海住山寺ー補陀落山と呼ばれた地

笠置の山が開けて、木津川の流れもゆるやかになる辺り、「瓶原」と呼ばれたこの地帯は、「みかの原わきて流るる泉川、いつみきてとか恋しかるらむ」と小倉百人一首に収められた歌で、広く知られている。天平13年(741)正月、聖武天皇はこの地(恭仁京)を新都として移ることを命じられたが、やがて都は近江の紫香楽宮(しがらきぐう)に遷された。この由緒ある瓶原を一望におさめる海住山(かいじゅうさん)の中腹に、海住山寺(かいじゅせんじ)が創建されたのは、恭仁京造営に先立つ6年前、天平7年(735)のことと伝えられている。この寺は不幸にして保延3年(1137)に灰燼に帰し、お寺の全てを失った。その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺に住んでおられた解脱上人貞慶(じょうけい)が、この寺址に住み、草庵を営み補陀落山海住山寺(ふだらくさんかいじゅうせんじ)と名付け、旧寺を中興された。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。解脱上人(1155~1213)は、幼くして興福寺に入り、ひたすら研学につとめ、南都随一の学僧と言われた。壮年に至り感ずる所があって笠置山にかくれ、名刹をのがれてもっぱら徳を積まれ、晩年に至り、人々を教化して仏道に向かわせるために、ここ海住山寺に移り住まれた。このような類稀な学徳兼備の高僧解脱上人の後を継いだのが、磁心上人覚真(1170~1234)である。先師の遺志を継いでいよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくした。現在の同山は、真言宗智山派に属し、1万坪の境内には、国宝の五重塔や重文の文殊堂をはじめ、数々の伽囲まれ、特に厄除寺として知られ、現世利益(げんせりやく)の根本道場としてし知られている。さて、私は、過去に2回この寺を訪ねている。この寺は、奈良市の近くであるが、京都府に属し、関西線加茂駅から、歩いて2時間、タクシーならば30分程度で着く。必ずしも有名なお寺ではないが、寺ではユースホテルを兼ねており、若い男女には知られている。下からこのお寺を仰ぐと、かなり高い岡の上にある、由緒あるお寺である。私は海住山寺(かいじゅせんじ)の名前に憧れ、2回拝観している。

五重塔遠望

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国宝 五重塔が下から遥かに望むことが出来て、思わず上ってみたくなるお寺である。名称も魅力的である。つずら折の急な坂を上ると山門がある。この山門から望む寺域は補陀落浄土の観がある。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。

国宝  五重塔        鎌倉時代

塔内は、四天柱の内側に極彩色の内陣がある。四方扉にも天部や創形が描かれている。剥落が激しい。

重文  文殊堂     鎌倉時代

小堂であるが、緑の山を背にした伸びやかな屋根や、白壁に映える蟇股(かえるまた)が美しい。

重文  十一面観音菩薩立像      平安時代

高さ190センチ、天平風の大らかな一木彫像であり、厄除け観音として信仰が篤い。

重文  支店王立像  木造・彩色・彫金・玉眼 鎌倉時代

持国天立像(上)    増長天立像(下)

大きく振り上げる腕などの身振りが破綻なくまとまっており、像高40センチ足らずの小像ながら、大きな存在感がある四天王像の優品である。保存状態も良く、造像当時の彩色が非常に鮮やかに残されている。持国天と増長天、広目天と多聞天がそれぞれ左右対称の動きに表されている。持国天は左手を腰に当て、右手を振り上げて三鈷杵(さんこしょ)を持ち、増長天は逆に右手を腰に当て、左腕を振り上げて戟を突く。肉親の色はそれぞれ持国天が青色、増長天が赤色、広目天が肉色、多聞天が濃青色に塗り分けられている。こうした姿かたちをする四天王は、現存する作例の中では、建仁3年(1203)以前に作られた和歌山・金剛峯寺の四天王立像に次いで、二例目である。本像も運慶一門の手になる可能性が高い。

重分  十一面観音菩薩立像    平安時代

小像ながら美しく引き締まったこの像は、解脱上人の念持佛と伝えられている。

春日曼荼羅図(般若十六善神図部分)    鎌倉時代

上段には春日曼荼羅・下段には扁額を中心とした十六善神が描かれている。これはその上段部である。

重分 献本着色法華曼荼羅図       鎌倉時代

霊鷲山で法華経を説く釈迦、聴聞する菩薩以下の群衆等を配し、荘厳な仏の力を表している。この曼荼羅図は神々しい美しさである。私の好きな図である。

海住山寺は30年前に1度、20年前に1度、合計2回しか訪れていない。この文章を書くにあたって、参考文献が殆どなかった。わずかにお寺の出した「海住山寺小誌」と図録「運慶」、奈良仏像館 名品展」しかなかった。参考文献の少なさに驚いた。それほど知名度の低いお寺かと驚いた。しかし、なかなか味のあるお寺でもあった。興味のある方は、一度訪れることをお勧めする。

(本稿は「補陀落山 海住山寺小誌」、図録「運慶  2017年」、「なら仏像館 名品図録  2016年」を参照した)

 

歿後90年記念  岸田劉生展(2)

岸田劉生は。「内なる美」から「東洋の美」を経て「新しい道」へ、最後は写実の世界へと戻る。その有為転変を巡ることは難しいが、劉生の作品を追って解説してみたい。

晴れた冬の日  油彩・麻布 1917年   千葉県立美術館

大きな屋根のある民家が見える劉生お気に入りの鵠沼の風景である。「晩秋の晴日」、「五月の品道」など移ろい行く季節と共に描いている。道端の木の下に林檎を持つて座りこむ麗子の姿が可愛らしい。

麗子肖像(麗子五歳之像) 油彩・カンヴァス 1918年 東京国立近代美術館

娘の麗子を描いた最初の作品である。麗子は5歳から16歳まで、モデルとして描かれることになる。8月の末に描き始め、予想以上に時間が掛かったというこの作品について劉生は「子供の持っているのは赤まんまと言う秋草です。美しいので僕は好きです。アーチ形の装飾は半分写生ですが略想像でみませんでした。バックは布ですがああいう風にかきました。子供は五つですが感心によくモデルになってくれました」(色摺会報第5号、1918年10月28日)と書いている。画賛には「麗子五歳・父寫す」と書いてあり、創土社第6回美術展(1918)に出品されている。

蓁(しげる) 木炭・チョーク/紙  1918年  愛知県美術館

「青年の首(岡崎精郎氏之顔)」「長十郎氏像」などと並ぶ素描による肖像画。ダ・ヴィンチの素描を意識したような力強い曲線による陰影表現である。1919年に開始される水彩・素描による麗子像・お松像への先駆となる。

麗子坐像  油彩・麻布 1919年      ポーラ美術館

「麗子肖像(麗子五歳之像)」以来の油彩による麗子像である。「要二ケ月」を掛けて、赤と黄の絞りの着物が丹念に執拗に描かれている。モデルとして座る麗子と傍らに置かれた林檎は「実在の神秘」において変わらない。

麦二三寸  油彩・麻布  1920年  三重県立美術館

人間が対峙する自然(草と土)を描いた代々木の風景画から人影は姿を消した。鵠沼の穏やかな農村風景のなかで、再び点景として麗子が描かれるようになる。麦の芽吹き始めた早春、劉生は風景画の制作に「麗子をつれて描き出る」と記している。

重文  麗子微笑(果物持てる) 油彩・麻布  東京国立博物館

 

いつもの綿入の着物にいくつもの肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重養文化財2点を受けている画家は、私は知らない)

いくつも綿入れの着物について毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定を受けている画家は、私は知らない)

童女舞姿  油彩・麻布  1924年   大原美術館

劉生は上京区南禅寺寺町草川町41番地の住居で3点の麗子像」を仕上げている。うち1点は鵠沼時代にはじめられ、関東大震災をはさんで京都で制作を続けた「童女図」で、その年の暮れに完成している。「童女舞姿」は京都移住後間もない1923年の10月末に想起され、はじめ岩佐又兵衛筆の女舞姿の図版を参考にして形をとろうとしたがうまくいかなかったため中断し、翌年2月11日から改めて「例の三十号の細い形に麗子の立像をはじめ」、麗子のモデル人形を造り、それに着物を着せて制作するなどの工夫を重ね、3月7日に完成した。当時傾倒していた初期肉筆浮世絵の、劉生の言う「でろり」とした美が、この作品には色濃く表れている。

近藤医学博士之像  油彩・カンヴァス  1925年  神奈川県立美術館

モデルは近藤次繁(東京帝国大学医学部外科手術の教綬で、日本で最初に盲腸手術に成功したことで知られる)は、1923年10月19日、震災で京都に移り住んだ劉生のもとに近藤博士から博士所有の静物、尚蔵などが震災で焼失したとの手紙が届いている。劉生は1921年に近藤博士の肖像を2点描いているため、再度制作するよう依頼を受けたのである。第3回春陽会の開催にあわせて1925年3月15日に京都を発ち、10日から本郷森川町の旅館から大学に通い、20日に完成させている。髭を蓄え勤倹率直そのものといった博士の表情と、その手に持たされた一輪の花との対比がユーモラスである。

冬瓜葡萄図  油彩・字布 1925年  千億博古館

冬瓜が描かれるようになったのは、妻が錦小路で買ってきたことに始まる。これ以降、冬瓜は宗元画風の油彩による静物画の重要な画題となった。大きな冬瓜だけでなはなく、小さな葡萄や茄子が添えられて描かれた。

糖芽庵主人閑居之図  紙本着色  1928年頃  下関市立美術館

この頃の劉生は、宋元画や日本画が多い。しかし、あまり興味もなので、一つだけ見本とて掲載した。圓窓のある書斎の机に頬杖をつく糖芽庵主人劉生の無為の姿である。画賛には「糖芽庵」「冬臥堂」「冬瓜堂」などという自嘲的な言葉も記されている。絵画の創造よりも鑑賞に価値を見出した劉生の孤愁が感じられる。

路傍秋晴  油彩・麻布 1929年     吉野石膏株式会社

南満州鉄道株式会社の招聘により満州に渡ることになり、現地での個展のために、京都での唯一の風景画以来、4年振りに風景画が描かれた。大連の郊外風景に新鮮な感覚を蘇らせたのか、旺盛な制作意欲を見せて、若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。大連での個展のために、許可を得た場所を実際に描いた風景画である。初期の印象派の鮮やかな美を感じる。

満鉄総裁の庭  油彩・麻布  1929年   ポーラ美術館

この満鉄総裁の庭は、初期の印象派風の鮮やかな「クラッシックの感化」の時と同じように、まさに「東洋の美」を感化を通過して、「新しい予の道」を見つけたことを教えてくれる。故国直後に山口県徳山で急逝した。38歳の生涯であった。

 

劉生の晩年は、宋元風の絵画、日本画となり、馴染みが薄いが、最後の「満鉄総裁の庭」等は、初期の印象派絵画のように若々しい絵画となっている。やはり劉生は、私に取っては洋画の劉生であった。その意味で、最後の「満鉄総裁の庭」は、実に懐かしく見ることが出来た。これが劉生の絵であると思った。

 

(本稿は、図録「歿後九〇年記念 岸田劉生展   2019年」、図録「生誕100年  岸田劉生展   2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」を参照し た)

 

歿後90年  岸田劉生展(1)

 

劉生の生家である銀座楽善堂精錡水本舗は、父吟行が経営する薬局と書房に別れていた。日本の近代化の先進地である銀座と築地が隣り合った界隈にああって、西洋伝来の目薬と東洋の文具の両方を売る店に生まれ育った劉生の幼心には、西洋への憧れも東洋への親しみも一緒にあったのであろう。七男七女の中でも将来を期待されていた劉生は、14才の頃に、キリスト教の信者になった。劉生は、父の死によって、東京高等師範学校付属中学校を第三学年で中退し、洗礼を受けた。この頃から木下藤次郎の「水彩画乃栞」を手にして水彩画を描き始めた。その後、田村牧師からも画家になることを勧められ、明治41年(1908)には黒田清輝の白馬会葵橋油画研究所に入所して、本格的に油彩画を学び始めた。劉生の芸術を考察する時、劉生は画家である前にキリスト教徒であることを踏まえておくことが必用である。しかし、21才の春、劉生はキリスト教を捨てる。キリスト教という支柱を失って、ひとりの画家としての新しい生き方を真剣に模索していくなかで、文芸雑誌「白樺」と運命的な出会いを果たした。劉生が「第二の誕生」と呼ぶものは、何であったのであろうか。劉生が手にした「白樺」の「六号雑感」からの冒頭にある「自分はどうも意気地なしで困る」から始まって「自分は何らかの意味でも自分を尊敬することの出来ない人と話をするのはいやだ」と語り、武者小路実篤に初めて出会い、その絶対的な自己肯定の哲学、人類主義につながる徹底した個人主義に共感を覚え、圧倒的な影響を受けたのである。後期印象派の鮮烈な色彩による表現を知った時、外光主義の穏健な写実描写という固定観念が破壊され、ゴッホやゴーギャンの眼で自然を見ることを試みて、「模倣に近い」作品と自覚しながらも製作した。術館

薄暮の海 水彩・紙   1907年  東京国立近代美術観

同じ日の日記には、この水彩画に関する記述と「白簿の海」と題する詩が残されている。「午後より大森に写生せんと出でたつ。海岸に出でて松原を写生する。画半ばならざる汐風の寒きにたえず筆をおいて帰る。「薄暮の海」、汐風松に錚々の楽を奏す。薄暮の気靄々として万象を籠め、平和なる晩秋の海は紫なり」と日記に記されている。

銀座数寄屋橋  油彩・板  1910年頃  東京国立博物館

雨の日の銀座の景色である。和傘を差して、ぬかるんだ道を跳ねるように歩く人々。白い銑のリズムカルな筆致が、いくつか並んだ和傘とともに、その足跡を表現する。

B.Lの肖像(バーナード・リーチ)の像 油彩・カンヴァス 1913年 東京国立近代美術観

イギリスの陶芸家バーナード・リーチは「白樺」の同人たちと親交があった。劉生がこのイギリス人の知己を得たのは、1911年の第2回白樺美術展会場だった。この肖像画よりも1年ほど前に手掛けられた「自画像」に比べると、原色に近い色彩の使用や筆のタッチの奔放さは抑制され、対象の総体を穏やかな色面で捉えようとする意識が強くなっている。ファン・ゴッホの熱狂から解放された劉生は、その後セザンヌに傾倒を顕著にしていったのである。

自画像 油彩・麻布  1913年    個人蔵

劉生は、数多くの自画像を描いている。1913年春頃の自画像と比較すると、格段に筆致が細かく写実的に変化している。赤らんだ大きな鼻から顎までの肌と皺の立体感と花の頭や頬の照りが目立つ。こちら(鏡に映る自己)をみつめる視線も強く厳しくなっている。

武者小路実篤像 油彩・油 1914年   東京都現代美術館

モデルは雑誌「白樺」同人の文学者・武者小路実篤である。岸田劉生が、知人、友人を次々とモデルに肖像画を描いていったいわゆる「劉生の首狩り」と呼ばれる時期に描かれた肖像画の1点である。岸田劉生は、1911年、柳宗悦の家に泰西名画の複製を見に行ったが、その場で初めて、武者小路実篤に出会ったという。知り合って、3年の月日が流れた後、武者小路実篤は劉生のモデルとなった。後期印象派の影響から脱して、徐々に、写実に基づく表現を心がけていこういとしていた頃の作品である。黄褐色を基調とした画面からは、劉生が人物を表現する際の内面まで迫ろうとする意欲が垣間見られる。劉生は、熱心な「白樺」派同人として、屡々「白樺」の表紙を描いている。

画家の妻 油彩・カンヴァス 1914年  個人蔵

モデルは劉生の妻、蓁(しげる)である。まさに岸田劉生が、北方ルネサンスの画家、特にデューラーから「クラッシックな感化」を受けていた頃の作品である。古典的な細密描写のもならず、アーチ型の淵飾りを試み、画面に欧文文字を書入れ、紋章風の署名を行い、懐古趣味や宗教性が強く表れている。岸田劉生自身は、白樺10周年記念に開かれた岸田劉生の個展に、この作品が「どうも自然の見方が少し簡単になっている」ので、この作品の出品を取りやめている。しかし、デューラーの感化ははっきりとしているが、ここにはすでに、その後の彼の肖像画が持つことになる「内なる美」が萌芽している。

赤土と草 油彩・麻布  1915年   浜松市美術館

画壇で孤立していた劉生の周囲には1915年頃に、若い画家の卵たちが集まってきた。丁度その頃、知人から展覧会を開催することを誘われていた劉生は、創土社展会と名前を付けて、以後、1922年までの9回の展覧会を重ねた。その展覧会の名前の由来は、この「赤土と草」であった。最初、「現代の美術社主催第1回美術展覧会」と呼ばれた第1回展覧会に出品されたこの作品が代表するように、こうして土や草に愛情を注いだ風景画を制作する劉生らの画家グループ「草土社」が形成され、大正期の画壇に異彩を放った。この作品のどっしりとした赤土の大地には力強さが認められ、鬱蒼と生い茂る草原には旺盛な生命力が宿っていた。

重文 道路と土手と塀(切通之写生) 油彩・カンヴァス 1915年 東京国立近代美術館

現在、重要文化財に指定されているこの作品は、いわば劉生の風景画の代表作である。1916年4月開催の創土社第2回展覧会に初出品された作品である。切通しの風景は劉生がわざわざ探して見つけ出した康慶ではない。引っ越して偶然見つけた風景と言っていい。しかし、この東京近郊の掘り返された新開地の赤土に劉生はことのほか愛着を感じた。古典を熱心に研究していた時期ではあるが、その影響は直截ななんらかの見える形で現れるというのではなく、描くものを真摯に見つめ、愛情を込めて描く態度に、古典から学んだあとが認められる。赤土と白い壁、緑の草、青い空とのコントラストが、はっきりとしており、精粗で凛呼とした感じが画面全体に漂っている。

古谷君の肖像(草持てる男の肖像) 油彩・カンヴァス 1916年 東京国立近代美術館

モデルの古谷(こや)芳雄は、東京帝大大学を出たばかりの医師で、文芸同人雑誌を木村宗八らと出す文学青年であった。1916年7月に劉生が転地療養のため駒沢村新町に引っ越したことで、二人は偶然隣同士のの仲になった。そこで古谷は自身の関わっている文芸雑誌「生命の川」の表紙絵を劉生に頼んだのが交際の始まりだったという。最初、ほとんど寝たっきりだった劉生は、徐々に健康を回復し、古谷にモデルになってくれるよう依頼したものだった。冷徹な写実表現やモデルの手に草を持たせるポーズをとらせたり、年紀、署名のゴシック風書体を使うところなど、劉生がいかに北方ルネサンスの巨匠だったデューラーヤファン・エイクに傾倒していたかがよく分る。

壺の上に林檎が載って在る 油彩・板 1916年 東京国立近代美術館

劉生は1916年7月に肺結核と診断されて(後に誤診と分る)療養のため東京府荏原郡駒澤新町に引っ越した。屋外の写生画は健康上無理であったため、風景画が自由に描けなくなった彼は、室内で静物画を描くようになる。これは、こうして描かれ始めた静物画の1点である。写実から神秘性に踏み込んで「内なる美」を見出そうとする劉生の芸術観がよく表れている作品である。壺の上に林檎を置くというのは、一見こどものいたずらのように見受けられるが、彼の筆によって、その滑稽さは微塵もない。ものの存在の不思議さを厳粛に描きとめる劉生の写実力によって、見る者は、日頃考えてみることもない日常のなかでの存在ということについてじっくりと瞑想させられることになる。そしてとりもなおさず、そこに劉生の魅力がある。1916年11月開催の創土社第3回美術展覧会に出品された。

 

武者小路実篤以降は、代々木・駒沢時代と呼ばれ、「内なる美」=1913ー1917年とされる時代で、劉生の傑作が生まれた時期である。特に「道路と土手と塀(切通之写生)は、劉生の代表作の一つであり、現在重要文化財に指定されていることは、誰しも知る所であるが、今回の展覧会では、もう一つの重要文化財指定作品があることを知った。それは次回に紹介したい。

(本稿は、図録「歿後90年記念 岸田劉生展  2019年」、図録「生誕110年 岸田劉生展  2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」、岸田玲子「父 岸田劉生」を参照した)