コートールド美術館展ー魅惑の印象派展(3)

いよいよ最終章である。ここで再度コートールド氏の美術品収集の意義についてまとめておきたい。1934年には、コートールド夫妻が収集した印象派・後期印象派絵画の傑作選55点を掲載した豪華なカタログを出版した。このカタログは、重要で質の高い作品が並んでおり、印象派・ポスト印象派に絶対的な重点を置いて作品が選定され、収集の努力が払われてきたことが判る。彼の心を占めていたのはあきまでもこの印象派の潮流であり、20世紀美術に敢えて手を出すことは殆ど無かった。コートールドの親しい友人で経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)が、イギリスの芸術家にいくらかの収入を保証し作品展示を行うための「ロンドン芸術家教会」を1925年に発足させており、その支援者としても関わっている。コートールドは、世界的に印象派絵画の需要が高まる決定的な時機を捉えて決然と打って出て、19世紀を決定づけたこの流派の最高の作品がイギリスの公的コレクションに確実に収められるように計った。コートールドのような大立者が、社会奉仕に強靭な意思を持って積極的に献身したこと、そして芸術に触れる者を感動させ、社会全体を向上させる芸術の力に対する彼の熱烈な信念は、当時にあって比類のないものであった。そしてそれは、今日も特別なものであり続けている。コートールドは、20世紀を代表する偉大で高潔なコレクターたちの殿堂に、確かにその名を連ねているのである。

クールブヴォワの橋 ジョルジュ・スーラー作 1886~87年 油彩・カンヴァス

スーラーが自ら編み出した点描技法を画面全体に用いた最初の作品とされる。色彩を小さな点で並置することで、網膜上で混ざり合い知覚されることが目指された。こうした視覚混合は、絵具をパレット上で混色するよりも色彩が明るく効果的に認識されるという科学的な理論に基づいている。スーラはシャルル・ブランによる「デッサン諸芸術の文法」(1867)を通じて、化学者ミシエル・ウジェーヌ・シュブルールの視覚混合の法則を学んだほか、アメリカの物理学者オグデン・ニコラス・ルードによる光学理論などを研究し、自らの芸術を確立していった。スーラが用いた新しい表現は、こうした19世紀の科学の発展とも無縁ではなかった。印象派もくすみのない輝く色彩のを目指し筆触分割を用いたが、その粗い筆致によって、形態は失われていった。スーラは、印象派の実践を科学的に発展させ、細かな点描を用いることで、明度の高い色彩と堅固な形態を実現しようとした。描かれているのは、セーヌ川の中州であるグランド・ジャッド島からの眺めで、橋の向こうにクールブヴォワの工場地帯を望む。代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」をはじめ、スーラはこの地で繰り返し制作をした。煙を出す煙突のような同時代の要素を描きこみながらも、時間を超越し、現実離れした情景が生み出されている。

釣り人 ジョルジュ・スーラー作 1884年 油彩・板

この絵は、スーラが「クロンクトン」と呼んだ小さな板に描かれた油彩習作である。「釣り人」、「グランド・ジャット島の日曜瓶の午後」、「水に入る馬」は、コートールドが国の美術館のために自ら寄付した基金により購入したスーラの代表作「アニエールの水浴」の習作の一つである。

舟を塗装する男 ジョルジュ・スーラ作 1883年 油彩・板

スーラは、クロクトンで様々な表現の実験を行っており、「船を塗装する男」には交差するような筆使いが見られる。特に水面の表現には点描派の特色がよく出ている。

グラヴリーヌの海辺 ジョルジュ・スーラ作 1890年 油彩・板

この「グラヴリーヌの海辺」の絵具に混じった砂の粒からは、クロクトンが現地でのスケッチに用いられたことがわかる。グラブリーヌは、北フランスの小さな港町で、スーラは31歳で夭折する前年の夏、この地で海辺の風景を制作している。目の前の風景の観察に基づいているが、抽象的といえるほど簡略化されて描かれている。スーラの短い画業における様式の展開を窺い知ることが出来るだろう。

裸婦 アメデオ・モディリアーニ作 1916年ごろ 油彩・カンヴァス

モディリアーニの裸婦像の白眉と言える本作は、1917年にパリのベルト・ヴェイユ画廊で開催された彼の個展で初めて公開された。裸婦を描いた作品は5点ほど展示された。うち2点はシォユーウインドに飾られたことから騒ぎがとなり、公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたという。近年の科学調査は、モディリアーニが様々な技法を駆使し、この官能体の筆使いがまったく異なることがわかっている。身体には、カンヴァスに筆を押し付けていくような独特のうろこ状の筆触が見える。一方で、顔には細い線で薄く絵具が置かれ、より滑らかな仕上がりが目指された。髪には絵具が乾かぬうちにひっかいた跡が見られ、繊細にその質感を描き分けていることが窺われる。また、目元や眉,鼻と口元には、下塗りの青みがかった灰色が効果的に生かされている。モデリアーニは、1916年から17年にかけて、こうした裸婦を集中して描いた。彼は、1916年に画商レオポルド・ズボラスキーと契約を結び、プロのモデルを雇って制作することができるようになった。下絵の線は認められず、すばやく描かれた本作品は、この裸婦シリーズの初期のものと位置付けれれる。

白いブラウスを着た若い女 ジャイラ・スーテイン作1923年頃 油彩・カンヴァス

大きい目と赤の唇、黒い髪がとりわけ目を引く。一見すると激しい筆づかいで描かれているようだが、よく見ていくと、頭部と白いブラウス、背景にはそれぞれに多彩な筆触が使い分けられている。白いブラウスは、下の濃い絵具で透けて見えるほど、すばやくおおまかに描かれている。厚くしっかりと絵具が塗られた頭部は、デフォルメされた描写により、モデルの顔の特徴が強調されている。青みを加えられ、やや上目づかいである目元は、憂鬱さや恨めしさを表現しているようにも、あるいはただ1点を無心に見つめるようにも見える。唇には、口紅がははみ出したかのように勢いよく赤が置かれ、女性の表情に覚える奇異な印象を増幅させる。そうした描写は、風刺画のようであるが、スーティンの絵画は、人の脆さや哀愁といったものを感じさせる。

干し草 ポール・ゴーガン作 1889年 油彩・カンヴァス

コートールドが初めて入手したゴーガンの作品の一つ。マネやセザンヌの作品とともに、コートールド邸に飾られていた写真が残されている。近代化する大都市パリに嫌気のさしたゴーガンは、昔ながらの素朴な生活を求め、1886年にフランス北西部のブルターニュに初めて滞在した。独特の衣装や文化に魅せられたゴーガンはこの地方に繰り返し足を運び、ポン=タヴェン、次いでル・ブルデュを拠点に制作を行った。本作品は1889年、ル・ブルデュ近郊で描かれた。同年12月にゴーガンは、前年末まで南仏アルルで約2ケ月の共同生活を送ったファン・ゴッホに宛て、次のように書き送っている。「ここブルターニュでは、農民たちは中世のような様子で、今パリが存在することや、1889年だということを考えていないようだー南仏とは正反対だ。この地のすべては、ブルターニュの言葉のような粗野で、とても閉鎖的だ。衣服もまたほとんど象徴的で、過度なカトリック信仰から影響されたものだ。背中を見ると胴部は十字で、頭部は修道女のような昔風のスカーフに包まれている」。

ネヴァーモア  ポール・ゴーガン作  1897年 油彩・カンヴァス

1891年、ゴーガンは素朴で原始的な生活を求めて南太平洋のタヒチ島を訪ねる。1893年に一度帰仏するも、2年後に再び島に戻った。本作品は二度目のタヒチ滞在時に描かれたものだが、横たわる裸婦という主題は西洋の伝統的な絵画を想起させる。ゴーガンがタヒチ島に複製を持っていったマネの「オランピア」(1863年)のような生々しさも感じられない。ゴーガンは、現実と想像の世界を融合させ、装飾的な空間に島の娘を配した。裸婦とふたりの人物、窓辺の鳥の関係性を明確に示されず、全体に謎めいた雰囲気が生み出されている。タイトルの「ネヴァーモア」は「二度とない」などの意味を持つ英語が用いられている。ゴーガンは、自らの作品がタイトルからのみ直接的に解釈されることを懸念したのであろう。

テ・レリオ ポール・ゴーガン作 1897年 油彩・カンヴァス

本作品は「ネヴァーモア」の制作から2,3週間後に、10日ほどで描かれたという。「テ・レリオ」というタイトルは、ヤヒチ語で夢という意味である。その単語は悪夢という意味もあるが、それを知らなくても、画面からどことなく不穏な印象を受けるかもしれない。二人の女性と眠る赤ん坊、猫らしき動物はそれぞれ視線を交わすことなく、関係性は読み取りにくい。女性たちの表情にも明らかな特定の感情を認めることは難しい。木製のレリーフの存在から、その室内がゴーガンの暮らした小屋だとも考えられているが、レリーフの合間に見えるタヒチ島の風景は、窓からの景色なのか画中画なのかはっきりしない。「すべて夢」の世界、つまり謎めいたゴーガンの世界であり、その曖昧さが、本作品の魅力ともなっている。

 

コートールドが、ポスト印象派に高い関心を持つ大きな契機は、1922年にロンドンのバーリントン美術クラブで開催された「フランス美術の100年展」であった。同年、コートールドが最初のポスト印象派の作品として購入したのが、ゴーガンの2点の油彩画である。コートールドは、ゴーガンの感性に訴える色彩に魅了されたとも伝えられている。1924年にはレスター画廊で、イギリス初のゴーガンの個展が開催された。コートールドは、その出品作品の一部を購入している。その後も情熱を傾け、7年ほどでブルターニュとタヒチ時代の油彩画をはじめとする油彩画5点、版画10点、彫刻1点、素描2点を収集した。そのコレクションを核としたコートールド美術館は、今日、イギリス随一のゴーガン・コレクションを有することとなった。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派   2019年」高階秀爾作「近代絵画史」(下)を参照した)

コートールド美術館展ー魅惑の印象派(2)

コーートールド展の第2章は「時代から読み解く」がテーマである。産業が近代化し急速に進んだ19世紀フランスでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えた。また、パリを起点として鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、気軽に足を運ぶようになった。また、パリは19世紀半ばから「パリ大改造」が行われ、街は大きく変化した。劇場やミュージック・ホール、カフェが次々と開店したほか、街灯や人口照明の普及によつて、人々は昼夜を問わずさまざまな娯楽を楽しむようになった。画家たちは、そこに集う人々の姿を、その光景を描写するに相応しい表現を用いて、多くの絵画を描いていった。

アルジャントゥイュの河岸 エドゥアール・マネ作 1874年 油彩・カンヴァス

19世紀後半、余暇を楽しむ時間を得たパリの中産階級の人々は、休みになると大都市を離れ、まだ自然の多く残る郊外の町へと繰り出したていった。アルジャントュイユもそうした町の一つで、セーヌ川の船遊びや岸辺の散策を楽しみに訪れるパリの人々でにぎわった。本作品の前景には、レジャー用のヨットと散策を楽しむ親子が描かれている。モデルは、マネの最初の妻カミーユとその息子ジャンであろう。1874年の夏、マネはモネー一家の住むアルジャントゥイュに滞在した。この年の4月から5月にかけて、いわゆる第1回印象派展が開催されている。マネは、印象派展に参加せずサロン(官展)への出品を選んだが、彼らとの交流は続いていた。部分的に屋外で制作されたと考えられる本作品は、マネが熱心に印象派の表現を試みた作例の一つである。モネからの影響を受けた、明るい色彩と粗い筆触の並置を用いて、夏らしい日差しやセーヌ川のきらめきが捉えられている。一方で、船やカミーユの帽子のリボンには、印象派が避けた黒が餅られている。

秋の効果 アルジャントュイユ  クロード・モネ作 1873年 油彩・カンヴァス

画面の下半分を占めるのはセーヌ川の支流である。画面中央には青い筋で表されたセーヌ川の本流と、その向こうには、その頃モネ一家が暮らしたアルジャントゥイユの町が見える。1851年に鉄道がと通ると、豊かな緑とセーヌ川を楽しむために、パリの人々がこぞって訪れるようになった。パリからは15分ほどであったという。1870年代になると、化学工場、製鉄所などが次々と建ち、アルジャントゥイュは工業都市へと変貌してゆく。しかし、本作品は変化する街並みよりも、秋の印象、移ろいゆく光や色彩、大気を捉えることに主眼が置かれている。中央の白い塔は、工場の煙突と指摘されたこともあったが、アルジャントゥイユ教会の尖塔であり、穏やかな風景に似つかわしいモチーフが採択されている。

春、シャトー オーギュスト・ルノワール作 1873年頃 油彩・カンヴァス

シャトゥーは、パリの中心部から西へ14キロメートルほどの町で、週末にはパリから訪れる人々で賑わう郊外の町の一つであった。アルジャントゥイュから少し下流のセーヌ川沿いに位置するが、シャトゥー吹き付近ではセーヌ川が中州にあり、二つに分かれて川幅は狭くなる。sルジャントゥイユがヨット遊びで知られたのに対し、シャトゥーはボート遊びを楽しむ人々が多く訪れていた。穏やかなこの地の様子を気に入ったルノワールは、1870年代の中ごろから足しげく通い、郊外の自然とそれを楽しむ人々を描いていった。代表作の一つ「船遊びの昼飯」も、この地の川沿いのレストランで描かれたものである。

ポン=タヴェンの郊外 オーギスト・ルノワール作 1888-90年油彩・カンヴァス

1880年代後半から90年代初頭にかけて、ルノワールはポン=タヴェンをいくどか訪ねている。ブルターニュ地方の芸術家の集う村で、ゴーガンが繰り返し滞在し、制作を行ったことがよく知られている。ルノワールは、1892年に、この地でのちにセザンヌの手紙を公開するベルナールともで会っている。晩年のルノワールは、1883年頃に印象派の表現に限界を感じ、行き詰まったと述懐している。ルノワールが得意とした人物画では、比較的明確な筆触に分割していく印象派の技法は、人物の形態を表すのに適しているとは言えなかった。1880年代の作品には、その試行錯誤の跡と画風の展開に顕著に認められる。イタリア旅行で目にしたラファエロ・サンツィオの作品やポンペイの壁画などに刺激を受け、1880年代前半からルノワールは、色調を抑え、明確な輪郭線を用い、古典主義に回帰する。しかし1880年代末になると、その揺り戻しのように、豊かな色彩と優しくやわらかい雰囲気をまとう表現が、画面に再び姿を見せるようになる。本作品は、こうした過渡期のなかで描かれたものである。

アンブロワーズ・ヴォラールの肖像 オーギュスト・ルノワール作 1908年 油彩・カンヴァス

アンブロワーズ・ヴォラールは、20世紀初頭に活躍した画商である。1900年以降、ルノワールの作品を扱う主要な画商のひとりとなり、晩年のルノワールから聞き取った話をまとめた「ルノワールは語る」を出版した。ヴォラールは、多くの作家に自らの肖像画を注文したが、なかでもルノワールは彼の肖像画を5点も手掛けている。本作品は3番目の作であり、1908年、ルノワールがヴォラールを南仏に招いた際に制作された。ヴォラールは、裸婦の小像を鑑定する目利きの姿として描かれている。テーブルに肘をつき、小さな石膏像を大きな手に持ち吟味している。胸に黄色いハンカチーフを挿し、スーツを着た姿は成功した画商に似つかわしい。団子鼻で浅黒く巨漢、ときに物売りに間違えられるほど洗練さに欠けた身なりであったと伝えられるヴォラールは、ルノワールの手によって、現実の姿よりもかなり魅力的に描写されているようだ。ヴォラールが手にする石膏像は、アリスティド・マイヨールによるものである。マイヨールはこの頃、ヴォラールからルノワールの胸像の制作を依頼されていた。ヴォラールが彼の作品を手にするのは、そうした関係を示唆しているものかも知れない。テーブルには、青と白の陶人形と陶器が置かれている。どっしりとした画商の存在感を和らげるように、テーブルクロスには軽やかに動物が置かれている。赤を基調とした背景に加え、親密さを感じさせるテーブルクロスは、モデルに対するルノワールの温かなまなざじを伝えてくれる。

靴紐を結ぶ女 オーギュスト・ルノワール作 1918年頃 油彩・カンヴァス

ルノワール最晩年の作品の一つである。印象派展に参加していた頃、ルノワールは近代都市となったパリの人々の新しい日常を積極的に描いていたが、次第に時代を超越した普遍的な主題へと関心を高めていった。晩年は、水浴や身支度する女性の姿を繰り返し描いていった。くつろいだ、様子で、女性は靴紐を結んでいる。左手には、これから身につけるであろう衣服や花飾りがついた帽子が置かれている。晩年のルノワールの作品に特徴的な赤みを帯びた色彩が用いられ、明確な輪郭線は見られず、全体にやわらかい印象がつくられている。女性がまとう下着やペチコート、背景には粗い筆触が顕著にみられ、滑らかな肌の質感を際立たせている。青を用いて陰を表していたルノワールだが、晩年になると本作品に認められるように、黒やグレーを使うようになった。

桟敷席 オーギュスト・ルノワール作 1874年 油彩・カンヴァス

普仏戦争が終わって第三共和制が始まると、観劇の習慣が戻ってきた。劇場は市民にとって社交の場でもあった。桟敷席に陣取った二人は舞台を熱心に鑑賞しているようには見えない。豪華な衣装を身に着けている女性は、ニニと愛称されていたモンマルトルの少女。オペラグラスをかけてあらぬ方向を見ている男性はルノワールの弟のエドモンドである。1874年の第1回印印象派展に出品された記念すべき本作は、1925年、イギリスの画商パーシ・ムーア・ターナーを介し、サミュエル・コートールドが購入したもので、11万ドルという価格は、コートールドが収集に費やしたなかでも最も高額なものであった。オペラやコンサートへも支援を惜しまなかったコートールド夫妻は、本作品を自邸の音楽室に掛けて愛でたという。

税関 アンリー・ルソー作 1890年頃 油彩・カンヴァス

20年以上もパリの関税に務めたルソーは、「税官吏ルソー」とも呼ばれる。40歳頃から本格的に絵を描き始めるが、専門的な美術教育は受けていない。本作品は、彼が自らの職場である税関を主題とした唯一の絵画とされるが、現実と想像を組み合わせて描かれたと考えられている。パリ市の入市税関を撮影した同時代の写真が残されているが、本作品の風景のいずれにも類似しない。本作品はコートールドが収集した唯一のルソーの作品である。本作品は「とても素晴らしい質の小品」と評価していたが、さらなる購入を促すには至らなかったようだ。

舞台上の二人の踊り子 エドガー・ドガ作 1874年 油彩・カンヴァス

踊り子に魅了されたドガは、稽古場やリハーサルの様子をはじめバレエに関わる数多くの作品を残している。上演作品が明らかにわかるがドガの絵画は非常に少ないが、本作品の踊り子は、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の幕間に上演される、「バラの踊り」を舞っているところである可能性が指摘されている。ひとりは赤とピンクの花をモチーフにした衣装、もう一人は葉や萼を思わせる緑が配された服を衣装にまとい、バラに扮しているようだ。ドガは当時流行した日本美術から刺激を受け、西洋美術の伝統には見られない新しい視点を採用することがあった。本作品も、桟敷席から見下ろすかのような、やや高い視点から舞台を捉えている。画面左手には舞台の床が広がり、余白の多い斬新な構成がつくられている。

フォリー=ベルジュのバー エドゥアール・マネ作 1882年 油彩・カンヴァス

フォリー=ベルジェールはパリのミュージック・ホールで、歌や踊り、曲芸や珍獣の公開など多彩な演じ物で人気を博した。本作品の舞台は、その一角にあったバーである。バーメイドはアルコールの提供だけでなく、娼婦となることもあったという。マネは実際にここを何度も訪れているが、制作の際にはアトリエにバーカウンターの一部を再現し、シュゾンという名のフォリー=ベルジェールのバーメイドを呼び、モデルとした。その表情は、ぼんやりとしているようでも、物憂げな様子でもあり、解釈は鑑賞者に委ねられているようだ。マネ晩年の傑作として知られる本作品は、亡くなる前年の1882年のサロンで発表された。無数の観客と喧騒がすばやく粗い筆致で描かれる一方、手前の大理石のカウンターには酒のボトルやオレンジが丁寧に描写される。本作品は、鏡で作られた複雑で多義的な空間に、人物、群衆、静物を卓越した技術で描いたマネの画業の集大成と言えよう。この作前には、大勢の観客が集まり、一番人気の作品であった。

 

本稿は、「時代背景から読み解く」と題する章から選んだものである。産業化が急速に進んだ19世紀フランス。近代都市となったパリでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えていく。パリを起点とした鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、以前より気軽に足を運ぶようになった。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派  2019年」、高橋秀爾「近代絵画史 上」を参照した。)

コートールド美術館展ー魅惑の印象派(1)

イギリスが世界に誇る印象派、後期印象派の殿堂ーコートールド美術館から選りすぐりの名品を紹介する「コートールド美地涌館ー魅惑の印象派」が、東京都美術館で開催されている。同館の改修工事による休館のため約20年ぶりにフランス近代絵画の傑作が、来日することになった。パリの都市生活を描いたマネの最晩年の傑作、「フォーリ=ベルジエールのバー」は女の謎めいた表情が多くの人を魅了し、ルノワールの「桟敷席」は第1回印象派展に出品された記念碑的な作品である。イギリス随一を誇る印象派、後期印象派の作品が約60点の作品が展示される。今年の印象派展では最高の質・量を誇る作品群が見られる。この展覧会は、2019年秋から1年間実施される日英交流年の中心催事の一つに位置図けられている。今後、コートールド美術館の優秀作品が、この規模で日本に展覧されることは無いだろう。皆さんの観覧をお勧めする。なお、紹介は必ずしも展覧会の並び通りではなく、複数の絵画を描いている作家をまとめて、その後に、1,2作の作品を描いた絵を紹介するという段取りにした。

アヌシー湖 ポール・セザンヌ作 1896年 油彩。カンヴァス

1896年6月、セザンヌはリヨンの東に位置する、スイスの国境に近いタロワールに滞在した。妻オルタンスの希望によるもので、息子のポールを伴っての家族旅行であった。旅行で描かれた唯一の油彩画である。タロワールからアヌシー湖、デュアン城を望む風景が描かれている。「温暖な気候の地域だ。周囲の丘はかなり高い。両岸の突き出た地形によって湖はこの辺で狭くなっていて、若い女性が線描の練習をするのに向いているように思う。これも確かに自然であるのだが、幾分、若い女性の旅行アルバムでよく見るようなものでもある」と旧友の息子に伝えた手紙の一部である。

レ・スール池、オスニー ポール・セザンヌ作 1875年頃 油彩・カンヴァス

オスニーは、パリ近郊のポントワーズ近くの村である。ポントワーズは1870年代にピサロが拠点とした街で、二人はしばしば一緒に制作を行った。本作品の制作は1877年とされてきたが、同じ場所で描かれた表現の近いピサロの作品「小さな橋、ポントワーズ」(1875年)の存在から、現在は1875年代半ばとされている。また、本作品の最初の所有者もピサロであった。ピサロは、1870年代半ばには、画面の密度や堅固な色彩の構築を模索して、ペインテングナイフを用いるようになっていた。この時期によくピサロの隣で制作をしたセザンヌも、新たな表現を目指してこの道具を頻繁に使うようになる。本作品は、その堅調な作例で、表面のほとんどは、筆ではなくナイフによって描かれている。

ノルマンディーの農場 ポール・セザンヌ作 1882年 油彩・カンヴァス

1882年3月、セザンヌの主要なパトロンであったヴィクトール・ソショケの妻は、ノルマンディー地方にあるアッタンヴィルの農場を相続した。本作品は、その夏、この農場に滞在したセザンヌが、現地で制作したものと考えられている。未完成に思われる部分を残す比較的小さな作品であるが、入念に構成されている。左手前前景の幹と枝のくっきりとした線は、後景へ続く木々の幹とリズミカルに呼応する。木々の葉には、色調が微妙に異なる短い筆致が規則的に繰り返され、そよ風にゆらめく様子が再現される。幹や枝、建物の屋根などに赤い色彩が見られる。実際の風景には無い色彩だろうが、緑を基調とした画面に効果的に配されている。

ジャス・ド・ブッファンの高い木々 ポール・セザンヌ7作 1883年頃 油彩・カンヴァス

1859年、銀行家として成功したセザンヌの父は、ジャス・ド・ブッファンに別荘を購入した。エクス=アン=プロヴァンスの郊外にあり、15ヘクタールに及ぶ広大な敷地には、ワイン畑や果樹園もあったという。セザンヌは邸宅の一各にアトリエにし、この地を手放す1899年まで、庭園や近くの風景、そこに働く人々を繰り返し描いていった。本作品に描かれる木々は、ほかのいくつかの作品にも登場する。セザンヌは、3本ずつふたつのグループに分かれて生育する、優美な木々の姿に魅力を感じたのであろう。見慣れた景色だからこそ、画家の鋭敏な感覚がいっそう発揮され、繊細な光や木々の風にゆれる様が軽やかにとらえられている。作品のほとんどの段階は、この風景を前に屋外制作されたと考えられている。

大きな松のあるサント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 1887年頃 油彩・カンヴァス

サント=ヴィクトワール山は、エクス=プロヴァンスの東にそびえる。紀元前102年、北方からの侵略者に古代ローマが勝利したことに因み、サント=ヴィクトワール(聖なる勝利)と名付けられた。セザンヌがこの地を象徴する山を本格的描くのは1880年代半ばからの、ことだ。30点以上の油彩画のほか、素描や水彩画にも繰り返しその姿を留めている。本作品は、アルク川の谷をはさみ、サント=ヴィクトワール山を望む。前景には大きな松の木があり、その枝は山を隠さないよう、稜線と呼応するよに伸ばされている。簡略化された枝ぶりは、山の姿を際立たせ、遠くの山の頂をより近く、大きく感じさせる。

鉢植えの花と果物 ポール・セザンヌ作1888~90年頃 油彩・カンヴァス

セザンヌは花を描いた作品はあまり残しておらず、次のように語ったと伝えられている。「花を描くことをあきらめた。すぐにしおれてしまう。果物より信頼できる」。本作品では、花と果物の両方が描かれている。一つは洋梨であろうか、皿の果物は、洋梨、リンゴ、レモンのように見える。鉢植えの花はサクラソウとされているが、葉はゼンラニュウニに近いかもしれない。セザンヌの関心は、果物、鉢植えトイウモチーフそのものではなく、その形態の複雑な重なりや相互作用であったのだろう。静物は多視点からとらえられ、テーブルの淵はまっすぐではなく、モチーフをはさむごとにづれているように見える。洋梨は、彫刻のような丸みをもち、テーブルの面より押し出され、私たちのいる空間に出てきそうなくらいだ。

パイプをくわえた男 1892~96年頃 油彩・カンヴァス ポール・セザンヌ作

「カード遊びをする人々」の左の人物と同じモデルで、色彩と描き方が極めて似ていることから、同じ時期に描かれた作品と考えられる。セザンヌ家の別荘であったジャス・ド・ブッファンで働く男性で、パイプを咥え、肩を落とし、やや前かがみの様子で絵がかれている。薄暗い室内だが、男性の向かい側から差し込む光が、全体をやわらかく覆っている。色彩は主に茶とグレーに限られているが、粗い斜めの筆触が用いられ、繊細な色調によって質感や立体感が表現される。本作品に描かれるのは、まだパリほどには近代化の波が押し寄せていない、セザンヌの故郷エクス=プロヴァンス郊外で働く男性である。

カード遊びをする人々 ポール・セザンヌ作 1892~96頃 油彩・カンヴァス

セザンヌがカード遊びをする労働者を描き始めたのは、1890年頃とされる。油彩習作や素描など数多くの関連作品のほか、5点の絵画が残されている。カード遊びをする人々が3人のヴァージョンを2点、描いたのち、本作品を含む二人の作品3点を制作したと考えられている。科学調査によると、本作品のカンヴァス上には石墨による下絵の形跡がほとんどなく、後者の3点のなかでは2番目の作とされる。セザンヌが繰り返し描いた故郷の山サント=ヴィクトワールとおなじように、土地に根付き、昔ながらの生活を営む人々の姿が、厳かさを帯びるように堅固な構成のうちに捉えられている。

キューピッドの石膏像のある静物 ポール・セザンヌ作 1894年頃 油彩・板に貼られた紙

1923年5月、コートールドが購入した最初のセザンヌの絵画。とりわけ複雑な構成を持つ本作品を購入したという事実は、コートールドがその収集の初期から、セザンヌに対する理解をすでに十分に醸成していたことを示すものである。本作品は亡くなる1947年まで手元にも残していた。キューピッドの石膏像は、セザンヌが繰り返し描いたもので、現在もエクス=アン=ップロヴァンスのアトリエに保管されている。46センチほどの像だが、実際よりも大きく感じられるだろう。画面全体の空間は非常に曖昧で、床は傾き、画面奥のリンゴは今にも転がりそうだ。遠くに配されながら大きく描かれたそのリンゴは、遠近の感覚を揺るがせる。石膏像の置かれたテーブルに目を向けると、テーブルと緑の像の台と輪郭は、床と溶け合うで、ここでもモチーフと背景の距離や関係が曖昧にされる。

花咲く桃の木々 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス

「前景の芦の垣根に囲まれた果樹園では、小さな桃の木々が花盛りだーこの地のすべては小さく、庭、畑、庭、木々、山でさえもまるで日本の風景画のようだ。だから、私はこのモチーフに惹かれたのだ」(ぽーる・シニヤックへの手紙)1888年2月、ゴッホはパリから南仏アルルへ移り住んだ。日本美術に熱中したゴッホは、まばつい光の降り注ぐ南仏に「日本」を夢見ていた。ファン・ゴッホは「まるで日本の風景画のようだ」と記した本作品に描かれる平野の右奥には、雪を頂く山が見える。日本の風景を象徴する、富士山の姿を重ねているようだ。1888年10月、アルルにゴーガンが合流するが、年末には発作を起こしたファン・ゴッホが自らの耳を切り、ふたりの共同生活は約2ケ月で破綻する。彼は不安定な精神状態のなか制作を続けるが、1889年5月に自らサン=レミの療養院に入院することとなる。入院前に画家が最後に描いたアルルの郊外の風景とされる。「2点の大きな果樹園を含む6点の春の習作がある。こうした効果ははとてもはかないものだから、とても急いでいるんだ」という文面は、移ろいゆく春の景色を、懸命にカンヴァスに留めようとした画家の姿を想像させる。

 

こんp美術展は、大きく3章から成り、ここに乗せた10枚の絵画が、ほぼすべてでである。ファン・ゴッホが1枚、ポール・セザンヌが9枚の絵を採用した。コートールド氏の収集が、いかに立派で、名作を収集しているかが、この1章で、判るだろう。一応、この展覧会は3回に分けて連載し、多数の作品を描いた画家(収集された作品)を中心に、作品数の少ない作家は、付け足して各1章を書く予定である。3回の連載になる予定であるが、楽しみにして頂きたい。特に印象派、後期印象派を好む方には、素晴らしい収集である。連載の中には素晴らしい名作も数枚含まれている。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派  2019年」高橋秀爾「近代絵画(上)」を参照した)

御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(3) 

正倉院展の後期展示が始まったので、国立博物館へ出かけた所、70分待ちで入館できた。奈良の正倉院展も混むが、東京は2度と来る見込みがないためか、大変な人の山であった、1時間以上外で待って、やっと入館できた。今回は、後期展示物の中から名品を選んで解説したい。いずれも奈良時代、唐時代、西域の宝物類であり、多分、私は2度と見ることが出来ない宝物なので、十分楽しんだ。天皇陛下の御即位記念は、「御即位20年記念特別展」として2009年(平成20年)「皇室の名宝」が公開された。2冊の(前期、後期)の図録が残っており、皇室(三の丸美術館等)の保有する美術品が多数掲載されている。前巻は、「近世絵画の名品」、「近代の宮殿装飾と帝室技芸員」、「大和絵屏風の伝統」の3章から成っている。第2部(後期)は「古の美ー考古遺物、法隆寺献納物・正倉院宝物、古筆と絵巻の世界、中世から近世の宮廷美」「皇室に伝わる名刀」の4章に分かれていた・要するに、「正倉院宝物」は代が変わっても、皇室の名宝の大切な一部であったのである。しかし、私は、この平成20年御即位記念展で、一番記憶に残っているのは第2部の「近世の名画」の筆頭に掲載された伊藤若冲の「動植採絵」全30枚である。かねがね、伊藤若冲は辻信雄著「奇想の系譜」で読み、是非「動植採絵」全30枚を見たいと思っていたが、思いがけない機会に、一番見たかったものを見学することが出来、終生忘れえない記憶となった。今回は、「正倉院の世界」を中心に、奈良に行かず、東京で116点の名品を拝観する機会に恵まれ、この上もない感激であった。名品揃いで、法隆寺からも、聖武天皇の皇女・孝謙天皇が、その遺品を天平勝宝8年の7月8日に、法隆寺へ献納され、その宝物も、今回の展覧会に出品され、聖武天皇の遺品がほぼ全部揃ったような、奈良博物館では実行できなかった、前例のない「正倉院の世界」展が、拝観できる機会に恵まれた。この第3回では、「正倉院の世界」展の後期に展示されたものを、取り上げてみたい。

正倉院宝物 平螺鈿背八角鏡 青銅製鋳造 螺鈿 琥珀 トルコ石 中国・唐時代(8世紀) 正倉院

「国家珍宝帳」に記載のある八角形の平螺鈿背鏡。鏡背に夜光貝や琥珀の薄板を貼り付けて、四方に対称に七弁花文を配し、その花文を中心に花葉文および双鳥文を表す。花芯や花弁に配した琥珀の下には淡緑色の彩色が伏されている。また、間地を黒色の樹脂状物質で埋め、トルコ石の細粒を散りばめている。唐鏡と考えられる。

正倉院宝物 銀平脱合子 木製漆塗 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

碁石を納めた円形の容器。「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の品で、紅芽、黒、白の四種類の碁石とともに、同形の容器四合が伝わる。四合いずれも黒漆地に銀平脱の技法で文様を表す。平脱、巻胎とも後世に伝わらなかったが、本品によって当時の優れた技法の粋が知られる。

正倉院宝物 鳥毛、篆書屏風 紙本着色羽毛貼 6扇のうち2扇 正倉院

   

「国家珍宝帳」に記載された六扇一畳の屏風。各扇ともに君主の座右の銘を表す。文字は、二行各八字で篆書体と楷書体を交互に配し、篆書には鳥毛を貼り重ねる。鳥毛には、日本産の雉や山鳥の羽毛が用いられており、本品が日本で製作されたことがわかる。

正倉院宝物 白銅火舎 青銅製鋳造  中国・唐または奈良時代(8世紀)

仏前に据えて香を焚くために用いられたと考えられる火炉。たらい形の炉を五本の脚で支える。炉は現在は黒褐色を呈しているが、青銅(白銅)製と考えられる。小型で、口縁を外反りに作り、側面には二条の突帯を巡らせ、全体を轆轤挽きで研磨して仕上げる。底面の中央には鋳造する際にできた湯口の痕が残る。獅子形をした脚はいずれも明治時代に付けられた後補で、金銅火舎の脚を参考にして作られた。なお、炉の底には東大寺の墨書が残る。

正倉院宝物 胴薫炉 銅製鍛造 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

銅製鍛造で全面に透かし彫りを施した球形の香炉。衣服や寝具に香を炊き込めるために用いられた。球形の本体は上下に分かれ、下半部は内部に火皿があり、そこで香を焚く。火皿を支える構造は銀香炉と同様で、三重の鉄輪が火皿と下半部を繋ぎ、球の上下がどのような位置に来ても火皿が常に水平を保ち、香や灰がこぼれない仕組みになっている。

正倉院宝物 紫檀木画槽琵琶 木製、木画、革に彩色中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

正倉院に五面伝わる四弦琵琶の一つで、背面の木画など豪華な装飾が施される。四弦の琵琶は、ペルシア起源と考えられており、弦間(上部の弦を納めるところ)より先が曲がることが特徴で、後世の琵琶も同じ形状である。本品の主体部は象牙、緑角、錫など木材以外の材料を用いている。背面の木画は、蓮華、唐花や、花枝を咥えた鴛鴦など左右対称に表現する。

正倉院宝物 伎楽面迦楼羅 桐製彩色 奈良時代(8世紀)正倉院

伎楽で着用する仮面で、迦楼羅(かるら)と呼ばれる役柄のもの。インドの古代神話に登場するガルダに由来する。鳥の頭部に人間の胴体をもつ。のちに佛教の守護神として天竜八部衆の一つとなり、伎楽にも取り入れられた。本品は桐材製で、鶏冠や嘴をもった鳥の形に彫刻されており、嘴の先には法珠を銜える。顔と頭を緑色、鶏冠や頬の肉垂れ、頸、耳の内側を赤色に塗る。正倉院には迦楼羅の伎楽面が五面伝わっているが、髪の毛や人間の耳を持つものなど、面相はさまざまである。

正倉院宝物 漆胡瓶 木製漆塗 銀平脱 中国・唐、あたは奈良時代(8世紀)正倉院

「国家珍宝帳」所載のペルシア風の水瓶。丸く張った胴部に鳥の頭部を象った蓋と注ぎ口が付き、湾曲した把手とラッパ状に裾が広がった台脚を備える。素地はX線透過写真により、テープ状に加工した木の薄板を巻いて成形する巻胎の技法によって作られたことがわかる。内外ともに黒漆塗りで、表面は、銀平脱の技法によって装飾する。本品はササン朝ペルシアで流行していた器形を、東アジアの工芸技法である漆や巻胎を用いて作り、中国・唐時代に盛行した平脱の技法で飾っており、当時の国際交流を示すものと考えられる。なお「漆胡」という名前から、井上靖の「疾呼樽」を推測したが、ペルシャが共通しものかも知れない。(尚、井上靖氏は西域という言葉を使っている)

正倉院宝物 赤胴柄香炉 銅製鋳造 把手に錦・組紐 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

僧侶が手に持って仏前で香を焚き、供養を行う時に用いる仏具。黄銅香炉とほぼ同様の形状と作りだが、本品の方がやや大振りである。朝顔形にした炉は轆轤加工と手加工で精巧に仕上げられており、炉に接合された座は菊花形で、花弁を模した線刻が刻まれる。炉や柄の色味から赤胴と名付けられているが、実際には純胴に近い成分であり、表面を亜酸化銅が覆うことによって赤色を呈していると考えられる。前掲の赤胴合子とセットで使用された可能性が高い。

正倉院宝物 黄銅合子 銅製鋳造 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

仏前で香合として使用されたと考えられる塔椀型の金属製容器である。胴部の中央で蓋と身に分かれ、蓋には七重相輪を象った塔形紐が付き、身には台脚が付く。胴部、紐、台脚は別々に鋳造し、轆轤挽きで仕上げる。塔形紐の造作や台脚の接合方法など、基本的には黄銅合子(前掲)とほぼ同じ作りである。法隆寺の玉虫厨子や勸修寺伝来の刺繍釈迦如来説法図などには、僧侶が塔形合子と柄香炉を両手に持つ姿が描かれており、両者はセットで使用されていたようである。

正倉院宝物 白瑠璃碗 ガラス製 ササン朝ペルシャ(6世紀頃)正倉院

表面全体に円形切子を施した透明なガラスの帵。円形切子は合計80個刻まれており、それぞれが相接しているため、亀甲繋のような文様となっている。当初の透明感は保っているため、一つの切子に反対側にあるいくつもの切子が映り、美しい輝きを生み出している。材質はアルカリ石灰ガラスで、器には厚みがあり、内部には気泡が見られる。溶けたガラスを吹き竿に付け、息を吹き込みつつ成型し、回転する砥石で切子を施したと考えられる。

思分 白瑠璃碗 ササン朝ペルシア 6世紀頃 東京国立博物館

ササン朝ペルシア領域で製作された、アルカリ石灰ガラス製のカットグラス。本品は正倉院の白瑠璃碗(前掲)とよく似ており、やや飴色がかった色調と大きさはほぼ同じあるほか、切子の段構成と数が一致するなど共通点が多い。一方、本品では切子が円文になるが、正倉院の白瑠璃碗では切子が重複して亀甲繋文となる。また重さは正倉院の白瑠璃碗の485グラムに対し、本品は409.2グラムと継ぎ目があるにせよ軽い。本品には江戸時代半ばに、現在の大阪府羽曳野市に所在する安閑天皇陵古墳から出土したととされ、のち近傍の正琳寺に納められことが外箱の箱書きから照明される。安閑天皇は6世紀前半に在位し、正倉院宝物が成立した8世紀半ばとは開きがある。よく似た二つの帵は異なる来歴をたどったが、昭和25年10月26日、正倉院での対象調査で巡り合いを果たした。

 

後期出展の品物は、圧倒的に正倉院宝物が多かった。井上靖氏は昭和25年に「猟銃」という小説で、文学界に登場した。私は高校2年生という多感な時期であったが、この「猟銃」には大きく引き付けられた。以来、井上靖氏の小説は、ほぼ発表される都度、愛読してきた。現在は「井上靖全集」で、全作を読むことがしばしばある。さて、本展覧会では「漆胡瓶」で、氏の「漆胡樽」を思い浮かべ、かつ白瑠璃碗で、「玉腕器」を思い出した。多分、西域だとかペルシアとかに興味を持たれたのだと思う。そういう意味でも、思い出深い展覧会となった。

 

(本稿は、図録「御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美」  2019年」、図録「平成5年  正倉院展 1992年」、図録「平成6年 正倉院展 1993年」、現色日本の美術全集全30巻のうち「第4巻 正倉院」を参照した)

ご即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(2)

毎年奈良で行われる「正倉院展」は、通常70点程度の展示であり、中には素晴らしい宝物が含まれるが必ずしも一級品ばかりではない、中には「会計文書」「作物帳」「如来興顕経」など、仏教専門家でないと、満足に理解できない文書も多数出品されることがある。一般見学者には円鏡とか碁盤とか、いかにも宝物らしいものが見たい。奈良の正倉院展は、内容もさることながら、狭い館内(新館も含めて)に、大勢の観客が集まり、行列を作り、満員の会場の中で、なかなか希望の宝物に近づけないことが多かった。それに比べると、東京国立博物館の平成館は広く、そんなに混雑しえいる訳ではない。むしろ、ゆっくりと宝物を拝観することが出来、生涯で、正倉院宝物をこれだけ多数、一気に拝観することは、多分生涯で2度と無いだろうと思う。選ばれた宝物も一流品揃いで、いかにもご即位展に相応しい美術展であった。図録も色彩美しく印刷され、申し分ない展覧会であった。さて、今回は、前回に触れることの出来なかった分野(具体的には「正倉院の琵琶」「工芸品の共演」「宝物をまもる」の各章で、かつ前期出展物を紹介したい。

正倉院宝物 白石火舎 大理石製 脚及び鐶は銅製鍍金 中国唐 または奈良時代(8世紀)正倉院

仏前に据えて香を焚くために用いられたと考えられる火炉。大理石製の炉を五本の脚が支える。炉は浅いたらい形で、口縁は外反りに作り、側面に三条の突帯を巡らす。使用される大理石は大陸でよく産する質のものに似る。炉の中には当時の灰が塊となって残っている。宝庫には同形大の白石火舎がもう一口伝わっており、一対で用いたものと考えられる。

正倉院宝物 銀薫炉 銀製鍛造 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

全面に透かし彫りを施した球形の香炉。「国家珍宝帳」に続く「屏風花氈等帳」に記載され品である。中国で隋唐時代の類品が出土しているが、5センチほどの小型で佩飾具と考えられるのに対し、本品は系が18センチほどもあり、室内に置いて衣などを被せて香を炊き込んだと考えられる。

正倉院宝物 螺鈿紫檀五弦琵琶 木製・玳瑁・螺鈿 中国・唐時代8世紀 正倉院

「国家珍宝帳」所載の楽器で、正倉院宝物を代表する優品として知られている。五弦の琵琶が4弦の琵琶と異なるのは、弦が五本であることや、頸(くび)が真っ直ぐで、槽の部分が厚いことなどである。インド起源で、中国の文献や壁画などに見えるが、現在品は世界に唯一のものである。

正倉院宝物 紅芽撥鏤 象牙製撥鏤  中国または奈良時代(8世紀) 正倉院

琵琶の弾奏に用いる象牙製の撥。撥鏤技法により赤地に花弁や含綬鳥、鴛鴦、山岳などの意匠とともに、麒麟、馬頭怪鳥といった空想上動物が表現される。成形した象牙を赤色に染め、文様のところどころに黄色や、緑色の点彩を施す。赤色に染める前に彫った細いアタリ線が文様の各所に確認できる。科学分析により赤色にラックが用いられていることが分かっている。

正倉院宝物 伎楽面 酔胡王(すいこおう) 桐製、彩色、貼毛 奈良時代(8世紀) 正倉院

伎楽で着用する仮面で、酔胡王と呼ばれる役柄のものである。伎楽とは中国の仮面劇に由来し、「日本書記」によれば、推古20年(612)に、百済人味摩之が日本伝えたとされる。奈良時代には寺院の法会の際に盛んに演じられた。酔虎王とは、酔った胡人の王、つまり西域の王を指し、劇中では従者と共に登場し、酒宴を繰り広げたとされる。

重分 伎楽面 酔胡王 桐製、彩色、貼毛 飛鳥・奈良時代(7~8世紀) 東京国立博物館

酔胡王とは酔っ払った胡人の王のことで、胡人は西方、ペルシャ系の異民族(ソグト人)で高い鼻が特徴である。王はやはり酒に酔った従者八人を従えて登場するため、酔虎王という面が多く残っている。制作は飛鳥時代末期から奈良時代初期と考えられる。

重分 浄瓶  青銅製鋳造  飛鳥・奈良時代(7~8世紀) 東京国立博物館

楕円形の胴に長い首を着け、頸部に細長く尖った口を設けて、胴部の肩に蓋のある口を設けた水瓶である。本器のような形式の水瓶を、浄瓶あるいは選盞形水瓶などと称している。インドや東南アジアあたりの僧侶が修行生活の中で用いていた水瓶に由来している。

正倉院宝物 黄銅柄香炉 真鍮製鍛造 把手に錦・組紐・ 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

長い柄の付いた香炉。僧侶が柄を手に持ち、火炉で香を焚き、仏前を清めるために用いた。炉は浅い朝顔形で、菊花型の台座の下から鋲で接合している。柄の一端に獅子形鎮子が付く形式は、中国と日本で8世紀に流行した。柄の一端に獅子形鎮子が付く形式は、中国と日本で8世紀に流行した。

正倉院宝物 黄銅合子 真鍮製鍛造 ガラス象嵌 一合 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

仏前で香合として使用されたと考えられる金属製容器。塔型の紐と球形の胴部を持った形式から塔鞠とも呼ばれる。胴部の中央で蓋と亜鉛の合金である黄銅すなわち真鍮製で、胴部、紐、台脚を別々に鋳造し、轆轤挽きで仕上げ、組み立てる。本品は、刻まれた精緻な文様や、顔料の充填、ガラス球など、装飾性が豊かであり、現在確認されている塔椀のなかでもひときわ美麗である。

国宝 赤銅柄香炉 銅製鋳造 把手に錦・組紐 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

僧侶が手に持って仏前で香を焚き、供養を行う時に用いる仏具。黄銅柄香炉とほぼ同様の形状と作りだが、本品に方がやや大振りである。朝顔形をした炉は轆轤加工と手加工で精巧に仕上げられており、炉に接合された座は菊花形で、花弁を模した線刻が刻まれる。炉や柄の色味から赤銅と名付けられているが、実際には純胴に近い成分であり、表面を亜酸化銅が覆うことによって赤色を呈していると考えられる。

正倉院宝物 甘竹笙 竹・木製 奈良時代(8世紀)    正倉院

「国家珍宝帳」に「甘竹簫一口」とある聖武天皇遺愛の品の一つ。十八本の竹簡を並列に並べた吹奏楽器で、上段の吹き口を前後から斜めに切って山形とし、下端は節で終わる。竹簡内には節を穿って貫通しており、管の中に調律用の丸めた紙が詰められている。紙には墨書があることから、反故紙が用いられていると推定される。

正倉院宝物 東大寺屏風裂 七片のうち 緑地霰菱文錦 奈良時代(8世紀) 正倉院

天保4~7年(1833~36)に、正倉院宝庫の点検、修理が行われた。その際に、正倉院伝来の古裂を貼り交ぜた六曲一双の屏風を制作した。これが後世に、東大寺屏風と呼ばれたものである。今回七片が展示されたが、その一部を記載した。

 

流石に、ご即位記念であるだけに、宝物類が充実している。その(2)章では、前期展示のうち、特に目立ったものをピックアップした。(3)章では、後期展示されるものの中から選んで、お目に掛ける。後期は11月6日から24日までであるので、その間に連載したい。

 

(本稿は、図録「御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美  2019年」、図録「平成5年  正倉院展   1993年」図録「平成6年  正倉院展   1934年」を参照した)

ご即位特別記念 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(1)

この度、天皇陛下のご即位に祝意を込めて、ご即位記念展覧会「正倉院の世界ー皇室が、まもり伝えた美」が開催された。本展覧会は、天皇の勅封によって厳重に守られてきた正倉院宝物を中心に、東京国立博物館が所蔵する法隆寺献納宝物なども合わせて展示し、古代日本の国際色豊かな文化を紹介することが目的である。正倉院宝物は、光明皇后が聖武天皇の御遺愛品をはじめとする品々を東大寺の廬舎那仏に捧げられたことに由来する。その内容は、まさに「シルクロードの終着点」とも言われるほど当時のアジア大陸の面影を留めており、世界でも比類のない文化財である。正倉院宝物の一般開放は、昭和24年な奈良国立博物館に始まり、これまで71回を迎えた。井上靖の小説「漆胡樽」(しっこそん)に、第1回の正倉院宝物展の様子が詳しく述べられているが、あれから71回目を迎えることになったのかという思いが強い。私自身も、京都に住んでいた頃には、しばしば「正倉院宝物展」を見学したものである。法隆寺献納宝物は、明治時代に法隆寺から皇室に献納され、その内容は飛鳥・奈良時代の美術を代表するものとして、正倉院宝物と双璧をなす。正倉院宝物は、大部分が東京国立博物館に常時展示されているが、(小仏像及びその群像類)今回展示されるものは、「秘宝」として博物館に奥深く内蔵された宝物である。この展覧会は前期、後期に分けて展示されるため、この原稿も2,3回に分割して執筆することとなる予定である。

正倉院宝物 国家珍宝帳(東大寺献物帳)紙本墨書 一巻 奈良時代

天平勝寶八歳六月二十一日、聖武天皇の四十九日にあたり、光明皇后は天皇遺愛品を中心とする六百数十点を東大寺の廬舎那仏に捧げた。本品はその際の献物帳である。目録は名称や数量のほか、寸法、材質、技法、ときに由来に及んでいる。末尾に当時権勢を誇った藤原仲麻呂以下の署名がある。

国宝  法隆寺献納物帳  一巻 奈良時代  天平勝宝8歳(756)東京国立博物館

天平勝寶8年5月2日に崩御した聖武天皇の供養のため、その遺品を、皇女・孝謙天皇が7月8日に法隆寺へ献納したことを記す。聖武天皇が生前大切にし、身近に置いたもので金光明寺(東大寺)をはじめとする十八寺に分けて納めると述べる。「東大寺宝物帳」と同じく庶務天皇の遺愛品を、后・光明皇后が、法隆寺に献納したことを示す。

正倉院宝物 平螺鈿背円鏡 中国・唐時代 8世紀  正倉院

「国家珍宝帳」に記載のある円形の平螺背円鏡。背後に夜光貝や琥珀の薄板を張り付け文様を表す。文様は宝相華文様を表す。琥珀の下には、緑や赤の彩色を伏せ、文様に変化を与える。鏡胎は青銅鋳造製である。

国宝  海磯鏡 青銅製鋳造 中国・唐または奈良時代 東京国立博物館

青銅製の大型鏡であり、鏡全体に山水文様を表す。天平8年2月22日に光明皇后が法隆寺に六面の白銅鏡を献納したことが記されている。法隆寺献納宝物帳には、この海磯鏡が二面とも伝わっている。

正倉院宝物 銀平脱合子 中国・唐または奈良時代 8世紀 正倉院

碁石を収めた円形の容器。「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の品である。紅芽、紺芽、黒、白の四種類の碁石とともに、同形の容器四合が伝わる。

正倉院宝物 鳥毛帖成分書屏風 六扇のうち二扇 奈良時代(8世紀)正倉院

      

「国家珍宝帳」に記載された六扇一畳の屏風。緑青地あるいは園地に鳥毛を用いて意匠化された楷書を表す。各扇ともに二行八字で君主の座右の銘を表しており、天皇の身辺に置かれた屏障具としてふさわしい。文字は日本産の雉の羽毛を貼り重ねている。

正倉院宝物  墨画仏像  麻製 墨絵 奈良時代(8世紀) 正倉院

「麻布菩薩」と呼ばれる、文字通り麻布に乗雲の菩薩を墨で描いたもの。菩薩は大きな宝髮を結い、左肩から斜めに丈伯をかけ、下半身には裙を着け、一群の霊芝雲に座する。天衣は風にたなびき大きく弧を描き、天空から下降してくる姿を描いている。中国盛唐の仏像やその影響を受けたものに作例がみられる。

正倉院宝物 花氈(かせん) 中国・唐時代・8世紀  正倉院

花氈とはフェルト製の敷物で、文様のあるものを差す。本品は、唐代に流行した打球(ポロ)に興じる唐子を中央に置き、二種の花卉紋の列を交互に並べ、四周は淡青色の帯で縁取る。唐子の細やかな表情までもが、描線ではなく羊毛材を用いて巧みに表現されている。

正倉院宝物 黄熟香(おうじゅくこう) 沈香材 東南アジア 正倉院

香木の沈香(じんこう)で、東南アジアに産し、舶載されたものである。樹脂や精油が沈着している。外面は黒褐色色を呈し、内部は殆ど空洞であるにも関わらず、11.6キログラムもの重さがある。有名な「蘭者待」(らんじゃたい)で、室町時代に名付けられた雅名である。足利義正や織田信長などが切り取った記録記録として残る。また明治天皇が截香(せつこう)した小片を火中に投じた際、「勲咽芳芬として行宮に満つ」と記すほど芳香を放ったという。

香木の沈水香(じんすいこう)東南アジア  東京国立博物館

インドから東南アジアにかけての熱帯や亜熱帯地域に生える樹木には、芳香を放つ樹脂を出すものがあり、これを香木という。日本では香木は産しないので、舶来品が用いられた。仏教の礼拝において香を焚くことが欠かせないので、香木は仏教伝来とともに伝わったものであろう。古くから寺院に香木が収蔵されており、法隆寺においても沈水香や白檀香などが伝えられた。

 

前期に陳列された正倉院宝物、法隆寺宝物から有名な宝物を選んで記事にしてみた。選択は私の意志で選んだ。8世紀から16世紀頃までの名品を選んだ。奈良国立博物館で開催される「正倉院展」は今年で71回目を迎えたが、未だ陳列されなかった寺宝も、今回は展覧されている。素晴らしい展覧会でああった。後1~2回に分けて報告する。

 

(本稿は、図録「ご即位特別記念展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美 2019年」、図録「平成5年 正倉院展図録  1993年」、図録「平成6年  正倉院展図録  1994年」を参照した)