京都・大法恩寺 快慶・定慶のみほとけ(2)

六観音と言う言葉は、必ずしも仏教美術で決まった用語では無いようである。私が愛用する石田茂作氏の「仏教美術の基本」には、「六観音」という言葉一切出てこない。また平凡社刊の「仏教美術入門」全6冊にも現れない。これは、六観音という言葉は、何かしら謂れが有るのだろうと調べてみたら、次のような事情が分かった。平安時代に栄華を極めた藤原道長が造営に励んだ法成寺は、大日如来や阿弥陀如来などを祀る総合的な大寺院であった。七仏薬師を祀る薬師堂に六観音も安置されることになったが、その姿について道長から相談された真言宗の仁海(にんかい)は、従来とは異なる仏の名前を挙げた。それが、この大報恩寺に伝わる六観音と同じ観音像であった。日本では平安時代まで観音と言えば現世利益の仏であり、あらゆる世界の、特に来世の救済の対象となったことは画期的であった。古代インドの死生観では、あらゆる生き物は生まれ変わり続けるとされており、この転生(てんしょう)する世界をまとめて六道と呼ぶ。六道輪廻と呼ばれる転生の考え方は、仏教の伝来と共に東アジアでも広く受け入れられた。六道とは、上から天、人(じん)、阿修羅(あしゅら)、畜生、餓鬼、地獄という六つの世界であり、私も子供の頃から、祖母から六道について教えられた記憶がある。仏教とは、この輪廻(りんね)から逃れること、すなわち解脱(げだつ)を目指す宗教であった。六観音は六道のどこにいても救済の手を差し伸べるものである。このように説明すると、六観音はどの宗派でも、同じでは無いかと思うのだが、天台、真言宗等に限定されているようである。大報恩寺に伝わる観音像は真言宗で信仰された六観音と言えよう。しかし、大報恩寺の最初から、この六観音が伝来した訳ではない。もともと北野天満宮の鳥居の南側にあった願成就寺経王堂(がんじょうじゆじきょうおうどう)に安置されていたという。大報恩寺の縁起や棟札によれば、「六観音と地蔵像」は、寛文十年(1670)に破損甚だしかった経王堂から大報恩寺に移されたという。さて、この六観音はいずれもカヤ材が用いられており、表面は彩色や漆箔はせず、木肌を露出したままである。これは壇像(だんぞう)を意図して造られたものと考えられる。壇像とは本来、インド原産の白檀で造らるべきであるが、東アジアでは白檀は自生せず、代用材として日本では奈良時代後期より、白檀の代用材としてカヤを用いて多くの木彫像が造られるようになった。この六観音は、動物性の膠では無く、植物性の漆を採用していることも、大きな特徴である。展示会場では真暗な中で、六観音象が弧線状に並べられ、一像、一像にライトが当てられ、浮彫りのように美しく並べられていた。地蔵菩薩は、出口辺りに一躯にみ飾られていた。

国宝洛中洛外図 上杉本 狩野永徳筆 安土桃山時代(16世紀)米沢上杉博物館

この洛中洛外図の第5図の上部に「北野天満宮」を示す鳥居が立ち、左側に北野経王堂が建つ。堂内外には数人の人影が見える。お堂の四面は開け放たれているように見える。蔀戸はあるが、開け放たれているように見える。これは江戸期に入ると壁が出来る。蔀戸を開け放つ状態で、六観音が祀られているとは思えない。慶長11年(1606)豊臣秀頼による経王堂の修繕が行われたことが資料により明らかである。六観音は、経王堂に移座されたとされる。寛文10年(1670)大報恩寺が修繕された際の棟札に「六観音」とある以前、大報恩寺の記録に六観音の記述は確認できない。寛文10年以降は、本堂内陣に安置されていたことがうかがえる。それは明治21年(1888)にフェノロサや九鬼隆一らが京都・奈良等を寺社宝物調査のために巡ったことが知られ、その際の写真(小川一真撮影)が残されている。それによれば本堂内陣向かって右側に馬頭観音・十一面観音・聖観音、向って左手には千手観音・如意輪観音・准胝観音が並んでいた。従って、霊宝館に入る前には、このように並んでいたのであろう。

経王堂扁額  木造・彩色  室町時代(応永32年ー1425) 大報恩寺

北野経王堂に掲げられていた額。「経王堂」と大書し、左下には「大樹陰涼」の方印が刻印されている。江戸時代初期に編まれた大報恩寺の寺誌には、応永8年(1402)足利義満が経王堂を建立した際、みずから「経王堂三大字」を書いて「大殿」に掲げたと記されている。北野経王堂に残された六観音像や「北野経王堂一切経」(5千帖を超す)は、現在大報恩寺に伝来している。六観音像は、いずれも木造、素地、玉眼である。

重文 聖観音菩薩立像  肥後定慶作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

六観音菩薩立像はいずれも針葉樹のカヤの一木造、一木内矧造で造られている。表面には彩色や漆箔をせず、木肌を露出したままとする。これは壇像造りを意図して造られたものであると考えられる。いずれも運慶の長男湛慶よりも10歳程若い「肥後別当定慶」の署名がある観音象であり、定慶一門の作品と解されている。鎌倉時代前期に定慶と呼ばれる仏師は少なくとも四人いたことが知られるが、この定慶は、運慶一門の仏師であることは間違いない。観音菩薩とは、観世音または観自在と訳す。この菩薩は衆生の苦しみを見るとじっとしていられず、その場に飛んで来て苦難を救って下さるのである。蓮華を持つものえを聖観音(しょうかんおん)と呼ぶ。

重文 千手観音菩薩立像  定慶一派作成  鎌倉時代(13世紀)

蓮華を手に持つ観音像である、銘は無く、定慶一派の作品と解されている。正しくは十一面千手千眼観音という。千手の一つ一つの掌に目がついていることによって一切の衆の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。観音菩薩の救済活動の絶大なるを具象的に表したものである。この尊を念ずれば、延命・滅罪・男女和合・転女身等の利益があると説かれ、奈良時代末期頃から平安・鎌倉にかけて信仰が盛んであった。この千手観音菩薩立像は四十二臂にしたものである。

重文 馬頭観音菩薩立像  定慶一派作   鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見いだされ、施主であると見られている。馬頭明王とも言い、その尊容は三目九目八臂の憤怒形で頭上に牛馬を置く。馬頭にちなんで牛馬の息災安全を祈る対象とせられることも多い。定慶一派の作品と見られる。

重文  十一面観音菩薩立像 定慶一派作   鎌倉時代(13世紀)

十一面観音菩薩立像は観音菩薩の頭の上にさらに十個の頭をつける。よって十一面観音という。もともとインド教の神であったが、仏教に取り入れられ観音菩薩の超人間的な頭の働きを分担する菩薩として崇められるに至った。従ってkの尊を念ずれば一切衆生の憂愁・病苦・悪夢等が除減せられると説かれている。定慶一派の作品と見られる。

重文  准胝観音菩薩立像  定慶作 鎌倉時代(13世紀)

准聤観音菩薩立像(じゅんていかんのんぼさつ)は清浄の意味である。女子の純潔の徳をあらわしたものであろう。夫婦和合法、また求児法は、この尊を対象として修せられることが多い。その像容は一面八臂の菩薩形で、連台に乗る。平安中期以降に信仰された菩薩で遺品は、わりあいに少ない。本像の背面に記された墨書銘には「肥後別当定慶」と記され、この六観音菩薩立像はは、定慶一派の作品と推定される根拠になった。

重文  如意輪観音菩薩立像  定慶一派作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見い出された。如意は如意宝珠を意味する。すなわち民衆のために財宝を与え、法輪を転じて煩悩を断徐するを本誓とする観音菩薩である。その尊容は、右足を立膝して坐し、右手第一手を頬に当てて思惟の相をし、第二手は宝珠、第三手に念誦を持ち、左第一手は垂れて地を押さえ、第二手蓮華、第三手に輪宝を持つ。一面六臂が普通である。定慶一派の作品と見られる。

地蔵菩薩立像  木造、彩色、玉眼   鎌倉時代(13世紀)

本像は、寛文10年(1670)、経王堂が解体される際に、六観音菩薩像とともに大法恩寺に移された像と考えられる。なお、京都府で昭和16年(1941)に始まった京都府寺院調査によると、この時点では本堂須弥壇上に安置されていたという。六観音菩薩像のうち、肥後定慶作の准胝観音菩薩立像とよく似ている。衣文は定慶が好んだ表文表現と共通している。また本像は六観音と大きさが釣り合うばかりではなく、鎌倉時代のこの大きさの像としては珍しく一木割矧造としており、六観音菩薩像のうち、十一面観音菩薩像と本像は同時期の造像で、一対の観音と地蔵として造られた可能性が高いと言えよう。本像は、左足の親指を持ち上げて上に向けており、この動きは仏の動的な性格を示すもので、現世に具体的に姿を現した仏であることを表していると言えよう。

 

本稿では、大法恩寺に古くから伝わって来なかった、六観音像や地蔵菩薩像を取り上げた。何時もならば、霊宝館に祀られ、十大弟子と、同様に並んでいるので、あまり深く考えず、制作年代を異にする仏像群程度の認識しか無かったが、「北野経王堂」の存在を知り、そこに安置された、美しい六観音菩薩像と地蔵菩薩像の詳細について触れることが出来た。この、六観音の美しさには、深く感動させられた。「鎌倉時代」の観音様で、一木造り、木肌も綺麗に見える六観音菩薩像は、私を惹きつけてやま無い。

 

 

(本稿は、図録「京都・大恩寺 快慶・定慶のみほとけ  2018年」石田茂作「仏教美術の基本」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」日経新聞社「2018年9月28日 ガイド ワイド」を参照した)