徳川美術館(2)  大名の室礼と書院飾り

徳川美術館は、徳川家伝来の宝物を展示すると同時に、名古屋城の二の丸御殿にあった「広間・上段の間」を展示する施設でもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みでもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みである。この稿では大名の室礼(しつれい)や書院飾り(しょいんかざり)を、美術館内部に再現したものである。

広間・上段の間                   平成16年(2004)

この黄金色に輝く広間は、名古屋城二の丸御殿にあった「広間・上段の間」の再現である。ここは大名が公務を行う場であり、室内には押板(床の間の前身)・違棚・書院床という飾り付けの空間が設けられ、そこには武家の故実にそって、書画や香道具・文房具などが飾られた。床の間、違い棚と言っても、マンション住まいの人が多くなり、なかなか理解を得にくい言葉であるが、写真で見て頂きたい。正面の一番広い所が「床の間」であり、通常掛軸で飾るものである。ここは流石大名家だけあって三幅対の掛軸が掛けられている。これだけ広い床の間は珍しく、一般家庭では、掛軸は一本である。大名家の素晴らしい三幅対の掛軸を堪能して頂きたい。また、床の間の前に青磁三具足(せいじみつぐそく)が並んでいるので、これは別途解説したい。

押板飾り(おしいたかざり)

書院・広間と呼ばれる将軍や大名の接見場の中心となる押板壁(おしいたかべ)と呼ばれる壁面(一般家庭では「床の間」と呼ぶ)には、三幅対の掛軸をかけ、その前には花瓶・香炉・燭台からなる「三具足(みつぐそく)」を飾った中央卓(ちゅおうじょう)と呼ばれる机を据え、その両脇に立花(りっか)による一対の花瓶が飾られている。

青磁三具足(香炉・燭台・花生)

青磁三具足(せいじみつぐそく)(香炉・燭台・花生)・香合(こうごう)・火道具・木製の机を除き、すべて中国の元時代、明時代(16~17世紀)の名品である。

違棚飾り(ちがいだなかざり)

床の間の右側が違棚飾り(ちがいだなかざり)である。銀閣寺の書斎・同仁斎に設けられた違棚(ちがいだな)が、我が国初の違棚である。違棚の上段には、唐物の香炉(こうろ)や香箱(沈箱)などの香道具が乗り、下段には盆石(ぼんせき)や本来食物を収納する容器であった食籠(じきろう)などが飾られた。

書院飾り(しょいんかざり)

書院床は中世の禅宗寺院で僧侶たちが勉強するための出窓(でまど)が起源と言われている。中国の文人たちが心を清らかにしたり楽しんだりするために室内に文具類を飾った例にちなみ、硯や、筆やペーパーナイフを立て掛けておくための筆架(ひっか)・墨・文鎮・水注などを入れておく印籠(いんろう)などが飾られた。

中国明代の墨コレクション(唐墨)        明時代(16世紀)

徳川美術館には、中国や朝鮮、日本で生産された五百挺(ちょう)を超える墨が保存されている・そのうちおよそ八割が中国・明時代の墨で占められている。世界的にも極めて質の高いコレクションとして知られる。この墨は、方芋魯製百子駿(ほううろせいひゃくししゅん)と呼ばれる。

鎖(くさり)の間

名古屋城二の丸御殿にあった、茶室と書院の中間に位置付けられる座敷である。北向きに火灯窓(かとうまど)を設けた付書院(つけしょいん)のある三畳からなる御上段と、七畳の下段(げだん)(復元は3畳分)から成っている。これに続く中の間には、壁貼付け(かべはりつけ)の床が構えられ、炉が切られている。将軍家の使いである上使(じょうし)が訪れた際には、この部屋で茶が出された。

台子飾り(だいすかざり)

茶の道具一式が乗っている台である。明代・江戸時代のものが多い。

 

徳川美術館に再現された、名古屋城二の丸御殿の様子を、常設展として再現したものが、この稿の内容である。最も大名美術館らしい展示である。そこに展示された宝物は、いずれも一級品であり、中国の宋・明代、朝鮮王朝時代、江戸時代の一級工芸品ばかりである。一々、名指しで紹介することはしないが、一級品揃いであることは間違いない。しかし、個々のお宝の紹介よりも、大名屋敷、もしくは名古屋城の室礼を紹介することが目的であり、一度機会があれば、是非拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック  2017年」、図録「毛利家の至宝 2012年」、図録「二条城展  2012年」を参照した)

徳川美術館(1)  大名の数寄

徳川美術館は、江戸時代の御三家の筆頭である尾張徳川家に伝えられた、大名道具を展示公開している美術館である。尾張徳川家は家康の九男義直(よしなお)を初代とし、今から400年以上前の慶長12年(1607)に、この尾張の地の大名となった。この居城は言うまでも無く名古屋城で、石高は61万1500石で、尾張一国・美濃国の一部・三河国の一部、さらに信濃国の木曽山などを領地としていた。ここまで書くと、島崎藤村の「夜明け前」が思い出される。木曽山は、尾張藩の所領であり、「夜明け前」にもしばしば木曽山の記述が出てくる。徳川美術館の建っている場所は、「大曽根屋敷」と呼ばれた尾張徳川家二代光友の隠居所の跡地である。当初は総面積13万坪に及ぶ広大な敷地で、光友没後は、家老の長瀬・石河・渡辺の三家の別邸となっていたが、明治22年(1889)に、この屋敷跡の一部が尾張徳川家の所有となり、翌年に名古屋藩邸(戦災で消失)が建てられた。玄関正面に建つ門(黒門)は、その当時の遺構である。徳川美術館は、尾張徳川家19代公爵義親(よしちか)の寄付によって、昭和6年(1931)に創設された財団法人・徳川黎明会が運営する私立の美術館で、昭和10年(1935)に開館した。この古い徳川美術館は、私の大学時代の、唯一の常設展をする名古屋の美術館であり、私は毎月のように見学したものである。それが、私の美術鑑賞の基本知識になっていることは間違いない。収蔵品は「駿府御分物」と呼ばれる、徳川家康の遺品を中核として歴代藩主や夫人たちの取集品、婚礼の際の持参品などで、その数1万数千件に及ぶ。これらの中には、室町幕府の足利将軍をはじめ織田信長・豊臣秀吉ゆかりの名品も多く含まれている。明治維新、第二次世界大戦を通じ各大名家の道具がほとんど散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家の宝庫・コレクションで唯一まとまった存在であり、「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いかけに答えられるわが国唯一の美術館である。私が見た徳川美術館は昭和6年に建てられた古い美術館であったが、昭和62年(1987)秋に、地元の自治体や経済界・一般市民からの寄付によって、常設展示室を初めとする施設が充実し、更に平成16年(2004)秋に、尾張徳川家に伝来した貴重な書物を伝える蓬左文庫(ほうさぶんこ)や、池泉回遊式の大名庭園がよみがえった徳川園など、徳川美術館周辺が整備され、総合的に江戸時代の大名文化を体感できる施設となった。料理店、喫茶店も多数あり、半日程度を過ごすことの出来る楽しい美術館となった。残念なことは、特別展示を行う場合に、図録が発行されないことがある。名古屋文化では、図録の印刷も出来ないのであろうか。幸い、美術館では、現在は、ほぼ常設展示のみに特化して、常設展示図録は販売されている。やっと願いがかなった思いである。本稿ではまず、大名の数寄(茶の湯)を取り上げたい。

黒門  木造建築物           明治22年(1937)頃建設

明治22年(1889)に、ここに尾張徳川家・名古屋藩邸が建てられたが、昭和19~20年のアメリカ軍の大空襲により本邸は焼失した。幸いこの門(通称「黒門」)のみが残り、現在は徳川美術館の入口となっている。

徳川美術館の建物  鉄筋コンクリート製    昭和62年(1987)建設

蓬左文庫の建物    鉄筋コンクリート製    平成16年(2004)建設

蓬左文庫の裏側に当たり、正面の門は、道路に面して建つ。蓬左文庫は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、和漢の優れた古典籍を所蔵・公開している。様々な書籍は約11万点に及ぶそうである。昭和10年(1935)、徳川美術館が名古屋の地で開館すると同時に、蓬左文庫は財団法人尾張徳川黎明会所属の文庫として東京目白にある尾張徳川邸脇に開館した。第二次大戦を経て、昭和25年(1950)に名古屋市に譲渡され、徳川美術館に隣接する現在地で蔵書の管理と公開が行われた。平成16年(2004)秋の徳川園やその周囲の整備により、徳川美術館と蓬左文庫とが渡り廊下でつながり、大名道具を収蔵している徳川美術館と、蔵書類を収蔵している文庫が一体となって展示を行うようになった。

猿面茶室 数寄道具置き合わせ   木造建築物  平成16年(2004)建設

猿面茶屋は、もとは清州城にあり、慶長15年(1610)の名古屋城建築の際に移築された。「猿面」の名は床柱の上部の面取り部分に一対ある節が猿の顔に似ているところから名づけられたとする説がある。この茶室は、京都山崎・妙熹庵の「待庵(たいあん)」、京都建仁寺の「如庵(じょあん)」(現愛知県犬山市に移築)とともに日本の三名席の一つに数えられ、戦前は国宝に指定されていた。明治維新後は名古屋城を離れ、最終的には名古屋市内の鶴舞公園内に移築されたが、昭和20年(1945)の戦災によって焼失した。この展示室に造られた茶室は、残された図面をもとに忠実に再現したものである。写真は、その茶室の一部(数寄道具置き合わせ)を、写したものである。二代将軍徳川秀忠が、元和9年(1613)2月23日に、初めて尾張徳川家江戸屋敷にお成りした際に使用された道具立てを再現したものである。

窯変天目茶碗(油滴天目)大名物  中国・金時代(12~13世紀)駿府御分物

碗の内外に無数の星のような油滴があり、光にかざすと虹色に輝く天目である。室町時代かた名碗として珍重されていた。中国からもたらされた茶の湯の文化は、抹茶を飲む習慣に加え、このような茶碗や諸道具を日本に定着させた。

重要文化財 白天目  大名物          室町時代(15~16世紀)

白天目と言われる茶碗は、釉の色が薄い白青色である天目茶碗である。日本では油滴・窯変などに遅れて、室町時代末期頃から好まれたようである。産地については不明のものが多い。この茶椀の伝来は、武野紹鷗・新野新左エ門・徳川義直(尾張初代)である。この所有者によって、茶碗の価格が大きく変わるので、果たして美術品に入れて良いかどうか迷うものである。大名物は大名茶人・松平不昧が評価したものである。不昧は宝物、大名物、中興名物、名物並、上、下の6段階で評価している。しかし、上の部で国宝に指定されているものがあり、現在の評価とはやや違うようである。

井戸茶碗  銘  大高麗  大名物      朝鮮王朝時代(16世紀)

高麗茶椀の一種で、井戸、刷毛目、三島といった種類があった。大高麗の銘を持つこの茶椀は、井戸茶碗の代表的茶碗であろう。畠山記念館に重要文化財に指定された井戸茶碗がで銘を細川という茶碗を「美」に紹介した記憶がある。この大高麗も、細川と比較して見劣りしない優品である。徳川家が所有し、家康没後の「駿府御分物」の一つであり、天下の名碗であろう。

重要文化財 織部筒茶碗  銘 冬枯    桃山時代(16世紀)岡谷家寄贈

織部茶碗は、私は好きであるが、古田織部の作陶した茶椀が、徳川家に伝来することが不可解であった。織部は千利休没後、慶長年間のはじめに「茶の湯名人」となり、寂びた茶を極めて師の利休とは対照的に、新しく大胆な奇抜な造形性を見せ、斬新な美の世界を創造した。歪んだ器形や抽象的文様を描き、数寄屋御成に対応した新たな武家茶の規範を創ったとされた。しかし元和元年(1615)大阪夏の陣に際し、家臣木村宗喜の反乱が露見したことを契機に、伏見の屋敷に幽閉され、6月11日、伏見自邸で子の重弘とともに自刃(72歳)した。誠に不思議な事件であり、デッチアゲと私は見ている。利休に続いて、織部まで2代の家元が自刃したことは不可思議な事件である。徳川家に背いた茶匠の茶碗が尾張徳川家の家宝として伝来したことに不審を抱いたが、その理由が直ぐ分った。この茶碗は、岡谷家寄贈品であり、徳川家伝来の品ではなかった。私は、織部焼のこの冬枯が好きである。筒型の茶碗は、お茶を立てる時に立てやすい点が特徴である。

南蛮水指  銘 芋頭  大名物    中国  明時代(16世紀)

東南アジア方面で焼かれた陶器であり、茶人たちはその素朴な味わいを愛好した。武野紹鷗の遺品である。豊臣秀吉が所持した由緒があり、「天下一」の水指とされた。伝来は次の通りである。武野紹鷗・豊臣秀吉・徳川家康所用(駿府御分物)

竹茶杓  銘  泪(なみだ)  千利休作  名物  桃山時代(16世紀)

天正9年(1591)2月23日、豊臣秀吉に切腹を命じられた利休は、淀から舟に乗って堺へ謹慎のため、一人旅たった。多くの茶の弟子がいたが、この船着き場に来た者は細川忠興と古田織部の2名のみであった。他の大勢の弟子たちが、秀吉への配慮から別れの場には顔をださなかった。この二人に対し、利休は自ら竹を削った茶杓を形見に分け与えた。忠興に渡った茶杓は「いのち(命)」と命名され、織部は「なみだ(泪)」と命名した。「いのち」は行方不明であるが、「なみだ(泪)」は、古田織部が茶杓の箱に長方形の窓をあけてた筒を作り、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。これを見るのが、徳川美術館を見学した真意であった。伝来・千李休作・古田織部・徳川家康・駿府御分物。

 

徳川美術館は20年ほど前に、新しくなった美術館を拝観した。それは年紀によれば昭和62年(1987)に地元自治体や経済界の寄付によって、展示施設が一新した時であった。今回は、それから10数年を経過し、年紀によれば平成16年(2004)秋の蓬左文庫や池泉回遊式の大名庭園がよみがえり徳川園として整備された後になる。大学時代に毎月通っていた徳川美術館は、すっかり変わり、大名美術館としては、全国に誇れる素晴らしい美術館、徳川園に生まれ変わり、実に見甲斐のある常設展示であった。なお、大名美術園としては私が知っている範囲では毛利美術館が山口県にある。それは美術館としては古くなり、常設展示品も、長州が薩摩と組んで徳川幕府を倒そうとした、極く近代の展示物が大半を占めて、到底大名美術館と呼べるものではない。但し、秋には雪舟作の「四季長図」(山水長巻)が1ケ月間展示される。これが展示される期間こそ大名美術館と呼べる美術館である。しかし、徳川美術館には国宝「源氏物語絵巻」(12世紀)、(現存最古の源氏物語絵巻)がある。本来、武家の美術館であれば、「武具」の展示が有る訳であり、徳川美術館でも、まず「武家のシンボル」として「武具、刀剣、甲兜」が展示されている。しかし、私は武具、中でも刀剣を美術品とは思っていないので、全く触れないことにした。これは、私個人の好みの問題であり、刀剣に興味のある方には、それはそれで多分満足して頂けるものだろうと思う。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック」、図録「毛利家の至宝  大名文化の精粋・国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開  2012年」、山本兼一「利休にたずねよ」、図録「没後400年  古田織部展  2014年」を参照した)

府中市美術館  長谷川利行展(下)

昭和11、12年(1936,37)には、驚異的な個展記録が記されている。その昭和11年(1936)、新宿の中村屋の裏辺りに、高崎正男の経営する天城画廊がオープンし、6月から12月までの半年で、5回の長谷川利行個展を開催した。昭和12年(1937)には、9月までに8回の個展。更に昭和12年(1937)12月、14回目の個展を開いたが、これが最後の個展になり、個展を終えて、翌年天城画廊も閉館した。兎に角、すざましい個展ラッシュである。昭和12年の6月に、利行は新宿に移転してきて、そこの木賃宿へ入った。矢野に言わせると、利行は「絵具とカンバスを買い与えられ、酒をおごられ宿賃を保証され、その代わりに何百枚かの油絵やデッサンを天城に渡した」そうだった。そうしてこの9月に、二科展に大作の出品をしたが、それが最後の二科展であった。天城画廊閉鎖の後、利行は、また新宿を去った。胃癌の痛みに苦しんでいた。二科展最後の作品は「白い背景の人物」であった。昭和10年(1935)以降に描いた、小さい作品は多数残っている。高崎が管理し、商売し、その以前に、良質の画材を提供し、制作をうながして、それだからこそ、これだけ多数の作品が残ったのであろう。どんづまって、窮乏生活も極まった。身体は恐ろしく衰えた。戦争は拡大し、浮浪・非国民は、どこを向いても行き場が無くなった。そんな中で、ついに路上で倒れ、東京市養育院で誰に看取られることなく49歳の生涯を閉じた。

二人の活弁の男 油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 信越放送株式会社

活弁とは「活動写真弁士」の略称で、無声映画の時代にスクリーンのそばで物語の筋や状況を解説し、登場人物の台詞を代弁する役割を担う職業である。当時唯一の映像であった映画を楽しめるか否かはこの弁士の力量に左右され、腕の良い弁士は大変な人気となった。利行がこの絵を描いた頃は、徐々にトーキーの上映が増え、弁士の需要に陰りが見えてきた時期ではあったが、彼の交友関係には弁士の名も現れ、絵の「弟子」となった者もいた。利行特有の素早い筆による背景の中に表された二人の姿からは、それぞれの人物の内面まで伝わってくるように感じられる。

矢野文夫氏肖像  油彩・カンヴァス  昭和8年(1933)  個人蔵

矢野氏は、利行の最大の理解者として多くの時間をともに過ごし、彼の死後はその芸術の顕彰につとめた詩人・矢野文夫氏である。利行も「仲の悪い兄弟のよう」と矢野宛ての書簡に綴っている。白い顔で少し俯くように画かれた青い服を着た矢野の体は、奔放な朱や白い線に覆われ、背景に溶け込んでいくようである。

大和家かほる  油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

「どじょうすくい」で知られる出雲地方の民俗芸能・安来節は、大正期の全国巡業を機に全国的な流行を見せる。浅草で初めて安来節公演は大正11年(1922)、出雲出身の姉妹、春子、八千代、清子による「大和家三姉妹一座」によるものと言われ、一座はその後も永く公演を続け人気となった。和装の女性の横顔を描いた本作には「大和家かほる」の名が書かれており、おそらくこの一座の座員であるだろう。静かで落ち着いた雰囲気の肖像画となっている。

安来節の女 油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

画家仲間の熊谷登久平は「当時、隆盛であった安来節の小屋で、絵を描いたものである。酒気を帯びた彼は、安来節のはやしがとても愉快であったらしく、三味や太鼓に合わせて、歌いながら絵を描いていた」と回想している。舞台の芸人を描いた本作は、まさにそのような状況で描かれたものであろう。

上野広小路  油彩・カンヴァス  昭和11年(1936) 宇都宮美術館

道路には、少ない車が走っており、路面電車の軌道もみることができる。道路脇には、人影のようなものが見えるが、はっきりと描かれていないため、その存在は街の中に溶解していくようだ。視線を上に向けると、高くそびえる電信柱とそれを結ぶ架線が画面を分断している。窮屈な印象を受ける。外神田方面から上野公園の方向を眺めた広小路である。

四宮潤一郎氏像  油彩・カンヴァス 昭和11年(1936)  個人蔵

四宮潤一は美術評論家で、アヴァン・ガルド芸術家クラブに所属し、自由美術協会顧問を務めた人物である。矢野文夫氏によると、四宮は日本画家・松林桂月の弟子であり、利行と矢野が水墨画を始めるにあたり手ほどきをしたという。しかし、彼らが水墨画を始めるのは、体調悪化により利行が油絵を描く気力をなくした昭和14年(1939)頃のことである。モデルは知的ですました表情がよく捉えられている。

新宿風景 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」では、この絵について、次のように紹介している。「奔放な生活を続ける利行の表現主義的な激しい画風がよくうかがわれる。特に白を基調とした色彩配合が美しい」まさか、長谷川利行が、日本美術全集に乗っている訳はないだろと確認の意味で探してみたら、思いがけなく、この記事を発見した。なお、記事の続きとして、次のような言葉でまとめている。「奔放な筆使いによる原色の輝きの強い独自の画風を作り上げた。文章家でもあり、独学の人で、しかも激しい原色調を好んだところは、初期のヴラマンクに似ているが、ヴラマンクよりいっそう幻想的であり、荒涼とした詩境を感じさせる。昭和2年、二科展で樗牛賞を受け、その2年後に「1930年協会」展で同協会賞を受賞、その後もずっと二科展には出品を続けたが、その放浪の生活とあまりに汚れた風態のために、ついに会員には推されなかったという。つまり彼は、最後まで画家としての純粋な魂を持ち続けた生活破産者だったのである」ほぼ、結論めいたものとなった。

ノアノアの少女 油彩・カンバヴァス 昭和12年(1937) 愛知県美術館

ノアノアもまた、当時新宿にあったカフェのこと。利行はそこで個展を開いたこともあった。この作品は、そこで働く女性をモデルに描いたものの一点である。この作品のほかに、顔だちも服装も異なる作品が数点残っている。パーマをかけた髪、丸いバックルの付いたベルトという当時流行のファッションに包まれたこの女性は、誰よりも首が長く、そしてチャーミングに描かれている。

白い背景の人物 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937) 個人蔵

白く塗り込めた背景のなか、今まさに描かれたばかりのように瑞々しく輝く画面を切り裂くような強い鋭い線描が光る。そこにぼんやりと居並ぶ5人の人物の顔が浮かび上がり、その間に見える緑の線は植物のように見える。この展覧会の直前に発見された50号の大作である。利行は昭和12年(1937)、第24回二科展に「夏の女」と「ハルレキン」を出品している。「ハルレキン」は、上野精養軒のビヤガーデンの藤棚で女が数人立っている様子を、白ペンキなどを使ってわずか30分程度で描き上げ、そのまま二科展に搬入したものであったと、現場に立ち会った海老原省象や岩崎把人が証言している。なお「ハレルキン」とはドイツ語で道化師の意味である。本作が二科展に出品された「ハレルキン」に該当する可能性が高い。

荒川の風景  油彩・カンヴァス  昭和14年(1939) 府中市美術館

昭和13年(1938)、利行は天城俊彦と袂を分かち新宿を離れ馴染み深い浅草付近の簡易旅館や友人宅を転々とする生活に戻った。病により衰弱し、歩き回る体力も絵を描く気力もない利行だが、ただ寝て過ごす場所も金もなく、日々荒川付近を放浪した。本作は夕暮れ時だろうか、荒川の川面もわずかに赤みを帯びている。電信柱を描く線は細くかすれ、対岸の「お化け煙突」の影もどこか頼りなげに揺れる。寂寞として荒涼感が漂っている。

 

私の尊敬する土方定一先生は「日本の近代美術」の中で次のように述べている。「関東大震災と前後して、20世紀の前半に次々と現れた近代美術のさまざまなイズムが、フォーヴィスム、キュービスム、シュールレアリスムが紹介された。これらの作家は、二科展に出品すると同時に、1930年協会を設立して、昭和元年に第1回展を開催した、(中略) 出品者の中にはファン・ゴッホ風の筆触と色彩で「瓦斯会社」などの工場風景を描き続け、二科第14回に樗牛賞をうけた長谷川利行(1891~1940)らがいた。長谷川利行は昭和15年に施療病院で貧困とアルコール中毒のなかでくもらされなかった魂の宝石のような小品を描きつづけて死んだ。」この言葉を、長谷川利行の霊魂に捧げたい。

 

(本稿は、図録「長谷川利行展   2018年」、図録「名品選  東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄  池袋モンパルナスとニシカムイ美術村2018年」を参照した)

府中市美術館  長谷川俊行展(上)

戦前・戦中の日本を破天荒に生きた画家・長谷川俊行(1891~1940)が亡くなって、80年近い歳月が流れた。これを機会に、全国五つの美術館で「長谷川利行展」が開催されることになった。私は、近くの府中市美術館で観覧できる機会に恵まれた。実は、先に「美」に書いた「東京⇄沖縄、池袋モンパルナスとニシムイ美術村」で、俊行の絵画2点を紹介している。また、東京国立近代美術館の「MOMANT展」でも、1枚紹介している。最近、行方不明と伝えられた絵画が2点発見され、その都度話題を集めた。今回は、油彩、水彩、素描、ガラス絵等約140点を集めて、改めてその画業の全貌を展望し、利行の芸術について深く考える機会が提供された。多分、2度と見ることの出来ない展覧会であると思う。長谷川利行は京都に生まれ、若い時期には文学に傾倒し、自ら詩集も出版している。30歳頃に上京し、本格的に絵画を志して作画活動に没頭し、遅まきながら36歳で第14回二科展樗牛賞、翌年には1930年協会展で奨励賞を受賞する等、一挙に画家としての天賦の才能を開花させた。しかし、生活の面では、いつしか定居を持たず日銭暮らしを送るようになり、ついに東京市養育院で49歳の生涯を閉じた。彼の描く絵画は、フォーヴィズムとも呼ばれたが、私は、戦前・戦中の東京の下町を生き生きと描いた生命感あふれる画家であったと思う。掲載は1回で済まそうと思ったが、その魅力に引きずられ、2回の連載にすることにした。絵画は、原作を見ないと理解できないもので、もしご希望ならば府中市美術館まで足を運ぶことをお勧めする。開催は7月8日までである。

自画像  油彩・カンヴァス  大正14年(1925)頃 個人蔵

関東大震災後、俊行(としゆきー私は「りこーさん」と呼んでいる)は東京から京都に戻っている。帰郷しても父とは別居し、伏見稲荷近くのアパートに一人住み、絵を描いていたらしい。本作はこの頃に画かれたものである。関東大震災は利行に大きな衝撃を与えたと思われる。この作品からは、強い意志の持主であることが感じられる。何か深く思いつめている表情である。画家には自画像が多いものであるが、利行には、この1点しか、自画像は確認されていないそうである。

田端変電所  油彩・カンヴァス 大正12年(1923) 広島県立美術館

新光洋画会第4回に初入選した作品である。本作により長谷川利行は画壇へのデビューを果たした。早く入選して画家として身を立てたいという焦りがあってか、二科や春陽会に落選を続けていた。漸く入選したのが本作である。当時、鉄道は漸く電化されつつあった。変電所は目新しい建造物であった。東京のモダンな姿を捜し歩いていた利行にとって、変電所は格好の画題となったのであろう。柵の強い縦の黒い線、屋根と支柱の赤い斜めの線は、対比をなし、この絵にリズムを与えている。冒頭論文を寄せられた美術史家・原田光氏は、結論として「利行は、やはり、線の画家だと思う」と述べられている。正に、その通り、黒い線、赤い線が、この絵の見所であろう。

酒売場(PUB) 油彩・カンヴァス 昭和2年(1927) 愛知県美術館

第14回二科展で樗牛賞を受賞した代表作である。行き付けの浅草神谷バーの店内を描いたものである。恐らく店内にカンヴァスを持ち込み、速写したものであろう。昭和30年代の神谷バーと殆ど変っていない。店内の騒めき、食器やグラスの響きが聞こえてきそうである。それは赤や緑といった色彩の交響によって引き起こされた効果である。この絵では、文字通り、音色が色に置き換えられいるのである。速写のスピードが店内の光と音を一つのものにしている。

浅草停車場 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 泰明画廊

浅草停車場は、現在の東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅に当たる。明治35年(1902)の開通時は吾妻駅と言った。明治43年(1910)、浅草停車場として整備され、貨物や旅客の起点となった。大正期には東京市電も延び、交通の要として発展した。この作品においては、駅を生き交う群衆を見事に捉えている。個々の人物の表情や姿は、簡略化され、大きな一つの塊として表現されている。そこにこの絵の新しさがある。

機関車庫  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928)頃 鉄道博物館

第14回二科展樗牛賞の大作(100号)であり、意欲に満ちている。赤煉瓦の車庫の中に黒い機関車が生き物のようにうごめいている。いきなり100号の大作であり、見ていても驚く。第4回1930年出展作である。「鉄道博物館」の所蔵であり、誠に所を得た「作品」である。

夏の遊園地 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

描かれたのは、大正11年(1922)開園の荒川遊園地である。近くになじみの銭湯があって、利行は初期の描き方で、対象の骨格を素早くカンヴァスに刻むように筆を運んでいる。色と形は溶け合っていない。夏の夕暮れのなか、人気(ひとけ)はなく、暑気をはらんだ空気が漂っている。原色を多用しながら、水彩画的な淡い彩やかすれによって、広場の孤独をたくみに描き出している。第15回二科展で出品され好評を得た。100号の大作である。

カフェ・パウリスタ油彩・カンヴァス 昭和3年(1928)東京国立近代美術館

本作は1911年に東京の銀座に開店したカフェである。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草か神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白といった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっけとなり再び世に出てきた。額もなく、かなり汚れた情愛だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を甦らせた。私は、MOMANT展で何度も視ているし、この「美」でも取り上げたことがある。長谷川利行の代表作である。

靉光像  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

靉光(あいみつ)は若くして夭折したため、作品の数は少ない。しかし、彼に対するファンは実に多い。作品数も少なく、中々お目に懸れない。そんなこともあって靉光のファンは、満たされない思いが何時も強い。靉光は利行の画友である。利行と靉光ともに1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会奨励賞を受賞しており、この頃に出合ったと思われる。なお、同賞は翌年利行も受賞している。彼と靉光は16歳離れており、一時期、靉光は利行の影響を随分受けていたという。昭和3年(1928)、利行は靉光のポートレートを描いた(本作)。靉光は作品を見て喜んだことだろう。利行は靉光をはじめ若い画友たちに親愛の情を抱き、彼らも利行を慕っていた。

岸田国士像 油彩・カンヴァス 昭和5年(1930) 東京国立近代美術館

岸田国士は劇作家として著名な人物である。矢野文夫を介して、利行は強引にモデルを依頼した。胸に白いハンカチを入れ、黒い礼服姿の岸田を利行は勢いよく描いた。岸田の表情には、明らかに戸惑い、困惑していることを窺わせる。「肖像画の押し売り」にあい、さらに金をたかられるのではないか?その不安は的中した。岸田は肖像画の完成後も利行の襲撃を受けたらしい。1931年(昭和6)の第18回二科展出品作であり、好意的に受け取られたようである。

水泳場  油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 板橋区立美術館

「女」、「ガスタンクの昼」とともに昭和7年(1932)の第19回二科展に出品された作品である。50号の大きさで、利行の作品としては、大作の中に入る。関東大震災からの復興の一環として、東京市が墨田区公園内に造った水泳場(プール)を描いたものである。二科展での評価は賛否相半ばしたようだが、白い雲の湧き上がる夏の青空の下で、水泳場に集い、水泳を楽しむ大勢の人々の姿を素早いタッチで描かれ、画面全体に散らばる鮮やかな原色とも相まって、賑やかで明るいざわめきが伝わってくる。この作品は、長い間、行方不明であったが、10年ほど前に再発見され話題となり、板橋区立美術館に保管されている。

 

美術史家の原田光氏の「利行の幸福」という冒頭論文によれば、長谷川利行は二科展への出品が制作の背骨となっていたそうである。氏の論文によれば、次のような年賦が付けられている。                          大正12年(1923)と大正14年(1925)は落選           大正15年(1926)  第13回二科展  「田端変電所」、初入選    昭和2年(1927)   第14回二科展  「酒売場」樗牛賞受賞     昭和3年(1928)   第15回二科展  「夏の遊園地」他       昭和4年(1929)   第16回二科展   「子供」他         昭和5年(1930)   第17回二科展  「タンク海道」他       昭和6年(1931)   第18回二科展  「岸田国士像」他       昭和7年(1932)   第19回二科展  「水泳場」他         昭和8年(1933)   第20回二科展  「風景」他          昭和9年(1934)   第21回二科展  「割烹着」          昭和10年(1935)  第22回二科展  「鋼鉄場」他          昭和11年(1936)  第23回二科展  「裸女」他          昭和12年(1937)  第24回二科展   「夏の女」、「ハレルキン」

合計25点、この内、今も見ることができる作品は12点か13点、他の作品は行方不明か消失であろう。ほぼ半分の作品が残っている。よくぞ残ってくれたものだ。二科の効果があったのではないかと、原田氏は推測している。原田氏は、最後の出品作の「夏の女」、「ハレルキン」の内、どちらかが「白い背景の人物」(下で講評する)ではないかとも推定している。それは「下」で掲載し、論表したい。長谷川利行が描いた場所は、荒川より南、駅名で言えば、尾久、田端、日暮里、上野、御徒町辺りが多い。新宿、渋谷にも出没した形跡がある。活躍したのは大正末期から昭和15年頃までであり、私が生まれた頃に該等する。

 

 

(本稿は、図録「長谷川利行展  2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄展 池袋モンパルナスとニシイ美術村  2018年」を参照した。)