出雲と大和ー日本書記成立1300年特別展(1)

令和2年(2010年)は、わが国最古の正史「日本書記」が編集された養老4年(720)から1300年となる記念すべき年である。これに先立ち和銅5年(712)に撰上された「古事記」は8年前の平成24年(2012年)に1300年を迎えている。この古い歴史書(略して記紀と呼ぶ)は、律令国家が自らのアイデンティティを主張した史書であった。私は、昭和27年に飛鳥地方をK君と、共に歩き、日本書記を読む必要に迫れれ、当時岩波文庫に納められていた「日本書記」の岩波文庫に納められていた「日本書記」の3巻を古本屋で求めて、熱心に読んだ。その編者は黒板勝美氏(元東大教授、右翼学者として、戦後は東大を離れ、自営隊などで日本歴史を教えていたと言われる)であり、上巻は神話、中巻は神武天皇より宣化天皇まで、下巻は欽明天皇より持統天皇までの日本の古代史を綴っている。どこまでが神話で、どこから歴史なのか、論者によって、様々な意見がある。私は都が飛鳥の地に移った飛鳥時代、藤原京に移った藤原時代(古美術の上では白鳳時代と呼ばれる時代である)を熱心に読みこみ、飛鳥、藤原京を歩き回った記憶が残る。日本書記には「国譲り神話」が出てくる。まとめれば、出雲の大国主神は、皇祖神の天津神に芦原中国の支配権を穣る代わりに、自らを出雲の高い神殿に祭ってもらうことになった。そして「日本書記」神代上、第八段では出雲の簸(ひ)の川上に振ってきた天照大御神の弟スサノウのミコトの末裔として位置づけられたいる。出雲神話と呼ばれる説話・伝承のなかでは「出雲風土記」の「国引き神話」が豊かな想像力で在地社会の国造りの息吹を伝えている。在地の國土創成神として「八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)は、「古事記」「日本書記」には登場しない。しかし「出雲風土記」では、出雲の国土を創成した八束水臣津野命が国引きを行って今の島根半島の土地を引き寄せて出雲の国土を拡張した姿が描かれている。

国宝  日本書記 神代巻(幹玄本) 鎌倉時代 奈良・天理大学

「日本書記」の写本は,古本系統と卜部系統に分類される。乾玄本は、巻末の奥書に乾玄2年卜部兼夏書写とある。ト部家本系統として、また神代巻写本として年紀が確認できるものとしては、弘安9年(1286)の裏書の弘安本に次いで古い。神代巻の第九段一書第二には、出雲と大和を象徴する「顕露之事」(あらわのこと)と「幽事」(かくれたること)(神事)の分任について記されている。

金輪御造営指図(かなわごぞうえいさしず) 一巻 紙本着色 島根・千家家

往古の出雲大社の平面図とされるもの。本殿は長さ一町、(約109メートル)の引橋(階段)を有し、巨木3本を束ねて一組とする一丈(約3メートル)柱9本で支えられ、壮大な威容を誇った姿で描かれる。従来は図面として信憑性に疑いがもたれていたが、平成12年(2000)、出雲大社境内遺跡より、図面同様に木材3本を1組として柱が発見されたことを契機に再評価されることとなった。

重文 宇豆柱(うづはしら) 3本1組 島根・出雲大社境内遺跡出土 木製 鎌倉時代

平成12年(2000年)に発掘調査により出土した。出雲大社大型本殿遺構の柱材。スギの大木3本をあわせて一つの柱とする。大社造を構成する9ケ所の柱のうち、正面中央の棟持材にあたる宇豆柱と呼ばれる。柱材、柱穴の規模が比類ない大きさにあるだけでなく、3本の材を束ねる柱の構造が古代出雲大社本殿の平面図として出雲大社宮司千家国造家に伝わる平面図の「金倫御造営指図」としての表現と一致することが注目された。鎌倉時代の法治2年(1248)に遷宮された本殿の柱材である可能性が高い。樹齢200年以下の成長の早いスギ材であった。改築のたびに大材をを用いて造営され続けた出雲大社の高層性を端的に示す主材である。今回の展覧会では、一番最初に、この宇津柱が出てくるため、非常に来場者を驚かす。私は、出雲大社で拝観したことがある。

重分 心御柱(しんみはしら)出雲大社境内出土 鎌倉時代 宝治2年(1248)

3本の内の1本。平成12年(2000)に出雲大社の地下1.3メートルから出土した、大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて、一つの柱とする。大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて一つの柱とする。大社造りを構成する9ケ所の橋のうち3ケ所が発掘確認されており、本殿中心に位置するのが心柱である。金輪御造営指図と一致することでも注目される。私は、この心御柱を見るのは初めてである。今回の展覧会では宇津柱、次に新御柱が並び、度肝を抜かれる。

模型 出雲大社本殿 一基 木製 全長1325.0cm  出雲市

株式会社大林組の古代出雲大社復元図をもとに、松江工業高校の生徒14人が製作した十分の一スケールの本殿模型である。復元図は、心御柱の宇津柱が発掘調査で発見された平成12年より以前に、京都大学名誉教授の福山敏男氏(故人)の考えをもとに、同氏の監修により作成された。金輪御造営指図をもとに、天禄元年(970)に編纂された口遊(くちづさみ)の記述に見られる大きな建屋の順位「雲太・京二・京三」(出雲大社、東大寺大仏殿、平安京大極殿)の記述と社伝などから、標高を16条(約48メートル)、引橋を長さ一町(約109メートル)としている。想定している時代は十世紀(平安時代)で、展示してある鎌倉時代の心御柱、宇豆柱の出土遺構から想定される本殿規模とは異なっている。しかし、現状では古(いにしえ)の出雲大社本殿の姿は不明なままであり、その巨大性を議論するに相応しい模型である。

重文 銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)、出雲市 眞名井遺跡出土 弥生時代(前2~前1世紀) 出雲大社

出雲大社に伝わる銅戈と勾玉・中細形銅矛b類に分類される銅戈は、樋内に綾杉文を配し、頸部(なごぶ)にかすかな鉤形文を配し、頸部にかすかに鉤形文が中出される。勾玉は新潟県糸魚川産と考えられる硬玉性の優品で、頭部の孔は片面穿孔である。これは寛文年度造営に際し、眞名井神神舎で出土したものである可能性が高い。

重文 手斧(ちょうな)

出雲大社の法治度本殿遺構に伴って出土した鉄製の手斧。宇津柱の材底付近から、柄を抜いて出土した。立柱時の儀礼的に使用し、意図的に埋葬されたものと考えられる。

重文 鎹(かすがい) 三個 鉄製 最長 25.5cm

重文 帯状金具 一個 鉄製  長さ 22.0cm

重文 釘  五個 鉄製 最長 36.2cm

出雲大社の法治年度本殿に使用されたと見られる建築金具の一部である。本殿遺構の発掘調査で出土した。

出雲大社に関わる、器物、道具類であり、出雲大社の成立、立て直しに係る道具類を多く採用した。次回も出雲大社に関わる記事が多くなると思う。」

(本稿は、図録「日本書記成立1300年特別展 出雲と大和  2020年」、図録「聖地の至宝  出雲   2012年」、岩波文庫「日本書記3冊」を参照した)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(3)

シャガールは1887年7月7日、白ロシア共和国(現ベラルーシ共和国)の貧しい町ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。敬虔な宗教的雰囲気と、動物達に囲まれた素朴な日常とが交錯する故郷での生活は、その後のシャガールの作品の全ての源泉となった。シャガールがパリに来たのは1910年前後とされる。現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを挽き付け、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。19世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他共に認める不動の地位を築き上げ、それが20世紀の初頭に華やかな実りをもたらした。事実、シャガールと前後してパリにやってきた異邦人画家は、歴史に名を残すほどの大家に限っても、同じロシアから来たスーチンを始め、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリーニ、ブルガリアのバスキン、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は「素朴派」と同じように、歴史家によって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。従って、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーを込めて呼ぶ言葉であったに過ぎない。「エコールド・パリ」は「エコール」の厳しい体系よりも「パリ」の懐かしさをいっそう強く思い出させる名称なのである。

モンマルトルのミュレ通り モーリス・ユトリロ作 1911年頃 油彩・カンヴァス

細い路地の向こうに望むものは、いまやモンマルトルのランドマークとなったサクレ=クール寺院。現在のように観光地化されていないモンマルトルの路地には道行く人も少なく、雨戸は閉じられ、ひっそとした趣である。この作品を制作した1911年頃は、のちに「白の時代」と呼ばれるユトリロの画業における最盛期である。本作でも、屋根のレンガ色のほか、建物の壁の白い冬のパリを連想させる曇天の鉛色など、モノトーンを中心とした色彩が画面の大部分を占めている。定規で引いたかのようにまっすぐにのびるミュレ通りの奥には、現在は「モーリス・ユトリロ通り」と呼ばれ、サクレ=クール寺院へと続く長い階段のある通りがのびている。

五人の奏者 マリー・ローランサン作 1935年 油彩・カンヴァス

ローランサンはしばし群像を描いているが、5人以上の人物の組み合わせた作品はそう多くない。本作では、庭園のような場所を背景として音楽を奏でる5人の女性たちを配している。左から順に、花、ギター、トランペット、フルートを持った女性たちが並び、中央の女性は何も手にせず横たわっている。はだけた衣や官能的なポーズは神話画における女神をほうふつとさせ、背景ののどかな自然風景と相まって、18世紀のロココ趣味を思わせる牧歌的な情景となっている。

座る子供 キース・ヴァン・ドンゲン作 1925年 油彩・カンヴァス

ヴァン・ドンゲンは社交界の人々を描いた肖像画で人気を博したが、本作は良く知られた華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色づかいを茶色の華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色使いを茶色の背景が緩和し、画面に落ち着きが生まれ、大人びた子供の雰囲気に調和している。モデルはフランスで映画俳優兼衣装デザイナーとして活躍したマルク・ドゥルニッツで、当時まだ4歳であった。幼児を描いた大型の肖像画は、この画家には珍しく、その知られざる一面を伝える作品である。

背中を向けた裸婦 モイーズ・キスリング作 1949年 油彩・カンヴァス

モイーズ・キスリングは、1891年、ポーランド南部のクラクに生まれた。本作で目を引くのは、背中から腰にかけて量感を見事に表す、繊細な陰影で、明るい色で平坦に描かれた顔と対照をなしている。また部屋の角を背にして座るのは、キスリングの定番の構図で、壁に伸びた影がモデルの輪郭を浮かび上がらせる役割を果たしている。頭にターバンを巻き、背中を向ける画中の女性は、新古典主義の巨匠、ジャン=ドミニク・アングルによる「ヴァルパンソンの浴女」を想起させる。しかし、いり直接的に影響を与えたのは、パリで親交の芸術家、マン・レイが制作したアングルヘのオマージュ「アングルのヴァイオリン」(1924年)であろう。「アングルのヴァイオリン」のモデルは、モンパルナスで歌手兼女優として活躍し、キキという愛称で親しまれた女性で、キスリングをはじめアメデイオ・モディリティアーニや藤田嗣治らのモデルも務めた。

逆さ世界のヴァイオリン弾き マルク・シャガール作 1929年 油彩・カンヴァス

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代、シャガールにとって、人生の中で最も平穏で安定した時代であった。画家は時折、キャンヴァスを回転させて描くことで、作品にっ幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間に生み出されたキャンヴァスの中で故郷のヴィテブスクの風景も歌いだし踊り出しているようだ。

バラ色の肘掛椅子 マルク・シャガール作 1930年 油彩・カンヴァス

1930年代の夏から秋にかけて、シャガールは家族と共に南仏のペイラ・カヴァで過ごした。地中海から内陸へ向かって20数kmの距離にあるこの山間の町は、風光明媚な保養地として知られ、数多くの著名人が過ごしている。このペイラ・カヴァでシャガールは何点かの作品を残したが、いずれもこの作同様に画面中央に大きく窓を配置し、そこからはるかに望む山並みの風景を描き出している。窓の外に広がる風景は写実的に、誇張も歪曲もなく淡々と描かれ、手前の室内もほぼ同様に表現されるのだが、その空間に静かに異質な侵入者が紛れ込んでくる。抱き合う男女は他のシャガールの作品同様、画家とその妻ベラの姿を重ねているのだろうが、創造の女神である妻から霊感うぃ得て、画家は今カンヴァスに向かおうとしているように見える。

夢 マルク・シャガール作 1939~44年 油彩・カンヴァス

5年間にわたって描かれた作品だが、第二次世界大戦をはさむ1930年代後半から40年代半ばの時期に、同様に長期間にわたって制作された作品が少なくない。「夢」と題されたこの作品が完成したのはアメリカ亡命中の44年、この9月2日、妻のバラが急逝している。生涯の恋人であり、創作の霊感を与えてくれたミューズでもあったベラを失ったシャガールは、しばらく鉛筆を取ることも叶わなかったが、その悲しみから立ち直る中で完成した作品と見て間違いないであろう。制作を開始した39年、シャガール家は次第に近づいてくる戦争の足音に不安を覚えつつ、パリを離れてフランス中部の田舎町に転居していた。そして2年後のは反ユダヤ法の採択とフランス国籍の剥奪という危機的な状況に直面し、ついにフランスを離れアメリカへの亡命の道を選んでいる。その折携えた作品群の中に、この「夢」はあったのだろう。そして妻の死という悲劇に直面した後で、再び取り上げられ、現在の姿になったものと推測される。

モンマルトルの恋人たち マルク・シャガール作 1953年 油彩・カンヴァス

シャガールにとってはフランスは「第二の故郷」であり、自らも認めるようにパリは彼の芸術を育んだ大切な場所であったが、なぜかその作品の中にこの街が登場することは稀であった。画中に繰り返し描かれるのは、遠い故郷のヴィデブスクの古ぼけた家並みばかりである。そこには当然、彼の戦略的な意図が含まれている。多くの画家が描きつくし、よく知られたパリの街並みではなく、遠いロシアの田舎町が舞台であれば、人が空を飛び、動物と語らう奇跡が繰り広げられても不思議ではない。「超現実的」と評された作品に対して、自らはリアリストであり、描かれた世界は生々しい現実そのものに他ならないと強弁できたのも、フランス人は誰も知らぬ遥かな故郷が舞台であればこそである。この状況が変化し、シャガールが集中的にパリを描くようになるのは第二次大戦後の事である。アメリカ亡命を終えて、画家がフランスに戻ったのは1948年の事だが、それ以前にも何度か短期間、彼は終戦後のフランスを訪れている。

翼のある馬 マルク・シャガール作 1962年 油彩・カンヴァス

翼を持つ馬、と言えばギリシャ神話に登場するペガサスを先ず思い浮かべるが、ここに描かれているのはイスラム世界を舞台にした物語「アラビアン・ナイト」の一場面である。戦争中の反ユダヤ主義を逃れてアメリカに亡命していた1946年、シャガールは同じくヨーロッパから亡命していたドイツ系ユダヤ人の出版業者クルト・ヴォルフの依頼を受けて「アラビアン・ナイト」の版画集に取り組んだ。長大な叙事詩から選ばれた四つの物語をテーマに、13枚のグワッシュが描かれ、その内の12点がカラー・リトグラフ化され、1948年に版画集として刊行されたが、この「翼のある馬」はその内の1点をそのまま油彩に置き換えた作品である。「アラビアン・ナイト」はシャガールにとって初めての色彩版画集であった。戦前、画商のヴォラールの依頼により制作したラ・フォンテーヌ(寓話)の際にも、シャガールは色彩版画を試みたが、思うような結果が得られず、結局白黒の銅版画作品として出版している。

 

「エコールド・パリ」の作家5人の作品9点を紹介したが、私は「エコールド・パリ」の中では、藤田嗣治が一番好きであり、かつ優秀な作品が日本に多数残されている。特に東京国立近代博物館にある「五人の裸婦」とか、京都国立近代美術館の「タピスリーの裸婦」など、藤田氏の最高傑作が、日本で鑑賞することが出来る。吉野石膏コレクションに藤田作品が入っていないのは誠に残念であるが、コレクターの方針や好みもあることだから、止むを得ないことかも知れない。藤田の「白の裸婦像」は、「エコールド・パリ」の中の最高傑作だと思うが、「エコールド・パリ」はい異国人の描いた絵であり、フランスでも極めて高い評価を得ている。

 

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション 2020」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「シャガールー三次元の世界  2017」、高階秀爾「近代絵画(下)」を参照した。)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(2)

本章では、20世紀前半の西洋絵画を取り上げる。20世紀前半の西洋美術は、しばしば「モダーン・アート」という言葉で総称される。ここでは取り合えず、19世紀後半から20世紀前半にかけて、西洋の伝統的な表現を脱却して、絵画の自立を目指す革新的な表現を追求した画家や作品を取り上げる。写実主義こそが西洋絵画の中心を貫いていた原理であった。印象派は光や大気のような形のないものまで表現しようとした。その点では究極の写実主義と言えるが、結果として生まれた作品からは、遠近法も明暗法も消え、色彩と筆触の存在感が前面に押し出される平面的な画面となり、絵画は世界からの自立の第一歩を踏み出したのである。印象派が切り開いた新しい絵画の歴史は、20世紀を迎えると一気に奔流のようにその変化の速度を上げていった。この第2章に含まれる作家は、いずれも20世紀前半のモダーン・アートの展開に関わった作家ばかりである。

占い師 ジョルジュ・ルオー作  1937~39年 油絵・厚紙

ルオーと言えば、必ず宗教画と思い込みがちであるが、本作は「占い師」である。周囲を太く縁取る構図はルオーが好んで採用したもので、しばしばそこに文字が描き込まれることで壁龕(へきがん)のような役割や、晩年作にみられた装飾性を強調する役割を担っている。人物は希釈された黒い絵具で輪郭をかたどられ、右手をあげる身振り、枠にそって曲げられた腕はロマネスク美術の造形性を連想させる。特徴的な三角帽の衣装はルオーが描く道化師に共通しており、目を伏せる表情はこの時期に集中して描いたキリストの顔に連なるものがある。

バラの髪飾りの女 ジョルジュ・ルオー作 1939年 油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)

1930年代以降、ルオーの作品は暗く沈んだものから、透明で輝くようなマティエールへの変貌を遂げた。この作品も明るいエメラルドグリーンを多用し、カドミュムイエロー、カドミュウムレッドディープで彩っている。「バラの髪飾りの女」の支自体はより興味深い。紙に描かれた後、目の粗い布と麻布によって裏打ちされ、その後も制作が続けられている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねられた額が構成されている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねる手法がルオー独自のものであることは広く知られている。

靴下をはく若い女 ピエール・ボナール作 1908~10年 油彩・カンヴァス

ボナールは身近な生活を主題とし、そこに差し込む光の効果と色彩を描いた。1893年に生涯の伴侶となるマルト・ド・メリーニと出会う。間もなく彼女は、モデルとしてカンヴァスにたびたび登場することとなる。病弱で神経の病を患っていたマルトは、異常なほどの潔癖症だったこともあり、しばしば入浴をくりかえしていたことから、ボバールは浴室での彼女の姿をはじめ、室内で身づくろいするしどけない女性をモチーフとした作品を数多く手掛けた。ボナールの描く裸婦は、エロチックな欲望の対象から造形的な要素へと変貌していく。本作では、マルトと考えられる女性の身体が大きく描かれ、室内には親密な空気が充満する。彼女の腰掛ける赤色のソフアと対照的な色調の青い背景の壁は、ナビ派の特徴である装飾的な点描で描かれている。

緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女 アンリ・マティス作1924年 油彩・カンヴァス

マティスが初めて南仏ニースを訪れたのは1917年12月のことである。以後、画家は秋から春にかけては南仏で過ごし、春のおわりから夏にかけて、パリ近郊のイッシー=レ=ムリーノで過ごすという生活パターンを繰り返すようになる。作家たちは様々な思惑が渦巻く刺激的なパリを離れたことは、自ら芸術についてじっくり再考する機会をマティスに与えた。こうしてフォーヴの誕生以降、絵画のあらゆる可能性の探求に捧げられた緊張に満ちた日々は一旦終わりを告げ、光と色の戯れに優しく身を任せる、快楽主義とも言えるニース時代が1920年代に始まる。読書に没頭する女性を描いたこの作品でも、画面左手から射し込む光が作り出す明暗が、女性の身体の豊かなヴォリューム感を生み出している。マチスの色彩は、私が好むものである。

静物・花とコーヒーカップ アンリ・マチス作 1924年 油彩・カンヴァス

ニースの中心部、シャルル・フェリックス広場の海辺のアパートにマチスが滞在するようになるのは、1921年の9月初旬からである。以後28年頃まで、画家はこのアパートの一室をアトリエにして様々な作品を生み出したが、この静物もその中の1点である。この時期のマティスの作品は、排他的なほどに室内に集中しており、アトリエは単なる制作のための場所ではなく、空間そのものが絵画のモチーフと化していた。

セーヌ河の岸辺 モーリス・ド・ヴラマンク作 1906年 油彩・カンヴァス

いわゆる「フォーヴ」の名称が俎上に上げられることとなった1905年の前後、ヴラマンクの画面は最も鮮やかに彩られていた。自然の形態を的確に把握し、モティーフをファン・ゴッホ流の流動的な筆致、あるいはシニャック風の点描法を駆使しながら、色彩自体が自律するような豊穣さをもって表現した一連の作品は、画家のフォーヴ時代を華やかに彩っている。この作品もそうした彼のフォーヴ時代に手掛けられた1点である。

村はずれの橋 モーリス・ド・ヴラマンク作 1911年 油彩・カンヴァス

鮮やかな色彩を用いたフォーヴ時代を経て、ヴラマンクはやがてセザンヌを思い起こさせる画面構成に挑んだ。ピカソやブラックらがセザンヌの事物に対する形態把握と分析、それら事物に対する再構築に端を発したキュヴィズムへと突き進んでゆく西洋美術史の流れに沿うかのように、ヴラマンクもこの後にキュビズムの影響を受けた画風へと変化させていくことからすれば、ある種必然的な道程とも思われる。この作品もそうしたセザンヌの影響下に置かれるもので、画面上部中央に描かれた丘の起伏やその上に建つ古城とおぼしきモチィーフ、画面左の木の葉叢、画面下の水面と思しき表現からは、形態の単純化といったセザンヌ技法が垣間見える。

工場のある町 アンリ・ルソー作 1905年 油彩・カンヴァス

本作品の場所を特定することの出来ない町の光景が描かれているが、タイトルとなっている工場もまた、ルソーにとって、新しい文明の到来を告げるものであった。放射線状に伸びた道は、画面奥で中央に集まっている。工場と思われる建物が描かれているが、奇妙なことにその半分以上は木立に隠れている。

フォンテーヌブローの風景 パブロ・ピカソ作 1921年 パステル・紙

ピカソの「新古典主義」時代を代表する母子像が集中的に描かれた場所が、21年の夏に滞在したパリの南東に位置するフォンテーヌブローである。地中海沿岸の町で過ごしたそれまでの夏とは異なり、家族での静かな生活の中、ピカソは多くの油彩、ドローイング、パステルを描いた。本作はこの滞在中、珍しくフォンテーヌブローの風景を描いたものである。形態の分割や平面化を控え、パステルの柔らかな筆致による対象を大まかな色彩としてとらえた陰影づけー特に画面右のうねるような幹を伸ばす樹木の描写ーには、母子像と共通する様式化が見られる。

 

本稿では、主にピカソ、マチス等フォーヴから抽象画までを扱ったが、私自身にも判りやすい作品を選んだ積りである。読んでいただく皆さんにも、判りやすい絵画を選んだ積りである。「判り難い」「理解できない」とソッポを向きがちな画家たちであるが、判りやすい絵も沢山描いている。好きな絵を選んでみたら良いと思う。

2019年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた「黒川孝雄の美」10選を決める季節がきた。今年は、国交150年記念とか没後90年とか大きな展覧会が多数開催された。力作揃いで、見応えのある展覧会が多かった。今年は、興福寺中金堂再建も大きな話題となった。また、新天皇ご即位記念展「正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美」等も大きな話題を集め、大勢の観客で、大行列を作った。中々、10点を選ぶには苦労が多かったが、次の10点を「2019年黒川孝雄の美10選」に選んだ。

第1位 ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(1)

「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ(1651~1673)ディエゴ・ヴェラスケス作 1659年  油彩・カンヴァス       12月4日掲載

スペイン国王フェルペ4世は、最初の妃イサヴェル・デ・ボルボンが没した2年後の1646年、マリアナ・デ・アウストリア(1634~1696)と再婚した。イサヴェルとの間に生まれた8人の子供は、一番下の王女を除き全員が成人前に死没したため、再婚から5年後にマリアナが生んだマルガリータ・テレサは世継ぎ問題に悩まされていた宮廷に希望の星として輝いた。ヴェラスケスは彼女をおよそ3歳、5歳。そして本作品の8歳(1659)と3度単独で全身像を描いており、それは全て現在美術史美術館に保存されている。中でも最晩年に描かれた本作品は、自由な筆致と色彩の斑点が、もののかたちや質感に見事に伝える、ベラスケスの油彩技法の頂点を示す傑作である。この作品を父親が買っていた世界美術全集の中で、最高傑作と見た中学1年生の審美力は正確なものであったと自負している。

興福寺 再興された中金堂(平成30年ー2018年)2月21日

天平時代の中金堂をそのままの大きさで、再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川管主は、次のように挨拶されている。「本日、中金堂の再建落慶を迎え、自ずから思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の導線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な実情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれが漸く再現でき、感無量という他有りません。」このご挨拶を記せば、中金堂の再建内容をゴタゴタ記す必要は無いであろう。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者が御生存されたならば、必ず興福寺を一項目として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更させるほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要だろう。

フェルメール展(2) 牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60頃                       1月13日掲載

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気が多い場所で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだがフェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビスラズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされた室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対象の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机の右側の床にある木製足温器は、古典的な三角構図を形成している。

大安寺                       6月16日掲載

重文     十一面観音立像  奈良時代(8世紀)

大安寺は、藤原京で「大管大寺」の寺号が与えられた官寺であり、平城京では「薬師寺」を上回り、四大寺の筆頭に位置した官寺であった。十一面観音菩薩立像は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳があると説かれている。頭部と両腕部が後補で制作されている。体部から像立当初の端正な御姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波型にひるがえり、裳腰左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣の皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾りが極めて華麗で、台座にも華の文様が浮き彫りにされている。奈良時代の秀作である。(秘仏 公開は10月1日より11月30日まで)

御即位記念 正倉院の世界ー皇室がまもり育てた美(2)  11月11日掲載

正倉院宝物 螺鈿紫檀五弦琵琶 木製・螺鈿 中国・唐時代(8世紀) 正倉院

「国家珍宝帳」所載の楽器で、正倉院を代表する優品として知られている。五弦の琵琶が四弦の琵琶と異なるのは、弦が五本であることや、頸(くび)が真っ直ぐで、槽の部分が厚いことなどである。インド起源で、中国の文献や壁画などに見えるが、現存品は世界唯一のものである。

遊びの流儀ー遊楽図の系譜(2)           8月19日掲載

国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)大和文化館

右双

左双

「松浦屏風」と呼ばれるこの屏風の名称は長崎県・平戸の大名 松浦家所蔵であったことによる。しかし、松浦家の記録では、この屏風はその制作年代と考えられてきた近世初期に平戸にあったのではなく、松浦氏34世の活(号清山、1760~1841)が京都で入手したものであり、当時は岩佐又兵衛作とされていたという。総金地を背景とする大場面に、十八人の婦女を立たせたり座らせたりなど変化をつけて配列している。こうした等身大に近い人物群の描写は、他の日本の風俗画や遊楽図には類例がない。

開館60周年記念 松方コレクション展(2)        7月4日掲載

1921年の9月14日に、松方ら5人がローザンヴェール画廊を訪れた。そこで「アルルの寝室」を発見し、購入した。「アルルの寝室」は3つのバージョンが知られている。明るい静けさに満ちた本作品は、サンレミの療養所で、母親のために描いたものである。この「アルルの寝室」は、戦後日本に返還するにあたり、フランス政府が、フランス国家に留置したもので、今回の展覧会のためにオルセー美術館から借り出した作品である。

コートールド美術展ー魅惑の印象派(2)       11月27日掲載

フォーリー=ベルジュのバー エドゥアール・マネ作 油彩・カンヴァス 1882年

フォリー=ベルジェールのパーは、パリのミュージック・ホールで、歌や踊り、曲芸や珍獣の公開など多彩な演じ物で人気を博した。本作品の舞台は、その1角にあったバーである。バーメイドはアルコール提供だけではなく、娼婦となることもあったという。マネは実際にここを何度も訪れているが、制作の際にはアトリエにバーカウンターの一部を再現し、シュゾンという名のフォリー=ベルジェールを呼び、モデルとした。その表情は、ぼんやりとしているようでも、物憂げな様子でもあり、解釈は鑑賞者に委ねられているようだ。マネ晩年の傑作として知られる本作品は、亡くなる前年の1882年のサロンで発表された。無数の観客と喧騒がすばやく粗い筆致で描かれる一方、手前の大理石のカウンターには酒のボトルやオレンジが丁寧に描写される。本作品は、鏡で作られた複雑で多義的な空間に、人物、群衆、静物を卓越した技術で描いたマネの画業の集大成と言えよう。

没後90年記念 岸田劉生展(2)            10月7日掲載

重文 麗子微笑(果物持てる) 油彩・カンヴァス 1921年 東京国立博物館

いつもの綿入れの着物に、いつもの毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプトの彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術の中にある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定をうけている画家は、私は知らない)

クリムト展 ウイーンと日本1900          10月7日掲載

ユデイト1 油彩・カンヴァス 1901年 ヴェルデール宮オーストリア絵画館

クリムト代表作の一つとして知られる<ユデイト1>、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。装飾的な効果を伴う用式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公のエロチシズム。そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの「黄金時代」の時代の幕開けを飾る作品となった。本作品は、旧約聖書外典の一場面を主題とする。(以下略す)

(本稿は、「原色日本の美術全30巻」、「探求日本の古寺 全15巻」、高橋秀爾「近代絵画史(上)(下)」を参照した。)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(1)

吉野石膏コレクションは、吉野石膏株式会社及び吉野石膏美術振興財団が所蔵する、19,20世紀のフランス絵画及び近代日本絵画の作品群である。いろいろな印象派展で、「吉野石膏株式会社」という所有者名は、しばしば見たことがあるが、コレクション全体をを見るのは勝目手である。石膏ボードを中心とした建築資材の会社として吉野石膏株式会社はは、kねて興味を持っていたが、今回、そのコレクションの全体を72点の展示作品で公開された。幾つかは、既に他の美術展で拝観したことがあるが、全体像をみることは、初めてである。紹介文によれば山形美術館に153点の寄託をして、多分この公開された作品群の中にも、その寄託品が含まれているだろうと推察する。全体を見て感ずる点は、「印象派からフォーブ・抽象絵画」まで、かなり広い範囲で収集された作品群で、比較的小型の作品が多いことを感じた。優れたフランス美術のコレクションであり、一企業が何代かに渡って収集された軌跡もよく分かるコレクションであった。この展蘭会の順序に従って3回にわけて連載したい。

第1部 印象派、誕生~革新へと向かう絵画

バター作りの女 ジャン=フランソワ・ミレー作 1870年 油彩・カンヴァス

バターを製造している絵画である。私自身、乳業メーカーに長年勤務し多関係で、バター造りの現場経験もある。私が知っているバター製造は、「バターチャン」という機械で牛乳からバターを造り、それから分離する液体をホエーと呼び、様々な機会に利用される。この作品は1870年のサロン出品作である。この年ミレーは初めて審査員に選出されたが、サロン出品はこれが最後となった。本作に描かれた、桶に入れた牛乳を棒を上下させて撹拌し、バターを製造する方法は中世末期から存在した、かなり古い製法である。一時間以上かかるこの作業を行うのは、主に子供と女性であった。ミレーはバターを造る女性を繰り返し描いており、その表現の変遷を知ることが出来る。ミレーは、このバターの製造方法の表現を本作の数年前に描かれたパステル画で確立し、本作で初めて大型の油彩画として描いた。右下にミレーのサインも描かれている。

イサベル・ルモニカ嬢の肖像 エドュアール・マネ作 1879年頃 油彩・カンヴァス

1879年の4月1日、マネはパリ8区のアムステルダム通り77番地の新しいアトリエに引っ越し、83年に亡くなるまで終生ここで過ごすことになる。マネはサロンでみとめられることを目指した長きに渡る闘争の果てに、病に侵され最晩年を迎えている。そのような中でも心を通わせた人物との交流はマネに少なくない安らぎを与えたことだろう。マネがイザベル・モニカに関して最初に言及したのは、76年8月ごろのエミール・ゾラに宛てた書簡の中で「金曜日に私はイザベル嬢の肖像を手掛けるつもちだ」と綴ったことがある。絵の背景は暗く漠然としている中で、長手袋を着けて両手を組むドレス姿の女性が佇み、こちらを見ている。胸元はかなり平板に描かれている。左目は茶色、右目は暗い青と別の色彩で塗られている。マネとイザベルの交流を示すのは水彩の絵入りの手紙である。80年マネからイザベルへ宛てて、西洋スモモ(仏語でミラベル)と美しい(ベル)の韻を踏んだ短い詩が贈られている。

サン=ジェルマンの森の中で クロード・モネ作 1882年 油彩・カンヴァス

1880年代に入り、70年代後半に比べてモネの生活は安定し始める。1880年に経営難から脱した画商デュラン=リュエルの支援や、第4回までは参加していた印象派展の第5、6回には参加せずサロンへ入選し、個展が評判になることで、モネの作品は売れ行き好調となる。79年から80年にかけて厳寒の冬をヴェトゥイュで過ごし、セーヌ河の凍結と解氷を目の当たりにした画家は、自然の壮大さや力強さといった主題に関心を寄せていく。81年末にセーヌ河沿いのポワッシーへ移るが、制作に格好のモティーフが見当たらず82年の大半はノルマンディーの沿岸部プールヴィル、ディエップに家族を連れて滞在している。本作はポールヴィルへ再び旅行に出る前のポワッシーで初夏に描かれたものとされる。森林の中で奥へと続いていく道が描かれている。消失点へ向かう小さな光の輪は、差し込む日差しと日陰のコントラストを表している。太陽に照らし出された森は赤、ピンクや黄色の様々な色調で、細かな筆致で描かれている。後年、連作として手掛けられた(薔薇の小道)(マルモッタン・モネ美術館)と共通した構図とも感じ取られる。

テムズ河のチャリング・クロス橋 クロード・モネ作 1903年 油彩・カンヴァス

(積み藁)を皮切りに本格的な連作を手掛け始めたモネは、(ポプラ並木)や(ルーアン大聖堂)に至る1890年代の連作の時代を経て、ウォータール橋や国会議事堂を描くロンドンの風景へと移行していく。70年の普仏戦争から逃れるためにロンドンへ半年ほど滞在して以来、かの地への勉強に行かせていた息子ミシェルが98年に体調不良となっいたことで、およそ20年ぶりに2週間ほど訪れる。翌年99年9月中旬に再訪した折、サヴォイ・ホテルに1ケ月半滞在し、南南西に見えるチャリング・クロス橋を10点以上制作している。ロンドンの名物の霧は、テムズ河の水蒸気が凝結した際に排出される煙が混ざったもので、20世紀初頭にスモッグと呼ばれた。モネは画商ルネ・ギンベルに対して、次のように語っている。「もし霧がなかったら、ロンドンは美しい街ではなかっただろう。霧こそが荘厳な美を街に与えたのである。」

モレ=シュル=ロワン,朝の光 アルフレッド・シスレー作 1888年 油彩・カンヴァス

1882年の第7回展が最後の印象派展への参加となったシスレーは、83年にフォンテーヌブローの森の東端に位置するモレ=シュル=ロワンに居を移す。デュラン=リユエルに宛てた書簡の内容は、作品の売れ行きに対する不安と困窮についてが多数を占める。晩年を迎え、長らく希望していたフランスへの帰化についても動きを見せている。本作は、前景の4本の木が鮮やかな緑で塗られ、舞台装置や袖幕のように、ロワン川の対岸に立つ街や、水面の反射に観る者の視点を誘う。日の光が左から照らし、建物や橋は日陰となり薄い青で塗られている。水面に映る反射も水色、白、赤や茶の筆触分割が用いられている。

ロワン川沿いの小屋、夕べ アルフレッド・シスレー作 1896年 油彩・カンヴァス

画面手前の川岸には小屋が描かれている。川の流れが画面左に向かって曲がっていくのが見える。水面に反射した木々が映り込み、対岸のさらに向こう側にはこちら側からは見えない空間が広がっていることを感じさせる。1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにてシスレーは喉頭癌により60歳で没する。およそ3ケ月後の4月29日と30日に展覧会が、5月1日にオークションが、パリの9区セーズ通りのジョルジュ・プテイ画廊で行われた。本作はその出品作の1点である。シスレーの作品27点の絵画と6点のパステルが売りに出され、本作は9000フランの高値をつけた。

シエザンヌ・アダン嬢の肖像 ピエール=オーギュスト・ルノワール作 1887年 パステル・紙

ルノワールは80年代後半に「アングルの時代」と呼ばれる輪郭のはっきりした古典的な作風へ移行する。本作では青い服を身に着けた少女が正面を向いており、幼さを残しつつ大人へと変貌する一舜を捉えている。油彩ではなくパステルで制作されたため、柔らかさが発揮されている。フランス北部のブーローニュ=シュル=メールに拠点を持つ「アダン銀行」は、ナポレオン時代から続く由緒ある銀行である。ブーローニュ出身の銀行家で、北部鉄道の重役やウトロー市長を歴任したイポリットを父に持つ4姉妹、シモーヌ、アントワネット、マドレーヌと末っ子のシュザンヌ(1877~1957)は、家族ぐるみでルノワールと付き合いがあったようだ。ルノワールは、職業モデルではなく、日常的に交流のある人物をモデルとすることを重視していた。ルノワールは、イボリットの妻のアダン夫人がル・ラヴァンドゥに所有する別荘地を度々訪れており、夫人が娘たちの肖像画を注文したことを述べている。この作品は、会場では一番人気であった。ルノワールの絵画は分かり易い点が魅力であり、そこが、目を引いたのであろう。

踊り子たち エドガー・ドガ作 1894年 パステル・紙

ドガが初めて踊り子の主題の作品を手掛けたのは1860年代末かた70年代初頭にかけてのことである。以来、ドガが生涯をかけて取り組むことになる近代生活の主題のいちの最も重要なもののひとつである踊り子を描くきっかけになったのは、オペラ座での観劇やカフェ・ゲルボで交わした新しい芸術をめぐる討論であった。当時の踊り子の社会的地位は今日のそれと大きく異なり決して高くはなかった。ドガが、舞台の上で堂々と舞う主役に限らず、書き割りの裏、舞台袖、練習室などの「裏の顔」に視点を投げかけ、油彩、パステル等の技術で色鮮やかに描き出している。

ポントワーズの橋 カミューユ・ピサロ作 1878年 油彩・カンヴァス

1879年に開かれた、第4回印象派展に出品された作品である。ポントワーズはパリを中心とするイル=ド=フランス地域圏に属し、穀倉地帯として知られるヴェクサン地方の都市である。ピサロは1866年移住してから、普仏戦争での国外避難を経て、14年余りをこの地で過ごしている。当時のポントワーズは、鉄度の開通でパリへのアクセスが容易になり、都市化と工業化が進む一方、郊外には伝統的な田園風景が広がっていた。こうした多彩な景観とともに、フォンテーヌブローやバルビゾンほど他の画家に知られていなかったという点でも、ピサロにとっては魅力的な場所だった。本作では、オワーズ川に架かるポントワーズ橋を描いている。橋の向こうには中心部の近代的な光景、そして右手に中州のポテュイ島に生えるポプラ並木がみえ、川岸を渡る人々の視線で、当時の町ボ様子が一望できる構図となっている。

雪原で薪を運ぶ人々 フィンセント・ファン・ゴッホ作 1884年 油彩・カンヴァス

この作品は、1884年の夏ころ、ファン・ゴッホがアントホーフェンの金細工職人アントン・ヘルマンの注文を受けて制作した6枚組の装飾画下絵の1点である。ヘルマスは、自宅の食堂を飾る装飾画の下絵(油彩)をファン・ゴッホに依頼し、それらを模写して自分で装飾画を完成させるつもりで、「最後の晩餐」のような宗教的図像を希望した。しかし、ファン・ゴッホは、近隣の農民生活から主題をとり、四季を象徴する装飾画のほうが相応しいと注文主を説得し、「ジャガイモの植え付け」「牛耕」「小麦の収穫」「種撒く人」「羊飼い、風の情景」「薪を運ぶ人々、雪景色」の6つの主題で仕上げたという。ゴッホのオランダ時代の作品であり、オランダ時代には太陽を描いた例を私は知らない。

 

印象派、誕生という章であるが、ジャン・フランソワ・ミレーは印象派の魁と見たのであろう。最後のゴッホも印象派に影響を受けた時代(パリ時代)はあったが、オランダ時代は全く印象派の影響を受けていない。しかし、先駆けや、後世に影響を受けた画家と判断すれば、この章に入れるのは妥当だろう。大作は少ないが、印象派の作家を網羅しているコレクションであり、日本では貴重なコレクションである。

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション2019年」、高橋秀爾「近代絵画史(上)」を参照した)