御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(3) 

正倉院展の後期展示が始まったので、国立博物館へ出かけた所、70分待ちで入館できた。奈良の正倉院展も混むが、東京は2度と来る見込みがないためか、大変な人の山であった、1時間以上外で待って、やっと入館できた。今回は、後期展示物の中から名品を選んで解説したい。いずれも奈良時代、唐時代、西域の宝物類であり、多分、私は2度と見ることが出来ない宝物なので、十分楽しんだ。天皇陛下の御即位記念は、「御即位20年記念特別展」として2009年(平成20年)「皇室の名宝」が公開された。2冊の(前期、後期)の図録が残っており、皇室(三の丸美術館等)の保有する美術品が多数掲載されている。前巻は、「近世絵画の名品」、「近代の宮殿装飾と帝室技芸員」、「大和絵屏風の伝統」の3章から成っている。第2部(後期)は「古の美ー考古遺物、法隆寺献納物・正倉院宝物、古筆と絵巻の世界、中世から近世の宮廷美」「皇室に伝わる名刀」の4章に分かれていた・要するに、「正倉院宝物」は代が変わっても、皇室の名宝の大切な一部であったのである。しかし、私は、この平成20年御即位記念展で、一番記憶に残っているのは第2部の「近世の名画」の筆頭に掲載された伊藤若冲の「動植採絵」全30枚である。かねがね、伊藤若冲は辻信雄著「奇想の系譜」で読み、是非「動植採絵」全30枚を見たいと思っていたが、思いがけない機会に、一番見たかったものを見学することが出来、終生忘れえない記憶となった。今回は、「正倉院の世界」を中心に、奈良に行かず、東京で116点の名品を拝観する機会に恵まれ、この上もない感激であった。名品揃いで、法隆寺からも、聖武天皇の皇女・孝謙天皇が、その遺品を天平勝宝8年の7月8日に、法隆寺へ献納され、その宝物も、今回の展覧会に出品され、聖武天皇の遺品がほぼ全部揃ったような、奈良博物館では実行できなかった、前例のない「正倉院の世界」展が、拝観できる機会に恵まれた。この第3回では、「正倉院の世界」展の後期に展示されたものを、取り上げてみたい。

正倉院宝物 平螺鈿背八角鏡 青銅製鋳造 螺鈿 琥珀 トルコ石 中国・唐時代(8世紀) 正倉院

「国家珍宝帳」に記載のある八角形の平螺鈿背鏡。鏡背に夜光貝や琥珀の薄板を貼り付けて、四方に対称に七弁花文を配し、その花文を中心に花葉文および双鳥文を表す。花芯や花弁に配した琥珀の下には淡緑色の彩色が伏されている。また、間地を黒色の樹脂状物質で埋め、トルコ石の細粒を散りばめている。唐鏡と考えられる。

正倉院宝物 銀平脱合子 木製漆塗 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

碁石を納めた円形の容器。「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の品で、紅芽、黒、白の四種類の碁石とともに、同形の容器四合が伝わる。四合いずれも黒漆地に銀平脱の技法で文様を表す。平脱、巻胎とも後世に伝わらなかったが、本品によって当時の優れた技法の粋が知られる。

正倉院宝物 鳥毛、篆書屏風 紙本着色羽毛貼 6扇のうち2扇 正倉院

   

「国家珍宝帳」に記載された六扇一畳の屏風。各扇ともに君主の座右の銘を表す。文字は、二行各八字で篆書体と楷書体を交互に配し、篆書には鳥毛を貼り重ねる。鳥毛には、日本産の雉や山鳥の羽毛が用いられており、本品が日本で製作されたことがわかる。

正倉院宝物 白銅火舎 青銅製鋳造  中国・唐または奈良時代(8世紀)

仏前に据えて香を焚くために用いられたと考えられる火炉。たらい形の炉を五本の脚で支える。炉は現在は黒褐色を呈しているが、青銅(白銅)製と考えられる。小型で、口縁を外反りに作り、側面には二条の突帯を巡らせ、全体を轆轤挽きで研磨して仕上げる。底面の中央には鋳造する際にできた湯口の痕が残る。獅子形をした脚はいずれも明治時代に付けられた後補で、金銅火舎の脚を参考にして作られた。なお、炉の底には東大寺の墨書が残る。

正倉院宝物 胴薫炉 銅製鍛造 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

銅製鍛造で全面に透かし彫りを施した球形の香炉。衣服や寝具に香を炊き込めるために用いられた。球形の本体は上下に分かれ、下半部は内部に火皿があり、そこで香を焚く。火皿を支える構造は銀香炉と同様で、三重の鉄輪が火皿と下半部を繋ぎ、球の上下がどのような位置に来ても火皿が常に水平を保ち、香や灰がこぼれない仕組みになっている。

正倉院宝物 紫檀木画槽琵琶 木製、木画、革に彩色中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

正倉院に五面伝わる四弦琵琶の一つで、背面の木画など豪華な装飾が施される。四弦の琵琶は、ペルシア起源と考えられており、弦間(上部の弦を納めるところ)より先が曲がることが特徴で、後世の琵琶も同じ形状である。本品の主体部は象牙、緑角、錫など木材以外の材料を用いている。背面の木画は、蓮華、唐花や、花枝を咥えた鴛鴦など左右対称に表現する。

正倉院宝物 伎楽面迦楼羅 桐製彩色 奈良時代(8世紀)正倉院

伎楽で着用する仮面で、迦楼羅(かるら)と呼ばれる役柄のもの。インドの古代神話に登場するガルダに由来する。鳥の頭部に人間の胴体をもつ。のちに佛教の守護神として天竜八部衆の一つとなり、伎楽にも取り入れられた。本品は桐材製で、鶏冠や嘴をもった鳥の形に彫刻されており、嘴の先には法珠を銜える。顔と頭を緑色、鶏冠や頬の肉垂れ、頸、耳の内側を赤色に塗る。正倉院には迦楼羅の伎楽面が五面伝わっているが、髪の毛や人間の耳を持つものなど、面相はさまざまである。

正倉院宝物 漆胡瓶 木製漆塗 銀平脱 中国・唐、あたは奈良時代(8世紀)正倉院

「国家珍宝帳」所載のペルシア風の水瓶。丸く張った胴部に鳥の頭部を象った蓋と注ぎ口が付き、湾曲した把手とラッパ状に裾が広がった台脚を備える。素地はX線透過写真により、テープ状に加工した木の薄板を巻いて成形する巻胎の技法によって作られたことがわかる。内外ともに黒漆塗りで、表面は、銀平脱の技法によって装飾する。本品はササン朝ペルシアで流行していた器形を、東アジアの工芸技法である漆や巻胎を用いて作り、中国・唐時代に盛行した平脱の技法で飾っており、当時の国際交流を示すものと考えられる。なお「漆胡」という名前から、井上靖の「疾呼樽」を推測したが、ペルシャが共通しものかも知れない。(尚、井上靖氏は西域という言葉を使っている)

正倉院宝物 赤胴柄香炉 銅製鋳造 把手に錦・組紐 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

僧侶が手に持って仏前で香を焚き、供養を行う時に用いる仏具。黄銅香炉とほぼ同様の形状と作りだが、本品の方がやや大振りである。朝顔形にした炉は轆轤加工と手加工で精巧に仕上げられており、炉に接合された座は菊花形で、花弁を模した線刻が刻まれる。炉や柄の色味から赤胴と名付けられているが、実際には純胴に近い成分であり、表面を亜酸化銅が覆うことによって赤色を呈していると考えられる。前掲の赤胴合子とセットで使用された可能性が高い。

正倉院宝物 黄銅合子 銅製鋳造 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

仏前で香合として使用されたと考えられる塔椀型の金属製容器である。胴部の中央で蓋と身に分かれ、蓋には七重相輪を象った塔形紐が付き、身には台脚が付く。胴部、紐、台脚は別々に鋳造し、轆轤挽きで仕上げる。塔形紐の造作や台脚の接合方法など、基本的には黄銅合子(前掲)とほぼ同じ作りである。法隆寺の玉虫厨子や勸修寺伝来の刺繍釈迦如来説法図などには、僧侶が塔形合子と柄香炉を両手に持つ姿が描かれており、両者はセットで使用されていたようである。

正倉院宝物 白瑠璃碗 ガラス製 ササン朝ペルシャ(6世紀頃)正倉院

表面全体に円形切子を施した透明なガラスの帵。円形切子は合計80個刻まれており、それぞれが相接しているため、亀甲繋のような文様となっている。当初の透明感は保っているため、一つの切子に反対側にあるいくつもの切子が映り、美しい輝きを生み出している。材質はアルカリ石灰ガラスで、器には厚みがあり、内部には気泡が見られる。溶けたガラスを吹き竿に付け、息を吹き込みつつ成型し、回転する砥石で切子を施したと考えられる。

思分 白瑠璃碗 ササン朝ペルシア 6世紀頃 東京国立博物館

ササン朝ペルシア領域で製作された、アルカリ石灰ガラス製のカットグラス。本品は正倉院の白瑠璃碗(前掲)とよく似ており、やや飴色がかった色調と大きさはほぼ同じあるほか、切子の段構成と数が一致するなど共通点が多い。一方、本品では切子が円文になるが、正倉院の白瑠璃碗では切子が重複して亀甲繋文となる。また重さは正倉院の白瑠璃碗の485グラムに対し、本品は409.2グラムと継ぎ目があるにせよ軽い。本品には江戸時代半ばに、現在の大阪府羽曳野市に所在する安閑天皇陵古墳から出土したととされ、のち近傍の正琳寺に納められことが外箱の箱書きから照明される。安閑天皇は6世紀前半に在位し、正倉院宝物が成立した8世紀半ばとは開きがある。よく似た二つの帵は異なる来歴をたどったが、昭和25年10月26日、正倉院での対象調査で巡り合いを果たした。

 

後期出展の品物は、圧倒的に正倉院宝物が多かった。井上靖氏は昭和25年に「猟銃」という小説で、文学界に登場した。私は高校2年生という多感な時期であったが、この「猟銃」には大きく引き付けられた。以来、井上靖氏の小説は、ほぼ発表される都度、愛読してきた。現在は「井上靖全集」で、全作を読むことがしばしばある。さて、本展覧会では「漆胡瓶」で、氏の「漆胡樽」を思い浮かべ、かつ白瑠璃碗で、「玉腕器」を思い出した。多分、西域だとかペルシアとかに興味を持たれたのだと思う。そういう意味でも、思い出深い展覧会となった。

 

(本稿は、図録「御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美」  2019年」、図録「平成5年  正倉院展 1992年」、図録「平成6年 正倉院展 1993年」、現色日本の美術全集全30巻のうち「第4巻 正倉院」を参照した)

ご即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(2)

毎年奈良で行われる「正倉院展」は、通常70点程度の展示であり、中には素晴らしい宝物が含まれるが必ずしも一級品ばかりではない、中には「会計文書」「作物帳」「如来興顕経」など、仏教専門家でないと、満足に理解できない文書も多数出品されることがある。一般見学者には円鏡とか碁盤とか、いかにも宝物らしいものが見たい。奈良の正倉院展は、内容もさることながら、狭い館内(新館も含めて)に、大勢の観客が集まり、行列を作り、満員の会場の中で、なかなか希望の宝物に近づけないことが多かった。それに比べると、東京国立博物館の平成館は広く、そんなに混雑しえいる訳ではない。むしろ、ゆっくりと宝物を拝観することが出来、生涯で、正倉院宝物をこれだけ多数、一気に拝観することは、多分生涯で2度と無いだろうと思う。選ばれた宝物も一流品揃いで、いかにもご即位展に相応しい美術展であった。図録も色彩美しく印刷され、申し分ない展覧会であった。さて、今回は、前回に触れることの出来なかった分野(具体的には「正倉院の琵琶」「工芸品の共演」「宝物をまもる」の各章で、かつ前期出展物を紹介したい。

正倉院宝物 白石火舎 大理石製 脚及び鐶は銅製鍍金 中国唐 または奈良時代(8世紀)正倉院

仏前に据えて香を焚くために用いられたと考えられる火炉。大理石製の炉を五本の脚が支える。炉は浅いたらい形で、口縁は外反りに作り、側面に三条の突帯を巡らす。使用される大理石は大陸でよく産する質のものに似る。炉の中には当時の灰が塊となって残っている。宝庫には同形大の白石火舎がもう一口伝わっており、一対で用いたものと考えられる。

正倉院宝物 銀薫炉 銀製鍛造 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

全面に透かし彫りを施した球形の香炉。「国家珍宝帳」に続く「屏風花氈等帳」に記載され品である。中国で隋唐時代の類品が出土しているが、5センチほどの小型で佩飾具と考えられるのに対し、本品は系が18センチほどもあり、室内に置いて衣などを被せて香を炊き込んだと考えられる。

正倉院宝物 螺鈿紫檀五弦琵琶 木製・玳瑁・螺鈿 中国・唐時代8世紀 正倉院

「国家珍宝帳」所載の楽器で、正倉院宝物を代表する優品として知られている。五弦の琵琶が4弦の琵琶と異なるのは、弦が五本であることや、頸(くび)が真っ直ぐで、槽の部分が厚いことなどである。インド起源で、中国の文献や壁画などに見えるが、現在品は世界に唯一のものである。

正倉院宝物 紅芽撥鏤 象牙製撥鏤  中国または奈良時代(8世紀) 正倉院

琵琶の弾奏に用いる象牙製の撥。撥鏤技法により赤地に花弁や含綬鳥、鴛鴦、山岳などの意匠とともに、麒麟、馬頭怪鳥といった空想上動物が表現される。成形した象牙を赤色に染め、文様のところどころに黄色や、緑色の点彩を施す。赤色に染める前に彫った細いアタリ線が文様の各所に確認できる。科学分析により赤色にラックが用いられていることが分かっている。

正倉院宝物 伎楽面 酔胡王(すいこおう) 桐製、彩色、貼毛 奈良時代(8世紀) 正倉院

伎楽で着用する仮面で、酔胡王と呼ばれる役柄のものである。伎楽とは中国の仮面劇に由来し、「日本書記」によれば、推古20年(612)に、百済人味摩之が日本伝えたとされる。奈良時代には寺院の法会の際に盛んに演じられた。酔虎王とは、酔った胡人の王、つまり西域の王を指し、劇中では従者と共に登場し、酒宴を繰り広げたとされる。

重分 伎楽面 酔胡王 桐製、彩色、貼毛 飛鳥・奈良時代(7~8世紀) 東京国立博物館

酔胡王とは酔っ払った胡人の王のことで、胡人は西方、ペルシャ系の異民族(ソグト人)で高い鼻が特徴である。王はやはり酒に酔った従者八人を従えて登場するため、酔虎王という面が多く残っている。制作は飛鳥時代末期から奈良時代初期と考えられる。

重分 浄瓶  青銅製鋳造  飛鳥・奈良時代(7~8世紀) 東京国立博物館

楕円形の胴に長い首を着け、頸部に細長く尖った口を設けて、胴部の肩に蓋のある口を設けた水瓶である。本器のような形式の水瓶を、浄瓶あるいは選盞形水瓶などと称している。インドや東南アジアあたりの僧侶が修行生活の中で用いていた水瓶に由来している。

正倉院宝物 黄銅柄香炉 真鍮製鍛造 把手に錦・組紐・ 中国・唐または奈良時代(8世紀)正倉院

長い柄の付いた香炉。僧侶が柄を手に持ち、火炉で香を焚き、仏前を清めるために用いた。炉は浅い朝顔形で、菊花型の台座の下から鋲で接合している。柄の一端に獅子形鎮子が付く形式は、中国と日本で8世紀に流行した。柄の一端に獅子形鎮子が付く形式は、中国と日本で8世紀に流行した。

正倉院宝物 黄銅合子 真鍮製鍛造 ガラス象嵌 一合 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

仏前で香合として使用されたと考えられる金属製容器。塔型の紐と球形の胴部を持った形式から塔鞠とも呼ばれる。胴部の中央で蓋と亜鉛の合金である黄銅すなわち真鍮製で、胴部、紐、台脚を別々に鋳造し、轆轤挽きで仕上げ、組み立てる。本品は、刻まれた精緻な文様や、顔料の充填、ガラス球など、装飾性が豊かであり、現在確認されている塔椀のなかでもひときわ美麗である。

国宝 赤銅柄香炉 銅製鋳造 把手に錦・組紐 中国・唐または奈良時代(8世紀) 正倉院

僧侶が手に持って仏前で香を焚き、供養を行う時に用いる仏具。黄銅柄香炉とほぼ同様の形状と作りだが、本品に方がやや大振りである。朝顔形をした炉は轆轤加工と手加工で精巧に仕上げられており、炉に接合された座は菊花形で、花弁を模した線刻が刻まれる。炉や柄の色味から赤銅と名付けられているが、実際には純胴に近い成分であり、表面を亜酸化銅が覆うことによって赤色を呈していると考えられる。

正倉院宝物 甘竹笙 竹・木製 奈良時代(8世紀)    正倉院

「国家珍宝帳」に「甘竹簫一口」とある聖武天皇遺愛の品の一つ。十八本の竹簡を並列に並べた吹奏楽器で、上段の吹き口を前後から斜めに切って山形とし、下端は節で終わる。竹簡内には節を穿って貫通しており、管の中に調律用の丸めた紙が詰められている。紙には墨書があることから、反故紙が用いられていると推定される。

正倉院宝物 東大寺屏風裂 七片のうち 緑地霰菱文錦 奈良時代(8世紀) 正倉院

天保4~7年(1833~36)に、正倉院宝庫の点検、修理が行われた。その際に、正倉院伝来の古裂を貼り交ぜた六曲一双の屏風を制作した。これが後世に、東大寺屏風と呼ばれたものである。今回七片が展示されたが、その一部を記載した。

 

流石に、ご即位記念であるだけに、宝物類が充実している。その(2)章では、前期展示のうち、特に目立ったものをピックアップした。(3)章では、後期展示されるものの中から選んで、お目に掛ける。後期は11月6日から24日までであるので、その間に連載したい。

 

(本稿は、図録「御即位記念特別展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美  2019年」、図録「平成5年  正倉院展   1993年」図録「平成6年  正倉院展   1934年」を参照した)

ご即位特別記念 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美(1)

この度、天皇陛下のご即位に祝意を込めて、ご即位記念展覧会「正倉院の世界ー皇室が、まもり伝えた美」が開催された。本展覧会は、天皇の勅封によって厳重に守られてきた正倉院宝物を中心に、東京国立博物館が所蔵する法隆寺献納宝物なども合わせて展示し、古代日本の国際色豊かな文化を紹介することが目的である。正倉院宝物は、光明皇后が聖武天皇の御遺愛品をはじめとする品々を東大寺の廬舎那仏に捧げられたことに由来する。その内容は、まさに「シルクロードの終着点」とも言われるほど当時のアジア大陸の面影を留めており、世界でも比類のない文化財である。正倉院宝物の一般開放は、昭和24年な奈良国立博物館に始まり、これまで71回を迎えた。井上靖の小説「漆胡樽」(しっこそん)に、第1回の正倉院宝物展の様子が詳しく述べられているが、あれから71回目を迎えることになったのかという思いが強い。私自身も、京都に住んでいた頃には、しばしば「正倉院宝物展」を見学したものである。法隆寺献納宝物は、明治時代に法隆寺から皇室に献納され、その内容は飛鳥・奈良時代の美術を代表するものとして、正倉院宝物と双璧をなす。正倉院宝物は、大部分が東京国立博物館に常時展示されているが、(小仏像及びその群像類)今回展示されるものは、「秘宝」として博物館に奥深く内蔵された宝物である。この展覧会は前期、後期に分けて展示されるため、この原稿も2,3回に分割して執筆することとなる予定である。

正倉院宝物 国家珍宝帳(東大寺献物帳)紙本墨書 一巻 奈良時代

天平勝寶八歳六月二十一日、聖武天皇の四十九日にあたり、光明皇后は天皇遺愛品を中心とする六百数十点を東大寺の廬舎那仏に捧げた。本品はその際の献物帳である。目録は名称や数量のほか、寸法、材質、技法、ときに由来に及んでいる。末尾に当時権勢を誇った藤原仲麻呂以下の署名がある。

国宝  法隆寺献納物帳  一巻 奈良時代  天平勝宝8歳(756)東京国立博物館

天平勝寶8年5月2日に崩御した聖武天皇の供養のため、その遺品を、皇女・孝謙天皇が7月8日に法隆寺へ献納したことを記す。聖武天皇が生前大切にし、身近に置いたもので金光明寺(東大寺)をはじめとする十八寺に分けて納めると述べる。「東大寺宝物帳」と同じく庶務天皇の遺愛品を、后・光明皇后が、法隆寺に献納したことを示す。

正倉院宝物 平螺鈿背円鏡 中国・唐時代 8世紀  正倉院

「国家珍宝帳」に記載のある円形の平螺背円鏡。背後に夜光貝や琥珀の薄板を張り付け文様を表す。文様は宝相華文様を表す。琥珀の下には、緑や赤の彩色を伏せ、文様に変化を与える。鏡胎は青銅鋳造製である。

国宝  海磯鏡 青銅製鋳造 中国・唐または奈良時代 東京国立博物館

青銅製の大型鏡であり、鏡全体に山水文様を表す。天平8年2月22日に光明皇后が法隆寺に六面の白銅鏡を献納したことが記されている。法隆寺献納宝物帳には、この海磯鏡が二面とも伝わっている。

正倉院宝物 銀平脱合子 中国・唐または奈良時代 8世紀 正倉院

碁石を収めた円形の容器。「国家珍宝帳」に記載された聖武天皇遺愛の品である。紅芽、紺芽、黒、白の四種類の碁石とともに、同形の容器四合が伝わる。

正倉院宝物 鳥毛帖成分書屏風 六扇のうち二扇 奈良時代(8世紀)正倉院

      

「国家珍宝帳」に記載された六扇一畳の屏風。緑青地あるいは園地に鳥毛を用いて意匠化された楷書を表す。各扇ともに二行八字で君主の座右の銘を表しており、天皇の身辺に置かれた屏障具としてふさわしい。文字は日本産の雉の羽毛を貼り重ねている。

正倉院宝物  墨画仏像  麻製 墨絵 奈良時代(8世紀) 正倉院

「麻布菩薩」と呼ばれる、文字通り麻布に乗雲の菩薩を墨で描いたもの。菩薩は大きな宝髮を結い、左肩から斜めに丈伯をかけ、下半身には裙を着け、一群の霊芝雲に座する。天衣は風にたなびき大きく弧を描き、天空から下降してくる姿を描いている。中国盛唐の仏像やその影響を受けたものに作例がみられる。

正倉院宝物 花氈(かせん) 中国・唐時代・8世紀  正倉院

花氈とはフェルト製の敷物で、文様のあるものを差す。本品は、唐代に流行した打球(ポロ)に興じる唐子を中央に置き、二種の花卉紋の列を交互に並べ、四周は淡青色の帯で縁取る。唐子の細やかな表情までもが、描線ではなく羊毛材を用いて巧みに表現されている。

正倉院宝物 黄熟香(おうじゅくこう) 沈香材 東南アジア 正倉院

香木の沈香(じんこう)で、東南アジアに産し、舶載されたものである。樹脂や精油が沈着している。外面は黒褐色色を呈し、内部は殆ど空洞であるにも関わらず、11.6キログラムもの重さがある。有名な「蘭者待」(らんじゃたい)で、室町時代に名付けられた雅名である。足利義正や織田信長などが切り取った記録記録として残る。また明治天皇が截香(せつこう)した小片を火中に投じた際、「勲咽芳芬として行宮に満つ」と記すほど芳香を放ったという。

香木の沈水香(じんすいこう)東南アジア  東京国立博物館

インドから東南アジアにかけての熱帯や亜熱帯地域に生える樹木には、芳香を放つ樹脂を出すものがあり、これを香木という。日本では香木は産しないので、舶来品が用いられた。仏教の礼拝において香を焚くことが欠かせないので、香木は仏教伝来とともに伝わったものであろう。古くから寺院に香木が収蔵されており、法隆寺においても沈水香や白檀香などが伝えられた。

 

前期に陳列された正倉院宝物、法隆寺宝物から有名な宝物を選んで記事にしてみた。選択は私の意志で選んだ。8世紀から16世紀頃までの名品を選んだ。奈良国立博物館で開催される「正倉院展」は今年で71回目を迎えたが、未だ陳列されなかった寺宝も、今回は展覧されている。素晴らしい展覧会でああった。後1~2回に分けて報告する。

 

(本稿は、図録「ご即位特別記念展 正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美 2019年」、図録「平成5年 正倉院展図録  1993年」、図録「平成6年  正倉院展図録  1994年」を参照した)

 

ゴッホ展(3) サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ時代 

ゴーガンがアルルに到着したのは1888年10月23日の早朝であった。ゴッホは日本人のように共同作業をするユートピアを夢見ていたが、ゴーガンはアルルに行くことで当面の生活費、製作費を確保し、そのうち絵が売れるようになれば、南太平洋に行こうと考えていた。しかし、個性の強い二人、理想を共有しない二人が、長く共同生活することは難しかった。芸術上の意見の不一致などが重なり、わずか2ケ月後に悲劇は起きた。いわゆる「耳切り事件」である。1888年12月23日の夜、ファン・ゴッホは自分の耳の一部を剃刀で切り取って、その耳をラシュエルという娼婦のもとに持っていき「これを大事に持っておいてくれ」と手渡したという。翌朝、ファン・ゴッホは自宅で瀕死の状態でいるところを警察に発見された。発作の引き金になったのは、ゴーガンがアルルを去る意思を伝えたことと思われる。何故こんなことをしたのかと医師に問われた時、ファン・ゴッホ自身は「それは個人的な事情だから」と言って明言を避けたという。「耳切り事件」に怯えたアルルの住民は、この危険なオランダ人画家を隔離するよう市長に嘆願書を出している。ファン・ゴッホはアルルの地を去り、サン=レミの療養院に入ることになった。ファン・ゴッホは約1年間このサンレミの療養院にいたが、病気は完治しない。病名については、統合失調症、てんかん、性病、アルコール中毒から緑内障、メニエール病まで、さまざまな診断がされたてきたが、今なお診断が分かれていて確定しない。サン=レミ時代の絵画には名画が多い。

サン=レミの療養院の庭 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミシュラー美術館

1889年5月にファン・ゴッホは自ら、サン=レミ郊外の精神療養院に入院する。この療養院はかってロマネスク様式の修道院だったところで、正式には「サン=ポール・ド・モーゾル精神科療養院」というサン=レミの街から南へ5kmほどの場所に位置していた。広大な敷地内には複数の建物があり、ファン・ゴッホが入院した頃には多くの空き部屋があったらしく、画家は自分の部屋以外にもアトリエとして一部屋を使うことができた。入院後数週間は病院を出ることは禁止されていたが、荒れ放題だった療養院の広い庭で描くことは許可されていた。左側にわずかに療養院の建物が描かれているが、その右側に大きな部分を占めている色取り取りの花が咲き誇る木々である。ファン・ゴッホはこの療養院の庭の、「ばら」という絵を松方コレクションに残している。

糸杉 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩/カンヴァス メトロポリタン美術館

サン=レミの療養院に移ると、アルル時代に描いていない糸杉が重要なモチーフとして登場するようになった。本作は1889年6月にサン=レミの療養院に入院してから比較的早い時期の作品である。エジプトのオベリスクのような美しい線と均衡を持つ糸杉に魅了されたファン・ゴッホは、糸杉が過去の西洋絵画にあまり描かれなかったことに気づき、数点の作品を描いている。縦長のカンヴァスに大きな糸杉を描いた本作とクララー=ミュラー美術館にある作品の他に「糸杉のある麦畑」(1889年、メトロポリタン美術館蔵)など横長い風景画もある。全体はうねるような強烈な厚塗りで描かれている。またこの作品のように空にしばしば月が登場する。この理由はわかっていない。本展覧会でも一番人気の作で、多くの人が集まっていた。記憶に残る作品であった。

蔦の絡まる幹 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館

蔦が描かれた一連の作品は、サン=レミ療養院の庭で制作された。最初は1889年5月の入院後間もなく、まだ外出できず療養院の庭で題材を探していた時期に描かれた。その後同年の夏にも同様のモチーフの作品群が描かれた。この時期の作品の特徴的なのは、木の上部の葉の部分や空を描かずに、下向きの視点からの根元と地面の描写に集中してことである。ファン・ゴッホが納得いく構図を完成させるために、特定のモチーフをおびただしい数の習作を描いており、蔦の描かれた作品群にも多数のヴァージョンがある。本作はファン・ゴッホ美術館所蔵のの、これより大きな構図の習作か、もしくはそのレプリカと考えられている。

夕暮れの松の木 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

画面を見ると何本かの枝は折れていて、枝や野原には薄く雪が積もっているようだ。中央や右上には太陽が描かれ、木の下の小道には傘を差して歩いていく女性が見える。この作品の色合いは、描かれた当時は極めて強烈だったと思われるが、時間を経て退色してしまい、現在ではだいぶ落ち着いていると思われる。この作品にはサインが入っているが、サン=レミ時代の作品でサインの入ったものは少ない。

オリーブを摘む人々 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

精神療養院に暮らす中で周囲の自然に題材を求めた時期、ファン・ゴッホは糸杉とオリーブの木の造形や佇まいに強く惹かれ、それらを何度も描いた。どちらも過去の中心的なモチーフとして扱われてきた例がほとんど無いことから、自分だけの主題として確立させようと考えた。またこの時期にゴーギャンとベルナールが聖書を主題ににした作品にオリーブ園の絵を制作している。光の加減で様々に雰囲気が変わるオリーヴを何かとらえようとしたのか、それぞれの絵は空の色とオリーブの木の色が異なりまったく違った印象を与える。空も樹木も地面もすべて短いタッチで緻密に並べて描いていることから、オリーヴ園に陣取りながら観察を重ね、慎重に筆を運んだ画家の姿が思い浮かぶようだ。顔料の分析から、前景に広がる青色がかっては赤色だったことが判明している。

薔薇 ファン・ゴッホ作 1890年 油彩・カンヴァス ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ファン・ゴッホはパリに出た1886年夏に30点以上もの静物画を描いている。これらは色彩研究の実践・研究するために補色を並置して描くのが特徴だった。1890年5月サン=レミでの退院の時期に体調が安定し、大量の作品を生み出した。その中には花の静物画も複数含まれ、やはり補色関係にある2色の隣に並べて色の鮮やかさを浮き上がらせていた。そのうちの2点は薔薇を描いたものだった。その1点、本作では、花瓶からあふれんばかりの薔薇は生き生きと描くことで、春の訪れや自然賛美、健康が回復したことへの喜びが率直に表現されているかのようだ。今日では退色し、赤と緑の色彩の対比は薄れているが、逆に力強い筆使いが目立っている。

ガシェ博士の肖像 ファン・ゴッホ作 1890年 エッチング ピエール・シアナダ財団

ポール=フェルデイナン・ガシェはオーヴェール=シュル=オワーズの住人で神経系の病気を専門とする医師だった。一方で美術愛好家として作品を収集していたことから、モネ、ピサロ、セザンヌら印象派の芸術家たちと知り合っていた。はじめはファン・ゴッホは博士を風変りで自分と同じような病を患ったに違いないと訝しんでいたが、たちまち仲良くなると彼の肖像画を油彩で2点描いている。ガシェ博士はエッチング用のプレス機を持っており、本作はそれで印刷されたものと考えられる。パイプを咥えてこちらを見る博士の眼差しはどこか焦点が定まっておらず、歪んだ輪郭や癖のある線遣いにも博士の独特な人物像が表されているようだ。この肖像画は何枚も試みられ、テオやゴーギャンに送られた。本作のように赤い油絵具を使うなど実験的な試みも行っている。

 

サン=レミの療養生活にも拘わらず、病気は良くならなかった。テオの勧めもあっ、ファン・ゴッホはついに南仏を後にし、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住んで、美術好きな精神科医ガシェ博士に診てもらうことになった。この地でファン・ゴッホは最晩年の2ケ月を過ごすことになった。発病以来、体の調子によって作品の質にバラツキはある。しかし、歳晩年の作品群、特に50センチ×1メートルの横長のカンヴァスに描かれた最後の作品群は、その十年間の画業と、37年間の戦いの掉尾を飾るに相応しいものである。1890年7月27日、ファン・ゴッホはみずから胸に銃弾を撃ち込んだ。翌日、パリからテオがかけつけたが、医師も銃弾を除く処置をできず、29日、ファン・ゴッホは息を引き取った。享年37歳、画家仲間から認められ始め、作品もすでに1点イ売れていた。あと5年も生き延びていれば、画家として自立し、自身の成功を目の当たりにすることができたかも知れない。

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、圀府寺 司「ゴッホ」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した。

ゴッホ展(2) パリ・アルル時代

1886年の2月末に、ファン・ゴッホは突然、アントウエルペンからパリに現れた。パリ駅に着くと、スケッチを切り取った紙切れに黒いクレヨンで走り書きをしたため,赤帽にテオのところに届けさせた。テオは6月に大きなアパルトマンに引っ越すのでそれまで待つように伝えていた。しかし、三ケ月を待ちきれなかった兄は、突然、なんの前触れもなくやって来てしまったのでる。走り書きを受けとったテオはお昼にルーブル美術館に急いだのだろう。こうして兄弟の2年にわたる同居生活が始まった。この二年間はファン・ゴッホの画業にとって、多くの刺激と、大きな変化に満ちた期間であり、近代絵画史上の需要な出来事に満ちた二年でもあった。残念なのは、この期間、ファン・ゴッホが弟テオと一緒に住んだために、ほとんど手紙を書く必要がなくなったことである。パリ時代は、ファン・ゴッホの絵画に様々な影響が流れ込み、彼がそれらを自分なりに消化した時代である。この二年間が無ければ、今日ファン・ゴッホの名は歴史上にすら残っていなかったかもしれない。ファン・ゴッホは、ゴーガンやロートレック、シニヤック、エミール・ベルナールらの画家と知り合いになり、印象派や、後にポスト印象派と呼ばれる画家たちの作品や理論に接することができた。この時期、印象派と並んでファン・ゴッホに大きな影響を与えたのが、日本の浮世絵である。ファン・ゴッホは画商ピングの屋根裏部屋で大量の浮世絵を研究し、浮世絵の展覧会も開いた。

パリの屋根 ファン・ゴツホ作 1886年 油彩・カンヴァス アイルランド・ナシヨナル・ギャラリー

この絵はパリ移住後間もなくテオのアパートから描いた街の眺めである。地平線が画面をほぼ二等分して、街の上に大きく広がる空と雲を強調している。こうした構図や茶色の空などの落ち着いた色遣いは、彼がパリに来た当初はまだオランダの写実主義の伝統に深く馴染んでいたことを物語っている。色も暗い。

花瓶の花 ファン・ゴッホ作 1886年 パリ 油彩・カンヴァス ハーグ美術館

1886年3月から6月まで、ファン・ゴッホはアカデミー画家フェルナンド・コルモンのアトリエに学んだ。アトリエを離れた後も人物画を描き続けなかったのはモデルを雇うことができず、代わりにその夏は花の静物画を35~40点ほど集中して描いた。テオによれば「友人が毎週、絵を描くためきれいな花を送ってくれた」という。花を主題にしたのは、ひとつには色の研究のため、別の理由として花の絵は売れるという目論見もあった。これらの花の作品のほとんどにアドルフ・モンティセリー「陶器の花」などの影響が現れている。モンティセリはファン・ゴッホがパリに出て直ちに心酔した画家で、暗い背景と明るく鮮烈な花の対比、盛り上がった厚塗りの筆遣いなど多くを彼から学んでいる。パリに出たことによって、ファン・ゴッホの絵は、オランダ時代と比較すると著しく都会的になったと思う。なお展覧会では「印象派の画家たち」という章を設け、23点の印象派、後期印象派の作家の作品を並べていた。いずれもファン・ゴッホに大きな影響を与えた作品であるが、ここでは、その作品の紹介は取りやめておく。ゴッホが印象派、後期印象派作家から大きな影響を受けたことが分かる。

タンギー爺さんの肖像 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス ニュ・カールベア美術館

モンマルトルのテオとゴッホの住まいの近くにタンギーの画材店がった。この店主は画家たちの面倒をよく見て「タンギー爺さん」と慕われていた。店ではセザンヌをはじめ売れない前衛画家たちの作品を展示し、美術界に刺激を与える場となっていた。店の常連となり、店主に気に入られたファン・ゴッホの作品1,2点も購入し、もしくは画材と交換したとも言われている。ユートピア的社会主義者タンギーとファン・ゴッホは共感しあう仲だったようである。ゴッホは油彩で3枚のタンギーの肖像画を描いていたが、本作は最初の肖像画と思われる。オランダ時代の作品と比べると色彩もタッチも印象派の作風に近づいている。「タンギー爺さん」の肖像画は、浮世絵を横幅に入れた作品が有名である。

アニエールのヴォワイエ・ダルジャン公園の入口 ファン・ゴッホ作 1887年

油彩・カンヴァス イスラエル美術館

パリへ移ったファン・ゴッホは、アンリ・ド・トュールーズ=ロートテック、シニヤック、エミール・ベルナールらと知り合い、彼らと一緒に製作することもあった。本作の舞台は、パリ郊外の行楽地アニエールはパリ市内からも近く、多くの画家たちがやってきて制作に励んだ土地である。ファン・ゴッホはこの地で1887年にシニャック、ベルナールらと共に制作した。かれは知人たちと制作することで、当時のパリの画家たちが使った印象派、後期印象派の技法を学ぶことができた。

河岸の木々 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス P・N・デ・プール財団

河岸の土手であろうか、斜面に生える木々や草がクローズアップされ、右奥の背景には建物が描かれている。紫色っぽい影や、揮発性の溶き油を多用した薄塗り、木の幹や葉の点描風の細かい筆触など、印象派の技法をはじめとしてファン・ゴッホがパリに出てきて急速に吸収しつつあった技法が試されている。まるで別人の絵のように見える。空は三分の一を占めるだけで、その下はすべて地面に近い部分だけが描かれている。こういった風変りな構図は浮世絵の影響を受けているかも知れない。そしてこの地面に注目した視点は、のちのサン=レミの療養院の蔦を描いた作品にも通じるものがある。

モンマルトルの家庭菜園 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス アムステルダム市立美術館

1887年7月23日から25日の間頃 弟テオへの手紙より。        君が発ってから4枚仕上げた。今は大きなサイズに取り掛かっている。こういった大きな、長いカンヴァスはなかなか売れないことはわかっているが、そのうち人々はこうした絵の中にこそ開けた陽気さを見て取るだろう。そしてみんなが居間や田舎の別荘をこういった絵で飾ることになる。(ファン・ゴッホは多数の手紙を残している。作家の声が聞こえる珍しい事例であり、ゴッホをして、最も有名にした手紙の一つである)

パイプと麦藁帽子の自画像 ファン・ゴッホ作 1887年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

ファン・ゴッホが描いた自画像はおよそ40点が知られているが、その半数以上がパリ時代の2年間に作られている。本作が描かれたのは画家が34歳の頃で、前年の2月にパリに到着して以来、印象派の影響によって作風が大きく変えようとしていた時期に当たる。1886年はまだ伝統的な明暗法を用いていたが、一方で鮮やかな複数の色を画面上にまとめる練習を重ねていた。その試みの成果は自画像においても明らかである。例えば同年に描かれたものは眼光鋭くこちらを見つめる画家の暗く落ち着いた色調で写実的にとらえられいるが、本作では一転して、限られた筆触と色数によって全体の印象を軽やかに表している。大きな麦藁帽子は、戸外での制作における必需品であり、また画家が敬愛したモンティセリに通じるアイテムでもあった。

麦畑とポピー ファン・ゴッホ作 1888年 油彩・カンヴァス イスラエル博物館  (1888年6月16日から20日の間 妹ウイルヘルムへの手紙より「アルル」)

白い菊に混じった矢車草と少しのマリーゴールド。これが青とオレンジのモチーフができる。ヘリオトロープと黄色い薔薇はライラック色と黄のモチーフ。ポピー、または赤いゼラ=ウムを濃い緑の葉と組み合わせると、これは赤と緑のモチーフだ。この基本をさらに細かく分けたり、手を加えたりすることができるが、しかしzわざわざ絵にして見せなくても、色には男と女のように完璧に対となり、互いに輝かせるような組み合わせがあることはよく分かるだろう。(本作はアルルに移住した後の作品であるが、便宜上ーパリーに入れた。

麦畑 ファン・ゴッホ作 1888年 油彩・カンヴァス P・N・デ・プール財団

1888年の初夏に、ファン・ゴッホは収穫期の小麦畑を少なくとも10点の油彩画に描いている。見渡す限りに広がると、黄色く燃えるような景色に大いに筆が進んだようだ。ファン・ゴッホは主題を定めると、視点や色の組み合わせを変えて繰り返し描いた。そして最終的に、それまでの習作を総合したような作品を手掛けたことから、本作もまた「収穫」のために準備した1枚であると考えられる。アルピーユ山脈を背に画面のおよそ三分の二を小麦畑が占めており、豊かに実った植物が放つ強烈な黄色が生き生きと描かれている。空の部分に混ざる水色と薄紫色の対比が大変美しく、プロヴァンスの澄み渡った空気が香ってくるようだ。

 

パリ時代にファン・ゴッホは印象派、後期印象派の画家と交わり、オランダ時代の構図や色彩ががらりと変わった。アルルは、南仏にあり、ゴーギャンと共同制作事業を行うため黄色い家を借りて住んだ。ゴーギヤンとの理想の生活は2ケ月も持たなかった。ファン・ゴツホは、日本人がやっている「作品の交換」を、ゴーギャンとの間で試みようとした。この「日本人の作品の交換」を、浮世絵が、浮世絵が絵師、堀師、摺師と専門に分かれて分業することを、ゴッホは作品の交換と勘違いしたようである。いずれにせよ、ゴーギャンとの共同制作は短期間(2ケ月足らず)の間に失敗し、ファン・ゴッホは、自分の耳を切り落とすという事件を起こして終わった。この後、最晩年のサン=レミ時代、オーヴェール=シュル=オワーズ時代の2年間を残すのみである。

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」圀府寺 司「ゴッホ」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した)

ゴッホ展(1)初期作品とハーグ派

フィンセント・ファン・ゴッホが画家として活躍した期間は、短い人生のうち、わずか10年に過ぎない。1880年、彼は素描を短期間で習得しようと挑戦を始め、1882年からは油絵にも取り組み始めた。1890年に亡くなるまでの間にファン・ゴッホの残した作品数は、油絵絵が850点、素描に至っては1000点に作品を残した多作の作家であった。しかし、生前に売れた絵は1点(赤いブドウ畑)のみで、彼は大半を弟のテオドロス(愛称テオ・画廊勤務)が保管していた。ゴッホは、ビーグル画廊に務めた6年半の間に、著名な画家の作品を扱い、ハーグ・ロンドン・パリの店を移るたびに、各都市の美術館や展覧会に足を運んでいた。その中で特に惹かれた画家については、その複製画を自分の部屋に飾るなどしている。ファン・ゴッホは熱心な美術愛好家であったのである。「掘る人(ミレーによる)」など、彼が終生敬愛し続けたミレーの模写が残されている。地元の農民たちの日常を題材に多くのデッサンを重ねていった。その後、マウフェ(ハーグ派の指導者)の助言によってモデルをみて描くようになった。

掘る人(ミレーによる)ファン・ゴッホ作 1880年 鉛筆・黒チョーク クレラー=ミュラー美術館

グービル画廊に務めていた頃からジャン・フランソワ=ミレーはゴッホが最も敬愛する画家であり、最後まで精神的な導き手であった。ミレーに倣って農民画家を目指し、その作品を繰り返し模写している。本作は、ミレーの複製画をもとに製作されたデッサンのうちの1枚である。原作と比べると、構図や陰影のつけ方などを忠実に模写しながらも、特に二人の人物に注意を向けたことがわかる。

疲れ果てて ファン・ゴッホ作 1881年 鉛筆、ペン、インク、エッテン デ・プール財団

マウフェ(ハーグ派の指導者)の重要な教えの一つは、モデルを描くことであった。それまで複製画や教本に掲載された過去の巨匠たちの作品を模写していたファン・ゴッホは、農民の労働や暮らしの様子を直に見て写し取るようになる。本作に描かれているのは炉端に座る病気の老人で、膝に肘ついてうなだれるように頭を抱えている。質素な衣服や生活用品がその境遇を物語るようである。この情景に感動したファン・ゴッホは、後に同じ」主題に立ち返り、人物に焦点をあてたリトグラフ「永遠の入口にて」を制作している。

白い帽子を被った女の頭部 ファン・ゴッホ作 1884年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

はじめ農民画家を目指していたファン・ゴッホは、よく地元の農民たちをモデルに描いた。特に1884年から翌年にかけて、人物の頭部ばかりを集中して描いている。ファン・ゴッホにとっては大地に働く彼らは、田園地方における季節の移り変わりの象徴だった。本作に描かれた娘は、何度もモデルを務めた人物であった。本作ではゴツゴツとして日に焼けた顔が力強い筆使いでとらえられており、戸外での労働を思わせる。ファン・ゴッホは、ミレーの絵を形容する時に用いられた「土で描いた」という表現を意識しており、農民を描く際の拠り所にしていた。

ジャガイモを食べる人々 ファン・ゴッホ作 リトグラフ 1885年 ハーグ美術館

  油絵

  リトグラフ

長らくデッサンの練習を重ねてきたファン・ゴッホにとって「ジャガイモを食べる人々」は初めて売り物になると自負した油彩画だった。ゴッホは手紙の中でこの絵について饒舌に語っている。「ぼくは、ランプの灯の下でジャガイモを食べているこれらの人々が、まさに、皿に伸ばしている手で土を掘り返したのだということを、伝えたいと思ったのだ。だからこの絵は(手の労働)を語っているのであり、彼らがその食べ物をいかに正直に(稼いだ)かを物語っている」「真の農民の絵だ」とも述べている。「一見して「何て汚い絵だ」と言われるかもしれない。それでも「真実なもの、正直なもの」を表現し続けるだけだ」この作品はファン・ゴッホの作品中にあって、油彩による最初の本格的なタブロー(構成画)だと言ってもよいだろう。なお、本展覧会に出品されている作品は、油彩ではなく、ファン・ゴッホが作成したリトグラフである。石板に直接描きこんだことから油彩画のイメージと反転しており、コントラストや人物の表現も甘くなってしまっている。

器と洋梨のある静物 ファン・ゴツホ作 1885年 油彩・カンヴァス ユトレヒト中央美術館

1883年末からニューネンに滞在した2年の間に、ファン・ゴッホは200点以上の油彩と多数の素描、水彩画を制作した。農村の風景、ついで農民の肖像の主題にもっぱら取り組んでいたが、以前にモデルにした農民の娘を妊娠させたという疑いをかけられ、村の住人をモデルにして描くことができなくなってしまう。以降室内でジャガイモや野菜や果物、器、鳥の巣などの静物を集中して描くようになり、色彩と構成面で大きな成果をあげた。

鳥の巣のある静物 ファン・ゴッホ作 1885年 油彩・カンヴァス ハーグ美術館

ファン・ゴッホは鳥や鳥の巣に並々ならぬ愛着を抱き、ある時は遠出した先の農家で見事な鳥の巣を見つけて持ち帰るなど,沢山の巣を手元において絵のモチーフとした。この珍しいモチーフの選択は、彼が愛読したジュエール・ミシュレの「鳥」に着想を得たと思われる。ミシュレが鳥の巣について書いた文章に感化され、巣自体がすばらしい芸術品であり、それを作る鳥は芸術家であると、「ミソサザイやウグイスなんかほんとうに芸術家の仲間に入れたいいくらいだ」と手紙に書き記している。暗い背景から見分けられる巣はリース飾りのように可愛く草花が編み込まれ、奥には青や白の卵がほのかに見える。

 

ファン・ゴッホの初期の作品をまとめてみたが、中々画家としては評価できない作品が多い・暗くて、華やかさがない。後年のファン・ゴッホの輝きは、次のパリ時代に印象派の影響や、日本の浮世絵の影響を受けて、「日本に憧れる」時代となる。その時が楽しい。

 

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」圀府寺 司「ゴッホ 日本の夢にかけた芸術家」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した)

海住山寺ー補陀落山と呼ばれた地

笠置の山が開けて、木津川の流れもゆるやかになる辺り、「瓶原」と呼ばれたこの地帯は、「みかの原わきて流るる泉川、いつみきてとか恋しかるらむ」と小倉百人一首に収められた歌で、広く知られている。天平13年(741)正月、聖武天皇はこの地(恭仁京)を新都として移ることを命じられたが、やがて都は近江の紫香楽宮(しがらきぐう)に遷された。この由緒ある瓶原を一望におさめる海住山(かいじゅうさん)の中腹に、海住山寺(かいじゅせんじ)が創建されたのは、恭仁京造営に先立つ6年前、天平7年(735)のことと伝えられている。この寺は不幸にして保延3年(1137)に灰燼に帰し、お寺の全てを失った。その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺に住んでおられた解脱上人貞慶(じょうけい)が、この寺址に住み、草庵を営み補陀落山海住山寺(ふだらくさんかいじゅうせんじ)と名付け、旧寺を中興された。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。解脱上人(1155~1213)は、幼くして興福寺に入り、ひたすら研学につとめ、南都随一の学僧と言われた。壮年に至り感ずる所があって笠置山にかくれ、名刹をのがれてもっぱら徳を積まれ、晩年に至り、人々を教化して仏道に向かわせるために、ここ海住山寺に移り住まれた。このような類稀な学徳兼備の高僧解脱上人の後を継いだのが、磁心上人覚真(1170~1234)である。先師の遺志を継いでいよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくした。現在の同山は、真言宗智山派に属し、1万坪の境内には、国宝の五重塔や重文の文殊堂をはじめ、数々の伽囲まれ、特に厄除寺として知られ、現世利益(げんせりやく)の根本道場としてし知られている。さて、私は、過去に2回この寺を訪ねている。この寺は、奈良市の近くであるが、京都府に属し、関西線加茂駅から、歩いて2時間、タクシーならば30分程度で着く。必ずしも有名なお寺ではないが、寺ではユースホテルを兼ねており、若い男女には知られている。下からこのお寺を仰ぐと、かなり高い岡の上にある、由緒あるお寺である。私は海住山寺(かいじゅせんじ)の名前に憧れ、2回拝観している。

五重塔遠望

]

国宝 五重塔が下から遥かに望むことが出来て、思わず上ってみたくなるお寺である。名称も魅力的である。つずら折の急な坂を上ると山門がある。この山門から望む寺域は補陀落浄土の観がある。補陀落山とは、南海にあると云われる観音の浄土の名である。

国宝  五重塔        鎌倉時代

塔内は、四天柱の内側に極彩色の内陣がある。四方扉にも天部や創形が描かれている。剥落が激しい。

重文  文殊堂     鎌倉時代

小堂であるが、緑の山を背にした伸びやかな屋根や、白壁に映える蟇股(かえるまた)が美しい。

重文  十一面観音菩薩立像      平安時代

高さ190センチ、天平風の大らかな一木彫像であり、厄除け観音として信仰が篤い。

重文  支店王立像  木造・彩色・彫金・玉眼 鎌倉時代

持国天立像(上)    増長天立像(下)

大きく振り上げる腕などの身振りが破綻なくまとまっており、像高40センチ足らずの小像ながら、大きな存在感がある四天王像の優品である。保存状態も良く、造像当時の彩色が非常に鮮やかに残されている。持国天と増長天、広目天と多聞天がそれぞれ左右対称の動きに表されている。持国天は左手を腰に当て、右手を振り上げて三鈷杵(さんこしょ)を持ち、増長天は逆に右手を腰に当て、左腕を振り上げて戟を突く。肉親の色はそれぞれ持国天が青色、増長天が赤色、広目天が肉色、多聞天が濃青色に塗り分けられている。こうした姿かたちをする四天王は、現存する作例の中では、建仁3年(1203)以前に作られた和歌山・金剛峯寺の四天王立像に次いで、二例目である。本像も運慶一門の手になる可能性が高い。

重分  十一面観音菩薩立像    平安時代

小像ながら美しく引き締まったこの像は、解脱上人の念持佛と伝えられている。

春日曼荼羅図(般若十六善神図部分)    鎌倉時代

上段には春日曼荼羅・下段には扁額を中心とした十六善神が描かれている。これはその上段部である。

重分 献本着色法華曼荼羅図       鎌倉時代

霊鷲山で法華経を説く釈迦、聴聞する菩薩以下の群衆等を配し、荘厳な仏の力を表している。この曼荼羅図は神々しい美しさである。私の好きな図である。

海住山寺は30年前に1度、20年前に1度、合計2回しか訪れていない。この文章を書くにあたって、参考文献が殆どなかった。わずかにお寺の出した「海住山寺小誌」と図録「運慶」、奈良仏像館 名品展」しかなかった。参考文献の少なさに驚いた。それほど知名度の低いお寺かと驚いた。しかし、なかなか味のあるお寺でもあった。興味のある方は、一度訪れることをお勧めする。

(本稿は「補陀落山 海住山寺小誌」、図録「運慶  2017年」、「なら仏像館 名品図録  2016年」を参照した)

 

歿後90年記念  岸田劉生展(2)

岸田劉生は。「内なる美」から「東洋の美」を経て「新しい道」へ、最後は写実の世界へと戻る。その有為転変を巡ることは難しいが、劉生の作品を追って解説してみたい。

晴れた冬の日  油彩・麻布 1917年   千葉県立美術館

大きな屋根のある民家が見える劉生お気に入りの鵠沼の風景である。「晩秋の晴日」、「五月の品道」など移ろい行く季節と共に描いている。道端の木の下に林檎を持つて座りこむ麗子の姿が可愛らしい。

麗子肖像(麗子五歳之像) 油彩・カンヴァス 1918年 東京国立近代美術館

娘の麗子を描いた最初の作品である。麗子は5歳から16歳まで、モデルとして描かれることになる。8月の末に描き始め、予想以上に時間が掛かったというこの作品について劉生は「子供の持っているのは赤まんまと言う秋草です。美しいので僕は好きです。アーチ形の装飾は半分写生ですが略想像でみませんでした。バックは布ですがああいう風にかきました。子供は五つですが感心によくモデルになってくれました」(色摺会報第5号、1918年10月28日)と書いている。画賛には「麗子五歳・父寫す」と書いてあり、創土社第6回美術展(1918)に出品されている。

蓁(しげる) 木炭・チョーク/紙  1918年  愛知県美術館

「青年の首(岡崎精郎氏之顔)」「長十郎氏像」などと並ぶ素描による肖像画。ダ・ヴィンチの素描を意識したような力強い曲線による陰影表現である。1919年に開始される水彩・素描による麗子像・お松像への先駆となる。

麗子坐像  油彩・麻布 1919年      ポーラ美術館

「麗子肖像(麗子五歳之像)」以来の油彩による麗子像である。「要二ケ月」を掛けて、赤と黄の絞りの着物が丹念に執拗に描かれている。モデルとして座る麗子と傍らに置かれた林檎は「実在の神秘」において変わらない。

麦二三寸  油彩・麻布  1920年  三重県立美術館

人間が対峙する自然(草と土)を描いた代々木の風景画から人影は姿を消した。鵠沼の穏やかな農村風景のなかで、再び点景として麗子が描かれるようになる。麦の芽吹き始めた早春、劉生は風景画の制作に「麗子をつれて描き出る」と記している。

重文  麗子微笑(果物持てる) 油彩・麻布  東京国立博物館

 

いつもの綿入の着物にいくつもの肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重養文化財2点を受けている画家は、私は知らない)

いくつも綿入れの着物について毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定を受けている画家は、私は知らない)

童女舞姿  油彩・麻布  1924年   大原美術館

劉生は上京区南禅寺寺町草川町41番地の住居で3点の麗子像」を仕上げている。うち1点は鵠沼時代にはじめられ、関東大震災をはさんで京都で制作を続けた「童女図」で、その年の暮れに完成している。「童女舞姿」は京都移住後間もない1923年の10月末に想起され、はじめ岩佐又兵衛筆の女舞姿の図版を参考にして形をとろうとしたがうまくいかなかったため中断し、翌年2月11日から改めて「例の三十号の細い形に麗子の立像をはじめ」、麗子のモデル人形を造り、それに着物を着せて制作するなどの工夫を重ね、3月7日に完成した。当時傾倒していた初期肉筆浮世絵の、劉生の言う「でろり」とした美が、この作品には色濃く表れている。

近藤医学博士之像  油彩・カンヴァス  1925年  神奈川県立美術館

モデルは近藤次繁(東京帝国大学医学部外科手術の教綬で、日本で最初に盲腸手術に成功したことで知られる)は、1923年10月19日、震災で京都に移り住んだ劉生のもとに近藤博士から博士所有の静物、尚蔵などが震災で焼失したとの手紙が届いている。劉生は1921年に近藤博士の肖像を2点描いているため、再度制作するよう依頼を受けたのである。第3回春陽会の開催にあわせて1925年3月15日に京都を発ち、10日から本郷森川町の旅館から大学に通い、20日に完成させている。髭を蓄え勤倹率直そのものといった博士の表情と、その手に持たされた一輪の花との対比がユーモラスである。

冬瓜葡萄図  油彩・字布 1925年  千億博古館

冬瓜が描かれるようになったのは、妻が錦小路で買ってきたことに始まる。これ以降、冬瓜は宗元画風の油彩による静物画の重要な画題となった。大きな冬瓜だけでなはなく、小さな葡萄や茄子が添えられて描かれた。

糖芽庵主人閑居之図  紙本着色  1928年頃  下関市立美術館

この頃の劉生は、宋元画や日本画が多い。しかし、あまり興味もなので、一つだけ見本とて掲載した。圓窓のある書斎の机に頬杖をつく糖芽庵主人劉生の無為の姿である。画賛には「糖芽庵」「冬臥堂」「冬瓜堂」などという自嘲的な言葉も記されている。絵画の創造よりも鑑賞に価値を見出した劉生の孤愁が感じられる。

路傍秋晴  油彩・麻布 1929年     吉野石膏株式会社

南満州鉄道株式会社の招聘により満州に渡ることになり、現地での個展のために、京都での唯一の風景画以来、4年振りに風景画が描かれた。大連の郊外風景に新鮮な感覚を蘇らせたのか、旺盛な制作意欲を見せて、若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。大連での個展のために、許可を得た場所を実際に描いた風景画である。初期の印象派の鮮やかな美を感じる。

満鉄総裁の庭  油彩・麻布  1929年   ポーラ美術館

この満鉄総裁の庭は、初期の印象派風の鮮やかな「クラッシックの感化」の時と同じように、まさに「東洋の美」を感化を通過して、「新しい予の道」を見つけたことを教えてくれる。故国直後に山口県徳山で急逝した。38歳の生涯であった。

 

劉生の晩年は、宋元風の絵画、日本画となり、馴染みが薄いが、最後の「満鉄総裁の庭」等は、初期の印象派絵画のように若々しい絵画となっている。やはり劉生は、私に取っては洋画の劉生であった。その意味で、最後の「満鉄総裁の庭」は、実に懐かしく見ることが出来た。これが劉生の絵であると思った。

 

(本稿は、図録「歿後九〇年記念 岸田劉生展   2019年」、図録「生誕100年  岸田劉生展   2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」を参照し た)

 

歿後90年  岸田劉生展(1)

 

劉生の生家である銀座楽善堂精錡水本舗は、父吟行が経営する薬局と書房に別れていた。日本の近代化の先進地である銀座と築地が隣り合った界隈にああって、西洋伝来の目薬と東洋の文具の両方を売る店に生まれ育った劉生の幼心には、西洋への憧れも東洋への親しみも一緒にあったのであろう。七男七女の中でも将来を期待されていた劉生は、14才の頃に、キリスト教の信者になった。劉生は、父の死によって、東京高等師範学校付属中学校を第三学年で中退し、洗礼を受けた。この頃から木下藤次郎の「水彩画乃栞」を手にして水彩画を描き始めた。その後、田村牧師からも画家になることを勧められ、明治41年(1908)には黒田清輝の白馬会葵橋油画研究所に入所して、本格的に油彩画を学び始めた。劉生の芸術を考察する時、劉生は画家である前にキリスト教徒であることを踏まえておくことが必用である。しかし、21才の春、劉生はキリスト教を捨てる。キリスト教という支柱を失って、ひとりの画家としての新しい生き方を真剣に模索していくなかで、文芸雑誌「白樺」と運命的な出会いを果たした。劉生が「第二の誕生」と呼ぶものは、何であったのであろうか。劉生が手にした「白樺」の「六号雑感」からの冒頭にある「自分はどうも意気地なしで困る」から始まって「自分は何らかの意味でも自分を尊敬することの出来ない人と話をするのはいやだ」と語り、武者小路実篤に初めて出会い、その絶対的な自己肯定の哲学、人類主義につながる徹底した個人主義に共感を覚え、圧倒的な影響を受けたのである。後期印象派の鮮烈な色彩による表現を知った時、外光主義の穏健な写実描写という固定観念が破壊され、ゴッホやゴーギャンの眼で自然を見ることを試みて、「模倣に近い」作品と自覚しながらも製作した。術館

薄暮の海 水彩・紙   1907年  東京国立近代美術観

同じ日の日記には、この水彩画に関する記述と「白簿の海」と題する詩が残されている。「午後より大森に写生せんと出でたつ。海岸に出でて松原を写生する。画半ばならざる汐風の寒きにたえず筆をおいて帰る。「薄暮の海」、汐風松に錚々の楽を奏す。薄暮の気靄々として万象を籠め、平和なる晩秋の海は紫なり」と日記に記されている。

銀座数寄屋橋  油彩・板  1910年頃  東京国立博物館

雨の日の銀座の景色である。和傘を差して、ぬかるんだ道を跳ねるように歩く人々。白い銑のリズムカルな筆致が、いくつか並んだ和傘とともに、その足跡を表現する。

B.Lの肖像(バーナード・リーチ)の像 油彩・カンヴァス 1913年 東京国立近代美術観

イギリスの陶芸家バーナード・リーチは「白樺」の同人たちと親交があった。劉生がこのイギリス人の知己を得たのは、1911年の第2回白樺美術展会場だった。この肖像画よりも1年ほど前に手掛けられた「自画像」に比べると、原色に近い色彩の使用や筆のタッチの奔放さは抑制され、対象の総体を穏やかな色面で捉えようとする意識が強くなっている。ファン・ゴッホの熱狂から解放された劉生は、その後セザンヌに傾倒を顕著にしていったのである。

自画像 油彩・麻布  1913年    個人蔵

劉生は、数多くの自画像を描いている。1913年春頃の自画像と比較すると、格段に筆致が細かく写実的に変化している。赤らんだ大きな鼻から顎までの肌と皺の立体感と花の頭や頬の照りが目立つ。こちら(鏡に映る自己)をみつめる視線も強く厳しくなっている。

武者小路実篤像 油彩・油 1914年   東京都現代美術館

モデルは雑誌「白樺」同人の文学者・武者小路実篤である。岸田劉生が、知人、友人を次々とモデルに肖像画を描いていったいわゆる「劉生の首狩り」と呼ばれる時期に描かれた肖像画の1点である。岸田劉生は、1911年、柳宗悦の家に泰西名画の複製を見に行ったが、その場で初めて、武者小路実篤に出会ったという。知り合って、3年の月日が流れた後、武者小路実篤は劉生のモデルとなった。後期印象派の影響から脱して、徐々に、写実に基づく表現を心がけていこういとしていた頃の作品である。黄褐色を基調とした画面からは、劉生が人物を表現する際の内面まで迫ろうとする意欲が垣間見られる。劉生は、熱心な「白樺」派同人として、屡々「白樺」の表紙を描いている。

画家の妻 油彩・カンヴァス 1914年  個人蔵

モデルは劉生の妻、蓁(しげる)である。まさに岸田劉生が、北方ルネサンスの画家、特にデューラーから「クラッシックな感化」を受けていた頃の作品である。古典的な細密描写のもならず、アーチ型の淵飾りを試み、画面に欧文文字を書入れ、紋章風の署名を行い、懐古趣味や宗教性が強く表れている。岸田劉生自身は、白樺10周年記念に開かれた岸田劉生の個展に、この作品が「どうも自然の見方が少し簡単になっている」ので、この作品の出品を取りやめている。しかし、デューラーの感化ははっきりとしているが、ここにはすでに、その後の彼の肖像画が持つことになる「内なる美」が萌芽している。

赤土と草 油彩・麻布  1915年   浜松市美術館

画壇で孤立していた劉生の周囲には1915年頃に、若い画家の卵たちが集まってきた。丁度その頃、知人から展覧会を開催することを誘われていた劉生は、創土社展会と名前を付けて、以後、1922年までの9回の展覧会を重ねた。その展覧会の名前の由来は、この「赤土と草」であった。最初、「現代の美術社主催第1回美術展覧会」と呼ばれた第1回展覧会に出品されたこの作品が代表するように、こうして土や草に愛情を注いだ風景画を制作する劉生らの画家グループ「草土社」が形成され、大正期の画壇に異彩を放った。この作品のどっしりとした赤土の大地には力強さが認められ、鬱蒼と生い茂る草原には旺盛な生命力が宿っていた。

重文 道路と土手と塀(切通之写生) 油彩・カンヴァス 1915年 東京国立近代美術館

現在、重要文化財に指定されているこの作品は、いわば劉生の風景画の代表作である。1916年4月開催の創土社第2回展覧会に初出品された作品である。切通しの風景は劉生がわざわざ探して見つけ出した康慶ではない。引っ越して偶然見つけた風景と言っていい。しかし、この東京近郊の掘り返された新開地の赤土に劉生はことのほか愛着を感じた。古典を熱心に研究していた時期ではあるが、その影響は直截ななんらかの見える形で現れるというのではなく、描くものを真摯に見つめ、愛情を込めて描く態度に、古典から学んだあとが認められる。赤土と白い壁、緑の草、青い空とのコントラストが、はっきりとしており、精粗で凛呼とした感じが画面全体に漂っている。

古谷君の肖像(草持てる男の肖像) 油彩・カンヴァス 1916年 東京国立近代美術館

モデルの古谷(こや)芳雄は、東京帝大大学を出たばかりの医師で、文芸同人雑誌を木村宗八らと出す文学青年であった。1916年7月に劉生が転地療養のため駒沢村新町に引っ越したことで、二人は偶然隣同士のの仲になった。そこで古谷は自身の関わっている文芸雑誌「生命の川」の表紙絵を劉生に頼んだのが交際の始まりだったという。最初、ほとんど寝たっきりだった劉生は、徐々に健康を回復し、古谷にモデルになってくれるよう依頼したものだった。冷徹な写実表現やモデルの手に草を持たせるポーズをとらせたり、年紀、署名のゴシック風書体を使うところなど、劉生がいかに北方ルネサンスの巨匠だったデューラーヤファン・エイクに傾倒していたかがよく分る。

壺の上に林檎が載って在る 油彩・板 1916年 東京国立近代美術館

劉生は1916年7月に肺結核と診断されて(後に誤診と分る)療養のため東京府荏原郡駒澤新町に引っ越した。屋外の写生画は健康上無理であったため、風景画が自由に描けなくなった彼は、室内で静物画を描くようになる。これは、こうして描かれ始めた静物画の1点である。写実から神秘性に踏み込んで「内なる美」を見出そうとする劉生の芸術観がよく表れている作品である。壺の上に林檎を置くというのは、一見こどものいたずらのように見受けられるが、彼の筆によって、その滑稽さは微塵もない。ものの存在の不思議さを厳粛に描きとめる劉生の写実力によって、見る者は、日頃考えてみることもない日常のなかでの存在ということについてじっくりと瞑想させられることになる。そしてとりもなおさず、そこに劉生の魅力がある。1916年11月開催の創土社第3回美術展覧会に出品された。

 

武者小路実篤以降は、代々木・駒沢時代と呼ばれ、「内なる美」=1913ー1917年とされる時代で、劉生の傑作が生まれた時期である。特に「道路と土手と塀(切通之写生)は、劉生の代表作の一つであり、現在重要文化財に指定されていることは、誰しも知る所であるが、今回の展覧会では、もう一つの重要文化財指定作品があることを知った。それは次回に紹介したい。

(本稿は、図録「歿後90年記念 岸田劉生展  2019年」、図録「生誕110年 岸田劉生展  2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」、岸田玲子「父 岸田劉生」を参照した)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平泉  みちのくの浄土(2)

中尊寺は経典との結びつきが深い。中央から離れた辺境の地にあって、そのハンデを乗り越えようと、由緒正しい仏典うを根気よく追い求めたことによる。さらに金字や金銀字の紺紙一切経、千日一日経、あるいは金字法華経法華経などといった荘厳経典をして現出させた。これは当時の都でも成し遂げられなかった快挙である。中尊寺経蔵次の二代基衡は、清させた。それが中尊寺経と呼ばれる一連の経典群であり、すざまし数字ととなっている。なかでも初代清衡は、金銀交書と呼ばれる最高に手間のかかる方式の一切経を完成させた。これは当時の都でも成し遂げられなかった快挙であある。次の二代基衡は、清衡の菩提のため紺紙金字の法華経を千部つくることをもくろんだ。三代秀衡は、宋版一切経をもとに紺紙金字の一切経を千部つくることをもくろんだ。その間、鎮護国家の経典と言える金光明最勝王経を金字宝塔曼荼羅という個性的なかたちで表してもいる。金銀を豊富に産出する地の利がそれを支えたことも忘れられない。平泉はまさに経典の都と言ってもいいほどの一大集積地だったのである。

国宝 華厳経 巻第十五 和歌山 金剛峰寺  平安時代・永久5年(1117)

 

藤原清衡が発願して完成させた紺紙金銀字一切経で、中尊寺経ともいう。そのほとんどは現在、高野山金剛峰寺にあり、4296巻が国宝に指定されている。この事業が開始されたのは、永久5年(1117)ころと思われ、それから8年くらいかけて完成させたらしい。金銀で経文を記す装飾経は、日本では珍しく、まして一切経をこの方式でやり通したのは中尊寺経だけである。各経巻には、経題と宝相華文様からなる表紙、および見返絵が付随する。

国宝 漆塗経箱 木製漆塗  平安時代後期(12世紀)岩手中尊寺大長寿院

奥州藤原氏三代目の秀衡が発願して整えられたとされれる螺鈿で経題を側面に象嵌したものである。

国宝 紺紙金字一切経 大般若経巻第十四 一巻

奥州藤原氏三代目の秀衡が発願して整えられたとされる一切経。紺紙に金字による一切経という形態は、院政期の都における皇族関連の一切事業を踏襲したことになる。中尊寺には2724巻が現存している。

国宝 金光明王最勝王経金字宝塔曼荼羅図 紺紙金字着色 平安時代後期 中尊寺

「金光明最勝王経」十巻を十綴に分けて、塔寶の形に金泥で書写した作品。それぞれの塔の先端から経文を書き出して、左右には経意を表す絵を金銀泥のほか諸色を用いて描いている。文字塔写経の優品として、また中尊寺に残された数少ない著色の絵画作品として貴重である。

国宝  金字曼荼羅図の拡大図   中尊寺大長寿院  平安時代(12世紀)

文字が経文で書かれていることが分る。

 

平家を滅ぼした最大の功労者でありながら、兄頼朝に追われた義経を秀衡は暖かく迎え入れた。十六歳のとき京都鞍馬寺を脱出した義経を武将として育てのも平泉であった。しかし、平家が消えるや義経は頼朝にとって最大のライバルになり、危険人物に浮上したのである。文治3年(1187)秀衡が没するや、頼朝は四代泰衡に圧力をかけ続けて義経を殺害させ、さらにその遅延を口実に、平泉を攻め滅ぼした。文治5年(1189)のことである。

 

(本稿は、「図録 「特別展 平泉 みちのくの浄土  2008年」、日本の歴史全26巻のうち「第6巻 鎌倉幕府」「第7巻 蒙古襲来」を参照した)