ゴッホ展(3) サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ時代 

ゴーガンがアルルに到着したのは1888年10月23日の早朝であった。ゴッホは日本人のように共同作業をするユートピアを夢見ていたが、ゴーガンはアルルに行くことで当面の生活費、製作費を確保し、そのうち絵が売れるようになれば、南太平洋に行こうと考えていた。しかし、個性の強い二人、理想を共有しない二人が、長く共同生活することは難しかった。芸術上の意見の不一致などが重なり、わずか2ケ月後に悲劇は起きた。いわゆる「耳切り事件」である。1888年12月23日の夜、ファン・ゴッホは自分の耳の一部を剃刀で切り取って、その耳をラシュエルという娼婦のもとに持っていき「これを大事に持っておいてくれ」と手渡したという。翌朝、ファン・ゴッホは自宅で瀕死の状態でいるところを警察に発見された。発作の引き金になったのは、ゴーガンがアルルを去る意思を伝えたことと思われる。何故こんなことをしたのかと医師に問われた時、ファン・ゴッホ自身は「それは個人的な事情だから」と言って明言を避けたという。「耳切り事件」に怯えたアルルの住民は、この危険なオランダ人画家を隔離するよう市長に嘆願書を出している。ファン・ゴッホはアルルの地を去り、サン=レミの療養院に入ることになった。ファン・ゴッホは約1年間このサンレミの療養院にいたが、病気は完治しない。病名については、統合失調症、てんかん、性病、アルコール中毒から緑内障、メニエール病まで、さまざまな診断がされたてきたが、今なお診断が分かれていて確定しない。サン=レミ時代の絵画には名画が多い。

サン=レミの療養院の庭 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミシュラー美術館

1889年5月にファン・ゴッホは自ら、サン=レミ郊外の精神療養院に入院する。この療養院はかってロマネスク様式の修道院だったところで、正式には「サン=ポール・ド・モーゾル精神科療養院」というサン=レミの街から南へ5kmほどの場所に位置していた。広大な敷地内には複数の建物があり、ファン・ゴッホが入院した頃には多くの空き部屋があったらしく、画家は自分の部屋以外にもアトリエとして一部屋を使うことができた。入院後数週間は病院を出ることは禁止されていたが、荒れ放題だった療養院の広い庭で描くことは許可されていた。左側にわずかに療養院の建物が描かれているが、その右側に大きな部分を占めている色取り取りの花が咲き誇る木々である。ファン・ゴッホはこの療養院の庭の、「ばら」という絵を松方コレクションに残している。

糸杉 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩/カンヴァス メトロポリタン美術館

サン=レミの療養院に移ると、アルル時代に描いていない糸杉が重要なモチーフとして登場するようになった。本作は1889年6月にサン=レミの療養院に入院してから比較的早い時期の作品である。エジプトのオベリスクのような美しい線と均衡を持つ糸杉に魅了されたファン・ゴッホは、糸杉が過去の西洋絵画にあまり描かれなかったことに気づき、数点の作品を描いている。縦長のカンヴァスに大きな糸杉を描いた本作とクララー=ミュラー美術館にある作品の他に「糸杉のある麦畑」(1889年、メトロポリタン美術館蔵)など横長い風景画もある。全体はうねるような強烈な厚塗りで描かれている。またこの作品のように空にしばしば月が登場する。この理由はわかっていない。本展覧会でも一番人気の作で、多くの人が集まっていた。記憶に残る作品であった。

蔦の絡まる幹 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館

蔦が描かれた一連の作品は、サン=レミ療養院の庭で制作された。最初は1889年5月の入院後間もなく、まだ外出できず療養院の庭で題材を探していた時期に描かれた。その後同年の夏にも同様のモチーフの作品群が描かれた。この時期の作品の特徴的なのは、木の上部の葉の部分や空を描かずに、下向きの視点からの根元と地面の描写に集中してことである。ファン・ゴッホが納得いく構図を完成させるために、特定のモチーフをおびただしい数の習作を描いており、蔦の描かれた作品群にも多数のヴァージョンがある。本作はファン・ゴッホ美術館所蔵のの、これより大きな構図の習作か、もしくはそのレプリカと考えられている。

夕暮れの松の木 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

画面を見ると何本かの枝は折れていて、枝や野原には薄く雪が積もっているようだ。中央や右上には太陽が描かれ、木の下の小道には傘を差して歩いていく女性が見える。この作品の色合いは、描かれた当時は極めて強烈だったと思われるが、時間を経て退色してしまい、現在ではだいぶ落ち着いていると思われる。この作品にはサインが入っているが、サン=レミ時代の作品でサインの入ったものは少ない。

オリーブを摘む人々 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

精神療養院に暮らす中で周囲の自然に題材を求めた時期、ファン・ゴッホは糸杉とオリーブの木の造形や佇まいに強く惹かれ、それらを何度も描いた。どちらも過去の中心的なモチーフとして扱われてきた例がほとんど無いことから、自分だけの主題として確立させようと考えた。またこの時期にゴーギャンとベルナールが聖書を主題ににした作品にオリーブ園の絵を制作している。光の加減で様々に雰囲気が変わるオリーヴを何かとらえようとしたのか、それぞれの絵は空の色とオリーブの木の色が異なりまったく違った印象を与える。空も樹木も地面もすべて短いタッチで緻密に並べて描いていることから、オリーヴ園に陣取りながら観察を重ね、慎重に筆を運んだ画家の姿が思い浮かぶようだ。顔料の分析から、前景に広がる青色がかっては赤色だったことが判明している。

薔薇 ファン・ゴッホ作 1890年 油彩・カンヴァス ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ファン・ゴッホはパリに出た1886年夏に30点以上もの静物画を描いている。これらは色彩研究の実践・研究するために補色を並置して描くのが特徴だった。1890年5月サン=レミでの退院の時期に体調が安定し、大量の作品を生み出した。その中には花の静物画も複数含まれ、やはり補色関係にある2色の隣に並べて色の鮮やかさを浮き上がらせていた。そのうちの2点は薔薇を描いたものだった。その1点、本作では、花瓶からあふれんばかりの薔薇は生き生きと描くことで、春の訪れや自然賛美、健康が回復したことへの喜びが率直に表現されているかのようだ。今日では退色し、赤と緑の色彩の対比は薄れているが、逆に力強い筆使いが目立っている。

ガシェ博士の肖像 ファン・ゴッホ作 1890年 エッチング ピエール・シアナダ財団

ポール=フェルデイナン・ガシェはオーヴェール=シュル=オワーズの住人で神経系の病気を専門とする医師だった。一方で美術愛好家として作品を収集していたことから、モネ、ピサロ、セザンヌら印象派の芸術家たちと知り合っていた。はじめはファン・ゴッホは博士を風変りで自分と同じような病を患ったに違いないと訝しんでいたが、たちまち仲良くなると彼の肖像画を油彩で2点描いている。ガシェ博士はエッチング用のプレス機を持っており、本作はそれで印刷されたものと考えられる。パイプを咥えてこちらを見る博士の眼差しはどこか焦点が定まっておらず、歪んだ輪郭や癖のある線遣いにも博士の独特な人物像が表されているようだ。この肖像画は何枚も試みられ、テオやゴーギャンに送られた。本作のように赤い油絵具を使うなど実験的な試みも行っている。

 

サン=レミの療養生活にも拘わらず、病気は良くならなかった。テオの勧めもあっ、ファン・ゴッホはついに南仏を後にし、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住んで、美術好きな精神科医ガシェ博士に診てもらうことになった。この地でファン・ゴッホは最晩年の2ケ月を過ごすことになった。発病以来、体の調子によって作品の質にバラツキはある。しかし、歳晩年の作品群、特に50センチ×1メートルの横長のカンヴァスに描かれた最後の作品群は、その十年間の画業と、37年間の戦いの掉尾を飾るに相応しいものである。1890年7月27日、ファン・ゴッホはみずから胸に銃弾を撃ち込んだ。翌日、パリからテオがかけつけたが、医師も銃弾を除く処置をできず、29日、ファン・ゴッホは息を引き取った。享年37歳、画家仲間から認められ始め、作品もすでに1点イ売れていた。あと5年も生き延びていれば、画家として自立し、自身の成功を目の当たりにすることができたかも知れない。

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、圀府寺 司「ゴッホ」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した。

ゴッホ展(2) パリ・アルル時代

1886年の2月末に、ファン・ゴッホは突然、アントウエルペンからパリに現れた。パリ駅に着くと、スケッチを切り取った紙切れに黒いクレヨンで走り書きをしたため,赤帽にテオのところに届けさせた。テオは6月に大きなアパルトマンに引っ越すのでそれまで待つように伝えていた。しかし、三ケ月を待ちきれなかった兄は、突然、なんの前触れもなくやって来てしまったのでる。走り書きを受けとったテオはお昼にルーブル美術館に急いだのだろう。こうして兄弟の2年にわたる同居生活が始まった。この二年間はファン・ゴッホの画業にとって、多くの刺激と、大きな変化に満ちた期間であり、近代絵画史上の需要な出来事に満ちた二年でもあった。残念なのは、この期間、ファン・ゴッホが弟テオと一緒に住んだために、ほとんど手紙を書く必要がなくなったことである。パリ時代は、ファン・ゴッホの絵画に様々な影響が流れ込み、彼がそれらを自分なりに消化した時代である。この二年間が無ければ、今日ファン・ゴッホの名は歴史上にすら残っていなかったかもしれない。ファン・ゴッホは、ゴーガンやロートレック、シニヤック、エミール・ベルナールらの画家と知り合いになり、印象派や、後にポスト印象派と呼ばれる画家たちの作品や理論に接することができた。この時期、印象派と並んでファン・ゴッホに大きな影響を与えたのが、日本の浮世絵である。ファン・ゴッホは画商ピングの屋根裏部屋で大量の浮世絵を研究し、浮世絵の展覧会も開いた。

パリの屋根 ファン・ゴツホ作 1886年 油彩・カンヴァス アイルランド・ナシヨナル・ギャラリー

この絵はパリ移住後間もなくテオのアパートから描いた街の眺めである。地平線が画面をほぼ二等分して、街の上に大きく広がる空と雲を強調している。こうした構図や茶色の空などの落ち着いた色遣いは、彼がパリに来た当初はまだオランダの写実主義の伝統に深く馴染んでいたことを物語っている。色も暗い。

花瓶の花 ファン・ゴッホ作 1886年 パリ 油彩・カンヴァス ハーグ美術館

1886年3月から6月まで、ファン・ゴッホはアカデミー画家フェルナンド・コルモンのアトリエに学んだ。アトリエを離れた後も人物画を描き続けなかったのはモデルを雇うことができず、代わりにその夏は花の静物画を35~40点ほど集中して描いた。テオによれば「友人が毎週、絵を描くためきれいな花を送ってくれた」という。花を主題にしたのは、ひとつには色の研究のため、別の理由として花の絵は売れるという目論見もあった。これらの花の作品のほとんどにアドルフ・モンティセリー「陶器の花」などの影響が現れている。モンティセリはファン・ゴッホがパリに出て直ちに心酔した画家で、暗い背景と明るく鮮烈な花の対比、盛り上がった厚塗りの筆遣いなど多くを彼から学んでいる。パリに出たことによって、ファン・ゴッホの絵は、オランダ時代と比較すると著しく都会的になったと思う。なお展覧会では「印象派の画家たち」という章を設け、23点の印象派、後期印象派の作家の作品を並べていた。いずれもファン・ゴッホに大きな影響を与えた作品であるが、ここでは、その作品の紹介は取りやめておく。ゴッホが印象派、後期印象派作家から大きな影響を受けたことが分かる。

タンギー爺さんの肖像 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス ニュ・カールベア美術館

モンマルトルのテオとゴッホの住まいの近くにタンギーの画材店がった。この店主は画家たちの面倒をよく見て「タンギー爺さん」と慕われていた。店ではセザンヌをはじめ売れない前衛画家たちの作品を展示し、美術界に刺激を与える場となっていた。店の常連となり、店主に気に入られたファン・ゴッホの作品1,2点も購入し、もしくは画材と交換したとも言われている。ユートピア的社会主義者タンギーとファン・ゴッホは共感しあう仲だったようである。ゴッホは油彩で3枚のタンギーの肖像画を描いていたが、本作は最初の肖像画と思われる。オランダ時代の作品と比べると色彩もタッチも印象派の作風に近づいている。「タンギー爺さん」の肖像画は、浮世絵を横幅に入れた作品が有名である。

アニエールのヴォワイエ・ダルジャン公園の入口 ファン・ゴッホ作 1887年

油彩・カンヴァス イスラエル美術館

パリへ移ったファン・ゴッホは、アンリ・ド・トュールーズ=ロートテック、シニヤック、エミール・ベルナールらと知り合い、彼らと一緒に製作することもあった。本作の舞台は、パリ郊外の行楽地アニエールはパリ市内からも近く、多くの画家たちがやってきて制作に励んだ土地である。ファン・ゴッホはこの地で1887年にシニャック、ベルナールらと共に制作した。かれは知人たちと制作することで、当時のパリの画家たちが使った印象派、後期印象派の技法を学ぶことができた。

河岸の木々 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス P・N・デ・プール財団

河岸の土手であろうか、斜面に生える木々や草がクローズアップされ、右奥の背景には建物が描かれている。紫色っぽい影や、揮発性の溶き油を多用した薄塗り、木の幹や葉の点描風の細かい筆触など、印象派の技法をはじめとしてファン・ゴッホがパリに出てきて急速に吸収しつつあった技法が試されている。まるで別人の絵のように見える。空は三分の一を占めるだけで、その下はすべて地面に近い部分だけが描かれている。こういった風変りな構図は浮世絵の影響を受けているかも知れない。そしてこの地面に注目した視点は、のちのサン=レミの療養院の蔦を描いた作品にも通じるものがある。

モンマルトルの家庭菜園 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス アムステルダム市立美術館

1887年7月23日から25日の間頃 弟テオへの手紙より。        君が発ってから4枚仕上げた。今は大きなサイズに取り掛かっている。こういった大きな、長いカンヴァスはなかなか売れないことはわかっているが、そのうち人々はこうした絵の中にこそ開けた陽気さを見て取るだろう。そしてみんなが居間や田舎の別荘をこういった絵で飾ることになる。(ファン・ゴッホは多数の手紙を残している。作家の声が聞こえる珍しい事例であり、ゴッホをして、最も有名にした手紙の一つである)

パイプと麦藁帽子の自画像 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

ファン・ゴッホが描いた自画像はおよそ40点が知られているが、その半数以上がパリ時代の2年間に作られている。本作が描かれたのは画家が34歳の頃で、前年の2月にパリに到着して以来、印象派の影響によって作風が大きく変えようとしていた時期に当たる。1886年はまだ伝統的な明暗法を用いていたが、一方で鮮やかな複数の色を画面上にまとめる練習を重ねていた。その試みの成果は自画像においても明らかである。例えば同年に描かれたものは眼光鋭くこちらを見つめる画家の暗く落ち着いた色調で写実的にとらえられいるが、本作では一転して、限られた筆触と色数によって全体の印象を軽やかに表している。大きな麦藁帽子は、戸外での制作における必需品であり、また画家が敬愛したモンティセリに通じるアイテムでもあった。

麦畑とポピー ファン・ゴッホ作 1888年 油彩・カンヴァス イスラエル博物館  (1888年6月16日から20日の間 妹ウイルヘルムへの手紙より「アルル」)

白い菊に混じった矢車草と少しのマリーゴールド。これが青とオレンジのモチーフができる。ヘリオトロープと黄色い薔薇はライラック色と黄のモチーフ。ポピー、または赤いゼラ=ウムを濃い緑の葉と組み合わせると、これは赤と緑のモチーフだ。この基本をさらに細かく分けたり、手を加えたりすることができるが、しかしzわざわざ絵にして見せなくても、色には男と女のように完璧に対となり、互いに輝かせるような組み合わせがあることはよく分かるだろう。(本作はアルルに移住した後の作品であるが、便宜上ーパリーに入れた。

麦畑 ファン・ゴッホ作 1888年 油彩・カンヴァス P・N・デ・プール財団

1888年の初夏に、ファン・ゴッホは収穫期の小麦畑を少なくとも10点の油彩画に描いている。見渡す限りに広がると、黄色く燃えるような景色に大いに筆が進んだようだ。ファン・ゴッホは主題を定めると、視点や色の組み合わせを変えて繰り返し描いた。そして最終的に、それまでの習作を総合したような作品を手掛けたことから、本作もまた「収穫」のために準備した1枚であると考えられる。アルピーユ山脈を背に画面のおよそ三分の二を小麦畑が占めており、豊かに実った植物が放つ強烈な黄色が生き生きと描かれている。空の部分に混ざる水色と薄紫色の対比が大変美しく、プロヴァンスの澄み渡った空気が香ってくるようだ。

 

パリ時代にファン・ゴッホは印象派、後期印象派の画家と交わり、オランダ時代の構図や色彩ががらりと変わった。アルルは、南仏にあり、ゴーギャンと共同制作事業を行うため黄色い家を借りて住んだ。ゴーギヤンとの理想の生活は2ケ月も持たなかった。ファン・ゴツホは、日本人がやっている「作品の交換」を、ゴーギャンとの間で試みようとした。この「日本人の作品の交換」を、浮世絵が、浮世絵が絵師、堀師、摺師と専門に分かれて分業することを、ゴッホは作品の交換と勘違いしたようである。いずれにせよ、ゴーギャンとの共同制作は短期間(2ケ月足らず)の間に失敗し、ファン・ゴッホは、自分の耳を切り落とすという事件を起こして終わった。この後、最晩年のサン=レミ時代、オーヴェール=シュル=オワーズ時代の2年間を残すのみである。

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」圀府寺 司「ゴッホ」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した)

ゴッホ展(1)初期作品とハーグ派

フィンセント・ファン・ゴッホが画家として活躍した期間は、短い人生のうち、わずか10年に過ぎない。1880年、彼は素描を短期間で習得しようと挑戦を始め、1882年からは油絵にも取り組み始めた。1890年に亡くなるまでの間にファン・ゴッホの残した作品数は、油絵絵が850点、素描に至っては1000点に作品を残した多作の作家であった。しかし、生前に売れた絵は1点(赤いブドウ畑)のみで、彼は大半を弟のテオドロス(愛称テオ・画廊勤務)が保管していた。ゴッホは、ビーグル画廊に務めた6年半の間に、著名な画家の作品を扱い、ハーグ・ロンドン・パリの店を移るたびに、各都市の美術館や展覧会に足を運んでいた。その中で特に惹かれた画家については、その複製画を自分の部屋に飾るなどしている。ファン・ゴッホは熱心な美術愛好家であったのである。「掘る人(ミレーによる)」など、彼が終生敬愛し続けたミレーの模写が残されている。地元の農民たちの日常を題材に多くのデッサンを重ねていった。その後、マウフェ(ハーグ派の指導者)の助言によってモデルをみて描くようになった。

掘る人(ミレーによる)ファン・ゴッホ作 1880年 鉛筆・黒チョーク クレラー=ミュラー美術館

グービル画廊に務めていた頃からジャン・フランソワ=ミレーはゴッホが最も敬愛する画家であり、最後まで精神的な導き手であった。ミレーに倣って農民画家を目指し、その作品を繰り返し模写している。本作は、ミレーの複製画をもとに製作されたデッサンのうちの1枚である。原作と比べると、構図や陰影のつけ方などを忠実に模写しながらも、特に二人の人物に注意を向けたことがわかる。

疲れ果てて ファン・ゴッホ作 1881年 鉛筆、ペン、インク、エッテン デ・プール財団

マウフェ(ハーグ派の指導者)の重要な教えの一つは、モデルを描くことであった。それまで複製画や教本に掲載された過去の巨匠たちの作品を模写していたファン・ゴッホは、農民の労働や暮らしの様子を直に見て写し取るようになる。本作に描かれているのは炉端に座る病気の老人で、膝に肘ついてうなだれるように頭を抱えている。質素な衣服や生活用品がその境遇を物語るようである。この情景に感動したファン・ゴッホは、後に同じ」主題に立ち返り、人物に焦点をあてたリトグラフ「永遠の入口にて」を制作している。

白い帽子を被った女の頭部 ファン・ゴッホ作 1884年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

はじめ農民画家を目指していたファン・ゴッホは、よく地元の農民たちをモデルに描いた。特に1884年から翌年にかけて、人物の頭部ばかりを集中して描いている。ファン・ゴッホにとっては大地に働く彼らは、田園地方における季節の移り変わりの象徴だった。本作に描かれた娘は、何度もモデルを務めた人物であった。本作ではゴツゴツとして日に焼けた顔が力強い筆使いでとらえられており、戸外での労働を思わせる。ファン・ゴッホは、ミレーの絵を形容する時に用いられた「土で描いた」という表現を意識しており、農民を描く際の拠り所にしていた。

ジャガイモを食べる人々 ファン・ゴッホ作 リトグラフ 1885年 ハーグ美術館

  油絵

  リトグラフ

長らくデッサンの練習を重ねてきたファン・ゴッホにとって「ジャガイモを食べる人々」は初めて売り物になると自負した油彩画だった。ゴッホは手紙の中でこの絵について饒舌に語っている。「ぼくは、ランプの灯の下でジャガイモを食べているこれらの人々が、まさに、皿に伸ばしている手で土を掘り返したのだということを、伝えたいと思ったのだ。だからこの絵は(手の労働)を語っているのであり、彼らがその食べ物をいかに正直に(稼いだ)かを物語っている」「真の農民の絵だ」とも述べている。「一見して「何て汚い絵だ」と言われるかもしれない。それでも「真実なもの、正直なもの」を表現し続けるだけだ」この作品はファン・ゴッホの作品中にあって、油彩による最初の本格的なタブロー(構成画)だと言ってもよいだろう。なお、本展覧会に出品されている作品は、油彩ではなく、ファン・ゴッホが作成したリトグラフである。石板に直接描きこんだことから油彩画のイメージと反転しており、コントラストや人物の表現も甘くなってしまっている。

器と洋梨のある静物 ファン・ゴツホ作 1885年 油彩・カンヴァス ユトレヒト中央美術館

1883年末からニューネンに滞在した2年の間に、ファン・ゴッホは200点以上の油彩と多数の素描、水彩画を制作した。農村の風景、ついで農民の肖像の主題にもっぱら取り組んでいたが、以前にモデルにした農民の娘を妊娠させたという疑いをかけられ、村の住人をモデルにして描くことができなくなってしまう。以降室内でジャガイモや野菜や果物、器、鳥の巣などの静物を集中して描くようになり、色彩と構成面で大きな成果をあげた。

鳥の巣のある静物 ファン・ゴッホ作 1885年 油彩・カンヴァス ハーグ美術館

ファン・ゴッホは鳥や鳥の巣に並々ならぬ愛着を抱き、ある時は遠出した先の農家で見事な鳥の巣を見つけて持ち帰るなど,沢山の巣を手元において絵のモチーフとした。この珍しいモチーフの選択は、彼が愛読したジュエール・ミシュレの「鳥」に着想を得たと思われる。ミシュレが鳥の巣について書いた文章に感化され、巣自体がすばらしい芸術品であり、それを作る鳥は芸術家であると、「ミソサザイやウグイスなんかほんとうに芸術家の仲間に入れたいいくらいだ」と手紙に書き記している。暗い背景から見分けられる巣はリース飾りのように可愛く草花が編み込まれ、奥には青や白の卵がほのかに見える。

 

ファン・ゴッホの初期の作品をまとめてみたが、中々画家としては評価できない作品が多い・暗くて、華やかさがない。後年のファン・ゴッホの輝きは、次のパリ時代に印象派の影響や、日本の浮世絵の影響を受けて、「日本に憧れる」時代となる。その時が楽しい。

 

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」圀府寺 司「ゴッホ 日本の夢にかけた芸術家」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した)

海住山寺ー補陀落山と呼ばれた地

笠置の山が開けて、木津川の流れもゆるやかになる辺り、「瓶原」と呼ばれたこの地帯は、「みかの原わきて流るる泉川、いつみきてとか恋しかるらむ」と小倉百人一首に収められた歌で、広く知られている。天平13年(741)正月、聖武天皇はこの地(恭仁京)を新都として移ることを命じられたが、やがて都は近江の紫香楽宮(しがらきぐう)に遷された。この由緒ある瓶原を一望におさめる海住山(かいじゅうさん)の中腹に、海住山寺(かいじゅせんじ)が創建されたのは、恭仁京造営に先立つ6年前、天平7年(735)のことと伝えられている。この寺は不幸にして保延3年(1137)に灰燼に帰し、お寺の全てを失った。その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺に住んでおられた解脱上人貞慶(じょうけい)が、この寺址に住み、草庵を営み補陀落山海住山寺(ふだらくさんかいじゅうせんじ)と名付け、旧寺を中興された。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。解脱上人(1155~1213)は、幼くして興福寺に入り、ひたすら研学につとめ、南都随一の学僧と言われた。壮年に至り感ずる所があって笠置山にかくれ、名刹をのがれてもっぱら徳を積まれ、晩年に至り、人々を教化して仏道に向かわせるために、ここ海住山寺に移り住まれた。このような類稀な学徳兼備の高僧解脱上人の後を継いだのが、磁心上人覚真(1170~1234)である。先師の遺志を継いでいよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくした。現在の同山は、真言宗智山派に属し、1万坪の境内には、国宝の五重塔や重文の文殊堂をはじめ、数々の伽囲まれ、特に厄除寺として知られ、現世利益(げんせりやく)の根本道場としてし知られている。さて、私は、過去に2回この寺を訪ねている。この寺は、奈良市の近くであるが、京都府に属し、関西線加茂駅から、歩いて2時間、タクシーならば30分程度で着く。必ずしも有名なお寺ではないが、寺ではユースホテルを兼ねており、若い男女には知られている。下からこのお寺を仰ぐと、かなり高い岡の上にある、由緒あるお寺である。私は海住山寺(かいじゅせんじ)の名前に憧れ、2回拝観している。

五重塔遠望

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国宝 五重塔が下から遥かに望むことが出来て、思わず上ってみたくなるお寺である。名称も魅力的である。つずら折の急な坂を上ると山門がある。この山門から望む寺域は補陀落浄土の観がある。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。

国宝  五重塔        鎌倉時代

塔内は、四天柱の内側に極彩色の内陣がある。四方扉にも天部や創形が描かれている。剥落が激しい。

重文  文殊堂     鎌倉時代

小堂であるが、緑の山を背にした伸びやかな屋根や、白壁に映える蟇股(かえるまた)が美しい。

重文  十一面観音菩薩立像      平安時代

高さ190センチ、天平風の大らかな一木彫像であり、厄除け観音として信仰が篤い。

重文  支店王立像  木造・彩色・彫金・玉眼 鎌倉時代

持国天立像(上)    増長天立像(下)

大きく振り上げる腕などの身振りが破綻なくまとまっており、像高40センチ足らずの小像ながら、大きな存在感がある四天王像の優品である。保存状態も良く、造像当時の彩色が非常に鮮やかに残されている。持国天と増長天、広目天と多聞天がそれぞれ左右対称の動きに表されている。持国天は左手を腰に当て、右手を振り上げて三鈷杵(さんこしょ)を持ち、増長天は逆に右手を腰に当て、左腕を振り上げて戟を突く。肉親の色はそれぞれ持国天が青色、増長天が赤色、広目天が肉色、多聞天が濃青色に塗り分けられている。こうした姿かたちをする四天王は、現存する作例の中では、建仁3年(1203)以前に作られた和歌山・金剛峯寺の四天王立像に次いで、二例目である。本像も運慶一門の手になる可能性が高い。

重分  十一面観音菩薩立像    平安時代

小像ながら美しく引き締まったこの像は、解脱上人の念持佛と伝えられている。

春日曼荼羅図(般若十六善神図部分)    鎌倉時代

上段には春日曼荼羅・下段には扁額を中心とした十六善神が描かれている。これはその上段部である。

重分 献本着色法華曼荼羅図       鎌倉時代

霊鷲山で法華経を説く釈迦、聴聞する菩薩以下の群衆等を配し、荘厳な仏の力を表している。この曼荼羅図は神々しい美しさである。私の好きな図である。

海住山寺は30年前に1度、20年前に1度、合計2回しか訪れていない。この文章を書くにあたって、参考文献が殆どなかった。わずかにお寺の出した「海住山寺小誌」と図録「運慶」、奈良仏像館 名品展」しかなかった。参考文献の少なさに驚いた。それほど知名度の低いお寺かと驚いた。しかし、なかなか味のあるお寺でもあった。興味のある方は、一度訪れることをお勧めする。

(本稿は「補陀落山 海住山寺小誌」、図録「運慶  2017年」、「なら仏像館 名品図録  2016年」を参照した)

 

歿後90年記念  岸田劉生展(2)

岸田劉生は。「内なる美」から「東洋の美」を経て「新しい道」へ、最後は写実の世界へと戻る。その有為転変を巡ることは難しいが、劉生の作品を追って解説してみたい。

晴れた冬の日  油彩・麻布 1917年   千葉県立美術館

大きな屋根のある民家が見える劉生お気に入りの鵠沼の風景である。「晩秋の晴日」、「五月の品道」など移ろい行く季節と共に描いている。道端の木の下に林檎を持つて座りこむ麗子の姿が可愛らしい。

麗子肖像(麗子五歳之像) 油彩・カンヴァス 1918年 東京国立近代美術館

娘の麗子を描いた最初の作品である。麗子は5歳から16歳まで、モデルとして描かれることになる。8月の末に描き始め、予想以上に時間が掛かったというこの作品について劉生は「子供の持っているのは赤まんまと言う秋草です。美しいので僕は好きです。アーチ形の装飾は半分写生ですが略想像でみませんでした。バックは布ですがああいう風にかきました。子供は五つですが感心によくモデルになってくれました」(色摺会報第5号、1918年10月28日)と書いている。画賛には「麗子五歳・父寫す」と書いてあり、創土社第6回美術展(1918)に出品されている。

蓁(しげる) 木炭・チョーク/紙  1918年  愛知県美術館

「青年の首(岡崎精郎氏之顔)」「長十郎氏像」などと並ぶ素描による肖像画。ダ・ヴィンチの素描を意識したような力強い曲線による陰影表現である。1919年に開始される水彩・素描による麗子像・お松像への先駆となる。

麗子坐像  油彩・麻布 1919年      ポーラ美術館

「麗子肖像(麗子五歳之像)」以来の油彩による麗子像である。「要二ケ月」を掛けて、赤と黄の絞りの着物が丹念に執拗に描かれている。モデルとして座る麗子と傍らに置かれた林檎は「実在の神秘」において変わらない。

麦二三寸  油彩・麻布  1920年  三重県立美術館

人間が対峙する自然(草と土)を描いた代々木の風景画から人影は姿を消した。鵠沼の穏やかな農村風景のなかで、再び点景として麗子が描かれるようになる。麦の芽吹き始めた早春、劉生は風景画の制作に「麗子をつれて描き出る」と記している。

重文  麗子微笑(果物持てる) 油彩・麻布  東京国立博物館

 

いつもの綿入の着物にいくつもの肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重養文化財2点を受けている画家は、私は知らない)

いくつも綿入れの着物について毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定を受けている画家は、私は知らない)

童女舞姿  油彩・麻布  1924年   大原美術館

劉生は上京区南禅寺寺町草川町41番地の住居で3点の麗子像」を仕上げている。うち1点は鵠沼時代にはじめられ、関東大震災をはさんで京都で制作を続けた「童女図」で、その年の暮れに完成している。「童女舞姿」は京都移住後間もない1923年の10月末に想起され、はじめ岩佐又兵衛筆の女舞姿の図版を参考にして形をとろうとしたがうまくいかなかったため中断し、翌年2月11日から改めて「例の三十号の細い形に麗子の立像をはじめ」、麗子のモデル人形を造り、それに着物を着せて制作するなどの工夫を重ね、3月7日に完成した。当時傾倒していた初期肉筆浮世絵の、劉生の言う「でろり」とした美が、この作品には色濃く表れている。

近藤医学博士之像  油彩・カンヴァス  1925年  神奈川県立美術館

モデルは近藤次繁(東京帝国大学医学部外科手術の教綬で、日本で最初に盲腸手術に成功したことで知られる)は、1923年10月19日、震災で京都に移り住んだ劉生のもとに近藤博士から博士所有の静物、尚蔵などが震災で焼失したとの手紙が届いている。劉生は1921年に近藤博士の肖像を2点描いているため、再度制作するよう依頼を受けたのである。第3回春陽会の開催にあわせて1925年3月15日に京都を発ち、10日から本郷森川町の旅館から大学に通い、20日に完成させている。髭を蓄え勤倹率直そのものといった博士の表情と、その手に持たされた一輪の花との対比がユーモラスである。

冬瓜葡萄図  油彩・字布 1925年  千億博古館

冬瓜が描かれるようになったのは、妻が錦小路で買ってきたことに始まる。これ以降、冬瓜は宗元画風の油彩による静物画の重要な画題となった。大きな冬瓜だけでなはなく、小さな葡萄や茄子が添えられて描かれた。

糖芽庵主人閑居之図  紙本着色  1928年頃  下関市立美術館

この頃の劉生は、宋元画や日本画が多い。しかし、あまり興味もなので、一つだけ見本とて掲載した。圓窓のある書斎の机に頬杖をつく糖芽庵主人劉生の無為の姿である。画賛には「糖芽庵」「冬臥堂」「冬瓜堂」などという自嘲的な言葉も記されている。絵画の創造よりも鑑賞に価値を見出した劉生の孤愁が感じられる。

路傍秋晴  油彩・麻布 1929年     吉野石膏株式会社

南満州鉄道株式会社の招聘により満州に渡ることになり、現地での個展のために、京都での唯一の風景画以来、4年振りに風景画が描かれた。大連の郊外風景に新鮮な感覚を蘇らせたのか、旺盛な制作意欲を見せて、若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。大連での個展のために、許可を得た場所を実際に描いた風景画である。初期の印象派の鮮やかな美を感じる。

満鉄総裁の庭  油彩・麻布  1929年   ポーラ美術館

この満鉄総裁の庭は、初期の印象派風の鮮やかな「クラッシックの感化」の時と同じように、まさに「東洋の美」を感化を通過して、「新しい予の道」を見つけたことを教えてくれる。故国直後に山口県徳山で急逝した。38歳の生涯であった。

 

劉生の晩年は、宋元風の絵画、日本画となり、馴染みが薄いが、最後の「満鉄総裁の庭」等は、初期の印象派絵画のように若々しい絵画となっている。やはり劉生は、私に取っては洋画の劉生であった。その意味で、最後の「満鉄総裁の庭」は、実に懐かしく見ることが出来た。これが劉生の絵であると思った。

 

(本稿は、図録「歿後九〇年記念 岸田劉生展   2019年」、図録「生誕100年  岸田劉生展   2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」を参照し た)

 

歿後90年  岸田劉生展(1)

 

劉生の生家である銀座楽善堂精錡水本舗は、父吟行が経営する薬局と書房に別れていた。日本の近代化の先進地である銀座と築地が隣り合った界隈にああって、西洋伝来の目薬と東洋の文具の両方を売る店に生まれ育った劉生の幼心には、西洋への憧れも東洋への親しみも一緒にあったのであろう。七男七女の中でも将来を期待されていた劉生は、14才の頃に、キリスト教の信者になった。劉生は、父の死によって、東京高等師範学校付属中学校を第三学年で中退し、洗礼を受けた。この頃から木下藤次郎の「水彩画乃栞」を手にして水彩画を描き始めた。その後、田村牧師からも画家になることを勧められ、明治41年(1908)には黒田清輝の白馬会葵橋油画研究所に入所して、本格的に油彩画を学び始めた。劉生の芸術を考察する時、劉生は画家である前にキリスト教徒であることを踏まえておくことが必用である。しかし、21才の春、劉生はキリスト教を捨てる。キリスト教という支柱を失って、ひとりの画家としての新しい生き方を真剣に模索していくなかで、文芸雑誌「白樺」と運命的な出会いを果たした。劉生が「第二の誕生」と呼ぶものは、何であったのであろうか。劉生が手にした「白樺」の「六号雑感」からの冒頭にある「自分はどうも意気地なしで困る」から始まって「自分は何らかの意味でも自分を尊敬することの出来ない人と話をするのはいやだ」と語り、武者小路実篤に初めて出会い、その絶対的な自己肯定の哲学、人類主義につながる徹底した個人主義に共感を覚え、圧倒的な影響を受けたのである。後期印象派の鮮烈な色彩による表現を知った時、外光主義の穏健な写実描写という固定観念が破壊され、ゴッホやゴーギャンの眼で自然を見ることを試みて、「模倣に近い」作品と自覚しながらも製作した。術館

薄暮の海 水彩・紙   1907年  東京国立近代美術観

同じ日の日記には、この水彩画に関する記述と「白簿の海」と題する詩が残されている。「午後より大森に写生せんと出でたつ。海岸に出でて松原を写生する。画半ばならざる汐風の寒きにたえず筆をおいて帰る。「薄暮の海」、汐風松に錚々の楽を奏す。薄暮の気靄々として万象を籠め、平和なる晩秋の海は紫なり」と日記に記されている。

銀座数寄屋橋  油彩・板  1910年頃  東京国立博物館

雨の日の銀座の景色である。和傘を差して、ぬかるんだ道を跳ねるように歩く人々。白い銑のリズムカルな筆致が、いくつか並んだ和傘とともに、その足跡を表現する。

B.Lの肖像(バーナード・リーチ)の像 油彩・カンヴァス 1913年 東京国立近代美術観

イギリスの陶芸家バーナード・リーチは「白樺」の同人たちと親交があった。劉生がこのイギリス人の知己を得たのは、1911年の第2回白樺美術展会場だった。この肖像画よりも1年ほど前に手掛けられた「自画像」に比べると、原色に近い色彩の使用や筆のタッチの奔放さは抑制され、対象の総体を穏やかな色面で捉えようとする意識が強くなっている。ファン・ゴッホの熱狂から解放された劉生は、その後セザンヌに傾倒を顕著にしていったのである。

自画像 油彩・麻布  1913年    個人蔵

劉生は、数多くの自画像を描いている。1913年春頃の自画像と比較すると、格段に筆致が細かく写実的に変化している。赤らんだ大きな鼻から顎までの肌と皺の立体感と花の頭や頬の照りが目立つ。こちら(鏡に映る自己)をみつめる視線も強く厳しくなっている。

武者小路実篤像 油彩・油 1914年   東京都現代美術館

モデルは雑誌「白樺」同人の文学者・武者小路実篤である。岸田劉生が、知人、友人を次々とモデルに肖像画を描いていったいわゆる「劉生の首狩り」と呼ばれる時期に描かれた肖像画の1点である。岸田劉生は、1911年、柳宗悦の家に泰西名画の複製を見に行ったが、その場で初めて、武者小路実篤に出会ったという。知り合って、3年の月日が流れた後、武者小路実篤は劉生のモデルとなった。後期印象派の影響から脱して、徐々に、写実に基づく表現を心がけていこういとしていた頃の作品である。黄褐色を基調とした画面からは、劉生が人物を表現する際の内面まで迫ろうとする意欲が垣間見られる。劉生は、熱心な「白樺」派同人として、屡々「白樺」の表紙を描いている。

画家の妻 油彩・カンヴァス 1914年  個人蔵

モデルは劉生の妻、蓁(しげる)である。まさに岸田劉生が、北方ルネサンスの画家、特にデューラーから「クラッシックな感化」を受けていた頃の作品である。古典的な細密描写のもならず、アーチ型の淵飾りを試み、画面に欧文文字を書入れ、紋章風の署名を行い、懐古趣味や宗教性が強く表れている。岸田劉生自身は、白樺10周年記念に開かれた岸田劉生の個展に、この作品が「どうも自然の見方が少し簡単になっている」ので、この作品の出品を取りやめている。しかし、デューラーの感化ははっきりとしているが、ここにはすでに、その後の彼の肖像画が持つことになる「内なる美」が萌芽している。

赤土と草 油彩・麻布  1915年   浜松市美術館

画壇で孤立していた劉生の周囲には1915年頃に、若い画家の卵たちが集まってきた。丁度その頃、知人から展覧会を開催することを誘われていた劉生は、創土社展会と名前を付けて、以後、1922年までの9回の展覧会を重ねた。その展覧会の名前の由来は、この「赤土と草」であった。最初、「現代の美術社主催第1回美術展覧会」と呼ばれた第1回展覧会に出品されたこの作品が代表するように、こうして土や草に愛情を注いだ風景画を制作する劉生らの画家グループ「草土社」が形成され、大正期の画壇に異彩を放った。この作品のどっしりとした赤土の大地には力強さが認められ、鬱蒼と生い茂る草原には旺盛な生命力が宿っていた。

重文 道路と土手と塀(切通之写生) 油彩・カンヴァス 1915年 東京国立近代美術館

現在、重要文化財に指定されているこの作品は、いわば劉生の風景画の代表作である。1916年4月開催の創土社第2回展覧会に初出品された作品である。切通しの風景は劉生がわざわざ探して見つけ出した康慶ではない。引っ越して偶然見つけた風景と言っていい。しかし、この東京近郊の掘り返された新開地の赤土に劉生はことのほか愛着を感じた。古典を熱心に研究していた時期ではあるが、その影響は直截ななんらかの見える形で現れるというのではなく、描くものを真摯に見つめ、愛情を込めて描く態度に、古典から学んだあとが認められる。赤土と白い壁、緑の草、青い空とのコントラストが、はっきりとしており、精粗で凛呼とした感じが画面全体に漂っている。

古谷君の肖像(草持てる男の肖像) 油彩・カンヴァス 1916年 東京国立近代美術館

モデルの古谷(こや)芳雄は、東京帝大大学を出たばかりの医師で、文芸同人雑誌を木村宗八らと出す文学青年であった。1916年7月に劉生が転地療養のため駒沢村新町に引っ越したことで、二人は偶然隣同士のの仲になった。そこで古谷は自身の関わっている文芸雑誌「生命の川」の表紙絵を劉生に頼んだのが交際の始まりだったという。最初、ほとんど寝たっきりだった劉生は、徐々に健康を回復し、古谷にモデルになってくれるよう依頼したものだった。冷徹な写実表現やモデルの手に草を持たせるポーズをとらせたり、年紀、署名のゴシック風書体を使うところなど、劉生がいかに北方ルネサンスの巨匠だったデューラーヤファン・エイクに傾倒していたかがよく分る。

壺の上に林檎が載って在る 油彩・板 1916年 東京国立近代美術館

劉生は1916年7月に肺結核と診断されて(後に誤診と分る)療養のため東京府荏原郡駒澤新町に引っ越した。屋外の写生画は健康上無理であったため、風景画が自由に描けなくなった彼は、室内で静物画を描くようになる。これは、こうして描かれ始めた静物画の1点である。写実から神秘性に踏み込んで「内なる美」を見出そうとする劉生の芸術観がよく表れている作品である。壺の上に林檎を置くというのは、一見こどものいたずらのように見受けられるが、彼の筆によって、その滑稽さは微塵もない。ものの存在の不思議さを厳粛に描きとめる劉生の写実力によって、見る者は、日頃考えてみることもない日常のなかでの存在ということについてじっくりと瞑想させられることになる。そしてとりもなおさず、そこに劉生の魅力がある。1916年11月開催の創土社第3回美術展覧会に出品された。

 

武者小路実篤以降は、代々木・駒沢時代と呼ばれ、「内なる美」=1913ー1917年とされる時代で、劉生の傑作が生まれた時期である。特に「道路と土手と塀(切通之写生)は、劉生の代表作の一つであり、現在重要文化財に指定されていることは、誰しも知る所であるが、今回の展覧会では、もう一つの重要文化財指定作品があることを知った。それは次回に紹介したい。

(本稿は、図録「歿後90年記念 岸田劉生展  2019年」、図録「生誕110年 岸田劉生展  2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」、岸田玲子「父 岸田劉生」を参照した)