名作誕生  つながる日本美術(2・巨匠のつながり)

名作は、ある日突然に天才作家が生み出すものではなく、作品や人のつながり、模倣や模作の繰り返しから生まれてきた。日本美術史上で人気の高い巨匠たちもまた、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねるなかで、個性的な名作を生み出したのである。この章では、雪舟等楊(せっしゆうとうよう)、俵谷宗達(たわらやそうたつ、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という三人の「巨匠」に焦点を絞って、代表作が生まれたプロセスに迫る。まず、雪舟と中国の関係から眺めてみる。

国宝 天橋立図  雪舟等楊筆  一幅 室町時代(15世紀) 京都国立博物館

日本三景の一つで、古来有名な歌枕でもある天橋立とその周辺の景観を描く本図は、橋立の周囲に広がる社寺や名所を詳細に描写すると共に、内海・外海の広がりや、それらを取り巻く半島と山並みを、壮大な空間として顕した堂々たる作品である。本図は江戸時代から雪舟筆と伝えられ、落款印章はないものの、地名などの書き込みや、筆墨法からみて、雪舟の真筆とみなされている。写真のような単一の視点からとらえた風景ではないため、地理的に不合理な表現もされているものの、実際にその土地を訪ねれば描けないようなリアルな描写や書き込み文字を数多く含み、日本人画家が日本の実景を訪れて描いた本格的な作品として重要である。またそこに表された広大な空間表現は、単なる山水画としても十分に魅力的である。

国宝 破墨山水図 雪舟等楊筆自序他室町時代・明応4年(1495)東京国立博物館

雪舟に附き従い、絵を学んでいた鎌倉の円覚寺の禅僧画家、宗淵(そうえん)が雪舟のもとを去るに当たり、雪舟が終淵の求めに応じて明応4年に描き与えた山水画である。代表作の「山水長巻」た「秋冬山水図」のようなカチッとした夏珪スタイルの画法と異なり、おおざっぱな筆づかいによって、ぼんやりとした風景がさらっと描かれている。この画法は、図の上方に記された禅僧たち、月翁円鏡等の賛の中でも言及されているように、中国の南宋時代末期から元代初期にかけて活躍した僧侶画家、玉澗スタイルの作品はいくつかあり、得意のレパトリーであった。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗筆  南宋~元時代(13世紀) 出光美術館

玉澗(1180頃~1270頃)は、中国の王朝が南宋から元へと激動する時代に活躍した僧侶である。後世における画家・玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知れ渡り、現存する主要な作品は日本に集中している。その奔放な筆法による水墨山水は「玉澗様」と呼ばれ、室町時代以降の典範として絶大な影響を及ぼすこととなる。雪舟がこの玉澗の「山市晴嵐図」に即して描いたのが「破墨山水図」であると言われている。雪舟は明らかに、「破墨山水図」において自分自身を玉澗に重ね合せていると言えよう。

重要文化財 四季山水図(春) 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)ブリジストン美術館

四季を四幅に描き分けた作品で、福岡藩黒田家に伝来した。落款・印章はないが、古くから雪舟真筆と認められている。この作品には、後に浙派(せっぱ)と呼ばれている明時代の浙江省出身の画家達の画風が入り込んでいる。この画風は、室町時代に日本で流行った南宋風の整った画風に対し、パワフルでかつ荒さを持ち、ときに不思議な空間を画中に出現させる。雪舟は、自身の持ち味に良く合ったこの画法に感応し、取り入れつつ自己のものへ変化させた。

重要文化財 四季花鳥図屏風 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)京都国立美術館

雪舟の落款もないが、真筆と認められている唯一の花鳥図屏風で、縦が180センチメートル近い大きな画面が右から左へと四季が流れる。正直言って、まさかこれが、雪舟の作品とは信じられなかった。構図の基調は、右隻の松と左隻の雪を被った梅で、屈曲する幹と枝とが複雑な空間を作っている。そのなかで鶴と鷺(さぎ)がポイントとなり、赤や緑などの色のある右隻と、殆ど白一色の左隻との対照を作り出し、その中にさまざまな花や鶏が配される。

重要文化財 四季花鳥図  狩野源信筆 室町時代(16世紀) 京都・大仙院

狩野派の二代目狩野源信筆の名作である。源信は、狩野派を理論化し、狩野派の大御所である。大仙院は大徳寺の古岳宋亘(こがくそうこう)を開山として、大徳寺内の塔頭として創建された。襖絵は、相阿弥と狩野源信が担当し、この四季花鳥図は檀那の間を飾っている。「狩野元伸展」で、詳しく書いているので、そちらを参照願いたい。本展では右隻のみの展覧であるが、左隻も表示しておいた。雪舟から、どのように学んだかを見てもらいたい。

重要文化財 鳴鶴図(右幅)文正筆 中国・元~明時代(14世紀)京都・相国寺

落款、朱文印等から、文正という逸伝の画家が士廉なる人物のために制作したことは分かる。相国寺大六世、絶海中津が、この画幅を日本に請来したという寺伝がある。

波頭飛鶴図(右幅)狩野探幽筆 江戸時代・承応3年(1654)京都国立博物館

狩野探幽は、古画を鑑定・記録し、古画から学ぶことに熱心であった。これは承応3年(1654)3月、53歳の探幽が文正の鳴鶴図右幅を写して作ったものである。当然、左幅も模写したと思われるが、そちらは現存しない。

白鶴図(右幅) 伊藤若冲筆  江戸時代(18世紀) 個人蔵

文正の「鳴鶴図」の鶴を模写すると共に、背景に変更を加えて作り上げた対幅である。(但し、右幅のみ)右幅に「平安若冲居士藤汝鈞製」と記す。若冲は、相国寺の禅僧・大典から「鳴鶴図」を見せてもらい、模写したのであろう。大典からは、中国の絵画事情について詳しく聞いていたものと思われる。狩野探幽の「波頭飛鶴図」を見ているかどうかは分からない。

仙人群鶏図襖(さぼてんぐんけいずふすま)伊藤若冲筆 江戸時代(18世紀)大阪・西福寺

「米斗庵米斗翁行年75歳画く」と署名するので、若冲は改元ごとに1歳加えたという説があり、それに従えば、天明9年(1789)の正月の完成と見られる。この絵が、ここに登場する理由は、日本の金碧障屏画史の掉尾(ちょうび)を飾ると言っても良い傑作が生まれるためには、彼自身の水墨画が大きな役割を果たした。

鶏図押絵貼屏風 伊藤若冲作 六曲一双 江戸時代(18世紀)京都・細見美術館

右隻第一扇と左隻第六扇に「米斗翁82歳描く」という署名がある。「仙人掌群鶏襖」よりは後の作品であるが、若冲が押絵貼屏風の形式で描いた水墨の鶏図の例として示したものである。このような水墨画を仙人掌群鶏図以前にも描き続けていて、それがあの金碧障壁画にも干渉したというわけである。

 

日本美術史の中で人気の高い巨匠三人を選んで、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねて、個性的な名作を生み出したプロセスを明らかにする目的である。選ばれた巨匠は雪舟等楊、俵谷宗達、伊藤若冲の3名であった。俵谷宗達は、私が一番好きな画家であるが、展覧された作品がすべて「扇面張替屏風」で、写真が入手出来なかった為、残念ながら断念した。伊藤若冲の写真は豊富に保存していたので、これは出来るだけ豊富に写真を出した。雪舟が、日本絵画史上の最大の巨匠であることは当然であるが、伊藤若冲は、私の中では、いまだ「奇想の画家」の域を出ていないので、雪舟と並ぶ巨匠扱いには、いささか驚いた。しかし「仙人掌群鶴図襖」が、「日本の金碧障撫屏画史の掉尾を飾る作品」という図録の解説を読んで、納得した次第である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF 2018年1月号、朝品新聞記念号外「特別展 名作誕生 つながる日本美術」、図録「生誕300年記念  若冲 2016年」を参照した)

 

 

 

 

名作誕生 つながる日本美術 (1.祈りをつなぐ)

「美術は孤立のものにあらず。一時期をなすには必ずその前代と相伴うて形をなす。推古は天智に進化し、これを天平に完全するは天平の大家一人の力にあらず。前すでにこれが基礎を造れるものあり。」これは岡倉天心が古典美術の研究の一端を、東京美術学校において講じた「日本美術史」の筆記録である。岡倉天心は、東京美術学校(現東京芸大の前身)の初代校長として、それまでの自分が研究してきた「日本美術史」を、明治23年から25年にかけて開講した。その時の内容は「日本美術史」と題され、学生の筆記録として遺されている。そして最後に天心は「まとめ」として7点を挙げた。そのうちの一つが「系統を追って進化し、系統を離れて滅ぶ」である。これこそが天心美術史学の根幹をなす思想であると言われる。天心は日本美術の創造性の秘密を、系統進化ー換言すれば「継承」と「創造」に求めていたのである。この展覧会は、天心に導かれながら、日本美術における継承と創造の関係を、「美術品」を見ながら、「名作誕生」が、「つながる日本美術」であることを検証する展覧会である。天平期から近代芸術に至るまで、130点の名品を展示しながら、解説するのは本展覧会の目的である。果たして、日本美術史の素人の私に、どこまで出来るか不安であるが、ここは果敢に挑戦してみたいと思う。なお、多分4~5回の連作になると思うので、最後までお付き合い願いたい。なお、本展覧会は、東京国立博物館で5月27日まで展示される。但し、展示物は6回に別けて展示されるので、最低でも2回は拝観しないと、全体像は理解できないと思う。第1回目は「祈りをつなぐ」というテーマを追いたい。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 中国・唐時代(8世紀)山口・神福寺

頭上に十一面を戴く十一面観音菩薩像で、その頭上から台座の蓮肉、両手首や天衣、装身具までも白檀(びゃくだん)あるいは桜とみられる広葉樹の一材から彫り出している。白檀とは、東アジアから東南アジアに自生する希少な香木で、これを材料とする仏像は「壇像」(だんぞう)と呼ばれ、珍重される。壇像の最盛期は、中国・唐時代(8世紀中頃)に制作され、日本にもたらされている。天平勝宝5年(753)日本に戒律を伝えるため来日した唐僧鑑真(がんじん)は、「彫檀師」(白檀などの彫刻を行う工人)を伴ったと思われる。唐招提寺像は、その遺品と思われる。

重要文化財 伝薬師如来立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招題寺

唐招題寺の新宝蔵に安置される「旧講堂木造群」と総称される木彫仏群の一つである。頭部のみのものもあれば、トルソーのみの仏像もある。いずれも一木から仏像を彫り出す一木造りは、これ以降平安初期にかけて急速に広まり、日本に木彫仏の時代をもたらした。そのきっかけとも言うべき初期の木彫仏である。全身をカヤまたはヒノキ材と見られる針葉樹の一材から彫り出したものである。日本で本格的に仏像が造られるようになったのは6世紀初めのことであるが、それから約150年は木の仏像が造られたことは無かった。木の仏像が主流になるのは平安時代以降のことで、この薬師如来像はその端緒であった可能性がある。唐招提寺を創建した鑑真が伴ってきた中国伝来の仏像工人が制作した可能性が高い。初めて、「旧講堂仏像群」を拝観した時(私が18歳の大学1年生の時)に、「日本人でない顔」と思ったことが記憶に残っている。天平時代の仏像は塑像製が多い。それに比較すれば、木造仏は、造り易く、かつコスト的にも安かったと思う。振り返れば、一大発明であった。

重要文化財 伝衆宝王立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

胸に斜めに鹿皮(ろくひ)を着けることや、両肩下に各2手を取り付けた痕跡がのこること、額に一眼を刻むことなどからも、もと三目六臂(さんもくろっぴ)の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんんおんぞう)として造立されたと考えられる。随所に濃厚な唐様式が見られることから、鑑真に同行した唐の工人の作と思われる。台座を含め、ヒノキの一木彫りである。

国宝 薬師如来立像 木造 奈良~平安後期(8~9世紀) 奈良・元願寺

肩幅の広い堂々とした体格が拝する者を圧倒する。螺髪と両手首を除き、頭部から台座まで一木で彫り出すが、乾燥による割れを防ぐため、背面から内刳りをほどこす。厚い体躯からは、丸太を思わせる迫力を感ずる。本像の正式な名称は、今では不明であるが、奈良時代から平安時代前期(8~9世紀)にかけて、この像のように五尺五寸の大きさの薬師如来立像が多数造立されてりるため、もともと薬師如来だったと見てよいであろう。カヤを用いて彫られていることが判明したが、希少な香木である白檀の代用として採用された可能性がある。表面には彩色の痕跡もあるが、本来は素地のままだったかも知れない。元願寺に入ったのは100年前位で、それ以前の歴史は不明である。

国宝平家納経のうち観普賢経三十三巻のうち平安時代(12世紀)広島・厳島神社

平家納経は、平清盛(1118~81)が厳島神社に奉納した経巻で、「法華経」、「無量壽経」など全三十三巻である。全巻にわたって金銀箔がふんだんに蒔かれ、表紙や見返りには経意による平安貴族の姿などが現され、本紙の天地や経文の下絵としても葦手(あしで)や日輪の風景、蝶鳥草花などが色鮮やかに描かれている。軸首や題箋も繊細で細工がほどこされているうえに、平清盛の願文や能筆による経文の筆致まで、隅から隅まで配慮がなされた絢爛豪華な装飾経の代表的作品である。「観普賢経」の見返りには十二単衣姿の平安女性が描かれており、右手に剣、左手に水瓶を持っていることから十羅刹女(せつにょ)のうち第五黒歯(こくし)だと分かる。

国宝 普賢菩薩像  絹本着色 平安時代(12世紀) 東京国立博物館

普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として三体一組で造像されることが多い。法華信仰の中では単独での造像が広く行われた。日本では平安時代に法華経を根本経典とする天台宗の成立によって法華信仰の基礎が整備され、法華経を通して真理に到達するための修行である法華三昧を行う堂(法華堂)の本尊として普賢菩薩の彫像を安置することが十世紀後半に行われ、画像は主に「法華経」を書写・供養する場で用いられた。特に「法華経」が女性成仏を説くことから平安時代後期には女性の発願による「法華経」供養も行われ、画像も女性貴族好みを反映したかのような繊細な作例が多く残されている。本画像は数多い普賢菩薩像の中でも最高傑作に位置づけられものであり、平安仏画の中でも屈指の名品である。

国宝 普賢菩薩騎象像  木造・彩色・載金 平安時代(12世紀) 大蔵集古館

法華教典は女性救済を説くことから貴族女性にも親しまれ、盛んに造像がなされた。本像は中でも優れた出来栄えと繊細な装飾で著名な、普賢菩薩の彫刻を代表する作品である。ヒノキを用いた寄木造で、華麗な彩色と金箔を細かく切って文様を表した載金が美しい。穏やかで洗練された表現から、平安時代後期(12世紀)に活躍した円派仏師の作とみられる。その姿は、院政期仏画の傑作とされる「普賢菩薩像」(前記)が画面から抜け出したようであり、ともに施主は高位の人物だろう。

重要文化財 普賢十羅刹女像 絹本着色 平安時代(12世紀) 京都・廬山寺

羅刹(らせつ)とは、もともと人を害する鬼だが、「法華経」「陀羅尼本」(だらにぼん)には普賢菩薩と同じく守護神として説かれる。日本で独自に考案されたとみられてきたが、普賢菩薩に天女形が従う図像は唐時代から北宋時代の作例で見られることから、これをもとに十羅刹女(じゅうらせつによ)へ変装した像が成立した可能性が考えられる。本像は現存する最古の絹絵で、羅刹女は羯摩衣(かつまえ)等を着ける唐装に現される。着衣にほどこされるのは主として銀の載金で、12世紀後半の作例に見られる新しい志向である。中央の普賢菩薩の両側に五体ずつ羅刹女が配置され、向って右端に赤子を抱いた鬼子母が立つ。法華経信仰を持った宮廷女性たちにとって、十羅刹女は自らを投影する存在だったであろう。

 

一木の祈りから、祈る普賢をまとめて「1 祈りをつなぐ「としてまとめた。明治23年(1887)10月に創刊された「国華」(こっか)は、今年で130年目を迎えることになる。「国華」」130年と、それを支援した朝日新聞社140周年を記念して、今回の「名作誕生 つなgる日本美術」展が、東京国立博物館で5月27日まで6期に分けて展示される。今年最大の「日本美術総合展覧会」であり、国宝、重要文化財など130点が展示される。「国華」は岡倉天心と高橋健三(太政官管報局長)の二人を中心に刊行が準備され、世界最古の美術雑誌は、今日に至るまで発刊されてきた。様々な美術情報を載せて130年間受け継がれ、読み続けられた。本展覧会では、作品同士の影響関係や社会的背景に着目して、古代の仏教美術から近代洋画まで、地域や時代を超えた数々の名作を、大きく4つに区分し、1.祈りをつなぐ、2.巨匠のつながり、3.古典文学につながる、4.つながるモチーフ・イメージの4章に大区分して、展示されている。6期に分けて展示されるため、せめて2~3回の見学が必要であるが、幾つかに分割して、この「美」で紹介したい。今年の日本美術最大の展覧会である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、朝日新聞特別記念号「特別展  名作誕生ーつながる日本美術」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF  2018年1月号、を参照した)

 

横山大観展  生誕150年記念

 

横山大観(1868~1958)は明治の始まりから大正、そして戦後の昭和に至るまで活躍した日本画家である。日本画家として抜群の知名度を誇る大画家である。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に、大観は第一期生として入学した。絵画について本格的学んだのは美術学校においてであった。校長の岡倉覚三(天心)や教綬の橋本雅邦に目を掛けられ、新しい日本画を作り出す気概を叩き込まれた。卒業制作では、最高点を取って卒業したと言われる。明治29年(1986)に、京都美術工芸学校での予備教諭の職を辞し、東京に戻り、東京美術学校図案化の助教綬に着任した。しかし、明治31年(1898)、学内での人間関係の問題から校長であった岡倉天心を中傷する怪文書が出回り、岡倉は校長を辞職し、それに伴い大観、橋本雅邦、下村観山、菱田春草らとともに辞職し、岡倉は、同年日本美術院を設立し、大観らはそれに参画した。茨城県五浦(いずら)の地に移り住み、新しい日本画の創造に向け制作に励んだ。この時期、大観が目指したものは、まず描こうとする人物の感情や主題の気分を画面全体で表現しようとした。続いて、いわゆる「朦朧体」(もうろうたい)と言われた画法である。東洋画で重視されてきた筆線を排除し、色をぼかし重ねたり金泥をはいたりして、大気や光の織り成す繊細な情趣を表現しようとした。そこから飛躍して色彩への取り組みを始め、色の表現力を型破りの手法で引き出したりした。「朦朧体」の評判は悪かったが、漸く世間に認められるようになったのは、文部省展覧会の始まる明治40年以降のことであった。(これ以降の記事の順次は、図録による)

村童観猿翁  横山大観筆 明治26年(1893) 東京芸術大学

東京美術学校の卒業制作。一期生の全生徒のなかで作品は最高点であったと大観は回想している。子供の顔もデッサンもゆがんで上手いとは言えない。しかし、先生の橋本雅邦と親友11人の猿回しのおじさんと村童に見立てた遊び心の有る発想や、群像をまとめ上げた構成力、新しい色感は、高く評価されたポイントとなった。

白衣観音 横山大観筆 絹本着色 一幅  明治41年(1908)

明治45(1912)に刊行された「大観画集」に掲載され、以来、所在不明であった。サリーの透ける白衣を身にまとう観音が岩場に腰かけている。明治36年(1903)インドを訪れた大観は、仏殿などを主題にインド風の人物や神像をいくつか描いたが、アジャンター壁画を紹介した画集などを参考にポーズを転用したこともしばしばだった。足を組んで座る姿勢はデッサンの不得手が露呈している。腰と腿の関係があいまいで、膝下のパースが狂っているのが大きな要因である。また岩や崖には筆の腹でかすれた筆触を重ねた皺法が用いられるが、岩場全体の立体感につながっていない。観音の黒目がちな顔立ちやアクセサリーや衣の縁模様なども大きな見どころとなっている。

秋色 横山大観筆 絹本着色彩色 六曲一双 大正6年(1917)

 

大正時代の大観の装飾的作品の代表格であり、また、大観の琳派への傾倒を示す作品として名高い。琳派を愛好する私にとって、一番馴染みやすい作品である。蔦や槇は琳派におなじみのモチーフであり、右隻に描かれた槇の幹は尾形光琳の「槇楓図屏風」と良く似ていることが指摘される。大観は明治38年(1905)にヨーロッパから戻ってすぐに菱田春草と共に発表した「絵画について」という論文で、光琳への関心記している。その後、金地の採用、たらしこみ技法の試みなどを経て、大正のこの時期に琳派を想起させる画風に取り組むようになった。(上が右隻、下が左隻、以下同じ)

夜桜 横山大観筆 絹本着色 六強一双 昭和4年(1929) 大倉集古館

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマでの展示や運営も任された。本作はローマ展のために描き下した新作である。ローマ展はそもそも日本画を世界へ打ち出すことが狙いだったから、大観が海外の観客のも理解されやすい主題と装飾画風を選んだのである。色の取り合わせからは室町時代のやまと絵などを意識したと思わせるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。満開の桜の情趣を訴えた本作は、海外の観客のみならず、日本の人々も魅了した。会場では一番の集客をした作品であった。私も初めて見る作品であったが、大いに魅了された。

紅葉 横山大観筆 紙本彩色 六曲一双 昭和6年(1931)足立美術館

「夜桜」と並び、円熟期の大観の装飾画風を示す作品である。初めは墨と金泥で紅葉を描くつもりだつたところ、色の良い朱が手に入ったので彩色画に変更したという。本作は、大観の全作品の中でも絢爛豪華な作品となった。

 

 

 

野の花 横山大観筆 紙本彩色 二曲一双 昭和11年(1936) 永青文庫

第23回再興日本美術院展覧会に出品された作品である。「野の花」の中に一人の女性を配することによって、画面が明るくなっている。大観の完成期の佳作である。

波騒ぐ(海に因む十題のうち)横山大観筆 昭和15年(1940)霊友会妙コレクション

絵筆をもって国に報いる彩管報国を唱えた大観が、昭和15年に「海に因む十題」、「山に因む十題」を発表し、その売上げ50万円を陸海軍の献納したことは良く知られている。この時期、富士は国のシンボル、海も海洋国家日本のシンボルと見做された。この「波騒ぐ」は、「海に因む十題のうち」であった。こんなことでも「絵画と戦争」を考えずにはいられない。フジタ一人が戦犯扱いをされ、「絵画と戦争」の代表者にされているが、フジタが憐れであると私は思う。

或る日の太平洋 横山大観筆 昭和27年(1952) 東京国立近代美術館

「富士超え龍図」という伝統的な主題に基づき、富士に向かって龍が昇るさまが描かれている。(北斎の最後の作品が「富士超え龍図」である)「或る日の太平洋」と名付けられているが、主題は「富士超え龍図」なのである。確かに、富士に向かって龍が昇るさまが描かれているが、富士の高さにまで迫らんとする波濤の大きさを描こうとしたのではないか?そのように考えれば、「或る日の太平洋」という題名とも一致する。描かれた波濤をとらえて、美術史家の野間清六氏が「近ごろ流行のシュールに似ている」と評して、大観が喜んだというエピソードがある。

零峰飛鶴 横山大観筆 絹本着色 昭和28年(1953) 横山大観記念会館

大観は大正、昭和の各時代に、実に沢山の富士山の絵を描いている。戦中は富士は「神国日本」を代表として、あらゆる機会に描かれた。戦後に富士の持つ意味が変わったが、大観は相変わらず富士を描き続けた。それゆえ、現代でも「大観と言えば富士」と誰もが信じて疑わない。あえて沢山ある富士の中で、この一枚を選んだのは、展覧中の「富士」の最後の絵であったからである。確かに富士に飛ぶ鶴は似合っている。

風粛々分易水寒 横山大観筆 絹本墨画  昭和30年(1955)名都美術館

司馬遷の「史記」に登場する荊軻は、秦王(後の始皇帝)の暗殺に向うも、果たせずに討たれた。故国を発つとき、彼は生きて帰らぬ覚悟で「風粛々として易水寒し、荘子ひとたび去って復た還らず」と詠んだという。タイトルはこの詩句からとったもの。易水のほとりで肉付きのよい犬一匹が水の彼方を見つめている。犬は再び帰ることのない主人を見送っているのだろう。きわめて暗示的な画面づくりで離別の愁いを表した作品だが、去る側送る側、大観はどちらに感情を寄せただろうか。

 

日本画の巨匠「横山大観展  生誕150年記念」は、東京国立近代美術館で開催されている。選りすぐりの92点の作品を、明治、大正、昭和と3区分して並べられている。名作として名高い「生々流転」(重要文化財)も「小下絵画帳」と合せて「生々流転」の40メートルに及ぶ作品も並べられていた。ここに選択した10点は、本当のことを言えば、写真が入手できるもので、かつ私が好きな絵画を選んだ。流石に「大家」と呼ばれるだけあって、写真の選択には手間取ったが、「山種美術館」の大観展とは重ならないように、かつ出来るだけ色の付いた作品を選んだ。その意味では「秋色」、「夜桜」、「紅葉」の3作は無条件に選び、後は好きな絵を、時代がバラつくように選んだ。大観展は大変な人気で、5月12日の火曜日の午後であったが、年配者の観覧が多く、列をなす有様であった。京都近代美術館へも廻るそうだ。多分、京都でも大変な人出となるであろう。なお、展示期間が何回かに分かれているので、見たくても見れない作品も多々あった。4月13日より5月27日までなので、展示期間がやや短い気がする。富士の絵は、大正、昭和の時代に実に多数の富士が並んでいた。「大観と言えば富士」と言われる通りであった。

 

(本稿は、生誕150年記念 横山大観  2018年」、図録「山種美術館  近代日本画名品選  2016年」、原色日本の美術「第26巻 近代日本画」日本経済新聞 2018年4月13日号「生誕150年 横山大観展」を参照した)

光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(2)

光琳の「カキツバタ図屏風」を展示する時は、根津美術館では必ず、自館の保有する乾山の焼物を展示するのは常である。今年は乾山にも力が入っており、自館保有の焼物だけでは無く、各美術館の「乾山焼物」と、乾山の「絵画」も展覧した。乾山の絵画を見たのは初めてであり、その面でも、今年の根津美術館の展示には力が入っていた。乾山の略歴は、次のようなものである。江戸時代の中期の陶工・尾形乾山(深省、1663~1743)は、京の高級呉服商・雁金屋(かりかねや)の三男に生まれた、絵師の光琳は5歳違いの次兄。25歳(数え年)にして隠居し、文人墨客と過ごす風雅な生活に身を置く。37歳、元禄12年(1699)に京の北西(乾の方向)鳴滝(なるたき)に窯を築き、焼物造りにいそしむ。乾山焼きの誕生であり、名品を多数生み出す。50歳、正徳2年(1712)には、この釜を閉じ、市中の二条丁小町(ちょうじちょう)に移り、やきもの造りは東山山麓の借り釜で続け、晩年は江戸に下向した。兄・光琳が絵を描き、弟・乾山が焼物を焼くと言う形のやきものが多い。「陶工・乾山」と言うが、尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶の一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な「陶芸家」でありながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないと思われる。竹内順一氏(永清文庫館長)は「乾山の役割は、鳴滝時代と二条丁子屋時代を通じて、釜の経営や新しい製品を開発する企画者のような役割を果たしていたのではないかと」との意見もある。また乾山はやきものだけでは無く、絵画の制作もしたとして、この展覧会では「乾山の絵画」も多数展示された。一例のみ取り上げておく。

銹絵山水四方火入 尾形乾山作 光琳画 江戸時代(18世紀) 大和文華館

全体の白化粧地の上に銹絵の楼閣山水図が四面連続して描かれた火入。タタラ成形による器胎は角皿同様の平面で構成され、画巻のような連続した画面を提供している。銹絵で乾山銘が大きく記されている。画面の最後に「青々光琳」の落款が記された光琳と乾山の合作である。光琳は宝永年間に江戸に滞在し、雪舟の模写などをしていたことが知られるが、本作の画風にはそのような雪舟学習の跡がうかがえる。

銹絵蘭図角皿 尾形乾山作・渡辺始興賛 江戸時代(18世紀) 根津美術館

銹絵の蘭図が描かれた角皿である。この皿の裏に乾山の書で「私が疲れている時に、渡辺素心という画師に書いてもらった」という意味の文書が付けられている。この「書いてもらった」のが、賛なのか絵なのか不明である。渡辺始興(1683~1735)という光琳の弟子がいたとされるが、それが素心と同一人物か、書いてもらったのが絵か賛なのか、これだけでは不明である。乾山、光琳以外の第三者が、乾山焼きに関係したのかが問われる作品である。結論は不明である。(なお渡辺始興の屏風は、畠山記念館の記事に取り上げたことがあるので、興味のある方は、そちらの原稿にも当たってもらいたい)図録では始興賛としているので、根津美術館としては賛として結論づけたのであろう。

色絵菊流水図角皿 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) イセ文化財団

色絵角皿では最大級の大きさを誇る作品である。絵付けのモチーフは、薄が交わる菊の叢と流水である。色絵の草花図角皿では、銹絵角皿と異なり内側面まで見込の図様が及ぶが、本作品ではさらに外側面にまで図様が展開している。表現としては、見込に対角線に配された意匠性に富んだ流水模様が注目される。これは光琳の「紅白梅図屏風」などに描かれる「光琳水」そのものである。絵は乾山が描いたものと思う。傑作である。

色絵桔梗文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) MIHO MUSEUM

盃台とは引盃(ひきさかづき)を載せる台のことで、円筒形の高台に鍔(つば)がつく。このタイプの盃台は「渡盞」(とさん)と呼ばれ、酒盃を受けるだけでなく、中央筒内に余った余滴を捨てることができるようになっている。斬新で大胆な乾山の感性をいかんなく発揮された逸品である。一方でこのような意匠を実現するには成形・焼成ともに非常に高い技術を要する。乾山の着想を支えた専門陶工たちの姿も垣間見えることだろう。

色絵菊文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) サントリー美術館

上記と同じ様式の盃台である。この2つの他に「色絵雲錦文盃台」の計3点が知られている。乾山作の傑作である。

色絵竜田川文透彫反鉢  尾形乾山作  江戸時代(18世紀) 出光美術館

ロクロ水挽きで成形された、口縁部が少し反った鉢。口縁がジグザグや丸みを帯びた形で切り取られ、内外側面の上方に白化粧を施してから、丸い方の縁の形を生かしつつ、また透彫は波頭の形に対応させながら、銹絵で渦巻く流水を描いて本焼した後に、赤と緑、黄の三色によって、流水に流され、あるいは飲まれる楓を、やはり口縁のジグザグも生かして上絵付けし、さらに楓の輪郭や葉脈に金彩が施されている。底面には二条丁子屋町時代の商標とも言うべき、白化粧地で短冊形の枠に乾山の銹絵銘が描かれる。

重要文化財 白泥染付金彩芒文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、蓋は身の上に覆い被せる構造を持つ。独特の器形は籠や本阿弥光悦の硯箱などが参考とされたようである。鳴滝時代の作と見られている。蓋表と身側面の全体に白泥と染付・金彩で薄を描き、武蔵野を想起させる意匠に仕上がっている。この蓋物は開けるという一連の動作には、外からうかがい知れないこの世ならざる世界の扉を開けるといったイメージが込められているのだろう。

重要文化財 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) 出光美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、端正な成形を見せている。大きさも近く、洗い陶土のざらつきのある肌触りが活かされた焼締陶である。外側には光悦謡本の「うとふ」に見られるような松樹を白彩・染付・金銀彩で描くが、乾山焼で銀彩が使用されるのは珍しく、特別な機会に制作されたものであることを窺わせる。土と肌の丸さが松の生える土埞を想起させ、内外の水の描写と合せて、いかにも清浄な州浜のイメージを呼び起こす。乾山の蓋物はこうした清浄性や聖性といった現代では失われてしまった日本人の感性に訴えかけるものとなっていたのだろう。

重要文化財 八橋図 尾形乾山筆  江戸時代(18世紀) 文化庁

乾山は陶芸家と思っていたが、今回は乾山の絵が何点も展示された。記憶に残った1点のみを取り上げたい。画面の中程に大胆な筆致で墨を引いて表した橋の上下に、柔らかな筆使いで燕子花の青い花と緑の葉を描き込む。さらにその余白を埋め尽くすように墨書された文章と和歌から、伊勢物語の第九段「東下り」そのうち「八橋」の場面に取材することが明らかになる。乾山の書画作品が、日本美術における絵画と和歌、絵画と書の親和性を継承するものであることがうかがえる。自身の東下り、すなわち江戸下向との時期と合致するかも知れない。

 

乾山が鳴滝窯を引き払い、洛中の二条丁子屋町へと作陶の舞台を変えたのは正徳2年(1712)、乾山50歳の時であった。その表向きの理由は、恐らく販売体制の見直しが原因であったものと思われる。鳴滝に集まるサロンのメンバーを支持基盤とする高級器専門窯(ある意味で一点物)では、成り立たない時代になっており、広く不特定多数の一般需要層を対象にした、量産を前提とするシステムに切り替えていかねばならなかったと推定される。そこで切り札となるのは、やはり兄・光琳による光琳模様や琳派意匠であったと思われる。特に華麗な琳派意匠による色絵の製品は、一般大衆や勃興してきた町衆に熱狂的に支持されたと思う。このように量産化を目指した新生乾山窯は、経緯的に成功を収めたようで、正徳3年(1508)刊の「和漢三才図会」では山城国土産に乾山窯が採り上げられ、同5年に大阪で初演された近松門左衛門の「生玉心中」にも乾山焼の名が現れるなど、世間での評判が高まった。しかし、鳴滝時代に乾山が目指した、気韻生動する造詣のうつわが、徐々に薄らいでいった。鳴滝工房には、乾山の物づくりへの情熱、そして乾山の要求に応えた光琳の描線とセンス、さらには有能な工房のスタッフ達の高い技量、それが総合された贅沢な創作空間が存在したのであろう。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「乾山見参 2015年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORIN展  2012年」図録「琳派コレクション 2013年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)

光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(1)

今年もまた、根津美術館で尾形光琳の「カキツバタ図屏風」を見学する季節となった。毎年、欠かさず拝観しているが、今年のテーマは「光琳と宗達 芸術家兄弟 響き合う美意識」であり、かなり力の入った展覧会であった。相当数の陳列であったので、今年は2回に別けて連載することにした。尾形光琳(1658~1716)は、京都の上層町衆で、慶長期より栄えた呉服商雁金屋(かりがねや)の次男として万治元年(1658)に生を受け、富裕な都市生活、しかも元禄という江戸時代では最も経済的に恵まれた時期に画家として大成した。家業の関係から禁裏や公家などの知遇を得、豊かな趣味を培う機会が多く、能に習熟し、ことに二条家にはたびたび伺候して能舞いの相手を勤めていた様子がある。通常の職業画家としての教育よりも、むしろ幼少から慣れ親しんだ衣装文様などから強い影響を受け、その芸術活動も、絵画では屏風、掛幅、巻物、扇面、香包など実用品の装飾が多い。また弟で陶芸家の乾山のやきもの絵付けや、衣装、漆絵、数寄屋造りのデザインなども行った。日本絵画史上稀有の画家である。光琳は元禄14年(1701)四十四歳のときに法橋(ほっきょう)という位に叙せられ、以後の作品にはほとんどといってよいほど「法橋光琳」の落款を用いた。この法橋叙任間もない頃の作が「燕子花図屏風」であるとされる。本作品が、光琳前半期の集大成的性格を持つとされるゆえんである。その後、宝永元年(1704)光琳は江戸に下る。新天地にあって、当地の大名家や豪商に出入りしながら絵の制作を続けたのである。京都、江戸間の往復を五年間に三度した後、宝永6年に京都二条に新居を構え、その後、享保元年(1716)に五十七歳で他界するまで京都で過ごした。いまに伝わる光琳作品のほとんどがこの七年間の制作にかかり、特に「紅梅図屏風」や「孔雀立葵図屏風」など屏風の傑作が海だされた時期として、光琳画風の大成期とみなさている。(尾形乾山については(2)で説明する)

秋草図屏風 伝尾形光琳作四曲一双屏風 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

秋草は古くから日本の美術を彩ってきたモチーフだが、秋草のみならず四季折々の多種類の草花のみからなる装飾性の高い屏風を生み出したのは、俵谷宗達の工房である。宗達晩年から、没後も長く制作されたこれら草花図屏風は、「伊年」の印が捺されていることから「伊年印草花図」と称されている。この作品には、そうした宗達工房の第三世代である喜多川相説の作品からの影響が著しいと言われる。一方で、本作品において相説画に比しては草花の形態が意匠的に整理される点は「燕子図屏風」につながる要素である。筆写に伝が付けられているが、光琳初期の草花図のおもかげを伝える作品である可能性も高い。

国宝 燕子花図屏風 尾形光琳作 特曲一双屏風 江戸時代18世紀)根津美術館

総金地に濃淡の群青と緑青にみによって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その情景には「伊勢物語」に語られた燕子花の名所、三河八橋が潜んでいる。右隻と左隻の構図の対照と均衡を十二分に計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型が反復して利用されるなど意匠性が際立つ。むしろ衣装の装飾のために造られたのではないかと思う。光琳が法橋の位を授かった元禄14年(1701)の頃の作品では無いかと思う。光琳が早くも到達した最初の芸術的頂点であろう。

草花図屏風 尾形光琳作 二曲一双 江戸時代(18世紀) 根津美術館

光琳が私淑した宗達と同様、光琳も二曲屏風を多く制作し、そこでもさまざまな構図形式に挑んだ。なかでも本作品は、晩春から夏にかけての草花を一双を通じて対角線的に拝する点で「八橋図屏風」と問題を共有するとともに、その単純化に成功している。また左隻下辺には燕子花も配されているが、やや花弁のボリュームが在り過ぎる「燕子花図屏風」に較べて花の構造をより明瞭にあらわそうとする傾向が見て取れ、それは「八橋図屏風」の態度にちかい。光琳草花図屏風の優品のひとつに数えられる。

重要文化財 太公望図屏風 弐曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)京都国立博物館

太公とは、紀元前11世紀末、殷時代末期から周時代にかけて活躍した軍師・呂尚のことである。隠遁して渭水(いすい)のほとりで釣りをしている呂尚のもとを、周王朝の祖である文王が占いに従って訪れ、呂尚を補佐役として迎える。文王の祖父である太公が待ち望んでいた人物という意味で、太公望と呼ばれた。太公望の働きもあり、やがて周は殷の国を破る。一人釣りをする人物に太公望のイメージを重ねることも古来、行われたが、本作品の太公望は陰逸の軍師としてはいかにも呑気な感じがする。膝に肘をおいて頬杖をつくるポーズがその印象を強めている。本作品の柔らかな中黒の衣装線が宗達の水墨画に由来するものとすれば、引用方法も含めて、宗達から学んだのかもしれない。いくつもの曲線が画面に渦巻くのは、光琳ならではの構図法と言える。署名の書風から宝永元年(1704)に江戸に下向する前の作と考えられている。

白楽天図屏風 六曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 根津美術館

日本にやってきた唐の詩人・白楽天が、航海と和歌を守護する住吉明神、その化身である年老いた漁師に、和歌の偉大さを思い知らされたうえ、神風で中国に追い返されるという内容の謡曲「白楽天」にもとずく。ことのほか能を好んだ光琳に相応しい作品である。光琳は、もとの舟を多く反り返らせて、画面に円環的な構図と動きを生み出している。

重要美術品 鵜舟図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)静嘉堂文庫美術館

狩衣のような衣をつける烏帽子を被った鵜匠が小舟に乗り、舳先にしつらえた篝火のもと、紐につないだ二羽の鵜を操って鵜飼いをしている。一羽はまさに魚を捕えたところ、一羽は水中の獲物を狙って水面を滑る様子の鵜は、生家に伝わった宗達作品に学んだと考えられるたらしこみを用いながら簡潔的確に描かれている。筆勢を残した没骨で表された子舟は縦長の画面を半分に前半分を斜めに差し入れ、その周囲を、細い墨線で何本も重ねてから波頭の部分を白く塗り残すようにして藍と淡墨を施しながら柔らかくもボリューム感ある波が包み込む。すべてのモチーフが動きをはらみ、かつそれらが有機的に繋がって画面に奥行きを生んでいる。署名が「法橋光琳」の書風が、「燕子花図屏風」と近似しており、二つの作品はともに元禄14年(1701)の法橋叙任後間もない時期の作と考えられる。

重要美術品 李白観瀑図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)ブリジストン美術館

光琳は最初、狩野派について基本的な画技を身に付けたと思われる。唐時代の詩人・李白が滝を眺める情景を描いた本作品は、そうした初期の狩野派学習をベースに、宗達風に宮廷の美意識をも反映させた「鵜舟図」における独自の水墨表現を加味し、さらに宝永元年(1704)から6年間の江戸滞在期における漢画体験を踏まえた、画風高揚期における颯爽たる水墨淡彩画と評することができる。

兼好法師図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) MOA美術館

小さな文机に左肘をついて灯火のもと読書をする人物、これは「徒然草」第十三段に「ひとり灯の下にて文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、このようななぐさむわざなる」と書いて読書の楽しみを説いた兼好法師の像としてよいだろう。

黒梅図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 個人蔵

新出作品である。画面右上、やや変わった位置に太い幹の一部が見える。その幹との関係もいささか不合理ながら、そのすこし上から枝が勢いよく下方に向かって伸び、画面下端でまた不思議な動きを見せてから、さらに細かい枝が何本も派生して、その先に白い梅の花が開く。下に伸びる枝の途中にも小さな枝分れがあって、やはり花をつける。梅の白さを際立たせるために、背後に淡墨が塗られる。「青々」落款の作品であるが、やはり帰洛後の作品である。

黒菊図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)  個人蔵

ほんのりした輝きをはらんだ無背景の絹地に、白菊の咲く秋の野の一角が玄出する。本作品の絹は、不定形のいくつかの断片がつなぎあわされ、通常では考えにくい様子を示している。観察すると、大方は小袖の後右見頃から右袖にかけての部分に該当しそうに思われる。そうであればトリミングされた一番下の菊の下に、まだ絹が数十センチ続いていたことにもなる。絹の小袖の鍼合わせかも知れない。今後の研究がまたれる。署名は「青々」である。

わが家の菖蒲の花       2018年4月30日撮影

10年程前に、横須賀衣笠(きぬがさ)菖蒲園で1株の菖蒲を買って植えたことをすっかり忘れていたところ、昨年1輪だけ咲いた。今年は10輪以上咲き、美しく庭を飾ってくれた。毎年、根津美術館のカキツバタの写真を載せる所だが、今年は庭の菖蒲を掲載した。花の咲く時期はほぼ同じ頃なので、来年以降は、この菖蒲の花が咲いたら、根津美術館の光琳の「燕子花図屏風」を見に行こうと思う。

 

根津美術館の4,5月頃は「カキツバタ図屏風」が毎年公開されて楽しみである。美術館が力を入れる年と、入れない年がある。今年は、かなり気合の入った年であった。テーマは「光琳と乾山」で代わり映えしないが、展示された作品には力が籠っていた。例年なら、1回で済ますところ、新しい展示品が並んだため、「光琳」と「乾山」を別の項目で取り扱うようにした。光琳に関して言えば、今年は根津美術館以外の美術館、個人蔵などが目立った。また、光琳が法橋の地位を得た元禄14年(1701)以降の作品が多く、光琳の画業に磨きがかかった時代に焦点を合わせる展示会であったと思う。裕福な呉服商の次男とは言え、法橋の地位は簡単には得られるものでは無かったであろう。公家や貴族、裕福な町人衆の引き立てがあればこそ、40代の若さで法橋への昇格が出来たのであろう。法橋という地位を得て、光琳が画業に励み、一層磨きがかかった時代の作品が多いのが、今年の最大の特徴では無いだろうか。また、新規に2点の光琳作品が発掘されたことも大きな事件である。特に「黒菊図」には驚いた。小袖を、切り抜いて、軸装に仕立てたものではないかと思われる。新機軸かも知れない。是非解明を進めてもらいたい。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORINN展  2012年」、図録「琳派コレクション 2013年」を参照した)