特別展  神仏人 心願の地(2)

「心願の地」(1)では、播磨国風土記や加東市に伝わる仏像類、十界曼荼羅等を紹介したが、加東市には、歴史の古いお寺もある。中でも播州清水寺と鹿野山朝光寺の二寺は由緒が古い。加東市には御嶽山と呼ぶ市内では一番高い山がある。その山頂に、西国三十三巡礼の第二十三札所に定められている天台宗の霊地、播州清水寺(きよみずでら)がある。清水寺は7世紀後半頃に仙道仙人により開創された。清水寺は創建時には菩薩信仰の寺として建設されたが、12世紀中頃に、地蔵信仰から観音信仰の寺へと変身を遂げた。それに合わせて法道仙人の伝承を取り入れた可能性がある。この寺に関する古代から中世に関わる寺所蔵の文書群は有名である。また、鹿野山朝光寺と号する真言宗高野山谷上宝城院末の寺院で、現存する伽藍は本堂(国宝)、鐘楼(重分)、多宝塔、仁王門、聡寺院、吉祥院等である。開創は、山頂に伽藍整備が行われた白雉2年(651)であるというが、定かではない。寺に残る伽藍、仏像類から、現在地に移ったのは古文書によれば文治5年(1189)4月に伽藍を現在地に移したと記されており、多分この時期が山麓へ寺院を移した時期と思われる。

銅像  菩薩立像  白鳳時代(7世紀後半)   播州清水寺

この仏像を拝した時には驚いた。まさか寺伝の白雉2年(651)説は、まるで信用しなかったが、この仏像は、昭和5年(1930)に清水寺境内から出土した像で加東市最古の仏像で白鳳仏とされていた。確かに左右前後から仔細に眺めてみると、白鳳期あるいは、飛鳥時代まで遡ることも考えられるお像である。東播磨には鶴林寺(加古川市)、斑鳩寺(揖保郡)等聖徳太子ゆかりの寺が現存するので、あながち無視することは出来ないであろう。白鳳期、もしくは飛鳥時代の仏像が何等かの理由で、この地に残存したことは否定し難いと思う。頭部から蓮肉部までを一鋳し、それ以下の台座は後補である。後頭部に突起があるが、当初、頭光が取り付けられていたことを示すものであろう。古拙の笑みを湛える丸みを帯びた顔や全体に対して大きめの頭部は童子を思わせる。本像が白鳳時代に遡ることを端的に示している。

木像  毘沙門天立像  平安時代(10~11世紀)  播州清水寺

本像は清水寺根本中堂に秘仏本尊十一面観音菩薩立像の脇侍として吉祥天像(今回は公開なし)と共に同厨子内に安置されている毘沙門天立像であり、厨子は30年毎に開扉(秘仏)される。カヤ材による一木造で内刳りは無く右肩から及び袖、左肘の先、持物は後補である。頂上に法珠、両脇に吹き返し付き兜を被り、右腕は大きく振り上げて戟を執り、左手は曲げて掌に宝塔を捧げ持つ。量感を持つ仏像であり、製作年代は平安時代である。優れた尊像である。

木像  天部立像  平安時代(11世紀)   播州清水寺

清水寺大講堂安置の天部立像である。頭部から足枘までカヤ一材で刻んだ仏像である。背面を割矧ぎ内刳りが施されている。内刳に墨書の痕跡があるが、判読できない。頭部に宝珠形を付ける兜、体幹部には甲冑を付ける。腰を左に捻る。一木造りらしい量感を持ちつつ、体の動きや見開いた眼や憤怒の表情に大仰なところがない。造立は平安時代後期と考えられる。

木像  大日如来坐像  鎌倉時代(13世紀)  播州清水寺

五智如来(五体の如来像)の中尊である。台座と光背は近世の後補である。寄木造で頭部・体幹部共に正中線剥ぎである。彫眼である。膝張りと裳を表す畝の造形、奥行き感のある体躯など、鎌倉時代彫刻の特徴が認められる。本像に瑞々しい若さと沈思の表情を与えている。本像を含む五智如来は当初寺内の大塔に安置されていたが、塔罹災の被害を受け現在は講堂に安置されている。

紺紙金字妙法蓮華経  室町時代 応永9年(1402)  播州清水寺

加東市内に遺る唯一の紺紙金字経である。内容は、巻子装の妙法蓮華経全八巻であり、黒塗りの経箱に収納して保管されている。本紙の紙数は16~21と幅があるが、何れの巻も表紙に法相蓮華紋様を配し、さらに見返しには、霊鷲山を背後に中央の釈迦如来が法華経の説法を行い、その傍に聴聞する菩薩の様子を詳細に描いている。本法華経は、本文の文字や左右に引かれた界線のみならず、表紙や見返しの区画に至るまで金・銀泥によって描かれている非常に美麗な経巻であり、保存状態も極めて良い。

木象  千手観音菩薩立像  平安時代(11世紀)  朝光寺

長光寺本堂の南面する須弥壇厨子の中には板壁に仕切られた二体の千手観音立像が安置されていることから「東御本尊」「西御本尊」と通称される。本像は、そのうちの「東御本尊」であり、頭部から裳裾までヒノキ材で彫る一木造りである。天冠台上に載る頭頂仏については頂上が候補である。起伏が少なく浅い彫りの衣皺た天衣、裳階の処理に和様化の傾向が認められる一方で、裳に刻まれた翻派式彫方や天衣、裳階の処理には和様化の傾向が認められる一方で、裳に刻まれた翻派式彫方や耳環を表さないことは古様の特徴と言え、目鼻口の力強い彫り方がもたらす森厳な表情と併せ、本像の像立時期が平安中期まで遡ることを示している。西本尊は鎌倉時代の様式を備え、左足枘の外側に「長快(花押)」との墨書銘がある。同様の墨名が京都蓮華王院(三十三間堂)に安置される千手観音中、二十三体が発見されている。経緯は不明であるが、本堂が建立された室町時代からそれほど離れていない時期に蓮華王院から移座されたものと考えられる。

木像  地蔵菩薩立像(六地蔵)  平安時代(12世紀)   朝光寺

現在、朝光寺本堂に安置されているが、以前は本堂西側にあった阿弥陀堂に安置されていた像である。全ての像が頭部から足枘までを一材で刻んでいる。摩耗が目立つが面部の造形が比較的残る像の相貌からは鑿の冴えが見られる。本像の制作年代は平安時代末期であると推定される。着衣形式に異動があるもののほぼ同寸の全高や全身のプロポーションに統一感があることから、元々一具の群像であったとすることが出来、比丘形であることや持物から六地蔵尊として造立されたと考えられる。

銅像  千手観音菩薩立像  鎌倉時代(13~14世紀)  朝光寺

頭部から足先までの体幹部を一鋳し、両肩から先と合掌手とその下で宝鉢を捧げ持つ手部を、一材にして鋳造し、脇手は左右を各々前後に二材にて造る。また脇手は素文の光背に打ち付けられるように意図されており、制作当初から現在のような設置形式であったと推察できる。相貌は理知的であり、製作年代は鎌倉時代と考えられる。

木像  法道仙人坐像  江戸時代(17~18世紀)  朝光寺

法道とは7世紀中頃にインドから紫雲に乗り日本へ渡航したという伝説の仙人。本像は岩座に坐して頭巾を被る修行者の姿で法道を表す。玉眼である。播磨を中心に法道開基など伝説を持つ寺院が77ケ寺を数え、そのうち55ケ寺は加東市に属する北播磨である。朝光寺にも法道仙人開基説が伝わり、現在の加西市法華山市乗寺で修行中だった法道が毎朝、東方に瑞光が天をさす場所を目指し、寺を建てたという。

 

本稿では、播州清水寺(天下の三清水寺の一つ)と鹿野山朝光寺と名のある名刹の宝物を紹介した。両寺とも秘仏を公開され、この機会を逃がしたら、二度とお目に懸れない「心願の仏」であった。また播州清水寺からは、思いがけない白鳳仏が展示され、西播州の鶴林寺、斑鳩寺を懐かしく思い出した。よもや白鳳仏にお目に懸れるとは思っていなかったので、大変思い出深い展覧会となった。

 

(本稿は、図録「特別展 神仏人 心願の地  2018年」、探訪日本の古寺第13巻「近畿」を参照した)

特別展 神仏人 心願の地(1)

多摩美術大美術館で、表記の展覧会が9月1日より10月14日まで開催されている。私は、初日・9月1日の10時から約2時間観覧し、更に午後1時から3時までのトークセッション「世界に一つー加東遺産を語る」(加東市の歴史と文化)、クロストーク「京へ続く丹波道」を午後3時まで聴き、更にその後午後4時まで、多摩美術大教綬と加東市教育委員会文化財係による展示物の説明を聞き、結局1日を、この美術展に費やした。これほど長い時間をかける展示会は初めてである。時間をかけた理由は、1つは加東市とは兵庫県の都市であり、かって2年間神戸に住んだ私にとっては、懐かしい場所であったからである。今一つは、展示名である「神仏人 心願の地」という題名と展示された仏像類が全部初めてお目に懸る仏像類であり、ここで見逃すと、一生見られない内容であると思ったからである。事実、この展覧会を見て、この想いは間違いがい無いことを確信した。「心願」とは、広辞苑によれば「物事の要点をはっきりと見分ける鋭い心の働き」と説明している。思うに「鋭い心の働く土地」との意味であろうか?「かみ、ほとけ、ひと」に対し「鋭い心の働く土地」の意味であろう。私は、神戸に2年間棲み、働いた土地であり、兵庫県内で知らない土地は無いと自負していたが、情けないことに加東市という土地には全く記憶がない。しかし、加西市という土地名を覚えており、多分その東の都市だろうと、大体の推測はついた。図録の「ごあいさつ」を読んではっきりした。加東市は平成18年に社町、滝野町、東条町が合併して誕生した新しい地名であり。知る筈がないのである。その場所は、神戸よりやや北西に位置し、三木市や加西市に隣接する土地である。加東市は、古くは播磨国風土記に記載のある賀毛群(現在の加東市・小野市・加西市域)に属している地域とされ、平安時代以降東西二つに分断された加東郡(加東市・小野市)と加西群(加西市)という地名が誕生した。この時期から、市内を東西に横断する主要道路の丹波道が積極的に活用されるようになり、この地が歴史の舞台に登場する機会が増えた。また市内を南北に縦断する一級河川加古川の存在も、この地域の歴史にとっては欠かせない。内陸部の物資を大阪方面に送るために発達した舟運の重要な拠点として舟坐が設けられた。当地域は、多くの社寺、大名・旗本の領地となり、中央政界とも密接な関係を持つに至り、豊富な文化遺産が現在に引き継がれているのである。

播磨国風土記  佐保神社本  江戸時代末期~明治時代  佐保神社

風土記とは和同6年(713)当時の朝廷が各地の役所に命じて作らせた、日本最古の地誌である。現存するのは、常陸国・出雲国・肥前国・豊後国・播磨国風土記の5つのみである。これは播磨国風土記の内容が記載された写本であり、和綴じの冊子で、計51紙で構成される。本資料は、幕末~明治期に在世していた佐保神社の宮司神崎長平が書写したものと推定される。明治期まで、風土記が書写されていたことに驚いた。日本人の向学心の高さに驚かされた。

出土祭祀土製品(阿高・上の池遺跡出土)  古墳時代中期(5世紀後半)加東市

河高・上の池遺跡は扇状地に位置する。この遺跡の東端付近から、二棟の竪穴式住居跡が見つかっている。この竪穴建物遺跡は、広大な扇状地上に一棟のみ存在していたことから、集落を見下ろす位置に建設された特殊な施設であると判断された。この特殊な施設は、何等かの祭祀を執り行う場であった可能性が高い。これらの土製品は、現時点では、日本で唯一の祭祀用品であるそうだ。「播磨国風土記」には、荒ぶる神を鎮めるために人形を使ってお祀りが行われたと言う記載があることから、この土製品は、風土記に記された祭祀が5世紀中頃には既に行われていたことを示すものであろう。

木像地蔵菩薩立像  平安時代(11世紀)        東古瀬地区

平安時代中期から後期と目される仏像の作例が90体以上、この地域に伝わっている。播磨国風土記にある加茂郡は現在の加東市、加西市、小野市、多可郡等の行政区域を含み、この加茂郡には有力貴族や寺社の地領地が散在したことが、大きな理由であろう。この地蔵菩薩は、まさに心願の造形である。頭から足まで一材で刻み内刳を施す地蔵尊である。両手首と足先は後補である。広い肩幅と堂々とした体躯は、平安時代の特徴を示す。

木像十一面観音菩薩立像  平安時代(11世紀)       沢部地区

頭部からは足枘までを一材で彫る一木造である。手首と足先、頭頂仏と化仏は後補である。彩色は近世の修理であろう。全体として保管状態は、極めて良い。

木像  地蔵菩薩像   平安時代(11世紀)    沢部地区

頭部から足枘まで一木で彫る一木造である。両手首と足元から先は後補である。江戸期と思われる彩色補修が見られる。着衣は厚さがあり、裳の下裙は足首上辺りまで垂れる。本像のように腹部を丸く隆起させる特徴は丹波の達身寺に多く見られ、「達身寺様式」と呼ばれる。丹後との文化交流が見られ、この地区の先進性を示す事例である。

木像  薬師如来坐像   平安時代(12世紀)    東光寺

結跏趺座し衲衣を着す薬師如来坐像である。螺髪は表さない。右手は屈臂し胸前で施無為印を取り左手は膝上辺りで掌を上に向け薬壷を載せる。ヒノキの一材から彫り出した後に、前後に割り矧ぎ、内刳りを施して接合し、細部を仕上げる割矧造である。眼は玉眼で造立当初からのもの考えられる。穏やかな風貌や浅い着衣の彫りから考え造立は平安後期の頃となろう。

木像 阿弥陀如来坐像  平安時代(12世紀)   東光寺

来迎印を結び結跏趺座する阿弥陀如来坐像であり、玉眼で、前者の薬師如来坐像と共に同じ厨子内に安されていいる。薬師像との共通点が多い。一方、螺髪の有無や面相の造り、薬師像の衣文が簡略化されていることなど作風の差も見られる。共に玉眼の早い時期の作例であり、遠からぬ関係にある仏師(例えば兄弟弟子等)によって造立された可能性もある。

木像  薬師如来坐像  平安時代(12世紀)  多井田地区

結跏跋座する薬師如来坐像である。右手は施無為印、左手は薬壷を載せる。衲衣を偏祖右肩に纏い偏杉を着している。頭部から体部を檜の一材で彫刻し、横一材から膝前及び裳先を共に刻出し矧ぎ着ける。膝前に載せるのは後補の手首である。制作時期は平安後期である。面貌は穏やかである。

木像 阿弥陀如来坐像(左) 室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区    木造 薬師如来坐像(右)  室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区

 

頭部から蓮華座までを一材で刻む阿弥陀如来蔵王である(左)。衲衣を通肩に着し、蓮華座上に結跏跋座し腹部で定印を結ぶ。小像ながら量感も併せ持つ像である。像が負う舟形光背も当初のものであり、像の彩色も含め良好な状態で制作時の姿を留めている。背面には墨書銘で作者、光背の裏には「元亀二年辛未/一躰乃施主常住坊源重律師/六月廿日」の墨書銘が残り、仏師と施主そして造像年月日が判明する際めて珍しい像である。薬師如来坐像にも像の背面、及び光背裏に全く同じ墨書銘が残り、両像は、仏師と施主そして制作年月日が判明する極めて珍しい像である。

紙本 熊野勧人十界図  江戸時代中期(18世紀)  持法院

熊野観心十界図は、視心十界の世界を描いた作例の一つ。「心」の文字を中心に、六道四聖を放射線状に展開させるところに図像的特色がある。十界は六道の地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、四聖の声門、緑覚、菩薩、仏のことである。勧心十界図の図像名に熊野の地名を冠しているのは、熊野との強い結びつきから命名されたものである。熊野観心十界図は熊野比丘尼が地獄極楽の説教に用いる図像として開発された。では、どのような地獄図なのであろうか。絵の寸法はタテ140cm、ヨコ約130cm。大きな画面には地獄を初めとする様々な世界が描かれている。絵具は安物の泥絵の具、そして、その絵は庶民の感性に訴える素朴な筆致である。熊野比丘尼が所持していた熊野歓心十界図は工房で量産だが、その工房は明らかではない。16世紀は、戦国動乱の時代であった。日本の社会は大きな変革期を迎えていたが、その一つに庶民層における「家」の成立がある。「家」は暮らしの拠点でありと同時に、家名、家業、家産を継承する母体であった。庶民の自立と家意識の高まりは無縁ではなく、庶民はこの時期、自分たちの人生を考え、自らの死後世界と向き合う時代を迎えた。この「家」意識の広範な成立は、先祖の安楽と家の安泰が結びつき、先祖への報恩・供養の重要性が説かれたのである。熊野観心十界図は、家意識の高まりの中で新しく登場してきた来世の世界観を積極的に取り入れた「家」社会の地獄絵であった。この制作時期は16世紀以降とみて大過ない。

 

兵庫県加東市に伝わる播磨風土記や「心願の造形」を見てきたが、「播磨国」が持つイメージより遙かに都会的、京都的であることに強く感銘を受けた。これは隣接する摂津国、丹波国からの都会的(京都的、大阪的)文化の影響であろう。その意味で、加東市を南北に貫く丹波道の影響が大きいであろう。神戸の持つ先進的と姿性は、明治以降の開国の賜物であり、18世紀以前の播磨国は、源平の戦場跡であり、この「心願の地」が示す先進性を持っているとは思ってもいなかった。この展覧会から得たものは、播磨国の先進性であり、仏像、仏絵の優れたものが多数残されていることである。また、多摩美大美術館が、案外私の住いから近いことも、一つの発見であった。

(本稿は、図録「特別展  神仏人 心願の地 2018年」、探訪日本の古寺第13巻「近畿」を参照した)

江戸名所図屏風と都市の華やぎ

出光美術館で、「江戸名所図屏風と都市の華やぎ」が開催されている。京都の街では洛中洛外図や祇園祭礼図屏風を見る機会は多いが、江戸の華やかな名所図屏風は見たことが無い。勿論、浮世絵の世界で、江戸の華やかさは度々見る機会に恵まれているが、江戸の都市図屏風は見たことがなかったので、非常に興味を持って拝観した。結果は予想以上に華やかな江戸の風景や風俗を描いた屏風図で、江戸情緒を堪能する機会となった。ただ、いずれも長巻で、全部を紹介できない事例が多いので、場合によっては左隻の半分というような紹介にせざるを得ない事例も多々あるので、ご了承願いたい。

重文 江戸名所図屏風 右隻の一部  八曲一双 江戸時代  出光美術館

この絵巻は、江戸創世期の姿を捉えた貴重な作品である。右隻に1000人、左隻(絵としては見せていない)に約1200人もの人物を描き込んで織り成された江戸都市生活の熱気が見所である。では、右隻の半分について解説する。、向って右隻の第1扇から第二扇の上の部分には寛永寺の伽藍が広がり、参詣者が多数集まっている。寛永寺は、山号も「東の比叡山」という意味で東叡山ともいう。境内には寛永8年(1631)に建てられた五重塔がそびえる。隣には東照宮が建ち、その傍らには大きな大きな不忍池がゆたかな水をたたえている。下から見ると、隅田川が流れている。東の方へ歩いてみると、対岸の向島をのぞみつつ進むと、浅草寺の立派な伽藍が見えてくる。浅草寺は江戸でも最も古い寺院であり、建てられたのは推古36年(628)と伝えられている。浅草寺は寛永8年と同9年(1642)に火事で多くの建物を失った際にも、幕府の援助を得て復興を遂げている。火災で焼け落ちた三重塔は、慶安4年(1648)に五重塔に建て替わっているので、この絵の伽藍はその時のままの様子を伝えることになる。浅草寺に近づくと、威勢の良い声が聞こえてくる。境内は、江戸の初夏を彩る三社祭の真っ最中である。お祭りの行列を逆流すると剣鋒の後ろに獅子舞やおたふく、母衣武者、山伏などの華やかな衣装が続いている。浅草橋に近づくと、三基の御神輿が陸揚げされるところである。ここで江戸の総鎮守府・神田明神を目指して西へ向かうと、横長の建物が目に入る。これは浅草寺にも、京都に倣って三十三間堂が建っていた。完成したのは寛永20年(1643)。その後元禄11年(1698)に火事で失った。この絵が描かれたのは寛永20年(1643)頃と推測される。神田明神に立寄ってみると、境内に設けられた舞台で、神事能が演じらられている。境内は観客でごった返しである。

重文 江戸名所図屏風 左隻一部 八曲一双屏風 江戸時代  出光美術館

まず天守閣がそびえているのが目に飛び込んでくる。この城の造営はすでに長禄元年(1457)大田道灌の手で成し遂げられていたが、それを再整備・拡張したのが徳川家康である。五層の天守は慶長11年(1606)以降、寛永15年(1638)までの間に三度行われた造営を経たものである。この威厳あふれる天守は、城のその他の建物もろとも、明暦3年(1657)の大火災によって焼け落ちてしまう。その後天守が復興されることは二度となかった。江戸城天守の眼下には中橋までの通りの左右に商店が並んでいる。扇家や繰糸屋など、幾つかの業種が17世紀前半の「色音論」という仮名草子と共通して記されている。霊願島に渡ると、第1扇から第2扇の下に立派な屋敷が見えてくる。幕府の海の仕事をつかさどった向井将監の上屋敷である。その近くの水辺では、華やかな舟遊びが広げられている。舟の上では、音楽を楽しんだり、酒杯を傾けたりして楽しそうな男女の姿が見える。舟には向井将監邸で見た下り藤の紋が見える。舟上の男性は向井家の誰かであろう。更に南に進むと、芝居小屋が立ち並ぶ木挽町に出た。画面の下半分の広大なスペースを使って展開された遊興の空間である。まずは歌舞伎の小屋で、正保元年(1644)にオープンして間もない山村座と思われる。これは若衆と呼ばれる美少年たちのヘアスタイル。彼らが演じる歌舞伎は若衆歌舞伎と言い、遊女による女歌舞伎が禁止された寛永6年(1629)ころ以降に流行した。隣の小屋では操り浄瑠璃が演じられており、悲劇に涙を拭う観客の姿もあるが、芝居そっちのけで煙草をすったり、酒杯を傾ける人たちもいる。江戸時代の遊楽の様を生き生きと写した素晴らしい絵巻である。

江戸名所遊楽図屏風  六曲一双 江戸時代       細見美術館

金雲によって画面が六つの領域に区画された中型の屏風には、賑やかな江戸の様子が写されている。最も大きなスペースを取られているのは浅草寺の伽藍である。観音堂には参拝者が集まり、境内では三重塔のそばに軽業や鉦叩きの姿も見える。仁王門の前では、講釈師が小銭を募り、女性がでんでん太鼓を商う様子が見える。茶屋が軒を並べる参道では駕籠や馬に乗った武士が進む。その下の区画は右から吉原の座敷、「釣針」と「鐘引」の演目と思われる人形浄瑠璃の小屋、歌舞伎の舞台と場外の喧嘩に当てられる。画面右上には数隻の舟を浮かべた隅田川、左上の空間に描かれるのは、木母寺と梅若塚と目される。浅草寺の伽藍の様子は、五重塔が造営され始める寛永12年(1635)以前のもので、「茶屋遊び」が演じられる歌舞伎も寛永6年(1625)に禁じられる女歌舞伎であることから、窺える年代は西暦1630年頃と推定さえれる。

江戸風俗図屏風 六曲一双  紙本着色  江戸時代  出光美術館

向って右隻の中央には浅草寺の観音堂が大きく配され、多くの参拝者でにぎわっている。その右手奥には、新吉原の遊女町と揚屋の情景が広がり、金雲で区画された空間では喧嘩、さらに手前のスペースには縫物屋、織物屋、指物屋、加羅油商、蹴鞠所が軒を連ねる。浅草寺仁王門向かって左には色茶屋が並び往来を武家の女性の行列や獅子舞などがゆく。その上方の右側には竹矢来のなかで相撲に興じる人々の姿が描かれる。金雲を隔てた左側には馬場がしつらえられ、馬にまたがった武士たちが手綱を取る。この絵の画家は、先行する菱川師宣(?~1694)の絵本をもとに、舟遊びの場面などを仕上げたらしい。ただし、その筆者を特定するのは難しく、かつ屏風の左右で描き方が異なることも、さらに問題を複雑にしている。

阿国歌舞伎図屏風  六曲一双  紙本着色  桃山時代  出光美術館

出雲の阿国が、北野社頭を舞台にして新たな芸能を興したのは、慶長8年(1603)の春のことだった。「当代記」は、阿国のいでたちを「縦ば威風なる男のまねをして、刀脇差衣装以下、殊異相也」と記録している。彼女がまねたのは、戦後の満たされない欲求を奇抜な服装や行動で満たすほかない若者たち、すなわちかぶき者の姿であった。それゆえ、阿国の演芸は歌舞伎踊りと呼ばれる。この屏風絵は金雲の切れ間に北野社の八棟造りの屋根を隠顕させ、阿国扮するかぶき者と茶屋の女性との痴戯を題材とした演目「茶屋遊び」を描く。この絵は、阿国歌舞伎を描いた屏風絵のなかでも、最も古い部類に属する。役者の後方に坐す囃し方はわずか三人で謡座を伴わず、歌舞伎踊の原初的な演芸を伝えている。絵画としての本図の魅力は、樹木や人物の奔放な表現にあるだろう。この古びた色は、桃山時代まで遡るものであろう。

阿国歌舞伎図屏風 六曲一双 紙本金色  江戸時代    出光美術館

この屏風絵は、上の屏風絵に比較して新しい。お国が頭に鉢巻をつけること、また猿若が手に籠形の被り物を下げることが、いずれも前者から年代を下降させる材料である。描いたのは狩野派の技量を身に付けた画家であろう。前者に比較すれば、色も新しい。

歌舞伎・花鳥図屏風 六曲一双  紙本金地着色  江戸時代  出光美術館

高さ1尺余りのごく小さな画面に細密に描かれるのは、歌舞伎踊りである。「茶屋遊び」の演目を描いたものとして知られる。しかし、演じているのは阿国ではなく、阿国を模倣した遊女であることは、後坐と橋掛りに数人の禿(遊女に付き従う少女)を伴うことや舞台に三味線が描かれること等からも明らかである。左隻には(絵画は付いていない)若衆歌舞伎が描かれている。寛永6年(1629)女歌舞伎禁止令以降に流行を見せるのが若衆歌舞伎である。この屏風のように、異種の歌舞伎図が1双に分けられて描き分けられた例は、極めて珍しい。こうした組み合わせが同時並行していた寛永年間(1624~43)後期の実情であったかも知れない。左右の画面の両端に巨樹を据えるのは、近世初期の狩野派の規範的な構成である。かって幕末から明治に活躍した政治家・井上薫が所有していたものである。

遊里風俗図 菱川師宣筆 絹本着色 寛文12年(1672)出光美術館

激しく折れ曲がる樹木が巻頭に描かれ、遊里の奥座敷と思われる屋内では、華やかな歌舞伎や酒宴が繰り広げられている。向かって右端の火鉢の側では抱き合う男女の様子までもが捉えられ、画面全体が享楽的な気分に満たされる。縁先に降りて、雪合戦に興じる人物も見える。画面の末尾に寛文12年(1672)の年紀をともない、師宣の肉筆画の仕事を考える上で、最も重要な作品の一つである。

吉原遊興図屏風(右隻) 菱川師重作 紙本着色  江戸時代  出光美術館

一双屏風の右から左へ視線を動かすと、隅田川を上がって吉原の往来を通過し、奥の座敷へと情景が変わってゆく。その画面構成は、巻子に装われた江戸景観図を見るかのようである。ただし、画家の大きな関心は左隻の(写されていない)第4編から第6編にわたって描かれる室内の描写に置かれており、それがこの絵を特徴づけている。各扇が一枚づつでも観照に堪えるかのように独立する傾向は、屋内の情景に限らず、それ以外にも当てはまる、この絵の筆者は菱川師宣の門人・師重と伝わる。

 

新興都市・江戸の名所図会、風俗図等約10点を通して、江戸の持つ賑やかな歓楽街や遊里など、新規都市の活気を感じる展覧会であった。いずれの名所図屏風は長く、右隻の一部とか、全体が見せられないものとなったが、図録では、実に細かく、各扇の1枚、1枚を拡大した写真が付き、今に残る江戸風情を感じさせるものがある。江戸と言えば、浮世絵であるが、このような屏風類は、多分、豪商、上層武士階級の持物であったろう。保管状態も良い。一見の価値はある。

 

(本稿は、図録「江度名所図譜屏風と都市の華やぎ   2018年」、図録「美の祝典  2016年」を参照した)

歿後50年 藤田嗣治展(5)カトリックへの道行き

藤田と君代夫人は1955年にはフランスに帰化し、日本国籍を抹消し、更に1959年にはカトリックの洗礼を受け、フランス及びヨーロッパ文化への同化の意志を明確にした。これらの行動は、1949年の離日に始まる日本との決別の儀式を完成するものであり、藤田の心の傷の深さを示すものと解釈されてきた。君代夫人は、藤田が日本を捨てたのではなく、捨てられたのだと語ったというが、日本は藤田を忘れることができず、藤田も日本に別れを告げられない、というのが両者の実際の関係だったのではないだろうか。フランスへの帰化、カトリックへの改宗は、むしろ自分と日本とのつながりの強さを改めて藤田に感じさせたのではないだろうか。1959年10月14日、フランス北東部の歴史ある街、ランスの大聖堂で、妻君代と共にカトリックの洗礼を受けた。先例名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ「レオナール」とした。以後の作品には「L・Fourjita」とサインするようになった。1910年代から、キリスト教をテーマにした絵画を描いていたが、洗礼後は「フランス人・キリスト教徒」として、熱心に制作した。藤田が画家として最後の努力を傾注したのがランスの平和の聖母堂、通称藤田チャペルである。完成して間もなく体調を崩して入院。その後入退院を繰り返して1年余りで、この世を去ったことを思えば、まさに命を賭した仕事であった。「平和の聖母」という名称にはっきりと込められているように、そこを訪れるすべてに安寧をもたらすような場所を願って建設されたものである。藤田が晩年に描いた宗教画は、全く市場性は考えない、純粋な信仰心、藤田自身の言葉によれば「神への愛」の発露として描かれたものである。

風景  油彩・カンヴァス   1918年       名古屋市美術館

1918年の4月から夏にかけて戦争からの疎開もかねて南フランスのカーニュで過ごした。同行したのは、妻のフェルナンド、モディリアーニ、スーチン等であった。この「風景」は色彩の明るさはあるものの、どこか不穏な雰囲気にも感じられる。地面や空、さらに草木にもうねるような筆が加えられ、風景が歪んでいるようにさえ見える。藤田は古い教会やカルヴェール(石造十字架)に接して以降、キリスト教への関心を深めた。

二人の祈り  油彩・カンヴァス  1952年  個人蔵(日本)

藤田が、主要な画題としてキリスト教主題を取り上げたのは、戦後アメリカ滞在を経てパリに渡った以降のことである。1952年の年紀を持つ本作はそうした中でも最初期の作例で、画家と君代夫人が生涯身近に置いていた思い入れの深い作品である。ここに描かれるのは聖母子に向かいひざまずき、祈りを捧げる藤田夫妻の姿である。傍らの画架には、ゴルゴダの丘へ向かうキリストの容貌が写し取られたという聖画布を思わせる素描を描いたキャンパスが置かれ、幼子が将来、十字架にかけれる運命であることが示される。藤田が画業を奉じ自らの救済と受容を祈り願う対象は、キリスト教という西洋文明社会のことではなかったかとも想像さあれる。聖母子と絵画芸術とが象徴する清い世界へのあこがれが、作者のルサンチマンと表裏一体であったことを本作は素直に示している。自室に飾るために制作され、君代夫人が最後まで手放さなかった作品である。

協会のマケット  木製 1953年  メゾン・アトリエ・フジタ(フランス)

画家お手製の模型を描いた作品である。今も、メゾン・フジタに残されている。1953年の夏、藤田が友人のジョルジュ・グロジャンのヴィラの所領に滞在したおりに聖堂の模型(マケット)を制作したことが伝えられている。その時の模型こそ本作に描かれたものであろう。ピラでの夏、画家は友人にいつか聖堂の建設を実現したいと語ったともいう。この頃には君代夫人のうちにもカトリックに対する宗教的感興が芽生えていたようである。彼女は聖地ルルドの訪問を希望し、グロジャン一家は彼女の願いを叶えるために運転手付きの車を用意したという。グロジャンは後に、藤田のフランス国籍取得に際しても力を尽くすことになる。この模型の制作は、1955年2月のフランス国籍取得のがきっかけとなったかも知れない。「教会」内には、南米で手に入れたという豪華な衣装で全身を覆っている聖母マリア像が立つ。

聖母子  油彩・カンヴァス 1959年  ランス大聖堂(ランス美術館寄託)

1955年にフランス国籍を取得した藤田夫妻は、1959年10月14日、ランス大聖堂で洗礼を受け藤田はレオナール、君代はマリー=アンジュ=クレールの洗礼名を授かった。藤田のカトリック信仰に対する傾倒は1950年代の早いうちからうかがわれるが、自身の二度の離婚が改宗の妨げとなることを心配し、躊躇する期間が長くあったようである。画家夫妻は、歴代のフランス王が戴冠式を行ったランス大聖堂において洗礼式をあげうことになった。その模様は世界各地からやってきたテレビ・ラジオ・新聞等に取り上げられ、メデイアの寵児として健在ぶりを示すことにもなった。画面に描かれた聖母子を覆うひさしのような構造物は素朴な木材を組み合わせた質素なものであるが、金箔をほどこし、その上に鮮やかな文様があしらわれた額縁と対照をなしている。

キリスト降架 油彩・布 1959年 パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)

画面下には受洗の年のクリスマス年紀を持つ。息絶えたキリストを抱きかかえる白髪の男性は父ヨゼフ、膝を抱きかかえる青い衣の女性は母マリア、キリストの足元に触れる緋色の衣をまとった女性はマグダラのマリアであろう。画面の上部がアーチ状に縁どられた金箔によって覆われているのが目を引くが、同様の構図を持つ作品が1960年頃に精力的に描かれている。格子状に金箔を配する方法は、ルネサンス以前の聖画と琳派など日本美術の装飾性とを同時に想起させるものとして戦前にも用いられたものである。1960年のポール・ペトリデス画廊での個展に出品後、翌年イタリアのトリエステで開かれた第1回「国際宗教美術展」で展示され、金賞を受けた。晩年の大作は、1991年に君代夫人よりパリ市立近代美術館にまとめて寄贈された。

礼拝  布・油彩  1962~63年  パリ市立近代美術館

二人の天使によって冠を授けられる堂々たる聖母マリアの姿が描かれる。その左右に跪き、祈りを捧げる画家夫妻の姿がある。敬虔な身振りでもって大きく描かれた二人の姿は、あまたある宗教画の中の寄進者の身振りをなぞったものに他ならない。画面の左端には、画家の終の棲家となっいたヴィリエール=ル=パクルの家が小さく描き込まれている。洗礼の1年後に購入し、1年間の改修のあと入居した。

マドンナ 油彩・カンヴァス  1963年  ランス市立美術館

聖母マリアと周囲の天使ともに有色人種の容貌で描いた珍しい作品である。この聖母のモデルはアフリカ系アメリカ人の女優マルベッサ・ドーンで、1959年公開の映画「黒いオルフェ」でヒロインを演じて話題になった。その姿を良く捉えている。1964年ポール・ペトリデスの生前最後となる個展に出品した。

十字架  油彩・板・金具  1966年   ポーラ美術館

藤田の念願だったノートルダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設が始まった年の作品である。当時の藤田は君代のため木製の装飾箱を多数制作していたが、これも夫妻の生活を彩るための作品であろう。ヴィリエル=パクルの家では居間の棚に置かれていた。箱の上の十字架風の板の片面には祭服を着た幼子イエス・キリストが描かれている。他面に描かれたのはキリスト(成人)の図である。藤田の死後フランスから帰国した君代夫人は、この十字架を寝室に置いて、亡くなる最後の時まで大事にしていたそうである。

 

「没後50年 藤田嗣治展」を延々5回に亘り連載したのは、フジタのすべてをこの機会に記録しておきたいとという強い思いがあったからである。ここに描いた藤田は、私の思う藤田のすべてであり、特に戦争画と戦犯容疑については私見を交えながら、調べられる限り調べてみた。日本画壇の藤田に対する、その時の態度は大人の態度ではなかった。あまりにも大人げない仕草に、70年後の今でも許せない気持ちである。しかし、藤田の戦争画は優れたものであり、他の画家の追随を許さない。藤田は1968年1月29日に、81歳で亡くなった。日本政府は藤田の功績をたたえ、勲一等瑞宝章を授与した。地下の藤田は、この報をどのような思いで受け取ったであろうか。

 

(本稿は、図録「没後50年藤田嗣治展(5)カトリxクへの道行き2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示  2015年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を参照した)