[黒川孝雄の美」400回を書き終えて

「黒川孝雄の美」は、2014年1月2日に第1回「法隆寺 1 金堂」を書き始めて、

最終編を2018年8月27日に「敦煌莫高窟の美(2)」を第400話として書き終えて、約7年7ケ月の間に400話を書き、平均すれば7日に1回を書いた勘定になる。良く書いたものだと感心するが、「美術館」「寺院」等が私の高校生の頃から親しんだ場所であり、楽しく書くことが出来た。76歳から書き始め、86歳まで書いた勘定になる。コロナ禍のため、美術館に入り難くなり(事前予約、事前前払い)、私のようにヒマが出来ればフラリと入る自由入館組には、大変厄介な制度になり、最近は入りたい美術館に入れなくなり、かつ体力も衰え、無理が効かなくなり、どうしてもこれ以上続けることは無理となり、止むを得ず400回で終わることにした。残念だが、私としては止むを得ない結論である。さて、「黒川孝雄の美」は大勢の読者を得て、思いがけない話題となり、大勢の方が読者になって頂いた。ここに感謝の言葉を贈りたい。ー番最初に記事にしたのは「法隆寺 金堂 1」であり、2014年1月2日である。それ以来、7年7カ月に亘り、日本の寺院、日本で開催された美術展、タイの寺院などを書いた記憶がある。楽しい7年7ケ月であった。7年7カ月は、日数に直せば2,765日であり、その間に400話を書いたことは、平均すれば7日に1回の割で書いたことになる。原則として、美術展、奈良、京都、鎌倉のお寺を題材にしているため、お寺に興味の無い方には、随分「関係の無い話」となる。一番記憶に残る記事は、2014年1月4日に書いた「智積院  等伯一門の障壁画と名庭園」である。幸いこの記事は、お寺でも興味を持たれたのか、私の書いた記事が、智積院のその場所に、コピーされ、張られていたそうである。(親しい友人の話)嬉しい限りである。

私としては、美術展よりも、奈良・京都の古寺を話題にした方が,遥かに楽しかったからである。矢張り、大学時代から熱心に通った、奈良・京都の寺院の方が懐かしかったからであろう。時間をかけて楽しんだ場所の方が、記憶に残り記事にしたいものである。しかし、美術展も思い出深いものがある。日本の画家では、私は「青木繁」が好きである。「悲劇の洋画家」と呼ばれた「青木繁」の人生は、私に無い無頼の世界であり、全く異なる道を進んだ「青木 繁」に強く惹かれた。

また、これらの記事を書くためには、日本史、西洋史の知識、絵画、美術史の知識が無いと判断を誤ることになる。歴史や美術論を理解しないと、うっかり記事も書けないものである。そういう意味で、この「美」を書くためにどれだけ歴史や美術について本を読んだか知れない。これも私に取っては、大きな収穫であった。知識は、人生を豊かにし、人間を変える大きな要素である。また美術展や、古寺の記事を書くために、どれだけ多数の本を読んだ、判らない。1ケの書棚に収まり切れないた多数の読んでいる。これも人生を豊かにし、知識の枠を超えて豊かな人生を与えてくれた。

私の書棚を見た人は、その豊かな書棚に驚いて帰る。これは「豊かな人生」を送るための肥料となっている。私の書斎を訪ねた人は、すべて書棚の豊富な資料に驚く。私は経済学部を卒業しているが、この書棚の豊富な資料(美術、歴史、評論)には、大方の人が驚いて帰る。これも、「美」の執筆のお掛けであろう。私は毎年「  年「黒川孝雄の美」10点を選ぶ」という記事を書いている。これも1年間を振り返り、その年の「忘れえない10点」を書いている。1年分をまとめることも、いい勉強になる。やはり年齢と共に、興味も変わり、重点も変わって行く。7年7ケ月の間に、大きく変化する。これは私の長い人生の最期を飾るに相応しい、懐かしい、美しい思い出である。

敦煌莫高窟の美(2)

敦煌莫高窟には、やや離れた場所に西千仏洞、楡臨窟(ゆりんくつ)を含むのが一般的な見方である。詳しくは東山健吾氏の「敦煌三大石窟」に精しく書かれている。私も、東山先生の事例に倣い、敦煌莫高窟と言いながら、西千仏洞、楡臨窟を含めて敦煌莫高窟と呼ぶ。

西魏篇(535~556)

西魏とは山崎茂久氏の「中国美術年表」によれば、北朝の4代目、北斎(ほくせい)に続く4番目の王朝で535~551の大統皇帝の時代である。五胡十六国に続く時代で、隋王朝の2代前である。

第249窟  窟頂南面 帝釈天妃

帝釈天妃は西王母とも呼ぶ。窟頂南披の中位に西王母が鳳車に乗り出かける絵である。「山海経」の記載によると、西王母は西南の南、流砂の浜、赤水の後ろ、黒水の後ろから黒水の前の崑崙山の上に住んで居た。その形は「やつがしら、虎の歯、豹の尾」で、全く原始社会のトーテムの様相そのものである。図は貴婦人に描かれて,三台の鳳の車に乗り、大袖の上着を身に着け手をこまねいて立っている。両側には騎士の鳳凰が続き、後ろには白虎が開明し、後ろへつづいていて、空が回転しながらも雲も飛び舞う雰囲気の中を隊列が西へと向かう。

第249窟  窟頂北面の下方   野猪群

図は僅か何本かの簡潔流暢な白線描法を用い、一頭の母猪が六頭の子猪を連れて森林の中を獲探しして駆け回っている情景を、生き生きと表している。西魏時期の芸術技芸の高さが見て取れる。

第249窟  窟頂北面東の下方   狩猟図

屈頂北披下方、森林の中に二人の狩人が馬に乗って駆け回り、左方向の狩人は身を振り返り弓を張り虎を射らんとし、右方向の狩人は逃げ回る三頭の黄羊を追跡し、正に槍を投げんとしている。この作者は簡潔で概括な絵筆で虎の凶猛さ、羊のあわてふためく様と狩人の勇敢と機敏さを描いている。古代の西北地区の牧畜西生活の信実を描き出した一福の図景である。

第285窟  窟頂東面

洞窟は中唐、西夏及び元代に修復された。窟頂東披中央に二力士が摩尼宝珠と咲き開いた蓮の花を持ち挙げているのが描かれ、sの両側には中国古代神話や伝説の中の伏羲、女媧、飛天、九面人面龍身と人非をえがいており、南側は鳥獲、飛天が描かれ、下方には森林で、猟する場面が描いてある。南側は鳥獲、飛天が描かれ、下方には森林で、猟する場面が描いてある。その中に、座禅の僧侶が正座して、心を打ちこんで修行しており、禅室外の山林の中には獣が出没していて、誠に変わった趣がある。

第285窟  北壁上層  説法図仁舗 (七仏之四、五、六)

図の北壁上層の東から第四舗は釈迦仏である。この三脅仏の下方は墨書発眼文の両脇は供養人の題名である。

第249窟  窟頂東面  力士棒摩尼宝珠

洞窟の塑像は清朝の時期に改修された。しかし壁面は西魏時代そのままの原作である。摩尼宝珠は即ち如意宝珠をいう。民間の伝えによればもしもこの宝珠を得た者は随意に欲することが可能なり、と言われる。図の中央には二力士の棒蓮華魔尼宝珠が描かれていて腕から翼が生え、強肩で有力である、その両側には飛天と朱雀が描かれ、下には人とチ鳥獲が曲芸を披露し、亀と蛇が相交わる玄武及び虎身人面九頭の開明神獣が等がいる。下方は山林や野獣である。作者の構図は実に趣がある。

第432窟  中心柱東向き龕の南側  脅侍菩薩

此処は、中心塔東方向の外南側の矜恃菩薩一尊で、1.22メートルの高さ。顔は四角で豊満、額は広く整い、眉は広く整い、眉が濃く目が美しい。小さな唇は薄く、イタリングが肩に垂れて、下向きに微笑んでいて、喜びの表情を見せる。体はスリム型で、上半身が裸形で、やや前へ傾いている。スカーフが肩から下へ垂れて腹部で結ばれ、更に肩へと戻っている。長い紅色のスカートで、その肘が対称で、前後ろに揺れ動き青と緑色が相交わって漂っている炎模様の光沢と光景が際立って、殊の外端麗さを呈している。塑像は極めて細かく丁寧に造られ、色彩も淡げで、姿態が痛美。「秀骨清像」と称えられる西魏時期に作られた塑像の代表的な作品である。

北周篇(557~581)

六朝の南北時代で西魏に続く時代で、557年~581年の間である。北周を以て南北時代は終り隋王朝となる。

第428窟   東壁   サッタナ太子本生

五代に改修された洞窟である。図はサッタ太子本生の物語で、北魏時代第254窟と同じ処理だが、テーマが異なる。絵の作者は壁を上、中、下の三層に等分し、長い絵巻の構図を成して、人物の物語のスジを際立たせる手法で、”人間は山より大きい”という表現形式で、それぞれのスジは山、樹木、家屋で間隔を取って、密接に接続する連関面を形成している。上層は北から三王子が深山に入り、飢えた虎を見てサッタ太子は虎の餌食となり、頸を刺されて出血し、、頸を刺され出血し、またが岸壁に投身する。下層は南から二人の兄が遺骸を見て悲痛の絶頂に陥り、馬を馳せて王宮に戻り、サッタの全てを報告すると、国王は遺骸を塔の中へ収めて供養する。

第428窟  南壁   飛天と菩薩

図上の上方は四半身半ば裸の飛天で、その内二身は琵琶と箜篌を奏で、二身は踊っている。下方の四身は供養菩薩で,一身は腋衣を身に纏い、手の浄瓶を下げており、残りの三身は上半身が裸形で、下半身にはペリシャ風のズボンを履き、腰には膝まで覆う物を結んで、スカーフは地に垂れている。身の姿は皆同じだが手と腕の姿態が異なる。

第428窟  東壁北側  スダナ太子本生(局部)

図は東壁の北側中層に位置する。作者は局面の物語のスジを上、中、下の三段に描き、その中には十数カ所のポイントの場面がある。本図には上段と中段だけの場面で、上段はバラモンの労働者が負傷したので白象に乗せてくれと乞い、するとスダバナは快く喜捨する。中段ハバラモンの労度叉が宝像に乗り敵国に帰国した。敵国の大臣は国王に太子の告げ口をすると、国宝は大いに怒り、スダナ太子を国外に追放した。

 

本稿では、西魏篇(535~556)、北周篇(557~581)の10点を紹介した。この先は隋代に入るが、この西魏篇、北周篇は、私の知見も少なく、難しかった。お読みになった方にも不便をお掛けしたと思う。隋代以降は、中国歴史として学んでいるので、もっと分かりやすく解説できるものと思う。

(本稿は、図録「敦煌石窟の珍品」、東山健吾「敦煌三大石窟」、「NHKシルクロード第2巻 敦煌」、山崎茂久「中国美術年表」を参照した)

敦煌莫高窟の美(1)

中国の敦煌の莫高窟の壁画、仏像の美しさ、古さ、の夢を掻き立ててくれたのは、私にとっては、井上靖氏の「敦煌」(とんこう)、「楼蘭」(ろうらん)、「西域物語」(せいいきものがたり)等の小説であった。いずれも昭和30年~40年代に書かれた小説である。井上靖氏も西域や楼蘭、敦煌を訪ねたことはなく、すべて想像上で書かれた作品であった。まだ20代の私は、井上氏の作品を読み、まだ見ぬ「敦煌」にあこがれ、何時か是非、訪れたいと思い続けた。たまたま昭和54年の4月からNHKのテレビ第一放送で「シルクロード」の長編テレビが石坂浩二氏のナレーションで、毎週日曜日午後8時より1時間放映された。私は、毎週日曜日の午後8時が待ち遠しく、大変楽しみにして毎回眺めていた。「シルクロード」の第2部が「敦煌」で、「敦煌莫高窟」の壁画や仏像を飽かずに眺めたものであった。テレビだけでは物足らず、いずれ敦煌跋扈窟の壁画、仏像類を拝観し、自分の知見を高めたいと思っていたが、実現したのは、会社(明治乳業)を63歳でリタイヤーし、自分の設立したコンサルタント会社(株・フランチャイズ研究所)を創業し、事業も軌道に乗った2000年8月11日から8月18日までの8日間の「敦煌の旅」であった。グループは8名で、手ごろな人数であり、実に楽しい海外旅行であった。幸い、日程、写真類が完全に残っており、これを既に「黒川孝雄の美」2012年8月に3回に分けて連載している。今回は、私の「旅」の部分をできるだけカットし、敦煌・莫高窟の壁画、仏像類多数(100個以上」紹介し、莫高窟、楡臨窟等の壁画を主として紹介し、莫高窟、楡臨窟等の壁画を主として紹介したい。日本の美術展で、見られる敦煌莫高窟などは、残念ながら複写物であるが、幸い旅行中に入手した「敦煌莫高窟の珍品」という本は、壁画をそのまま撮影した珍しい本であり、現地ならでは入手出来ない珍品であった。この本を主題にして、NHKの「シルクロード 全12巻」を参照して作成した。

この「敦煌の美」が「黒川孝雄の美」の最終を飾る文集となる予定で、10回~12回程度を想定している。私も楽しんで書くが、是非皆さんも楽しんで読んでいただきたい。

敦煌跋扈窟は紀元366年に、僧楽僔(らくそん)が山に光るものを感じて、ここを霊地として第一屈を掘ったことに始まるとされる。オアシスに近づくと、山危山(さんきざん)と鳴沙山(めいさざん)が相迫って狭間を造っているが、そこには小さいオアシスの緑が帯状に置かれている。その緑の中に鳴沙山の断崖に造られた莫高窟(ばっこうくつ)は、南北1600メートルの長さで大切に保管されていたのである。

ここに収められている塑像は3千点、全壁画を横に並べると45キロに及ぶという。このすべてが4世紀から14世紀にかけて、約1千年に亙って開墾され、荘厳(しょうごん)されたもので、自然の乾燥度がこれらを守り、絶えず落ちこぼれて来る鳴沙山の砂も、これを守ってくれたのである。

敦煌文物研究所所長常書澒(じょうしょこう)氏の説明によると、現在判明している492の窟の時代配列は次の通りである。

十六國(7)、北魏(11)、西魏(7)、北周(12)、隋(79)、初唐(40)盛唐(81)、中唐(46)、南唐(60)、唐・時期不明(5)、五代(27)、宋(34)、西夏(64)、元(9ないし13)、時代不明(10ないし6)

時期不明を5として数えると、232窟を数える。

私が見たのは、跋扈窟のうち15窟程度で、全体の一部を見ただけである。しかし、当時は、まだ敦煌まで見学に来る人も少なく、有名窟を拝観することができ、敦煌莫高窟の全体を理解できるように組み立てられていた。説明者は中国の30代の美しい婦人であり、日本では成城大学の東山健吾先生の下で、「敦煌史」を学んだ女性で、美しい日本語で説明をしてくれた。非常に恵まれた環境であった。

現在は,中国も豊かになり、中国人の敦煌詣でが多いそうであるが、来街者が多すぎて、多くの有名窟を案内すると、人の吐く息で、壁画が崩れる心配があり、屈も有名窟をはぶき、見せる窟の数も5~6件程度だそうである。

敦煌石窟の写真

敦煌石窟の中には赤い色を塗ったトンガリ屋根が見える。ここは敦煌石窟の真ん中であり、130窟に当たり、26メートルの堂々たる倚座の弥勒菩薩像がお雨られている。敦煌の彫刻はどれも塑像であるが、この大仏だけが岩を削って造った唯一の石像で、その森厳な表情といい、その静まり返った体躯といい、正に盛唐のゆたかさを代表する傑作である。中は見らないかも知れないが、これから敦煌を訪れる人は必ず」、この大きな窟は拝観していただきたい。

北涼篇(421~439))

第275窟 西壁 交脚弥勒菩薩   北稜(公元 421~439)

交脚弥勒菩薩像を拝したのは初めてである。日本には伝わっていない。この像は、莫高窟現存の初期塑像中、最大の一尊の弥勒菩薩で、高さ3.4メートル。弥勒像の右手は傷つき、左手を膝に置き「与願印」し、手の掌を上に、交脚、獅子が二匹座り、頭に三珠宝冠を載せ、鈴のネックレスをつけ、瓔珞をつけ、腰にはひだスカートを纏い、スカートには泥のしわを貼り、更に線模様が彫られている。菩薩の頭が豊艶で、端正な顔つきである。莫高窟初期の代表作である。なお、日本には、残念ながら交脚佛は無い。

第272窟  西壁南側  供養菩薩  北涼(公元421~439)

十六國時期に、鳩摩羅什(くまらじゅう)が長安を訪れ各種の禅経を翻訳の後、禅経が北方を風靡し、僧人が常に座禅や念仏をしたり、観像のために、佛龕を建造した。洞窟はやや狭く、中にあるのは殆ど千仏である。図の本尊は上半身が裸状で、薄絹の天衣をまとっている。あるのはうずくまり、手腕の姿が多異で、実になまめかしくしなやかで、あっさりとした顔付である。敦煌石窟で実在した中の初期壁画の代表作である。

第272窟  洞窟の天井  伏斗式藻井  北稜(公元 421~439)

この藻井は積み重なり弐方形天井で、ドームの天井が覆頭藻井に移り変わり式の天井で、、蓮華、火焔と飛天と千仏が描かれている。ドーム天井の真ん中を浮き彫り、三重積み式四方形天井が重なり合って中心で一連の花弁をなし、別れ角は炎模様と上身裸形のの飛天の装飾、外側の周囲は忍冬雲模様。ドーム天井は高遠の感がある。

第275窟  南壁 飛天と供養菩薩    北涼(公元 421~439)

この洞窟は十六國の時期に建造され、宋朝の時期に修復された。絵に描かれた飛天と供養菩薩は本洞窟南壁に位置する一組で、飛天の構図が優美であり、菩薩の造形がいきいきとして、姿態がおだやかである。

第275窟  北壁中層  月光王本生   北稜(公言 421~439)

ビリンジェリ王は釈迦牟尼の前生で図はビリジェリ王が切実に法を求めたいと思い甘んじて自分の身に千本の針を労度叉に打たせた場面である。労度叉は左手で釘を打ち、右手は金槌を振り上げビリジェ王の胸倉叩きゆけようとしている。しかし王子はびくともせず平然としいている。このことが王子の超人的忍耐力と法を求める決意を充分にあらわしている。

北魏篇(439~535)

第259窟   北壁龕内  禅定佛像    北魏(公元439~535)

この洞窟は宋代の頃改修された。図は北壁下層の東龕内の禅定仏像であり、高さ0,92メートル。結踝跋座し、頭上に曲げを結い、面は方形で、深い沈思に入る。その造形は洒脱、厳正である。衣に刻まれた模様が自然に起伏して、誠に美しい。それに薄絹が透かしを感じさせ、出水のごとき立派な衣である。

第254窟  南壁中層東端   サッタ太子本生

この洞窟は隋代に改修された。図はサッタ太子の捨身飼虎(しゃしんしこ)物語の場面である。物語の内容は、サッタ太子とその二人の兄と一緒に狩りに出かけた時、山の中で一頭の虎が飢えに迫られて、生んだばかりの七匹の小虎を正に食べようとしているのに出会った。サッタは小虎を救おうとし、毅然として竹の先で首を出血させ、身を断崖に投じた虎の餌食となる。二人の兄は急ぎ足で宮中に戻り、サッタが虎の餌食になったことを父母に伝えた。図は王と夫人があたふたと山間へ急ぎ、死骸を抱きしめて泣き、又死骸を片付け塔を築き供養した。絵の画面の物語は生き生きとして感銘させられる。絵のアイデアが精巧であり、部署が緊密、初期の絵物語の中の傑作である。日本の法隆寺には玉虫厨子須弥座絵の「捨身飼虎図」と「捨身聞偈図」が有名な国宝がある・

第254窟  南壁  捨身飼虎   北魏(公元 439~535)

サッタ太子が捨身飼虎の感動的場面である。上部の真ん中は3人が山の中で狩りをしている時飢えた虎に出逢う。上部の西方はサッタが首を刺し血を流して身投げした。下部の東方には父母が死骸を抱き泣き入り、そして塔を築き供養する情景である。

第254窟  北壁前部中層   難陀出家   北(公元  439~535)

図は難陀が出家するのを描いた精細な感動的場面である。難陀は釈迦牟尼異母兄弟で、限りない美麗な妻がいる。釈迦は弟を剃髪させて無理に出家させた。けれども弟の難陀は妻に慕い思う気持ちが常に現れた。ある日こっそりと家へ戻った時、釈迦に発見され、連れ戻されて、厳格に訓戒され、また彼を連れて天宮を遊覧させる。諸々の天を見せた。続いて地獄を遊び、釜場の処刑を見せられる。難陀は悔い改めて、一心不乱に仏を敬いで出家し、後に羅漢と成る。図にある仏陀の右下の比丘は即ち難陀であり、東西の下方は難陀と成る。図にある仏像の右下の比丘は即ち難陀であり、東西の下方は難陀と妻がなごり惜しむ情景を表している。絵の内容は豊かで生き生きとしており、また真実感があり構想も精密で、配置もよく、敦煌石窟に残された只一幅の精品である。

第257窟  中心柱の上層にある南向きの龕 思惟菩薩 北魏(公元 439~535)

中心柱の上層にある南向きの龕の禅業造像で、眼内には弥勒菩薩が半ば跋座しており、普通思惟菩薩と呼ぶ。菩薩の高さ0.92メートル、右足を左の肘に重ね、右手の一本の指で顎を支え、上半身が前へうつむき、考えに耽っている。

 

敦煌石窟の平画や仏像類を紹介したが、ある程度、仏教の知識がないと、折角敦煌石窟を見学しても、あまり記憶に残らないだろう。私は、最低限の仏教の知識、知見があつたので、今でも明瞭に思い出すことが出来る。

(本稿は、図禄「敦煌石窟の珍品」、東山健吾「敦煌三大石窟」、「NHKシルクロード第二巻 敦煌」、井上靖著「敦煌」「楼蘭」「西域物語」「遺跡の旅・シルクロード」、東山健吾「敦煌三大石窟」を参照した)

「美の求道者 安宅英一の眼 安宅コレクション(6・終)

第Ⅱ部 美の選択 ーものは三顧の礼をもって迎えるべし

ものについておおく語らなかった安宅英一氏は、もの自身をして語らしむことを念んじ、それに委ねることを期していたように思われる。-安宅氏は、文章を殆ど残さなかった。

ー安宅コレクションの形成過程は、第1部で4期に分けて展開を試みた。必要な素材はそこに殆んど提示されている。第Ⅱ部では、さらにそれを補うものとして、安宅氏の言行を第三者として見聞したことをよりどころに、安宅氏の追い求めたものを辿っていくこととしたい。安宅氏の発言の中から、記録にとどめたいのは、次のようなものである。「三顧の礼をもって、ものを迎えなばなりません。」「人にお辞儀しているわではなく、その後ろにものが見えるのです。ものに向かっては、いくらお辞儀しても、し過ぎることはありません」、「人でも、ものでも、結局のところは品です。品格が大切です」、「何故、集めるのですか、と質問されたら、月並みですが、そこに山があるから、ということだけでしょうね」、「コレクションとは誰が持っていても同じでしょう」。これらの言葉だけが、針の孔から天をのぞくに似た役割を果たすだろう。ーこれらの言葉だけが、針の孔から天をのぞくに似た役割を果たすだろう。これらの言葉の意味するところは、やきものとは安宅氏にとって、精神的なものと深くかかわりを持ち、安宅氏自身の自己研鑽に直につながるものではなかったか、という推量である。収集する安宅氏の姿は、求道者の趣を帯びざるを得なかった。

重分  三彩貼花  宝相華文  壺  唐時代(7世紀後半)

唐三彩という呼び方で親しまれている三彩は、おもに洛陽や西安の周辺の貴族墓から出土している。この壺は華麗な唐三彩の代表的なもので、陶笵でつくつた円盤状の宝相華文が胴部の周囲に3ケ所貼り付けられている。

重分  青磁  鳳凰耳花活   龍泉窯 南宋時代 12世紀

砧形の本体に鳳凰の頭部をかたどった耳が左右につく瓶である。厚くかかった青磁釉は淡い青緑色に発色し、典型的な南宋時代の龍泉窯青磁の特色を示している。丹波・青山家の伝世とされる。

青磁 長頸瓶   銘「鎹」(かすがい)

南宋時代から元時代にかけて、龍泉窯で制作された青磁が日本に多数伝来している。ヒビの入った部分を補強するために、鎹の形をした金属が嵌め込まれている。この補修技法は明時代のころから中国で盛んにおこなわれた。

重美  青磁陰刻  蓮華文   三耳壺   高麗時代・12世紀前半

蓋の紐や肩の耳は、金属器の装飾を忠実に映している。この部分に紐を通して、蓋と身を固定したと思われる。線刻の文様はそれとは対照的に大変繊細で、少し離れると青磁釉に隠れて見えないほどである。

青磁陽刻  牡丹蓮華文   鶴首   高麗時代・12世紀前半

長い頸にちなんで日本では鶴首瓶と呼ばれているが、こうした器形の起源は中国・唐代の越窯青磁にさかのぼる。もとは金属器をモデルとするが、鋭利な角を落として甲羅青磁らしい柔らかな形となっている。

青磁逆象嵌  牡丹文  梅瓶   高麗時代・12世紀後半

高麗の象嵌青磁でも文様はなくその背景を象嵌した「逆象嵌」は珍しい。剥落しやすい白土を一面に象嵌し、躍動感ある蓮華文を引き立てている。文様の細部には陰刻が用いられている。口部は後補である。

青磁鉄地象嵌  草花文   梅瓶    高麗時代・12世紀

青磁土に鉄絵具を塗りつめ、青磁釉をかけて焼いた青磁の一種である。全面に大胆に文様が施されるとういう珍しい例となっている。

青花  草花文   面取瓶   朝鮮時代・18世紀前半

安宅コレクションの青花を代表する作例の一つ。京畿道広州金沙里窯址では、表面を削って多面体とし(面取)、顔料を惜しんで簡素な草花を描く青花が焼かれた。日本では風情ある趣から秋草手とも呼ばれる。

重分  三彩   壺    奈良時代・8世紀

奈良三彩は中国唐三彩の影響のもとに誕生した。その代表は世界最古の伝製品、正倉院三彩で、これらは仏教儀式用の調度品であった。本作は江戸時代、奈良県生駒郡で出土したと伝えられる火葬蔵骨器である。

 

長い「安宅英一の眼は(6)をもって終わる。大阪の東洋陶磁美術館へ行けば、一部を見ることができる。しかし全作品を見るためには、多分10回ぐらい通う必要があるだろう。すべて住友財閥グループが購入して大阪府に寄付したものである。

 

「本稿は、図録「美の求道者 安宅英一の眼 安宅コレクション  2007年」、図録「東洋陶磁の展開  1990年」を参照した)

美の求道者 安宅英一の眼 安宅コレクション(5)

第1部  コレクションの形成 第4期 整理期(昭和51年)

ー昭和52年9月30日を以て

創業以来、70年以上に及ぶ歴史を誇った安宅産業株式会社は幕を閉じた。翌10月1日から安宅産業株式会社は伊藤忠商事株式会社と合併し、安宅産業の名は永遠に消滅した。安宅時代の債権者債務や資産は、合併先の伊藤忠が引き継いだが、引継ぎが無かった部分もある。安宅コレクションがその一つである。このコレクションの行方については、部外者の私も大いに気をもんだもので、海外への流出のみは、防ぎたいと思ったものである。これら安宅時代の宙に浮いた資産は一括して、清算整理会社であったエーシー産業がすべて受継ぎ、主だった債権者である住友銀行・協和銀行と共同して管理に当たった。安宅コレクションの収集活動は、事実上、昭和50年3月末で終止した。その後、昭和51年度はコレクションの整理期に当たる。すなわち、昭和50年末までの古美術商に対する未払金の処理、もう一つの、安宅産業の子会社であった安宅興産(株)の美術品資産をすべて本社である安宅産業に(株)の美術資産をすべて本社である安宅産業が引き取った時期である。整理期の美術品をまとめてみた。必ずしも落穂拾いではなかった。

青磁象嵌  葦文 水注   高麗時代・13世紀

金属器の水注を青磁で作ったものである。表面には葦文が象嵌されているが、本来あらわされるべき蜻蛉や鳥などは省略されている。次第に文様の簡素化が進む13世紀の作例と見られる。

青磁象嵌 牡丹文  陶板 高麗時代・12世紀後半

薄手の陶板で、中央には象嵌による牡丹唐草文が菱形の窓絵風に表されている。こうした陶板の用途については王宮や大寺院などの建築装飾との説もある。類品が全羅北道扶安郡川里窯址から出土している。

粉青象嵌  草花文   篇壷

篇壷とは四方を押さえて平らにした酒や水の容器で、朝鮮時代には梅瓶にかわって数多くつくられた。本品は象嵌文や灰色の地を残す点で高麗青磁の面影をとどめており、粉青のなかでも早い時期の作例とされる。

粉青象嵌 連弁文  蓋   朝鮮時代  15世紀

はっきりした用途はわかっていないが、単なる蓋と言うよりも祭祀などに使われたと見られ、韓国・故林博物館にも類例が2点伝わっている。面象嵌による連弁文帯や鱗状の文様などは初期粉青の特色でもある。

粉青掻落   牡丹唐草文  梅瓶   朝鮮時代・15世紀前半

15世紀粉青梅瓶は、中国・明代の陶磁の影響により、高麗の梅瓶よりも腰がしまって、はっきりとしたS字形を描く。白土を塗った後、文様の背景部分の白土を掻き落としたもので、牡丹が浮き上がって見える。

白磁  祭器   朝鮮時代  16世紀

「き」と呼ばれる祭器で、本来あるべき複雑な装飾を省略し、かえって造形の力強さを増している。15世紀後半~16世紀にかけての慶尚道西部地域で焼かれた柔らかい質の白磁である。

青花  双鶴文  壺  朝鮮時代(19世紀前半)

民画風の絵付けの青花は19世紀から増えていく。時代が下がるにつれ様々な動物が加わるが、本作では鶴のみを拡大し、18世紀後半のすっきりした空間が重んじる文様構成の余韻をとどめる。

 

「安宅コレクション」の最期を飾る「整理期」に当たる昭和50年~51年頃にかけて収集された作品が、この第四期(整理期)の作品である。第3期の重文や国宝のオンパレードに比べれば、やや寂しいが、再び朝鮮陶磁に向かい、それなりのコレクションになっている。第二部においては、更に優品を紹介することとするが、一応コレクション取集の最期を飾る朝鮮陶磁であった。

(本稿は、図録「美の求道者 安宅英一の眼ー安宅コレクション  2007年」図録「東洋陶磁の展開   1990年」を参照した)

美の求道者 安宅英一の眼 安宅コレクション(4)

第1部 コレクションの形成  第3期 成熟期(昭和41年~昭和50年)

コレクションの形成には、大きな波があり、コレクションの中核ともなるべき作品が集中して入手できる時期と、そうでない時期がある。資金的な裏付けが基盤にあることが言うまでもないことであるが、資金の問題がすべてではなく、時の運というものがあることは否定できない。安宅コレクションにとって、昭和40年代は、まさに上げ潮の時期であった。日本列島改造論に象徴されるように、景気拡大に恵まれた。資本金も、昭和44年には100億円、昭和50年には年商2兆円、従業員数も約4,000名に達し、安宅産業は、日本における十大商社の第九位に列せられた。第3期の特徴は、韓国陶磁についても充実した時期であったが、中国陶器について言えば、千載一遇のチャンスに恵まれ、百花繚乱の勢いを迎えた時期であった。重要文化財、国宝クラスとの出会いが、昭和40年代に訪れた。今回は、安宅コレクションの中でも、特に優れた美術品を10点紹介したい。

重文 緑釉黒花  牡丹文 瓶  慈州窯・北宋~金時代(12世紀)

素地に白化粧をしたうえに鉄絵具を塗り、文様の周囲を掻き落として焼成された白地黒掻落の製品に緑釉を施して再焼成したものである。張り出した胴部の局面を巧みに使って牡丹文がバランス良く配置されている。

重文 白磁銹花  牡丹唐草文   瓶  定窯 北宋時代(11~12世紀)

白磁の胎土に鉄泥を掛け、文様の背景部分を掻き落としている。結果として鉄泥による褐色の牡丹唐草が白磁の中に浮かび上がっている。定窯白磁に磁州窯の技法が応用されたものと言え、定窯でも珍しい作品である。

重文  青磁刻花 牡丹唐草文  耀州窯 北宋時代(11~12世紀)

耀州窯の刻花は彫りの鋭さと鮮やかさの点で中国陶磁の中でも随一のものである。オリーブグリーンの青磁釉が片切彫による垂直に切り込んだ深い部分では色濃く見え、文様がいっそうはっきりとしている。

国宝  油滴天文  茶碗     建窯  南宋時代(12~13世紀)

黒釉の表面に無数の斑点がきらめく様子が、水面に広がる油のようで、油滴の名で呼ばれている。国内に伝世する油滴天目のなかでも、器形、釉調などが特に優れ、関白秀次の所持品として有名である。

国宝  飛青磁  花生   龍泉窯  元時代(13~14世紀)

飛青磁とは素地の上に鉄絵具による斑点を置き、その上に青磁釉を施したものである。元時代には青磁や青白磁に鉄班文を置く装飾が流行した。この花活けの器形は、玉壺春と呼ばれて親しまれた酒瓶である。

重文  木葉天目   茶碗   吉州窯  南宋時代(12世紀)

吉州窯では、黒釉と黄褐釉の重ねがけによってさまざまな文様が表された。本作品もその一つである。葉脈や虫食いの跡まで残り、実物の葉をも言いたとされている。加賀・前田家の伝来である。

重文  青花  蓮池魚藻文  壺  景徳鎮窯 元時代(14世紀)

コバルト顔料で文様を描き、釉をかけて焼く青花の技法は、元時代の景徳鎮窯で完成した。魚藻図は、やはり元時代の江南地方で流行した画題である。本来は蓋があり、酒などの液体を入れた容器であった。

重文  青花  琵琶鳥文  盤  景徳鎮窯 明時代・永楽(1403~1424)

型により焼成され、少しのゆがみもなく焼き上げられている。中央には琵琶の実をついばむ長尾鳥が濃淡をうまく使い、端正かつ流麗に描かれ、あたかも一幅の絵画のようである。周囲には数々の瑞果などが見られる。

重文  瑠璃地白花    盤(「大明宣徳年製」銘)  明時代・宣徳(1426~35)

瑠璃釉を掛け白抜きで文様を表す技法は元時代に先例がある。見込みの牡丹枝折など白抜文様の細部ににはさらに刻印が加えられている。宣徳窯には同じ意匠で異なる技法の作品も知られている。

重文  法花  花鳥文   壺  明時代(15世紀)

法花とは文様を立体的に表し、藍、白、黄などの低火度鉛釉を塗り分けて焼く技法で、三彩と同じ系統に属する。このような大作は稀で、器形や文様構成には、同時代の青花磁器などの共通点が見られる。

 

安宅コレクションの第3期(成熟期)の傑作をまとめて紹介した。日本の陶磁器を代表する名器のオンパレードであり、安宅コレクションの花の時代である。

(本稿は、図録「美の求道者 安宅英一の眼ー安宅コレクション  2007年」、図録「東洋陶磁の展開  1990年」を参照した。)

美の探求者 安宅英一の眼ー安宅コレクション(3)

第1部 コレクションの形成  第2期 発展期(2)昭和29~40年

青磁鉄絵 草葉文  梅瓶  高麗時代(12世紀前半)

鉄絵具で闊達に草花文を描いた後、青磁釉がかけられている。青磁は酸化気味に焼成され、やや褐色となっている。青磁に自由な筆致で文様を表そうとした意欲が見られる。

粉青掻落鉄彩  龍文  梅瓶   朝鮮時代(15世紀前半)

球のように張った上半部と、細くくびれた下半部が対照的な梅瓶である。龍の姿は手早い掻落の技法にあわせて大胆に簡略化され、戯画風でもある。印花の技法との併用も珍しい。

粉青掻落  蓮華文  篇壷   朝鮮時代(15世紀後半~16世紀前半)

ロクロで形成した瓶の側面を叩いて、この辺壺が作られている。そして器面に白土を貼毛で塗り、文様の地の部分を掻落している。このような装飾技法は15世紀後半から見られるものである。

粉青鉄絵  魚文  深鉢   朝鮮時代(15世紀後半~16世紀前半)

形成後、全面に白泥を貼毛塗りし、鉄絵具で文様を描く、鶏龍山と呼ばれるものである。窯跡が鶏龍山のふもとにあることに由来する。特徴のある魚の姿は、鶏龍山で好んで使われたモチーフである。

青花 宝相華唐草文  盤    朝鮮時代(15世紀後半)

鍔状の口縁を持った盤で、低めの高台がついている。このような盤は15~16世紀の白磁に見られる特徴である。見込みの宝相唐草文は酸化コバルトで丁寧に描き込まれている。

青花  松島文  壺    朝鮮時代(16世紀)

松の木に小鳥と、裏面には梅の木に小鳥が描かれているが、特に松葉や小鳥は透明度の高い青色で、樹木部分はやや黒味がかかっていて、コバルトの純度を変えて表現されている。玉縁の口を持つこの壺は16世紀の作例である。

草花 梅竹文  壺   朝鮮時代(16世紀)

16世紀の青花を代表する堂々たる作品である。短く外へ巻き返した口、丸く豊かな胴にこの時期の壺の特徴が見られる。精緻な文様は、専門の画員が窯場に出向いて絵付けしたという記述を立証するかのようである。

白磁  面取壺       朝鮮時代(18世紀後半)

全体を8面に面取りした壺で、口作りの様子から本来は蓋を伴っていたと思われる。かすかに黄みを帯びた釉色が穏やかな印象を与え、胴裾の貫入より生じた染みが景色となっている。

青花  窓絵梅花文   壺    朝鮮半島(18世紀前半)

18世紀前半の青花は、水で薄めた顔料で描かれた淡い発色を特色としている。梅花はデフォルメされているが、枝の表現などには宮中の画壇との関わりがうかがわれる。京畿道広州、金沙里窯址の製品である。

重文  白磁刻花蓮花文   洗  定窯(北宋時代・11世紀)

底部を広く取り、安定した器形で、洗(せん)と呼ばれている。器壁は非常に薄く作られ、その内側と外側に流麗な片切彫で、蓮華文が表されている。伏焼のため、口縁部には銀の覆輪が嵌められている。「三種の神器」が安宅コレクションに昭和39年に加わった時を境に、中国陶器への傾斜は一段と深まっていった。

 

「三種の神器」とは、この定窯の深鉢、続く釣窯盤、続く万歴面盆の3点であり、この鉢は、ロンドンのデイヴィッド財団所蔵のものとともに、定窯深鉢の双璧として名高い。

(本稿は、図録「美の求道者  安宅英一の眼  2007年」、図録「東洋陶磁の展開  1990年」を参照した)

美の探求者 安宅英一の眼ー安宅コレクション(2)

第1部 コレクションの形成 第二期 発展期

第2期は安宅コレクションの土台が固まった時期で、昭和29年から昭和40年までの12年間である。会社の規模も次第に大きくなり、経営も堅実に伸びて行った。コレクションの開始の昭和26年には資本金6千万円であったが、昭和28年には3億円、昭和31年には6億円、昭和32年には30億円になった。因みに、私が大学を卒業し、明治乳業に入社したのは昭和31年で、この発展期の真最中であり、明治もぐんぐん業績を上げ、会社は発展していた時期であり、乳業も上げ潮の時代であった。日本経済全体を見ると、昭和30年に始まる神武景気、昭和32年には一転してななべ底不況、昭和34年には再び岩戸景気を迎え、昭和40年には、戦後最大の証券不況であった。

重美  青磁彫刻  童女形水滴  高麗時代(12世紀前半)

愛らしい童女の姿に作った水滴である。蓮の蕾形の髷が蓋になっており、その部分から水を入れ、抱え持つ瓶が注ぎ口になっている。瞳のかすかな鉄彩や,衣服の繊細な模様が可憐さを際立たせる。

青磁彫刻  童子形水滴  高麗時代(12世紀前半)

大きさ、全体の作り、表現方法など、童女形水滴とほぼ同様の、同時の姿をした水滴である。注入口が器底部にあることと、注ぎ口が胸に抱かれた鴨の口であること等が異なる点である。

重美 青磁印花  龍文  方形香炉  高麗時代(12世紀前半)

中国の古代の青銅器で法鼎の器形を模したものである。また雷文など文様にも古代の青銅器に由来するものもある。これらの文様は印花で表されている。

青磁陰刻  蒲柳水禽文  浄瓶   高麗時代(12世紀前半)

浄瓶には仏前に清らかな水を捧げるための器で、高麗では日常の貯水器としても使われた。前後に春夏のシンボルである柳と葦、水鳥があらわされているが、高麗青磁には春夏を象徴する文様が多く見られる。

青磁象嵌 竹鶴文  梅瓶  高麗時代(12世紀後半9

象嵌とは文様を彫った後に白土や赤土などを埋め込み、白黒の色を加える技法。鶴は時形周りに「涙天」「啄胎」「警露」など中国古来の「六鶴図」に由来するポーズをとっている。

重文  青磁象嵌  海石榴華文  高麗時代(12世紀中葉)

重文に指定された3点の高麗青磁の一つである。文様の背景に白土を埋め込む逆象嵌という珍しい技法により、多産を意味する海石榴華の中央に、蔓をよじのぼる男の子を表し、多産への願いをこめている。

青磁象嵌  折枝文  水注   高麗時代(12世紀後半)

瓜形に作った胴部に、更に象嵌で文様を表した凝った意匠の水注である。肩にはたいへん細かい線刻の蓮華文が巡らされ,丁重な仕事ぶりがうかがえる。蓮華座に作った蓋には鳥形の紐がつく。

青磁象嵌  六鶴文  陶板  高麗時代(12世紀後半)

象嵌とは文様を彫った部分に白土や赤土を塗りこめて白黒に発色する技法。鶴は左から「顧歩」「涙天」「啄苔」「舞風」など中国古来の「六鶴図」に由来するポーズを取っている。

青磁象嵌  牡丹文  壺   甲羅時代(13世紀)

文様の大部分を白象嵌で表したために、連弁と牡丹葉の黒象嵌が効果的なアクセントとなっている。肩に四つ表された房のような文様は、壺の口を覆うための袱紗の房が文様化されたものと思われる。

青磁白堆  雲文  梅瓶   高麗時代(12世紀後半)

青磁白磁の大作は、他に類例を見せない。口縁と銅裾に白泥を塗り、肩と銅には絞り出しで、連弁と雲を描いている。絞り出しの不定形な線が、空にたゆたう雲の様子を見事に表している。

第2期の発展期の1部である。朝鮮陶磁が主力で、いずれも優品であり、これだけ朝鮮陶磁を集めた事例は少ないだろう。

(本稿は、図録「美の伝道師 安宅英一の眼ー安宅コレクション  2007年」、図録「東洋陶磁の展開」大市立東洋陶磁美術館を参照した)

美の探求者 安宅英一の眼  安宅コレクション(1)

安宅コレクションとは、かって日本の十大商社の一角を占めた安宅産業株式会社が、事業の一環として約1,000点に及ぶ東洋陶磁コレクションを言う。その収集を一貫して推進し、指導し、厳しい眼をもって一点たりともゆるがせにせず、比類ないコレクションを築き上げたのが安宅英一氏(」1901~94)であった。安宅氏は昭和30年から40年まで同社の取締役会会長を務め、その後は相談役社賓として同社の取締役会会長を務め、その後は相談役社賓として会社の経営に参画された。しかし、その足跡は、むしろ美術品のコレクターとして知られている。安宅コレクションの母体である安宅産業は、石油事業の破綻から、昭和52年(1977)、伊藤忠商事株式会社との合弁という形を取ることによって事実上の崩壊に追い込まれた。安宅コレクションの帰趨は、国会でも議論されるほどの国民的関心を呼び、海外の愛陶家も注目の眼を向けていた。幸い、安宅産業の主力銀行であった住友銀行(当時)を中心とする住友グループ21社によって、コレクションのすべては、大阪市に寄贈され、散逸を免れることになった。大阪市はそれを受けて昭和57年(1982)、大阪市立東洋陶磁美術館を設立し、コレクションの公開を行っている。私は、今でも大阪へ行く機会があれば、東洋陶磁美術館を訪れ、安宅コレクションを鑑賞することにしている。この「安宅栄一の眼ー安宅コレクション」は、平成19年10月3日(2007)より三井美記念美術館で開催された展覧会であり、その図録を参考にして、本文を書き上げた。「美の求道者」と名付けられた安宅栄一氏の「安宅コレクション」の優品を集めた美術展であり、今でも図録を楽しく見ている毎日である。なお、東洋陶磁美術館にも「東洋陶磁の展開」と題する図録を販売しているが、この「安宅栄一の眼」の図録に込められた愛情は、比較にならない程大きく深い。

第一部  コレクションの形成期  第一期 草創期

青磁陽刻 蓮華文  梅瓶  高麗時代(12世紀前半)

高麗の梅瓶は、王宮や寺院用の高級容器としてつくられた。美しい釉色を通して陽刻による繊細な文様が浮かび上がるのは、この磁器の特徴である。全羅道唐津群沙堂里窯跡から同種の破片が出土している。

青磁象嵌 雲鶴文 水注  高麗時代(12世紀後半)

金属器の水注をモデルにしたものであるが、広い面に鶴と雲が大きく表されている。大空に浮かぶかのような雲と鶴は古くから描かれた画題であるが、高麗青磁の文様にも多用され、その美しい釉色を生かした表現となっている。

青磁象嵌 蝶牡丹文  浄瓶  高麗時代(13世紀)

鶴首瓶の祖型は越窯青磁や金属器、西方のガラス器などとも言われている。本来、蓋が付き、水などの液体を入れていたと考えられる。首がやや太く胴部はまん丸でずしりと重みがある。文様の配置も巧みである。

青磁象嵌  蝶牡丹文  浄瓶  高麗時代(13世紀)

浄瓶は浄水を入れる仏具で、観音菩薩の持物の一つでもある。青銅製のものがその祖型で、高麗では銀象嵌の青銅製浄瓶も知られる。蝶と牡丹を交互に配するなど精緻な文様構成がこの作品の大きな魅力である。

黒釉  瓢形瓶  高麗時代(13世紀)

青磁土にたっぷりと黒釉をかけるが、黒色や褐色など、さまざまな色の変化を見せている。黒釉の年代はまだよく分かっていないが、形は12~13世紀の青磁に通じ、同じ頃に焼かれたとみられる。

粉青掻落  牡丹文  梅瓶   朝鮮時代(15世紀前半)

小さな口を持ち肩部が膨らんだ器形を梅瓶という。15世紀になるとやや肩部の下がった造形になってくる。器面に施された白化粧を掻き落として、胴部の牡丹文や胴裾の連弁文が表されている。

粉青絵粉引  草花文  梅瓶  朝鮮時代(16世紀)

ロクロで瓶をひきあげた後、両面から押して胴を平に作る篇壷と呼ぶ。白土を溶かした液に器を浸して白一色とし、鉄絵具で簡略な草花を描くもので、全羅南道高與群雲岱里窯跡などで焼かれた。

草花    草花文       壺           朝鮮時代(16世紀)

胴部中央に余白をたっぷりとり、草花文がコバルトで描かれている。口縁部の外側には如意頭の文様帯が巡らされ、壺の形を引き締めている。

草花          葡萄文          盤         朝鮮時代(19世紀前半)

見込み中央に一房の葡萄が草花で濃淡をうまく生かして描かれ、水墨画のような巧みな表現となっている。周囲の広い余白によって葡萄の豊穣さが一層際立っている。

三彩刻花          花文       瓶      慈州窯系・金時代(12世紀)

唐時代の明器を中心に流行した三彩は、宋や遼、金時代でも引き続き造られた。首のやや長い造形や、簡素で大きめの花の文様表現は金時代の特徴と言える。華北地帯の慈州窯系の窯の製品と考えられる。

 

「安宅栄一の眼」は記憶に残る展覧会であった。まず、陶器のコレクションとしては世界最大と言ってもよい位、内容の充実していた展覧会であった。また、個人コレクシヨンでは無く、営利会社の法人としてのコレクションであり、かつ内容も素晴らしいものであった。中国・韓国の陶器コレクションは、日本に数多くあるが、法人のコレクションとは、他に類を見ない。勿論、石橋コレクションのように会社が資金を提供し、非営利法人を設立して、収集する事例は多いし、多分、大抵のコレクションは三菱にせよ、住友にせよ、非営利法人を作って、そこの活動としてコレクションを集めることは常識でもある。営利法人の事業、その営利法人が倒産した等話題になるケースであった。特に、安宅産業の社宅は、明治乳業の市川工場の社宅の近くにあり、個人的に親しい人もいた関係で、誠に他人事ではなかった。展覧会開催後、まだ13年しか経過していないが、何時しか遠い昔の出来事になってしまった。この展覧会の図録を見ながら、安宅英一氏の鑑賞願の鋭さに驚き、世界でも稀なコレクションとして、この展覧会を取り上げてみた。安宅氏の御永眠を祈る。

(本稿は、図録「美の求道者     安宅栄一の眼」、図録「東洋陶磁の展開」を参照した)

特別展  大和古寺の仏たち(6・終)

室生寺

奈良県の北東部、室生川の上流の山間にある山寺で、四季折々の自然に溶け込んだ美しい景観を見せる伽藍と「女人高野」という名で親しまれている。当寺の建つ室生寺一帯は急峻な山岳や渓流によって神秘的な境内が形成され、山中には竜神が住むと信じられた龍穴と呼ばれる洞窟もあり、古来、竜神信仰の霊場として知られている。当時の創建の由来は、宝亀年中(770~78)に、後の桓武天王となった山部親王が病気になった時、室生山中で祈祷を行わせところ平癒し、その後、興福寺の僧賢珪(けんけい)が天皇の仰せを蒙って鎮護国家のために建立した寺であると伝える。賢珪の後を継いだ当時の興隆に務めたのが賢珪の弟子で興福寺の別当に任ぜられた修円であり、優美な姿で名高い五重塔はこの時期に建立されたと考えられる。9~10世紀にかけて、金堂が建立されるなど伽藍の整備が進められ、真言宗や天台密教の流れも加えながら、その後も長く興福寺との密接な関係を保っていた。しかし近世に入ると、当寺の帰属をめぐって興福寺と真言宗が争い、元禄年中(1688~1704)に至って真言宗に編入された。徳川綱吉の母桂昌院の帰依もあり、当寺が、女人禁制の高野山に対して、「女人高野」と呼ばれるようになったのは、これ以降のことである。私は、大学3年生の5月(1954)の連休後に、室生寺に初めて訪れた。殆ど訪ねる人もなく、階段の脇の美しい石南花(しゃくなげ)に魅入られ、更には本堂の部像群の美しさに圧倒され、小さな五重塔にも美しく感じ、「なんと美しい寺だろう」と圧倒されたことを思い出す。当日、大学では、イギリスの有名な女性経済学者が講演する日に当たり、講演よりも室生寺を選んだことに,幸福を感じた。65年前のことが、まるで昨日のように思いだされる。以来、室生寺は私の一番好みの寺となり、何回訪れたか思い出せない程、お参りをしている。

国宝  十一面観音立像   木造  彩色   平安時代(9~10世紀)

室生寺金堂須弥壇の向かって左側に安置されている十一面観音像である。伏し気味の細い目、丸くふっくらとした頬、やや突出した小さめな唇など、豊頬の女性を思わせる特色ある顔立ちを示し、現存する数ある十一面観音像の中でも、とりわけ美しく、親しみ深い像である。十一面観音は変化観音と呼ばれるいろいろな形をした観音の中では最も早く成立し、その超人的な姿はあらゆる方向に顔を向けて人々を救済する観音の力を象徴している。本像の頭上には、髻の上に如来の頭部(佛面)を一面、冠帯上の頭髪部の正面に穏やかな表情を示す菩薩面、その左側に怒りの表情を示す瞋努面(しんぬめん)、右側に口端から牙を出す狗牙上出(くげじょうしゅつ)面を各3面ずつ、さらに同背面中央に大笑いの表情の大笑面を一面の計十一面を拝している、二メートル近い大きな像であるが、頭体を通して榧の一材から彫り出され、背面から内刳りを施している。体躯には張と奥行きがあり、堂々とした量感を示されるが、誇張的なものではなく、頭部がやや小振りに表されているものの、頭体のバランスはよく整っている。本像は、平安時代初期一木彫の特色が整理され、さらに洗練された趣があり、その制作時期は9世紀末ないし10世紀初めに置くのが妥当と思われる。なお、現在の光背は後世補われたものであり、像の表面に残る漆箔や彩色もその大半が後世の補作である。

重文  伝安定羅大将立像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

重文  伝波夷羅大将立像  木造。彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

室生寺金堂の須弥壇を囲む供物壇の正面内側台上に横一列に並べられている十二神将像のうちの2躯である。室生寺本来の像かどうかは明らかではない。いずれも十二支標識を頭上につけ、岩座上に立つ武装神の姿である。今回陳列の安定羅大将は午の,波夷羅大将は酉の標識をつける像で、いずれも炎髪を表し、甲の下に裾を垂らした衣を着ける。波夷羅大将の着衣の形式や右手を振り上げた姿勢は他の十二神将にもよくみられ、もととなった図像も知られるが、安定羅大将の袖なしの上半身の衣、または袴をつけずに素足に長靴を履く姿はくぁっており、典拠はもとより類例もあまりない。鎌倉時代初期に慶派仏師が制作したとみられる十二神将像に連なるものであるが、やや誇張が過ぎ、ぎごちなさもみえるところから、鎌倉後期、13世紀末ごろにくだる時期の制作とみられる。

重文  光背(地蔵菩薩立像付属) 木造 彩色 平安時代(9~10世紀)金堂

現在、室生寺金堂の地蔵菩薩像に付属している光背であるが、本来は、この堂の当初像とみられる安産寺の地蔵菩薩立像の一具をなしていたと考えられる。この光背は二枚の檜の板を中央で接合し、宝珠形の頭光や光脚などの輪郭を浅く彫り出したもので、表面には九体の地蔵菩薩と唐草や花などの文様が鮮やかに描かれている。葉の先端の一部が火焔のようになびく唐草の形をはじめ、文様の描法や配色法、光脚などは同寺金堂の中尊像の光背とよく類似している。この光背は、出色の出来栄えを示す作例の一つとして注目され、さらに、一般に知られる僧形の地蔵の姿を描いた絵画作品としても、日本最古の作例であり貴重である。

安産寺(あんざんじ)

室生寺に近い、室生村三本松の中村区に所在する無宗派の寺である。中村区には、三重方面に向かう近鉄奈良線の室生口大野駅からさらにもう1駅行った三本松駅にほど近い位置にある。当寺は、真堂とも呼ばれ、その管理は中村区によってなされている。本尊は地蔵菩薩像で、現在収蔵庫に祀られているが、その作風が室生寺金堂の中尊と近似しいつことから、本来は室生寺金堂に安置されていたと考えられている。この像がいつ頃当地に遷されたのかは明らかではないが、土地の伝承によると、その昔、当地を流れる宇田川が、豪雨によって異常に増水した時に川辺に流れ着いたもので、村人がこれを救って運んでいくと、現在地付近で急に足が進まなくなった。そこで村人はここが像の安住の場所であると悟って、この地に像を祀ったという。像内には貞享5年(1688)に修理が行われた際に収められた木札があり、その頃にはすでに当地にあったことが知られる。現在、この地蔵菩薩像は中村区の人々によって大切に保護され、「子安地蔵」と呼ばれて親しまれている。また毎年1月に初地蔵会、9月には本尊御命日の法会が行われるなど、篤く信仰されている。

重文  地蔵菩薩立像  木造、彩色   平安時代(9~10世紀)

もと室生寺の金堂に安置されていたと推定される地蔵菩薩像で、現在は室生寺に近い室生村三本松に所在する安産寺に祀られている。いつの時期に室生寺を離れて三本松の地に移ったのかは不明である。この像が安置されている新堂(真堂)の岡下を流れる宇田川(室生川の支流)に漂着したという伝承が残っている。像内には貞享5年(1688)の修理銘を墨書した木札が収められており、本像がその頃、すでにこの地にあったことが知られる。この作風は、室生寺金堂の当初像として中尊像と同一の工房によって製作されたと推測される。平安初期一木彫の特色を示しながらも、誇張の少ない体形や形式的な整いを示す衣文表現など、一歩洗練した感覚があり、制作時期は9世紀乃至10世紀の初めにおくのが妥当と思わせる。なお前掲した光背は、現在室生寺金堂に安置されているという地蔵菩薩像に付属しているが、その大きさの一致からも本来は本像と一具をなしていたと考えられる。(なお、私は、この地蔵尊を拝したことはない。室生寺に近いことは判っているが、どうしても室生寺の美しさに惹かれ、中々室生寺を離れられないのである。今となっては、少し地蔵菩薩を拝するために「安産寺」に行くことは難しい。

當麻寺

二上山の東南の麓に所在し、中将姫の伝s熱を持つ當麻寺曼荼羅と毎年5月14日に行われる迎講(むかいこう)で良く知られる。草創については正確な記録がないため明らかではないが、鎌倉時代の縁起によると、用命天皇の皇子麻呂子親王の発願によって建立された寺を、天武天皇10年(681)に、壬申の乱で功績のあった当麻真人国見が当地に遷し造立しあっと伝えている。天武10年という年次は、現在講堂に安置されている塑像の弥勒如来像や乾漆造りの四天王像の制作時期としても矛盾はなく、当寺はその頃に当麻氏の氏寺として創建されたとみるのが妥当であろう。奈良時代から平安時代にかけての東西両塔が建立されて伽藍が整備され、當麻曼荼羅を祀る現本堂(曼荼羅堂)の前身の堂も建立された。治承4年(1180)平家の軍勢によって金堂や講堂を焼いたが、後に再建されている。鎌倉時代に入ると浄土信仰の展開と共に阿弥陀浄土を描いた當麻曼荼羅が脚光を浴び、多くの信仰を集めていった。現在の宗派は寺内の子別院にて異なる。珍しいお寺である。で                             高野山真言宗勤                              浄土宗

重文 持国天立像(四天王のうち) 脱活乾漆造  彩色  飛鳥時代(7世紀)

金堂土壇の四隅に配される四天王中の一躯で、頬から顎にかけて表される雄大なひげが、その偉丈夫のさまを際立たせる。このひげは、麻布ないし獣皮のようなものを一本づつコヨリ状にした芯の木糞(こくそ)を盛って植え付ける丁寧なつくり方で、本尊の表面仕上げにかわる技法的な特色を端的に示している。本体は、塑土に麻布を漆で張り重ねて乾かす脱活乾漆造りからなる。本像で際立つのはその異国性である。大きな襟を立て、肩で締める形はもとより、胸甲・肩甲・背中のそれぞれを独立的に表し、かつ、その下方の胴部両脇に当てた腰甲とそれを締める幅広の皮状玉帯、さらには最近しばしば言及される未だ日本化されない前楯(まえだて)など、その服制は成都万仏寺出土の神将像や敦煌莫高窟第220窟北壁薬師浄土図中の神将など、中国6世紀後半から7世紀にかけての神将像のそれを正しく継承する。鎌倉時代にはすでにそれらが金銅に祀られていたことが明らかである。一方、他の作例との比較では、飛鳥前期の法隆寺金堂四天王や同玉虫厨子の神将像、同じく飛鳥後期の法隆寺ー橘夫人厨子扉絵の神将像、さらには法隆寺金堂壁画の九号壁中の神将像などからあげられる。このうち最も近いのは法隆寺金堂壁画であるが、中国・敦煌膜後窟第220窟のそれとの近接も著しい。これらを総合すると年代は、やはり本寺創建の天武朝から持統朝にかけて造られたとみるのが妥当であろう。

(1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の佛たち」と題する展覧会の図録を参照して、1から6まで合計6回に分けて記載した、思いがけない長い「美」となった。6月から博物館がコロナのため、逐次閉館されるようになったので、古い図鑑を活用した「美」は、まだ続くと思う。この「大和古寺の佛たち」は中々、力の入った展覧会であったと思いながら、この長い6回に亘る連載を終わることにしたい)

 

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の佛たち  1993年」、図録「特別展 日本仏教美術名宝展  奈良国立博物館 1995年」を参照した)