「美を紡ぐ  日本美術の名品(2)

「美を紡ぐ 日本美術の名品(2)」は、先の(1)に続くもので、日本美術の粋を集めたものである。時代はやや下って、室町時代、江戸時代を舞台とするものが多い。名品揃いであるので、是非読んで頂きたい。

重要文化財 浜松図屏風  室町時代(15世紀) 文化庁

遺品の少ない室町時代やまと絵屏風の一つとして古くから著名な作品である。砂浜に松樹が群生する海辺の光景を描く。右隻(本作)には、紅白梅と桜で春、生い茂る芦で夏を表す。左隻(謝意なし)には紅葉で秋、雪山で冬を表す。向かって右から左へ季節が移ろう伝統的な四季絵屏風の構成を執るが、季節の表出は限定的である。また苫屋、干し網、船などによって人々の生活が暗示されるものの、人物そのものは描かれず、風俗画のような活気に満ちた情景は見られない。中世やまと絵と屏風風に多用される、雲母や金、銀の装飾が、極力排除されている点も珍しい。こうして生きた独特の静謐な画面からは、室町中期に心敬らの歌論書で称揚された「冷え寂び」た情趣が漂っている。

伊勢物語 八橋図(やつはしず) 絹本着色 江戸時代(18世紀) 東京国立博物館

「伊勢物語」第九段「東下り(あずまくだり)」の冒頭、「八橋」に取材した作品である。ちなみに八つ橋駅は、東海道線に現存する。都を出て東国へ旅立った友人二人ともに三河国八橋にたどり着き、燕子花(かきつばた)の群生する水辺で休息を執る。そこで「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んだ和歌、「唐衣(からころも)着つつなれにしつまにしあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」を詠み、望郷の念を募らせて、食べた乾飯(かれいい)の上に涙をこぼした、という小話である。この短い物語の一節を、本作品は忠実に描き表している。画面右下には「法橋光琳」とあるため、本図は尾形光琳(1658~1716)が法橋に叙任された元禄14年(1702)以降の作と見られる. 尾形光琳と言えば、根津武術館・国宝・「燕子花図屏風」を思い出すが、時代的には、この「八橋図」が先行する作品のようである。

西瓜図(すいかず) 葛飾北斎筆 一巻 絹本着色 江戸時代 文化庁

天保10年、葛飾北斎(1760~1849)が「齢八十」の年に描いた肉筆画である。画面上部からくねりながら垂れ下がる西瓜の皮、その下には半分に切られた西瓜の上にその真っ赤な果肉の果汁を吸い出した和紙、更に包丁が載せられるという不可思議な構図が、何とも言えない、魅力を持つ作品である。本図は、宮廷行事に関する等諸説が発表されたことがある。その後の調査で江戸後期の国学者、小林歌城が関わっていたであろうことがわかり、柳亭種彦を通じて北斎とも交流していたことが資料より明らかになり、宮中に保管される理由が、ほぼ明確になった。

「唐子遊図屏風」 六曲一双(上下2段) 江戸時代(17世紀) 狩野探幽筆 宮内庁三の丸尚蔵館

鶏合(とりあわせ)、花合(はなあわせ)、獅子舞(ししまい)、春駒(はるこま)など、初春に因む遊びを唐子に演じさせた図録を総金地の上に描き表し、また裏面も絹地に金泥塗に仕上げた格調高い屏風である。内容や仕立てから、祝儀の場に飾るために誂えたものと推察され、落款印章より、狩野探幽(1602~74)の最晩年に位置する作品と考えられる。

国宝 納涼図屏風 久隅守景(くすみもりかげ)筆 二曲一双 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀) 東京国立博物館

狩野派の久隅守景(生没年不詳)は一時、狩野探幽門下の四天王とさえ言われた画であるが、息子の不行跡で破門され、師の画風から離れて、まさに日本的「風俗画」の好例のような本作「納涼図屏風」を描いた。農村で夕顔の下、親子三人の涼をとる何気ない姿が描かれる。このような何気なさそのものが興味深い。いかにも物語性を払拭した「近代」性の先駆的な意味を持つているのが興味深い。この図の面白さは、やはり農民の生活や、競馬を楽しむ情景が描かれた「四季耕作図屏風」や「賀茂競馬・初治茶摘図屏風」の伝統的画題に依拠しない作品に存在する形式性を超えているのである。

重文 前後赤壁図屏風 六曲一双 池大雅筆・自賛 寛永2年(1749)文化庁

中国北宋の政治家で詩人として知られる蘇軾(そしょく)(1036~1101)が三国志で知られる古戦場赤壁に遊んだ際に描かれた「前赤壁賦」を題材に、右隻(上)は「前赤壁」と題して賦の冒頭部分を楷書で記し、船に遊ぶ蘇軾を描く。左隻(下)は「後赤壁」と題し、賦の最後を隷書で書きその内容を絵画化している。27歳の作である。

重文 新緑杜鵑図 与謝蕪村筆 一幅 絹本着色 江戸時代(18世紀)文化庁

明るい陽射しを受けて、新緑したたる梢の上を、夏の訪れを告げるホトトギスが飛んでいく。その一舜をとらえた作品、まるで木々の向こうから高い泣き声が聞こえてくるようだ。遠くには初夏の山が見え、のびのびとした空間構成となっている。俳人として著名な与謝蕪村は、池大雅(1723~76)とともに日本文人画の大成者として知られる。

牡丹孔雀図 一幅 絹本着色丸山応挙筆 安永5年(1776) 宮内庁三の丸尚蔵館

18世紀の京都において、写生画様式を確立した丸山派と呼ばれる画派を生み、多くの弟子を輩出して活躍した丸山応挙(1733~95)の代表作である。岩場の傍らには牡丹が咲き競い、静かにたたずむ雌を守るかのように、岩上に立ちあがる雄孔雀の姿は実に凛々しい。孔雀図を得意とした応挙の、数え年44歳の作品である。この5年後には光格天皇(在位1779~1817)の即位大礼のための屏風を制作するなど、御所の絵事にも数多くたずさわった。

「美を紡ぐ(2)」は、主として江戸時代の絵画になった。久隅守景の「国宝 納涼図」が一番知られた作品であるが、私が、この「美」に採用したのは初めてではないかと思う。どこかの機会に取り上げたいと思っていたが、良い出番となった。丸山応挙の「牡丹図屏風」が、応挙の代表作という点も驚いた。やはり三の丸尚蔵館に蔵された作品は、なかなか目に入らないし、作品集からも除かれることがある。

 

(本稿は、図録b「美を紡ぐ 日本美術の名品  2019年」、田中栄道「日本美術史全史」小林中「日本水墨が全史」、日経大人のOFF 2019年1月号を参照した)

美を紡ぐ  日本美術の名品(1)

平成から令和にかけて、新たな時代を迎える節目の時に「美を紡ぐ 日本美術の名品「雪舟、永徳から、北斎までー」が、東京国立博物館で開催されている。この展覧会では、わが国で大切に守り伝えられてきた日本美術の精華を、東京国立博物館、文化庁、宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品より、よりすぐりの名品を展覧したものである。特に宮内庁三の丸尚蔵館は、宮内庁の管轄であり、今回のような天皇の代代わり、平成20年など区切りの年にしか展示されない。           そういう意味で、今回、令和への改元に伴い、この「美を紡ぐ」展は、期待を込めて待ち望んだ展覧会であった。宮内庁の所有物を見学できる機会は少ない。この機会を逃がすと二度と見れないとの思いを込めて、雨の降る5月11日に拝観した。なお、本展覧会は5月3日から6月2日までの1ケ月間であり、珠玉の名品が揃っている。日本文化の素晴らしさを堪能できる機会である。

唐獅子図屏風 狩野永徳筆(右隻)  安土桃山時代(16世紀)三の丸尚蔵館

 

 

雌雄二頭の唐獅子が、威風堂々と岩間を歩く。画面の天地だけでも225cmあるという比類のない大きさであるが、これを大胆に描きこなした筆力もまた驚嘆にあたいする。誇張もあり、粗放と見られる向きも無いわけではないが、かかる題材に精緻な雅趣を求めるのはむしろあたらない。探幽による「狩野永徳法印筆」の紙中極めがある。画風の上からも、大画面に腕を揮った永徳の筆と考えられる。伝承では、1582年(天正10年)の豊臣秀吉が毛利軍が秀吉と毛利軍が講和した際に、その記念として贈った陣屋屏風と言われている。いかにも仙谷武将たちの好みにふさわしい画面である。代々毛利家に収蔵され、明治期に献上された御物(ごもつ)となった。もとは一双であったが、現在では狩野常信(江戸期)による保作の一隻の出品であったが、あえて永徳筆の右隻に限定して、お目に掛ける次第である。

国宝 檜図屏風 狩野永徳筆 四曲一双  安土桃山時代(天正18年ー1590)三の丸尚蔵館

群青の水を底深くたたえた幽谷である。天地をつきぬくような一本の巨大な檜が、左右に枝を広げ、大画面いっぱいに支えている。老樹に漲る生命力は枝の先端にまで及ぶ。荒れてすさまじい幹の質感と檜葉のつけたてが対照的である。雑多なものをなるべくはぶいて、中核となる題材を強力にあらわすために、色数もおさえられて、重厚な彩色の対比がねらわれている。桃山障壁画特有の大構図方式による典型的な花木図の一例である。本図は、もとは八条宮智仁(としひと)親王の屋敷内に描かれていたと考えられている。二扇ごとに襖の引手あとが残り、襖四面を八曲屏風一隻に改装したことがわかる。天正18年(1590)に八条宮の御殿が建てられたときのものとすると、同年に没した永徳の絶筆にちかい作品とみる説もある。確かに、この豪快な画風は永徳的なものに通ずる一面もあるが、技法上の諸点、たとえば檜の幹と枝との関係、沓曲する枝ぶり、皺法である。本図は、もと八条宮智仁(よしひと)親王の屋敷内に描かれていたと考えられて(しゅんぽう)などを考え合わせると、即断を許さないものがある。しかし秀吉からの依頼で永徳一門が天正16年(1588)に制作した「天髄寺方丈障壁画」(縮図のみ現存)のなかに、檜図に類似する表現があり、そのため本図は永徳が最晩年に自ら筆を揮った作品として有力視されている。「檜図」には少なくとも2度は襖として利用された痕跡があるが、この時期に屏風風に仕立て直された可能性も考えられる。いずれにせよ安土桃山時代の精神を表す絵画であることは間違いない。

重要文化財 継色紙「よしのかは」 一幅 平安時代(10世紀) 文化庁

継色紙「万葉集」と「古今和歌集」の収蔵歌から、四季、恋、賀の歌を抄写した粘葉装(でつようそう)冊子本の断簡で、小野道風筆と伝えられる起筆切の名品である。和歌一首に対して二枚の料紙を用い、一方の料紙の半分に上句、もう一方に下句を散らし書きにしている。優美な書風に加えて、余白や行間の間隔、傾きなど見事な美的空間を作り出している。明治時代まで石川県大聖寺の前田家に十六首半の零本が伝えられていたことが確認されており、その後解体されて掛幅装や手鏡に張り込まれている。

国宝 寛平御時后宮歌合(十巻本) 伝宗尊親王筆 平安時代(11世紀) 東京国立博物館

歌合は和歌を左右一首ずつ組み合わせてその優劣を競う行事で、平安時代以降、宮廷を中心に盛んに開催された。「寛平御時后宮歌合」は、現存する最も早い歌合の事例の一つで、宇田天皇の代(887~899)に光孝天皇の母・班子女王が主催し、春・夏・秋・冬・恋の各二十番、計二百首からなる歌合であった。紀貫之、紀友則、藤原興風、素性法師など当代の著名な歌人が名を連ねる。この写本はもと近衛家に伝来した「十巻本歌合」の一部で、その巻第四に属することから「十巻本」とも呼ばれる。「十巻本歌合」は平安時代中期に関白藤原頼道(9992~1074)が編纂を企画したが途中で中止となり、四十六の歌合を十巻にまとめる草稿本のまま後世に伝わった。そのため各所に書入れや訂正の跡が見られる。この写本はもと近衛家に伝来した「十巻本歌合」の一部で、その巻第四に属することから「十巻本」とも呼ばれる。「十巻本歌合」は平安時代中期に関白藤原道長(992~1074)が編集を企画したが途中で中止となり、四十六の歌合を十巻にまとめた草稿のままで後世に伝わった。そのため各所に書入れや訂正の跡が見られる。

伊勢集断簡(石切山)「秋月のひとへに」 一幅 平安時代(12世紀) 文化庁

本幅は,西本願寺本「三十六人歌集」のうちの粘場冊子「伊勢集」の断簡で、昭和4年(1929)に「貫之集下」と共に分割されて巷間に流出したものの一つである。これらの断簡は、「三十六人歌集」が天文18年(1549)に後奈良天皇から證如(しょうによ)へ贈られた当時に本願寺にあった石山の地名にちななんで「石切山」と名付けられた。本稿はもと「伊勢集」の代六十五庁裏に収められていたもので、金銀泥にて飛鳥、蝶、蜻蛉、折枝や秋草を描いた具引き唐紙を主にして、朽葉唐紙等を破り重ねて作成した美麗な料紙を用いている。本文は落ち着いた力強い筆で、半紙に「秋月ひとへに」「はるかすみ」の二首と、「おもひかは」の詞書と上の句までの十行を収めている。平安時代後期を代表する装飾料紙として著名な「石切山」の遺品として、また、増田鈍翁(ますだどんおう)自筆の箱書きを合わせ伝えるものとしては価値が高い。

更科日記 藤原定家筆 一帖紙本墨書 鎌倉時代(13世紀)宮内庁三の丸尚蔵館

後鳥羽天皇の近臣であり、和歌、古典書写の校訂における功績でもよく知られる藤原定家(1162~1241)が、平安朝の日記文学「更科日記」を書写したものである。王朝貴族の一女性・菅原孝標(ふじはらたかすえ)の女(むすめ)の回想記である。日本古文の古典で高校時代に読んだ記憶がある。この名作「更科日記」(さらしなにっき)は、本作の伝存により、現代に伝えられている。多く現存するbすべての写本は、この定家筆写本を底本としている。表紙は、金銀泥により波の上を群れ飛ぶ千鳥を装飾し、定家自らの筆により題名が記されており、元装を伝えている。また本書には定家の奥書があり、それによって、もともと定家が所持していた「更科日記」があり、それを他者へ貸したことで失われたため、別の人物が定家所持本から書写したものを借りて、改めて書写したものが本書であることがわかる。

重文 古今和歌集 一帖 紙本着色 後伏見天皇筆 鎌倉時代・元亨2年(1322)東京国立博物館

後伏見天皇(1288~1336)宸筆の「古今和歌集・後伏見天皇」は、能書帝・伏見天皇の第一皇子。伏見天皇は、上代様の書を学びながら独自の書風を編み出し、その書風は「伏見院流」と呼ばれて流行した。後伏見天皇は、父の書風を引き継いでいる。本書は、「古今和歌集」の仮名序と巻一から巻二十まで書写されており、真名序がないものの、藤原定家書写の「貞応本」系統」である。その本文のあとに追加された奥書には、元亨2年(1322)4月7日の日付と御製三首が記される。さらにそのあとに、江戸時代の能書・烏丸光弘(1579~1638)が極書を付している。奥書は後伏見天皇の宸翰と鑑定していると述べ保証した。平安時代の書を基礎としながら、のびやかな筆力のある仮名である。

国宝 秋冬山水図 雪舟藤楊作 2幅 紙本墨画 室町時代(15世紀末~16世紀初) 東京国立博物館

この秋冬図は四季山水図中の二図であり、雪舟が入明を試みた四季山水図屏風図制作において習得したものを一歩進めて、雪舟自身の自然観にもとづいて構成表現したものである。冬景図中(下)、画面中央の空間に忽然と垂直に下された強力墨線は印象的で、雪舟山水画の到達した一つの頂点を示す空間構成である。この垂直線によって外郭された岸壁の内部には多数の短小な沓曲した直線の集まりがあり、点苔(てんたい)がつけられている。上方の余白には無限の空間が暗示されている。 一方、秋景図(上)は、冬景図の峻厳さに比べるとのどかな情景描写であり、人間の営みが温和な自然に溶け込んでいる。このように自然と人間の調和は雪舟の人間味を示すもので、文人的な人柄を感じさせる。

 

本稿で取り上げた作品は、概ね第一会場に展示さqれた名品である。中でも、狩野永徳作「唐獅子図屏風」、国宝「檜図屏風、雪舟作「秋冬山水図」を一度に拝観出来る機会は、初めてであった。すべて、日本美術の秀作揃いであるが、さすがに「日本美術の名品」展であり、天皇の代替わりを記念する展覧会に相応しい内容であった。日本美術の粋を集めた展覧会を拝し、日本美術の美しさに、ただただ頭が下がる思いである。素晴らしい展覧会を見て、久しぶりに高揚感を得た1日であった。

 

(本稿は、図録「美を紡ぐ 日本美術の名品」、別冊、原色日本の美術第11巻「水墨画」、第13巻「障壁画」、新潮日本美術文庫1「雪舟」、日経大人のOFF 2019年1月号を参照した。)

円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美(2)

鎌倉に幕府が出来ると、新仏教が鎌倉の地に進出してきた。北条氏が執権として政権を握った頃、新仏教の一つである禅宗は北条氏の保護を受け、建長寺のなどの寺院ができた。室町時代になって三代将軍足利義満の時に、中国の宋の制度にならって五山をつくることになり、京都五山・鎌倉五山が定められた。五山は禅宗寺院のうち最高の寺格を持として五つを定めたもので、鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄明寺の五つである。鎌倉五山の学僧たちは漢詩・漢文などの優れた作品を作り、それらは五山文学として高く評価されている。五山の住職たちは自らの肖像画を作り、次の住職となるべきものにそれを与えた。それが頂相(ちんぞう)である。五山のうちには現在、托鉢を行ったり、座禅の会を開くものがあり、昔の在り方を今に伝えている。

重文 蘭渓道隆坐像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 建長寺

建長寺の開山、蘭渓道隆の頂相彫刻。建長寺の西来庵にある開山堂に安置されている。頂相とは禅僧の肖像画を指すが、本像は頂相を彫刻に表した一例である。頂相彫刻は、体部正面で払子や竹箆を執るか禅定印を結び、曲彔に座して着衣を垂下させ、沓を置く姿を通形とする。本像は、表面が厚い漆で覆われていたが、近年の修理で取り除かれた。蘭渓道隆が示寂した弘安元年(1278)頃の作と考えられており、頂相彫刻の中でも早期の優品として名高い。

国宝  蘭渓道隆 自賛 絹本着色 鎌倉時代 文永8年(1271)建長寺

蘭渓道隆(1213~78)は、中国の禅僧で寛元4年(1246)に来朝し、京都泉涌寺来迎印の住した後、鎌倉の寿福寺に寓居し、北条時頼の招聘により建長寺の開山となった。日本に本格的な純粋禅を伝えたとされ、示寂後に大覚禅師の諡号(しごう)が贈られている。本図は、竹箆を持ち、曲彔に座す姿を描いており、繊細な墨線と熊取を施した頂相には生彩がある。頂相彫刻と同様、痩身に厳しさを漂わせ、日本で描かれた南宋様式の頂相図として高く評価されている。(国宝)

重文 無学祖元坐像          木造彩色   鎌倉時代(13世紀)  円覚寺

円覚寺の開山、無学祖元の頂相彫刻で、通常は舎利殿背後に所在する開山堂に安置される。払子を採り曲彔に座し、着衣の裾と両袖を垂下させる通形の頂相彫刻である。しっかり前方ををとらえた眼差しからは、内に秘めた強靭な意志を感じさせる。上半身をやや前傾させて座し、着衣は厚みを持たせた張のある質感で、衣文をあまり刻まずゆったりと垂下しており、頂相彫刻の中でも特に優れた出来栄えを示している。

重文  無学祖元像 自賛 絹本着色  鎌倉時代(弘安7年ー1284)円覚寺

無学祖元(1226~86)は、中国の禅僧で蘭渓道隆歿後の弘安2年(1279)に北条時宗の招聘により来朝し、建長寺住持の後、円覚寺開山となった。その後も建長寺・円覚寺を兼官し、示寂後の諡号は仏光国司である。無学祖元の頂相は少なく、「仏光国司語録」に収録されている自筆の頂相25幅のうち現存するのはこの一幅だけで、貴重である。

重文 瀧見観音菩薩遊戯坐像(たきみかんおんゆげざぞう)木造彩色南宋時代(13世紀)清運寺

横須賀市に所在する清雲寺の本尊、右肘を立て右手を膝頭に置き、左足を下ろして左手を地面に付き、もたれかかるように座す。いわゆる「遊戯坐像」の一例である。現在は瀧見観音と称され、背後に滝が表された台座(後補)に座している。遊戯坐像は、中国玄宗時代の仏画に見出だされ、特に中世の鎌倉周辺における絵画・彫刻に大きな影響を与えた。本像は鎌倉文化圏における宋風彫刻を考えるうえでも重要な作例と言える。

重文 被帽地蔵菩薩像 絹本着色  高麗時代   円覚寺

死後に亡者が冥界で十人の王に裁かれるという十王思想を背景とし、地獄の救済者としての地蔵菩薩と十王を組み合わせた地蔵十王図が西域由来の図像として流布した。錫杖を執り、頭巾を被る地蔵菩薩像を中尊とし、十王を伴なう地蔵十王図は、敦煌出土の唐時代(8世紀)の古例が知られ、その後、朝鮮半島にも伝播し高麗時代後期の仏画に遺品が多く見られる。地蔵菩薩の寶珠や頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に施された繊細な文様から十四世紀にはじめころの高麗仏と見られる。

重文 前机  木製漆塗り 鎌倉~南北時代  円覚寺

前机とは、須弥壇や尊像の前に置き、三具足(華瓶・蝋燭・香炉)と呼ばれる供養具を載せる机のことである。禅宗とともに宋の装飾様式がもたらされるようになるが、本作もその一つで、宋風の意匠・技法が鮮明な作例である。本作は円覚寺開山である無学祖元像の前に置かれて用いられてきた。

重文 無窓礎石坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  瑞泉寺

無窓礎石の頂相彫刻で瑞泉寺の開山堂に安置される。無窓礎石は、高峰顕日に師事し法を継ぎ、円覚寺・浄智寺などの住持を歴任したほか、瑞泉寺や京都の禅宗寺院の開山となり、鎌倉~南北朝時代にかけて鎌倉や京都を中心に活躍した。彼の一派は無窓派と称され、当時の禅宗における支流となる。一方、庭園、和歌、漢詩など禅文化の興隆にも尽力した。無窓礎石の頂相は多くの作例が存在するが、頂相彫刻としては本像が傑出した代表的な作例である。小ぶりなものが多い鎌倉周辺の頂相彫刻の中では珍しく等身大の大きさで表されており、制作時期は観応2年(1351)の示寂に近い頃と思われる。

重文  東明慧日坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  白雲庵

円覚寺第十世東明慧日の頂相彫刻。東明慧日は中区の僧で、北条定時に招かれて来日し、円覚寺・建長寺・寿福寺などの住持を歴任した。本像が安置されている白雲庵は東明慧日の塔所である。本像は東明慧日の姿を現した唯一の頂相彫刻で、腹前に禅定印を結び、着衣の袖と裾を垂下させて座す。東明慧日は暦応3年(1340)に白雲庵で示寂したが、本像も示寂前後の作と考えられる。

重文 銅像阿弥陀三村像 銅造・彩色 加茂延時作 文永8年(1271)円覚寺

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銅像の阿弥陀三尊像で、中尊の台座連肉下枘部に刻まれた銘により、文永8年(1271)に鋳物師賀茂延時によって鋳造された事が判明した。円覚寺創建よりも早い時期の作であるが、鋳造当時の伝来については不明である。中尊と両脇侍の三尊が一つの光背を背にする一光三尊形式で、中尊は右手施無畏印とし、左手は垂下し、第二、第三指を伸ばし、両脇侍は両手を胸前で重ね合わせた梵蕎印を結ぶ。善光寺阿弥陀式三尊像は、阿弥陀信仰の隆盛に伴い関東を中心に多くの模造が造立されたが、本像もこの一例にあたる。

重文 跋陁羅尊者像(ばったらそんじゃぞう) 紙本墨画淡彩 室町時代 円覚寺

大画面に、竹杖に預けて立つ老羅漢を描く。跋陀羅尊者は、「首桁厳経」に水因により悟りを開いたと説かれるため、寺院の浴室の本尊として祀られる、画面左下に「宋淵筆」の落款とともに「如水」が捺され、円覚寺の像主であった如水宋淵の筆とされる。宋淵は雪舟等様(1420~1506?)に師事し、明応4年(1495)の帰郷に当たり、破墨山水図(国宝)を付与された。繊細な小画面の山水が多い宋淵の作例中では、珍しく雪舟風が強く打ち出されていると言えよう。また、鎌倉に伝存する唯一の作例として貴重である。

 

「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」展は、三井記念美術館で4月20日より6月23日まで開催されている展覧会である。鎌倉は、東京に近いため、鎌倉の寺院を展覧会に選ぶ事例は少ない。私は、鎌倉の寺院は詳しく、鎌倉近辺の会員制マンション(逗子マリーナ)を持ち、毎月のように、鎌倉の古寺や、近代美術館を見て歩いた経験があり、大変懐かしく拝観できた。円覚寺のお寺の写真は、この展覧会に出品されたものではなく、私が集めた写真集より、拾い集めたものである。     記事を書くにあたり、重要文化財と国宝に重点を置いた。それはあまりにも多い寺宝の中で、選び抜かれたお宝であるからだ、ご承知のように、鎌倉の各寺院は11月1日から7日頃まで、「「寺宝風入れ」と称して、無料もしくは低廉な価格で、寺宝を開放する期間がある。良く見学したものであるが、残念なことに、図録を発行しないし、余りにも多数の寺宝を拝観するために記憶に残らないことが多い。それにしても第一級の作品を多数集められた三井記念美術館に感謝したい。図録も、丁寧に書かれているため、非常に参考になり、学ぶ点が多かった。関係者のご努力に感謝したい。

 

(本稿は、図録「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美   2019年」、探訪日本の古寺第3巻「東京・鎌倉」、
中央公論・日本の歴史(全26巻)の内、「第7巻鎌倉武士」、カラーブックス「鎌倉の寺」、「秘宝のある寺(鎌倉)
原色日本の美術第9巻「中世寺院と鎌倉彫刻」、第10巻「禅寺と石庭」を参照した)

円覚寺の至宝 鎌倉禅林の美(1) 建築物

円覚寺は、弘安5年(1282)に、鎌倉幕府の時の執権・北条時宗(1251~1284)によって開創された。その前年に、弘安の役がり、そこで亡くなった多くの人々を弔う為であった。円覚寺の開創と元寇は大きな関りがあった。モンゴル帝国は、チンギス・ハーンによって創設された大国であり、最盛期には、東はヨーロッパ、南はアフリカ、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、その領土を拡大した。第5代皇帝クビライ・カーンは、文永5年(1268)、日本に対して高麗を通じて、国交を求める文書を遣わした。その年に、わずか18歳で執権に就任したのが北条時宗であった。時宗は、「兵を用うるに至りては、それたれが好むことろならん」といおう脅かしとも取られる言葉の入った国書を無視した。その後再三にわたり、国交を求めてきたにも関わらず、時宗は一切取り合わなかった。そしてのちに文永11年(1271)、モンゴルは、国を大元に改め、高麗に命じて約4萬の軍勢をもって日本を攻めさせた。文永の役である。対馬、壱岐は、必死の奮戦も空しく全員が虐殺されてしまった。更に元軍は、博多湾を襲い、箱崎付近に上陸した。日本の武士たちも懸命に応戦し、少弐影資(かげすけ)が追撃する敵将である、副司令官に当たる劉復亨(りゅうふくこう)を矢で射落とした。追撃をあきらめた元軍は海上に退却し、その夜のうちに撤退していった。明くる年には、元の使者、杜世忠らが来航したが、幕府は鎌倉に護送した。時宗は、鎌倉滝の口において使者を斬首の刑に処した。元に対して毅然と戦う決意を示したのであった。弘安4年(1281)元は東路軍4萬の軍勢を朝鮮半島から派遣した。壱岐対馬を襲い、志賀島能古の島を占領、宗像の海岸で激戦を繰り広げた、更に江南軍を南方から十萬の軍勢をもって攻めさせ能子島、志賀島、鷹島に上陸した。両軍必死のb戦いが続いたが、防風雨によって大軍は撃破してしまった。時宗は、二度に亘る元寇の心労が重くなった。弘安7年(1284)病の床に臥すようになり、出家得度して4月4日に亡くなった。34才の若さであった。弘長3年(1262)、時頼が亡くなると、もはや日本に禅を理解する者無しと、譜寧が宋の国に帰ってしまった。時宗は、建長寺を開山された蘭渓道隆に参禅していた。更に文永4年(1267)大休和尚が来日し、時宗はこの宋僧に師事し参禅した。後に仏源禅師と諡されて、円覚寺2世となった。また無学祖元は、時宗の要請に応じて弘安2年(1279)に中国から鎌倉へきて、まず建長寺の住職となり、後に円覚寺に迎えられた。本稿は、「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」であるが、まず円覚寺の僧房について説明したい。(尚、「円覚寺の至宝」展には、僧房の出展は無い)

総門

北鎌倉の駅から望める。円覚寺の入口であり、総門と呼ばれる。階段を上がると、円覚寺の入口に当たる「山門」に至る。

山門    木造   江戸時代

円覚寺の山門であり、「円角興聖禅寺」の扁額を架けている。ものさびた山門であり、ここが円覚寺の正規の入口である。もとは横須賀線の線路あたりも境内であったそうだから、山門の歴史もそれほど古くないのであろうか。現在の山門は、天明年間(1781~894)、第189世によって再建されたものである。山門は「三門」とも呼ばれる。夏目漱石の「門」に描かれた「円覚寺の山門」である。楼上には十一面観音像、十六観音像が安置されている。

選仏場  木造    江戸時代(1699)

選仏場とは、修行僧の座禅道場のことである。現在の建物は、元禄年間の11699年に伊勢長嶋城主松平忠充が、江戸月松寺・徳運住職の勧めにより、大蔵経を寄進し、それと共に所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物を寄進したものである。

仏殿     鉄筋コンクリート     昭和時代(1963)

円覚寺の仏殿(大光明殿)は、1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物である。もとの仏殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、その40年後に再建された。禅宗様式で、本堂は宝冠釈迦如来坐像で脇侍の梵天立像と帝釈天立像は、ともに市の文化財に指定されている。仏殿前のビャクシの古木は市の天然記念物に指定されている。

開基廟(仏日庵)

円覚寺を創建した北条時宗を祀る仏日庵・円覚寺塔頭の一つである。円覚寺境内の中では一番人気があり、参詣する人が絶えない。拝観時にお茶を楽しめる唯一の場所であり、それもあって参拝者は絶えない。

国宝  舎利殿      鎌倉時代

舎利殿は、円覚寺の奥にある由緒ある建物である。舎利殿の名称の通り、仏の舎利(骨)を祀る一番大事な建物である。舎利殿の建築様式は鎌倉時代の唐様の建築物の中で代表的なものである。屋根が大きいこと、礎石と柱の間に基盤があること、柱は丸く上端と下端を細くする粽の様式をとっていることなどに特徴がある、窓は花頭窓になっていることなどに特徴がある。唐様・天竺様・和様の三種類があるが、円覚寺の舎利殿は、唐様の代表的な遺構である。非公開で簡単に拝めないが、私は幸運に、拝観の機会を持てた。将軍実朝が宋から招じて仏舎利が収められてあった。以前は、鎌倉時代創建のままと考えられていたが、最近になって安永7年以降三回の火災にあったことが明らかになった。現在の建物は永禄6年(1536)の火災後に鎌倉内の尼寺の大平寺の建物を移したものらしく、(鎌倉時代の建物)、優雅な感覚が先に立つ。瀟洒な木組み、水のゆらめきを思わせる欄干の波型連子技巧はあくまで繊細である。最近、屋根を藁拭から杮葺へと復元し、よりすっきりした。

 

「円覚寺の至宝」展から外れるが、円覚寺を知らない人も読者の中にいるので、まず鎌倉円覚寺の現存する建物を紹介し、「円覚寺の現状」を理解してもらうことが大切と思い、冒頭にこの章を設けた。勿論、図録には全く出てこない。参考までに円覚寺の建物を通して、円覚寺の歴史、元寇の乱を理解してもらいたいと思った。

本稿は、「探訪日本の古寺ー東京・鎌倉」、カラーブックス「鎌倉の古寺」、カラーブックス「秘宝のある寺(鎌倉)
を参照した)

 

クリムト展  ウイーンと日本1900

金色の画家として著名なグスタフ・クリムトの絵画が、クリムト歿後100年と日本ーオーストラリア友好150周年を記念して「クリムト展」が開催された。私は、かねてクリムトの描く金色の女性像に、あこがれに近い感情を持って眺めていたが、幸い120点に及ぶオーストラリア及びクリムトの絵画が日本にもたらされ、非常に興味深く拝見することが出来た。「クリムトと日本画」の深いつながりを理解し、非常に楽しい美術展であった。オーストラリアと言えば、神聖ローマ帝国の一部であり、中世には大きな力を持った国であった。日本国内で開催された展覧会の中では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を展示する貴重な機会に巡り合わせた。またオーストラリアと日本の絵画は、非常に深いつながりがあり、「ジャポニズム時代」とも呼ぶべき時代があったことも記憶されるべき事項であろう。

女友達(姉妹たち)油彩・カンヴァス 1907年  クリムト財団

クリムトは、幅の広い縦長の変則的な寸法で、毛皮のコートを着た二人の女性を表現しようとした。向かって前方に顔を向ける女性は、横顔を見せる女性の背後に立っている。前景の女性は、傾けた頭部からわかるように、わずかに体をひねっている。布の物質的な存在感を中心とする静的な構図に、女性たちの視線によって動きがもたらされている。本作品では大部分を占める色調が効果的な素材となり、装飾部分の形と色彩を際立たせている。それは画面下に見える、左側の女性が纏う衣装の一松模様と、画面右上部の端に見える、コートの高い襟の後ろに施された色彩豊かな装飾パターンである。こうした着想は、彼は浮世絵から得たものであろう。18世紀末に、例えば鳥居清長による芸者や遊女の浮世絵が人気を得たが、こうした縦長の版型の浮世絵もまた、本作品と同じような姿勢で描かれる。興味深いのは、およそ100年後のヨーロッパに見られる流行とよく似た市松模様と幾何学的な装飾パターンが好んで用いられている。

赤子(ゆりかご) 油彩・カンヴァス 1917年 ワシントン・ナショナルギャラリー(以下作者名のグスタム クリムトは省略する)

クリムトが子供を描いた一連の絵画の中でも、本作品は際立っている。多様な形と色からなる構図には、いあわゆる象徴的な効果も見出すことは出来ない。クリムトは異例の速さで本作品を仕上げた。作品が出来上がるまでの異例の速さは、これが画家にとってなじみの主題であったこと、また彼が意図した通りの構想を意欲的に描いたことを物語る。本作品では、実在しない空間の向こう側からこちらを見下ろしているように赤子が表されている。白い襞に包まれ、左頬が隠れた赤子の頭部は、緑と茶色からなる背景に、様々な布地で構成されるオイラミッドの頂点として配置されている。本作品の着想源が、19世紀前半の文政から天保年間(1818~44)に制作された日本の多色摺木版画(錦絵)にあるのもうなずける。歌川豊国をはじめとする歌川派は、簡素さが重んじられた前時代に比べて、より豊かに表現力を高めていった。19世紀に日本で生まれ、ヨーロッパの革新的な芸術家たちにとっては斬新なこのような作風は、彼らに新しい平面構成の在り方を示すことになった。

ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実) 油彩・カンヴァス 1899年 オーストリア演劇博物館

ウイーン分離派が結成される中、1989年頃にクリムトが着想した本作品は、ウイーン分離派の掲げる綱領に基づき制作された象徴的絵画に数えられるとともに、新たな芸術運動の理想に身を投じようとするクリムトの決意を示す作品の一つである。ペン画から絵画への発展への意図せずにこのペン画が描かれたことは、他の数点の素描から推察される。本作品の制作準備は、実際はにはスケッチブックの素描から行われたと考えられる。クリムトは、妥協せずに真実を指向し、大衆の批判に迎合しない芸術を支持する意思表示としてこの主題を選んだのである。クリムトはこの意図にふさわしいスローガンとしてフリードリヒ・シラーの言葉を引用し、女性の頭上に大文字を書き込んだ。「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないなら、それを少数者に対して行え。多数者に好んでもらうのは悪なり」。クリムトは当初、人間に向かって鏡をつきつける「真実」を表す裸婦とそれに向き合う群像を構想していたが、結局、一人の正面向きの裸体像だけが描かれることになった。「真実」の足元には、鑑賞者が見出すべき罪を象徴する蛇がうずくまる。完成した作品は1899年3月から5月まで開催された第4回ウイーン分離派展で初めて展示された。女性の裸体表現ときわめて現代的な様式は、激しい議論を巻き起こすことになった。

ユデイト1 油彩・カンヴァス 1901年ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

クリムトの代表作のひとつとして知られる<ユディト1>は、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。装飾的な効果を伴なう様式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公の女性のエロチシズム。そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの「黄金様式」の時代の幕開けを飾る作品となった。本作品は、旧約聖書外典の一場面を主題とする。アッシリアのネブカトネザル王に仕える司令官ホロフェルネスは、遠征の途中でユダヤの町ベトゥリアを包囲する。ベトゥリアに暮らすうら若き未亡人ユディトは、包囲を解くために計画を練り、夜陰に乗じてアッシリア軍の陣地に向かう。ユディトはホロフェルネスを誘惑して酔いつぶし、その剣で隣に眠る彼の首を切り落とした。翌朝アッシリア兵は、司令官の首が城壁にさらされているのを目にする。指揮官を失った軍の混乱に乗じて、ユダヤの住民たちはアッシリア兵を全滅させた。ホロフェルネスの首を持つユデイトの姿は、ヨーロッパ絵画では非常によく見られる主題で、どんな手段も厭わないことを決意した女性の持つ強さと能力を誇示するものとして使われることが多い。この伝統においてユデイトの行為は道徳面で模範的なものと解され、ユデイト自身は貞淑な婦人として描かれる。しかし、同時に、この主題は女性の魅力に誘惑されることによって生じる危険を男性に警告するものとして使われる。クリムトがこの主題を選んだのも、後者の解釈によるものと思われる。事実、本作品のユデイトは、胸元をあらわにした蠱惑的な眼差しも誘惑者として描かれていても、本作品の歴史的な物語性が強調されている。クリムトが手本としたのはニネヴェの宮殿のレリーフだった。1856年から大英博物館に所蔵されるレリーフは、アッシリア司令官センナケリブによるパレスチナも町ラキシュの包囲が描かれている。類似する歴史上の出来事が表された考古学的遺物を用いることで、クリムトはほぼ架空のユディトの物語に歴史的な枠組を与えた。

アッター湖畔のカンマー城Ⅲ 油彩・カンヴァス 1909,10年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

世紀末、多くの芸術家が好んで夏を過ごしたのが、オーバーエスターライヒのザルツカンマーゲートにあるアッター湖畔である。具体的には、バロック様式のカンマー城で、クリムトがこの城を描いた有名な作品が複数ある。1908年から1912年に制作された4点の作品では、城のファサードが様々な角度から描かれている。この城は、湖に突き出した岬に建っているため、様々な視点から捉えることが可能であった。本作品は、望遠鏡を使って描いたという説が有力である。そうであれば、実際には離れていて、位置関係も異なる複数の建物が平面的に重なっていることも説明がつく4点のうち3番番目にあたる本作品には、城の中庭を囲む低い建物が側面から描かかれている。その背後には中心となる建物の赤い瓦屋根が見える。日本の風景描写との最大の違いは、輪郭の描き方である。日本美術では、輪郭で明確に区別される形態が重視されるのに対し、クリムトは幻想的な色彩構成によって対比を際立たせ、形態を浮かび上がらせた。

丘の見える庭の風景 油彩・カンヴァス 1916年頃 ツーク美術館

クリムトが本作品に取り掛かったのは、1914年から1916年にアッター湖畔のヴァイセンバッハで過ごした夏の間とされる。クリムトは1点の作品に数年をかけることが多かったため、本作品も未完成のまま、彼が亡くなるまでアトリエに残っていた可能性もある。クリムトは前景の花畑と後景の森に覆われた山の斜面からなる構成を選んでいる。この構図を用いることで、距離の異なる面を階層化することができた。花畑は昔から、多産と自然の中で咲き誇る命の象徴とされる。水平方向の層に対し、垂直の木々や灌木が配置されることで、水平と垂直の要素が調和した鴻巣が生み出されている。この時期の風景画には、おもにファン・ゴッホの影響が考えられる。ゴッホの作品に見られるようにクリムトはまず各部分の輪郭を筆でカンヴァスに描き、後から色彩で埋めていった。この極めてグラフィック的手法によって一つ一つの形態が区別され、対比がより強調される。クリムトは、ファン・ゴッホにとっても重要だった日本の水墨画の特徴を取り入れたと思われる。また、この構図には浮世絵の影響、とりわけ葛飾北斎と歌川広重の影響が感じられる。中でも広重の「木曽海道六十九次之内  三留野」とクリムトも作品には、構図においていくつかの共通点がある。クリムト後期の風景画では北斎、広重などの著名な浮世絵を思わせる色遣いが認められる。

マリー・ヘンネベルクの肖像 油彩・カンヴァス 1901~2年頃 ザクセン=アンハルト財団

マリー・ヘンネベルクを描いた本作品は、女性を堂々とした姿で捉えながら、その個人的な特徴を描き出すというクリムトの才能を示す好例である。彼女はクリムトの親しい友人であった。ヘンネベルク夫妻は、1899年にクリムトと一緒にヴェネツィア旅行をした仲間で、ホーエ・ヴァルテの芸術家コロニーでカール・モル、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマンの隣に住んでいた。マリーの夫のフーゴ・ヘンネベルクは裕福な自然科学者で、アマチュアとして芸術写真とグラフィックを手掛けていた。フーゴは、ピクトリアリズム写真の第一人者として、またグループ「ヴィーン・トリフォリュム」のメンバーとして、同時代の最も有名な写真家の一人であった。長年に及ぶ親しい関係が、この作品のある種の親密さに影響を与えているかもしれない。とりわけうす暗い照明と、それによって生じる部屋と一人掛けソフアの境界の曖昧さが親密な雰囲気を高めている一方で、マリーの思慮深い、眼差しは、鑑賞者との間に距離を作り出す。まるで舞台上の室内劇を描写したようなこの作品の印象は、クリムトが意図的に作り出したものと思われる。印象派風の筆のタッチは、揺れ動く雰囲気とともに、周囲の不穏な空気を生み出している。作品の中心は、フレーゲ姉妹のサロンで改良された服を纏うマリーに据えられている。彼女の眼差しは示唆に富み、顎に当てた特徴的な手の仕草は、クリムトが何度も通った劇場で研究した女優の技を思わせる。描法においても、本作品は注目に値する。本作品は、ほぼ二つの基本色から成り立っているように見える。すなわち、下塗りとしての明るい茶色と青色である。短い筆のタッチで施された青色が室内の光の雰囲気と肘掛け椅子を描き、さらに青と白と様々に混ぜて表されたドレスが茶色に対して際立ってあらわれる。クリムトがこうした技術にせいつうしていたことは、エミーリエ・フィレーゲを描いた初期の作品からもわかる。

オイゲニア・プリマフェージの肖像 油彩・カンヴァス 1913-14年 豊田市美術館オ

オットーとオイゲニアのプリマフェージ夫妻は、クリムトの最も重要な支援者に数えられる。オイゲニアは1874年にウイーン近郊の庶民的な家庭に生まれ、女優になり、オイルミッツの工場主で銀行家のオットー・プリマフージと出会い、1895年に結婚する。クリムトは1912年ごろから一家の親しい友人となり、娘メーダの肖像画を依頼された。彼がオイゲニアの肖像画を描いたのはその翌年である。本作品はオイゲニアへのクリスマスプレゼントだったため、春に何度も実際にポーズを取ってもらうところから始まり、おそらくクリスマス直前に依頼主に届けられたものと思われる。12月19日付の手紙で、クリムトは納期に間に合うように仕上げることの難しさを嘆いている。本作品は地塗りがみえたままの部分が残り、未完成に思われる個所がいくつかあることも頷ける。本作品は、クリムトの後期の肖像画のなかでも最も重要なものに数えられる。女性たちはたいてい色彩豊かな絨毯が広げらた床の上に立ち、東洋の美術品に由来する様々な形をしたモチーフで彩られた壁を背にしている。本作品でクリムトは色とりどりの花を用いながら、右上の隅に、陶器、もしくは七宝の置物から着想を得たと思われる。幸運と長寿を象徴する鳳凰を描き込んでいる。クリムトは後期の作品のほとんどに、補色による対比を取り入れた。とりわけ肖像画では分光城の一色、もしくは組み合わせが顕著である。本作品では、背景の黄色が支配的である。その黄色と、オイゲニアのドレスの色と背景にある花の装飾の色が対比的に表されている。ここでクリムトは黄色、オレンジ、緑、紫、赤、ターコイズと青、つまり分光色のすべてを使っている。このような組み合わせによる色彩の豊かさは、特に東洋の作品に多い。クリムトは中国、日本の工芸品に特徴的な色の組み合わせをそのまま、自分の作品に取り入れていたようである。

リア・ムンク1 油彩・カンヴァス  1012年  個人蔵

死の床にある人物は、中世に遡るヨーロッパの絵画の伝統的主題である。こうした絵画は、おもに貴族や著名人を遺し、最後の姿の証として後世に伝えることを目的に制作された。この伝統は20世紀初頭まで続き、著名な芸術家もそれに倣った。死の床につくリア・ムンクの肖像は、クリムトが描いた死者の作品としては6作目にあたる。リア(マリア)の悲劇は、1911年から1912年にかけてウイーンの社交界を騒がせた。1911年12月28日、裕福な材木商の娘だったマリアは、恋の悩みから24歳でピストル自殺した。その直前、彼女は、婚約者の作家ハンス・ハインツ・アヴァースに別れを告げていた。この肖像画を依頼したのは、リアの母アランカ・ムンクでクリムトの支援者で教え子でもあったゼレーナ・レーデラーと従妹だった。本作品は、死者の顔を囲む色彩豊かな花(おそらくバラの花ビラと思われる)によって、ジョン・エヴァレット・ミレイの有名な「オフィーリア」を思わせる。ハムレットの恋の苦悩から死を選ぶオフィーリアという、ウイリアム・シェクスピアが生み出した人物像を考えると、クリムトが意図的にミレイの名作を連想させる作品を制作したことは十分考えられる。おそらくクリムトは、素描や写真をもとに描いたものではなく、実際に亡くなった人を前にカンヴァスに描いたのであろう。

女の三世代 油彩・カンヴァス  1905年  ローマ国立近代美術館

本作品は<人生は戦いなり「黄金の騎士」>と<接吻(恋人たち)>と並ぶ、クリムトの「黄金様式」の傑作の一つである。本作品は<医学>や<哲学>と同じく、「生命の円環」をテーマとする。いずれの作品も裸体で表現された年齢や性別の異なる人間が、誕生から死に至るまでのあらゆる段階を示している。人生の三段階という主題は、中世依頼、頻繁に取り上げられてきた。これまでクリムトの着想源としては、とくにウイーン美術史美術館所蔵のハンス・バルドゥイング・グリーンによる16世紀の作品が挙げられている。クリムトは本作品において伝統的な比喩に明快に表現したとき、すでに成熟した芸術家だった。作品の意図は、人物の身体的特徴によってのみ伝わる。そのため、同種の作品に描き込まれる死が、本作品には含まれていない。近づいてくる死は、すでに老女の姿に見て取ることができる。彼女たちの背後を彩る装飾は、それぞれの人物の象徴性をほのめかす。若い女性の背後には、三角、円、渦巻などの色とりどりの文様があしらわれている。彼女にはヴェールと、様式化された蔦が絡まり、髪には小さな花ビラが見える。黄色、茶色、赤の色調で描かれた老女のシルエットと、生命と成長の象徴を対比をなす。クリムトは本作品に用いた箔については、視覚的に判断すると、背景に銀箔を使ったことは間違いないだろう。一部が酸化して黒ずんでいることからもそう考えられる。クリムトは金箔に加え、人物の背景装飾の一部に本物の金泥も使ったとうである。本作品は、1905年にベルリンで初公開されたが、1911年にローマで開催された国際芸術展で紹介されたときに、イタリア政府に買い上げられた。完成から売却までの6年間の間に、クリムトが作品の一部を修正したこともわかっている。

 

グスタフ・クリムトは見事な装飾による比喩的な表現を得意とする画家として、また魅力的なウイーン社交界の女性を描く肖像画家として名高い。ウイーン分離派の設立以降のクリムトはもっぱら風景画、肖像画、そして象徴的な女性像を描いた。象徴的な絵画には、さらに4つの異なる主題に分けられる、一つ目は、画家によるメッセージが込められた綱領的な絵画である。二ツ目の主題は、クリムトが女性の神秘を追及した絵画である。とりわけ「ユディト1」等である。三つ目の主題は個人的、かつ己の芸術的な理念の実現を目指す芸術家である。四つめの主題は、生殖から死までの生命の円環に取り組んだ作品である。「女の三世代」が、その代表作品である。クリムトはこれだけ多数の魅力的な女性を描きながら、結婚したことは無い。しかし非嫡出子は、多数いたようである。モデルの子供が多;

(本国は図クリムト展ーウイーンと日本 1900      2019年」福島繁太郎「近代絵画」、高橋修爾「近代絵画史(偈)」
美術出版社「西洋美術史」を参照した)

興 福 寺(終)  五 重 塔  三 重 塔

興福寺について、7回の連載となり、この原稿が最後の記事となる。お付き合い頂き、誠に有難うごいました。この稿では、興福寺に感ずる「廃仏稀釈の嵐」を考えてみたい。鵜飼英徳氏の「仏教抹殺」(文春新書)を参考にして所謂「 廃仏稀釈」について、その詳細を記録したい。この新書によれば「明治維新」は美しい美談ばかりが語られている。しかし華やかな歴史の影に、目を覆わんばかりのいたましい事実が隠されているのたのである。1868年(慶応4年)に出された一連の神仏分離令に伴う、仏教への迫害・破壊行為「廃仏稀釈」は明治3年(1870)ごろピークを迎え、断続的に明治9年(1876)頃まで続いた。

霞たなびく興福寺伽藍              入江泰吉氏撮影

この写真は、奈良を愛し、美しい写真を撮り続けた入江泰吉氏の撮影になるものである。新薬師寺の近くに「奈良市写真美術館」がある。そこには、戦後、奈良を愛し、美しい写真を撮り続けた入江泰吉氏の写真美術館である。そこでは、入江氏の写真を廉価にで売っている。これが、その1枚である。これは奈良興福寺の五重塔と手前に北円堂の屋根が写る。その奥の建物は、江戸時代に建てられた仮金堂(現在の中金堂の前身)、背後の春日山に連なる高円山には霞がかかっている。三重塔は、低い場所に建っていつため、この写真には写っていない。興福寺の伽藍を遠くから映した美しい写真である。

国宝  五重塔  木造       室町時代(応永3年ー1426)頃

応永33年(1426)頃に完成したこの塔は、京都東寺の五重塔に次ぐ、日本で2番目の高さ(50.1メートル)を誇る。天平2年(730)に光明皇后の御眼で建立されたのが最初であるが、平安時代以降、雷火、兵火などで焼失するたびに再建された。木割が太く、建築様式は和様(わよう)の伝統的な姿である。細く高い姿と屋根の勾配が強い点に中世の特色が見られる。

国宝  五重塔初層内陣         室町時代             釈迦如来坐像、文殊菩薩騎乗像、普賢菩薩騎乗像

創建当時、初層の東西南北に釈迦、弥勒の浄土変(じょうどへん)を表していた。現在は同様の四仏をそれぞれ三尊の形式で安置している。これらの仏像は、15世紀半ばに奈良で活躍していた椿井仏所(ゆばいぶっしょ)の仏師が創り、興福寺一条院に出入りしていた奈良の絵師たちによって彩色が施された。元号がまだ明治になる前の慶応4年(1868)新政府は神仏混淆を改めるべく神仏分離令を発布した。この神仏分離令が契機となり、明治初年から明治10年ごろにかけて、廃物稀釈嵐が吹き荒れたことは有名である。島崎藤村の「夜明け前」の青山半蔵(藤村の父親)は、神道の熱心な信者(国学を勉強した)であった。それまでは、日本中で寺院と神社は一体的な関係にあった。明治政府は、この寺社の伝統的な在り方を否定し、この政策に便乗して過激な仏教排撃運動が展開された。興福寺では門跡をはじめとする僧侶たちの多くは春日社の神官に転身した。さらに明治5年(1872)に興福寺は廃寺と決定されると、同社や寺の周囲のぐるりと囲む「大垣(おおがき)」と呼ばれた築地塀も次々と取り壊された。この五重塔を取り壊すということで入札が行われた。おこれをある人が十五両(諸説あり)で落札した。ところがそれを壊そうとすると足場を組むなど余計な費用が掛かるため落札者は逃げてしまった。仕方ないので時の県令で、廃仏家として有名であった四条隆平(しじょうたかとし)は、五重塔の周りに薪を積んで焼き払うよう命じた。しかしながら類焼を恐れた町民が、焼き払うのはどうかご勘弁願いたいと愁訴したため、困った四条は火を付けることもできなかった。四条が県令を辞めると命令は沙汰止みとなり、五重塔は命拾いをすることとなったという。至難はまだ続く。多川俊英貫主は、父俊乗氏の言葉として「明治初めより戦後間もなくの方が厳しかった。困窮した興福寺は五重塔への登楼で一定の種入を得て急場をしのいだ。今では考えられない無謀なことだった」と「私の履歴書」第19回に述べられている。戦後間もない時期は私の小学校6年生の時で、正に廃仏稀釈運動」より厳しい時代であった。現在、登楼は元より、1階の「初層内陣」も拝観できない。

国宝  三重塔   木造    鎌倉時代

康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮、皇嘉門院藤原聖子(こうもんいんふじはらせいこ)の発願によって創建されたが、治承4年(1180)の兵火により焼失した。鎌倉時代初期に再建されたのが現存の塔である。木割が細く、繊細優美な平安時代後期の建築様式を引き継いで造られた。低い場所にあるため、気が付かない人が多い。北円堂から眺めると、はるか下に見える。興福寺は北円堂と並ぶ古い建築物である。

国宝  三重塔初層内部          鎌倉時代

中央部に弁財天を配置する。四面に千体づつ描かれた四方仏は、薬壷状のものを持つ東方薬師以外、ほぼ同様の像容である。また四天柱、長押の柱、扉、板壁などにも宝相華文や仏菩薩浄土の様子などが描かれている。

国宝館                  昭和時代(昭和34年ー1959)

食堂(じきどう)は東金堂の北側に位置していた。食堂とそれに接続する細殿(ほそどの)の遺跡の場所に、昭和34年(1959)に宝物を保存するための施設である国宝館が建てられた。食堂の遺構は国宝館の地下にそのまま保存されている。国宝館には西金堂に安置されていた仏像群や、板彫十二神将など東金堂の遺品も保存されている。この国宝館が完成するまでは、これらの仏像群は概ね、奈良国立博物館に寄託されていた。昭和28年ごろに奈良巡礼する場合には、奈良国立博物館は欠かせない施設であった。なお、川端康成の「舞姫」を読んでみると、昭和20年代初期には、東京国立博物館に寄託されていたようである。時代の変遷を感じる。

 

 

「廃仏稀釈」と言うと、必ず興福寺の五重塔の売却と、15円(15両)の価格、償却処分の話が出る。これは実話らしいが、興福寺は、仏像を売却したり、粗末に扱った事例は報告されていない。鵜飼秀徳氏の「仏強抹殺」(文芸新書)によれば、廃物稀釈について、次のように説明している。日本の宗教は、世界の宗教の中でも特に特殊の形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちやまぜ(混洪宗教)になっていたのである。祈祷もするし、念仏も唱えるし、祓いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し寺の住職を務めた時代も長かった。このように日本ではおおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。しかし明治維新を迎えたとき、この日本の宗教は大きな節目を迎える。新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必用と考えた。そこで王政復古、祭政一致の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じりあっていた仏教である。新政府は神と仏教を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。興福寺は、定められた「神仏分離令」に従うため、僧籍を離脱し、春日大社の神官となり、130人に及ぶ僧侶はすべて春日大社に移行し、広大な境内地と七堂伽藍だけが残された。金堂は警察の屯所となり、冬場になると凍えるような堂内で警官たちは焚火をして暖を取ったという。薪がなくなれば、堂内に安置してあった天平時代の仏像を引きずりだし、まるで薪割りのように仏像を割り裂いて火中にくべたというのである。これが廃仏稀釈の吹き荒れた明治初年の興福寺の様であった。(鵜野秀徳著「仏教抹殺」より引用した。         私は、この話を信用している訳ではない。明確な資料の出所が明らかでなく、少なくとも、金堂の仏像類を燃やしたという説は、資料の出所が不明である。「漫談明治初年」など極めて出所の不明な文書の引用に頼っていている点が信用できない。確かにその頃、興福寺に僧侶がいなくなったことは事実であるが、天平時代の仏像を燃やしちゃ処は、誇張であり、事実ではないと思う。しかし、概ね、この本の描く世界は仏教にとって、「廃仏稀釈」の嵐、仏像の海外への流出を招いたことは事実である。非常に残念な結果であるが、「戦後の日本の方が、はるかに酷かった:」という父親の乗俊氏の言葉の方が、信用出来ると思う。

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009」、図録「興福寺国宝展 1997」古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」、中野明「流出した日本美術の至宝」、鵜飼秀徳「仏教抹殺」を参照した)

興 福 寺   南 円 堂

興福寺には、講堂が3棟、塔が2塔、その他に南円堂、北円堂がある。南円堂は興福寺の伽藍の主要伽藍の中で、最後に建てられたお堂である。創建は弘仁4年(813)に完成した。本尊は講堂に祀られていた不空羂索観音菩薩像(天平18年ー746)が移された。その後永承元年(1046)、治承4年(1180)、嘉暦2年(1717)の四回の火災に遭うが、その都度再建されている。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は、治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となり、文治4年(1188)6月18日から翌年の9月28日まで、1年4か月をかけて完成させた。南円堂再建事業を指導したのは氏の長者・九条兼実で、その日記「玉葉」には彼が制作現場にしばしば訪れたことが記され、兼実が仏像に高い関心をもっていたことがわかる。南円堂は西国三十三所観音霊場の第9番札所に指定され、興福寺の信仰の裾野は飛躍的に広がった。昭和20年代後半に興福寺を訪れる人は少なかった。「廃仏稀釈」の実例のように感じたことがあった。まだ国宝館も建設されず、阿修羅像など人気の高い八部衆は、国立奈良博物館に保管されていた。しかし、南円堂だけは、拝観する人が多く、目立ったものである。南円堂に日参する人も多く、参拝客のため、お寺では、納経所を毎日早朝の5時から夜9時まで開いていた。大衆信仰の強さに驚いた記憶が残る。

重文  南円堂  本瓦葺  江戸時代(寛正岩年ー1789)

現在の建物は享保2年(1717)の火災後に復興されたもので、寛正元年(1789)の完成までに50年近くかかっている。再建にあたっては八角堂である北円堂が参考にされた。南円堂再建事業を指導した氏の長者・九条兼実は、日記「玉葉」によれば、仏像に高い関心を持っていたことがわかる。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となって完成させたものである。鎌倉時代を代表する名作である。

国宝 不空羂索観音菩薩像  木造  康慶作 鎌倉時代(文治5年ー1189)

南円堂の本尊である。文治5年(1189)康慶の作である。治承の兵火のあと復興された。額に縦の一眼があり、手が八本の三目八臂(はっぴ)の姿である。不空羂索とは、第四の左手に持つ羂索(網)で人々の願いをすべてすくい集めるという観音の誓願をあらわす。。威厳のある風貌で、鎌倉期の造像ながら、天平盛期の重厚さを伝えて迫力がある。10月17日の大般若転読会(てんどくえ)の時だけ拝観できる。

国宝  四天王立像  木造 康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1189)

四天王立像は、一条寺本の南円堂曼荼羅図などに描かれた四天王のポーズや細部の形式まで一致することから、本来南円堂に安置されいたいたことが確認された。南円堂の諸像は康慶工房が文知2年(1188)から翌5月にかけて造営したことが、四天王像については「南円堂本尊以下修理先例」という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。ゆったりとした溝や、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、たとえば、治承4年(1178)の東大寺持国天像など12世紀後半の奈良仏師の作例とよく似ている。しかし、瞳に玉を嵌める手法は南円堂の本尊・不空羂索観音像とも共通する。

国宝 四天王の内  増長天立像  木造 康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

 

国宝 持国天立像(四天王の内) 木造  康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

国宝  玄賓坐像  木造  康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

法相六祖とは、法相宗のすぐれた僧六人のこと。奈良から平安時代のはじめに法相の教義に通じ、興福寺の法相興隆に貢献した僧を「法相六祖」と呼んで尊ぶようになった。人選については、各種あるようである。ここでは玄賓坐像を取り上げた。

 

南円堂は、現在では庶民信仰の堂であるが、興福寺の堂であるだけに、安置された仏像類は国宝が揃っている。鎌倉期の美の殿堂である。開扉は10月17日の大般若経転読会(てんどくえ)の日のみで関東から概観するには、やや難がある。私は、関西勤務時に一度拝観したことがある。

 

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1997」、図録「国宝 阿修羅展 2003」、古寺巡礼5巻「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照いた。

 

奇想の系譜 (3) 狩野山雪 歌川国芳 白隠慧鶴

狩野山雪(1560~1651)は、桃山時代の文化がピークを迎える天正18年(1590)、狩野永徳が没した年に九州肥前国に生まれた。京狩野初代の山楽に16歳のころ弟子いりし、その後婿養子となった。その意味で、山雪も伝統的画家の修行をしっかりと積んだ画家であった。徳川幕府の成立により、探幽ら狩野本家筋が江戸へ拠点を移したのに対し、、京に残った山楽・山雪の系統は後に「京狩野」と呼ばれる。妙心寺や清水寺、東福寺など京都の大寺院のための作画を多く残した。生来学者肌で漢学に通じ文化人的な資質を持ち、日本で最初の画家伝である「本朝画史」は、山雪の原稿を元に息子の狩野永徳が完成させた。伝問的な画題を独自の視点で再開釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学的構成で知られる。

重要文化財 梅花遊禽図襖(ばいかゆうきんずふすま)四面 紙本金着色狩野山雪(寛永8年(1631)京都・天球院

永徳の没後、狩野はを含む画壇全体は、永徳の晩年の「奇々怪々」な表現に追随することをむしろあきらめ、より整った、優美な装飾形式を追及する方向に移りつつあった。それは関ケ原合戦以後、新しい閉鎖的な封建秩序の確立に向かって動き出した徳川幕府の政策と微妙に呼応するものでもあzった。山楽はひとりそうした動向の外にあって、師の創始になる、正に桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、正に桃山の巨匠の最後の生き残りであったわけである。私は昭和45年4がつから昭和50年10月まで、2年半、京都」支店長を務めたことがある。京都は私の好みに合い、古寺巡礼を楽しみ、年間200ケ寺を回っていた。タクシーに乗れば、京都の運転手さんは、行先を告げると、必ずそのお寺の蘊蓄を語ってくれるものである。それに対し、私は「そういう説もあるが、私はむしろ、この意見を採用する」等一言すると、運転手さんは、「大学の先生ですか?」と聞いてくる。私は「まあ、そんなような者だ」と曖昧に答えて、降りる際に会社のチケットを切ると「ああ、明治の支店長さんですか!」と答えられたものであった。京都のタクシーの運転手の中では、多少名前が通っていたようである。さて、数多くのお寺の絵画や仏像を拝見したが、妙心寺の塔頭・天球院だけは、固く門を閉ざして公開してくれなかった。天球院は、寛永8年(1631)姫路城主池田照正の妹に当たる探求院殿の発意で、妙心寺内に創立された。この時方丈に描かれた襖絵は、桃山障壁画の最後を飾るものとして名高かった。この障壁画は、狩野山楽の筆と伝えられてきたが、山楽は70才を超える高齢であり、近年、狩野山楽の弟子・山雪のの手におると推定され、議論を呼んだが、この「梅花裕禽図襖」は、私は狩野山楽筆と、信じている。この天球院の襖絵を是非、拝観したいと思って40年経つが、非情にも唯の1回も開扉されることは無かった。今回「奇想の系譜展」で、天球院の襖図が一部開扉されることを知り、正に天にも昇る気持ちであった。この襖絵については、正に辻暢雄氏の「桃山の巨木の痙攣」という一言で、紹介したい。あまり多くを語りたくない。

重要文化財 寒山拾得図 一巻 紙本墨画 狩野山雪作京都・真正極楽寺・真如円

ボサボサ頭、気味悪い笑いを浮かべた男二人は、奇想天外な行動をとって常識を超越し、禅宗絵画の脱俗のキャラクターとなった唐代の僧である。画面上、頭のサイズは人の顔よりずっと大きい。手前の寒山の肩に置かれた拾得の左手、鋭く伸びた爪が肩に食い込んでいるようで痛そうである。この不気味な表情は、伝顔輝筆「寒山拾得図」(東京国立博物館)のような中国元代の顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝画の顔を吸い込みであるのに対し、このすさまじいほどの迫力はどうだろうか。丸みを帯びた逆台形は、三雪画に頻出する独得の顔であり、伝顔輝画をもとに、山雪は幾何学的デホルメを加えている。一目みたら忘れられない強烈なビジュアル、夢に現れてほしくないグロテクスクな人物像の迫力である。

歌川国芳は、寛正9年(1797)、江戸日本橋の紺屋の家に生まれた。生粋の江戸っ子である。広重とは丁度同年で、北斎より37年後輩に当たる。父の友人であった歌川国芳が鍾馗の図を見て12歳の時に弟子とした。兄弟子に国貞がおり、役者絵や美人画を描き、かつリアルに描くことで通名であった。国芳の魅力は、大画面(例えば3枚続き)で、物語を描き、かつリアルに描くことで大いに受けた。また、猫が好きで、ユーモアを解する江戸っ子であった。私も国芳の大ファンである。

相馬の古内裏 大判3枚 弘化2年~3年(1845~46) 歌川国芳作 千葉・成田霊公院

「相馬の古内裏」は、文化3年刊の読本、山東京伝「善治安安方忠義伝」に基ずく。平将門の遺児滝夜叉は、弟の将軍平吉門と共に筑波山の蝦蟇の精霊肉芝仙(にくしせん)から妖術を授かり、荒れ果てた相馬の古内裏を巣窟として、亡父将門の遺志をついで謀反を企てるが、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨に置き換え、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨と置き換え、夜叉姫と遭遇する場面とを繋ぎ合わせている。闇の奥から前面に押し出してくる巨大な骸骨の動きに対して、破れ御簾の滑るような動きが画面を斜めに走る。骸骨は解剖学的にも正確なものとされ、国芳がリアルな描写のために研究努力したことが示される。単なる標本的な骸骨では無く、動きがリアルな描写のために研究努力したことが示される。

宮本武蔵の鯨退治 大判3枚続き 弘化4年(1851)頃 歌川国芳

図中に「宮本武蔵は肥後の産にして後、備前に来たって奉仕す また諸国めぐりて剣術を修行す ある時備前の国の海上に大いなる背美鯨をさしとふす」との説明が付されている。何と大胆な構図で、鯨の巨体を表すために画面の端から端までが最大限に使われている。鯨の体には白点がありリズミカルに施されている。牡蠣殻が付いたものとされる。鯨の形については、享和3年(1803)司馬江漢の「西洋旅譚」の鯨の図も産照したものと見られる。幕末ぎりぎりの時期であり、西洋の絵画、書物の影響を受けていることは間違いない。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大判3枚続き嘉永4年(1851)歌川国芳作

「崇徳眷属をして為朝をすくふ図」は文化4~8年(1807~11)に刊行された「読本 曲亭馬琴作・葛飾北斎画(鎮西弓張月)の第31回、32回に基づく。保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝は伊豆大島に流され、付近の島島を征服する。勅命による討伐船が大島にむかった、為朝は九州に逃れる。平氏討伐のため都に上ろうと水俣から出帆したところ、暴風雨に遭い船は難破する。為朝は最早これまでと自決しようとすると、讃岐院(崇徳院)の眷属が飛来し為朝を助ける。琉球に漂着した為朝は、琉球王の王女を内乱から救って国を平定し仙界に入る。海を鎮めるために身を投じる妻白縫、讃岐院の遣わした烏天狗に救われる為朝、為朝の一子舜天丸を抱いた為朝の忠臣八町礫紀平治を背に乗せて琉球に向かう巨大な鰐鮫といった、異なる時に起きた三つの場面が一つの大海原の画面にまとめて描かれる。鰐鮫の大きな動きだけではなく、これに拮抗する為朝の小船、舞い降りる薄墨の烏天狗の軽い動き、波のうねりなどが相互に絡み合い複雑に連動するムーブメントにも注目したい。大判を3つにつなぐ形式は、武者絵では国芳にお作が初めてである。江戸っ子の肝玉を冷やしたに違いない。痛烈な印象を与える。

「奇想の系譜」以外に、白隠慧鶴(はくいんえかく)(貞享2年~明和5年ー1796~1858)と、鈴木其一(寛正8年~安政5年ー1796~1858)の2名が追加されている。白隠については異論がないが、私は、鈴木其一は、決して「奇想の系譜」ではなく、れっきとした江戸琳派の大成者であり、江戸絵画を勉強する身には、鈴木其一は「奇想の系譜」に入れられては困る。鈴木其一こそ、日本の伝統文化である琳派の後継者であり、むしろ「江戸琳派の集大成者」である。従って、「奇想の系譜展」からは削除して掲載しない。

白隠慧鶴(1685~1768)は日本臨済宗中興の祖として、最も顕名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法経はすべて白隠下になり、現在の臨済宗は文字通り「白隠禅」と言って」良いだろう。「中興の祖」とは文字通り「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということになる。白隠は、むしろ新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した宗教改革であっあっというべきであると思う。宗教家であって画家では無いので、一点のみを掲載する。詳しくは「白隠展」2012年ーブンカムラ・ザ・ムュージアムを参照願いたい。今回の「奇想の敬具」展の企画者「山下祐二氏」が「白隠のいる美術史」という論文を寄せているので、参考までに読んで頂きたい。

達磨図  一幅 紙本着色 白隠慧鶴作 江戸時代  大分・万寿寺

背景の深い黒。衣の鮮やかな朱。顔面のほのかな朱。そして眼球、胸と、「直指人成仏」という讃文の白、数千点も変存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートルの大作である。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。制作年代については、明和4年(1767)83歳の制作だとする説が有力である。一見に値する。

 

辻暢雄氏の「奇想の系譜」を展覧会で一堂に会する企画は、思いも掛けない企画であり、企画者の山下祐二氏のご努力に敬意を表したい。アメリカ等海外からの出品作も多く、見学者も非常に多かった。今年を代表する一大展覧会であった。よくぞ、これだけの作品を集めたものだと感心した。関係者一同に対し、心から感謝したい。ご苦労様でした。大変、感激しました。有難うございました。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展   2019」、辻暢雄「奇想の系譜」、図録「歌川国芳ー奇と笑いの木版画  2017年」、図録「白隠展  2012年」を参照した。)

 

奇想の系譜(2) 長澤芦雪  岩佐又兵衛

 

長澤芦雪は宝暦4年(1754)-寛政11年(1799)の45年間の間に、異能を発揮し、様々な絵画を残した。父・上杉和左衛門は、はじめ丹波篠山の青野家に仕えたが、後に淀に移って稲葉丹後守に仕えた武士であった。下級武士の息子として淀で成長したが、好きな絵の道を志し、京に上って応挙のアトリエに通って絵の手ほどきをを受ける内に、めきめきと頭角を現し、やがて京へ移住して、天明2年(29歳)の時には、すでに、応挙の高弟として一家をなしていたらしい。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙がトップに載せられ、若冲、蕪村がそれに続き、それからだいぶ間を置いてではあるが蘆雪の名がある。「奇想の画家」の中では、まともな道を進んでいたことが分る。天明6年(1786)南紀串本にある無量寺の僧愚海が、かねて親交のあった応挙を訪ねて、南紀にある東福寺の寺院の襖絵を揮毫するよう依頼した。ところが当時応挙には南紀に出向くことができない事情があり、蘆雪が代理を務めることになった。応挙の信頼は厚かったことが理解できる。しかし、蘆雪の生活態度には相当世間の反感を買う面があったらしい。49歳で死亡しているが、才気煥発、無類の器用さ、多趣多芸、大向こうをあっと言わせる芝居気があり、反面、反感を買うような態度もあったらしい。

龍図  八面  紙本墨画  長澤芦雪作    島根・西光寺

八面の屏風であり、この絵は左隻に描かれた龍図であり、極めて珍しい絵である。このように前身が描かれる龍はなく、蘆雪の発想の豊かさを物語っている。顔は側面から描かれ、口角が上がりまるで微笑んでいるように見えるのも他の龍図には無い特徴である。鱗は輪郭線をとらえずに平筆によって勢いよく描かれ、筆運びの勢い自体が、龍の持つエネルギーを示しているようである。蘆雪が南紀遊歴(天明6~7年)前後の時期に制作された基準作として極めて貴重な作品である。

花鳥図 一幅 絹本着色  長澤芦雪作 江戸時代  阪急文化財団逸翁美術館

 

長澤芦雪は「奇想の画家」の中では、唯一人、まともな師匠について学んでいる。従って、他の「奇想の画家」と異なり、オーソドックスな絵を描くこともある。この花鳥図は、正にオーソドックスな花鳥画であり、師である応挙から学んだことがうかがわれる。中国南方原産である錦鶏という画題は、決して一般的ではない。若冲は「動植採絵」においても「雪中金鶏図」を描いているが、他の画家がこの鳥を描いた事例は極めて少ない。若冲の「白梅金鶏図」を仕上げた後の1770年前後の作と推定される。その頃の蘆雪はいまだ十代だが、後にこの絵を見る機会があったのいではなかと想像される。優美な尾羽を長く伸ばす金鶏の姿は、きわめて近似している。落款「蘆雪」と印章「蘆雪」「政勝」は、南紀遊歴以前の作品たとえば「檜に猿図」(個人蔵)などに近似する。若き日の蘆雪が若冲に心寄せていたことが想像できる作例であろう。

秋景山水図 紙本墨画淡彩 長澤芦雪作 天明8~9年(1788~1789)キャサリン&トーマス・エドソンコレクション

淡墨で描かれた急峻な岩肌に群生する松。その間に点在する紅葉した木木。松は濃墨で紅葉は淡い着色。そのコントラストが、季節感をうまく演出する。踊っているような松のかたちのリズム感、ぼかしを駆使した空気感を表す描法に、応挙とは異なる蘆雪の資質がよく表れている。「平安蘆雪写」という落款における「蘆雪写」の筆触は「雨中釣燈篭図」(個人蔵)の筆癖にきわめて近似している。近い期間、即ち天明6~7年の南紀遊歴を終えて以降、寛正前期までの作と推定される。この作品には「奇想の画家」の面は、まるで見られないと思う。

重要文化財 山姥図(やまんばず) 額一面 長澤芦雪作 絹本着色 寛正9年頃広島・厳島神社

山姥とその子供(後の坂田金時)をほぼ等身大で表す。迫力に満ちた画である。恐ろしい山姥の顔に驚かされるが、本図は、蘆雪の顧客であった広島の商人たちが厳島神社に奉納する絵馬として描かれた。画題は、浄瑠璃「茹山姥」に基ずく。画題は、浄瑠璃「女躰山姥」に基づく。「女躰山姥」では、遊女であった八重垣が自害した夫の魂を体内に宿して山姥となり、山中で子供を産み育てる。母子は後に夫の恩人である源頼光に会い、子供は坂田金時として頼光に仕えることを許される。恩義に報いるため超人的な力を得た母子の姿が、金時の活躍などとともに畏敬の対象とされたものと考えられる。山姥と5、6歳の金時が頼光の前に現れたところだとすれば、親子にとっての喜びの場面ということになる。そこに至るまでの山姥の苦労は計り知れず、彼女の屈託に満ちた表情には、これまでの生の苦しみが刻まれている。元遊女で今は鬼女・母といおう、さまざまな要素を併せ持つ山姥を活写している。暗く屈託した山姥と対照的に、金時の無垢の明るさが輝くように表され、未来の成功への希望が象徴されているようである。

 

岩佐又兵衛については、今までこの「美」で書いているので、紹介は省き、いきなり作品に入りたい。

重要文化財 山中常盤物語 第四巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 静岡・MOA美術館

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は15歳の春、東国へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡である。都にある母の常盤は、行方のしれぬ牛若案じ、清水にはだし参りをしたりしていた。春も半ばとなり、母常盤は侍従を従え東国へ下る。二人が山中の宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と牛若恋しさに、重い病の床につく。山中の宿に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を東下りの上臈とみて美しい小袖を盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の着ている小袖まで盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の小袖まで剥ぎとったので、常盤は小袖を残すか、さまなくば命も取って行けと叫ぶ。盗賊は常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。(古浄瑠璃の一部)

堀江物語 一巻 紙本着色 岩佐又兵衛作  江戸時代  京都国立博物館

下野の豪族で、清和源氏の血を引く堀江三郎は美しい姫君を妻に迎えて男子をもうける。だが京から来た国司の中納言と姫君の父とが結託し、三郎を自害に追い込んだ。遺児の若君は生き延び、奥州の岩瀬権守に愛育され、元服後は岩瀬太郎と名乗る。やがて真相を知って敵討ちをこころざした太郎は国司の妻子を殺害、さらに京に上って国司を討ち果たした。帝から坂東は八国を任された太郎は、姫君の父の剃によって復讐を完遂。下野の血で堀江家の再興をなしとげた。         又兵衛には、この物語を絵画化した二種類の絵巻物が残る。一つはぜん12巻のもので、MOA美術館に所蔵される。もう一つは6巻の絵巻と断簡が確認されるものである。6巻物は京都国立博物館が所有している。この作品は,MOA美術館12巻物の習作のようなものである。

重美 伊勢物語 鳥の子図 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 文化庁

柳の下にたたずむ一人の女性が、流れる水面に筆を差し出し何事を書こうとしている。これは「伊勢物語」第五十段「鳥の子」に取材した図である。この段は一組の男女が相手への恨み言を歌でかわし合うというもの。男の「鳥の子を十ずつ十ぱかさねとも、思わぬ人を思うものかは」の歌に対し、女は「ゆく水に数かくよりもはかなきは、思わぬ人を思うなり」と返す。本図はこの女の歌を絵画化している。

本性房怪力図(ほんじょうぼう) 一幅 紙本着色 江戸時代 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

 

古典文学に取材した作品は、絵画化の長い歴史のなかで定着した図様の伝統に拘束されがちである。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材を取る。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材にとる。元弘岩年(1331)笠置山に拠点に移した後醍醐天皇の勢力を、鎌倉幕府が包囲、迫り来る幕府の軍勢に対し、南都の般若寺から来ていた本性房という怪力の僧は、普通の人間ならば百人ががりでも動かせそうもない巨岩を軽々と脇に抱え、鞠のように次々と投げつけて応戦した。幕府軍は崩れ落ち、深い谷は人馬の死骸で埋め尽くされ、近くを流れる木津川が血に染まるさまは、まるで紅葉を川面に映したようだったという。又兵衛の筆は、この惨劇をファルスへと転じて見せた。どこか見得を切る歌舞伎役者のようである。

国宝 洛中洛外図屏風(舟木本) 六曲一双 紙本金地着色 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

京都市街(洛中)と郊外(洛外)の景観を一望する屏風絵の形式は、室町時代に成立し、江戸時代はじめ頃に全盛となった。その数は現存するだけで200件に迫る。かっての所蔵者の名前をとって舟木本と呼ばれる。この洛中落外図は、同主題の絵画のみならず、浮世絵を含めた日本の風俗画史における重要な転換点に位置する。極端に言って、舟木本の斬新さは、都市に暮らす人々の生活の様子を、絵画の中心的な主題へとせり上げたところにある。本図は、四条河原町を行く祇園祭を描いた部分である。寺町から四条通りへ進む大きな幌(ほろ)を担いだ母衣武者を描いたものである。四条通りをそのまま南下するのは南蛮人の扮装(コスプレ)をしたものである。現代のファローインのようなものである。

妖怪退治図屏風   伝岩佐又兵衛作 八曲一双  紙本着色 江戸時代

最近見出された作品で、この展覧会が最初の公開となる。地面には銀の砂子が蒔かれる。銀こそ黒く変色したが、それ以外のコンディションは、ほぼ完璧に近い。画面の左側から騎馬武者の一行が山路を下り(この左局には出てこない)水際立った先端の1騎は、黒雲に包まれたおびただしい数の異形のものたちに向けて弓を引く。(この黒雲が左隻である)人物の顔には所謂「豊頬長顎」(ほうきょうちょうい)の特徴が見られる。(この顔の表現が岩佐又兵衛の特徴とされる)この絵の制作期は、又兵衛が福井の地で絵筆をふるった元和2年(1618)頃から寛永14年(1637)までで、その前期と想定される。又兵衛の作品ではなく、又兵衛工房の作と思われる。この絵の内容については、まだ断定できていない。

 

長澤芦雪と、岩佐又兵衛を、本稿では取り上げた。岩佐又兵衛については、度々取り上げているが、比較的新規の絵画を取り上げたつもりである。長澤芦雪は、丸山応挙の高弟であり、絵の基本は良くできているが、「奇想の系譜の画家」らしく珍しい絵も描いている。絵の基本をきちんと学んだ「奇想の系譜の画家」である。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、矢代勝也「岩左又兵衛作品集」、辻暢雄「岩佐又兵衛」、図録「京都 洛中洛外図と障壁画  2013年、辻暢雄「奇想の系譜」を参照した)

奇想の系譜展 (1) 伊藤若冲と曽我蕭白

今から50年前(1970)に、一冊の書物が刊行された。辻慶雄氏の「奇想の系譜・江戸のアバンギャルド」(美術出版社)である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長澤芦雪、歌川国芳の六人の画家を取り上げた、この「奇想の系譜」、以後の江戸時代絵画研究、日本美術氏研究に対し、決定的な影響を与えた。今回の展覧会には、この六人に加え、白隠慧鶴、鈴木其一の二人を加えて企画されたものである。従来の日本美術史の江戸時代を飾る丸山応挙、池大雅、与謝蕪村、渡辺崋山と浮世絵師に比較して、この8人の画家は「異端」「傍流」扱い、あるいは無視され続けた。私が所有する「原色日本の美術」(小学館)全30巻(1972年刊行)で調べて見ると、この8人の画家は、全く採用されていないか、僅かに採用されても「異端」「傍流」扱いで、僅かな写真が出るのみで、殆ど無視されていた。私にとって江戸時代絵画は、浮世絵を除き、はっきり言えば、殆ど興味を引んで以来、すっかり、この「奇想の系譜」の絵師に取りつかれ、フアンになってしまった。特に「伊藤若冲」と「岩佐又兵衛」には熱を上げた。若冲は「ご即位20年記念(2009)に「三の丸尚蔵館」の「動植採絵」全30点が展覧され、あまりの美しさに2回も訪れ、図録も全2巻を求め、愛読書の一つとなった。その後、各美術館でも、保管する「伊藤若冲」を展覧する機会が多くなり、かつ「生誕300年 若冲展」(2006)には、展覧会初日に朝早くから並び、丁寧に全作品を鑑賞した。この展覧会では6時間も並ぶ盛況ぶりで、恐らく100万人近い動員をしたのでは無いだろうか。また「岩佐又兵衛」については、それを所有する山種美術館、出光美術館、熱海MOA美術館などをめぐり、凡その作品を鑑賞することが出来た。この二人については「黒川孝雄の美」で再々取り上げている。今回「奇想の系譜」展は、辻先生の弟子に当たる山下雄二先生(明治学院大学)の監修になるもので、さじかし、珍しい作品も多数展示されているであろうと、期待と希望を持って鑑賞した。十分満足できる内容であった。皆さんに鑑賞をお勧めする。

紫陽花双鶏図  一幅 絹本着色 伊藤若冲作 エツコ&ジョー・プライスコレクション

向かい合う雌雄の鶏を主題にとし、足元に芍薬らしい花、後ろに岩と紫陽花を配した本図の図様は、「動植採絵」のなかの「紫陽花双鶏図」の準備作であろう。細部・全体を通じて見られる、独特の形態感覚は、若冲の個性的スタイルが、このときほぼ完成の域に達していたことを物語る。プライス氏は、日本のコレクターが誰も若冲に気づいていない時期に日本を訪れて若冲の作品を探し求めた。業者がそれに応じて提供したものがこの図で、昭和39年(1964)のことである。プライス氏の先見の美を賛美するか、日本のコレクターの質の低さを嘆くか、何れにしても「保管」されたことは喜ぶべきことであろう。

虎図 絹本着色 伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

前脚を舐める姿がユーモラスで、猛獣のイメージではない。家業を弟に譲って、絵師の道に専念することを決意した宝暦5年の首夏(陰暦四月)に描かれたことが落款より明確な、若冲の画歴の中で重要な一点である。本図が、京都・正伝寺に伝わる「猛虎図」を手本として描いたことが知られる。描かれた虎は、原画の虎よりも表情が豊かで動きがある。虎の身体部は黄土を主体とし、薄墨や鉛丹を併用してそれらの濃淡と黄土の濃淡とを重ねて微妙な色彩変化をつけ、その上に岱赭(たいしゃ)の紫色のあるこげ茶で、一本一本、体毛を丁寧に施している。背景には素早い筆さばきで張り出た枝などをさっと描き、一つの画面の中で、描写の精粗の対比を試みている。

葡萄図 紙本墨画  伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

プライス氏が若冲に関心を抱くようになった最初の作品であり、重要な意味を持つ。落款の代わりに「景和」を入れる本作は、若冲初期の貴重な作例である。中世にわが国に伝来し、当時、京都の寺院に多く所蔵されていた様々な中国絵画や朝鮮絵画を見る機会を得た若冲は、それらから図様や描写方法について刺激を受け、模倣を重ねる中で自身の絵画技術を高めていったことが知られている。本作もそれらの影響を受けているだろう。「景和」は若冲の字であり、「若冲」の居士号を使用する以前の三十歳代前期頃の製作と推察される。輪郭線を用いず、繊細に墨の濃淡を利用して葉や幹、葡萄の実を見事に描写しており、墨表現の面白さを知りえている。これを見抜いたジョー・プライス氏の見識にも敬意を表したい。

象と鯨図屏風 六曲一双 伊藤若冲作  寛永9年(1767) 滋賀・MIHOMUSEM

左隻

 

左隻

六曲一双の屏風の左右に、海上に胴を出して勢いよく潮を吹く鯨と、うずくまって鼻を高々と上げる象とを向き合わせた六曲一双の水墨屏風である。海の王者と陸の王者が、互いにエールを交換しているようだ。北陸の名家に伝わったもので、2008年に存在が知られ、MIHO MUSEMの所蔵となった。「象と鯨図屏風」象隻の画面向かって左端に「米斗翁八十二歳」の落款がある。若冲が還暦後、元号の改まるごとに年齢を一つ加算したという説に従えば、若冲80才の作となる。若冲が14才の時、一頭の像が京を訪れ、天皇、上皇にお目見えした。この時の京市民の反応は察するに余りある。少年若冲もこの象を見たに違いない。その時の記憶が、この屏風に見られる。象への愛情あふれる表現となったのであろう。

 

京の商家に生まれ、伊勢や播州で精力的な活動をした曽我蕭白は、40才を過ぎて生地である京都に定住した。18世紀京都画壇の鬼才たちの中で、もっとも激烈な表現を指向した。20才台後半から、室町時代の有力な漢画の一派である曽我派の直系にあたると自称して曽我性を名乗った。漢画を学び中国の仙人や聖人といった伝統的な故事を多く描いているが、その表現は独創的で狂気に満ち、ときに見る者の神経を逆なでし、混沌の渦へと陥れる。

雪山童子図  曽我蕭白作  明和元年(1764)頃  三重・継松寺

釈迦の前世での行いを物語る「本生譚」の一こま。若いバラモンン僧雪山童子として修業していた時、悪鬼の姿に身を変えた帝釈天から、修行の熱意を試されたところである。鬼は「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」という涅槃経14聖行品の上2句を唱えて、下2句はお前が俺に自分の身を食わすなら教えよう、という。雪山童子がそれに応じると、鬼は後二句を唱えた。雪山は歓喜してそれを木の幹に書き付け、約束通り樹上から身を投じようとすると、悪鬼の姿は神々しい帝釈天に変わった。青、赤、橙のどぎつい対比と奇怪な誇張が、この図を「群仙図屏風」の類縁に当たる唯一の作品に位置付ける。鬼の口から真理の言葉を聞き、より目を輝かせて両手を広げて鬼にジャンプする瞬間の雪山、下には凶暴の化身ともいうべき悪鬼が口を広げて待っている。卑俗さと聖性とが混ざった特異な宗教画である。

重要文化財 群仙図屏風 六曲一双 曽我蕭白作 紙本着色 明和元年(1764)文化庁

右隻

曽我蕭白は若冲より15年遅れて生まれた。若冲の長い人生に伴走しながら、20年近く先に逝った。50年に満たない人生ながら、残した作品は若冲以上に多い。生活のために多作を強いられたとは言え、弟子は殆どなく、生涯孤独であった。「群仙図屏風」は江戸時代絵画史を通じて類のない、怪奇な作品である。右隻のみであるが、空は嵐模様、波騒ぐ海上のつむじ風に乗って、竜にまたがり手に鉢を持つ仙人は、呂洞賓の龍退治の場面とされる。(異説もある)簫を吹いて鳳凰に聞かせる簾史。なぜかこの人だけが赤い服を着て赤ら顔である。虎を従え、髭と蓬髪を風になびかせるこの人物は、医薬を良くする扁篛(へんじゃく)とする説がある。右隻には4人の仙人がいる。左隻にも4人の仙人がおり(図には無い)、八仙図である。赤、群青、雌黄のどぎついほど強烈な配色が、当時の黄檗宗の頂相に施されたものと同じであり、このような彩色法は当時の屏風画としては稀である。不老不死の仙人たちは、吉祥の画題として還暦や誕生の祝いの席に描かれた。そうした特殊な儒学者グループに関係する人であった可能性がある。ちなみにこの屏風は、京都の京極家から出たといわれている。

 

本欄では伊藤若冲と曽我蕭白を扱ったが、伊藤若冲を知らない人はいないが、蕭白となると知っている人は殆どいないと思う。まして、ここで取り上げた蕭白の作品は異常なものが多い。サイケデリュクな作品は、多分、多くの人には馴染めない作品であろう。まさに「奇想の画家」であるだろう。

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、図録「生誕300年記念 若冲  20  2016年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日経大人のOFF 2019年1月号)