を見せる大きな耳の曲線が美しい。修学院離宮は、公開されているが、1日10人程度と限定されており、中々籤が当たらないことで有名である。私は昭和46年秋に、妻と申し込んで2名とも当選し、修学院全体を見学する幸運に恵まれた。深秋の修学院の山の印象は、忘れることの出来ない美しさであった。一生に一度の幸運であった。

小井戸茶碗  銘 六地蔵  朝鮮   朝鮮時代    泉屋博古館

小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人であるとともに、伏見奉行を長く勤め、多くの建築造作も指揮した江戸幕府の有能な官僚であった。そうした演習は、幕府によってもたらされた大平の世にふさわしい、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく、さまざまな新機軸を打ち出した。小堀遠州が愛玩した小井戸茶碗の代表作として知られているもので、遠州が京都の六地蔵で入手したことからこの名がついたという。遠州の茶会に井戸茶碗が見られるようになるのは寛永20年(1643)以降のことである。侘茶(わびちゃ)を代表する茶碗が晩年になって登場することには注目される。

共筒茶杓  銘 玉川  小堀遠州作  江戸時代(17世紀) 五島美術館

平安後期の歌人、源利頼の和歌「明日もこむのちの玉川萩こえて色なりなみに月やどりけり」(千載和歌集)より銘を付けた遠州作の茶杓である。遠州は典拠となったこの和歌を筒に定家様式で記し、栓と口にかけて「玉川」の二字を大きく書いている。和歌の連想による見立てや和歌を記す書、そして素材となる竹の選別など、いずれも細心の注意が向けられており、遠州の美意識が凝縮された名品と言えよう。

錆絵富士文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀)  出光美術館

色絵の技法を大成し、京都随一の名工として名高い野々村仁清(生没年不詳)は、正保四年(1647)頃御室仁和寺の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始した。そして、この開窯にあたって指導的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人・金森宗和(1584~1658)である。宗和は武家や町人、さらには公家とも交流を持ち、彼らに自身のプロデュースした御室焼を斡旋していた。その「宗和好み」が、意外なことに落ち着いた色調と独創的かつ洗練された造形を持つ作品群に行きつく。それらはまさに「きれい雅」のような寛永の美意識を継承・発展させたものと言っていいであろう。本作のような蒔絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それの銹絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それらの銹絵白釉茶椀の描写は、絵画としても風格を備えるものが多く、本作に描かれる富士山図も、三峰形であることや、外隈で描きだされた山容や余白の重視などの点が、当時流行していた狩野探幽の富士図との共通性が指摘される。大変優れた作行きを示すものである。

色絵花輪違文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀) サントリー美術館

全体を碗形に轆轤引きし、腰下に面を取って姿を引き締めている。長石の多い独特の白釉を地軸とし、内外に黒釉を塗る。口縁の外側に銀彩の帯を巡らせ、同部の中幅に赤・青・緑の八個の花輪違文を描き、胴下部には八個の花入り連弁文を並べる。この花違文と連弁文は白釉地に色絵で表さされている。そしてすべても文様において、色と色が接触しないように輪郭を丁寧に縁取っている。本作は宗和好みを継承しつつ、さらに華やかさがくわえられていったものではないかと考えられる。

白釉円孔透鉢  野々村仁清  江戸時代(17世紀) MIHO MUSEUM

白濁釉が薄く掛けられた白一色の器形の側面全体に大小の円孔が無数に開けられた鉢。この穴は専用の工具で開けられたらしく所々に工具を押し付けてみたものの、貫通させなかった跡が残っている。この口縁の処理の違いでバリエーションがあり、真円、木瓜形の作例が確認されている。仁清は実に瀟洒で洗練された姿に再生させている。仁清は明らかに高取焼を意識した造形を追い求めていたことが、本作はその成果が結実したものである。シンプルかつシャープな造形で現代の工芸作品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵と違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品である。

桐鳳凰図屏風 狩野探幽作 六曲一双 江戸時代(17世紀)

狩野探幽(1602~74)は、狩野派の絵師である狩野孝信の長男として京都に生まれた。幼くしてその画力を徳川家康・秀忠に認められ、本拠地を江戸へ移して幕府の御用絵師として活躍した。徳川政権による新たな時代にふさわしい美を探究したその生涯は、まさに寛永文化の展開に重なるものである。今日、探幽が巨匠とされる理由の一つは、豪壮な桃山時代にかわって、大きな余白と淡彩を主体とする独自の様式を確立し、狩野派の画風を一遍させたことにある。その優美で平明な画趣は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものがあったと言えるであろう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家と言った枠組みを超えて共有されていた、最先端の「時代の美」であった。本作は数少ない探幽の金地濃彩屏風で、六曲一双の大画面にそれぞれ見つめ合うつがいの鳳凰二組と桐樹、草、流水などを描く。これらのモチーフを水平方向に分散して配置し、緑・紫・赤・茶などの絵具を使って彩色されるが、濃彩は全体にわたるものではなく、淡い色味が多く用いられている。金地、金運で埋められ、金砂子で飾られた余白の中、緩やかに水流が蛇行し、鳳凰がゆったりと舞う。聖人が世を治める時に現れるという鳳凰にふさわしく、落ち着いた晴れやかな画面となっている。この特徴は「本朝画史」に「一変狩野氏」と評価された探幽の新しい構成原理が端的に現れたものであり、完成された探幽様式を示している。

重用美術品 歌仙源氏類人形図鑑 狩野探幽作 一巻 江戸時代(17世紀)京都国立博物館

本作は「時代不同歌合」「源氏物語」「紫式部日記」「枕草紙絵詞」を写した縮図が納められた一巻である。時代不同合は百人の絵歌仙とその上方に各歌仙三首づつの和歌を納めた長大な縮図で、上下二段に貼り付けて歌仙絵は墨画を本体とし、所々に朱や淡彩を加えている。寛文2年(1662)10月9日に制作した縮図で、「中程の土佐筆」と鑑定されている。枕草紙絵詞は旧浅野家の歌本を模写した縮図で、寛文12年(1672)正月11日に制作された。この枕草紙絵詞はほかの縮図とことなり、一段に張付けされている。

 

宗達も屏風も専好の和歌書巻も桂離宮も修学院も、仁清も狩野探幽も、きれいで美しいという美意識の中にあったと言えるであろう。きれいという意識は、桃山の豪放、慶長のかぶきとも異なり、また元禄の展合やさびとも異なる寛永の独自の美の領域を示すものである。慶長20年(元和元年(1615)をもって古田織部に象徴されるかぶきの時代は終わった。このあたりから寛永文化が姿を明確にしてきたといえよう。華やかな寛永期を過ぎて、万治3年(1660)ごろ修学院離宮が完成を見た。その間もなく桂離宮も現在の姿となった。そして延宝8年(1680)に後水野尾院は没した。ほぼその頃には、次に来る元禄文化の足音が時代の相の中に混じってきたのである。

 

(本稿は、図録「寛永の美 江戸宮廷文化と遠州・仁清・探幽  2018年」、図録「生誕400年記念 小堀遠州展  1978年」、陶器講座「仁清」、陶磁体系「第23巻 仁清」を参照した)

生誕140年記念 木島桜谷展 近代動物画の冒険

木島桜谷(このしまおうこくー1887~1938)は、明治から昭和にかけて活躍した京都の日本画家である。今年、生誕140年を記念して、六本木の泉奥博古館において、「木島桜谷特別展」が開催されている。宮内省(明治天皇)や住友財閥等の買い手がつく人気作家であったが、戦後はなぜか人々の記憶から遠ざかってしまった。私がこの名を知り、名作「寒月」の写真を見て、一度是非拝観したいと思ったのは、日経新聞が日曜日に連載している「ザ スタイル・アート」の2017年10月15日、10月22日の連載記事を見た時である。記事によれば「忘れ去られた京都画壇の俊英」であり、「さえざえとした冷たさと孤独感」、「文展の寵児 100振りに光」、「明治天皇に財閥 堂々たる買い手」等見出しが躍る記事であった。私は近代の洋画・日本画を知るために「日展100年」という展覧会を見て(2007年7月頃)、その分厚い図録を字引き代わりに使用して、画家の略歴や絵画を調べることにしていた。ところが「文展の寵児」と書かれながら、この「日展100年」の図録には、木島桜谷という氏名も絵画も見つけることが出来なかった。これほど何度も日展の最高賞に選ばれた人が、何故「日展100年」に全く氏名を残さなかったのか?不思議である。さすがに「原色日本の美術第26巻 近代の日本画」(昭和52年版)には、木島桜谷の代表作「寒月ーかんげつ」(1912年)を見開き2ページを使い、紹介している。解説を書かれた河北綸明氏は「こうした桜谷の作風も現在ではほとんど顧みられることはない。時代は、このような静雅なものを執り残して展開したのであろう」と述べられている。戦後、日本の高度経済成長は、桜谷のような画家は捨て去ってしまったのだろうか?低成長の今日、その解決を求めて、今回の特別展 木島桜谷展を拝観した次第である。なお、木島桜谷氏の紹介は、記事の最後にまとめたい。

獅子図屏風 紙本着色  六曲一双屏風       明治37年(1904)

ライオンが岸辺でふと歩みをとめ、探るように遠くを見つめる。威風堂々たる立ち姿に対し、左隻にうずくまり水を飲む柔和な虎がいる。日本画らしく輪郭線はほとんど見られず、淡彩から濃彩へ塗り重ねた色面にもで肉体を作り上げる。油彩画を意識した青年期の冒険作というべき1点で、淡墨の背景描写や、そこはかない金泥霞が典雅さを添える。桜谷は明治36年大坂で開催された第5回内国博覧会の余興動物園に通ったようである。そこで実際の虎を見て、この絵を描いたのであろう。虎の威力が良く映されている。

熊鷲図屏風  紙本墨色着色  二曲一双       明治時代

 

雪原でたちどまり遠くを見つめる熊。大小の割筆を用い乾いた墨調で毛描きする。筆致は素早く放埓に見えるが、ごわついた質感、顔や足先など細部を的確にとらえる。一方、鷲は屈曲した松幹に鋭い爪をたて、やはり前方に視線を投げる。湿潤な側筆で風になびく羽毛を大胆に描き分ける。墨調た筆づかい、そして動物の表情など左右の対比も鮮やかである。熊を片寄せ余白を取る構図は、優しく内省的な眼差しと相まって余剰染み渡る静謐な空間を作り出す。確かな運筆、素早い奔放な筆致、そして円山派の写生に西洋画の写実表現を取り入れた、青年期のひとつの到達点である。

しぐれ 紙本着色 六曲一双 第1回文展2等賞(最高賞)明治40年1967)東京国立近代美術館

この作品は第一回文部省美術展覧会(文展)で二等賞一席(日本画で最上位)を獲得した。桜谷(おうこく)は一気呵成に描きだしたそうである。薄なびき、枯葉舞い散る秋の荒野を、子連れの鹿一行が行き過ぎる。ふと首をもたげる牡鹿はやさしい瞳でこちらを見るとも、空を舞う紅葉に気遣うとも見える。余白を活かしたバランスの良い配置、流麗な描線による秋草の表現などが詩情をかきたてる。今日伝わる桜谷の写生帳で最も多いのは鹿である。鹿の絵については、相当自信を持っていたのであろう・

和楽(わらく)絹本着色六曲一双 第4回文展 明治43年(1909)桜谷文庫

右に農家の軒先でくつろぐ家族や仔牛、左に家路の農婦と向かえる子らを描く。左が夕方ならば、右の霧が多く鶏が餌をついばむ様はさしずめ朝の光景だろうか。紅葉や葛の花も見える秋の一日、労働前後の和みの時であろう。これは第三回文展出品作品であるが、見所を盛り込み過ぎたとの批判もあった。西洋画的な写実主義をも見せる。先割れの刷毛や筆による仔牛のうぶ毛、濃青によるハイライトを点じた潤んだ瞳(右隻の下の牛)などは桜谷の真骨頂であろう。

かりくら 絹本着色 二幅 第4回文展出品  明治43年(1910)桜谷文庫

  

高さ250cmの巨大な画面に、薄野を疾走する騎馬の武士三人が勇壮華麗に描かれる。これは表第通り、狩り競べそのものをクローズアップする。渾身の力で馬を駆る男らの表情のさりばがら、写実的で躍動感ある馬にみるべきものがある。前年の「和楽」とは対照的な鮮やかな濃彩に、西洋画的な陰影をほどこされる。桜谷最大級の作ながら、第4回文展での発表後、翌年の選画会、ローマ万国博覧会以降記録が途絶えていたが、近年桜谷文庫でマクリ状態で発見され、2017年に修復を終えた。桜谷の絵の中では異例の装飾が施された絵画である。

寒月 絹本着色 第6回文展出品最高賞 大正元年(1912)京都市美術館

森閑とした月夜の竹やぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介(けんかい)そうな目であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの色料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かび上がる。林立する竹にはダークな絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛(りん)とした空気が漲る絵である。この作品が描かれた当時、日本の画壇に旋風を巻き起こしていたようだ。名指しで批判した文豪がいたという。夏目漱石である。夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は昨年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月(かんげつ)」も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。所が動物はいいえ昼間ですと答えている。とに角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。たしかに漱石の指摘通り、この作品には月明かりによって竹に生じるはずの影がない。一つ一つの細部は写実的かもしれないが、合理性に欠ける。「日本画に西洋的リアリズムをなじませようとした矛盾がわざとらしい。そんな感じがして英国帰りの漱石の鼻についたのでは」(野地耕一郎・泉奥博古館分館長談)。桜谷本人は絵画の技量だけでなく、論も立つ文書家だったが、礎石に反論・抗弁した形跡はない。意に介さなかったのか、あえて無視したか。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」(かんげつ)はこの年の第6回文部省展覧会(文展)で2等賞を取った。1等賞がなかったから、全国から出品された入選作186点中、事実上の主席であった。木島桜谷は文展が開説されて以来、上位入賞の常連だった。文展は第9回まで1等賞はない。1907年に開設された第1回では鹿の群れを描いた「しぐれ」で2等賞、第3回、農村の風俗を題材にした「和楽」で3等賞。第4回が騎馬武者の狩りにせまった「かりくら」で3等賞。第6回の「寒月」の2等賞を最後に、翌年から桜谷は36歳で審査員に回った。私は、この「寒月」の前の椅子に座り1時間ほど見せてもらったが、やはり明治時代の日本画の最優秀作品の一つであると実感した。漱石先生の酷評は、的を得ていないと実感した。

幽渓秋色 絹本着色 一幅    大正時代     京都府

紅葉する晩秋の渓谷で、絶壁の隙間から流れ落ちる滝が望まれる。雄大な風景のなか、前景の岩上に姿を見せた子連れの猿の一群が風情を添える。桜谷は若い頃から橋本雅邦に私淑しており、本作が雅邦の代表作(白雲紅樹)を彷彿とさせるのは偶然ではないだろう。壮年期に取り組んだ顔彩による油彩風のマチエール表現で、樹木の葉叢を点描で盛り上げる。その彩色層の厚さゆえに珍しく剥落が目立つ。

葡萄栗鼠(ぶどうりす)絹本着色  一幅         大正時代後期

鬱蒼(うっそう)と茂る葉影からたわわな美がのぞく葡萄畑に、一匹の栗鼠(りす)が現れる。たらふく食べた後なのだろうか、満足げに目を細め指先の手入れをする。葡萄は多く実をつけ、また栗鼠は多産の鼠に似ることから、ともに子孫繁栄の象徴として、古来から中国や日本で合せて描かれてきたが、桜谷は伝統の吉祥画を微笑ましい初冬の景に転換させている。桜谷の動物画の手腕が遺憾なく発揮されている。

獅子 絹本着色 一幅           昭和時代   桜谷文庫

桜谷は生涯に二度、獅子図を集中的に制作した。明治後期の30歳前後と、昭和初期の50台前半である。本作品は後者に分類される。生涯を通じて桜谷の獅子は顔を左斜め前に向けるが、表情は少しずつ変遷を遂げ、時には猛々しく、時には威圧的だ。しかし、ここではその雰囲気は払拭され、威厳をたたえつつ内省的で言い知れぬ哀愁すら感じさせる。朝鮮美術展覧会(1922~45)出品と伝えられてた。

角つぐ鹿紙本墨画 一幅 第13回帝展出品 昭和7年(1932)京都市美術館

山の斜面で苔むした木に角をすり付ける牡鹿。黄や赤に色づく木々の葉も残り少ない晩秋から初冬の景である。生え替ったばかりの豊かな冬毛もよく描かれている。中央の大木は今なお衣笠の自邸画室前に健在の唐楓、鹿は動物園や奈良公園のそれをモデルにたという。最晩年の第13回帝展出品作品である。桜谷は生涯を通じ鹿を多く描いたが、縦長の作品としては突出して大きい。この絵には下書きが、最近発見された。紙を貼って微細な試行錯誤が多数見られ、入念な構想の上で画面全体のバランスや奥行が表現されている。

秋野弧鹿  絹本着色  一幅   大正7年(1918) 泉屋博古館分館

古来、鹿はその姿や声に秋の到来、もの悲しさ、孤独が重ねられ、絵画化もされてきた。桜谷は鹿の図で青年期から一定の評価を得、生涯大小の作品を手掛けた。その多くは秋野を舞台とするが、ここでも縹緲たる草野でふと耳をそばだてる雄鹿の後姿を描く。桜谷の鹿図には背を向けたポーズが多多見られ、白い鏡毛に覆われた姿が愛らしい。少ない筆致で形態や質感を確実にとらえる。粗略に徹した草との対比、十分な余白をとった配置などバランスも秀逸である。なにより、ふと見返るまなざしの透明感こそ、桜谷の鹿の魅力であろう。

写生帳

桜谷が生涯何よりも大切にしたのは「写生」であったという。それを実証する大量の帳面類が、今日、桜谷文庫に遺される。その数674冊である。俗に「背丈まで積み上がるほどの写生をしたら一人前」と言われる日本画の世界だが、これらは桜谷の身長の倍は優に超えていた。特に「動物」の写生が多い。紙面類は写生以外に、古今の絵画を縮小して模写した「縮図」が含まれるので、正しくは「写生縮摸帖」と呼ぶべきであろう。体裁は和紙を綴じた手製のものと洋紙の規制スケッチブックに大別され、前者はさらに大小に分かれる。桜谷は自ら画塾を主宰するようになってからも、かっての塾友や弟子たちと鷹ケ峰、貴船、大原などに足を運び、道々の風景や建物、牛馬や鶏といった家畜などを素早く写しとっていった。奈良にもしばしば出かけ春日の鹿を写生している。生きた動物観察の場である動物園が京都に開設されたのは明治36年で、それ以後は虎、鹿、ライオン、鳥類などを求めてしばしば通った。桜谷は大正11年の入場優待券、いわゆる年間パスポートを贈呈されている程である。

 

木島桜谷(このしまおうこくー1877~1938)は、木島周吉とすえの次男として、京都に誕生した。本名は文次郎という。曾祖父の木島元常は狩野派の絵師吉田元陳の弟子で、寛政期の内裏造営障壁画制作にも参加した。祖父周吉は内裏に高級調度を納める有職舎を興し、父周吉(二代)はそれを継承したが、明治初年には店をたたみ、自適生活を過ごしていた。当時木島家は三条室町東入ル御倉町にあった。三条室町と言えば、染色商が集中する商業の町であり、同時に画家や学者なども多く住まう、京都の経済と文化の中心地であった。このような環境下で桜谷は幼い頃から絵が好きだった。京都の中京(なかぎょう)の商家のならいとして京都市立商業学校予科に進んだ。算術、簿記などには全く興味を持てずに明治25年(1893)、父が逝去。それを機に退学した。その年の12月、16歳の桜谷は父の知己であった今尾景年(1845~1924)の門をたたいた。今尾景年は円山派に南画を融合させた鈴木百年の弟子で、のちに帝室技芸員に任じられるなど明治・大正のの京都画壇の重鎮であった。その号「桜谷」は入門時に景年から授かられたものである。景年の塾では、師風を超えて個性のまま制作活動をすることを容認し、展覧会には多彩な作品が並ぶ稀有の画塾であった。桜谷自身も、景年が花鳥画や山水画をもっぱらとするのに反しして、歴史画に強く惹かれ、東京画壇の研究も行い、中世に取材する武者絵を展覧会に出品し、景年は温かく見守った。明治35,6年前後には桜谷は画家として独立し、37年11月まで生家からほど近い御池両替町角の借家に転居して龍池画塾を開いた。明治40年(1907)、文部省美術展覧会(文展)が始まる。初の公設展覧会の開催に東西画壇が大きく揺れる中、桜谷の「しぐれ」は二等主席に選ばれる。文展は9回まで一等は空席のままだったので、実質日本画壇の主席ということになる。以後、春には京都の新古美術展、秋には文展を両軸として大作を連続出品していく。題材は武者絵、農村風俗、動物、技法も水墨淡彩を基調とするものから濃厚な彩色を施すまで、毎年めまぐるしく変わり、二等、三等などを連続受賞した。第6回文展で第一席となった「寒月(かんげつ)」は、彩色と康生に独自の方法で挑んだ意欲作であったが、その表現と審査をめぐり大きな議論を呼んだ。夏目漱石が朝日新聞紙上で酷評したこと、また桜谷を擁す今尾景年と安田靫彦を推す大観とが審査会場で衝突したとも伝えられる。当の桜谷は黙して語らない態度を貫いた。その後、京都衣笠(きにがさ)に邸宅を新設し、後に「衣笠絵描き村」と称されるほど画家が集まってきた。今や画壇の頂点に立ちながら、帝展(文展改め)では審査員を務めながら、3回以降連続出品している。50代にさしかかった桜谷は、公務から身を引き、画壇のつきあいから遠ざかり、自邸にひきこもるようになった。ただ写生だけは続け、すでに功なり名を遂げた桜谷だが、この作品の夥しい下絵、写生からは、50代にしてなお、求道者として純粋な姿勢が介間見られる。昭和13年(1938)62歳で没する。何故、この木島桜谷という俊才を日本は忘れてしまったのであろうか?植田彩芳子。京都文化財博物館学芸員は次のように語っている。「記憶から遠ざかると、関連図書がなかなか出版されず、回顧展も開かれない。そうなると悪環境に入ってしまいがち。文展では東京画壇の気鋭、菱田春草と争うくらいだったのに、春草の光の当たり具合に較べると、桜谷は割を食っている感じです」

 

(本稿は、図録「生誕140年記念 木島桜谷展   2018年」、原色日本の美術「第27巻  近代日本画」、図録「日展  100年  2007年」、日本経済新聞社2017年10月15日、10月22日「忘れられた京都画壇の俊英木島桜谷」を参照した)