日本書記成立 1300年 特別展 出雲と大和(7)

六世紀半ばに伝来した仏教などの先進的な文明によって、社会に大きな変化が生じ、古墳が果たした政治や権力の象徴としての役割は、寺院が担うようになった。仏教への信仰は天皇、貴族、地方豪族へと広まりをみせ、飛鳥時代後期には、全国各地に寺院が造られるようになった。朝廷は遣隋使や遣唐使がもたらした最新の知識を受け入れながら、新しい国の形を整えていった。また仏教における鎮護国家の理念のもとに四天皇像のような国を守護する尊像を造らせ、寺院の建立を進めた。本稿では,天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが進められるなかで、国家の安泰と人々の生活の安寧を祈り誕生した造形を紹介する。

重文 如来及び両脇侍立像 朝鮮半島・三国時代あるいは飛鳥時代(6世紀)東京国立博物館

「日本書記」によると、百済から日本へ仏教が伝来した際に、金銅の釈迦如来像が献じられたという。このように、6世紀から7世紀には朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、比較的現存しているが、法隆寺献納佛(四十八体佛とも呼ばれる)に含まれるこの仏像はその代表例と言えるものである。朝鮮半島に現存する像との比較から、百済系の作例であることが指摘されている。この仏像と、次の仏像は、明治時代に法隆寺より朝廷に寄贈されたもので、一般的に「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、現在では東京国立博物館の別館にて常時展覧されている。1996年に東京国立博物館で「特別展 法隆寺献納宝物展」が開催され、その図録では「朝鮮半島(6~7世紀)」とされていたが、その後、中国三国時代、あるいは飛鳥時代(6~7世紀)と、意見が変更されている。新しい見解によれば、中尊は、鋳造に用いられる銅以外の錫や鉛の含有率が日本金銅よりも多く、韓半島製金銅仏から錫が多く検出される傾向とも合致していた。一方、両脇侍は百パーセントに近い銅(純銅)で造られており、中尊の成分と大きく異なっていた。本三尊像は、中尊が韓半島製、両脇侍は日本製である可能性が高い、(この見解は、特別展の図録による)

重文 如来坐像 一躯  飛鳥時代(7世紀) 東京国立博物館(法隆寺献納佛)

この仏像は「止利派の像」とされる。止利派の像とは、飛鳥時代の仏師止利が623年に造った法隆寺金堂釈迦三尊像と、作法や技法が近似する像が多く残されている作品群の呼称である。それらは止利が主催する工房の作品と考えられている。止利の名は「日本書記」にも観られ、その活躍ぶりが推測される。法隆寺像の杏仁形とも呼ばれる目、両端を上げる唇、面長な顔、複雑な衣文線は、6世紀初頭に造られた中国の龍文賓陽中洞の中尊像に近似するが、眼の形などには、それと異なる表現も見られ、作風の広がりが浮か逢える。

重分 十一面観音菩薩像 中国・唐時代(7世紀) 東京国立博物館

中国における観音信仰は三世紀まで遡るが、その中でも最も早く流行したのが十一面観音である。本像は、頭部から足臍に至るまで亜熱帯性香木の白檀の一材から彫り出す中国壇像の傑作の一つである。後補部を除き、頭上面、化佛、瓔珞などの細部も同木から彫り出しており、超絶技巧とも言うべき精緻さをみせる。目鼻立ちのくっきりした特徴的な面貌は、5世紀半ば以降のインド・グプタ朝、ないしはポストグブタ朝の造形的影響を受けるのは、唐・貞観19年(645)に玄奘がインドから帰朝してからのことであり、本像も初唐におけるインドブームの中で造られた。本像には、形式的、作風的に古い要素が認められることから、写実を旨とする初唐様式が完成する以前の7世紀半ばの頃の作であり、伝統的な造形様式と新たな造形的影響を混然一体に示す、きわめて魅力的な像である。

重文 時国天立像 白鳳時代(7世紀) 脱乾漆漆造・彩色 當麻寺

奈良時代の東西両塔を備える當麻寺は、私には「あこがれ」の寺である。図鑑では飛鳥時代となっている、私はむしろ美術の世界で使われる「白鳳時代」と呼びたい。(お寺の表現は飛鳥時代後期となっている)當麻寺金銅の本尊弥勒菩薩像の眷属として、須弥壇上に安置される。四天王像としては法隆寺四天王像に次ぐ古い作品である。7世紀後半に大陸から新たに導入された脱乾漆の技法で造られた像としてはわが国最古の違例である。奈良時代以降の四天王像が激しく動きを表すのに対して直立の静的な姿であり、長く垂れる大袖や裙の裾肩にかかる領巾(ひれ)など古様な表現を示す。髭をたくわえた神将像は日本では類例がなく、異国的かつ現実的な面貌表現は中国・唐の長安付近で流行した神将像の様式に淵源をたどることができる。身に着けた甲冑は朝鮮半島の新羅の神将像と共通することが指摘されている。持国天像は四駆のうち最も多く制作当初の部分を残しているが、全身に修理が加えられている。當麻寺は「建久御巡礼記」(1191)によると、天武天皇9年(681)に壬申の乱功績をあげた当麻真人国見より、その氏寺として創建された。本尊は7世紀後半の制作と見られる塑像であるが、四天王像は大きさや材質から見て本尊よりも格上であると言え、官寺クラスの寺院からの移入とも考えられる。

重文 浮彫伝薬師三尊造 石造、彩色・漆箔 飛鳥~奈良時代(7~8世紀)奈良~飛鳥時代(7~8世紀)奈良・石井寺

三輪山の南方、桜井市忍坂に所在する石井寺に伝わり、現在は寺収蔵庫に安置される石仏である。(私は初見である)今回、台座の修理に合わせて初めて寺外に公開されることになった。忍坂は「日本書記」にその名が見え、古代から残る地名である。本像は三角形に切り出した石に、三尊像を浮き彫りで表わし、いたる所に鑿の痕が残。中尊の如来像は袈裟を片袒右肩にまとい、善上印を結んで座る。左右両脇の菩薩像は合掌し、中尊側をわずかに動かす。中尊の頭上には天蓋、右脇祇菩薩像の足下に水瓶を造り出している。裙や裾の一部に彩色、数か所に漆が残る。このような様式を持つ椅座形の如来像は初唐期のインドブームの影響により流行した姿であり、日本では飛鳥時代後期(白鳳期)に多く造られた。日本では古代の石仏の違例が少ない中で、保存状態も極めて良く、大変貴重な作例である。

国宝 広目天立像 一躯 像高 189、7cm 奈良・當麻寺

 

国宝 多聞天立像 一躯 像高188.6cm 奈良・當麻寺

奈良西の京に位置する唐招提寺は、南都六宗の一つ律修の総本山である。奈良時代、戒律を伝えるため唐から来日した鑑真和上により創建された。奈良時代には鎮護国家を目的とした四天王像が多く造られが、本造もまた代表的な作例であり、金銅の須弥壇上に安置される四天王像のうちの二体である。構造は頭体部から岩座の中心部までカヤの一材から造り、背面から内繰りを施す。甲や天衣など部分的に木糞漆を用いて成形し、表面に彩色を施している。広目天像では胸当の飾りの座として梅花型を表しており、多聞天像は上歯をのぞかせるなど、四天王像の細部の造形にはそれぞれ変化を求めた配慮が見られる。また両腕から垂れる大袖衣の先端を結ぶことや、腰甲の裾から裳を垂らす表現、幅広の胸帯を締める点などに、唐代彫刻の新たな影響が見られる。日本の木彫像は、鑑真の来日を契機として盛んになり、本造の制作にも唐人の工人の関与が考えられる。一方で、伝統的な素材である木糞漆も積極的に使用されており、新旧の技法が併用される。

重分 楊柳観音菩薩立像 一躯 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

両目を大きく見開き眉根をしかめて怒りの表情を見せる。得意な姿の菩薩像である。開口し、目を怒らせることで隆起した顔の筋肉を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を与えている。構造は、頭部から岩座までを木心をこめたカヤの一材から彫り出し、背面の三か所から背刳りを施す。頭上の髻と鼻先に加え、左腕の臂から先、右腕の肩から先が後補であるため当初の手の構えは不明である。楊柳観音の尊名は後世のもので、同じく菩薩業行の憤怒像である同寺千手観音像とともに空海によって日本に密教が伝えられる前の初期的な密教尊像として貴重な作例である。(なお、私は「黒川孝雄の美 大安寺」(2019年6月16日)の稿で「和辻や亀井の{古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く」と書いているが、丁寧に和辻氏の「古寺巡礼」を読んでみると「大安寺」の「楊柳観音など」と書いている。しかし、和辻氏の古寺巡礼には、「大安寺の楊柳観音の名が出てくる」のである。それは当時(大正7年頃)には、奈良博物館に各寺が仏像を寄託しており、博物館で見た仏像の印象を記しているのであり、大安寺のお寺までは行っている訳ではない。仏寺を見ないで、仏像を語ってはいけないと思う。仏像は美術品ではない。精神世界のものであり、やはり仏寺を見てから印象を述べるべきではないかと思った)

重文 多聞天立像 一躯  木造彩色 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

大安寺の草創には、伝説では聖徳太子建立の熊懲精舎に遡るとされるが、歴史的には舒明天皇11年(639)に、わが国初の勅願時として建立された百済大寺を始まりとする。その後天武朝の高市大寺、藤原京の大官大寺と改称し、平安奠都とともに現地に移され、大安寺と改称した。奈良時代には南都七大寺の筆頭として、東西二基の七重塔を擁する大伽藍を誇った寺である。本像は大安寺に伝わる木造四天王像のうちの一躯で、最も作行きが優れる。冑をかぶり、目を怒らせて上歯で下唇を噛み強い憤怒の相を示す。天平後期における新たな唐時代の影響により造立されたとみられる。

大和の仏像を中心に紹介したが、たはり仏教の伝来、仏殿の新築、仏像の国内産出など、日本文化が急速に進展した様が見て取れる。仏像は中国、朝鮮半島の影響を受けて、生まれたが、結局日本独自の装飾や、日本毒の尊格を生み出し、「仏教の日本化」が進む状態が理解できる。この当たりになると私の得意の分野でもあり、懐かしく、楽しく記事が書けた。なお、最後の大安寺について、和辻哲郎氏の「古寺巡礼」に、触れられていなと述べたことがあるが、私は奈良へ行き始めた昭和27年頃には、奈良博物館でいろんなお寺の仏像を保管し、展示していた。和辻氏も奈良博物館で「大安寺」の仏像(楊柳観音等)を見て、感想を述べているので、和辻氏は「大安寺に触れていない」という前言は撤回する。但し、大安寺の古跡へは行っていないようである。そういう意味で「和辻氏は大安寺に触れていない」ことは、はっきりしておきたい。なお、亀井、竹山氏の古寺巡礼式の記事には一切大安寺が出てこないことは事実である。

(図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和」、図録「古事記成立1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝  2012年」、直木考次郎「古代国家の成立」、和辻哲郎「古寺巡礼、江上波夫「騎馬民族国家」を参照した)

日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(8・終)

出雲は「神々のふるさと」と呼ばれる。これは、耶摩台国の時代より約30年早い2世紀期半ばの出雲に、神政国家と呼ぶにふさわしい、一国規模のまとまりが出来たことによる。その時の出雲の集団は、今日の神信仰の原形になった大国主命信仰が生み出した。そしてそれは、大和朝廷が生まれる三世紀半ばより前に、日本の各地で広まったのである。(光俊誠「真実の古代出雲王国」より)このような見解は、日本史の上では、かなり変わった見解と見られるが、やはり出雲は、大和とは異なった国家的集団が生まれる要素に満ちている。銅剣、銅矛の出土など、出雲地方は倭王権とは別の歴史を持った時代が長く、大和王権が確立された3世紀以降も、出雲の国の首長は臣(おみ)の姓を持ち、他国の首長の直(あたい)よりも格式が高かった。また律令制下にあっても朝廷は、出雲大社の神事を重んじていた。出雲氏は宮廷に出向き、「出雲国造(みやつこ)神賀詞」を述べねならなかった。出雲にも、大和と比べて劣らない佛像群、神像群がある。

重文 観音菩薩立像 飛鳥時代(7~8世紀)一躯 銅造、鍍金 島根・鰐淵寺

寺伝によると、鰐淵寺は推古天皇の眼病を平癒させた智春聖人が創建したとする。鰐淵の名は平安時代末期に成立した「梁塵秘抄」に登場し、平安時代の人びとに修験の場として知られている。像の頭頂から台座まで、水瓶も含めて一鋳で造る。頭上に短髪(たんけい)を結い、二条の冠帯に三面頭飾をつける。正面の頭飾に如来坐像を表す。顔の輪郭は丸く、目鼻口が中央に集まり、童子を思わせる。左手は垂加させ水瓶を持ち、右手は手のひらを前へ向け胸の高さに掲げる。ほぼ直立するが、わずかに左肘を前に出す。台座は格狭間を透かした八角形の二重框座上に蓮肉と返花を重ねる。その台座の上框部の正面と右側面に銘文が刻まれる。     (正面)壬辰年五月出雲国若倭部 (右側面)臣徳太理為父母作奉菩薩     壬申年は像の様式から持統六年(692)をあてるのが適当である。同銘文には出雲国とあり、「出雲」の最も古い金石文として重要である。若倭部臣は、天平五年(733)に完成した「出雲国風土記」にも登場し、当地の豪族であったと考えられる。いずれにせよ、飛鳥時代の出雲を考えるうえで、貴重な作例である。

重文 観音菩薩立像 一躯 銅造、鍍金 飛鳥時代(7~8世紀)島根・鰐淵寺

像は頭頂から天衣や瓔珞を含めて足先まで一鋳で造る。頭上に短髪を結い、冠帯に三面頭飾を付ける。短髪の正面に如来坐像をつける。右手は手先を失っているが、曲げて胸の高さに掲げ、左手も屈して腰の高さで瓔珞を取る。台座は失われている。顔は肉付きよく丸顔の童顔である。両肩に垂らした垂髪は先端を巻き上げるいわゆる蕨手型垂髪とする。丸みを帯びた肉付き豊かな顔から制作期を奈良時代初頭まで下る意見もあるが、法徳寺観音菩薩立像(奈良)同様に瓔珞を手に取る形式や蕨手垂髪などから飛鳥時代末(白鵬時代)とする見解が多い。山陰地方を代表する金銅仏である。

重文 四天王像 四駆 木造、彩色 平安時代(9世紀) 島根・万福寺    持国天立像・増長天立像・広目天立像・多聞天立像(左より)

現在の所有者は浄土宗万福寺であるが、寺伝では鰐淵寺と同じ智春上人によって創建された大寺薬師の諸像であるとされる。また、万福寺西隣の大寺谷(おおてらだに)遺跡からは、八世紀後半の軒丸瓦が出土しており、その寺院が大寺薬師の前身である可能性が高い。像は四駆とも内刳りのない一木造りで、当初は彩色が施されていたようで、白土がところどころに残る。各像ともに両手先、両足先、持物、台座が後補で、各像のポーズにやや不自然な点もあり、現在の尊名が正しいかどうか不明であるが、ここは寺伝に従った。各像とも下半身は幅も奥行きもたっぷりととり、大地に根を張るかのように両足を踏ん張り立つ。承和六年(839)に完成した東寺講堂の四天王像に見られるような派手な動きは全くなく、あえて動きを抑制した表現として、むしろ奈良時代の四天王像に通じる古様な印象を受ける。

重文 本殿板壁画 板絵着色 室町時代(16世紀)島根・八重垣神社           伝素戔嗚命・稲田姫 一面  縦174.0cm               伝脚摩乳命(あしなづちのみこと)・手摩乳命(てなづちのみこと)一面縦173.5cm

もとは本田内の板壁に描かれていたもので、現在三面残る内の二面である。伝素戔男命・稲田姫を描く面は西壁である。この女子の顔は見事に残っている。その美しさには、はっとするものがある。伝脚摩乳命・手摩乳命を描く面は、本殿南壁のものである。西壁面は、画面左側に冠をかぶり、手に笏を持つ束帯姿の男神、右側に折り本を手にした女房装束の女神を描く。画面中央に衣冠束帯像の男神、画面左側に冊子を手にする討ち袿姿(うちきすがた)の女神を描く。現在の壁画の作風からすると天文か天正期の作であると思われる。

重文 牛頭天王(ごずてんのう)坐像 二躯 平安時代(12世紀)木造・彩色  島根・鰐淵寺

二躯とも内繰りのない一木造。前者は身体のところどころに彩色が残る。多臂像であったようで両肩の背面に腕を剥いでいた跡が残る。両臂は欠失。頭上に牛頭を載せ、顔は三面である。後者は身体のところどころに白土が残る。両肘は欠失。左手は握り、膝の上に置く。膝は右足を上にして結跏跋座するが、神像によく見られるように狭く表現されている。頭上の牛頭は欠失し、枘の内のみ残る。顔は三面。鰐淵寺に現在蔵王権現とスサノオを同一視していたので、牛頭天を蔵王権現とみなしたのかも知れない。

重文 蔵王権現懸仏 二面 銅造鍍金 平安時代(12世紀) 島根・法王寺

二面ともに縁部を1センチほど折り返した鋳銅製の円板の表面に、反肉鋳造製の像を鋲で留める。独鈷杵(とっこしょ)像は、右手を顔の高さに掲げ、独鈷杵を執り、左手を腰に当て、左足を踏み上げて、岩座に立つ。三鈷杵像はそれとは左右対称で、左手で三鈷杵を執り、右手を腰に当て、左足を踏み上げ、右足で岩座に立つ。両像は図像的に似通っているが、独鈷杵像は衣文が線的で数が多く、三鈷杵の衣文は浅く、数が少ない。制作は三鈷杵像の方が先行するだろう。法王寺にはこの二面とと一具であると思われる観音菩薩の懸仏(重文)も残るが、この像の衣文表現は三鈷杵像に近い。法王寺は蔵王信仰が盛んな鰐淵寺の末寺で、その影響から本掛佛が安置された可能性がある。中世において一時期、杵築大社(出雲大社)の祭神がスサノオとされた。杵築大社と深いつながりを持っていた鰐淵寺も、杵築大社と鰐淵寺が建つ島根半島はスサノオによる国引きによって生まれたとしており、鰐淵寺にとってスサノオは特別な存在であった。出雲において荒ぶる神のスサノオは、憤怒の蔵王権現と同体とみなされていたのである。

 

6世紀半ば頃に日本に伝来した仏教は、約1世紀後の7世紀後半には、列島に広く浸透していった。さらに約半世紀を経た奈良時代の8世紀半ば、日本在来の信仰と外来の仏教が融合する神仏習合という現象が初見する。在地の神々が、自分の神の身であることを嘆いて、仏法に救いを求めるようになるのである。解脱を求める神のために、神域に神宮寺が建立されるようになり、神前で読経されるようになった。神宮寺建立の担い手は、神を祀ることで地域を束ねてきた伝統的な地域首長、すなわち地方を統括する軍司層が想定されている。奈良時代後期、富を蓄積する階層が出現したため、地域社会の秩序が動揺し、共同体の核であった神の威信も揺らぐことになった。在地の神祇(じんぎ)信仰のほころびを、郡司層が仏教の威力を借りて打開しようとしたことの表れが、神仏習合だったと指摘されている。出雲のような古い仏教信仰の強い地域にも、神仏習合の流れがあった印として最後の三つの事例を紹介した。神仏習合と神仏分離令、廃物希釈については、改めてそれぞれについて所論を展開したい。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和 2020」、図録「古事記成立1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝 2013年」、直樹孝次郎「古代国家の成立」武光誠「真実の古代出雲王国」を参照した)

日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(6)

古墳時代の発掘宝物は、大和地方に限定して示してきたが、勿論出雲地方にも優品が出土している。この稿では、出雲地方の古墳時代の出土品の優品を紹介し、最後に古代における出雲と大和の関係を解明する上で、重要な切り口となる出雲国造神賀誌(かんよごと)奏上儀礼に触れ、大和と出雲の関係の特殊な関係について、述べたい。まずは、出雲地方から出土した古墳時代の優品の紹介から始めよう。

重分 双龍環頭太刀 島根県安来市出土 古墳時代(7世紀) 島根県教育委員会

本作は、かわらけ谷横穴墳墓群の出土品である。出土横穴などは特定されていない。しかし、出土当時に鞘から刀身を抜くことができるほど保存状態は良いものであったことが記録されている。刀身は昭和33年(1958)に重用文化財指定以前に研ぎ出され、本来の金属光沢を取り戻した経緯を有する。柄頭は金銅製で「おむすび形」の冠体に二本の龍が向かい合って玉をくわえる姿がモチーフとなる透板が嵌め込まれている。装飾太刀を副葬した本作の被葬者が、出雲東部における上位首長層の下で、倭王権と密接な関係にあった可能性が考えられる。7世紀初めから中頃に位置付けられている。この双竜環頭太刀から見ても、出雲の豪族は、天王家と近い関係にあったことが理解できるだろう。

重分 金銀装馬具 島根県出雲市出土 古墳時代(6世紀) 島根県・出雲市

上塩治築山古墳は明治26年(1887)に石室が開口し、精微な横穴式石室や大小2基の家形石棺、九本もの鉄鉾や馬具をはじめとする多くの副葬品が出土した。この古墳から出土した馬具は2セットある。その正確な位置はわからないが、当時の聞き取りの記録などから、銀装馬具は奥壁沿いに設置された小石棺の蓋石上にあったとされる。透かし十字文心葉形鏡板付轡と金銀装鞍金具(前輪、後輪)、同じく金銀装の雲珠(うず)、辻金具、透かし心葉形杏葉で構成される。馬具をはじめとする上塩治築山古墳出土の金属製品は、その依存状態の痕跡も残るなど、当時の飾り馬の馬具の装着状況を具体的に復元できる貴重な資料である。

重文 金銅製冠 一個 金銅製 長23.5cm 島根県出雲市

 

上塩治台築山古墳では、金銅製の冠の破片が出土しており、近年になって新たな破片が確認されている。形状や製作技法も特徴的で、中国や朝鮮半島の冠とはかなり変容していることから、国産の可能性が高い。類例のない極めて特徴的な一品である。この金銅製冠は金銀装捩環頭太刀や玉類などとともに小石棺に納められていたと考えられ、さらに棺上に置かれたとされる金銀装馬具も小石棺の被葬者に供えられたものであろう。小石棺の被葬者については、大和に舎人として上番し、金銅製冠や金銀装馬具などを携えて帰郷した人物という説もある。

重文 金銀装円頭太刀一本 刀身 鉄製、鞘・外装 木製金銀張、金銅製 出雲市

この金銀装円頭太刀は、この古墳の主である大石棺の被葬者に埋葬されたものと考えられる。柄頭は,打ち出しによって匙面を作った銀板で両側から挟み、合わせ目を綾杉文の入った銀製の細帯で両側から挟み、合わせ目を菱型文の入った銀製の細帯で留める。刀側が大きくへこんだ柄間は銀線で渦巻にし、鍔は大型の八層鍔。金銅製の責金具が残る。鞘木が良好に残存しており、鞘口と鞘間に銀線が巻かれ、全体に黒漆が塗られる。茎には目釘穴が三つ空けられる。刀身は全体に内返りし、切先はフクラ切先。街近くに連弧輪状文の象嵌がある。

重文銀象嵌円筒太刀一本 松江市鉄地銀象嵌 長52.0cm古墳時代(6世紀)

鉄地に亀甲文・鳳凰・花弁の象嵌がなされた柄頭を有する、いわゆる銀象嵌円頭文を有する、いわゆる銀象嵌円頭太刀である。刀身に銀象嵌で「各田部臣」他十二文字などが記されている。「各田部臣」は漢字の一部を省略した字体で、額田部臣を意味する。額田部臣とは、倭王権が地方に設置した隷属民の一つである額田部を現地(出雲)で管理した地方豪族で、太刀の納められた古墳の被葬者にあたる。このような部民は、六、七世紀の倭王権の地方支配において重要な役割を果たしたが、本作品は、部民に名を記した最古の実物同時代資料である。

重文 勾玉・菅玉 四十個 古墳時代(4世期)島根県松江市上野1号墳島根教委

上野1号墳は、北に宍道湖を見下ろす丘陵上に造られた長径40メートルの楕円形墳。全長約七メートルもある長大な割竹形木簡の内部には、水銀朱が撒かれ、斜縁神獣鏡一面、刀子四個とともに、この玉類が出土した。勾玉は三個あり、それぞれメノウ、ガラス、ヒスイ製。このうち、メノウ製勾玉は長さ約4センチもの大型品で、橙色を呈した透明度の高い石材を使用している。のちに全国に大量供給されることになる花仙山勾玉の中でも、最初期の一群に含まれる。管玉には、やや軟質の緑色凝灰岩製と、鮮やかな緑色の碧玉製がある。いずれも花仙山産と見られる。古墳時代中~後期の出雲産菅玉は、片側から穴を穿った片面穿孔が一般化するが、上野一号墳出土の菅玉は両面穿孔によるもので、片面穿孔開始以前の出雲菅玉である。

国宝 延喜式(九条家本)巻八 平安時代(11世紀) 東京国立博物館

「延喜式」は、律令制における施行細目を記したもの。平安時代の日本では、中国・唐の法制にならって律令の施工とともに格式を発布した。「延喜式」は、延喜5年(905)の醍醐天皇の勅命により、弘仁、貞観の式を集大成して編纂され、延長5年(927)に完成し、康保4年(967)より施行された。本書は、九条家に伝わった写本で、紙背文書の検討により書写年代はいくつかのグループに分かれるが、巻八~十は平安時代・十一世紀の書写と考えられる。巻一から巻十は平安時代・十一世紀の書写と考えられる。巻一から巻十までが神話の部であり、巻八は「祝詞」巻九、巻十は「神明帳」である。ここでは巻八「祝詞」からは「出雲国造神賀帳」の部分である。古代における出雲と大和の関係を解明していく際に,重要な切り口となるのが出雲国造神賀奏上儀礼(いずもこくそうかんよごとそうじょうぎれい)である。それは出雲国造が都にのぼり、天皇に対する長寿と国家の安寧を祈った祝詞を奏上し、神宝を献上される場合が多いが、天皇の即位、都が移った時など国家にとってめでたいときにも奏上される。それは、まさに出雲国造の祖先神であるアメノホヒがオオナムチを説得して国譲りをさせ、その結果を高天原の神々に復命した神話に対応する。出雲国神賀詞奏上儀礼は分析することで、出雲国造は、単なる出雲一国の国造ではない。ましてやかって列島の地域社会に存在したヤマト王権の国造の代表でもない。出雲国造は天皇の聖性を補完する存在だqったのである。神話と歴史の接点とも言うべき儀礼であった。

本稿では、出雲の古墳出土品に触れながら、「天皇の前で語らえた神話」こそ「出雲国造神賀奏上儀礼」を語ったわけで、まさに神話と歴史の接点として出雲を考えると理解がしやすい。ここで、古墳時代とは別れを告げ、「仏と政(まつりほと)」の世界へ移ることとなる。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和  2020年」図録「古事記1300年 出雲―聖地の至宝  2012年」、井上光貞「神話から歴史へ」、江上波夫「騎馬民族国家」を参照した)

日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(5)

1948年(昭和23年)の5月と言えば、戦火の跡がまだ生々しく残っていたが、敗戦までの抑圧から解放された自由な学問的活動が澎湃として渦巻いていた時代であった。北方アジアの考古学にくわしい江上哲夫氏が、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表した。江上氏の着想の根底に横たわっているのは、四世紀から五世紀にかけて東アジアに著しい歴史現象、すなわち、北方系の騎馬民族が続々と南下して農耕地帯に定着し建国して、支配階級を構成したという事実である。これが北シナにおいては、五胡における十六国の建国となり、朝鮮においては、高句麗や百済の並立を促した。高句麗は、ツングース系の騎馬民族の王国であるが、五十六国からなる馬韓を統一した百済王朝もまた、韓国人ではなくてツングース系の扶余族であった可能性が強いのである。したがって、このような当時の大勢からみて、その一派がさらに海を渡って日本に渡来し、その騎馬の卓越した軍事力で倭人を征服し、日本の覇者となったとしても、いささかも不思議ではない。では、日本の支配者の交代とは誰を指すのか?江上氏はハツクニシラススメラミコト、即ち崇神天皇の御真木入日子という名こそ、その有力な証拠であると述べた。なぜなら、南鮮の弁韓の地は、後に任那(みまな)といったが、任那の語幹はミマ、ナは土地であり、一方、ミマキのキは城の意味である。従ってミマキイリヒコは「任那の王」という意味であったとした。この騎馬民族説は精神的な開放期の波に乗る奔放にして自由な思考力の産物であった。旧制中学3年生であった私は、正に晴天の霹靂であり、たちまち「騎馬民族国家説」のとりことなった。昭和50年代には「騎馬民族説」の展覧会が東京で開催され、江上波夫氏の「騎馬民族国家」は中公新書に納められており、私は時々本箱から取り出して今でも懐かしく読むことがある。なお江上説は、その後の日本歴史の研究の進展につれて、その矛盾が露呈し、現在「騎馬民族説」をまともに取り上げる学者は、殆どいない。しかし、私の日本古代史観として未だに生きている。中学3年生の受けたショックは永久に消えないものである。本稿を書く気になったのも、五世期頃の古墳から出土した多数の馬具を見て、どうしてもこの項で取り上げて見たかったのである。笑い飛ばしてもらって結構である。

重文 鉄盾(てつたて) 二個 古墳時代(5世紀) 奈良・石上神宮

「日の御盾」と称して、石上神宮の神庫に長年収蔵されてきた鉄盾である。二面あり、いずれも鉄を鉄鋲で留めており、五世紀後半の鋲式短甲と近しい作りである。こんも鉄盾の主たる文様は、直線文と鉤文であり、とりわけ鉤手文は弥生時代の弧帯文を祖型とし、外敵から守る辟邪の意味合いを持ち、革盾や木盾、家形埴輪などの古墳時代に日本列島でよく使われる文様である。国産品と見られる。二面の鉄盾は良く似ているが詳細に観察すると、全体の高さ、鉄板の重ね方、鉄鋲の大きさや数が異なる。全体の高さがやや小さな鉄盾が、鉄板の重ね方が不均一であり、鉄鋲の数が少なく、鋲頭が大きいため、やや後に作られたのであろう

国宝 金銅装鞍金具(前輪) 藤ノ木古墳出土 奈良県斑鳩町 古墳時代(5世紀)文化庁

藤ノ木古墳は、奈良県生駒市斑鳩町に所在する直径50メートルの円墳である。古墳時代後期後半(6世紀後半)に築造され、未盗掘の横穴式石室,刳抜式家形石棺内からは東南アジアでも類を見ないほど豪華で精巧な金銅製の馬具と一万個を超えるガラス玉、金属製品からなる装身具や武器、武具など、おびただしい数の副葬品が出土した。石棺内には二人の被葬者が埋葬されていたことが遺存していた人骨や埋葬品から判明した。本品は、藤ノ木古墳から出土した馬具のうち最も豪華な金銅装の一組である。

国宝 金銅装鞍金具(後輪) 藤ノ木古墳出土 奈良県斑鳩町 古墳時代(6世紀)文化庁

後輪は、基本的な構造や施文方法は前輪と同じであるが、文様の数や意匠に違いが認められる。前輪、後輪ともに東アジアの中でも例を見ないほどの技巧と装飾を凝らした優品であり、藤ノ木古墳を代表する出土品である。この前輪、後輪を見れば、思わず江上波夫氏の「騎馬民族国家」を思い出さずにはおれなかった。

国宝 金銅装棘葉形杏葉 四個 鉄地金銅張 最長13.7cm 文化庁

(上部)周縁の五か所に棘葉状の突起を持つ同形のものが17個出土しているが、各個体の法量を見ると高さで8ミリ、最大幅で7ミリの差がある。杏葉上部には立聞(たちぎき)があり、棘花弁形の金銅製鉤金具が付けられている。      下の鏡付き轡は、構成する部位の内、片側の鏡板と引手の銜(はみ)の一部のみが残存している。鏡板は心葉形を呈し、厚さ約2ミリの鉄地を地板にして金銅板と厚さ約2.5ミリの金銅製の透板を重ね、周囲を鋲で鋲打ちしている。心葉形の鏡坂上部には立聞があり,面繋(おもがい)の革紐と連結する棘花弁形の釣金具が取り付けられている。

国宝 金銅装龍文飾金具 四個 鉄地金銅張 布 最長 15.6ミリ 文化庁

平面が楕円形を呈し、周縁に棘部を有する飾金具である。同大のものが八個出土している。各個体の法量は、全長15.3~15.8センチ、中央幅約8センチ、厚さ三ミリである。厚さ1ミリの地板の鉄板に金銅板を重ね、その上に龍とパルメット文を透彫した厚さ約1.5ミリの金銅版を十三個の鋲によって留めている。これは胸繋(むながい)かあるいは障泥(あおり)に取り付けられた飾りの可能性がある。下部は正円形の飾金具であり、中心は筒状に突出する。全体の直径9.3センチ、筒部の直径3.4センチである。厚さ1.5ミリの鉄板上に金銅板を重ね、その上に心葉形とパルメット文を透彫した透彫した地板と同一形状の金銅板を置き、筒部の周囲に四個、外縁部に八個の鋲を打ち込み固定している。円形飾金具はたてがみの前部分を束ねるのに用いられたと考えられる。

国宝      銀製鍍金空玉 一括 銀製、鍍金 最大径 2.1センチ 文化庁

石棺内の二人の被葬者のうち、北側被葬者の首飾を構成していた銀製鍍金空玉である。梔子型空玉は球形の側面に稜をつくりだしている。稜が八つと九つの二種類があり、それぞれ30個と24個が出土した。丸玉は球に近い形状で、24個出土した。藤ノ木古墳の玉類は金属製品とガラス製品で構成されている。梔子型と丸玉は他の出土類と比べても大型品であり、有段空玉は類例が少ない。金属製玉類は朝鮮半島から製作技術が伝わり、六世紀にはそれまでの装身具の主体であった石製玉類と入れ替わるように普及した。

重分 埴輪飾り馬 一個 古墳時代(5~6世紀) 島根県松江市出土

平所遺跡から出土した埴輪には、馬四個、鹿一個、猪一個、家一個、人物三個、円筒埴輪一個などがある。馬形埴輪は三個が復元されているが、このうち二個はおおむね同形で、大きさもほぼ同じである。鞍・鐙・轡などの馬具を装着した飾り馬で、頭頂部のたてがみを球形になるように結い上げた結び飾りが見られ、尻尾も革紐で螺旋状に結い上げたように表現されている。

重分 埴輪 見返りの鹿 一個 土製 高93.5cm 島根県教育委員会

立派な角を生やした鹿が左後方を振り向いた瞬間を写実的に表現した埴輪である。頭部から首、背中、尻を経て左足の一部まで復元されているが前足などは判明していない。角は別作りになっていて、ソケットにして頭頂部に差し込まれており、取り外すことも可能になっている。特に頭部の表現は精巧で、鼻の位置が左右に傾き、顎の上下をわずかにずらしているのは、草を食んでいる様子を表しているいるか。切れ長のかわいらしい目をしているが、ぴんと立てた耳は、あたかも人の気配に慌てて振り返ったかのような緊張感がみなぎる。

 

古墳時代の出土品を中心に紹介したが、やはり一番気に掛かったのは、馬具類である。この馬具類を見て、思わず戦後の日本史の一環として江上波夫氏の「騎馬民族国家」を、思い出し、出来れば「騎馬民族国家」をもう一度読み直してみようかと思って、本編は閉じたい。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和  2020年」、図録「古事記1300年 特別展 出雲  2012年」、井上光貞「神話から歴史へ」を参照した)

日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(4)

図録では「日本の国家形成を考えるうえで、古墳時代の始まりに築造された奈良県桜井市箸墓(はしはか)古墳の研究は重要な意味を持つ。この古墳は現在宮内庁が管理する陵墓であり、一般的には立ち入り出来ない。」西藤清孝氏(橿原考古学研究所)は、この古墳は「卑弥呼(ひみこ)」に関わる古墳として日本列島最初の大規模古墳として多くの人を魅了しているとしている。しかし「卑弥呼」は弥生後期の3世紀頃、日本人の歴史や社会状態を記した「魏志倭人伝」の中に、およそ2千文字にわたって、当時の「倭」(わ)と言われた日本の歴史、地理を述べた史書である。しかし、「卑弥呼」の居た「耶摩台国」は、九州説、大和説と別れ、いずれとも結論を着けにくく、箸墓古墳を「卑弥呼の墳墓」とすることはやや難しい気がする。本稿(4)では引き続き、古墳時代の遺物を説明したい。

埴輪 靫(ゆぎ)富山古墳出土(奈良県)古墳時代(5世紀)橿原考古学研究所

表面に黒斑のついた野焼きの埴輪である。靫(ゆぎ)とは鏃(やじり)を上に向けて矢を納める入れ物で、徒歩で背負って使用する。本品は古墳の後円部頂に立てられた位置が確認できており、出土位置が明確かつ全体状態を知ることのできる稀少例である。

埴輪 兜・盾(かぶと・たて)富山古墳出土品 古墳時代(5世紀)橿原考古学研究所

表面に黒斑の付いた野焼き焼成の埴輪である。兜の内側に支え台として付けられた円筒部を、盾の背面に付いた円筒部を上方から差し入れ、盾の上方に兜が載った形状に合わせている。古墳の発掘調査時に、この盾が後円部墳頂に立てられていた位置が確認されている。

準構造船部材 須山古墳出土 木製 高 190.0cm 古墳時代(5世紀)奈良・広瀬町

須山古墳は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する墳丘長220メートルの前方後円墳であり、古墳時代前期末(4世紀後半)に馬見古墳群中央で築造された。後円部中央には埋葬施設である竪穴式石室が二基構築されている。準構造船の部材であるクスノキ製の縦板とスギ製の舷板が宗壕北東部が二基構築されている。準構造船の部材であるクスノキ製の縦板とスギ製の舷側板が周壕北東部かた出土した。竪板は長さ約1.9メートル、幅約78センチで側面に突起があり、表面は上下二段に区画され、区画内にはともに同心円状の文様を中心に直弧文が描かれている。船の大きさを復元すると全長8メートルを超えると推定できる。

重文 新沢千塚墳出土品 ガラス帵  古墳時代(5世紀) 東京国立博物館

奈良県橿原市と武市郡高島町との境界にある貝吹山から延びる丘陵上に約六百基から成る新沢千塚古墳群は立地する。4世紀から7世紀初頭頃まで古墳が作り続けられ、その殆どが直径10から20メートルの円墳だが、前方後円墳、方墳も見られる。昭和51年(1976)には国史跡に指定された。新沢千塚古墳群のなかでも際立つのは5世紀後半に造られた126号墳であり、縦約22メートル、横約16メートルの長方形墳である。この埋葬施設からは、西アジアや中国東北部、朝鮮半島といった日本列島外からもたらされた舶載品が多々見つかり、5世紀の国際交流や対外交流を知る上で大変注目されている。このガラス帵は、やや黄色みがかった切子ガラス帵であり、被葬者の頭部右脇から出土した。アルカリガラス製であり、厚さ1.0~1.5ミリと薄手である。胴部から底にかけてはカットした円文があり、磨いた部分と粗削りのままの部分とが一段おきに巡っている。後縁橋部は波うっており、きれいな仕上がりではない。ササン朝ペリシャ系ガラスの制作技法に通じるので、おそらくシルクロードを経て遠く日本列島まで伝来したのであろう。

重分 ガラス皿 1個 ガラス製  古墳時代(5世紀) 東京国立博物館

このガラス製の皿は、被葬者の頭部右脇に添えられて置かれていた。ガラス皿とガラス帵はセットで出土しているので、あたかもコーヒーカップの受け皿のような使われ方をしていたのではないかと考えられる。皿には高台がつき、濃い紺色をしているが光をかざすと神秘的な色合いを放つ。表面にはうっすらと白濁色を見ることができるが、これは金箔を置くための接着剤であり、内面の底には鳥が、周囲には樹木、花弁、馬、人物などが描かれている。この絵はササン朝ペルシャに由来すると考えられ、近年の分析ではガラス皿の組成が、ローマ帝国領内で見つかったローマガラスと一致することが明らかになった。このガラス皿は、遠く西アジアから中国東北部や朝鮮半島を経て、約8千キロも離れた日本列島まで運ばれてきたものであり、古墳時代ではほかに現存する類例がない貴重な品である。

重文 蒙古鉢形眉庇付兜 奈良県五條市 五條猫塚古墳出土 古墳時代(5世紀)

五條塚古墳は、奈良県五條市西河内町に所在する一辺32メートルの方墳である。朝鮮半島さらには中国大陸との結びつきの深い遺物が出土することから、5世紀に置ける対外交渉に活躍した葛城氏や紀氏との関係性も指摘される。五條猫塚古墳からは三個の眉庇付兜が出土しているが、その内の一個が蒙古鉢形眉庇付兜である。本品は中国大陸や朝鮮半島で見られる蒙古鉢形兜に形が似ているものの、野球帽のような庇が付く日本列島特有の眉庇付兜であり、国内外の影響を受けた折衷品と言える。金色に輝く格の高い兜である。高度な金工技術を使っており、5世紀に置ける技術の最高水準を示す。

重文 金製方形板 金製 長 8.4cm 東京国立博物館

被葬者の頭部付近から出土した1辺約8センチの金製方形版は、四隅にある三孔で綴付けて冠帽を飾っていたと考えられる。厚さは1ミリ以下で非常に薄く、重量は22.6グラムである。板の縁には半球状の円座が巡り、歩揺で飾っている。同様の金属方形板は日本列島に類例がなく、中国遼寧省の防身二号墓で確認できることから、中国東北部から伝来したものと考えられている。日本列島で普及していなかったこのような冠飾を被葬者は身に着けたことから、被葬者は渡来人であった可能性も充分に考えられる。

重文 金製垂飾耳飾  二個 金製 最長 21.7cm 東京国立博物館

被葬者の耳に相当する位置から出土した対となる耳飾である。二種三条からなり、歩揺の付いたコイル状部品を七つ連ね、先端には球形飾と三叉状の飾りを連結させた一条と、コイル状部品を二つ介して球形飾を兵庫鎖で連結した二条からなる。日本列島で出土する垂飾付耳飾のなかでも、これほど精緻な作りのものは他に例がない。本品は日本列島では少ない新羅系垂飾付耳飾の中でも古いものであり、垂飾付耳飾製作が始まって間もない頃の製品である。本品のような耳飾を付けた被葬者は、非常に格の高い人物であったと想像できる。

玉(たま) 金製、銀製、石製、ガラス製 「勾玉」最長2.3センチ 東京国立博物館

新沢千塚126号墳の埋葬施設内から、数多くの種類と量の玉が出土している。勾玉は5個、雁木玉2個、緊迫入丸玉1個、ガラス丸玉657個、ガラス小玉321個、金製玉2個、銀製空玉40個以上である。その中でも勾玉は硬玉製が4個、滑石製が1個あり、古墳時代の首長が好んで用い、遠く朝鮮半島の新羅の王も冠の装飾に利用した。鴈木玉は黄色のガラスを地にして青色ガラスを配することで縞模様にあしらっている。鴈木玉のルーツは西アジアにあり、朝鮮半島を経由して日本列島に入ってきた。その他の玉も朝鮮半島を経由してもたらされたものであろう。

国宝 七士刀 鉄製・金象嵌 長さ 74.9cm 古墳時代(4世紀)石上神社

古くから石上神宮の神宝として伝えられており、早く平安時代の終わり頃から人々の関心が寄せられていた。鉄製の一種の剣である。しかし剣身の両側に左右にかわるがわる三つずつの小枝を派出させて、支刀の形成をつくっている。身の長さは約75センチ、茎(こみ)の長さは、約9センチ、身の幅は下の方で約2.1センチ。身と板とに、金象嵌によって細い条線がほどこされている。ことに身の裏表には状線がほどこされている。ことに身の裏表には状線の間に同じく金象嵌による文字が見られる。一応次のように理解される。「表」「泰和四年六月十一日丙午の日の正陽、鍛えに鍛えた鉄でこの七支刀をつくりました。敵の兵力をことごとく破ることのできる霊刀であります。侯王に差し上げたいと思います。(以後4字不明)作」「裏」「百済王ならびに世子の奇生観音(後の貴須王)は、倭王のおんために昔からまだ見たことのないこの刀を、つくりました。願わくば、後世まで伝えられんことを」(意訳)銘文の文意からは百済王から倭王に贈られたものと解され、高句麗の南下にともなう朝鮮半島情勢の緊張が背景にあるのだろう。日本書記の神功皇后52年9月の条にみえる、百済から献上された「七枝刀」(ななつのさやのたち)を本作と見る考えも根強い。当時の東アジア情勢を知る上で一級の資料で4ある。

古墳から出土した数々の銘品を参考にして、古墳時代(4~6世紀)の、わが国の情勢と国際情勢を知る上で貴重な品々であった。いずれも日本史の古代を飾る銘品であるが、写真ではなく、実物を目にすることは稀な体験である。是非、この特別展を拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和 2020」、図録「古事記1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝  2012」、井上光貞「神話から歴史へ」、原色日本の美術「第1巻 原始美術」を参照した)

日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(3)

大和の地に出現した前方後円墳は政治や権力の象徴で、王権の儀礼が繰り広げられた舞台でもある。メスリ山古墳の巨大埴輪や黒塚古墳に埋葬された大量の三角神獣鏡などは、大和を中心とした一つの国へとまとまっていく様子を示している。ヤマト王権は大陸との交流を中心とした一つの国へまとまっていく様子を示している。ヤマト王権は大陸との交流を通してさまざまな文物や技術を獲得し、そこで得られた舶載品やその模倣品を各豪豪族に与えることで、王権の基礎を堅固なものにしていった。このような流れから東アジア世界に組み込まれ、国家としてもまとまりを整えていったのである。本章(3)では、埴輪や副葬品にみる古墳時代の多彩な造形が豊かに展開するありさまをたどりながら、ヤマト王権の成立の背景に迫るものである。

重文 三角縁神獣鏡 島根県雲南市上原神社出土 青銅製 面径23.0文化庁

雲南市加茂町にあった神原神社古墳は29×26メートルの方墳である。河川改修に伴って発掘調査され、長大な割竹形木簡を納めた竪穴式石槨が調査された。神原神社古墳からは器台などの土器類のほか、武器類や農工具など多彩な金属製品が出土している。特に三角縁神獣鏡が良く知られている。紐の周囲に神仙と霊獣を配し、その外側には「景初三年」の年号が見える。景初三年(239)はいわゆる「魏志倭人伝」に見える耶摩台国の女王卑弥呼が魏に使いを送ったとされる年である。「景初三年」の銘が入る銅鏡は、国内ではほかに和泉黄金塚古墳(和泉市)の画文帯神獣鏡が知られている。この鏡は、三角神獣鏡のなかでも最古級の舶載鏡である。

重文 玉杖(ぎょくじょう) 奈良県メスリ古墳出土 古墳時代(4世紀)

メスリ山古墳は、奈良県桜井市高田に所在する墳丘長224メートルの前方後円墳である。古墳時代前期前半(4世紀前半)に大和古墳群南端で築造された。未盗掘の内部にはおびただしい数の副葬品が収められていた。副葬品には玉杖、鉄弓、鉄矢、農工具などがある。                          玉杖とは前期古墳出土の杖状の碧玉製品に便宜的につけられた呼称である。本品はメスリ山古墳の副室から出土した四本の内の二本で、杖頭部が翼状飾り、十字型飾りの二タイプがある。メスリ山古墳の玉杖は、杖頭、受部、杖部,石突の各部分からなり縦方向の孔をあけて鉄製や木製の軸心でつなぐ。

重文 銅製弣(ゆづか)一個 青銅製 長さ26.8cm  古墳時代

短冊状の銅製品であり、長さ26.8センチ、両端の幅3.2センチと中央から両端に向かって開く形状となる。側面から見ると両端が反り上がる形状となっており、弣として鉄弓に装着して用いられたと考えられる。中央部は蒲鉾型を呈し、六無文となる範囲が長さ8.4センチあり、その両端に長さ1.1センチの突帯(とつたい)が取り付き、一段高い形状となる。

重文 鉄弓(1張、1812cm)鉄矢 (鉄製、182cm)   古墳時代

後円部の副室内から出土した鉄弓は、全長182センチ、太さ2.2×2.4センチ、弓身の段面形は背が半円状になる蒲鉾型の鉄でつくられた細い針金状の弦が出土しており、本作品は身と弦の全体が鉄製である。弦をかけた痕跡が道められるものの、弓身と弦とのS津続方法は不明である。弓の下端から65センチから90センチの間に弣(ゆづか)の部分があり、周囲より太い突起が二か所ある。その長さと幅が銅製弦と一致するすることと出土状況から、銅製弣は本来弓身に取り付けられたいたものと想定される。弦まで鉄で作られた本作品が実用品でないことは明らかであるが、銅製弣の存在などから儀礼用の威儀具として制作されたものと考えられる。矢は、先端の鏃(やじり)だけでなく、矢柄や矢羽までの全体が鉄で作られている。後円部の副室内から同じ形状のものが計五本出土した。

重文 円筒埴輪 一個 土製  高さ 242cm

後円部に二重に立て並べられて方形埴輪列のうち、竪穴式石室の主軸線上に最も大型の円筒埴輪が立てられている。高さ242センチ、底部の直径90センチ、口縁部の直径131センチをはかり、現在知られている円筒埴輪では日本最大のものである。

重文 円筒埴輪 土製 二個 最大長 119.2cm 古墳時代

後円部上に立て並べられた方形埴輪を構成する円筒埴輪である。二重の方形埴輪列には約170個の円筒埴輪が用いられており、それぞれ接するように密に並べられていた。口縁部の直径131センチをはかる。

重文 三角縁神獣鏡 黒塚古墳出土品 33面 青銅製 最大面径 24.7cm

黒塚古墳は天理市柳本町に位置する全長約130メートルの前方後円墳である。櫛山古墳、大和天神古墳、行灯山古墳などと同じ台地上の西下方に立地する。埋葬施設は後円部中央に設けられた竪穴式石室で、割竹型木棺が安置されていた。鎌倉時代の地震による石室崩壊のため盗掘を免れ、多くの副葬品が残された。33面の三角神獣鏡は、断面三角形の高い縁を持ち、鏡背区内の主要文様に中国の神仙思想に基づく神像と獣形を反肉彫りにした、面径22センチ前後の大型青銅鏡である。黒塚古墳出土の三十三面はいずれも「舶載」とされるもので鏡種は二十五種類が認められる。内区主文様は四神四獣が二十四面と主体をしめる。黒塚古墳における同范鏡は七組十五面が認められるが、同一古墳への同范鏡副葬例の中では最多となる。

重文 画文帯神獣鏡 一面 青銅製 面径 13.5cm

木棺内の被葬者頭部に近接した位置に、直刀、剣、槍各1点とともに置かれていた。織物痕跡から、布に包まれたか袋に入れられたと推定される。紐は圏線が巡る円座に載り、紐孔から上方からやや丸みを帯びた方形を呈する。上下の神像は頭部を紐に向け、左右の神像は逆に外縁部に向く。上下の神像は冠表現から黄帝、左右の神像の表現から、それぞれ東王父、西王母とみられる。

重文 首飾  三連  石製 最大径 5.2cm

島の山古墳前方部に営まれた粘土槨の中央部、被葬者の胸付近から出土した。綾杉文を刻んだ八角柱の玉を親玉とし、菅玉、細長形菅玉、ガラス玉による三重で構成された首飾である。一連が碧玉製の菅玉である。その外側二連はほとんど類例のない、細く長い棺玉から構成されている。ガラス玉は菅玉から構成されている。ガラス玉は菅玉と細長形菅玉のそれぞれの連を束ねる位置にあったと推定されるが、時とともに飛び散って残っていない。副葬品の組み合わせから見て女性であった可能性が指摘される。

 

大和の地に出現した前方後円墳の中には、政治や権力の象徴である王権の儀礼を繰り広げた大量の出土品が含まれていた。現在、皇室関係の墳墓は、国の管理下にあり、民間の手では自由にならないが、それ以外の古墳からは様々な宝飾品や、遺品が発掘されている。我が国が、東アジア世界に組み込まれていく過程が見えるようである。古墳の内装品など興味が無いかもしれないが、日本古代史を語る上で欠くことの出来ない宝物である。面倒がらずに、是非丁寧に目を通して頂きたい。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和 2020」、図録「特別展 出雲ー聖地の至宝   2012年」、井上光貞「神話から歴史へ」を参照した)

日本書記成立1300特別展 出雲と大和(2)

和辻哲郎氏は「日本古代文化」という本の改訂稿版から「山陰を大陸の門戸とすると近畿地方中心の銅鐸文化と筑紫中心の銅矛銅剣の文化」といういわゆる二大青銅器文化圏説が登場し、事実私も「銅鐸は近畿中心」「銅剣は九州が中心」という二大青銅文化圏を高校の日本史で習った記憶がある。ところが、昭和59年(1984)島根県出雲市の静かな谷間に位置する荒神谷遺跡から銅剣358本が出土したというニュースが新聞を賑わした。その翌年には銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が発見された。銅剣はそれまで知られていた数をはるかに上回り、銅鐸と銅矛はこの銅剣群から7メートルほど奥まった地点(一つの埋納坑)からまとまって初見された。出土地の神場サイダニという地名はカミマツリとかかわりがある。神庭はカミマツリの庭(場所)である。さらに平成8年(1996)10月には島根県加茂町(現雲南市)の加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が見つかった。加茂岩倉以前の最多となる遺跡は滋賀県野洲市の24個であった。日本では銅鐸が大型化しマツリの宝器となるが、そのルーツは朝鮮式小銅鐸、さらには中国の小銅鐸へさかのぼるのであろう。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個のなかで14個に×印があり、7個に絵画があった。銅鐸と銅矛が一緒に発見されたのも初めてのことであった。この発見によって和辻哲郎氏によって提唱された「銅矛銅剣文化圏」と「銅鐸文化圏」の対立図式の崩壊を意味していた。日本古代文化に関する一大ニュースであった。

銅鐸発見時の加茂岩倉遺跡

埋納坑に残っていた銅鐸と銅剣が埋められていた痕跡の矢印部分に注目して頂きたい。

荒神谷遺跡  銅剣出土状況

荒神谷  銅矛・銅鐸出土状況

荒神谷  銅剣の取り上げ作業

荒神谷遺跡出土品の銅剣

358本という未曽有の一括出土で知られる銅剣である。いずれも中細形銅剣c類に分類され、全長約50cm,重量約500gである。中細銅剣c類は中細形銅剣b類を元に発達した銅剣と考えられ、荒神谷をはじめその多くが山陰地域域で出土していることから、この地域固有の武器形式青銅器として知られている。    荒神谷銅剣は全長やT値に相当なバラつきが存在するが、その変異は暫時的であって、型式や細分化したり、グルーピング化することが出来ない。つまり、荒神谷銅剣は制作者や製作地などが異なる複数グループの銅剣が寄せ集められたものではなく、358本が一括して生産された、斎一性の強い銅剣群と評価できる。また、荒神谷銅剣の多くは茎(なかご)部に×の刻印がタガネで打ち込まれており、他の中細銅剣C類にこれがみられない点からも、荒神谷銅剣が斎一性の強い銅剣群であることが理解できる。荒神谷銅剣はその鋳型が発見されていないため、製作地を知る直接的な証拠はない。しかし、同時期に平形銅剣などの地域型青銅器が西日本各地で制作されている点や、その圧倒的な出土量を考量すると、一括して出雲地域で制作された蓋然性が高いと考えられる。

加茂岩倉遺跡出土銅鐸(島根県雲南市の谷間) 国宝

あの興奮から12年後の平成8年(1996)、今度は島根県雲南市の谷間に位置する加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これは過去最高の発掘例であり、またしても出雲は全国から注目を浴びる結果となった。これらの銅鐸はすべて国宝の指定を受けた。今回の展覧会では国宝銅剣、国宝銅矛、国宝銅鐸がすべて1個づつ並べて鑑賞出来るということになっている。

 

出雲でまとめて発見された銅剣、銅矛、銅鐸は、すべて国宝に指定され、会場ですべての銅剣、銅矛、銅鐸を見ることが出来る。このような機会は、多分、今後何年も見られないと思うので、是非会場に足を運んで、御覧頂きたい。日本古代史に対しる目が変わるであろう。

 

(本稿は、図録「日本書記成立1300年特別展 出雲と大和   2020」 古事記1300年出雲大社遷宮 特別展「出雲 聖地の至宝    2012年」日本の歴史第1巻 井上光貞著「神話から歴史へ」を参照した)

出雲と大和ー日本書記成立1300年特別展(1)

令和2年(2010年)は、わが国最古の正史「日本書記」が編集された養老4年(720)から1300年となる記念すべき年である。これに先立ち和銅5年(712)に撰上された「古事記」は8年前の平成24年(2012年)に1300年を迎えている。この古い歴史書(略して記紀と呼ぶ)は、律令国家が自らのアイデンティティを主張した史書であった。私は、昭和27年に飛鳥地方をK君と、共に歩き、日本書記を読む必要に迫れれ、当時岩波文庫に納められていた「日本書記」の岩波文庫に納められていた「日本書記」の3巻を古本屋で求めて、熱心に読んだ。その編者は黒板勝美氏(元東大教授、右翼学者として、戦後は東大を離れ、自営隊などで日本歴史を教えていたと言われる)であり、上巻は神話、中巻は神武天皇より宣化天皇まで、下巻は欽明天皇より持統天皇までの日本の古代史を綴っている。どこまでが神話で、どこから歴史なのか、論者によって、様々な意見がある。私は都が飛鳥の地に移った飛鳥時代、藤原京に移った藤原時代(古美術の上では白鳳時代と呼ばれる時代である)を熱心に読みこみ、飛鳥、藤原京を歩き回った記憶が残る。日本書記には「国譲り神話」が出てくる。まとめれば、出雲の大国主神は、皇祖神の天津神に芦原中国の支配権を穣る代わりに、自らを出雲の高い神殿に祭ってもらうことになった。そして「日本書記」神代上、第八段では出雲の簸(ひ)の川上に振ってきた天照大御神の弟スサノウのミコトの末裔として位置づけられたいる。出雲神話と呼ばれる説話・伝承のなかでは「出雲風土記」の「国引き神話」が豊かな想像力で在地社会の国造りの息吹を伝えている。在地の國土創成神として「八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)は、「古事記」「日本書記」には登場しない。しかし「出雲風土記」では、出雲の国土を創成した八束水臣津野命が国引きを行って今の島根半島の土地を引き寄せて出雲の国土を拡張した姿が描かれている。

国宝  日本書記 神代巻(幹玄本) 鎌倉時代 奈良・天理大学

「日本書記」の写本は,古本系統と卜部系統に分類される。乾玄本は、巻末の奥書に乾玄2年卜部兼夏書写とある。ト部家本系統として、また神代巻写本として年紀が確認できるものとしては、弘安9年(1286)の裏書の弘安本に次いで古い。神代巻の第九段一書第二には、出雲と大和を象徴する「顕露之事」(あらわのこと)と「幽事」(かくれたること)(神事)の分任について記されている。

金輪御造営指図(かなわごぞうえいさしず) 一巻 紙本着色 島根・千家家

往古の出雲大社の平面図とされるもの。本殿は長さ一町、(約109メートル)の引橋(階段)を有し、巨木3本を束ねて一組とする一丈(約3メートル)柱9本で支えられ、壮大な威容を誇った姿で描かれる。従来は図面として信憑性に疑いがもたれていたが、平成12年(2000)、出雲大社境内遺跡より、図面同様に木材3本を1組として柱が発見されたことを契機に再評価されることとなった。

重文 宇豆柱(うづはしら) 3本1組 島根・出雲大社境内遺跡出土 木製 鎌倉時代

平成12年(2000年)に発掘調査により出土した。出雲大社大型本殿遺構の柱材。スギの大木3本をあわせて一つの柱とする。大社造を構成する9ケ所の柱のうち、正面中央の棟持材にあたる宇豆柱と呼ばれる。柱材、柱穴の規模が比類ない大きさにあるだけでなく、3本の材を束ねる柱の構造が古代出雲大社本殿の平面図として出雲大社宮司千家国造家に伝わる平面図の「金倫御造営指図」としての表現と一致することが注目された。鎌倉時代の法治2年(1248)に遷宮された本殿の柱材である可能性が高い。樹齢200年以下の成長の早いスギ材であった。改築のたびに大材をを用いて造営され続けた出雲大社の高層性を端的に示す主材である。今回の展覧会では、一番最初に、この宇津柱が出てくるため、非常に来場者を驚かす。私は、出雲大社で拝観したことがある。

重分 心御柱(しんみはしら)出雲大社境内出土 鎌倉時代 宝治2年(1248)

3本の内の1本。平成12年(2000)に出雲大社の地下1.3メートルから出土した、大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて、一つの柱とする。大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて一つの柱とする。大社造りを構成する9ケ所の橋のうち3ケ所が発掘確認されており、本殿中心に位置するのが心柱である。金輪御造営指図と一致することでも注目される。私は、この心御柱を見るのは初めてである。今回の展覧会では宇津柱、次に新御柱が並び、度肝を抜かれる。

模型 出雲大社本殿 一基 木製 全長1325.0cm  出雲市

株式会社大林組の古代出雲大社復元図をもとに、松江工業高校の生徒14人が製作した十分の一スケールの本殿模型である。復元図は、心御柱の宇津柱が発掘調査で発見された平成12年より以前に、京都大学名誉教授の福山敏男氏(故人)の考えをもとに、同氏の監修により作成された。金輪御造営指図をもとに、天禄元年(970)に編纂された口遊(くちづさみ)の記述に見られる大きな建屋の順位「雲太・京二・京三」(出雲大社、東大寺大仏殿、平安京大極殿)の記述と社伝などから、標高を16条(約48メートル)、引橋を長さ一町(約109メートル)としている。想定している時代は十世紀(平安時代)で、展示してある鎌倉時代の心御柱、宇豆柱の出土遺構から想定される本殿規模とは異なっている。しかし、現状では古(いにしえ)の出雲大社本殿の姿は不明なままであり、その巨大性を議論するに相応しい模型である。

重文 銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)、出雲市 眞名井遺跡出土 弥生時代(前2~前1世紀) 出雲大社

出雲大社に伝わる銅戈と勾玉・中細形銅矛b類に分類される銅戈は、樋内に綾杉文を配し、頸部(なごぶ)にかすかな鉤形文を配し、頸部にかすかに鉤形文が中出される。勾玉は新潟県糸魚川産と考えられる硬玉性の優品で、頭部の孔は片面穿孔である。これは寛文年度造営に際し、眞名井神神舎で出土したものである可能性が高い。

重文 手斧(ちょうな)

出雲大社の法治度本殿遺構に伴って出土した鉄製の手斧。宇津柱の材底付近から、柄を抜いて出土した。立柱時の儀礼的に使用し、意図的に埋葬されたものと考えられる。

重文 鎹(かすがい) 三個 鉄製 最長 25.5cm

重文 帯状金具 一個 鉄製  長さ 22.0cm

重文 釘  五個 鉄製 最長 36.2cm

出雲大社の法治年度本殿に使用されたと見られる建築金具の一部である。本殿遺構の発掘調査で出土した。

出雲大社に関わる、器物、道具類であり、出雲大社の成立、立て直しに係る道具類を多く採用した。次回も出雲大社に関わる記事が多くなると思う。」

(本稿は、図録「日本書記成立1300年特別展 出雲と大和  2020年」、図録「聖地の至宝  出雲   2012年」、岩波文庫「日本書記3冊」を参照した)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(3)

シャガールは1887年7月7日、白ロシア共和国(現ベラルーシ共和国)の貧しい町ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。敬虔な宗教的雰囲気と、動物達に囲まれた素朴な日常とが交錯する故郷での生活は、その後のシャガールの作品の全ての源泉となった。シャガールがパリに来たのは1910年前後とされる。現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを挽き付け、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。19世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他共に認める不動の地位を築き上げ、それが20世紀の初頭に華やかな実りをもたらした。事実、シャガールと前後してパリにやってきた異邦人画家は、歴史に名を残すほどの大家に限っても、同じロシアから来たスーチンを始め、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリーニ、ブルガリアのバスキン、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は「素朴派」と同じように、歴史家によって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。従って、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーを込めて呼ぶ言葉であったに過ぎない。「エコールド・パリ」は「エコール」の厳しい体系よりも「パリ」の懐かしさをいっそう強く思い出させる名称なのである。

モンマルトルのミュレ通り モーリス・ユトリロ作 1911年頃 油彩・カンヴァス

細い路地の向こうに望むものは、いまやモンマルトルのランドマークとなったサクレ=クール寺院。現在のように観光地化されていないモンマルトルの路地には道行く人も少なく、雨戸は閉じられ、ひっそとした趣である。この作品を制作した1911年頃は、のちに「白の時代」と呼ばれるユトリロの画業における最盛期である。本作でも、屋根のレンガ色のほか、建物の壁の白い冬のパリを連想させる曇天の鉛色など、モノトーンを中心とした色彩が画面の大部分を占めている。定規で引いたかのようにまっすぐにのびるミュレ通りの奥には、現在は「モーリス・ユトリロ通り」と呼ばれ、サクレ=クール寺院へと続く長い階段のある通りがのびている。

五人の奏者 マリー・ローランサン作 1935年 油彩・カンヴァス

ローランサンはしばし群像を描いているが、5人以上の人物の組み合わせた作品はそう多くない。本作では、庭園のような場所を背景として音楽を奏でる5人の女性たちを配している。左から順に、花、ギター、トランペット、フルートを持った女性たちが並び、中央の女性は何も手にせず横たわっている。はだけた衣や官能的なポーズは神話画における女神をほうふつとさせ、背景ののどかな自然風景と相まって、18世紀のロココ趣味を思わせる牧歌的な情景となっている。

座る子供 キース・ヴァン・ドンゲン作 1925年 油彩・カンヴァス

ヴァン・ドンゲンは社交界の人々を描いた肖像画で人気を博したが、本作は良く知られた華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色づかいを茶色の華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色使いを茶色の背景が緩和し、画面に落ち着きが生まれ、大人びた子供の雰囲気に調和している。モデルはフランスで映画俳優兼衣装デザイナーとして活躍したマルク・ドゥルニッツで、当時まだ4歳であった。幼児を描いた大型の肖像画は、この画家には珍しく、その知られざる一面を伝える作品である。

背中を向けた裸婦 モイーズ・キスリング作 1949年 油彩・カンヴァス

モイーズ・キスリングは、1891年、ポーランド南部のクラクに生まれた。本作で目を引くのは、背中から腰にかけて量感を見事に表す、繊細な陰影で、明るい色で平坦に描かれた顔と対照をなしている。また部屋の角を背にして座るのは、キスリングの定番の構図で、壁に伸びた影がモデルの輪郭を浮かび上がらせる役割を果たしている。頭にターバンを巻き、背中を向ける画中の女性は、新古典主義の巨匠、ジャン=ドミニク・アングルによる「ヴァルパンソンの浴女」を想起させる。しかし、いり直接的に影響を与えたのは、パリで親交の芸術家、マン・レイが制作したアングルヘのオマージュ「アングルのヴァイオリン」(1924年)であろう。「アングルのヴァイオリン」のモデルは、モンパルナスで歌手兼女優として活躍し、キキという愛称で親しまれた女性で、キスリングをはじめアメデイオ・モディリティアーニや藤田嗣治らのモデルも務めた。

逆さ世界のヴァイオリン弾き マルク・シャガール作 1929年 油彩・カンヴァス

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代、シャガールにとって、人生の中で最も平穏で安定した時代であった。画家は時折、キャンヴァスを回転させて描くことで、作品にっ幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間に生み出されたキャンヴァスの中で故郷のヴィテブスクの風景も歌いだし踊り出しているようだ。

バラ色の肘掛椅子 マルク・シャガール作 1930年 油彩・カンヴァス

1930年代の夏から秋にかけて、シャガールは家族と共に南仏のペイラ・カヴァで過ごした。地中海から内陸へ向かって20数kmの距離にあるこの山間の町は、風光明媚な保養地として知られ、数多くの著名人が過ごしている。このペイラ・カヴァでシャガールは何点かの作品を残したが、いずれもこの作同様に画面中央に大きく窓を配置し、そこからはるかに望む山並みの風景を描き出している。窓の外に広がる風景は写実的に、誇張も歪曲もなく淡々と描かれ、手前の室内もほぼ同様に表現されるのだが、その空間に静かに異質な侵入者が紛れ込んでくる。抱き合う男女は他のシャガールの作品同様、画家とその妻ベラの姿を重ねているのだろうが、創造の女神である妻から霊感うぃ得て、画家は今カンヴァスに向かおうとしているように見える。

夢 マルク・シャガール作 1939~44年 油彩・カンヴァス

5年間にわたって描かれた作品だが、第二次世界大戦をはさむ1930年代後半から40年代半ばの時期に、同様に長期間にわたって制作された作品が少なくない。「夢」と題されたこの作品が完成したのはアメリカ亡命中の44年、この9月2日、妻のバラが急逝している。生涯の恋人であり、創作の霊感を与えてくれたミューズでもあったベラを失ったシャガールは、しばらく鉛筆を取ることも叶わなかったが、その悲しみから立ち直る中で完成した作品と見て間違いないであろう。制作を開始した39年、シャガール家は次第に近づいてくる戦争の足音に不安を覚えつつ、パリを離れてフランス中部の田舎町に転居していた。そして2年後のは反ユダヤ法の採択とフランス国籍の剥奪という危機的な状況に直面し、ついにフランスを離れアメリカへの亡命の道を選んでいる。その折携えた作品群の中に、この「夢」はあったのだろう。そして妻の死という悲劇に直面した後で、再び取り上げられ、現在の姿になったものと推測される。

モンマルトルの恋人たち マルク・シャガール作 1953年 油彩・カンヴァス

シャガールにとってはフランスは「第二の故郷」であり、自らも認めるようにパリは彼の芸術を育んだ大切な場所であったが、なぜかその作品の中にこの街が登場することは稀であった。画中に繰り返し描かれるのは、遠い故郷のヴィデブスクの古ぼけた家並みばかりである。そこには当然、彼の戦略的な意図が含まれている。多くの画家が描きつくし、よく知られたパリの街並みではなく、遠いロシアの田舎町が舞台であれば、人が空を飛び、動物と語らう奇跡が繰り広げられても不思議ではない。「超現実的」と評された作品に対して、自らはリアリストであり、描かれた世界は生々しい現実そのものに他ならないと強弁できたのも、フランス人は誰も知らぬ遥かな故郷が舞台であればこそである。この状況が変化し、シャガールが集中的にパリを描くようになるのは第二次大戦後の事である。アメリカ亡命を終えて、画家がフランスに戻ったのは1948年の事だが、それ以前にも何度か短期間、彼は終戦後のフランスを訪れている。

翼のある馬 マルク・シャガール作 1962年 油彩・カンヴァス

翼を持つ馬、と言えばギリシャ神話に登場するペガサスを先ず思い浮かべるが、ここに描かれているのはイスラム世界を舞台にした物語「アラビアン・ナイト」の一場面である。戦争中の反ユダヤ主義を逃れてアメリカに亡命していた1946年、シャガールは同じくヨーロッパから亡命していたドイツ系ユダヤ人の出版業者クルト・ヴォルフの依頼を受けて「アラビアン・ナイト」の版画集に取り組んだ。長大な叙事詩から選ばれた四つの物語をテーマに、13枚のグワッシュが描かれ、その内の12点がカラー・リトグラフ化され、1948年に版画集として刊行されたが、この「翼のある馬」はその内の1点をそのまま油彩に置き換えた作品である。「アラビアン・ナイト」はシャガールにとって初めての色彩版画集であった。戦前、画商のヴォラールの依頼により制作したラ・フォンテーヌ(寓話)の際にも、シャガールは色彩版画を試みたが、思うような結果が得られず、結局白黒の銅版画作品として出版している。

 

「エコールド・パリ」の作家5人の作品9点を紹介したが、私は「エコールド・パリ」の中では、藤田嗣治が一番好きであり、かつ優秀な作品が日本に多数残されている。特に東京国立近代博物館にある「五人の裸婦」とか、京都国立近代美術館の「タピスリーの裸婦」など、藤田氏の最高傑作が、日本で鑑賞することが出来る。吉野石膏コレクションに藤田作品が入っていないのは誠に残念であるが、コレクターの方針や好みもあることだから、止むを得ないことかも知れない。藤田の「白の裸婦像」は、「エコールド・パリ」の中の最高傑作だと思うが、「エコールド・パリ」はい異国人の描いた絵であり、フランスでも極めて高い評価を得ている。

 

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション 2020」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「シャガールー三次元の世界  2017」、高階秀爾「近代絵画(下)」を参照した。)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(2)

本章では、20世紀前半の西洋絵画を取り上げる。20世紀前半の西洋美術は、しばしば「モダーン・アート」という言葉で総称される。ここでは取り合えず、19世紀後半から20世紀前半にかけて、西洋の伝統的な表現を脱却して、絵画の自立を目指す革新的な表現を追求した画家や作品を取り上げる。写実主義こそが西洋絵画の中心を貫いていた原理であった。印象派は光や大気のような形のないものまで表現しようとした。その点では究極の写実主義と言えるが、結果として生まれた作品からは、遠近法も明暗法も消え、色彩と筆触の存在感が前面に押し出される平面的な画面となり、絵画は世界からの自立の第一歩を踏み出したのである。印象派が切り開いた新しい絵画の歴史は、20世紀を迎えると一気に奔流のようにその変化の速度を上げていった。この第2章に含まれる作家は、いずれも20世紀前半のモダーン・アートの展開に関わった作家ばかりである。

占い師 ジョルジュ・ルオー作  1937~39年 油絵・厚紙

ルオーと言えば、必ず宗教画と思い込みがちであるが、本作は「占い師」である。周囲を太く縁取る構図はルオーが好んで採用したもので、しばしばそこに文字が描き込まれることで壁龕(へきがん)のような役割や、晩年作にみられた装飾性を強調する役割を担っている。人物は希釈された黒い絵具で輪郭をかたどられ、右手をあげる身振り、枠にそって曲げられた腕はロマネスク美術の造形性を連想させる。特徴的な三角帽の衣装はルオーが描く道化師に共通しており、目を伏せる表情はこの時期に集中して描いたキリストの顔に連なるものがある。

バラの髪飾りの女 ジョルジュ・ルオー作 1939年 油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)

1930年代以降、ルオーの作品は暗く沈んだものから、透明で輝くようなマティエールへの変貌を遂げた。この作品も明るいエメラルドグリーンを多用し、カドミュムイエロー、カドミュウムレッドディープで彩っている。「バラの髪飾りの女」の支自体はより興味深い。紙に描かれた後、目の粗い布と麻布によって裏打ちされ、その後も制作が続けられている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねられた額が構成されている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねる手法がルオー独自のものであることは広く知られている。

靴下をはく若い女 ピエール・ボナール作 1908~10年 油彩・カンヴァス

ボナールは身近な生活を主題とし、そこに差し込む光の効果と色彩を描いた。1893年に生涯の伴侶となるマルト・ド・メリーニと出会う。間もなく彼女は、モデルとしてカンヴァスにたびたび登場することとなる。病弱で神経の病を患っていたマルトは、異常なほどの潔癖症だったこともあり、しばしば入浴をくりかえしていたことから、ボバールは浴室での彼女の姿をはじめ、室内で身づくろいするしどけない女性をモチーフとした作品を数多く手掛けた。ボナールの描く裸婦は、エロチックな欲望の対象から造形的な要素へと変貌していく。本作では、マルトと考えられる女性の身体が大きく描かれ、室内には親密な空気が充満する。彼女の腰掛ける赤色のソフアと対照的な色調の青い背景の壁は、ナビ派の特徴である装飾的な点描で描かれている。

緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女 アンリ・マティス作1924年 油彩・カンヴァス

マティスが初めて南仏ニースを訪れたのは1917年12月のことである。以後、画家は秋から春にかけては南仏で過ごし、春のおわりから夏にかけて、パリ近郊のイッシー=レ=ムリーノで過ごすという生活パターンを繰り返すようになる。作家たちは様々な思惑が渦巻く刺激的なパリを離れたことは、自ら芸術についてじっくり再考する機会をマティスに与えた。こうしてフォーヴの誕生以降、絵画のあらゆる可能性の探求に捧げられた緊張に満ちた日々は一旦終わりを告げ、光と色の戯れに優しく身を任せる、快楽主義とも言えるニース時代が1920年代に始まる。読書に没頭する女性を描いたこの作品でも、画面左手から射し込む光が作り出す明暗が、女性の身体の豊かなヴォリューム感を生み出している。マチスの色彩は、私が好むものである。

静物・花とコーヒーカップ アンリ・マチス作 1924年 油彩・カンヴァス

ニースの中心部、シャルル・フェリックス広場の海辺のアパートにマチスが滞在するようになるのは、1921年の9月初旬からである。以後28年頃まで、画家はこのアパートの一室をアトリエにして様々な作品を生み出したが、この静物もその中の1点である。この時期のマティスの作品は、排他的なほどに室内に集中しており、アトリエは単なる制作のための場所ではなく、空間そのものが絵画のモチーフと化していた。

セーヌ河の岸辺 モーリス・ド・ヴラマンク作 1906年 油彩・カンヴァス

いわゆる「フォーヴ」の名称が俎上に上げられることとなった1905年の前後、ヴラマンクの画面は最も鮮やかに彩られていた。自然の形態を的確に把握し、モティーフをファン・ゴッホ流の流動的な筆致、あるいはシニャック風の点描法を駆使しながら、色彩自体が自律するような豊穣さをもって表現した一連の作品は、画家のフォーヴ時代を華やかに彩っている。この作品もそうした彼のフォーヴ時代に手掛けられた1点である。

村はずれの橋 モーリス・ド・ヴラマンク作 1911年 油彩・カンヴァス

鮮やかな色彩を用いたフォーヴ時代を経て、ヴラマンクはやがてセザンヌを思い起こさせる画面構成に挑んだ。ピカソやブラックらがセザンヌの事物に対する形態把握と分析、それら事物に対する再構築に端を発したキュヴィズムへと突き進んでゆく西洋美術史の流れに沿うかのように、ヴラマンクもこの後にキュビズムの影響を受けた画風へと変化させていくことからすれば、ある種必然的な道程とも思われる。この作品もそうしたセザンヌの影響下に置かれるもので、画面上部中央に描かれた丘の起伏やその上に建つ古城とおぼしきモチィーフ、画面左の木の葉叢、画面下の水面と思しき表現からは、形態の単純化といったセザンヌ技法が垣間見える。

工場のある町 アンリ・ルソー作 1905年 油彩・カンヴァス

本作品の場所を特定することの出来ない町の光景が描かれているが、タイトルとなっている工場もまた、ルソーにとって、新しい文明の到来を告げるものであった。放射線状に伸びた道は、画面奥で中央に集まっている。工場と思われる建物が描かれているが、奇妙なことにその半分以上は木立に隠れている。

フォンテーヌブローの風景 パブロ・ピカソ作 1921年 パステル・紙

ピカソの「新古典主義」時代を代表する母子像が集中的に描かれた場所が、21年の夏に滞在したパリの南東に位置するフォンテーヌブローである。地中海沿岸の町で過ごしたそれまでの夏とは異なり、家族での静かな生活の中、ピカソは多くの油彩、ドローイング、パステルを描いた。本作はこの滞在中、珍しくフォンテーヌブローの風景を描いたものである。形態の分割や平面化を控え、パステルの柔らかな筆致による対象を大まかな色彩としてとらえた陰影づけー特に画面右のうねるような幹を伸ばす樹木の描写ーには、母子像と共通する様式化が見られる。

 

本稿では、主にピカソ、マチス等フォーヴから抽象画までを扱ったが、私自身にも判りやすい作品を選んだ積りである。読んでいただく皆さんにも、判りやすい絵画を選んだ積りである。「判り難い」「理解できない」とソッポを向きがちな画家たちであるが、判りやすい絵も沢山描いている。好きな絵を選んでみたら良いと思う。