ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(3)

ハプスブルス家の最も重要なコレクターに一人で、今日の美術史美術館絵画の礎を築いた、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム(1614~1662)のコレクションに注目する。既にコレクシヨンの歴史(2)」で大半を取り上げたが、まだ全部紹介できた訳ではない。この章では、「芸術を愛したネーデルランド総督」であったヴィルヘルム大公の集めた絵画1400点の一部をまず紹介したい。また最終章である本稿では、ハプスブルグ家の難局を乗り切り、広大な領土を統治した女帝マリア・テレジアや、神聖ローマ帝国最後の皇帝で、オーストリア帝国初代皇帝でもあるカール6世や18世紀という激動の時代に生き、それによって我々を魅了してやまないハプスブルグ家の人々を、肖像画を通して紹介することで、本稿を終わりたい。

ユピテルとメルクリウスを歓待するフィレモンとバウキウス 1620~25年頃 油彩・カンヴァス

本作品の主題は、オウイデイウスの「変身物語」に基づく。フリギア(小アジア中西部)で、神々の父ユピテルと彼の伝令使メルクリウスは変貌して宿探しをしていた。幾度も門前払いをされたが、フィレモンとバウキスという老夫婦のみが、彼らの正体を知ることなく自ら簡素な小屋へ招き入れる。夫婦は簡素ながら心のこもった食事を提供し、籠に盛ったナッツ、イチジク、そして甘い香りのするリンゴとブドウのデザートまでつけた。酒も出しのだが、驚くべきことにそれは一向に減らず、飲み干すと自ら満ちるのだった。このために、老夫婦は自らの客人が神であることに気付いたのである。本作品では、向かって左にユピテル、その奥に赤い衣服をまとったメルクリウスが、フィレモンと共に円卓を囲んでいる。フィレモンはメルクリウスの方を向き、右手を胸に当てて粗末なもてなしへの許しを乞う仕草をしている。自らの客人が神々だと気づくのである。円卓の上にはまだパンがまるまる一つと、オウィディウスの記述にあるデザートに似たリンゴ、イチジク、ブドウがいっぱいの籠が載っている。本作品は、バロック期のフランドルにおける傑出した画家ポーテル・パウル・ルーベンスの工房で制作された。ルーベンスは1600年にイタリアに旅たち、1608年にアントウエルペンに戻った後、その地で高度に組織化された工房を設立した。この工房で専門画家たちと共働することさえあった。フランス・スネイルデルス(1579~1657)は静物と動物をしばしば依頼された専門画家であり、本作品におけるガチョウと静物部分は彼の工房によるものである。

ソロモンの塗油 コルネネーリス・デ・フォス(フュルスト、1584/85・アントウエルパエン 1651)

本作品において、コルネーリス・デ・フォスは、主に塗油の儀式に焦点を当てている。そのため19世紀においては、フランク王国の王クローヴィス1世(466年頃~511年)の洗礼を描いたものと見做された。実際、ソロモンが細工の施された盆に屈みこむ様子は、キリスト洗礼のを描いた場面をおおいに想起させる。しかしながら、王家の象徴である笏(左)と王冠(右)を載せたクッションを手にした小姓が左右に控えるために、主題は王に関係していることが明らかである。コルネーリス・デ・フォスはペーテル・バウル・ルーベンスよりも10歳ほど若く、今日ではその肖像は作品によってよく知られている。1630年代には、スペイン王フェリペ4世からルーベンスに注文されたた作品のため、ルーベンスの下で働いていた。1636年から1638年にかけては、王の狩猟休憩塔トーレ・デ・ラ・バラーダのためルーベンスの下絵を用いて「ヴィーナスの誕生」や「アポロンとピユトン」を制作している。

だまされた花婿 ヤン・ステーン作 1670年頃 油彩・カンヴァス

結婚式の一行が宿屋に到着したところである。宴はすでにたけなわにで、音楽と演奏され、ゲストは楽しそうに食べたり飲んだりしている。人々は賑やかに花嫁と花婿の周りでひしめき合う。テーブルについているゲストはわずかである。新婚のふたりはゲストを後にして寝室に向かおうとしている。「花嫁の初夜の床へ誘う」行為が構図の右半分で繰り広げられている。やや中心から外れた位置に置かれているものの、この風俗画作品の主題を解き明かすのはこの場面である。この作品でステーンは16世紀の絵画伝統から生かされた要素をさりげなく用い、全体として、床入り、不釣り合いな恋人たちの讃え、欺かれた花婿という主題を取り上げている。

神聖ローマ皇帝カール6世(1685~1740)の肖像 1720~30年頃 油彩・カンヴァス オーストリアの画家

この楕円形の肖像画は神聖ローマ皇帝カール6世が描かれている。彼は1711年に没した兄ヨーゼフ1世を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。皇位の承継と同時に、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王の地位も引き継いだ。カール6世は男子の世継を得ないまま1740年に死去したが、周到にも1713年に発布した国事詔書によって、長女マリア・テレジアに代々の領地だけでなく、ボヘミヤとハンガリーの王位も継承できる手筈を整えていた。ただし女性であるがゆえに、彼女が皇帝の称号を引き継ぐことは叶わなかった。かれの地世の対外政策は、南ヨーロッパにおける対オスマン帝国との戦争と、国事詔書を何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書は何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書によって、ハプスブルグ領の不分割と、女性による皇帝継承の可能性が担保された。またオーストリアのバロック芸術は彼女の地世下に頂点を迎え、とりわけ音楽、建築、フレスコ壁画が発展した。

皇妃マリア・テレジア(1717~1780)の肖像 マルティン・ファン・メイデンス作 1745年頃 油彩・カンヴァス

この作品に描かれるのは、オーストリア史で最も重要かつ人気の高い統治者に数えられるマリア・テレジアである。マリア・テレジアは1736年にロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚し、その後に父である神聖ローマ皇帝カール6世が死去すると、オーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王の地位に就く。この三つの地位は、聖イシュトヴァーン王冠(ハンガリー)、聖ヴァーツラフ(ボヘミア)、そしてオーストリア大公冠という、テーブルの上に3つの王冠で表現されている。女性は神聖ローマ皇帝にはなれなかったため、夫が1745年に神聖ローマ皇帝にフランツ1世として即位した。この絵はそのその少し後に制作され、フランツ1世を描いた現存しない絵と対になっていたに違いない。版画に添えられた銘が説明するように、両肖像画はマリ・テレジアの治世初期に重用された宮廷画家、マルティン・ファン・メイテンス(子)によって描かれた。

ホーフブルグで1766年に開催されたオーストリア女大公マリア・クリスティーナとザクセンのアルベルトの婚約記念晩餐会 ヨハン¥カール・アウアーバッハ作1773年頃 油彩・カンヴァス

この大勢の人物が描きこまれた1773年の絵画は、オーストリア大公女マリア・クリスティーナとザクセンのアルペルトの婚約を祝って1766年に開催された公式晩餐会の記録である。マリア・テレジアの愛娘マリア・クリスティーナは2年前にザクセン公アルベルトと知り合い、恋におちていた。しかし父のフランツ・シュテファン(後のローマ皇帝フランツ1世)は、アルベルトと結婚したいいう娘の希望を、妻の同意にもかかわらず受け入れなかった。フランツ1世が亡くなってようやく、後を継いだヨーゼフ2世から、後のザクセン=テシュン公アルベルトー宮廷内ではその地位がマリア・クリスチーナにふさわしくないという意見もあったーとの結婚に同意が得られた。婚礼は、婚約を祝った4日後に宮殿シュロスホーフで行われた。絵に中では、2番目の妻マリア・ヨーゼファ・バイエルンと並んでゲストを前に天蓋のしたに座る皇帝の左手に、新郎新婦が見える。

フランス王妃マリー・アントワネットの肖像 マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルフラン作 1778年 油彩・カンヴァス

1776年、ヴィジェル=ルブランは王家の肖像画家として王室建築局に雇われ、2年後にがその腕を見込まれて王妃マリー・アナントワネットの肖像を描く大役を得る。ヴィジエル=ルブランが描いた肖像画は1779年に引き渡され、それを待ちわびていた母后マリア・テレジアのもとへすぐさま送られた。それが本作である。画家は政略結婚によりフランス王家に嫁いで間もない若きマリー・アントワネットを、瑞々しさと高貴さをかねそなえた佇まいで描き出した。画面右腕には夫ルイ16世の胸像が高い台座の上に掲げられ、その下には王権を象徴する王冠が置かれている。バニエで膨らみをもたせた宮廷ドレスは、サテン地の真珠色と房飾りの金色の繊細なニュアンスによって、豪華でありながらも落ち着いた気品を漂わせる。その一方で、手にしたバラの花と呼応するかのように薄紅色を帯びた王妃の唇や頬は、白くすべらかな肌によく映え、健康的な印象を与える。誠に、素晴らしい出来栄えである。

イタリア王としてのナポレオン・ポナバルト 1806年以降 油彩・カンヴァス アンドレ・アッピーニの工房作

本作品の像主であるナポレオンは、流星の如き異例の勢いで頭角を現した。青年期までをコルシカ島で過ごした後、1793年にトゥーロン包囲戦で砲兵体長を務め、初めて指揮を執ったこの戦いで見事に勝利を収めた。それからわずか数年後に、軍勢の数で劣勢に立たされながらも、ピエモンテ=オストリア連合軍の同盟関係を切り崩し、北イタリアの大部分をフランスの支配下に置くことに成功した。彼はとりわけ将軍として兵士たちの忠誠心を掌握する能力に秀でていた。また戦術に長け、戦場の地勢についての正確な知見を有していた。イタリア遠征とそれに続くエジプト遠征ににょって、彼はフランスのあらゆる政治派閥から幅広い支持を得た。ナポレオンはまた、政治家としても精力的に活動した。イタリア王ナポレオンの戴冠式は、1805年5月26日にミラノ大聖堂で執り行われた。アッピーニによって手掛けられた本作品は、おそらく戴冠式の直後に描かれたものであろう。

オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨゼフ1世 ヴィクトール・シュタウフアー作 1916年頃 油彩・カンヴァス

フランツ・ヨーゼフ1世は最後から2番目のオーストリア皇帝で、在位は68年に及んだ。この肖像画は、有名な肖像亜画家ヴィクトール・シュタウファー作である。皇帝の死の直前に制作された可能性が高く、どちらかと言えば非公式なものである。皇帝は明らかに年を取っているが、意思の力を感じサセルオーラがにじみ出ている。くすんだ水色の陸軍元帥の軍服を身に包んでいるが、これは1914年に第一次世界大戦が勃発して以来、ハプスブルグ帝国が戦争状態にあることを意味するようである。フランツ・ヨーゼフ1世の死の2年後に終結するこの壊滅的な戦争は、オーストリア=ハンガリー帝国の敗北と君主制の廃止をもたらした。ハプスブルグ家のコレクションをまとめたウィーン美術史美術館が1891年に開館したのも、その在位中のことである。

薄い青のドレスの皇妃エリザベト  ヨーゼフ・ボラチュク作 1858年 油彩・カンヴァス

エリザベトを縮めたシシィという愛称で知られる。オーストリア=ハンガリー二重帝国皇妃の生涯は、その死後ほどなくして、神話的な地位を得るようになる。数々の書籍、ミュージカル、映画が、彼女の生涯を感傷的かつロンティックな物語として描き出したのである。こうした物語の登場人物としてシシィが盛んに取り上げられたのは、言うまでもなく、彼女が「世紀末」という、ハプスブルグ家が君主政治が隆盛を極めた時代に生きたことによる。さらに無政府主義者ルイージ・ルケーニの手に掛かり悲劇的な死を遂げたことも、大衆の関心を一層高める要因となった。一方で、シシィが名声を獲得しえたのは、自立心の強いその人間性によるところも大きく、その点で彼女はハプスブルグ皇帝の皇妃たちと一線を画した。

 

ナポレオン戦争をきっかけに神聖ローマ帝国は解体し、1804年にオーストリア帝国が誕生する。(1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組)しかし、同帝国も大一次世界大戦での敗戦により崩壊し、ハプスブルグ家の栄華は終焉を迎える。いわゆる同家の黄昏の時代であるが、この時代には、現在につながるウィーンの街の姿を整えられ、ウイーン美術史美術館の建設も行われた。最終章では、実質的な「最後の皇帝」として、ハプスブルグ家有終の美を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世ゆかりの品品である。また彼の皇妃で、類まれな美貌と悲劇的な人生で今日も注目をされ続けるエリザベト(1831~1898)の肖像画である。神聖ローマ帝国とか、ハプスブルグ家とか、必ずしも詳しくない近世、中世のオーストリア、ハンガリーの歴史や人物を詳しくしることがっ出来て、大変良い歴史の勉強になった。特に、小学校の時から憧れた「マルガリータ・テレサ」の肖像画に出会え得たことは、何よりも大きな収穫であった。特に、今年の美術展では記憶に残る展覧会であった。

(本稿は、図録「ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクション 2019年」、図録「フェルメール展  2018年」、山川出版社「山川世界史」を参照した)

ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(2)

神聖ローマ皇帝レオボルト1世と皇妃マルガリータ・テレサの宮中晩餐会 1666年 油彩・カンヴァス ヤン・トマス作

フランドルの画家ヤン・トマスは、神聖ローマ皇帝レオポルト1世とスペインから嫁いだマルガリータ・テレサとの結婚を祝って数年間続いた祝賀期間中、ウイーン宮廷で特に重用された画家の一人である。本作品で、画家は過去に描いた皇帝夫妻の肖像をそのまま引用した。ここに描かれる仮想パーティーの舞台は、おそらくウィーンのホーフブルグのレドゥーテンザーが翼にある舞踏会場である。画家は、60人以上が馬蹄形のテーブルに沿って並んだところを、中心軸からややずれた視点から見下ろして描いている。このテーブルが並び、ゲストが席についている。観音開きのドアの向こうには控えの間があり、護衛が待機している。テーブルと皿の上に置かれた印象的な花ー主にチューリップの仲間ーはフランス風に飾られたテーブルの過剰な豪華さを示すだけではなく、ウィーンの宮廷でこの東洋の植物が有していた重要性を強調してもいる。

クレオパトラ チェザー・ダンディーニ作 17世紀 油彩・カンヴァス

帝政ローマ時代の著述家ブルタコスの「英雄伝」によれば、アクティウムの海戦に敗れ、愛するアントニュウスに先立たれたエジプトの女王クレオパトラは、捕虜にになることへの恥辱とアントニウスを失った悲しみから、蛇に身を噛ませて自ら命を絶った。本作品では、クレオパトラは女王にふさわしい豪華な衣装を身にまとい、右手で蛇を握りしめている。蛇は身をくねらせながら襲いかかり、彼女の胸元からは血が流れている。苦悶に打ちひしがれたクレオパトラは、左手を大きく広げ、目を潤ませながら天を仰いでいる。制作者はチェザーレ・ダンディーニであると考えられる。フィレンツェに生まれ、主に同地で活動した画家ダンディーニは、1630年代半ばごろから晩年まで、抽象的な概念を擬人化した女性たちや、キリスト教の聖人伝および古代史に取材した女性たちの半身像を多く描き、人気を博したとされる。

キリスト降誕 アンジェロ・ソリメーナ作 1665年頃 油彩・カンヴァス

このトンド(円形画)では、ベツレヘムにおける神の子の降誕と将来のその自己犠牲という二つの神学的主題が一つになっている。ただし前者が明示されているのに対し、後者は隠されている。一家が身を寄せた間に合わせての宿の外では夜が明けつつあるが、マリアとヨセフと幼子を明るく照らしているのは側面からの光である。さらに、幼子の頭の周りには後光が輝き、この場面が神の誕生(古代ギリシャ語でいう「エピファネイア」つまり顕現の場面)を描いたものであることを明らかにしている。キリストの仕草も目を引く。子羊の方を指さし、受難と自己犠牲という、表面には現れない第二の主題をほのめかしているのである。人物の様式、その魅力的だが憂いを帯びた登場人物たち、とりわけ丹念に描写された相貌、色彩といった要素から、ウィーンの作品はグラヴィーナ(煉獄教会)にある「天使と聖人を伴う聖母」(モノグラムと1667年という年代が記されている)の時期に制作されたアンジェロ・ソリメーナの作品に結びつけられる。

東方三博士の礼拝 ヤン・ブリューゲル(父)の作品に基づく 1663年頃 油彩/鋼板

ヤン・ブリューゲル(父)の人気作品に基づく模写である。ヤンは16世紀フランドルを代表する画家ピーテル・ブリューゲル(父)の長男で、細密描写を駆使した、多くの場合小型の歴史画や寓意画、風景画などで人気を博し、1598年の年記を持つヴァージョンおよび、ヤン自身が水彩で制作したその模写とほぼ完全に一致する。画面では、朽ちかけた厩の前で、聖母の膝に抱かれたイエスが贈り物を捧げる賢者たちを祝福している。聖母の後ろで何事かを耳打ちされるのは彼女の夫のヨセフである。(「東方三博士の礼拝」は、キリスト教では良く描かれる)

緑のマントをまとう女性の肖像 バリス・ボルトドーネ作 1550年頃 油彩・カンヴァス

ボルドーネは、1500年、トレヴィーゾに生まれた。父の死後、ヴェネツィアでおじに育てられ、ラテン語と音楽の教育を受けた。1514年頃、ティツィーノの工房に加わったが、間もなく不仲となり、わずか数年で工房を去った。両者がライバル関係にあったことは、ボルドーネの絵画制作が長きにわたりティツィアーノの作品に触発されていたことを意味するからである。ボルドーネは小型の歴史画の制作に長けていた。その独自の様式は官能的な女性像に適しており、それらの作品によって彼は名声を轟かせた。本作品の女性像は四分の三正面観で描かれ、膝から上の画面に収められている。彼女は壁の凹みの前に立っており、その身体をわずかに左に、頭部は右を向いている。彼女の視線は身体の動きに従い、右遠方へと向けられている。両腕は力強く彫塑的だが、肌の肌理は柔らかさを感じさせる。右肩のごく一部のみを覆う緑のマントは左腕にまとわりつき、腹部に押し付けられている。そのたっぷりとした量感を、壁に埋もれた左小指が強調している。彼女は左肩の上で結んだ「カミーチャ」と呼ばれる肌衣を身につけているが、その胸は完全に露わになっている。白い肌衣と胸を縁取るような赤味がかかった金髪は、肌衣とともに胸を際立たせ、乳首の赤みが、頬や小鼻の赤みと一致して本作品の官能性を高めている。ボルドーネは、この肖像画を通して、絵画の生き生きとした輝きを提示した。像主は、恥じらいつつ慎ましやかに、しかし、同時に堂々と女性としての魅力を誇るが、この羞恥と誇らしさの間で揺れ動く感情表現が、本作品のとりわけ顕著な特徴となっている。

甲冑をつけた男性の肖像 ヤーコボ・ロプスティ作 油彩・カンヴァス 1555年頃

ヤーコボ・ロプティス(本名)は伝承に従うと、彼はティツィアーノの工房で徒弟時代を過ごしたと考えられる。その後、1539年までには独立した画家として活動するようになった。彼が関心を向けるようになった頃、ヴェネツィアでは、トスカーナ摘方と、ロマのマニエリスム様式が人気を博していた。それゆえ、彼はまさに画家としての修行を始めた当初から、その教えを吸収することとなった、優れた肖像画家としても名声を得た。本作品がオーストリア大公レオボルト・ヴィルヘルムのコレクションに入って以来、テイントレットへの帰属に疑義が呈されたことは一度もない。この美しいカンヴァスの画は、円柱の基礎にある銘が示すように、30歳前後の男性の容貌を生き生きと描いている。彼の顔は赤みがかった顎髭に囲まれており、冷静で確かな自信を伝える、穏やかな揺るぎのない眼差しが感銘をもたらす。彼は赤い脚衣をつけ、金の装飾をもつ一揃いの高価な甲冑を、腿より上のみに着用している。描かれているのは出陣前の軍人であることは、繊細な彫金の施された豪華な甲冑のみならず、像主の自信を映すその姿勢からも明らかである。本作品は、ティントレットの最良の肖像画の一つであり、像主の個性を十全にとらえるとともに、その社会的役割を伝え、彼が身を置いていた文脈のうちに描いている。本作品は、1550年代の肖像群において頂点を迎えた、表現手段の洗練がみて取れる。

ホロフェルネスの首を持つユディト ヴェロネーゼ作 1580年頃 油彩・カンヴァス

ここに描かれている物語の舞台は、紀元前6世紀のベトリアというユダヤの町を包囲していた、アッシリア軍の将軍ホロフェルネスの野営陣内である。魅力的で高潔なユデイトという裕福な寡婦は、自らの町を救うため敵陣に入り込み、策略によってホロフェルネスに取り入った。ホロヘルネスはおそらく彼女を誘惑しようとテントに誘い込んだが、ユデイトは彼が酔いつぶれたのを見てその剣をつかみ、首を切り落として持ち帰ったのである。アッシリア軍は彼女の恐ろしい勝利品を見て逃げ帰り、かくして町へ戻ったユデイトは女傑と称賛された。ヴェロネーゼはまさに、ホロフェルネスの首をはねた直後のユディトを描いている。ヴェロネーゼは画家アントニオ・バディーレの工房で画家としての教育を受けた、ヴェローバに浸透し豊かな実りをもたらしていた中部イタリアのマニエリスムの影響は、この若き画家に重要な役割を果たした。同様に、この町でみつかったローマ時代の遺物の魅力は、彼の将来の芸術家としての成長に間違いなく関係している。若き画家はヴェネツィア共和国の田園地帯に点在する貴族の別荘(ヴィラ)のフレスコ装飾に従事した。この絵を見て、私は、かつて粗筋を読んで、どこかで見た絵画であると思い、前の図録を読み直してみたら「フェルメール展」で見た、ヤン・デ・ブライの「ユーディトとホロフェルネス」という絵画であった。この話は聖書外典の「ユーディト記」10-14章に出てくる話のようである。去年見た展覧会であるが、案外記憶は鮮明に残るものであると感じた。

キリスト捕縛 バルトロメオ・マンヅレーディー作 1582年 油彩・カンヴァス

これは、キリストがオリーブ山で祈りを捧げた後、ユダの裏切りによって捕らえられる場面である。赤い衣のキリストが、兵士たちに囲まれ、茶色い衣まとったユダから今にも裏切りの接吻を受けようとしている。キリストはわずかに視線を下に落とし、抵抗することもなく自らの運命を受け入れるかのように静かに両手を広げている。銀貨30枚で買収されたユダは、闇夜の中誰がイエス・キリストであるかをユダヤの祭司長に知らせるため、イエスに接吻した。この作品は、カラヴァッジョによる同主題作品の構図を反転して構成されている。研究者パピによって「マンフレーディの最も重要な作品の一つ」として紹介された。北イタリ生まれのマンフレディーは、ローマにおけるカラヴァッジョの最も重要な追随者の一人で、遅くとも1607年頃から同地で制作をしていた。

エジプト逃避途上の休息 ヤン・ブルューゲル(父) 1595年頃 油彩・鋼板

「エイジプト逃避途上の休息」は16世紀フランドル絵画でとても人気のあった主題である。ベツレヘムからエジプトに旅する聖家族という主題は幼子イエスにとっての最初の試練にかかわり、受難の悲劇を予測させるものだが、その旅の途中に休息をとるという主題は、親子水入らずの愛情に満ちた場面として人気を博した。本作品でも、悲劇的な要素は希薄で、森の近くで休憩する親子の姿に苦難の色は認められない。ヤン・ブリューゲルが風景を担当し、そこにロッテンハンマーが人物モチーフを描いたのである。異なる分野を得意とする複数の画家がそれぞれ専門分野を担当して一つの絵画を制作するやり方は、17世紀フランドル絵画に頻繁に見られる形式である。

堕罪の場面のある楽園の風景 ヤン・ブリューゲル(父)作 1612~3年頃 油彩・板

本作品に記された年代は下2桁が欠けているが、1612年の年記は施されたローマのドーリア・パンフィーリ美術館にある同サイズかつ本作品と同じ聖書の主題を扱った絵画や、1613年の年記を持つロスアンゼルスのjポール・ゲッティ美術館の「ノアの箱舟への乗船」、そしてこれら同年代に制作された考えられるブタペゲル(父)の作品の例にもれず、主に1620年以降、その大規模な工房では彼の楽園風景の複製と類似作品がいくつか生み出された。そうした作品はやはり画家であった息子ヤン・ブリューゲル(子)の作とされている。本作品はブリューゲルの楽園描写が特に洗練された例で、自然の青々とした草木のうちに様々な種が写実的かつ詳細に描き込まれている。ヤン・ブリューゲル(父)はピーテル・ビリューゲル(父)の次男で、何世代も続く有名な画家一族の一員である。

 

この章では、主に旧約聖書や古い記録にのこされた話題を絵画に仕立てたものを取り上げた。図録の分類で言えば「Ⅱルドルフ2世とプラハの宮廷」、「Ⅲ コレクションの黄金時代:17世紀における偉大な収集のうち1.スペイン・ハプスブルグ家とナポレオン1世」の項の一部である。旧約聖書などを扱った絵画を取り上げたせいか、どこかで見た事例が多かった。あまり旧約聖書の場面を描いた絵画を取り上げなかったので、今回は敢えて、古い文書にしるされた絵画場面を多く採用した。また企画は「日本・オーストリア友好150周年記念」というサブタイトルが付いている。明治維新以来150年であり、多分新しい明治政府は、徳川幕府の「鎖国条例」を廃止し、世界各国と友好条約を結んだ年(明治元年)に当たったのであろう。

本稿は、図録「ハプスブルグ展ー600年にわあtる帝国コレクション 2019年」、図録「フェルメール展  2018年、2019年」参照した)

ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(1)

欧州の名門=ハプスブルグ家=の美術品が、今回国立西洋美術館で開催されている。非常に興味を持って、同展を観覧した。「素晴らしい」の一言である。ハプスブルグ家はライン川上流地域の豪族として頭角を現し、13世紀末にオーストリアに進出し、同地域を拠点に勢力を拡大し、広大な帝国を築き上げた。15世紀以降は、神聖ローマ帝国の皇帝位を代々世襲した。ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国解体後は、後継のオーストリア帝国(1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組)の皇帝となった。第一次世界大戦後に帝国が終焉を迎えるまで、数世紀にわたり広い領土と多様な民族を統治したヨーロッッパ随一の名門である。なお、今回の展覧会で最大の「見たい絵画」はベラスケスによる「マルガリータ・テレサ スペイン王女」の肖像画であった。私の美術関心は中学生時代に愛読した、「世界の美術全集」全30巻の全集(父の集めた書籍の一つ)である。中でもベラスケス作の「マルガリータ・テレサ スペイン王女」の肖像画が秀逸であり、こんな素晴らしい美術品がスペインに有るのだと思った。今回の「ハプスブルグ展」の最大の関心は、ベラスケスの「マルガリータ・テレサ  スペイン女王」の幼い時期の絵画であった。私だけの関心ではなく、展覧会を見た観客の最大の関心は、愛らしい「お姫様」の絵であって、黒山の人だかりであり、人気を一番集めていた。

ローマ王としてのマクシミリアン1世 ベルハルト・シユトリーゲン作 1507年頃 油彩・板

マクシミリアン1世(ローマ王在位1486~1519)/神聖ローマ皇帝在位1508~1519年)は、ハプスブツグ家による支配の基礎を築いた人物で、同家がヨーロッパで最も勢力のある一門として長く君臨するために、巧みな結婚政策を展開した。自身は1477年にマリーー・ド・ブルゴーニュ(1457~1482)と結婚し、彼女が早世したため、ブルゴーニュの領地を手に入れた。同様に、子供や孫たちの結婚も将来にまで及ぶ重大な結果をもたらし、これによって、ボヘミヤ、ハンガリー、そしてスペインもハプスブルグ家の所領となった。熱心な美術品収集家でありマクシミリアン1世は、同時代の最も有名な芸術家たちを雇い入れた。彼は自身を記憶に留めさせることに関心を持ち、それが作品制作を命じる上での主要なテーマの一つとなった。

馬上試合用甲冑、「網模様の甲冑セット」より アウグスブルク 1571年頃 アントン・ベッフェンハイザー作

この甲冑は、16世紀における最も印象的な甲冑セット、いわゆる「網模様の甲冑セット」に属するものである。この名称は、腐食させた金属に鍍金して著した帯が絡み合い、甲冑全体の表面に織りなされる装飾を施している。本作品を制作したのはアウグスブルグを拠点とした甲冑師アントン・ペッフェンハウザーとみられる。1545年にはアウスブルグで親方甲冑師の資格を得るや、彼は帝国自由都市ニュルンベルグで最も成功した甲冑師の一人となった。彼の経済的成功は、オーストリアとスペイン双方のハプスブルグ家や、神聖ローマ帝国内のその他有力な諸侯たちの栄誉ある注文に応えて指揮した、甲冑の大量生産に基づくとみられる。「網模様の甲冑セット」は、徒歩による試合用、馬上試合用、馬上槍試合用により構成される。

オデュッセウスとキルケ バルトロメウス・スプランゲル作 1580~85年頃 油彩・カンヴァス

スプランゲルは神聖ローマテイコクルドルフ2世の宮廷画家である。スプランゲルはネーデルランドの写実描写とイタリアのマニエリスムスを結び付けて、人工的な優美さと洗練された官能性を持つ独特の作風を発展させ、ルドルフ2世を魅了した。1580年代には、皇帝のために、古代神話の恋人たちを描いた一連の作品を手掛けており、英雄オデュッセウスと魔女キルケを描いた本作品もその一例である。真珠のような肌をあらわにし、蠱惑的に言い寄るキルケに対して、オデュッセウスは嫌悪と同時に抗い難い魅力を感じているようだ。このキルケの奸計に打ち勝ち、部下たちを救ったオデュッセウスは臣民の庇護者としての皇帝に重んじられ、皇帝称揚の文脈で好んで描かれた。

ユピテルとカリスト ヨーゼフ・ハインツ(父) 1603年頃 油彩・鋼板

神聖ローマ帝国ルドルフ2世の宮廷画家であったハインツは、皇帝の趣味に応えて、古代神話の物語を感応的かつ優美に描いた小型絵画を数多く制作した。本作品もおそらくはその一例であろう。茂みのそばで抱き合う男女は、かって美と愛の女神ヴィーナスとその恋人アドニスと考えられていたが、むしろ最高神ユピテルとニンフのカリストと見做すべきであろう。ユピテルとカリストの情事の物語は、古代ローマ詩人オウィディウスの「変身物語」に記されている。複雑に絡み合う二人の身体の表現には、ハインツがかって滞在したローマで学習した古代彫刻への参照が指摘される。

対トルコ戦争の寓意 ヨーゼフ・ハインツ(父) 1603年頃 油彩・鋼板 ハンス・フォン・アーヘン作

ハンス・フォン・アーヘンも神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の最も重要な宮廷画家のひとりである。本作品は、神聖ローマ帝国とオスマン帝国のいわゆる「長いトルコ戦争」(1593=1606年)に取材した連作の一点である。この連作は、菅亜節的な手法で皇帝のプロパガンダに大いに貢献したと指摘される。神聖ローマ帝国側の人物グループの中には、オーストリア大公国の紋章を携えた人々も見られ、そのうちの数名は囚人として描かれている。彼らはオスマン帝国に迫害される神聖ローマ帝国民を表すのだろう。

アダムとエヴァ アルヴレヒト・デューラー作 銅版画 1504年

1505年から1507年にかけて2度目のイタリア滞在を行い、ルネサンス芸術の成果を本格的に母国ドイツへ持ち帰ることになるデューラーが、決定的な旅に先立って示していた一つの到達点ともいうべき仕事が、この1504年の銅版画「アダムとエヴァ」である。この作品は同時代のイタリア・ルネサンスの芸術の遠い記憶を、あらたにドイツの地で再生しようとしたデューラーの仕事の最初における原点である。アダムとエヴァは、キリスト教における人類の祖である。アダムとエヴァは、蛇が差し出す禁断の果実をいまだ口にしていない。それを口にしたために愛欲に目覚めてエデンの園から追放され、現生の人間を生み育ててゆくふたりは、まだそこにはいないのだ。したがって彼らの身体は、穢れや欠損のない超越性を構造的に内在化していなかればならない。この「アダムとエヴァ」を含むデューラーの版画のオリジナルの銅板そのものが、やがて神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世のクンストカマーに入り、ハプスブルグ家のコレクションに収まったことが記録されている。

宿屋のふたりの男と少女 ディエゴ・ベラスケス作 1618年頃 油彩・カンヴァス

ベラスケスの生地セビーリャは、16世紀から17世紀にかけてスペインの最も反映した都市の一つであった。当時のスペイン芸術家たちは、イタリアの画家の作品にみられる光と影の劇的なコントラスト等、外国からの影響を大いに受けており、また北方の版画からも着想を得ていた。この刺激に満ちた雰囲気の中で、ベラスケス絵画の技術を学んだ。1623年ニマドリードに赴き、フェリペ4世の宮廷画家となって、以降の生涯を主に肖像画に捧げたのである。本作品の茶褐色と黄土色の色調は、ベラスケスの初期作品であることを示唆し、食宅を囲んで座る3人に人物は、スペイン黄金時代に流行したピカレスクの小説の登場人物を連想させる。質素な食事と、女中が持つヴェネツィアン・グラスや鋼製の塩入れは著しい対照をなし、描かれた人物たちが没落した貴族であることを示唆している。

スペイン国王フェリペ4世の肖像 1631年頃 油彩・カンヴァス ディエゴ・ベラスケス作

スペイン・ハプスブルグ家の国王フェリペ4世(1605~65)と、その妻イサベル・デ・ボルボン(1602~1665)を表した一対の肖像画は、おそらく全身像に対応策として意図されたものである。この2点は、「ドイツへ送るための国王陛下夫妻」と見做されている。ハプスブルグ家は、カール5世の退位後領土を分割相続されたことで、オーストリアとスペインに分かれたが、両王家はその後も婚姻を通じて密接な関係を保ち続けた。フェリペ4世は、スペイン国王フェリペ3世を父に、そしてオーストリア大公カール2世の娘にして神聖ローマコウテイフェルデイナンド1世の孫であったマルガレーテを母に生まれた。フェリペ4世は黒衣に身を包み、簡素な平たい襟(ゴリーリャと呼ばれる)をつけ、胸には羊をあしらった金羊毛勲章を下げて立っている。左手は剣の柄頭に乗せ、右手には何も書いていない紙片を携えている。

スペイン国王妃イサベラ(1602~1644)の肖像 ディエゴ・ベラスケス作(1631年頃)

スペイン国王フェリペ4世は、最初の妃イサヴェル・デ・ボルボンが没した2年後の1646年、マリアナ・デ・アウストリア(1634~96)と再婚した。イサベルとの間に生まれた8人の子供は、一番下の王女を除き全員が成人前に死没したため、再婚から5年後にマリアナが生んだマルガリータ・テレサは世継ぎ問題に悩まされていた宮廷に希望の星として輝いた。ベラスケスは彼女をおよそ3歳、5歳。そして本作品の8歳の頃(1659)と3度単独で全身像を描いており、それは全て現在美術史美術館に保存されてている。中でも最晩年に描かれた本作品は、自由な筆致と色彩の斑点が、もののかたちや質感を見事に伝える、ベラスケス油彩技法の頂点を示す傑作である。この作品は、父親が買っていた美術全集の中で、最高傑作と見た中学1年生の審美力は正確なものであったと自負している。

緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ(1651~73)ファン・バウティスタ・デル・マーソ作 油彩・カンヴァス

本肖像画に描かれた愛らしく純真な幼い王女は、マルガリータ・テレサである。王女は、スペイン王フェリペ4世と、2度目の妻にして姪のマリアナ・デ・アウストリアとの間に生まれ、1666年15歳で母方の叔父である神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁いだ。この結婚はスペイン、オーストリアの両ハプスブルグ家の繋がりを強固にするためのものであったが、おそらく繰り返される近親婚のために王女は体が弱く、4人目の子を産んで間もなく、合併症により21歳で亡くなった。本作品は、ベラスケスの作品に似ているが、工房による模写とみられてきた。現在では、ベラスケスの娘婿である、工房のファン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソの作品であるとみなされている。ベラスケスの作品に似ているが、やはり工房作であろう。本作品は、マーソの肖像画家、そして模写制作者としての技量を示す重要な作例となっている。

 

ハプスブルグ展の第1回の説明である。ベラスケスの「青の王女マルガリータ・テレサ」を是非じっくりと見て頂きたい。ベラスケスの力が遺憾なく発揮されている。よくぞ、中学1年生の田舎者が、この素晴らしい美術品を見抜いたものだと感心している。

 

(本稿は、図録「ハプスブルク展ー帝国コレクションの歴史(1)を参照した)