出光美術館開館50周年記念 美の祝典 Ⅱ 水墨の壮美

出光美術館開館50周年記念の第2部として、「水墨の壮美」が展示された。(6月12日まで)ここで取り上げられるのは、「水墨画」と「文人画」である。水墨画の日本における受容の歴史を見て行く上で欠かすことのできないのが、「東山御宇物」と呼ばれる室町将軍家が蒐集した唐物(中国絵画)の存在である。なかでも牧谿(もっけい)と玉澗(ぎょくかん)による宋元画である。出光美術館には、牧谿、玉澗の代表作が保管されているが、今回は中国の絵画は除いて、日本人画家の絵画を観たい。出光コレクションの水墨画には、能阿弥、長谷川等伯、雪舟という二つの大きな流れが見える。江戸時代初期に、日本は鎖国を行い、キリシタンを弾圧し、貿易港を長崎だけに絞り、オランダのみと交易した。(実は中国、朝鮮との間の国交はあった)この「鎖国」は少なくとも、日本人自体には大きな影響を及ぼしたように見える。「海外渡航禁止令」によってもたらされた「日本」を意識する感情は、結果的に他国への憧れ、生半可な知識の導入を阻み、「ジャポニズム」(日本主義)を生み出した。中国の山水画が日本の山水画となり、その独自性を生み出した、この次に第二の「ジャポニズム」ともよぶべき「文人画」が生まれた。本展覧会では、「水墨画」に続いて「文人画」を取り上げている。出光美術館の特徴として、田能村竹田、玉堂、大雅の優品が揃っている。蕪村の佳作も数点保有されているが、決して多くはない、なお、この期間には国宝「伴大納言絵巻」の中巻を展示していたが、これはⅣとして最後にまとめてご紹介する。

破墨山水図(はぼくさんすいず) 雪舟等楊作  室町時代(15~16世紀)

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雪舟(応永2年~永正3年ー1420~1506)の家系や生地は不詳である。若い時期に相国寺に入って当楊と名付けられ禅僧修行を積み、やがて同寺を去った。寛正3年(1462)43歳以前に雪舟と号し、大内家をたよって周防国にゆき、応仁2年に幕府の遣明船に陪乗して入明し、天道山に参じて大一座の名を与えられ、翌年文明元年(1469)ごろには周防の山口に住し、その庵を雲谷と名付けた。代表作としては「山水長巻」「破墨山水図」「慧可断碑図」「天橋立図」等がある。この図は、淡墨を含ませた太筆で舟と樹木、そして家屋を配した水墨山水画である。即興性にあふれた筆致は現代美術のアブストラクトのようにも見える。このような水墨山水を、雪舟は生涯を通じて描き続けている。本作品に見られる、水気をたっぷり含んだ淡墨と濃墨の劇的なコントラストは、国宝「破墨山水図」の表現に近い。この制作時期は1500年前後に当たると、美術館では判断している。

四季花鳥図屏風 右隻(部分)  能阿弥作     応仁3年(1469)

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この作品は、室町幕府の同朋衆として足利義政に仕えた能阿弥(のうあみ)(1397~1471)の代表作であり、年紀を伴う水墨屏風としても最古に位置付けられる作例であり、極めて貴重な作品である。本屏風は、四曲一双という室町時代のものとしては珍しい形式をなし、両隻を横並びに立ててみると、左右両端と中央に主要な景物を配する、安定感のある構図が出来上がる。右積右端には松、左右隻にまたがる中央部には蓮、そして左隻左端には枯木と竹を配し、それぞれを背景として右から叭々鳥、白鷺、燕、雁、鴛鴦、鳩などの禽獣が描かれている。日本最古の水墨花鳥図であろう。本作品は「応仁3暮春初一日、七十有三歳」と記された落款があることから、応仁3年(1469)に描かれたものであることが判明する。能阿弥は同朋衆としての仕事のみではなく、私的な動機による絵画制作をも請け負っていたことがわかる。

松に鴉(からす)、柳に白鷲(しろさぎ)図屏風 六曲一双 長谷川等伯作 桃山時代(16世紀)右隻(部分)左隻(部分)

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右隻には巨大な松樹があり、その一枝に鴉(からす)が巣を作り、母鳥の下には三羽の雛鳥が見える。近くの枝には餌を運んできたのだろうか、父鳥が止まり、さらに雛鳥たtに餌を催促されているように映る。左隻では雪景色のなか、柳の古木に白鷲が佇み、さrに一羽の白鷺が飛来しようとしている。番(つがい)の白鷺の情愛の交歓の場のようである。本作品は鴉一家の愛情と番の白鷺の情愛の交歓という、動物の感性そのものが描かれていることに加え、右隻の中央部寄りの松樹がもたらす構図の不安定感は、国宝「松林図屏風」につながる新しさであることと、水墨画において黒い鳥の好画題としてさかんに描かれてきた叭々鳥に代わり、古来忌避されてきた鴉をその家族愛というテーマに変えて表現した点に等伯の水墨画制作における清新な意欲を感じる。このような表現における平明さがいかにも近世的であり、単に牧谿画の模倣に終始しなかった等伯の真面目(しんめんもく)である。

竹鶴図屏風 六曲一双(部分) 長谷川等伯作   桃山時代(16世紀)

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牧谿の「観音猿鶴図」の鑑賞体験によって描かれた作品であろう。現在は屏風仕立てであるが、紙継や引手跡によって襖であったことが知られる。左隻の竹林を背にして啼く鶴の姿は、牧谿画の鶴図そのままと言えるほどである。しかし、牧谿には無い解釈がなされている。それは右隻の簾籠り(すごもり)する雌鶴の存在である。等伯画では、雄鶴の雌への愛情を示す解釈が加えられている。番(つがい)間の情愛表現である。等伯は日本人に親近される光の持つ温もりとして共感を寄せ、それを象徴するように動物の温もりを描いている。本作品の竹木の墨の効いた表現は、国宝「松林図屏風」の松林の表現に通じる。「松林図屏風」が一連の牧谿画鑑賞の動物制作の系譜で誕生することを示す作品では無いだろうか。

重要文化財 十二カ月離合山水図屏風(部分)池大雅作 明和6年(1769)頃

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私は、文人画を第二の「ジャポニズム」とした。一般的に「ジャポニズム」と言えば、浮世絵を思い浮かべ、それが印象派作家に影響を与え、世界の絵画に影響を与えたと理解されている。しかし、日本の絵画が歴史の中では、文人画は「ジャポニズム」であると思う。池大雅(1723~76)の父は、京都に出て尾形光琳の後援者である中村内蔵助の下役をつとめた人物で、大雅4歳のとき死んでいる。家は代々農家であった、彼は幼い時から芸術に親しみ、書画を習った。14歳のとき柳沢淇園と出会い、元文2年(1737)数え年15歳のとき、宗達同様、扇屋として出発した。すでに菱屋嘉左衛門と名乗り「八種面賦」にならった絵を扇子に描いていた。つまりはじめから扇子に絵画を描く職業的画家どぇあったが、京都松尾神社の神官であった松室煕載(ひろこと)に親しみ、文人的素養も身につけていった。大雅に文人的特徴を感じさせるのは、「千里の道を行き、萬巻の書を読む」べきだとする中国文人画の教え通り、旅を多くしていることである。26歳のとき富士登山を試み、江戸に出、さらに日光、松島まで足を延ばしている。これ以後毎年のように旅に出ており、まさに千里の道を行ったといえよう。本作品は山水図十二枚の押絵貼屏風で各図はそれぞれ一月から十二月までの季節の移り変わりを表しつつ、まとめて大画面の山水としても鑑賞できるように描かれている。右隻は一月から六月へと季節が移り変わっていく様が、大らかな筆使いによって表現されている。特に第三図(本図)の点描を用いた樹葉の表現は、初夏の陽光のきらめきを感じさせる。それに対し、左隻は七月から十二月の景を描くもので、各図とも厳しい山を画面の中央に配し、冬へと向かう寒々しい季節感が強調されている。左隻は十月に当たり、岩山の輪郭線には直線が多様されており、鋭角的で厳しい印象である。

重要文化財 籠煙惹慈図(ろうえんじゃくじず)(部分)浦上玉堂作 江戸時代(19世紀)

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浦上玉堂(1745~1820)は岡山池田藩の支藩、鴨方池田家の藩士の四男として生まれたが、長姉を除くと兄弟は早世し、7歳で父が死んだ時に家督を継がねばならなかった。28歳のとき結婚し、30歳で江戸に出仕、玉田黙翁について朱子学を学び、その紹介で江戸の医佼跡寿館の学政、井上金蛾を知り、幕府の医官多岐藍渓に琴を習った。大阪の画家で文化人の木村兼葭堂(けんかどう)に出会い、その知己となった。43歳の時、彼は大目付から御小姓支配役という閑職につかされたが、文人的な傾向が顕著になり、仕事が疎かになったからだろう。49歳の後半から50歳(1793,94年)の折、脱藩し、文雅の道に入った。画面左下に玉堂自身がみとめた四字題「籠煙惹慈」は、明時代末期の陸紹珓(りくしょうこう)が著した「酔古堂剣掃」の中に認められる句をもとにしたものである。目を覆うほどの緑を茂らす山間に靄が低く立ち込め、潤いのある大気を惹き起こすという詩意を、この作品は余すところなく絵画化している。玉堂晩年の70歳前後の作と推定される。

重要文化財 雙峰挿雲図(そうほうそううんず)(部分)浦上玉堂作 江戸時代(18~19世紀)

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中国浙江省杭州にある西湖は景勝地として知られ、室町時代より西湖図、西湖十景図などが、漢画系の画師によって描かれた。「雙峰挿雲」は西湖十景のひとつで、これより画面前景から中景にかけて配される広々とした水景は西湖、そして後景に聳え立つ二峰は、西湖より望むことのできる北高峰、南高峰である。本作では縦長の画面構成に、北高峰と南高峰を隣り合うように描いている。画面全体に見られる自由闊達な筆法から、玉堂60歳後半の制作と推定される。

重要文化財 梅花書屋図(ばいかしょくず)(部分)田能村竹田作 天保3年(1832)

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田能村竹田は安永6年(1777)豊後の国竹田で藩医の子として生まれた。藩校の由学館で儒学者唐橋君山に詩作を習い中国の絵を紹介され、さらに淵野真斎などに絵を学んだ。文化2年(1805)、29歳のとき京都に遊学した。京都で浦上玉堂、岡田米山人などと知り合い、さらに34歳のとき頼山陽と知り合って文人画家たらんと決意した。文化8年(1811)、彼は自ら致仕の願いを出し、同10年(1813)37歳のとき公職を辞した。画面の中央には石積みの塀に囲まれた屋敷がある。書斎の中では高士がふたり、楽しげに語り合う。一方、手前にみえる騎馬に乗った旅人が頭巾を被っていることからすれば、まだ寒さの残る時候なのだろう。しかし、この厳しさがじきに去って行くことは、一面に咲く梅の花より見て取れる。近景から遠景にかけて一貫して認められるジグザグ丈の水辺や、連続的な樹木の配置によって深い奥行き感が出ている。

 

水墨画は中国・宋元を手本として学んだ技であったが、そこに日本独自の風情を重ね合せることで、新たな表現を獲得した。ここでは雪舟、能阿弥、長谷川等伯といった著名な巨匠たちの優品を愉しむことが出来た。中国の士太夫と呼ばれる高官の職を辞し、隠遁生活を楽しんだ知識人たちは、技巧的な宮廷画家とは一線を画す余技の絵画を手がけていた。江戸時代には、彼らの生き方に憧れを抱いた「文人」画家が特質は、画家の観念や思想を絵画で表すことにある。ここでは浦上玉堂、池大雅、田能村竹田などを紹介した。室町、桃山、江戸時代の300年程度の絵画の歴史である。高校の日本史の教科書に出てくる名画が多いが、どこまで記憶に残っているだろうか。次回は絢爛たる江戸絵画の美に接することになるだろう。

 

(本稿は、図録「開館50周年記念 美の祝典」、図録「若冲と蕪村 2015年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)