「ふつうの系譜 (3)」

江戸中期、すなわち18世紀の京の絵画は、華やかである。伊藤若冲、曽我蕭白ら「奇想」もいれば、池大雅や与謝蕪村、丸山応挙らもいた。続く江戸後期、19世紀になると、誰もが知っている画家は少ない。そんな中にあって、華々しく活躍したのが、原在中、岸駒(がんく)である。二人とも、若冲や応挙らと重なる18世紀後半、既に実力も人気も得ているが、19世紀を迎えて、より目立つ存在になったと言えるだろう。岸駒(がんく)の出身は、越中または加賀と言われる。安永8年(1779)に京に上り、初めは「岸矩」(がんく)という名で、清の画家沈南頻風の花鳥画などを描いていた。例えば「厳上双鶴図」などを描いている。天明5年に「岸駒」(がんく)と名前を変えてからは、彼ならではの描き方を打ち出した。特に虎の絵に人気があった。、岸駒は、有栖川宮家に抱えられたのを出発点として、雅楽助の称を許され、ついには越前守に任じられた。当時の宮中を中心とする世界での地位を高めることによってもまた、自分の絵を優れたものとして浸透させたのである。そして、その子の岸岱、岸駒の養子となった岸連山、連山の弟子の竹堂へと、その流れは続いていった。

寒山十得図    岸駒作   江戸中期

実在したかどうかわからない唐時代の人物、寒山と拾得。物乞いのような姿、突然叫んだり、笑ったり、走りだしたりといった変わった行動の中に、真理や奥義があるとされ、禅の世界で崇拝を集めた人物である。そんなテーマだから、中国でも日本でも、薄気味悪い笑みを浮かべた、不可解な表情に描かれる。しかし、数々の寒山拾得の絵と比べても、岸駒の描写は、あまりにもその表情が鮮明で、しかも「いやな感じ」の演出が思い切りツボにはまっている。完全にこちらに向けた視線、二人の口の開き方の違いや眉の形の違い。しかし、見ていて飽きない、不思議に目を惹き付ける味のようなものがある。

竜虎図 岸 連山作  江戸後期

岸連山は、絵の技量を見込まれて岸駒(がんく)の養子になった人物である。かれが描いた「竜虎図」は、雨雲を起こす龍と風を起こす虎という画だとして定番の組み合わせで、天と地を表す両者を墨一色でダイナミックに表している。岸駒の画風を継承しつつも四条派的な温和な雰囲気も感じられる。墨の表情を自在に操つて対象の立体感や空間を描き出しており、水墨画の奥深さを示す作品である。

群鳥図  岸 竹堂作   江戸後期

この群鳥図には48羽の鳥たちが隠れている。アカゲラや雀、エナガ、ウソ、ノジコなど実に様々な鳥が描かれている。「隠し絵」的な遊び心のあるこの作品を描いたのは、幕末から明治にかけて活躍した岸竹堂である。竹堂は岸連山に弟子入りして、岸派を継いだ。画面全体は落ち着いた色調だが、まだ青みのあるドングリや、烈開した栗、赤く色づいた木の実などが、夏から秋への季節の移ろいをみせている。木の幹や枝葉に輪悪銭を用いないで絵がき上げているところである。(没骨法と呼ばれる技法)。鳥たちも、輪郭線は最低限にして殆どが彩色のみで描かれている。画面内にこれだけの数の鳥がいることは驚きだが、それぞれの色彩や配置などが調和していることによって、作品に窮屈な印象を与えていない。

船鉾図  幸野媒嶺作   明治時代

近代京都画壇の画家として思い浮かべる人物は誰であろうか。すぐ思いつくのは竹内栖鳳や上村松園あたりではないだろうかと思うが、彼らが指導した幸野媒嶺を知る人は、まだ少ないだろう。しかし幸野媒嶺なくして近代京都画壇の発展はありえないと言えるほど重要な人物である。(私は、この解説を読むまで、幸野媒嶺は知らなかった)媒嶺は、江戸から明治への時代の変革期において、伝統の丸山四条派の技術を新時代に引き継いだ伝承者でありながら、新たたな美術の道を次代に繋いだ。絵画教育の近代化に尽力し、指導者としての評価が高い一方で、優れた作品も多く残している。「船鉾図」は、その媒嶺が京都の祇園祭で巡行する船鉾を主題にに描いた作品である。前祭の船鉾(出陣船鉾)と後祭の船鉾(凱旋船鉾)との二基が存在したが、後者は元治元年(1864)の禁門の変で焼失し,近年まで休み鉾となっていた。平成26年に鉾の再建が完了し、祇園祭の山鉾巡行に本格復帰した。ここに描かれているのが、幕末に焼失した大船鉾で、当時の姿を伝える歴史資料としても貴重な作品である。雨粒を描くのではなく、人々がさす傘でその場の天候を匂わせるところが洒落ている。

雪中清水寺 幸野媒嶺作  明治時代

清水寺と言えば京都観光では欠かせない定番のスポットである。覚悟を決めて物事を実行する時に使う「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるが、その由来である断崖に建つ本堂から張り出した舞台の高さは約13メートルあり、この高層建築が清水寺なのかと思ってしまうくらいに人影がなく静かである。本堂の「懸け造り」と呼ばれる格子状に組まれた柱は、建築的に整合性を持って描かれているが、雪の音羽山が薄闇に包まれる中、薄墨によってぼんやりと浮かび上がった清水寺はまるで別世界のようだ。

朝陽蟻群金銀搬入図 鈴木松年作  江戸後期

明治初期、「今蕭白」とも称され、自らも蕭白は勿論岸駒も敬愛したという鈴木松年が描いた作品である。見る人をギョツとさせる迫力がある。金銀をせっせと巣穴へ運び込む八十匹を超えるアリ。たらし込みによって描かれた土手や笹とは対照的に、アリは肢の節一つ一つまで強調するかのように丁寧に描き込まれている。勤勉さの象徴であるアリを、あたかも画家と共に地面に這いつくばって眺めているような構図が面白い。

花籠図  土佐光起作  江戸後期

江戸時代に土佐派を再興させた土佐光起の「花籠図」は、まさに「精密さ」そのものである。狂いの無い正確な輪郭線と、その中を彩る精緻な色使いに惚れ惚れしてしまう。その丁寧な筆運びはまさに職人技である。光起は伝統的なやまと絵を継承しながらも、中国絵画の手法を勉強し取り入れた。中国には宋代に隆盛した緻密で写生的な院体花鳥画があり、本作はそこからの影響もうかがえる。本図の花入れは唐物瓢手付籠花入れと呼ばれる形である。それに白菊を中心にススキ・女郎花・紅葉・朝顔といった季節の草花を挿して秋を表している。

岩上鷹・柳枝鷹図  曽我二直庵作  江戸初期

曽我派の曽我二直庵は鷹画を得意としたが、二直庵も同様に優れた鷹画を残している。「巌上鷹・柳枝鷹図」は、二羽の鷹を配置している。右福は柳の木の枝に留まって下を見つめる鷹である。画面に対して後ろを向いた状態で脚を広げ、その間から顔を覗かせている。数ある鷹画の中でもこの様なポーズは珍しく、ユニークである。左幅は岩の上で今まさしく飛ぼうとしている体制の鷹を描いている。両方とも何かに狙いを定めているかのような鷹の表情が勇ましい。鷹画は、その勇猛な姿から戦国武将や徳川将軍家に好まれた。また、どちらからも枝葉の流れや鷹の姿勢が画面上で円を描く様な形になっており、構図の妙が効いている。

十界曼荼羅図  浮田一薫作   江戸時代中期

仏画は色の宝庫である。古来、中国の仏画や厳密な教義に従って、様々な仏を色で表現してきた歴史がある。平安時代後期には、宮廷や貴族の世界で、信じられないくらい繊細で美しい仏画の数々が制作されているが、そこには、美しいものを求める気持ちと、その美しさがすなわち仏の力だという考えがあった。この「十界曼荼羅」は、日蓮宗の本尊として拝される曼荼羅。全ての境地が釈迦如来と法華経の救いに包まれていることを表したものである、「南無妙保蓮華経」の題目を掲げて、右に釈迦如来、左に多宝塔如来が描かれ、題目の下には、獅子に乗る文殊菩薩。ほかにも様々な仏や高僧が見えるが、一番下の真ん中は日蓮である。十界曼荼羅図は鎌倉時代から描かれてきたが、古いそれを模写したのかも知れない。

三国志武将図屏風  中島来章作   江戸中期

丸山派の画家、中島来章。清々しい色調の鯉の絵や花鳥画を多く描いたが、この屏風は、来章としても、丸山派としても、更に江戸時代の絵画としても異色である。テーマは「三国志」。江戸時代にはその小説版である「三国志演義」の翻訳本も出て、幅広い人気があった。登場人物をシリーズ化した歌川国芳の浮世絵は大ヒットして、彼の出世作になったほどである。現代と同じように、江戸時代の人たちも登場人物に入れ込んで、熱くストーリーを語りあっていたのかもしれない。上の図は関羽。馬に乗って振り返る姿は、中国から伝わった定番のポーズである。下の図は劉備。許都の攻撃に失敗して、劉表のところに身を寄せていたが、自分を暗殺する計画を知り、馬に飛び乗って逃げた。追手が迫る中,行く手を阻む激流を飛び越えたという「馬跳壇渓」のシーンである。見事なジャンプを見せる馬と劉備。力を振り絞ってピンチを脱した、その姿である。

 

江戸時代の中期、後期、明治時代の絵画を紹介したが、いずれも日本人が好んだ絵画である。何時の時代でも、流行があり、それぞれの趣向を表している。

「ふつうの系譜」(2)

江戸時代に入った頃の「絵画の世界」には、大きく見ると二つの流派があった。平安時代から続くやまと絵の土佐派と、中世に中国から来た水墨画の流れから生まれた漢画の流れから生まれた漢画の狩野派である。京ではまず、裕福な町人の世界から、豪華でダイナミックなものを描いた俵屋宗達が登場した。そのスタイルは尾形光琳に受け継がれ、更に江戸後期には酒井抱一、鈴木其一等が加わり、独特の感覚を加えている。今日、琳派と呼ばれる画家たちである。また江戸では町人文化として浮世絵がもてはやされた。江戸中期には、文人画も描かれるようになった。日本でも京の池大雅や与謝蕪村ら、文人画を描く人たちが現れた。このほか、清から来た沈南簸のリアルで色の綺麗な花鳥画の描き方が流行した。日本独自の絵を描いた丸山応挙、原在中、岩駒らと、後に生まれた丸山四条派、原派、岸派などがある。この江戸期の絵画の流れを頭に入れて、「ふつうの系譜」2を描き進めたい。なお画家の紹介は江戸初期、江戸中期、江戸後期など大まかな時代区分で紹介したい。

藤下遊猿図   森 祖仙作   森派   江戸中期

藤下猿遊図では、より長いストロークで全身の毛を描き、少しごわごわした毛の質感を再現している。また青を陰影として効果的に使用することで、毛の下にある硬く締まった筋肉の感じを再現している。一連の猿の図は、見事である。右下の落款から、こ図は60台で「狙仙」と代えた以降の60台で号を「祖仙」に代えて以降の晩年の作品と知られる。

雪中鴛鴦図  長澤芦雪作 丸山派   江戸中期

江戸中期、18世紀後半の画家、長澤芦雪と言えば、今では、奇想の画家として知られる。芦雪は非常に優れた門人の一人であり、天明6年(1786)に無量寺に赴いたのも、忙しい応挙の代理としてだった。芦雪と言えば、和歌山県串本の無量寺の「虎図襖」が有名である。一頭の虎を、襖六面にわたって墨で描いた豪快な作品が有名である。今回は「ふつうの画家」として腕を振るってもらった。「雪中鴛鴦図」は、簡潔ながら、手際良く本物らしさを出す手法を使って描いた一作である。鴛鴦や真っ赤な椿の花だけは細かく描き込み、要所要所で作品をぎゅっと締めている。

合歓花小禽図  村松景文作  江戸末期

村松啓文の「合歓花小禽図」に描かれるネムノキに憩う小鳥はヒガラだろうが、ネムノキは六月から七月にかけて花をつける。名前の由来は、暗くなると葉を閉じる様子が眠っているように見えることからきているという。画面に対角線上に伸びる枝や飛び立つヒガラのリズム感、瑞々しい緑の葉に可憐なピンクの花、これらを軽やかに描き、爽やかな夏の情景を見事に表している。

二見富士図  原  在中作  江戸中期

実際にある見事な景色の様子が描かれたのは、江戸中期のことである。室松時代に雪舟が天橋立を描いた作品は有名なので、意外に思わっるかもしれないが、本物の景色を題材にしたリアルな絵を多くの画家たちが描くようになったのは、18世紀の終わりから19世紀にかけての頃だった。原 在中もその一人であるが、ただ実景を写実的に描いた画家の一人と見るだけでは物足りないように思われる。細かいところが写実的すぎるほど写実的であること、定規で描いたような雰囲気が張り詰めていること。実景を描いたというだけではなく、そんな当たり前のを通り超してしまったような奇妙さに、もっと目を向けても良いのではないだろうか。「二見浦富士山図」は、天保元年(1830)、81歳の時の作品である。実際に伊勢の二見ガ浦からは富士山が見えるが、その光景を描いた作品である。太陽からの一筋の光が海上に映し出されている描写は、いかにも「光」を説明して感じで、少々ストレートすぎて面白いほどである。

養老滝真景図  原 在中作  江戸中期

「養老滝真景図」は、岐阜県にある有名な養老の滝を描いている。落差30メートル、幅約4メートルあるこの滝は、古くから名所として親しまれてきた。養老の滝にまつわる逸話は、親孝行の源丞内が泉から湧き出る酒を見つけ、老父を養い喜ばせた伝説がある。画面の噂を聞いた元正天皇によって「養老」と根付けられたという。画面の上から下まで伸びる白い帯状の滝が印象的だが、白の絵具で作者の迫真性が表れている。本作は、箱書きから孝明天皇の御遺物であったことが知られ、夏の宮中を涼やかに彩っていたのであろう。

嵐山図  原  在中作  江戸中期

丸山応挙の絵を思わせる透明感のある淡い色調ではなく、濃い色が使われている。不透明な緑青の絵具がそのまま使われた木々の美しさは、土佐派のやまと絵のようでもある。この横長の掛け軸、そしてもう一つの屏風である。描かれた場所は嵐山、今では京都の観光地の中でもとびきり賑やかで、景色の良さをじっくりと味わうのは難しいほどであるが、少し静かになると、さすがに古くからの名所だと唸らされる。

氷室山水図 原 在明作  江戸中期

「氷室山水図」は、珍しい光景を描いた作品である。夏まで氷を貯蔵しておいて氷室から、氷を取り出して京の御所まで運ぶ、その様子である。人々の描写はとにかく小さい。白い装束の二人が氷を入れる櫃を担いでいるが、夏の山中の細い道を延々と歩いて、天皇のもとへ氷を届ける心境とは、一体どんなものだったのだろうか。点描のような手法で、山の起伏を表している。狩野派の山水画のような筆遣いの妙で見せるのではなく、土佐派のように絵具そのものの美しさで見せるわけでもない。きっちりと、細かい起伏にまでこだわって描いた「精密な風景」。ここにも、父の在世中の、いわばごまかしのない、曖昧さを嫌うような絵づくりが生きている。

巌上双鶴図  岸駒作  江戸中期

岩駒(がんく)は、江戸中期から後期にかけての京では、非常に有名な画家であった。「平安人物史」に掲載されている有名画家であった。若冲や応挙よりずっと若いとは言え、その前半生を彼らと同じ時代の京の画家として生きていたわけである。そして、天保9年(1838)に83歳または90歳で亡くなるまで、絵の実力でも評判でも、第一線を守り続けた。「岸駒と言えば虎」と言われるくらい、独自の手法で描いた虎の絵は知られていたが、今日の目で色色な作品を見渡してみると、虎の絵以外で画家としての特徴をつかむのは、なかなか難しい。「岩上双鶴図」は、沈南頻風の絵を描いた時期の作品である。どちらにも「岩駒」と改める前の「岸矩」の署名がある。突き出した岩の上にいる鶴を描いた「巌上双鶴図」の鶴は、狩野派でも南頻派の絵でも丸山派でも定番の題材だが、岩の起伏をたくさんの線で表しているところや、岩に添えられた菊の描き方などは、南頻風である。しかし全体としては南頻風のこってりとした描き込みは見られず、応挙風のさっぱりとした心地よさが感じられる。応挙風の空間表現から感化された、リアルで広がりのある空間を持った作品である。

白蓮翡翠図  岸駒作   江戸中期

蓮は古くから水墨画などに描かれてきた題材である。秋になって敗れた葉もまた、敗荷と呼ばれ、はかない風情が愛されてきた。しかし、この岩駒の作品は、枯れ方も破れ方もあからさますぎる。蓮池の蓮というものは確かに密集して林立しているが、その光景の一部をそのまま切り取ったように、わさわさしている。そして葉の輪郭を表すがくがくした岸駒独自の描線。奇想かふつうか。あえてそんな見方をしている本展であるが、私は奇想の蓮葉と見たい。これは、「ふつうの系譜」に反する見方だろうか。

富士山図 岩駒作   江戸中期

この絵もまた、がkがくとした線を使って描いている。なぜ、富士山までこんな描き方をするのであろうか。ただ、改めて考えれば、本物の光景に忠実に描くことが日本の絵画の世界に登場する以前は、例えば狩野派の富士山の絵にしても「筆使いの美しさ」が作品の魅力を形作る大きな役目を担っていた。岸駒は、狩野派の描き方とは違う「専売特許のような自分だけの筆づかい」を探求して、がくがくした線にたどり着き、虎や色々な題材を描いたのかも知れない。横が130センチを超える、大きな絵である。空気感、雲の感じ、富士山の見え方など、本物らしさにもこだわっている。

岸駒の「虎図」は後期の展示のため、図禄にはあるが、私自身は本物は見ていない。しばらく猶予を頂きたい。後期展を見て、岸駒の「虎図」を紹介するので、今回は、これでご勘弁願いたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜」、辻惟雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した。

「ふつうの系譜」(1)

この題名を京王電車の中の広告で知った時、私の頭は「電撃」が走った。確かに、日本の美術界では「奇想の系譜」がかりが喧伝され、古くからの日本画が軽んじられている事に、一途の「不安」を感じていた私には、晴天の霹靂であった。今更言うまでもなく辻惟雄しが1970年(昭和45)に美術出版社から出版された「奇想の系譜」は」、当時新進気鋭の美術研究家であった著者の30歳代の著作であるった。私が、本書に出逢ったのは2004年にちくま学芸文庫から出版された「奇想の系譜」の文庫版であり、恐らく現在は30版近い売れ行きを示す、日本美術界のベストセラーになっているであろう。私は、この本に魅入られ、まづ最初に見たのは、平成天皇御即位20周年記念に展示された伊藤若冲の「動植採柄」全29巻の全巻展示であった。その素晴らしさに惹かれ、その後、京都の相国寺(若冲の墓がある)や石峰寺(晩年をこの近くで過ごし、お寺の裏山には若冲が設計した石造群が残る)を訪ね、伊藤若冲の展覧会のある時には、すべて見てきた。また岩佐又兵衛についてはMOA美術館に保管される「山中常盤」全八巻の絵巻物や、各美術館が保存する若冲の銘品を見て回ったものである。昨年の春の「山下裕二氏」監修になる「奇想の系譜ー江戸絵画のミラクルワールド」は、その初日の朝に並んで拝観した。延30万人が拝観したという「奇想の系譜展」は、日本美術界の話題をさらった。私は、今でも「奇想の系譜」は面白いと思う。しかし「ふつうの系譜」が無ければ、「奇想の系譜」は成り立たない。「ふつうがあるからこそ奇想が人を呼ぶである」ことを改めて、感じた次第である。この「ふつうの系譜」という思いがけない題名を思いついたのは、図録によれば「府中市美術館の学芸員」の方々が、展覧会のタイトルについて悩みに悩んでいたある時、スタッフから飛び出した言葉が「ふつうの系譜」であったそうだ。これこそが敦賀コレクションが今の時代に投げかける無二の意味と輝きを表せる言葉だと思った・・・と図録の最初に載せられた「本展の趣旨と構成」に書かれている。その文章の作成者の署名が無いところを見ると、美術館のスタッフの皆さんを代表して、どなたかが執筆されたものであろうと思う。通常、図録の最初の言葉は、主催者の代表(例えば館長)の言葉が、載るものであるが、この図録は、出だしから異様である。署名なしの文書が、巻頭を飾る図録は見たことがない。異様づくめであるが、これぞ「ふつうの系譜」を生んだ、府中市美術館のスタッフの皆さんの「想い」であると考える。       江戸時代の日本画の歴史は、土佐派ややまと絵が定石である。なお、作品の大半が敦賀市美術館の作品であるため、一々美術館名は出さない。

仙洞御所修学寺御幸図 土佐光孚作 安永9年(1780)-嘉衛5年(1852)

土佐光孚の「仙洞御所修学寺御幸図」は、橋を渡る烏帽子集団の長い行列が見える。天皇に位を譲って上皇となった前天皇のことを仙洞御所と称するそうだが、その上皇が修学寺へ行幸する様子を描いている。修学寺とは、現在の修学院離宮のことを指しているのだろう、橋の途切れる中州に位置する輿には上皇が乗っていると思われる。やまと絵の魅力は筆の繊細さとまろやかさではないだろうか。

菊鶉図 土佐光起作 元和3年(1738)~文化3年(1806)

この絵は、満開の白菊の傍らに番の鶉が描かれている。整った線で緻密に描かれた鶉図は、中国宋代の院体画からの影響をうかがわせる。お腹の部分は黄色の下地に胡粉の白で一枚一枚描いている。背中側は、茶や墨を用いて絵具の濃淡だけでなく線の太さも使い分けて綺麗に描き上げている。特に、顔の部分は針に糸を通すような、いたそれ以上と言えるほど繊細な点と線で正確に模様を描いている。白菊の葉、ススキからは深まる秋の風情が感じられる。

業平東下図 板谷広長作 宝暦10年(1760)~文化11年(1814)

作者の板谷広長は、やまと絵系の流派で幕府御用絵師である住吉派から独立し、板谷派を築いた板谷広当の息子である。幕府お抱え絵師として御用を務め、伝統的なやまと絵を継承した。「伊勢物語」の「東下り」を題材にした作品である。「伊勢物語」のモデルとされる在原業平が、京を離れて東国へと向かう途中で、駿河の国にて富士山の山頂にかかる雪を眺めて「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか、鹿の子、まだらに雪の降るらむ」と歌を詠んでいる。初めて目にする富士の山に、季節外れの雪が積もっている。その様子を眺めて、都から遠く離れて見知らぬ土地へやって来たことを侘しく思う場面である。業平と従者たちの華やかな衣装が画面を彩っている。右福の背景には冠雪の富士山が描かれており、左右を並べると業平らが富士山を見上げる構図になっている。

忠孝図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

この絵は、歴史の物語の一場面を描いた作品である。右は「平家物語」の話である。後白河法皇周辺に平家討伐の動きを知った平清盛は、朝敵の汚名を着せられる前に、法皇を自分の屋敷に連れてくるか、鳥羽の離宮に幽閉しようと考え、一同は戦いの準備をする。そこへ息子の重盛が、雅な平服で現れる。青い衣の人物が重盛で、清盛は、既に鎧を着けていた自分が恥ずかしく思い、衣で隠そうとしている。この後、重盛は涙ながらに父に進言する。法皇を守りますが、そうなれば大恩ある父上に背くことになります。どうすれば良いか判りませんから、私の首を取って下さい、と。そして一同は、重盛の勇気ある進言に涙するのである。

五位鷺図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

「五位鷺図」は「平家物語」にある、五位鷺という鳥の名の由来である。醍醐天皇が神泉苑の池の汀に鷺がいるのを見て、六位の蔵人に「捉えて参れ」と命じる。六位の蔵人は、どうやって捕らまえようかと思いながら鷺の方へ近寄り「天皇の命だぞ」と言う。すると鷺は飛び去らず、捕らえることが出来た。天皇は「命令に従って参ったのは殊勝である。すぐに五位になせ」と言って、鷺を五位に叙した、という話である。この絵の魅力は、六位の蔵人と鷺が、会話をしているような、目と目を合わせるような両者の視線同士の結びつきに尽きるだろう。

楼閣山水図 狩野永岳作 寛政2年(1790)~慶応3年(1867)

京で興った狩野派は、探幽の時代に江戸へと拠点を移したが、狩野山楽は京に残り、京狩野として代々継承されていった。「楼閣山水図」は、水辺に切り立つ山々の広大な景色が精緻に描かれている。伝統医的な狩野派の画法を基本に、より硬く鋭角的な描線で山の表土が捉えられている。輪郭線に金泥を引き、彩色には緑青や群青を施して美しく豪華な仕上がりのイメージだが、建物や木々の彩色は柔らかく、清雅な印象も併せ持つ。永岳は狩野派の技法を遵守するだけでなく、丸山四条派や南画にも傾倒しており、本図の点苔法や樹木の描き方、加えて隠遁する文人たちの理想郷的な世界観には南画の影響が感じられる。

伊勢大輔図  源琦作  延亨4年(1747)~寛政9年(1797)

「伊勢大輔図」は、百人一首でお馴染みの平安時代の歌人、伊勢大輔を描いた作品である。彩色がとても濃厚である。完全に不透明な塗り方、かつ一切グラデーションを使わない絵具の用い方は、やまと絵の持つ美しさを取り入れたものだろう。

 

この展覧会に採用された絵画のほぼ全ては敦賀博物館の保有する絵画である。府中市美術館とは、強いつながりのある博物館で、しばしば、敦賀博物館の保有する絵画を」、府中市美術館が、お借りして、いろいろな展示会を開催する仲のようである。私が感心したのは、今回の図録の制作である。会場に来るまでは、いろんな美術館の共催の一環と思った所、この展覧会は府中市美術館の単独開催であり、図録作成には敦賀市立博物館の皆さんの協力を得ているということのゆである。失礼であるが、府中市美術館の単独開催で、この図録が売り切れる訳が無いと思った。厚さはあるが、何分にも小さい図書で、2800円という価格では、中々売れないだろうと推察した。最近、どこの美術館でも、学芸員に聞いてみると、「図録が売れない」の一言である。図録を買わずに、果たして十分観ることが出来るだろうか。私は、必ず図録を求め、精読する癖がある。そうしないと美術館へ行っても、何時までも覚えていないからである。折角時間を割いて美術展を見るのだから、せめてふりかえりを試みないと、私の年(86歳)では、見た片端から忘れてしまう。これだけの図録を何冊売れるのだるか、私は不安を覚えて府中市美術館を後にした。この企画、この発想は素晴らしい。今年一番の「美術展」と評価したい。「奇想の系譜」を相手にして「ふつうの系譜」がどこまで戦えるか、楽しみにしている。府中市美術館の学芸員の皆さんの努力には、毎度敬服する。成功をお祈りいたします。後期も、是非拝観したいと思います、皆さん、頑張って下さい。エールを送ります。

(本稿は、図禄「ふつうの系譜ー「奇想」があるなら「ふつう」もありますー(1)」、山中栄道「日本美術全史」、辻信雄「奇想の系譜」を参照した)

アーチゾン美術館会館記念展(6・終)

アーチゾン美術館が保有する日本人画家を最後に紹介したい。ここでは安井曽太郎、藤田嗣治、古賀春江、関根正二、佐伯祐三,松木俊介の7氏である。大家もいれば、まだ知名度も高くない作家もいるかも知れな。いずれにしてもアーチゾン美術館が保有する美術品は一流揃いと、私は思うので、もし知らない画家がいたら、せめて、その履歴を調べて、近代日本絵画参照の参考にして頂きたい。

水浴裸婦 安井曽太郎作  1914(大正3)年 油彩・カンヴァス

10代の終わりから7年間、フランスに留学した安井曽太郎は、古典からポスト印象派までの様々な西洋美術を学び取った。カーニュのアトリエに晩年のピエール=オーギュスト・ルノワールを訪ねてもいるが、安井にとって最も大きな存在はポール・セザンヌであった。帰国する年に描かれたこの作品は、留学中の最大の油彩画で、集大成ともいえる充実ぶりを示している。セザンヌ、ルノワールも取り組んだ水浴する裸婦という西洋の伝統的な主題を大画面にまとめ上げつつ、人体や背景には彼らの影響を、隠すことなく吐露している。

巴里風景  藤田嗣治作 1918(大正7)年 油彩・カンヴァス

藤田嗣治については、この美術評で、しばしば取り上げている。皆さんもご存じの画家である。藤田は、渡仏初期はパリ周辺部の寂れた景色を好んで描いており、モノクロームに近い灰色を基調とした風景画を多数残している。この作品は、比較的鮮やかな色彩を用いて、街中の情景を題材にしているやや例外的であるものの、全体に漂う寂寥感や人物の描き方などに初期の風景画の特徴が見られる。エッフェル塔や地下鉄の入口のアーチ、大きな肉をぶら下げた屋台といったモティーフから、当時藤田が暮らしていたモンパルナスの界隈、エドガー・キネ通りの市場を描いたものと間あげられる。

横たわる女と猫 藤田嗣治作  1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス

新たな画業の展開を求め、藤田嗣治は1931(昭和6)年に中南米へと旅立った。そしてブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルー等を周遊して、作風は、鮮やかな色彩とより写実的な描写へと大きく変化した。この作品は、右下の署名と年紀から、1932年にリオ・デ・ジャネイロで描かれたことが判っている。しかし、この時期の特徴である鮮やかな色彩表現は見られない。むしろ乳白色の下地や繊細な描線といった、エコールド・パリ時代の技法を用いて、藤田の得意としたモチィーフである女性と猫を描いている。

猫のいる静物 藤田嗣治作 1939~40(昭和14~15)年 油彩・カンヴァス

この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれた。テーブル上に描かれる様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもある。しかし飛び立つ獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い平面性を強調する役割を果たしている。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場する。

街道(銀座風景) 岸田劉生作 1911(明治44)年 油彩・カンヴァス

この作品は、岸田劉生の実家近くの銀座通りを描いたものと考えられている。劉生の実家は、銀座2丁目で水目薬などを販売する店、楽善堂精錡水本舗を営んでいた。街角の赤煉瓦の建物や右端に見える路面電車などは、当時の銀座通りを象徴するようなモチーフである。この頃劉生は、雑誌「白樺」を通して知ったポスト印象派に関心を寄せ、特にフィンセント・ファン・ゴッホ風の強烈な色彩と光の輝きに惹かれていた。強い陽射しに照らされた道路の明るい色彩が、この作品の画面半分以上を覆い、印象的なコントラストを生んでいる。

素朴な月夜 古賀春江作 1929(昭和4)年 油彩・カンヴァス

古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画研究所で学んだ。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名とした。宗教大学(現・大正大学)にも一時通学したが、1918年に辞め、その後は画業に専念した。1922年に二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現に転じた。1929(昭和4)年、古賀はこの作品をと鳥籠を含む5点を第16回二科展に出品した。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機、卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているようである。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない世界が広がる。脈絡のないモチーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術のシュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品とともにその作風は注目を集めた。

子供 関根正二作  1919(大正8)年 油彩・カンヴァス

20歳2ケ月で亡くなった関根の最後の半年の間に、6歳の末弟・武雄を描いた肖像画と考えられている。貧しかった関根は、自作の古いカンヴァスを潰してその上に新しく制作ことが少なくなかった。肉眼でも分かるように、この作品もそうして例の一つである。印象的な朱色はおそらく最初の画面にあったものを利用したのであろう。朱色と背景の澄んだ青との鮮やかな対比は、死を前にした画家の生命への希求が感じられる。

テラスの広告 佐伯祐三作  1927(昭和2)年 油彩・カンヴァス

佐伯祐三のアトリエから程近い、ポール・ロワイヤル通りの周辺のカフェを描いた作品である。この作品は、絵に描かれた文章から2度目のフランス滞在時期である1927(昭和2)年の11月に制作されたことがわかる。画面を踊るいくつもの黒い文字は、作品全体の中で装飾的に再構成され、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしている。この作品は、佐伯の没後開かれた1929年の第四回1930年教会の特別陳列に出品された。

運河風景  松木俊介作  1943(昭和11)年 油彩・カンヴァス

松木俊介は1930年代から第二次世界大戦にかけて、知的な操作による抒情豊かな風景画や人物画を数多く残した。東西の古典美術を学習し、考え抜かれた静謐な画面を透明感のある点描でつくり出した。また妻禎子とともに月刊誌「雑記帳」を刊行し、様々な文章を意欲的に発表するなど、時代に翻弄されがちな画家のあるべき姿を世に問い続けた。1930年代初めからジョルジュ・ルオーやアメデオ・モデリアーニなどの影響を受けて、青や茶色のモンタージュ風の都市風景に取り組んだが、戦火が激しくなる1940年代には、東京や横浜の気に入った風景を暗く静かな色調で繰り返し描いた。この作品は、東京の新橋近くのゴミ処理場とそこから流れる塩留川にかかる蓬莱橋(ほうらいばし)だと考えられている。この堀り割りは1960年代に埋め立てられてしまったが、「蓬莱橋」は地名として今でも残っている。この作品は1943(昭和18)年4月に、靉光(あいみつ)、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎らと結成した新人会の第1回展で発表された。

 

アーチゾン美術館には、英仏など外国の作家と並んで、日本人画家も沢山保有されている。どうしても、西洋の印象派以降の作家の作品群と考えられがちであるが、結構明治以降の西洋風画家の名画が沢山保有されている。今回の展覧会は「開館記念展 見えてくる光景」「コレクションの現在地」と題された、石橋財団の保有する秀作を一堂に展示した展覧会であった。この展覧会は、第1章 新収蔵作品から31点を初公開  第2章コレクションへの新たな視点 第3章 従来に無い鑑賞体験 の3つの見どころを挙げている。また「無料音声ガイド」を歌い、「ご自分のスマートフォンをお持ち下さい。アプリをダウンロードして音声ガイドを無料でお楽しみいただけます。音声の細谷佳正さんをナレーターに迎え、作品の背景や見どころをわかりやすく解説します」とアッピールしている。要するにスマホを持参しないと、一切の解説が無く、また図録にも解説が書かれていないという徹底ぶりであり、老人には不便な美術館である。多分2度と行かないと思う。但し、日本の古美術を保有していることが「石橋財団コレクション」を読んで判った。この日本古美術を展示する機会に、多分出かけるであろう。下手な解説は不要であり、私の古美術鑑賞力で十分、学芸員の力を借りる必要は無いと思う。

 

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

アーチゾン美術館開店記念展’(5)

藤島武二が黒田清輝=コラン系の外光派のアカデミズムの中で剛毅に自己の性格を展開した巨匠とすれば、青木繁は、同じように、白馬会、文展の外光派のアカデミズムの中で、同時代の浪漫主義的な詩人(雑誌「明星」の文学運動であり、いわゆる(薄田)泣菫、(蒲原)有明時代と共有する明治30年代の浪漫主義的心情のなかで、近代日本美術史の永遠の作品「海の幸」(明治37年、第九回白馬会)「わだつみのいろこの宮」(明治40年、東京府勧業博覧会)を描いた作家である。しかし、それ以後、漂泊の窮乏の末に、福岡市松浦施療病院で、明治44年、28歳の若さで肺結核のために死んだ不幸な作家であった。「海の幸」は、東京美術学校を明治37年(1904年)に卒業した直後に友人、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと千葉県布良(めら)に旅行した時に描かれている。すでに前年(明治36年ー1903年)、第八回白馬会に出品した「黄泉比良坂」(よもつひらさか)、その他で白馬賞を得た作家として、記紀の神話に託した浪漫主義的な抒情を独自の性格の中に描いた青木繁は、青春の自信と恋愛の満潮のような、創造のうねりの中で、碧い海、白く砕け、たかなる波濤、金地の空を背景として、生命の韻律を持つ構図のなかに、大鮫(おおさめ)をかついでいる群像を描いたものが「海の幸」であり、たかなるような青春の賛歌を歌っている。それと反対に「わだつみのいろこの宮」は青が主調となった静かな構図を持つ情緒深い作品となっている。いわゆる「ラファエル前派」のイギリスの画家ロセッティ(1828~82)と呼ぶ人もいるが、土方定一氏は、「青木はロセッティより上」と評価している。しかし、それ以降、生活の窮乏の中で、制作も少なく、敗残のなかで死んでいる。私は渡辺洋著「悲劇の洋画家ー青木繁伝」を読んで、青木繁の生涯を知り、浪漫主義的な画題を生み出した天才の不幸な一生(わずか29歳で死亡)を、思わずにはいられない。

自画像  青木繁作 1903年(明治36年) 油彩・カンヴァス

私が見た青木繁の自画像は、本作の前に描かれた東京美術大学が保有する、青木の卒業制作の自画像と、大原美術館が保有する自画像(1903年)、及び本作であり、いずれも1903年(明治36年)の作品である。私は、その中では、大原美術館の作品が一番良く描かれていると思う。青木繁は、これ以外に幾つもの印象的な自画像を書き残している。青木は作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に掛かったところがあり、油彩や鉛筆による様々な自画像はどれも表現が異なり、大きな振幅を持っている。この自画像では,暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせている。よく見ると背景には不定形な形が幾つも見えるが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられている。魔物のような暗い情念を塗りこめたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれている。

重文 海の幸 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

明治37年の夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、友人の森田恒友、坂本繁二郎、それに愛人の福田たねと一緒に、房州布良(めら)海岸に写生にでかけた。同郷の友人であり詩人であった高島泉郷から、房州海岸の素晴らしさをいろいろ聞いたのが直接の動機であった。この時描かれて、同年9月の第九回白馬会に出品された。画題は「古事記」の神代巻にある海佐和から執って「海の幸」と名付けた。「海の幸」は、繁の自信にたがわず会場を訪れる人々を釘付けにした。同行した坂本繁二郎の話によると、この「魚師の一群がモリを持ち、大鮫をかついで引き上げてくる壮烈な情景を見たのは、実は坂本氏であり、青木は坂本の話を聞いただけであったそうだ。おそらく青木は、その話をパン種として、この鮮やかな群像図を展開さていったのであろう。背景は現在ではかなり金が剥げ落ちているが、最初は金色と深い青に輝いたはずである。青木に傾倒している詩人の神原有明は、この作品について、長い歌を歌っている。この「海の幸」で、青木繁は「白馬賞」を受けている。

海 青木繁作 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

1904(明治37)年初夏、青木繁は坂本繁二郎らと千葉県館山市布良海岸に滞在し、「海の幸」を制作したが、あわせてこの海岸の波打ち際を何点も描いている。熱い日差しに輝く岩が、太平洋の激しい波を受け留めている。荒々しく鮮やかな点描表現は、1880年代のクロード・モネの作品を思い起こさせる。青木は何らかの手段によりモネの作品を知っていたに違いない。彼自身は何も語っていないが、この作品は青木と親しく交流した象徴派詩人神原有明の所蔵となり、第二次大戦後に一時、川端康成コレクションに加わった。

重文わだつみのいろこの宮 青木繁作 1907(明治40)年 油彩・カンバス

明治40年(1907)の東京府勧業博覧会に出品された青木繁の代表作の一つである。この作品は、日本の古代神話にテーマを求めて、海の底に降りた山幸彦を画面上部中央に、画面の下の方に豊玉姫と白衣の侍女を配し、画面全体を濃い青で染め上げた華麗なげ幻想画で、青木の優れた構想力が遺憾なく発揮されている名作である。夏目漱石は、明治42年刊行の「それから」のなかでこの作品に触れている。「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている昔の高い女を描いた。大助は多くの出品のうちで、あれが良い気持ちに出来ていると思った。つまり自分もああ云う落ち着いた情緒に折りたかったからである。」と書いた。      その作品には、青木の好んだラフェロ前派の影響が濃厚であるから、あるいは漱石の共感を得る要素が強かったかもしれない。青木自身も、この作品にはかなり自信を持っていたが、審査の結果は、三等賞末席で、青木にしては期待はずれであった。そのため、彼は、雑誌「方寸」に激しい攻撃文を書いたほどである。しかし現在では名実ともに青木の最高傑作に数えられ、重要文化財に指定されている。

天平時代 1904年(明治37) 油彩・カンヴァス

明治36年(1903)の末から翌年の春にかけて、青木繁の作品には「享楽」「春」そしてこの「天平時代」など、遠く万葉の時代への初々しい憧れを艶麗な色彩で華やかに歌い上げたものが次々にと登場する。それは藤島武二の「天平の面影」や薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」などと相通ずる時代の精神風土でもあったが、同時に、青木繁の生来の豊かな幻想性によく適したものでもあったq。当時の繁は、ロセッティやバーン・ジョーンズのようなイギリスのラファエロ前派に強く惹かれており、また、モローやシャーヴェンヌなどいわゆる世紀末の画家たちに強い共感を寄せていた。白馬会の主流であった自然描写とは対照的に、曲線のアラベスクと多彩な色調を駆使したこの優雅な幻想の世界の上代世界は、繁の鋭敏な感受性と西欧への特異な反応の仕方とを良く示すものと言える。

自画像 中村 彜作 1909~10年(明治42~43年)油彩・カンヴァス

旧水戸藩士の三男として生まれた中村彜(つね)は、幼い頃に両親と姉、ついに兄を亡くした。自身も肺結核のため身体が弱く、療養をかねて各地で水彩のスケッチを描き、画家を志すようになる。白馬会研究所や太平洋画会研究所で修業を積み、新宿の中村屋裏のアトリエにお住んで、家主の相馬愛蔵、黒光夫妻を慕って集う若い芸術家たちと交流した。この作品は、彜が22歳の頃に描いた自画像である。画面に対してやや斜めに構え、画家の頭上から光が強く照らし出すという構図は、レンプラントの自画像からの強い影響を示している。この作品は1910年の第4回文展に出品され、三等賞を受賞した印象派風の「海辺の村(白壁の家)(1910年」とともに入選を果たした。中村彜の最高傑作は「エロシェンコ氏の像」であることは有名である。

山幸彦 小杉放菴作 1917年(大正6年) 油彩・カンヴァス

小杉放菴は画家五百木文哉に学び、1899(明治32)年不同舎へ入門した。放菴は、1913年ヨーロッパを巡遊、翌年、日本美術院の再興に参加した。再興第4回院展へ出品されたこの作品には神話の一場面が描かれている。平坦な人物表現に奥行きの排除された背景、象徴主義の先駆けとなるフランスの画家ピュヴィス・ド・シャパンヌを想起させる装飾的な画面は、小杉の渡欧を支援した銀行家渡辺六郎の依頼で壁画として制作された。この大きさのカンヴァスを用意するのは容易ではなかったと画家自身が述べている。

放牧三馬 坂本繁二郎作 1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス

生涯にわたって牛や馬、能面などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教えた。青木繁とは小学校が同級であり、その関係もあってか、後にブッリジストン美術館の絵画収集に当たり、石橋正二郎氏にアドヴァイスをしたと地耐えられている。特に青木繁の作品収集を勧めた人物である。1921(大正10)年39歳の時にパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化される表現へ変わった。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天上まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てた。その新しいアトリエで描かれたのがこの作品である。坂本は没するまで数多くの馬を描いた。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったと云われる。この作品は、坂本が創立会員でもある二科展の第19回展へ出品さえれた直後、正二郎氏によって購入されたものである。そして石橋美術館(久留米市美術館)へ訪れた坂本自身の手によって2度加筆されている。同級生の青木繁とは、正反対の物静かな生涯であった。

 

青木繁は、明治40年(1907)以来、貧困のゆえに故郷の九州へ帰り、酒と女におぼれ,小遣い銭稼ぎに絵を描きながら、九州を放浪し、結核を病み、最後は施療病院に収容され、敗残の中で死去した。1911年(明治44年)の3月に28歳の若さで亡くなった。家族に宛てて、次の手紙が残されている。        「小生も是まで如何に志望のためとは云いながら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だに志成らず業現れずしてここに定命尽きる事、如何ばかりか悔しく残念に候なれど、諦めれば是も前生よりの因縁にても之あるべく、小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝もなく水の泡と消え候も。是不幸なる小生が宿世の為劫にて候べき。さればこれ等の事に就いては最早言ふべき事も候わず。唯残るは死骸にて、是は御身達にて引き取りくれずば、致し方ななく、小生は死に逝く身故跡のことは知らず候。よろしく頼み上げ候。火葬料位は必ず枕の下に入れ置き候に付き、それにて当地にて焼き残りたる骨灰は、高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて下されたし。小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就くべく候。」

 

本稿は、図録「石橋財団コレクション  2020」、図録「ブリジストン美術館名作選  2015年」、渡辺 洋「悲劇の洋画家 青木繁 伝」、土方定一作「日本の近代美術 岩波文庫」 原色日本の美術全集第27巻「近代の洋画」を参照した。

アーテイゾン美術館開館記念展 (4)

アーチゾン美術館は、西洋絵画と並んで、近代日本絵画も多数保有している。特に青木 繁の絵画は、日本で一番沢山保有している。その意味でも、アーチゾン美術館は、私が最も愛している美術館の一つである。今回は、ヨーロッパ人が描いた絵画6点、日本人画家が描いた絵画4点を選んだ。

女の顔 パブロ・ピカソ作  1923年 油彩・砂・カンヴァス

青の時代、バラ色の時代、キュビスムの時代など、ピカソは生涯を通じて次々と画題を展開していった。そして大一次大戦後、ピカソはそれまでの革新的なキュビズムとは一変して、古典的な作風に回帰した。この新古典主義の時代と呼ばれる様式への大胆な転換は、世間を驚かせた。しかし実際には、1920年代前半まで総合的キュビズムと呼ばれる用式が共存し、ポカソは主題やモチーフによって使い分けていた。この作品は、鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれ、小品ながら明朗な力強さを持ち、新古典主義時代の特徴をよく表している。また、作品に用いられた絵具には砂が混ぜ込まれ、まるで古代の彫刻や浮彫のような質感と荘厳さを感じさせる。モデルについては諸説あり、妻のオルガノであるとも、当時親しく交流していた画家ジェラルド・マーフィーの妻のサラであるとも言われている。しかし、新古典主義の時代にあって、特定の人物の肖像画というよりも、むしろ普遍的な美しさを讃えた女性像としての要素が重視されていることは明らかであろう。この悪品は、美術評論家でコレクターの福島繁太郎氏が愛した作品で、戦前に日本にもたらされたものである。石橋正二郎が特に愛した作品で、1952年の開館記念展のポスターやカタログの表紙にもなった、いわば石橋コレクションの「顔」ともいえる作品である。

腕を組んですわるサルタンバンク パブロ・ピカソ作 1923年 油彩・カンヴァス

ピカソは、大一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けた。結果として1918年に描かれる対象が、古代貯穀のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入った。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持つている。ここで描かれているのは「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉である。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていた。力強い黒い線、洗練されかつ迫力のある色彩コントラスト、安定した構図の巧みさ、清潔感に溢れたサルタンバンクの表情などは、ギリシャ・ローマ時代の古代彫刻に通じる造形美を持っている。ここでピカソは、芸人への憐憫の情を抱いて描いているようには見えない。むしろ芸人は、新しい時代を先導する英雄のごとき凛々しさを身にまとっている。そこには、伝統的な美を、自らが試行錯誤して洗練させた結果としての新しい手法で乗り越えようとする画家の意図が重ね合わされているようである。この作品は、かって20世紀を代表するピアニストで美術品の収集家としても知られているウラジミール・ホロヴィッツが所有しており、自宅の居間を飾っていたことが知られている。

画家とモデル パブロ・プイソ作 1963年 油彩・カンヴァス

道化師のテーマと同じように、画家とモデルのテーマにもピカソが若い頃から取り組んできた。1904年の水彩画(瞑想)には粗末なベッドに眠る少女を見つめる貧しい身なりの若者が描かれている。彼らは恋愛関係にあるようである、その後、この二人が画家とモデルの関係に移行するのに伴い、このテーマは芸術創造にまつわる謎に深く関わるようになった。さらにこの関係には、第三の要素が加わる。モデルから霊感を与えられた芸術家が創造した「作品」である。この「画家とモデル」では、赤い線で囲われたベッドの上に、緑色に塗られたモデルが横たわっている。そのモデルの前にして、画家がカンヴァスに作品を描いているのである。

バッカス祭 モーリス・ドニ作 1920年  油彩・カンヴァス

1920年にスイス、ジュネーヴの毛皮店「ティーグル・ロワイヤル(ベンガル虎)から注文を受け、大装飾画(バッカス祭)(完成作は分割。一部は新潟県近代美術館))を描いた。この作品はその準備のために描かれた下図でではあるが、かなり細かく描かれている。バッカス祭とは古代ギリシャからローマへ引き継がれた酒神バッカス(ディオニソス)を祀る密儀であるが、ルネサンス期以降好んで描かれた神話主題の一つである。中央に描かれている虎は注文主の意向であり、その他にも店で扱うのであろう動物が描かれている。

ヴェルノン付近の風景 ピエール・ボナール作 1929年 油彩・カンヴァス

ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開いた。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には「マ・ルロット(私の馬車)」と自ら名付けた、この時期のボナールの家があった。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配され一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっている。

吟遊詩人 ジョルジョ・デ・キリコ作 1948年 油彩・カンヴァス

デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えた。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいている。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘であった。エックス線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されているが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼ぶ。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ている。

プレハの女 黒田清輝作  1891年 油彩・カンヴァス

1891年9月、黒田清輝は友人の画家・久米桂一朗と、パリを発ってブルターニュ半島のサン=ロマ湾に浮かぶプレハ島に遊んだ。この島の変化に富み風光明媚な景色やケルト系住民の風俗を喜び、同じように訪れた画家たちとの交流もP楽しんだ黒田は、約1ケ月滞在した。その間に海岸風景に加え、現地の子供をモデルにして人物画を描いた。少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだ眼差し、手に持つ布切れの黄色、左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた帵。画面を覆う筆遣いも荒々しく、穏健な画風を示す黒田には珍しく、激ししい表現が散りばめられた作品である。旅先での自由な空気が、彼の内面の情熱を引き出したのであろう。確かに日本画壇に聳え立った黒田らしくない、珍しい絵である。いまだかって見たことが無い絵であった。

重文 天平の面影 藤島武二作  1902年(明治35年) 油彩・カンヴァス

藤島武治は、明治30年代から昭和10年代まで日本のの洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家である。日本人による油彩画の在り方を突き詰めて追及し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出した。30台半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方へ感情を表そうとした時代の典型作である。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモチーフを組み合わせた。花咲く桐の下に立つ女性には、奈良時代の衣装を身に着け、箜篌(くご)という古代楽器を手にしている。その健康的な体躯は右脚に体重を載せ、自由の利く左肘をすこし前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS字を描いている。古代ギリシャで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズである。東洋と西洋の二つの古代への憧憬を、藤島は具体的に女性像を重ね合わせた。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古代古典とも言うべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っている。白馬会に発表されると、ただちに象徴派詩人神原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げた。

屋島よりの展望 藤島武二作 1932(明治7)年 油彩・カンヴァス

藤島竹二は国立公園協会の委嘱を受けて、瀬戸内海の景勝地屋島に、取材のために夏の1カ月滞在した。屋島は、香川県高松市の北西に位置し、瀬戸内海に向かって真北へ突き出した台地条の小さな半島である。その頂上に近い宿に泊まった藤島は、夜明けには真東に向かい、古戦場の入り江を挟んでそびえ立つ五剣山の稜線から昇る朝日を描いた。朝食、昼食をとって休んだ後、午後に西側の志度湾や女木島を描いた。この作品は午後に描かれた1点で、不要な他の島影を省いて画面を整理し、次第に夕陽が空と女木島の色を変化させていく様子を演出している。

パブロ・ピカソやキリコと並んで、日本の格調高い藤島武二の作品を並べたのは、やや違和感があったが、全部で6回にまとめるには、西洋と日本人画家が混在する章が、どうしても出てくる。ご勘弁頂きたい。次は、私の一番好きな青木繁の全作品(当日展示された作品の限定)を、格調高い詩歌をつけて、ご披露するので、我慢して読んでもらいたい。

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、高橋秀爾「近代絵画 下」を参照した)

アーチゾン美術館開館記念展(3)

前章では,印象派を中心に書く予定であったが、印象派が少なく、マチスまで進んでしまっった。本稿では、極力抽象画を避け、マチスからポカソの入口まで書きたい。マチスは色彩が美しく、是非、マチスの色彩を楽しんで頂きたい。またルオーとかモデリアーニ等を判りやすく解説する。最後はピカソになるが、これも具象的時代のみとする。

牧場  アンリ・ルソー作 1910年 油彩・カンヴァス

パリ市の税関職員だった素朴派のルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めた。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものである。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれている。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモチーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙である。しかし雲一つない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえている。この作品はルソーに魅せられた日本画家土田麦僊の旧蔵品である。

縞ジャケット アンリ・マチス作 1914年 油彩・カンヴァス

20歳を迎える画家の長女マルグリッドがこの作品のモデルである。幼少期に受けた気管切開を伴う施術の傷を隠すため、ペンダントのついたリボンを首につけている。マティスは地塗りの白を残しながら、フォーヴィズムの時期を彷彿とさせる鮮やかな色彩を多様な筆致により画面に配し、軽やかにして華やかな女性像を描き出している。帽子の格子縞、そして画題にもなっているジャケットの縦縞の描写では、色彩と線との一体化が見られ、同時期に深化していくマチスの造形的探究の成果を示している。

石膏のある静物 アンリ・マチス作 1927年 油彩・カンヴァす

マチスは人物画を得意としているが、静物画にも積極的に取り組んだ。第一次大戦後、パリから南フランスのニースに移り、その結果、1920年代には色彩豊かな作品を手掛けるようになった。鮮やかな赤色が目を引くこの作品の、無造作に置かれた果物や中央に石膏像を配した構図は、セザンヌの絵画を想起させる。マチスは、29歳のときにセザンヌの作品を購入しており、この画家から強い影響を受けている。この作品では、三次元的なモチーフと、平面的な装飾モチーフをいかに画面の中でまとめるかという問題を追及している。

青い胴着の女 アンリ・マチス作  1935年  油彩・カンヴァス

1930年代のマチスは、平面的な色彩構成を追求し、画面の単純化を推し進めた。この作品では、黒い輪郭線で囲まれた赤、青、黄の3色が巧みに配置されている。椅子に腰掛けた女性の肩は大きく誇張され、腰は極端に細く表現されている。この作品の制作過程を撮影した写真が3枚残されており、3週間足らずの間に作品が次第に単純化されとぃった過程がわかる。モデルはロシア人のリディア・デレクトスカヤ。彼女は1934年頃からマティスのモデルを制作助手をつとめ、病身のマティス夫人の身の回りの世話もした。

キュビズム的風景 ジャン・メッツアンジェ作 1911~12年 油彩・カンヴァス

メッツアンジェはフランスの画家。始め新印象主義の、次いでフォーヴィズムの影響を受けて絵画を制作したが、キュビズムの抽象化を推進するグループ、セクション・ドールの結成に参加し、同年に盟友アルバール・グレーズと共に「キュビズムについて」を著した。彼の作品は、ピカソやブラックのそれとは異なり、色彩及び意匠性に富んでいる。これは、風景的表現をキュビスム的手法で試みた最初期の作品の一つであり、新しい造形表現を試みる画家の気分が存分に感じられるものである。

自らが輝く ヴァシルー・カンディンスキー作 1924年 油彩・カンヴァス

カンディンスキーは、20世紀前半の抽象画の創出と発展に大きな役割を果たした画家である。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組んだ。ベルリンの分離派やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュツケ展などへの出品を経て1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成した。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロビウスの招聘を受けて、ワイマールのバウハウスに加わった。この作品は、カンディンスキーがバウハウスに加わって2年後の1942年に制作されたものである。左下に画家のイニシャルと年紀が確認される。大小の円形や四角形、三角形、線状的な要素など、様々な形態が重なり合いながら、この時期のカンディンスキーに特徴的な対角線を意識した構成がなされている。加えて曲線が巧みに配されて、螺旋を思わせる流動感が生み出されところは、同時期の作品の中で、この作品をよりユニークなものにしている。

郊外のキリスト ジョルジュ・ルオー作  1920~24年 油彩・カンヴァス

家具職人の子として生まれ、ステンドグラスの職人のもとで修業したルオーにとって、パリのセーヌ河畔や郊外は最も身近な風景であった。この作品の舞台は、画家が少年時代を過ごしたパリ19区の労働者地区ベルヴィルとされ、ルオー自身が「場末の町に貧しい親子を描いた」と語ったことが知られている。満月が照らだす一本道にたたずむ3人の姿は、親子で有ると同時に、現代に生きるキリストと弟子たちの姿、あるいは目に見えなくてもキリストの存在に寄り添っている光景なのかも知れない。巧みな明暗表現によって、寂寥感が強調されている。

ピエロ ジョルジュ・ルオー作  1925年  油彩・紙

ルオーの描く道化師たちは、舞台の上やサーカスなどで、照明を浴びながらおどけたしぐさで演技しているわけではない。目を伏せて静かに瞑想しているような顔つきからは、哀愁の雰囲気すら漂ってくる。近代の画家たちが道化師のテーマの大半は、風俗的な様子を含んでいる。しかし、ルオーの作品にはそうした要素はない。表現方法も独特である。ルオーは絵具をパンフレットナイフで削り、さらにその上に絵具を塗る作業を繰り返した。糸の層がいくつも重なり、下の色が透けて見えるようになる。まるで陶器や七宝焼きのような透明感や輝きが生まれる。

若い農夫 アメデォ・モディリアーニ作 1918年頃 油彩・カンヴァス

モディリアーニは、フィレンツェやヴェネツィヤの美術学校で学んだ後、パリに出た。当初はブランクシーの影響下に彫刻制作に勤むが、やがて貧困と健康上の理由から絵画制作に専念するようになった。その作品の大半は人物像で、少し傾いた頭部、アオモンド形の目、丸みのある細長くしなやかな身体など、独特の形態的特徴を持っている。この作品は転地療養のため南仏に滞在したモディリアーニが、現地で出会った農夫をモデルに描いたものと思われる。独特の人体表現の中に、モデルの内面性を塗りこめられているように見える。

生木と枯木のある風景 パヴロ・ピカソ作 1919年 油彩・カンヴァス

ピカソには珍しい風景画である。ブラックとともにキュビスムを追求したポカソが、再び写実的で三次元的空間を復活させた新しい様式、いわゆるピカソの新古典主義の傾向が認められる作品である。例えば、画面奥の単純化された樹木や画面全体の空間には、奥行きや量感が感じられる。とは言え空間はごく浅く、自然の風景というよりも舞台の書き割りを思わせる。このことは、ピァソが1916年以降、ロシア・バレエ団の舞台装置を手掛けたことと無関係ではないだろう。

 

マティス、ピカソ、ルオーなど西洋絵画の大家が並ぶ章となった。20世紀に貼り、印象派からフォーヴィズム、キュビスムへと絵画の傾向が大転換した。どうしても印象派の具体画が好きな人は、マティスやピカソを嫌うが、これは時代の変化を映したものである。極端な抽象絵画は除いたが、進化を嫌わず、時代の動きと美術の世界の変化を理解しないと、美術展が面白くない。

 

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名作選  2015年」、高橋秀爾「近代絵画、上・下」を参照した)

アーティゾン美術館開館記念展(2)

展覧会を見て、19世紀の印象派の時代に入るとホットする。聖書や歴史の知識が無くても、ただ美しい、新しいな等,感じさえすれば良い。この見たまま、感じたままに眺めることが出来る印象派の時代は、誰しも好むものであろう。

座るジョルジエット・シャルパンティエ嬢 ピエール・オーギュスト・ルノワール作 1867年 油彩・カンヴァス

青色のドレスを着て同じ色の靴下をはいたこの少女は、大きな椅子に腰かけている。画面を支配する青色は,少女の目の周りの影の表現や、髪の毛や床の絨毯にも施されている。足の組み方は少しおしゃまな感じもするが、このポーズは晩年の裸婦像にも用いられている。モデルはルノワールのパトロンだった出版業者のシャルパンティエの長女(当時4歳)である。シャルパンティエはゾラやモーパッサンなどの小説を出版して成功し、自宅に芸術家や政治家を招いて夜会を開いた。この作品は1876年の第3回印象派グループ展に出品されたものである。ルノアールは、モネやピサロと同じく戸外で風景画を描いたが、同時に人物像や風俗画にも挑戦した。

バルコニーの女と子供 ベルト・モリゾ作 1872年 油彩・カンヴァス

モリゾは印象派グループの数少ない女性の画家の一人である。女性的な感受性で描かれる母子や子供などを主題とした作品は、男性の視点ではなかなか見ることの出来ない繊細さと穏健さを生み出す。この作品は、モリゾの画歴においては最も評価されたものの一つである。パリ西部のシャイヤー宮殿にほど近いパンジャマン・フランクリン通りにあった自邸が舞台となっている。着飾った女性と子供がバルコニーから眼下に広がるパリの景観を見渡している。トロカデロ宮殿、セーヌ川、シャン・ド・マルス公園が描かれ、地平線の右側にはアンヴァリッドの金色のドームが見える。素早く、活気のある筆づかいながら、細部まで細やかに描かれている。これら背景が比較的粗く描かれているのに対し、右上の花瓶に生けられた赤い花や女性の瀟洒な衣装、子供の青いリボンと衣装は丁寧に仕上げられている。女性のモデルは姉のエドマかイヴとされている。子供のモデルは、イヴの娘で、ビシエットと呼ばれたポール・ゴピヤールであるかも知れない。

馬の頭部のある静物 ポール・ゴーガン作 1886年 油彩・カンヴァス

左下から右上へ向かう、ほぼ同じ大きさの筆触が画面全体を覆っている。こうした技法は、この作品が制作された頃にスーラーやシニヤックなどの若い画家たちによって実験的始められた。彼らは新印象派と呼ばれるようになる。この静物画の特徴は、技法だけではなく、描かれた扇には浮世絵の装飾が施されている。左側の人形も東洋風である。真ん中に大きく描かれる馬は、ロンドンのブリティッシュ・ミュージアムに展示されているパルテンノン神殿やギリシャ彫刻である。ギリシャ美術と日本の工芸品が象徴的に並列されている。

日光浴(浴後) メアリー・カサット作 1901年 油彩・カンヴァス

カサットはアメリカ出身の印象派の画家である。1782年ニピサロに出会ったことが、1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになった。母子像は、カサットが生涯描き続けた主題で、中でも浴後の母子像を幾度も描いていいる。ここでは川辺の草の上に座って寄り添う母子の姿が描かれている。前景には、優雅に横臥する母親と裸の子供、その後ろにはラベンダー色の花が描かれている。後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子がとらえられている。明るい色彩や生気溢れる筆触に、印象派的な要素を見ることが出来る。対策線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されている。

乾草 ポール・ゴーガン作 1889年 油彩・カンヴァス

ゴーガンが3度目にブルターニュを訪れたのは1889年初め頃。その頃になると多くの画家や旅行者がこの地方にやってくるようになった。それにうんざりしたゴーガンは、10月にポン=タヴェンの隣にあるル・プールデュという静かな村に移る。そこには「お人形マリ(マリ・ペプ)と呼ばれていた女性が経営する旅館があった。ゴーガンはオランダから来たメイエル・デ・ハーンなどと共にその旅館に滞在した。「干草」は彼らと一緒に旅館の食堂を装飾するために描いた作品の1点である。横に長く区切られた地面、中景や背景に林立する樹木は、画面に装飾的効果を生み出している。この頃からゴーガンは印象主義から離れていく。

モンマルトルの風車 フィンセント・ファン・ゴッホ作 1886年 油彩・カンヴァス

1886年早春、ファン・ゴッホはアントウエルペンを去り、パリに到着した。到着後、ゴッホは弟のテオとモンマルトルの丘の中腹に新たにアパルトマンを借り、同居を始める。この作品に描かれている風車は、そのアパルトマンのすぐ近くにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というダンス場のシンボルである。ゴッホは故郷オランダを思いい起させるモンマルトルの風車を様々な角度から繰り返し描いた。華やかな都会の裏側のもの悲しい雰囲気がうかがえる一方で、かってのオランダ時代のゴッホ作品には見られない明るい色彩で描かれた1点である。

サーカスの舞台裏 アンリ・トゥールーズ=ロートレック作 1887年 油彩・カンヴァス

南フランスのアルピの高貴な家に生まれたロートレックは、大衆文化花開くベル・エポックの時代、パリのモンマルトルを住処に、ダンスホールや劇場、娼館などに入り浸り、歓楽の世界に生きる華やかな姿や悲哀を描き続けた。この作品に描かれているのは、サーカスの舞台裏。華やかな表舞台とは対照的な薄暗い舞台裏を描いていることを意識してか、画面はモノトーンで描かれている。静寂の中に、本番を前にした緊張感が、画家独特の描線と光と影の濃淡の配置によって伝えられている。同じ登場人物が舞台でショーを演じる様子がカラフルに描かれた「サーカスの馬乗り」がシカゴ美術館に所蔵されている。

桃 ピエール・ボナール作 1920年 油彩・カンヴァス

静物画はアンティミストたちが好んだジャンルの一つである。彼らの静物画は、室内の日常生活のありふれたのがモチーフになっている。しかし、この作品にはわかりにくいところもある。沢山の桃が盛られた大きな皿は、テーブルから少しはみ出している。イェーブルクロスはテーブルの上のどこから折れ曲がっているのか、はっっきりしない。画面襞下に描かれた四角形がテーブルの存在を暗示しているだけである。題名になっている桃は画面の上部に押しやられ、右側から光が当たっているので、桃の半分は陰になっている。大きな位置を占めるテーブルクロスが明るく目立ち、そこに施された模様は布地がから浮き出ているように見える。

神秘の語らい オディロン・ルドン作 油彩・カンヴァス

幻想的な内面世界を描いたルドンは、19世紀末フランスの象徴主義を代表する画家の一人である。この作品は神秘的で厳粛な雰囲気の中で、円柱のかたわらかに立って語りかける女性と、うつむいて耳を傾ける女性が描かれている。これはルドンが好んだモチーフの一つで、版画やパステル、油彩など異なる技法で繰り返し描かれた。主題はキリスト教の聖書にある「聖母のエリザツ訪問」とも、神秘主義的なものとも言われ、様々な解釈がなされている。ルドンの支援者で文芸保護者であったアルチュール・フォンテーヌの急増品である。

画室の裸婦 アンリ・マチス作 1899年 油彩・紙

作品の題名から、描かれた空間がアトリエ(画質)であることがわかる。そうだとすれば、画面の中央にオレンジがかった赤色に塗られて立つ裸婦は、画面の中央にオレンジがかった赤色に塗られて立つ裸婦は、画室のモデルであろう。このモデルをなぜこんな色にしているのであろうか。この色はモデル自身の肌の色ではなく、画面全体の調整をとるために塗られたものである。モデルの右側に塗られた緑色と対照的な色(補色)が裸婦に施されているのである。マティスは色を、対象(この倍は裸婦)を再現するにではなく、画面を構成するために用いているのである。画面左側の大きな色の斑点も同じ考えに基づいている。この手法は数年後、もっと大胆な装いで美術界に登場してくる。

 

印象派が中心をなす章を予定していたが,いつの間にかフォービズムからキュビズムまで来てしまった。もっと好きな印象派を書きたかったが、出品された日本人画家んも中に魅力を感じ、印象派は、どの展覧会でも見られるが、青木繁などは、ここアーチゾン美術館しか見られないので、先を急いだのであろう。印象派の絵画が少なくて(展覧された絵は多いが)採用を少なくししてしまった。また機会を見て、印象派には、詳しく触れてみたい。

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、高橋秀爾「近代絵画、上、下」を参照した)

アーティゾン美術館開館記念展(1)

ブリジストン美術館が、改装のため2015年(平成27年)5月より、長期休館をしていたが、この度、新装なったブリジストンタイヤ本社ビルに開館した。2020年1月18日より「見えてくる光景 コレクションの現在地」と題する美術展を開催している。石橋財団コレクションは、ブリジストンタイヤ創業者・石橋正二郎氏の個人コレクションを基礎として、戦前より日本近代洋画、そして印象派を中心とする西洋近代絵画の銘品を幅広く収集して一大コレクションに育て上げ、1952年(昭和27年)にブリジストン美術館を創設して一般に広く公開した。私自身は、勤務先が同じ京橋にあったため、しばしばブリジストン美術館を訪ね、近代西洋画や日本近代絵画の基礎を学び、国立西洋美術館と並んで、最も強い影響を受け、近代美術に対する目を開かせて頂いた、一番古い愛好者の一人である。今回、アーティゾン美術館と名称変更されたが、ブリジストン美術館と比べると、その面積は2倍程度に広がり、コレクションも大幅に増えた。私の感じでは、抽象絵画が沢山取集されるとともに、日本近代洋画、日本古典美術(例えば平治物語絵巻、尾形光琳、酒井抱一などの銘品)が新しく収蔵品に加えられた。特に日本古典美術の公開を期待する。  この記念展を書くに当たり、当初は「新収蔵品を中心に」と考えていたが、新収蔵品の西洋絵画は、概して抽象画が多く、私が得意とする分野ではないため、既存、新規取集を含め、私が銘品と思った美術品(かつ絵画)を解説したい。閉館時の2015年のコレクションと重なる部分も多々あるが、それは私の好みとして、ご寛容頂きたい。石橋コレクションは、約2800点から成るが、今回は「見えてくる光景ーコレクションの現在地」と題して「古代から21世紀までにわたる創造の軌跡を観覧者に提供する機会」として206点が展覧された。その中から「西洋及び日本の近代絵画」を約60点に絞り、この稿(6回を予定)では紹介したい。

聖書あるいは物語に取材した夜の光景 レンプラント・ファン・レイン作 1626~28年 油彩・鋼板

17世紀オランダを代表する画家レンプラントが、聖書や神話を題材にした歴史画を多く描き、早くから高い評価を得ていた。この作品は、左下の焚火と思われる光源を囲み、暗闇の中で、複数の人物が会話している様子が描かれている。小品ながらも、光と闇の対比が画面にドラマチックな効果を与えている。また、腰に手を当てて立つ男の、甲冑に反射する光の輝きやズボンの布地の光沢感など、繊細な描写が見事である。

化粧 ギュタヴ・モロー作 グワッシュ、水彩、紙 1885~90年頃

あでやかな東方風の装いの女性が、柱あるいは衝立に物憂げにもたれかかっている。その身にまとった鮮やかな色彩の豪奢な織物と美しい宝石類は、彼女が権力者の寵愛を受ける立場であることを想起させる。非常に繊細なデッサン、そして水彩絵具の即興的な性質を生かし、色彩の濃淡や、質感を描き分けて完成させた魅力あふれる作品である。モローは旧約聖書の時代と空間、すなわち古代オリエントから着想を得て多くの作品を描いた。

静物(花、果実、ワインとティーカップ)アンリ・ファンタン=ラトゥール作 1865年 油彩・カンヴァス

ファンタン=ラトュールはクールベ以降のレアリスムの潮流の影響を受けながらも、ロマン主義の画家ドラクルワからの影響で幻想的な絵画を描いた。その一方、初期から晩年に至るまで、静物画も手掛けている。17世紀オランダ絵画や18世紀フランスの画家シャルダンらの先例である。この作品では、花瓶に飾られた色とりどりの花、ザクロ、レモン、飲物の入ったワイングラス、空のティーカップ、スプーンがテーブルの上に整然と並んでいる。白色が効果的に使われることで、花や果実の色彩が際立っている。

自画像 エドゥアール・マネ作 油彩・カンヴァス 1878~79年頃

マネは近代都市パリの風俗をを描いたことで知られるが、肖像画の名手でもあった。そのようなマネの油彩による自画像は2点(1点は個人蔵)しか残されていない。どちらもほぼ同じ時期、46,7歳頃ときの作品である。画壇での評価が確立されたことへの自負心がから、これらの自画像を制作したと考えられる。この作品の暗い無地の背景は、当時パリで流行していたスペイン絵画からの影響を感じさせる。マネの鋭い眼差しや、赤みが差した頬や耳など、顔の部分ははていねいに仕上げられている。その一方で上着やズボンには大胆な筆跡が残されている。この作品はとても私的なもので、マネは親しい人にしか見せなかったと言われている。

オペラ座の仮想舞踏会 エヅアールドゥアール・マネ作 1873年 油彩・カンヴァス

仮想舞踏会を描いた作品は、習作を含めて数点が残されている。最も完成度の高い作品(ワシントン・ナシォナル・ギャラリー蔵)は、サロンに出品して落選する。落選の理由は描かれた内容に有るのかもしれない。シルクハットに燕尾服という黒ずくめの男性たちの群れに、色彩鮮やかな服装でアイマスクをした女性たちが取り巻かれているシーンなのである。このよぅな同時代の風俗を好んで描いた。2本の柱の間に渦巻く人々が、大胆な素早いタッチで描かれ、人混みのめまぐるしい動きや熱気が感じられる。

アルジャントゥイユの洪水 クロード・モネ作 1872~73年 油彩・カンヴァス

モネは1883年より、パリ近郊に居を構えた。1980年には土地を購入し、セーヌ河支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けた。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張している。その後のモネは睡蓮の制作に没頭することになる。この作品では全体を水面で覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれている。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っている。

雨のベリール クロード・モネ作 1886年 油彩・カンヴァス

フランスのブルターニュ地方は多くの画家に愛された土地であった。モネが一時期滞在したのは、ブルターニュ半島の南にある「美しい島」という意味の小さな島ベリール。モネは1886年から11月末までこの島にとどまり、滞在中に46歳の誕生日を迎えた。モネがベリールを描いた油彩画は現在40点ほど知られている。この作品の中央には、ポール=ドモワ湾の中央に位置する「ギベル」と呼ばれる岩が見えている。遠くの岩は雨がかすんでいる。横なぐりの雨は斜め向きのタッチで表現され、海の白い波は曲線で表されている。荒らしい水面の表現が印象的な作品である。

牧場 アンリ・ルソー作 1910年 油彩・カンヴァス

ルソーが世に出るきっかけは、無審査・公募形式のアンデパンダン展に出品したことである。この展覧会は、それ以前の美術アカデミーが主催する官展に反発して成立したものである。ルソーは1907年のアンデパンダン展に「ブルターニュの風景・冬」という作品を出品した。その作品を見たイタリアの画家にして詩人が同じように牛のいる風景画をルソーに所望した。しかし、その作品はこの画家・詩人には気にいらなかったそうだが、この「牧場」がその作品ではなかと言われている。2頭の牛と丸い葉をつけた大木のあいだに赤い帽子をかぶった牧童がいるが、不思議な幻想性が漂っている。土田麦僊がパリで購入した作品である。アンリ・ルソーは私のお気に入りの画家です。素人画家と呼ばれますが、展覧会の中で、ルソーの作品に逢うと、ホットします。気が抜けます。展覧会で張り詰めた気分が一気に丸くなります。ルソーは私の大好きな画家の一人です。

ピアノを弾く若い男 ギュターブ・カイユボット作 1876年 油彩・カンヴァス

カイユボットは印象派の画家。印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的支えたことで知られている。この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルを描いたものである。1876年の第2回印象派展に「床削り」とともに出品された6点の作品のうち、最も批評で取り上げられた1点である。19世紀後半のパリにおいては、ピアノは上流市民のステイタスを示すものであった。絵画の主題になることも多かったが、この作品のように男性がモデルになることは稀で、多くの場合、ルノワールに見られるように女性が描かれていた。この作品は、男性であるというのみならず、真摯に鍵盤に向かう人物を描いている点で、より近代都市の室内風景の自然の雰囲気を伝えている。壁面の装飾、カーテン、絨毯、椅子などの調度品には植物文が施され、富裕な市民の瀟洒な室内が描かれている。また窓から入る光がピアノの鍵盤や指に反映している。奥行きを感じさせる空間に精緻な筆触で描かれた画面は、軽快な筆触を特色とする印象派の絵画の中では、かなり異質である。技法や主題は、同じ都市風景と市民たちを主題とした、ドガの室内画と似ている。これもまた、光と影の描写を探求する印象派の特徴のバリエーションであることを私たちに伝える。

 

展示はテーマ別であるが、ここでは年代順に記すことにした。レンプラントからカイユボット(印象派)までとなったが、美術館の精髄を示す絵画を集めることが出来たと自負している。この展覧会の特徴は、一つ一つの絵画には、説明書を示さない。但し、スマホで撮影することは認められており、写真を撮ると、絵の下に解説が付されている。即ち、スマホを持参しない人には、説明はしないという工夫がなされている。(スマホをパチパチ映すことは、決して気分の良いものではないが)説明文がないとスムースに人が流れて見やすい展覧会である。しかし、最後の写真類を販売する部屋へ行くと、ここで売る「図録」は、写真のみで、解説文は付されていない。私から見ると、誠に奇妙な図録である。但し、図録とは別に200もの美術品の写真と解説を加えた「石橋財団コレクション」を販売している。これでは、たたさえ売れない図録は、まるで売れないだろうと思った。確かに山祇になっていたが、買う人は一人もいなかった。また、入場券も日時指定制で、スマホもしくはパソコンで、日時を指定して入場を予約するシステムであるが、決して混んでもいないのに、何故日時指定か意味が分からない。私は、パソコンのエクスプローラから入ったら、パソコンが「この入場券を予約するシステムが入っていないため、予約は出来ません」とのことであり、電話で予約したら、「その日時はならば、空いていますから、入場券を求めてご入場下さい」とのことであったので、入場券売り場で、事情を説明したら、入場券は入手できた。300円ほど高い価格であった。・誠にイヤナ感じがした。長年のお得意様を無視するような価格設定は如何なものかと思った。「スマホを持たない奴は,見に来るな」というイメージであり、決して感じの良いものではない。長年のお得意様を無視する姿勢はブリジストンらしくない接客態度では無いだろうか。猛省を促したい。

(本稿は、「ブリジストン美術館名作選   2015年」、「石橋財団コレクション200  2020年」、高橋秀爾「近代絵画史上、下」を参照した)

日本書記成立 1300年 特別展 出雲と大和(7)

六世紀半ばに伝来した仏教などの先進的な文明によって、社会に大きな変化が生じ、古墳が果たした政治や権力の象徴としての役割は、寺院が担うようになった。仏教への信仰は天皇、貴族、地方豪族へと広まりをみせ、飛鳥時代後期には、全国各地に寺院が造られるようになった。朝廷は遣隋使や遣唐使がもたらした最新の知識を受け入れながら、新しい国の形を整えていった。また仏教における鎮護国家の理念のもとに四天皇像のような国を守護する尊像を造らせ、寺院の建立を進めた。本稿では,天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが進められるなかで、国家の安泰と人々の生活の安寧を祈り誕生した造形を紹介する。

重文 如来及び両脇侍立像 朝鮮半島・三国時代あるいは飛鳥時代(6世紀)東京国立博物館

「日本書記」によると、百済から日本へ仏教が伝来した際に、金銅の釈迦如来像が献じられたという。このように、6世紀から7世紀には朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、比較的現存しているが、法隆寺献納佛(四十八体佛とも呼ばれる)に含まれるこの仏像はその代表例と言えるものである。朝鮮半島に現存する像との比較から、百済系の作例であることが指摘されている。この仏像と、次の仏像は、明治時代に法隆寺より朝廷に寄贈されたもので、一般的に「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、現在では東京国立博物館の別館にて常時展覧されている。1996年に東京国立博物館で「特別展 法隆寺献納宝物展」が開催され、その図録では「朝鮮半島(6~7世紀)」とされていたが、その後、中国三国時代、あるいは飛鳥時代(6~7世紀)と、意見が変更されている。新しい見解によれば、中尊は、鋳造に用いられる銅以外の錫や鉛の含有率が日本金銅よりも多く、韓半島製金銅仏から錫が多く検出される傾向とも合致していた。一方、両脇侍は百パーセントに近い銅(純銅)で造られており、中尊の成分と大きく異なっていた。本三尊像は、中尊が韓半島製、両脇侍は日本製である可能性が高い、(この見解は、特別展の図録による)

重文 如来坐像 一躯  飛鳥時代(7世紀) 東京国立博物館(法隆寺献納佛)

この仏像は「止利派の像」とされる。止利派の像とは、飛鳥時代の仏師止利が623年に造った法隆寺金堂釈迦三尊像と、作法や技法が近似する像が多く残されている作品群の呼称である。それらは止利が主催する工房の作品と考えられている。止利の名は「日本書記」にも観られ、その活躍ぶりが推測される。法隆寺像の杏仁形とも呼ばれる目、両端を上げる唇、面長な顔、複雑な衣文線は、6世紀初頭に造られた中国の龍文賓陽中洞の中尊像に近似するが、眼の形などには、それと異なる表現も見られ、作風の広がりが浮か逢える。

重分 十一面観音菩薩像 中国・唐時代(7世紀) 東京国立博物館

中国における観音信仰は三世紀まで遡るが、その中でも最も早く流行したのが十一面観音である。本像は、頭部から足臍に至るまで亜熱帯性香木の白檀の一材から彫り出す中国壇像の傑作の一つである。後補部を除き、頭上面、化佛、瓔珞などの細部も同木から彫り出しており、超絶技巧とも言うべき精緻さをみせる。目鼻立ちのくっきりした特徴的な面貌は、5世紀半ば以降のインド・グプタ朝、ないしはポストグブタ朝の造形的影響を受けるのは、唐・貞観19年(645)に玄奘がインドから帰朝してからのことであり、本像も初唐におけるインドブームの中で造られた。本像には、形式的、作風的に古い要素が認められることから、写実を旨とする初唐様式が完成する以前の7世紀半ばの頃の作であり、伝統的な造形様式と新たな造形的影響を混然一体に示す、きわめて魅力的な像である。

重文 時国天立像 白鳳時代(7世紀) 脱乾漆漆造・彩色 當麻寺

奈良時代の東西両塔を備える當麻寺は、私には「あこがれ」の寺である。図鑑では飛鳥時代となっている、私はむしろ美術の世界で使われる「白鳳時代」と呼びたい。(お寺の表現は飛鳥時代後期となっている)當麻寺金銅の本尊弥勒菩薩像の眷属として、須弥壇上に安置される。四天王像としては法隆寺四天王像に次ぐ古い作品である。7世紀後半に大陸から新たに導入された脱乾漆の技法で造られた像としてはわが国最古の違例である。奈良時代以降の四天王像が激しく動きを表すのに対して直立の静的な姿であり、長く垂れる大袖や裙の裾肩にかかる領巾(ひれ)など古様な表現を示す。髭をたくわえた神将像は日本では類例がなく、異国的かつ現実的な面貌表現は中国・唐の長安付近で流行した神将像の様式に淵源をたどることができる。身に着けた甲冑は朝鮮半島の新羅の神将像と共通することが指摘されている。持国天像は四駆のうち最も多く制作当初の部分を残しているが、全身に修理が加えられている。當麻寺は「建久御巡礼記」(1191)によると、天武天皇9年(681)に壬申の乱功績をあげた当麻真人国見より、その氏寺として創建された。本尊は7世紀後半の制作と見られる塑像であるが、四天王像は大きさや材質から見て本尊よりも格上であると言え、官寺クラスの寺院からの移入とも考えられる。

重文 浮彫伝薬師三尊造 石造、彩色・漆箔 飛鳥~奈良時代(7~8世紀)奈良~飛鳥時代(7~8世紀)奈良・石井寺

三輪山の南方、桜井市忍坂に所在する石井寺に伝わり、現在は寺収蔵庫に安置される石仏である。(私は初見である)今回、台座の修理に合わせて初めて寺外に公開されることになった。忍坂は「日本書記」にその名が見え、古代から残る地名である。本像は三角形に切り出した石に、三尊像を浮き彫りで表わし、いたる所に鑿の痕が残。中尊の如来像は袈裟を片袒右肩にまとい、善上印を結んで座る。左右両脇の菩薩像は合掌し、中尊側をわずかに動かす。中尊の頭上には天蓋、右脇祇菩薩像の足下に水瓶を造り出している。裙や裾の一部に彩色、数か所に漆が残る。このような様式を持つ椅座形の如来像は初唐期のインドブームの影響により流行した姿であり、日本では飛鳥時代後期(白鳳期)に多く造られた。日本では古代の石仏の違例が少ない中で、保存状態も極めて良く、大変貴重な作例である。

国宝 広目天立像 一躯 像高 189、7cm 奈良・當麻寺

 

国宝 多聞天立像 一躯 像高188.6cm 奈良・當麻寺

奈良西の京に位置する唐招提寺は、南都六宗の一つ律修の総本山である。奈良時代、戒律を伝えるため唐から来日した鑑真和上により創建された。奈良時代には鎮護国家を目的とした四天王像が多く造られが、本造もまた代表的な作例であり、金銅の須弥壇上に安置される四天王像のうちの二体である。構造は頭体部から岩座の中心部までカヤの一材から造り、背面から内繰りを施す。甲や天衣など部分的に木糞漆を用いて成形し、表面に彩色を施している。広目天像では胸当の飾りの座として梅花型を表しており、多聞天像は上歯をのぞかせるなど、四天王像の細部の造形にはそれぞれ変化を求めた配慮が見られる。また両腕から垂れる大袖衣の先端を結ぶことや、腰甲の裾から裳を垂らす表現、幅広の胸帯を締める点などに、唐代彫刻の新たな影響が見られる。日本の木彫像は、鑑真の来日を契機として盛んになり、本造の制作にも唐人の工人の関与が考えられる。一方で、伝統的な素材である木糞漆も積極的に使用されており、新旧の技法が併用される。

重分 楊柳観音菩薩立像 一躯 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

両目を大きく見開き眉根をしかめて怒りの表情を見せる。得意な姿の菩薩像である。開口し、目を怒らせることで隆起した顔の筋肉を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を与えている。構造は、頭部から岩座までを木心をこめたカヤの一材から彫り出し、背面の三か所から背刳りを施す。頭上の髻と鼻先に加え、左腕の臂から先、右腕の肩から先が後補であるため当初の手の構えは不明である。楊柳観音の尊名は後世のもので、同じく菩薩業行の憤怒像である同寺千手観音像とともに空海によって日本に密教が伝えられる前の初期的な密教尊像として貴重な作例である。(なお、私は「黒川孝雄の美 大安寺」(2019年6月16日)の稿で「和辻や亀井の{古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く」と書いているが、丁寧に和辻氏の「古寺巡礼」を読んでみると「大安寺」の「楊柳観音など」と書いている。しかし、和辻氏の古寺巡礼には、「大安寺の楊柳観音の名が出てくる」のである。それは当時(大正7年頃)には、奈良博物館に各寺が仏像を寄託しており、博物館で見た仏像の印象を記しているのであり、大安寺のお寺までは行っている訳ではない。仏寺を見ないで、仏像を語ってはいけないと思う。仏像は美術品ではない。精神世界のものであり、やはり仏寺を見てから印象を述べるべきではないかと思った)

重文 多聞天立像 一躯  木造彩色 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

大安寺の草創には、伝説では聖徳太子建立の熊懲精舎に遡るとされるが、歴史的には舒明天皇11年(639)に、わが国初の勅願時として建立された百済大寺を始まりとする。その後天武朝の高市大寺、藤原京の大官大寺と改称し、平安奠都とともに現地に移され、大安寺と改称した。奈良時代には南都七大寺の筆頭として、東西二基の七重塔を擁する大伽藍を誇った寺である。本像は大安寺に伝わる木造四天王像のうちの一躯で、最も作行きが優れる。冑をかぶり、目を怒らせて上歯で下唇を噛み強い憤怒の相を示す。天平後期における新たな唐時代の影響により造立されたとみられる。

大和の仏像を中心に紹介したが、たはり仏教の伝来、仏殿の新築、仏像の国内産出など、日本文化が急速に進展した様が見て取れる。仏像は中国、朝鮮半島の影響を受けて、生まれたが、結局日本独自の装飾や、日本毒の尊格を生み出し、「仏教の日本化」が進む状態が理解できる。この当たりになると私の得意の分野でもあり、懐かしく、楽しく記事が書けた。なお、最後の大安寺について、和辻哲郎氏の「古寺巡礼」に、触れられていなと述べたことがあるが、私は奈良へ行き始めた昭和27年頃には、奈良博物館でいろんなお寺の仏像を保管し、展示していた。和辻氏も奈良博物館で「大安寺」の仏像(楊柳観音等)を見て、感想を述べているので、和辻氏は「大安寺に触れていない」という前言は撤回する。但し、大安寺の古跡へは行っていないようである。そういう意味で「和辻氏は大安寺に触れていない」ことは、はっきりしておきたい。なお、亀井、竹山氏の古寺巡礼式の記事には一切大安寺が出てこないことは事実である。

(図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和」、図録「古事記成立1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝  2012年」、直木考次郎「古代国家の成立」、和辻哲郎「古寺巡礼、江上波夫「騎馬民族国家」を参照した)