シャガール展   三次元の世界

マルク・シャガール(1887~1985)はユダヤ系ロシア人で、20世紀絵画の世界的巨匠である。私には、甘美な幻想を色彩豊かに描き続けた大画家というイメージがある。しかし、このシャガール観は、この展覧会を観て大きく変わった。彫刻、陶芸など約60点の立体作品が並んだシャガール展は日本で初めてだそうだ。彼はロシアに生まれたが、早くからパリに来てエコールド・パリの一人となった。ユダヤ系ロシア人の純朴な民衆的な感覚で、幼い時に聞いた童話や、故郷の農民の生活や、恋愛の幸福を楽しくうたう。彼の夢の中では、人間や動物はまるで童話のように、のんびりと平和に空中を自由に飛び回っている感覚である。1911年のキュビスムの運動の真只中のアンデパンダンに突然彼の絵が現れた。薄紅色の牛や、緑色の豚など非現実的な色彩を用いているが、勿論フォーブではなく、画面の構成はキビュビスムの影響は認められるものの、キビュスムでもない。ギョーム・アポリネールは、この新しいエスプリを目ざとくも認め、これをシュール・レアリスムと呼び、大いに好意を持った。後世、このシュール・ナチュレル(超自然)からシュール・レアリスムという言葉が生まれたのである。1914年にアポリネールの推薦によりドイツにおいて大展覧会を開催した。シャガールは、この展覧会のついでに一寸ロシアに帰省している内に第一次世界大戦が起こり、そのままロシアに止まり、1922年までパリを留守にした。

誕生日 シャガール作 油彩・カンヴァス1923年 AOKIホールデイングス

1915年に制作された「誕生日」(ニューヨーク近代美術館)を、1923年にシャガール自身が模写したもので、画面サイズも含めて細部に至るまでほぼ原画を忠実に仕上げられており、両者を見分けるのは困難であるそうだ。シャガール自身の思い入れの深さがわかる。描かれているのは1915年7月7日のシャガールの誕生日に、恋人のベラが花を抱えて彼の部屋を訪れた場面である。これからほぼ2週間後の7月25日に二人は正式に結婚している。お互いを思い合う気持ちの高まりを表すように、シャガールの体はふわふわと宙を舞い、大きく首を曲げて恋人のベラに優しく口づけをしている。不自然なほどに捻じ曲げられたポーズは、愛のもどかしさと力強さを、ベラの大きく見開いた瞳は驚きと喜びを伝えている。

誕生日(彫刻) シャガール作  大理石  1968年頃   個人蔵

「誕生日」大理石は、半世紀近くを経てこの場面を立体的に置き換えたものだが、シャガールに取ってこのテーマはどれほど大切なものであるかを教えてくれる。同じ頃に「ふたつの頭部と手」という大理石の彫刻も展示されていた。シャガールに取って、とほど大切な思い出であったのだろう。

散歩  シャガール作  彩色陶器  1961年    個人蔵

シャガールの陶器の表面に施された絵付けは、過去の絵画に使用したイメージの似ているものが多いため、絵画の焼き直しのような印象を受けやすいが、詳細に分析すると壺や皿といった支持体の形に添った改変が加えられ、あるいは全くそれまで存在しなかったイメージも少なくなく、作者が独自の表現を模索していることがわかる。シャガールがいかに陶器の形を生かしながら絵付けを施しいるかがわかる。「散歩」と言えば現在ロシア美術館が所蔵する初期の代表作が思い浮かぶが、壺に描かれたイメージは全く異なる、独立した作品である。

エルサレム(嘆きの壁) シャガール作 油彩・キャンヴァス 1931年個人蔵

1931年、シャガールはテルアヴィヴ市長の招待を受けて、妻ベラや娘のイダと共にパレスチナを訪れた。聖地エルサレムにも滞在した。ユダヤ人としての出自を持つシャガールにとって、この時間が特別な物であったことは想像に難くない。帰国後には、半世紀後に出版されることになる「聖書」のエッチングに取り掛かっている。嘆きの壁は、ユダヤ教徒が祈りを捧げる場所として知られるが、元はヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁の一部とされる。「エルサレム 嘆きの壁」では、壁を左側にして、透視遠近法で奥行きを感じさせる空間が演出されている。壁の前に3人が祈りを捧げている。「嘆きの壁」には、5月に、現職の大統領としては初めて訪れたトランプ大統領が、壁に手をついて祈りを捧げたことがそうである。シャガールには、「エルサレム」と題する絵があり、ずっと後退した位置から壁を含む神殿跡全体を大きく視野に収めた絵である。

ハダサラ病院付属ユダヤ教会堂のステンドグラス墨・グワッシュ1961年個人蔵

ヘブライ大学ハダサ病院内のシナゴーグに設置するステンドグラスの依頼を受けたシャガールは、1959年頃から下絵の制作を始め、3年間にわたってこの仕事に取り組んだ。除幕式が行われたのは1962年2月である。シナゴーグの4面の壁に、それぞれ3面ずつ、計12面のステンドグラスを設置したもので、このテーマに選ばれたのはヤコブがその死に際して祝福したイスラエルの12支族であった。この絵は「ナフタリ一族」である。各支族の性格を表すに当たってシャガールは、人の姿を描くことを禁じるユダヤ教の教義に基づき、人物の登場をしない表現を選択した。ナフリ族は雌鹿と称された(「創世記」49章)ので雌鹿によって表した。

逆さ世界のヴァイオリン弾き シヤガール作 油彩・キンヴァス1929年個人蔵

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代は、シャガールにとって、人生の中で最も安定した時代であった。画家は時折、キャンバスを回転させて描くことで、作品に幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間を生み出されたキャンバスの中で故郷のヴァイオリスクの風景も歌いだし踊り出しているようである。

画家と妻 シャガール作 油彩・キヤンヴァス 1969年 AOKIホールディングス

シャガールの絵画作品には、絵画をいくつかの色面に塗り分けたものがある。色は赤や青など原色が多く、塗り分け方にははっきりした法則があるわけではない。色面ごとに場面は異なるようでいながら、複数の色面をまたいで描かれるモチーフもある。大きな花瓶の花束と若い女性は、ベラが花束を持って来た場面であろうか?

黄色の裸婦 シャガール作 油彩・砂・キャンバス 1967年  個人蔵

とんがり帽子を被った道化師を中心に、青緑色の山羊、ラッパを吹く人物などが画面左側に、月、花束を持つ緑色の裸婦などを画面左側に配した構図はほぼ正方形の作品である。背景は赤と濃緑色で塗り込められているが、画面下方にはヴィテブスクの街並が見えることから、画かれている人物たちは宙に浮かんでいる状態のようである。3点の似た作品があるが、これが一番完成度が高くモデリングがなされて立体感が作りだされ、背景よりも空間を感じさせる表現となっている。

たそがれ シャガール作 油彩・カンヴァス 1938~43年 個人蔵

シャガールはたびたび愛する者同士の結びつきを二重肖像として表している。アメリカ亡命期の1943年に完成したこの作品は、パレットを手にした画家が青く塗られた顔面に、白色の女性の横顔が重なっている。画面の外側から取んできたような髪をなびかせたこの女性の唇は、画家の唇とぴったり重なっており、あたかもミューズとして創造の息吹を吹き込んでいるようである。

ヴィデブスクの上に横たわる裸婦 シャガール作 油彩・カンヴァス 1933年個人蔵

灰色の空の下、生気を失ったように描かれた故郷の風景の中で、左端の花束とそこから生まれ出たような女性の裸体だけに生命力を感じ取ることができる。しかし、空に浮かぶその女性も、目の前の現実から顔を背けるように後姿で描かれる。この頃、ドイツではナチスによる反ユダヤ主義の嵐が吹き始めていた。

天蓋の花嫁 シャガール作 油彩・キャンヴァス 1949年 AOKIホールデイングス

本作には、シャガールのミューズであった二人の女性への思いと故郷ヴィテブスクへの望郷の念が象徴的に表現されている。ユダヤの結婚式が執り行われる赤い天蓋の前で抱き合う花嫁と花婿は天に昇るように縦に伸びている。傍らには彼らを祝福するように大きな花束が描かれている。二重肖像になった花嫁の顔には、黒髪の亡きベラと当時のパートナー、金髪のヴィアージニア・ハガードの面影が映し出されていると言われる。

聖母子 シャガール作 石膏  1952年        個人蔵

シャガールには珍しい「聖母子」という主題を単独で扱った作品である。肘を張って上げた両腕で、胸の中央に幼子を掲げる聖母は、その強い正面性とシンメトリカルで安定した体形によって威厳と生命力を伝えている。本作では、対照的に両側に張り出した腕の表現には、当時手がけていた陶器作品の造形の影響を指摘することができる。

 

陶芸を経て51年から彫刻作品に取り組んだシャガールは、祖国ロシアとルーツであるヨダヤ民族の伝統を承継している。旧約聖書もモチーフにした石彫は、その一例で、土俗的なまでの生命力には目を奪われる。この巨匠の豊富な芸術は、モダニズム絵画の文脈だけでは語りきれない。そのことを如実に示す展覧会となった。12月3日まで開催されている。

 

(本稿は、図録「シャガールー三次元の世界  2017年」、日本経済新聞社「2017年10月4日号」、福島繁太郎「近代絵画」、ポーラ美術館図録「コレクター 鈴木常司と美へのまなざし」を参照した)

運  慶  展 

興福寺中金堂再建特別展として、「運慶展」が東京国立博物館にて9月26日より11月26日まで開催されている。私は、初日に出かけたが、驚いたことに9時半のオープン前から延々長陀の列が出来て、入館までに約30分かかるという驚くべき集客力である。よほど主催者に名前を連ねる朝日新聞社が無料券を配布したのだろうと勝手な憶測をしたが、館内にも沢山の人が熱心に仏像を拝観されている様を見て、大変驚いた。日本人はかくも仏教に熱心であるのか、仏教美術に関心があるのかと驚いた。例えば、この前の「タイ~仏の国の輝き~」の初日はガラガラであった。何故、運慶という仏師の展覧会になると、かくも大勢の人が集まるのか、判らない。しかし、「仏師 運慶」に興味を抱く方が大勢いることは、私にとっては大変嬉しいことであり、是非、運慶仏の美しさ、リアル感を感じて頂ければ幸いであり、是非、奈良・京都の古仏を拝観して頂きたいと思う。さて、仏師の氏名が明らかになるのは何時頃からであろうか?仏教伝来の頃、飛鳥時代の仏師・鞍造止利(くらつくりとり)の名は有名である。飛鳥寺に今も残る重文・飛鳥仏は止利仏師の作であることは日本書記にも記されて、有名であり、日本史の教科書にも載っている。また法隆寺の金堂の「釈迦三尊」像も止利の銘があることから、止利仏師作とされ、国宝に指定されている。(但し、私は飛鳥時代に遡る仏像ではないと思っている)しかし、奈良時代の名作、薬師寺の三尊仏、新薬師寺の十二神将像、興福寺の八部衆(例えば阿修羅像)の作者名は不明である。仏師の名前が明らかになるのは平安時代の半ばの定朝(じょうちょう)からであろう。定朝様式として、日本初の和風の仏像としてもてはやされた。これが鎌倉期に入る頃になると、仏師の名は一気に広まった。治承4年(1180)12月に平重衡(しげひら)の軍勢が、奈良の東大寺と興福寺を中心にした南都焼打ちを行ったことは、史上あまりにも有名な事件である。この知らせを聞いた右大臣九条兼実(かねざね)が日記「玉葉」(ぎょくよう)治承4年12月29日の条に、「世ノタメ人ノタメ、仏法王法ハ滅尽シ了ルカ、オヨソ言語ノ及ブトコロニアラズ、筆端ノ記スベキニアラズ、天ヲ仰イデ泣キ、地ニ伏シテ哭シ数行ノ涙頬ヲ拭ウ」と書きとどめている。この平安末期、鎌倉初期の東大寺、興福寺の復興に仏師たちが活躍する場が生まれ、その仏師名が明らかになった。この時代の仏師は、定朝から別れ、院派、奈良仏師(慶派)、円派の3派に別れ、それぞれの特徴をだしていたが、奈良仏師として東大寺、興福寺の再興に力を尽くしたのが、奈良仏師派の慶派で、康慶、運慶、湛慶、康弁などであり、中でも「運慶」が一番知られている。従って、この稿では「運慶」の造仏を中心に見て行く。運慶は鎌倉時代に目覚ましい活躍を見せた仏師であり、父康慶のもとで学び、造像をともにしていた。運慶の生まれた年ははっきりしないが1145年頃と推定される。最初の作品は安元元年(1175)の銘記のある円成寺の「大日如来」とされている。奈良仏師の造る仏像の作風は、定朝の穏やかな作風ではなく、深浅のはっきりした彫り口が特徴である。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176)奈良・円成寺

本像は胸前で智拳印という印相を結ぶ、真言密教の教主・大日如来の像である。運慶最初の造像例として名高い。私は、昭和57年(1982)10月に、わざわざこの像を拝観するために奈良の円成寺まで出かけた記憶がある。現存する運慶の作品のうち、最も早い20歳代の作例であり、傑作である。台座の裏側に書かれた墨書には安元2年11月24日に像を造りはじめたこと、完成は翌年10月であること、銘の最後には、大仏師康慶の実弟子運慶という署名と花押が添えられている。父の名前も出てくるが、その完成までに1年近くかかっており、等身大の仏像の制作期間としては異例に長いことから、運慶自身の作(工房の作ではない)と見て間違いないだろう。弾力まで感じさせる瑞々しい肌の表現には、運慶の特徴が表れている。また玉冠、胸飾りなどの金物の出来具合も極めて良好である。まだ平安時代の趣きを残すが、胸を張った姿勢、胸を引き締めた側面観などに、平安時代に好まれた仏像の形とは異なる作風が打ち出されている。また奈良仏師がいち早く取り入れた玉眼を用いている。

乗用文化財 仏塔 運慶作 木造・漆箔 鎌倉時代・文治2年(1186)興福寺

興福寺西金堂に伝来した釈迦如来像の仏頭にあたる。奈良時代の天平6年(734)に創建された西金堂は、治承4年(1180)12月に、興福寺の多くの堂舎もろともに平家による南都焼討ちにより焼失した。西金堂は再建され、釈迦如来像の造像に、大仏師として起用されたのが運慶であった。この像は、江戸の大火(享保2年-1717)により現在の頭部のみとなった。この像は、豊かな肉着きと大振りな目鼻立ちが、いかにも鎌倉初期の慶派の作らしい。生気あふれる造形を持っている。この像は、円成寺の大日如来坐像に次ぐ、運慶の最も初期の作例の一つである。またこの事績から、興福寺の復興造営において、寺内では運慶が相当の立場を得ていたことがわかる。

国宝 毘沙門天立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治2年(1186)願成就院

伊豆の願成就院は、北条時政が文治5年(1189)に創建した北条氏の氏寺であり、北条政子の実家の氏寺である。私は、伊豆の温泉に行く場合は、必ず願成就院にお参りすることにしている。運慶作の重要文化財(旧)であった阿弥陀如来坐像、不動明王像、毘沙門天像を拝観するのが楽しみだった。奈良仏師の運慶が、何故この伊豆の地に仏像を作成したのか不審に思ったこともあったが、鎌倉時代は武士の時代であり、まして北条家は、家臣団の中では、最も頼朝に近い存在である以上、依頼があれば駆けつけたのであろうと推察した。今回の運慶展では毘沙門天立像等が出品されていた。何時の間にか、国宝に格上げされていたのには驚いた。ここでは毘沙門天立像を解説したい。文治2年(1189)5月に、願成就院で阿弥陀三尊を中尊として、不動明王と毘沙門天立像を脇に配して造像が始まった。この願成就院の仏像は、飛躍的な変化を遂げた仏像となった。本像は大きく腰を左にひねり、高い位置に右手を上げて鉾を持つ姿は、それまでの神将形像とは異なって颯爽とした勢いを感じさせ、大きな魅力となっている。また、顔立ちにも、理想的な写実性を実現しようとした運慶の構成力が発揮されている。

重要文化財 不動明王立像 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治5年(1189)浄楽寺

浄楽寺の阿弥陀三尊像と同時に造られた不動明王立像と毘沙門天立像は、珍しい尊像構成であり、願成就院に倣っている。不動明王立像は、左目をすがめ、「へ」の字口として、口の両端から牙を上下に出す不動明王の作法にのっとった顔の形をしている。また右手に剣を持ち、左手で羂索を執るという姿勢も、一般的な不動明王の姿である。しかし、堂々たる姿は願成就院諸尊と同じく、運慶が打ち出した新しい趣向を、十分に伝えてくれている。運慶の造る像は、鎌倉幕府の御家人の間で評判にを呼んだのであろう。この後も、栃木・光得寺の大日如来像など、運慶の東国における造象は続いている。

国宝 八大童子立像 六躯(の内2躯) 木造、彩色、載金、玉眼 建久8年(1197)金剛岑寺                           衿羯羅童子          制多伽童子

 

八大童子は、もともと高野山の一心院本堂の像で、後に檀上伽藍の不動堂本尊として、平安後期の不動明王とともに祀られている。6躯が運慶作の国宝である。あとの2躯は後補作品である。不動明王の眷属は衿羯童子と制多伽童子として三尊で表わされる例が多いが一般的であり、八大童子は珍しい。特に衿伽羅童子、制多伽童子は、玉眼の効果が活きて童子の内面を表すかのような面貌表現とともに、実際の童子を見る思いがある。童子にしては豊かすぎるほどの量感的な肉親表現をとりながらも、なお野卑に陥らずに理知的に表したところに、運慶の優れた技量がみて取れる。

国宝 無着菩薩立像 世親菩薩立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代 建暦2年(1212) 興福寺北円堂                      無着菩薩立像        世親菩薩立像

 

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼討によって焼失した。復興は遅れ、正治2年(1200)頃からようやく始動した。無着・世親菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親像を3度拝観している。一度は北円堂の特別開扉の時であり、一度は興福寺国宝展(1997)で、三度目は今回の「運慶展」である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵出来る傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルを日本人の僧を使った。無着、世親は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとせず、むしろ、遠い過去の偉大さを、圧倒的な立体の存在感で表そうとした。ここに総監督としての運慶の意図が、十分うかがえる。私は、運慶の作品の中で、いや日本の肖像彫刻の中で、鑑真像と並ぶ最大傑作と評価したい。

国宝 四天王立像 四駆 運慶一門作 木造、彩色、鎌倉時代(13世紀)興福寺南円堂

現在、南円堂に安置されているが、果たして最初から南円堂の安置仏であつたかどうかは、疑問が呈されている。最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するからである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。現在、各像は岩座を踏んでいるが、この岩座は後補と見られるので、かっては邪鬼を踏んでいた可能性もある。運慶一門の湛慶、康運、康弁、康勝が担当したと思われるが、四天王は玉眼を採用せず、瞳を浮彫にする理由も不明である。今の所運慶作と確定は出来ないと思う。

 

運慶の造った仏像は何体あって、そのうち何体が「運慶」作かは疑問である。図録では31体説を採用しているように見えるが、実は確実なところは不明である。像内納入品や付属品に運慶の名が記されている像が17体ある。同時代の史料から確認できる像が1体で、そのほか13体は像内納入品のX写真や作風から推定されている。(これで31体となるー図録より)運慶は貞応2年(1223)に世を去ったが、鎌倉仏像の基礎を造った作家として一時代を築いた。慶派仏師として快慶、湛慶、康弁等多数の鎌倉仏師を生み出しており、鎌倉時代の武士階級の気風を良く表している。

 

 

(本稿は、「運慶  2017年」」、図録「興福寺国宝展  1997年」、原色日本の美術「第9巻  中世寺院と鎌倉彫刻」、古寺を行く「第1巻  興福寺」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

江戸の琳派芸術展

この展覧会は、江戸時代後期に活躍した絵師・酒井抱一(1761~1828)と、抱一門きっての俊才・鈴木其一(1796~1858)の絵画の展覧会であり、出光美術館の総力を結集したものである。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一は、能や茶のほか連歌、狂歌、俳諧に親しみ、さらには遊里での遊びに長けていた。さまざまな文芸の中で、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年記念法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳諧や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくりあげたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人鈴木其一は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)の抱一没後、その個性を開花させ、独特な作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風をも吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚にみられる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。宗達ー光琳ー抱一という琳派の絵画の流れのなかで、其一作品がその範疇に収まるものかどうか、今後さらに検証が加えられた後、その結果は明らかになるだろう。私は、若沖をしのぐ鈴木其一の大ブームを予測している。

夏秋草図屏風草稿  酒井抱一作 紙本着色 文政4年(1821)出光美術館

 

この草は、酒井抱一による「夏秋草図屏風」の下書きと考えられる。この絵は、抱一の光琳への敬慕が込められた作品の下書きであり、都市文化の花開く江戸の地で光琳画を変装したものである。銀地を背景にして「雷神図」の裏に突然の裏に突然の驟雨に打たれた夏草を描き、「風神図」の裏に野分立つ秋草を鋭い形態感覚で描き出す。夏草図では突然の雨で地面に水がたまり庭只海となり、秋草図では蔦の葉が空に舞う。このように時節の植物を描くだけでなく、風立つ一瞬の情景を切り取った表現によって、夏秋の季節感の対比をより際立たせているのである。作品に付属する文書からは、この画事を巡る三つの事柄が明らかになっている。「一橋一位殿」すなわち第十一代将軍・徳川家斎の実父・徳川治貞の注文であること、尾形光琳の「風神雷神図」の裏面へ描くことが下絵の段階ですでに意図されていたこと、そして、文政4年(1821)抱一が61歳の11月9日に下絵が完成したことである。

風神雷神図 酒井抱一作 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

黄金の大地を闊歩するかのごとき風神と雷神の姿は、俵谷宗達(?~1640頃)によって画かれた。宗達は、北野天神縁起絵巻に図像の原型を求めながら、説話の畏怖性を削ぎ落とし、自由闊達な二神の姿を金地の大画面に解き放ったのである。宗達の「風神雷神図屏風」(建仁寺)は、それからおよそ100年の時を経て尾形光琳に模写された。さらにその百年後に描かれたのが、酒井抱一のこの屏風絵である。抱一本の表現は基本的に光琳本にもとづく。光琳との差は、色の塗り方や線の引き方に、抱一の志向が確かに見える。抱一本は、さっぱりとした瀟洒な画面に仕上げている。今日、風神雷神図は、宗達ー光琳ー抱一という「琳派」の画家達に結び付ける、最も象徴的なアイコンとして膾炙している。抱一は文政9年(1826)刊行の「光琳百図」後編の掉尾を、光琳本の「風神雷神図」に飾らせている。抱一こそ、琳派の風神雷神図を、宗達ー光琳ー抱一という画家たちに結び付けたのである。

八橋図屏風  酒井芳一作  紙本金地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、カキツバタと八橋を描く。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表したカキツバタが、ほがらかな場面を作り出している。光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)を忠実に倣って描いている。しかし橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画のカキツバタの花群を減らして整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。

紅梅図屏風 酒井抱一作  紙本銀地着色 江戸時代(19世紀)出光美術館

紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。表絵が誰の作品であったかは不明である。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。

燕子花屏風 酒井抱一作 絹本着色 享和元年(1801) 出光美術館

抱一が琳派作品を学習し始めた頃の作例とされる。光琳やその弟子たちが好んで描いた燕子花というモチーフが画面中央を余白として上中央から画面下方へCの字を書くように円環的に配置されている。群青の鮮やかな花弁のなかで三輪だけの白の花を潜ませたり、葉先に蜻蛉がとまる情景を描いている。先例を踏襲するだけでなく、抱一自身の制作意図を打ち出している。それは抱一が文学的趣向を強く含ませよとする造形意識によるものであり、俳諧の素養が強く生かされているのである。

三十六歌仙図 鈴木其一作 絹本着色 弘化2年(1845) 出光美術館

光琳の三十六歌仙図から琳派の絵師たちが描き継いだ画題である。常套的ともいえるその画面に、其一は表具まで丹念にえがきこんだ描表装とした。抱一と弟子たちがしばしば用いた手法である。天地には白地に鮮明な青波を描き、その上に赤、青、緑で彩った扇を流し、中廻しには連続模様の蜀江文が極めて細密に描き混まれてる。歌仙たちの衣服も色鮮やかで、先行作品とほぼ同じ色が使われている。しかし掛軸の縦長構図としたことで色彩の配置に乱れが生じてしまうところを、束帯の黒の連なりによって統一感をもたせるように配置しており、其一の卓抜した色彩構成の技が示されている。

秋草図 酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出路美術館

12ケ月花鳥図の揃い物は、やがて月次絵(つきなみえ)という本来的な脈絡から切り離され、単独、もしくは対幅の絵として広く所望されたと思われる。直立薄を支えに芙蓉や、桔梗、藤袴の草花をバランスよく配置したこの絵は、八月の一図とモチーフや構図を通わせている。しかし、画面上部に浮かんでいた月を退けたり、芙蓉の茎にヒタキ類の小禽を一羽添えたりするろころが、画家の新しさを見せている。

秋草図屏風 鈴木其一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

うっすらと墨を刷いた絹地の画面に、可憐な秋の草花が配される。左右の端に引手跡があることから、もとは襖二面であったかものが現状に仕立て直されたことがわかる。葛の蔓と葉が揺らめくように画面をつたい、その周囲には、薄、吾亦紅(われもこう)、桔梗、藤袴、撫子、鬼灯(ほうずき)といった多彩な草花のほかにも、野菊の近くに蟋蟀(こおろぎ)の姿をとらえるなど、画面の随所に鈴木其一の微細な感覚を見ることが出来る。

秋草図屏風  鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

冷え寂びた銀地の光彩のなかに、秋の草花の可憐な姿がとらえられる。葛が大振りな葉を表しながら右上に向かって蔓を伸ばし、そのまわりに萩、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花が競うように繁茂している。この絵は、其一による抱一学習の成果を象徴的に伝える一図といえる。画面上部に準備された色紙型には、「万葉集」の山上憶良が秋の七草について詠んだ二首が記されている。

藤花図 鈴木其一作  紙本着色  江戸時代(19世紀)  出光美術館

画面の左端には引手跡が残り、もとは仏間の襖絵を改装したものと伝わる。幹を複雑に絡ませながら枝葉を伸ばし、豊かな花房を垂加させる藤が、巨大な画面に描かれる。其一には藤の花を描いた絵画が多い。しかし、この絵の趣向はずいぶん異なっている。本図における色彩の諧調は花びら一つ一つの連なりを合理的に表すためのものではなく、全体として花房の姿を質感豊かに描くために用いられる。躍動感あふれる魅力的な造形をつくり上げている。本紙の全面にまかれた銀砂子も柔らかな光で、水墨画のように仕立てられた藤花の軽妙な描写を演出している。其一30歳代半ばのものと思われる。

遊女と禿  酒井抱一作  絹本着色 天明7年(1787) 出光美術館

茶屋の前の遊女と禿を描く。遊女は高名な五明楼扇屋の花扇その人、画面上部には、著名な戯作者・大田南舖(1749~1823)の狂歌を、花扇みずからがしたためた賛文が認められる。さながら当時の花柳界における大御所のそろい踏みとなっている。おそらくそれを実現させたのは、この絵が武家の貴人・酒井抱一によって制作された、という特別な事情にもとずく。尾形光琳の画風に目覚める前の抱一は、このような絵画(肉筆浮世絵)を制作していた。天明7年(1787)は、抱一27歳の時である。何よりも、署名や印象がなければ浮世絵師・歌川豊春(1735~1814)の作と見まがうほどの女性の特徴的な顔立ちは、若き日の抱一がいかに師豊春美人に心酔し、その再現を目指していたかを如実に物語るものである。

立葵図  酒井抱一作  絹本着色  江戸時代(19世紀) 出光美術館

一目見ただけで、尾形光琳やその弟・乾山の手による立葵図の構成を踏まえていることが判る。但し、その色彩には、今までの立葵図とはまったく異なる感覚を見せている。一枚一枚の明確に描き別けることなく柔和な白一色で塗られた花弁は、中心付近に淡く桃色が挿される。酒井抱一が光琳風に傾倒しはじめて程なくして描かれたものである可能性がある。箱書きから姫路藩酒井家の家老職関係筋に伝来したことがうかがわれる。

十二カ月花鳥図貼付屏風(3、4、5月)酒井抱一作江戸時代(19世紀)出光美術館

  

抱一が得意とした十二カ月花鳥図は、花や鳥や虫を自由に組み合わせて、十二図を一組としている。懸幅装が四組、屏風が二組残されている。この屏風は、その内の一組である。ここでは、(旧暦)3月、4月、5月の部分をお見せする。文政6年(1823)の年紀が記されているものがあり、その他は文政7年以降の作と考えられる。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色 江戸時代(19世紀) 出光美術館

右に源氏梅のような紅梅同樹の梅を置き、その廻りを囲むように牡丹、燕子花、蒲公英などの春秋の草花が描かれている。左の楓木は未だに青葉のものと色を染めたものが混在する。その下方には桔梗、水仙などの草花が添えられている。強い色彩効果が生み出されている。其一の個性がいかんなく発揮されている。色面が強調されて、それぞれのモチーフは輪郭線を感じさせない表現となっている。其一以外はたどり着けない造形感覚を主張している作品であり、傑作である。

 

この展覧会では、王朝的な美意識に支えられた京都の「琳派」を受け継ぎつつ、江戸と言う都市の文化を美意識のもと、小気味よい表現世界へと転生させた「江戸琳派」の特徴とその魅力を伝えるものである。酒井抱一の門下からは、魅力的な弟子たちが数多く輩出したが、中でも近年注目を集めているのが、鈴木其一である。鮮烈な色彩と明快な画面構成に個性を発揮する其一の絵画には、むしろ師・抱一よりも強い光琳志向を感じさせるものがある。鈴木其一については、昨年の「鈴木其一展」で、詳しく伝えたが、江戸琳派芸術では、抱一と並んで、欠かせない絵師である。私は、鈴木其一の大ブーム出現を予想している。

 

(本稿は、図録「江戸の琳派芸術  2017年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、図録「江戸琳派の旗手 鈴木其一展  2016年」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

入江泰吉記念奈良市写真美術館

新薬師寺を出て右へ回ると、入江泰吉記念奈良市写真美術館に至る。かねて訪ねてみたいと施設であったが、念願叶って、訪れることが出来た。入江泰吉氏は、今更言うまでも無く、私のように昭和20年代に大和古寺巡礼を重ねた世代にとっては、欠かせない写真家であり、その全作品を保有する奈良市写真美術館である。

入江泰吉記念奈良市写真美術館

私が訪ねた時は、入江泰吉氏の春日神社及び御祭の写真を公開していた。白黒とカラーが半分半分の比率であったが、やはり懐かしいのは白黒写真である。半分のスペースは、現代の写真家の作品が並んでいた。勿論、私が知らない作家であった。この美術館を訪れた目的は、入江泰吉氏の写真を鑑賞することと、併せて入江泰吉氏の写真を多数、絵葉書にして販売しているだろうと思ったからである。50枚程の写真を購入したが、その中で「入江泰吉大和古寺巡礼」に出てくる作品を載せ入江氏の言葉でまとめてみたい。(ここから先は、すべて入江泰吉氏の言葉である)

飛鳥大仏               入江泰吉氏撮影

「仏教文化の象徴と言うべき飛鳥寺(法興寺)が、飛鳥にある。蘇我馬子発願のこの寺の本尊、丈六の飛鳥大仏は渡来人鞍作りの止利(とり)の手になり、本格的な仏像としてはわが国で最初のもの。千三百年余にわたり、人の世の流転のさまをじっと見つめてこられたみ仏である。」

秋深き法起寺(ほっきじ)        入江泰吉氏撮影

「シルエットの飛鳥の古塔が、境内の木立の中に寂然と建つ。間もなく暮れようとする晩秋の色濃い斑鳩の里に深々と心にしみいる大和特有の”滅びの美”ともいうべき風情である。ねぐらにかえるのか、鳥の群れが、夕焼けの空に音もなくよぎっていった。」

東大寺僧坊跡秋色           入江太吉氏撮影

「大仏殿の裏、講堂跡の奥に遺る僧坊の跡である。なかば朽ち果てた築地の上にもみじ落葉が散り敷かれていて、美しいには美しいが、その彩のうちにもわびしさが、そこはかとなく漂っている。」

新緑講堂列柱              入江泰吉氏撮影

金堂の側面から望むと、吹き放しの8本の堂々とした列柱”まろきはしら”が、いっそう力強く感じられる。よく例えられるギリシャのパルテノン宮殿の石の列柱とは違って、千古の肌理(きめ)に触れるとほの温かく、自ずから心が安らぐ。」

観月会(え)             入江太吉氏撮影

「仲秋明月の夜、境内は解放される。シルエットの金堂正面の三つの扉が開かれると、照明光に輝く三尊仏がくっきりと浮かび出る。やがて”まろきはしらのつきかげ”が落ちてきて、いよいよ。この世のものとは思えない霊妙な光景を呈する。観月会のクライマックスである。」

秋篠寺伎芸天            入江泰吉氏撮影

「この豊満優雅な伎芸天像の容貌に憧れて訪れる人たちが多い。お顔のみ天平期の乾漆造りで、胴体は鎌倉期に補作された木彫である。みほとけというより天平時代の品格の高い貴婦人を思わせるものがある。光の角度によっては慈しみ深いやさしさとも、憂いに沈む寂しさとも見える微妙な容貌をそなえられている。」

浄瑠璃寺深秋               入江太吉氏撮影

「秋も深まった浄瑠璃寺である。清浄な浄土庭園の池泉をへだてた、来迎の九体の阿弥陀如来がいます阿弥陀堂(本堂)辺りは静まり返っていた。いかにも浄瑠璃寺の名にふさわしい清浄境のなかで、妖しいまでに紅いもみじの色が異様な雰囲気をかもしだしていた。」

浄瑠璃寺雪景            入江泰吉氏撮影

「浄瑠璃寺境内の粛然とした佇まいである。凍る池泉に抽象的な雪模様が描かれていた。人の気配もなく森閑とした境内に、なおも雪が降りしきっていた。二年前、初めて巡り合った雪の浄瑠璃寺であった。寒さも忘れ、境内を歩き廻った。」

 

入江泰吉氏の写真と、その言葉で飾った、本文には、付け加える言葉が無い、こんな文章を載せる機会に恵まれて、60年前の大学生の気持ちに戻ってしまった。私には、入江氏の言葉は、まるで詩のように聞こえた。

 

(本稿は、「入江泰吉大和古寺巡礼 全6巻」、入江泰吉「写真 大和路」を参照した)

浅井忠の京都遺産展

浅井忠(1836~1907)は、工部美術学校の生徒として、フォンタネージュのよい影響を受けた弟子であった。この子弟のなかには心情的に親しいものがあったと想像される。浅井忠の初期の代表作に第1回明治美術会(明治22年)に出品した「春畦」(はるあぜ)、第2回明治美術会に出品した「収獲」(重文)がある。(これは「芸大コレクション」で紹介している。)いずれも田園風景であり、懐かしい心情を感ずる。浅井忠は、明治31年(1898)、東京美術学校教授に招かれ、浅井教室を持つが、翌年2ケ年間のフランス留学を命ぜられ、フランスに赴いた。浅井忠の洋画家としての地位は既に不動に高まっていたのである。浅井忠はどこの教室にも入らず、黒田清輝が「読書」を描いたグレーに滞在し、またフォンテーヌブローに行き、主として風景画を描いている。浅井がパリ滞在中の1900年(明治33)に、パリでは5回目の万国博覧会が開催された。交通、情報網の発達により5100万人を集客した同博覧会は過去最大規模の祭典となり、装飾芸術が花開き「アール・ヌーヴォーの勝利」と称され、会場にはエミール・ガレやティファーニの華麗な工芸品が並び、ミュシャによる壁画やポスターで装飾された。このパリ万博には、浅井忠をはじめ、夏目漱石、竹内栖鳳など作家、美術家も大勢参加していた。丁度、京都高等工芸学校設立準備のためヨーロッパに来ていた中沢岩太は、パリで浅井と出会い、同佼の図案化教授就任を依頼した。浅井は、この万博で日本の絵画が「精神も無く気力もなく色は全く無味乾燥」であることを痛感し、この申し出に快諾した。(洋画家として黒田清輝と並ぶ大家であったにも関わらず)

椿姫 リトグラフ(懸け幕として使用) アルフォンス・ミュシャ作1896年京都工繊大

中沢氏の依頼を受け、浅井は、パリで京都工芸学校の教材となる資料取集を行った。石膏像のほか、フランス陶磁器19点とヨーロッパのポスター72点がある。中には、当時ヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーを代表する人気作家のポスター(懸け幕)もあり、このミュシャと同様のポスターが2点展示してあった。このミュシャの椿姫(つばきひめ)は中でも人気を呼んだ。

グレーの河岸 浅井忠作 水彩・紙 明治35年(1902)泉屋博古館

浅井は、明治32年(1990)、文部省より2年間フランス留学の命を受けた。丁度パリでは1900年のパリ万博が開催されており、彼はその監査官も命ぜられた。しかし、パリ万博もさることながら、浅井を惹きつけたのは、大都会の華やかさよりも、むしろフォンテンブローやグレーの田園景色であった。ここに掲げる水彩スケッチを数多く残している。それまでの彼の作品に見られなかった濁りない色や透明感など、明るい色彩を感じさせる表現が目立っている。

河岸洋館 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902)  泉屋博古館

上の「グレーの河岸」と同じ時期の水彩画である。素早いタッチで描かれた簡単な水彩画であるが、そこにひそむ田園の詩情を画面に表現する彼の腕前は、見事に発揮されている。

クレーの教会 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

特にロアン河畔のグレーの村は、彼のお気に入りの地で、何回となく繰り返し訪れ、明治34年から翌年にかけては、冬の間ずっとグレーに滞在し続ける程であった。素早い筆致で描かれた簡単な水彩画であるが、対象をある一定の距離から的確に捉えている。見事な筆致である。

垂水の浜 浅井忠作 水彩・紙  明治36年(1903) 泉屋博古館

兵庫県の垂水の浜を淡い色で描いた水彩画である。この垂水の浜の近くには住友家の別荘があった。浅井は既に東京美術学校の職を辞し、京都工芸繊維高等学校の教授となり、住まいも京都に移していた。(泉屋博古館は住友家が主催した美術館)

秋林 浅井忠作  水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

帰国後の明治35年(1902)、京都高等工芸学校教授として赴任した浅井は、フランスで学んだものを、関西の穏やかな風景に置き換え、季節や時の移ろいを光とともに映し出す瀟洒な水彩風景画を描いた。これは、京都の大原のあたりの秋の林を描いたものである。京都に根ざした日本画に接し、少年時代以来再び開眼した、軽妙洒脱な筆致で自ら楽しむ風情が共感を呼んだ。

武士狩図  浅井忠作  油彩・カンヴァス  明治38年(1905) 京都工芸繊維大学

本作は、浅井が京都時代に描いた最大級の洋画であり、当時の東宮御所東二の間「狩りの間」に向けられた綴織壁掛の二分の一のサイズの原画である。秋の山路で狩りを楽しむ三人の武士たちが描かれている。本作品を含め、下図など関連資料がⅠ3件残されている。会場では、下絵として馬、武士など4点が展示されていた。(昨年の黒田清輝展でも多数のスケッチが展示されたが、このような下絵の展示は素人には、非常に参考になるので、せめて古い画家には、スケッチを展示して頂きたい)浅井は実際に狩装束を着たモデルを乗馬させて写生し、入念な構図研究を行った。この際使用された装束や馬具類は、京都高等工芸学校に標本資料として現在も資料館に収蔵されている。この下絵の2倍の綴織が、大正2年(1913)に川島織物のもとで完成している。(因みに東宮御所は、現在の迎賓館 赤坂離宮であり、昨年この「美」で取り上げているが、残念ながらこの織物は撤去されていた)この作品は、明治40年(1907)10月の第1回文部省展覧会(文展)に出品された。好評であったが、浅井は装飾的な趣向を目指していたので、好評とは裏腹に、不満の残る作品だったようである。

梅図花生 浅井忠図案 陶磁  明治35~40年(1902~07)

浅井忠は画家として有名であるが、一方後半生に手がけた図案(デザイン)には、絵画に劣らぬ輝きを放っている。風景画が端正であるのに較べ、浅井のデザインは大胆でスタイリッシュ、時には躍動的である。この花生は梅という伝統的な題材であるが、まるでアール・ヌーヴォーを思わせる大胆なデザインであり、極めてスタイリッシュである。思わず「恰好いい」と叫びたくなるデザインである。

野分蒔絵(のわけまきえ) 文庫 浅井忠下絵 杉林古香作 明治39年(1906)

猪を鉛で、牙や目、桔梗を螺鈿で、千草を高蒔絵で表現した本作品は丸みを帯びた形状が光悦蒔絵に通じる一方、猪という漆芸品には珍しい主題で、蓋の曲面を利用して強調された猪の躍動により、独特の表現となっている。

鬼が島 浅井忠作 絹本着色 双幅  明治38年(1905) 個人蔵

幼少の頃、黒沼槐山(かいざん)について日本画を学んだ浅井は、東京時代は油彩画の先覚者として制作を続けたが、京都時代には、黙語(もくご)と号し、一転して軽妙な日本画を多く描いた。戯画風の人物画など、油彩画面にはない描線の軽やかさを楽しむような浅井の日本画は、図案制作とはまた異なる一面を見せてくれる。

大原女  浅井忠作  「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」(出版物)の中の一図である。大原女をデザイン化したものである。

大津絵・藤娘  浅井忠作 「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」の中の一図である。大津絵の藤娘をデザイン化したものである。

 

日本洋画壇の先駆者浅井忠(1856~1907)は、パリ万国博覧会などのため訪れたヨーロッパの経験を通じ、画風を変化させただけでなく、全盛期のアール・ヌーヴォーの洗礼を受け、デザインへの強い関心を抱くようになり、滞仏中に京都高等工芸学校の図案化に誘われ、京都移住を決意した。明治35年(1902)からこの世を去る明治40年まで、浅井は京都で教鞭をとるかたわら、聖護院洋画研究所、関西美術院と続く洋画家育成機関の中心となり関西画壇の発展に尽力した。また陶芸家や漆芸家を結ぶ団体を設立し、自らもアール・ヌーヴォーを思わせる斬新なデザインで京都工芸界に新風を巻き起こした。明治初期の洋画家として有名であるだけでなく、デザイン家としても評価できる仕事をし、近代日本を代表する一人の芸術家である。黒田清輝が、光あふれる印象派の作風を学んで明治26年にフランスから帰朝して「外光派」とよばれたのに対し、アカデミックな浅井の画風は、「脂派(やには)」「旧派」と呼ばれることもあった。しかし、浅井の京都遺産を見ると、単なる洋画家ではなく、優れたデザイン家であった事も理解できた。この展覧会は、今年の大きな収穫であったと思う。

 

(本稿は、図録「浅井忠の京都遺産  2017年」、土方定一「日本の近代美術」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、図録「芸大コレクション  2017年」を参照した)

世界遺産”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”

第41回世界遺産委員会は7月9日に”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”の世界文化遺産への登録を決めた。地元は歓迎一色であった。この登録が決定した遺産群とは、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか宗像大社沖津島遥拝所、同中津宮、同辺津宮、と新原・奴山古墳群が一括で登録されたのである。ユネスコ世界遺産委員会は「構成資産は文化的・歴史的に結びついた一体のもので、価値を理解するには全てが必要である」と指摘している。九州北部と大陸の文化交流の拠点であるこの宗像は、玄界灘に面した福岡県宗像市にある辺津宮(へつぐう)、沖合の大島の中津宮(なかつぐう)、そして朝鮮半島と日本のちょうど中間に位置する沖ノ島の沖移宮(おきつぐう)という三つの宮があり、それぞれ三人の女神が祀られている。これら三宮をあわせて宗像大社と呼んでいる。三宮の中でも沖津宮のある沖ノ島は、朝鮮・中国、さらには遠くペルシャといった遠方の工芸品がシルクロードを通して運ばれ、「海の正倉院」と称される内容を持った奉献品を出土したことで知られている。1954年から1971年までの三次にわたる学術調査によって発見され、4世紀から9世紀にわたる沖ノ島出土品約8万点はすべて一括して国宝指定されている。一方、遣唐使の派遣の廃止などをうけ、辺津宮(宗像社)での祭祀が中心となった中世以降も、対外交渉に活躍した宗像大宮司家を中心に宗像三女神への尊崇が続いたことが当時の古文書からも知られる。江戸時代には、宗像大社は福岡藩主黒田家の庇護を受けるとともに、歴代藩主より様々な品が奉納されている。

重要文化財 宗像大社拝殿         桃山時代(天正18年ー1590)

宗像大社の社殿は、遅くとも12世紀末までに築かれたことが判っているが、度々の戦乱などにより焼失し、最後に焼失したのが弘治3年((1557)で、天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞により本殿(国宝)が再建され、拝殿(重文)は小早川隆景によって天正18年(1590)に再建された。

重要文化財  宗像大社拝殿  三十六歌仙篇額 36面 江戸時代(17世紀)

柿本人麻呂など三十六歌仙篇額が拝殿に奉納されている。これは黒田藩第三代藩主黒田光之が、延宝8年(1680)に辺津宮に奉納したもので、書は藤原基時(1635~1704)、絵は狩野安信(1614~1685)によるものである。狩野安信は、狩野探幽の弟で、狩野家の頭領となった。のちに江戸中橋に屋敷を拝領し、江戸幕府の御用絵師となり、江戸城などの障壁画制作に係った。絵の技量は探幽に劣ると言わざるを得ないが、著書「画道要訣」(1680)では、狩野派の絵画に対する考え方をまとめ、江戸時代を通して日本絵画史に与えた影響は大きい。本絵馬は、重厚な画風が現れている。

国宝 宗像大社本殿        桃山時代(天正18年1590)

本殿には辺津宮が祀られている。桃山時代を代表する宸殿造りである。特に桧肌葺による曲線が美しいと思う。沖津宮、中津宮も同じ宸殿造りであると言われている。

高宮斎宮                古墳時代(3~5世紀)

宗像大社の横の道をぬけ、背後の宗像山へ昇っていくと、高宮祭場があらわれる。高宮祭場は辺津宮の起源となる古代祭祀の場であるそうだ。この祭祀場は、荘厳な趣きがある。ここより、少し下がった場所に遥かに大島を拝する場所がある。但し、沖津島は、ここからは望めない。

沖ノ島全景

玄界灘の真只中に浮かぶ孤島である。周囲は4km、最高峰一の岳は243m、前面には小屋島、御柱島、天狗岩と島々が浮かぶ。この島は「神宿る島」として人々から宗敬を集めててきた。島の信仰が深まる中で、女人禁制、禊(みそぎ)、島での見聞の口外無用、島内のものの持出無用、一般人の入島禁止など禁忌(きんき)が現れ、今でも厳守されている。この島では、百済との通交がきっかけにヤマト王権による国家祭祀が始まった。当初は巨岩を盤座(いわくら)とし、その上面に祭場を営んでいたが、やがて祭場は岩陰へと移ってていった。岩上祭祀期は弥生時代から古墳時代にかけてである。岩陰祭祀期は古墳時代から磐井の乱の時代にかけてである。露店祭祀期は奈良・平安時代とされている。4世紀初めには、玄界灘と宗像地域に勢力を持った宗像一族が奉斎することとなった。4世紀後半、ヤマト王権と百済の通交開始の際、宗像一族とその信仰の重要性が高まり、沖ノ島でヤマト王権による国家祭祀が始まった。昭和29年(1954)から、昭和46年(1971)に行われた学術調査で、23ケ所の大規模な祭場と約8万点に及ぶ奉納品(国宝)が発見され、この祭祀跡が4世紀後半から9世紀にかけて繰り広げられたヤマト王権・大和朝廷と東アジア諸国との対外交渉に深く関わることが明らかになった。

国宝  三角神獣鏡(さんかくしんじゅうきょう)中国・魏~西晋時代(3世紀)

内区に不老長寿の思想を表す神仙や霊獣の文様を配した鏡を神獣鏡というが、そのうち鏡背の縁の断面が三角形をなす鏡が三角神獣鏡である。わが国では古墳時代前期の古墳から大量に出土し、多くは中国三国時代の魏で製作されれた舶載教と推定されるが、それを模した仿製鏡(ほうせいきょう)も存在する。

国宝 堅玉・水晶・雲母片岩・滑石製棗玉・滑石製臼玉・碧玉・古墳時代

白色を帯びた堅玉勾玉2点のうち、大型品は沖ノ島出土品では最大の勾玉である。碧玉勾玉は出雲の花仙山(かせんざん)産と見られる勾玉5点が含まれる。管玉(くだたま)には経が0・5cm程度のものと、経が1cmの太めの大形のものがある。

国宝 鉄剣、鉄刀、鉄地銀張鎺(てつじぎんはりはばき)古墳時代(4~6世紀)

本作品のうち、鉄製鍔(つば)と銀製鍔の豪華な装具を持つ鉄剣は茎(なかご)の端部近くに目釘孔を一孔穿っている。他の二刀は、倭風太刀で、二振りの捩じり環頭太刀が奉献された思われる。古墳時代前期以来の伝統的な刀剣の外装具の流れを引く倭風太刀の一種で、5世紀に出現した可能性が高い。

国宝  滑石製子持勾玉             古墳時代(4~6世紀)

その名のごとく、比較的大きな勾玉の背・両側面に、複数の小さな勾玉や突起を削り出して形作ったものである。4~6世紀のものであろう。滑石という軟らかい石で作られている。増殖等に関する呪術的な祭具とも考えられている。沖ノ島祭祀では長期にわたって奉献されている。

国宝  金製指輪     朝鮮・新羅時代(三国時代、5~6世紀)

純金製の指輪は、正面中央を上下に突き出るように菱形にした金板を曲げて、正面と反対側で接合し環状に仕上げたものである。菱形状の中心には四枚の花弁を持つ花文があしらわれ、花弁の間には円環を配している。この形の指輪は、韓国慶州にある三国時代新羅(しらぎ)の王陵の出土品に多数類例が見られる。本品は新羅からもたらされたものと見られている。

国宝  カットグラス碗片(わんへん)  イラン・ササン朝時代(6世紀)

気泡を多く持ち、淡い緑色をおびた半透明のガラスの破片は、表面に浮出の円文が施されている。復元すると、上段に九個、下段に七個の浮出文をめぐらした特異な趣のカットグラス碗となる。本作品はササン朝ペルシャから伝来したササン・グラスと見られている。(碗片のみが発見され、この透明のカットグラスは、想像図である)正倉院御物の白璃碗に似ている。

国宝 金銅製棘䈎形杏葉(きょくようがたぎょうよう) 古墳時代(6~7世紀)

鞍から馬の胸部や臀部に伸びる革帯に下げて馬を飾り立てる金具である。馬具は、百点以上出土している。三国時代新羅の技術要素を持つ「新羅系馬具」を主体としており、ヤマト王権と朝鮮半島諸国との活発で複雑な交渉を反映するものである。この馬具類の多さは、戦後発表された、江上波夫氏の「騎馬民族説」を、思い出させる。

国宝 金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう) 一対 中国・東魏時代(6世紀)

一対をなす龍頭は、同形同大のようだが、葉の本数など細部の表現に違いがある。鋭い眼、湾曲しながら後ろへ伸びる頭角、先端が大きく開いている鳥の嘴状に尖った分厚い唇、迫力を持つ龍である。敦煌莫高窟の隋代、唐代の壁画には、竿先に本品と同様の龍がつけられ、口元から幡た天蓋が吊り下げる様子が描かれており、用途を知ることが出来る。

国宝  奈良三菜小壺(こつぼ)         奈良時代(8世紀)

奈良時代にわが国で制作された鉛釉彩陶のうち、複数色を用いた多彩釉陶器を奈良三彩という。7世紀後半頃、朝鮮半島南部の影響の下に製作が始まった緑釉陶器の技術に、8世紀の中国唐三彩の技術が加わり誕生したものである。

 

”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”が7月9日にユネスコ第41世界遺産委員会で「世界文化遺産」への登録が決定された。通常、立ち入ることが出来る場所は宗像市の宗像大社と、大島である。今回は、宗像大社に詣で、かつ神宝館の国宝類を見学した。時間があれば、大島の中津宮へ行きたかったが、残念ながら時間が無く、宗像大社と神宝館の国宝に限定した報告となった。大島は、宗像大社の高宮祭場から、やや下がった場所から拝することできた。世界遺産への登録は、参詣者を増やし、大勢の参拝者が訪れていた。しかし神宝館まで、足を伸ばす人は少なく、大変残念である。

(本稿は、図録「宗像大社国宝展  2014年)、日経新聞2017年7月16日、7月17日”「宗像・沖ノ島」世界遺産に”、ウイキペディア「宗像大社」を参照した)

長府藩武家屋敷小路と 国宝 仏殿

今年(2017年)の夏・7月に下関の花火を見学する機会があった。折角の機会でもあるので、下関に行く前に、長府藩毛利邸と武家屋敷跡を見学して、大きな感動を覚えた。そもそも長府藩(ちょうふはん)は江戸時代の藩の一つである。長州藩の支藩(しはん)で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)とも言う。藩祖は毛利輝元の四男の穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元であった。秀元は、天正20年(1592)4月11日に朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって養嗣子となることを承認された。但し、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡子秀哉が誕生したので、慶長3年(1598)8月1日に、豊臣政権は秀哉を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分治されて大名となることが決定された。翌年の慶長4年(1599)6月には、この方針に則って秀元に長門国一国と安芸佐伯群及び周防群の合計17万石をもって、叔父である小早川隆景の例に倣って毛利家臣でありながら大名としての身分が認められることとなった。この時(慶長4年)が、長門藩の立藩である。関ヶ原の戦いの後に、毛利輝元は安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元が東の守りとして岩国に吉川広家を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(元在の山口県下関市)に秀元の領地を与えられた。後に長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しをおこなった。長府藩は、最初6万石であったが、後に1万石を分治して幕末には5万石となった。この長府藩の跡を訪ね、素晴らしい武家屋敷の小路に感激し、かつ国宝の仏殿を拝して、この上ない旅となった。

長府藩の武家屋敷の塀の連なり

長府藩は、明治維新により豊浦県を経て山口県に統合されている。従って、現在の地名は下関市長府となる。江戸時代から続いた武家屋敷の跡が整然と残っており、繕いも出来ない武家屋敷の塀は、どのような経済変化の跡を受けて、現在に残ったのであろうか?鹿児島県には、武家屋敷の跡が残っていることで有名であるが、この長門藩の跡地も素晴らしい景色である。

古江小路(ふるえこうじ)

古江小路とは、上の長府藩の武家屋敷の塀の連りのことを言う言葉であろう。この城下町長府の武家屋敷は合戦に備えて防衛的配慮がしてあり、この土塀は防壁として築かれている。そのため町筋は碁盤の目ではなく、丁字型になった部分も多く、わざと迷路のように造られている。

菅家長屋敷門・練塀

古江小路の中ほどに「菅家長門門・練塀」がある。これは長府藩初代藩主毛利秀元が、京都から招いた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった。現在は、門と練塀を残すのみであるが、江戸時代の面影を良く伝えている。

長府  毛利邸

明治維新により大名は、すべて東京に住むことになり、新政府は爵位を与えて厚遇した。長府藩も支藩とは言え大名であるので、東京に住むことになった。長府毛利藩邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もうりもととし)公が、政府の許可を受けて、東京から下関に帰住し、この土地を選んで建てた邸宅である。明治31年(1898)に起工し、明治36年(1903)6月に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用された。純日本風の建築であり、庭には淵黙庵(えんもくあん)と名付けた茶室もある。武家屋敷造りの重厚な母屋と日本庭園が、見事な風情を感じさせてくれる。

母屋より庭園を望む

母屋の縁側から、庭園を写したものである。庭園は池泉回遊式である。

池泉回遊庭園より母屋を望む

逆に、庭園から母屋を写した。明治時代の建物であるから、古い家というより、むしろ立派な邸宅という感じを受けた。

国宝 功玉寺 仏殿 二重屋根入母屋造り、 鎌倉時代(嘉暦2年ー1327)

長府の毛利邸を辞する時に、功山寺(こうざんじ)というお寺が近くにあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って功山寺を何の予備知識も無く、訪問した。功山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで鎌倉円覚寺の舎利殿と同形式で、鎌倉時代の仏殿建築の代表的な建物である。なお、時間的に午後4時頃であったため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。

国宝 功山寺   仏殿  後方からの写真

二重入母屋造りの桧肌葺きである。毛利氏とは歴史的に離れているが、この寺の歴史は毛利氏以前に遡る。毛利氏以前に中国地方で権勢を振るっていたのは大内氏である。大内義孝は周防など7か国の守護職を兼ねていた。天文年間(1532~55)ザビエルを引見しキリスト教の布教を許し、西洋文明の輸入に勤めた守護大名である。しかし、天文20年(1551)、彼は家老の陶晴賢(すえはるかた)に襲われ、やがて自殺するが、その跡を継いだ大友宗麟の弟が、大内義長と名乗った。安芸国(広島)吉田庄から出た毛利氏が、かの元就の代にぐんぐん勢力を伸ばし、弘治元年(1555)元就は陶晴賢を安芸厳島に襲撃、敗死させ、ついで弘治3年(1557)4月、大内義長を長門勝山城に攻めて、功山寺(当時は長福寺といった)に、逃げ込み、毛利勢の追討が押し寄せ、この仏殿で割腹自殺した。その時、従った家来は30名と伝えられている。

国宝  功山寺 仏殿  斜め後ろより撮影

勝者毛利輝元は、中国地方から大内と尼子の勢力を駆逐し、その大部分を支配した。孫の輝元は、豊臣政権下において、安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐・伯耆の八カ国、百十二万石の大大名であり、五大老の一人であった。しかし、関ケ原の合戦(慶長5年ー1600)で、毛利輝元は名義上とは言え西軍の総大将として大阪城に入城したから、徳川将軍によってその罪を問われ、周防・長門二国に領地を削減された。これが以後270年余にわたって続いた長州藩である。八カ国、百十二万石にふくれあがった家臣団を、二カ国36万石の規模に再編成するのは容易なことではなかったであろう。長州藩の本拠萩城では、毎年元旦に大広間に藩士一同が居並び、歴代家老がお殿様に「おそれながら統幕の儀、本年はいかが相はからいましょうや」と申し上げると、殿様が「いまだ時期熟すまい」と答える。これが毎年の行事であったそうである。(多分、後から作った話と思う)

高杉晋作銅像    功山寺内

長州藩では、元治元年(1864)12月16日、高杉晋作がわずか80名をひきいて、俗論党の支配する藩政府を打倒すべく挙兵した。いわゆる「回天義挙」であり、長州藩のその後を支配する最も重要な一つであることは間違いない。長府藩には下関も含む。ここでは、下関海峡における外国連合艦隊と交戦し、長州藩が惨敗した歴史もあるが、長州と薩摩国が連合し、徳川幕府を倒し、明治維新を切り開いた歴史の幕開けの場所でもあった。

下関海峡   ホテルのテラスより写す

遙かに下関より門司を望む景色であり、かって「壇の浦」の合戦の場であり、近くは、連合国との「下関会戦」の場でもあった。日本の歴史の転換点に、登場する下関海峡である。

 

なお、功山寺の寺の前身は、嘉暦2年(1327)虚案玄寂(こあんげんじゃく)が開山として創建された長福寺(ちょうふくじ)という臨済宗禅院であった。しかし、仏殿内陣の柱に書かれた墨書銘によると元応2年(1320)立柱とあるので、創建年代は少し遡るであろう。室町時代には守護大内氏の庇護を受けて、大いに繁栄したが、弘治2年(1556)大内義長が仏殿で自刃するなど、戦乱の余波を受けて衰微したが、長府藩初代毛利秀元は金岡用兼(きんこうようけん)を招いて再興し、功山寺と寺号を改め、菩提寺とした。               長府藩の古江小路と毛利藩邸を見学する予定であったが、思いがけず功山寺 仏殿を拝し、あまりにも豪華な国宝に接し、話が長くなった。中々行き難い場所であるが、下関の花火と共に、今年の夏の良き思い出となった。

 

(本稿は、パンフレット「長府毛利邸」、ウイキペディア「長府藩」、探訪日本の古寺「第14巻 山陽・山陰」、山岡宗八「毛利元就1・2巻」を参照した)

ボストン美術館の至宝展  フランス編

日本でボストン美術館展があれば、必ず見学している積りであるが、図録を探しても「ミレー展」(名古屋ボストン美術館)しか無いし、見学した記憶もない。ボストン美術館の中でも西洋画、なかでも印象派、後期印象派には素晴らしい名品が含まれている筈である。当時、パリをはじめとして多くの国で批評家やコレクター達が、新しい美術運動に疑念を抱いていた時期に、ボストン美術館に後年寄付するアメリカのコレクター達は、積極的集めた筈であり、印象派の最大の支持者は、最初からアメリカ大陸であった。ボストン美術館の中でも特に魅力を持つコレクションである。特にモネ、ピサロ、ミレー、ファン・ゴッホの作品が大きなみどころになっている。

編み物稽古 フランソワ・ミレー作 油彩・カンヴァス  1854年頃

「編み物稽古」は、ボストン美術館では2点所蔵している。今回は1854年頃の旧い方が展示されていた。この時代、自身の衣服をつくることは田園地帯の家庭生活においてはきわめて重要な部分を占めていた。母親たちは娘たちに編み物や縫い物を教えたものであった。その様子は本作品に描かれている、愛情あふれる瞬間にみてとれる。年配の女性の被り物は、彼女たちの住む地域の風習の違いを暗示している。ノルマンディー地方の女性たちはボンネットのような帽子を被っている。

くぼ地のひなげし畑 ジヴェルニー近郊 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス1885年

1883年、モネはパリの北西にある小さな町ジヴェニールへ引っ越した。後に有名になる庭と睡蓮の池をつくる前に、彼はまず新居の周辺の田園地帯を描いた。この絵画は、近郊にあった明るく輝く赤いヒナゲシ畑を描いた。初期の作品の1点である。赤と緑の補色の併置は絵に生き生きとした力強さを生み出している。

ルーアン大聖堂、正面 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1894年

1892年の冬にモネが着手した30点に及ぶ連作のひとつで、ルーアン大聖堂に面した部屋で描かれたものである。彼は聖堂の精巧な石造りの壁にうつろうさまに集中し、一日を通じて太陽の光が角度を変えるたびにカンヴァスを取り換えて描いた。画面を覆う筆蝕は、風雨にさらされた石の肌合いを感じさせる。

睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス   1905年

1883年にパリ郊外のジヴェニールの村に住み始めたモネは、1890年にそれまで借りていた土地と家を正式に買い取った。その後隣接した土地も買い取り、のちに有名になる庭と睡蓮の池をつくることになる。1903~04年以後モネは第二の連作生み出す。彼の視点はぐっと高まり池の面を見下ろすようになる。水の面に浮かぶ睡蓮の葉も花も、別の次元の空間の中に漂うのである。つまり、その次元とは、時には雲を映し、柳の影を映し、岸の花や叢を映す。あの倒立した巨像の次元なのである。睡蓮は、水面の連続を暗示しながら、その下にあるもっと広大な世界をひらく指標となっている。

腕を組んだバレエの踊り子 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1872年

ドガが亡くなったとき、アトリエには未完のまま残されていたこの絵画はややぎこちない印象を与える作品で、それがスポルディング(寄贈家)の現代的な感性に訴えかけた。踊り子のスカート部分のむき出しの下地の層や、両腕を組むスケッチした輪郭線は、画家の制作過程をあらわにしている。製作中のまま残されたのである。

卓上の果物と水指し ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス1890~94年頃

傾斜したテーブルの上の果物というシンプルに見えて複雑な一連の静物画は、セザンヌを代表する作品で、いずれの作品も空間と形態の探究、そしてそれらを描く画家の表現手法を示すものである。この絵では、テーブルクロスと背景の落ち着いた緑と青の色彩が、丸味のある果物の明るい黄色やオレンジ色や赤色と鮮やかな対照を成している。

郵便配達人ジョゼフ・ルーラン ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス1888年子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン婦人    1889年

南フランスのアルルに移り住んだゴッホの生活は、依然として、人々の嘲りや無理解にしばしば囲まれていたが、仕事のあいまにくつろぐ夜のカフェなどで、彼は次第に親しい友人を得ていった。この「金の飾りのついた青い制服を身につけ、ひげをはやして、まるでソクラテズのように見える郵便配達夫」のルーランは、なかでももっとも親しく永続的な友情さえ生み出した。ゴッホはルーランに「父というほどではないとしても」、その威厳ある沈黙に尊敬さえ感じていたらしい。この堂々たる肖像画に、そうしたゴッホの感情が十分に見出されるようである。青の強烈さ、画面いっぱいの構図、あらゆる点で、アルル時代の肖像の頂点をなす作品の一つである。ゴッホのこの人物の肖像画は6点あるが、本作品はその最初のものと考えられている( ルーランは郵便配達夫ではなく、郵便管理人だったと言われている。)1888年12月、ファン・ゴッホはジョゼフの妻オーギュティーヌの一連の肖像画を描はじめた。本作品は、かれが完成させた彼女の肖像画のうち、おそらく最後に描かれたものである。鮮やかに花々が配される背景に、彼女の大胆な際立った色彩で描かれており、手にする紐はゆりかごへとつながっている。画面右側に、画家は「ラ・ベルズース」というタイトルを記しているが、このフランス語の単語は「子守唄」と「ゆりかごを揺らす女性」という両方の意味を持つ。ルーラン家には赤子がいたが、ファン・ゴッホはまた、その「揺らす」ということより広い意味でも考えていた。彼は弟のテオに宛てた手紙で、この肖像画の主題について触れている。「漁船の船室の中に」この絵が飾られたとき、「あらゆる危険にさらされた荒涼たる海にたったひとりで残されて、沈鬱な孤独のうちにある」漁師たちは、「ゆりかごに揺られているような感じを経験し、自身がかって聞いた子守唄を思い起こすだろう」と。

 

流石に、ボストン美術館の保有するフランス絵画は優れたものが多い。いずれも感激するが、やはり最後のルーラン夫妻の肖像画が立派であり、アルル時代のゴッホの代表作と呼んでよいだろう。先の「ボストン美術館 東洋編」の最後に、「これと言った名品・珍品がない」と述べたが、これは誤りであった。このアルル時代のゴッホの名品2点は、素晴らしい作品であることを再度強調したい。なお2点を併せ持つ美術館が世界で何館あるだろうか?

 

(本稿は、図録「ボストン美術館の至宝展 2017年」、図録「ボストン美術館ミレー展 2015年」(名古屋ボストン美術館)、現代世界美術全集「第8巻ゴッホ」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)

ボストン美術館の至宝展  東洋編

1870年に設立されたボストン美術館は、アメリカ合衆国において最も古く、また最も良く知られた美術館の一つである。ボストン美術館の大きな特徴は、公的財源から作品収集のための資金援助を受けていないことである。この美術館の卓越したコレクションを構築できたのは、何世代にもわたる寄贈者とコレクターたち個々人による、類い稀な慈善活動によるものであった。特に、東洋・日本の美術蒐集に当たった著名人には、次の人たちを上げることができる。エドワードシルベスター・モース、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ、チャールズ・ゴダート・ウエルド、ウイリアム・スタージュ・ピゲロー等々である。日本史、もしくは国語で習った名前である筈だ。現在22,000点以上の作品を擁するボストン美術館から、今回は80点に厳選した美術品が来日した。その美術品を大区分すれば、古代エジプト美術、中国美術、日本美術、フランス絵画、アメリカ絵画、現代美術の6区分になるだろう。今回、取り上げたのは、第1回は中国美術・日本美術、第2回はフランス絵画の2区分にした。毎年のようにボストン美術館展は開催され、ある時は日本美術のみ、ある時は中国美術のみ、ある時はミレーのみ、ある時は北斎の浮世絵のみと実に多彩である。今回のように各国の多彩な美術品を展示するのは、むしろ珍しい程である。

五色鸚鵡図巻 徽宗作 絹本着色  北宋時代 1110年頃

徽宗(在位1101~1125)は北宋第8代の皇帝である。徽宗(きそう)は、美術品を蒐集した皇帝として著名であるが、自分自身でも花鳥画等の名画を残している。徽宗の現存する伝統的作品のうち、花鳥画については歴史、文学において徽宗が花鳥画を得意とすることが知られており、山水画、人物画に比較して、より広く承認されている。この「五色鸚鵡図」は、徽宗の伝承作品の中でも最も信頼しうる作品の一つである。この画巻の徽宗自身の題詩によれば、本図は嶺表(五例の南の地)より宮廷に貢物として珍奇な鸚鵡が献上されたのを記念して制作されたという。徽宗は春に宮廷内の庭園で満開の杏木の真ん中に飛んでいくこの鸚鵡を見て、この出来事を記録するために自ら描いたものである。満開の白花や蕾など様々に花開いた杏木に満足げに止まっているように見える鳥は、横向きの姿で写実的に描かれている。この画は自然をあるがままに写生したような印象を視る者に強く与え、その表現を誇張しようという意向は見られない。徽宗は、女真族の国・金の侵攻によって、捕虜となり連行された先で没したという不幸な皇帝でもある。

九龍図巻(部分) 陳容作  紙本墨画淡彩  南宋時代 淳裕4(1244)年

中国の諸芸術家が表現した多くの道教的主題の中で、龍は中国において諸神の中でも最も宗教的精神と哲学を象徴する存在であった。龍は神秘的な生物であり西洋においてはドラゴンの名で一般的に知られている。前漢の開祖である劉邦(在位、前206~前195)が、自らを神である龍の子として宣言して以来、龍は中国の皇帝の象徴としての役割を果たしてきたのである。本図は、今日、現存する中国の龍の絵画作品の中でも最も古く最も優れた作品である。画巻の終わりに書かれた画家の詩と跋文によると、この「九龍図」は8世紀の画家槽覇の「九馬図」と北宋末の恵崇(956頃~1017)の伝承を持つ「九鹿図」に画因を得たものという。陳容は、これらの名画に匹敵するような優れた質の絵画のみならず、その自らの制作の過程についても跋文にも書き記したのであった。彼の詩は、いかに陳容が精神の高揚した状態で絵を描くことができたかが詳しく述べている。その作画の過程は跋文と作品そのものの双方に示されているが、それは道教の超自然的な実践と深く結びついた一種の精神の変容の体験と事物に対する洞察力を反映したものと言える。自ら描いた九龍図の高い芸術性に満足した陳容は、詩の最後の部分で次のように述べている。「私は九龍図を描いた。筆端から発した微妙な芸術は世界中の他のどこにもないものである。この絵を離れて見れば、浪と雲が飛動するようにみえるであろうし、また近づいて見れば、神人のみがこのような龍の絵を描くことができると思うであろう」と。

涅槃図  英一蝶作  紙本墨色 一幅 江戸時代・正徳3(1713)年

英一蝶は、反骨心のある文化人の象徴だった。絵師でありながら、俳諧を嗜んでいた。そして遊興に通じた粋人、幇間(ほうかん)でもあったが、その経歴の頂点にあったときに、江戸から10年以上にわたり三宅島に島流しにされている。何の罪を犯したかは知られていないが、噂話や憶測は数多くあった。赦免されて江戸に戻ったのちは、正徳3年(1713)に一蝶は自身にとって象徴的な「涅槃図」を描いた。この感覚的で、なおかつ宗教的な傑作は、蝙蝠から菩薩まで、感情をもつ生きとし生けるものが釈迦の横たわる宝台のまわりで嘆き悲しむ様子をとても緻密に、また色彩豊かに描くのを特色とする。彼の「涅槃図」は、極めて独創的な情景の表現ゆえに、注目に値するものとなっている。日本の寺院では、釈迦の命日(旧暦2月15日)に執り行う涅槃会で、このような涅槃図を1年に1回開帳することが多い。芝愛宕町の青松寺塔頭吟窓院に寄進された。(この作品は、ボストン美術館で、最近修復された)

風仙図屏風 曽我蕭白作 六曲一双 江戸時代宝暦14~明和元年(1764)頃

曽我蕭白はいわゆる「奇想の画家」として、辻惟雄氏によって最近発掘された奇人と思っていたが、明治10年代に、日本で発掘し、アメリカに持ち帰っていた大作である。ボストン美術館展というと必ず出品されると言っても良いほど、良く見るようになった屏風である。曽我蕭白(1730~1781)は、文政7年編の「近世奇人画師」の記事以来、伊勢の生まれと信じられてきたが、辻氏は、京都興聖寺の墓地に墓石を発見したとされている。辻氏によれば、蕭白は、丹波屋、あるいは丹後屋を屋号とする京都の商家の出身と思われると推定している。興聖寺に異様な大作「寒山拾得図」双幅(重文指定)ほか数点の蕭白画を有している。また最近、ボストン美術館で異様な「雲龍図」が発見されて話題になっている。この「風仙図屏風」は、中国の伝説上の仙人である呂洞賓(ろどうひん)を描いたものと言われてきた。この屏風では、霊力を持つ男が剣を振るって、渦巻く旋風で表された龍と戦っている。この人物を南宋の伝説的な道士で、龍を退治した嵐とともに恵みの雨をもたらした陳南(ちんなん)であると考える説もある。この屏風は、フェノロサが日本に滞在していた1878年から86年の間に入手したものであろう。

絵看板  鳥居派 一面 紙本着色 江戸時代 宝暦8年(1758)

絵看板は町行く人々を歌舞伎の芝居へと引き込む役割を果たしていた。こうした額装の絵看板は、芝居小屋の軒下に斜め下向きに飾られ、下の狭い通りからも見えるようになっていた。絵看板は、主役の役者たちが演じる、選り抜きの劇的場面を描いたもので、その衣装には役者が誰であるかがわかる定紋が目立つかたちで入れられている。美術品よいうよりはむしろ、その時だけの短命な宣伝物だったと考えられるこうした絵のほとんどは破棄されてしまった。本作品は知られる中では最も古い現存例で、宝暦8年(1758)8月に江戸の中村座で上演された芝居のものである。

花魁図 酒井抱一作 一幅 絹本着色  江戸時代(18世紀)

大名家の次男であった酒井抱一は、江戸時代の主要な芸術家たちの誰よりもきわめて高い社会的地位を享受していた。裕福な家系に生まれたいかげで余暇と資力があった抱一は、自身の絵画に対する興味を追求することが出来た。とりわけ出家を果たした寛政9年(1735~1814)以後はその傾向が高まった。まず狩野派に学ぶことから始め、20代の間は歌川豊春(1735~1814)のもとで浮世絵を学び、次に琳派の様式によって江戸琳派の開祖として知られる。この掛軸は、浮世絵の肉筆画や版画に良く見られる典型的な主題を扱ったもので、新年の正装で吉原を練り歩く花魁の姿を描いている。豪華な衣装が素晴らしい。明治時代に活躍した絵師・河鍋暁斎(1831~89)が所蔵していたが、誤って抱一の師・豊春の作とする極めを画中に描きいれている。この絵の素晴らしい出来映えからすれば、無理もない間違いである。

三味線を弾く美人図 喜多川歌麿作 一幅 絹本着色 文化元年~3年(1804~06)頃

三味線の音締(ねじめ)をする若い女性。右手の撥(ばち)で三味線をかきならし、左手で糸巻きを調節している。手の込んだ髪飾りは、彼女が芸者か、あるいは娘浄瑠璃師であることを示唆している。娘浄瑠璃は、あまりにも人気が高くなりすぎ、文化2年(1805)には禁止されてしまった芸能様式だった。高く結い上げた髪型、深みのある色彩、そしてトリミングされた構図は、歌麿の画業のなかでも後期の制作であることを示しており、娘浄瑠璃の良く似た絵柄は彼の後年の版画のいくつかにも描かれている。

 

 

ボストン美術館は、今まで「日本絵画名品展」、「「中国宋・元名品展」、「ミレー展」等的を絞った展覧会が多かったが、今回は「オールスター展」とも呼ぶべき、各国の絵画、彫刻類が展示された。総数も80点と、拝観するには誠に都合の良い点数であった。反面、これが特徴だと言える名品・珍品もなかった。中国、日本、フランスの有名な名画を見たという印象は残るが、「この1点」と言うべきものは無かった。最近、東京では世界中の名品が見られ、何時でも、何処の美術館でも、満足できる展覧会を楽しむことが出来る。極めて恵まれた環境にある。これが名古屋、仙台になると途端に不便になる。文化の一極集中は如何なものかと思う。わざわざ、千葉へ行ったり、仙台へ行ったりする機会があってもいいような気がする。あまりにも恵まれた環境の下にいるせいだろう。

 

(本稿は、図録「ボストン美術館の至宝展   2017年」、図録「ボストン美術館・日本美術の至宝  2012年」、図録「ボストン美術館  ミレー展 2014年」、図録「ボストン美術館の至宝 中国宋元名品展  1996年」、図録「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展 1983年」を参照した)

芸大コレクション展   後期

この展覧会は、東京芸術大学が保有するー芸大コレクションー(凡そ2万9千点)-を公開し、大学美術館の存在理由を明らかにし、様々な問題点を素直に展覧会に反映させるという意魏があった。初日に入館した時は、観客が少なく(7月14日)不安を覚えたが、流石に後期で、しかも期日が過ぎると(8月18日)、かなりの入館者であった。他の美術館と異なる点は、和服の女性が目立ったことである。お茶の展覧会には和服の女性客が多いことがある。(例えば畠山記念館)芸大コレクション展という性格からして、日本美術の粋、もしくは芸大卒業生等、どちらかと言えば地味な展覧会であり、余程芸大の美術館を見慣れた人以外は参観し難い展覧会であるにも関わらず、和服姿の女性客(かなり高齢)が多いのが不思議であった。

重要文化財 槇楓図屏風 尾形光琳作  紙本金地彩色  江戸時代

山種美術館が保有する伝俵谷宗達作の「槇楓図屏風」を光琳が模写、正確にはそれに修正を加えて独自にアレンジした作品である。まず右端の大木の幹の湾曲を抑え、また右から第3扇の身をくねらせるような木の急角度なねじれを弱め、さらに、原本においおいてやや画面上での役割が明らかでなかった左端の槇の枝ぶりをより安定感のあるものに変え、かつ少し左に移動している。結果として、原本の持つ力強い運動間は弱まったが、平面的な律同感はより鮮明になると同時に、色彩も明るくなって緑と朱の対比が鮮やかになった。明治時代には蜂須賀家に伝来したものである。

柳下鬼女図屏風 曽我蕭白作 紙本墨画淡彩 二曲一双  江戸時代

曽我蕭白は、近年辻惟雄氏の「奇想の系譜」において紹介され、俄かに有名になった江戸時代の画家である。最近まで、伊勢出身と考えられていたが、京都出身で、京都の興聖寺に墓石があることが明らかになった。「群仙図屏風」が有名である。この絵は、謡曲「鉄輪」からの着想で、嫉妬に狂う女が鬼となって、もとの夫を呪い殺そうとする場面である。顔貌部分の損傷がその恐怖を煽る。

重要文化財 不動明王 狩野芳崖作  紙本墨色  明治20年(1887)

フェノロサとともに日本画の改良を試み、その成果を示した作例の一つである。従来の狩野派にはない求心的な構図の彩色の濃淡に工夫が見られる。

重要文化財 白雪缸樹 橋本雅邦作  紙本彩色   明治23年(1890)

第3回内国勧業博覧会に出品された大作である。東京美術学校教綬として新しい日本画の方向を内外に示すための遠近感などが意識されている。岡倉天心の影響が認められる。

ティヴォリ、ヴィラ・デステの池 藤島武二作  油彩・カンヴァス 明治42(1909)年

イタリアへ留学した時のティヴォリでの取材した作品である。藤島は、既に日本で装飾風の独自の画風を確立していたが、フランス・イタリアへの留学は大変勉強になったようであり、様々な作品を描いている。日本では既に独自の画風を確立していたが、滞欧経験は、藤島に色彩の解放と新たな装飾性の志向をもたらした。

村童観猿翁 横山大観作 絹本着色  明治26年(1893)

横山大観の卒業制作であり、「作家の原点」として展覧されたもので、これからしばらく、卒業制作が続く。大観は日本画科率、猿回しの翁は恩師である橋本雅邦を見立て、村童たちは同期生11人の幼顔を想像して描いたという。大観は4年間の学校教育だけで画家としての基礎を身に付けたはじめての日本画家ということが出来る。

砂丘  高山辰夫作  絹本着色   昭和11年(1936)

日本画卒の卒業制作。房総の御宿海岸で、砂丘の風紋の美しさに魅了されたのが制作動機となっている。雄大な自然に感動した作者の心情世界が広がる。いい絵である。

渡頭の夕暮れ 和田栄作作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

鹿児島に生まれ、はじめ黒田清輝らの指導を受ける。1896年、東京美術学校西洋画科助教綬となるが、翌年4年に編入、卒業。フランス留学から帰国後母校の教綬となりのち同校校長。穏健な作風で官展の重鎮として活躍した。その人の卒業制作である。私の好きな画家の一人である。多摩川の渡し場で舟を待つ人々を描いたものである。夕焼けに染まる空と川の色を的確に捉えた画面は、叙情的で郷愁を誘う。まさしく、和田栄作の制作の原点と言って差し支えない。

稽古  白滝幾之介作  油彩・カンヴァス   明治30年(1897)

兵庫生まれ。はじめ山本芳翆、ついで黒田清輝に師事。1896年東京美術学校西洋画予科3年に編入。1898年卒業。その後欧米へ7年間遊学。1911年帰国の後は官展に作品を発表。外光派表現を取り入れた穏健な画風を示した。1952年に日本芸術院恩賜賞を受賞。この卒業制作は、黒田清輝の外交派の影響を強く受けている。下町の日常風景を描いたものである。

草花鳥獣文小手箱 松田権六作  金沃懸地  大正8年(1919)

蓋内部で大きく口をあけて吠える獅子と表の鹿や兎と各種の鳥が逃げ惑う描写により、百獣を怖れさせる威力を持つ獅子吼(ししく)という釈迦の説法の譬えを表わす。表面には漆に金粉を全体に蒔き、漆の固まらないうちに一気に動物の輪郭を針金で引っ掻き、金銀の箔片を散らす。卒業時の成績採点では百点満点がつけられた。当然だと思う。

重要文化財 日本婦人 ヴィンチェン・ラグーザ作銅像 明治13年(1880)

ラグーザは工部学校の教師として彫刻科教師をつとめ、日本滞在中に著名人の銅像を作成すると同時に「日本婦人」、「日本の大工」といった身近な人々を生き生きと映し出した秀作を残している。この「日本婦人」の石膏原型は重要文化財に指定されている。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に出品され、大いに注目された。本作品は、昭和33年(1958)に原型から鋳造された作品である。

裸婦  原 憮松作 油彩・カンヴァス  明治39年(1906)

岡山に生まれる。洋画家多賀清光、平野雄也に学ぶ。1904年渡英。古今の名画を模写し、イギリスで高い評価を得た。明治期における本格的な油彩技法を習得した画家の一人であるが、1907年の帰国後、作品を発表する機会に恵まれず病没した。本作品は平成25年度に画面洗浄等の処置を、芸大で施した「修複作品」である。

黄泉比良坂 青木 繁作 紙・色鉛筆・パステル 水彩 明治36年(1903)

第1回白馬会賞受賞作、黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、古事記の一場面で、それが水彩や色鉛筆で幻想的に表現されている。本紙の波状の折れ等に対し変形修正等の処置が施された。「修複作品」の事例である。私は、青木繁の生涯」を追い、手に入る限りの写真を集めて、いずれ、この恵まれない天才画家の生涯を、この「美」でまとめてみたいと思っていた。この「よもつひらさか」がどこに所蔵されているか不明であったが、思いがけない処で、遭うこと出来、かつ写真も入手することが出来た。非常に喜んでいる。

 

後期は、江戸時代の琳派の名品や、明治時代初期の日本画、洋画、卒業制作、修復作品など幅広く紹介した。思いがけない青木繁作の「よもつひらさか」に出会えるなど、寄寓もあった。卒業制作は、正に作家の原点であり、力作を作成した作家は、その後も大家に成長した作家が多い。しかし、萬 鉄五郎氏のように、ゴッホやマチスを思わせるような「裸体美人」を卒業制作にしたことにより、黒田清輝教授の反対により、卒業成績を下位に落された(と思われる)事態も発生している。しかし、作家の評価は大学の教授が決めるものでは無く、万人の眼で決められるものであり、結果として、学校の卒業順位はさして意味が無いこともある。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション  2017年」、図録「明治ニッポンの美    2015年)、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)