興 福 寺   南 円 堂

興福寺には、講堂が3棟、塔が2塔、その他に南円堂、北円堂がある。南円堂は興福寺の伽藍の主要伽藍の中で、最後に建てられたお堂である。創建は弘仁4年(813)に完成した。本尊は講堂に祀られていた不空羂索観音菩薩像(天平18年ー746)が移された。その後永承元年(1046)、治承4年(1180)、嘉暦2年(1717)の四回の火災に遭うが、その都度再建されている。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は、治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となり、文治4年(1188)6月18日から翌年の9月28日まで、1年4か月をかけて完成させた。南円堂再建事業を指導したのは氏の長者・九条兼実で、その日記「玉葉」には彼が制作現場にしばしば訪れたことが記され、兼実が仏像に高い関心をもっていたことがわかる。南円堂は西国三十三所観音霊場の第9番札所に指定され、興福寺の信仰の裾野は飛躍的に広がった。昭和20年代後半に興福寺を訪れる人は少なかった。「廃仏稀釈」の実例のように感じたことがあった。まだ国宝館も建設されず、阿修羅像など人気の高い八部衆は、国立奈良博物館に保管されていた。しかし、南円堂だけは、拝観する人が多く、目立ったものである。南円堂に日参する人も多く、参拝客のため、お寺では、納経所を毎日早朝の5時から夜9時まで開いていた。大衆信仰の強さに驚いた記憶が残る。

重文  南円堂  本瓦葺  江戸時代(寛正岩年ー1789)

現在の建物は享保2年(1717)の火災後に復興されたもので、寛正元年(1789)の完成までに50年近くかかっている。再建にあたっては八角堂である北円堂が参考にされた。南円堂再建事業を指導した氏の長者・九条兼実は、日記「玉葉」によれば、仏像に高い関心を持っていたことがわかる。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となって完成させたものである。鎌倉時代を代表する名作である。

国宝 不空羂索観音菩薩像  木造  康慶作 鎌倉時代(文治5年ー1189)

南円堂の本尊である。文治5年(1189)康慶の作である。治承の兵火のあと復興された。額に縦の一眼があり、手が八本の三目八臂(はっぴ)の姿である。不空羂索とは、第四の左手に持つ羂索(網)で人々の願いをすべてすくい集めるという観音の誓願をあらわす。。威厳のある風貌で、鎌倉期の造像ながら、天平盛期の重厚さを伝えて迫力がある。10月17日の大般若転読会(てんどくえ)の時だけ拝観できる。

国宝  四天王立像  木造 康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1189)

四天王立像は、一条寺本の南円堂曼荼羅図などに描かれた四天王のポーズや細部の形式まで一致することから、本来南円堂に安置されいたいたことが確認された。南円堂の諸像は康慶工房が文知2年(1188)から翌5月にかけて造営したことが、四天王像については「南円堂本尊以下修理先例」という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。ゆったりとした溝や、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、たとえば、治承4年(1178)の東大寺持国天像など12世紀後半の奈良仏師の作例とよく似ている。しかし、瞳に玉を嵌める手法は南円堂の本尊・不空羂索観音像とも共通する。

国宝 四天王の内  増長天立像  木造 康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

 

国宝 持国天立像(四天王の内) 木造  康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

国宝  玄賓坐像  木造  康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

法相六祖とは、法相宗のすぐれた僧六人のこと。奈良から平安時代のはじめに法相の教義に通じ、興福寺の法相興隆に貢献した僧を「法相六祖」と呼んで尊ぶようになった。人選については、各種あるようである。ここでは玄賓坐像を取り上げた。

 

南円堂は、現在では庶民信仰の堂であるが、興福寺の堂であるだけに、安置された仏像類は国宝が揃っている。鎌倉期の美の殿堂である。開扉は10月17日の大般若経転読会(てんどくえ)の日のみで関東から概観するには、やや難がある。私は、関西勤務時に一度拝観したことがある。

 

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1997」、図録「国宝 阿修羅展 2003」、古寺巡礼5巻「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照いた。

 

奇想の系譜 (3) 狩野山雪 歌川国芳 白隠慧鶴

狩野山雪(1560~1651)は、桃山時代の文化がピークを迎える天正18年(1590)、狩野永徳が没した年に九州肥前国に生まれた。京狩野初代の山楽に16歳のころ弟子いりし、その後婿養子となった。その意味で、山雪も伝統的画家の修行をしっかりと積んだ画家であった。徳川幕府の成立により、探幽ら狩野本家筋が江戸へ拠点を移したのに対し、、京に残った山楽・山雪の系統は後に「京狩野」と呼ばれる。妙心寺や清水寺、東福寺など京都の大寺院のための作画を多く残した。生来学者肌で漢学に通じ文化人的な資質を持ち、日本で最初の画家伝である「本朝画史」は、山雪の原稿を元に息子の狩野永徳が完成させた。伝問的な画題を独自の視点で再開釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学的構成で知られる。

重要文化財 梅花遊禽図襖(ばいかゆうきんずふすま)四面 紙本金着色狩野山雪(寛永8年(1631)京都・天球院

永徳の没後、狩野はを含む画壇全体は、永徳の晩年の「奇々怪々」な表現に追随することをむしろあきらめ、より整った、優美な装飾形式を追及する方向に移りつつあった。それは関ケ原合戦以後、新しい閉鎖的な封建秩序の確立に向かって動き出した徳川幕府の政策と微妙に呼応するものでもあzった。山楽はひとりそうした動向の外にあって、師の創始になる、正に桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、正に桃山の巨匠の最後の生き残りであったわけである。私は昭和45年4がつから昭和50年10月まで、2年半、京都」支店長を務めたことがある。京都は私の好みに合い、古寺巡礼を楽しみ、年間200ケ寺を回っていた。タクシーに乗れば、京都の運転手さんは、行先を告げると、必ずそのお寺の蘊蓄を語ってくれるものである。それに対し、私は「そういう説もあるが、私はむしろ、この意見を採用する」等一言すると、運転手さんは、「大学の先生ですか?」と聞いてくる。私は「まあ、そんなような者だ」と曖昧に答えて、降りる際に会社のチケットを切ると「ああ、明治の支店長さんですか!」と答えられたものであった。京都のタクシーの運転手の中では、多少名前が通っていたようである。さて、数多くのお寺の絵画や仏像を拝見したが、妙心寺の塔頭・天球院だけは、固く門を閉ざして公開してくれなかった。天球院は、寛永8年(1631)姫路城主池田照正の妹に当たる探求院殿の発意で、妙心寺内に創立された。この時方丈に描かれた襖絵は、桃山障壁画の最後を飾るものとして名高かった。この障壁画は、狩野山楽の筆と伝えられてきたが、山楽は70才を超える高齢であり、近年、狩野山楽の弟子・山雪のの手におると推定され、議論を呼んだが、この「梅花裕禽図襖」は、私は狩野山楽筆と、信じている。この天球院の襖絵を是非、拝観したいと思って40年経つが、非情にも唯の1回も開扉されることは無かった。今回「奇想の系譜展」で、天球院の襖図が一部開扉されることを知り、正に天にも昇る気持ちであった。この襖絵については、正に辻暢雄氏の「桃山の巨木の痙攣」という一言で、紹介したい。あまり多くを語りたくない。

重要文化財 寒山拾得図 一巻 紙本墨画 狩野山雪作京都・真正極楽寺・真如円

ボサボサ頭、気味悪い笑いを浮かべた男二人は、奇想天外な行動をとって常識を超越し、禅宗絵画の脱俗のキャラクターとなった唐代の僧である。画面上、頭のサイズは人の顔よりずっと大きい。手前の寒山の肩に置かれた拾得の左手、鋭く伸びた爪が肩に食い込んでいるようで痛そうである。この不気味な表情は、伝顔輝筆「寒山拾得図」(東京国立博物館)のような中国元代の顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝画の顔を吸い込みであるのに対し、このすさまじいほどの迫力はどうだろうか。丸みを帯びた逆台形は、三雪画に頻出する独得の顔であり、伝顔輝画をもとに、山雪は幾何学的デホルメを加えている。一目みたら忘れられない強烈なビジュアル、夢に現れてほしくないグロテクスクな人物像の迫力である。

歌川国芳は、寛正9年(1797)、江戸日本橋の紺屋の家に生まれた。生粋の江戸っ子である。広重とは丁度同年で、北斎より37年後輩に当たる。父の友人であった歌川国芳が鍾馗の図を見て12歳の時に弟子とした。兄弟子に国貞がおり、役者絵や美人画を描き、かつリアルに描くことで通名であった。国芳の魅力は、大画面(例えば3枚続き)で、物語を描き、かつリアルに描くことで大いに受けた。また、猫が好きで、ユーモアを解する江戸っ子であった。私も国芳の大ファンである。

相馬の古内裏 大判3枚 弘化2年~3年(1845~46) 歌川国芳作 千葉・成田霊公院

「相馬の古内裏」は、文化3年刊の読本、山東京伝「善治安安方忠義伝」に基ずく。平将門の遺児滝夜叉は、弟の将軍平吉門と共に筑波山の蝦蟇の精霊肉芝仙(にくしせん)から妖術を授かり、荒れ果てた相馬の古内裏を巣窟として、亡父将門の遺志をついで謀反を企てるが、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨に置き換え、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨と置き換え、夜叉姫と遭遇する場面とを繋ぎ合わせている。闇の奥から前面に押し出してくる巨大な骸骨の動きに対して、破れ御簾の滑るような動きが画面を斜めに走る。骸骨は解剖学的にも正確なものとされ、国芳がリアルな描写のために研究努力したことが示される。単なる標本的な骸骨では無く、動きがリアルな描写のために研究努力したことが示される。

宮本武蔵の鯨退治 大判3枚続き 弘化4年(1851)頃 歌川国芳

図中に「宮本武蔵は肥後の産にして後、備前に来たって奉仕す また諸国めぐりて剣術を修行す ある時備前の国の海上に大いなる背美鯨をさしとふす」との説明が付されている。何と大胆な構図で、鯨の巨体を表すために画面の端から端までが最大限に使われている。鯨の体には白点がありリズミカルに施されている。牡蠣殻が付いたものとされる。鯨の形については、享和3年(1803)司馬江漢の「西洋旅譚」の鯨の図も産照したものと見られる。幕末ぎりぎりの時期であり、西洋の絵画、書物の影響を受けていることは間違いない。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大判3枚続き嘉永4年(1851)歌川国芳作

「崇徳眷属をして為朝をすくふ図」は文化4~8年(1807~11)に刊行された「読本 曲亭馬琴作・葛飾北斎画(鎮西弓張月)の第31回、32回に基づく。保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝は伊豆大島に流され、付近の島島を征服する。勅命による討伐船が大島にむかった、為朝は九州に逃れる。平氏討伐のため都に上ろうと水俣から出帆したところ、暴風雨に遭い船は難破する。為朝は最早これまでと自決しようとすると、讃岐院(崇徳院)の眷属が飛来し為朝を助ける。琉球に漂着した為朝は、琉球王の王女を内乱から救って国を平定し仙界に入る。海を鎮めるために身を投じる妻白縫、讃岐院の遣わした烏天狗に救われる為朝、為朝の一子舜天丸を抱いた為朝の忠臣八町礫紀平治を背に乗せて琉球に向かう巨大な鰐鮫といった、異なる時に起きた三つの場面が一つの大海原の画面にまとめて描かれる。鰐鮫の大きな動きだけではなく、これに拮抗する為朝の小船、舞い降りる薄墨の烏天狗の軽い動き、波のうねりなどが相互に絡み合い複雑に連動するムーブメントにも注目したい。大判を3つにつなぐ形式は、武者絵では国芳にお作が初めてである。江戸っ子の肝玉を冷やしたに違いない。痛烈な印象を与える。

「奇想の系譜」以外に、白隠慧鶴(はくいんえかく)(貞享2年~明和5年ー1796~1858)と、鈴木其一(寛正8年~安政5年ー1796~1858)の2名が追加されている。白隠については異論がないが、私は、鈴木其一は、決して「奇想の系譜」ではなく、れっきとした江戸琳派の大成者であり、江戸絵画を勉強する身には、鈴木其一は「奇想の系譜」に入れられては困る。鈴木其一こそ、日本の伝統文化である琳派の後継者であり、むしろ「江戸琳派の集大成者」である。従って、「奇想の系譜展」からは削除して掲載しない。

白隠慧鶴(1685~1768)は日本臨済宗中興の祖として、最も顕名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法経はすべて白隠下になり、現在の臨済宗は文字通り「白隠禅」と言って」良いだろう。「中興の祖」とは文字通り「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということになる。白隠は、むしろ新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した宗教改革であっあっというべきであると思う。宗教家であって画家では無いので、一点のみを掲載する。詳しくは「白隠展」2012年ーブンカムラ・ザ・ムュージアムを参照願いたい。今回の「奇想の敬具」展の企画者「山下祐二氏」が「白隠のいる美術史」という論文を寄せているので、参考までに読んで頂きたい。

達磨図  一幅 紙本着色 白隠慧鶴作 江戸時代  大分・万寿寺

背景の深い黒。衣の鮮やかな朱。顔面のほのかな朱。そして眼球、胸と、「直指人成仏」という讃文の白、数千点も変存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートルの大作である。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。制作年代については、明和4年(1767)83歳の制作だとする説が有力である。一見に値する。

 

辻暢雄氏の「奇想の系譜」を展覧会で一堂に会する企画は、思いも掛けない企画であり、企画者の山下祐二氏のご努力に敬意を表したい。アメリカ等海外からの出品作も多く、見学者も非常に多かった。今年を代表する一大展覧会であった。よくぞ、これだけの作品を集めたものだと感心した。関係者一同に対し、心から感謝したい。ご苦労様でした。大変、感激しました。有難うございました。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展   2019」、辻暢雄「奇想の系譜」、図録「歌川国芳ー奇と笑いの木版画  2017年」、図録「白隠展  2012年」を参照した。)

 

奇想の系譜(2) 長澤芦雪  岩佐又兵衛

 

長澤芦雪は宝暦4年(1754)-寛政11年(1799)の45年間の間に、異能を発揮し、様々な絵画を残した。父・上杉和左衛門は、はじめ丹波篠山の青野家に仕えたが、後に淀に移って稲葉丹後守に仕えた武士であった。下級武士の息子として淀で成長したが、好きな絵の道を志し、京に上って応挙のアトリエに通って絵の手ほどきをを受ける内に、めきめきと頭角を現し、やがて京へ移住して、天明2年(29歳)の時には、すでに、応挙の高弟として一家をなしていたらしい。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙がトップに載せられ、若冲、蕪村がそれに続き、それからだいぶ間を置いてではあるが蘆雪の名がある。「奇想の画家」の中では、まともな道を進んでいたことが分る。天明6年(1786)南紀串本にある無量寺の僧愚海が、かねて親交のあった応挙を訪ねて、南紀にある東福寺の寺院の襖絵を揮毫するよう依頼した。ところが当時応挙には南紀に出向くことができない事情があり、蘆雪が代理を務めることになった。応挙の信頼は厚かったことが理解できる。しかし、蘆雪の生活態度には相当世間の反感を買う面があったらしい。49歳で死亡しているが、才気煥発、無類の器用さ、多趣多芸、大向こうをあっと言わせる芝居気があり、反面、反感を買うような態度もあったらしい。

龍図  八面  紙本墨画  長澤芦雪作    島根・西光寺

八面の屏風であり、この絵は左隻に描かれた龍図であり、極めて珍しい絵である。このように前身が描かれる龍はなく、蘆雪の発想の豊かさを物語っている。顔は側面から描かれ、口角が上がりまるで微笑んでいるように見えるのも他の龍図には無い特徴である。鱗は輪郭線をとらえずに平筆によって勢いよく描かれ、筆運びの勢い自体が、龍の持つエネルギーを示しているようである。蘆雪が南紀遊歴(天明6~7年)前後の時期に制作された基準作として極めて貴重な作品である。

花鳥図 一幅 絹本着色  長澤芦雪作 江戸時代  阪急文化財団逸翁美術館

 

長澤芦雪は「奇想の画家」の中では、唯一人、まともな師匠について学んでいる。従って、他の「奇想の画家」と異なり、オーソドックスな絵を描くこともある。この花鳥図は、正にオーソドックスな花鳥画であり、師である応挙から学んだことがうかがわれる。中国南方原産である錦鶏という画題は、決して一般的ではない。若冲は「動植採絵」においても「雪中金鶏図」を描いているが、他の画家がこの鳥を描いた事例は極めて少ない。若冲の「白梅金鶏図」を仕上げた後の1770年前後の作と推定される。その頃の蘆雪はいまだ十代だが、後にこの絵を見る機会があったのいではなかと想像される。優美な尾羽を長く伸ばす金鶏の姿は、きわめて近似している。落款「蘆雪」と印章「蘆雪」「政勝」は、南紀遊歴以前の作品たとえば「檜に猿図」(個人蔵)などに近似する。若き日の蘆雪が若冲に心寄せていたことが想像できる作例であろう。

秋景山水図 紙本墨画淡彩 長澤芦雪作 天明8~9年(1788~1789)キャサリン&トーマス・エドソンコレクション

淡墨で描かれた急峻な岩肌に群生する松。その間に点在する紅葉した木木。松は濃墨で紅葉は淡い着色。そのコントラストが、季節感をうまく演出する。踊っているような松のかたちのリズム感、ぼかしを駆使した空気感を表す描法に、応挙とは異なる蘆雪の資質がよく表れている。「平安蘆雪写」という落款における「蘆雪写」の筆触は「雨中釣燈篭図」(個人蔵)の筆癖にきわめて近似している。近い期間、即ち天明6~7年の南紀遊歴を終えて以降、寛正前期までの作と推定される。この作品には「奇想の画家」の面は、まるで見られないと思う。

重要文化財 山姥図(やまんばず) 額一面 長澤芦雪作 絹本着色 寛正9年頃広島・厳島神社

山姥とその子供(後の坂田金時)をほぼ等身大で表す。迫力に満ちた画である。恐ろしい山姥の顔に驚かされるが、本図は、蘆雪の顧客であった広島の商人たちが厳島神社に奉納する絵馬として描かれた。画題は、浄瑠璃「茹山姥」に基ずく。画題は、浄瑠璃「女躰山姥」に基づく。「女躰山姥」では、遊女であった八重垣が自害した夫の魂を体内に宿して山姥となり、山中で子供を産み育てる。母子は後に夫の恩人である源頼光に会い、子供は坂田金時として頼光に仕えることを許される。恩義に報いるため超人的な力を得た母子の姿が、金時の活躍などとともに畏敬の対象とされたものと考えられる。山姥と5、6歳の金時が頼光の前に現れたところだとすれば、親子にとっての喜びの場面ということになる。そこに至るまでの山姥の苦労は計り知れず、彼女の屈託に満ちた表情には、これまでの生の苦しみが刻まれている。元遊女で今は鬼女・母といおう、さまざまな要素を併せ持つ山姥を活写している。暗く屈託した山姥と対照的に、金時の無垢の明るさが輝くように表され、未来の成功への希望が象徴されているようである。

 

岩佐又兵衛については、今までこの「美」で書いているので、紹介は省き、いきなり作品に入りたい。

重要文化財 山中常盤物語 第四巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 静岡・MOA美術館

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は15歳の春、東国へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡である。都にある母の常盤は、行方のしれぬ牛若案じ、清水にはだし参りをしたりしていた。春も半ばとなり、母常盤は侍従を従え東国へ下る。二人が山中の宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と牛若恋しさに、重い病の床につく。山中の宿に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を東下りの上臈とみて美しい小袖を盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の着ている小袖まで盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の小袖まで剥ぎとったので、常盤は小袖を残すか、さまなくば命も取って行けと叫ぶ。盗賊は常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。(古浄瑠璃の一部)

堀江物語 一巻 紙本着色 岩佐又兵衛作  江戸時代  京都国立博物館

下野の豪族で、清和源氏の血を引く堀江三郎は美しい姫君を妻に迎えて男子をもうける。だが京から来た国司の中納言と姫君の父とが結託し、三郎を自害に追い込んだ。遺児の若君は生き延び、奥州の岩瀬権守に愛育され、元服後は岩瀬太郎と名乗る。やがて真相を知って敵討ちをこころざした太郎は国司の妻子を殺害、さらに京に上って国司を討ち果たした。帝から坂東は八国を任された太郎は、姫君の父の剃によって復讐を完遂。下野の血で堀江家の再興をなしとげた。         又兵衛には、この物語を絵画化した二種類の絵巻物が残る。一つはぜん12巻のもので、MOA美術館に所蔵される。もう一つは6巻の絵巻と断簡が確認されるものである。6巻物は京都国立博物館が所有している。この作品は,MOA美術館12巻物の習作のようなものである。

重美 伊勢物語 鳥の子図 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 文化庁

柳の下にたたずむ一人の女性が、流れる水面に筆を差し出し何事を書こうとしている。これは「伊勢物語」第五十段「鳥の子」に取材した図である。この段は一組の男女が相手への恨み言を歌でかわし合うというもの。男の「鳥の子を十ずつ十ぱかさねとも、思わぬ人を思うものかは」の歌に対し、女は「ゆく水に数かくよりもはかなきは、思わぬ人を思うなり」と返す。本図はこの女の歌を絵画化している。

本性房怪力図(ほんじょうぼう) 一幅 紙本着色 江戸時代 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

 

古典文学に取材した作品は、絵画化の長い歴史のなかで定着した図様の伝統に拘束されがちである。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材を取る。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材にとる。元弘岩年(1331)笠置山に拠点に移した後醍醐天皇の勢力を、鎌倉幕府が包囲、迫り来る幕府の軍勢に対し、南都の般若寺から来ていた本性房という怪力の僧は、普通の人間ならば百人ががりでも動かせそうもない巨岩を軽々と脇に抱え、鞠のように次々と投げつけて応戦した。幕府軍は崩れ落ち、深い谷は人馬の死骸で埋め尽くされ、近くを流れる木津川が血に染まるさまは、まるで紅葉を川面に映したようだったという。又兵衛の筆は、この惨劇をファルスへと転じて見せた。どこか見得を切る歌舞伎役者のようである。

国宝 洛中洛外図屏風(舟木本) 六曲一双 紙本金地着色 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

京都市街(洛中)と郊外(洛外)の景観を一望する屏風絵の形式は、室町時代に成立し、江戸時代はじめ頃に全盛となった。その数は現存するだけで200件に迫る。かっての所蔵者の名前をとって舟木本と呼ばれる。この洛中落外図は、同主題の絵画のみならず、浮世絵を含めた日本の風俗画史における重要な転換点に位置する。極端に言って、舟木本の斬新さは、都市に暮らす人々の生活の様子を、絵画の中心的な主題へとせり上げたところにある。本図は、四条河原町を行く祇園祭を描いた部分である。寺町から四条通りへ進む大きな幌(ほろ)を担いだ母衣武者を描いたものである。四条通りをそのまま南下するのは南蛮人の扮装(コスプレ)をしたものである。現代のファローインのようなものである。

妖怪退治図屏風   伝岩佐又兵衛作 八曲一双  紙本着色 江戸時代

最近見出された作品で、この展覧会が最初の公開となる。地面には銀の砂子が蒔かれる。銀こそ黒く変色したが、それ以外のコンディションは、ほぼ完璧に近い。画面の左側から騎馬武者の一行が山路を下り(この左局には出てこない)水際立った先端の1騎は、黒雲に包まれたおびただしい数の異形のものたちに向けて弓を引く。(この黒雲が左隻である)人物の顔には所謂「豊頬長顎」(ほうきょうちょうい)の特徴が見られる。(この顔の表現が岩佐又兵衛の特徴とされる)この絵の制作期は、又兵衛が福井の地で絵筆をふるった元和2年(1618)頃から寛永14年(1637)までで、その前期と想定される。又兵衛の作品ではなく、又兵衛工房の作と思われる。この絵の内容については、まだ断定できていない。

 

長澤芦雪と、岩佐又兵衛を、本稿では取り上げた。岩佐又兵衛については、度々取り上げているが、比較的新規の絵画を取り上げたつもりである。長澤芦雪は、丸山応挙の高弟であり、絵の基本は良くできているが、「奇想の系譜の画家」らしく珍しい絵も描いている。絵の基本をきちんと学んだ「奇想の系譜の画家」である。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、矢代勝也「岩左又兵衛作品集」、辻暢雄「岩佐又兵衛」、図録「京都 洛中洛外図と障壁画  2013年、辻暢雄「奇想の系譜」を参照した)

奇想の系譜展 (1) 伊藤若冲と曽我蕭白

今から50年前(1970)に、一冊の書物が刊行された。辻慶雄氏の「奇想の系譜・江戸のアバンギャルド」(美術出版社)である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長澤芦雪、歌川国芳の六人の画家を取り上げた、この「奇想の系譜」、以後の江戸時代絵画研究、日本美術氏研究に対し、決定的な影響を与えた。今回の展覧会には、この六人に加え、白隠慧鶴、鈴木其一の二人を加えて企画されたものである。従来の日本美術史の江戸時代を飾る丸山応挙、池大雅、与謝蕪村、渡辺崋山と浮世絵師に比較して、この8人の画家は「異端」「傍流」扱い、あるいは無視され続けた。私が所有する「原色日本の美術」(小学館)全30巻(1972年刊行)で調べて見ると、この8人の画家は、全く採用されていないか、僅かに採用されても「異端」「傍流」扱いで、僅かな写真が出るのみで、殆ど無視されていた。私にとって江戸時代絵画は、浮世絵を除き、はっきり言えば、殆ど興味を引んで以来、すっかり、この「奇想の系譜」の絵師に取りつかれ、フアンになってしまった。特に「伊藤若冲」と「岩佐又兵衛」には熱を上げた。若冲は「ご即位20年記念(2009)に「三の丸尚蔵館」の「動植採絵」全30点が展覧され、あまりの美しさに2回も訪れ、図録も全2巻を求め、愛読書の一つとなった。その後、各美術館でも、保管する「伊藤若冲」を展覧する機会が多くなり、かつ「生誕300年 若冲展」(2006)には、展覧会初日に朝早くから並び、丁寧に全作品を鑑賞した。この展覧会では6時間も並ぶ盛況ぶりで、恐らく100万人近い動員をしたのでは無いだろうか。また「岩佐又兵衛」については、それを所有する山種美術館、出光美術館、熱海MOA美術館などをめぐり、凡その作品を鑑賞することが出来た。この二人については「黒川孝雄の美」で再々取り上げている。今回「奇想の系譜」展は、辻先生の弟子に当たる山下雄二先生(明治学院大学)の監修になるもので、さじかし、珍しい作品も多数展示されているであろうと、期待と希望を持って鑑賞した。十分満足できる内容であった。皆さんに鑑賞をお勧めする。

紫陽花双鶏図  一幅 絹本着色 伊藤若冲作 エツコ&ジョー・プライスコレクション

向かい合う雌雄の鶏を主題にとし、足元に芍薬らしい花、後ろに岩と紫陽花を配した本図の図様は、「動植採絵」のなかの「紫陽花双鶏図」の準備作であろう。細部・全体を通じて見られる、独特の形態感覚は、若冲の個性的スタイルが、このときほぼ完成の域に達していたことを物語る。プライス氏は、日本のコレクターが誰も若冲に気づいていない時期に日本を訪れて若冲の作品を探し求めた。業者がそれに応じて提供したものがこの図で、昭和39年(1964)のことである。プライス氏の先見の美を賛美するか、日本のコレクターの質の低さを嘆くか、何れにしても「保管」されたことは喜ぶべきことであろう。

虎図 絹本着色 伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

前脚を舐める姿がユーモラスで、猛獣のイメージではない。家業を弟に譲って、絵師の道に専念することを決意した宝暦5年の首夏(陰暦四月)に描かれたことが落款より明確な、若冲の画歴の中で重要な一点である。本図が、京都・正伝寺に伝わる「猛虎図」を手本として描いたことが知られる。描かれた虎は、原画の虎よりも表情が豊かで動きがある。虎の身体部は黄土を主体とし、薄墨や鉛丹を併用してそれらの濃淡と黄土の濃淡とを重ねて微妙な色彩変化をつけ、その上に岱赭(たいしゃ)の紫色のあるこげ茶で、一本一本、体毛を丁寧に施している。背景には素早い筆さばきで張り出た枝などをさっと描き、一つの画面の中で、描写の精粗の対比を試みている。

葡萄図 紙本墨画  伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

プライス氏が若冲に関心を抱くようになった最初の作品であり、重要な意味を持つ。落款の代わりに「景和」を入れる本作は、若冲初期の貴重な作例である。中世にわが国に伝来し、当時、京都の寺院に多く所蔵されていた様々な中国絵画や朝鮮絵画を見る機会を得た若冲は、それらから図様や描写方法について刺激を受け、模倣を重ねる中で自身の絵画技術を高めていったことが知られている。本作もそれらの影響を受けているだろう。「景和」は若冲の字であり、「若冲」の居士号を使用する以前の三十歳代前期頃の製作と推察される。輪郭線を用いず、繊細に墨の濃淡を利用して葉や幹、葡萄の実を見事に描写しており、墨表現の面白さを知りえている。これを見抜いたジョー・プライス氏の見識にも敬意を表したい。

象と鯨図屏風 六曲一双 伊藤若冲作  寛永9年(1767) 滋賀・MIHOMUSEM

左隻

 

左隻

六曲一双の屏風の左右に、海上に胴を出して勢いよく潮を吹く鯨と、うずくまって鼻を高々と上げる象とを向き合わせた六曲一双の水墨屏風である。海の王者と陸の王者が、互いにエールを交換しているようだ。北陸の名家に伝わったもので、2008年に存在が知られ、MIHO MUSEMの所蔵となった。「象と鯨図屏風」象隻の画面向かって左端に「米斗翁八十二歳」の落款がある。若冲が還暦後、元号の改まるごとに年齢を一つ加算したという説に従えば、若冲80才の作となる。若冲が14才の時、一頭の像が京を訪れ、天皇、上皇にお目見えした。この時の京市民の反応は察するに余りある。少年若冲もこの象を見たに違いない。その時の記憶が、この屏風に見られる。象への愛情あふれる表現となったのであろう。

 

京の商家に生まれ、伊勢や播州で精力的な活動をした曽我蕭白は、40才を過ぎて生地である京都に定住した。18世紀京都画壇の鬼才たちの中で、もっとも激烈な表現を指向した。20才台後半から、室町時代の有力な漢画の一派である曽我派の直系にあたると自称して曽我性を名乗った。漢画を学び中国の仙人や聖人といった伝統的な故事を多く描いているが、その表現は独創的で狂気に満ち、ときに見る者の神経を逆なでし、混沌の渦へと陥れる。

雪山童子図  曽我蕭白作  明和元年(1764)頃  三重・継松寺

釈迦の前世での行いを物語る「本生譚」の一こま。若いバラモンン僧雪山童子として修業していた時、悪鬼の姿に身を変えた帝釈天から、修行の熱意を試されたところである。鬼は「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」という涅槃経14聖行品の上2句を唱えて、下2句はお前が俺に自分の身を食わすなら教えよう、という。雪山童子がそれに応じると、鬼は後二句を唱えた。雪山は歓喜してそれを木の幹に書き付け、約束通り樹上から身を投じようとすると、悪鬼の姿は神々しい帝釈天に変わった。青、赤、橙のどぎつい対比と奇怪な誇張が、この図を「群仙図屏風」の類縁に当たる唯一の作品に位置付ける。鬼の口から真理の言葉を聞き、より目を輝かせて両手を広げて鬼にジャンプする瞬間の雪山、下には凶暴の化身ともいうべき悪鬼が口を広げて待っている。卑俗さと聖性とが混ざった特異な宗教画である。

重要文化財 群仙図屏風 六曲一双 曽我蕭白作 紙本着色 明和元年(1764)文化庁

右隻

曽我蕭白は若冲より15年遅れて生まれた。若冲の長い人生に伴走しながら、20年近く先に逝った。50年に満たない人生ながら、残した作品は若冲以上に多い。生活のために多作を強いられたとは言え、弟子は殆どなく、生涯孤独であった。「群仙図屏風」は江戸時代絵画史を通じて類のない、怪奇な作品である。右隻のみであるが、空は嵐模様、波騒ぐ海上のつむじ風に乗って、竜にまたがり手に鉢を持つ仙人は、呂洞賓の龍退治の場面とされる。(異説もある)簫を吹いて鳳凰に聞かせる簾史。なぜかこの人だけが赤い服を着て赤ら顔である。虎を従え、髭と蓬髪を風になびかせるこの人物は、医薬を良くする扁篛(へんじゃく)とする説がある。右隻には4人の仙人がいる。左隻にも4人の仙人がおり(図には無い)、八仙図である。赤、群青、雌黄のどぎついほど強烈な配色が、当時の黄檗宗の頂相に施されたものと同じであり、このような彩色法は当時の屏風画としては稀である。不老不死の仙人たちは、吉祥の画題として還暦や誕生の祝いの席に描かれた。そうした特殊な儒学者グループに関係する人であった可能性がある。ちなみにこの屏風は、京都の京極家から出たといわれている。

 

本欄では伊藤若冲と曽我蕭白を扱ったが、伊藤若冲を知らない人はいないが、蕭白となると知っている人は殆どいないと思う。まして、ここで取り上げた蕭白の作品は異常なものが多い。サイケデリュクな作品は、多分、多くの人には馴染めない作品であろう。まさに「奇想の画家」であるだろう。

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、図録「生誕300年記念 若冲  20  2016年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日経大人のOFF 2019年1月号)

 

興 福 寺  北 円 堂

興福寺には、講堂が3つ、塔が2塔、その他に南円堂、北円堂、がある。北円堂は養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提のために、元妙大政大臣と元正天皇が建立を発願し、長屋王に命じてその一周忌に当たる翌年の8月3日に完成させた八角円堂である。安置の仏像は弥勒如来、脇侍菩薩二体、羅漢一体、四天王であった。本尊を弥勒如来にしたのは、不比等が生前弥勒信仰を持っていたからである。興福寺伽藍では和銅3年(710)の平安遷都と同時に始まる中金堂の造営に次いで古い。その後、永承4年(1049)の火災で焼失した。弥勒如来は首のみが残り再興された体躯部に据えられたが、治承4年(1110)の兵火ですべての像が失われた。治承火災後の復興は、奈良時代の草創期と異なり後回しとなる。菩提山の専心上人が中心となり復興勧進を募っている。しかし、専心上人の勧進による資金調達は限界があったらしく、承元2年(1208)には氏の長者が事業の主体に変更された。その後の工事は比較的順調に進み、承元4年(1210)に北円堂の屋根の露盤と寶珠が取り付けられて、間もなく完成したらしい。仏像の製作には時間がかかり、建暦2年(1212)頃出来上がったとみられる。

国宝  北円堂  本瓦葺  鎌倉時代(建暦2年ー1212)

北円堂は鎌倉再建期の建造物を今に伝える貴重な堂宇である。興福寺内では鎌倉期のものが残るのは他に三重塔だけであろう。奈良時代に創建されたときと同じ位置に、同じ八角形で建っている。貴重な遺構である。国宝に指定されている。

国宝  弥勒如来坐像  木造  運慶作  鎌倉時代(建暦2年ー1212)頃

南円堂の本尊であり、脇侍は法宛輪(ほうおんりん)菩薩、大妙相菩薩である。この南円堂は、運慶が統率する工房の総力を上げての仕事である。弥勒如来菩薩像は、運慶の指導のもと源慶、静慶(じょうけい)の作である。弥勒如来台座の銘文から、各像の作者名が分る。充実した体と意志的な強さを持つが、全体のバランスがとてもよく、円熟した作風を示す。運慶が強く指導したと考えらている。

国宝 無著立像  木造  運慶作  鎌倉時代(建暦2年ー1212)

無著と世親は北インドに4~5世紀頃に実在した僧侶の兄弟で、弥勒の後を継いだ法相宗(ほっそうしゅう)の祖師である。運慶はこの無著、世親の体格の良い堂々とした姿で表現した。もはやインド人の風貌ではなく、身近な日本の僧侶の姿であるが、人種や時代を超えた理想的な求道者を構想したものとみられる。2体で一組の像として作られた。無著は、老人の姿である。胸に裂(きれ)で包んだ箱(舎利容器)を、左の手のひらにそっと持ち、右手を添え、やや下方を向きながら、優しい表情で人々を見つめている。よく見ると袈裟を吊るす胸の留め具も円形をしている。円満でやさしい姿である。それは慈悲心をもって人々を救済しようとする理想的な僧侶の姿であろう。私は、無著・世親像は、奈良時代の鑑真和上像に次ぐ人間像であると、ひそかに思っている。まさに、人類の見本となる人物像であろう。

国宝  世親菩薩立像 木造 運慶作 鎌倉時代(建暦2年ー1212)頃

弟の世親は壮年の姿で表され、胸を張り、顔を上げ、眉をひそめて遠方を見つめている。意志の強い逞しく堂々としたお姿である。唐草状の胸の留め具も動的である。そこにあるのは確個とした意志を持ち真理を追究する真摯な僧侶の姿である。ここでは人生を積み重ねた、ゆるぎない永遠の相が追及されている。無著と比べて、やや年下の年齢により男性的な性格が反映されているようだ。遠方を見つめる確固とした視線が玉眼によって生き生きと表現されている。無著像と一組で表され、運慶の僧侶に対する理想的なイメージが具現化されている。

国宝  四天王立像  木心乾漆像  4躯  平安時代(縁暦10年ー791)

北円堂の八角須弥壇の四方の隅に立つ四天王像である。四天王のうち増長天と多聞天の台座の框裏(かまちうら)に墨書があり、四天王像がもと奈良大安寺に伝来し、延暦10年(791)に制作されたこと、興福寺の経玄得業が鎌倉時代の弘安8年(1285)に修復したことがわかる。奈良時代の終わりから平安時代の初めの時期の仏像は、制作時期の不明なものが多いが、その中で時期がわかる貴重な作例である。

国宝  四天王立像のうち  持国天立像

国宝 四天王立像のうち  増長天立像

国宝 四天王立像のうち  広目天立像

国宝  四天王立像のうち  多門天立像

この四天王像が伝来した「奈良大安寺」については、構を改めて紹介したい。北円堂の仏像を多数示したが、私は無著菩薩、世親菩薩の2躯が一番記憶に残り、日本で造られた人間像の中で、鑑真和上像に次ぐ作品であると信じている。興福寺展には、しばしば展示されるので、是非一度拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1997」、図録「国宝  阿修羅展 2003」、古寺巡礼5巻「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)