国立西洋美術館  常設展  ポスト印象派

この章で取り上げる作家は、ゴッホ、ゴーギヤン、藤田嗣治などで、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した画家たちの作品である。これを「ポスト印象派」等という呼び方は如何かと思うが適当な呼び名を思いつかないため、あえて一般的な呼び名にししたので、お許し頂きたい。

ばら フィンセント・ゴッホ作 油彩・カンヴァス     1889年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、1889年5月上旬には自らサン=レミの療養所に入った。入院してからしばらく外出を禁じられていたゴッホは、状態が落ち着くと療養所の庭に出て制作するようになる。何週間も療養院の敷地内に留まらざるを得なかったものの、新たな環境はゴッホにインスピレーションを与えた。庭に対しては以前から興味を持っていた。療養院での日々の様子を弟のテオに伝える手紙の中では、庭で描き上げた作品のモチーフについて「キヅタに覆われた木々の太い幹、同じくキヅタやツルニチソウに覆われた地面、石のベンチとひんやりした木陰のバラの茂み」と挿図を添えて書き送っている。本作もまた、療養院の荒れた庭に咲くバラの茂みを描いたものであろう。草が生い茂る地面を背景に、淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は、浮世絵やジークフリート・ビングの「芸術の日本」の挿図など、パリ時代にゴッホが触れた日本美術の影響が見て取れる。ゴッホほど、日本の浮世絵を愛した画家は少ない。

海辺に立つブルターニュの少女たち ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス1889年

ゴーガンは1888年の夏にポン=タヴェンを訪れたエミール・ベルナールから刺激を受けて、明瞭な輪郭線に囲まれた平らな色面で画面を構成する「クロワニズム」の様式を取り入れた。彼は、印象主義を乗り越え、象徴主義絵画の創始者のひとりとなった。ゴーガンは1889年の大半をブルターニュで過ごしている。秋にはポン・タベンから海辺の寒村ル・プールデュへ移り、オランダ人画家メイエルデ=ハーンと共同生活を送りながら制作した。この作品はル・プールデュの農家の子供たちをモデルにしながら、ブルターニュの印象を総合主義の理念に基づいて表現したものである。黒い頭巾を被り、大きすぎる服を着たふたりの少女は、拗ねたような表情を浮かべ、警戒の眼差しを返している。ごつごつした素足を誇張して描かれた彼女らの姿は、素朴な木彫像のようである。背景は鮮やかな色面によって帯状に分割され、岩礁のある険しい海岸の眺めを表わす。

坐る娘と兎  ピエール・ボナール作 油彩・カンヴァス 1891年

ナビ派の画家達はゴーガンの言葉や作品に触発され、自然の再現とは異なった、絵画として独立した色面、線、構図を追求し、作品に装飾的な傾向を示したグループである。ナビとは「預言者」を意味する。ボナールはこのグループのひとりとして活躍を始め、特に当時ヨーロッパ全体に広がっていた日本趣味(ジヤポニズム)に深く傾倒した画家である。のちに人物や風景など身近な日常の光景を、周囲に溶けるような明るい色彩と筆致で描くようになる。本作は1891年、サン=ジェルマン=レで開催されたナビ派の第1回展に出品された。この時期のボナールは、全面的な構成による装飾的な絵画やポスターを制作し、浮世絵などの日本絵画の影響を全面的に出していた。それは日本画を思わせる縦長の画面が用いられた本作にも十分認められ、アールヌーヴォー風の曲線を描く肘掛椅子に座る女性が、木の葉の上にまるで貼り付けられたように見える。すべてが流れるような曲線で描かれ、画面にリズムを造り出している。

サン・トロペの港 ポール=シニヤック作 油彩・カンヴァス 1901~2年

最後の印象派展となった1886年の第8回展に参加したジョルジュ・スーラーとともに新印象派を創始したシニャックは、1891年のスーラーの急逝後この流派を率いた。彼は1892年にみずから操縦するヨットで南仏のサン・ト・ロペを訪れて以来、この色彩豊かな風物に魅了され、毎年数カ月をこの港町で過ごす。本作はサン・ト・ロペを見出してちょうど10年目に当たる1902年に完成された。シニャックの風景画としては最大の作品であり、彼の代表作の一つに数えられる。サン・ト・ロペの旧い港の全貌が西側から捉えられ、特徴ある教会の鐘楼を中心とした旧市街地、17世紀の城塞がそびえる丘、波止場に泊まる帆船、漁師たちを乗せた小舟など、シニャックが愛した街の歴史と風土を物語るさまざまなモチーフが描かれている。新印象派に特有の色とりどりの筆触が画面を覆っているが、作者自身が本作について「強いオレンジ色の背景に青のアラベスク」と記した通り、遠景の街並みのオレンジ色と前景を包む影の青という補色の組み合わせが、全体の配色の基調である。彼のこうした新しい画風は、マチスを始め、純粋な色彩による表現を求める20世紀初頭の画家たちに示唆を与えることになる。

花と泉水アンリ=ジャン=ギョーム・マルタン作油彩・カンヴァス 1900年頃

新しい世代の筆頭であるジョルジュ・スーラーが新印象派を創始する一方、彼と同世代のアンリアルタン、アマン=ジャン、エルネスト・ローランらはアカデミズムを基礎としながら印象派や新印象派の手法を吸収し、世紀末に流行する折衷的な絵画様式を作り上げた。マルタンは新印象派の点描技法を取り入れたが、厳密な色彩分割の原理に基づくのではなく主観的な感覚によって配色を選び、光の効果や神秘的雰囲気を生み出すためにこの技法を利用している。マルタンは1890年代に象徴主義的な寓意画をサロンに出品して注目され、20世紀初頭から1930年代まで、故郷トゥールーズとパリの市庁舎、エリゼ宮、国務院など多数の交共建築のために大画面の装飾画を手がけて成功を収めた。その一方、フランス南西部ロト県の小村ラバスティード=デュ=ヴィエールの丘に建つマルケロールという名の屋敷を拠点に、自然と人工の美に調和を表現する色彩豊かな風景画を数多く描いている。マルケロールの庭園に設けられた半円形の人工池は、彼の作品にたびたび描かれたモチーフである。池の石壁の中央には、鵞鳥を連れたプットーの石像が立つ。池の周囲にはゼラニュームの鉢がびっしりと並び、その赤い花が緑の茂みと鮮やかな対比をなす。

テラスの二人 エルネスト・ローラン作 油彩・カンヴァス 1922年

エルネストローランはサロン肖像画の伝統に印象派と象徴派の新しい感覚を取り入れ、ベル・エポックの富裕層の間で人気を博した画家である。彼は国立美術学校で知り合ったジョルジュ・スーラー、アマン=ジャンと親交を結び、印象派やピュヴィ・ド・シャパンヌの作品に関心を寄せたが、1889年にローマ賞を得てイタリアで5年間の留学生活を送り、帰国後は伝統あるフランス芸術協会サロンを発表の場として、アカデミックな経歴を貫いた。1919年には美術アカデミー会員に選出され、国立美術学校の主任教綬にも就任している。1900年代以降は肖像画のほか、女性を主役とした日常の穏やかな情景を描いており、同様の傾向を持つアマン=ジャン、アンリ・マルタン、ル・シダネルとともに「アンチミスト」としばしば呼ばれる。「テラスの二人の夫人」は、ローランの洗練された色彩感覚をよく示す晩年の作品である。舞台はおそらくパリ郊外ピエーヴルの自宅の庭であろう。

坐る女 藤田嗣治作  布・油彩             1929年

足を投げ出して座るポーズは、肖像画の際に藤田が好んで用いたものである。マネやルノワールの影響と思われるが、藤田の代名詞でもあった「横たわる裸婦」のような雰囲気を、肖像画でも再現する格好のポーズだろう。また、衣装の柄やデザイン、布の襞などをたっぷりと見せることの出来るポーズでもあり、この作品でも柔らかな布の作る美しいドレープを見せ場の一つになっている。一方、金地で仕上げた背景もお得意のスタイルだった。藤田が金箔を自作に取り入れ始めるのは、乳白色の下地を生み出すよりも早く、1910年代後半である。日本的な仕上げや、中世のキリスト教絵画のような雰囲気を模索する中で見出した手法だったが、乳白色の下地で人気を博した頃から、注文制作の肖像画にも積極的に使うようになる。金箔は現地で調達したものを使い、大きな作品の場合でも、貼る作業まで自分で行うことが多かったらしい。金地で仕上げたオリエンタルな雰囲気の肖像画は、注文主が藤田の作品に求めるイメージにぴったりだったに違いない。藤田の画家人生において絶好調の時代であり、作品の価格はマチス、ピカソと並んだとも言われる。

 

ポスト印象派は、新印象派・象徴主義・ナビ派など多彩な展開を見せたが、20世紀のピカソやマチスに繋がる美の系統を作った。印象主義と現代を繋ぐ重要な時代であった。私個人としては、最後のフジタの作品が一番好きである。理屈ではなく、好みを好きに言える場は有りがたい。

 

(本稿は、図録「国立西洋美術館名品選」、図録「新印象派  2014年」、図録「ゴッホとゴーギヤン展 2016年」、図録「藤田嗣治展  2016年」を参照した)

国立西洋美術館  常設展  印象派の画家

国立西洋美術館は、企画展と平常展の2本立てで展覧会を開いている。常設展については、観客も少なく、最近では外国人観光客が多い展覧会になっている。また65歳以上は身分証明書を見せれば無料となる有り難い施設である。私は、最近、上野へ行けば、他の展覧会を見て、余裕があれば、必ず常設展を見ることにしている。さて、国立西洋美術館は、実業家の松方幸次郎氏(日銀初代総裁として日本史で倣った松方正義の子供)が、1910年代から20年代にかけて収集した松方コレクションが基礎となっている。古い話だが、この松方コレクションは、戦時中、フランスに保管され、戦後、フランス政府が敵国財産として没収した。日仏両政府の交渉の末に「寄贈返還」されたのは1959年(昭和34年)のことである。この松方コレクションを収納・展示するために建築されたのが国立西洋美術館であった。この美術館は世界的に近代建築を主導し、国際的影響力を持ったル・コルビジェの手になるものである。後年、フランス政府の主導によって、「ル・コルビジェの建築作品ー近代建築運動への堅調な貢献」として、フランス政府によってまとめられてユネスコに申請され、7ケ国17遺産をシリーズ中の一遺産として、2016年7月に(昨年)に世界文化遺産に登録された。さて、松方コレクションの内容は、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、参考作品5点、合計370点であった。なお、その後、寄贈や国家予算による購入によって増加し、日本における近代洋画の最大拠点となった。個人的な事情を述べれば、私は、この国立西洋美術館と京橋のブリジストン美術館で、近代西洋絵画・彫刻を学び、西洋美術について多くの勉強をした思い出の美術館である。今回、改めて国立西洋美術館の常設展のうち、19世紀以降の印象派に属した画家(後に印象派を離れた画家も含む)とポスト印象派の画家(19世紀以降20世紀にかけて)の2回に分けて連載したい。勿論、松方コレクションにはルネサンスから20世紀の抽象派作品まで網羅しているが、私の好みによって、印象派とポスト印象派の2区分で解説したい。いずれルネサンス以降の画家や彫刻家達も取り上げたいと思う。

雪のアルジャントゥイュ クロード・モネ作  油彩・カンヴァス 1875年

クロード・モネ(1840~1926)は、印象派を代表する画家であり、生涯、印象派であり続けた稀有の作家である。生涯、彼の関心は刻々と表情を変える自然の風景にあった。外界の瞬間的な印象を鋭敏な目で捉え、明るい色彩と素早い筆致でカンヴァスに定着を試み続けたモネは、印象派の美学に最も忠実な画家とも評されている。1871年から78年にかけて、モネは妻のマミーユと生まれたばかりの長男ジャンとともに、パリ近郊のアルジャントュイュに暮らした。セーヌ河畔のこの町は、休日にはパリからボート遊びの人々が集まる行楽地である。大雪に襲われた1874年末から1875年初めにかけての冬、モネはここで一連の雪景色を描いた。その限りなく繊細な眼はここで、雪に襲われた木々や道路、そして凍てつく冬空、それぞれの白に光の効果が与える微妙な陰影の変化を見分け、同時代の平凡な郊外の町の一隅を詩的な風景へと変貌させている。

舟遊び  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス    1887年

鉄道が普及した19世紀後半のフランスで、多くのパリ市民が近郊や地方へ休日を楽しみに出かけた。舟遊びは当時の人気のレジャーの一つである。妻カミーユを亡くし、1883年にジヴィェニールに移住したモネは、近くを流れるエプト川の舟遊びの光景を繰り返し描いている。その中でも本作はひときわ完成度が高い。モデルは、後にモネの再婚相手となるアリス・オシュデの連れ子ブランシュとシュザンヌである。画家は高い岸の上から川で舟遊びに興じるふたりの娘たちを見下ろしているのであろう。水平線は描かれず、画面全体を満たす水の川面を、白い夏服の娘たちを乗せた小舟が一艘、悠然と横切っていく。1880年代後半、モネは、しばらく制作から離れていた戸外の人物像に再び取り組んだ。しかし、ここに見られるように、その顔は省略的に画かれることが多く、人物も光と影の下で絶え間なく変化する風景の中のモチーフの一つとして扱われている。そして1890年代以降はふたたび風景を描くことに集中することになる。

陽を浴びるポプラ並木 クロード・モネ作  油彩・カンヴァス  1891年

光の効果に対するモネの関心は、1890年代以降、時間や天候をさまざまに変えて同じモチーフを描く連作の制作へと向かう。1891年の初夏から秋にかけて取り組まれたのが、ジヴェルニー近辺のエプト川の岸辺の「ポプラ並木」の連作である。モネはアトリエ舟に乗って制作に励んだと言われる。この連作では、季節や時刻、天候の違いによる光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作では、勢いのある筆致で描かれた緑の岸辺に優美に立つ3本のポプラの幹越に、蛇行していく木々の曲線が覗く。しかし前列の木々の梢が画面上端で大胆にも断ち切られているせいか、前後の位置関係が明瞭ではなく、空間の奥行きはあまり感じられない。極めて平面的で装飾的な画面構成がなされている。水面にはポプラと空が明瞭な反映像を映し出し、空間をさらに曖昧なものとしている。

セーヌ河の朝  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス   1898年

クロード・モネは念願のアトリエ舟をセーヌ川に浮かべ、妻に見守られながら制作に励んだ。舟で川に漕ぎ出し、水面を至近距離から観察できるアトリエ舟はモネの戦力となった。この船は文字通りアトリエに改造されているから、自然の尽きせぬ魅力をその場でカンヴァスに留めることが可能であった。願っても無い制作環境を手に入れたモネは刻々と変化する水面を這うモネの低い視線は、川に漕ぎ出したアトリエ舟の経験なくしては、とても考えれないものであった。

 

睡蓮  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス   1926年

1883年、ジベルニーに移り住んだモネは、庭作りに熱中し、自宅の前に多種多様な花の咲く「花の庭」を造った。その後さらに庭を拡張し、池を造成して睡蓮を浮かべた「水の庭」を造った。1890年代からこの池がモネの絵の主要なテーマとなる。最初の池を描いた連作では、日本風の太鼓橋を中心に、池とその周囲が大きく捉えられていた。その後1903年から描き始められた連作では、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけで画面が構成されるようになる。本作は、のちにオランジェリー美術館に収蔵された1914~26年作の大型連作のための習作の一つと考えられている。アトリエを訪ねた松方幸次郎が画家から直接購入したもので、完成度も高く、晩年の様式を示す重要な作品である。当時、モネは庭の隅にガラス張りのアトリエを建てて、時の恵果とともに表情を変える蓮池の水面を相手に朝から晩まで制作に励んでいた。本作は、一見日本の屏風を思わせる装飾的な平面構成だが、そこには、水辺といい重層的な絵画空間が生み出されている。1908年頃からモネの資力の低下が進み、1913年には白内障と診断され、後に2度の手術を受けるなど、晩年は目が病んでいた。最晩年の作品では、モチーフも水面も次第に荒々しく表出的なストロークで描かれ、抽象化も進む。その色面の広がりや感覚的な表現は、抽象主義やアンフォルメなど、20世紀美術の展開にも影響を与えている。

アルジェリア風のパリの女たちハーレム  オーギュスト・ルノワール作1872年

1872年のサロンに向けて描かれた本作は、ドラクロワの1834年の傑作「アルジェの女たち」に着想を得ている。やはり東方風の女性像を描いた「アルジェの女」が1870年のサロンに入選した前例もあり、ルノワールとしては戦略的な計算による自信作だったに違いない。だが意に反して本作は落選し、その上、中央の女性のモデルを務めた恋人のリーズとの7年にわたる関係にも終止符が打たれることになった。ロマン主義以降ひとつのシンボルとして定着したオリエント風の主題は、当時の画家たちに、別世界の出来事という口実のもとで大胆な裸体表現を行う余地を与えていた。ルノワールはドラクロワ作品から場面設定を借りながらも、縦長の画面に対角線を強調した動きのある構図を作り、さらに裸体の女性達を中心に据えて独自色を出そうとしている。だが、ルノワール好みの豊満な裸婦は、ドラクロカワが表現したハーレムの香気と翳りを損ない、オリエント風を装ったパリの売春宿と見做されるまで戯画化した感がある。普仏戦争とパリ・コンミューンの直後の状況の中で、そうした企てが公的に受け入れられることは難しかったであろう。本作は、程なくして初期の印象派コレクターの一人であるウジーヌ・ミュレルに買い取られている。

木かげ オーギュスト・ルノワール作  油彩・カンヴァス  1880年

ルノワールは1880年(40歳)の時に、イタリアに旅行して、画風が大きく変わる時期となった。1880年作の本作は、ルノワールの印象派時代の最後を飾る絵の1枚に当たるだろう。「木かげ」に描かれた木々は、色彩に彩られて、正に印象派そのものである。ルノワールの印象派時代の最後の1枚として記憶に残したい。

帽子の女  オーギュスト・ルノワール作  油彩・カンヴァス  1881年

ルノワールはイタリアから帰国後の1883年頃から印象派の技法に行き詰まりを感じ、輪郭のはっきりした形と固有色による表現への転換を図った。しかし「乾いた時代」と呼ばれる1880年代中葉の生硬な様式は支持を得られず、長く続かなかった。1880年代末から、ふたたび彼の画風の転換が始まる。彼はヴァトーやフラゴナールのロココ絵画を新たな師範と仰ぎ、洗練された筆触による表現を改めて価値を見出した。「真珠の時代」と呼ばれる1890年代の作品では、柔らかい筆触によって対称の肉付けが表され、女性の肌や衣服は、淡い色調が微妙に溶け合ってほのかな輝きを放つ。この新しい画風は大いに人気を博し、美術界におけるルノワールの地位は、この時代に揺るぎないものとなった。

立ち話  カミーユ・ピサロ作 油彩・カンヴァス  1881年頃

印象派の画家の中で最年長のピサロは、1874年から86年まで8回の印象派展にただ一人、毎回参加を続け、グループの精神的支柱として印象主義の展開に貢献した。作品においては1870年頃からモネやルノワールの闊達な筆触や明るい色彩を取り入れながらも、より構築性の高い質実な画風を築いている。「立ち話」は1882年の第7回印象派展の出品作品である。ピサロはこの数年前から、当時暮らしていたポントワーズ周辺の農村の周辺に題材を取り、農民の姿を中心に据えた作品を多く描いている。それらを発表した1882年の印象派展では、何人もの批評家がミレーを引き合いに出してピサロの新作に言及していたが、そのような見方は彼の意に反していた。ピサロはミレーの農民に込められた宗教色を嫌い、労働の苦しみと言う固定観念から解放された現実の農民の姿を描いたからである。この作品にも、田舎の農村を歩けばごく普通に目にする農家の女性が垣根越しにお喋りしているところであり、左側の若い女性は片腕を柵の上に乗せ、寛いだ姿勢を取っている。ミレーの理想化された農民像とは大きな違いがある。

 

結局モネとルノワールとピサロに終わった。特にモネは印象派を最後まで貫いた、印象派の生みの親であり、最後の睡蓮の連作に至るまで、モネらしい一生であり、日本では一番人気の高い画家である。ルノワールは印象派からスタートしたが、イタリア旅行を経て画風を変更しながら、人気の高い画家として生きた。ルノワールの日本における人気は未だに高い。次回では、新印象派、ゴッホ、藤田嗣治などを取り上げたい。

 

(本稿は、図録「国立西洋美術館名品選」、図録「ルノワール展  2016年」島田紀夫「ルノワール 作品と生涯」、吉川節子「印象派誕生」、日経新聞2017年6月25日「ザ・スタイル・アーツ」を参照した)

特別展  神仏人 心願の地(2)

「心願の地」(1)では、播磨国風土記や加東市に伝わる仏像類、十界曼荼羅等を紹介したが、加東市には、歴史の古いお寺もある。中でも播州清水寺と鹿野山朝光寺の二寺は由緒が古い。加東市には御嶽山と呼ぶ市内では一番高い山がある。その山頂に、西国三十三巡礼の第二十三札所に定められている天台宗の霊地、播州清水寺(きよみずでら)がある。清水寺は7世紀後半頃に仙道仙人により開創された。清水寺は創建時には菩薩信仰の寺として建設されたが、12世紀中頃に、地蔵信仰から観音信仰の寺へと変身を遂げた。それに合わせて法道仙人の伝承を取り入れた可能性がある。この寺に関する古代から中世に関わる寺所蔵の文書群は有名である。また、鹿野山朝光寺と号する真言宗高野山谷上宝城院末の寺院で、現存する伽藍は本堂(国宝)、鐘楼(重分)、多宝塔、仁王門、聡寺院、吉祥院等である。開創は、山頂に伽藍整備が行われた白雉2年(651)であるというが、定かではない。寺に残る伽藍、仏像類から、現在地に移ったのは古文書によれば文治5年(1189)4月に伽藍を現在地に移したと記されており、多分この時期が山麓へ寺院を移した時期と思われる。

銅像  菩薩立像  白鳳時代(7世紀後半)   播州清水寺

この仏像を拝した時には驚いた。まさか寺伝の白雉2年(651)説は、まるで信用しなかったが、この仏像は、昭和5年(1930)に清水寺境内から出土した像で加東市最古の仏像で白鳳仏とされていた。確かに左右前後から仔細に眺めてみると、白鳳期あるいは、飛鳥時代まで遡ることも考えられるお像である。東播磨には鶴林寺(加古川市)、斑鳩寺(揖保郡)等聖徳太子ゆかりの寺が現存するので、あながち無視することは出来ないであろう。白鳳期、もしくは飛鳥時代の仏像が何等かの理由で、この地に残存したことは否定し難いと思う。頭部から蓮肉部までを一鋳し、それ以下の台座は後補である。後頭部に突起があるが、当初、頭光が取り付けられていたことを示すものであろう。古拙の笑みを湛える丸みを帯びた顔や全体に対して大きめの頭部は童子を思わせる。本像が白鳳時代に遡ることを端的に示している。

木像  毘沙門天立像  平安時代(10~11世紀)  播州清水寺

本像は清水寺根本中堂に秘仏本尊十一面観音菩薩立像の脇侍として吉祥天像(今回は公開なし)と共に同厨子内に安置されている毘沙門天立像であり、厨子は30年毎に開扉(秘仏)される。カヤ材による一木造で内刳りは無く右肩から及び袖、左肘の先、持物は後補である。頂上に法珠、両脇に吹き返し付き兜を被り、右腕は大きく振り上げて戟を執り、左手は曲げて掌に宝塔を捧げ持つ。量感を持つ仏像であり、製作年代は平安時代である。優れた尊像である。

木像  天部立像  平安時代(11世紀)   播州清水寺

清水寺大講堂安置の天部立像である。頭部から足枘までカヤ一材で刻んだ仏像である。背面を割矧ぎ内刳りが施されている。内刳に墨書の痕跡があるが、判読できない。頭部に宝珠形を付ける兜、体幹部には甲冑を付ける。腰を左に捻る。一木造りらしい量感を持ちつつ、体の動きや見開いた眼や憤怒の表情に大仰なところがない。造立は平安時代後期と考えられる。

木像  大日如来坐像  鎌倉時代(13世紀)  播州清水寺

五智如来(五体の如来像)の中尊である。台座と光背は近世の後補である。寄木造で頭部・体幹部共に正中線剥ぎである。彫眼である。膝張りと裳を表す畝の造形、奥行き感のある体躯など、鎌倉時代彫刻の特徴が認められる。本像に瑞々しい若さと沈思の表情を与えている。本像を含む五智如来は当初寺内の大塔に安置されていたが、塔罹災の被害を受け現在は講堂に安置されている。

紺紙金字妙法蓮華経  室町時代 応永9年(1402)  播州清水寺

加東市内に遺る唯一の紺紙金字経である。内容は、巻子装の妙法蓮華経全八巻であり、黒塗りの経箱に収納して保管されている。本紙の紙数は16~21と幅があるが、何れの巻も表紙に法相蓮華紋様を配し、さらに見返しには、霊鷲山を背後に中央の釈迦如来が法華経の説法を行い、その傍に聴聞する菩薩の様子を詳細に描いている。本法華経は、本文の文字や左右に引かれた界線のみならず、表紙や見返しの区画に至るまで金・銀泥によって描かれている非常に美麗な経巻であり、保存状態も極めて良い。

木象  千手観音菩薩立像  平安時代(11世紀)  朝光寺

長光寺本堂の南面する須弥壇厨子の中には板壁に仕切られた二体の千手観音立像が安置されていることから「東御本尊」「西御本尊」と通称される。本像は、そのうちの「東御本尊」であり、頭部から裳裾までヒノキ材で彫る一木造りである。天冠台上に載る頭頂仏については頂上が候補である。起伏が少なく浅い彫りの衣皺た天衣、裳階の処理に和様化の傾向が認められる一方で、裳に刻まれた翻派式彫方や天衣、裳階の処理には和様化の傾向が認められる一方で、裳に刻まれた翻派式彫方や耳環を表さないことは古様の特徴と言え、目鼻口の力強い彫り方がもたらす森厳な表情と併せ、本像の像立時期が平安中期まで遡ることを示している。西本尊は鎌倉時代の様式を備え、左足枘の外側に「長快(花押)」との墨書銘がある。同様の墨名が京都蓮華王院(三十三間堂)に安置される千手観音中、二十三体が発見されている。経緯は不明であるが、本堂が建立された室町時代からそれほど離れていない時期に蓮華王院から移座されたものと考えられる。

木像  地蔵菩薩立像(六地蔵)  平安時代(12世紀)   朝光寺

現在、朝光寺本堂に安置されているが、以前は本堂西側にあった阿弥陀堂に安置されていた像である。全ての像が頭部から足枘までを一材で刻んでいる。摩耗が目立つが面部の造形が比較的残る像の相貌からは鑿の冴えが見られる。本像の制作年代は平安時代末期であると推定される。着衣形式に異動があるもののほぼ同寸の全高や全身のプロポーションに統一感があることから、元々一具の群像であったとすることが出来、比丘形であることや持物から六地蔵尊として造立されたと考えられる。

銅像  千手観音菩薩立像  鎌倉時代(13~14世紀)  朝光寺

頭部から足先までの体幹部を一鋳し、両肩から先と合掌手とその下で宝鉢を捧げ持つ手部を、一材にして鋳造し、脇手は左右を各々前後に二材にて造る。また脇手は素文の光背に打ち付けられるように意図されており、制作当初から現在のような設置形式であったと推察できる。相貌は理知的であり、製作年代は鎌倉時代と考えられる。

木像  法道仙人坐像  江戸時代(17~18世紀)  朝光寺

法道とは7世紀中頃にインドから紫雲に乗り日本へ渡航したという伝説の仙人。本像は岩座に坐して頭巾を被る修行者の姿で法道を表す。玉眼である。播磨を中心に法道開基など伝説を持つ寺院が77ケ寺を数え、そのうち55ケ寺は加東市に属する北播磨である。朝光寺にも法道仙人開基説が伝わり、現在の加西市法華山市乗寺で修行中だった法道が毎朝、東方に瑞光が天をさす場所を目指し、寺を建てたという。

 

本稿では、播州清水寺(天下の三清水寺の一つ)と鹿野山朝光寺と名のある名刹の宝物を紹介した。両寺とも秘仏を公開され、この機会を逃がしたら、二度とお目に懸れない「心願の仏」であった。また播州清水寺からは、思いがけない白鳳仏が展示され、西播州の鶴林寺、斑鳩寺を懐かしく思い出した。よもや白鳳仏にお目に懸れるとは思っていなかったので、大変思い出深い展覧会となった。

 

(本稿は、図録「特別展 神仏人 心願の地  2018年」、探訪日本の古寺第13巻「近畿」を参照した)

特別展 神仏人 心願の地(1)

多摩美術大美術館で、表記の展覧会が9月1日より10月14日まで開催されている。私は、初日・9月1日の10時から約2時間観覧し、更に午後1時から3時までのトークセッション「世界に一つー加東遺産を語る」(加東市の歴史と文化)、クロストーク「京へ続く丹波道」を午後3時まで聴き、更にその後午後4時まで、多摩美術大教綬と加東市教育委員会文化財係による展示物の説明を聞き、結局1日を、この美術展に費やした。これほど長い時間をかける展示会は初めてである。時間をかけた理由は、1つは加東市とは兵庫県の都市であり、かって2年間神戸に住んだ私にとっては、懐かしい場所であったからである。今一つは、展示名である「神仏人 心願の地」という題名と展示された仏像類が全部初めてお目に懸る仏像類であり、ここで見逃すと、一生見られない内容であると思ったからである。事実、この展覧会を見て、この想いは間違いがい無いことを確信した。「心願」とは、広辞苑によれば「物事の要点をはっきりと見分ける鋭い心の働き」と説明している。思うに「鋭い心の働く土地」との意味であろうか?「かみ、ほとけ、ひと」に対し「鋭い心の働く土地」の意味であろう。私は、神戸に2年間棲み、働いた土地であり、兵庫県内で知らない土地は無いと自負していたが、情けないことに加東市という土地には全く記憶がない。しかし、加西市という土地名を覚えており、多分その東の都市だろうと、大体の推測はついた。図録の「ごあいさつ」を読んではっきりした。加東市は平成18年に社町、滝野町、東条町が合併して誕生した新しい地名であり。知る筈がないのである。その場所は、神戸よりやや北西に位置し、三木市や加西市に隣接する土地である。加東市は、古くは播磨国風土記に記載のある賀毛群(現在の加東市・小野市・加西市域)に属している地域とされ、平安時代以降東西二つに分断された加東郡(加東市・小野市)と加西群(加西市)という地名が誕生した。この時期から、市内を東西に横断する主要道路の丹波道が積極的に活用されるようになり、この地が歴史の舞台に登場する機会が増えた。また市内を南北に縦断する一級河川加古川の存在も、この地域の歴史にとっては欠かせない。内陸部の物資を大阪方面に送るために発達した舟運の重要な拠点として舟坐が設けられた。当地域は、多くの社寺、大名・旗本の領地となり、中央政界とも密接な関係を持つに至り、豊富な文化遺産が現在に引き継がれているのである。

播磨国風土記  佐保神社本  江戸時代末期~明治時代  佐保神社

風土記とは和同6年(713)当時の朝廷が各地の役所に命じて作らせた、日本最古の地誌である。現存するのは、常陸国・出雲国・肥前国・豊後国・播磨国風土記の5つのみである。これは播磨国風土記の内容が記載された写本であり、和綴じの冊子で、計51紙で構成される。本資料は、幕末~明治期に在世していた佐保神社の宮司神崎長平が書写したものと推定される。明治期まで、風土記が書写されていたことに驚いた。日本人の向学心の高さに驚かされた。

出土祭祀土製品(阿高・上の池遺跡出土)  古墳時代中期(5世紀後半)加東市

河高・上の池遺跡は扇状地に位置する。この遺跡の東端付近から、二棟の竪穴式住居跡が見つかっている。この竪穴建物遺跡は、広大な扇状地上に一棟のみ存在していたことから、集落を見下ろす位置に建設された特殊な施設であると判断された。この特殊な施設は、何等かの祭祀を執り行う場であった可能性が高い。これらの土製品は、現時点では、日本で唯一の祭祀用品であるそうだ。「播磨国風土記」には、荒ぶる神を鎮めるために人形を使ってお祀りが行われたと言う記載があることから、この土製品は、風土記に記された祭祀が5世紀中頃には既に行われていたことを示すものであろう。

木像地蔵菩薩立像  平安時代(11世紀)        東古瀬地区

平安時代中期から後期と目される仏像の作例が90体以上、この地域に伝わっている。播磨国風土記にある加茂郡は現在の加東市、加西市、小野市、多可郡等の行政区域を含み、この加茂郡には有力貴族や寺社の地領地が散在したことが、大きな理由であろう。この地蔵菩薩は、まさに心願の造形である。頭から足まで一材で刻み内刳を施す地蔵尊である。両手首と足先は後補である。広い肩幅と堂々とした体躯は、平安時代の特徴を示す。

木像十一面観音菩薩立像  平安時代(11世紀)       沢部地区

頭部からは足枘までを一材で彫る一木造である。手首と足先、頭頂仏と化仏は後補である。彩色は近世の修理であろう。全体として保管状態は、極めて良い。

木像  地蔵菩薩像   平安時代(11世紀)    沢部地区

頭部から足枘まで一木で彫る一木造である。両手首と足元から先は後補である。江戸期と思われる彩色補修が見られる。着衣は厚さがあり、裳の下裙は足首上辺りまで垂れる。本像のように腹部を丸く隆起させる特徴は丹波の達身寺に多く見られ、「達身寺様式」と呼ばれる。丹後との文化交流が見られ、この地区の先進性を示す事例である。

木像  薬師如来坐像   平安時代(12世紀)    東光寺

結跏趺座し衲衣を着す薬師如来坐像である。螺髪は表さない。右手は屈臂し胸前で施無為印を取り左手は膝上辺りで掌を上に向け薬壷を載せる。ヒノキの一材から彫り出した後に、前後に割り矧ぎ、内刳りを施して接合し、細部を仕上げる割矧造である。眼は玉眼で造立当初からのもの考えられる。穏やかな風貌や浅い着衣の彫りから考え造立は平安後期の頃となろう。

木像 阿弥陀如来坐像  平安時代(12世紀)   東光寺

来迎印を結び結跏趺座する阿弥陀如来坐像であり、玉眼で、前者の薬師如来坐像と共に同じ厨子内に安されていいる。薬師像との共通点が多い。一方、螺髪の有無や面相の造り、薬師像の衣文が簡略化されていることなど作風の差も見られる。共に玉眼の早い時期の作例であり、遠からぬ関係にある仏師(例えば兄弟弟子等)によって造立された可能性もある。

木像  薬師如来坐像  平安時代(12世紀)  多井田地区

結跏跋座する薬師如来坐像である。右手は施無為印、左手は薬壷を載せる。衲衣を偏祖右肩に纏い偏杉を着している。頭部から体部を檜の一材で彫刻し、横一材から膝前及び裳先を共に刻出し矧ぎ着ける。膝前に載せるのは後補の手首である。制作時期は平安後期である。面貌は穏やかである。

木像 阿弥陀如来坐像(左) 室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区    木造 薬師如来坐像(右)  室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区

 

頭部から蓮華座までを一材で刻む阿弥陀如来蔵王である(左)。衲衣を通肩に着し、蓮華座上に結跏跋座し腹部で定印を結ぶ。小像ながら量感も併せ持つ像である。像が負う舟形光背も当初のものであり、像の彩色も含め良好な状態で制作時の姿を留めている。背面には墨書銘で作者、光背の裏には「元亀二年辛未/一躰乃施主常住坊源重律師/六月廿日」の墨書銘が残り、仏師と施主そして造像年月日が判明する際めて珍しい像である。薬師如来坐像にも像の背面、及び光背裏に全く同じ墨書銘が残り、両像は、仏師と施主そして制作年月日が判明する極めて珍しい像である。

紙本 熊野勧人十界図  江戸時代中期(18世紀)  持法院

熊野観心十界図は、視心十界の世界を描いた作例の一つ。「心」の文字を中心に、六道四聖を放射線状に展開させるところに図像的特色がある。十界は六道の地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、四聖の声門、緑覚、菩薩、仏のことである。勧心十界図の図像名に熊野の地名を冠しているのは、熊野との強い結びつきから命名されたものである。熊野観心十界図は熊野比丘尼が地獄極楽の説教に用いる図像として開発された。では、どのような地獄図なのであろうか。絵の寸法はタテ140cm、ヨコ約130cm。大きな画面には地獄を初めとする様々な世界が描かれている。絵具は安物の泥絵の具、そして、その絵は庶民の感性に訴える素朴な筆致である。熊野比丘尼が所持していた熊野歓心十界図は工房で量産だが、その工房は明らかではない。16世紀は、戦国動乱の時代であった。日本の社会は大きな変革期を迎えていたが、その一つに庶民層における「家」の成立がある。「家」は暮らしの拠点でありと同時に、家名、家業、家産を継承する母体であった。庶民の自立と家意識の高まりは無縁ではなく、庶民はこの時期、自分たちの人生を考え、自らの死後世界と向き合う時代を迎えた。この「家」意識の広範な成立は、先祖の安楽と家の安泰が結びつき、先祖への報恩・供養の重要性が説かれたのである。熊野観心十界図は、家意識の高まりの中で新しく登場してきた来世の世界観を積極的に取り入れた「家」社会の地獄絵であった。この制作時期は16世紀以降とみて大過ない。

 

兵庫県加東市に伝わる播磨風土記や「心願の造形」を見てきたが、「播磨国」が持つイメージより遙かに都会的、京都的であることに強く感銘を受けた。これは隣接する摂津国、丹波国からの都会的(京都的、大阪的)文化の影響であろう。その意味で、加東市を南北に貫く丹波道の影響が大きいであろう。神戸の持つ先進的と姿性は、明治以降の開国の賜物であり、18世紀以前の播磨国は、源平の戦場跡であり、この「心願の地」が示す先進性を持っているとは思ってもいなかった。この展覧会から得たものは、播磨国の先進性であり、仏像、仏絵の優れたものが多数残されていることである。また、多摩美大美術館が、案外私の住いから近いことも、一つの発見であった。

(本稿は、図録「特別展  神仏人 心願の地 2018年」、探訪日本の古寺第13巻「近畿」を参照した)

江戸名所図屏風と都市の華やぎ

出光美術館で、「江戸名所図屏風と都市の華やぎ」が開催されている。京都の街では洛中洛外図や祇園祭礼図屏風を見る機会は多いが、江戸の華やかな名所図屏風は見たことが無い。勿論、浮世絵の世界で、江戸の華やかさは度々見る機会に恵まれているが、江戸の都市図屏風は見たことがなかったので、非常に興味を持って拝観した。結果は予想以上に華やかな江戸の風景や風俗を描いた屏風図で、江戸情緒を堪能する機会となった。ただ、いずれも長巻で、全部を紹介できない事例が多いので、場合によっては左隻の半分というような紹介にせざるを得ない事例も多々あるので、ご了承願いたい。

重文 江戸名所図屏風 右隻の一部  八曲一双 江戸時代  出光美術館

この絵巻は、江戸創世期の姿を捉えた貴重な作品である。右隻に1000人、左隻(絵としては見せていない)に約1200人もの人物を描き込んで織り成された江戸都市生活の熱気が見所である。では、右隻の半分について解説する。、向って右隻の第1扇から第二扇の上の部分には寛永寺の伽藍が広がり、参詣者が多数集まっている。寛永寺は、山号も「東の比叡山」という意味で東叡山ともいう。境内には寛永8年(1631)に建てられた五重塔がそびえる。隣には東照宮が建ち、その傍らには大きな大きな不忍池がゆたかな水をたたえている。下から見ると、隅田川が流れている。東の方へ歩いてみると、対岸の向島をのぞみつつ進むと、浅草寺の立派な伽藍が見えてくる。浅草寺は江戸でも最も古い寺院であり、建てられたのは推古36年(628)と伝えられている。浅草寺は寛永8年と同9年(1642)に火事で多くの建物を失った際にも、幕府の援助を得て復興を遂げている。火災で焼け落ちた三重塔は、慶安4年(1648)に五重塔に建て替わっているので、この絵の伽藍はその時のままの様子を伝えることになる。浅草寺に近づくと、威勢の良い声が聞こえてくる。境内は、江戸の初夏を彩る三社祭の真っ最中である。お祭りの行列を逆流すると剣鋒の後ろに獅子舞やおたふく、母衣武者、山伏などの華やかな衣装が続いている。浅草橋に近づくと、三基の御神輿が陸揚げされるところである。ここで江戸の総鎮守府・神田明神を目指して西へ向かうと、横長の建物が目に入る。これは浅草寺にも、京都に倣って三十三間堂が建っていた。完成したのは寛永20年(1643)。その後元禄11年(1698)に火事で失った。この絵が描かれたのは寛永20年(1643)頃と推測される。神田明神に立寄ってみると、境内に設けられた舞台で、神事能が演じらられている。境内は観客でごった返しである。

重文 江戸名所図屏風 左隻一部 八曲一双屏風 江戸時代  出光美術館

まず天守閣がそびえているのが目に飛び込んでくる。この城の造営はすでに長禄元年(1457)大田道灌の手で成し遂げられていたが、それを再整備・拡張したのが徳川家康である。五層の天守は慶長11年(1606)以降、寛永15年(1638)までの間に三度行われた造営を経たものである。この威厳あふれる天守は、城のその他の建物もろとも、明暦3年(1657)の大火災によって焼け落ちてしまう。その後天守が復興されることは二度となかった。江戸城天守の眼下には中橋までの通りの左右に商店が並んでいる。扇家や繰糸屋など、幾つかの業種が17世紀前半の「色音論」という仮名草子と共通して記されている。霊願島に渡ると、第1扇から第2扇の下に立派な屋敷が見えてくる。幕府の海の仕事をつかさどった向井将監の上屋敷である。その近くの水辺では、華やかな舟遊びが広げられている。舟の上では、音楽を楽しんだり、酒杯を傾けたりして楽しそうな男女の姿が見える。舟には向井将監邸で見た下り藤の紋が見える。舟上の男性は向井家の誰かであろう。更に南に進むと、芝居小屋が立ち並ぶ木挽町に出た。画面の下半分の広大なスペースを使って展開された遊興の空間である。まずは歌舞伎の小屋で、正保元年(1644)にオープンして間もない山村座と思われる。これは若衆と呼ばれる美少年たちのヘアスタイル。彼らが演じる歌舞伎は若衆歌舞伎と言い、遊女による女歌舞伎が禁止された寛永6年(1629)ころ以降に流行した。隣の小屋では操り浄瑠璃が演じられており、悲劇に涙を拭う観客の姿もあるが、芝居そっちのけで煙草をすったり、酒杯を傾ける人たちもいる。江戸時代の遊楽の様を生き生きと写した素晴らしい絵巻である。

江戸名所遊楽図屏風  六曲一双 江戸時代       細見美術館

金雲によって画面が六つの領域に区画された中型の屏風には、賑やかな江戸の様子が写されている。最も大きなスペースを取られているのは浅草寺の伽藍である。観音堂には参拝者が集まり、境内では三重塔のそばに軽業や鉦叩きの姿も見える。仁王門の前では、講釈師が小銭を募り、女性がでんでん太鼓を商う様子が見える。茶屋が軒を並べる参道では駕籠や馬に乗った武士が進む。その下の区画は右から吉原の座敷、「釣針」と「鐘引」の演目と思われる人形浄瑠璃の小屋、歌舞伎の舞台と場外の喧嘩に当てられる。画面右上には数隻の舟を浮かべた隅田川、左上の空間に描かれるのは、木母寺と梅若塚と目される。浅草寺の伽藍の様子は、五重塔が造営され始める寛永12年(1635)以前のもので、「茶屋遊び」が演じられる歌舞伎も寛永6年(1625)に禁じられる女歌舞伎であることから、窺える年代は西暦1630年頃と推定さえれる。

江戸風俗図屏風 六曲一双  紙本着色  江戸時代  出光美術館

向って右隻の中央には浅草寺の観音堂が大きく配され、多くの参拝者でにぎわっている。その右手奥には、新吉原の遊女町と揚屋の情景が広がり、金雲で区画された空間では喧嘩、さらに手前のスペースには縫物屋、織物屋、指物屋、加羅油商、蹴鞠所が軒を連ねる。浅草寺仁王門向かって左には色茶屋が並び往来を武家の女性の行列や獅子舞などがゆく。その上方の右側には竹矢来のなかで相撲に興じる人々の姿が描かれる。金雲を隔てた左側には馬場がしつらえられ、馬にまたがった武士たちが手綱を取る。この絵の画家は、先行する菱川師宣(?~1694)の絵本をもとに、舟遊びの場面などを仕上げたらしい。ただし、その筆者を特定するのは難しく、かつ屏風の左右で描き方が異なることも、さらに問題を複雑にしている。

阿国歌舞伎図屏風  六曲一双  紙本着色  桃山時代  出光美術館

出雲の阿国が、北野社頭を舞台にして新たな芸能を興したのは、慶長8年(1603)の春のことだった。「当代記」は、阿国のいでたちを「縦ば威風なる男のまねをして、刀脇差衣装以下、殊異相也」と記録している。彼女がまねたのは、戦後の満たされない欲求を奇抜な服装や行動で満たすほかない若者たち、すなわちかぶき者の姿であった。それゆえ、阿国の演芸は歌舞伎踊りと呼ばれる。この屏風絵は金雲の切れ間に北野社の八棟造りの屋根を隠顕させ、阿国扮するかぶき者と茶屋の女性との痴戯を題材とした演目「茶屋遊び」を描く。この絵は、阿国歌舞伎を描いた屏風絵のなかでも、最も古い部類に属する。役者の後方に坐す囃し方はわずか三人で謡座を伴わず、歌舞伎踊の原初的な演芸を伝えている。絵画としての本図の魅力は、樹木や人物の奔放な表現にあるだろう。この古びた色は、桃山時代まで遡るものであろう。

阿国歌舞伎図屏風 六曲一双 紙本金色  江戸時代    出光美術館

この屏風絵は、上の屏風絵に比較して新しい。お国が頭に鉢巻をつけること、また猿若が手に籠形の被り物を下げることが、いずれも前者から年代を下降させる材料である。描いたのは狩野派の技量を身に付けた画家であろう。前者に比較すれば、色も新しい。

歌舞伎・花鳥図屏風 六曲一双  紙本金地着色  江戸時代  出光美術館

高さ1尺余りのごく小さな画面に細密に描かれるのは、歌舞伎踊りである。「茶屋遊び」の演目を描いたものとして知られる。しかし、演じているのは阿国ではなく、阿国を模倣した遊女であることは、後坐と橋掛りに数人の禿(遊女に付き従う少女)を伴うことや舞台に三味線が描かれること等からも明らかである。左隻には(絵画は付いていない)若衆歌舞伎が描かれている。寛永6年(1629)女歌舞伎禁止令以降に流行を見せるのが若衆歌舞伎である。この屏風のように、異種の歌舞伎図が1双に分けられて描き分けられた例は、極めて珍しい。こうした組み合わせが同時並行していた寛永年間(1624~43)後期の実情であったかも知れない。左右の画面の両端に巨樹を据えるのは、近世初期の狩野派の規範的な構成である。かって幕末から明治に活躍した政治家・井上薫が所有していたものである。

遊里風俗図 菱川師宣筆 絹本着色 寛文12年(1672)出光美術館

激しく折れ曲がる樹木が巻頭に描かれ、遊里の奥座敷と思われる屋内では、華やかな歌舞伎や酒宴が繰り広げられている。向かって右端の火鉢の側では抱き合う男女の様子までもが捉えられ、画面全体が享楽的な気分に満たされる。縁先に降りて、雪合戦に興じる人物も見える。画面の末尾に寛文12年(1672)の年紀をともない、師宣の肉筆画の仕事を考える上で、最も重要な作品の一つである。

吉原遊興図屏風(右隻) 菱川師重作 紙本着色  江戸時代  出光美術館

一双屏風の右から左へ視線を動かすと、隅田川を上がって吉原の往来を通過し、奥の座敷へと情景が変わってゆく。その画面構成は、巻子に装われた江戸景観図を見るかのようである。ただし、画家の大きな関心は左隻の(写されていない)第4編から第6編にわたって描かれる室内の描写に置かれており、それがこの絵を特徴づけている。各扇が一枚づつでも観照に堪えるかのように独立する傾向は、屋内の情景に限らず、それ以外にも当てはまる、この絵の筆者は菱川師宣の門人・師重と伝わる。

 

新興都市・江戸の名所図会、風俗図等約10点を通して、江戸の持つ賑やかな歓楽街や遊里など、新規都市の活気を感じる展覧会であった。いずれの名所図屏風は長く、右隻の一部とか、全体が見せられないものとなったが、図録では、実に細かく、各扇の1枚、1枚を拡大した写真が付き、今に残る江戸風情を感じさせるものがある。江戸と言えば、浮世絵であるが、このような屏風類は、多分、豪商、上層武士階級の持物であったろう。保管状態も良い。一見の価値はある。

 

(本稿は、図録「江度名所図譜屏風と都市の華やぎ   2018年」、図録「美の祝典  2016年」を参照した)

歿後50年 藤田嗣治展(5)カトリックへの道行き

藤田と君代夫人は1955年にはフランスに帰化し、日本国籍を抹消し、更に1959年にはカトリックの洗礼を受け、フランス及びヨーロッパ文化への同化の意志を明確にした。これらの行動は、1949年の離日に始まる日本との決別の儀式を完成するものであり、藤田の心の傷の深さを示すものと解釈されてきた。君代夫人は、藤田が日本を捨てたのではなく、捨てられたのだと語ったというが、日本は藤田を忘れることができず、藤田も日本に別れを告げられない、というのが両者の実際の関係だったのではないだろうか。フランスへの帰化、カトリックへの改宗は、むしろ自分と日本とのつながりの強さを改めて藤田に感じさせたのではないだろうか。1959年10月14日、フランス北東部の歴史ある街、ランスの大聖堂で、妻君代と共にカトリックの洗礼を受けた。先例名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ「レオナール」とした。以後の作品には「L・Fourjita」とサインするようになった。1910年代から、キリスト教をテーマにした絵画を描いていたが、洗礼後は「フランス人・キリスト教徒」として、熱心に制作した。藤田が画家として最後の努力を傾注したのがランスの平和の聖母堂、通称藤田チャペルである。完成して間もなく体調を崩して入院。その後入退院を繰り返して1年余りで、この世を去ったことを思えば、まさに命を賭した仕事であった。「平和の聖母」という名称にはっきりと込められているように、そこを訪れるすべてに安寧をもたらすような場所を願って建設されたものである。藤田が晩年に描いた宗教画は、全く市場性は考えない、純粋な信仰心、藤田自身の言葉によれば「神への愛」の発露として描かれたものである。

風景  油彩・カンヴァス   1918年       名古屋市美術館

1918年の4月から夏にかけて戦争からの疎開もかねて南フランスのカーニュで過ごした。同行したのは、妻のフェルナンド、モディリアーニ、スーチン等であった。この「風景」は色彩の明るさはあるものの、どこか不穏な雰囲気にも感じられる。地面や空、さらに草木にもうねるような筆が加えられ、風景が歪んでいるようにさえ見える。藤田は古い教会やカルヴェール(石造十字架)に接して以降、キリスト教への関心を深めた。

二人の祈り  油彩・カンヴァス  1952年  個人蔵(日本)

藤田が、主要な画題としてキリスト教主題を取り上げたのは、戦後アメリカ滞在を経てパリに渡った以降のことである。1952年の年紀を持つ本作はそうした中でも最初期の作例で、画家と君代夫人が生涯身近に置いていた思い入れの深い作品である。ここに描かれるのは聖母子に向かいひざまずき、祈りを捧げる藤田夫妻の姿である。傍らの画架には、ゴルゴダの丘へ向かうキリストの容貌が写し取られたという聖画布を思わせる素描を描いたキャンパスが置かれ、幼子が将来、十字架にかけれる運命であることが示される。藤田が画業を奉じ自らの救済と受容を祈り願う対象は、キリスト教という西洋文明社会のことではなかったかとも想像さあれる。聖母子と絵画芸術とが象徴する清い世界へのあこがれが、作者のルサンチマンと表裏一体であったことを本作は素直に示している。自室に飾るために制作され、君代夫人が最後まで手放さなかった作品である。

協会のマケット  木製 1953年  メゾン・アトリエ・フジタ(フランス)

画家お手製の模型を描いた作品である。今も、メゾン・フジタに残されている。1953年の夏、藤田が友人のジョルジュ・グロジャンのヴィラの所領に滞在したおりに聖堂の模型(マケット)を制作したことが伝えられている。その時の模型こそ本作に描かれたものであろう。ピラでの夏、画家は友人にいつか聖堂の建設を実現したいと語ったともいう。この頃には君代夫人のうちにもカトリックに対する宗教的感興が芽生えていたようである。彼女は聖地ルルドの訪問を希望し、グロジャン一家は彼女の願いを叶えるために運転手付きの車を用意したという。グロジャンは後に、藤田のフランス国籍取得に際しても力を尽くすことになる。この模型の制作は、1955年2月のフランス国籍取得のがきっかけとなったかも知れない。「教会」内には、南米で手に入れたという豪華な衣装で全身を覆っている聖母マリア像が立つ。

聖母子  油彩・カンヴァス 1959年  ランス大聖堂(ランス美術館寄託)

1955年にフランス国籍を取得した藤田夫妻は、1959年10月14日、ランス大聖堂で洗礼を受け藤田はレオナール、君代はマリー=アンジュ=クレールの洗礼名を授かった。藤田のカトリック信仰に対する傾倒は1950年代の早いうちからうかがわれるが、自身の二度の離婚が改宗の妨げとなることを心配し、躊躇する期間が長くあったようである。画家夫妻は、歴代のフランス王が戴冠式を行ったランス大聖堂において洗礼式をあげうことになった。その模様は世界各地からやってきたテレビ・ラジオ・新聞等に取り上げられ、メデイアの寵児として健在ぶりを示すことにもなった。画面に描かれた聖母子を覆うひさしのような構造物は素朴な木材を組み合わせた質素なものであるが、金箔をほどこし、その上に鮮やかな文様があしらわれた額縁と対照をなしている。

キリスト降架 油彩・布 1959年 パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)

画面下には受洗の年のクリスマス年紀を持つ。息絶えたキリストを抱きかかえる白髪の男性は父ヨゼフ、膝を抱きかかえる青い衣の女性は母マリア、キリストの足元に触れる緋色の衣をまとった女性はマグダラのマリアであろう。画面の上部がアーチ状に縁どられた金箔によって覆われているのが目を引くが、同様の構図を持つ作品が1960年頃に精力的に描かれている。格子状に金箔を配する方法は、ルネサンス以前の聖画と琳派など日本美術の装飾性とを同時に想起させるものとして戦前にも用いられたものである。1960年のポール・ペトリデス画廊での個展に出品後、翌年イタリアのトリエステで開かれた第1回「国際宗教美術展」で展示され、金賞を受けた。晩年の大作は、1991年に君代夫人よりパリ市立近代美術館にまとめて寄贈された。

礼拝  布・油彩  1962~63年  パリ市立近代美術館

二人の天使によって冠を授けられる堂々たる聖母マリアの姿が描かれる。その左右に跪き、祈りを捧げる画家夫妻の姿がある。敬虔な身振りでもって大きく描かれた二人の姿は、あまたある宗教画の中の寄進者の身振りをなぞったものに他ならない。画面の左端には、画家の終の棲家となっいたヴィリエール=ル=パクルの家が小さく描き込まれている。洗礼の1年後に購入し、1年間の改修のあと入居した。

マドンナ 油彩・カンヴァス  1963年  ランス市立美術館

聖母マリアと周囲の天使ともに有色人種の容貌で描いた珍しい作品である。この聖母のモデルはアフリカ系アメリカ人の女優マルベッサ・ドーンで、1959年公開の映画「黒いオルフェ」でヒロインを演じて話題になった。その姿を良く捉えている。1964年ポール・ペトリデスの生前最後となる個展に出品した。

十字架  油彩・板・金具  1966年   ポーラ美術館

藤田の念願だったノートルダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設が始まった年の作品である。当時の藤田は君代のため木製の装飾箱を多数制作していたが、これも夫妻の生活を彩るための作品であろう。ヴィリエル=パクルの家では居間の棚に置かれていた。箱の上の十字架風の板の片面には祭服を着た幼子イエス・キリストが描かれている。他面に描かれたのはキリスト(成人)の図である。藤田の死後フランスから帰国した君代夫人は、この十字架を寝室に置いて、亡くなる最後の時まで大事にしていたそうである。

 

「没後50年 藤田嗣治展」を延々5回に亘り連載したのは、フジタのすべてをこの機会に記録しておきたいとという強い思いがあったからである。ここに描いた藤田は、私の思う藤田のすべてであり、特に戦争画と戦犯容疑については私見を交えながら、調べられる限り調べてみた。日本画壇の藤田に対する、その時の態度は大人の態度ではなかった。あまりにも大人げない仕草に、70年後の今でも許せない気持ちである。しかし、藤田の戦争画は優れたものであり、他の画家の追随を許さない。藤田は1968年1月29日に、81歳で亡くなった。日本政府は藤田の功績をたたえ、勲一等瑞宝章を授与した。地下の藤田は、この報をどのような思いで受け取ったであろうか。

 

(本稿は、図録「没後50年藤田嗣治展(5)カトリxクへの道行き2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示  2015年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を参照した)