遊びの流儀ー遊楽図の系譜(2)

わが国近世の「遊楽図」を見渡すと、画中びは共通して描かれる当時の特徴的な風俗がいくつも見出せる。一つは三味線という楽器の存在であり、野外や邸内を問わず、三味線が奏でるリズムの旋律が、人々の遊び楽しむ場に響いていることがうかがえる。二番目にファッションへの関心が高さが挙げられる。「遊楽図」に登場する男女の髪型や小袖の意匠の描写からは、時代の流行の最先端を意識した彼らの心映えを感じ取ることが出来る。第三に舞踊は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」を見応えのあるものにしている。そして当時、男女の間で交わされる手紙は、「文使い」と呼ばれる若い禿などが取り持ったが、手紙のやり取りもまた、遊楽の場には欠かせない心惹かれる場面として描かれている。これらの遊楽図に繰り返し描かれる勝訴は、お互いに絡み合い、それぞれ比重を変えながら、「遊楽図」を一層豊かなものにしていく。やがて「誰が袖図屏風」や「舞踊図」へと展開し、いわゆる「寛文美人図」の流行から、浮世絵の誕生を促す素地を形成した。

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 京都市

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人づつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎のの舞台や遊郭における舞踊の人気、美人画愛好の機運の高まりを背景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」と呼ばれている。

重美 舞踊図 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) サントリー美術館

右扇

左扇

本来は屏風であったと思われるが、現在は一面ずつ額装となっている。舞妓の表情は画一的であるものの、注文主や画家の関心は衣装美の方にあったと見え、琴柱や鳳凰、孔雀、龍、蜻蛉、鶴といった吉祥紋様の描写には精緻を極めている。

誰が袖図屏風 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)根津美術館

右隻

左隻

江戸時代初期の17世紀前半から半ばに」かけて、今日では「誰が袖図屏風」の名で呼ばれる一群の作品が制作された。この屏風は、畳敷きの室内を背景とした作品で、余白を金地で埋めながらも、畳や敷居、障子などの建築の細部を描くことで、この空間が室内であることを強調する。両隻あわせて三つの衣桁は、大きさや材質、文様が異なり、そのそれぞれに、小袖や袴、帯、印籠、裂などが掛けられている。文机の上に置かれた硯箱の蓋は無造作に身に被せられており、蓋を開ける途中で立ち去った主人の存在を暗示するかのようである。この屏風は、いわゆる「誰が袖図」の図様に二人の女性を組み合わせたもので、他に類例がない。

重文 本田平八郎姿絵屏風 紙本着色 二曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

左隻

右隻

年若い遊女に、恰幅のいい若々しい侍が振り向く様子が描かれる。画面の周囲の表層にも葵文があしらわれていることから、古くから右扇の葵文の美女を千姫(徳川秀忠の娘)とみなし、右扇の若衆を本田平八郎(姫路藩主本田忠正の子息)とする伝承がある。当時の男女の文のやり取りは「文使い」と呼ばれる禿が取り持っていたが、この構図はまさしく両者が出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の「遊楽図」において主要なモチーフとして繰り返し描かれた。近世初期の「遊楽図」の中でも傑作として名高い。

重文 湯女図 紙本着色 一幅 江戸時代(17世紀) 大阪・寂光寺

この図はけっして原画ではあるまい。多分原画から何度目かの写しだろうと辻暢雄氏は推測している。この図の女たちの「デロリ」とした不思議な実態感、肉体の存在感はどこから来るのか。「沐」という湯女の記号が文様の意匠をつけた女の尻の張り、大きな桜の紋様をつけた小袖に懐手をし、(”空歌うたひ、うそぶひぇて」ーまるで「廻国道之記」闊歩する番長役の女)ーまるで彼女らがタイムスリップして現代の我々の眼前を通り過ぎていくようではないか。辻氏は、この画家は又氷と推測している。面白い意見であると思う。

国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)大和文化会館

右隻

左隻

「松浦屏風」と呼ばれるこの屏風の名称は長崎県・平戸の大名 松平家所蔵であったことによる。しかし、松浦家の記録では、この屏風はその制作年代と考えられてきた近世初期に平戸にあっちゃのではなく、松浦家34世の活(号は静山1760~1842)が京都で入手したものであり、当時は岩佐又兵衛作とされていたという。総金地を背景とする大画面に、十八人の婦女を立たせり座らせたたりなど変化をつけて配列している。こうした等身大に近い人物群像の描写は、他の日本の風俗画には類例がない。

舞妓図 一幅  紙本着色  江戸時代(17世紀) 大和文華館

島田髷をはね元結で根結わいにして、大胆な花模様の小袖を纏う女性の舞姿である。本作のように、背景を省略した画面の中に一人の女性の立姿や舞姿を描いた作品は、江戸時代初期の正保から寛文年間(1644~1673)に盛んに描かれた。こうした作品群は今日、「寛文美人図」と総称されている。左足を前に踏み出して腰をひねり、扇を内側に返しながら右手を掲げ、袖口をつまんだ左手を斜め下へ張る。扇と同じ方向へ顔を傾け、左の袖崎へと視線を落とすという、一連の流れるような動作を無駄のない輪郭線によって巧みに描写している。

扇舞図 紙本着色 一幅  江戸時代(17世紀) 千葉市美術館

唐輪髷に結った女性が舞う姿を描く。正保から寛文年間(1644~1673)頃に流行したいわゆる「寛文美人図」に中でも、舞扇をする一人立ちの美人を描いた掛け軸は、複数の女性の舞姿を各扇に一人ずつ描いた「舞踊図屏風」のような先例を母体として成立したと考えられている。こうした舞姿の「寛文美人図」には、当時の人々の舞に対する興味とともに、最新のファッションに対する関心がうかがえる。女性が舞う白地の小袖は、全体に小花模様を散らし、腰と裾に松皮菱形を、両肩と裾に大きな円模様を配し、両肩と裾に大きな円模様を配し、鹿の子絞りを多用する。こうした動きのある大胆な構図や奇抜な模様には、寛文年間(1661~1673)に女性の間で流行した「寛文小袖」の特徴が表れている。

 

本稿では、「遊楽図屏風」「舞踊図」など、17世紀の江戸時代に流行した屏風絵、扇舞図などを紹介した。非常に、繊細で、流行に敏感な江戸時代の人々の気分がよく出ている美術品であった。都市商人、庶民の間には浮世絵が、高級武士層、支配階級層には「優渥図屏風」という形で、当時の最新のファッションが採用されていった様子が良く理解できる展覧会であった。もう一歩で「浮世絵」という時代背景であった。

 

(本稿は、図録「遊びの流儀、遊楽図の系譜  2019年」、図録「寛永の雅 2018年」、辻暢雄「岩佐又兵衛 浮世絵を作った男の謎」、元色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)

遊びの流儀  遊楽図の系譜(1)

遊びは人類にとって普遍的な行為である。誰でも、生活の中に遊びを取り入れものである。絵画の題材としては、古くもあり、新しくもあるテーマである。中国文化における「琴棋書画」(きんきしょが)は君子のたしなみとして尊重されて、日本文化における一つの規範となり、中世以降は襖絵や屏風の画題として好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして受け継がれていたことがうかがえる。桃山時代に流行を見せた「野外遊楽図」や、遊興施設や遊離を背景とする「邸内遊楽図」は、当時の幅広く奥深い遊びの世界を丹念に再現している。本稿では、特に近世初期の貴重な「遊楽図」を中心にまとめてみた。

重文 琴棋書画図屏風 六曲一双 海北友松作 桃山時代(17世紀)京都・妙心寺

右隻

左隻

海北友松(1538~1615)は桃山画壇を代表する武人画家である。本作は友松の最晩年の優品であり、金地に濃彩と水墨を巧みに融合させた画風は、画業の完成期を示すものとして評価されている。友松は生涯に「琴棋書画図」をいくつか描いており、得意の画題であったようだ。本作では右隻に衝立(画)、琴、碁盤を、左隻に書(高士と童子が持つ掛け軸、高士が差し出す書状、机上に置かれた書物)を拝する。注目すべきは、右隻の高士らの表情である。画面中央、白い衣の高士は、碁盤の上に琴を置き、さらにその上に肘をついて眠りこけている。これと対峙する橙色の衣の高士や童子もまた熟睡している。彼らを見つめる樹下の高士たちは、あっけにとられているように見える。室町時代以来、「琴棋書画図」は中国の文人たちが営む高雅で理想的な生活の象徴として、憧憬の念を込めて数多く描かれた。そうした中にあって、友松最晩年の本作は高士の人間臭い一面を露わにしたという意味で、極めて特異な存在と位置付けらられている。

重文 遊楽図屏風(相応寺屏風)紙本金地着色  八曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

右隻

左隻

八曲一双の両隻にわたり、野外から邸内に向けて人々がありとあらゆる遊楽に打ち興じ、太平の世を満喫する様が繰り広げられる。きわめて精緻な人物描写もさることながら、様々な遊楽を破綻なくまとめた構成力、見る者を引き込む細密描写とにより、本図は近世初期に描かれた邸内遊楽図の中でも最も初発的な作品と位置付けられている。本図は、尾張徳川家初代義直が母お亀の方(相応院・家康側室)の追福のために建立した相応寺の伝来したことから、かっては相応院の遺愛品とされてきたが、記録としては三代綱誠の十九男松平通温(1696~1730)の遺愛品として寺に納められたことが判明している。このような遊楽図は、高級商人の遺愛品と思い込んでいた私には、最高級の武士階級の愛用品と知り、意外でもあり、遊楽図のような高額な屏風は、最高級の武士層でないと、購入できなかった次第も分かった。八曲一双であるが、高さは126・1センチでとどまり、やはり私的な空間での親密な鑑賞にふさわしい画面と言えよう。しかしながら遊楽の諸要素をただならぬ密度で細部もゆるがせにせず描き込む態度と、これを破綻なく画面にまとめ上げる力量は卓抜であり、しかるべき注文主の要望に応えてみせたしかるべき力量の絵師の存在が想定される。いずれにしても近世初期の遊楽図を代表する記念碑的作例と言えよう。

重文 四条河原遊楽図屏風 五巻のうち四巻 江戸時代(17世紀)阪急文化財団

右隻

左隻

近世に入って、京都四条河原は一大歓楽地となった。その往時のにぎわいを活写した名品が「四条河原遊楽図屏風」であり、本屏風の他にも、二曲一隻の屏風(個人蔵)が極めて近い関係の作例として知られる。この屏風は二曲一双の中央部分に水量豊かな鴨川の流れを描く、。左右両岸には様々な娯楽施設が臨時に立ち並び、右上と左上に描かれた遊女歌舞伎の芝居小屋が目を日引く。歌舞伎の歴史を物語る上でも貴重な絵画資料となっている。さらに右隻には「犬の曲芸」や「山嵐の見世物」、左隻には「矢場」を描くなど都市ならではの娯楽が目白押しであり、これを目当てに集まった群衆の熱気が観る者にも直に伝わる臨場感あふれる描写は圧巻である。また中央左の河原では夏の鴨川で水浴びをし、胡瓜やところてんを食べる人々も描かれており、気持ちよげな人物描写が各所に散りばめられている。多分、最初にこの屏風を買い取った人は、京都の豪商であろうと思う。武士階級も、こぞって遊楽図屏風を求めた裕福な次代が来たのであろう。

かるた遊び 紙本金地着色 一幅 江戸時代(17世紀)立命館アート・リサーチ・センター

国宝「彦根風俗図屏風」の登場人物のイメージを受け継ぎなら、別の主題への転換が図られている作例で、画面に漂うけだるい雰囲気は両者に共通するものである。後世の書入れと判断されているが、人物に書き添えられた名前のうち、「吉野」「小藤」「野風」は、いずれも六条三筋町に実在した遊女の名前という。カルタ遊びに興じる場面は、主要な遊楽図に頻出する。中でもこの作例は、手持ちのカルタで口元を隠す仕草が遊興の場にふさわしく表情がゆたかである。それぞれの視線が交錯する様子など、カルタ遊びに興じる時間の流れが臨場感をもって再現されている。この絵の持ち主は、多分高級商人層であったろう。

桜花弾玄図屏風 二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 出光美術館

満開の桜の木の下に、屏風を立てめぐらせた畳の座敷が見え、三味線を奏でる女性を描く。この横には手紙を手にして読む様子の女性が描かれ、左には金色の長い煙管を手にした女性を描く。「三味線」「煙草」「文使い」という江戸前期の「遊楽図」の定番ともいうべき諸要素が、三つ巴のような構図で描かれる。傍らには墨を揃え、墨を摺る少女や、三味線箱を開ける少女が描かれる。女性たちの姿は、いわゆる又兵衛風であり、白塗りの面貌にはほのかま紅が施されている。着物の柄や桜の樹木や花弁の描写も緻密であり、細部にわたり描写に隙がない。二曲一双の画面の中で野外と邸内を金雲によって巧みに連続させており、女性たちのゆるやかに交錯する視線も、群像表現として卓抜である。やはり上流商人層の好みであろうか?

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)京都市

右隻

左隻

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて、総金地の屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人ずつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎や遊郭における舞踊の人気、美人愛好の機運の高まりを拝景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」あるいは「舞踊図屏風」と呼ばれている。サントリー美術館、個人蔵等の作品が知られている。六曲一双形式の京都本は、製作当初の姿を伝える勇逸の作例として貴重である。衣装美はやや控えめながら、舞妓の表情には個性的な要素が残っており、各人を描き分けとする画家の意思がうかがえる。

 

主として野外遊楽図と邸内遊楽図を中心にまとめてみたが、愛好相は、最高級の武士層から裕福な商人層が浮かびあがってきた。浮世絵が庶民の楽しみとすれば、遊楽図は高級武士層、高級商人層が想定される。江戸時代の比較的初期に、かくも大胆な遊楽図が愛好されたのかと驚く。それほど平和な次代であったのであろう。江戸時代の歴史を見直すような気分にされた。

(本稿は、図録「遊びの流儀ー遊楽図の系譜  2019年」、原色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)

奈良大和四寺のみほとけ(2)

室生寺については、この「美」で、過去に2回取り上げている。それほど思いで深いお寺である。大学2年生の5月の連休の後に、K君(法学部)と共に室生寺を訪れた。この時は駅から6キロの道のりを、バスに頼らず、近鉄室生寺駅から歩いて参詣した。それは途中で大野寺の摩崖仏が見られ、自然の大岩壁に光背を彫りくぼめて内部を平らにして、その平滑な面に線彫りでえ弥勒の尊像を彫り付けたものである。岩に刻み込んだ人間の悲願の大きさと深さが、伺い知ることができた。像とともに刻み込んだ尊勝曼荼羅がその信仰の結晶のように見えるのである。この大野寺の摩崖仏を、ゆっくりと見学するために、あえてバスを利用せず、6キロの山道をわざわざ歩いてきたのである。時刻は夕方に近く、室生寺にたどり着いた時は、夕方のややうす暗い時刻であった。当然、室生寺のは閉門しており、私たちは、お寺の門前にある「橋本屋」と呼ぶ宿に1泊した。夜遅くなったのは、多分奈良の薬師寺や唐招提寺などを巡った後になったのであろう。翌朝、橋本屋を後にして、待望の室生寺にお詣りした。お寺の門前に「女人高野山」の大きな石塔があったことが記憶に新しい。丁度、石楠花(しゃくなげ)が一面に咲き、実に美しいお寺であったのが強く印象に残っている。

国宝  五重塔  木造・五重     平安時代(延暦年間782~806)?

五重塔は、室生寺の建物の中で一番古い建物である。奈良時代との説もあるが、やはり平安時代と見るのが妥当だろう。この塔は、室生寺の中で最も人々に愛され、親しまれている建物である。しかし、この五重塔の建立に関する記録はなく、奈良から平安時代初期の建築で年代的に基準となる作例に乏しく当塔が一般建築物とはかなり異なる存在であり、様式的にも創建年代を確定することは困難であるが、私は平安時代8世紀頃の建築物だろと見ている。屋外に立つ五重塔としいては最も小さい総高16.1メートルの塔で、奈良時代に一般的であった十六丈級の五重塔の三分の大きさである。現実的には、可憐で優雅に見える。石楠花の咲く5月には素晴らしく可憐な塔である。平成10年9月の台風で、大きな被害を受け、全国から浄財が集まった。

重文  弥勒堂    木造・杉製          鎌倉時代

よろい坂を上り詰めた右側に立つ、方3間の建物が弥勒堂である。入母屋造り、杮葺き、方3間の建物である。鎌倉時代の建物であるが、江戸時代に大修理が行われている。

国宝  釈迦如来坐像  木造・彩色   平安時代(9世紀)

全体像が二等辺三角形の枠内に収めた、極めて安定感に富む仏像である。平安初期の一木彫刻特徴が顕著である。また木彫の特色である、衣文線の鋭く流麗な彫においても、遺憾なく魅力を発揮している。造像年代は9世紀半ばと思われる。彩色は殆ど落ちて、ところどころに胡粉地が残っている。カヤの竪(たて)一材より彫成し、背面に背刳りを施す。脚部は横木一財を用いる。極めて男性的な釈迦如来坐像である。本像は、興福寺の僧賢驍が室生寺を創建した当時の本尊だった可能性がある。

国宝  本堂(金堂)  木材・杉材   平安時代(貞勘9年頃ー867)創建

鎧坂の上第二段目の台地上、前が二段に落ち込む地形に立つのが本堂(金堂)である。古くは{根本動}「薬師堂」と呼ばれていたが、江戸時代に真言宗になって以来は「金堂」と呼ばれている。この堂は創建以来、天承元年(1131)を初めとして鎌倉、江戸時代など数回にわたる修理が施され外観、構造共に創建当初から大きく変わっている。本堂の今一つの特徴は、奈良時代以降寺院の主要伽藍堂宇はすべて檜材を用いているが、当堂の用材は杉が用いられている。あえて杉材を用いたのは、当地での調達が極めて容易であったことと、山林修行を旨とする興福寺奥の院としての性格に由来するものではないだろうか。

金堂の諸尊  国宝・重文が多い。

金堂母屋に設けられた須弥壇には、現在中央に国宝・釈迦如来立像、向かって右に薬師如来立像(重文)と地蔵菩薩立像(重文)、向かって左に文殊菩薩立像(重文)と十一面観音菩薩立像(国宝)の五体が祀られている。前方には鎌倉時代の小ぶりな十二神将立像(重文)が祀られている。大ぶりの五尊はそれぞれ作風にやや違いがあり、同時一具の作とは考えにくい。なお、今回はすべて、この展覧会に出品されているわけではないので、これ以上の推測は辞めておきたい。

国宝  十一面観音菩薩立像   木造・彩色  平安時代(9~10世紀)

本堂の,向かって一番左側の仏像である。金堂には、柱三間の須弥壇上に、高さ2メートル超の薬師如来(現在は釈迦如来として信仰されている)を中心にその左右に四軀の像が並ぶ。この像は、室生三本松に所在する地蔵菩薩立像と共に、中尊の薬師如来の脇侍として、9世紀後半に造られたものと見られる。さざなみのように細戦で刻まれる衣文線が美しく、ふっくらとした頬と見開いた小さな眼が、観音の慈悲を表しているかのようである。私は、室生寺の諸尊の中で、一番美しい仏像であると、かねて思っていた。

重文   地蔵菩薩立像、   木造・彩色  平安時代(10世紀)

本像は、本来の安置佛だった室生三本松の地蔵菩薩立像が寺外に出たあと、他堂から移された。本像の光背は、本来は、この寺外に出た三本松の像のもので、中尊の光背と同じ作風を持つ。唐草などを域彫や透彫とする通例の光背と異なり、板に彩色で文様を描く板光背で、南都文化圏に特有のものである。外延部にあらわされた唐草文の先端はひるがえって火炎となり、その躍動感は見事というほかはない。

安倍文殊院(崇敬寺)

山田道から飛鳥への入口は安倍氏の根拠地である。ここに安倍梯麻呂(はしまろ)の建立と伝わる法隆寺式大伽藍の安倍文殊寺院跡が埋まっている。中世、阿部氏は東北200メートルの安倍山にある阿部氏にかかわりのある古墳群に接して現在地に移築し、文殊院となった。本尊である文殊菩薩像(国宝)は、総高7メートルを超える日本三大文殊の一つで、文殊菩薩が眷属を従えて海を渡る「渡海文殊」として信仰される。

国宝  文殊菩薩像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等 紙本墨書鎌倉時代(承久2年ー1220)

安倍文殊院の本尊である文殊菩薩五尊像の納入品である。奥書に、慧敏が発願した九尺の文殊像に収めるため明編(みょうへん)が承久2年(1220)に執筆した旨が記される。奈良東大寺の僧であったことから、阿部文殊院の前身は、東大寺を本寺とする崇敬寺の別所であったことから、文殊菩薩五尊像は東大寺や南都の文殊信仰にもとずいて造像されたと考えられる。

 

奈良大和四寺として岡寺、長谷寺、室生寺、阿部文殊院の四寺の仏像類を展示する展覧会であった。手寺された仏像類は15店で、内国宝4点、重要文化財9点という豪華な内容であった。小さいが、優れた展覧会であった。特に「図録」は860円と格安で、求める人が多かった。最近、「図録が売れない」という話を聞く機会が多いが、大冊で高い図録は買わない人が多いと思う。図録の有り様を見直す時期ではないだろうか。

(本稿は,図録「奈良大和四寺のみほとけ  2019年」、図録「室生寺の御仏たち  1999」、探訪日本の古寺第10巻「奈良1」、保育社「飛鳥路の寺」、保育社「室生路の寺」を参照した)

奈良大和四寺のみほとけ(1)

奈良東北部に所在する岡寺、室生寺、長谷寺、阿部文殊院の四寺(よじ)は、いずれも7~8世紀に創建された古刹で、極めて魅力に富んだ仏像を伝えている。卓越した造形と厚い信仰を物語るみほとけ展であり、是非拝観して頂きたい。日本の異称に「ヤマト」がある。この「ヤマト」とは、本来御神体としてあがめられた三輪山の西麓一帯の地名であった。すなわち、奈良盆地の東南部、現在の天理市南部にある大和神社から、卑弥呼の墓と目されている箸墓古墳を経て、磐余と呼ばれた天の香具山東麓地域を指す。このヤマトを拠点とした王が、古墳時代初期の4世紀初頭、列島の覇者となった倭王権(ヤマト政権)の誕生である。一地域を指すに過ぎなかったヤマトという言葉も次第に、今の奈良県のあたる大和国全体、ひいては日本国全体を意味するようになった。このヤマトに存在する安倍文殊院、岡寺、長谷寺、室生寺の四寺の仏像類を一堂に会し、展覧するのが今回の展覧会の目的である。それは日本仏教の歴史であり、日本文化の発祥の歴史でもある。

岡寺

今回の飛鳥地方、室生地方、長谷地方は私の大学時代の憧れの地であり、しばしば学友と共に歩いた古い記憶の中に生きている。今回展示された仏像類は、私に取っては、懐かしい古仏である。飛鳥ブームが起きる前までは、飛鳥を訪れる人々の多くは、むしろ岡寺が目当てであった。西国三十三所巡礼の第七番が岡寺、厄除け観音を拝み、その後次の第八番長谷寺へと歩を向けたのである。ところが現在は、その岡寺は孤立している。飛鳥めぐりのコースから外されることが少なくない。現在の観光客は、飛鳥の寺々ということと、飛鳥時代に眼が直結しがちである。飛鳥時代より約半世紀のち、白鳳時代の初めに天智天皇の願を受けて義淵僧正が創立した、という寺伝さえ、すでに岡寺は、新しいと見られる所以だろう。

重文    岡寺  仁王門  木造         桃山時代

岡寺は、今の飛鳥でもっとも寺観のととのった寺であり、他の飛鳥寺院とは、拝観の仕方も異なってくる。正面の仁王門は、飛鳥唯一の重要文化財の建物である。本瓦葺の屋根は変形ながら和風の入母屋、二階の垂木は中心から放射線状に流れる禅様の扇垂、建物の木鼻は鎌倉期からの天竺様、こうした三様を巧みに混用し、室町時代の古様をひく桃山建築はすこぶる興味深い。本尊は、塑像の如意輪観世音菩薩像。坐像である。丈六の大仏である。銅像は東大寺廬舎那仏、木造なら長谷寺十一面観世音菩薩とともに、わが国の三大仏である。

重文  菩薩半跏像   銅造 鍍勤   白鳳時代(8世紀)

岡寺本尊の体内から発見されたと伝えられ、岡寺の歴史に関わる遺品として貴重である。片脚を組み思案する姿の半跏思惟像は、日本では仏滅から五十六億七千万年後に現れる弥勒菩薩として信仰されることが多い。本像の体つきや衣文の表現は自然で、白鳳時代に制作されたとみられる。(尚、図録では奈良時代とされているが、私は昔の白鳳時代という時代区分が好きで、好みの時代区分と理解して頂きたい)

重文   天人文甎    土製          飛鳥時代(7世紀)

「塼」とは焼いて仕上げた煉瓦のことで、「塼」(せん)とも書く。室内を飾るため、寺院の壁などにはめて使用される。中央のひざまく人物は、その独特な装束や、手にする衣が浮遊することから、天人と思われる。三国時代に新羅に類品があり、大陸の影響で制作されたと見られる。

重文  釈迦涅槃像  木造、彩色     鎌倉時代(13世紀)

釈迦が涅槃に入る時の姿である。二本の沙羅双樹の間に整えた寝床の上に、体の右側を下にして横たわったという説話にもとずいている。こうした涅槃の姿は他は一般に絵画に表されることが多く、木造のような大型の彫刻作例は、日本では極めて珍しい。平安時代までは両手を体に沿って伸ばす形が主流だが、右手をまげて頭に添える形は鎌倉時代以降に多くなる。また整理された衣文線や抑揚のある体つきの表現などから、本像は鎌倉時代に制作されたものとみられる。

国宝  義淵僧正坐像  木心乾漆像  彩色  奈良時代(8世紀)

岡寺の開基、義淵(?~728)の肖像として伝来した、日本古代肖像彫刻の名作の一つである。顔に刻みこまれた皺や浮き出たあばらなどの老いた姿と、目尻の下がった大きな目や鼻筋の通った異国の表情が融合しており、中国で定型化した僧侶の理想的な姿とされる。本像も実在の人物ではなく、僧侶の尊崇を受けた仏弟子の賓頭盧尊者像として造られたと見られている。重量感のある体つきと深い皺は、長年修行を重ねてきた高僧の精神性を表しているかのようだ。

長谷寺

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬に所在する。この土地は、平安遷都以前の政治の中心地から伊勢神宮へと抜ける街道の要衝であり、「萬葉集」には「陰口(こもりく)の」という枕詞を冠した「初瀬」を読む歌が収められている。奈良時代前半に創建された長谷寺は、平安時代になると、しだいに朝廷からその霊験力が認められるようになった。有力な観音霊場として仁人気を博していた様は「源氏物語」や「枕草紙」などの文学に、「長谷詣で」が多く描写されることにもよく表れている。本尊は十メートルを超える十一面観音菩薩立像(重文)である。西国三十三所霊場の第八番札所でもある長谷寺は、今なお参詣者の絶えない観音霊場として名高い。

国宝  長谷寺本堂    木造        天平7年(735)

長谷寺の伽藍は天平7年(735)聖武天皇の世に、徳道上人によって上棟され、天平19年(747)に完成した。正に廬舎那仏の大仏鋳造が始まった年である。私は、長谷寺の階段状の伽藍が大好きで、三百九十九段あるという回廊の石段を上がり下りする回廊が大好きで牡丹の花が美しい寺である。

重文  難陀竜王立像  木造、彩色    鎌倉時代・正和5年(1316)

一般に雨乞いの本尊である難陀竜王は、長谷寺では本尊十一面観音立像の脇侍として安置され、春日明神と同体とされる。難陀竜王は竜を体に乗せた武将の姿であることが多いが、本像は「王」と書いた冠や衣服が中国の役人姿である点が珍しい。像内の銘文から制作年代と作者がわかる。舜慶以下八人もの仏師が造像にたずさわったのは5月2日に造像開始、13日に完成という短期間で完成させる必要があったためと思われる。

重文  赤精童子(雨宝童子)立像   室町時代・天文7年(1538)

雨宝童子とも呼ばれる雨を司る神。雨宝童子は天照大神と同体とされ、天照大神が伊勢に鎮座する時に長谷を取ったという伝承にもとずいて安置されたという。難陀竜王とともに本尊の脇侍である。髪型は童子の定型だが、衣服は女神像に近い。右手に宝棒、左手に寶珠を持つ。頭上に五輪塔戴くものもあるがこの像には無い。像内に安置された木札等に赤精童子と記されており、制作年代と作者がわかる。

重文  十一面観音菩薩立像  銅像・鍍金  鎌倉時代(13世紀)

本像の頭上面、両肩から先、天衣の垂下部、光背、台座は別鋳製とし、それぞれ本体に接合している。古代の金銅仏は全体を一度に鋳造するのが一般的だが、寄木造のように各部を別に造るのは鎌倉時代の銅像に多い。造形、鋳造技法ともに優れている。台座も岩座ではなく蓮華座である。かって付属していた文書によれば、護国寺の僧正決意が所持していたという。

十一面菩薩立像  木造、彩色          平安時代(12世紀)

住職の居所、慈眼院において、毎朝礼拝される像である。錫杖をと、岩座に立つ姿は、長谷寺本尊に特有の姿で「長谷寺様式十一面観音」と呼ばれる。右腕を垂下して錫杖をとるのが定型だが、本像は少し異なる。一木から両肘と両足までを造り、内繰りはない。穏やかな容貌と浅めの衣文は平安時代後期の特色を示す一方、胸腹部の抑揚に富む肉付き、内繰りのない一木造という構造は平安時代前期の要素である。

重文 地蔵菩薩立像  木造・彩色         平安時代(11世紀)

本像は、長谷寺の僧に変身して学生を誘って寺に入門させ、議論の席で問答したと伝えられ、論議地蔵と呼ばれる。長谷寺の学僧が特に信仰すべき像とされた。針葉樹(カヤ又はヒニキ材)の一木造で後頭部と背中から内繰り深く施す。両肩下がりから外側は別材で、左足先は後補である。一木造で背中から刳る構造、衣の襞に鋭さがある点に平安時代前期の名残はあるが、肉付きの薄い体に和様化の進行が見られ、十一世紀の作と考えられる。

阿弥陀如来立像  木造、漆箔   平安時代(12世紀)

来迎印を結ぶ、典型的な平安時代後期の定朝様の像である。定朝は平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像を造った仏師である。藤原道長、頼道など王朝文化をリードした貴族の求めに応じて、その好みにかなったいわゆる和様彫刻を完成させた。この像は正面中央で二材を矧ぐ。嘉永2年(1849)に寄進された。

(1)では、岡寺と長谷寺を取り上げた。恐らく岡寺を拝観した人は少ないと思うが、「天人文甎」は、誰でも見ているだろう。逆に、長谷寺は、大勢の人がお詣りしているはずである。しかし本尊の十一面観音像に惹かれ、他の仏像は殆ど記憶にないのではないだろうか。こういう展覧会があるお蔭で、お寺ごとの仏像に親しく触れることが出来た。また、奈良大和の巡礼の旅に出たい。

 

本稿は、図録「奈良大和四寺にみほとけ   2019年」、探訪日本の古寺第10巻「奈良一」、入江泰吉 大和古寺巡礼2巻「飛鳥・葛城古道」を参照した)