開館60周年記念  松方コレクション(1)

日本の芸術家、大勢の人々のために美術館を作るー神戸の川崎造船所(現川崎重工業株式会社)」は30年にわたって率いた松方幸次郎氏(1868~1950)は、大一次世界大戦によって船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916年~1927年頃のパリやロンドンを中心に西洋の美術品を買い集めた。その総数は3000点を超え、フランスから買い戻した浮世絵の約8000点を加えれば、約1万点を超える規模であった。しかし、1927年、昭和金融恐慌により造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も一部はパリでフランス政府に接収された。戦後、フランスから日本へ寄贈という名目で返還された375点と共に、1959年(昭和44年)、国立西洋美術館が設立され、ようやく松方コレクションは安住の地を得た。(詳細については、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」-陳岡めぐみ・国立西洋美術館館長)に詳しく書かれている)

睡蓮  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

「睡蓮」をめぐるモネの作品の中でも、パリのオランジュリー美術館に飾られている大装飾画は、モネの画業の集大成として広く知られている。ジヴェルニーに居を構えた晩年のモネは、1980年代後半から自宅の庭の睡蓮の池をモチーフとする一連の作品の制作に没頭した。1918年11月、第一次世界大戦の終結とフランスの勝利を記念してモネは、当時の首相で旧友のジョルジュ・クレマンソー(1841~1929)に作品の国家寄贈を提案した。完成に向けて努力したが、1926年12月に故人となった。作品は、その後、1927年にテュイルリー公園の一角にあるオランジュリー美術館に設置された。松方は、モネと親交があり、二度にわたって松方がジヴェルニーを訪れて多数の作品を購入した。モネは未完の作品をアトリエから外に出すことを嫌った                  松方はモネから入手した2点の「睡蓮」のうち1点が本作品である。恐らくジベルニーの作品の第一室の東の壁にある「緑の反映」に関連づけることができる。もう1点が近年発展されたが(睡蓮、柳の反映)、それは最後に紹介する。

松方幸次郎氏の肖像 フランク・ヌラグイン作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

この肖像は、松方とブラグイがロンドンで出会った頃、そして美術品収集を始める1916年に制作された。松方にこの画家を紹介したのは、ロンドンに外交官として駐在していた芸術通の兄正作や、在英日本人画家の石橋和調等と言われるが、画家と石橋は親しい関係を築き、松方はブラグインに彼の作品の売却、東京に建設予定の美術館のデザイン、そして他の画家の作品の購入の代理を依頼するようになった。本作品では、カンヴァス裏面に「1時間で描く」とあるように、素早い筆さばきで生き生きと、モデルの姿を捉えている。

花野に眠る少女 ジョバンニ・セガンティー作 1884-85 水彩・カンヴァス        国立西洋美術館

牧歌的な情景を描いたパステル画(花野に眠る少女)はブリアンツ地方で描かれた。後にセガンティーニ画風は「生」や「死」と言って普遍的な概念を扱う象徴主義へと移行していくだが、松方は自然主義的な作品に限って購入した。実際、コレクション全体を見渡しても、神秘主義や観念を偏重するタイプの象徴主義的作品はほとんど含まれていない。

春(ダフニスとクロエ)ジャン・スランソワ・ミレ作 1865年 国立西洋美術館

農民画家として名高いフランソワ・ミレーはノルマンディーの海辺に生まれた。1837年にパリに出て、国立美術学校でドラロッシュに師事し、1840年にサロン初入選。当初は肖像画や物語絵を描いたが、次第に素朴な農民生活を題材とした作品に取り組んでいく。1849年にバルビゾン村に移住し、後にバルビゾン派と称された。大地に根差した農民の姿を感情豊かに描き続け、晩年は高い名声を得た。1864年、ミレーはマールの銀行家トマの注文を受け、翌年にかけて、パリの邸の食堂を装飾するため「四季」を主題に天井画と3枚のタブローを描いた。そのうち本作は、「春」を描いたものである。春の陽光が降り注ぐ森の中で少年と少女が雛に餌を与え、木立の向こうには山羊の親子と海辺の遠景が覗く。場面は二人の捨て子ダフニスとクロエがエーゲ海のレスボス島の牧歌的な自然の中で幼い愛を育み結ばれるという、古代ギリシャで書かれた恋愛物語に取材している。後ろに立つ石像は、草花や卵を捧げられた豊穣の神である。ここでは人生の春に四季が重ね合わせられている。

並木道(サン=シメオン農場の道) クロード・モネ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

貧しき農夫 ピエール・ピュヴィス・ド・シャバンヌ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

19世紀フランスを代表する壁画家ピュツヴィ・ド・シャバンヌは第二帝政期から第三共和政期にかけて、重要な公共建築物を飾る裕福な家庭に生まれるが、病気静養で訪れたイタリアで画家を志し、パリでトマ・クチュールらに師事する。古典の伝統を受け継ぐ継ぎつつ、抑えた色彩と簡潔な表現、平坦で装飾的な画面構成を特徴とする作風で、独自の象徴主義的な作品世界を築き、続く世代へ大きな影響を与えた。本作は、ピユヴィ・ド・シャパンヌの代表作の一つ「貧しき農夫(パリ・オルセー美術館)」のヴァリトンである。貧し気な漁師の一家を水辺に風景と共に横長の画面に描いた1881年の作品は、サロンに出品された当時は批判の声も多かったものの、1887年に当時の所有者エミール・ボアヴァンから国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。スーラーやマイヨールをはじめ、多くの若い画家たちがこの作品の影響を受けたことが知られている。本作については、1893年に画商デュラン=リュエルからポワヴァンのもとに渡った記録が残されていることから、恐らくこの愛好家のためにオリジナルに代わるものとして制作された。縦長の構図や小船のモチーフとあいまって、画面はジャポニズムの影響をより色濃く見せている。

波  ギュスタヴ・クールベ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

フランス東部、スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地方に生まれ育ったクールベにとっては、海は長い間未知の世界だった。彼が生まれて初めて海を見たのは、ノルマンディーの地方を旅した22才の時である。1850年代のモンペリエ滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。その後、1850年代のモンペリア滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。しかし、クールベが海の風景に本格的取り組むのは1860年代後半のことである。この時期、彼は英仏海峡に面したル・アーブル周辺の海岸をたびたび訪れた。特に1866年はブーダンとモネを伴なって周辺の海岸をたびたび訪き、海岸の風景を25点ほど描いている。更に1869年の夏には、断崖の奇観で知られるエトルタ海岸に約2ケ月滞在し、それから翌年にかけて、嵐の海の風景を沢山制作した。1870年のサロンに出品した「嵐の海」と「嵐の後の風景とエトルタの断崖」は共に高い評価を受け、前者はクールベ歿後間もなく、彼の作品として初めてリュクサンブール美術館のためにフランス政府に買い上げられた。エトルタの嵐の海を描いた本作には、ほとんんど同一の構図による異作が数点ある。茜色に染まった雲が広がる暗い空の下で、巨大な波のうねりを頂点に達すると同時に崩れ落ち、岩礁にぶつかって白いしぶきをあげる。画面は空と海にほぼ二等分され、荒れる海面はカンヴァスの境界を越えて手前に広がり、大波が目の前に迫るかのようである。構図はごく簡潔だが、茜色の空と暗い緑色とを対比させた配色や、絵筆とペインテイングナイフを使い分けた質感表現に、優れた技量が認められる。一連の波は物語的要素や感情を一切交えずに、峻厳な自然の実相を客観的にとらえようとした点において、故郷の山岳地方に取材した1860年代中期の「ピュイ=ノワールの渓谷」や「ルー河の水源」の作品に通じる性格を持つクールベの風景画の独自性を示している。」

芍薬の花園 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

ヴェトゥイユ時代を経て1883年にモネはパリの北西、ノルマンデイーも南東部に位置する小村ジヴェルニーに移り住む。」セーヌ河とエプト川が合流する自然豊かなこの水辺の土地を気に入ったモネはやがて自宅の周囲に土地を広げ、後期の制作においては重要な着想源となる庭園の造成を進めた。「芍薬の花園」は、この題材として描かれた作品の中で初期のものである。この庭に水を引いて造った睡蓮の池は、モネ晩年のライフワークとなる「睡蓮」の連作を産むことになる。「芍薬の花園」は「睡蓮」への道のりを示す作品である。

「日本婦人の肖像(黒木夫人)」 油彩・カンヴァス 1922年 エドモンド・アマン・ジャン作  国立西洋美術館

画家モネに愛され、松方とモネの出会いにも貢献した黒木竹子は、松方家長兄で十五銀行頭取の松方巌の娘であり、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに対在したていた夫の三次とともに1920年前後のパリに滞在していた。夫妻も美術を好み、画家と交流し、絵を集めている。当時のフランス画壇の中心的地位を占め、洋画家児島虎次郎との交流でも知られていた。和服姿の竹子を描いた「日本婦人の肖像(黒木夫人)」は、夫妻がパリを発つ1922年4月の年紀を持つことから、夫妻のパリ滞在の記念に松方が注文したようだが、1922年4月に始まったパリの国民美術協会のサロンの画家から出品されている。おそらくそのためにパリに残されたのだろう。

 

かって「国立西洋美術館名品選」を、「黒川孝雄の美」に連載したことがあり、かなり重複する記事があるので、重複を避けるようにした。「松方コレクション」は第一次世界大戦後、美術品を日本に持ち帰ろうとした時に、「関東大震災の時と合致し、政府は奢侈品に十割という関税を課すし、それれを嫌って松方が欧州に送り返した」という程度の知識は持っていた。ところがパリとロンドンに送り返した美術品は、まずロンドンでは倉庫の火災で焼失し、パリに残った美術品には敵国性美術品としてフランス政府に没収された。戦後、松方コレクションが返還された際には、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものであり、かつ「返還」ではなく「寄贈」とすることにより、歴史的意味にかんがみて若干の絵画作品を返還の対象から外すという3点が問題となったとうに記憶する。幸い、フランス政府の指名した建築家はル・コルビジュであった、              久さしぶりに国立西洋美術館に入館したが、いかにも狭い。せめて、美術品はゆったりと拝観したいものである。

 

(本稿は「図録 確率西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した。)

奈 良  大 安 寺

天平19年(747)の「大安寺伽藍欄縁起並流記資材帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)によれば、大安寺の創立は聖徳太子の熊懲精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとする。しかし、私は、これは神話の世界だと思う。太子の遺志を引き継いで舒明天皇は舒明11年(639)に百済川のほとりに百済大宮と百済大寺の造営を開始した。天王家が建立した最初の寺であり、「大寺(おおでら)」の名を持つ規模であり、偉大な大王の寺の意味を持つ。王宮護持のため、大寺は大宮と対にして造営された百済大寺に建てられたという九重塔は王家の象徴でもあった。百済大寺の遺跡は吉備池廃寺(桜井市吉備)が最も有力視されている。(発掘されている)                          天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に、高市大寺となる。高市の地に遷されたのは、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)の護持に関わると見られ、天武6年(677)には大官大寺(だいかんだいじ)の寺号が与えられた。     現在、藤原京の左京八条二坊の地の大官大寺跡は、発掘調査の結果、7世紀末、文武天皇の代に造営された大官大寺であり、未完成で焼失していることが明らかになった。和銅3年(710)、都は平城に遷される。王宮、国家の護持のため大寺も遷都によって平城京に遷され、新都には官寺として大安寺、薬師寺、私寺として元興寺、興福寺が営まれた。大官大寺を受け継ぐ大安寺はいちはやく、霊亀2年(716)に平城京左京六条四坊後に遷されることになり、天平元年(729)には入唐留学生を経験した道慈律師が造営の任に当たることとなった。搭は六条大路を隔てた七条四坊の別院に営むことを特徴とする大安寺伽藍となった。天平10年(738)前後には塔を除き、主要伽藍はほぼ完成していたと考えられる。   奈良時代には、大安寺は四大寺の筆頭に位置し、道慈、善議,勤操に連なる三論の系譜ほか、来日僧も止住し、都の教学拠点であった。

平城京における大安寺の位置

官寺である薬師寺より、広い寺地を持つことが明らかで、奈良時代の官寺の最高位にあった。今日、薬師寺は観光地として有名であるが、大安寺を知る人は殆どいない。私が、大安寺に参詣した3時間ほどの間に、観光客は一人も来なかった。

重文 十一面観音菩薩立像        奈良時代

十一面観音菩薩は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳が説かれている。頭部と両腕部が後世に補作されているが、体部から造立当初の端正なお姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波形にひるがえり、裳腰の左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣と皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾が極めて華麗であり、台座にも華の文様が浮き彫りされている。奈良時代の秀作である。                     (秘仏  毎年10月1日より11月30日まで開扉)

重文 馬頭観音立像     奈良時代

災厄を消除する馬頭観音像として信仰されている。目尻を吊り上、上歯で下唇をかみ、厳しい怒りの表情を見せる。腰には獣皮をまとい、胸飾と足首に蛇を巻き付ける。一般的な観音のおだやかな姿と異なり、悪事や邪心を退けるような、畏怖すべき姿である。平安時代に密教が流行すると多趣の憤怒像が造られるが、本像はそれに先立つ貴重な古作である。                       (秘仏で、毎年3月1日より31日まで開扉される)

重文  聖観音立像    奈良時代

聖観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)は、姿をさまざまに変えて人を救うとされ、本来の姿が聖観音と呼ばれる。大安寺の他の観音像と同じく、カヤの一木造である。足下に楕円形の台(履物か)を表すのは、馬頭観音・楊柳観音と共通する珍しい特徴である。顔立ちはおだやかで、肩から垂れる天衣は優美である。衣の衣文は細かく数多く刻まれ、装飾も華やかであり、全体に造形感覚が現れている。  (この仏と他の6佛像は、常設で鉄筋の讚仰殿(さんぎょうでん)に、祀られている。常時拝観出来る)

重文  不空羂索観音立像    奈良時代

不空羂索観音は、慈悲の縄(羂索)で、すべての衆生を救いとると説かれる菩薩である。8本の腕は小ぶりに補作されているものの、当初の形をとどめる体部は、幅と厚みも大きく、量感豊かである。顔立ちや衣文も力強く刻まれ、実に堂々たるお姿である。衣には、彩色されていたと見られる装飾文様の痕が、浮き彫り状になって残っている。

重文  楊柳観音立像      奈良時代

岩座に立ち、目尻を吊り上げて開口する。その姿は類例を見ないもので、本来の尊は明らかではなく、馬頭観音立像と同様に、空海が真言密教を広める以前の古い古密教(雑密)の尊像とと考えられている。肉体表現に優れ、体の肉づきの抑揚や、顔の筋肉の隆起が巧みに表されている。肩にかかるお髪は、木と粉の木糞漆(こくそうるし)によるものである。                       多くの菩薩像が着ける丈帛(じょうはくー左肩から右脇にかける衣)が見られず、腹部に薄い衣をまとうように帯を腹部上方で締めるのも珍しい。容姿が異色で彫技も優れた重要な像である。

重文  四天王立像   多聞天    奈良時代

4体とも頭部から台座までカヤの一本で掘出(両腕先は後補作)されているが、作風に違いがあることから、複数の四天王像があったうちの4体が残ったと考えられる。多聞天像は前身の動きが大きくバランスも良い。その肉づきは抑揚に富んでいて、顔立ちが気迫に満ち、甲冑も体制に応じた自然な動きを見せる。

重文  四天王立像 持国天立像    奈良時代              重文  四天王立像 増長天立像    奈良時代              重文  四天王立像 広目天立像    奈良時代

この三天王立像は、頭体部の動きを控えて重厚な姿に造られ、鷹揚な趣がある。持国天と多聞天は胸甲に華やかな花紋の浮彫が良く残る。力強さと華麗さを併せ持つ名作である。

大安寺西塔の遺構(東南から)

大安寺には、寺からかなり離れた場所に七重塔跡が残る。東西両塔で、現在の奈良地方では見られない大きな東西二棟の堀跡が残る。大安寺を見学される場合は、少々寺から離れているが、この東西二棟の跡地は必ず見学して頂きたい。いかに大きな規模のお寺であったかが、一目でわかる。

和辻哲郎や亀井勝一郎の「古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く、恥ずかしながら私も「大安寺」と呼ぶ、「大官大寺」の後系となる古寺の存在に全く気付かなかつた。奈良の旅行案内書を読んで、「大安寺」に気付き、遅ればせながら、「大安寺」に詣でた。規模の大きな、大官大寺の後を継ぐ大寺を、遅ればせながら拝観した。仏像類は、七仏は常時「讚仰殿」(さんぎょうでん)に祀られており、何時でも拝観できる。2佛は秘仏で時期限定で拝観できる。近鉄奈良駅からバスで約20分で「大安寺前」で降りて、15分程歩く。小学校や、民家があり、昔の「大安寺」の遺構は見られない。現存する「大安寺」は、狭くて小さなお寺であるが、鉄筋の讚仰殿は何時でも拝観できる。七仏は常時拝観出来る。大安寺の規模を知るためには、やはり東西両塔(七重塔)跡地を拝見する必要がある。バスを降りて約20分歩き、仏像類を拝観して、更に10分程歩くことは、かなり厳しいが、大安寺のかっての規模や、寺格を知る上で是非拝観して頂きたい。同じ官寺である「薬師寺」の規模をはるかに上回る規模に驚かされる。

(本稿は、森下惠介「大安寺の歴史を探る」、大安寺編「大安寺」を参照した)

ウイーン・モダーン クリムト・シーレ・世紀末への道

 

今年は日本とオーストラリアの外交樹立から丁度150年目に当たる記念すべき年であり、2019年はこの展覧会を開催するに最も相応しい年である。ただし、オーストリアと言っても、当時のオーストリアは、オーストリア・ハンガリー二重帝国であり、換言すればハプスブルグ帝国であった。ウイーンは「ハプスブルグ帝国の主都」であり、1740年から1790年までの半世紀の間に大きく改造されて、近代化を果たした。ウイーンは「自由な精神」を持つ啓蒙された知識人たちを魅了し、ヨーロッパ文化の中心地となり、更に知性の中枢となり、様々な国人たちが出会う場所となった。この展覧会の特徴は、展示作品が400点以上に上り、かつウイーンの町の改造を示す絵画や写真、座椅子等の家具類、銀の家庭用品、装身具、ポスター、グリーティングカード等様々な生活用品が展示されており、その一部に絵画と彫刻が混じっていることである。そのすべてを解説する知識が、私に無いため、絵画のみの解説にした。私に能力があれば、家具類、服飾類も解説したいと思った。また絵画も19世紀末頃の知名度の高い画家に限定した、これも私の能力不足が原因であることを、最初にお断りしておく。

愛 グスタフ・クリムト作  油彩・カンヴァス 1895年

この作品は、グスタフ・クリムトが1895年に描いた「愛」の寓意画である。これはウイーンの有名な出版社ゲルラハ&シエンク社が発行した絵画制作のためのアイディア集「アレゴリー:新連作」のために描かれた。この図案集には多くの素描が掲載されたが、一方で油彩は数点しかなく、本作品は、有名な「接吻」(1908~09年)の初期ヴァージョンに位置付けられる。背後に見える不気味な姿は、恐らく運命の擬人像達として解釈できるが、併せて過去と未来の光景としても読み解くことが出来るだろう。若いカップルの幸福に満ちた愛に対して、苦々しい警告か、裕津さを与えている。画面を三分割する手法は、クリムトの初期の作品のも現れるが、金箔表現の巧みな表現は、これほど早い段階で、すでにクリムトが日本美術に関心を寄せていたことが分る。ジャポニズムの浸透である。

バラス・アテナ グスタフ・クリムト作 油彩・カンヴァス 1898年

1898年、分離派会館の開館にあわせた展覧会で発表するために、グスタフ・クリムトは、戦闘態勢にあるポーズを取ったバラス・アテナの油彩画を制作した。アテナが身に着けいる金属製の胸当ては、見ている人をあざ笑い舌を出すメドゥーサの顔になっている。これは明らかに分離派を批判する人々に向けられた反論だろう。女神は右手に小さな女性像を握っている。もし伝統的なハラス・アテナの像ならば、この小さな像は翼を持った勝利の女神の女神ニケアと同定できるのだが、本作品に描かれている、この小像は、見る者に鏡を向ける裸のスータ・ヴェルタス、つまり「裸の真実」である。背後には、海の怪物トリトン(反動的な保守主義者)と戦っているヘラクレス(新しい芸術の象徴)がいる。つまりクリムトの「ハラス・アテナ」は、分離派の哲学的寓意を描いたものとして解釈できる。

黄色いドレスの女(画家の妻)マクシミリアン・クルツヴァイル作 1899年

ウイーン分離派の創設者の一人であるマクシミリアン・クルツヴィルは、1895年に結婚したフランス人妻を、伝統にとらわれない方法で描いた。歯ながらのソフアーの背面に腕を伸ばした彼女は、エレガントなイヴニングドレスを身にまとい、自身に満ち溢れ、そして少々扇情的なポーズを取っている。明るい肌と黄金のような黄色いドレスは、青や緑など補色の模様が散りばめられたソフアーの前で際立っており、彼女自身が光り輝いているような印象を与える。彼女は冷笑を浮かべて鑑賞者を挑発するようかのようであり、わずかに首をかしげ、画面が持つ厳密な左右対称性を崩してしまう。

朝食をとる母と子 油彩・カンヴァス カール・モル作 1903年

カール・モルはウイン分離派の創設メンバーの一人で、初代副会長を勤めた人物である。本作品の中でモデルは、自身のプライベートの様子を鑑賞者に垣間見せた。本作では、画家の妻アンアと娘マリーが一緒に朝食をとる様子が描かれており、これと似たような作品をモルは複数描いている。

エミーリェ・フレーゲの肖像 グスタム・クリムト作  油彩・カンヴァス    1902年

クリムトの「エミーリェ・フレーゲルの肖像」は、ウイーン・ミュージアムが所蔵する作品の中で最も有名貴重な絵画の一つである。ここにお描かれているのは、等身大のエミーリェ・フレーゲだ。彼女は恐らくクリムトの人生で一番重要な女性だったと言ってよい。そんな彼女が、まるで泥のようなぼんやりとした色を背景に、顔や手、そしてデコツテだけが浮かび上がるように描かれている。写実的に描かれた顔とは対照的に、体全体、そして頭や肩のまわりを、まるでオーラのように抽象的な装飾が覆っている。フレーゲが着ているドレスを、研究者たちはたいてい「改良服(リフォーム・ドレス)として解釈しているが、しかしこのドレスは異例である。ドレスがぴったりと体に張り付くので、臀部のかたちがはっきろちわかる。肖像画としては細すぎるフォーマットと、二つの落款のような四角い署名を見たならば、日本美術がクリムト作品に影響を及ぼしたことがよくわかるだろう。

自画像 エゴン・シーレ作 油彩・板          1911年

エゴン・シーレ(1890~1818)はグスタム・クリムトを称賛してやまなkったが、彼自身は、すでにクリムトら先駆者たちとは全く違ったスタイルや要素を操る、新しい世代の芸術家であった。この表現主義的な自画像は、1911年、ボヘミアのクルマウを去り、新たな住居を構えたニーダーーエスターライヒ州のノイレンバッハで、シーレが描いたものである。若い画家は恐らく自己肯定感を得るために田舎に引っ越したのであろう。この自画像では自身の姿を横長画面の左側に描いている。シーレは自分の頭を右肩の方へわずかに傾け、左手の指を暗色で覆われた上半身の前で広げている。彼の背後にあるのは、枯れ木を描いた絵画や、クルマウの町を描いた作品など、おそらく彼自身の手による作品であろう。シーレは1907年、ウイーンのミートケア画廊で開催されたゴーギャンの作品を見て、インスピレーションを得たのであろう。いずれにしても、象徴主義の伝統からも影響を受けていると解釈できる。こうした手法により、彼自身が思い抱く自分に対する考えを、あるいは同時代の社会に対する考えを反映させながら、双面神ヤヌスの顔として自分自身を描いたのだ。

ノイレングバッハ画家の部屋 油彩・板  エゴン・シーレ作  1911年

1911年秋、シーレは小さな家にある自分の部屋を描いた。シーレはボヘミアのクルマウから戻ったあと、ノイレングバッハの郊外にあるこの家を借りていたのである。この小さなフォーマットの作品が、フィンセント・ファン・ゴュホの「アルルの寝室」と較べられることが多いというのは驚くことでは無いだろう。シーレ自身、ゴッホに対して親近感を抱いており、ゴッホが死んだ年に自分が生まれたのだと、繰り返し語っていた。1909年に開催された国際美術展クンストシャウ、シーレは、カール・ライニングハウス・コレクションの小さな展示室にあった「アルルの寝室」(1889年・シカゴ美術館)を見ることが出来た。シーレの本作品の特徴の一つは、サインが三回繰り返されている点である。この絵が完成するやいなや、アルトゥーレ・レスラーは」すぐさま本作品を入手した。このほか多くのシーレの作品とともに、レスラーの遺産の一つとしてウイーン・ミュージアムの所蔵となったのである。

ひまわり  油彩・カンヴァス エゴン・シーレ作  1909~10年

1909~10年に描かれたこの「ひまわり」を見ると、若い頃のシーレがどのように自然に対してアプローチしていたか、その姿勢がよくわかる。萎れた葉が茎から垂れ下がる様子は、まるで疲れた手足のようだ。乾ききった花はわずかに傾き、疲れてうなだれるた様子を思い起させるだろう。特徴的な画面形式は、当時の流行を反映させたものだと考えられる。縦長のフォーマットは、世紀末ウイーンのブック・アートに見られる欄外装飾のようであり、あわせて当時人気を博していた日本美術のイミテーションを思い出させる。ひまわりというモチーフは恐らく画家フィンセント・ファン・ゴッホからインスピレーションを受けたのであろう。シーレはゴッホの作品をウイーン国際美術展クンストショウで間違いなく見ていたはずだ。また同時に、ほまわりは1900年頃のウイーン芸術界で人気のモチーフだった。

美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作 油彩・カンヴァス1910年

この肖像画は、若き芸術家シーレとそのパトロンの長年に亘る親密な関係性を記録した点で、重要な作品である。目を閉じたレスラーの顔は左を向いているが、上半身は鑑賞者の方を向いているが、両手の指は広げられ、それぞれ反対方向に向けられている。右足は画面の左端まで広げられている。こうした対照的な動きによって、鑑賞者の視線は、白い淡いピンク色の背景から浮かび上がる人物像の上にジグザグをたどってゆくのである。右肩のすぐ近くに書き込まれた「s。10」という文字が目を引くが、これは画家のイニシアルと年紀である。この作品は世紀末ウイーンの装飾性豊かなデザインをはっきりと拒否した、革新的な性格を持つ。描かれている人物の心の状態に光を当てた本作品は、心理学的解釈を示した最初期の例の一つであり、あわせて、シーレがオーストリア表現主義に手を染めた最初の作品である。

イーダ・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作  油彩・板  1912年

この絵の描かれた1912年には、エゴン・シーレは未成年者誘拐と公然猥褻の容疑で逮捕・勾留されている。世紀末の大画家として紹介しようとしたところ、飛んでもない疑惑で逮捕された。「イーダー・レスラーの肖像」は、肖像画の構想段階に当たる作品で、完成作ではない。

 

ウイーン万博は1873年に開催されている。明治政府は、初めて国をあ揚げて参加し、この展示品は観客たちを魅了したと伝えられている。その前から、ジャポニズムが西洋世界に大きな影響を与えていた。一番影響を受けたのはゴッホかも知れない。世紀末ウイーンの画家達(グスタム・クリムト、エゴン・シーレ等)にも多大な影響を与えたことが、この展覧会の作品を通しても理解できる。

 

(本稿は、図録「ウイーン・モダーンクリムト・シーレの世紀末への2019年」、図録「クリムト展 ウイーンと日本展   1919年を参照した)

美を紡ぐ  日本美術の名品(3)

[美を紡ぐ  日本美術の名品(3)」は、本稿をもって終わりとする。江戸時代から昭和までの明作を綴る。一度、取り上げた作品もあるが、日本美術の粋として選ばれているので、我慢して読んで頂きたい。勿論、大半が、初めての収録である。

虎図  一幅 谷文晁作 絹本着色  江戸時代(18^19世紀)三の丸尚蔵館

多彩な画題、画風を学び、多くの絵師をはじめとして、さまざまな分野の文芸人と交流した谷文晁(1763~1841)が、西欧から渡来したヨンストン「動物図譜」の指図の模写や、伝統的な水飲虎の図様をヒントに描いたもの。近代絵画の萌芽を感じさせる。

花鳥版画「牡丹に蝶」「紫陽花に燕」葛飾北斎2枚 錦絵 江戸時代(19世紀)東京国立博物館

「牡丹に蝶」

「紫陽花に燕」

葛飾北斎による花鳥画の代表作で、「富岳三十六景」と同時期に同じ版元の西村屋与八から出版された十図のシリーズである。「牡丹に蝶」では墨を面的に使って筆線に強弱をつけるなど、各図の描き方を変える意欲的な試みがなされている。北斎70歳代前半の作品。

玄圃瑶華(げんぽようか) 伊藤若冲自画・自刻 江戸時代・明和5年(1768)東京国立博物館

「壇特・華鬘草」(だんとく・けまんそう)

「花菖蒲・棕櫚」(はなしょうぶ・しゅろ)

「玄圃瑶華」の「玄圃」は仙人の居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を充着させ、拓本と同じようにその上から墨を打つて形を出す。若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。なお、初収と思い思い、「生誕300年記念 若冲」の図録を調べたところ、図録の148,185ページに発見した。地味な作品であるから見逃したのであろう。しかし、自画・自刻は珍しい。見たことも、聞いたこともない。流石に若冲の「奇想振り」である。

「玄圃」(げんぽ)は仙人に居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を密着させ、拓本と同じようにその上から墨を打って形を出す、若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。

「舞子」 黒田清輝作  カンヴァス・油彩 明治26年 東京国立博物館

明治26年夏、9年に及ぶフランス留学から帰国した黒田清輝(1866~1924)は、その秋に京都を訪れた際に舞妓を新鮮に思いスケッチをとり、本図を絵が描いた。鴨川を背に座る舞妓は、京都祇園の小野亭という茶屋の「小えん」を、隣は「女中のまめどん」をそれぞれモデルにしたという。黒田は、外交派と呼ばれた明るい画風を日本の洋画界に紹介し、明治43年(1910)には洋画家として最初の帝室技芸員に任命された。もし、黒田が本は本格的に印象派を学んできたならば、日本の洋画の世界も変わったのではないかと思う。如何であろうか。黒田の日本洋画界に及ぼした影響は、図り知れないものがる。

「雩性(うせい)」一幅 絹本着色 竹内栖鳳筆 大正13年 三の丸尚蔵館

古木の柳で白鷺が羽をつくろい、上部の枝では雀が喧しくさえずっている。丸山四条派の写実的な画風がに西洋画の描法や空間表現を取り入れた竹内栖鳳(1864~1942)の特徴がうかがえる作品。「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ京都画壇の中心として活躍した栖鳳は、皇室の御用も多く手掛けた。

秋茄子 絹本着色 西村五雲筆 昭和7年(1932)  三の丸尚蔵館

昭和7年の第13回帝展にて宮内省お買い上げとなった西村五雲(1877~1932)の代表作である。五雲は師である竹内栖鳳ゆずりの温雅な動物絵に定評があり、そこには徹底した観察眼が根底にあった。制作にあたり名古屋動物園に足を運ぶだけではなく、山奥まで野生の狐を探し、ついには自宅の庭に狐を飼い写生を繰り返した。

重文 色絵若松図茶壷 仁清作 江戸時代(17世紀)  文化庁

仁清は丹波(現兵庫県の一部)出身の陶工である。性を野々村、名を仁清といい、洛西御室の仁和寺前に窯を開いた。江戸前期に活躍した京焼の大成者として名高い。この茶壷は、小型の肩衝茶入の形態を拡大して茶壷にし、四方の肩に耳を付したもので、仁清独特の器形をしている。底は、平底とし、銅部は薄く焼き上げられて均整のとれた姿を呈しており、卓越した轆轤技術が遺憾なく発揮されている。さらに、細く緩やかな曲線は、総体に嫋やかで瀟洒な印象を醸している。地には仁清黒と呼ばれる独特の光沢を発する黒漆が掛けられており、下方の土膚は土埕に見立て、金泥で遠景の山並みを表し、赤、緑、金泥、銀泥を用いた若松、椿、桜などの花弁を組み合わせた吉祥の図様がリズミカルに配置されている。深い漆黒地に色絵によるミチーフが鮮やかによく映えた本作は、仁清色絵陶器の代表作の一つとして、評価が高い。

重文 色絵牡丹図水差  仁清作  江戸時代(17世紀) 東京国立博物館

17世紀前半に京都の仁和寺の門前で御室窯を開き、京焼における色絵の大成者として知られる野々村仁清(生没年不詳)の代表作の一つである。明治41年(1908年)に明治天皇の皇后により、東京国立博物館の前身である帝室博物館に御下付された。

 

「美を紡ぐ  日本美術の名品」を3回に亘り連載した。いずれも宮中となにかの形で縁のあった作家か、作品である。何れも名品であり、二度と見れないものが多数展示された。皇室の代替わりか、20周年記念などでない限り、二度と見れない名品揃いであった。改めて、「令和」の代が、人々にとって良き時代になることを祈りたい。

(本稿は、図録「美を紡ぐ 日本美術の名品  2019年」、「生誕300年記念 若冲  2016年」、図録「生誕150年黒田清輝  2016年」田中栄道「日本美術全史」、小林忠「日本水墨全史」を参照した)