「ふつうの系譜(5)」

後期展覧会の最後の章となる。後期展示の後半部分で、主として江戸中期の作品が多い。概して優れた作品が多いように思う。「ふつうの系譜」という変わった名称を持つ展覧会も今回が最後となる。

海上飛鶴図  原 在中作   江戸後期

「海上飛鶴図」は、原在中が88歳の時に描いた最晩年の作品である。五羽の丹頂鶴が雲の棚引く海上を飛翔している。まるで広大な山脈を俯瞰しているかのような波のうねりが面白い。やまと絵にも見られる波模様で、在中が」やまと絵の画法を取り入れていることがわかる。88歳にしても尚劣らない在中独特の写実精神と表現力が魅力である。五羽の鶴の配置やバランスや波の隆起のリズムがユニークである。

松下福禄寿図    岸駒作    江戸中期

落款にある「越前刺史」は越前守のことである。岸駒が越前守の官職名を受けたのは、亡くなる1年前の天保8年(1837)。つまり最晩年の一作である。テーマは言うまでもなく、おめでたい福禄壽。松や鶴、鹿も描かれていて、本当に縁起の良い掛軸である。縁起物の掛軸というだけで、ありきたりのもの、と思い込んでしまう人もいるだろうが、じっくり見れば、人物や動物は、主役から脇役かに関係なく、どこか楽しげで面白い。何もないように見える空や地面にも薄い墨が塗られている。岩の凹凸や木の葉にも深みがある。大きな画面の全てに、京の絵画界を引っ張ってきた岸駒の筆から生まれた、形や線、色がある。

猛虎図  岸駒作    江戸中期

「猛虎図」は、初期の「岸矩」時代の作品である。描かれた当時、この絵が何と呼ばれたかはわからないし、今日の私たちが思うような「作品名」などなかっただろう。江戸時代の虎の絵を「猛虎図」と名付けるのは、今日ではごく一般的だし、虎もそもそも猛々しい動物なのだから、「虎イコール猛虎」で問題ないのかも知れない。この絵は確かに「猛虎」と呼んでよさそうだ。江戸時代、虎の絵は、中国や朝鮮から輸入された。迫力いっぱいのものから、おかしな姿まで、色々な魅力を持つ作品があっただろう。日本の画家たちは、そんな絵を手掛かりにして虎を描いたのである。この絵にも手本があったに違いないが、プロポーションといい、動きといい、柔らかくて自然な感じの毛といい、さすが岸駒の描写力である。

猛虎嘯風図  岸良作     江戸後期

岸良の「猛虎嘯風図」は一匹の虎が咆哮する姿を描いている。画題は「虎嘯風生」(虎が嘯くと風が強く起きること。優れた能力を持つ人物が機会を得て奮起すること)からきているのだろう。虎を正面から捉えるのではなく、背後から描いた視点が新鮮である。背景には川が流れ、一本の松が植わっている。空間に薄墨を施して、風が吹いている様子を表現している。日本には虎が生息していないため、かって丸山応挙は輸入された虎の毛皮を実見して写生し、虎のリアルな姿に迫ったが、岸駒は更に虎の頭蓋骨や脚を取り寄せて体の構造を研究し、より迫真的で獰猛な虎を描いた。岸良も岸派の技法を受け継ぎ、的確で存在感たっぷりの虎を描いている。今更ながら、江戸時代の画家は研究熱心であったことを痛感する。

粟に鶉図   土佐光貞作   江戸中期

人々は古来から絵に寓意を持たせ、特に縁起の良い意味と組み合わせて用いることで願いを込めてきた。鶉は、中国では「鵪(an)」と書き、「安」と音が通じていることから「平安」を意味するそうだ。また、子孫繁栄の意味もあるという。土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄の意味もあるという。(まさか、この絵にこんな意味が込められているとは知らなかった)土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願していたのであろう。土佐光貞は江戸中期から後期にかけて活躍した土佐派の絵師である。土佐光芳の次男で、後に分家して一家を立てている。土佐派と言えば柔らかい線描のイメージがあるが、この作品では粟や笹の葉のバキッと洗練された輪郭線、そして隙のない緑と茶の彩色が画面を引き締めている。

花鳥図 張 月樵作    江戸後期

名古屋で活躍した画家、張月樵は多くの花鳥図を残している。呉春に師事したと言われており、応挙や呉春の画風をもとに独自の画境を切り開いた。地面のない空間に、ロウバイとバラ、ロウバイに止まる二羽のカラ類の小鳥、そして主役ともいうべきマナヅルが描かれている。背景となるロウバイは至極あっさりと、しかし所々で複座に枝を絡ませながら描かれ、そんな枝に止まる二羽の小鳥はまるで会話をしているようである。ロウバイの手前、バラに半ば埋もれるようにして一羽のマナズルが佇んでいる。楽し気なカラ類の姿と比較すると、孤高の精神性さえ感じさせるその姿には、人格を与えられたかのように対象を描き出す月樵の花鳥画の魅力が感じられる。

菊に鶏図   原  在中作   江戸後期

原在中による相当の力作である。菊は一枚一枚、花弁のひとひらひとひらとひらくが、くっきりと、しかし薄い透明な色で描かれ、それがたくさん集まり、わさwさした群れを成している。その密集感と、目を近づけて見た時の描写の丁寧さ、細密感には驚かされる。それをバックにした雄鶏は、白と黒と赤がくっきりとして、明瞭すぎるほど明瞭だ。口にくわえているのはバッタ。触角も足もしっかり付いている。それれを待つヒヨコのかわいいこと。見上げる二羽と、もらえる位置へ急行する一羽。口の開き方や目に、ちゃんとあどけない表情がある。天明5年(1785)、在中が36歳の時の作品だが、この頃の京では、伊藤若冲が70歳で、まだ現役の頃である。若冲の「動植採絵」や数々の色鮮やかな鶏の絵を、在中もきっと見ていたはずだ、kれども、全てにわたって「きちっと」している、この律儀な描きぶりは、後の在中の、定規で描いたかのような描写感覚につながっていくものだろう。

関ケ原合戦屏風図  菊池要斎作   江戸時代後期

「関ケ原合戦図屏風」は、濃く鮮やかな絵の具の発色と金の眩さが豪華な屏風だが、描かれている世界は生々しい戦いの様子である。徳川家康率いる東軍と石田三成の率いる西軍とが衝突した慶長5年(1600)の関ケ原の合戦を題材に描いているが、右隻は主に島図義弘、石田三成、大谷吉継、宇喜田秀家らの西軍と、東軍に寝返る脇坂安治や小早川秀秋も配されている。左隻には主に東軍の本田忠勝、藤堂高虎、井伊直正、有馬豊氏などの諸將が配されている。徳川家康は左側の木に隠れて見えなくなっている。兵士たちや馬の動きには躍動感があり、その表情も一人一人描き分けられて迫真的である。極彩色で濃密に描いていることで、血生臭い戦いの様子が伝わってくる。リアルな描写だけではなく、その俗っぽい生々しさが菊池容斎の画風の魅力の一つでもある。

 

後期の作品の残り半分を書いた。後期の方が、前期に比べ、ややなじみ深い題材が多かったように思う。いずれしろ、これだけの江戸時代の日本画を丁寧に見たことは、一度もなかった。誠に勉強になった。府中市美術館と敦賀市博物館に厚く御礼申し上げたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)

「ふつうの系譜(4)」

4月14日より後期展示会が始まった。せいぜい100点程度の展示であるから、一度に済ませばよいものをと思うが、美術館としては2度訪れる人もいるとの思惑か、あるいは貸し出す敦賀美術館の都合か知らないが、とにかく2回に分けて50点ずつ展示とは、いかにも面倒であり、また江戸時代初期から明治時代初期までの歴史を辿ることになる。「奇想があるなら普通もある」という、展示会のコンセプトに興味を感じ、2度見学することになった。特段、後期に名品が多い訳ではなく、作者も似たり寄ったりのメンバーである。何故2回に分けたのか、見学者としては、実に面倒であり、意味が無いように思う。次回以降は100点程度の展示ならば、1回で済ませてもらいたい。

伊勢図  土佐光起作   江戸中期

土佐派は室町時代から宮廷の繪所預(専属で絵画制作を行う工房の長の職)として代々引き継がれていったが、戦国時代に土佐光茂の息子が戦死し一時断絶してしまう。土佐派に伝わる技法や資料は光茂の弟子である土佐光吉が引き継ぎ、堺を拠点に活動した。こうして皇室専属から離れた土佐派が、土佐光起の時代に再び絵所預に任命されて京に戻り、復興を果たした。光起は伝統のやまと絵の画風を守るだけでなく、中国画や狩野派の技法を取り入れて様々な作品を生み出した。清少納言は「枕草紙」の第151段に「うつくしきもの」の中で「なにもなにも、ちいさきものはみなうつくし」と、小さいものは皆かわいらしいと述べているが、現代の私たちも、小さく繊細なものに心惹かれるものである。「伊勢図」は、雛人形のような小さく愛らしい女性が滝を眺めている。山の木々や滝は水墨でシンプルに描かれている一方、女性の色鮮やかで華やかな衣装に目が惹き付けられる。これは「古今和歌集」巻台17「龍文にまでうでたきのもとにてよめる 伊勢/たち縫わぬきぬ着し人もなきものを なに山姫の布さらすらむ」をもとに絵画化している。

隅田川図  浮田一薫作   江戸中期

「隅田川図」の題材は、やまと絵の世界の定番「伊勢物語」。都から失意のうちに東国に下ってきた主人公の男の一行が、武蔵国の隅田川にやって来たところである。川のほとりにみなで座って、遠く来てしまったなあと嘆き合っていると、渡し守が、日が暮れるから早く船に乗れと云う。その時、白くて鷺の足が赤い、鴨ほどの大きさの鳥が、水の上で魚を食べていた。都では見ない鳥なので渡し守に尋ねると、「都鳥」だと答える。そこで主人公の男は「名にし負わばいざこととわぬ都鳥、わが思ふ人はありやなしや」と、都に残してきた人を思う歌を詠んだ。人間の姿が小さい。まるで、みんなで「伊勢物語」ごっこをしてかのようだ。

朝陽鷹図 狩野探幽作   江戸時代初期

「朝陽鷹図」は朝日をバックに、波が打ち付ける岩の上に立つ白鷹が描かれている。細い筆で輪郭線がとられた鷹に、胡粉で白く彩色が施されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白く彩色されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白色を全体に重ね、濃い白色で毛並みを細かく描いている。画面上部に浮かぶ真っ赤な日輪の周りを囲む薄暗い雲は、淡墨で外隈(描く対象の外側を墨などでぼかして対象を浮き立たせる技法)を使って表し、雲が流れていく様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした姿が、画面に動と静とをもたらしている。

日月岩浪図  狩野養信作

この絵は、「古事記」に出てくる「国生みの一場面」のオノコロ島を題材にしたものだろうと編者は推測している。狩野派の圭角のある筆致で岩肌を表している。それを緑青や群青の岩絵の具で彩色し、更に所どころに金泥を施して豪華で迫力がある。一方で海の波濤は、やまと絵風の柔らかな描線であり、漢画と融合を成した養親ならではと言える。背景の朝日と月によって霊験あらたかな雰囲気の作品となっている。

西王母・寿老図   丸山応挙作    江戸中期

二人の仙人を描いた「西王母・壽老図」は、応挙の典型的なきれいな絵である。西王母は、女仙全てを支配し、不老不死の仙桃を管理する仙人。江戸時代、西王母の絵は特に人気があったようである。この絵のように、侍者を従えたところを描いたものが多い。西王母の向こうにいるのは壽郎人。こちらは鹿と一緒である。日本では七副人の一人として親しまれているが、もとはやはり中国の仙人である。斜めを向いた西王母と、体は西王母と同じ方へ向けながらも、顔はこちらに見せる侍者。そして完全に正面向きの寿老人。それあおれのこんな姿が単独で描いた作品は多いが、応挙は、一つの絵の中で、組み合わせることで、立体感のある群像に仕立てている。立体感のありさまを平面に描くことを得意とした、応挙らしい作品である。

相生松図   丸山応挙作   江戸中期

「相生松図」は、前作とはかなり描き方が違う。「相生松」は、同じ場所から雌雄の木が立ち上がって、まるで一つの株のように見えるもの。長壽や縁結びなどの御利益があるとされる、ありがたい木である。松の輪郭は太い直線をばきばき連ねている。幹の姿も、無理に直線で表したような感じである。遠くのものを薄くすればリアルに表せる、そんな約束事に従って、まるで機械的に表現したかのようだが、強い線や直線的な造形感覚とも相まって、突飛なくらいの雰囲気を醸し出している。

猛虎図   丸山応挙作    江戸中期

「虎嘯けば風が生づ」というのは、中国の禅の書物などにも書かれた有名な言葉である。日本でも、、多くの虎の絵で風が表現されている。この作品でも、上空の様子と激しい波からして、風が吹き荒れているようだ。しかし虎は、向かい風ににもなんのその、きりっとした姿を見せている。応挙は、若い頃から晩年まで、様々な時期に虎を描いたが、ある時期、40代の頃の作品では、体の模様を複雑に表している。本物の毛皮を見て、模様を取り入れたかわである。この作品もその一つで、数ある応挙の虎の絵の中でも、ひときわ「リアル」な雰囲気をまとう一匹である。

老子図  長澤蘆雪作   江戸中期

牛の背に乗る老人は、古代中国の思想家、老子。「老子図」に描かれているのは、周の国が衰退するのを見て落胆した老子が、国を去るところである。牛の背にちんまりと乗る様子、虚ろな目つきは、本当にがっかりしている様子である。老子の身体や腕の感じは立体的だし、牛も、破天荒な描き方ながら、しっかりと三次元的な表し方ができていて、応挙譲りの立体表現が生きている。

紅葉狗子図    長澤芦雪作     江戸中期

子犬の絵と言えば応挙の独壇場、と思いきや、最近は弟子の蘆雪の人気が応挙に迫る勢いだ。もちろん蘆雪の子犬は、応挙のおsれを真似るところから始まっているが、どこか違う。「紅葉狗子図」は、そんな「芦雪犬」の典型的な例である。まず、犬の身体が間延びしている。真ん中の後ろ姿の一匹を見れば、不自然に胴体が長い。また顔の表情も、かわいい中にきりっとしたところのある応挙の子犬と違って、三枚目っぽい。そして決定的なのが、場面設定と構図。一匹一匹がほぼ独立している応挙の場面設定に対して蘆雪のそれは、重なり合ったり、だらけたりしている。構図も、全体のバランスを考えずに、成り行きで描いたように見える。しかし、こうした「ゆるさ」こそ、昨今の蘆雪犬の人気の理由なのであろう。

 

後期の作品の半分を書いた。前半と大きな違いがある訳ではないが、後期の方が、やや絵画としては秀作が多いように思う。多分、殆ど変わらないだろうが、同じような絵を見ていると、段々好きになるのだろう。

 

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)

「ふつうの系譜 (3)」

江戸中期、すなわち18世紀の京の絵画は、華やかである。伊藤若冲、曽我蕭白ら「奇想」もいれば、池大雅や与謝蕪村、丸山応挙らもいた。続く江戸後期、19世紀になると、誰もが知っている画家は少ない。そんな中にあって、華々しく活躍したのが、原在中、岸駒(がんく)である。二人とも、若冲や応挙らと重なる18世紀後半、既に実力も人気も得ているが、19世紀を迎えて、より目立つ存在になったと言えるだろう。岸駒(がんく)の出身は、越中または加賀と言われる。安永8年(1779)に京に上り、初めは「岸矩」(がんく)という名で、清の画家沈南頻風の花鳥画などを描いていた。例えば「厳上双鶴図」などを描いている。天明5年に「岸駒」(がんく)と名前を変えてからは、彼ならではの描き方を打ち出した。特に虎の絵に人気があった。、岸駒は、有栖川宮家に抱えられたのを出発点として、雅楽助の称を許され、ついには越前守に任じられた。当時の宮中を中心とする世界での地位を高めることによってもまた、自分の絵を優れたものとして浸透させたのである。そして、その子の岸岱、岸駒の養子となった岸連山、連山の弟子の竹堂へと、その流れは続いていった。

寒山十得図    岸駒作   江戸中期

実在したかどうかわからない唐時代の人物、寒山と拾得。物乞いのような姿、突然叫んだり、笑ったり、走りだしたりといった変わった行動の中に、真理や奥義があるとされ、禅の世界で崇拝を集めた人物である。そんなテーマだから、中国でも日本でも、薄気味悪い笑みを浮かべた、不可解な表情に描かれる。しかし、数々の寒山拾得の絵と比べても、岸駒の描写は、あまりにもその表情が鮮明で、しかも「いやな感じ」の演出が思い切りツボにはまっている。完全にこちらに向けた視線、二人の口の開き方の違いや眉の形の違い。しかし、見ていて飽きない、不思議に目を惹き付ける味のようなものがある。

竜虎図 岸 連山作  江戸後期

岸連山は、絵の技量を見込まれて岸駒(がんく)の養子になった人物である。かれが描いた「竜虎図」は、雨雲を起こす龍と風を起こす虎という画だとして定番の組み合わせで、天と地を表す両者を墨一色でダイナミックに表している。岸駒の画風を継承しつつも四条派的な温和な雰囲気も感じられる。墨の表情を自在に操つて対象の立体感や空間を描き出しており、水墨画の奥深さを示す作品である。

群鳥図  岸 竹堂作   江戸後期

この群鳥図には48羽の鳥たちが隠れている。アカゲラや雀、エナガ、ウソ、ノジコなど実に様々な鳥が描かれている。「隠し絵」的な遊び心のあるこの作品を描いたのは、幕末から明治にかけて活躍した岸竹堂である。竹堂は岸連山に弟子入りして、岸派を継いだ。画面全体は落ち着いた色調だが、まだ青みのあるドングリや、烈開した栗、赤く色づいた木の実などが、夏から秋への季節の移ろいをみせている。木の幹や枝葉に輪悪銭を用いないで絵がき上げているところである。(没骨法と呼ばれる技法)。鳥たちも、輪郭線は最低限にして殆どが彩色のみで描かれている。画面内にこれだけの数の鳥がいることは驚きだが、それぞれの色彩や配置などが調和していることによって、作品に窮屈な印象を与えていない。

船鉾図  幸野媒嶺作   明治時代

近代京都画壇の画家として思い浮かべる人物は誰であろうか。すぐ思いつくのは竹内栖鳳や上村松園あたりではないだろうかと思うが、彼らが指導した幸野媒嶺を知る人は、まだ少ないだろう。しかし幸野媒嶺なくして近代京都画壇の発展はありえないと言えるほど重要な人物である。(私は、この解説を読むまで、幸野媒嶺は知らなかった)媒嶺は、江戸から明治への時代の変革期において、伝統の丸山四条派の技術を新時代に引き継いだ伝承者でありながら、新たたな美術の道を次代に繋いだ。絵画教育の近代化に尽力し、指導者としての評価が高い一方で、優れた作品も多く残している。「船鉾図」は、その媒嶺が京都の祇園祭で巡行する船鉾を主題にに描いた作品である。前祭の船鉾(出陣船鉾)と後祭の船鉾(凱旋船鉾)との二基が存在したが、後者は元治元年(1864)の禁門の変で焼失し,近年まで休み鉾となっていた。平成26年に鉾の再建が完了し、祇園祭の山鉾巡行に本格復帰した。ここに描かれているのが、幕末に焼失した大船鉾で、当時の姿を伝える歴史資料としても貴重な作品である。雨粒を描くのではなく、人々がさす傘でその場の天候を匂わせるところが洒落ている。

雪中清水寺 幸野媒嶺作  明治時代

清水寺と言えば京都観光では欠かせない定番のスポットである。覚悟を決めて物事を実行する時に使う「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるが、その由来である断崖に建つ本堂から張り出した舞台の高さは約13メートルあり、この高層建築が清水寺なのかと思ってしまうくらいに人影がなく静かである。本堂の「懸け造り」と呼ばれる格子状に組まれた柱は、建築的に整合性を持って描かれているが、雪の音羽山が薄闇に包まれる中、薄墨によってぼんやりと浮かび上がった清水寺はまるで別世界のようだ。

朝陽蟻群金銀搬入図 鈴木松年作  江戸後期

明治初期、「今蕭白」とも称され、自らも蕭白は勿論岸駒も敬愛したという鈴木松年が描いた作品である。見る人をギョツとさせる迫力がある。金銀をせっせと巣穴へ運び込む八十匹を超えるアリ。たらし込みによって描かれた土手や笹とは対照的に、アリは肢の節一つ一つまで強調するかのように丁寧に描き込まれている。勤勉さの象徴であるアリを、あたかも画家と共に地面に這いつくばって眺めているような構図が面白い。

花籠図  土佐光起作  江戸後期

江戸時代に土佐派を再興させた土佐光起の「花籠図」は、まさに「精密さ」そのものである。狂いの無い正確な輪郭線と、その中を彩る精緻な色使いに惚れ惚れしてしまう。その丁寧な筆運びはまさに職人技である。光起は伝統的なやまと絵を継承しながらも、中国絵画の手法を勉強し取り入れた。中国には宋代に隆盛した緻密で写生的な院体花鳥画があり、本作はそこからの影響もうかがえる。本図の花入れは唐物瓢手付籠花入れと呼ばれる形である。それに白菊を中心にススキ・女郎花・紅葉・朝顔といった季節の草花を挿して秋を表している。

岩上鷹・柳枝鷹図  曽我二直庵作  江戸初期

曽我派の曽我二直庵は鷹画を得意としたが、二直庵も同様に優れた鷹画を残している。「巌上鷹・柳枝鷹図」は、二羽の鷹を配置している。右福は柳の木の枝に留まって下を見つめる鷹である。画面に対して後ろを向いた状態で脚を広げ、その間から顔を覗かせている。数ある鷹画の中でもこの様なポーズは珍しく、ユニークである。左幅は岩の上で今まさしく飛ぼうとしている体制の鷹を描いている。両方とも何かに狙いを定めているかのような鷹の表情が勇ましい。鷹画は、その勇猛な姿から戦国武将や徳川将軍家に好まれた。また、どちらからも枝葉の流れや鷹の姿勢が画面上で円を描く様な形になっており、構図の妙が効いている。

十界曼荼羅図  浮田一薫作   江戸時代中期

仏画は色の宝庫である。古来、中国の仏画や厳密な教義に従って、様々な仏を色で表現してきた歴史がある。平安時代後期には、宮廷や貴族の世界で、信じられないくらい繊細で美しい仏画の数々が制作されているが、そこには、美しいものを求める気持ちと、その美しさがすなわち仏の力だという考えがあった。この「十界曼荼羅」は、日蓮宗の本尊として拝される曼荼羅。全ての境地が釈迦如来と法華経の救いに包まれていることを表したものである、「南無妙保蓮華経」の題目を掲げて、右に釈迦如来、左に多宝塔如来が描かれ、題目の下には、獅子に乗る文殊菩薩。ほかにも様々な仏や高僧が見えるが、一番下の真ん中は日蓮である。十界曼荼羅図は鎌倉時代から描かれてきたが、古いそれを模写したのかも知れない。

三国志武将図屏風  中島来章作   江戸中期

丸山派の画家、中島来章。清々しい色調の鯉の絵や花鳥画を多く描いたが、この屏風は、来章としても、丸山派としても、更に江戸時代の絵画としても異色である。テーマは「三国志」。江戸時代にはその小説版である「三国志演義」の翻訳本も出て、幅広い人気があった。登場人物をシリーズ化した歌川国芳の浮世絵は大ヒットして、彼の出世作になったほどである。現代と同じように、江戸時代の人たちも登場人物に入れ込んで、熱くストーリーを語りあっていたのかもしれない。上の図は関羽。馬に乗って振り返る姿は、中国から伝わった定番のポーズである。下の図は劉備。許都の攻撃に失敗して、劉表のところに身を寄せていたが、自分を暗殺する計画を知り、馬に飛び乗って逃げた。追手が迫る中,行く手を阻む激流を飛び越えたという「馬跳壇渓」のシーンである。見事なジャンプを見せる馬と劉備。力を振り絞ってピンチを脱した、その姿である。

 

江戸時代の中期、後期、明治時代の絵画を紹介したが、いずれも日本人が好んだ絵画である。何時の時代でも、流行があり、それぞれの趣向を表している。

「ふつうの系譜」(2)

江戸時代に入った頃の「絵画の世界」には、大きく見ると二つの流派があった。平安時代から続くやまと絵の土佐派と、中世に中国から来た水墨画の流れから生まれた漢画の流れから生まれた漢画の狩野派である。京ではまず、裕福な町人の世界から、豪華でダイナミックなものを描いた俵屋宗達が登場した。そのスタイルは尾形光琳に受け継がれ、更に江戸後期には酒井抱一、鈴木其一等が加わり、独特の感覚を加えている。今日、琳派と呼ばれる画家たちである。また江戸では町人文化として浮世絵がもてはやされた。江戸中期には、文人画も描かれるようになった。日本でも京の池大雅や与謝蕪村ら、文人画を描く人たちが現れた。このほか、清から来た沈南簸のリアルで色の綺麗な花鳥画の描き方が流行した。日本独自の絵を描いた丸山応挙、原在中、岩駒らと、後に生まれた丸山四条派、原派、岸派などがある。この江戸期の絵画の流れを頭に入れて、「ふつうの系譜」2を描き進めたい。なお画家の紹介は江戸初期、江戸中期、江戸後期など大まかな時代区分で紹介したい。

藤下遊猿図   森 祖仙作   森派   江戸中期

藤下猿遊図では、より長いストロークで全身の毛を描き、少しごわごわした毛の質感を再現している。また青を陰影として効果的に使用することで、毛の下にある硬く締まった筋肉の感じを再現している。一連の猿の図は、見事である。右下の落款から、こ図は60台で「狙仙」と代えた以降の60台で号を「祖仙」に代えて以降の晩年の作品と知られる。

雪中鴛鴦図  長澤芦雪作 丸山派   江戸中期

江戸中期、18世紀後半の画家、長澤芦雪と言えば、今では、奇想の画家として知られる。芦雪は非常に優れた門人の一人であり、天明6年(1786)に無量寺に赴いたのも、忙しい応挙の代理としてだった。芦雪と言えば、和歌山県串本の無量寺の「虎図襖」が有名である。一頭の虎を、襖六面にわたって墨で描いた豪快な作品が有名である。今回は「ふつうの画家」として腕を振るってもらった。「雪中鴛鴦図」は、簡潔ながら、手際良く本物らしさを出す手法を使って描いた一作である。鴛鴦や真っ赤な椿の花だけは細かく描き込み、要所要所で作品をぎゅっと締めている。

合歓花小禽図  村松景文作  江戸末期

村松啓文の「合歓花小禽図」に描かれるネムノキに憩う小鳥はヒガラだろうが、ネムノキは六月から七月にかけて花をつける。名前の由来は、暗くなると葉を閉じる様子が眠っているように見えることからきているという。画面に対角線上に伸びる枝や飛び立つヒガラのリズム感、瑞々しい緑の葉に可憐なピンクの花、これらを軽やかに描き、爽やかな夏の情景を見事に表している。

二見富士図  原  在中作  江戸中期

実際にある見事な景色の様子が描かれたのは、江戸中期のことである。室松時代に雪舟が天橋立を描いた作品は有名なので、意外に思わっるかもしれないが、本物の景色を題材にしたリアルな絵を多くの画家たちが描くようになったのは、18世紀の終わりから19世紀にかけての頃だった。原 在中もその一人であるが、ただ実景を写実的に描いた画家の一人と見るだけでは物足りないように思われる。細かいところが写実的すぎるほど写実的であること、定規で描いたような雰囲気が張り詰めていること。実景を描いたというだけではなく、そんな当たり前のを通り超してしまったような奇妙さに、もっと目を向けても良いのではないだろうか。「二見浦富士山図」は、天保元年(1830)、81歳の時の作品である。実際に伊勢の二見ガ浦からは富士山が見えるが、その光景を描いた作品である。太陽からの一筋の光が海上に映し出されている描写は、いかにも「光」を説明して感じで、少々ストレートすぎて面白いほどである。

養老滝真景図  原 在中作  江戸中期

「養老滝真景図」は、岐阜県にある有名な養老の滝を描いている。落差30メートル、幅約4メートルあるこの滝は、古くから名所として親しまれてきた。養老の滝にまつわる逸話は、親孝行の源丞内が泉から湧き出る酒を見つけ、老父を養い喜ばせた伝説がある。画面の噂を聞いた元正天皇によって「養老」と根付けられたという。画面の上から下まで伸びる白い帯状の滝が印象的だが、白の絵具で作者の迫真性が表れている。本作は、箱書きから孝明天皇の御遺物であったことが知られ、夏の宮中を涼やかに彩っていたのであろう。

嵐山図  原  在中作  江戸中期

丸山応挙の絵を思わせる透明感のある淡い色調ではなく、濃い色が使われている。不透明な緑青の絵具がそのまま使われた木々の美しさは、土佐派のやまと絵のようでもある。この横長の掛け軸、そしてもう一つの屏風である。描かれた場所は嵐山、今では京都の観光地の中でもとびきり賑やかで、景色の良さをじっくりと味わうのは難しいほどであるが、少し静かになると、さすがに古くからの名所だと唸らされる。

氷室山水図 原 在明作  江戸中期

「氷室山水図」は、珍しい光景を描いた作品である。夏まで氷を貯蔵しておいて氷室から、氷を取り出して京の御所まで運ぶ、その様子である。人々の描写はとにかく小さい。白い装束の二人が氷を入れる櫃を担いでいるが、夏の山中の細い道を延々と歩いて、天皇のもとへ氷を届ける心境とは、一体どんなものだったのだろうか。点描のような手法で、山の起伏を表している。狩野派の山水画のような筆遣いの妙で見せるのではなく、土佐派のように絵具そのものの美しさで見せるわけでもない。きっちりと、細かい起伏にまでこだわって描いた「精密な風景」。ここにも、父の在世中の、いわばごまかしのない、曖昧さを嫌うような絵づくりが生きている。

巌上双鶴図  岸駒作  江戸中期

岩駒(がんく)は、江戸中期から後期にかけての京では、非常に有名な画家であった。「平安人物史」に掲載されている有名画家であった。若冲や応挙よりずっと若いとは言え、その前半生を彼らと同じ時代の京の画家として生きていたわけである。そして、天保9年(1838)に83歳または90歳で亡くなるまで、絵の実力でも評判でも、第一線を守り続けた。「岸駒と言えば虎」と言われるくらい、独自の手法で描いた虎の絵は知られていたが、今日の目で色色な作品を見渡してみると、虎の絵以外で画家としての特徴をつかむのは、なかなか難しい。「岩上双鶴図」は、沈南頻風の絵を描いた時期の作品である。どちらにも「岩駒」と改める前の「岸矩」の署名がある。突き出した岩の上にいる鶴を描いた「巌上双鶴図」の鶴は、狩野派でも南頻派の絵でも丸山派でも定番の題材だが、岩の起伏をたくさんの線で表しているところや、岩に添えられた菊の描き方などは、南頻風である。しかし全体としては南頻風のこってりとした描き込みは見られず、応挙風のさっぱりとした心地よさが感じられる。応挙風の空間表現から感化された、リアルで広がりのある空間を持った作品である。

白蓮翡翠図  岸駒作   江戸中期

蓮は古くから水墨画などに描かれてきた題材である。秋になって敗れた葉もまた、敗荷と呼ばれ、はかない風情が愛されてきた。しかし、この岩駒の作品は、枯れ方も破れ方もあからさますぎる。蓮池の蓮というものは確かに密集して林立しているが、その光景の一部をそのまま切り取ったように、わさわさしている。そして葉の輪郭を表すがくがくした岸駒独自の描線。奇想かふつうか。あえてそんな見方をしている本展であるが、私は奇想の蓮葉と見たい。これは、「ふつうの系譜」に反する見方だろうか。

富士山図 岩駒作   江戸中期

この絵もまた、がkがくとした線を使って描いている。なぜ、富士山までこんな描き方をするのであろうか。ただ、改めて考えれば、本物の光景に忠実に描くことが日本の絵画の世界に登場する以前は、例えば狩野派の富士山の絵にしても「筆使いの美しさ」が作品の魅力を形作る大きな役目を担っていた。岸駒は、狩野派の描き方とは違う「専売特許のような自分だけの筆づかい」を探求して、がくがくした線にたどり着き、虎や色々な題材を描いたのかも知れない。横が130センチを超える、大きな絵である。空気感、雲の感じ、富士山の見え方など、本物らしさにもこだわっている。

岸駒の「虎図」は後期の展示のため、図禄にはあるが、私自身は本物は見ていない。しばらく猶予を頂きたい。後期展を見て、岸駒の「虎図」を紹介するので、今回は、これでご勘弁願いたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜」、辻惟雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した。