興福寺  再建された中金堂

奈良興福寺と言えば、奈良を代表する寺院であり、国宝、重要文化財を日本一保有している寺院として知らない人はいない。ところが、古都奈良の散策に欠かせない本として有名な和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道夫「古都遍歴」の3誌とも「興福寺」と名付けた章は設けていない。これは、あれ程読み込んだ私にとっても驚くべき発見であった。勿論、文中には「興福寺」に触れ、特に興福寺の仏像には適宜触れていることは当然であるが、項目(章)として興福寺を立てていないのである。何故、誰でも知っている興福寺を「章立て」しないで、古寺巡礼や古寺風物詩が書けたのであろうか。私の昭和20年代の記憶では、興福寺は奈良公園んの一部であり、少なくとも建物として古いものは、東金堂、五重塔、三重塔などはあるが、肝心の金堂が仮本堂でみすぼらしいお寺であった。仏像は沢山あるが、肝心の要となる金堂が無い寺として写った。幸い、日経新聞「私の履歴書」に、現貫主の多川俊英氏が2018年11月1日より29にまで28回に亘り、履歴書とともに興福寺の歴史に触れてみえ、私の知らないことが沢山記事になっていた。この履歴書を参考にしながら、興福寺の各お堂や、仏像を連載してみたい。まず「信仰の起点」と題する第20回の履歴書に、「興福寺は天平回帰、つまり最新の技術と様式で造り直すのではなく、創建当初の姿に近づこう、戻ろうとしてきた」と述べられている。その中に奈良橿原考古学研究所の泉森氏が「興福寺には信仰の動線がない」と指摘され、「あっ、痛ッ」と感じたと述べておられる。正しくその通りである。私の「美」の最初の一文が「興福寺 廃仏稀釈の嵐」と題して、五重塔、東金堂の建物を取り上げ、子規の俳句として、次の歌を引用している。「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 子規              さて、中金堂は藤原不比等によって平城遷都の年(710)に、藤原氏の氏寺として丘陵の先端地を整地して伽藍が計画され、最初に建立に取り掛かった金堂である。その完成は不比等の死(養老4年ー720)までには完成していたと思われる。その後7回に及ぶ火災を被り、特に7回目の火災は享保2年(1717)に発生し、その後の再建は仮堂にとどまった。私がみた興福寺中金堂は、その江戸時代の仮金堂であり、到底興福寺の中心となる金堂とは思えなかった。中金堂の再建は、興福寺再建の柱事業として、平成の初め頃から計画され、周到な準備のもと20年以上の歳月をかけて、本年(2018)10月7日から11日まで落慶法要が行われた。実に江戸時代の火災以来300年振りの本格的中金堂の再建であった。

再建された中金堂 平成29年(2018年)

天平時代の中金堂をそのままの大きさで再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川貫主は、次のような挨拶をされている。「本日、中金堂の再建落慶法要を迎え、自ずからの思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の動線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な事情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれがようやく実現でき、感慨無量という他ありません。」    このご挨拶を記せば、中金堂の興福寺再建の内容をゴタゴタ記す必要は無いだろうと思う。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者・文学者が生存されたならば、必ず「興福寺」を一章として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更するほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要であろう。

中金堂の三尊と法相柱

この写真は、新築なった中金堂の三尊と法相柱の一部を映した写真である。中央の釈迦薬師如来坐像は江戸時代(文化8年ー1811)に、仏師赤尾右京が造った仏像であることが、像内墨書銘により明らかになった。この仏像は、江戸時代に再建された仮金堂の本尊として造立された仏像である。左右の薬王、薬上菩薩立像については後に触れる。なお、左端に法相柱が建立されている。これは法相宗の祖師が描かれた柱であり、法相柱と呼んでいる。これが創建当初から存在したかは不明であるが、興福寺の最初の大火(永承元年ー1044)後の再建記録である「造興福寺記」には、、法相宗の再興について記録されている。興福寺は奈良時代以降「法相専寺」を標榜してきたこと、法相柱はその一つの象徴として、比較的初期の頃から存在していたことが推測される。法相柱については、無著・世親から鎌倉時代を下限に法相の教えを確立・発展させてきた14人の祖師を、畑中光享画伯が華やかな天平時代に相応しい群青を背景に描いたものである。柱絵が「千年残る」ことを目指し厳選した絵具・紙を用い、柱に麻布を巻き、漆で固め下張りの紙や三重に張り付けた上から祖師画を重ね合わせたものである。

重分 薬王(右)・薬上(左)菩薩立像 鎌倉時代(建仁2年ー1202) 木造

 

仮金堂の釈迦如来坐像の両脇に置かれていたが、像内銘文により建仁2年(1202)に造られ、西金堂に安置されていた薬王(やくおう)、薬上(やくじょう)菩薩像であることが知られる。これは鎌倉時代の復興像である。これらの菩薩の登場する「法華経」の薬王菩薩本事品(ほんじぼん)に、女人の極楽往生が説かれており、光明皇后の祈りに相応しい像と言える。

重分 四天王立像 康慶作  鎌倉時代(文治5年) 木造

持国天立像            増長天立像

 

南円堂に安置されていた鎌倉時代(文治5年ー1189)の後慶作の四天王立像を、中金堂に祀ってあった。いずれも康慶作で、鎌倉時代の四天王像である。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、例えば治承2年(1178)の東大寺持国天像に似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。なお、彩色も製作当初のものがよく残ることも貴重である。

 

中金堂は、左右約36.3メートル、奥行きは約23メートル、基壇からの高さは約19.6メートルである。1998年の境内整備着手にはじまり、2010年の立柱式を経て、20年がかりで再建したのである。興福寺整備委員会の鈴木嘉吉座長は中金堂再建の意義を次のように説明する。「興福寺はいわば300年間、へそを欠いた状態だった。興福寺の堂塔のなかでも中金堂は最大の中核施設。繰り返し創建時代の規模・形式で復元されてきた。ところが1717年に焼失してからはそれがかなわなかった」「ながらく信仰の動線のない状態が続いたが、今回はまさに七転び八起きでのぞむ再建」と多川俊英貫主は語る。

 

(本稿は、多川俊英「私の履歴書 全28回日経新聞、日経新聞2018年10月記事、図録「平成再建 興福寺中金堂落慶  2018年」、古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

フェルメール展(2)

フェルメールは1632年、オランダの商都デルフトで宿屋を営む夫婦のもとに生まれた。宿屋「メーヘレン亭」は居酒屋も併設しており、父が画商としても活動していたから、街の画家たちが多く出入りしていたようである。フェルメールは10代でデルフトを離れ画業修行をしたとされるが、どこで誰を師匠としたかは不明のままである。1652年、フェルメールの父は亡くなった。この知らせを受けたフェルメールはデルフトn戻り、宿屋と画商業を継ぐことになった。この時フェルメールは20歳であった。以後殆どデルフトを離れることなく、この地で画家としてのキャリアを積んだ。その翌年の1653年、20歳のフェルメールは裕福なカトリックの娘カタリーナ・ボルネスと結婚した。カタリーナの両親は、一介の画家であり、プロテスタントの教徒であるフェルメールとの結婚に反対したが、彼がカトリックに改宗することで同意を得た。同年の年末にはデルフトの聖ルカ組合(画家の同業者組合)に登録した。これにより一人前の親方画家として工房を構え、作品に署名し販売したり、弟子を取ったりすることが出来るようになった。フェルメールは、はじめ神話やキリスト教の主題を描いた歴史画に力を入れたが、市民階級の需要の高まりから、市井の人物を描く風俗画を描くようになった。オランダの市民階層は、一家に一枚の絵画を飾るだけの余裕が出来たのである。「今日の日本で、一人前の画家の絵画を飾っている家庭がどれほそあるだろうか?)代表作の一つである「牛乳を注ぐ女」は20歳代後半に描かれた作品ながら、フェルメール作品の特徴である、光に満ちた室内の情景や、鮮やかな青と黄色の対比を、すでに見ることができる。順調に画家としての評価を挙げたフェルメールは、29歳の時に史上最年少で聖ルカ組合の理事に選任された。この頃には、風俗画家の画風を確立し、後世に残る名作を、次々に生み出した。1667年には「デルフト市誌」に「ファブリティスを継ぐ画家」として紹介され、デルフト随一の画家として評価された。その一方で生活は苦しく、義母の支援や友人からの借金に頼ることを余儀なくされていた。その理由として多くの子供を養うことや、フェルメールが多用した非常に高い顔料、ウルトラマリンブルーへのこだわりも、家計を圧迫していたと伝えられる。デルフト一の画家となったフェルメールは、40歳の頃には、絵画の鑑定家としても活動した。しかし、この頃からオランダ経済の衰退が始まった。第三次英蘭戦争が勃発し、フランスにも宣戦布告されたオランダは、大不況に陥り、絵の注文も激減した。そして1675年、フェルメールは43歳でこの世を去った。未亡人となったカタリーナは翌年4月、裁判所に破産を申請し、夫が残したわずかな作品も、パン代のかたに渡してしまう程に困窮した状態であった。

マルタとマリアの家のキリスト 1654~55年頃 ヨハネス・フェルメール作油彩・カンヴァス スコットランド・ナシォナル・ギャラリー

この絵はイエス・キリストが二人の姉妹の家に招待された際のワンシーンを描いた宗教画である。食事の支度をする活動的なマルタと、キリストの足元に座り込んで話し込む瞑想的なマリアを描く。教会での祈りを重んじるカトリックと、聖書のの教えを重んじるプロテスタントの教えを象徴しているという説もある。この絵を描く2年ほど前、21歳のフェルメールは、一つ年上のカタリーナと結婚するため、プロテスタントからカトリックに改宗している。信仰の違いからカタリーナの母親マーリアが、結婚に強く反対していたことからである。どちらかを選ばせるキリスト教的教訓が問われるこのテーマをフェルメールが描いているのは、自身の「選択」の影響ではないととも言われている。

執り持ち女 ヨハネス・フェルメール作 1656年 油彩・カンヴァス ドレスデン国立古典絵画館

フェルメールの作品のうち制作年が記されているのは3点のみである。1656年の年紀のある本作は、他の作品の制作時期を推定する際の基準となっている。描かれているのは売春宿の情景である。黄色い服を着た女性が、赤い服の男性からコインを受け取ろうとしている。女性の左胸に向かって背後から伸びる男性の左手が描かれている。その隣では、男性に娼婦を斡旋した「取り持ち女」が不気味な笑みを浮かべ、左端ではフェルメールの自画像とも言われる男性が、こちらに視線を投げかけている。一方で、この絵の設定は、新約聖書にある「放蕩息子」の一場面を連想させるという意見もある。宗教画や歴史画などを手掛けていた若きフェルメールが、風俗画家への転向を模索していた頃の作品である。

牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気の高い作品で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだが、フェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビラスズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされ室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対称の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机と右側の床にある木製足温器は古典的な三角構図を形成している。フェルメールは、透視図法の焼失線を女性の右手の真上にある消失点に向かって集中させることによって、絵を見る人の視線をさりげなく絵の中心要素に導いている。カンヴァスのその箇所にある小さな穴は、フェルメールが17世紀のアトリエでよく行われていた方法を用いたことを物語っている。画家は消失点となる場所にピンを刺し、透視図法の消失線をさだめるためにそこから絵の末端まで糸を張ったのである。

ワイングラス ヨハネス・フェルメール作 1661~62年頃 油彩・カンヴァス ベルリン国立美術館

「ワイングラス」は、フェルメールの制作活動の中期に属する絵画である。この時期、彼は「遠近法によって絵の中につくりだされる」空間を拡張する方向に向かっていた。人物や品々ははっきりと私たち鑑賞者から遠ざけて配置されている。この作品で初めて、フェルメールの対象をクローズアップして描くことを放棄した。人の座っていない椅子をテーブルの手間に置くことで「二人の人物による」出来事から私たち鑑賞者を隔てて、私たちを後ろに下がらせたのである。この革新的な方法は、フェルメールより3歳年長であったデルフトの同僚画家、ピーテル・デ・ホーホの初期の傑作からの影響を示唆している。画面左から、とりわけ2枚ある窓ガラスのうちの手前の1枚から差し込む冷たい光の反射の中で、若い婦人がテーブルの前に座ってワインを飲んでいるのが見える。この女性は、グラスを完全に傾けていて、ワインの最後の一滴を飲もうとしているようだ。落ち着きのある洗練されたしぐさでグラスの脚を手にする女性の動作は礼、この儀作法にかなうもので、また上流階級の人々によりふさわしいものである。この女性の隣には、ワインのポットを手にした優雅な身なりの紳士が立ち、ワインをつぎ足そうと待っているが、自らは飲んでいない。この若い婦人を見るとその自信に満ちた、まさに高慢といってよい表情は、この怪しげな人物の艶っぽい関係がこれから始まろうとしていることを示している。無垢な若い女性への誘惑、すなわち経験豊かな男性に言い寄られるという主題を取り上げた。その際、彼はオランダ風俗画家たちの間で流行していたこの主題に変化をつけている。同僚画家のヘラルド・テル・ボルフがフェルメールに着想を与えたのであろう。彼は、酒を飲む若い女性を紳士が誘惑するという場面をモチーフに何点もの作品を描いている。しかしながら、フェルメールの場合、この出来事に猥雑さも皮相的な官能性も加えない。彼は二人の関係の本当のところをはっきりと伝えるようなものは何も描いていないのだ。画面左側の窓には、片手でねじられた帯状のものを持つ女性像が描かれた色鮮やかな紋章が描かれている。この帯状のもののなかでは手綱が重要である。というのも、手綱は「節制」を意味する小道具だからである。ここに描かれた二人の関係とは、この二人が自制することに失敗するだろうという予測をも示唆していると考えたよいだろう。この絵は、まさに「節度を知る」ことへの警告である。

リュートを調弦する女 ヨハネス・フェルメール作 1662~63年頃 油彩・カンヴァス  メトロポリタン美術館

若い女性が窓辺に座り、リュートを調弦している。リュートの糸巻きに耳を傾け、楽器をかき鳴らしながら、窓越しにじっと外の通りを眺めている。鉛の窓枠のついた窓ガラス越しに差し込む光は、この女性の耳と首元を飾る真珠をきらめかせているだけでなく、彼女の隣にある椅子の磨き上げられた真鍮の飾り鋲をも輝かせている。彼女の前のテーブルには、楽譜が散らばっている。部屋の背後には飾り気のない白い壁で、そこには手彩色されたヨーロッパの地図が掛かっている。この絵は、建築的な空間の確固とした描写を一歩、椅子とテーブルの遠近法に基づく後退が、鑑賞者の眼を、画面を横断する力強い対角線上の動きに導いている。私たちの眼にはこの女性演奏者に向けられるが、彼女は、椅子と地図の間のまばゆいばかりの支点となっているのである。この作品においても図面左の窓からの光が柔らかく中景を満たすという形式になっているが、前景はそれに比べると暗くなっている。17世紀の画家達には自由に使える人工的な照明があまりなかったので、アトリエに差し込む光を調整するには窓を開けるか、雨戸を閉めるかしかなかった。この女性が見に着けた黄色い服は、フェルメール歿後、財産目録に載ったもののようであり、しばしば描かれた女性が着ている。

真珠の首飾り ヨハネス・フェルメール作 1662~65年頃 油彩・カンヴァス  ベルリン国立美術館

6作品に登場する黄色いマントを羽織った女性が、鏡を見ながら今しも真珠の首飾りをかけようとする様子である。黄色いカーテンがかかった右側の窓から、オランダ特有のやわらかい光が射し込んでいる。左側からの光、真珠に反射する光、黄色いマントの単身女性、人物の存在を際立たせる無地の壁。「光の魔術師」と称されたフェルメールならではの特徴が十分に詰まった中期の名作である。フェルメールは「青の画家」と称されるが、「「黄色の画家」であることがよく判る。

手紙を書く女 ヨハネス・フェルメール作 1665年頃 油彩・カンヴァス  ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フェルメールは、オランダのどのような画家達にまして、不動の静謐さと一瞬のうつろいとの間で繊細な均衡を保つことができた。彼は、この作品において、手紙を書くのを中断された女性が、穏やかで思慮深い作法で私たち鑑賞者の方に頭を上げているところを描いている。女性の姿と、この作品には永遠性がゆきわたっている。たとえば、フェルメールは青いテーブルクロスに斜めの折り返しをつくっているが、この折り返しは机に置かれた女性の左腕と平行になっている。また、人物像と静物の関係に対する同様の関心からフェルメールはテーブルの上に黄色いリボンを描いたが、このリボンは女性の伸ばした右手の輪郭線と呼応している。この絵の年紀は記されていないが、この様式から、1660年代半ばから後半にかけて制作されたほかのフェルメールの作品と関連づけられている。さらに、頭の後ろの髪を束ねて編み込み、星形に結んだリボンをつけたこの女性の髪形は、1660年代半ばに流行していた。女性の着る優雅な黄色い上着は、おそらくフェルメールの没後に作成された財産目録に記載されたものであろう。この時期のほかの3点の作品にもこの上着が描かれているが、そのうちの2点「リュートを調弦する女」と「真珠の首飾りの女」が本展に出品されている。

赤い帽子の娘 ヨハネス・フェルメール作 1665~66年頃 油彩・板  ワシントンナショナル・ギャラリー

フェルメールは、1660年代半ばないし後半に本作品を制作した。カンヴァスでは無く、板に描かれた、この注目すべき小品からも見て取れるように、フェルメールはm作品の雰囲気を作り出す際の色彩の役割にきわめて鋭敏であった。この作品では、若い女性が炎のように赤い帽子をかぶっているが、この帽子の外側の緑は、光が帽子の羽毛のなかにまで差し込んでいるので、まるで蛍光色であるかのように見える。この女性は溌剌として、生気に満ちている。目に青緑色のハイライトがあり、半分開いた口にピンクのハイライトがあるので、その表情は生き生きとしていて、まさに今、私達鑑賞者のほうに目を向けたのだという印象を強めている。青い上着の上に黄色いアクセントを置くという異色の大胆な組み合わせが、作品に視覚的な力強さを加えている。フェルメールが描いたほかの多くの人物画とは違って、この女性は、思惟的で抽象的な世界にはいない。彼女は、柄物のタペストリーを背景にして、私たちをじっと見つめ、関心を惹きつけ、私たちと直接やりとりしている。23.2×18.1cmと一番小さな絵である。

手紙を書く婦人と召使い ヨハネス・フェルメール作 油彩・カンヴァス 1670~71年頃 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

フェルメール後期作品の最高傑作として広く評価されている。この絵は、堂々たる品格をそなえた名品である。フェルメールの早すぎる死の数年前に描かれたこの作品には、緑のボデイス(胴着)とパフスリーブの白いブラウスを着た女性が敷物が掛けられた机の上で一心に手紙を書いているところが描かれている。手紙の文面はわからないが、女性の後ろに腕組みをしたメイドが立っている。このメイドは左側を向き、装飾が施されたステンドグラスの窓の外を見やっているが、何をみているのか定かではない。フェルメールはこの二人の女性を意図的に対比している。つまり、俯きながら坐っている婦人は内向的に見えるが、一方のまっすぐ立つメイドは外の世界につながっている。社会的身分や手前に位置していることからすれば、婦人が主役だが、メイドは女主人に従う身であり奥の部分に配置されているにもかかわらず、まさに構図の中心に全身像で描かれている。フェルメールは、既成の社会的ヒエラルキーを軽く扱うことによって、メイドがこの絵の場面の本質的要素であることをみなすように私達に望んだのだろう。本題材は、デルフトの画家が特に好んだもののひとつだった。フェルメールの早い時期の3点の作品には、女性が独りで手紙を読む、あるいは書くところが描かれている。そして残りの3点には、手紙を渡すメイド、今まさに渡そうとするところ、また本作品がそうであるように、女主人から手紙を送るように命じられるのを待つメイドが描かれている。フェルメールが手紙という題材を好んだのは決して例外的なことではなかった。彼が生きた時代のオランダ風俗画では男女の手紙のやり取りは最も頻繁に見られる画題の一つだった。

 

フェルメール展と名乗った展覧会は、日本では6回目であるが、その前後にオランダ絵画展とか、「レンプラントとオランダ絵画巨匠展」など19回、日本で開催されている。その中で、今回は10点が日本で見られる。(内1点は大阪会場のみ)従って、東京展では9点が見られる。これは過去最高の点数であり、初来日は3点もある。今回の「フェルメール展」では、日時指定制という初めての方法で入場切符を発売した。それは、絵画展を視るために、数時間も待つケースが多く、たとえば昨年の若冲展では、数時間並んだ人もいた筈である。今回は、入場予定日を前もって決め、かつ時間帯も決めて、指定された電話番号に電話すると、ナンバーを教えられ、セブンーイレブンの店舗を指定すると、その番号を指定した店で伝えれば、入場券が買えるという仕組みである。多分、日本では初めての採用では無いだろうか?入場料は2500円と非常に高い。いまだかって経験したことの無い高い値段であった。実際、私は初日の時間帯、10月5日の午前9時半~10時半を指定し、10時頃に行ったが、すでにかなり人は入っていた。しかし、当日券も販売しており、必ずしも事前購入が絶対条件では無いようであったが、万一満員になれば、当日券は販売しないだろうから、やはり事前予約しておくべくだろう。17世紀はオランダ全盛期であり、フランスより、イギリスより豊かな国であった。このキラキラした国では1637年にチューリップ・バブルがはじけ、ロンドンの「南海泡沫事件」より80年余り古い話である。こんp展覧会の入場券はかって経験したことの無い高いものであったが、結論として十分満足出来る内容であった。今後、少なくとも10年間は、これほどのフェルメール絵画が日本に来る機会は無いだろうから、是非拝観をお勧めする。十分満足出来る筈である。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「フェルメール展 公式ガイドブック 2018年」、クロワッサン 2018年10月25日号、日経大人のOFF「2018年1月号」を参照した)

フェルメール展(1)

ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダ共和国の黄金時代を代表する画家である。作品数は45店程度(異論はある)と寡作であるが、17世紀オランダを代表する画家であることは、間違いない。しかし、現存する作品は35点程度(異論あり)であり、長い無名の時代に行方不明となり、フェルメールの名誉が回復されてから、作品が発見された画家である。オランダとは、ほぼ現在のオランダとベルギーに当たる地域で、17世紀までは「ネーデルランド」(低地地方)と呼ばれた地で、海面より低い土地が多いため穀物の自給は、当時は困難であり、輸入に頼らざるを得なかった。その為この地域では、商人が活躍をして、仲立ち貿易により生きて行かなければならない事情があった。このネーザーランドの繁栄は、17世紀のイギリスを遙かに超えるものである。当時のオランダはヨーロッパ隋一の繁栄を誇る国であった。イギリスの作家ダニエル・デフォーは、イギリスの貿易は「輸出貿易」であり、オランダは「中継貿易」に過ぎないと酷評している。オランダのこの時代の歴史は、戦争の100年であった。歴史を振り返ると、まず1568年から1648年まで、スペインからの独立戦争を興し、オランダが決定的に勝利し、ヨーロッパで初めて市民階級が成立した。チューリップ・バブルの頂点の時代(1632年)にフェルメールは生まれているが、間もなく1637年にはチュリップ・バブルははじけている。17世紀世界を制覇したオランダの豊かさを土台に、文化が成熟していった肥やしのようなものを、この時代の絵から感じるが、一方でオランダの凋落の兆しも感ずる。事実第一時英蘭戦争が1662年に発生し、1654年に終結している。その後英蘭戦争は、第三次まで続き(1674年)、決極オランダは海上覇権をイギリスに奪われてしまった。フェルメールの生きた時代は、オランダが近代市民社会を生み出し、生き生きとした社会を生み出し、その絶頂期に生まれた作品群である。ヨーロッパ絵画には、19世紀頃までは、厳格なヒエラルキーがあった。それは歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の序列で、16世紀には、この序列は厳格に存在したが、今回の「フェルメール展」では、概して風俗画が多い。第1回は、フェルメール以外の著名作家の作品を取り上げる。

ルカス・デ・クレルク(1593~1652年)の肖像            フィンテェ・ファン・ステーンキステ(1603~1640)の肖像画     フランス・ハルス筆1635年頃 油彩・カンヴァスアムステルサアム国立美術館

 

この2作品は対をなす作品である。等身大の男の肖像は、画家の卓越した描写方法が素晴らしい。17世紀おいては、結婚した夫婦が自分たちの肖像の対作品を所有するのは普通のことだった。ここに描かれているのはハーレムの商人とその妻である。二人は1626年に結婚した。どちらも白いひだ襟のついた黒い服を着ている。極めて質疎な服装である。その理由は彼らの宗教的信条にあった。この二人は厳格な服装規定に従うプロテスタントの一派メノ一派の信者だったのである。妻のステーテンキステは、両手を腹の前で組み、妊婦のような姿勢を取っている。右手の関節や指のハイライトは立体感をありありと表現している。

ハールレムの聖ルカ組合の理事たち 1675年頃 ヤンデ・ブライ作 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

7人の男性が一つの部屋に集まっている。壁には金色の額縁に収められた風景画がかけられている。机はオリエント風の敷物に覆われている。この人物たちは、ハールレムの聖ルカ「画家」組合の理事たちである。聖ルカ組合は主として、若手芸術家の監督や、外部との競争から会員を保護などを行う芸術家の職業組合であった。オランダ共和国ではおもな芸術の中心地にはすべて聖ルカ組合が存在した。画家組合の一員だったヤン・デ・ブライはこの絵の中にも登場し、画板を手にした左から2番目の人物が彼その人である。彼は歴史画を描いたが、フランス・ハルス亡き後のハルレムで最も重要な肖像画家であった。

宿屋デ・クローンの外 1630年頃 ヤン・ミーンセ・モレナール作 油彩・カンヴァス フランス・ハルス美術館

宿屋の前で陽気な仲間たちが楽しんでいる。農民が酒やカード遊び、音楽等に興じる生活風景を表す。このような絵画は、時として享楽的生活への戒めという道徳的な意味を含む。しかし、モレナールは喜劇的な風俗画を得意としたことから、本作も単純に鑑賞者を楽しませる目的で描かれたものであろう。17世紀オランダ共和国では、このような風俗画が楽しまれた。

港町近くの武装商船と船舶 1620~25年頃 コルネリス・ファン・ウィヘン作 油彩・板 ロッテリアム海洋博物館

画面中央をすべての帆を張った武装商船が左に進んでいる。大砲を撃ったあとで、大きな砲煙が上がっている。この3本マストの武装商船はオランダの旗を掲げている。画面右奥からこちらにやって来る別の3本マストの帆船には3本のユリの鑑旗が掲げられているのでフランス籍であることがわかる。武装商船は、遥かアジア、アメリカ等に輸出貨物を積んで商売をするのであろう。当時のオランダの富をかせぐ手段であったろう。前景の浜辺では、漁師たちが忙しそうに釣り上げた魚を運んでいる。漁船やボートを引き上げられている前景の狭苦しい砂浜では、人々が様々な作業をしている。この作品は、実景を描写したかのような印象を与えられるが、ファン・ウィーリーヘンは、船や海、漁師に対する広範な知識を活用して、こうした情景をアトリエで描いてていた。しかし、オランダが海洋国家としてヨーロッパに覇を遂げた時代の風景である。

捕鯨をするオランダ船 アブラハム・ストルク作 1670年 油彩・カンヴァス ロッテルダム海洋美術館

17世紀、ネーデルランドでは商業用の捕鯨がはじまり、1614年から1642年まで、「北方会社」と呼ばれる組織が専売権を有していた。「アムステルダム」と呼ばれていたスピッツベルゲン島のスミーレンブルグを拠点として、グリーンランド海の沖に生息する大量のクジラが捕獲された。この産業によって北大西洋のクジラが絶滅しかけた。「北方会社」が30年ほどで解散された理由は、このクジラの絶滅危惧にあったのであろう。狩猟された2頭の北極熊やセイウチの姿も見られる。メルクは、このような主題の絵を少なくとも3点以上描いており、作品が確認されており、成功したようである。海洋国家オランダを象徴するような絵として受け入れられたのであろう。

海辺の見える魚の静物 ヤン・で・ボント作 1643年 油彩・カンヴァス ユトレヒト中央美術館

前景の海辺には様々な種類の魚介類がどっさりと置かれている。様々な種類の魚が実物大で描写されている。前景の左には、ひっくり返ったカニとその後ろに大きなロブスターが見える。これらの生き物の間に、ムール貝が砂地の上にある。中程には大きなヒラメがひっくり返っていて、その右側には巨大なエイがいて、その下にもまたヒラメが見える。これらの魚は、大きな籠の上やかたわらに置かれていて、その向こうには木の塀があり、そこには水指しとかロープがかかっている。塀の向こうにも釣竿がもう1本見える。画面左、砂地の先では、帽子を被り、棒を担いだ少年が、こちらを見ながら歩き去ろうとしている。背景では、砂丘の上に何人かの人物が立っていて、海を眺めている。はるかなかなたの海辺には、帆を張った漁船が何艘か見える。この魚介類は、背後の漁船で獲れたもので、これから海辺で売られるのであろう。様々な魚介類が取れた豊漁の様子が、深い知識に基づいて丹念に描かれている。署名された作品は少ないが、それらがはすべて魚の静物画である。「海辺の見える静物」というこの野心的な作品は、極めて品質も良く、画面も大きいもので、この画家の豊かな才能を示している。

手紙を読む女 ハプリエル・メッソー作1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

「手紙を書く男」の対作品で、女性は求婚者からの愛の告白の手紙を読むために、針仕事を中断している。メイドは手紙を渡したところで、彼女の傍に立っている。手紙を読む女性は、明るい方に向けて見ているだけでなく、他人から見られないようにしているのである。しかし、メイドは、手紙の内容について、よくわかっている。彼女は壁に懸けられた波立つ水面を航海する船が描かれた単色の絵画を見せるため、緑色のカーテンを片側に引いている。こうした海洋絵画は、「愛は荒れる海のようだ」、という広く知られた比喩となっている。このメッセージはフェルメールの「恋文」の背景に見られる海洋風景でも示されている。つまり、メイドがこの寓意を露わにすることによって、この女主人は彼女の前に横たわる危険を認識すべきだ、ということを鑑賞者に告げている。本作品は、真っ先にフェルメールの影響を受けている。「手紙を書く男」では、メツーの絵画をデルフトの巨匠フェルメールの特定の作品と関連させることは不可能である。フェルメールの作品に起源を持つような要素、例えば、背景の壁に反射する自然光、大きな対象を幾何学的に配列すること、背景の壁に物体を吊るして強調することは、フェルメールの様々な作品から学得したものである。フェルメールからの模倣で最も際立った点は、女性の上着である。メツーは彼自身の作品において、フェルメールの並外れた絵画技法を模倣した数少ない画家のひとりである。

手紙を書く男 ハブリエル・メツー作 1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

一人の紳士が開かれた窓の前にあるテーブルに座り、手紙を書いている真っ最中である。文通している彼の多情な気質は、欲望を象徴する動物の2つの図像によって示唆されている。かれの背後にあるイタリア風の風景画には山羊の群れが描かかれ、手の込んだ金色に輝く緑の鳩の群れが見える。男性の手紙は、対作品「手紙を読む女」の上品な衣服を着た女性のために書いているものである。その作品では、恋人が書いた情熱的な文面に夢中になって読んでいる女性の情景が描かれている。本作品は背後の壁に当たる暖かな明るい光によって、彼が午後に手紙を書いていることが示唆されている。一方、女性は、翌日のやや冷たい朝の光のなかで手紙を読んでいる。「手紙を書く男」と「手紙を読む女」はメツーが描いた多くの絵画のなかでも、最も成功した作品だと考えられる。彼は、この、対作品を1660年代半ばに描いており、それは彼の画業の絶頂期にあたる。そして38歳で早逝する数年前に相当する。その時、メツーはアムステルダムにおける風俗画の先導者となっており、日常生活の情景を繊細にえがいたことで名声を得た。こうした作品の大半は、音楽を演奏したり、飲食を共にしたり、お互いに手紙を交換したりすることによって、愛を求め合うオランダ上流階級の若く優雅な仲間たちが気晴らしをする様子を描いたものである。メツーの作品群はフェルメールの作品と共鳴するいくつかの特徴が含まれている。メツーがフェルメールから模倣した点は、フェルメールの特定の作品と関連付けることはできない。そのことはメツーが何度かデルフトに滞在した際にフェルメールの最晩年作を何度か研究していることを示唆している。

人の居る庭 ピーテル・デ・ホーホ作 1663~65年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

1650年代後半、ピーテル・デ・ホーホは、これまで常に室内に置かれた少人数の集団や、せっせと働く主婦たちを、外の新鮮な空気のなかに配置するという考えを思いついた。彼は屋内のときのように、眺望や屋外の情景のなかに組み込んだ。これによって、彼は興味深い遠近法や照明の効果を探究する機会を得ることができた。デ・ホーホは通常、簡素なレンガ造りの裏庭に人物を配置した。この作品は小振りで手の行き届いた邸宅を背景に、小道が描かれている。視線は小道に沿って、囲いの開かれた扉へと導かれる。そこには群棲する木々を水際に見ることができる。良い天気で、邸宅には溢れるほどの日が差しており、優雅に着飾った若い女性と男性が涼しい日陰に逃れている。男性はわずかに前のめりになり、女性がレモンを絞ってグラスを手にしているが、おそらくこれは男性のために用意されたものである・もう一人の女性は雨水タンクで大きな銅製の容器を洗っているか、もしくは容器を洗っているか、もしくは磨く仕事に従事している。壁のレンガは庭の小道と同様に、ひとつずつ念入りに描かれている。デ・ホーホはしばしばフェルメールと共に語られる。年齢も3歳しか違わず、1650年代、この二人の画家はデルフトに住み、制作をしている。かれらの主題の選択や構図にはきわめて共通性があり、疑いなく、彼らはお互いに作品を知っており、相互に影響されていた。

家庭の情景 ヤン・ステーン作 1665~75年頃 油彩・板 アムステルダム国立美術館

滑稽で陽気な場面を多く描いたステーンの絵には常に教訓が隠されている。ここでは飲み騒ぐ大人たちが、テーブルに立つ幼児の悪い手本であり、左端の老女と若者は「老いが歌えば、若きは笛吹く」「(この親にしてこの子あり)の意味」という諺を表し、子供は大人をまねるので気をつけろという警告となる。「ヤン・ステーンの家族」という表現が、無秩序の支配する家庭を表すオランダの成句となったように、ステーンはこうした活気あり乱雑な室内を数多く描いた。ユーモアと逸話に富んだ細部描写を視る楽しみは、彼の作品のいて最も重要かつ不変的なもので、17世紀の風俗画において独自の地位を確保している。

 

私は1993年(今から24年前)に「たばこと塩の博物館」で開催された「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会を見た。今回「フェルメール展」で憧れのフェルメールを見る前に17世紀オランダ絵画を拝観することになった。24年前の記憶が、はっきりと思い出された。特に展名に「栄光のオランダ絵画」という言葉が含まれており、実に懐かしく「大塚久雄先生」の名著が浮かび上がってきた。それは「富」という題名で、昭和27年に刊行されたアテネ文庫(弘文堂刊)として販売された小さな文庫本である。オランダの17世紀から18世紀の経済紙が語られており、そこには有名な「チューリップ・バブル」や、世界一速く市民社会を生み出したオランダを、如何にイギリスが三度に亘る英蘭戦争デオランダを撃破し、イギリスの産業革命につなげたかが書かれている小冊子である・全部で76ページという小文庫であるが、実に興味深い内容であった。実は、フェルメールが活躍した17世紀は、オランダ共和国の黄金時代であり、世界一豊かな国であり、近代市民社会が成立していたのである。しかし、17世紀を頂点として3度の英蘭戦争の結果、オランダがイギリスに敗北し、資本主義社会の成立に至らなかったのである。24年前の展覧会と同じ画家名を見つけ、懐かしく、古い図録を詠みこんだものである。残念ながらフェルメールの作品は1点も無く、後からフェルメールの名声を知り、今度こそと思い、初日の朝一番に展覧会を見た。大変楽しい、展覧会であった。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本  1993年」、図録「フェルメール公式ガイドブック」、朝日新聞社「フェルメール展解説書」産経新聞刊、クロワッツサン2018年10月25日号、「日経大人のOFF 2018年1月号」を参照した)