興 福 寺  西 金 堂 (2)

興福寺は、中世には大和一国を支配したといわれる。朝廷から任命される大和国司が国務をとらず、鎌倉幕府も守護を置かずにその職務を事実上興福寺に委ねたからである。興福寺は、伽藍の再建過程で大和の庶民に人夫役などの労役を課したり、反米(田一反あたりに賦課される米)を出させたりした。それらは本来勧進(かんじん)と言われた僧侶の呼びかけに応じて行われる自発的な労働参加や寄付であったが、次第に一国を対象とした恒常的課役(租税)に転化していったのである。このようにして成立した大和の一国平均役は、後には寺門半銭(じもんたんせん)と称して銭でも徴収されるようになり、一寺の重要な種入となった。興福寺の大和支配のもうひとつの柱は、武士の掌握・組織化である。これは、保延2年(1136)に始められた春日若宮祭礼(おん祭り)の執行を軸として行われた。祭礼に際しては若宮の神に奉納される流鏑馬(やぶさめ)に国内の武士を動員することは、興福寺及び春日社の当初からの方針であった。大和では鎌倉時代のおわりころまでに、平田党、長川党、長谷川党、戌亥脇党(いぬいわきとう)、蔓上(かずらぎかみ)党、散在党という六つの武士団が順結成され、おん祭りの流鏑馬を一定の方式で勤めるようになっていった。15世紀半ば、京都は応仁の乱の舞台となる。戦乱をさけて貴族たちが奈良をはじめとして各地に疎開した。関白で当代きっての学舎であつた一条兼良など、奈良に逃げてきた規則を迎えて世話したのは、興福寺およびその門跡らであった。乱が収まるまでの約10年間、興福寺は文化の中心として存在したのである。しかし、織豊政権は、この興福寺の大和一国支配を認めなかった。信長や秀吉は、差出(さしだし)や行い、国内の有力武士であった筒井氏に「国内一円(すべて)」を安堵(承認)するなどして興福寺が持っていた荘園や、12世紀以来大和国に対して行使してきた一国支配権などを取り上げたのである。織豊政権が興福寺にあらためて認めた石高は、少ない時で9千石前後、多い時で2万5千石前後であった。次の徳川幕府は、興福寺の朱印高を1万5千石予Tと定めた。これは小大名クラスの石高にすぎず、お膝元の奈良の街に対する位牌も幕府の出先機関である奈良奉行の所管とした。もはや興福寺には立ち直る力はほとんど残されなかった。

国宝 華原磬(かげんけい) 銅造  96.0cm 中国唐代(8世紀)

文献では金鼓と出てくる。奈良時代には西金堂に置かれたが、治承の兵火で大破した。獅子は創建時のものとされるが、他は鎌倉時代に補われた。法会などで打ち鳴らす梵音具の一種である。制作年代については諸説があり華原が中国の名石の産地であることから、寺伝では中国の唐代の作とする。世阿弥の「海人」(あま)では「興福寺の宝の一つ」と歌われる。

重文 仏頭(丈六釈迦如来像頭部)木造 運慶作鎌倉時代(文治2年ー1186)

西金堂の本尊釈迦如来像の頭部であるこが銘文からわかる。享保2年(1717)の西金堂の火災時に頭部のみが救われた。天平彫刻を学習したと思われる若々しく張りのある面の取り方に特色がある。作者は大仏師運慶である。なお、文治5年(1189)の時点ではまだ白木の状態であったことが、日記「玉葉」の記録からわかる。運慶は文治2年(1186)に静岡・願成就院の阿弥陀如来像等を制作しているが、両者はかなり作風が異なっており注目される。現在は国宝館に安置されている。なお、この釈迦如来像の脇侍は重文 薬王菩薩立像、薬上菩薩立像であり、現在は中金堂の両脇侍としなっている。写真は「興福寺 再建された中金堂」を参照願いたい。

国宝 金剛力士像(阿形) 木造  慶派仏師作 鎌倉時代(12~13世紀)

西金堂に安置されていた像。筋骨隆隆とした肢体を執拗なまでに追及した鎌倉時代の仁王像の名作である。口の開閉と動作、裳裾(もすそ)のなびく方向が互いに呼応して見事な空間を作り上げている。吽形像のふくよかさなど一部に土を盛り上げる手法、上半身と下半身を輪切り状に上下に矧ぐ(はぐ)寄木法など定慶の関与が推測される東金堂の十二神将像に共通するものがある。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 慶派仏師 鎌倉時代(12~13世紀)

金剛力士は口を開いた阿形と、閉じた吽形で一組をなし、通常は仁王門などに安置される。しかし、この像は須弥壇に安置されて四天王などとともに壇を守護する役割を担っている。この種の金剛力士像の安置方法は、奈良時代創建期の復古をめざしての再興像であったからである。この金剛力士像は、鎌倉初期の彫刻の特色である写実性と力強さを兼ね備えている。それに加えてこの像では風が意識されている。強風が吹いて両脚の間に裙(くん)を挟み込み、裳裾(もすそ)は横になびいている。また、阿形では左の拳を高く上げて斜め下方の敵に怒りを叩きつけているが、その動きには上から下への方向性が強調されている。怒りは緊張のあまり血管を浮き上がらせるなど、まさに迫真的な描写である。怒りの激しさと、体の激しい動きが一体となった金剛力士像の名作である。

国宝  天燈鬼立像   木造  康弁作  鎌倉時代(建保3年ー1215)

灯篭(とうろう)は両者ともに後代の保作である。四天王に踏まれる邪鬼が立ち上がり、仏に燈明を供えるという発想と、ふと笑いを誘われるポーズには作者のユーモアが感じられる。額には一眼がある。建保3年(1215)の作で、天燈鬼は朱、竜燈鬼は緑に彩色されている。建保2年(1215)の作で、元は西金堂の須弥壇に一対として安置されていたものである。

国宝  竜燈鬼立像  木造 康弁作  建保3年(1215)

天燈鬼が口を開いた阿形、竜燈鬼が口を結んだ吽形であることから、仁王のつもりで造形されたものと考えられる。竜燈鬼の像内には、建保3年(1215)に法橋康弁(こうべん)が造ったとという明記があった。なお天統鬼の作者は不明であるが、私は康弁が対で造ったものと考えている。康弁は、かの有名な仏師運慶の三男であり法橋の地位まで上がっている。鎌倉時代の復興期に新たな創意で制作されたものである。

 

ここに挙げた仏像群は、いずれも鎌倉時代の復興期に造られたものであり、国宝あるいは重要文化財に指定されている。現在はいずれも国宝館に安置されるが西金堂に群像として安置されたようには見えない。出来れば、西金堂を復興し、一群の仏像類を全体像として安置された様を見てみたいものである。西金堂の仏像群は、鎌倉時代の復興像も含めて、極めて出来が良く、名品揃いである。光明皇后の思いが伝わる名品ばかりである。

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1977」、図録「阿修羅展  2003」、古寺巡礼奈良5「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

興 福 寺  西 金 堂 (1)

 

興福寺西金堂(さいこんどう)は、天平5年(733)に亡くなった橘三千代の一周忌の天平6年(734)1月11日に、娘の光明皇后によって建立された堂宇である。橘三千代は藤原不比等の妻であり熱心な仏教信者であった。法隆寺には彼女の念事仏とされる逗子入りの銅像阿弥陀三尊像が残っている。西金堂の内部には、釈迦、両脇侍、羅漢十躯(十大弟子)、四天王、八部神王(八部衆)などが安置されていた。これらの群像のうち、現在では八部衆8体と十大弟子のうち6体とが寺に残っている。その後9世紀初め頃までに阿弥陀仏、不空羂索観音、十一面観音像が安置され、天長2年(825)には新たに十一面観音像が加えられた。永承元年(1046)の火災で堂は焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡の兵火で西金堂は再び焼け、この時は堂と仏像の多くが失われたが八部衆、十大弟子像は救出された。堂は元歴元年には完成していたが、仏像の製作は遅れており文治5年(1189)8月に氏の長者である九条兼実が西金堂に入った時は、まだ白木の状態で完成していなかった。西金堂は嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)にも火災にあい、享保の時には西金堂は再建されず、今日に至っている。礎石だけが残り、再建が待たれる。

西金堂の跡地

西金堂は治承元年(1046)の火災で焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され、仏像群は堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちで興福寺は、全山余すところなく消失した。西金堂は、養和2年(1182)に再建され、鎌倉時代の仏像が沢山収められた。西金堂の鎌倉時代再興の本尊として運慶が造ったと考えられる木造の仏頭が、国宝館に安置されている。建仁2年(1202)に釈迦如来の脇侍として薬王、薬上菩薩像が造られている。(現在中金堂に安置)また優れた鎌倉仏が運慶の子息康弁などにより造像されている。しかし、嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)に西金堂は火災にあい、享保の火災後は再建されないまま、西金堂跡地の石碑が立つのみでである。美しい西金堂の仏像群を安置するためにも、是非西金堂を再建して頂きたいと思う。

国宝 阿修羅像(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

八部衆とは、もとは古代インドの異教の神々で、獣神や戦闘神、歌舞音曲の神、嗚悪鬼だったものが、釈迦に教化されて、仏法の守護神となったものである。天竜八部衆とも呼び、8人の神から成り立っている。特に、興福寺の阿修羅像は日本で一番愛される仏像である。2009年の「国宝阿修羅展」の東京会場では100万人以上となり記録を作り、未だにこの記録は破られていない。会場は若い女性客で溢れ、阿修羅像のミニチュアは絶大な売れ行きを示し、未だに語り草となっている。この阿修羅像は、八躯中唯一甲を着けていない。上半身裸形で天衣と丈拍(じょうはく)を着け、胸飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)を着け、下半身には裙(くん)を着け、板金剛を履く。顔は少年の相で、美少年である。私は、西金堂を建立した光明皇后は、長男の首(おびと)皇子を幼くして亡くしているので、その青年として成長した面影を、阿修羅像に託したのでは無いかと想像している。なお、制作にあたったのは正倉院文書によれば百済系帰化人「将軍万福」と伝えられている。(八部衆はすべて)奈良時代の仏像で、作者名が明らかなのは、この八部衆のみである。

国宝  五部浄(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

五部浄は幼い幼い少年というべき年齢であろうか。少し垂れた目、わずかに寄せた眉、後世に描かれたものであるが若干上方寄りの瞳などから、上目遣いの不安げな表情に見える。異形の表現としては、頭部に象を被っている。

国宝 緊那羅立像(八部衆のうち)脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

このふっくらとした頬は少年を思わせる。どのような感情を表そうとしたのか意図を十分くみ取れないが、怒った不満げな表情に見える。異形という点では、額にも目があり、その上方には一角を有する。目尻が少し吊り上がり怖さもある。その怖さはかなり強い怖さである。緊那羅は瞋目ではないが、それに類する形状で、上まぶたの目頭近くに切り込みをつくっている。その目によって憤怒の表情を表すので、瞋目を意識した形状と考えていいだろう。これは怖さよりも異形をねらったものと思われる。

国宝 鳩槃荼立像(八部衆のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

口を大きく開け、頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情を表す。目頭も立てて眼部には黒いガラスをはめ込む。表情は人間というよりは獣に近いが、怒りをぶっけるというほどではなく、むしろ性格描写的な色合いが濃い。いま、鳩槃荼と呼ばれているが、「金光明最勝王経」などに説かれる夜叉に当たると考えられる。

国宝 迦楼羅立像(八部衆のうち) 脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は烏頭の姿で表され、少年の相ではない。頭頂部は欠損するが鶏冠があり、口は嘴で、その脇には鶏のように肉垂を表す。瞋目で人の目の形状ではない。まさに異形の姿であるが、見る者との距離感が八部衆のなかで最も近いように感じられるのは、その目の表現のゆえであろうか。迦楼羅の瞳は、別素材を嵌入されているのか黒く光り、それが写実性を高めている。

国宝 冨楼那立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は明らかに老相を呈する。面部の皺は額にとどまらず、目尻や頬にもある。胸部には肋骨が浮き出ている。一点を見つめる視線はいかにも温和で、何事に対しても穏やかでいられる60歳代であろうか。釈迦は説法第一としている。

国宝 須菩提立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

最も若年で、顔には皺はなく、頬には柔らかな張りがある。卵型の頭部からはふっくらとした印象を受ける。優しい眼差し、下唇が広くふくよかな口は若々しい清純さを演出する。眉の形を明確にしないため、ある一つの強い思いは伝わってこない。その顔は、仏弟子として遊行を志す、希望に満ちた前途洋々たる十代後半の青年に見える。釈迦は解空第一としている。

国宝 目健連立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像の顔には多くの皺があり、口元に衰えがみられる。老境に差し掛かった年齢である。優柔な雰囲気であるが、眼差しはいまだ衰えを知らない。これまでの経験を活かし、さらに自分の道を追及しようと充実した様子がうかがえる。五十歳くらいであろうか。釈迦は神通第一としている。

国宝 羅喉羅立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

額には皺が二本あり、左目尻の上にも皺がある。年長であることを示している。盲目を表している可能性もある。少し垂れ下がった眉からは力は感じられず、目は閉じてゆったりと瞑想しているようにみえる。その顔は、血気盛んであった時期を過ぎ、諸事に対して落ち着いて対処できるようになる、四十歳を過ぎたくらいではないだろうか。釈迦は密行第一としている。

 

西金堂の彫刻群は釈迦如来をはじめとする二十八体の像が群像として安置されていた。釈迦集会(しゅうえ)の彫刻群である。礼拝の対象である須弥壇にこれほど多くの像が置かれた例はなかった。奈良時代には東大寺法華堂諸像など群像制作が流行したが、西金堂はその始まりとして画期的な意味を持つ。それは天平群像の隆盛のさきがけであった。二十八体の仏像は釈迦如来の他、両脇侍、十大弟子(残ったのは6体)羅㗅羅(らごら)、梵天、帝釈天、四天王、八部衆(8体揃っている)像である。創建時の像で現存するのは八部衆八躯とと十大弟子のうちの6躯、それにいま華原馨(かげんけい)と呼ばれる金鼓んみである。恐らく、東大寺法華堂と並ぶ天平時代の華と呼ぶべき西金堂である。是非、再建され群像が一堂に並べられる様子を拝観したい

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009年)、図録「興福寺の仏頭展  2009年)、日径新聞「私の履歴書 多川俊英氏 28回」を参照した)

興 福 寺  東 金 堂(2)

興福寺東金堂の薬師如来像の頭部は二つある。それは白鳳時代(7世紀後半)の薬師如来像(坐像?)は天武14年(685)、讒言により自裁した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の冥福を祈って開眼供養された仏像である。本来、飛鳥の山田寺講堂の本尊として造像されたが、文治3年(1187)、興福寺東金堂衆が強引に奪取して東金堂の本尊に据えたものである。このことは、治承4年(1180)の平重衡南都焼き討ち後の、興福寺鎌倉復興造営のさ中に起こった未曽有の大事件であったが、(藤原氏)氏長者の事後承諾もあって、東金堂本尊として長らく礼拝されることになった。その後、文和5年(1356)の五重塔への落雷による東金堂類焼にさいしても、無事搬出されて事無きをえたが、応永18年(1411)の落雷で、この白鳳薬師仏はついに頭部を残すのみとなった。そして応永22年(1415)に現存の薬師如来本尊が造健され、旧本尊の白鳳仏頭は、新本尊台座の正面に向けて安置された。(墨書)その収納状況から、その当時、白鳳仏頭は依然として礼拝対象として認識されていたと思われるが、台座内安置の伝承もいつしか忘却された。

国宝 丈六銅像仏頭(正面)           白鳳時代(7世紀後半)

この銅像仏頭は、白鳳時代を代表する薬師仏の頭部である。元山田寺の本尊である。大化の改新で中野大兄皇子(後の天武天皇)と組んだ、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)は、乱後右大臣に昇進した。この石川麻呂の一族は、飛鳥の山田の地を地盤としていた。この地は、桜井から安倍を通って飛鳥に入るところにあり、飛鳥への東の入口を押さえる、交通上・戦略上の要地である。蘇我氏本家の氏寺である飛鳥寺(元興寺)に対して、山田寺は石川麻呂という傍系蘇我氏の氏寺であった。山田寺は皇極2年(643)に金堂が建ち、大化改新を経て、大化4年(648)に初めて僧が住むような寺となった。この矢先の大化5年(643)3月に、石川麻呂は中大兄皇子に対する謀反の疑いをかけられ完成間もない金堂で自害した。難波京にいた石川麻呂は、死に場所として自らが建立した山田寺を選択し、妻と子息3人、娘1人を含む8人とも死をともにした。山田寺の丈六の薬師像は、この非業の死を遂げた石川麻呂を弔うために制作された。天武2年(673)山田寺の塔の心礎に舎利を収めて心柱が立てられた。それから3年後のb天武5年(676)に塔の屋根に露盤を上げて、塔は完成した。丈六の薬師如来像は、天武14年(683)3月25日に仏像の眼に瞳を入れる開眼供養が行われた。この日は、石川麻呂が金堂で自害してから37回忌の祥月命日に当たる。この工事を進めたのは、石川麻呂の孫娘に当たる鵜野讃良孝女(うのささらのひめみこ)、つまり後の持統天皇であった。仏頭は丈六像で制作時期が判明する白鳳時代の貴重な作例であり、極めて優れた白鳳彫刻の白眉ともいうべきすがすがしい青年の顔であり、正に白鳳の貴公子である。

国宝 興福寺仏頭(左側正面)  銅像   白鳳時代(7世紀後半)

仏頭を見ると、耳が欠損している。また左耳上の頭髪部に縦に入った鋭角的な深い窪みがある。この損傷は堂が焼けて頭部が落下した時に当たった打撃の痕である。落下した時の衝撃で、頭頂部が飛ばされ、左耳の下辺部も折損し、白豪も失われている。りりしいお顔であるが、痛ましく傷ついている。治承4年(1180)平家の攻撃によって、興福寺は一堂も残さずに焼け落ちた。東金堂は、文治元年(1185)には既に建物は出来上がっていたが、堂内に安置されるべき仏像は同3年になってもまだ造られず、3月上旬に東金堂を活動拠点とする東金堂衆が、飛鳥の山田寺の丈六薬師如来三尊像を奪いだして奈良に運び、東金堂の本尊として安置した。かねがね、この蛮行は何故行われたのかと不思議に思っていたが、2013年の図録の中で安田次郎氏(御茶ノ水大学教授)が「東金堂衆と山田寺薬師三尊像」と題する論文を寄せている。推定が多いが、今まで読んだ論の中では一番問題点を抉り出しているので、要点のみを記したい。ときの摂政九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉」では、次のように記している。「別当僧正示されて曰く(いわく)、東金堂衆、宗徒・僧綱等に触れず、また長吏に申さず、自由に山田寺の金堂丈六薬師三尊像を奪い取り、件(くだん)の東金堂に安んじ奉らんと欲すと云々、」これによれば、事件は興福寺当局(宗徒、僧綱=別当)に無断で起こしたものであった。この記述に対し、安田氏は東金堂衆とは何か、何故山田寺なのか、という2点からこの事件を追及している。長い論文なので、結論のみ言えば、東金堂衆とは大和国の武士たちを率いることが出来るような存在、即ち彼ら自身が武士層の出身なのだろうと推測している。金堂衆とは、金堂というよりは、むしろ興福寺の軍隊、部隊として動いた武士層であると考えている。次に何故山田寺を狙ったのかであるが、安田氏は文治2年(1186)に仁和寺は興福寺の末寺である嵯峨野大覚寺を横領したとしている。それに対抗して翌年、興福寺は仁和寺の末寺である山田寺を襲撃したのである。安田氏は次のようにまとめている。「中世の社会には、荒っぽい一面がある。やられたらやり返せ、これが普通のことである。やり返すことが認められていた。むしろ場合によっては、やり返さなければ名誉が保たれないと意識されることもあった。このような場合、報復はむしろ義務であり、名誉を維持するための立派な行動ということになる」。強奪事件から2年半経った文治5年(1189)8月、兼実は興福寺南円堂の観音の参拝かたがた再建工事進捗状況を視察するために奈良に下向した。東金堂で、問題の金銅仏に礼拝し、「事件直後に返却を命じたが、こうして拝見すると東金堂にまさにふさわしい。機縁によってこのような結果となったのだ」とそ日の日記「玉葉」に記している。ときの朝廷のトップが東金堂衆の行為を追認するに至ったのである。東金堂は応永18年(1411)に、落雷で発生した五重塔の火が東金堂に及んだ時には、如来像は頭部を残して他はすべて焼失したのである。その後、応永22年(1415)以来、500年以上にわたって本尊の台座に収められていた。昭和12年(1937)の東金堂解体修理の時に発見されて、大きな話題となった。

国宝 板彫十二神将(迷企羅大将像) 檜材   平安時代(11世紀)

東金堂の本尊・薬師如来を護るのが十二神将であり、元はバラモン教系の神々であったが、仏法に帰依して、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来の護法神・眷属となった。この板彫十二神将が作られたのは、当初の東金堂が消失した後に、新たな堂宇が長元4年(1031)に供養された頃に制作されたものと推測される。厚さ3cm程の檜材の板からさまざまな表情が刻みだされた、わが国の浮彫刻(レリーフ)の傑作である。これらの諸像は、搬送が容易なためか、一時は南円堂など他所に移されながらも一体も失われることなく今日に伝わっている。本来、この板彫十二神将、薬師如来像(白鳳の貴公子)が座る台座の四方を荘厳していた可能性が高いものである。通常は興福寺国宝館の入口に、一列に並んだ十二体が拝観できる。

国宝 板彫十二神将(宮毘羅神将像)  檜材   平安時代(11世紀)

刀を採り威嚇する姿が特徴である。十二神将像は、全体として目鼻・口腔の起伏や手足の重なりがわずかな厚みの中に奥行きをもって巧みに表現されており、製作者たちの技量の高さがうかがうことが出来る。

 

国宝 銅像仏頭は、白鳳時代を代表する傑作であり、その歴史は、興福寺の中世の東金堂衆の荒々しさを今に伝えるものである。また板彫十二神将立像は平安時代の神将像の傑作であり、国宝に指定されている。鎌倉時代の興福寺復興期における十二神将立像と合わせ、そろって現代まで伝えられたことは奇跡に近い出来事だと思う。東金堂の仏像類は、素晴らしい出来栄えの仏像類と思う。

 

(本稿は、図録「国宝興福寺仏頭展  2013年」、直木幸次郎「古代国家の成立」を三sぃ陽)

興 福 寺   東 金 堂(1) 

興福寺には、中金堂、東金堂、西金堂の3金堂がある。これは奈良時でも珍しい寺院構成である。東金堂は、東にあるので東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立した。創建時は、須弥壇の敷瓦として水波紋の瑠璃瓦が敷き詰められていたという。6度も被災して、現在の建物は応永22年(1415)の再建であるが、寄棟造りの屋根や太い柱、前1間を吹き放ちとした深い軒などが創建当初の姿を伝えている。

国宝  東金堂  寄棟造 本瓦葺  室町時代(1415)

中金堂が再建されるまでは、興福寺唯一の金堂であり、仏像を拝観出来るのは、東金堂のみであった。後に国宝館が建設され、多くの仏像類が拝観出来るようになった、古い建物で、仏像群が拝観できるのは東金堂のみであった。この東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興された建物である。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿には奈良時代の往時が偲ばれる。興福寺は火災と復興を繰り返したが、建造物も仏像も天平草創期を古典として尊重している。

重分 薬師如来坐像  室町時代(応永22年ー1415)  銅像

東金堂の本尊像である。応永22年(1415)、東金堂の再建と同時に造られた仏像である左手の薬壷(やっこ)は、一般的に薬師仏に必需の持物(じもつ)である。薬師如来は、病気を治し、福利増進をつかさどるとされる。堂々とした像の光背は薬師如来の瑠璃光世界をあらわし、宝塔に安置された如来、七仏薬師や供養菩薩、飛天などが配されている。両脇侍(わきじ)は、日光・月光菩薩である。

国宝  文殊菩薩坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1196) 定慶一門作

国宝 維摩居士坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1415)定慶作

 

文殊菩薩は維摩居士(ゆいまこじ)と同時期の作で、定慶かその周辺の仏師の作と考えられる。弁舌にたけた知恵第一の文殊が討論する場面を表す。病にかかった高齢な維摩とは対照的に丸々とした張のある顔と体で、若々しく健康的である。台座と光背も円形が基本となり、台座、隆平が方形である維摩同様に宋時代に流行したモチーフを多く取り入れている。維摩居士は釈迦在世中のころの富豪の在家仏教徒で、大乗仏教の模範とされる人物である。「唯摩詰所説教」に、病気の維摩居士を見舞った文殊菩薩との間で法論をたたかわす場面がみえ、東金堂でも文殊菩薩像と対比して安置する。若くはつらつとした文殊菩薩と問答する病弱な老人の維摩居士を生きた人間として写実的に造形している。仏師定慶(じょうけい)の作で、像内に「建久7年(1196)」の造立銘がある。

国宝 四天王立像  4躯  平安時代(9世紀)

増長天立像      多聞天立像

 

東金堂の四天王立像は国宝に指定されている名作で、平安時代初期の8世紀~9世紀初期頃の作品である。治承4年(1180)の平重盛の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の堂から移された。4体すべて残るが、それ以前の伝来についてはよくわからない。少し寸の詰まった短躯の像で、そのため横幅が広く、奥行きもあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、一木のヒノキの造り、像内の内繰り(うちぐり)を作らない全くの一木造である。一木造の隆盛したこの頃の時期を代表する四天王像の秀作である。

国宝  十二神将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

十二神将は薬師如来の守護神で奈良時代からの作例がある。最も古いものは新薬師寺の像である。奈良時代の像の頭には何も付けないが、平安時代後期の東大寺像では一体一体の頭部に子(ね)、丑(うし)、寅(とら)の十二支の動物が標識として付けられている。以後鎌倉時代の作例からは十二神将と十二支獣の関係は不可分となる。各十二神将の名称と像の仕草や形の関連性などの規定はなく、さまざまな姿企が見られるのも十二神将の特色である。

国宝 十二神将(迷羅大将立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝 十二神将(安底羅立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝  珊底羅大将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

 

東金堂は、従来唯一の仏像と共に金堂が拝観できる施設であり、興福寺と言えば、東金堂を思い浮かべる程である。狭い堂内に所狭しと並べられる仏像類は「息苦しい程の」濃密勘が漂う世界であった。南円堂、北円堂など古い建物と仏像類はあるが、公開日程が少なく、常時拝観できる金堂として東金堂は、興福寺の顔であった。

 

(本稿は、図録「国宝 興福寺仏頭展  2013年」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「もっと知りたい興福寺の仏たち」を参照した)