興 福 寺  西 金 堂 (1)

 

興福寺西金堂(さいこんどう)は、天平5年(733)に亡くなった橘三千代の一周忌の天平6年(734)1月11日に、娘の光明皇后によって建立された堂宇である。橘三千代は藤原不比等の妻であり熱心な仏教信者であった。法隆寺には彼女の念事仏とされる逗子入りの銅像阿弥陀三尊像が残っている。西金堂の内部には、釈迦、両脇侍、羅漢十躯(十大弟子)、四天王、八部神王(八部衆)などが安置されていた。これらの群像のうち、現在では八部衆8体と十大弟子のうち6体とが寺に残っている。その後9世紀初め頃までに阿弥陀仏、不空羂索観音、十一面観音像が安置され、天長2年(825)には新たに十一面観音像が加えられた。永承元年(1046)の火災で堂は焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡の兵火で西金堂は再び焼け、この時は堂と仏像の多くが失われたが八部衆、十大弟子像は救出された。堂は元歴元年には完成していたが、仏像の製作は遅れており文治5年(1189)8月に氏の長者である九条兼実が西金堂に入った時は、まだ白木の状態で完成していなかった。西金堂は嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)にも火災にあい、享保の時には西金堂は再建されず、今日に至っている。礎石だけが残り、再建が待たれる。

西金堂の跡地

西金堂は治承元年(1046)の火災で焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され、仏像群は堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちで興福寺は、全山余すところなく消失した。西金堂は、養和2年(1182)に再建され、鎌倉時代の仏像が沢山収められた。西金堂の鎌倉時代再興の本尊として運慶が造ったと考えられる木造の仏頭が、国宝館に安置されている。建仁2年(1202)に釈迦如来の脇侍として薬王、薬上菩薩像が造られている。(現在中金堂に安置)また優れた鎌倉仏が運慶の子息康弁などにより造像されている。しかし、嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)に西金堂は火災にあい、享保の火災後は再建されないまま、西金堂跡地の石碑が立つのみでである。美しい西金堂の仏像群を安置するためにも、是非西金堂を再建して頂きたいと思う。

国宝 阿修羅像(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

八部衆とは、もとは古代インドの異教の神々で、獣神や戦闘神、歌舞音曲の神、嗚悪鬼だったものが、釈迦に教化されて、仏法の守護神となったものである。天竜八部衆とも呼び、8人の神から成り立っている。特に、興福寺の阿修羅像は日本で一番愛される仏像である。2009年の「国宝阿修羅展」の東京会場では100万人以上となり記録を作り、未だにこの記録は破られていない。会場は若い女性客で溢れ、阿修羅像のミニチュアは絶大な売れ行きを示し、未だに語り草となっている。この阿修羅像は、八躯中唯一甲を着けていない。上半身裸形で天衣と丈拍(じょうはく)を着け、胸飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)を着け、下半身には裙(くん)を着け、板金剛を履く。顔は少年の相で、美少年である。私は、西金堂を建立した光明皇后は、長男の首(おびと)皇子を幼くして亡くしているので、その青年として成長した面影を、阿修羅像に託したのでは無いかと想像している。なお、制作にあたったのは正倉院文書によれば百済系帰化人「将軍万福」と伝えられている。(八部衆はすべて)奈良時代の仏像で、作者名が明らかなのは、この八部衆のみである。

国宝  五部浄(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

五部浄は幼い幼い少年というべき年齢であろうか。少し垂れた目、わずかに寄せた眉、後世に描かれたものであるが若干上方寄りの瞳などから、上目遣いの不安げな表情に見える。異形の表現としては、頭部に象を被っている。

国宝 緊那羅立像(八部衆のうち)脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

このふっくらとした頬は少年を思わせる。どのような感情を表そうとしたのか意図を十分くみ取れないが、怒った不満げな表情に見える。異形という点では、額にも目があり、その上方には一角を有する。目尻が少し吊り上がり怖さもある。その怖さはかなり強い怖さである。緊那羅は瞋目ではないが、それに類する形状で、上まぶたの目頭近くに切り込みをつくっている。その目によって憤怒の表情を表すので、瞋目を意識した形状と考えていいだろう。これは怖さよりも異形をねらったものと思われる。

国宝 鳩槃荼立像(八部衆のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

口を大きく開け、頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情を表す。目頭も立てて眼部には黒いガラスをはめ込む。表情は人間というよりは獣に近いが、怒りをぶっけるというほどではなく、むしろ性格描写的な色合いが濃い。いま、鳩槃荼と呼ばれているが、「金光明最勝王経」などに説かれる夜叉に当たると考えられる。

国宝 迦楼羅立像(八部衆のうち) 脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は烏頭の姿で表され、少年の相ではない。頭頂部は欠損するが鶏冠があり、口は嘴で、その脇には鶏のように肉垂を表す。瞋目で人の目の形状ではない。まさに異形の姿であるが、見る者との距離感が八部衆のなかで最も近いように感じられるのは、その目の表現のゆえであろうか。迦楼羅の瞳は、別素材を嵌入されているのか黒く光り、それが写実性を高めている。

国宝 冨楼那立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は明らかに老相を呈する。面部の皺は額にとどまらず、目尻や頬にもある。胸部には肋骨が浮き出ている。一点を見つめる視線はいかにも温和で、何事に対しても穏やかでいられる60歳代であろうか。釈迦は説法第一としている。

国宝 須菩提立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

最も若年で、顔には皺はなく、頬には柔らかな張りがある。卵型の頭部からはふっくらとした印象を受ける。優しい眼差し、下唇が広くふくよかな口は若々しい清純さを演出する。眉の形を明確にしないため、ある一つの強い思いは伝わってこない。その顔は、仏弟子として遊行を志す、希望に満ちた前途洋々たる十代後半の青年に見える。釈迦は解空第一としている。

国宝 目健連立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像の顔には多くの皺があり、口元に衰えがみられる。老境に差し掛かった年齢である。優柔な雰囲気であるが、眼差しはいまだ衰えを知らない。これまでの経験を活かし、さらに自分の道を追及しようと充実した様子がうかがえる。五十歳くらいであろうか。釈迦は神通第一としている。

国宝 羅喉羅立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

額には皺が二本あり、左目尻の上にも皺がある。年長であることを示している。盲目を表している可能性もある。少し垂れ下がった眉からは力は感じられず、目は閉じてゆったりと瞑想しているようにみえる。その顔は、血気盛んであった時期を過ぎ、諸事に対して落ち着いて対処できるようになる、四十歳を過ぎたくらいではないだろうか。釈迦は密行第一としている。

 

西金堂の彫刻群は釈迦如来をはじめとする二十八体の像が群像として安置されていた。釈迦集会(しゅうえ)の彫刻群である。礼拝の対象である須弥壇にこれほど多くの像が置かれた例はなかった。奈良時代には東大寺法華堂諸像など群像制作が流行したが、西金堂はその始まりとして画期的な意味を持つ。それは天平群像の隆盛のさきがけであった。二十八体の仏像は釈迦如来の他、両脇侍、十大弟子(残ったのは6体)羅㗅羅(らごら)、梵天、帝釈天、四天王、八部衆(8体揃っている)像である。創建時の像で現存するのは八部衆八躯とと十大弟子のうちの6躯、それにいま華原馨(かげんけい)と呼ばれる金鼓んみである。恐らく、東大寺法華堂と並ぶ天平時代の華と呼ぶべき西金堂である。是非、再建され群像が一堂に並べられる様子を拝観したい

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009年)、図録「興福寺の仏頭展  2009年)、日径新聞「私の履歴書 多川俊英氏 28回」を参照した)

興 福 寺  東 金 堂(2)

興福寺東金堂の薬師如来像の頭部は二つある。それは白鳳時代(7世紀後半)の薬師如来像(坐像?)は天武14年(685)、讒言により自裁した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の冥福を祈って開眼供養された仏像である。本来、飛鳥の山田寺講堂の本尊として造像されたが、文治3年(1187)、興福寺東金堂衆が強引に奪取して東金堂の本尊に据えたものである。このことは、治承4年(1180)の平重衡南都焼き討ち後の、興福寺鎌倉復興造営のさ中に起こった未曽有の大事件であったが、(藤原氏)氏長者の事後承諾もあって、東金堂本尊として長らく礼拝されることになった。その後、文和5年(1356)の五重塔への落雷による東金堂類焼にさいしても、無事搬出されて事無きをえたが、応永18年(1411)の落雷で、この白鳳薬師仏はついに頭部を残すのみとなった。そして応永22年(1415)に現存の薬師如来本尊が造健され、旧本尊の白鳳仏頭は、新本尊台座の正面に向けて安置された。(墨書)その収納状況から、その当時、白鳳仏頭は依然として礼拝対象として認識されていたと思われるが、台座内安置の伝承もいつしか忘却された。

国宝 丈六銅像仏頭(正面)           白鳳時代(7世紀後半)

この銅像仏頭は、白鳳時代を代表する薬師仏の頭部である。元山田寺の本尊である。大化の改新で中野大兄皇子(後の天武天皇)と組んだ、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)は、乱後右大臣に昇進した。この石川麻呂の一族は、飛鳥の山田の地を地盤としていた。この地は、桜井から安倍を通って飛鳥に入るところにあり、飛鳥への東の入口を押さえる、交通上・戦略上の要地である。蘇我氏本家の氏寺である飛鳥寺(元興寺)に対して、山田寺は石川麻呂という傍系蘇我氏の氏寺であった。山田寺は皇極2年(643)に金堂が建ち、大化改新を経て、大化4年(648)に初めて僧が住むような寺となった。この矢先の大化5年(643)3月に、石川麻呂は中大兄皇子に対する謀反の疑いをかけられ完成間もない金堂で自害した。難波京にいた石川麻呂は、死に場所として自らが建立した山田寺を選択し、妻と子息3人、娘1人を含む8人とも死をともにした。山田寺の丈六の薬師像は、この非業の死を遂げた石川麻呂を弔うために制作された。天武2年(673)山田寺の塔の心礎に舎利を収めて心柱が立てられた。それから3年後のb天武5年(676)に塔の屋根に露盤を上げて、塔は完成した。丈六の薬師如来像は、天武14年(683)3月25日に仏像の眼に瞳を入れる開眼供養が行われた。この日は、石川麻呂が金堂で自害してから37回忌の祥月命日に当たる。この工事を進めたのは、石川麻呂の孫娘に当たる鵜野讃良孝女(うのささらのひめみこ)、つまり後の持統天皇であった。仏頭は丈六像で制作時期が判明する白鳳時代の貴重な作例であり、極めて優れた白鳳彫刻の白眉ともいうべきすがすがしい青年の顔であり、正に白鳳の貴公子である。

国宝 興福寺仏頭(左側正面)  銅像   白鳳時代(7世紀後半)

仏頭を見ると、耳が欠損している。また左耳上の頭髪部に縦に入った鋭角的な深い窪みがある。この損傷は堂が焼けて頭部が落下した時に当たった打撃の痕である。落下した時の衝撃で、頭頂部が飛ばされ、左耳の下辺部も折損し、白豪も失われている。りりしいお顔であるが、痛ましく傷ついている。治承4年(1180)平家の攻撃によって、興福寺は一堂も残さずに焼け落ちた。東金堂は、文治元年(1185)には既に建物は出来上がっていたが、堂内に安置されるべき仏像は同3年になってもまだ造られず、3月上旬に東金堂を活動拠点とする東金堂衆が、飛鳥の山田寺の丈六薬師如来三尊像を奪いだして奈良に運び、東金堂の本尊として安置した。かねがね、この蛮行は何故行われたのかと不思議に思っていたが、2013年の図録の中で安田次郎氏(御茶ノ水大学教授)が「東金堂衆と山田寺薬師三尊像」と題する論文を寄せている。推定が多いが、今まで読んだ論の中では一番問題点を抉り出しているので、要点のみを記したい。ときの摂政九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉」では、次のように記している。「別当僧正示されて曰く(いわく)、東金堂衆、宗徒・僧綱等に触れず、また長吏に申さず、自由に山田寺の金堂丈六薬師三尊像を奪い取り、件(くだん)の東金堂に安んじ奉らんと欲すと云々、」これによれば、事件は興福寺当局(宗徒、僧綱=別当)に無断で起こしたものであった。この記述に対し、安田氏は東金堂衆とは何か、何故山田寺なのか、という2点からこの事件を追及している。長い論文なので、結論のみ言えば、東金堂衆とは大和国の武士たちを率いることが出来るような存在、即ち彼ら自身が武士層の出身なのだろうと推測している。金堂衆とは、金堂というよりは、むしろ興福寺の軍隊、部隊として動いた武士層であると考えている。次に何故山田寺を狙ったのかであるが、安田氏は文治2年(1186)に仁和寺は興福寺の末寺である嵯峨野大覚寺を横領したとしている。それに対抗して翌年、興福寺は仁和寺の末寺である山田寺を襲撃したのである。安田氏は次のようにまとめている。「中世の社会には、荒っぽい一面がある。やられたらやり返せ、これが普通のことである。やり返すことが認められていた。むしろ場合によっては、やり返さなければ名誉が保たれないと意識されることもあった。このような場合、報復はむしろ義務であり、名誉を維持するための立派な行動ということになる」。強奪事件から2年半経った文治5年(1189)8月、兼実は興福寺南円堂の観音の参拝かたがた再建工事進捗状況を視察するために奈良に下向した。東金堂で、問題の金銅仏に礼拝し、「事件直後に返却を命じたが、こうして拝見すると東金堂にまさにふさわしい。機縁によってこのような結果となったのだ」とそ日の日記「玉葉」に記している。ときの朝廷のトップが東金堂衆の行為を追認するに至ったのである。東金堂は応永18年(1411)に、落雷で発生した五重塔の火が東金堂に及んだ時には、如来像は頭部を残して他はすべて焼失したのである。その後、応永22年(1415)以来、500年以上にわたって本尊の台座に収められていた。昭和12年(1937)の東金堂解体修理の時に発見されて、大きな話題となった。

国宝 板彫十二神将(迷企羅大将像) 檜材   平安時代(11世紀)

東金堂の本尊・薬師如来を護るのが十二神将であり、元はバラモン教系の神々であったが、仏法に帰依して、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来の護法神・眷属となった。この板彫十二神将が作られたのは、当初の東金堂が消失した後に、新たな堂宇が長元4年(1031)に供養された頃に制作されたものと推測される。厚さ3cm程の檜材の板からさまざまな表情が刻みだされた、わが国の浮彫刻(レリーフ)の傑作である。これらの諸像は、搬送が容易なためか、一時は南円堂など他所に移されながらも一体も失われることなく今日に伝わっている。本来、この板彫十二神将、薬師如来像(白鳳の貴公子)が座る台座の四方を荘厳していた可能性が高いものである。通常は興福寺国宝館の入口に、一列に並んだ十二体が拝観できる。

国宝 板彫十二神将(宮毘羅神将像)  檜材   平安時代(11世紀)

刀を採り威嚇する姿が特徴である。十二神将像は、全体として目鼻・口腔の起伏や手足の重なりがわずかな厚みの中に奥行きをもって巧みに表現されており、製作者たちの技量の高さがうかがうことが出来る。

 

国宝 銅像仏頭は、白鳳時代を代表する傑作であり、その歴史は、興福寺の中世の東金堂衆の荒々しさを今に伝えるものである。また板彫十二神将立像は平安時代の神将像の傑作であり、国宝に指定されている。鎌倉時代の興福寺復興期における十二神将立像と合わせ、そろって現代まで伝えられたことは奇跡に近い出来事だと思う。東金堂の仏像類は、素晴らしい出来栄えの仏像類と思う。

 

(本稿は、図録「国宝興福寺仏頭展  2013年」、直木幸次郎「古代国家の成立」を三sぃ陽)

興 福 寺   東 金 堂(1) 

興福寺には、中金堂、東金堂、西金堂の3金堂がある。これは奈良時でも珍しい寺院構成である。東金堂は、東にあるので東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立した。創建時は、須弥壇の敷瓦として水波紋の瑠璃瓦が敷き詰められていたという。6度も被災して、現在の建物は応永22年(1415)の再建であるが、寄棟造りの屋根や太い柱、前1間を吹き放ちとした深い軒などが創建当初の姿を伝えている。

国宝  東金堂  寄棟造 本瓦葺  室町時代(1415)

中金堂が再建されるまでは、興福寺唯一の金堂であり、仏像を拝観出来るのは、東金堂のみであった。後に国宝館が建設され、多くの仏像類が拝観出来るようになった、古い建物で、仏像群が拝観できるのは東金堂のみであった。この東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興された建物である。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿には奈良時代の往時が偲ばれる。興福寺は火災と復興を繰り返したが、建造物も仏像も天平草創期を古典として尊重している。

重分 薬師如来坐像  室町時代(応永22年ー1415)  銅像

東金堂の本尊像である。応永22年(1415)、東金堂の再建と同時に造られた仏像である左手の薬壷(やっこ)は、一般的に薬師仏に必需の持物(じもつ)である。薬師如来は、病気を治し、福利増進をつかさどるとされる。堂々とした像の光背は薬師如来の瑠璃光世界をあらわし、宝塔に安置された如来、七仏薬師や供養菩薩、飛天などが配されている。両脇侍(わきじ)は、日光・月光菩薩である。

国宝  文殊菩薩坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1196) 定慶一門作

国宝 維摩居士坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1415)定慶作

 

文殊菩薩は維摩居士(ゆいまこじ)と同時期の作で、定慶かその周辺の仏師の作と考えられる。弁舌にたけた知恵第一の文殊が討論する場面を表す。病にかかった高齢な維摩とは対照的に丸々とした張のある顔と体で、若々しく健康的である。台座と光背も円形が基本となり、台座、隆平が方形である維摩同様に宋時代に流行したモチーフを多く取り入れている。維摩居士は釈迦在世中のころの富豪の在家仏教徒で、大乗仏教の模範とされる人物である。「唯摩詰所説教」に、病気の維摩居士を見舞った文殊菩薩との間で法論をたたかわす場面がみえ、東金堂でも文殊菩薩像と対比して安置する。若くはつらつとした文殊菩薩と問答する病弱な老人の維摩居士を生きた人間として写実的に造形している。仏師定慶(じょうけい)の作で、像内に「建久7年(1196)」の造立銘がある。

国宝 四天王立像  4躯  平安時代(9世紀)

増長天立像      多聞天立像

 

東金堂の四天王立像は国宝に指定されている名作で、平安時代初期の8世紀~9世紀初期頃の作品である。治承4年(1180)の平重盛の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の堂から移された。4体すべて残るが、それ以前の伝来についてはよくわからない。少し寸の詰まった短躯の像で、そのため横幅が広く、奥行きもあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、一木のヒノキの造り、像内の内繰り(うちぐり)を作らない全くの一木造である。一木造の隆盛したこの頃の時期を代表する四天王像の秀作である。

国宝  十二神将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

十二神将は薬師如来の守護神で奈良時代からの作例がある。最も古いものは新薬師寺の像である。奈良時代の像の頭には何も付けないが、平安時代後期の東大寺像では一体一体の頭部に子(ね)、丑(うし)、寅(とら)の十二支の動物が標識として付けられている。以後鎌倉時代の作例からは十二神将と十二支獣の関係は不可分となる。各十二神将の名称と像の仕草や形の関連性などの規定はなく、さまざまな姿企が見られるのも十二神将の特色である。

国宝 十二神将(迷羅大将立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝 十二神将(安底羅立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝  珊底羅大将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

 

東金堂は、従来唯一の仏像と共に金堂が拝観できる施設であり、興福寺と言えば、東金堂を思い浮かべる程である。狭い堂内に所狭しと並べられる仏像類は「息苦しい程の」濃密勘が漂う世界であった。南円堂、北円堂など古い建物と仏像類はあるが、公開日程が少なく、常時拝観できる金堂として東金堂は、興福寺の顔であった。

 

(本稿は、図録「国宝 興福寺仏頭展  2013年」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「もっと知りたい興福寺の仏たち」を参照した)

興福寺  再建された中金堂

奈良興福寺と言えば、奈良を代表する寺院であり、国宝、重要文化財を日本一保有している寺院として知らない人はいない。ところが、古都奈良の散策に欠かせない本として有名な和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道夫「古都遍歴」の3誌とも「興福寺」と名付けた章は設けていない。これは、あれ程読み込んだ私にとっても驚くべき発見であった。勿論、文中には「興福寺」に触れ、特に興福寺の仏像には適宜触れていることは当然であるが、項目(章)として興福寺を立てていないのである。何故、誰でも知っている興福寺を「章立て」しないで、古寺巡礼や古寺風物詩が書けたのであろうか。私の昭和20年代の記憶では、興福寺は奈良公園んの一部であり、少なくとも建物として古いものは、東金堂、五重塔、三重塔などはあるが、肝心の金堂が仮本堂でみすぼらしいお寺であった。仏像は沢山あるが、肝心の要となる金堂が無い寺として写った。幸い、日経新聞「私の履歴書」に、現貫主の多川俊英氏が2018年11月1日より29にまで28回に亘り、履歴書とともに興福寺の歴史に触れてみえ、私の知らないことが沢山記事になっていた。この履歴書を参考にしながら、興福寺の各お堂や、仏像を連載してみたい。まず「信仰の起点」と題する第20回の履歴書に、「興福寺は天平回帰、つまり最新の技術と様式で造り直すのではなく、創建当初の姿に近づこう、戻ろうとしてきた」と述べられている。その中に奈良橿原考古学研究所の泉森氏が「興福寺には信仰の動線がない」と指摘され、「あっ、痛ッ」と感じたと述べておられる。正しくその通りである。私の「美」の最初の一文が「興福寺 廃仏稀釈の嵐」と題して、五重塔、東金堂の建物を取り上げ、子規の俳句として、次の歌を引用している。「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 子規              さて、中金堂は藤原不比等によって平城遷都の年(710)に、藤原氏の氏寺として丘陵の先端地を整地して伽藍が計画され、最初に建立に取り掛かった金堂である。その完成は不比等の死(養老4年ー720)までには完成していたと思われる。その後7回に及ぶ火災を被り、特に7回目の火災は享保2年(1717)に発生し、その後の再建は仮堂にとどまった。私がみた興福寺中金堂は、その江戸時代の仮金堂であり、到底興福寺の中心となる金堂とは思えなかった。中金堂の再建は、興福寺再建の柱事業として、平成の初め頃から計画され、周到な準備のもと20年以上の歳月をかけて、本年(2018)10月7日から11日まで落慶法要が行われた。実に江戸時代の火災以来300年振りの本格的中金堂の再建であった。

再建された中金堂 平成29年(2018年)

天平時代の中金堂をそのままの大きさで再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川貫主は、次のような挨拶をされている。「本日、中金堂の再建落慶法要を迎え、自ずからの思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の動線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な事情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれがようやく実現でき、感慨無量という他ありません。」    このご挨拶を記せば、中金堂の興福寺再建の内容をゴタゴタ記す必要は無いだろうと思う。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者・文学者が生存されたならば、必ず「興福寺」を一章として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更するほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要であろう。

中金堂の三尊と法相柱

この写真は、新築なった中金堂の三尊と法相柱の一部を映した写真である。中央の釈迦薬師如来坐像は江戸時代(文化8年ー1811)に、仏師赤尾右京が造った仏像であることが、像内墨書銘により明らかになった。この仏像は、江戸時代に再建された仮金堂の本尊として造立された仏像である。左右の薬王、薬上菩薩立像については後に触れる。なお、左端に法相柱が建立されている。これは法相宗の祖師が描かれた柱であり、法相柱と呼んでいる。これが創建当初から存在したかは不明であるが、興福寺の最初の大火(永承元年ー1044)後の再建記録である「造興福寺記」には、、法相宗の再興について記録されている。興福寺は奈良時代以降「法相専寺」を標榜してきたこと、法相柱はその一つの象徴として、比較的初期の頃から存在していたことが推測される。法相柱については、無著・世親から鎌倉時代を下限に法相の教えを確立・発展させてきた14人の祖師を、畑中光享画伯が華やかな天平時代に相応しい群青を背景に描いたものである。柱絵が「千年残る」ことを目指し厳選した絵具・紙を用い、柱に麻布を巻き、漆で固め下張りの紙や三重に張り付けた上から祖師画を重ね合わせたものである。

重分 薬王(右)・薬上(左)菩薩立像 鎌倉時代(建仁2年ー1202) 木造

 

仮金堂の釈迦如来坐像の両脇に置かれていたが、像内銘文により建仁2年(1202)に造られ、西金堂に安置されていた薬王(やくおう)、薬上(やくじょう)菩薩像であることが知られる。これは鎌倉時代の復興像である。これらの菩薩の登場する「法華経」の薬王菩薩本事品(ほんじぼん)に、女人の極楽往生が説かれており、光明皇后の祈りに相応しい像と言える。

重分 四天王立像 康慶作  鎌倉時代(文治5年) 木造

持国天立像            増長天立像

 

南円堂に安置されていた鎌倉時代(文治5年ー1189)の後慶作の四天王立像を、中金堂に祀ってあった。いずれも康慶作で、鎌倉時代の四天王像である。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、例えば治承2年(1178)の東大寺持国天像に似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。なお、彩色も製作当初のものがよく残ることも貴重である。

 

中金堂は、左右約36.3メートル、奥行きは約23メートル、基壇からの高さは約19.6メートルである。1998年の境内整備着手にはじまり、2010年の立柱式を経て、20年がかりで再建したのである。興福寺整備委員会の鈴木嘉吉座長は中金堂再建の意義を次のように説明する。「興福寺はいわば300年間、へそを欠いた状態だった。興福寺の堂塔のなかでも中金堂は最大の中核施設。繰り返し創建時代の規模・形式で復元されてきた。ところが1717年に焼失してからはそれがかなわなかった」「ながらく信仰の動線のない状態が続いたが、今回はまさに七転び八起きでのぞむ再建」と多川俊英貫主は語る。

 

(本稿は、多川俊英「私の履歴書 全28回日経新聞、日経新聞2018年10月記事、図録「平成再建 興福寺中金堂落慶  2018年」、古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

フェルメール展(2)

フェルメールは1632年、オランダの商都デルフトで宿屋を営む夫婦のもとに生まれた。宿屋「メーヘレン亭」は居酒屋も併設しており、父が画商としても活動していたから、街の画家たちが多く出入りしていたようである。フェルメールは10代でデルフトを離れ画業修行をしたとされるが、どこで誰を師匠としたかは不明のままである。1652年、フェルメールの父は亡くなった。この知らせを受けたフェルメールはデルフトn戻り、宿屋と画商業を継ぐことになった。この時フェルメールは20歳であった。以後殆どデルフトを離れることなく、この地で画家としてのキャリアを積んだ。その翌年の1653年、20歳のフェルメールは裕福なカトリックの娘カタリーナ・ボルネスと結婚した。カタリーナの両親は、一介の画家であり、プロテスタントの教徒であるフェルメールとの結婚に反対したが、彼がカトリックに改宗することで同意を得た。同年の年末にはデルフトの聖ルカ組合(画家の同業者組合)に登録した。これにより一人前の親方画家として工房を構え、作品に署名し販売したり、弟子を取ったりすることが出来るようになった。フェルメールは、はじめ神話やキリスト教の主題を描いた歴史画に力を入れたが、市民階級の需要の高まりから、市井の人物を描く風俗画を描くようになった。オランダの市民階層は、一家に一枚の絵画を飾るだけの余裕が出来たのである。「今日の日本で、一人前の画家の絵画を飾っている家庭がどれほそあるだろうか?)代表作の一つである「牛乳を注ぐ女」は20歳代後半に描かれた作品ながら、フェルメール作品の特徴である、光に満ちた室内の情景や、鮮やかな青と黄色の対比を、すでに見ることができる。順調に画家としての評価を挙げたフェルメールは、29歳の時に史上最年少で聖ルカ組合の理事に選任された。この頃には、風俗画家の画風を確立し、後世に残る名作を、次々に生み出した。1667年には「デルフト市誌」に「ファブリティスを継ぐ画家」として紹介され、デルフト随一の画家として評価された。その一方で生活は苦しく、義母の支援や友人からの借金に頼ることを余儀なくされていた。その理由として多くの子供を養うことや、フェルメールが多用した非常に高い顔料、ウルトラマリンブルーへのこだわりも、家計を圧迫していたと伝えられる。デルフト一の画家となったフェルメールは、40歳の頃には、絵画の鑑定家としても活動した。しかし、この頃からオランダ経済の衰退が始まった。第三次英蘭戦争が勃発し、フランスにも宣戦布告されたオランダは、大不況に陥り、絵の注文も激減した。そして1675年、フェルメールは43歳でこの世を去った。未亡人となったカタリーナは翌年4月、裁判所に破産を申請し、夫が残したわずかな作品も、パン代のかたに渡してしまう程に困窮した状態であった。

マルタとマリアの家のキリスト 1654~55年頃 ヨハネス・フェルメール作油彩・カンヴァス スコットランド・ナシォナル・ギャラリー

この絵はイエス・キリストが二人の姉妹の家に招待された際のワンシーンを描いた宗教画である。食事の支度をする活動的なマルタと、キリストの足元に座り込んで話し込む瞑想的なマリアを描く。教会での祈りを重んじるカトリックと、聖書のの教えを重んじるプロテスタントの教えを象徴しているという説もある。この絵を描く2年ほど前、21歳のフェルメールは、一つ年上のカタリーナと結婚するため、プロテスタントからカトリックに改宗している。信仰の違いからカタリーナの母親マーリアが、結婚に強く反対していたことからである。どちらかを選ばせるキリスト教的教訓が問われるこのテーマをフェルメールが描いているのは、自身の「選択」の影響ではないととも言われている。

執り持ち女 ヨハネス・フェルメール作 1656年 油彩・カンヴァス ドレスデン国立古典絵画館

フェルメールの作品のうち制作年が記されているのは3点のみである。1656年の年紀のある本作は、他の作品の制作時期を推定する際の基準となっている。描かれているのは売春宿の情景である。黄色い服を着た女性が、赤い服の男性からコインを受け取ろうとしている。女性の左胸に向かって背後から伸びる男性の左手が描かれている。その隣では、男性に娼婦を斡旋した「取り持ち女」が不気味な笑みを浮かべ、左端ではフェルメールの自画像とも言われる男性が、こちらに視線を投げかけている。一方で、この絵の設定は、新約聖書にある「放蕩息子」の一場面を連想させるという意見もある。宗教画や歴史画などを手掛けていた若きフェルメールが、風俗画家への転向を模索していた頃の作品である。

牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気の高い作品で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだが、フェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビラスズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされ室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対称の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机と右側の床にある木製足温器は古典的な三角構図を形成している。フェルメールは、透視図法の焼失線を女性の右手の真上にある消失点に向かって集中させることによって、絵を見る人の視線をさりげなく絵の中心要素に導いている。カンヴァスのその箇所にある小さな穴は、フェルメールが17世紀のアトリエでよく行われていた方法を用いたことを物語っている。画家は消失点となる場所にピンを刺し、透視図法の消失線をさだめるためにそこから絵の末端まで糸を張ったのである。

ワイングラス ヨハネス・フェルメール作 1661~62年頃 油彩・カンヴァス ベルリン国立美術館

「ワイングラス」は、フェルメールの制作活動の中期に属する絵画である。この時期、彼は「遠近法によって絵の中につくりだされる」空間を拡張する方向に向かっていた。人物や品々ははっきりと私たち鑑賞者から遠ざけて配置されている。この作品で初めて、フェルメールの対象をクローズアップして描くことを放棄した。人の座っていない椅子をテーブルの手間に置くことで「二人の人物による」出来事から私たち鑑賞者を隔てて、私たちを後ろに下がらせたのである。この革新的な方法は、フェルメールより3歳年長であったデルフトの同僚画家、ピーテル・デ・ホーホの初期の傑作からの影響を示唆している。画面左から、とりわけ2枚ある窓ガラスのうちの手前の1枚から差し込む冷たい光の反射の中で、若い婦人がテーブルの前に座ってワインを飲んでいるのが見える。この女性は、グラスを完全に傾けていて、ワインの最後の一滴を飲もうとしているようだ。落ち着きのある洗練されたしぐさでグラスの脚を手にする女性の動作は礼、この儀作法にかなうもので、また上流階級の人々によりふさわしいものである。この女性の隣には、ワインのポットを手にした優雅な身なりの紳士が立ち、ワインをつぎ足そうと待っているが、自らは飲んでいない。この若い婦人を見るとその自信に満ちた、まさに高慢といってよい表情は、この怪しげな人物の艶っぽい関係がこれから始まろうとしていることを示している。無垢な若い女性への誘惑、すなわち経験豊かな男性に言い寄られるという主題を取り上げた。その際、彼はオランダ風俗画家たちの間で流行していたこの主題に変化をつけている。同僚画家のヘラルド・テル・ボルフがフェルメールに着想を与えたのであろう。彼は、酒を飲む若い女性を紳士が誘惑するという場面をモチーフに何点もの作品を描いている。しかしながら、フェルメールの場合、この出来事に猥雑さも皮相的な官能性も加えない。彼は二人の関係の本当のところをはっきりと伝えるようなものは何も描いていないのだ。画面左側の窓には、片手でねじられた帯状のものを持つ女性像が描かれた色鮮やかな紋章が描かれている。この帯状のもののなかでは手綱が重要である。というのも、手綱は「節制」を意味する小道具だからである。ここに描かれた二人の関係とは、この二人が自制することに失敗するだろうという予測をも示唆していると考えたよいだろう。この絵は、まさに「節度を知る」ことへの警告である。

リュートを調弦する女 ヨハネス・フェルメール作 1662~63年頃 油彩・カンヴァス  メトロポリタン美術館

若い女性が窓辺に座り、リュートを調弦している。リュートの糸巻きに耳を傾け、楽器をかき鳴らしながら、窓越しにじっと外の通りを眺めている。鉛の窓枠のついた窓ガラス越しに差し込む光は、この女性の耳と首元を飾る真珠をきらめかせているだけでなく、彼女の隣にある椅子の磨き上げられた真鍮の飾り鋲をも輝かせている。彼女の前のテーブルには、楽譜が散らばっている。部屋の背後には飾り気のない白い壁で、そこには手彩色されたヨーロッパの地図が掛かっている。この絵は、建築的な空間の確固とした描写を一歩、椅子とテーブルの遠近法に基づく後退が、鑑賞者の眼を、画面を横断する力強い対角線上の動きに導いている。私たちの眼にはこの女性演奏者に向けられるが、彼女は、椅子と地図の間のまばゆいばかりの支点となっているのである。この作品においても図面左の窓からの光が柔らかく中景を満たすという形式になっているが、前景はそれに比べると暗くなっている。17世紀の画家達には自由に使える人工的な照明があまりなかったので、アトリエに差し込む光を調整するには窓を開けるか、雨戸を閉めるかしかなかった。この女性が見に着けた黄色い服は、フェルメール歿後、財産目録に載ったもののようであり、しばしば描かれた女性が着ている。

真珠の首飾り ヨハネス・フェルメール作 1662~65年頃 油彩・カンヴァス  ベルリン国立美術館

6作品に登場する黄色いマントを羽織った女性が、鏡を見ながら今しも真珠の首飾りをかけようとする様子である。黄色いカーテンがかかった右側の窓から、オランダ特有のやわらかい光が射し込んでいる。左側からの光、真珠に反射する光、黄色いマントの単身女性、人物の存在を際立たせる無地の壁。「光の魔術師」と称されたフェルメールならではの特徴が十分に詰まった中期の名作である。フェルメールは「青の画家」と称されるが、「「黄色の画家」であることがよく判る。

手紙を書く女 ヨハネス・フェルメール作 1665年頃 油彩・カンヴァス  ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フェルメールは、オランダのどのような画家達にまして、不動の静謐さと一瞬のうつろいとの間で繊細な均衡を保つことができた。彼は、この作品において、手紙を書くのを中断された女性が、穏やかで思慮深い作法で私たち鑑賞者の方に頭を上げているところを描いている。女性の姿と、この作品には永遠性がゆきわたっている。たとえば、フェルメールは青いテーブルクロスに斜めの折り返しをつくっているが、この折り返しは机に置かれた女性の左腕と平行になっている。また、人物像と静物の関係に対する同様の関心からフェルメールはテーブルの上に黄色いリボンを描いたが、このリボンは女性の伸ばした右手の輪郭線と呼応している。この絵の年紀は記されていないが、この様式から、1660年代半ばから後半にかけて制作されたほかのフェルメールの作品と関連づけられている。さらに、頭の後ろの髪を束ねて編み込み、星形に結んだリボンをつけたこの女性の髪形は、1660年代半ばに流行していた。女性の着る優雅な黄色い上着は、おそらくフェルメールの没後に作成された財産目録に記載されたものであろう。この時期のほかの3点の作品にもこの上着が描かれているが、そのうちの2点「リュートを調弦する女」と「真珠の首飾りの女」が本展に出品されている。

赤い帽子の娘 ヨハネス・フェルメール作 1665~66年頃 油彩・板  ワシントンナショナル・ギャラリー

フェルメールは、1660年代半ばないし後半に本作品を制作した。カンヴァスでは無く、板に描かれた、この注目すべき小品からも見て取れるように、フェルメールはm作品の雰囲気を作り出す際の色彩の役割にきわめて鋭敏であった。この作品では、若い女性が炎のように赤い帽子をかぶっているが、この帽子の外側の緑は、光が帽子の羽毛のなかにまで差し込んでいるので、まるで蛍光色であるかのように見える。この女性は溌剌として、生気に満ちている。目に青緑色のハイライトがあり、半分開いた口にピンクのハイライトがあるので、その表情は生き生きとしていて、まさに今、私達鑑賞者のほうに目を向けたのだという印象を強めている。青い上着の上に黄色いアクセントを置くという異色の大胆な組み合わせが、作品に視覚的な力強さを加えている。フェルメールが描いたほかの多くの人物画とは違って、この女性は、思惟的で抽象的な世界にはいない。彼女は、柄物のタペストリーを背景にして、私たちをじっと見つめ、関心を惹きつけ、私たちと直接やりとりしている。23.2×18.1cmと一番小さな絵である。

手紙を書く婦人と召使い ヨハネス・フェルメール作 油彩・カンヴァス 1670~71年頃 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

フェルメール後期作品の最高傑作として広く評価されている。この絵は、堂々たる品格をそなえた名品である。フェルメールの早すぎる死の数年前に描かれたこの作品には、緑のボデイス(胴着)とパフスリーブの白いブラウスを着た女性が敷物が掛けられた机の上で一心に手紙を書いているところが描かれている。手紙の文面はわからないが、女性の後ろに腕組みをしたメイドが立っている。このメイドは左側を向き、装飾が施されたステンドグラスの窓の外を見やっているが、何をみているのか定かではない。フェルメールはこの二人の女性を意図的に対比している。つまり、俯きながら坐っている婦人は内向的に見えるが、一方のまっすぐ立つメイドは外の世界につながっている。社会的身分や手前に位置していることからすれば、婦人が主役だが、メイドは女主人に従う身であり奥の部分に配置されているにもかかわらず、まさに構図の中心に全身像で描かれている。フェルメールは、既成の社会的ヒエラルキーを軽く扱うことによって、メイドがこの絵の場面の本質的要素であることをみなすように私達に望んだのだろう。本題材は、デルフトの画家が特に好んだもののひとつだった。フェルメールの早い時期の3点の作品には、女性が独りで手紙を読む、あるいは書くところが描かれている。そして残りの3点には、手紙を渡すメイド、今まさに渡そうとするところ、また本作品がそうであるように、女主人から手紙を送るように命じられるのを待つメイドが描かれている。フェルメールが手紙という題材を好んだのは決して例外的なことではなかった。彼が生きた時代のオランダ風俗画では男女の手紙のやり取りは最も頻繁に見られる画題の一つだった。

 

フェルメール展と名乗った展覧会は、日本では6回目であるが、その前後にオランダ絵画展とか、「レンプラントとオランダ絵画巨匠展」など19回、日本で開催されている。その中で、今回は10点が日本で見られる。(内1点は大阪会場のみ)従って、東京展では9点が見られる。これは過去最高の点数であり、初来日は3点もある。今回の「フェルメール展」では、日時指定制という初めての方法で入場切符を発売した。それは、絵画展を視るために、数時間も待つケースが多く、たとえば昨年の若冲展では、数時間並んだ人もいた筈である。今回は、入場予定日を前もって決め、かつ時間帯も決めて、指定された電話番号に電話すると、ナンバーを教えられ、セブンーイレブンの店舗を指定すると、その番号を指定した店で伝えれば、入場券が買えるという仕組みである。多分、日本では初めての採用では無いだろうか?入場料は2500円と非常に高い。いまだかって経験したことの無い高い値段であった。実際、私は初日の時間帯、10月5日の午前9時半~10時半を指定し、10時頃に行ったが、すでにかなり人は入っていた。しかし、当日券も販売しており、必ずしも事前購入が絶対条件では無いようであったが、万一満員になれば、当日券は販売しないだろうから、やはり事前予約しておくべくだろう。17世紀はオランダ全盛期であり、フランスより、イギリスより豊かな国であった。このキラキラした国では1637年にチューリップ・バブルがはじけ、ロンドンの「南海泡沫事件」より80年余り古い話である。こんp展覧会の入場券はかって経験したことの無い高いものであったが、結論として十分満足出来る内容であった。今後、少なくとも10年間は、これほどのフェルメール絵画が日本に来る機会は無いだろうから、是非拝観をお勧めする。十分満足出来る筈である。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「フェルメール展 公式ガイドブック 2018年」、クロワッサン 2018年10月25日号、日経大人のOFF「2018年1月号」を参照した)

フェルメール展(1)

ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダ共和国の黄金時代を代表する画家である。作品数は45店程度(異論はある)と寡作であるが、17世紀オランダを代表する画家であることは、間違いない。しかし、現存する作品は35点程度(異論あり)であり、長い無名の時代に行方不明となり、フェルメールの名誉が回復されてから、作品が発見された画家である。オランダとは、ほぼ現在のオランダとベルギーに当たる地域で、17世紀までは「ネーデルランド」(低地地方)と呼ばれた地で、海面より低い土地が多いため穀物の自給は、当時は困難であり、輸入に頼らざるを得なかった。その為この地域では、商人が活躍をして、仲立ち貿易により生きて行かなければならない事情があった。このネーザーランドの繁栄は、17世紀のイギリスを遙かに超えるものである。当時のオランダはヨーロッパ隋一の繁栄を誇る国であった。イギリスの作家ダニエル・デフォーは、イギリスの貿易は「輸出貿易」であり、オランダは「中継貿易」に過ぎないと酷評している。オランダのこの時代の歴史は、戦争の100年であった。歴史を振り返ると、まず1568年から1648年まで、スペインからの独立戦争を興し、オランダが決定的に勝利し、ヨーロッパで初めて市民階級が成立した。チューリップ・バブルの頂点の時代(1632年)にフェルメールは生まれているが、間もなく1637年にはチュリップ・バブルははじけている。17世紀世界を制覇したオランダの豊かさを土台に、文化が成熟していった肥やしのようなものを、この時代の絵から感じるが、一方でオランダの凋落の兆しも感ずる。事実第一時英蘭戦争が1662年に発生し、1654年に終結している。その後英蘭戦争は、第三次まで続き(1674年)、決極オランダは海上覇権をイギリスに奪われてしまった。フェルメールの生きた時代は、オランダが近代市民社会を生み出し、生き生きとした社会を生み出し、その絶頂期に生まれた作品群である。ヨーロッパ絵画には、19世紀頃までは、厳格なヒエラルキーがあった。それは歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の序列で、16世紀には、この序列は厳格に存在したが、今回の「フェルメール展」では、概して風俗画が多い。第1回は、フェルメール以外の著名作家の作品を取り上げる。

ルカス・デ・クレルク(1593~1652年)の肖像            フィンテェ・ファン・ステーンキステ(1603~1640)の肖像画     フランス・ハルス筆1635年頃 油彩・カンヴァスアムステルサアム国立美術館

 

この2作品は対をなす作品である。等身大の男の肖像は、画家の卓越した描写方法が素晴らしい。17世紀おいては、結婚した夫婦が自分たちの肖像の対作品を所有するのは普通のことだった。ここに描かれているのはハーレムの商人とその妻である。二人は1626年に結婚した。どちらも白いひだ襟のついた黒い服を着ている。極めて質疎な服装である。その理由は彼らの宗教的信条にあった。この二人は厳格な服装規定に従うプロテスタントの一派メノ一派の信者だったのである。妻のステーテンキステは、両手を腹の前で組み、妊婦のような姿勢を取っている。右手の関節や指のハイライトは立体感をありありと表現している。

ハールレムの聖ルカ組合の理事たち 1675年頃 ヤンデ・ブライ作 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

7人の男性が一つの部屋に集まっている。壁には金色の額縁に収められた風景画がかけられている。机はオリエント風の敷物に覆われている。この人物たちは、ハールレムの聖ルカ「画家」組合の理事たちである。聖ルカ組合は主として、若手芸術家の監督や、外部との競争から会員を保護などを行う芸術家の職業組合であった。オランダ共和国ではおもな芸術の中心地にはすべて聖ルカ組合が存在した。画家組合の一員だったヤン・デ・ブライはこの絵の中にも登場し、画板を手にした左から2番目の人物が彼その人である。彼は歴史画を描いたが、フランス・ハルス亡き後のハルレムで最も重要な肖像画家であった。

宿屋デ・クローンの外 1630年頃 ヤン・ミーンセ・モレナール作 油彩・カンヴァス フランス・ハルス美術館

宿屋の前で陽気な仲間たちが楽しんでいる。農民が酒やカード遊び、音楽等に興じる生活風景を表す。このような絵画は、時として享楽的生活への戒めという道徳的な意味を含む。しかし、モレナールは喜劇的な風俗画を得意としたことから、本作も単純に鑑賞者を楽しませる目的で描かれたものであろう。17世紀オランダ共和国では、このような風俗画が楽しまれた。

港町近くの武装商船と船舶 1620~25年頃 コルネリス・ファン・ウィヘン作 油彩・板 ロッテリアム海洋博物館

画面中央をすべての帆を張った武装商船が左に進んでいる。大砲を撃ったあとで、大きな砲煙が上がっている。この3本マストの武装商船はオランダの旗を掲げている。画面右奥からこちらにやって来る別の3本マストの帆船には3本のユリの鑑旗が掲げられているのでフランス籍であることがわかる。武装商船は、遥かアジア、アメリカ等に輸出貨物を積んで商売をするのであろう。当時のオランダの富をかせぐ手段であったろう。前景の浜辺では、漁師たちが忙しそうに釣り上げた魚を運んでいる。漁船やボートを引き上げられている前景の狭苦しい砂浜では、人々が様々な作業をしている。この作品は、実景を描写したかのような印象を与えられるが、ファン・ウィーリーヘンは、船や海、漁師に対する広範な知識を活用して、こうした情景をアトリエで描いてていた。しかし、オランダが海洋国家としてヨーロッパに覇を遂げた時代の風景である。

捕鯨をするオランダ船 アブラハム・ストルク作 1670年 油彩・カンヴァス ロッテルダム海洋美術館

17世紀、ネーデルランドでは商業用の捕鯨がはじまり、1614年から1642年まで、「北方会社」と呼ばれる組織が専売権を有していた。「アムステルダム」と呼ばれていたスピッツベルゲン島のスミーレンブルグを拠点として、グリーンランド海の沖に生息する大量のクジラが捕獲された。この産業によって北大西洋のクジラが絶滅しかけた。「北方会社」が30年ほどで解散された理由は、このクジラの絶滅危惧にあったのであろう。狩猟された2頭の北極熊やセイウチの姿も見られる。メルクは、このような主題の絵を少なくとも3点以上描いており、作品が確認されており、成功したようである。海洋国家オランダを象徴するような絵として受け入れられたのであろう。

海辺の見える魚の静物 ヤン・で・ボント作 1643年 油彩・カンヴァス ユトレヒト中央美術館

前景の海辺には様々な種類の魚介類がどっさりと置かれている。様々な種類の魚が実物大で描写されている。前景の左には、ひっくり返ったカニとその後ろに大きなロブスターが見える。これらの生き物の間に、ムール貝が砂地の上にある。中程には大きなヒラメがひっくり返っていて、その右側には巨大なエイがいて、その下にもまたヒラメが見える。これらの魚は、大きな籠の上やかたわらに置かれていて、その向こうには木の塀があり、そこには水指しとかロープがかかっている。塀の向こうにも釣竿がもう1本見える。画面左、砂地の先では、帽子を被り、棒を担いだ少年が、こちらを見ながら歩き去ろうとしている。背景では、砂丘の上に何人かの人物が立っていて、海を眺めている。はるかなかなたの海辺には、帆を張った漁船が何艘か見える。この魚介類は、背後の漁船で獲れたもので、これから海辺で売られるのであろう。様々な魚介類が取れた豊漁の様子が、深い知識に基づいて丹念に描かれている。署名された作品は少ないが、それらがはすべて魚の静物画である。「海辺の見える静物」というこの野心的な作品は、極めて品質も良く、画面も大きいもので、この画家の豊かな才能を示している。

手紙を読む女 ハプリエル・メッソー作1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

「手紙を書く男」の対作品で、女性は求婚者からの愛の告白の手紙を読むために、針仕事を中断している。メイドは手紙を渡したところで、彼女の傍に立っている。手紙を読む女性は、明るい方に向けて見ているだけでなく、他人から見られないようにしているのである。しかし、メイドは、手紙の内容について、よくわかっている。彼女は壁に懸けられた波立つ水面を航海する船が描かれた単色の絵画を見せるため、緑色のカーテンを片側に引いている。こうした海洋絵画は、「愛は荒れる海のようだ」、という広く知られた比喩となっている。このメッセージはフェルメールの「恋文」の背景に見られる海洋風景でも示されている。つまり、メイドがこの寓意を露わにすることによって、この女主人は彼女の前に横たわる危険を認識すべきだ、ということを鑑賞者に告げている。本作品は、真っ先にフェルメールの影響を受けている。「手紙を書く男」では、メツーの絵画をデルフトの巨匠フェルメールの特定の作品と関連させることは不可能である。フェルメールの作品に起源を持つような要素、例えば、背景の壁に反射する自然光、大きな対象を幾何学的に配列すること、背景の壁に物体を吊るして強調することは、フェルメールの様々な作品から学得したものである。フェルメールからの模倣で最も際立った点は、女性の上着である。メツーは彼自身の作品において、フェルメールの並外れた絵画技法を模倣した数少ない画家のひとりである。

手紙を書く男 ハブリエル・メツー作 1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

一人の紳士が開かれた窓の前にあるテーブルに座り、手紙を書いている真っ最中である。文通している彼の多情な気質は、欲望を象徴する動物の2つの図像によって示唆されている。かれの背後にあるイタリア風の風景画には山羊の群れが描かかれ、手の込んだ金色に輝く緑の鳩の群れが見える。男性の手紙は、対作品「手紙を読む女」の上品な衣服を着た女性のために書いているものである。その作品では、恋人が書いた情熱的な文面に夢中になって読んでいる女性の情景が描かれている。本作品は背後の壁に当たる暖かな明るい光によって、彼が午後に手紙を書いていることが示唆されている。一方、女性は、翌日のやや冷たい朝の光のなかで手紙を読んでいる。「手紙を書く男」と「手紙を読む女」はメツーが描いた多くの絵画のなかでも、最も成功した作品だと考えられる。彼は、この、対作品を1660年代半ばに描いており、それは彼の画業の絶頂期にあたる。そして38歳で早逝する数年前に相当する。その時、メツーはアムステルダムにおける風俗画の先導者となっており、日常生活の情景を繊細にえがいたことで名声を得た。こうした作品の大半は、音楽を演奏したり、飲食を共にしたり、お互いに手紙を交換したりすることによって、愛を求め合うオランダ上流階級の若く優雅な仲間たちが気晴らしをする様子を描いたものである。メツーの作品群はフェルメールの作品と共鳴するいくつかの特徴が含まれている。メツーがフェルメールから模倣した点は、フェルメールの特定の作品と関連付けることはできない。そのことはメツーが何度かデルフトに滞在した際にフェルメールの最晩年作を何度か研究していることを示唆している。

人の居る庭 ピーテル・デ・ホーホ作 1663~65年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

1650年代後半、ピーテル・デ・ホーホは、これまで常に室内に置かれた少人数の集団や、せっせと働く主婦たちを、外の新鮮な空気のなかに配置するという考えを思いついた。彼は屋内のときのように、眺望や屋外の情景のなかに組み込んだ。これによって、彼は興味深い遠近法や照明の効果を探究する機会を得ることができた。デ・ホーホは通常、簡素なレンガ造りの裏庭に人物を配置した。この作品は小振りで手の行き届いた邸宅を背景に、小道が描かれている。視線は小道に沿って、囲いの開かれた扉へと導かれる。そこには群棲する木々を水際に見ることができる。良い天気で、邸宅には溢れるほどの日が差しており、優雅に着飾った若い女性と男性が涼しい日陰に逃れている。男性はわずかに前のめりになり、女性がレモンを絞ってグラスを手にしているが、おそらくこれは男性のために用意されたものである・もう一人の女性は雨水タンクで大きな銅製の容器を洗っているか、もしくは容器を洗っているか、もしくは磨く仕事に従事している。壁のレンガは庭の小道と同様に、ひとつずつ念入りに描かれている。デ・ホーホはしばしばフェルメールと共に語られる。年齢も3歳しか違わず、1650年代、この二人の画家はデルフトに住み、制作をしている。かれらの主題の選択や構図にはきわめて共通性があり、疑いなく、彼らはお互いに作品を知っており、相互に影響されていた。

家庭の情景 ヤン・ステーン作 1665~75年頃 油彩・板 アムステルダム国立美術館

滑稽で陽気な場面を多く描いたステーンの絵には常に教訓が隠されている。ここでは飲み騒ぐ大人たちが、テーブルに立つ幼児の悪い手本であり、左端の老女と若者は「老いが歌えば、若きは笛吹く」「(この親にしてこの子あり)の意味」という諺を表し、子供は大人をまねるので気をつけろという警告となる。「ヤン・ステーンの家族」という表現が、無秩序の支配する家庭を表すオランダの成句となったように、ステーンはこうした活気あり乱雑な室内を数多く描いた。ユーモアと逸話に富んだ細部描写を視る楽しみは、彼の作品のいて最も重要かつ不変的なもので、17世紀の風俗画において独自の地位を確保している。

 

私は1993年(今から24年前)に「たばこと塩の博物館」で開催された「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会を見た。今回「フェルメール展」で憧れのフェルメールを見る前に17世紀オランダ絵画を拝観することになった。24年前の記憶が、はっきりと思い出された。特に展名に「栄光のオランダ絵画」という言葉が含まれており、実に懐かしく「大塚久雄先生」の名著が浮かび上がってきた。それは「富」という題名で、昭和27年に刊行されたアテネ文庫(弘文堂刊)として販売された小さな文庫本である。オランダの17世紀から18世紀の経済紙が語られており、そこには有名な「チューリップ・バブル」や、世界一速く市民社会を生み出したオランダを、如何にイギリスが三度に亘る英蘭戦争デオランダを撃破し、イギリスの産業革命につなげたかが書かれている小冊子である・全部で76ページという小文庫であるが、実に興味深い内容であった。実は、フェルメールが活躍した17世紀は、オランダ共和国の黄金時代であり、世界一豊かな国であり、近代市民社会が成立していたのである。しかし、17世紀を頂点として3度の英蘭戦争の結果、オランダがイギリスに敗北し、資本主義社会の成立に至らなかったのである。24年前の展覧会と同じ画家名を見つけ、懐かしく、古い図録を詠みこんだものである。残念ながらフェルメールの作品は1点も無く、後からフェルメールの名声を知り、今度こそと思い、初日の朝一番に展覧会を見た。大変楽しい、展覧会であった。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本  1993年」、図録「フェルメール公式ガイドブック」、朝日新聞社「フェルメール展解説書」産経新聞刊、クロワッツサン2018年10月25日号、「日経大人のOFF 2018年1月号」を参照した)

 

 

 

2018年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた、「黒川孝雄の美」10選を決める季節がきた。今年は、生誕150年とか歿後50年とか大きな美術展が多数開催された。なかなか生きたくても行けない展覧会もあった。いずれも力作揃いで、見応えのある内容であった。昨年は何故かお茶に関する展覧会が続いたが、今年は殆どなかった。その年の好みであろうか。中々十点を選ぶことは難しい。候補として26点が上がったが、結局次の10点にまとめた。

第1位「仁和字と御室派のみほとけ 御室派編」国宝 千手観音菩薩立像3月6日

私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の最高峰であると評価していた。葛井寺(ふじいでら)は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来氏族が集まり、5世紀には巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建築された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面を戴き、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手とを合わせて1041本の手を持ち、各手の掌に眼が描かれる、十一面千眼観音菩薩坐像である。インドの初期密教が生み出した変化漢音の一つである。本像の作風はは天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の製作年代は天平年間の前半頃とみるべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手の美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本であったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。

第2位「生誕140年記念 木島桜谷 近代動物画の冒険」 寒月 4月2日

本作は大正元年(1912)の第6回文展出品最高賞に輝く作品である。森閑とした月夜の竹たぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介そうな眼であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの顔料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かびあがる。林立する竹にはダークな群青の絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛とした空気が漲る絵である。この絵を見た夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は、今年は”寒月”を出品しているが、不愉快な作品である。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。ところが動物はいえ昼間ですと答えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」は、この年の第6回文展で最高賞を取った。全国から出品された入選作186点中、主席であった。忘れ去られた名作を見ることが出来、私は非常に幸せであった。

第3位 江戸絵画の文雅  国宝 夜台楼台図 与謝蕪村作 11月21日

蕪村が最晩年、安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜台楼台雪万家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みが続く。しかし描かれているのは、中国の山水画bで理想とされる雪に閉ざされた秘境では無く、京都の東山に似た、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようである。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。

第4位 長谷川利行展(上) カフェ・パウリスタ      7月4日

本作は1911年に東京の銀座に開店した喫茶店である。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草や神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白とぴった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっかけとなり再び世に出てきた。額も無くかなり汚れた状態だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を蘇らせた。長谷川利行の代表作である。

第5位 「ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)」 叫び    12月13日

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうととしていたー物憂気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃え盛る雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこにたったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然と貫くのを感じた」(手稿T2760「夢の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物は、ムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに耐えられず、耳をふさいでしまっている。彼の体は、強い圧力を受けている。このように引き伸ばされて変形しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強力な力にさらされていることを示している。

第6位 岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 浄瑠璃物語絵巻 重分第四巻(2)6月18日

重要文化財「浄瑠璃物語絵巻」がMOA美術館で公開されたため、それを見たさに熱海まで出かけた。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した絵巻物である。金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物であり、重要文化財に指定されている。浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は祝言を挙げる。いよいよ姫がなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

第7位 名作誕生 つながる日本美術(3) 士庶花下遊楽図屏風 江戸時代 伝岩田又兵衛作 5月29日

船を浮かべた大きな池の周りに、桜咲く春の一日をさまざまに楽しむ人々の姿を描きこんだ野外遊園図である。桜の下での乱舞、道行く女性の一行に声をかけて遊びに誘ういわゆるナンパの場面、扇を手にして舞う若衆を囲んで下り藤の紋のある幔幕の内で繰り広げられる野外での宴、座敷では将棋や囲碁、三味線に興じる人々を、建具を取り払った建物に配した邸内遊楽の場面も加えられ、江戸時代初期の風俗画によく描かれたテーマである。この絵は、岩佐又兵衛となっているが、又兵衛工房と又兵衛の共作ではないかと解説では説明している。「憂き世」を「浮き世」と転換させた発想は、桃山時代から江戸初期にかけて広まった思想である。又兵衛らの活躍した元和から寛永年間(1624~44)に至って、時代の先端を行く流行思想となった。この「浮き世」の思想をまさに絵に描いた、男女遊楽の情景が最も好まれて取り上げられている。それを後の、江戸の菱川師宣を元祖として誕生した浮世絵の先駆とみなすことはごく自然なことであろう。

第8位 横山大観展 夜桜 絹本着色 六曲一双 昭和4年(1929)8月11日

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマの展示や運営も任された。本作はローマがねらいだったから、大観は海外の観客にも理解されやすい主題と画風を選んだのである。色の取り合わせから室町時代のやまと絵などを意識したと思われるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。

第9位 Re・加山又造典  春秋波濤 絹本採色 1966年  4月16日

この絵画は、国立近代美術館で何度も拝観した。この絵画と、別に3重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種での山を3枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。

第10位 横山崋山展 祇園祭歴図  江戸時代(天保6~8年) 11月5日

上下2巻、計30メートルの長さにわたって祇園祭の全貌を描きつくそうとした稀有の例の祭礼絵巻である。上巻は稚児社参に始まり、青山、そして山鉾二十三基が巡航する様子を丁寧に描く。下巻は後祭の山鉾計十基が巡航する光景を描き、三基の神輿が御旅所より祇園社へ還幸する様子、そして四条河原の納涼、祇園ねりものと実に印象的に描いている。本図は江戸時代後期以前の祇園祭の祭儀を知る上で欠かせない資料である。

(本稿は、「原色日本の美術全30巻、「探求日本の古寺 全15巻」高橋秀爾「近代絵画(上)(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(2)

ムンクの一見未完成に見える絵画は、初期の頃にはノルウエーやドイツの評論家たちの批判の的となった。ノルウエー国外では、1892年のスキャンダラスな成功とともにムンクの名は広まった。ベルリン芸術家協会での個展は、保守的な会員やメディアからの圧力により1週間で閉鎖に追い込まれた。だがこの事件のおかげで、ムンクはドイツをはじめ他のヨーロッパ諸国で画家としての頭角を現していく。そして20年後の1912年には、ケルンで開催された歴史的な分離派展で、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ダン・ゴッホと言った主動的なモダニストと並ぶ新しい芸術の担い手として招介され、一室が与えられた。ムンクは最も先進的なモダニズムの芸術家の一人ともなされたのである。そして1927年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展による確固たるものとなった。ムンクが生計を立てるにあたって、作品の販売よりもむしろ「展示」による入場収入に主眼をおいたことも興味深いことである。1892年、ベルリン芸術家協会で人々の怒りや嘲笑を掻き立て展示会が1週間で打ち切られた「ムンク事件」ー事実ムンクはこの一件で時の人となり、古展がドイツ国内を巡回する機会を得た。この時画家は200マルクの報酬か、チケット売上高の3分の1を受け取るかの選択に迫られ、後者を選んでいる。スキャンダルが反響を呼び、数多くの人々が自分の個展に足を運ぶことを理解していたのだろう。ムンクが死去した1944年、ほとんどの作品がオスロ市に寄贈された。1963年同市に「ムンク美術館」が開館した。現在でもなお、ムンクの芸術は世界中からの関心を集めている。日本でもたくさんの展覧会が開催されてきたが、本展のように、ムンクの初期から晩年までの作品を網羅する展覧会が最後に開催されたのは、20年前に遡る。たまたま、私が見学した「世田谷美術館」で開催された。1997年の「ムンク展」である。

月明かり、浜辺の接吻  油彩・カンヴァス         1914年

男と女は、互いに抱き合い接吻を交わしながら一体になる。男女間の愛は、互いの境界を決壊させる。それは個人が抱える孤独や疎外感に打ち勝つ手段となる。だが、ムンクはその誘惑に決して身を委ねなかった。いくつかの情事や恋愛事件は別として、彼は生涯を通じて独身のままでいた。ムンクが彼自身の創造力を維持することをどれほど望んでいたかがわかる。彼は、芸術家がその力量を十全に発揮するためには孤独でなければならないと確信している。

森の吸血鬼  油彩・カンヴァス         1916~18年

ムンクが生涯にわたりさまざまな方法で再制作し、組み合わせた一連のモチーフを生み出したのは1890年代のことであった。本作品においては、女の吸血鬼と男の犠牲者というムンクの象徴的なモチーフと、「夏の夜、声」に描かれた風景、さらに他のいくつかの主題が組み合わされている。ムンク自身の作品の見本として、繰り返し利用することで、新しい解釈と意味の転換を創りだした。

別離  油彩・カンヴァス             1896年

本作品において、ムンクは別離を迎えた一組のカップルを描いた。女のドレスは砂と一体化し、髪は大気の中に溶け込んでいる。前景の男は重々しさをたたえて立ち、その失意の心が大地に肥沃さをもたらし、血のように赤い植物を咲かせている。別離の情景は浜辺を舞台とした、ムンクの生涯にわたり繰り返し描いた湾曲する風景の中で繰り広げられている。

生命のダンス  油彩・カンヴァス               1925年

場面は夏の夜の海岸である。永遠に続く人間ドラマのように見える光景を満月が照らし出している。ムンクは人生を、誕生と繁殖、そして死が織りなす終わりなき循環と考えている。本作品における主要な人物は、前景に描かれた3人の女性たちである。白いドレスを着た若い女性は、青春期の純真さを表している。性愛が支配する画面中央では、赤いドレスの女性と、彼女に魅惑されたパートナーがダンスを踊っている。右側では、黒い服を着た年配の女性が、人生の終わりに近づきづつあることを表している。

フリードリヒ・ニーチェ  油彩・テンペラ、カンヴァス   1906年

ムンクは、コレクターから本人や家族の肖像画などの依頼を受けるようになった。ドイツの有名な哲学者を描いたこの肖像画は、妹のエリーザベルト・フェルスター=ニーチェによって注文された。ムンクはフェルスター・ニーチェが亡くなってから6年後に、写真をもとに本作品を描いた。ムンクはフェルスター=ニーチェが兄の文章類を管理していた東ドイツの都市ヴァイマールも訪ねている。この肖像画には「叫び」の構図の中心的な二つの要素が取り入れられている。それは画面に斜めに配され、線遠近法の強い効果を生み出している小道と、風景や紅色の空に見られる、うねるような有機的フォルムである。

緑色の服を着たインゲボルグ  油彩・カンヴァス     1012年

この大型の絵画に描かれた女性は、インゲンボルグ・ガウリンである。彼女はムンクのモデルを定期的務めた女性の一人で、数年は家政婦としも働いていた。後の1915年、彼女はノルウエーの画家ソーレン・オンサーゲルと結婚した。本作品は、緑色の色彩研究とみなすことができるかも知れない。ムンクは緑色を補色の紫色と対比させ、極めてヴァラエティに富む色調を展開させている。さまざまな緑色が表されている。ムンクの作品の中では、珍しい色使いである。

疾駆する馬  油彩・カンヴァス           1910~12年

視る者に向かって疾駆する馬を描いた本作品によって、ムンクは絵画の静的な領域の中で最大限のダイナミズムを生み出した。馬が疾駆するスピードは、極端な短縮法や粗い筆遣い、ぼやけた色面、雪のはね返り、そして道から飛びのく人々の姿によって伝わってくる。こうした絵画的な効果は、写真や映画といった新しいメデイアの技術に対するムンクの実験に影響を受けた可能性をうかがわせる。1902年は、ムンクは既にカメラを購入していた。図録にも沢山のカメラ映像が残されている。

太陽  油彩・カンヴァス            1910~13年

ヨーロッパでの評価が高まる一方、ノルウエーでは作品が受け入れられなかったムンクは、長年諸国を転々とし、酒に溺れ神経症に苦しんだ。1909年の個展で国立美術館が作品5点を購入した。ようやく祖国での名声を確立することになった。クリスチャニア大学(現オスロ大学)の講堂壁画は、ノルウエーに帰国したムンクが7年を費やした記念碑的な大作である。3方を囲む巨大な作品群の中心となるのが「太陽」である。強烈な光線が降り注ぎ、爆発的なエネルギーが画面からあふれ出ている。故国を終のすみかにしたムンクは、かってと打って変わった明るい色彩で、豊かな自然や人々の姿を描いた。80歳になるまで、創作への情熱を最後まで燃やし続けた。

星月夜  油彩・カンヴァス           1922・24年

亡くなるまでの30年は、オスロー近郊のエーケリーに邸宅とアトリエを構えた。幻想世界を立ち上げる筆がさえる「星月夜」はここで生まれた。冷えた空気にまたたく星と、オスロの街の灯が美しい。画面左下に控えめに映り込む影はムンク本人とみられる。人間の暗部や負の感情を直接的に訴えた前半の表現とは一転し、急性精神病を乗り越えたムンクは、美しい色彩やエネルギーに満ちた多くの風景画を製作した。

自画像  油彩・カンヴァス            1940-43年

ここに、80歳に届こうとしている老年のムンクがいる。彼は壁いっぱいに自分の絵を飾った部屋の中にいて、ベッドと時計に挟まれて立っている。この柱時計とベッドは、象徴的な意味を持つものとして描かれている。砂時計は伝統的に死を意味するシンボルであったが針も振り子も描かれていない時計は、ムンクに残された時間がもはやほとんどないことを暗示している。一方ベッドは「思春期」や「病室での死」など、愛と死を扱った多くの作品に登場してきたモチーフとして、彼のこれまでの画業を象徴するものであると同時に、もうすぐ彼自身の死の床となるであろうことを暗示している。画面左横にある裸婦像はムンクの画業において欠かせないものであった。これは死に対応する愛の象徴なのかも知れない。

 

エドバルド・ムンクはノルウエーの由緒ある家の生まれである。紆余曲折を経て徐々に名声を高め、国民的画家へと上り詰めた。精神的な病に苦しみ、複雑な内面を抱えていたが、そんな自らを冷徹に観察し、終生自画像を描き続けた。カメラを手に入れ、「自撮り」の写真まで残している。自画像は、彼の芸術家然とした姿を世間に印象づける、効果的な手段であったのであろう。60年に及ぶ画業の全体像を描き出す、素晴らしい展覧会であった。是非、大勢の方に見てもらいたい展覧会であった。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する魂の叫び  2018年」、図録「ムンク展ー1997年」、朝日新聞 記念号外「ムンクー共鳴する魂の叫び」、高橋秀爾監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)

待望のムンク展が東京都美術館で開催された。私に取っては、待ちに待ったムンク展であった。1997年(平成9年)に世田谷美術館でムンク展を観て以来であり、大変懐かしく、待望の「ムンク展」であった。ムンクを招介する前に、「ムンク」について、どれほど日本の美術界で知られているかを調べてみたら、驚くほどムンクは招介されていない。例えば、高橋秀爾監修「西洋美術史」(美術出版社)には、後期印象主義としてゴッホの次に「ノルウェーのエドヴァルド・ムンク」として「叫び」の写真が載っているのみである。次に、福島繁太郎「近代絵画」(岩波新書)では、やはりゴッホの付けたしのように「主観主義的傾向」の中の「エクスプレショニズム」の項で、「この流れはフォーヴに伝わり、更にノルウエーのムンクに至った」と記しているのみである。ムンクはこんなに日本では知られて居なかったのかと不審に思い、やや丁寧に調べてみたら、驚くべき事に、日本で一番最初にムンクを招介したのは、白樺派であった。「白樺派と近代美術」という本の中で、「文芸雑誌というよりも、むしろ美術雑誌と言ったほうがよいほど徹底して」西洋美術を招介した「白樺」が最初にムンクを取り上げたのは、早くも創刊後2年の6月号(1911/明治44)である。そこでは「近代のえらい画家」として「シャバンヌ、ゴッホ、ホフマン、エリック、ムンク」と並んで招介されていた。武者小路がすでにムンクにお作品には「彼の心の底にうつるものが描かれ」、「彼の自然は幽霊のように生きている。そうして人間の心をおびやかす、彼の描く人間は、孤独と、恐怖と、不安におののいている」とムンクの本質をぴったりと捉えているには注目に値しよう。                         主催者の「ごあいさつ」の言葉を借りた方が早い。「ノルウエーの由緒ある家系に生まれたムンク(1863~1944)は、病弱だった幼少期に家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。ヨーロッパ各地で活動しながら世紀末の思想や文学、芸術で出合う中で、人間の内面に迫る象徴主義の影響を強く受けながら、個人的な体験に根差した独自の画風を確立し、ノルウエーの国民的画家としての地位を築きました。愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の感情を強烈なまでに描き出した絵画は、国際的にも広く影響を及ぼし、20世紀における表現主義の潮流の先駆けにもなりました。」

自画像 油彩・紙(厚紙に張付)             1882年

ノルウエーの画家・ムンク(1863~1944)は、今や世界中に知られた画家である。家族の死を体験した病弱な幼少期を経て、ノルウエーの都市クリスチャニア(現オスロ)で画家として歩み始めた1880年代。そして第二次世界大戦の前年に孤独な死を遂げるまで、その画業は60年の長きに及んだ。画家になる以前、ムンクはクリスチャニアの工業専門学校でエンジニアになるため勉強していたが、1年で考えを変えた。芸術への情熱に捧げる決心をしたのである。1880年、彼はクリスチャニアの画学校(後の王立美術工芸学校)に入学した。父のクリスチャニアは必ずしも賛成ではなかったようである。ムンクは多くの自画像を描いているが、これが一番最初の自画像であり、端正な顔立ちと魅力をそなえた人物として知られていた。

臨終の床  リトグラフ                 1896年

ムンクは早い時期に母と姉を失い、「死せる母とその子」というリトグラフを残している。本作もリトグラフであるが、母か姉かの臨終の床を表したリトグラフである。一見、木版画のようであるが、リトグラフである。この作品において、棺を取り囲む幾筋もの木目調の水平線は、死と悲しみの雰囲気を強調している。さらに、線の間に現れるいくつもの顔は、魂の存在をほのめかしているのかも知れない。

病める子   エッチング・ドライポイント        1894年

「病める子」は、ムンクにとってはさまざまな意味で突破口を意味していた。死にゆく少女の顔に焦点を当てられている。ムンクは生涯を通じて、さまざまな技法を用いて、これと同じテーマの作品を生み出した。ムンクの姉のソフィェは15歳の時に結核で亡くなった。この作品はその姉を失った経験と結びついている。「病める子」の最初の版画が1886年にクリスチャニアに展示されたとき、作品は厳しい拒絶反応と熱狂的な称賛の声の両方を引き起こした。

メランコリー  油彩・カンヴァス       1894~96年

ムンクによる「メランコリー」のイメージは、孤独や悲しみに陥り、意気消沈する人間を表現する古き伝統の系譜にある、ムンクである美術評論家ヤッペ・ニルセン(1870~1931)の恋わずらいに着想を得て、昔からあるこのモチーフに新しい生命を与えた。ニルセンが情事をもったオーダー・クローグ(1860~1935)は、彼より10歳年長で、ノルウエーの画家クリスチャン・クローグとすでに結婚していた。クローグはムンクの初期の師の一人である。ここでの風景は、互いに溶け合うフォルムと色彩によって構成されている。本作品は、男の憂鬱な内面を表す精神的なイメージと捉えることができるだろう。

渚の青年たち(リンデ・フリーズ) 油彩・カンヴァス  1899~1900年

ある時、リンデ・フリーズの制作依頼を受けたムンクは、「メランコリー」のモチーフを本作品に再利用しつつ、それに変更を加えた。窓辺の風景と、孤立し、物憂げな人物からなるこの作品は、「リンデ・フリーズ」と呼ばれるシリーズの1点である。注文主であるドイツの眼科医マックス・リンデンの名にちなむこの連作は、8点の絵画からなるもので、ドイツの町リューベックにあるリンデ家の邸宅の子供部屋のために制作された。しかし、この絵の出来栄えに満足しなかった。このシリーズには愛し合い接吻を交わす恋人たちが描かれていて、リンデ夫妻はこうしたイメージが子供たちにふさわしくないと考えた。この「りんで・フリーズ」に関しては意見が合わなかったムンクとリンデだが、二人の友情はその後も永年にわたって続いた。

赤と白  油彩・カンヴァス          1899~1900年

前景に描かれた二人の女性が画面を支配している。白い服を着た金髪の女性は海の方を向いており、身体を柱のように直立させている。赤い服を着た濃い髪色の女性は、身体の曲線がかなり強調されている。木々の幹の間に暗い色のドレスをまとった女性の痕跡が見える。この女性は、本作品と同じモチーフを表す初期の油彩のスケッチに描かれていたが、ここではムンクの手によって塗りつぶされている。二人の姿は、女性の生涯の異なる段階、あるいは性格の異なる側面を象徴しているのかも知れない。白い服を着た女性の無垢と純真さは、赤い服の女性の成熟と情熱的なエロチシズムと対照的である。こうした象徴的な対比はありふれているが、この絵画の魅力はむしろ、象徴の「解釈」を超えて、赤、白、青、黒といった色彩が生み出す、緊張感に満ちた相互作用にある。

星空の下で  油彩・カンヴァス          1900~05年

二人の人物が抱き合っている。場面は星明りに照らされている。この星空は、私にはゴッホを思い出させる。家が象徴する社会の存在は、絵画の背景に押しやられている。女性の顔はぼんやりとして、ううつろに描かれている。赤い唇がなければ、頭蓋骨のように見えるだろう。ムンクはここで、二者の間の愛と欲望という不変の現象を表した。それは本質的に隔絶され、非社交的な世界であり、都市生活の喧騒とは無縁の世界である。青と緑は、この情景に神秘的で厳かな雰囲気をもたらしている。

叫び  テンペラ・油彩・厚紙             1910年?

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうとしていたー物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃えさかる雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこの立ったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」(手稿T2760「紫の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物はムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに堪えられず、耳をふさいでしまっいている。彼の体は、強い圧力を受けているかのようにお引き伸ばされて変型しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強大な力にさらされていることを示している。内心の恐怖に耐えられずに、彼自身も口を大きく開けて叫んでいるようだが、その叫びは前を歩く二人の男には聞こえていないようである。画面左端へと鋭い角度で後退してゆく遠近法は、見る者の視線を有無を言わさず引きずり込むかのようである。ムンクがニースでの体験をクリスチャニアの風景の中に置き換えて描いたのは、子供の頃の母と姉の死や、彼自身がさらされてきた死への不安によって増大した恐怖と不安の感情が、この町と分かちがたく結びついていたからであろう。「叫び」は不朽の名画として讃えられたいる。この作品は複数枚ある。世田谷美術館で見た「叫び」は、1893年制作で、年代も大きく異なっている。今回の「叫び」は別作品である。また、リトグラフも複数枚ある。夫々違った表情をしている。

絶望  油彩・カンヴァス                1894年

ムンクは本作品に「叫び」と同じ構図を採用した。「叫び」に描かれた人物を物憂げな男に置き換えた。本作品は、わずかな変更によってまったく異なる視覚的効果を生み出すことができるムンクの才能を証明している。この人物は、ムンクが「メランコリー」のイメージにしばしば用いるのと同じ人物像である。絶望や悲しみ、そして憂鬱といった感情は、ヨーロッパの芸術や文化において長い伝統がある。

不安  木版画・手彩色                   1896年

「叫び」と同じオスロとその周辺の景色を背景にムンクは町の人の群れを描いた。並んで待つ人々は、お互いに無関心で、ただ私達のほうをじっと見つめている。彼らの顔は、黒と白の大まかなシルエットに簡略化されている。彼らに個性を示す特徴は皆無である。この手彩色の木版画は、不安というテーマを特定の人物に対する恐怖としてではなく、近代生活における実在主義的な状態あるいは条件として提示している。不安とは、都市に生きる人々の生活を駆り立てるものであり、彼らをお互いに孤立させるものなのだ。同時に、人物たちの背後に見える夕暮れの燃えるような色彩は、彼らの不安な状態をきわめて劇的に演出している。

 

ムンクの代表作である「叫び」を中心に、比較的初期の作品を(1)としてまとめてみた。ムンクの描くものは、叫び、絶望、不安に代表されるとうに「不安」・「孤独」・「絶望」・「憂鬱」という近代社会の人間が持つ感情を絵にして描いたものが多く、特に「叫び」はムンクの代表作であり、近代市民の持つ負の要素を総合的に、見事に表現したものである。ムンクは80歳以上と長生きした画家であり、長い画家生活を通して多彩な面を見せるので、次回(2)で、この後のムンクの実績を招介したい。尚、ムンクの作品は、印象派のように大量にアメリカへ流れたわけではなく、大半がノルウエーの美術館に保存されている。従って、ムンク作品は10年以上のスパンを採って来日する傾向があるので、是非、今回の「ムンク展」を見学されることをお勧めする。なお、最近、どこの美術館でも図録が大幅に上昇し、博物館関係者の間では、「図録が売れない」という愚痴がおおいそうである。(永青文庫104号「館長のひとりごと」より)しかし、このムンク美術展の図録は、230ページに及ぶ大きさながら、2400円と大変手頃な価格である。是非、拝観された方は、この図録を求められることをお勧めする。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する叫び  2018年」、図録「ムンク展 1997年」、高橋秀而監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

「黒川孝雄の美」300編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、300編に至るまで7年の歳月を要した。1年に44編を書いたことになる。スローな様であるが、途中で80編程を失ったため、実質は380編を7年で書いたことになり、1年間に平均54編を書いた計算になる。ここ数年、急いで書いた理由は、その辺にある。このブログを書き始めたきっかけは、望洋会(名古屋大学経済学部第4期生の同窓会)の「幾山河」に学生時代の思い出として飛鳥、奈良地方の古寺を廻ったことを書いたことである。大学時代の思い出と言われても、特別勉強したこともなく、敢えて言えば「飛鳥・奈良・大和地方」の古寺・古仏を訪ね歩いたことが唯一の財産であったからである。「幾山河」には「おほてらの まろき はしら」と題して幾つかの古寺・古仏の思い出を書いた。飛鳥寺、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招招寺など、思い出深い5ケ寺を描いたように思う。題名の「おほてら」とは、唐招題寺にて、會津八一が「鹿鳴集」で謳った金堂の歌である。奈良・京都の仏寺が当初のテーマであったが、いつしか「美術展の招介」に移行していった。古寺巡礼と同様に、私は大学生時代から、数少ない経験であったが、西洋絵画の展覧会は必ず見学するようになった。また「徳川美術館」が、古い建物で残っており、毎月1回は訪れることにしていた。展示物は殆ど変らず、毎回同じ物を見学する訳だが、何かそこには、日常とは異なる物があるような気分であった。                会社へ入社(昭和31年)して、本社の近くに「ブリジストン美術館」が在ったのは、大変幸いであった。ここで、西洋絵画、近代日本絵画、彫刻等に触れ、大きな感動を覚えるようになった。昭和34年(1959)6月に国立西洋美術館が上野に完成したのも大きな変化であった。旧松方コレクションの一部(絵画196点、素描80点、彫刻63点、参考作品5点)合計370点が、フランスからの返還として上野にもたらされた。この松方コレクションは本来、もっと大きな収蔵品であったが、戦時中に「敵性美術品」としてフランス政府に没収され、一番素晴らしい美術品はフランス政府が美術館に収蔵し(例えば、ゴッホの「寝室」)、残り370点を「日本国民への寄贈」という形で返還したものである。松方コレクションは、15世紀頃から20世紀にかけてのコレクションであり、西洋美術を理解する上で、この上ない教科書であり、むさぼるように見学したものである。    さて「美」の読者数は月間4,500回という数字(年間54,000回)が基礎になる。誰に読んでもらっているかは、不明であるが、最近パソコンよりスマホに移動している。読者層が、20代~50代にシフトしたことが窺える。しかし、その内容は分からない。望洋会に記事が招介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻巣美術館」からである。望洋会の読者数は、ネットを扱える人と考えると10人~13人位と思う。私たちの同世代は、残念ながら、パシコンには詳しくない人が大半である。従って、読者層は殆ど名前も地位も知らない人ばかりである。                                   ブログを書くためには、まず美術館へ行く、図録を買う(これで1日)、図録を詠みこむ、過去の関連図録や図書を読み直す(これで1日)、これを基礎にして原稿を書く(ここが一番時間を取られる。2日程度は必要)、同時に写真を10枚程度選んで、パソコンに収録する(これは前の2日間に含まれる)、原稿・写真をパソコンに取り込んで「ブログ」として完成させる(約1日)、これをアップして、望洋会や友人にアップしたことをメールで連絡する(2時間)、合計すると一つのブログを完成するのに4日強を要するということになる。            これを年間54編×4日=216日という計算になる。要するに私の自由になる時間の大半は、「美」に取られていることになる。果たして、それだけの価値があったであろうか?どうせ、何もすることも無い身であるから、自由になる時間をつぶす絶好の機会であったと思っている。しかし、このままでは、やや情けない。折角ならば、多少は、誰かのお役に立つ記事にしたいと思う。           話は変わるが、私は自分のホームページ上に、10年(120回)に渡り、「フランチャイズ時評」という記事を書き、いまだに大学生から「卒論に引用したいが、許可してもらいたい」という電話が架かってくる。それどころか、関西の有力私大のフランチャイズ専門家(大学教授)より、「メガフランチャイズ」について私の見解を聞きたいとして、上京されることが最近あった。「フランチャイズ」は私の専門であり、その程度の要望があっても可笑しくない。しかし、それ以上に時間を掛け、情熱を燃やしている「美」に対しては、特段の要望も出ない。      察するに、私の「美」のレベルは美術愛好者の域を出ず、誰も専門家とは見ていないからである。300編が一応の目標であり、ここで止めても良いが、私の気持ちは、まだまだ続く。多分500編程度までは掻き続けることになるだろう。専門家とまではいかないが、一つの意見として注目してもらえるようになるためには、やはり専門的知識の素養が足りない。日本美術史、西洋美術史から進んで、日本仏教史、日本史、西洋史、中国史、旧約聖書、新約聖書等など、美術全体の系統的知識、教養、更には専門的見識に至るまで備えなければ、誰も「意義あるブログ」とは見做してくれないのである。所詮、現在程度の知識、素養では素人の域を出ないのである。本格的、かつ体系的知識を身に付け、専門家からも一目置かれる「黒川孝雄の美」を更に書き続けたいと思っている。                 なお、望洋会へのブログ・アップについては佐藤君、中山君に大変お世話になった。この二人の励ましが、今日まで続いた原動力であった。厚く御礼申し上げる。なお、この「300篇」に関しては、DVを作成して、古い友人に配布したいと思っている。