マリー・ローランサン美術館  都心に開館

マリー・ローランサン美術館は、東京でタクシー会社グリーキャブを設立した高野将弘氏が、1996年はじめてヨーロッパ旅行の折、パリの画廊にてマリー・ローランサンの作品と出会ったことから始まった。5人の息子に恵まれたが女の子を得ることが出来なかった高野氏にとって、その作品を手にすることはまるで自分の娘ができたかのような感覚であったろう。その画家の生涯を学び、その絵から物語を感じた高野氏は、将来美術館を建てようととの野望もなしに彼女の作品の蒐集を始めた。画家の誕生百周年を紀念して長野県蓼科高原のホテルに付属するマリー・ローランサン美術館を設立した。2011年に諸般の事情により、残念ながらホテルも美術館も惜しまれつつ閉館に至った。フランスパリ市マルモッタン=モネ美術館での回顧展を経て、日本全国各地の美術館を巡りながら、マリーローランサン・ファンを確実に日本中に広げた。私は、たまたま府中市美術館で2015年10月に、この展覧会を観て、改めてマリー・ローランサンの美術家としての歩みを同美術館の音ゆみ子学芸員の「マリー・ローランサンの歩んだ道」という研究論文を読んで知った次第である。全国を巡回するこの作品類の将来を案じておった所、たまたま日経新聞2017年8月3日(夕刊)の展覧会情報で、このマリー・ローランサン美術館が、東京都心のニューオータニ・ガーデンコート内に「マリー・ローランサンが東京にお引越し」というキヤッチ・コピーで掲載されているのを発見して、正に天にも昇る気持ちになった。抒情と官能の独特の世界に生きた女性画家マリー・ローランサン(1833~1956)の、世界で唯一の専門美術館が、都心に腰を下ろしたのである。現在の収蔵品は、ローランサンの初期から晩年に到る油彩・水彩・デッサン・版画・挿絵その他、600点以上の作品を網羅している。また貴重な写真や書簡などの資料の拠点となっている。これこそ、世界唯一のマリー・ローランサン美術館(専門)である。なお、第1回の美術展は11月12日までで、その後は、また代わった企画で展覧される予定である。油彩画の主力作品が展示されているので、是非一度足を運んで頂きたい。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・板絵   1904年

マリー・ローランサンは、世紀末のパリで生まれた。未婚の母親と二人暮らしであったが、教育熱心であった母親の方針で、良家の子女の通う女学校に入学したが、本人曰く「世にもなまけものの生徒」だったらしい。やがて女学校を卒業する頃、ローランサンは「画家になりたい」という希望を持つようになった。1904年(21歳)で、画家のフェルナン・アンベールの画塾に通うことになった。画塾では彼女が望んだ本格的な美術教育、すなわちデッサン等の基礎教育の習得が出来た訳ではないが、それ以上に重要な出会いがあった。1つ年上のジョルジュ・ブラックとの出会いである。彼は「あなたは才能がある」と言って新入りのローランサンに自信を与えてくれた。そして何よりも、画塾では学べない「新しい絵画」へと眼を開かせてくれたのである。この自画像は1904年の作であり、画塾に入り、本格的に絵画の勉強を始めた頃の作品である。彼女は、自分を陰気で美しくない乙女として描いた。確かに、後年のローランサンの面影はない。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1908年

1906年頃、ローランサンはブラックに連れられて、始めて「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)を訪れた。後に恋人となるアポリネールやパブロ・ピカソと出会った。彼らの影響でフォービスムの絵画の表現に興味を持った。この自画像は、単純化された素朴な形態で、鋭い描線などから、原色を使った大胆な色彩のフォーヴィスムや、対称をいろいろな方向から見て描くキュビスムの影響が表れているし、自信に満ちている。

家具付きの貸家  マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1912年

キュビスムの作家として売り出したローランサンは、根っこの部分で彼らとつながっていなかった。後に「キュビスムの画家にならなかったのは、なろうとしてもなれなかったのです」と自ら語っている。ローランサンの表面的なキュビスムは、他の画家にない独特の魅力を生み出していた。それを最も良く理解したのはアポリネール(評論家)であった。しかし、彼女を先導したアポリネールは、1911年の「モナ・リザ」窃盗事件の容疑者として収監された。結局、この疑いはすぐ晴れたものの、この突拍子もないスキャンダルによって、ローランサンの心は次第にアポリネールから離れていった。ここで描かれている家具付きの貸家とは、家具のついた長期滞在用のホテルのことで、おそらくローランサンとアポリネールが逢瀬を楽しんだ貸家を描いたものであろう。この年(1912年)に二人は破局を迎えることになった。窓辺に向き合い恋人と深刻に語り合う情景は、二人のエンドを意味する場面だろう。

アンドレ・グルー夫人ニコル マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1913年

楕円形の画面はピカソやブラックも1911年から翌年にかけて試みている。ニコルはファッション・デザイナー、ポール・ポワレの妹で、室内装飾アンドレ・クルーの妻である。自身もデザイナーであり、夫とともにアール・デコの潮流の中心にいた。彼女はアンデパンダン展に出品されたローランサンの作品を購入して以来、ローランサンの芸術の良き理解者であった。牡鹿にふわりと腰かけるニコラスは身にまとう衣ともども重力から解き放たれた優美な姿である。線の描き方などキュビスムの影響が見られる。しかしパステルカラーは後年のローランサンを予告するようである。キュビスムとは正反対の軽快で優しい世界へ模様替えしたような絵を生み出していたのである。

読書する女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1913年頃

けだるい様子で机の上の書物に目を落とす女性。白っぽい灰色に、ピンクと水色を加えた色彩、線描を主体にした表現は同時期の他の作品と共通するが、背景のカーテンや女性のターバンなど、わざわざと絵具をにじませる描き方が異色である。この数年後にローランサンは、強い線を表現の中心に据えたキュビスム的な造形を変えようと本格的に模作を始めるが、この作品の描き方は、すでにこの頃からその兆しが始まっていたことえを示しているだろう。つまり、彼女のキュビス画家としての頂点とも言われる1913年にも、キュビスムと、「自分らしい」作風の間で揺れ動くローランサンの姿を見出すことができるのである。

三美神 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1921年

1914年、ローランサンはドイツ人男爵と結婚した。しかし、丁度、その年に、第一次世界大戦が勃発したため、夫とともに中立国のスペイン各地で終戦まで過ごすことになった。亡命生活の中、夫との関係は悪化し、祖国に戻ることも出来ず、私生活の上では苦しい日々であった。しかし、パリの芸術界から離れることが、彼女自身の創作と向き合うことになった。それは結果的に、キュビスム的表現から脱皮する契機となった。さらに1920年代に入ると、輪郭線は完全に消え、ゆるゆるとした形が生まれた。キュビスムとは対極の「ローランサン・スタイル」が生まれたのである。亡命生活を終え、夫であったオットーと別れを告げ、パリに移った年に描いた作品である。亡命中は沈んだ色が多かったが、心機一転、本作のように青空のもと、微笑みのある女性が登場している。三美神とは、ギリシャ神話とローマ神話に登場する三人の美しい女神のことであり、サンドロ・ポッティチェリーの名作で知られる。

私の肖像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1924年

1924年6月に描かれた自画像である。ローランサンは40代に入っていた。1921年にポール・ロザンベールの画廊で開いた第一次世界大戦後初の個展が成功し、1923年に制作したグールゴー男爵夫人の肖像画をきっかけに、流行の肖像画家として人気が高まっていた。のちに「狂乱の時代」と呼ばれる活気に満ちた両大戦間のパリで、ローランサンは充実期を迎えたのである。それを反映して本作での画家は、伏し目がちながら落ち着きをみせ、ゆったりと佇む。ドレスのピンクと背景の青に見られるパステルカラーがほどよい華やぎをつくり、髪飾りの緑がやや赤みのあるピンク色の唇と補色をなして、アクセントを効かせている。(この絵が、入場券に印刷されていた)

接吻 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1926年

私は、この絵こそ、ローランサン・スタイルの極致を表す絵画であると評価している。1920年前後にスタイルを確立して以来、パステルカラーを中心とした柔らかな色調を用いてきたローランサンだが、1920年代中頃から、黒色を効果的に活かすようになった。それは、あくまでもパステルカラーをより美しく見せるために、引き立て役として黒色を加えたのである。

シュザンヌ・モロー(青い服)マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1940年

シュザンヌ・モローは、1925年からローランサンの家政婦として働き始め、その後一緒に生活し、ローランサンが亡くなる2年前に養女となった女性である。スザンヌとの二人きりの生活は、大好きな母親ポーリーヌとの二人暮らしに似ていたかも知れない。本作からは穏やかな空気が伝わってくる。ローランサンは1956年6月8日に、心臓発作のため、パリの自宅で息をひきとった。遺志に従い、白い衣装に真っ赤なバラの花と、アポリネール(恋人)から送られてきた手紙の束を抱いて、パリ東部のペーラ=ラシューズ墓地に埋葬された。

シャルリー・デルマス夫人マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1923年

空前の好景気に湧いた1920年代の「狂乱の時代」は、1929年のニュヨークの株価暴落に端を発する世界恐慌によって幕を閉じた。一変して不安と暗い1930年代に入った。もちろん美術市場も急落し、ローランサンも以前のような派手な生活を送ることはできなくなった。しかし、そうした中で、レジオン・ドヌール勲章シュヴェリエの受賞、さらに作品の国家買上げなどといった公の評価は、50歳代を迎えた彼女を流行作家から一流画家へと押し上げた。女優シァルリー・デルマス夫人の肖像画は、この人物の優雅さや優しい表情を引きたてている。また画面右奥には建物が姿をみせ、奥行きをしめし、構図、色彩ともに工夫を凝らした魅力的な肖像画である。

三人の若い女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1953年

ギターを弾く女性を中心に寄り添う三人の女性を描いたものである。三人ともローランサンが生み出した世界の住人である。彼女が追及したものは、一枚の絵の中に「愛らしさ」(私は「カワイイ」と呼びたい)を凝縮することであった。立体的なのっぺりではなく、ふっくらとした立体感を加えることで、柔らかな感触を伝える表現を目指したものであろう。晩年は世間との関わりを極力避け、ひとり静かに制作を続けた。自身の絵画世界を深めるために、もはや他人の芸術は必要がないとはっきり気づいたからであろう。

 

 

マリー・ローランサンは「カワイイ」女性を美しく描く画家と思っていた私に、この「マリー・ローランサン展」は思いがけない、ローランサンの世界を見せてくれた。図録「マリー・ローランサン展  2015年」(府中市美術館)に寄せられた音ゆみ子氏(府中美術館学芸員)の「マリー・ローランサンの歩んだ道」によれば、次のような人生を歩いている。父親のいない母子の生活、素人画家がキュビスムやフォービスムの仲間入り、前衛画家の一人として活躍したこと、アポリネールという絵画評論家との恋愛、その恋人が「モナ・リザ」窃盗事件の容疑で逮捕され、このスキヤンダルから恋人と別れ、第一次大戦の前にドイツの男爵と結婚し、ドイツ国籍となり、夫とスペインに亡命、スパイ容疑を掛けられ、夫は酒に溺れ、夫婦生活が行き詰まり離婚、亡命生活の時代にキュビスムから徐々に逃れて、独自のスタイルへ向かったこと等、すべて新知識であった。ローランサンと言えば「カワイイ」女性を描く、「夢幻的」な女性画家と思い込んでいた、自分の無知に驚いた始末である。やはり個人美術展でないと、深堀りできないことを痛感した。なお、私の教科書である福島繁太郎氏の「近代絵画」では、次のようにマリー・ローランサンをまとめている。「フランスでは、女性画家は一括して民衆画家に近いものとして扱うのが一般的である。(中略)この本能的な女性画家の代表者はマリー・ローランサンである。ローランサンはアカデミーに通ったが大した技術を会得したとは思われず、ピカソやアポリネールのグループに加わって、たちまち仲間の人気者となったが、何れにしても、彼女自身はキュビスム風の絵は描かなかった。」このテキストから、ローランサンを理解していた私には、誠に思いがけない人生劇であった。

 

(本稿は ,図録「マリーローランサン作品集 2017年」、図録「マリー・ローランサン  2015年」(府中美術館)、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「西洋美術史」を参照した)

生誕150年紀念  藤島武二展

藤島武二は1887(慶応3)年9月18日、薩摩藩士藤島賢方の三男として鹿児島市に生まれた。父を早く亡くし、兄2名も西南戦争に従軍し、負傷のため夭折したので、若くして武二が家督を継いだ。小学校を卒業後、佐々木松屋という人物に就いて書を学び、芳州という号を受けた。次いで、学業の傍ら1883(明治16)年頃、平山東岳に四条派の絵を学んだ。書の学習に続いて墨筆の扱いを学んだことになる。上京を許されて、東京で仏蘭西学校に入学する一方で、1885(明治18)年頃に川端玉章に入門し、号を玉堂と改めた。玉章のもとで、色彩表現を身に付け、人物画に向かったようである。同郷の曽山幸彦を知り「玉章に通ふ傍ら、この人に就いて洋画を稽古し始めた」と語っている。家族を養う立場にあった藤島は、教員免許を取得して1893(明治26)年、三重県尋常中学校教諭として三重県津に赴任した。この時期に黒田清輝、久米桂一郎へたびたび長文の手紙を送り、地方で洋画を続けることの困難を切々と訴えている。1896(明治29)年3月東京美術学校に西洋画科が設置されることが決定すると、黒田は、藤島に「学校の助手にならぬか」と手紙を書いて呼び寄せた。この時から藤島は生涯、東京美術学校に奉職し文部官僚としての公的立場を持つ画家として歩むことになった。制作では、1896(明治29)年に黒田が中心となって結成された白馬会に参加し、皆の写生に同行したり、自分で写生旅行に出かけた。この時期の大作として「池畔納涼」がある。

池畔納涼 藤島武二作 油彩・カンヴァス1898(明治31)年 東京芸術大学

白馬会第2回に、習作「池畔納涼」を出品した。木炭習作は4人の群像表現で、構図について辛辣な批評がなされたそうである。本作は、女性2人の対話に簡略化し、外光派の典型的な表現となった。しかし、明度の高い色彩を多用している点では、のちの藤島固有のパレットを先取りしている作品である。津時代に藤島は黒田に作品の批評を仰ぎ、黒田からの指摘に対し、自分でも「気取りすぎる傾きがある」と自覚しながら改められなかったと書き送っている。「気取り」が文学的、ロマン主義的、あるいは夢見るような雰囲気であるならば、そのような藤島の資質は、アール・ヌーヴォーと出会って一層花開いたと言うことができる。初期の代表作である「天平の面影」(重文)との共通点も指摘できる。

婦人と朝顔 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1904(明治37)年 個人蔵

白馬会の第9回展に、藤島は同じモデルによる6点を婦人肖像として出品している。本作品「婦人朝」は、この内の「朝」と考えられる。これらの6点の作品キャプションには「装飾用」との但し書きがあったそうである。通常のタブローとは異なる意味合いを込めていたことがわかる。同年に装丁と口絵を手がけた、与謝野鉄幹、晶子共著の「毒草」の中に、藤島は「朝」、「昼」、「夕」、「夜」の木版挿絵を織りこんでいる。タブローと挿絵の違いはあるものの、一つの場面で一つの抽象概念を表すという象徴的な表現は、所謂「構想画」の一種を試みていたと考えることもできよう。この時期、藤島は「明星」、「文芸界」、「中学世界」、「キング」等の装丁、挿絵、表表紙を手がけ、日本のグラフィック・デザインの先駆者でもあった。

幸ある朝 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1904(明治37)年 個人蔵

1905(明治23)年、藤島は文部省の命を受け絵画研究にために渡欧し、フランスとイタリアで4年間を過ごした。藤島は、海外留学が遅れたが、渡欧した頃には後期印象派やフォーヴィズム等百花繚乱の時代であり、アカデミズムが急速に過去のものとなる時期であった。森田恒之氏は「日本人で印象派の本質を曲がりなりにも理解した画家であり、絵柄ではなく、絵画技法として印象派を理解している」と指摘している。遅れた留学は、藤島に大きなチャンスとなった。この作品は、窓から差し込む光を頼りに、手紙を読む若い女性が描かれている。この主題は西洋においては古くから頻繁に描かれた場景であった。その多くは、愛する人からの便りを読む若い女性を通して、彼女たちの静かな喜びやはにかむ様子の愛らしさを表すものである。この作品は1911(明治44)年の第5回文展に出品された。発表時より、卓越した陽光と朝の空気感の描写から、幸福感に満たされた柔らかな室内の雰囲気が表されており高く評価された。

チョチャラ 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1908~09(明治41~42)年 ブリジストン美術館

本作品は、藤島がイタリアに留学した時代に描かれた肖像画である。明るい色調に大胆な筆致で、画面に軽快さを与えると同時に、どこか感傷的な印象を受ける「チョチャラ」と題されているが、これはかっての「チョチャラ」と呼ばれた地方の出身の女性を指す。現在のローマに在するラツィオ州の南東部にある地方で、フロジノーネを中心都市とする地域である。黄色地に赤い花の刺繍が施されているのだろうか。鮮やかなスカーフを巻いた彼女の装いはチョチャリア出身の花売娘のいでたちである。ちなみに石井拍亭も水彩画に、この花売娘の姿を留めている。(1911年、東京芸術大学)

イタリア婦人像 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1908~09(明治41~42)年 東京芸術大学

留学の機会を得たのは38歳の時で、既に藤島は「装飾風の絵」という自分の方向を定めていた。留学において「異なる側」を知りたいと考え、風景画、肖像画の研究を望んだ。ローマのフランス・アカデミーの院長であったカルロス・デュランに肖像画について作品批評を乞うており、本作のアカデミックな画風にはその助言が活かされていると考えられている。

うつつ 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1913(大正2)年 東京国立近代美術館

藤島の画風は、黒田清輝のもたらした外光派絵画を起点にしながらも、その平明な自然観照をこえ、黒田にはなかった豊かな叙情性を特色としている。それは、明治30年代の浪漫主義文学の隆盛と新たな世紀末美術の紹介に呼応して描かれた「天平の面影」(重文)に代表され、これには耽美的で感覚的な情趣と優美な装飾性が強く示されている。しかし、その後の4年間にわたるフランス、イタリアへの留学によって、その表現は印象派的な視覚を保ちながら、繊細で優美なものから、強直で重厚なものへと一変した。この「うつつ」は、そうした変貌を遂げた藤島が帰国後にはじめて日本で描いた作品である。藤島は自作について、「夢幻的な心境を描いてみたまでであって、若い女がクッションに凭れて憩んでいるポーズで、日本の古代の刺繍をした綸子の着物をつけている。窓辺に柔らかな光線を浴びて、うっとりとしている姿に興味をもった」と語っている。

匂い 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1915(大正14)年 東京国立近代美術館

藤島は1913(大正2)年、学術研究のため30日間の朝鮮出張を命ぜられる。帰国早々の藤島の文章には朝鮮の魅力、女性の色鮮やかな着物の強烈な印象が語られている。この体験が藤島に新たな眼を開かせるきっかけとなったようだ。本図は第9回文展出品作品で、審査委員として文展に出品した最初の作品である。テーブルに置かれた鼻煙壷、花瓶のカーネーションがタイトルの「匂い」を連想させる。表情の乏しさに対して画面構成の巧みさなどが云々された作品であるが、その一番の魅力は何といってもピンクのチャイナドレスであろう。藤島は何着もチャイナドレスを求めており、朝鮮、中国のちがいはあれど、着物の配色、色彩の豊かさに重きをおいているようだ。これが東洋趣味につながっていくのである。

東洋振り 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1924(大正13)年 個人蔵

第5回帝展出品作品で、かつ藤島が作り上げた至高の女性像である。つまり、ルネサンスと東アジアそして日本を融合し得た横向き女性像の嚆矢であり、白眉と言える1点である。藤島自身「これが私の多少画期的な出発になっている」と回想するほど、快心の一作であったのだろう。ルネサンス期の横向きの女性像に強いあこがれを抱き、その翻訳を試みたのは藤島が最初ではない。黒田もルネサンスの横向き女性像に触発されて美しい日本女性へと翻訳している。もちろん翻訳するに当たっては、彼の師のラファエル・コランという辞書を通しながら。そういう意味で、藤島の横向き女性像は、黒田作品に本歌を求めることは可能であろう。藤田は東アジア、ことに本作品では中国というフィルターを通して独自の時代感と異国性を創造している。一連の女性像は、黒田からの飛躍を遂げた、時代の記念碑と言えるのである。

室戸岬遠望 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1935(昭和10)年 泉屋博古館分館

1928(昭和3)年、藤島は、岡田三郎助とともに、昭和天皇即位を祝う宮内庁学問所の油彩画制作の依頼を受ける。以後10年近い歳月をかけて各地を旅し、「日本の国を象徴するに相応しい風景」を海辺や山間部に求めて、様々な場所を描いた。その結果、藤島は風景画の第一人者としての地位を確たるものにした。本作品は他の藤島の海景画に多く見られるような、とりどりの色彩を織り交ぜた海面の表現と異なり、平坦な深い青が大きく配され、浪間や飛来沫の粗い筆触は中央の岩場に集約されている。海面から顔を出す岩は、太い輪郭線と強烈な陰影表現によってかたちづくられ、画面の平面性を強調している。青と白といった色彩の対比が藤島の印象に強く残ったことが読み取れる。

耕到天 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1938(昭和13)年 大原美術館

本作品は、完成に数年を要したという藤島晩年の代表作である。自身の解説によると、画題は「耕到天」は、日本を訪れた中国人の言葉、「耕到天是勤勉也」と「耕到空是貧也」に由来する。日中戦争という時勢を鑑みた藤島は、日本人の勤勉さと国土の貧弱さを説いた言葉を画題にして、ここに愛国の意を表現したのである。空まで届く雄大な山肌と畑は色とりどりの面に還元され、画面は極端に単純化されている。事物の本質を結晶化したような簡潔な表現は、藤島が到達した究極の写実を示す。晩年を代表する「到達点」の優作である。

 

この美術展は練馬区立美術館で7月23日から9月18日まで開催され、その後鹿児島、神戸と廻る展覧会である。藤島武二の作品を日本各地の美術館から集めて、よくぞこれだけの「美術展」にしたという印象である。観客も、練馬区近辺の方が多く、年齢もかなり高齢者が目立った。欲を言えば、重要文化財に指定されている「天平の面影」、「黒扇」の2作品の展示が欲しかった。特に「天平の面影」は、明治30年代の浪漫主義の華やかな作品であり、是非この展覧会に出品してもらいたかった。藤島の留学が、他の教綬に較べ遅れたことは、藤島にとっても、日本の画壇にとっても、結果として大きな収穫となった。後期印象派、フォーヴィズムなど、西洋の新潮流に接し、アカデミズムが急速に過去のものとなったことを体感したからである。黒田清輝と並ぶ藤島武二は、終始、東京美術学校を基盤として、恵まれた環境の中で、東洋趣味や風景画の試みなど新分野を開拓した天才でもあった。「美術展は個人展を見ることが大事」という私論を確認する展覧会であった。

 

(本稿は、図録「生誕150年紀念 藤島武二展 2017年」、大原美術館 図録「はじまり、美の饗宴 2016年」、図録 東京国立近代美術館「近代日本の美術 1984年」、図録「神奈川県立近代美術館 コレクション展 絵画Ⅰ」を参照した)

没後90年  萬 鉄五郎展

萬 鉄五郎(よろず てつごろう)は1885(明治18)年に岩手県東和賀群の通称「土沢」に生まれ、1927(昭和2)年、神奈川県高座郡茅ヶ崎に没した。享年41歳。東京美術学校西洋画予科では、アカデミックな美術教育を徹底的に受け、1907年9月には、本科合格者中首位の成績であった。その後も級長などを勤め、美術学校での萬は、真面目な優等生であった。しかし、萬も主観的な表現性の後期印象派やフォービズムに深く感応し、たちまち優等生から「級内の革新派」へ転じていった。本科の卒業制作に「裸体美人」を提出し、日本の洋画に革命的衝撃を与えた。萬は、卒業制作を機に、新しい絵画表現の最前線に立ったことになった。萬 鉄五郎の個人展は、私は初めて見たけれども、図録によれば、1962(昭和37)年の神奈川県立美術館(鎌倉)で紀念すべき「萬 鉄五郎展」が開催された。次いで、1985(昭和56)年に鎌倉、津、仙台の近代美術館で「生誕百年紀念 萬鉄五郎展」が開催された。今から20年前の1997(平成9)年、東京国立近代美術館が「没後70年 萬 鉄五郎展」を開催し、その後京都へ回っている。従って、今回の「没後90年 萬 鉄五郎展」は4回目となる展覧会である。キュビズム、表現主義、未来派、アーバニズムなど、1910年前後に極東の日本に及んだモダニズムの衝撃について重要な展覧会が開催されるたびに、萬 鉄五郎は欠かすことのできない存在として、文化史の文脈でさまざまな検討が加えられてきた。

重要文化財 裸体美人 萬鉄五郎作 油彩・画布1912(明治45)年東京国立近代美術館

美術学校の卒業制作の一つが、この「裸体美人」であり、主席で入学した萬の卒業成績は19人中16位であったそうである。外光派を引っさげて、美術学校教授となった黒田清輝にとっては、到底見逃せない作品だっのだろう。16位という卒業成績は、この「裸体美人」という、日本における後期印象派を受容した最初の作品を見逃すことの出来ない作品だったのだろうと推察する。萬は後に、この作品について「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と述べているように、画面からは炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホを、そして剛直な筆致で単純化された裸婦の表現にマチスを見出すことは容易だろう。ただし、萬は、明治末年からようやく日本に紹介されはじめた彼れらの絵画を単に模倣したのではなかった。後期印象派からフォーヴィズムに至る近代絵画の根底にあって流れる、個の存在の発現という表現主義的な傾向を感知し、その強烈な色彩、意志的な線、単純化されたデフォルメーションなどの表現に自らの個性と、本能的な表現欲を盛り込むことを学び取ったといえよう。鮮やかな赤と緑の対比もさることながら、この裸婦の堂々とした大胆不敵な態度こそ本作の魅力であろう。モデルはよ志夫人であると言われている。さまざまなポーズをする裸婦の素描があるが、その中の一つには本作と似た裸体美人(油彩習作)が展示されていた。デフォルメされた人体、ピンクの雲、萬の特徴的なモチーフがすでにここに描かれている。近代日本洋画の最大傑作であると、私は思う。

自画像(卒業制作)萬鉄五郎作油彩、画布 1911(明治44)年頃東京芸大

萬の卒業制作は「裸体美人」と「自画像」の2点であった。この自画像では黄色を基調とした色彩と厳しい筆致という点で後期印象派的であるものの、全体的には堅実なデッサンに裏打ちされた極めて端正な作品である。本作以降描かれた自画像の中では最も写実的であると言える。その点では東京美術学校時代に培われたデッサン力が最も発揮された油彩画であり、全体に淡い色彩が支配していることから、黒田清輝らによる外光派の影響を見ることができる。萬の卒業制作の評点は72点で、本科卒業生19名中16位であり、入学時に萬が主席であったことを考慮すると、「裸体美人」の後期印象派風の作風が受け入れ難かったのであろう。萬の卒業制作の低い評価は、専ら「裸体美人」によるものと考えられる。

雲のある自画像 萬 鉄五郎作 油彩、画布1912(明治45・大正元)頃大原美術館

幼少期から日本画に親しんだ萬は、1903年に中学進学のため岩手県から上京、在学中は1905年に白馬会第二洋画研究会に通い始めた。中学を卒業後、かねて参禅していた禅師の布教活動に加わってアメリカに渡り、この地で絵画を学ぼうと計画した。しかし、諦めて半年ほどで帰国し、翌1907年に東京美術学校西洋画予備科に入学した。アプサント会に参加するなど在学中から活躍した萬は、1912年に卒業制作として「裸体美人」を発表し、話題になった。同年、萬は岸田劉生らとフュウザン会を結成した。生涯を通じて多数の自画像を残した萬は、この1912年前後、画家としての自己を模索したのか、印象派、後期印象派、ヴァン・ゴッホや未来派など、きわめて多様な様式で集中的に自らを描いた。本作品も、そうした一連の作品自画像に属する。力強い筆触、補色の関係にある赤と緑の雲を青地に浮かべた強烈な色彩と比べて、萬の面持ちは比較的穏やかである。「裸体美人」にもあった雲は、自我の探究という文脈でいっそう暗示的効果をあげている。

太陽と道 萬 鉄五郎作 油彩、板 1912(明治45・大正元年)頃 萬鉄五郎紀念美術館

太陽をモチーフに、ギラギラした光を放射線状に描いた作品であり、第1回フュウザン会に出展した作品である。似たような作品として「太陽の麦畑」、「煙突のある風景」(所在不明)等がある。後期印象派の影響を受けていると思われる。

田園風景 萬 鉄五郎作 1912(明治45、大正元年)頃 神奈川県立美術館

フォーヴィズム的な色彩からキュビズム的な造形表現へと転換していくなかに土俗性も加わり、うねるような筆使いは自然そのものを鷲づかみにする力強さがある。明治末にハインド著「後期印象派」が日本に紹介されると多くの画家がこれに反応した。萬もその一人であり、第1回フュウザン会に出品した「田園風景」は、少なからずこの本からの影響を感じさせる。この作品では、赤と緑が激しい補色の対比がやや後退し、色味を抑えた、動きのある筆致が特徴的である。西洋絵画の刺激を受けつつも、萬の資質が発揮された、湿度を帯びた日本の田園風景となっている。なお「田園風景」は、エッチングでも制作されている。

日傘の裸婦 萬 鉄五郎作 油彩・画布 1913(大正2)年神奈川県立美術館

1913(大正2)年の第2回フゥウザン会展に「エチユード」というタイトルで出品された作品である。画面下に大正2年とあるが、美術学校で描かれた初期の素描に同じ椅子がみられることから、在籍中であったのではないかとも思われるが、美術学校で描き始められたと考えられる。裸婦に傘を持たせるという発想は萬自身によるもので、「傘の赤い光線が肉体に影響するところが愉快だと語っていた」という。広がる傘が頭部の大きさを一層強調させ、長い胴部と短い脚部という、モデルの日本女性の体型の悪さを際立たせている。晩年の「水着姿」でも傘を持つ構図が用いられていることから「傘を持つ構図」に萬が強いこだわりを持っていたことがうかがい知れる。

丘のみち萬 鉄五郎作 油彩、画布1918(大正7)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

1914(大正3)年9月に、萬は妻と二人の子供を連れて郷里・岩手県土沢へ帰る。その理由を「段々制作にうえる事になった」と記している。6月に長男が誕生して、更に生活苦に悩まされ、製作に専念できずに満たされない描くことへの欲求、画家としての危機感があったのだろう。1年4カ月余りの帰郷に区切りをつけた萬は、1916(大正5)年1月に家族と共に再び東京に戻った。土沢から上京した萬は、その後数年にわたり故郷の風景を描く。土沢での写生を通して、移ろう四季の中で変化する土地の息吹を体感し自身に記憶させた萬は、遠く離れた東京で眼前にない過去の風景を反芻し、そこにキビュズムや表現主義など異なる様式を選択しながら、造形の実験を押し進めたのだろう。判然としない画面だが、郷里の人々には土沢の館山城周辺を描いたものに写るようだ。さらにここにはおなじく、「かなきり声の風景」に描かれた場所でもある。その土地の生活者のみが共感できるような、まさに萬が咀嚼した土沢の風景になろう。

裸婦 萬 鉄五郎作 油彩、画布 1918(大正7)年 神奈川県立美術館

小さい脚部から大きな頭部にむかって積み上げていくような人体の捉え方は、キュビズム風の作品「裸婦」にも通じるものである。この「裸婦」と「日傘の裸婦」には、似たような傾向が見られる。同じような裸婦のスケッチが多数のこされているが、以前描いたスケッチやタブロウーをもとに繰り返しや再構成を経て新たな表現へと向かう制作スタイルは、萬の特徴的な手法の一つである。しかし、これは、今回のような個人展覧会で、スケッチや習作など多数展示されたことで理解できることで、単独の絵画を見ているだけでは思いつかない手法である。

土沢時代の水墨画 筏の図 萬鉄五郎作紙本墨画 1914~16(大正3~5)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代に描かれた水墨画は「苔庵」(たいあん)の落款と朱文印を使った作と思われるので、郷里に集中的に残っている。「筏の図」は「材木を流す図」と対幅の大作で、郷里の風景を南画風に描いたものである。米点(べいてん)の手法で水墨画の装いを見せているものの、遠近感を意識した洋画的な描写が認められ、運筆にも稚拙さが残り、南画としては荒削りの感は否めない。依頼されて描いた地元に伝わっており、同地を描いた類似する風景スケッチが存在することから、それをもとに作画した可能性が高い。萬 鉄五郎は、洋画家でありながら、水墨画の作品も多く、洋画家としては珍しく水墨画を描く画家であることを、今回の展覧会で意識した。なお、土沢時代を水墨画と呼び、神奈川県茅ケ崎時代の作品を南画と言って区別していることも、今回知った。

茅ケ崎時代の南画 松林 萬 鉄五郎作 1922(大正11)年 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代の墨画を水墨画、茅ケ崎時代の墨画を南画と呼んで区別するそうである。「南画の頂点」を1922(大正11)年の作品群だと陰理哲郎氏は判断しているそうである。理由は、萬が、南画に対する活動をエネルギュシュに展開したからである。確かに以前の作と比べると、柔軟闊達な筆墨と澱みの無い運筆に加え、詩的な画面構成に各段の差が認められる。表現主義的な萬独自のフォルムを取り入れられ、これまでにない南画空間を創出している。1922年より後年の作と思われるものに、大らかな空気感や宇宙的な広がりを持った作品群が存在する。この「松林」が一つの例である。この時代の南画の数は多い。

男 萬 鉄五郎作 1925(大正14)年 木炭、紙 岩手県立美術館

萬によると「男」は、もともと1920(大正9)年に着手したが、散々手こずった末に制作を放棄し、「今度或る充実を感じて来たので一気にかき上げた」ものだと言っている。おそらく彼にとって重要だったのは画面内で大きな破綻なく、筆触の勢いも失うことなしに、この大作を「一気にかき上げた」ことではなかっただろうか。そのような解釈に立てば、本作は描画プロセスの点で南画に最も近づいた作品と位置づけることもできそうである。

水着姿 萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

絵の表面化、様式化、装飾化が進んでいる。黄と緑と茶と青とが照応しあい、曲線が生む画面全体のゆらめきと、開いた傘の円形が対応している。薄塗りである。これまで描いてきた人物画と異なっている。あつらえた水着をつけたモデルを写生して、写真屋の背景幕のような海と合成している。油絵で和風の意匠を表す試みであろうか。「日傘と裸婦」と同様の、傘を差す女性像というモチーフも、ひどく突拍子もないもので、それ自体で萬的であると言えよう。

裸婦(宝珠をもつ人)萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

最晩年の奇妙な作品が出現した。最大の大作(100号)の一つであり、未完成である。(卒業制作の「裸体美人」も100号であった)巨人のような裸婦が右の掌の上に宝珠をかざしている。そのため、仏像を想起させて、故郷の成島の兜跋毘沙門天像と結びつける論がある。考え方としては魅力的である。病の長女登美子の回復を願って描き、叶わずに未完となってしまったという話もある。信仰と病が合わさって、さらに説得的である。しかし、これで作画の理由はわかったろうか。わからない。謎めいた絵ばかりが多い萬の中の、最大の謎作品といえるであろう。「裸体美人」で生じた謎の裸体研究が、「裸婦」(宝珠を持つ人)で閉じ、謎の円環を形成してしまった。

 

萬 鉄五郎の作品との出会いは、東京近代美術館の「裸体美人」「もたれて立つ人」、神奈川県立近代美術館の「日傘の裸婦」、「田園風景」、「裸婦」の5点であった。何れも傑作であり、特に「裸体美人」は、日本における後期印象派のトバ口となる傑作であり、記憶に強く残る作品であった。この度「没後 90年 萬鉄五郎展」が、神奈川県葉山館で開催されるのを聞いて、是非観たいと思い、かなりの時間をかけて葉山館まで日帰りで往復した。誠に充実した展覧会であった。いかに萬 鉄五郎に対し、生半可な知識であり、水墨画や南画があれほど沢山作られているとは思ってもいなかった。萬は、日本の洋画の近代化にもっとも貢献した人物であることを、しかも画家歴はせいぜい20年程度であったこと等を再確認した。なお、土方定一氏は「日本の近代美術」のなかで、萬鉄五郎氏を「世界的巨匠」とまで賛美している。この本は、私の古典であり、100回は読んでいる筈であるが、全く見落としていた。不明を恥じる。

 

(本稿は、図録「没後90年 萬鉄五郎展 2017年」、東京国立近代美術館「名品選」、図録「近代日本の美術」、神奈川県立近代美術館 図録「コレクション選 2001年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

芸大コレクション展  前期

東京芸術大学は、今年、前身である東京美術学校の設立から130周年を迎えた。官立の美術学校としては、明治9年(1876)に開校し明治16年(1883)に廃校となった工部省所管の工部美術学校があったが、それは文明開化の時代を象徴する「西洋技術の獲得」という一過性の役割を持ったものであった。それに対して明治20年(1887)に設置された東京美術学校は、近代国家の形成期にあたって文明国の世界表準を備えるため、美術教育を奨励する新しい国家政策の柱として期待された文部省所管の機関である。東京美術学校の創設、開佼に深く尽力した岡倉覚三(天心)は、学校運営のなかに参考美術品の蒐集、学校関連品の収蔵という、コレクションの蒐集と活用を組み込んだ教育方針を草案した。この方針に沿って、初期の東京美術学校では生徒が制作の参考とするために有数の古美術品を購入している。今日、国宝、重要文化財などの指定を受けている名品の数々が所蔵されているのは、この草創期の蒐集実績によるところが大きい。        芸大の保有する芸大コレクションは、現在およそ2万9千点に及ぶものである。この度の、東京芸術大学130周年記念ー「芸大コレクション展」-は、芸大コレクションはどうあるべきか、今後どうするのか等、様々な問題を素直に展示に反映させることによって、この大学美術館の存在理由を明らかにしていきたいと考えた展覧会である。(吉田亮氏の見解)                      これだけ大きな展覧会であるが、入場者数は思いがけない少ない人数であった。(7月14日現在)。例えば、グッズ売り場で、図録や写真を購入していたのは、私1人であった。これだけの名品を揃え、高校の日本史では必ず目にする名品の数々を、何故、もっと多くの人が見学しないのか?実に不思議に思う。西洋美術館の「アルチンボルド展」が大入りであるのに対し、何故、日本の古代及び近代美術の名品を拝観しないのだろうか?1回で800円、2回券1300円(2期展示があるため)と割安で、国宝、重要文化財が多数拝観できるチャンスである。是非、拝観して頂きたい。近代日本の西洋画の重要文化財指定作品は20件だそうである。その中の4点を、この展覧会で見ることが出来る。美術愛好家でなくても、話題豊富な展覧会である。展覧会の構成は次のようになっている。

テーマ編                                 名品編 平櫛田中コレクション 卒業制作  作家の原点  現代作家の若き日の自画像 真似から学ぶ、比べて学ぶ  石膏原型一挙公開  芸大コレクションの修復

アーカイブ編                               藤田嗣治資料   記録と制作ーガラス乾板・紙焼き写真から見る東京美術学校

第1回は「名品編」をまず、見て行く。

国宝 絵因果経 紙本彩色墨書 26.5×1100.5cm奈良時代(8世紀)

絵因果経は仏伝経典の一つで、釈迦の前生における善行から説き起こすが、主として釈迦の誕生から太子時代の事績、続いて出家、山中の苦行、降魔成道、初転法輪を述べ、最後に太子の出家入団に至るまでを叙し、多くの仏教経典と同様に釈迦の前半生を取り扱っている。

重要文化財  菩薩立像  銅像 高 43.4cm  白鳳時代(7世紀)

法隆寺献納宝物48体のほかにも、各地の寺に飛鳥、白鵬時代の小金銅仏が伝わっている。これらの小金銅仏は、古代の人々の念持仏(ねんじぶつ)として制作されたものであろう。30~40cm程度の大きさの像が多いこと、朝夕祈りを捧げるのにふさわしい、親しみやすいお顔つきに作られている点も、このことを訟している。本作は、端正な白鳳様式をみせる金銅の菩薩像である。頭部の三面宝冠、胸から腰を飾る瓔珞、翻る天衣等華やかに装飾されている。お寺の名前が不明なのは、廃仏毀釈の時代に、学校が入手したためでは無いだろうか?

美人(花魁) 高橋由一作  カンヴァス・油彩    明治5年(1872)

作品の中に署名、年紀は無いが、裏には「長崎/美人油画 高橋由一筆」とある。明治5年作については異論が多々あったが、現在は明治5年とされている。新吉原の花魁・こ稲を描いたものである。わが国最初期の油彩による肖像画である。技術的な未熟さに関わらず、写実への意欲がみなぎる作品である。

重要文化財  鮭 高橋由一作  紙・油彩   明治10年頃(1877)頃

明治30年(1897)5月付で「鮭」は東京芸術大学資料館に収蔵された。納入者は小林万吾氏である。現在のように表具仕立てになったのは昭和10年(1935)頃であるが、修理記録は残されていない。修理される以前は、鮭を描いた部分以外の紙には波状の襞ができていた。高橋由一の代表作であるが、この作品には署名・年紀がない。また「鮭」と題する作品は、少なくとも3作ある。1994年の「高橋由一展」で3作が並べられたことは記憶している。比較すれば、本作が一番優れている。ざっくりとしたタッチで、荒縄、鱗、ヒレ、赤身などそれぞれの質感を描き別ける。その迫真性は近代日本洋画の幕開けを告げる作品であった。

重要文化財靴屋の親爺 原田直次郎作カンヴァス・油作 明治19年(1886)

灰色のバックの前に、仕事着を着てやや斜めに身構えた靴屋の親爺の半身を力強い写実的な手法で描き出した力作である。禿げ上がった額、深く落ち窪んだ眼、豊かな髭のなかにしっかりと結ばれた唇等、相貌の個性的特徴を余すところなく捉えられ、かなりコントラストの強い明暗の効果によって、ほとんどドラマチックなまでの表現力を見せている。この作者が、森鴎外の「うたかたの記」のなかで、日本人画家巨勢(こせ)として登場してくる原田直次郎で、この作品は明治19年(1886)、ドイツ留学中のものである。

重要文化財 収獲 浅井忠作 カンヴァス・油彩 明治23年(1890)

明治23年(1890)の第2回明治美術会展に出品されたもので、浅井忠代表的名作である。明るい日ざしを受けながら取り入れの作業にいそしむ農家の人々を、褐色を主調とした柔らかい色調のなかに落ち着いた抒情味を湛えながら見事に描き出している。ここには何とかして対象に肉薄しようとする高橋由一のあのドラマチックな緊張感はもはや見られないが、その代わり、的確な空間構成の中に、風景も、人物も、さらには空気や光までをも巧みに捉えて、一つのまとまりある画面を作りだしいるところは、空間を統一的に把握する成熟した眼の存在を物語っている。この作品によって、はじめて日本人の体質に根ざした写実主義が生まれたと言われる。

婦人像(厨房) 黒田清輝作 カンヴァス・油彩  明治25年(1892)

本作はパリ郊外のグレーシー=シュエル・ロワンにて豚肉屋の娘マリア・ビヨーをモデルに描かれた作品である。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめている女性は、男物の上着を羽織り、画面左奥上から差し込むやわらかな逆光に照らされている。黒田はグレーでマリアの姉の家に投宿しており、本作に描かれているのはその家の台所であると見られている。その前の作品である「読書」が、わざわざ衣装をそろえて描いたのに較べて質素な作業衣着風の衣服を身に付けていることからも、あるいはそうした生活の中から自然に生まれた作品かも知れない。黒田は、秋の景を描いた油彩1枚とともにサロンに提出したが、作品は2点とも落選した。黒田は「まことにびしびなことにてめんもないことでございます」と養母に書簡を送っている。しかし、一方で師であるラファエル・コランが本作を評価したこともあってか、同年8月に日本へ手紙を送った際には「どこに出してもまた人がなんとゆってもはずかしはないつもりです」と養母に書き送っている。私は名品と思う。

重要文化財 悲母観音 狩野芳崖作  紙本彩色 明治20年(1887)

芳崖の絶筆となった「悲母観音」は、晩年を芳崖がフェノロサと共に挑んできた日本画革新運動の終結点であると同時に、次世代に受け継がれた近代日本画の出発点として位置付けることができる。狩野芳崖は、かの桃山時代以降の狩野家を継ぐ日本画の大家であり、下図を見ると(これも重文)、逐次狩野派から近代日本画家へ転身する様が見て取れる。「日本画再生の原点」とも呼ぶべき大作である。観音と童子の組み合わせは伝統的なものだが、少なくとも空中で球体に包まれる嬰児のポーズは一般的な仏画には見られない。下図を重ねながら芳崖が創造したものである。芳崖はもはや仏画を描こうとしたのではなく、母の子を思う愛という普遍的な主題を絵画表現したものであり、奥行きや空間表現とも相まって、近代的な絵画の在り様を示している。

白頭  前田青邨作  紙本淡彩   昭和36年(1961)

前田青邨は岐阜県生まれ。上京して梶田半古の塾に入る。1914年再興日本美術院の同人となる。1929年「洞窟の頼朝」を発表・1935年帝室技芸員。1951年東京芸術大学日本画科教授となる。法隆寺金堂壁画の模写事業に尽力した。本作は、喜寿を迎える画家の自画像である。青邨は鏡を見つめるのではなく、制作に打ち込む自分の姿を客観的に捉えることで自己の肖像画にした。

径(みち) 小倉遊亀作  板・彩色    昭和41年(1966)

滋賀県に生まれる。旧姓溝上。奈良女子高等師範学校卒業後、教職の傍ら安田靫彦に入門、1932年女性で初めての再興日本美術院同人となる。1961年「母子」で日本芸術院賞を受賞。1973年勲三等瑞宝章。1976年日本学芸員会員。1980年文化勲章を受章。                      本作は、明るく、温かく、たのしいもの。遊亀はふと思い浮かんだその印象を絵画化するために、女性、子供、犬で構想を練り、本作の構図に至った。見るだけで楽しくなる画面である。名品として推奨したい。

 

第1回は「名品」の部にすべてを割いた。まさに日本の美術史(通常高校で学ぶ日本史)の教科書を見る思いで、日本の近代洋画、近代日本画を生み出すための苦難の時代を物語るものである。本稿とは離れるが、資料の部に「藤田嗣治資料」が含まれていることに違和感を覚えた。勿論、藤田氏は芸術大学卒業であり、ここに資料が存在することには異論がないが、晩年にはフランス国籍を得て、日本に帰国する意図は全くなかった。その藤田氏が何故、大量の資料を芸大に残したのか?芸大に寄贈された資料は、5,808件に及び膨大な資料であるが、それは夫人君代氏からの寄贈であった。記録魔とも呼びたくなる、精密な資料である。出展しているのは数点であつたが、私が一番知りたい戦後の日本の「戦犯問題」に関する重要資料を見つけ出したのである。書類の名称は、不確かであるが「確認書」と書いてあったように記憶する。占領軍に対して、自分(藤田氏)が戦犯に該当しないことの証明を求める書類であり、占領軍より、「戦犯に該当しない」との回答書であった。藤田氏は1947年(昭和22年)の2月6日の日記に「追放なし」と書いている。更に翌2月7日の日記には「お祝いする 赤飯たく」と記している。(図録181ページ)図録の写真によれば、昭和24年3月2日付のビザには、1947年4月14日付指令に基いて「連合国最高司令官により許可された日本国民であるに相違ないことを証明する」とされ、日本国外務大臣吉田茂が捺印している。戦争画に対する世間の評判から(実は日本人画家の嫉妬)、藤田氏は戦犯に指定されて、極刑にされるとの噂が流れたことがあった。同僚の荻巣氏が渡仏することを羨んでいた時であるだけに、さぞうれしかっただろうと思う。同年5月29日の日記には、「仏領事館より仏へ渡航許可外務省より来れりとて出頭せよ通知うれしくて君代涙す」とある。藤田氏の心情が心から理解出来る資料であった。これも本展覧会を観た余禄である。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション パンドラの箱が開いた」、図録「ダブルインパクト 明治ニッポンの美 2015年」、図録「黒田清輝 日本近代絵画の巨匠2016年」、図録「明治100年 高橋由一展  1994年」、現色日本の美術全30巻のうち「第27巻 近代の洋画」を参照した)

タイ~仏の国の輝き  

明治20年(1887)、日タイ修好宣言により、日本とタイの間に正式な国交が開かれて、今年は「日タイ修好130年」の年である。これを記念して「日タイ修好130周年特別記念展 タイ~仏の国の輝き~」が九州国立博物館と東京国立博物館で開催される。タイと日本の文化は、非常に近いものがある。国民の大半が仏教を宗教として崇め、国王(天皇)に非常に親近感を持っている。また、日本の文化は、長く農業を基盤とした時代が続き、タイも古来農業を基盤とした国であった。近年、日本とタイの間では経済、産業はもとより文化交流も活発に行われており、両国の親密な関係は、今後も一層深まることが期待されている。日本の仏教は、「葬式仏教」とも揶揄されているほど、決して深いものでは無い。それに対し、タイの仏教は、今日でも生き生きと息づいている。現在、タイで行われている仏教はインドからスリランカを経て伝えられた上座仏教(じょうざ)。上座仏教とは、釈尊上座の弟子から承継された説教「長老の教え」を意味し、「出家と戒律」を重んじる初期仏教の姿を比較的良く伝えている。それに対し、インドから東漸した仏教(シルクロード各国、中国、朝鮮、日本)は大乗仏教と呼ばれ、「祖師の教えに敬虔に従う」という仏教である。例えばタイでは、通常男女とも、数ケ月、数年出家して僧となり修行を積む。日本では、例えば親鸞の教えを聞き、それに従えば、極楽へ行けると信じられている。タイでは「出家」することが仏教であり、日本では「信仰」することが仏教である。私が、タイで案内してもらった青年は、20歳前後に2年間出家し、かつ2年間軍隊勤務していた。人生の中で、最も大切な20歳代を4年間も、出家、軍隊に費やしているのである。とても日本では考えられないような生活体験である。例えば、鎌倉の露座の大仏の前で、正座し、祈りを1時間も2時間も捧げる東南アジアの男女を見ることが多い。日本の観客は、団体出来て、大仏様の胎内を巡る程度である。この深い敬虔な祈りと、私たち日本人観光客の差は何だろうかと考えることが多いが、双方の受容してきた仏教の歴史ー上座仏教と大乗仏教ーの差であったのだろうか?タイにおける仏教の歴史は図録の「原田あゆみ」さんの11ページに渡る歴史に詳しく書かれているので、興味のある方は、そちらを読んで戴きたい。

仏陀立像  ドヴァーラヴァティ時代(7世紀末~8世紀) バンコク国立博物館

蓮華座上に直立する仏陀像である。衣文を極力省いた薄い大衣(だいえ)が身体に密着し、少年のような細身の身体が際だっている。本像のように直立する仏像は、両手ともに胸横で説法印を結ぶ。ドヴァラヴァーティーの仏像は、両手説法印のものが圧倒的多く、かなり長期間にわたり流行した形である。

法輪(ほうりん)ドヴァーラヴァーティー時代(7~8世紀)ウートン国立博物館

この法輪は立派である。装飾も見事で驚くばかりである。車輪が転がるように仏陀の教えが広まるのを祈るものである。法輪は日本にもあるが、この出展品の存在感はすごい。この法輪に見られる生命力あふれる植物文様の表現や、太陽に関する神像の表現などを考え合わせると、仏法を象徴するのみならず、万物の成長・豊穣の基盤をなす太陽や自然への信仰心を読み取ることが出来るだろう。

法輪頂板ドヴァーラヴァーティ時代(7~8世紀)プラパトチェーンデシー博物館

法輪を載せている方形の頂板である。4面それぞれの周囲には蓮華文をめぐらせ、中央には大きく目を見開き、口からは牙を覗かせる巻毛の人物を彫刻する。私は一見して、奈良の薬師寺金堂本尊の台座に表された「南洋の土人」と名付けた巻毛の鬼神を思い起こした。図録によれば、仏陀は釈迦族の獅子と称され、台座に獅子を表す獅子座はインドのみならず仏教の伝来した国々に存在するそうである。一方、像の両手に握られた植物の茎からは、勢いよく渦を巻く唐草が生じている。この表現は、インドでヤクシャと称される自然神の特徴である。ヤクシャは生命力を内に籠めて、聖なるものを支えたり、植物を生み出したりする、自然界の威力を表現する役割を担っているのである。

菩薩頭部 プレ・アンコール時代(8~9世紀) バンコク国立博物館

頭部の大きさから、もとは3m以上の大きな菩薩立像だったことが想像できる。高く結いあげた鬘の前には、尊各を示す標識があったはずだが、今は決失している。下方を向く両目には、白いものが塗りこめられ、瞳部は孔が穿たれている。輪郭線のはっきりした厚い唇の上には、口髭が見られる。鬘をつくる作例はプレ・アンコールのプレ・クメイン様式(7世紀末)頃から見られるようになった、本像が制作されたタイ北東部、パノムドンラック山脈北側、ムーン川流域では、このような彫刻群の他に、ドラヴァーヴァラティー美術の流れを組む仏像が多数存在する。この地域では、モン族とクメール族の文化圏が接し、時には重なり合い、こうしたモン・クメールの文化圏の中で本像のように独自の特徴を持つ仏像が生まれたのである。

ナーガ上の仏陀坐像 シュリーヴィジャヤ様式(12~13世紀)バンコク国立博物館

今回、展示された仏像の中では、私は一番美しい仏像であると思う。とぐろを巻いた蛇神「ナーガ」の上に座り、静かな微笑みを浮かべて瞑想する仏。背面には光背のようにナーガが7つの鎌首をもたげている。悟りを得て瞑想する仏陀を、竜王が傘となって風雨から守ったという伝承をもとにした「ナーガ上の仏陀坐像」は、端正な顔立ち、細身で若々しい体、降魔印(悪魔を降伏させる印相)を結ぶしなやかな指先が印象的である。台座にはクメールの特徴が確認できる。一方で仏陀の容姿や装飾はシィユリーヴィジャヤの影響を受けている。タイの人々が大切に守り続けてきた像には、当時の多様な文化が凝縮されている。

観音菩薩立像 アンコール時代(12世紀末~13世紀)バンコク国立博物館

カンボジア。クメール王朝のジャヤヴァルマン7世(在位1181~1218、もしくは1220)は、大乗仏教を信仰し、観音菩薩像を多数制作した。アンコール・トムの中心寺院であるバイヨンにある四面の観音菩薩の顔は、その代表的存在として知られている。この作品もそうしたクメールの影響下で制作された観音像である。ずんぐりとした体つきや太い脚など、いわゆるバイヨン様式に属している。本像を特徴づけるのは上半身を覆い尽くす夥しい数の禅定仏(ぜんじょうぶつ)である。こうした像は、現在ではクメール美術でしか確認されないものである。7世紀に北西インドで成立した「カーランヴゥーハ・スートラ」という経典を典拠として作られたと考えられている。

仏陀遊行像 スコータイ時代(14~15世紀)サワンウォーラナーヨック国立博物館

遊行(ゆぎょう)する仏陀像である。ウオーキング・ブッダである。体の滑らかな曲線、しなやかな足運び。弧を描く眉、口元のほほ笑み。だが肩幅は広く、胸や股には張りがあって力強くもある。若く、美しい遊行する仏陀像である。遊行像とは、文字通り仏陀が歩くさまを造形したものである。仏伝中の重要な説話の一つである縦三十三降下(こうげ)は、三十三天に昇っていた仏陀が宝階をつたわって地上に降り立つという話で、スコータイのワット・トラパントーンラーンにこの場面を表した浮彫がある。一方で歩みを進める姿は単なる説話の表現にとどまらず、仏陀の教えそのものを象徴するとの解釈もある。私は「仏陀の教えそのもの」と考えたい。それでなければ、こんなに美しい、楽しい姿になる筈がないと思う。

金像 アユタヤー時代(15世紀初め) チャオサームプラヤー国立博物館

ワット・ラーチャブラーナは、クメール王国のアンコール・トムを攻略したことで知られるアユタヤー王朝第8代王ポーロムマラーチャティラート2世(在位1424~48)が王位継承争いに倒れた実兄たちを偲び1424年の建立した寺院である。久しく放棄されていたが、1958年にこの寺院の大仏塔「ブラーン」の内部に設けられた「クル」と呼ばれる小空間から、総数1万点に及ぶ数々の黄金製品が発見された。この金象は、四肢を地に付け鼻を高く持ち上げた姿が印象的であり、躍動感にあふれており、象の頭部や胴部んは貴石を鏤めた装飾帯をめぐらし、背には貴人が乗るための豪華な輿(こし)を載せている。

カテイナ(功徳衣)法要図 1帖ラタナコーシン時代(1918)紙本着色 タイ国立図書館

アユタヤの国王が、僧院へカティナ(功徳衣)を献上に向かう場面を描いた折本写本。原図はアユタヤー時代、ナーラーイー王が1681年に創建した寺院、ワット・ヨムの布薩堂内の壁画である。本図は、アユタヤーの日本人を描いた資料として良く知られている。象に乗ったシャム指揮官や兵士が並ぶ行列の中に見える。鉈状の刀を刷く。日本人の衣には渦巻き模様が表されているが、タイでは見かけない模様の布地である。アユタヤの日本人たちは、一時期の勢力(1500人とも言われた)を失ったとは言えナーラーイ王の時代にも商人としての力を蓄えていた、当時は、本図のようにシャム人と一緒に僧院に寄付する日本人の姿を見ることがあったのだろう。

ラーマ2世王の大扉 ラタナコーシン時代(19世紀)  バンコク国立博物館

バンコクの名所、旧市街にそびえる大寺院「ワット・スタツト」。堂の入口で、熱帯の光をギラギラと反射する巨大な扉に圧倒される。19世紀に作られた高さ6mの木製の扉は足元から最上部まで精緻な彫刻が彫り込まれている。タイの文化を象徴する芸術作品である。同国の宝とされていた。だが大扉は1959年、寺院の火災で損傷した。劣化も進んでおり、バンコク国立博物館に移され修復が進められた。その時に日本の住友グループから寄金が寄せられた。それ以降、扉は門外不出となった。いま寺院の堂の入口に取り付けられているには別の扉である。今回、当初の大扉が、初めてタイ国外に持ち出され日本で展示されている。見上げるような金色の大扉である。動植物の文様が6層に彫り出されている。天まで伸びて枝を広げる木々にはボタンの花が咲き乱れ、マンゴーやザクロが実を付けている。蓮池には鹿や猿、虎が集い、鳥や虫が飛び交う。彫刻は多層彫りで、世界的に珍しいものである。楽園の情景のようだが、下部の洞窟にはヒマラヤの雪山に住むという人面鳥もみえる。猪熊主任研究員は「現実の世界ではなく、(仏教で世界の中心にあるとされる)須弥山を表現したと考えられる」と解説する。

 

タイ国の人々は、日本に親近感を持つ人が多いと言われる。「ほほ笑みの国・タイ」は日本人にとっても最も親しみやすい国である。食べ物も美味しいし、何時行っても楽しい国である。仏教国であり、常に手を合わせ挨拶をしてくれる様は、実に礼儀正しい国民と感じる。タイと日本の国交樹立から130年を紀念して、同国の1級の仏教作品が展示されている。私は、その初日に出かけ、楽しく拝観することができた。法輪、その頂板、ナーガ上の仏陀像、仏陀遊行像など説明文はいらない。そのまますっと入っていける美しい仏像である。大乗仏教と上座仏教という差はあるそうだが、殆ど違和感なく受け入れることが出来た。日本からも、仏像展のお返しをしなければ、ならないだろう。単に東南アジアの製造拠点とのみ考えないで、文化交流、文化外交を展開する拠点にするべきであろう。       (全く余談ながら、「黒川孝雄の美」が、「にほんブログ村」(974,230サイト)の中の「宗教美術」の部門で総合5位になった。他のブログと比較すると、やや難しい解説が余分かも知れないが、やはりこの程度の解説文は必要だろうと思い、継続する)

(本稿は、図録「タイ~仏の輝き~2017年」、日経新聞 2017年6月24日号 「特集 タイ~仏の国の輝き~」、日経新聞 2017年6月19日号「アート・ライフ」、日経新聞 2017年7月17日「アート ライフ」、8チャンネル 2017年7月25日「美の巨人 タイ~仏の輝き~」を参照した)

 

東京国立近代美術館 館蔵名品展(2017年春・夏)

東京国立近代美術館は、地下鉄竹橋駅近くにあり、交通の便も良いので、毎年2回は訪れる。展覧会の開催に合わせて、館蔵品名品展(略称MOMAT展)を行っている。展覧会よりも館蔵名品展を見る機会が多い。明治から昭和にかけての日本の名作を見るのが楽しみである。明治・大正・昭和の名品が多数(3,000点以上)保管されているが、興味を持つ作品は多分同じである。今回7作品を取り上げたが、過去に取り上げていることもある。「私の好きな作品」ということで、ご理解頂きたい。

重文 騎龍観音 原田直次郎作  1890年(明治23年) 護国寺蔵

明治になり、日本の画家達は、西洋絵画に倣って遠近法や陰影描写を取り入れ始めた。この作品は、受容の初期を代表する作例である。観音の前面は月に照らされて白く輝き、背面は龍の炎で照り返してほんのり赤く染まっている。雲の下にのぞく島影は日本列島だろうか。当時は「サーカスの綱渡りのようだ」と酷評もあったが、これを擁護したのが親友の森鴎外であった。ちなみに本作品は原田自身によって東京の護国寺に奉納され、1979年に東京近代美術館に寄託されたものである。長く護国寺の本堂に掲げられていたそうである。作者は江戸小石川(現東京都文京区)の生まれ、東京外語学校(現東京外語大学)を卒業後、高橋由一などについて油彩画を学び、ドイツに留学した経歴がある。2007年度に重要文化財に指定された。

重用文化財 行く春 屏風 六曲一双 川合玉堂作 1916年(大正5年)        右隻                      左隻

画家は前年の秋とこの年の春浅き頃に秩父へ旅行、長瀞から4里の川下りを楽しんでいる。そのおりの自然の大景観が制作のモチーフになっていると言われる。ここに描きだされているのは、対岸の巌にあわい光が映え、その照り返しに水のぬるみも感じられる桜花散る爛漫の春の景である。3艘の水車舟は川下りの観光船ではない。いずれも岸につなぎとめられ船の中では、水車を利用して穀物がひかれたのであろう。

バラと少女 村山槐多作 油彩・キャンパス 1917年(大正6年)

大きなバラが咲き乱れ、背の高い草の葉が風に揺れている。そんなうっそうとした場所に、頬を真っ赤に染め、口を半開きにした少女が立っている。凹凸をなるべく少なくし、丸太のように単純化された少女の胴は、まるで大木の幹にように描かれている。思春期を迎え、恋や性に目覚めつつある年頃の少女が、ここでは自然に同化したかのように描かれている。いわば、少女は、自分の中の自然の呼び声に気付きつつあるのである。私の好きな絵画である。

重文 湯女(ゆな)土田麦僊作絹本着色・屏風二曲一双 1918年(大正7年)

画面を覆い尽くす松の樹冠と藤の花の隙間からさまざまなものが見える。まず目に入るのは、真っ赤な襦袢をまとい縁側に横たわる湯女である。三味線を持つ別の湯女もいる。山並みや岩場を流れる渓流も見える。渓流や三味線は音の描写でもある。麦僊によれば「人間の生の力が湯女で表現されるように、自然の力は初夏で表現される」という。手前には雉の番(つがい)も見えるが、奥側の湯女に較べるとあまりにも小さい。つまり本作では、さまざまな視点から見られた空間がつぎはぎで構成されているわけである。しかもそのつなぎ目自体は、松や藤が色と形のバランスを調整しながら(つまり装飾的に)配されているのである。装飾性と空間表現との融合を目指した本作は、個性表現を主張して結成された国衙創作協会の第1回展で最も注目された作品であった。

重文エロシェンコ氏の像 中村彜作 油彩・キャンパス 1920年(大正9年)

モデルのヴァシリー・エロシェンコは、現在のロシア連邦に生まれ、鍼灸治療を学ぶために来日した。日本では文筆家として活動し、一時は新宿中村屋に身を寄せていた。本作を彜(つね)は、友人の画家・鶴田吾郎とイーゼルを並べて描いた。明暗のコントラストが強い鶴田の「盲目のエロシェンコ」(中村屋蔵)と比べると、本作が、薄く溶いた茶の絵具でやわらかくまとめているのは、彜がルノワールに心酔していたかわだろう。独自の表現として、額にかかる髪は比較的くっきりとしているのに対し、側頭部の巻き毛は背景に溶け込んでいる。いわば写真のピントの要領で、彫りの深い顔や頭部の量感を描き出しているのである。

舞妓林泉図 土田麦僊作 絹本着色・額  1924年(大正13年)

国画創作協会第4回展に出品された土田麦僊37歳の時の作品である。京都南禅寺の天珠庵の庭を背景に舞妓を描いているが、風景も人物も、画家の求める厳格な構成秩序のうちに平面的に様式化されている。麦僊自身はこの絵の制作意図について次のように語っている。「只純絵画的の眼」の仕事だと語り、さらに「若し私の遥かに求めている憧憬や、緊密な構成、自然の持つ美しい線、色、或いは日本民族に流れている優美等が幾分でも表現できていれば満足です。」ヨーロッパ遊学の重要な成果と考えられている。

春秋波濤 加山又造作  紙本彩色 六曲半双 1966年(昭和41年)

屏風は絵画的な装飾美を発揮するのにふさわしい形式であり、京都の西陣織の衣装図案を業とする家に生まれた加山又造のなかにある装飾的様式美の展開が、堰を切ったようにくりひろげられたに違いない。私は、一見して、現代の琳派であると感じた。春と秋を一つの空間におさめるというのは、一つの宇宙観の表現である。日本人の中にある東洋仏教の教えは、肉化されて、ここでは抹香臭く無く、むしろ一つの美意識に昇化されていると言って良いだろう。図録でも「琳派的にみやびであろう」と、賛美している。

 

日本近代の日本画・洋画を7点見たが、いずれも優れており、優越つけがたいが、私の好みで言えば、最後の加山又造氏の「春秋波濤」を第一に挙げたい。琳派の現代版であり、400年に亘って流れてきた美の伝統が、この作品に見事に表現されている。

 

(本稿は、図録「名品選 国立近代美術館のコレクションより」、図録「近代日本の美術」を参照した)

入江一子シルクロード記念館   

今年は、NHKの大河ドラマを見ないで、2チャンネルの日曜美術館を見ることにしている。6月25日の午後8時の日曜美術館では、思いがけず入江一子さんが(101歳)最初の45分間登場され、彼女の初期作品を始め、晩年の「シルクロードの旅」の名作を何点も招介され、シルクロードの難路を歩く映像とともに、作品を招介する番組であり、実に楽しく見せてもらった。番組の最後に、彼女の自宅の1階に「入江一子シルクロード記念館」として開放していることを知った。ネットで調べたところ、阿佐ヶ谷駅(中央線)の近くで、毎週、金・土・日の3日間11時~17時までの間、開館していることが判った。かねて、入江さんの「シルクロードの旅」展では、100号~200号の大型絵画で、シルクロードを描いていることを知っていた私にとっては、是非、拝観したい記念館であった。家内もかねがね、私から「入江一子シルクロード展」については聞き及んでおり、是非、次回の日曜日に阿佐ヶ谷を訪れようと決まった。               7月2日の日曜日、都議選の投票を終わって、午後1時頃に立川経由で阿佐ヶ谷駅に向かった。日曜日は、中央線は止まらないことを知っていたので、三鷹駅で総武線に乗り換え、待望の阿佐ヶ谷駅へ到着したのが午後2時頃であった。地図では、徒歩6分とあったが、かなり入り組んだ場所のため、タクシーで記念館の近くまで行った。

入江一子シルクロード記念館

入江さんの自宅の1階を開放し、「シルクロード記念館」としたものである。   1階は入口を入ると、三間からなり、入口の1間は、かなり広い、アトリエと思われる部屋であり、200号のシルクロードの絵画が5枚飾られていた。奥の2間は比較的狭く、小品(10号、20号、30号位)を展示していた。

看板

一番奥まった鉄筋の建物であるが、入口の近くには「入江一子シルクロード記念館」の看板が出ていた。午後2時頃の観客は10組程度であった。入口には、入江さんの絵画(0号5万円から10万円)、カラー写真多数、「色彩自在」三五館、「ニューヨーク古展凱旋記念入江一子展」2012年1月 日本橋三越図録、等のグッズを多数販売していた。1階のアトリエには、5枚の「シルクロードの絵画」が展示されていた。

ジェールフナー広場(マラケシュ) モロッコ  200号

1977年12月から翌78年1月まで、モロッコを訪ねた時の作品である。(以下「色彩自在」より引用)                        「マラケシュに到着し、ジェーエルフナー広場には、色とりどりの品を積んだ店が開き、様々な大道芸人が集まって客を呼びます。踊り子、アクロバット、奇術師、ヘビ使い、そのほか世にも奇妙な連中がやってきて芸を披露しては祝儀をもらっています。ここでも日除けに使っているパラソルが花が咲いたように美しく、私はスケッチしたいと思いましたが、あまりにも人が多くて描けるような状態ではありません。ふと見ると、少し高いところにチャイハナ(喫茶店)を見つけ、私は店に入りました。するとどうでしょう。広場が一望に見渡せ、パラソルの美しい絵模様が見えます、やっと、私はここで落ち着いて絵を描くことができました。」

ホータンのまちかど(タクラマカン砂漠)

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀の続く小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。”君が中途で止めておく手腕があれば、君は近々絵を描ける様になったと思います”。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かるようになりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばっております」(色彩自在より)「がんばっています」と言う言葉が、新鮮に聞こえました。

トルファンの祭りの日

「遠近法により3人の女性を中心に集める構図にするため、実際周りにいた楽師たちは構成上、背後に抑えて描きました。ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグル人の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980年8月7日に訪ねることができたのです。スケッチは完成しました。そうして、個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描き続けました。」(色彩自在より)

敦煌飛天  200号  第47回独立展

「飛天だけ見ても楽しく、私は320窟の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても描き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないのです。男性の通訳が見張りをしています。しかも、中は真っ暗で、本来は、外国人に模写させないのですが、懐中電灯を灯りとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟の壊れかけた木の階段をリュックサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした私闘の結果200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです」(色彩自在より)敦煌莫高窟は、写真は元より、模写も厳しく禁止されています。拳銃をもって警察が警備していますので、私も残念ながら写真を撮影することが出来ませんでした。入江さんの根性に感心しました。

チューリップを持つ人形(円窓)  2002年  40.0×32.0cm

アフガニスタンの少女(円窓)  2002年   49.5×40.0cm

2号室、3号室は、比較的小さな作品やスケッチが並んでいた。スケッチは画家にとって命であると入江さんは言っている。「色彩自由」の中で1979年12月にポルトガルのリスボンの街のロッシオ広場でパラソルの花と噴水の石像を10号のスケッチブックを見開きして20号の絵を描いたが、シェスタ(昼休み)に「おもちゃ屋」に立ち寄り馬のオモチャを買って、店の外に出たとたん、スケッチブックを店の中に置き忘れたことを思い出し、そのドアをたたいたが、もう(昼営業が終り)扉が固く閉ざされて入ることが出来なかった。開店は「午後3時」ということで、言葉は通じないし、外国は厳しいとところだなと思いました。3時きっちりに店の人が来て、「「はい」とスケッチブックを渡してくれた。「私にとっては死ぬほどの思いでした。これは単に物をなくすという問題ではないのです。旅行の間じゅうに描き込んだものですから、中にはそれこそ生涯忘れられない思い出が詰まっているのです。スケッチブックを無くすほど悲しいことはないのですから」(「色彩自在」より)その命に次に大切な、シルクロードのスケッチブックが、何冊も並べてあり、事務員2名で、大丈夫かと思う程のあかっぴろげな記念館でした。

3号室は、日常「お勝手」として使用している部分で、入江一子さん日常生活を丸見えになっており、女流画家の一面を会間見る思いがした。入場料はわずか500円ですが、なかなか展覧会が毎年あるわけでは無いので、数点の200号の絵画や、小品の絵画でも常時見られることは、入江ファンに取っては、大変ありがたい施設である。入江さんは、鎌倉にもアトリエをお持ちなので、開館日は鎌倉で制作に励んでおられると推察した。

入江一子シルクロード記念館の詳細                       TEL    03-3338-0239                  所在     東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-8-19            (JR阿佐ヶ谷駅北口、徒歩6分タクシーに場所を言えば近くまで行く470円)開館  毎週金・土・日曜日  11時~17時               休館年末年始(12月25日~1月3日)                  入館料  500円(中・高生300円、小学校以下は無料)

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展 シルクロードに魅せられて」、「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」を参照した)

水墨の風  長谷川等伯と雪舟

出光美術館で「水墨の風  長谷川等伯と雪舟」と題する展覧会が7月17日まで開催されている。この副題の「長谷川等伯と雪舟」という言葉に惹き付けられて、この展覧会を見た。しかし、内容は「水墨の風」であり、肝心の雪舟と等伯は、極めて少数の展示であった。そこで、この「美」では、出光美術館にとらわれず、「雪舟と長谷川等伯」の2名に極力絞って(既に東京国立博物館で見た作品を加えた)解説することにする。展覧会の実態である第3章「室町水墨の広がり」、第4章「近世水墨ー狩野派、そして文人派へ」は割愛した。さて、「風」という文字は「かぜ」以外に「ふう」とも読める。この「水墨の風」と言う展覧会は、会場を流れている涼感を「風」(かぜ)になぞらえると同時に、水墨画の「風=様式・姿」に焦点を当てたものでもある。日本の水墨画において、作品はいかにして過去の遺風を受け、いかに創り上げていくのか。この稿では、雪舟(1420~1506)と長谷川等伯(1539~1601)という、日本の水墨画を考える上で外すことの出来ない二人の画家を見ながら、その「風」の生成の様を追っていくことにする。                                   まず、雪舟について簡単に履歴について触れたい。(以下図録の「田中論文」から引用)雪舟は応永2年に備中(岡山県西部)に生まれて、総社の宝福寺で少年時代を過ごし、その後京都の名刹・相国寺で春林周藤について修行し、また絵を周文に学んだとされる。亨徳3年(1454)に周防国(現在の山口県)へと移住する。彼は雪舟等楊(せつしゅうとうよう)と名乗るのも移住後の46歳(1465)以降のことである。当時この地を治めていた大内氏は、大陸との交易によって繁栄を極めており、応仁元年(1469)に雪舟は、この大内氏が主導する第12回遣明使に随行し、文明元年(1469)まで足かけ3年間を中国で過ごした。帰国時の雪舟は数えで50歳であった。当時としてはもはや老境と言っても過言ではない年齢だが、これ以降が我々の知る「雪舟」の画業の始まりである。帰国後の雪舟は大分に滞在し、そこで「天開図画廊」(てんかいとがろう)というアトリエを構えていた。この頃、雪舟は自身の言葉で「水墨の源流は玉澗(ぎょくかん)」としている。玉澗(1180年頃~1270)は、中国の王朝が南宋から元へと交代する激動の時代に活躍した僧侶である。その伝記によれば彼は、務州金華(現在の浙江省金華市)の生まれで、玉澗はその号である。9歳で出家得度し、後に臨安(りんあん)第一の名刹として知られる天台寺院・上天竺寺(じょうてんじくじ)の書紀にまで登った。晩年は故郷の金華に帰り、諸国遍歴によって高められた画才は生前に知れ渡り、その画を求めるものは引きも切らなかったと言われる。玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知られ、現存する主要な作品は日本に集中している。本展では、この玉澗の作品の中でも特に名品とされる「山市晴嵐図」が出品されている。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗作 紙本墨画 南宋末期~元時代初期 出光美術館

画面の下には、叩きつけるような濃墨のかたまりが三つ。一方その上には、水気をたっぷり含んだ淡墨の盛り上がりがスケッチ風に描かれている。いずれの筆致も「絵画」と呼ぶには荒々しすぎ、紙の上にぶちまけられた墨にしか見えない。しかし、そこには木橋を示す墨線といくつかの人家の屋根、そして荷を担ぐ旅人の姿が配されることによって、山並みに抱かれた里山の情景が燦然と浮かび上がってくる。一見考えなしに紙面に垂らしただけかのような墨の配置も、実は山並みの奥行きを表現するための周到な計算に基づくものであることがわかる。物としての墨が意味を持つ絵となり、抽象が具象へと変容する。このダイナミズムこそ、本作最大の見せどころである。本作は「瀟湘八景」(しょうしょうはちけい)のうち「山市晴嵐」(さんしせいらん)を描くもので、玉瀾画の中でも特に名品として知られる。足利将軍家が所蔵し、もとは八景まとめて一巻仕立てであったものを各景に分断したとされ、現存するものは本作のほかに「遠景帰帆図」(重文、徳川美術館)と「洞庭秋月図」(重文、文化庁)がある。その後本作は、豊臣秀吉、金森可重、松平不昧公など、当代一級の権力者・茶人などの所属を経ている。

重要文化財 平沙落雁図 牧谿作  紙本墨画  南宋時代  出光美術館

画面の右側を見ると葦に生える水辺、そして左側に列をなして飛ぶ雁の群れと、雲間から顔を見せる遠山が描かれる。夕暮れ時のかすみが立ちこめる空間の中にわずかに見出せる景物を、そのはかない印象のままに描き出したかのような情景が、画面に定着している。「平沙落雁」の景を描く本作も、玉澗の「山市晴嵐図」と同じく、もとは巻子巻であったものを、所有者であった足利義満(1358~1408)がお茶席に掛けるために切断し、現在の形になっている。本作の他に「煙寺晩鐘図」(国宝、畠山記念館)、「漁村有照図」(国宝、根津美術館)、「遠帆帰帆図」(重要文化財、京都国立博物館)の三幅の現存が確認されている。本作はその後、豊臣秀吉の手に渡り、以後上杉景勝、徳川秀忠、越前松平家、石野家、佐々木家の所蔵を経た。越前松平家については、松平忠直郷が、大阪夏の陣で大阪方の首級3600余りを数えたが、恩賞は、この「平沙落雁図」と「初花の茶入れ」のみで、加増が無かったことに不満を持ったと伝えられている。      本作の作者牧谿(もっけい)(生没年不詳)は、南宋末から元初の僧で、南宋を代表する禅僧・無準師範(むじゅんしはん、1177~1249)の法嗣として、杭州六通寺を復興したことで知られている。その画作は、日本においては玉澗とともに珍重され、数多くの追随者を生んだ。例えば、長谷川等伯の画作には、その影響が色濃く反映されている。

破墨山水図  雪舟作 賛/景徐周麟  紙本墨画  室町時代 出光美術館

たっぷりと水気を含んだ墨を縦横に走らせ、そこに濃墨で舟と樹木、そして家屋を配し、水辺の里の情景を描き出す水墨画である。筆さばきはあくまでも速く、あちこちに滲み(にじみ)が生じているが、それがかえって水場から立ち上がる湿潤な空気感を見事に表現している。                       本作の様式が玉澗の画法に則ったものであることは言うまでもない。雪舟は、その画歴の全般にわたって玉澗の水墨画を描き続けている。

国宝 破墨山水図(部分) 雪舟作 紙本墨画一福 明応4年(1495)東京国立博物館

上に挙げた「破墨山水図」に比べると、ずっと瀟洒なものになっている。明応4年(1495)の春、修行を終えて別れ行く弟子如水宗淵(じょすいそうえん)に与えたもので、雪舟自身が絵の由来を記している。室町絵画にはきわめて珍しい画師自身の言葉である。禅宗では弟子が一人前になると師の肖像(頂像)(ちんそう)を描かせて、詩(賛)を書いてもらい伝法の証とする。この絵は、雪舟から宗淵に与えたときには、自題の上には広い空白があった。宗淵は京へ上って有名僧の間を巡り、そこに詩を書いてもらう。上二段(この絵は下のみで、上の詩は見えない)の六つの詩がそれである。雪舟と宗淵の子弟関係は、禅宗界中央の高僧たちの詩に詠みこまれて、より権威づけられたものになる訳だ。雪舟も当然それおを意識していた。自題のなかで、雪舟は、中国へ渡った経験など画師としての自負を語っている。弟子に与えた絵の中で、雪舟は自分のアッピールをしているのだ。絵のほうにも雪舟独特の荒々しさがない。五山の禅僧たちを意識して、都風の瀟洒なものにしたのだろう。それが成功して穏やかな墨のトーンのなかに素直に山や霞や岩をイメージすることができる。(本作は、出光美術館に展示されているものでは無い。黒田論文から引用したものである)

布袋・山水図 雪村作  紙本墨画  三幅  室町時代  出光美術館

  

中幅には頭陀袋に乗った布袋が、片手に杖、もう一方に団扇を持ち、にこやかに笑みを浮かべている。そして各福に配されるのは、玉澗様の水墨三水。右幅の画面上には月、または左幅には寺院を表す塔が描きこまれていることからすれば、右幅は「瀟湘八景」の「洞庭秋景」、左幅は「遠寺晩鐘」にも当てはめることが出来る。布袋があおぐ、団扇から生じる風が、両脇の山水へ吹きぬけているかのようにも見える、ユーモラスな三幅対の作品である。雪村(生没年不詳)は、室町時代から戦国時代にあけて、主に関東を中心に活躍した画僧であり、雪舟に私淑したとも言われている。本作においても量感あふれる布袋の描写は見事であるが、とりわけ左右幅に見られる的確な筆墨には、玉澗風に対する雪村の理解の深さをうかがわせる。

重要文化財 四季花鳥図屏風 能阿弥作 四曲一双 紙本墨画 応仁3年(1469)出光美術館

四曲一双という室町時代としては珍しい形式の屏風ながら、両隻を横並びに立ててみると、左右両端と中央に主要な景物を配する、安定感のある構図ができあがる。右隻には松、左右隻にまたがる中央部には蓮、そして左隻左端には枯木と竹を配し、それを背景として叭々鳥、白鷺、燕、鴛鴦、鳩などの禽獣たちが描かれている。鳥たちの楽園ともいうべき空間があらわされている。           画中に描き込まれたモチーフは、いずれも水墨花鳥の典範としてその名をとどろかせた牧谿の画作からの引用であることが指摘されている。まさに「牧谿づくし」ともいうべき作品である。室町時代において典範となる画家の画風は「様」(よう)と呼ばれ、この「様」を忠実に守っているか否かが、絵画の制作、および作品の評価における重要な基準となった。とりわけ「牧谿様」は、こうした基準の頂点に君臨するものであり、後世に至るまで脈々と受け継がれた。長谷川等伯も牧谿様の作品を数多く描いていることは、この基準がいかに強固なものであったのかを如実に物語っている。本作は能阿弥の代表作かつ制作年の判明している最古の水墨花鳥図という点において貴重であり、また制作年、受容者、そして制作動機が判明しているという点においても他に類例を見ない作品である。

竹鶴図屏風(左隻) 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画 桃山時代 出光美術館

牧谿筆「観音猿鶴図」の鑑賞体験によって描かれた作品である。現在は屏風であるが、紙継や引手跡によって当初は襖であったことが知られる。左隻の竹林を背にして啼く鶴の姿は、牧谿画の鶴図そのままといえるほどである。しかし、本作品にも牧谿にはない解釈がなされている。それは右隻の巣籠りする雌鶴の存在である。牧谿画猿鶴図は筆者の宗教者としての世界観を象徴し、親子間の愛情も描かれているが、等伯画では、雄鶴の雌への愛情も示す解釈が加えられているのだ。番(つがい)間の情愛表現である。牧谿画で解き明かされた自然界の奥行きを表現する深遠なる墨の濃淡表現に、等伯は日本人に親近される光のもつ温もりに共感を寄せ、それを象徴するように動物の温もりを描いてみせたのではないだろうか。本作品中の竹林の墨の諧調の効いた表現は、「松林図屏風」(国宝)の松林の表現に通じると思う。

松に鴉・柳に白鷺図屏風 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画淡彩 桃山時代 出光美術館

右隻には巨大な松樹があり、その一枝には鴉が巣を作り、母鳥の下には三羽の雛鳥が見える。近くの枝には餌を運んできたのだろうか、父鳥が止まり、さらに雛鳥たちに餌の催促をされているように映る。左隻では雪景色のなか、柳の古木に一羽の白鷺が佇み、さらに一羽の白鷺が飛来しようとしている。番(つがい)の白鷺の情愛の交歓の場のように映る。本作品には鴉一家の愛情と番の白鷺の情愛の交歓という、動物の感性そのものが描かれていることに加え、右隻の中央よりの松樹がもたす構図の不安定感は「松林図屏風」(国宝)に繋がる新しさであることと、水墨画において黒い鳥は叭々鳥に代わり、古来忌避されてきた鴉をその家族愛というテーマに変えて表現した点に、等伯の水墨画制作における清新な意欲を感じる。このような表現における平明さがいかにも近世的であるし、単に牧谿画の模倣に終始しなかった等伯の真面目(しんめんもく)である。さらに上方には「備陽雪舟筆」という署名の痕跡があり、永い間、雪舟の作品と思われてきた。

国宝 松林図屏風 長谷川等伯作 六曲一双紙本墨画 桃山時代 東京国立博物館

遙かに連なる松林を、四つの樹叢(きむら)に象徴させて描く。左隻にはかすかに雪山が見え、冬の到来が真近にせまった晩秋の風景を思わせる。朝霧なのか、暮色なのか、いずれにしても、刻々と表情を変えていく一日のなかのもっともデリケートに移ろいゆく時間の投影である。まもなく光と大気はその色を変え、やがてこの風景は喪失される。そしてそこには風景に寄せる鑑賞者の憧れだけが残るのであろう。藁筆(わらふで)様の筆での表現は、明らかに牧谿画に拠ったものであるし、光への興味の表れは、玉澗画に拠ったものかもしれない。           牧谿画鑑賞体験後、動物の感性そのものを描くことによって、情感表現を志した等伯が到達した情趣表現の極致であることはいうまでもなく、更に言えば、日本人に親近される水墨画の自律を告げる作品でもある。(本作は、出光美術館で展示しているものでは無い)

 

「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟」と題する出光美術館の展覧会の、第3章以降は思い切ってカットし、「雪舟」と「等伯」に絞り込んでみた。理由は、絞り込んだ方が、深く掛けることと、美術館で販売している写真が少なく、到底全部を書くことは不可能であると思ったからである。その代り、雪舟、等伯とも、展覧会に陳列されていない屏風を2双出した。この2双は、いずれも国宝であり、東京国立博物館の所蔵である。たまたま、その写真を持っていたので、参考に資するために、展示した。水墨画については、まだまだ勉強する点が多いが、この企画展と図録の田中論文には勉強させられた。篤く御礼申し上げたい。

 

(本稿は、図録「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟  2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、新潮日本美術文庫「第1 雪舟」、新潮日本美術文庫「第4 長谷川等伯」、安倍龍太郎「等伯 上・下」を参照した)

「黒川孝雄の美」200編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、100編に至るまで約3年を要した。1ケ月につき3偏を書いた勘定である。2014年7月26日号の「国東半島の六郷満山文化を巡る」が、丁度100編に当たる。概ね1ケ月に3回の割で書いてきたことになる。2014年8月5日の「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」が101編目に当たる。その後2015年12月29日の「神奈川県立美術館 所蔵名品展」まで、書き綴り約180編にまで至った。概ね、1ケ月に4.7編の割になり、かなりピッチを上げたことが判る。                                             しかし、悲劇は、その直後に起きた。年齢も満80歳にとなり、(株)フランチャイズ研究所の仕事を閉鎖しようとして、従来パソコン(2台)、ブログ一切の管理を依頼していた会社から、管理会社を2016年1月1日付で変更することにした。勿論、コストが安くなることも魅力であったが、大きな会社組織で、様々なサービスを割安で受けられるメリットを感じたからである。十分打合せをし、万全を期した積りであったが、なんとブログが1月4日に全部喪失してしまった。よくよく事情を調べてみたら、私は、従来のブログの管理会社をそのまま使用し、その管理(年間維持費の支払い等)を新会社に依頼する予定であったが、新会社は自社のブログを利用する方式を検討していたのである。ブログ180編は、かくして全部抹消されたのである。幸い、最初の100編は、CDに焼き付けて、友人・知人に配布し、私の手元にも5枚ほど残っている。(「黒川孝雄の美」 第Ⅰ輯)     問題は、その後の80編の回復である。美術展の回復は諦めた。奈良・京都の古寺巡礼は、逐次回復していく方針である。(幸い原稿と写真は手元に残っているので、若干の修正・補正を加えて回復する方針である。)しかし、いまだに回復はしていない。                                                             気分も新しく、2016年1月4日に「智積院 等伯一門の障壁画と庭園」から書き始め、2017年6月19日に「新薬師寺  十二神将の寺」で、無事200編となった。101編から200編までは、5.5日に1回の割(1ケ月に6編の割)で書いたことになる。                         私にとっては、書き易い記事は、奈良・京都の古寺巡礼である。大学生時代から65年に及ぶ経験があり、ほぼすべての古寺には拝観した記憶がある。仏像にも愛情が多い。50年、60年経っての記憶であるだけに鮮明に思い出すことが多い。逆に、書き難い記事は、西洋中世の美術である。16世紀~20世紀の西洋美術は、せいぜい30年から50年程度の知識しかなく、親近感も薄い。印象派とか日本近代美術は、見る機会が多かったが、その以外の抽象画には、出来るだけ近づかないようにしている。                           現在1ケ月のアクセスは6千回であり、単純に日割りすれば1日200回である。これが多いか少ないかは分からないが、毎月増加していることは間違いない。望洋会に記事が紹介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻須美術館」からである。紹介されると、その後の3日間で20アクセスが増加する。望洋会の会員の中で、メールを操作できるのは15名程度と聞いているので、5名は望洋会以外の方が記事を見てアクセスされるものと思う。               さて、これから201回目に向かう訳だが、ピッチは落とさず、月間6回、年間70回を目途に、再開したいと思う。最終的な目標は500回を目指している。計算では4年程度を要することになる。別に、急ぐ仕事も無く、「美」の記事を書くことを楽しみにして、生きたい。多分、命ある限り、美への愛着は尽きることは無いと思う。                                  今後は、美術展や、古寺巡礼だけに頼らないで、私の「日本美術論」例えば「琳派の美」、「岩佐又兵衛論」、「北斎論」、「尾形光琳論」など、私の好きな画風、画家を自分の意見で書いてみたいと思う。そのように考えていたら、年来の友人であるY君から注文があった。「日本人の美における、わび、さび、ひょうげ、について」をまとめてくれとの依頼であった。                  本格的な茶道を正規に学んでいない私にとっては難題であるが、年来の友人からの依頼であるから、是非挑戦してみたい。このように考えると、生涯を掛けた美術論の研究が必要になり、改めて基礎から学び直す覚悟が必要になるであろう。      今、一番興味があるのは江戸時代である。江戸時代については、従来あまり興味もなく、知識もなかったが、浮世絵や岩佐又兵衛を調べる間に、すっかり虜になり、江戸時代の文物、歴史、思想に強い興味を持つに至った。           なお、200編記念のCDを作る計画であるので、親しい方には配布したいと思う。(「黒川孝雄の美」 第Ⅱ輯)                                            なお、望洋会HPへのアップについては、佐藤治、中山明俊の両学兄に大変お世話になった。篤くお礼申し上げる。

 

「バベルの塔」展(2)

 

「旧約聖書」は、特に冒頭に位置する「創世記」に記された物語はキリスト教徒にとっては、欠くべからざる教養であり、「創世記」に記された物語の造形化は、ローマ末期にキリスト教公認の前後から盛んに行われてきた。例えば「アダムとイブの原罪」・「「アベルを殺すカイン」・「ノアの方舟」・「バベルの塔」等、数えきれない名画や名作として伝えられてきた。キリスト教徒でもない、私でも、これらの物語は、小説や図像や、映画で何回も見ており、日本の神話以上に詳しい。これに較べて日本の神話は惨めである。現在、日本の子どもで、満足に日本神話を知っている子供は皆無であろう。日本神話に関する絵本も無い。(マンガの世界は知らない)私は、神話とは、民族の旧い記憶であると考えている。確かに、戦前、日本神話を悪用して「天皇は神である」という滑稽な話を創造して、日本を危険な方向に導いた人は多数いた。しかし、私は子供心に「神話は神話、本当の話ではない」と、思い続けたが、しかし「民族の記憶」として、何かしら、遠い記憶に繋がるエトバスがあると考えていた。キリスト教徒は、創世記に書かれたことは、かなり真実として理解しているようである。「絵で読む聖書」「聖書名画集」等で、大人も子供も親しんでいるようである。また新約聖書の「最後の晩餐」はダビンチの名画として残り、これを真実と思い込んでいるキリスト教徒は、大半であろう。さて、ブリーゲルの「バベルの塔」は2枚ある。1枚はウイーン美術館の「バベルの塔」であり、こちらの絵が大きく、画集に載るのはこちらが多い。これに較べるとボイスマン美術館の「バベルの塔」は、サイズが4分の1程度であり、基本的にウイーンの絵の「焼き直し」と捉えられているせいか、知名度も低い。しかし、実際に、ボイスマン美術館の「バベルの塔」に接して見ると、色彩の鮮やかさなど、第一作に比べて見劣りしない、第一級の絵画である。東京芸術大学では、3DによるCG画法を用いて原作の30倍以上の大きさで、展示している。(7月2日まで)3分間、CGが映し出され、その後「落雷、消灯」で終わりを告げ、また3分間のCG映写が始まる。之を見ると、いかに精彩に描かれているか、「マクロトとミクロ」の統合が行われているか等、学ぶべき点が多い。絵画をご覧になる方は、是非、東京芸大まで足を延ばして頂きたい。

「バベルの塔」 ブリューゲルⅠ世作  油彩・板 1568年ボイスマン美術館

旧約聖書の「創世記」の末尾に「バベルの塔」の物語は、次のように記されている。”世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。彼らは「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地の散らされることのないようにしょう」と言った。主は降ってきて、人の子が建てた、塔の有る町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ(バラル)、また、主がそこから彼らを全地に散らかされたのである。”(「創世記」11章ー9節)聖書ではバベルを地名として、混乱を意味するバラルをその語源として説明しているが、今日では「バベルの塔」はバビロンにあった大規模なジックラッド(階層式構成の角型の塔)が伝説化されたものと考えられている。

バベルの塔(最上部) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作    1568年

材木で足場を組んだ上に煉瓦をはめて固定し、足場を解体する当時の建築技法が正確に描かれている。赤い表面からはまだ煉瓦が新しいことがわかり、時間が経過したことを感じる。土色の底辺部との違いが際立っている。

バベルの塔(中央部左側) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

ブリューゲルの観察力の鋭さは、煉瓦の色の違いを見ると良くわかる。低層部・中層部が風雨にさらされて灰色なのに、最上部が鮮やかな赤を保つのは、工事が大変に長く続いているせいだろう。地上から頂上部へ漆喰を運んだ白い痕がついている。運搬の途中に落ちた漆喰の粉をかぶったのか、真っ白になった人々の様子が描かれている。中層部にも上層部にも、働く大勢の人がいる。全部で1400人余の人が描かれているそうだ。

バベルの塔(中央部左側)  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  1568年

16世紀のネーデルランドの港などで荷揚げに使われたクレーンの様子が描かれている。人が綱を引くことで、車輪がロープを巻き取り、ロープに吊るされた荷物を引き上げる様が描かれている。ブリューゲルは16世紀の建築や土木技術にも強い関心を向けていたことが読み取れる。

バベルの塔に描かれた沢山の舟は、ブリューゲルが舟の構造について詳しい知識を持っていたことを示すものである。当時のネーデルランドの航海術は、ヨーロッパでは独特の地位を占めており、木材を輸入する際には海路を利用していたから、港の周りには材木が並ぶ様子も描かれている。

バベルの塔(上層部右側) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

雲が掛っている。それ程の高さなのであろう。上層部にも工事のための仮小屋が立ち、下から煉瓦を運んだのだろであろう。働く人たちが点で表されている。マクロとミクロの見事な調和である。

 

「バベルの塔」は、人間の愚かさに神が鉄槌を下す物語である。手にした技術を駆使して、天にも届かんとする塔の建設を企てた人間への制裁。ブリューゲルが絵の舞台に選んだとされる当時のアントワープは国際貿易のハブとして最盛期を迎え、建設ラッシュだっただろう。この絵には人々への戒めの意図があったのだろうか?ボイスマン美術館のフリーゾ・ラメルツさんは「確かに戒めの意図もあったろう。しかし鉄槌が下る前の良き時代をポジチブに振り返る絵、とも解釈できます。」この1568年こそ、オランダはスペインから独立すべく80年戦争が勃発した記念すべき年であったのである。

 

(本稿は、図録「バベルの塔展   2017年」、2017年1月号「大人のOFF」、朝日新聞記念号外「別摺り特集」、岡崎邦彦「繁栄と衰退」を参照した)