2018年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた、「黒川孝雄の美」10選を決める季節がきた。今年は、生誕150年とか歿後50年とか大きな美術展が多数開催された。なかなか生きたくても行けない展覧会もあった。いずれも力作揃いで、見応えのある内容であった。昨年は何故かお茶に関する展覧会が続いたが、今年は殆どなかった。その年の好みであろうか。中々十点を選ぶことは難しい。候補として26点が上がったが、結局次の10点にまとめた。

第1位「仁和字と御室派のみほとけ 御室派編」国宝 千手観音菩薩立像3月6日

私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の最高峰であると評価していた。葛井寺(ふじいでら)は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来氏族が集まり、5世紀には巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建築された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面を戴き、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手とを合わせて1041本の手を持ち、各手の掌に眼が描かれる、十一面千眼観音菩薩坐像である。インドの初期密教が生み出した変化漢音の一つである。本像の作風はは天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の製作年代は天平年間の前半頃とみるべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手の美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本であったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。

第2位「生誕140年記念 木島桜谷 近代動物画の冒険」 寒月 4月2日

本作は大正元年(1912)の第6回文展出品最高賞に輝く作品である。森閑とした月夜の竹たぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介そうな眼であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの顔料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かびあがる。林立する竹にはダークな群青の絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛とした空気が漲る絵である。この絵を見た夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は、今年は”寒月”を出品しているが、不愉快な作品である。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。ところが動物はいえ昼間ですと答えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」は、この年の第6回文展で最高賞を取った。全国から出品された入選作186点中、主席であった。忘れ去られた名作を見ることが出来、私は非常に幸せであった。

第3位 江戸絵画の文雅  国宝 夜台楼台図 与謝蕪村作 11月21日

蕪村が最晩年、安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜台楼台雪万家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みが続く。しかし描かれているのは、中国の山水画bで理想とされる雪に閉ざされた秘境では無く、京都の東山に似た、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようである。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。

第4位 長谷川利行展(上) カフェ・パウリスタ      7月4日

本作は1911年に東京の銀座に開店した喫茶店である。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草や神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白とぴった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっかけとなり再び世に出てきた。額も無くかなり汚れた状態だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を蘇らせた。長谷川利行の代表作である。

第5位 「ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)」 叫び    12月13日

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうととしていたー物憂気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃え盛る雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこにたったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然と貫くのを感じた」(手稿T2760「夢の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物は、ムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに耐えられず、耳をふさいでしまっている。彼の体は、強い圧力を受けている。このように引き伸ばされて変形しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強力な力にさらされていることを示している。

第6位 岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 浄瑠璃物語絵巻 重分第四巻(2)6月18日

重要文化財「浄瑠璃物語絵巻」がMOA美術館で公開されたため、それを見たさに熱海まで出かけた。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した絵巻物である。金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物であり、重要文化財に指定されている。浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は祝言を挙げる。いよいよ姫がなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

第7位 名作誕生 つながる日本美術(3) 士庶花下遊楽図屏風 江戸時代 伝岩田又兵衛作 5月29日

船を浮かべた大きな池の周りに、桜咲く春の一日をさまざまに楽しむ人々の姿を描きこんだ野外遊園図である。桜の下での乱舞、道行く女性の一行に声をかけて遊びに誘ういわゆるナンパの場面、扇を手にして舞う若衆を囲んで下り藤の紋のある幔幕の内で繰り広げられる野外での宴、座敷では将棋や囲碁、三味線に興じる人々を、建具を取り払った建物に配した邸内遊楽の場面も加えられ、江戸時代初期の風俗画によく描かれたテーマである。この絵は、岩佐又兵衛となっているが、又兵衛工房と又兵衛の共作ではないかと解説では説明している。「憂き世」を「浮き世」と転換させた発想は、桃山時代から江戸初期にかけて広まった思想である。又兵衛らの活躍した元和から寛永年間(1624~44)に至って、時代の先端を行く流行思想となった。この「浮き世」の思想をまさに絵に描いた、男女遊楽の情景が最も好まれて取り上げられている。それを後の、江戸の菱川師宣を元祖として誕生した浮世絵の先駆とみなすことはごく自然なことであろう。

第8位 横山大観展 夜桜 絹本着色 六曲一双 昭和4年(1929)8月11日

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマの展示や運営も任された。本作はローマがねらいだったから、大観は海外の観客にも理解されやすい主題と画風を選んだのである。色の取り合わせから室町時代のやまと絵などを意識したと思われるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。

第9位 Re・加山又造典  春秋波濤 絹本採色 1966年  4月16日

この絵画は、国立近代美術館で何度も拝観した。この絵画と、別に3重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種での山を3枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。

第10位 横山崋山展 祇園祭歴図  江戸時代(天保6~8年) 11月5日

上下2巻、計30メートルの長さにわたって祇園祭の全貌を描きつくそうとした稀有の例の祭礼絵巻である。上巻は稚児社参に始まり、青山、そして山鉾二十三基が巡航する様子を丁寧に描く。下巻は後祭の山鉾計十基が巡航する光景を描き、三基の神輿が御旅所より祇園社へ還幸する様子、そして四条河原の納涼、祇園ねりものと実に印象的に描いている。本図は江戸時代後期以前の祇園祭の祭儀を知る上で欠かせない資料である。

(本稿は、「原色日本の美術全30巻、「探求日本の古寺 全15巻」高橋秀爾「近代絵画(上)(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(2)

ムンクの一見未完成に見える絵画は、初期の頃にはノルウエーやドイツの評論家たちの批判の的となった。ノルウエー国外では、1892年のスキャンダラスな成功とともにムンクの名は広まった。ベルリン芸術家協会での個展は、保守的な会員やメディアからの圧力により1週間で閉鎖に追い込まれた。だがこの事件のおかげで、ムンクはドイツをはじめ他のヨーロッパ諸国で画家としての頭角を現していく。そして20年後の1912年には、ケルンで開催された歴史的な分離派展で、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ダン・ゴッホと言った主動的なモダニストと並ぶ新しい芸術の担い手として招介され、一室が与えられた。ムンクは最も先進的なモダニズムの芸術家の一人ともなされたのである。そして1927年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展による確固たるものとなった。ムンクが生計を立てるにあたって、作品の販売よりもむしろ「展示」による入場収入に主眼をおいたことも興味深いことである。1892年、ベルリン芸術家協会で人々の怒りや嘲笑を掻き立て展示会が1週間で打ち切られた「ムンク事件」ー事実ムンクはこの一件で時の人となり、古展がドイツ国内を巡回する機会を得た。この時画家は200マルクの報酬か、チケット売上高の3分の1を受け取るかの選択に迫られ、後者を選んでいる。スキャンダルが反響を呼び、数多くの人々が自分の個展に足を運ぶことを理解していたのだろう。ムンクが死去した1944年、ほとんどの作品がオスロ市に寄贈された。1963年同市に「ムンク美術館」が開館した。現在でもなお、ムンクの芸術は世界中からの関心を集めている。日本でもたくさんの展覧会が開催されてきたが、本展のように、ムンクの初期から晩年までの作品を網羅する展覧会が最後に開催されたのは、20年前に遡る。たまたま、私が見学した「世田谷美術館」で開催された。1997年の「ムンク展」である。

月明かり、浜辺の接吻  油彩・カンヴァス         1914年

男と女は、互いに抱き合い接吻を交わしながら一体になる。男女間の愛は、互いの境界を決壊させる。それは個人が抱える孤独や疎外感に打ち勝つ手段となる。だが、ムンクはその誘惑に決して身を委ねなかった。いくつかの情事や恋愛事件は別として、彼は生涯を通じて独身のままでいた。ムンクが彼自身の創造力を維持することをどれほど望んでいたかがわかる。彼は、芸術家がその力量を十全に発揮するためには孤独でなければならないと確信している。

森の吸血鬼  油彩・カンヴァス         1916~18年

ムンクが生涯にわたりさまざまな方法で再制作し、組み合わせた一連のモチーフを生み出したのは1890年代のことであった。本作品においては、女の吸血鬼と男の犠牲者というムンクの象徴的なモチーフと、「夏の夜、声」に描かれた風景、さらに他のいくつかの主題が組み合わされている。ムンク自身の作品の見本として、繰り返し利用することで、新しい解釈と意味の転換を創りだした。

別離  油彩・カンヴァス             1896年

本作品において、ムンクは別離を迎えた一組のカップルを描いた。女のドレスは砂と一体化し、髪は大気の中に溶け込んでいる。前景の男は重々しさをたたえて立ち、その失意の心が大地に肥沃さをもたらし、血のように赤い植物を咲かせている。別離の情景は浜辺を舞台とした、ムンクの生涯にわたり繰り返し描いた湾曲する風景の中で繰り広げられている。

生命のダンス  油彩・カンヴァス               1925年

場面は夏の夜の海岸である。永遠に続く人間ドラマのように見える光景を満月が照らし出している。ムンクは人生を、誕生と繁殖、そして死が織りなす終わりなき循環と考えている。本作品における主要な人物は、前景に描かれた3人の女性たちである。白いドレスを着た若い女性は、青春期の純真さを表している。性愛が支配する画面中央では、赤いドレスの女性と、彼女に魅惑されたパートナーがダンスを踊っている。右側では、黒い服を着た年配の女性が、人生の終わりに近づきづつあることを表している。

フリードリヒ・ニーチェ  油彩・テンペラ、カンヴァス   1906年

ムンクは、コレクターから本人や家族の肖像画などの依頼を受けるようになった。ドイツの有名な哲学者を描いたこの肖像画は、妹のエリーザベルト・フェルスター=ニーチェによって注文された。ムンクはフェルスター・ニーチェが亡くなってから6年後に、写真をもとに本作品を描いた。ムンクはフェルスター=ニーチェが兄の文章類を管理していた東ドイツの都市ヴァイマールも訪ねている。この肖像画には「叫び」の構図の中心的な二つの要素が取り入れられている。それは画面に斜めに配され、線遠近法の強い効果を生み出している小道と、風景や紅色の空に見られる、うねるような有機的フォルムである。

緑色の服を着たインゲボルグ  油彩・カンヴァス     1012年

この大型の絵画に描かれた女性は、インゲンボルグ・ガウリンである。彼女はムンクのモデルを定期的務めた女性の一人で、数年は家政婦としも働いていた。後の1915年、彼女はノルウエーの画家ソーレン・オンサーゲルと結婚した。本作品は、緑色の色彩研究とみなすことができるかも知れない。ムンクは緑色を補色の紫色と対比させ、極めてヴァラエティに富む色調を展開させている。さまざまな緑色が表されている。ムンクの作品の中では、珍しい色使いである。

疾駆する馬  油彩・カンヴァス           1910~12年

視る者に向かって疾駆する馬を描いた本作品によって、ムンクは絵画の静的な領域の中で最大限のダイナミズムを生み出した。馬が疾駆するスピードは、極端な短縮法や粗い筆遣い、ぼやけた色面、雪のはね返り、そして道から飛びのく人々の姿によって伝わってくる。こうした絵画的な効果は、写真や映画といった新しいメデイアの技術に対するムンクの実験に影響を受けた可能性をうかがわせる。1902年は、ムンクは既にカメラを購入していた。図録にも沢山のカメラ映像が残されている。

太陽  油彩・カンヴァス            1910~13年

ヨーロッパでの評価が高まる一方、ノルウエーでは作品が受け入れられなかったムンクは、長年諸国を転々とし、酒に溺れ神経症に苦しんだ。1909年の個展で国立美術館が作品5点を購入した。ようやく祖国での名声を確立することになった。クリスチャニア大学(現オスロ大学)の講堂壁画は、ノルウエーに帰国したムンクが7年を費やした記念碑的な大作である。3方を囲む巨大な作品群の中心となるのが「太陽」である。強烈な光線が降り注ぎ、爆発的なエネルギーが画面からあふれ出ている。故国を終のすみかにしたムンクは、かってと打って変わった明るい色彩で、豊かな自然や人々の姿を描いた。80歳になるまで、創作への情熱を最後まで燃やし続けた。

星月夜  油彩・カンヴァス           1922・24年

亡くなるまでの30年は、オスロー近郊のエーケリーに邸宅とアトリエを構えた。幻想世界を立ち上げる筆がさえる「星月夜」はここで生まれた。冷えた空気にまたたく星と、オスロの街の灯が美しい。画面左下に控えめに映り込む影はムンク本人とみられる。人間の暗部や負の感情を直接的に訴えた前半の表現とは一転し、急性精神病を乗り越えたムンクは、美しい色彩やエネルギーに満ちた多くの風景画を製作した。

自画像  油彩・カンヴァス            1940-43年

ここに、80歳に届こうとしている老年のムンクがいる。彼は壁いっぱいに自分の絵を飾った部屋の中にいて、ベッドと時計に挟まれて立っている。この柱時計とベッドは、象徴的な意味を持つものとして描かれている。砂時計は伝統的に死を意味するシンボルであったが針も振り子も描かれていない時計は、ムンクに残された時間がもはやほとんどないことを暗示している。一方ベッドは「思春期」や「病室での死」など、愛と死を扱った多くの作品に登場してきたモチーフとして、彼のこれまでの画業を象徴するものであると同時に、もうすぐ彼自身の死の床となるであろうことを暗示している。画面左横にある裸婦像はムンクの画業において欠かせないものであった。これは死に対応する愛の象徴なのかも知れない。

 

エドバルド・ムンクはノルウエーの由緒ある家の生まれである。紆余曲折を経て徐々に名声を高め、国民的画家へと上り詰めた。精神的な病に苦しみ、複雑な内面を抱えていたが、そんな自らを冷徹に観察し、終生自画像を描き続けた。カメラを手に入れ、「自撮り」の写真まで残している。自画像は、彼の芸術家然とした姿を世間に印象づける、効果的な手段であったのであろう。60年に及ぶ画業の全体像を描き出す、素晴らしい展覧会であった。是非、大勢の方に見てもらいたい展覧会であった。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する魂の叫び  2018年」、図録「ムンク展ー1997年」、朝日新聞 記念号外「ムンクー共鳴する魂の叫び」、高橋秀爾監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)

待望のムンク展が東京都美術館で開催された。私に取っては、待ちに待ったムンク展であった。1997年(平成9年)に世田谷美術館でムンク展を観て以来であり、大変懐かしく、待望の「ムンク展」であった。ムンクを招介する前に、「ムンク」について、どれほど日本の美術界で知られているかを調べてみたら、驚くほどムンクは招介されていない。例えば、高橋秀爾監修「西洋美術史」(美術出版社)には、後期印象主義としてゴッホの次に「ノルウェーのエドヴァルド・ムンク」として「叫び」の写真が載っているのみである。次に、福島繁太郎「近代絵画」(岩波新書)では、やはりゴッホの付けたしのように「主観主義的傾向」の中の「エクスプレショニズム」の項で、「この流れはフォーヴに伝わり、更にノルウエーのムンクに至った」と記しているのみである。ムンクはこんなに日本では知られて居なかったのかと不審に思い、やや丁寧に調べてみたら、驚くべき事に、日本で一番最初にムンクを招介したのは、白樺派であった。「白樺派と近代美術」という本の中で、「文芸雑誌というよりも、むしろ美術雑誌と言ったほうがよいほど徹底して」西洋美術を招介した「白樺」が最初にムンクを取り上げたのは、早くも創刊後2年の6月号(1911/明治44)である。そこでは「近代のえらい画家」として「シャバンヌ、ゴッホ、ホフマン、エリック、ムンク」と並んで招介されていた。武者小路がすでにムンクにお作品には「彼の心の底にうつるものが描かれ」、「彼の自然は幽霊のように生きている。そうして人間の心をおびやかす、彼の描く人間は、孤独と、恐怖と、不安におののいている」とムンクの本質をぴったりと捉えているには注目に値しよう。                         主催者の「ごあいさつ」の言葉を借りた方が早い。「ノルウエーの由緒ある家系に生まれたムンク(1863~1944)は、病弱だった幼少期に家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。ヨーロッパ各地で活動しながら世紀末の思想や文学、芸術で出合う中で、人間の内面に迫る象徴主義の影響を強く受けながら、個人的な体験に根差した独自の画風を確立し、ノルウエーの国民的画家としての地位を築きました。愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の感情を強烈なまでに描き出した絵画は、国際的にも広く影響を及ぼし、20世紀における表現主義の潮流の先駆けにもなりました。」

自画像 油彩・紙(厚紙に張付)             1882年

ノルウエーの画家・ムンク(1863~1944)は、今や世界中に知られた画家である。家族の死を体験した病弱な幼少期を経て、ノルウエーの都市クリスチャニア(現オスロ)で画家として歩み始めた1880年代。そして第二次世界大戦の前年に孤独な死を遂げるまで、その画業は60年の長きに及んだ。画家になる以前、ムンクはクリスチャニアの工業専門学校でエンジニアになるため勉強していたが、1年で考えを変えた。芸術への情熱に捧げる決心をしたのである。1880年、彼はクリスチャニアの画学校(後の王立美術工芸学校)に入学した。父のクリスチャニアは必ずしも賛成ではなかったようである。ムンクは多くの自画像を描いているが、これが一番最初の自画像であり、端正な顔立ちと魅力をそなえた人物として知られていた。

臨終の床  リトグラフ                 1896年

ムンクは早い時期に母と姉を失い、「死せる母とその子」というリトグラフを残している。本作もリトグラフであるが、母か姉かの臨終の床を表したリトグラフである。一見、木版画のようであるが、リトグラフである。この作品において、棺を取り囲む幾筋もの木目調の水平線は、死と悲しみの雰囲気を強調している。さらに、線の間に現れるいくつもの顔は、魂の存在をほのめかしているのかも知れない。

病める子   エッチング・ドライポイント        1894年

「病める子」は、ムンクにとってはさまざまな意味で突破口を意味していた。死にゆく少女の顔に焦点を当てられている。ムンクは生涯を通じて、さまざまな技法を用いて、これと同じテーマの作品を生み出した。ムンクの姉のソフィェは15歳の時に結核で亡くなった。この作品はその姉を失った経験と結びついている。「病める子」の最初の版画が1886年にクリスチャニアに展示されたとき、作品は厳しい拒絶反応と熱狂的な称賛の声の両方を引き起こした。

メランコリー  油彩・カンヴァス       1894~96年

ムンクによる「メランコリー」のイメージは、孤独や悲しみに陥り、意気消沈する人間を表現する古き伝統の系譜にある、ムンクである美術評論家ヤッペ・ニルセン(1870~1931)の恋わずらいに着想を得て、昔からあるこのモチーフに新しい生命を与えた。ニルセンが情事をもったオーダー・クローグ(1860~1935)は、彼より10歳年長で、ノルウエーの画家クリスチャン・クローグとすでに結婚していた。クローグはムンクの初期の師の一人である。ここでの風景は、互いに溶け合うフォルムと色彩によって構成されている。本作品は、男の憂鬱な内面を表す精神的なイメージと捉えることができるだろう。

渚の青年たち(リンデ・フリーズ) 油彩・カンヴァス  1899~1900年

ある時、リンデ・フリーズの制作依頼を受けたムンクは、「メランコリー」のモチーフを本作品に再利用しつつ、それに変更を加えた。窓辺の風景と、孤立し、物憂げな人物からなるこの作品は、「リンデ・フリーズ」と呼ばれるシリーズの1点である。注文主であるドイツの眼科医マックス・リンデンの名にちなむこの連作は、8点の絵画からなるもので、ドイツの町リューベックにあるリンデ家の邸宅の子供部屋のために制作された。しかし、この絵の出来栄えに満足しなかった。このシリーズには愛し合い接吻を交わす恋人たちが描かれていて、リンデ夫妻はこうしたイメージが子供たちにふさわしくないと考えた。この「りんで・フリーズ」に関しては意見が合わなかったムンクとリンデだが、二人の友情はその後も永年にわたって続いた。

赤と白  油彩・カンヴァス          1899~1900年

前景に描かれた二人の女性が画面を支配している。白い服を着た金髪の女性は海の方を向いており、身体を柱のように直立させている。赤い服を着た濃い髪色の女性は、身体の曲線がかなり強調されている。木々の幹の間に暗い色のドレスをまとった女性の痕跡が見える。この女性は、本作品と同じモチーフを表す初期の油彩のスケッチに描かれていたが、ここではムンクの手によって塗りつぶされている。二人の姿は、女性の生涯の異なる段階、あるいは性格の異なる側面を象徴しているのかも知れない。白い服を着た女性の無垢と純真さは、赤い服の女性の成熟と情熱的なエロチシズムと対照的である。こうした象徴的な対比はありふれているが、この絵画の魅力はむしろ、象徴の「解釈」を超えて、赤、白、青、黒といった色彩が生み出す、緊張感に満ちた相互作用にある。

星空の下で  油彩・カンヴァス          1900~05年

二人の人物が抱き合っている。場面は星明りに照らされている。この星空は、私にはゴッホを思い出させる。家が象徴する社会の存在は、絵画の背景に押しやられている。女性の顔はぼんやりとして、ううつろに描かれている。赤い唇がなければ、頭蓋骨のように見えるだろう。ムンクはここで、二者の間の愛と欲望という不変の現象を表した。それは本質的に隔絶され、非社交的な世界であり、都市生活の喧騒とは無縁の世界である。青と緑は、この情景に神秘的で厳かな雰囲気をもたらしている。

叫び  テンペラ・油彩・厚紙             1910年?

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうとしていたー物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃えさかる雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこの立ったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」(手稿T2760「紫の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物はムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに堪えられず、耳をふさいでしまっいている。彼の体は、強い圧力を受けているかのようにお引き伸ばされて変型しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強大な力にさらされていることを示している。内心の恐怖に耐えられずに、彼自身も口を大きく開けて叫んでいるようだが、その叫びは前を歩く二人の男には聞こえていないようである。画面左端へと鋭い角度で後退してゆく遠近法は、見る者の視線を有無を言わさず引きずり込むかのようである。ムンクがニースでの体験をクリスチャニアの風景の中に置き換えて描いたのは、子供の頃の母と姉の死や、彼自身がさらされてきた死への不安によって増大した恐怖と不安の感情が、この町と分かちがたく結びついていたからであろう。「叫び」は不朽の名画として讃えられたいる。この作品は複数枚ある。世田谷美術館で見た「叫び」は、1893年制作で、年代も大きく異なっている。今回の「叫び」は別作品である。また、リトグラフも複数枚ある。夫々違った表情をしている。

絶望  油彩・カンヴァス                1894年

ムンクは本作品に「叫び」と同じ構図を採用した。「叫び」に描かれた人物を物憂げな男に置き換えた。本作品は、わずかな変更によってまったく異なる視覚的効果を生み出すことができるムンクの才能を証明している。この人物は、ムンクが「メランコリー」のイメージにしばしば用いるのと同じ人物像である。絶望や悲しみ、そして憂鬱といった感情は、ヨーロッパの芸術や文化において長い伝統がある。

不安  木版画・手彩色                   1896年

「叫び」と同じオスロとその周辺の景色を背景にムンクは町の人の群れを描いた。並んで待つ人々は、お互いに無関心で、ただ私達のほうをじっと見つめている。彼らの顔は、黒と白の大まかなシルエットに簡略化されている。彼らに個性を示す特徴は皆無である。この手彩色の木版画は、不安というテーマを特定の人物に対する恐怖としてではなく、近代生活における実在主義的な状態あるいは条件として提示している。不安とは、都市に生きる人々の生活を駆り立てるものであり、彼らをお互いに孤立させるものなのだ。同時に、人物たちの背後に見える夕暮れの燃えるような色彩は、彼らの不安な状態をきわめて劇的に演出している。

 

ムンクの代表作である「叫び」を中心に、比較的初期の作品を(1)としてまとめてみた。ムンクの描くものは、叫び、絶望、不安に代表されるとうに「不安」・「孤独」・「絶望」・「憂鬱」という近代社会の人間が持つ感情を絵にして描いたものが多く、特に「叫び」はムンクの代表作であり、近代市民の持つ負の要素を総合的に、見事に表現したものである。ムンクは80歳以上と長生きした画家であり、長い画家生活を通して多彩な面を見せるので、次回(2)で、この後のムンクの実績を招介したい。尚、ムンクの作品は、印象派のように大量にアメリカへ流れたわけではなく、大半がノルウエーの美術館に保存されている。従って、ムンク作品は10年以上のスパンを採って来日する傾向があるので、是非、今回の「ムンク展」を見学されることをお勧めする。なお、最近、どこの美術館でも図録が大幅に上昇し、博物館関係者の間では、「図録が売れない」という愚痴がおおいそうである。(永青文庫104号「館長のひとりごと」より)しかし、このムンク美術展の図録は、230ページに及ぶ大きさながら、2400円と大変手頃な価格である。是非、拝観された方は、この図録を求められることをお勧めする。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する叫び  2018年」、図録「ムンク展 1997年」、高橋秀而監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

「黒川孝雄の美」300編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、300編に至るまで7年の歳月を要した。1年に44編を書いたことになる。スローな様であるが、途中で80編程を失ったため、実質は380編を7年で書いたことになり、1年間に平均54編を書いた計算になる。ここ数年、急いで書いた理由は、その辺にある。このブログを書き始めたきっかけは、望洋会(名古屋大学経済学部第4期生の同窓会)の「幾山河」に学生時代の思い出として飛鳥、奈良地方の古寺を廻ったことを書いたことである。大学時代の思い出と言われても、特別勉強したこともなく、敢えて言えば「飛鳥・奈良・大和地方」の古寺・古仏を訪ね歩いたことが唯一の財産であったからである。「幾山河」には「おほてらの まろき はしら」と題して幾つかの古寺・古仏の思い出を書いた。飛鳥寺、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招招寺など、思い出深い5ケ寺を描いたように思う。題名の「おほてら」とは、唐招題寺にて、會津八一が「鹿鳴集」で謳った金堂の歌である。奈良・京都の仏寺が当初のテーマであったが、いつしか「美術展の招介」に移行していった。古寺巡礼と同様に、私は大学生時代から、数少ない経験であったが、西洋絵画の展覧会は必ず見学するようになった。また「徳川美術館」が、古い建物で残っており、毎月1回は訪れることにしていた。展示物は殆ど変らず、毎回同じ物を見学する訳だが、何かそこには、日常とは異なる物があるような気分であった。                会社へ入社(昭和31年)して、本社の近くに「ブリジストン美術館」が在ったのは、大変幸いであった。ここで、西洋絵画、近代日本絵画、彫刻等に触れ、大きな感動を覚えるようになった。昭和34年(1959)6月に国立西洋美術館が上野に完成したのも大きな変化であった。旧松方コレクションの一部(絵画196点、素描80点、彫刻63点、参考作品5点)合計370点が、フランスからの返還として上野にもたらされた。この松方コレクションは本来、もっと大きな収蔵品であったが、戦時中に「敵性美術品」としてフランス政府に没収され、一番素晴らしい美術品はフランス政府が美術館に収蔵し(例えば、ゴッホの「寝室」)、残り370点を「日本国民への寄贈」という形で返還したものである。松方コレクションは、15世紀頃から20世紀にかけてのコレクションであり、西洋美術を理解する上で、この上ない教科書であり、むさぼるように見学したものである。    さて「美」の読者数は月間4,500回という数字(年間54,000回)が基礎になる。誰に読んでもらっているかは、不明であるが、最近パソコンよりスマホに移動している。読者層が、20代~50代にシフトしたことが窺える。しかし、その内容は分からない。望洋会に記事が招介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻巣美術館」からである。望洋会の読者数は、ネットを扱える人と考えると10人~13人位と思う。私たちの同世代は、残念ながら、パシコンには詳しくない人が大半である。従って、読者層は殆ど名前も地位も知らない人ばかりである。                                   ブログを書くためには、まず美術館へ行く、図録を買う(これで1日)、図録を詠みこむ、過去の関連図録や図書を読み直す(これで1日)、これを基礎にして原稿を書く(ここが一番時間を取られる。2日程度は必要)、同時に写真を10枚程度選んで、パソコンに収録する(これは前の2日間に含まれる)、原稿・写真をパソコンに取り込んで「ブログ」として完成させる(約1日)、これをアップして、望洋会や友人にアップしたことをメールで連絡する(2時間)、合計すると一つのブログを完成するのに4日強を要するということになる。            これを年間54編×4日=216日という計算になる。要するに私の自由になる時間の大半は、「美」に取られていることになる。果たして、それだけの価値があったであろうか?どうせ、何もすることも無い身であるから、自由になる時間をつぶす絶好の機会であったと思っている。しかし、このままでは、やや情けない。折角ならば、多少は、誰かのお役に立つ記事にしたいと思う。           話は変わるが、私は自分のホームページ上に、10年(120回)に渡り、「フランチャイズ時評」という記事を書き、いまだに大学生から「卒論に引用したいが、許可してもらいたい」という電話が架かってくる。それどころか、関西の有力私大のフランチャイズ専門家(大学教授)より、「メガフランチャイズ」について私の見解を聞きたいとして、上京されることが最近あった。「フランチャイズ」は私の専門であり、その程度の要望があっても可笑しくない。しかし、それ以上に時間を掛け、情熱を燃やしている「美」に対しては、特段の要望も出ない。      察するに、私の「美」のレベルは美術愛好者の域を出ず、誰も専門家とは見ていないからである。300編が一応の目標であり、ここで止めても良いが、私の気持ちは、まだまだ続く。多分500編程度までは掻き続けることになるだろう。専門家とまではいかないが、一つの意見として注目してもらえるようになるためには、やはり専門的知識の素養が足りない。日本美術史、西洋美術史から進んで、日本仏教史、日本史、西洋史、中国史、旧約聖書、新約聖書等など、美術全体の系統的知識、教養、更には専門的見識に至るまで備えなければ、誰も「意義あるブログ」とは見做してくれないのである。所詮、現在程度の知識、素養では素人の域を出ないのである。本格的、かつ体系的知識を身に付け、専門家からも一目置かれる「黒川孝雄の美」を更に書き続けたいと思っている。                 なお、望洋会へのブログ・アップについては佐藤君、中山君に大変お世話になった。この二人の励ましが、今日まで続いた原動力であった。厚く御礼申し上げる。なお、この「300篇」に関しては、DVを作成して、古い友人に配布したいと思っている。

 

畠山記念館  生誕150年  原三渓ー茶と美術へのまなざし(2)

原三渓(1863~1939)は、増田鈍翁と並んで明治、大正を通じて、日本美術品の海外流出を防いだ、日本美術品の大コレクターであった。また、この二人は数寄者としても著名であった。原三渓は慶応4年岐阜県に生まれ、明治21年に上京し、跡見女学校で漢学と歴史を教える傍ら、東京専門学校(現早稲田大学)に学んだ。明治25年、教え子の原屋寿と結婚した。原屋寿は両親に早く死なれ、横浜で生糸問屋を営んでいた祖父原善三郎の相続人となっていたため、富太郎が原家に入籍して店を継いだのである。善三郎亡き後は原商店を原合名会社に改組して輸出業に着手、34年からは株式会社第二銀行の頭取も勤めた。三渓は事業を拡大する一方、その莫大な財産を後ろ盾として本牧三の谷の三溪園に居を移し、ここに古建築の購入、移築を行い、今日の「山渓園」を作庭した。また数寄者として、茶人との交流も多く、三溪園でも茶会を催している。しかし、至福の時は続かなかった。大震災で強羅の別邸白雲洞を失い、生糸も焼失し、その後の世界的恐慌もあり、後継者も亡くなり、晩年は恵まれないまま、昭和14年(1939)に亡くなった。膨大な収蔵品は、奈良の大和文華館や東京国立博物館に多数引き取られた。また、茶道具をはじめ一部の美術品は、畠山即応にも渡り、今回の展覧会となった。今回は、写真が多く入手出来たので、2回に亘り、連載することにした。畠山記念館としては、初めてである。

重美  四季花木図屏風  渡辺始興作   六曲一双 紙本着色 江戸時代

誠に華麗な屏風であり、茶人の即応が何故、このような美しい屏風を手に入れたのか、不思議に思ったが、琳派の収蔵品も多く、琳派の一人であるため、入手したものであろう。四季花木図は琳派の画家達が好んで屏風絵とした題材で、四季の花木や草花を右から左に配置し、一双を立て廻らせることによって、居ながら花園を鑑賞することができるものである。本作は始興の代表作とも言うべき作品であり、たらし込みの技法や胡粉を盛り上げ、その他草花に用いらた意匠化など琳派様式であり、如何にも公家好で王朝風である。この姿勢は、始興が仕えた近衛家煕(いえひろ)の影響があったのではないかと思われる。地味な茶道具の最後に、この華やかな屏風には、毎度驚かされる。原三渓の旧贓品である。

重文 竹林七賢人図屏風  雪村周継作  六曲一双屏風 紙本墨画 室町時代

中国の魏末・晋初(3世紀頃)竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨て、あるべき人間の理想の一つと認識されている。中国では四世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢図」が描かれるようになり、日本では等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧。常陸を中心に會津、鎌倉において活動し,晩年は三春(福島県)に渡り、当地で没した。昨年、名古屋で「雪村周継展」が開催され、見学できなかったことが残念であったが、思わぬ所で作品に接し、大変勉強になった。本作も、原三渓の旧贓品である。

重文 大慧宋杲墨跡  尺牘           南宋時代(12世紀)

この墨蹟はは大慧晩年70歳のもので、宛名は判明しないが、厚誼の深い禅者に送った書簡である。終わりより三行目に戊寅とあるから、南宋高宗朝の紹興8年(1158)であることが知られる。茶会の席に飾られたものであろう。

水玉透鉢  野々村仁清作            江戸時代(17世紀)

この作品は、畠山記念館で拝見したのは初めてではない。全く同じ品を、今年の2月にサントリー美術館で開催された「寛永の美」で拝観したので、係員に「サントリー美術館に貸し出したのか?」と聞いたところ、外部には全く貸し出していないとの返事であった。「寛永の美」の図録を確かめたところ、MIHO MUSEUMの所有であった。思うに仁清は、似たような作品をある程度の数を作り、各所に販売したのであろう。なお「白釉円孔透鉢」の名称で陳列されていた。図録では「シンプルかつシャープな造形で現代の工芸品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵とは違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品であろう」とまとめている。誠に要点を得た説明であり、そのまま借用しておく。なお、この作品は、三渓とは無関係とのことであった。

備前種壺共蓋水指  銘 太秦(うずまさ)    室町時代(16世紀)

中世以来壺・甕・擂鉢等生活雑記を焼造してきた備前焼は、侘び茶の広がりと共にその素朴な作風が好まれ、水指・建水等に見立てて使用されたり、次第に茶陶として茶人好みの作品が焼かれるようになった。この水指にような器形を、種壺と称している。箱蓋裏には三渓の花押があり、その横に畠山即応が「太秦」と銘を書きつけている。作意の感じられない侘びた趣は、小壺を見立てたものとも考えられる。

青磁鍔花入                 南宋時代(13世紀)

青磁は今から2千年ほど前、中国の漢時代(前220~後221)の初期には既に黄河や揚子江流域で焼かれていたが、釉色は茶色味がかかってオリーブ色を呈していた。青いいわゆる青磁の美しい色が出せるようになるのはそれから千年後、宋時代(960~1279)のことである。日本には花入・香炉・瓶などが禅宗の渡来と共に請来され、寺院の荘厳具、座敷の床飾りにと、珍重された。この花入れは古代銅器をかたどって造られたもののようである。中蕪の胴に太い円筒状の頸がつき、頸の胴に近い部分にある張り出しを茶人は刀の鍔に見立てて、鍔花入れと呼んでいる。

共筒茶杓  銘寿  尾形光琳作        江戸時代(18世紀)

尾形光琳(1658~1716)は、高級呉服商の雁金屋の次男に生まれた。絵画の制作、手箱の蒔絵、弟の乾山陶器への絵付けなどさまざまな作品を残し、江戸琳派を代表する一人となった。芸術家の茶杓としては、狩野探幽・尾形乾山・酒井抱一などが知られるが、蒔絵類まで手掛けた光琳の茶杓には、その洗練された意匠性がうかがわれる。櫂先は丸みを帯びてゆったりとした中節の茶杓で、節下、追取の部分は竹の模様に沿って削り込まれ景色をなし

共筒茶杓 銘 有明 小堀十佐衛門政貴作        江戸時代(17世紀)

作者小堀政貴(1639~1704)は、遠州の四男で茶道具の目利きに勝れ、特に茶杓は得意であつたと言われている。本作の銘の由来は明らかでないが、茶杓の露と櫂先は、急角度に曲げられている。露の先端中央から細い縦縞が通っており、中節を過ぎるとやや右寄りに流れている。全体的にほっそりとして引き締まった造形は、父遠州の作風を踏襲した瀟洒な作行きである。

共筒茶杓  佐久間将監真勝作       江戸時代(17世紀)

作者佐久間将監真勝(1570~1642)は、家康・秀忠・家光の三代将軍に渡って作事奉行を勤めた人物で、晩年は京都柴野の大徳寺に隠棲し、寸松庵という茶室を設けて茶湯三昧に過ごした。所持していた紀貫之の色紙は「寸松庵色紙」として知られている。茶杓は櫂先が大きくたっぷりとして、やや右上がりの作振りである。中節は直腰、節上は鼈甲色で直下には刀で刹ぎ目を入れた景色がある。本作は下方に「寸松庵」と墨書された珍しい一作となっている。箱裏蓋には三渓翁の署名が認められる。

備前火襷水指   銘玉柏           桃山時代(16世紀)

備前焼特有の緋襷(ひたすき)は器に入子にして焼成する際、作品同士のくっつきを防ぐために間に挟んだワラが器胎の鉄分と反応し、赤く襷掛けしたような文様に焼き上がったものを言う。備前焼は茶人に賞玩されてきたが、自然の力によって生まれた緋襷等は殊に珍重された。この水指の肩は心持ち張らせ、裾へかけてすぼまった端正な作行きで、白い地肌に襷の火色も鮮やかに出ている。形、色とも品格がある。

 

原三渓より畠山即翁が譲り受けた作品(水玉透彫は除く)ばかりであるが、優品が多い。特に二つの屏風には驚いた。重文、重美などの指定を受けたもので、雪村の「竹林七賢図」、渡辺始興の「四季草花図屏風」、共に傑作であり、この茶の湯専門の美術館でお目に懸れるとは思っていなかった作品である。また、水差、茶杓など、毎回拝観しているが、写真が入手できないため、招介をあきらめていたが、今回は図録などのおかげで、招介することが出来た。畠山記念館を2回にわけて紹介したのも、茶杓、水差など、常日頃招介できないものが、多数招介できたる機会となった。

 

(本稿は、図録「原三渓旧蔵の茶道具」、図録「与与衆愛玩  畠山相応の美の世界」、図録「与衆愛玩 琳派」を参照した)