歿後50年  藤田嗣治展(4) 戦後の20年

1945年8月の終戦を迎え、戦争中の国策協力を糾弾され、「画家の戦犯」として日本画壇から厳しく戦争責任を追及された藤田は、戦時に控えていた裸婦など、本格的な制作を開始した。また、戦争容疑を晴らすため、GHQの民政官だったシシャーマン・リー(デトロイト美術館学芸員)に近づき、一緒に丹沢などを散策し、自分の絵画に取り入れたりしている。1947年2月、GHQは1年間かけて審査した戦争犯罪人リストを公開した。政治家、軍人など追放された人物は1760人に及んだが、その中に藤田はもとより画家の名は1名も無かった。あれほど画壇を騒がせた「戦争責任」の問題は、これで一応決着を見た。藤田の「戦争責任容疑」もこれで、完全に晴れた。藤田がフランスへの渡航のためのビザを申請したのは、前年の1946年のことであった。しかし、何故か、ピザが下りなかった。フランスのビザが下りないことに困り果てた藤田は、GHQの高官に働きかけてアメリカ渡航のビザを取ろうとした。一度アメリカに渡って、それから先は後で考える積りだったのであろう。ピザ取得に向けて力を貸してくれたGHQ高官が誰かは不明であるが、私はデトロイト美術館の学芸員をしていたシャーマン・リーが何等かの形で関与したのではないかと推測している。ともあれ、アメリカのビザは、程なく許可されることになった。アメリカでは、既にニューヨークの美術学校で教職につく予定で決まっていた。しかし、ここで手違いで夫人のビザが下りず、この機会を逃がすと、藤田の渡航に邪魔がはいることを怖れ、1949年3月に、藤田一人でアメリカに旅立ち、夫人は遅れて渡航することになった。タラップに立ちた藤田は、次のように挨拶したと伝えられている。「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」。戦争責任をめぐって混迷をくりかえした日本画壇への痛烈な批判だったと思う。10ケ月ほどアメリカで過ごし、ニュヨークでは傑作「カフェ」「美しいスペイン女」等を制作し、精力的な活動をしていた。間もなく君代夫人もアメリカに到着した。1950年2月、パリに移った。

優美神  油彩・カンヴァス   1946~48年  聖徳大学

ギリシャ、ローマ神話に登場する魅惑、美貌、創造力を象徴する三人の女神については、西洋美術では古来繰り返し取り上げられているが、最も有名なのはポッチェリーの「春」でに登場する姿であろう。花々が咲き乱れる野原に三人の裸婦を配したこの作品も、明らかにポッチェリーを意識して描かれたものであろう。しかし、藤田の描く裸婦はエコールド・パリの時代とは変わった。本作品には白い下地も黒い輪郭線もなく、裸婦のヴォリュームは絵具の明暗を少しずつずらしていく、いわゆるモデリングを用いて表現されている。それは背景の山並みや草花についても同様で、空間表現を含めて藤田独自の日本画と油絵を融合させる技法ではなく、完全に西洋の伝統的な技法に従って画面が構成かれている。神話の女神という架空の存在と現実の風景が一体化することにより、奇妙な空間が現出している。それは以前にも、それ以後にも同様の作例が見られぬ独特の作風である。終戦直後という時代背景が生み出したものだろうか。

私の夢 油彩・カンヴァス   1947年   新潟県立近代美術館

「私の夢」は1947年5月、「新憲法実施並ニ東京都美術館20周年記念現代美術展」に出品された作品である。漆黒の背景に、眠る裸婦。着衣の猫や猿、狐、栗鼠等が周囲に配されて、まるで東洋の涅槃図を見るようでもある。裸婦の皮膚の色は、「乳白色」を思わせる肌で、一部黒い線で彩られている。パリへの郷愁の表現でもあったのだろうか。前出の「優美神」と比較すると、違いははっきりする。

カフェ  油彩・カンヴァス  1949年(藤田手製額)ポンピドー・センター

ニユーヨーク滞在中の「カフェ」木炭、紙の「素描」が1点、油彩画3点、クレヨン・デッサン1点があり、本作は1949年のマシアス・コモール画廊における個展で発表された作品である。1949年8月末、戦後を代表する藤田の傑作が誕生した。藤田の絵に久しぶりに「乳白色」が甦った。絵の舞台はパリ。カフェの片隅で黒いドレスの女性が窓に背を向け、頬杖をついている。色彩も筆の線もまさにエコールド・パリの藤田そのままである。だが微妙に違うのはその表情である。かっての女性は無表情であったことが特徴であったが、このカフェの女性には、深い愁いが漂っている。藤田の描く女性の表情に、何等かの感情の動きが見て取れるのは、極めて珍しい。テーブルに広げたままの便箋には、書くべき言葉が見つからないのか、便箋には滲んだ跡は見えるものの、そこには何も書かれていない。「カフェ」を完成させて5ケ月後の1950年1月、藤田はニューヨーク港からパリに向けて出航した。額縁も藤田の手製である。

美しいスペイン女 油彩・カンヴァス(藤田手製額) 1948年 豊田市美術館

これは1949年11月にニュヨークのマシアス・コモール画廊で開催された個展の出品作である。1949年3月のニューヨーク到着後、当地の美術館を訪れて久しぶりに西洋美術の巨匠の作品に触れたことで、藤田が受けた刺激が、この作品から窺える。この女性の面差しは、イタリアルネサンス期の女性肖像画の諸作を想い起させる。個展出品作であるが、満を持して制作されたものであり、自身のこれまでの技量と経験を注ぎ込んで、しかし新鮮味も備えるという課題に取り組んだ藤田の再出発の緊張感のをたたえた作品であると評価することが出来る。描かれているのはニュヨークの風景でも人物でもなく、ヨーロッパ風の風景を背景にした欧州の女性である。黒いヴェールを被り、黒い服着た女性の姿はルネサンス時代の肖像画、特にレオナルド・ダビンチの「モナ・リザ」を連想させる。「スペイン女」とするのは、黒いレースのヴェールのゆえか。額縁も藤田の手製である。

姉妹  油彩・カンヴァス  1950年  ポーラ美術館

ニユーヨークからパリへ移った間もない時期の作品である。双子と見られる二人の少女が、寝間着姿のまま寝台の中でクロワッサンとカフェ・オ・レの朝食を執る絵である。額縁は1940年の藤田の手製で、中の絵よりも10年早い作だが、ハートに天使の文様で飾られ、画中の姉妹の愛らしさと調和している。

室内  油彩・カンヴァス  1950年    ポーラ美術館

ここに描かれているのは、実際の室内ではなく、藤田が1947年に作った模型(マケット)の室内である。模型のせいか、それぞれの物の位置関係と奥行きは幾分不自然だが、それがかえって室内の親密な雰囲気を出している。この模型(マケット)は、東京からニューヨークを経てパリまで携えてきた理想の家がこの作品に描かれている。このマケット自体は、フランスのメゾン=アトリエ・フジタに現存する。

家族の肖像  油彩・カンヴァス  1954年   北海道立近代美術館

68歳の自画像である。おかっぱ頭、丸眼鏡、ちょび髭は1910年以降の藤田の容姿だが、東洋人らしさを際立たせていた黒髪は今や白髪となった。背後の壁を飾る絵は1941年に逝去した父、嗣章88歳の肖像画と、1936年頃に伴侶となった君代夫人の17歳(1910年生まれ)の肖像である。君代は最後まで手元に残し大切にしていた作品である。

夢  油彩・カンヴァス  1954年  個人蔵(日本)

横たわる裸婦の傍らに動物が集う作品は1947年の「私の夢」以来、いくつか描かれている。上部にはベッドの被いに「ジュイ布」が描かれているものもいくつかある。それほど擬人化されない薄ぼんやりとした表情の動物たちとの対比によって、本作の裸婦はとりわけ美しい。裸婦の肌のせまい色相の茶褐も美しいが、こうした茶褐の色彩は1930年代中頃から現れ、幾つかの戦争記録画の制作の過程で藤田が自家薬籠中としたものだと考えられる。

ビストロ  油彩・カンヴァス  1958年  カルヴァナレ美術館

図録のソフィ・クレプス氏の冒頭論文によれば、「カフェ」と同じ主題を再び取り上げているとして本作を示している。題名は「ビストロ」であるが、この習作は1957年に描かれた「カフェの中(習作)」と全く同じ内容である。そこに描かれた若者たちの当時の流行の服装をしている。当時の典型的な若者たちで賑わうこの光景は、藤田が現代風俗を描いた数少ない作品の一つである。「パリジェンヌ」をテーマとした第7回「時代の証人の画家たち」展への出品作である。特に印象深いのがこちらを見つめる赤い服の女性である。その眼差しは椅子の下にいる猫の眼差しと対をなすかのようである。

ニューヨークからパリへ移った藤田は、新たな目標に向かって画家として活動を続けた。この1950年代の作品では、私は「カフェ」を一番に捺したい。また「姉妹」に代表される子供の絵が多いこともこの時代の特徴である。1950年2月にふたたびパリの土地を踏んだ60歳代の画家は、戦争で傷つき、エコールド・パリの時代から次第に遠ざかるこの街で、戦前の古い街並みや新しい時代に失われていく風俗、そして子供達に絵筆を向けていった。なお、藤田には膨大な日誌。自筆記録が残され、すべて君代夫人の手で東京芸術大学に寄託されている。この膨大な記録を、何れの時か、誰かが書物にされることを私は心待ちしている。

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画   2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に 2013年」、図録「藤田嗣治、全所蔵作品展示 2015年」、近藤史人「藤田嗣治ー異邦人の生涯」を参照した)

 

没後50年 藤田嗣治展(3)旅する画家・戦争画

藤田が16年振りに日本に帰国するのは1929年9月のことである。藤田自身の後の回想によれば老齢となった父親(当時70代半ば)と再会を果たし、親不孝を侘びるためというのが理由とされているが、当時生活を共にしていたユキによれば、この帰国は日本での個展の開催と作品の売却を目的にしたものだったと言う。帰国の直前、藤田は過去の税金の滞納を告発され、膨大な額の税金を納める必要に迫られ、その金策のための帰国だったというのである。藤田としては、画家としてのこれまでの歩みと作品に対する自らの思いをはっきり日本で伝える必要があったのであろう。帰国を記念して東京で開催された二つの展覧会は、大成功に終わり、父・嗣章と故郷の熊本やかっての赴任地、朝鮮にまで旅行し、念願の親孝行も果たした。アメリカ、パリ等で個展を開催しており、1929年10月に世界大恐慌が起こり、早くも翌年にはその影響がヨーロッパやアジアに及んだ。藤田と共に生活する女性もユキからマドレーヌ、そして堀内君代と変わっていく。私生活のめまぐるしい変化は、当然彼の作風にも少なからぬ影響を与える。1931年秋、20年近く続いたパリでの暮らしを放棄し、あらたにマドレーヌを連れて中南米に旅立った。そこから約2年にわたり、各地を旅し、現地制作して展示・販売する「旅絵師」のような日々を続け中南米や日本、沖縄、中国大陸、アジア諸国を移動し、エコールド・パリ時代の作風とはガラリと変わった絵画に変化した。本稿では、主として日本、沖縄の各地で描いた絵画を中心に紹介する。

自画像  油彩・カンヴァス  1936年   平野政吉美術財団

和服姿の藤田が食後に寛いでいる場所は四谷左衛門町の日本家屋である。高田の馬場にあったメキシコ風のアトリエを出て、麹町に新築した数寄屋風の家に移るまでの、仮住まいの様子である。猫を懐に入れた彼の周囲には角火鉢、裁縫箱や櫃のような「下町の江戸」を感じさせる品で満たされている。背景にある茶道具文様の布は彼の取集品で、現存する。1936年第23回二科展出品作である。如何にも寛いだ自画像である。前年6月にマドレーヌが急死した後、藤田は水戸出身の堀内君代と再婚した。伴侶がフランス人から日本人にかったのに合わせるように、その生活も純日本的なものへ変化した。

ちんどんや 職人と女性  水彩・紙  1934年  神奈川県立近代美術館

次の2点も、1934年に二科展別棟陳列室に並べられた作品である。これを見た批評家は鋭く「藤田は転機を迎えている」と指摘している。1920年代のパリの成功があまりにも華々しく、そのスタイルがあまりにも独自かつ完成されたものであったために、それを乗り越えようとするには相当の時間と努力を必要としたに違いない。

魚河岸  水彩・紙  1934年    下関市立美術館

魚河岸にえがかれている若者の、豆絞りの手拭いに腹巻、兵児帯に長靴という典型的ないでたちは、当節では実際にほとんど目にすることがないと批判されている。20年近くも外国暮しをしており日本に戻ってきた藤田が、外国人のような視点で日本の風俗を眺めていることは不自然ではない。関東大震災を経験し東京は、街並みが大きく変わっており、江戸っ子の藤田にはそれ以前の風俗を懐かしむような気持ちがあったに違いない。当初、この日本滞在が長期に及ぶとは思っていなかった彼は、日本で描いた作品をヨーロッパに持ち帰り、異国趣味豊かな商品として売りさばくことを考えていたのかもしれない。

夏の漁村 房州太海  油彩・カンヴァス  1937年  千葉市美術館

房州太海は、現在の地名では千葉県鴨川市にあり、安房の東側、太平洋に面する外房の海岸の一つである。かって安井曽太郎もここを訪れて風景画を制作したことで知られ、藤田も実地に画架を立てて制作したと見られる。藤田の父である陸軍軍医の嗣章は安房国長尾藩の家老を勤めた藤田家の出身であり、房州は藤田に縁の深い土地だった。

秋田の娘  油彩・カンヴァス  1937年  下関市立美術館

1936年、秋田の平野政吉から秋田を描く大壁画の制作を依頼された藤田は、現地の風俗を取材し、翌年「秋田の行事」(壁画)を完成させた。藤田は秋田の女性の古風な服装や恥じらいがちな表情に、ロシアやシベリアの娘に通ずるものを感じていた。

客人(糸満)  油彩・カンヴァス  1938年  平野政吉美術財団

1938年4月から5月にかけて、藤田は約3週間ほど沖縄に旅行した。4歳から12歳まで熊本で過ごした藤田に取って、沖縄は近くて遠い憧れの地であり随筆の中でも沖縄の言葉づかいが「熊本当たりの古風さと相類して懐かしさが増す」と、感想を綴っている。初めて訪れた沖縄の自然、風土、生活習慣など一つ一つ新鮮な反応を示しながら、藤田によって最も印象に残ったのはゆったりと流れる時間と静けさであったようである。東京と比較しながら「那覇は平和郷であり、機戒文明の標本室、物理化学の研究室ではなかった」との言葉に、その思いがあふれている。

猫 争闘  油彩・カンヴァス  1940年  東京国立近代美術館

14匹の様々な種類の猫が組んづほぐれつの喧嘩をしているように見える。だが、半分ほどの猫は口を大きく開け、相手を威嚇しているように見えるが、残りの半分は特に殺気立つたような様子ではなく、色々な格好で戯れているようなだけのように見える。1940年の制作ということもあって、時局を反映した殺伐とした空気を表現したものという解釈もあるが、南米滞在中の1932年の作品にもほぼ同じ構図のものがあり、背景を黒く塗りつぶす手法は、画題に関係なく若い頃から何度も使われているが、ここでも極めて効果的である。

アッツ島玉砕 油彩・カンヴァス1943年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

現在東京国立近代美術館に収蔵されている藤田の戦争画は全部で14点であり、実際には150点ほど描いたのではないかと推測されている。自他共に彼の戦争画の最高傑作と目されているのがこの「アッツ島玉砕」である。1943年5月12日から29日にかけて、アリューシャン列島の最西端にあるアッツ島を巡って日米の戦士1万3千人余が戦い、日本兵2600名余がほぼ全滅した。藤田が描き出しているのは最後の戦闘が行われた5月29日、山崎部隊長率いる約300名の日本兵が最後の突撃を試みる瞬間である。この作品は軍による依頼によるものではなく藤田が自発的に描いてその後陸軍に献納され、9月の国民総力決戦美術展に出品されるという経過をたどった。陸軍は当初、公開することにためらったという話もある。北の孤島における日本軍全滅の悲劇を生々しく伝える画面が、国民の戦争に対する士気を低下させるのではないかという危惧は当然と言えば当然である。しかし、国民の反応は全く逆だった。玉砕し軍神になった兵隊たちの最後の瞬間に直面することにより、敵である鬼畜米英に対する怒り憎しみはさらに増し、日本が窮地に追い込まれているという認識は、最後の最後まで何としても戦い抜くという強い決意へと変わっていった。展示された作品の横には「脱帽」の二文字が大書され、賽銭箱が置かれ、絵に向かって手を合わせて拝む人が後を絶たなかったという。藤田自身がそれらの老若男女の姿を目にして「生まれて初めて自分の絵がこれ程までに感銘を与え拝まれたということはいまだかって無い異例の驚き」「この画だけは、数多く書いた画の中の尤も快心の作だった」と後に記している。しかし、これらの絵画が、藤田の「戦犯」という汚名の原因になるとは思ってもいなかった。

サイパン島同朋臣節を全うす 油彩・カンヴァス 1945年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

この作品は藤田の戦争画として最後のもので、1944年の夏以降に疎開していた神奈川県の藤野村で制作されている。縦180cm、横360cmの大画面に描かれているのは1944年6月から7月にかけて3週間ほどにわたって展開されたサイパン島の日米の激戦の最終局面である。サイパン島は日米双方にとって、軍事的に重要な拠点であり、ここからであればB29爆撃機による本土空襲が可能となり、戦局に甚大な影響を与えることが予想された。そのため日本の大本営は絶対国防圏を定め、サイパン島はその中郭拠点となった。3週間を超える日米の戦闘は激烈を極め、日本側の戦死者は3万人を超え、民間人も在留邦人の半分、1万人が亡くなったと言われる。藤田が描き出したのは戦闘の最終局面、民間人の大半がアメリカ側の投降の呼びかけに応じることなく、バンザイクリフやサイドクリフといった島の北部にあった岬の断崖から次々に身を投げて自決する場面が描かれている。ここに描かれているのは大半が民間人であり、しかも女性と子供が多数を占めており、なおかつ戦闘ではなく、自決の場面であることが一層悲劇性を増している。とりわけ、画面中央の人形を抱く少女の姿をはじめ、状況の残酷さを浮き彫りにしている。藤田の想像力は古典の枠組みをはるかに凌駕し、まるで玉砕の現場に立ち会っているかのような臨場感を生み出している。私は、戦争画は、何回も見ているが、これの戦争画が、戦意高揚に繋がったことは一度も考えなかった。

 

1929年10月に世界大恐慌が起こり、その影響はヨーロッパやアジアに及び、経済的にも家庭生活でも破綻をきたした藤田の1930年代前後の作品は、それまでの「乳白色の下地」のイメージを破壊するような濃厚な色彩により、画風が一変した程の大きな変化をもたらした。藤田は日本、南米、パリ、再び日本、沖縄と転々とした。そんな中で、藤田が「下町の江戸趣味」と呼ぶ自画像(1936)は、私の好きな藤田の自画像である。藤田は1939年4月、ふたたびパリへ向かい、翌年5月まで約1年間をパリで過ごした。1940年初夏に帰国した藤田は、1941年5月に、帝国芸術院会員に推挙された。それまでは在野の団体二科会に所属していた藤田の大きな転身であった。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発した。藤田には翌1942年3月、麹町の自宅に待機していた藤田に陸軍省からシンガポール派遣の命が下った。これからの藤田の戦争画制作がはじまった。戦争画に傾けた情熱は、やがて藤田みずからが、会心の作と呼ぶ、一つの傑作に結実した。「アッツ島玉砕」である。戦争画の中でも、最も傑出した作品であった。更に、戦況が悪化した1945年(終戦の年)の「サイパン島同朋臣節を全うす」も戦争画の最高傑作を生み出した。しかし、1945年8月の「日本の敗戦」を迎え、日本画壇では、戦争画の戦犯として、藤田に対する「冷たい目」が光った。作家、画家など芸術家、著者に対する戦争責任を連合軍が求めたことは一度もない。あくまでも、戦争を計画し、指導した軍人や、政治家に対して連合国側は戦争責任を追及したが、それが戦争画を描いた画家に及ぶ筈はなかった。「戦争画を描いた藤田は戦犯」という日本画壇からの追及には、藤田は慄然とする思いであった。私自身が、日本の戦争画を見て、藤田以外の画家の戦争画は鑑賞に堪えるものでは無かった。当時「彩管報国(さいかんほうこく)」という言葉が、日本画壇では語られていた。大日本美術協会会長であった横山大観は「海山十題」という連作を発表し、それらを販売した収入で、陸海軍に四機の戦闘機を寄付しているが、それは戦犯ではないのか?結局、藤田は1949年3月に、まずアメリカに飛び立ち、その翌年にはパリに移り、その後二度と日本の土を踏むことは無かった。国籍もフランスに替え、カトリックに改宗し、名実ともに日本を離れ、フランス人として生きていく道を選んだ。優れた戦争画を描いた結果であろう。しかし、藤田が1968年1月29日に、81歳で亡くなった。その2ケ月後、日本政府は、勲一等瑞宝章を授与することを決定した。

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展   2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジタ・ポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示  2015年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を参照した)

没後50年 藤田嗣治展(2)乳白色の裸婦

1921年、ついに藤田はパリで決定的評価を勝ち取った。日本を出て8年後のことである。この年、サロン・ドートンヌに出品した「私の部屋 目覚まし時計のある静物」、「自画像」、「寝室の裸婦キキ」の三つの作品が絶賛された。既に「私の部屋」、「自画像」は、藤田嗣治展(1)で掲載し、「私の部屋」については日本の帝展に出品されたことは、言及した。最も高い評価を得たのは、キキをモデルに描いた裸婦像であった。君代夫人などの証言を総合すると、1922年の作でパリ近代美術館に収蔵された「寝室の裸婦キキ」が出品作の印章を最もよく伝えていると考えられる。残念ながら、この作品は今回展示されていないので、「裸婦 長い髪のキキ」で代用したい。ここに登場した藤田の肌は、「乳白色の肌」と呼ばれ、「グラン・フォン・ブラン(素晴らしい白い地)」という形容で絶賛され、その後数年間に亘り、藤田の人気を支えた。戦時下のパリで苦闘を続けた藤田は遂に自らの技法を打ち立て、独特の様式でヨーロッパ美術史に新たな1ページを付け加えることになった。「乳白色の肌」の技法については、藤田は生涯秘密にし、決して明かそうとしなかった。肌を描いている時は、他人がアトリエに入ることさえ警戒する程であった。その謎は数年後明らかにされた。パリの評論家たちを驚かせたのは華麗な黒の輪郭線であった。その線を藤田は日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた。油絵に日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だったのである。図録の木島教授の解説によれば、2000年に行われたパリ日本館所蔵の藤田の壁画修復事業の際、サンプリングされた1ミリ角ほどの絵具片からの分析調査によって画家独自の地塗り技法の基本的要素ー秘密が解き明かされることになる。詳しい説明は省くが、油絵具にタルクが混ぜられていたことである。1940年前後に藤田の制作現場を撮影した土門拳の写真には和光堂のシッカロール(タルクを含む)を脱脂綿で画面に摺り込む藤田の写真が見つかったのである。乳白色の肌に彩られた裸婦像は、パリで熱狂的に支持された。ある本によれば1920年代の「狂乱の時代」には、藤田の絵画は、ピカソやマチス並の価格が付いたそうである。

横たわる裸婦  油彩・カンヴァス  1922年   ニーム美術館

1920年頃に「乳白色の下地」を考案した藤田は、女性の透明感のある肌をマティエール(絵肌)によって表現すること、また、絵肌そのものの美しさが魅力となりえる作品を創造することを目指していた。本作品は藤田が描いた最初期の裸婦像の一つで、漆黒の背景のコントラストの中に、線描による裸婦を表し、その柔肌=素肌の美しさを際立たせている。パリの評論家たちを驚かせたのは流麗な黒の輪郭線であった。その線を藤田は日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた。油絵に日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だった。

裸婦像 長い髪のユキ  油彩・カンヴァス  1923年 ユニマットグループ

藤田のモデルであり、かつ後に二番目の夫人となるキキの裸婦像を描いたものである。どの作品化ははっきりしないが、藤田に最初の大金をもたらすことになったのは、やはりキキをモデルにした裸婦像であったと言われる。パリの大コレクター、ゲインラン夫人に8000フランで買い上げられたそうである。リュウサンプールの美術館も買上げを申し込んだできたが一足違いで夫人の手に渡ることになった。1922年、サロンに出品された藤田の作品の前には黒山の人だかりができた。藤田は一躍「サロンの寵児」と呼ばれるようになった。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙された。

仮面舞踏会の前  油彩・カンヴァス  1925年  大原美術館

仮面舞踏会で出番を待つ女性たちが描かれている。画面中央の裸婦が当時一緒に暮らしていたユキ(肌が白いので藤田がユキと命名した)、その左の着衣の小柄な醸成がロシア人画家マリー・ヴァシリエフである。ここでは布の模様の描写は抑えられ、色も淡彩で、画面全体が「乳白色の下地」の絵肌で統一されている。ユキの肌を表した温かみのある白い質感の印象が強く、彼女の足元の黒い仮面を際立たせている。1925年のサロン・デュイルリー出品作である。最近、大修理が終わって初めての出品であるそうだ。

五人の裸婦  油彩・カンヴァス  1923年   東京国立近代美術館

花柄のある天蓋のかかるベッドの前で、それぞれポーズを取る裸婦たち。しなやかに体の曲線を強調しながらも堂々とした様子で、さながら伝統絵画の女神のようである。構図も格調高くとの意識から、5人をW字を描くように対称に配置し、画面に安定感を生み出している。1923年末にサロン・ドートンヌで発表した本作は、初めて群像に挑んだ意欲作である。西洋絵画の王道ともいうべき裸婦で評価を得た藤田は、群像表現でさらなるステップアップを図ったのだった。というのも、西洋絵画の歴史の中で格別の位置を占めるテーマとされてきた。さらに、西洋絵画の伝統に藤田がもう一歩踏み込んだとされるのが、5人の裸婦がそれぞれ五感を表しているという見方が出来る点である。つまり、左端の布を持つ裸婦が蝕角、耳をを押さえるポーズの女性が聴覚、、口を指すポーズは味覚、犬を伴った裸婦が嗅覚。そして、中央の裸婦が視覚となる。彼女を中央に置くことで、視覚の優位性を示しているのだろう。これも資格の芸術である絵画の伝統的な手法の一つである。そして、本作の大きな見どころである、裸婦の「肌」を表現するという上でも重要な役割を果たしているのが、ベッドの天蓋と裸婦の足元の布である「ジュイ布」(ジュイ産の布の意味)と呼ばれるアンチークのフランス更紗で藤田のお気に入りのモチーフである。本作に描かれたのは実際にはルーアン産らしいが。綿密な模様をだまし絵のように描いた点がポイントである。藤田はサロンで展示した際に、顧客がこの布の細部をよく見ようと画面に接近することを想定して描いたのだった。つまり、超絶技巧な布で誘い込み、一番見せたいもの、すなわち「乳白色の下地」を生かした裸婦の肌、絵肌を直ぐ近くで見せる作戦である。藤田が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだこの作品は、彼のこれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値をつけたのだった。

砂の上で 油彩・カンヴァス  1925年  姫路市立美術館

砂浜でまどろむ二人の裸婦と幼児。その周りにはバケツやスコップ、さまざまな種類の貝殻が散らばっている。奇譚に横長の画面に配された人物の構図は藤田の関心が群像構成に向かっていたことを示す。また非現実的な雰囲気は、同時代のシュルレアリスムの美術や映画の幻想的な海のイメージを連想させる。1925年サロン・ドートンヌ出品作。

裸婦  油彩・カンヴァス  1927年   ベルギー王立美術館

1920年代初期の裸婦像と異なり、ここでは女性の腰をひねり、肘も曲げていることなどから身体全体に動きがみられるほか、陰影も強調され、彫刻的な立体感が際立っている。本作は、1920年代から30年代のパリの日本人芸術家たちの経済的支援者として名を馳せた資産家・社交人、薩摩次郎八により、1928年にベルギー王立美術館に寄贈された。

友情  油彩・カンヴァス  1924年  ポンピドー・センター

1924年のサロン・ドートンヌに出品した2作品の内の1点である。この頃藤田は、深い友情や愛情で結ばれた女性の二人の像をたびたび描いている。バラの脇に建つ裸婦に寄り添うもう一人の裸婦。腰の下のジェイ布の図柄は、半身半獣の精霊サテュロスを従えた酒神バッカスである。「豊穣」の象徴であるバッカスが、女性たちの豊満な裸体を賛美しているかのようである。尚、図録では、藤田の作品に女性二人を描く絵画が多いのは、同性愛の象徴ではないかとする意見が見られた。

横たわる裸婦  油彩・カンヴァス  1926年  個人蔵(日本)

1921年から本格的に乳白色の下地を生かした裸婦を描き、発表するようになる藤田だが、横たわる」系と「立つ」系に分類される。1926年パリ作のこの裸婦は1929年に一時帰国した際に刊行した画集に図版が掲載されており、本人が日本に持ち帰って所蔵先を探した可能性が高い。

 

藤田は、1925年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーからレオポルド一世勲章を受章した。画家として最も華やかな時代であった。1920年代の藤田は、あさにパリ画壇の寵児と言う言葉に相応しい活躍ぶりであった。例えば、「五人の裸婦」は、1923年のサロン・ドートンヌに出品されているが、出品目録には「25000フラン」という売却価格が設定されている。この金額を他の画家と比較して見ると、ピカソは1920年代の前半、1点あたり数千フランから1万数千フラン程度、マティスは500フランから5000フラン、キスリングは1000フラン前後、最晩年のモネが数万フランから10万フラン前後といった具合であった。藤田の25000フランはマティスに及ばぬものの、ピカソに匹敵あるいは上回り、当時の若手作家としてはほぼ最高に近い位置を占めていたことが分かる。しかし、この時期が藤田の絶頂期であった。1929年、アメリカ・ニューヨークのウオール街で株価が大暴落を示し、世界恐慌が始まった。深刻な不況はエコールド・パリの華やかな「狂乱の時代」に幕を引き、世界は再び戦争の耳朶へと導くことになる。その激動の渦に藤田自身も巻き込まれていくことになる。

 

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」、高橋秀爾「近代絵画史(下)」を参照した)

没後50年  藤田嗣治展(1)  家族・パリ

藤田嗣治(1886~1968)は、明治19年(1886)に東京牛込区(現在新宿区)に生まれた。父藤田嗣章(つぐあき)は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を勤めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は旧幕臣小栗信の次女であり、嗣治は次男として生まれた。西洋で言うならば格式を備えたブルジョアの家庭に育ったのである。画家への道を進みたという嗣治の希望が許可されたのは、彼が次男であったからだろう。藤田は1905年に東京美術学校西洋画科に入学した。これに関しては森鴎外の助言があったと伝えられる。美術学校においては、主任教授とも言うべき黒田清輝の「外光派」理論にはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子(ときたとみこ)と結婚したが、これは恋愛結婚であったそうである。そして藤田は1913年にパリへ単身で渡仏した。藤田がパリに渡ったのは1913年であるが、当地の美術学校には入学していない。彼は、パリのモンパルナスの家に下宿するが、ここに住んでいたモデリィアーニとスーチンに合い意気投合した。彼らに連れられてピカソの家を訪れ、いきなりピカソの立体派、アンリ・ルソーの傑作を見せられたと言っている。アンリ・ルソーは「ピカソ君、われわれ二人は現代における最大の芸術家だ。君はエジプト風で、僕は現代風だけど」と、この偉大な日曜画家アンリ・ルソーがピカソに語ったとされる言葉と合せて、当時のパリ画壇の混乱状態を証言するものであろう。「印象やポスト印象派」の時代は去り、黒田の外光派は、今や時代遅れであった。1914年8月には第一時世界大戦が始まったが、日本大使館の避難勧告にもかかわらず藤田はパリに留まった。大戦によって日本からの送金が途絶えた。帰国を促す父に対し藤田は自立の決意を固めた。大戦中の藤田は立体的な絵を約3000枚を描き、デッサンを500枚描きためたが、殆ど暖を取るために燃やしてしまったと述べている。今回は、この展覧会を4回に別け、連載したいと思う。最初は「家族とパリ」で、日本に残された家族の絵と、渡仏初期のフランスでの絵画を紹介したい。

婦人像  油彩・カンヴァス    1909年   東京芸術大学

花瓶や壺の置かれた部屋で、ゆっくりとポーズを取る着物姿の若い女性像である。画面左上には「1909年5月」と記されており、東京美術学校在学中の作品と分かる。藤田が学んだ黒田の「外光派」風の教育の跡が濃い作品である。当時は、いわゆる「外光派」風の教育だった。日本では「紫派」とも呼ばれたように、影を黒色ではなく青みがかかった紫色で描くというのが大きな特徴である。モデルは不明であるが、最初の妻となる鴇田登美子(ときだとみこ)に面立ちが似ている。二人は1909年の夏頃に出会ったと言われている。この作品を長く所蔵されていた方によれば、描かれているこの女性は「藤田の初恋いの人で、親の反対を受けて、駆け落ちした相手」と伝わっているとのことである。藤田と登美子の場合、実際には駆け落ちはしなかったものの両家の反対は強かったそうである。従って、モデルは登美子ではなく「初恋の人」「駆け落ちの相手」と伝わってきたのは、二人が正式には入籍していなかった点かも知れない。出逢って間もない微妙な距離感や、すぐに彼女に夢中になっていたという藤田の高揚感も手伝っているように思える。

父の姿  油彩・カンヴァス   1909年   東京芸術大学

東京美術学校在学中に描いた父の肖像である。父・嗣章は、軍医として台湾や朝鮮などの衛生行政に尽力し、後に陸軍軍医の最高職である陸軍軍医総監となった。藤田は成人してからも、父との間には、ある一定の距離を感じていたというが、画家になる夢を認め、画家修行やパリ留学の資金を援助してくれた父に、生涯に渡り感謝の念と崇拝の念を抱いていた。

トランプ占いの女  水彩・紙   1914年    徳島県立近代美術館

当時パリに留学していた日本人画家の多くは、キュビズムには興味を示さず、印象派やポスト印象派に学ぼうとしていた。藤田がパリに到着した1913年、美術界の中心と言えばキュビズムであったが、そんな中、キュビズムに敏感に反応した藤田の姿勢は極めて先進的であった。きっかけはピカソとの出逢いだと言われる。当時の藤田の描いた絵は殆ど残っていない。この絵は、赤い服の女性がスカートの上にトランプを重ねていく姿で、頬杖をついた左手を下げ、右手へとトランプを渡し、さらに膝の上へとトランプを置いていく姿が、コマ送りのように描かれている。じっと考え込むような表情で頬杖をついたいた女性が、おもむろに手だけ動かしトランプを重ね始める、そんな占いの様子も想像される。未来派などキュビズムの手法を取り入れた画家たちが注目していた、「動き」の表現に藤田も関心を持ったのであろう。

巴里城門   油彩・カンヴァス   1914年   ポーラ美術館

1910年代末にえがかれる、パリ周辺の風景画の原型となった作品である。第一時世界大戦後の開発により大きく変貌を遂げる前の、城門跡のうら寂しい風景を忠実に捉えている。藤田が一度売却した後、1932年に旅先のアルゼンチンで発見して買い戻した経緯や「最初の快心の作」であったことが、カンバスの裏面に記されている。

モンルージュmパリ  油彩・カンヴァス    1918年 静岡県立美術館

この絵はヴァンプ門より1・5キロほど西のオルレアン門を出たあたりで、青空も高く心地よい景色である。木々の緑、道を行く女性の赤い上着など、色彩も画面に温かさを加えている。遠くに見える煙突や、柵、低い塀など、「パリ風景」と共通するモチーフも多い。穏やかな情景の中にも、城壁近くのうらぶれた寂しさを漂わせている。他の画家が目を向けなかった風景を描いたことに対し、後に本人は「自分も貧乏していたから、貧乏人の家ばかり描いた」「寂しい風景が自分の境遇そのものだった」などと語っている。

二人の女  油彩・カンヴァス  1918年  北海道立近代美術館

親密に寄り添い並ぶ二人の女性像。身体は縦に引き伸ばしたような表現やメランコリックな表情には、当時、藤田と親交のあったモデイリアーニの影響が窺える。描かれているのはモデイリアーニの画商ズボロフスキーの妻、ハンカ・ズボロフスカ(画面左)と、モディリアーニが重用したモデル、ルニア・チェフスカ(右)ではないかと考えられている。当時の、藤田の交友関係が反映されている。また、モデル達の首の長いのもモディリアーニの影響かも知れない。エコールド・パリの時代の絵画である。

私の部屋、目覚まし時計のある静物 油彩・カンヴァス 1921年 ポンピドー・センター

この作品は、1921年のサロン・ドートンヌに出品され好評を博した。藤田の代表作の一つである。この作品に対しては、評論家ジャン・セルツは「彼の芸術の最も完成された形を示している」と讃え、メルキュール・ド・フランス誌には次のように評された。「フジタは彼の技巧で絵の極限を示そうとしているように思われる。壁際の陶器の像はまさしく陶器そのものであり繊細な影が壁に巧みに投影されている」。乳白色の肌と精緻なデッサンの作品は、それまでの洋画にはない斬新で不思議な魅力でパリ画壇の人々を捉えていたことが分かる。藤田は故郷に錦を飾る思いで、パリから日本に帰る画家・和田栄作に作品を託した。ところが帝展審査員は藤田が日本ではまだ無名であることを理由に一般出品作品と同じ扱いで審査しようとしたのである。怒った父嗣章が帝展幹部に出品撤回の申し入れるという強硬な手段をとったことで解決し、出品されたものの、ほとんど注目されなかった。黒田清輝の外光派を熱狂的に受け入れた日本の美術界は藤田の作品に冷淡だった。美術評論家の森口多里は、帝展の反響を次のように記している。「この作品一点だけでは反響を呼ぶに至らなかった。人は唯、珍しい舶来品のように眺めた」パリでの成功の後、初めての日本美術界への「凱旋」は藤田の意に反して惨憺たる結果に終わった。私は、藤田の一代の傑作であると思う。

自画像  油彩・カンヴァス 1921年    ベルギー王立美術館

渡仏後、最初期の自画像である。モンパルナス、ヂランブル通りのガレージを転用したアトリエの白い壁を背に、虚ろな表情で座る藤田。後に描かれる自信に満ちた表情の自画像と異なり、物憂さをたたえたその様は、画家の内省的な一面を感じさせる。1921年のサロン・ドートンヌ出品の1点で、翌年ベルギー王立美術館に購入され、美術館収蔵作品第1号となった。

人形を抱く少女 油彩・カンヴァス  1923年  群馬県立美術館

 

1920年代の始めから乳白色の下地を生かした作品を立て続けにサロンに出品し、名声を得た藤田のもとには、次第に肖像画の注文が集まるようになっていた。本作もそうしたものの一つと考えられるが、比較的早い例である。画家として名を上げる以前に、子供、特に、少女をモデルにしたこの注文は腕のふるい甲斐のあるものだったろう。

ヴァイオリンを持つ子供  油彩・カンヴァス  1923年 群馬県立美術館

服飾デザイナー、マチュー=レヴィ夫人の息子ワグネルの肖像である。1920年代以降、藤田はパリの上流階級から肖像画の依頼を受けるようになった。夫人のアパートはインテリアルデザイナーのアイリーン・グレイによるモダーンな室内装飾で知られ、藤田とも交流の深かった日本人漆作家・菅原清造に教えを受けたと言う漆を使った壁が本作の背景のモチーフとなったと思われる。

 

藤田の画家としての出発点であった東京芸術大学に残された「婦人像」と「父の像」は思いがけない発見であった。パリ初期の「巴里城門」「モンルージュ、パリ」はいずれも暗い感じのする初期作品であるが、現在殆ど残っていないとされる中、貴重な作品例である。私は、「藤田嗣治展」を計4回見ている。最初は1988年「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」、2013年「レオナール・フジタ展ーポーラ美術館コレクションを中心に」、2016年「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画」、2018年「没後50年 藤田嗣治展」の4回である。その中で一番充実していたのは、今回の「没後50年 藤田嗣治展」であった。今までにない貴重な作品126点を日本は元より、フランスの美術館等世界中から集めて、素晴らしい展覧会であった。また図録を見比べてみたが、今回の図録は、筆者には高橋秀爾氏、美術館長、美術史家2名、パリ近代美術館 統括監督官等実に多彩な人材を揃え、読了するだけでも丸1日掛るほどの力作であった。展示された作品の多さ、質の高さは言うまでも無く、図録の質の高さも群を抜いて素晴らしい出来栄えであった。近年、藤田嗣治氏に対する日本人の評価も高まり、戦争直後の「戦犯扱い」はさすがに無くなり、正確に藤田氏を評価する時代になった。換言すれば、亡くなってから50年も経って、やっと「故人」の評価が定まるという事実に驚くと同時に日本人の国際性の無さに驚く次第である。

 

(本稿は、図録「没後50年  藤田初嗣展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」、藤田嗣治「腕一本」、「巴里の横顔」を参照した)

特別展  縄文ー1万年の美の鼓動(2)

縄文時代は旧石器時代が終わったおよそ1万3千円前から、約1万年続いた時代を指す言葉である。縄文時代と呼ばれたのは、土器に施された縄文文様から来ている。縄文時代の始まりに少し遅れて、地球の氷河期が終わりを迎え、日本列島は温暖で湿潤な安定した気候に変わり、現在と同じ景観や四季が整った。当時の人々は、この多様な自然環境を巧みに利用し、狩猟や漁労、そして植物採集などを基本的な生業として竪穴住居に暮らし、定住性の高い生活を送った。この時代の造形物は「縄文時代の土器」など、「縄文」の名前が付けられる。第1部では国宝や、著名な文化財を取り上げたが、本稿では、もっと様々な生産品を取り上げ、縄文時代の「美」に迫りたい。

微隆起線文土器 青森県六ケ所村 表館(1)出土 青森県郷土美術館

表館遺跡は縄文時代草創期から後期の集落遺跡である。放射線炭素年代測定によって1万6千年前と測定された世界最古級の無文土器が出土した遺跡で、旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡が点在する。この土器は、文様が巧みに描き分けられ、稚拙さは微塵も無い。縄文土器の原点でありながら、すでに1万年に及ぶ縄文美の器の到達点がここにある。図録では「はじまりの美の器」と呼んでいる。

漆塗注口土器 北海道八雲町野田生1遺跡出土 縄文時代(後期) 八雲町教育委

注ぎ口をもつ器が登場するのは縄文時代草創期からと言われるが、この土器が縄文社会に定着し大きな役割を果たすのは後期以降になってからである。この土器には漆が塗られ、瓢型をなし、頭部には口を設け胴部に注ぎ口を付けている。器面全体に赤い漆が塗られ、下部の黒に映え、艶やかな光沢を放つ。注ぎ口土器は日常使いだけでなく儀礼や葬送の場でも用いられたと考えられている。本例は東北地方から北海道へ持ち運ばれたものとされ、注ぎ口土器が、ときに交易品としての役割を担ったことを示している。図録では「艶やかな朱漆で塗られた注ぎ口土器」とされている。

重文 木製編籠 縄文ポシェット 青森市三内円山遺跡出土 青森県教委

縄文時代の容器といえば土器が代表例であるが、そのほかにも木器、樹皮や植物の繊維を編んで作られた籠や袋などの編み物が用いられていた。本品は、教科書でもお馴染みの山内円山遺跡から出土した「縄文ポシエット」と呼ばれる縄文時代の編み物製品で、特に著名で、中にはクルミの殻が残されていた。縄文時代の編物製品は、素材の特性を活かし作られた道具そのものの美しさを備えている。

重文尖頭器長野県南箕輪村神子芝遺跡出土 旧石器時代末期~縄文草創期 伊奈市

黒く輝く石は長野県和田峠の黒曜石、乳白色や黄白色の石は新潟県以北の玉髄や頁岩、鈍く光る鼠色の石は岐阜県湯が峰の下呂石、色も産地も異なる多彩な石が、石器の原料として使われれている。石器は石を繰り返し打ち割ることにより作り上げるが、その内割り作業は時には数百回にも及ぶ。旧石器時代から縄文時代への幕開けを飾る石器は、1万年を経てなお色あせない輝きをはなつている。

重文 漆塗櫛 埼玉県岡川市後谷遺跡出土 縄文時代(後期) 桶川市教委

飾櫛としての櫛には、縦長の竪櫛と横長の横櫛がある。竪櫛は縄文時代に出現し、古墳時代まで確認することができる。一方で横櫛は、古墳時代から現代まで普及する。櫛はその形から活発な活動に適さず、結った髪に挿した装飾性の高い飾櫛であった。そのため当初は死者を飾るために造られていたが、縄文時代後期以降は櫛歯数を増やすことにより、動いても落ちにくいものへ変化し、死者から生活を飾る道具として考えられている。この後谷遺跡の櫛は木製であり、漆で固めたものである。女性が祈りの場などで身に付けたと考えられている。

重文 土星耳飾 調布市下布田遺跡出土 縄文時代(晩期) 江戸東京たてもの園

土星耳飾りは、耳たぶに穴を開けて嵌めこむものであり、縄文時代の後期以降に普及する。そのなかでも晩期の関東地方では、ほかの地域に較べかなり精巧な土製耳飾りが多い。このような耳御飾りは土偶にもよく表現されている。そのなかでも縄文時代の土製耳飾りでは最大級の大きさを誇り、精巧な透かし彫りを持つものに下布田遺跡から出土したものがある。この耳飾りは、滑車型耳飾りとも呼ばれ、その側面が滑車に似ていることから名づけられた。樹脂に混ぜた赤色顔料を塗り上げている。花弁にもたとえられる優雅な透かし彫りは美しく、縄文人による珠玉の名品である。

深鉢型土器 長野県富士見町藤内遺跡出土 縄文時代(中期) 井戸尻考古館

本例は縄文時代中期の勝板式の深鉢形土器で、「区画文筒型土器」とも呼ばれる。口縁部の一部を掻くが略完形であり、住居跡の床から押しつぶされるような状態で横たわって出土した。数ある類例の中でも白眉の土器として知られる。口縁部から底部に垂加する隆線によって器面全体を縦に五つに区画されており、筒型の形状と相まって縦長の意匠を凝らしている。この土器のような文様は「パネル文」と呼ばれているが、こうした文様には縄文があえて組み合わされない傾向にある。そうした傾向は次の曾利式土器へと受け継がれ、更に加飾性の強い土器が生み出される言動力となる。

深鉢形土器 市川市堀の内貝塚出土  縄文時代(後期)

縄文時代後期になると立体的な装飾性は影をひそめ、沈線によって構図を描く文様が重用される。この土器は大正から昭和初期に活躍した市井の考古学者上羽貞幸氏によって堀之内貝塚から採集された。器形は底部から口縁部まで反って立ち上がる朝顔形である。口縁部は波状をなし、その頂部に環状装飾をもつ突起を四単位付す。波頂部から刻み目を持つ隆帯を垂加することで、同部を四区分に分けている。区画の中央には沈線で描く渦巻文を縦につなぎ、この周囲を傾きの異なる並行斜線を組み合わせた綾杉文で満たす。器の素直な形に渦巻文と綾杉文が見事に調和した美しさを備えている。美術書にも収録される著名な縄文土器である。

両頭石棒  愛知県豊川市田町字大橋出土 縄文時代(後期)~弥生時代(前期)東京国立博物館

石棒は男性性器を象徴する儀礼用の代表例である。男性器を表現した石棒は、縄文時代前期に出現し、中期には数が増加して1mを超す巨大なものも造られた。それが後晩期に入ると、細くて小さなものに変化し、粘板岩のように緻密な石材が利用されるようになる。石棒は最終的には壊され、火に投じて廃棄されることが多く、元の形をとどめているものは少ない。

深鉢土器 長野県伊那市宮の前出土 縄文時代(中期) 東京国立博物館

岡本太郎(1911~96)が昭和27年(1592)、「みずゑ」誌において「縄文土器論 四次元との対話」を展開し、それが後の創作活動において縄文時代の造形から大きく影響を受けたことは一般によく知られた話である。ここで取り上げる土器は、その論文冒頭で岡本に「縄文土器の荒々しい不協和な形態、文様に心構えなしにふれると、誰もがドキッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである」と評され、写真に掲載された縄文土器のうち東京国立博物館所蔵品である。いわば岡本が衝撃を受けつつも真正面に向き合い、自身に執り込もうとした「縄文式原始芸術」である。岡本は「縄文土器の最も大きな特徴である隆線文は、激しく、鈍く、縦横に奔放に躍動し展開する。その線を辿って行くと、もつれては解け混沌に沈み、忽然と現れ、あらゆるアクシデントをくぐり抜けて、無限に回帰し逃れて行く」と論ずる。

 

縄文時代の土器や装飾品や実用品を紹介したが、第1部の「国宝・重分類」に比較して、全く譲らない美を見せるから不思議である。「縄文ー1万年の美の鼓動」を楽しんで頂けたであろうか。最後の岡本太郎氏の「みずゑ」の論評が最後を締めくくる最良の言葉であろう。

 

(本稿は、図録「縄文ー1万年の美鼓動   2018年」、図録「土偶展 2009年」を参照した)

特別展  縄文ー1万年の美の鼓動(1)

私は、日本の歴史をかなり熱心に勉強した時期が2回ある。1回目は小学校5年生の時の国定教科書による「日本歴史」である。まず、神話「国産み」から始まり、天照大神の誕生、天岩戸(あまのいわと)へ隠れる、手力雄神(たじからおのみこと)が磐戸(いわと)を開ける、素盞鳴尊(すさのうのみこと)の追放、海幸、山幸の話等から天武天皇の東征伝までの天皇家の生い立ちを学ぶ、国学的世界であった。もう一度は、高校2年生の時、新制高校の「日本史」である。それは、恐るべき転換が行われていた。神話の部はすべて削除され、縄文・弥生土器から始まる日本の歴史であった。(当時、日本には旧石器時代は無いとされていた時代であった)この違和感は未だに私の「日本史」のアレルギーとなって残っている。何故、神話を教えないのか?どこの国でも神話から始まるのでは無いか?神話は神話として何故教えないのか?これらの疑問はいまでも、生き生きと私の中に生きている。「占領軍による歴史の捻じ曲げ」、「神話はその国の古い記憶であり、神話として引き継ぐべきである」こんなことを60年以上思い続けてきた。しかし、高校時代に学んだ縄文、弥生土器も、それぞれで懐かしい思い出であり、日本の歴史であることは間違いない。さて、今回、東京国立博物館で「縄文ー1万年の美の鼓動」は実に楽しく見学できた。約1万年前から3千年前の日本人の生み出した「縄文土器」の素晴らしさは、誰よりも強く意識している。今から30年ほど前に、新潟県十日町市を訪れ、市役所に火焔土器(役1万年前)が20個位、円形で二重に火焔土器が飾られていて、その美しさに思わず息を飲む思いがした。平成11年(1999)に、これらの火焔土器を含む深鉢型土器57点が一括して国宝に指定された。「殆ど誰も見る人がいなかった火焔土器が、国宝に指定された」ことは、私に取っては、正に思いがけないショックであった。自分の「美」に対する意識の高さが証明されたとように思った。このかけがいの無い記憶を甦らせ、今回の「縄文展」を見学した。思えば、「縄文の美」に芸術的価値を見出したのは、それほど古い話ではない。1950年代に岡本太郎氏らが芸術的価値を見出し、「縄文の美」を唱えたのが、その始まりではないだろうか。今回の展覧会の特徴は、日本の縄文土器を展示するのみでなく、それとほぼ同じ時期に成立した世界各地の土器を比較してみるコーナーが設けられたことである。そこで、縄文土器と比較してみると、縄文土器の際立った独創性、優れた造形美を、改めて感じ取ることが出来た。やはり、世界に誇る「縄文土器」と言えるであろう。ややお国自慢となったが、自国の文化に誇りが持てないことは悲しいことである。是非、縄文の美を満喫し、我が国の造形美の素晴らしさを実感して頂きたい。

国宝 火焔土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 縄文時代(中期)十日町博物館

この作品は縄文中期の火焔型土器であり、平成11年(1999)に一括して57基の火焔土器王冠型土器57点が国宝に指定された。私がその20年前に十日町市役所で見た火焔土器であった。火焔土器は鶏頭冠突起をはじめ、火焔型土器に類似する文様を有する土器を指す。直立する四単位の鶏頭冠型突起は名前の由来でもあり、さながら燃え上がる炎を彷彿とさせる。器形全体が均整とく調和して、360度、どこから見ても隙の無い、正に火焔型土器の頂点とも言うべき優品である。篠山遺跡の出土品であり、国立博物館には1基しかないが、十日町市博物館へ行けば、国宝56点がぐるりと円形に展示され、素晴らしい縄文美の頂点である。

国宝 縄文のビーナス 長野県茅野市棚畑出土 前3000~2000年 茅野市

棚畑遺跡は、霧ケ峰南麓の台地上に立地する縄文時代中期の大規模な集落である。土偶とは、人形(ひとがた)をした素焼きの土製品で、縄文時代を通じて作られた祈りの道具とされる。当初は板状で素朴な造形であったが、中期になると顔の表現を持つ多彩な立像として作られ始め、北・東日本の各地に個性的な土偶が現れた。その一つが「縄文のビーナス」という愛称をもつ土偶で、その誕生は東日本における縄文社会が成熟期を迎えたことを暗示している。吊り上った目や突き出した鼻に加え小さな口をもつ顔は、ハート形の輪郭も相まって愛らしい印象を与える。頭部は飾り物を付けたような表現で、三角文や渦巻文基調とした文様を展開し、見る方向によってその表情を変える。体はなで肩にくびれた腰、臀部が丸く張り出す。胸には小ぶりの乳房がつき、腹部は垂れる様に丸く膨らむ。その力強くも柔らかな曲線美は、まさに「縄文のビーナス」の名に相応しい。土偶は安産の祈願や子孫繁栄を祈るために作られた、という考えをまるで表現したかのようである。

国宝 縄文の女神 山形県船形町西の丸遺跡出土 前3000年~前2000年 山形県

西の前遺跡は小国川の河岸段丘上に立地する縄文時代中期の集落で、大形竪穴住居や数多くの土坑が発掘された。この土偶は「八等身美人」という言葉が冠につくことさえあるもので、その類まれなる造形美から「縄文の女神」と讃えられている。同じく中期を代表する土偶「縄文のビーナス」とともに、頭部や臀部の特徴から河童型土偶や出尻(でっちり)土偶とも呼ばれることがあるが、その美しさは対照的である。顔の表現はないものの、頭部は弧状で表裏に複数の穿孔を持つ。腕の表現を欠く板状の胴部は、腹部が前に、臀部が後ろにせり出して厚みを増し、角柱状の長い脚部へといたる。乳房はW字状に付きだし、その下に「正中線」を引くものの性表現には乏しい。下腹部の逆五角形の区画外には幾何学文、区画内には縄文を施し、脚部の前後に多条の直線文を施す。土偶は破片で見つかることが多い。理由として、病気や怪我を治すために土偶を打ち砕きその身代わりとしたという説や、土偶の破片を集落の各所で「送る」ことで命の再生や繁殖そして集落の繁栄を願ったという説がされている。

国宝 仮面の女神 長野県茅野市中ツ原遺跡出土 前3000年~前2000年 茅野市

中ツ原遺跡は八ヶ岳西麓の台地上に立地する縄文時代中期から後期へかけての大規模な集落である。顔の表現が仮面をつけたような土偶は一般に仮面土偶と呼ばれるが、その中でもひと際大きく優美な本作は「仮面の女神」と名付けられている。逆三角形の板を頭部に括り付けたかのような表現は、まさに仮面をつけたかのようである。薄く扁平な両腕を左右に広げ、大きく張り出した同部を太く丸い両足で支える。摺消(すりけし)縄文手法を用いた渦巻文を基調として文様が両腕から胴部にかけて描かれている。また乳房の表現を欠くものの臍や性器の表現はこの文様と見事に一体化している。一定のまとまりを持つ土光群から出土した「仮面の女神」は、集落内におけるすべての死者に対する鎮魂と再生を祈るものとして埋納されたものとも考えられよう。

国宝 中空土偶 北海道函館市 著保内野遺跡出土 前2000年~前1000年函館市

著保内野遺跡は海岸段丘上に立地し、縄文後期の環状配石遺構を伴う墓地である。本土偶は、現存する最大の土偶ということもあって「中空土偶」という名を持つ。本例は頭部の一部と両腕を欠損する。顔は眉から鼻、目、耳、口が粘土を貼り付けて表現されている。頭部は扁球状で頸は短く、肩は幅広く胴部が括れる。脚部は円筒状で足首から先は小さく丸い。この両脚の間に注ぎ口のような筒型装飾をもつ。このような中空で薄手に形作られた体や全身を飾る文様は、土器作りの技術を巧みに応用したものと言われている。この「中空土偶」と同様な顔面表現と頭部の形状を持つ土偶は、東北や関東地方に広く分布する。

国宝 合掌土偶 青森県八戸市 風張Ⅰ遺跡出土 前2000年~前1000年 八戸市

風張1遺跡は、新井田川下流域の河岸段丘上に立地する縄文時代後期の大規模な環状集落である。集落は中心部に二か所の墓域が設けられ、これを囲むように内側から順に、土坑や掘立柱建物そして竪穴住居が規則的に配置されていた。膝を立てて座り、胸の前で両手を合わせるその姿から「合掌土偶」と呼ばれている。「合掌土偶」の破片の割れ口には天然のアスファルトが付着していたことから、壊れたものを直し、復活や再生を祈る儀礼が行われていたと考えられる。

重文 ポーズ土偶 山梨県南アルプス市出土 縄文時代(中期) 南アルプス市

円錐形の中空の胴部を持つた本例のような土偶は、「円錐形土偶」と一般的に呼ばれる。胸に当てた左手の指は3本に表現されている。この3本指はこの時期の土偶や土器の人物表現に共通するものである。顔面は半円で象られ、眉・鼻・目・口は粘土紐を貼り付けて丁寧な整形で仕上げられている。両目の下には、管状の工具を押し付けた竹管文で入墨が表現されている。また肩と肘の関節部は粘土粒を貼り付けて強調されている。乳房とへそもまた粘土粒で表現され、目立つ「正中線」は縁取りが加えられ垂加している。そして下腹部にはこの時期には特徴的な三角形を組み合わせるシシンボリックな女性器文様が描かれている。このような土偶には「見る土偶」と「音を聞く土偶」の2タイプがあるが、この土偶には土玉が残っていない。

重文 ハート形土偶 群馬県東吾妻町郷原出土  縄文時代後期 個人蔵

顔面がハート形のものが多い事から「ハート形土偶」と呼ばれるタイプの代表例である。「ハート形土偶」は、東北地方南部から関東地方北部にかけて見られる「山形土偶」とともに、後期を代表する土偶形式である。本例でもハート形の大きな頭部が目を引く。立体的で鼻の穴まで表現した大きな鼻と、中心がくぼんだ丸い目が印象的である。体つきは肩を強く張り、胴は極端にくびれている。腰もまた極端にくびれている。腰もまた極端に広がり、どっしりとした大型の脚部を持つている。胸には小さいけれども乳房がはっきりと表現され、肩部と腰から足にかけて渦巻・沈線・刺突で密に飾られている。本例は大きく下面が平坦な脚部によって安定して立てることができるので、本来このように置いて使用したものと考えられる。

重文 遮光器土偶 青森県つるが市亀ケ岡遺跡出土縄文時代後期 東京国立博物館

本例は、土偶の中でも大型で、表面をよく研磨してから焼き上げ、中空に作られている。左足は失われており、右目の上半も補修している。太い腕に小さな手と太く短い足の表現から、この土偶が極度にデフォルメされた人体表現だと判る。極めつけは特徴的なデザインの頭部である。顔面の半分が目で占められており、小さな鼻と口と耳があり、頭頂部には冠状の飾が立ちあがっている。この大きな目は隆帯で縁どられて、まるで北方狩猟民族が用いる遮光器を着けているように見える。しかし、縄文時代の遮光器に類する遺物は発見されていない。従って、これは遮光器をつけた姿ではないというのが現在の定説である。

重文 みみずく土偶 埼玉県さいたま市真福寺貝塚出土 縄文時代後期 東京国立博物館

縄文時代後期後半から晩期前半の関東地方に特徴的に分布する「みみずく土偶」と呼ばれる土偶の中でも、とりわけ魅力的な優品である。隆帯でハート形に縁どられた顔面に、同じ大きさの円板を貼り付けて表現した目と口がある。頭でっかちなプロポーションと相まってユーモラスな印象を与える。この顔がみみずくに似ていることから、「みみずく土偶」と呼ばれている。耳には大きな円い耳飾りを着け、頭頂部のたくさんの突起は結った髪形や櫛をさした状態を表現している。くびれた胴部から強く張る越と直線的な足の造形は、曲線的な上半身とは対照的である。また、全身が赤く塗られている。

 

約1万年も続いた縄文時代には沢山の形が作られた。その中でも、私が一番好きなのは、国宝の火焔型土器と土偶である。国宝に指定されている縄文土器は6点である。(但し、十日町市の火焔土器群は57点で1点と計算されている)しかも初めて指定されたのが平成7年(1995)と歴史が浅く、近来になって縄文時代への社会的、文化的な関心や評価が高まってきたことを表している。最初の縄文時代の国宝は、「縄文のビーナス」の愛称を持つ土偶である。縄文時代の祈りの美、祈りの形と言われる代表が土偶である。土偶は人型の土製品で縄文時代の始まりとともに登場した。本章では6点の国宝、4点の重要文化財を紹介した。また、縄文土器の代表と言えば、新潟県十日町市の火焔土器である。これは57点の火焔土器と王冠型土器合せて57点が、平成11年(1999)に国宝に指定されている。また重要文化財に指定された土偶4点を合せて、合計10点を紹介した。「縄文の造形」「縄文の美」を、日本人の「物造りの源流」として捉える考え方もある。その意味で、同時代の世界各地の焼き物類が展示されているので、是非、自分の見方で検討をして頂きたい。

 

(本稿は、図録「特別展 縄文ー1万年の美の鼓動  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、図録「国宝  土偶展   2009年」を参照した)