奇想の系譜 (3) 狩野山雪 歌川国芳 白隠慧鶴

狩野山雪(1560~1651)は、桃山時代の文化がピークを迎える天正18年(1590)、狩野永徳が没した年に九州肥前国に生まれた。京狩野初代の山楽に16歳のころ弟子いりし、その後婿養子となった。その意味で、山雪も伝統的画家の修行をしっかりと積んだ画家であった。徳川幕府の成立により、探幽ら狩野本家筋が江戸へ拠点を移したのに対し、、京に残った山楽・山雪の系統は後に「京狩野」と呼ばれる。妙心寺や清水寺、東福寺など京都の大寺院のための作画を多く残した。生来学者肌で漢学に通じ文化人的な資質を持ち、日本で最初の画家伝である「本朝画史」は、山雪の原稿を元に息子の狩野永徳が完成させた。伝問的な画題を独自の視点で再開釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学的構成で知られる。

重要文化財 梅花遊禽図襖(ばいかゆうきんずふすま)四面 紙本金着色狩野山雪(寛永8年(1631)京都・天球院

永徳の没後、狩野はを含む画壇全体は、永徳の晩年の「奇々怪々」な表現に追随することをむしろあきらめ、より整った、優美な装飾形式を追及する方向に移りつつあった。それは関ケ原合戦以後、新しい閉鎖的な封建秩序の確立に向かって動き出した徳川幕府の政策と微妙に呼応するものでもあzった。山楽はひとりそうした動向の外にあって、師の創始になる、正に桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、正に桃山の巨匠の最後の生き残りであったわけである。私は昭和45年4がつから昭和50年10月まで、2年半、京都」支店長を務めたことがある。京都は私の好みに合い、古寺巡礼を楽しみ、年間200ケ寺を回っていた。タクシーに乗れば、京都の運転手さんは、行先を告げると、必ずそのお寺の蘊蓄を語ってくれるものである。それに対し、私は「そういう説もあるが、私はむしろ、この意見を採用する」等一言すると、運転手さんは、「大学の先生ですか?」と聞いてくる。私は「まあ、そんなような者だ」と曖昧に答えて、降りる際に会社のチケットを切ると「ああ、明治の支店長さんですか!」と答えられたものであった。京都のタクシーの運転手の中では、多少名前が通っていたようである。さて、数多くのお寺の絵画や仏像を拝見したが、妙心寺の塔頭・天球院だけは、固く門を閉ざして公開してくれなかった。天球院は、寛永8年(1631)姫路城主池田照正の妹に当たる探求院殿の発意で、妙心寺内に創立された。この時方丈に描かれた襖絵は、桃山障壁画の最後を飾るものとして名高かった。この障壁画は、狩野山楽の筆と伝えられてきたが、山楽は70才を超える高齢であり、近年、狩野山楽の弟子・山雪のの手におると推定され、議論を呼んだが、この「梅花裕禽図襖」は、私は狩野山楽筆と、信じている。この天球院の襖絵を是非、拝観したいと思って40年経つが、非情にも唯の1回も開扉されることは無かった。今回「奇想の系譜展」で、天球院の襖図が一部開扉されることを知り、正に天にも昇る気持ちであった。この襖絵については、正に辻暢雄氏の「桃山の巨木の痙攣」という一言で、紹介したい。あまり多くを語りたくない。

重要文化財 寒山拾得図 一巻 紙本墨画 狩野山雪作京都・真正極楽寺・真如円

ボサボサ頭、気味悪い笑いを浮かべた男二人は、奇想天外な行動をとって常識を超越し、禅宗絵画の脱俗のキャラクターとなった唐代の僧である。画面上、頭のサイズは人の顔よりずっと大きい。手前の寒山の肩に置かれた拾得の左手、鋭く伸びた爪が肩に食い込んでいるようで痛そうである。この不気味な表情は、伝顔輝筆「寒山拾得図」(東京国立博物館)のような中国元代の顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝画の顔を吸い込みであるのに対し、このすさまじいほどの迫力はどうだろうか。丸みを帯びた逆台形は、三雪画に頻出する独得の顔であり、伝顔輝画をもとに、山雪は幾何学的デホルメを加えている。一目みたら忘れられない強烈なビジュアル、夢に現れてほしくないグロテクスクな人物像の迫力である。

歌川国芳は、寛正9年(1797)、江戸日本橋の紺屋の家に生まれた。生粋の江戸っ子である。広重とは丁度同年で、北斎より37年後輩に当たる。父の友人であった歌川国芳が鍾馗の図を見て12歳の時に弟子とした。兄弟子に国貞がおり、役者絵や美人画を描き、かつリアルに描くことで通名であった。国芳の魅力は、大画面(例えば3枚続き)で、物語を描き、かつリアルに描くことで大いに受けた。また、猫が好きで、ユーモアを解する江戸っ子であった。私も国芳の大ファンである。

相馬の古内裏 大判3枚 弘化2年~3年(1845~46) 歌川国芳作 千葉・成田霊公院

「相馬の古内裏」は、文化3年刊の読本、山東京伝「善治安安方忠義伝」に基ずく。平将門の遺児滝夜叉は、弟の将軍平吉門と共に筑波山の蝦蟇の精霊肉芝仙(にくしせん)から妖術を授かり、荒れ果てた相馬の古内裏を巣窟として、亡父将門の遺志をついで謀反を企てるが、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨に置き換え、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨と置き換え、夜叉姫と遭遇する場面とを繋ぎ合わせている。闇の奥から前面に押し出してくる巨大な骸骨の動きに対して、破れ御簾の滑るような動きが画面を斜めに走る。骸骨は解剖学的にも正確なものとされ、国芳がリアルな描写のために研究努力したことが示される。単なる標本的な骸骨では無く、動きがリアルな描写のために研究努力したことが示される。

宮本武蔵の鯨退治 大判3枚続き 弘化4年(1851)頃 歌川国芳

図中に「宮本武蔵は肥後の産にして後、備前に来たって奉仕す また諸国めぐりて剣術を修行す ある時備前の国の海上に大いなる背美鯨をさしとふす」との説明が付されている。何と大胆な構図で、鯨の巨体を表すために画面の端から端までが最大限に使われている。鯨の体には白点がありリズミカルに施されている。牡蠣殻が付いたものとされる。鯨の形については、享和3年(1803)司馬江漢の「西洋旅譚」の鯨の図も産照したものと見られる。幕末ぎりぎりの時期であり、西洋の絵画、書物の影響を受けていることは間違いない。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大判3枚続き嘉永4年(1851)歌川国芳作

「崇徳眷属をして為朝をすくふ図」は文化4~8年(1807~11)に刊行された「読本 曲亭馬琴作・葛飾北斎画(鎮西弓張月)の第31回、32回に基づく。保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝は伊豆大島に流され、付近の島島を征服する。勅命による討伐船が大島にむかった、為朝は九州に逃れる。平氏討伐のため都に上ろうと水俣から出帆したところ、暴風雨に遭い船は難破する。為朝は最早これまでと自決しようとすると、讃岐院(崇徳院)の眷属が飛来し為朝を助ける。琉球に漂着した為朝は、琉球王の王女を内乱から救って国を平定し仙界に入る。海を鎮めるために身を投じる妻白縫、讃岐院の遣わした烏天狗に救われる為朝、為朝の一子舜天丸を抱いた為朝の忠臣八町礫紀平治を背に乗せて琉球に向かう巨大な鰐鮫といった、異なる時に起きた三つの場面が一つの大海原の画面にまとめて描かれる。鰐鮫の大きな動きだけではなく、これに拮抗する為朝の小船、舞い降りる薄墨の烏天狗の軽い動き、波のうねりなどが相互に絡み合い複雑に連動するムーブメントにも注目したい。大判を3つにつなぐ形式は、武者絵では国芳にお作が初めてである。江戸っ子の肝玉を冷やしたに違いない。痛烈な印象を与える。

「奇想の系譜」以外に、白隠慧鶴(はくいんえかく)(貞享2年~明和5年ー1796~1858)と、鈴木其一(寛正8年~安政5年ー1796~1858)の2名が追加されている。白隠については異論がないが、私は、鈴木其一は、決して「奇想の系譜」ではなく、れっきとした江戸琳派の大成者であり、江戸絵画を勉強する身には、鈴木其一は「奇想の系譜」に入れられては困る。鈴木其一こそ、日本の伝統文化である琳派の後継者であり、むしろ「江戸琳派の集大成者」である。従って、「奇想の系譜展」からは削除して掲載しない。

白隠慧鶴(1685~1768)は日本臨済宗中興の祖として、最も顕名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法経はすべて白隠下になり、現在の臨済宗は文字通り「白隠禅」と言って」良いだろう。「中興の祖」とは文字通り「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということになる。白隠は、むしろ新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した宗教改革であっあっというべきであると思う。宗教家であって画家では無いので、一点のみを掲載する。詳しくは「白隠展」2012年ーブンカムラ・ザ・ムュージアムを参照願いたい。今回の「奇想の敬具」展の企画者「山下祐二氏」が「白隠のいる美術史」という論文を寄せているので、参考までに読んで頂きたい。

達磨図  一幅 紙本着色 白隠慧鶴作 江戸時代  大分・万寿寺

背景の深い黒。衣の鮮やかな朱。顔面のほのかな朱。そして眼球、胸と、「直指人成仏」という讃文の白、数千点も変存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートルの大作である。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。制作年代については、明和4年(1767)83歳の制作だとする説が有力である。一見に値する。

 

辻暢雄氏の「奇想の系譜」を展覧会で一堂に会する企画は、思いも掛けない企画であり、企画者の山下祐二氏のご努力に敬意を表したい。アメリカ等海外からの出品作も多く、見学者も非常に多かった。今年を代表する一大展覧会であった。よくぞ、これだけの作品を集めたものだと感心した。関係者一同に対し、心から感謝したい。ご苦労様でした。大変、感激しました。有難うございました。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展   2019」、辻暢雄「奇想の系譜」、図録「歌川国芳ー奇と笑いの木版画  2017年」、図録「白隠展  2012年」を参照した。)

 

奇想の系譜(2) 長澤芦雪  岩佐又兵衛

 

長澤芦雪は宝暦4年(1754)-寛政11年(1799)の45年間の間に、異能を発揮し、様々な絵画を残した。父・上杉和左衛門は、はじめ丹波篠山の青野家に仕えたが、後に淀に移って稲葉丹後守に仕えた武士であった。下級武士の息子として淀で成長したが、好きな絵の道を志し、京に上って応挙のアトリエに通って絵の手ほどきをを受ける内に、めきめきと頭角を現し、やがて京へ移住して、天明2年(29歳)の時には、すでに、応挙の高弟として一家をなしていたらしい。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙がトップに載せられ、若冲、蕪村がそれに続き、それからだいぶ間を置いてではあるが蘆雪の名がある。「奇想の画家」の中では、まともな道を進んでいたことが分る。天明6年(1786)南紀串本にある無量寺の僧愚海が、かねて親交のあった応挙を訪ねて、南紀にある東福寺の寺院の襖絵を揮毫するよう依頼した。ところが当時応挙には南紀に出向くことができない事情があり、蘆雪が代理を務めることになった。応挙の信頼は厚かったことが理解できる。しかし、蘆雪の生活態度には相当世間の反感を買う面があったらしい。49歳で死亡しているが、才気煥発、無類の器用さ、多趣多芸、大向こうをあっと言わせる芝居気があり、反面、反感を買うような態度もあったらしい。

龍図  八面  紙本墨画  長澤芦雪作    島根・西光寺

八面の屏風であり、この絵は左隻に描かれた龍図であり、極めて珍しい絵である。このように前身が描かれる龍はなく、蘆雪の発想の豊かさを物語っている。顔は側面から描かれ、口角が上がりまるで微笑んでいるように見えるのも他の龍図には無い特徴である。鱗は輪郭線をとらえずに平筆によって勢いよく描かれ、筆運びの勢い自体が、龍の持つエネルギーを示しているようである。蘆雪が南紀遊歴(天明6~7年)前後の時期に制作された基準作として極めて貴重な作品である。

花鳥図 一幅 絹本着色  長澤芦雪作 江戸時代  阪急文化財団逸翁美術館

 

長澤芦雪は「奇想の画家」の中では、唯一人、まともな師匠について学んでいる。従って、他の「奇想の画家」と異なり、オーソドックスな絵を描くこともある。この花鳥図は、正にオーソドックスな花鳥画であり、師である応挙から学んだことがうかがわれる。中国南方原産である錦鶏という画題は、決して一般的ではない。若冲は「動植採絵」においても「雪中金鶏図」を描いているが、他の画家がこの鳥を描いた事例は極めて少ない。若冲の「白梅金鶏図」を仕上げた後の1770年前後の作と推定される。その頃の蘆雪はいまだ十代だが、後にこの絵を見る機会があったのいではなかと想像される。優美な尾羽を長く伸ばす金鶏の姿は、きわめて近似している。落款「蘆雪」と印章「蘆雪」「政勝」は、南紀遊歴以前の作品たとえば「檜に猿図」(個人蔵)などに近似する。若き日の蘆雪が若冲に心寄せていたことが想像できる作例であろう。

秋景山水図 紙本墨画淡彩 長澤芦雪作 天明8~9年(1788~1789)キャサリン&トーマス・エドソンコレクション

淡墨で描かれた急峻な岩肌に群生する松。その間に点在する紅葉した木木。松は濃墨で紅葉は淡い着色。そのコントラストが、季節感をうまく演出する。踊っているような松のかたちのリズム感、ぼかしを駆使した空気感を表す描法に、応挙とは異なる蘆雪の資質がよく表れている。「平安蘆雪写」という落款における「蘆雪写」の筆触は「雨中釣燈篭図」(個人蔵)の筆癖にきわめて近似している。近い期間、即ち天明6~7年の南紀遊歴を終えて以降、寛正前期までの作と推定される。この作品には「奇想の画家」の面は、まるで見られないと思う。

重要文化財 山姥図(やまんばず) 額一面 長澤芦雪作 絹本着色 寛正9年頃広島・厳島神社

山姥とその子供(後の坂田金時)をほぼ等身大で表す。迫力に満ちた画である。恐ろしい山姥の顔に驚かされるが、本図は、蘆雪の顧客であった広島の商人たちが厳島神社に奉納する絵馬として描かれた。画題は、浄瑠璃「茹山姥」に基ずく。画題は、浄瑠璃「女躰山姥」に基づく。「女躰山姥」では、遊女であった八重垣が自害した夫の魂を体内に宿して山姥となり、山中で子供を産み育てる。母子は後に夫の恩人である源頼光に会い、子供は坂田金時として頼光に仕えることを許される。恩義に報いるため超人的な力を得た母子の姿が、金時の活躍などとともに畏敬の対象とされたものと考えられる。山姥と5、6歳の金時が頼光の前に現れたところだとすれば、親子にとっての喜びの場面ということになる。そこに至るまでの山姥の苦労は計り知れず、彼女の屈託に満ちた表情には、これまでの生の苦しみが刻まれている。元遊女で今は鬼女・母といおう、さまざまな要素を併せ持つ山姥を活写している。暗く屈託した山姥と対照的に、金時の無垢の明るさが輝くように表され、未来の成功への希望が象徴されているようである。

 

岩佐又兵衛については、今までこの「美」で書いているので、紹介は省き、いきなり作品に入りたい。

重要文化財 山中常盤物語 第四巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 静岡・MOA美術館

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は15歳の春、東国へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡である。都にある母の常盤は、行方のしれぬ牛若案じ、清水にはだし参りをしたりしていた。春も半ばとなり、母常盤は侍従を従え東国へ下る。二人が山中の宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と牛若恋しさに、重い病の床につく。山中の宿に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を東下りの上臈とみて美しい小袖を盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の着ている小袖まで盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の小袖まで剥ぎとったので、常盤は小袖を残すか、さまなくば命も取って行けと叫ぶ。盗賊は常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。(古浄瑠璃の一部)

堀江物語 一巻 紙本着色 岩佐又兵衛作  江戸時代  京都国立博物館

下野の豪族で、清和源氏の血を引く堀江三郎は美しい姫君を妻に迎えて男子をもうける。だが京から来た国司の中納言と姫君の父とが結託し、三郎を自害に追い込んだ。遺児の若君は生き延び、奥州の岩瀬権守に愛育され、元服後は岩瀬太郎と名乗る。やがて真相を知って敵討ちをこころざした太郎は国司の妻子を殺害、さらに京に上って国司を討ち果たした。帝から坂東は八国を任された太郎は、姫君の父の剃によって復讐を完遂。下野の血で堀江家の再興をなしとげた。         又兵衛には、この物語を絵画化した二種類の絵巻物が残る。一つはぜん12巻のもので、MOA美術館に所蔵される。もう一つは6巻の絵巻と断簡が確認されるものである。6巻物は京都国立博物館が所有している。この作品は,MOA美術館12巻物の習作のようなものである。

重美 伊勢物語 鳥の子図 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 文化庁

柳の下にたたずむ一人の女性が、流れる水面に筆を差し出し何事を書こうとしている。これは「伊勢物語」第五十段「鳥の子」に取材した図である。この段は一組の男女が相手への恨み言を歌でかわし合うというもの。男の「鳥の子を十ずつ十ぱかさねとも、思わぬ人を思うものかは」の歌に対し、女は「ゆく水に数かくよりもはかなきは、思わぬ人を思うなり」と返す。本図はこの女の歌を絵画化している。

本性房怪力図(ほんじょうぼう) 一幅 紙本着色 江戸時代 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

 

古典文学に取材した作品は、絵画化の長い歴史のなかで定着した図様の伝統に拘束されがちである。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材を取る。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材にとる。元弘岩年(1331)笠置山に拠点に移した後醍醐天皇の勢力を、鎌倉幕府が包囲、迫り来る幕府の軍勢に対し、南都の般若寺から来ていた本性房という怪力の僧は、普通の人間ならば百人ががりでも動かせそうもない巨岩を軽々と脇に抱え、鞠のように次々と投げつけて応戦した。幕府軍は崩れ落ち、深い谷は人馬の死骸で埋め尽くされ、近くを流れる木津川が血に染まるさまは、まるで紅葉を川面に映したようだったという。又兵衛の筆は、この惨劇をファルスへと転じて見せた。どこか見得を切る歌舞伎役者のようである。

国宝 洛中洛外図屏風(舟木本) 六曲一双 紙本金地着色 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

京都市街(洛中)と郊外(洛外)の景観を一望する屏風絵の形式は、室町時代に成立し、江戸時代はじめ頃に全盛となった。その数は現存するだけで200件に迫る。かっての所蔵者の名前をとって舟木本と呼ばれる。この洛中落外図は、同主題の絵画のみならず、浮世絵を含めた日本の風俗画史における重要な転換点に位置する。極端に言って、舟木本の斬新さは、都市に暮らす人々の生活の様子を、絵画の中心的な主題へとせり上げたところにある。本図は、四条河原町を行く祇園祭を描いた部分である。寺町から四条通りへ進む大きな幌(ほろ)を担いだ母衣武者を描いたものである。四条通りをそのまま南下するのは南蛮人の扮装(コスプレ)をしたものである。現代のファローインのようなものである。

妖怪退治図屏風   伝岩佐又兵衛作 八曲一双  紙本着色 江戸時代

最近見出された作品で、この展覧会が最初の公開となる。地面には銀の砂子が蒔かれる。銀こそ黒く変色したが、それ以外のコンディションは、ほぼ完璧に近い。画面の左側から騎馬武者の一行が山路を下り(この左局には出てこない)水際立った先端の1騎は、黒雲に包まれたおびただしい数の異形のものたちに向けて弓を引く。(この黒雲が左隻である)人物の顔には所謂「豊頬長顎」(ほうきょうちょうい)の特徴が見られる。(この顔の表現が岩佐又兵衛の特徴とされる)この絵の制作期は、又兵衛が福井の地で絵筆をふるった元和2年(1618)頃から寛永14年(1637)までで、その前期と想定される。又兵衛の作品ではなく、又兵衛工房の作と思われる。この絵の内容については、まだ断定できていない。

 

長澤芦雪と、岩佐又兵衛を、本稿では取り上げた。岩佐又兵衛については、度々取り上げているが、比較的新規の絵画を取り上げたつもりである。長澤芦雪は、丸山応挙の高弟であり、絵の基本は良くできているが、「奇想の系譜の画家」らしく珍しい絵も描いている。絵の基本をきちんと学んだ「奇想の系譜の画家」である。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、矢代勝也「岩左又兵衛作品集」、辻暢雄「岩佐又兵衛」、図録「京都 洛中洛外図と障壁画  2013年、辻暢雄「奇想の系譜」を参照した)

奇想の系譜展 (1) 伊藤若冲と曽我蕭白

今から50年前(1970)に、一冊の書物が刊行された。辻慶雄氏の「奇想の系譜・江戸のアバンギャルド」(美術出版社)である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長澤芦雪、歌川国芳の六人の画家を取り上げた、この「奇想の系譜」、以後の江戸時代絵画研究、日本美術氏研究に対し、決定的な影響を与えた。今回の展覧会には、この六人に加え、白隠慧鶴、鈴木其一の二人を加えて企画されたものである。従来の日本美術史の江戸時代を飾る丸山応挙、池大雅、与謝蕪村、渡辺崋山と浮世絵師に比較して、この8人の画家は「異端」「傍流」扱い、あるいは無視され続けた。私が所有する「原色日本の美術」(小学館)全30巻(1972年刊行)で調べて見ると、この8人の画家は、全く採用されていないか、僅かに採用されても「異端」「傍流」扱いで、僅かな写真が出るのみで、殆ど無視されていた。私にとって江戸時代絵画は、浮世絵を除き、はっきり言えば、殆ど興味を引んで以来、すっかり、この「奇想の系譜」の絵師に取りつかれ、フアンになってしまった。特に「伊藤若冲」と「岩佐又兵衛」には熱を上げた。若冲は「ご即位20年記念(2009)に「三の丸尚蔵館」の「動植採絵」全30点が展覧され、あまりの美しさに2回も訪れ、図録も全2巻を求め、愛読書の一つとなった。その後、各美術館でも、保管する「伊藤若冲」を展覧する機会が多くなり、かつ「生誕300年 若冲展」(2006)には、展覧会初日に朝早くから並び、丁寧に全作品を鑑賞した。この展覧会では6時間も並ぶ盛況ぶりで、恐らく100万人近い動員をしたのでは無いだろうか。また「岩佐又兵衛」については、それを所有する山種美術館、出光美術館、熱海MOA美術館などをめぐり、凡その作品を鑑賞することが出来た。この二人については「黒川孝雄の美」で再々取り上げている。今回「奇想の系譜」展は、辻先生の弟子に当たる山下雄二先生(明治学院大学)の監修になるもので、さじかし、珍しい作品も多数展示されているであろうと、期待と希望を持って鑑賞した。十分満足できる内容であった。皆さんに鑑賞をお勧めする。

紫陽花双鶏図  一幅 絹本着色 伊藤若冲作 エツコ&ジョー・プライスコレクション

向かい合う雌雄の鶏を主題にとし、足元に芍薬らしい花、後ろに岩と紫陽花を配した本図の図様は、「動植採絵」のなかの「紫陽花双鶏図」の準備作であろう。細部・全体を通じて見られる、独特の形態感覚は、若冲の個性的スタイルが、このときほぼ完成の域に達していたことを物語る。プライス氏は、日本のコレクターが誰も若冲に気づいていない時期に日本を訪れて若冲の作品を探し求めた。業者がそれに応じて提供したものがこの図で、昭和39年(1964)のことである。プライス氏の先見の美を賛美するか、日本のコレクターの質の低さを嘆くか、何れにしても「保管」されたことは喜ぶべきことであろう。

虎図 絹本着色 伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

前脚を舐める姿がユーモラスで、猛獣のイメージではない。家業を弟に譲って、絵師の道に専念することを決意した宝暦5年の首夏(陰暦四月)に描かれたことが落款より明確な、若冲の画歴の中で重要な一点である。本図が、京都・正伝寺に伝わる「猛虎図」を手本として描いたことが知られる。描かれた虎は、原画の虎よりも表情が豊かで動きがある。虎の身体部は黄土を主体とし、薄墨や鉛丹を併用してそれらの濃淡と黄土の濃淡とを重ねて微妙な色彩変化をつけ、その上に岱赭(たいしゃ)の紫色のあるこげ茶で、一本一本、体毛を丁寧に施している。背景には素早い筆さばきで張り出た枝などをさっと描き、一つの画面の中で、描写の精粗の対比を試みている。

葡萄図 紙本墨画  伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

プライス氏が若冲に関心を抱くようになった最初の作品であり、重要な意味を持つ。落款の代わりに「景和」を入れる本作は、若冲初期の貴重な作例である。中世にわが国に伝来し、当時、京都の寺院に多く所蔵されていた様々な中国絵画や朝鮮絵画を見る機会を得た若冲は、それらから図様や描写方法について刺激を受け、模倣を重ねる中で自身の絵画技術を高めていったことが知られている。本作もそれらの影響を受けているだろう。「景和」は若冲の字であり、「若冲」の居士号を使用する以前の三十歳代前期頃の製作と推察される。輪郭線を用いず、繊細に墨の濃淡を利用して葉や幹、葡萄の実を見事に描写しており、墨表現の面白さを知りえている。これを見抜いたジョー・プライス氏の見識にも敬意を表したい。

象と鯨図屏風 六曲一双 伊藤若冲作  寛永9年(1767) 滋賀・MIHOMUSEM

左隻

 

左隻

六曲一双の屏風の左右に、海上に胴を出して勢いよく潮を吹く鯨と、うずくまって鼻を高々と上げる象とを向き合わせた六曲一双の水墨屏風である。海の王者と陸の王者が、互いにエールを交換しているようだ。北陸の名家に伝わったもので、2008年に存在が知られ、MIHO MUSEMの所蔵となった。「象と鯨図屏風」象隻の画面向かって左端に「米斗翁八十二歳」の落款がある。若冲が還暦後、元号の改まるごとに年齢を一つ加算したという説に従えば、若冲80才の作となる。若冲が14才の時、一頭の像が京を訪れ、天皇、上皇にお目見えした。この時の京市民の反応は察するに余りある。少年若冲もこの象を見たに違いない。その時の記憶が、この屏風に見られる。象への愛情あふれる表現となったのであろう。

 

京の商家に生まれ、伊勢や播州で精力的な活動をした曽我蕭白は、40才を過ぎて生地である京都に定住した。18世紀京都画壇の鬼才たちの中で、もっとも激烈な表現を指向した。20才台後半から、室町時代の有力な漢画の一派である曽我派の直系にあたると自称して曽我性を名乗った。漢画を学び中国の仙人や聖人といった伝統的な故事を多く描いているが、その表現は独創的で狂気に満ち、ときに見る者の神経を逆なでし、混沌の渦へと陥れる。

雪山童子図  曽我蕭白作  明和元年(1764)頃  三重・継松寺

釈迦の前世での行いを物語る「本生譚」の一こま。若いバラモンン僧雪山童子として修業していた時、悪鬼の姿に身を変えた帝釈天から、修行の熱意を試されたところである。鬼は「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」という涅槃経14聖行品の上2句を唱えて、下2句はお前が俺に自分の身を食わすなら教えよう、という。雪山童子がそれに応じると、鬼は後二句を唱えた。雪山は歓喜してそれを木の幹に書き付け、約束通り樹上から身を投じようとすると、悪鬼の姿は神々しい帝釈天に変わった。青、赤、橙のどぎつい対比と奇怪な誇張が、この図を「群仙図屏風」の類縁に当たる唯一の作品に位置付ける。鬼の口から真理の言葉を聞き、より目を輝かせて両手を広げて鬼にジャンプする瞬間の雪山、下には凶暴の化身ともいうべき悪鬼が口を広げて待っている。卑俗さと聖性とが混ざった特異な宗教画である。

重要文化財 群仙図屏風 六曲一双 曽我蕭白作 紙本着色 明和元年(1764)文化庁

右隻

曽我蕭白は若冲より15年遅れて生まれた。若冲の長い人生に伴走しながら、20年近く先に逝った。50年に満たない人生ながら、残した作品は若冲以上に多い。生活のために多作を強いられたとは言え、弟子は殆どなく、生涯孤独であった。「群仙図屏風」は江戸時代絵画史を通じて類のない、怪奇な作品である。右隻のみであるが、空は嵐模様、波騒ぐ海上のつむじ風に乗って、竜にまたがり手に鉢を持つ仙人は、呂洞賓の龍退治の場面とされる。(異説もある)簫を吹いて鳳凰に聞かせる簾史。なぜかこの人だけが赤い服を着て赤ら顔である。虎を従え、髭と蓬髪を風になびかせるこの人物は、医薬を良くする扁篛(へんじゃく)とする説がある。右隻には4人の仙人がいる。左隻にも4人の仙人がおり(図には無い)、八仙図である。赤、群青、雌黄のどぎついほど強烈な配色が、当時の黄檗宗の頂相に施されたものと同じであり、このような彩色法は当時の屏風画としては稀である。不老不死の仙人たちは、吉祥の画題として還暦や誕生の祝いの席に描かれた。そうした特殊な儒学者グループに関係する人であった可能性がある。ちなみにこの屏風は、京都の京極家から出たといわれている。

 

本欄では伊藤若冲と曽我蕭白を扱ったが、伊藤若冲を知らない人はいないが、蕭白となると知っている人は殆どいないと思う。まして、ここで取り上げた蕭白の作品は異常なものが多い。サイケデリュクな作品は、多分、多くの人には馴染めない作品であろう。まさに「奇想の画家」であるだろう。

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、図録「生誕300年記念 若冲  20  2016年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日経大人のOFF 2019年1月号)

 

興 福 寺  北 円 堂

興福寺には、講堂が3つ、塔が2塔、その他に南円堂、北円堂、がある。北円堂は養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提のために、元妙大政大臣と元正天皇が建立を発願し、長屋王に命じてその一周忌に当たる翌年の8月3日に完成させた八角円堂である。安置の仏像は弥勒如来、脇侍菩薩二体、羅漢一体、四天王であった。本尊を弥勒如来にしたのは、不比等が生前弥勒信仰を持っていたからである。興福寺伽藍では和銅3年(710)の平安遷都と同時に始まる中金堂の造営に次いで古い。その後、永承4年(1049)の火災で焼失した。弥勒如来は首のみが残り再興された体躯部に据えられたが、治承4年(1110)の兵火ですべての像が失われた。治承火災後の復興は、奈良時代の草創期と異なり後回しとなる。菩提山の専心上人が中心となり復興勧進を募っている。しかし、専心上人の勧進による資金調達は限界があったらしく、承元2年(1208)には氏の長者が事業の主体に変更された。その後の工事は比較的順調に進み、承元4年(1210)に北円堂の屋根の露盤と寶珠が取り付けられて、間もなく完成したらしい。仏像の製作には時間がかかり、建暦2年(1212)頃出来上がったとみられる。

国宝  北円堂  本瓦葺  鎌倉時代(建暦2年ー1212)

北円堂は鎌倉再建期の建造物を今に伝える貴重な堂宇である。興福寺内では鎌倉期のものが残るのは他に三重塔だけであろう。奈良時代に創建されたときと同じ位置に、同じ八角形で建っている。貴重な遺構である。国宝に指定されている。

国宝  弥勒如来坐像  木造  運慶作  鎌倉時代(建暦2年ー1212)頃

南円堂の本尊であり、脇侍は法宛輪(ほうおんりん)菩薩、大妙相菩薩である。この南円堂は、運慶が統率する工房の総力を上げての仕事である。弥勒如来菩薩像は、運慶の指導のもと源慶、静慶(じょうけい)の作である。弥勒如来台座の銘文から、各像の作者名が分る。充実した体と意志的な強さを持つが、全体のバランスがとてもよく、円熟した作風を示す。運慶が強く指導したと考えらている。

国宝 無著立像  木造  運慶作  鎌倉時代(建暦2年ー1212)

無著と世親は北インドに4~5世紀頃に実在した僧侶の兄弟で、弥勒の後を継いだ法相宗(ほっそうしゅう)の祖師である。運慶はこの無著、世親の体格の良い堂々とした姿で表現した。もはやインド人の風貌ではなく、身近な日本の僧侶の姿であるが、人種や時代を超えた理想的な求道者を構想したものとみられる。2体で一組の像として作られた。無著は、老人の姿である。胸に裂(きれ)で包んだ箱(舎利容器)を、左の手のひらにそっと持ち、右手を添え、やや下方を向きながら、優しい表情で人々を見つめている。よく見ると袈裟を吊るす胸の留め具も円形をしている。円満でやさしい姿である。それは慈悲心をもって人々を救済しようとする理想的な僧侶の姿であろう。私は、無著・世親像は、奈良時代の鑑真和上像に次ぐ人間像であると、ひそかに思っている。まさに、人類の見本となる人物像であろう。

国宝  世親菩薩立像 木造 運慶作 鎌倉時代(建暦2年ー1212)頃

弟の世親は壮年の姿で表され、胸を張り、顔を上げ、眉をひそめて遠方を見つめている。意志の強い逞しく堂々としたお姿である。唐草状の胸の留め具も動的である。そこにあるのは確個とした意志を持ち真理を追究する真摯な僧侶の姿である。ここでは人生を積み重ねた、ゆるぎない永遠の相が追及されている。無著と比べて、やや年下の年齢により男性的な性格が反映されているようだ。遠方を見つめる確固とした視線が玉眼によって生き生きと表現されている。無著像と一組で表され、運慶の僧侶に対する理想的なイメージが具現化されている。

国宝  四天王立像  木心乾漆像  4躯  平安時代(縁暦10年ー791)

北円堂の八角須弥壇の四方の隅に立つ四天王像である。四天王のうち増長天と多聞天の台座の框裏(かまちうら)に墨書があり、四天王像がもと奈良大安寺に伝来し、延暦10年(791)に制作されたこと、興福寺の経玄得業が鎌倉時代の弘安8年(1285)に修復したことがわかる。奈良時代の終わりから平安時代の初めの時期の仏像は、制作時期の不明なものが多いが、その中で時期がわかる貴重な作例である。

国宝  四天王立像のうち  持国天立像

国宝 四天王立像のうち  増長天立像

国宝 四天王立像のうち  広目天立像

国宝  四天王立像のうち  多門天立像

この四天王像が伝来した「奈良大安寺」については、構を改めて紹介したい。北円堂の仏像を多数示したが、私は無著菩薩、世親菩薩の2躯が一番記憶に残り、日本で造られた人間像の中で、鑑真和上像に次ぐ作品であると信じている。興福寺展には、しばしば展示されるので、是非一度拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1997」、図録「国宝  阿修羅展 2003」、古寺巡礼5巻「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

興 福 寺  西 金 堂 (2)

興福寺は、中世には大和一国を支配したといわれる。朝廷から任命される大和国司が国務をとらず、鎌倉幕府も守護を置かずにその職務を事実上興福寺に委ねたからである。興福寺は、伽藍の再建過程で大和の庶民に人夫役などの労役を課したり、反米(田一反あたりに賦課される米)を出させたりした。それらは本来勧進(かんじん)と言われた僧侶の呼びかけに応じて行われる自発的な労働参加や寄付であったが、次第に一国を対象とした恒常的課役(租税)に転化していったのである。このようにして成立した大和の一国平均役は、後には寺門半銭(じもんたんせん)と称して銭でも徴収されるようになり、一寺の重要な種入となった。興福寺の大和支配のもうひとつの柱は、武士の掌握・組織化である。これは、保延2年(1136)に始められた春日若宮祭礼(おん祭り)の執行を軸として行われた。祭礼に際しては若宮の神に奉納される流鏑馬(やぶさめ)に国内の武士を動員することは、興福寺及び春日社の当初からの方針であった。大和では鎌倉時代のおわりころまでに、平田党、長川党、長谷川党、戌亥脇党(いぬいわきとう)、蔓上(かずらぎかみ)党、散在党という六つの武士団が順結成され、おん祭りの流鏑馬を一定の方式で勤めるようになっていった。15世紀半ば、京都は応仁の乱の舞台となる。戦乱をさけて貴族たちが奈良をはじめとして各地に疎開した。関白で当代きっての学舎であつた一条兼良など、奈良に逃げてきた規則を迎えて世話したのは、興福寺およびその門跡らであった。乱が収まるまでの約10年間、興福寺は文化の中心として存在したのである。しかし、織豊政権は、この興福寺の大和一国支配を認めなかった。信長や秀吉は、差出(さしだし)や行い、国内の有力武士であった筒井氏に「国内一円(すべて)」を安堵(承認)するなどして興福寺が持っていた荘園や、12世紀以来大和国に対して行使してきた一国支配権などを取り上げたのである。織豊政権が興福寺にあらためて認めた石高は、少ない時で9千石前後、多い時で2万5千石前後であった。次の徳川幕府は、興福寺の朱印高を1万5千石予Tと定めた。これは小大名クラスの石高にすぎず、お膝元の奈良の街に対する位牌も幕府の出先機関である奈良奉行の所管とした。もはや興福寺には立ち直る力はほとんど残されなかった。

国宝 華原磬(かげんけい) 銅造  96.0cm 中国唐代(8世紀)

文献では金鼓と出てくる。奈良時代には西金堂に置かれたが、治承の兵火で大破した。獅子は創建時のものとされるが、他は鎌倉時代に補われた。法会などで打ち鳴らす梵音具の一種である。制作年代については諸説があり華原が中国の名石の産地であることから、寺伝では中国の唐代の作とする。世阿弥の「海人」(あま)では「興福寺の宝の一つ」と歌われる。

重文 仏頭(丈六釈迦如来像頭部)木造 運慶作鎌倉時代(文治2年ー1186)

西金堂の本尊釈迦如来像の頭部であるこが銘文からわかる。享保2年(1717)の西金堂の火災時に頭部のみが救われた。天平彫刻を学習したと思われる若々しく張りのある面の取り方に特色がある。作者は大仏師運慶である。なお、文治5年(1189)の時点ではまだ白木の状態であったことが、日記「玉葉」の記録からわかる。運慶は文治2年(1186)に静岡・願成就院の阿弥陀如来像等を制作しているが、両者はかなり作風が異なっており注目される。現在は国宝館に安置されている。なお、この釈迦如来像の脇侍は重文 薬王菩薩立像、薬上菩薩立像であり、現在は中金堂の両脇侍としなっている。写真は「興福寺 再建された中金堂」を参照願いたい。

国宝 金剛力士像(阿形) 木造  慶派仏師作 鎌倉時代(12~13世紀)

西金堂に安置されていた像。筋骨隆隆とした肢体を執拗なまでに追及した鎌倉時代の仁王像の名作である。口の開閉と動作、裳裾(もすそ)のなびく方向が互いに呼応して見事な空間を作り上げている。吽形像のふくよかさなど一部に土を盛り上げる手法、上半身と下半身を輪切り状に上下に矧ぐ(はぐ)寄木法など定慶の関与が推測される東金堂の十二神将像に共通するものがある。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 慶派仏師 鎌倉時代(12~13世紀)

金剛力士は口を開いた阿形と、閉じた吽形で一組をなし、通常は仁王門などに安置される。しかし、この像は須弥壇に安置されて四天王などとともに壇を守護する役割を担っている。この種の金剛力士像の安置方法は、奈良時代創建期の復古をめざしての再興像であったからである。この金剛力士像は、鎌倉初期の彫刻の特色である写実性と力強さを兼ね備えている。それに加えてこの像では風が意識されている。強風が吹いて両脚の間に裙(くん)を挟み込み、裳裾(もすそ)は横になびいている。また、阿形では左の拳を高く上げて斜め下方の敵に怒りを叩きつけているが、その動きには上から下への方向性が強調されている。怒りは緊張のあまり血管を浮き上がらせるなど、まさに迫真的な描写である。怒りの激しさと、体の激しい動きが一体となった金剛力士像の名作である。

国宝  天燈鬼立像   木造  康弁作  鎌倉時代(建保3年ー1215)

灯篭(とうろう)は両者ともに後代の保作である。四天王に踏まれる邪鬼が立ち上がり、仏に燈明を供えるという発想と、ふと笑いを誘われるポーズには作者のユーモアが感じられる。額には一眼がある。建保3年(1215)の作で、天燈鬼は朱、竜燈鬼は緑に彩色されている。建保2年(1215)の作で、元は西金堂の須弥壇に一対として安置されていたものである。

国宝  竜燈鬼立像  木造 康弁作  建保3年(1215)

天燈鬼が口を開いた阿形、竜燈鬼が口を結んだ吽形であることから、仁王のつもりで造形されたものと考えられる。竜燈鬼の像内には、建保3年(1215)に法橋康弁(こうべん)が造ったとという明記があった。なお天統鬼の作者は不明であるが、私は康弁が対で造ったものと考えている。康弁は、かの有名な仏師運慶の三男であり法橋の地位まで上がっている。鎌倉時代の復興期に新たな創意で制作されたものである。

 

ここに挙げた仏像群は、いずれも鎌倉時代の復興期に造られたものであり、国宝あるいは重要文化財に指定されている。現在はいずれも国宝館に安置されるが西金堂に群像として安置されたようには見えない。出来れば、西金堂を復興し、一群の仏像類を全体像として安置された様を見てみたいものである。西金堂の仏像群は、鎌倉時代の復興像も含めて、極めて出来が良く、名品揃いである。光明皇后の思いが伝わる名品ばかりである。

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1977」、図録「阿修羅展  2003」、古寺巡礼奈良5「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

興 福 寺  西 金 堂 (1)

 

興福寺西金堂(さいこんどう)は、天平5年(733)に亡くなった橘三千代の一周忌の天平6年(734)1月11日に、娘の光明皇后によって建立された堂宇である。橘三千代は藤原不比等の妻であり熱心な仏教信者であった。法隆寺には彼女の念事仏とされる逗子入りの銅像阿弥陀三尊像が残っている。西金堂の内部には、釈迦、両脇侍、羅漢十躯(十大弟子)、四天王、八部神王(八部衆)などが安置されていた。これらの群像のうち、現在では八部衆8体と十大弟子のうち6体とが寺に残っている。その後9世紀初め頃までに阿弥陀仏、不空羂索観音、十一面観音像が安置され、天長2年(825)には新たに十一面観音像が加えられた。永承元年(1046)の火災で堂は焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡の兵火で西金堂は再び焼け、この時は堂と仏像の多くが失われたが八部衆、十大弟子像は救出された。堂は元歴元年には完成していたが、仏像の製作は遅れており文治5年(1189)8月に氏の長者である九条兼実が西金堂に入った時は、まだ白木の状態で完成していなかった。西金堂は嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)にも火災にあい、享保の時には西金堂は再建されず、今日に至っている。礎石だけが残り、再建が待たれる。

西金堂の跡地

西金堂は治承元年(1046)の火災で焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され、仏像群は堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちで興福寺は、全山余すところなく消失した。西金堂は、養和2年(1182)に再建され、鎌倉時代の仏像が沢山収められた。西金堂の鎌倉時代再興の本尊として運慶が造ったと考えられる木造の仏頭が、国宝館に安置されている。建仁2年(1202)に釈迦如来の脇侍として薬王、薬上菩薩像が造られている。(現在中金堂に安置)また優れた鎌倉仏が運慶の子息康弁などにより造像されている。しかし、嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)に西金堂は火災にあい、享保の火災後は再建されないまま、西金堂跡地の石碑が立つのみでである。美しい西金堂の仏像群を安置するためにも、是非西金堂を再建して頂きたいと思う。

国宝 阿修羅像(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

八部衆とは、もとは古代インドの異教の神々で、獣神や戦闘神、歌舞音曲の神、嗚悪鬼だったものが、釈迦に教化されて、仏法の守護神となったものである。天竜八部衆とも呼び、8人の神から成り立っている。特に、興福寺の阿修羅像は日本で一番愛される仏像である。2009年の「国宝阿修羅展」の東京会場では100万人以上となり記録を作り、未だにこの記録は破られていない。会場は若い女性客で溢れ、阿修羅像のミニチュアは絶大な売れ行きを示し、未だに語り草となっている。この阿修羅像は、八躯中唯一甲を着けていない。上半身裸形で天衣と丈拍(じょうはく)を着け、胸飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)を着け、下半身には裙(くん)を着け、板金剛を履く。顔は少年の相で、美少年である。私は、西金堂を建立した光明皇后は、長男の首(おびと)皇子を幼くして亡くしているので、その青年として成長した面影を、阿修羅像に託したのでは無いかと想像している。なお、制作にあたったのは正倉院文書によれば百済系帰化人「将軍万福」と伝えられている。(八部衆はすべて)奈良時代の仏像で、作者名が明らかなのは、この八部衆のみである。

国宝  五部浄(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

五部浄は幼い幼い少年というべき年齢であろうか。少し垂れた目、わずかに寄せた眉、後世に描かれたものであるが若干上方寄りの瞳などから、上目遣いの不安げな表情に見える。異形の表現としては、頭部に象を被っている。

国宝 緊那羅立像(八部衆のうち)脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

このふっくらとした頬は少年を思わせる。どのような感情を表そうとしたのか意図を十分くみ取れないが、怒った不満げな表情に見える。異形という点では、額にも目があり、その上方には一角を有する。目尻が少し吊り上がり怖さもある。その怖さはかなり強い怖さである。緊那羅は瞋目ではないが、それに類する形状で、上まぶたの目頭近くに切り込みをつくっている。その目によって憤怒の表情を表すので、瞋目を意識した形状と考えていいだろう。これは怖さよりも異形をねらったものと思われる。

国宝 鳩槃荼立像(八部衆のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

口を大きく開け、頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情を表す。目頭も立てて眼部には黒いガラスをはめ込む。表情は人間というよりは獣に近いが、怒りをぶっけるというほどではなく、むしろ性格描写的な色合いが濃い。いま、鳩槃荼と呼ばれているが、「金光明最勝王経」などに説かれる夜叉に当たると考えられる。

国宝 迦楼羅立像(八部衆のうち) 脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は烏頭の姿で表され、少年の相ではない。頭頂部は欠損するが鶏冠があり、口は嘴で、その脇には鶏のように肉垂を表す。瞋目で人の目の形状ではない。まさに異形の姿であるが、見る者との距離感が八部衆のなかで最も近いように感じられるのは、その目の表現のゆえであろうか。迦楼羅の瞳は、別素材を嵌入されているのか黒く光り、それが写実性を高めている。

国宝 冨楼那立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は明らかに老相を呈する。面部の皺は額にとどまらず、目尻や頬にもある。胸部には肋骨が浮き出ている。一点を見つめる視線はいかにも温和で、何事に対しても穏やかでいられる60歳代であろうか。釈迦は説法第一としている。

国宝 須菩提立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

最も若年で、顔には皺はなく、頬には柔らかな張りがある。卵型の頭部からはふっくらとした印象を受ける。優しい眼差し、下唇が広くふくよかな口は若々しい清純さを演出する。眉の形を明確にしないため、ある一つの強い思いは伝わってこない。その顔は、仏弟子として遊行を志す、希望に満ちた前途洋々たる十代後半の青年に見える。釈迦は解空第一としている。

国宝 目健連立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像の顔には多くの皺があり、口元に衰えがみられる。老境に差し掛かった年齢である。優柔な雰囲気であるが、眼差しはいまだ衰えを知らない。これまでの経験を活かし、さらに自分の道を追及しようと充実した様子がうかがえる。五十歳くらいであろうか。釈迦は神通第一としている。

国宝 羅喉羅立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

額には皺が二本あり、左目尻の上にも皺がある。年長であることを示している。盲目を表している可能性もある。少し垂れ下がった眉からは力は感じられず、目は閉じてゆったりと瞑想しているようにみえる。その顔は、血気盛んであった時期を過ぎ、諸事に対して落ち着いて対処できるようになる、四十歳を過ぎたくらいではないだろうか。釈迦は密行第一としている。

 

西金堂の彫刻群は釈迦如来をはじめとする二十八体の像が群像として安置されていた。釈迦集会(しゅうえ)の彫刻群である。礼拝の対象である須弥壇にこれほど多くの像が置かれた例はなかった。奈良時代には東大寺法華堂諸像など群像制作が流行したが、西金堂はその始まりとして画期的な意味を持つ。それは天平群像の隆盛のさきがけであった。二十八体の仏像は釈迦如来の他、両脇侍、十大弟子(残ったのは6体)羅㗅羅(らごら)、梵天、帝釈天、四天王、八部衆(8体揃っている)像である。創建時の像で現存するのは八部衆八躯とと十大弟子のうちの6躯、それにいま華原馨(かげんけい)と呼ばれる金鼓んみである。恐らく、東大寺法華堂と並ぶ天平時代の華と呼ぶべき西金堂である。是非、再建され群像が一堂に並べられる様子を拝観したい

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009年)、図録「興福寺の仏頭展  2009年)、日径新聞「私の履歴書 多川俊英氏 28回」を参照した)

興 福 寺  東 金 堂(2)

興福寺東金堂の薬師如来像の頭部は二つある。それは白鳳時代(7世紀後半)の薬師如来像(坐像?)は天武14年(685)、讒言により自裁した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の冥福を祈って開眼供養された仏像である。本来、飛鳥の山田寺講堂の本尊として造像されたが、文治3年(1187)、興福寺東金堂衆が強引に奪取して東金堂の本尊に据えたものである。このことは、治承4年(1180)の平重衡南都焼き討ち後の、興福寺鎌倉復興造営のさ中に起こった未曽有の大事件であったが、(藤原氏)氏長者の事後承諾もあって、東金堂本尊として長らく礼拝されることになった。その後、文和5年(1356)の五重塔への落雷による東金堂類焼にさいしても、無事搬出されて事無きをえたが、応永18年(1411)の落雷で、この白鳳薬師仏はついに頭部を残すのみとなった。そして応永22年(1415)に現存の薬師如来本尊が造健され、旧本尊の白鳳仏頭は、新本尊台座の正面に向けて安置された。(墨書)その収納状況から、その当時、白鳳仏頭は依然として礼拝対象として認識されていたと思われるが、台座内安置の伝承もいつしか忘却された。

国宝 丈六銅像仏頭(正面)           白鳳時代(7世紀後半)

この銅像仏頭は、白鳳時代を代表する薬師仏の頭部である。元山田寺の本尊である。大化の改新で中野大兄皇子(後の天武天皇)と組んだ、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)は、乱後右大臣に昇進した。この石川麻呂の一族は、飛鳥の山田の地を地盤としていた。この地は、桜井から安倍を通って飛鳥に入るところにあり、飛鳥への東の入口を押さえる、交通上・戦略上の要地である。蘇我氏本家の氏寺である飛鳥寺(元興寺)に対して、山田寺は石川麻呂という傍系蘇我氏の氏寺であった。山田寺は皇極2年(643)に金堂が建ち、大化改新を経て、大化4年(648)に初めて僧が住むような寺となった。この矢先の大化5年(643)3月に、石川麻呂は中大兄皇子に対する謀反の疑いをかけられ完成間もない金堂で自害した。難波京にいた石川麻呂は、死に場所として自らが建立した山田寺を選択し、妻と子息3人、娘1人を含む8人とも死をともにした。山田寺の丈六の薬師像は、この非業の死を遂げた石川麻呂を弔うために制作された。天武2年(673)山田寺の塔の心礎に舎利を収めて心柱が立てられた。それから3年後のb天武5年(676)に塔の屋根に露盤を上げて、塔は完成した。丈六の薬師如来像は、天武14年(683)3月25日に仏像の眼に瞳を入れる開眼供養が行われた。この日は、石川麻呂が金堂で自害してから37回忌の祥月命日に当たる。この工事を進めたのは、石川麻呂の孫娘に当たる鵜野讃良孝女(うのささらのひめみこ)、つまり後の持統天皇であった。仏頭は丈六像で制作時期が判明する白鳳時代の貴重な作例であり、極めて優れた白鳳彫刻の白眉ともいうべきすがすがしい青年の顔であり、正に白鳳の貴公子である。

国宝 興福寺仏頭(左側正面)  銅像   白鳳時代(7世紀後半)

仏頭を見ると、耳が欠損している。また左耳上の頭髪部に縦に入った鋭角的な深い窪みがある。この損傷は堂が焼けて頭部が落下した時に当たった打撃の痕である。落下した時の衝撃で、頭頂部が飛ばされ、左耳の下辺部も折損し、白豪も失われている。りりしいお顔であるが、痛ましく傷ついている。治承4年(1180)平家の攻撃によって、興福寺は一堂も残さずに焼け落ちた。東金堂は、文治元年(1185)には既に建物は出来上がっていたが、堂内に安置されるべき仏像は同3年になってもまだ造られず、3月上旬に東金堂を活動拠点とする東金堂衆が、飛鳥の山田寺の丈六薬師如来三尊像を奪いだして奈良に運び、東金堂の本尊として安置した。かねがね、この蛮行は何故行われたのかと不思議に思っていたが、2013年の図録の中で安田次郎氏(御茶ノ水大学教授)が「東金堂衆と山田寺薬師三尊像」と題する論文を寄せている。推定が多いが、今まで読んだ論の中では一番問題点を抉り出しているので、要点のみを記したい。ときの摂政九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉」では、次のように記している。「別当僧正示されて曰く(いわく)、東金堂衆、宗徒・僧綱等に触れず、また長吏に申さず、自由に山田寺の金堂丈六薬師三尊像を奪い取り、件(くだん)の東金堂に安んじ奉らんと欲すと云々、」これによれば、事件は興福寺当局(宗徒、僧綱=別当)に無断で起こしたものであった。この記述に対し、安田氏は東金堂衆とは何か、何故山田寺なのか、という2点からこの事件を追及している。長い論文なので、結論のみ言えば、東金堂衆とは大和国の武士たちを率いることが出来るような存在、即ち彼ら自身が武士層の出身なのだろうと推測している。金堂衆とは、金堂というよりは、むしろ興福寺の軍隊、部隊として動いた武士層であると考えている。次に何故山田寺を狙ったのかであるが、安田氏は文治2年(1186)に仁和寺は興福寺の末寺である嵯峨野大覚寺を横領したとしている。それに対抗して翌年、興福寺は仁和寺の末寺である山田寺を襲撃したのである。安田氏は次のようにまとめている。「中世の社会には、荒っぽい一面がある。やられたらやり返せ、これが普通のことである。やり返すことが認められていた。むしろ場合によっては、やり返さなければ名誉が保たれないと意識されることもあった。このような場合、報復はむしろ義務であり、名誉を維持するための立派な行動ということになる」。強奪事件から2年半経った文治5年(1189)8月、兼実は興福寺南円堂の観音の参拝かたがた再建工事進捗状況を視察するために奈良に下向した。東金堂で、問題の金銅仏に礼拝し、「事件直後に返却を命じたが、こうして拝見すると東金堂にまさにふさわしい。機縁によってこのような結果となったのだ」とそ日の日記「玉葉」に記している。ときの朝廷のトップが東金堂衆の行為を追認するに至ったのである。東金堂は応永18年(1411)に、落雷で発生した五重塔の火が東金堂に及んだ時には、如来像は頭部を残して他はすべて焼失したのである。その後、応永22年(1415)以来、500年以上にわたって本尊の台座に収められていた。昭和12年(1937)の東金堂解体修理の時に発見されて、大きな話題となった。

国宝 板彫十二神将(迷企羅大将像) 檜材   平安時代(11世紀)

東金堂の本尊・薬師如来を護るのが十二神将であり、元はバラモン教系の神々であったが、仏法に帰依して、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来の護法神・眷属となった。この板彫十二神将が作られたのは、当初の東金堂が消失した後に、新たな堂宇が長元4年(1031)に供養された頃に制作されたものと推測される。厚さ3cm程の檜材の板からさまざまな表情が刻みだされた、わが国の浮彫刻(レリーフ)の傑作である。これらの諸像は、搬送が容易なためか、一時は南円堂など他所に移されながらも一体も失われることなく今日に伝わっている。本来、この板彫十二神将、薬師如来像(白鳳の貴公子)が座る台座の四方を荘厳していた可能性が高いものである。通常は興福寺国宝館の入口に、一列に並んだ十二体が拝観できる。

国宝 板彫十二神将(宮毘羅神将像)  檜材   平安時代(11世紀)

刀を採り威嚇する姿が特徴である。十二神将像は、全体として目鼻・口腔の起伏や手足の重なりがわずかな厚みの中に奥行きをもって巧みに表現されており、製作者たちの技量の高さがうかがうことが出来る。

 

国宝 銅像仏頭は、白鳳時代を代表する傑作であり、その歴史は、興福寺の中世の東金堂衆の荒々しさを今に伝えるものである。また板彫十二神将立像は平安時代の神将像の傑作であり、国宝に指定されている。鎌倉時代の興福寺復興期における十二神将立像と合わせ、そろって現代まで伝えられたことは奇跡に近い出来事だと思う。東金堂の仏像類は、素晴らしい出来栄えの仏像類と思う。

 

(本稿は、図録「国宝興福寺仏頭展  2013年」、直木幸次郎「古代国家の成立」を三sぃ陽)

興 福 寺   東 金 堂(1) 

興福寺には、中金堂、東金堂、西金堂の3金堂がある。これは奈良時でも珍しい寺院構成である。東金堂は、東にあるので東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立した。創建時は、須弥壇の敷瓦として水波紋の瑠璃瓦が敷き詰められていたという。6度も被災して、現在の建物は応永22年(1415)の再建であるが、寄棟造りの屋根や太い柱、前1間を吹き放ちとした深い軒などが創建当初の姿を伝えている。

国宝  東金堂  寄棟造 本瓦葺  室町時代(1415)

中金堂が再建されるまでは、興福寺唯一の金堂であり、仏像を拝観出来るのは、東金堂のみであった。後に国宝館が建設され、多くの仏像類が拝観出来るようになった、古い建物で、仏像群が拝観できるのは東金堂のみであった。この東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興された建物である。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿には奈良時代の往時が偲ばれる。興福寺は火災と復興を繰り返したが、建造物も仏像も天平草創期を古典として尊重している。

重分 薬師如来坐像  室町時代(応永22年ー1415)  銅像

東金堂の本尊像である。応永22年(1415)、東金堂の再建と同時に造られた仏像である左手の薬壷(やっこ)は、一般的に薬師仏に必需の持物(じもつ)である。薬師如来は、病気を治し、福利増進をつかさどるとされる。堂々とした像の光背は薬師如来の瑠璃光世界をあらわし、宝塔に安置された如来、七仏薬師や供養菩薩、飛天などが配されている。両脇侍(わきじ)は、日光・月光菩薩である。

国宝  文殊菩薩坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1196) 定慶一門作

国宝 維摩居士坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1415)定慶作

 

文殊菩薩は維摩居士(ゆいまこじ)と同時期の作で、定慶かその周辺の仏師の作と考えられる。弁舌にたけた知恵第一の文殊が討論する場面を表す。病にかかった高齢な維摩とは対照的に丸々とした張のある顔と体で、若々しく健康的である。台座と光背も円形が基本となり、台座、隆平が方形である維摩同様に宋時代に流行したモチーフを多く取り入れている。維摩居士は釈迦在世中のころの富豪の在家仏教徒で、大乗仏教の模範とされる人物である。「唯摩詰所説教」に、病気の維摩居士を見舞った文殊菩薩との間で法論をたたかわす場面がみえ、東金堂でも文殊菩薩像と対比して安置する。若くはつらつとした文殊菩薩と問答する病弱な老人の維摩居士を生きた人間として写実的に造形している。仏師定慶(じょうけい)の作で、像内に「建久7年(1196)」の造立銘がある。

国宝 四天王立像  4躯  平安時代(9世紀)

増長天立像      多聞天立像

 

東金堂の四天王立像は国宝に指定されている名作で、平安時代初期の8世紀~9世紀初期頃の作品である。治承4年(1180)の平重盛の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の堂から移された。4体すべて残るが、それ以前の伝来についてはよくわからない。少し寸の詰まった短躯の像で、そのため横幅が広く、奥行きもあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、一木のヒノキの造り、像内の内繰り(うちぐり)を作らない全くの一木造である。一木造の隆盛したこの頃の時期を代表する四天王像の秀作である。

国宝  十二神将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

十二神将は薬師如来の守護神で奈良時代からの作例がある。最も古いものは新薬師寺の像である。奈良時代の像の頭には何も付けないが、平安時代後期の東大寺像では一体一体の頭部に子(ね)、丑(うし)、寅(とら)の十二支の動物が標識として付けられている。以後鎌倉時代の作例からは十二神将と十二支獣の関係は不可分となる。各十二神将の名称と像の仕草や形の関連性などの規定はなく、さまざまな姿企が見られるのも十二神将の特色である。

国宝 十二神将(迷羅大将立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝 十二神将(安底羅立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝  珊底羅大将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

 

東金堂は、従来唯一の仏像と共に金堂が拝観できる施設であり、興福寺と言えば、東金堂を思い浮かべる程である。狭い堂内に所狭しと並べられる仏像類は「息苦しい程の」濃密勘が漂う世界であった。南円堂、北円堂など古い建物と仏像類はあるが、公開日程が少なく、常時拝観できる金堂として東金堂は、興福寺の顔であった。

 

(本稿は、図録「国宝 興福寺仏頭展  2013年」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「もっと知りたい興福寺の仏たち」を参照した)

興福寺  再建された中金堂

奈良興福寺と言えば、奈良を代表する寺院であり、国宝、重要文化財を日本一保有している寺院として知らない人はいない。ところが、古都奈良の散策に欠かせない本として有名な和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道夫「古都遍歴」の3誌とも「興福寺」と名付けた章は設けていない。これは、あれ程読み込んだ私にとっても驚くべき発見であった。勿論、文中には「興福寺」に触れ、特に興福寺の仏像には適宜触れていることは当然であるが、項目(章)として興福寺を立てていないのである。何故、誰でも知っている興福寺を「章立て」しないで、古寺巡礼や古寺風物詩が書けたのであろうか。私の昭和20年代の記憶では、興福寺は奈良公園んの一部であり、少なくとも建物として古いものは、東金堂、五重塔、三重塔などはあるが、肝心の金堂が仮本堂でみすぼらしいお寺であった。仏像は沢山あるが、肝心の要となる金堂が無い寺として写った。幸い、日経新聞「私の履歴書」に、現貫主の多川俊英氏が2018年11月1日より29にまで28回に亘り、履歴書とともに興福寺の歴史に触れてみえ、私の知らないことが沢山記事になっていた。この履歴書を参考にしながら、興福寺の各お堂や、仏像を連載してみたい。まず「信仰の起点」と題する第20回の履歴書に、「興福寺は天平回帰、つまり最新の技術と様式で造り直すのではなく、創建当初の姿に近づこう、戻ろうとしてきた」と述べられている。その中に奈良橿原考古学研究所の泉森氏が「興福寺には信仰の動線がない」と指摘され、「あっ、痛ッ」と感じたと述べておられる。正しくその通りである。私の「美」の最初の一文が「興福寺 廃仏稀釈の嵐」と題して、五重塔、東金堂の建物を取り上げ、子規の俳句として、次の歌を引用している。「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 子規              さて、中金堂は藤原不比等によって平城遷都の年(710)に、藤原氏の氏寺として丘陵の先端地を整地して伽藍が計画され、最初に建立に取り掛かった金堂である。その完成は不比等の死(養老4年ー720)までには完成していたと思われる。その後7回に及ぶ火災を被り、特に7回目の火災は享保2年(1717)に発生し、その後の再建は仮堂にとどまった。私がみた興福寺中金堂は、その江戸時代の仮金堂であり、到底興福寺の中心となる金堂とは思えなかった。中金堂の再建は、興福寺再建の柱事業として、平成の初め頃から計画され、周到な準備のもと20年以上の歳月をかけて、本年(2018)10月7日から11日まで落慶法要が行われた。実に江戸時代の火災以来300年振りの本格的中金堂の再建であった。

再建された中金堂 平成29年(2018年)

天平時代の中金堂をそのままの大きさで再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川貫主は、次のような挨拶をされている。「本日、中金堂の再建落慶法要を迎え、自ずからの思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の動線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な事情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれがようやく実現でき、感慨無量という他ありません。」    このご挨拶を記せば、中金堂の興福寺再建の内容をゴタゴタ記す必要は無いだろうと思う。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者・文学者が生存されたならば、必ず「興福寺」を一章として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更するほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要であろう。

中金堂の三尊と法相柱

この写真は、新築なった中金堂の三尊と法相柱の一部を映した写真である。中央の釈迦薬師如来坐像は江戸時代(文化8年ー1811)に、仏師赤尾右京が造った仏像であることが、像内墨書銘により明らかになった。この仏像は、江戸時代に再建された仮金堂の本尊として造立された仏像である。左右の薬王、薬上菩薩立像については後に触れる。なお、左端に法相柱が建立されている。これは法相宗の祖師が描かれた柱であり、法相柱と呼んでいる。これが創建当初から存在したかは不明であるが、興福寺の最初の大火(永承元年ー1044)後の再建記録である「造興福寺記」には、、法相宗の再興について記録されている。興福寺は奈良時代以降「法相専寺」を標榜してきたこと、法相柱はその一つの象徴として、比較的初期の頃から存在していたことが推測される。法相柱については、無著・世親から鎌倉時代を下限に法相の教えを確立・発展させてきた14人の祖師を、畑中光享画伯が華やかな天平時代に相応しい群青を背景に描いたものである。柱絵が「千年残る」ことを目指し厳選した絵具・紙を用い、柱に麻布を巻き、漆で固め下張りの紙や三重に張り付けた上から祖師画を重ね合わせたものである。

重分 薬王(右)・薬上(左)菩薩立像 鎌倉時代(建仁2年ー1202) 木造

 

仮金堂の釈迦如来坐像の両脇に置かれていたが、像内銘文により建仁2年(1202)に造られ、西金堂に安置されていた薬王(やくおう)、薬上(やくじょう)菩薩像であることが知られる。これは鎌倉時代の復興像である。これらの菩薩の登場する「法華経」の薬王菩薩本事品(ほんじぼん)に、女人の極楽往生が説かれており、光明皇后の祈りに相応しい像と言える。

重分 四天王立像 康慶作  鎌倉時代(文治5年) 木造

持国天立像            増長天立像

 

南円堂に安置されていた鎌倉時代(文治5年ー1189)の後慶作の四天王立像を、中金堂に祀ってあった。いずれも康慶作で、鎌倉時代の四天王像である。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、例えば治承2年(1178)の東大寺持国天像に似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。なお、彩色も製作当初のものがよく残ることも貴重である。

 

中金堂は、左右約36.3メートル、奥行きは約23メートル、基壇からの高さは約19.6メートルである。1998年の境内整備着手にはじまり、2010年の立柱式を経て、20年がかりで再建したのである。興福寺整備委員会の鈴木嘉吉座長は中金堂再建の意義を次のように説明する。「興福寺はいわば300年間、へそを欠いた状態だった。興福寺の堂塔のなかでも中金堂は最大の中核施設。繰り返し創建時代の規模・形式で復元されてきた。ところが1717年に焼失してからはそれがかなわなかった」「ながらく信仰の動線のない状態が続いたが、今回はまさに七転び八起きでのぞむ再建」と多川俊英貫主は語る。

 

(本稿は、多川俊英「私の履歴書 全28回日経新聞、日経新聞2018年10月記事、図録「平成再建 興福寺中金堂落慶  2018年」、古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)

フェルメール展(2)

フェルメールは1632年、オランダの商都デルフトで宿屋を営む夫婦のもとに生まれた。宿屋「メーヘレン亭」は居酒屋も併設しており、父が画商としても活動していたから、街の画家たちが多く出入りしていたようである。フェルメールは10代でデルフトを離れ画業修行をしたとされるが、どこで誰を師匠としたかは不明のままである。1652年、フェルメールの父は亡くなった。この知らせを受けたフェルメールはデルフトn戻り、宿屋と画商業を継ぐことになった。この時フェルメールは20歳であった。以後殆どデルフトを離れることなく、この地で画家としてのキャリアを積んだ。その翌年の1653年、20歳のフェルメールは裕福なカトリックの娘カタリーナ・ボルネスと結婚した。カタリーナの両親は、一介の画家であり、プロテスタントの教徒であるフェルメールとの結婚に反対したが、彼がカトリックに改宗することで同意を得た。同年の年末にはデルフトの聖ルカ組合(画家の同業者組合)に登録した。これにより一人前の親方画家として工房を構え、作品に署名し販売したり、弟子を取ったりすることが出来るようになった。フェルメールは、はじめ神話やキリスト教の主題を描いた歴史画に力を入れたが、市民階級の需要の高まりから、市井の人物を描く風俗画を描くようになった。オランダの市民階層は、一家に一枚の絵画を飾るだけの余裕が出来たのである。「今日の日本で、一人前の画家の絵画を飾っている家庭がどれほそあるだろうか?)代表作の一つである「牛乳を注ぐ女」は20歳代後半に描かれた作品ながら、フェルメール作品の特徴である、光に満ちた室内の情景や、鮮やかな青と黄色の対比を、すでに見ることができる。順調に画家としての評価を挙げたフェルメールは、29歳の時に史上最年少で聖ルカ組合の理事に選任された。この頃には、風俗画家の画風を確立し、後世に残る名作を、次々に生み出した。1667年には「デルフト市誌」に「ファブリティスを継ぐ画家」として紹介され、デルフト随一の画家として評価された。その一方で生活は苦しく、義母の支援や友人からの借金に頼ることを余儀なくされていた。その理由として多くの子供を養うことや、フェルメールが多用した非常に高い顔料、ウルトラマリンブルーへのこだわりも、家計を圧迫していたと伝えられる。デルフト一の画家となったフェルメールは、40歳の頃には、絵画の鑑定家としても活動した。しかし、この頃からオランダ経済の衰退が始まった。第三次英蘭戦争が勃発し、フランスにも宣戦布告されたオランダは、大不況に陥り、絵の注文も激減した。そして1675年、フェルメールは43歳でこの世を去った。未亡人となったカタリーナは翌年4月、裁判所に破産を申請し、夫が残したわずかな作品も、パン代のかたに渡してしまう程に困窮した状態であった。

マルタとマリアの家のキリスト 1654~55年頃 ヨハネス・フェルメール作油彩・カンヴァス スコットランド・ナシォナル・ギャラリー

この絵はイエス・キリストが二人の姉妹の家に招待された際のワンシーンを描いた宗教画である。食事の支度をする活動的なマルタと、キリストの足元に座り込んで話し込む瞑想的なマリアを描く。教会での祈りを重んじるカトリックと、聖書のの教えを重んじるプロテスタントの教えを象徴しているという説もある。この絵を描く2年ほど前、21歳のフェルメールは、一つ年上のカタリーナと結婚するため、プロテスタントからカトリックに改宗している。信仰の違いからカタリーナの母親マーリアが、結婚に強く反対していたことからである。どちらかを選ばせるキリスト教的教訓が問われるこのテーマをフェルメールが描いているのは、自身の「選択」の影響ではないととも言われている。

執り持ち女 ヨハネス・フェルメール作 1656年 油彩・カンヴァス ドレスデン国立古典絵画館

フェルメールの作品のうち制作年が記されているのは3点のみである。1656年の年紀のある本作は、他の作品の制作時期を推定する際の基準となっている。描かれているのは売春宿の情景である。黄色い服を着た女性が、赤い服の男性からコインを受け取ろうとしている。女性の左胸に向かって背後から伸びる男性の左手が描かれている。その隣では、男性に娼婦を斡旋した「取り持ち女」が不気味な笑みを浮かべ、左端ではフェルメールの自画像とも言われる男性が、こちらに視線を投げかけている。一方で、この絵の設定は、新約聖書にある「放蕩息子」の一場面を連想させるという意見もある。宗教画や歴史画などを手掛けていた若きフェルメールが、風俗画家への転向を模索していた頃の作品である。

牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気の高い作品で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだが、フェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビラスズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされ室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対称の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机と右側の床にある木製足温器は古典的な三角構図を形成している。フェルメールは、透視図法の焼失線を女性の右手の真上にある消失点に向かって集中させることによって、絵を見る人の視線をさりげなく絵の中心要素に導いている。カンヴァスのその箇所にある小さな穴は、フェルメールが17世紀のアトリエでよく行われていた方法を用いたことを物語っている。画家は消失点となる場所にピンを刺し、透視図法の消失線をさだめるためにそこから絵の末端まで糸を張ったのである。

ワイングラス ヨハネス・フェルメール作 1661~62年頃 油彩・カンヴァス ベルリン国立美術館

「ワイングラス」は、フェルメールの制作活動の中期に属する絵画である。この時期、彼は「遠近法によって絵の中につくりだされる」空間を拡張する方向に向かっていた。人物や品々ははっきりと私たち鑑賞者から遠ざけて配置されている。この作品で初めて、フェルメールの対象をクローズアップして描くことを放棄した。人の座っていない椅子をテーブルの手間に置くことで「二人の人物による」出来事から私たち鑑賞者を隔てて、私たちを後ろに下がらせたのである。この革新的な方法は、フェルメールより3歳年長であったデルフトの同僚画家、ピーテル・デ・ホーホの初期の傑作からの影響を示唆している。画面左から、とりわけ2枚ある窓ガラスのうちの手前の1枚から差し込む冷たい光の反射の中で、若い婦人がテーブルの前に座ってワインを飲んでいるのが見える。この女性は、グラスを完全に傾けていて、ワインの最後の一滴を飲もうとしているようだ。落ち着きのある洗練されたしぐさでグラスの脚を手にする女性の動作は礼、この儀作法にかなうもので、また上流階級の人々によりふさわしいものである。この女性の隣には、ワインのポットを手にした優雅な身なりの紳士が立ち、ワインをつぎ足そうと待っているが、自らは飲んでいない。この若い婦人を見るとその自信に満ちた、まさに高慢といってよい表情は、この怪しげな人物の艶っぽい関係がこれから始まろうとしていることを示している。無垢な若い女性への誘惑、すなわち経験豊かな男性に言い寄られるという主題を取り上げた。その際、彼はオランダ風俗画家たちの間で流行していたこの主題に変化をつけている。同僚画家のヘラルド・テル・ボルフがフェルメールに着想を与えたのであろう。彼は、酒を飲む若い女性を紳士が誘惑するという場面をモチーフに何点もの作品を描いている。しかしながら、フェルメールの場合、この出来事に猥雑さも皮相的な官能性も加えない。彼は二人の関係の本当のところをはっきりと伝えるようなものは何も描いていないのだ。画面左側の窓には、片手でねじられた帯状のものを持つ女性像が描かれた色鮮やかな紋章が描かれている。この帯状のもののなかでは手綱が重要である。というのも、手綱は「節制」を意味する小道具だからである。ここに描かれた二人の関係とは、この二人が自制することに失敗するだろうという予測をも示唆していると考えたよいだろう。この絵は、まさに「節度を知る」ことへの警告である。

リュートを調弦する女 ヨハネス・フェルメール作 1662~63年頃 油彩・カンヴァス  メトロポリタン美術館

若い女性が窓辺に座り、リュートを調弦している。リュートの糸巻きに耳を傾け、楽器をかき鳴らしながら、窓越しにじっと外の通りを眺めている。鉛の窓枠のついた窓ガラス越しに差し込む光は、この女性の耳と首元を飾る真珠をきらめかせているだけでなく、彼女の隣にある椅子の磨き上げられた真鍮の飾り鋲をも輝かせている。彼女の前のテーブルには、楽譜が散らばっている。部屋の背後には飾り気のない白い壁で、そこには手彩色されたヨーロッパの地図が掛かっている。この絵は、建築的な空間の確固とした描写を一歩、椅子とテーブルの遠近法に基づく後退が、鑑賞者の眼を、画面を横断する力強い対角線上の動きに導いている。私たちの眼にはこの女性演奏者に向けられるが、彼女は、椅子と地図の間のまばゆいばかりの支点となっているのである。この作品においても図面左の窓からの光が柔らかく中景を満たすという形式になっているが、前景はそれに比べると暗くなっている。17世紀の画家達には自由に使える人工的な照明があまりなかったので、アトリエに差し込む光を調整するには窓を開けるか、雨戸を閉めるかしかなかった。この女性が見に着けた黄色い服は、フェルメール歿後、財産目録に載ったもののようであり、しばしば描かれた女性が着ている。

真珠の首飾り ヨハネス・フェルメール作 1662~65年頃 油彩・カンヴァス  ベルリン国立美術館

6作品に登場する黄色いマントを羽織った女性が、鏡を見ながら今しも真珠の首飾りをかけようとする様子である。黄色いカーテンがかかった右側の窓から、オランダ特有のやわらかい光が射し込んでいる。左側からの光、真珠に反射する光、黄色いマントの単身女性、人物の存在を際立たせる無地の壁。「光の魔術師」と称されたフェルメールならではの特徴が十分に詰まった中期の名作である。フェルメールは「青の画家」と称されるが、「「黄色の画家」であることがよく判る。

手紙を書く女 ヨハネス・フェルメール作 1665年頃 油彩・カンヴァス  ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フェルメールは、オランダのどのような画家達にまして、不動の静謐さと一瞬のうつろいとの間で繊細な均衡を保つことができた。彼は、この作品において、手紙を書くのを中断された女性が、穏やかで思慮深い作法で私たち鑑賞者の方に頭を上げているところを描いている。女性の姿と、この作品には永遠性がゆきわたっている。たとえば、フェルメールは青いテーブルクロスに斜めの折り返しをつくっているが、この折り返しは机に置かれた女性の左腕と平行になっている。また、人物像と静物の関係に対する同様の関心からフェルメールはテーブルの上に黄色いリボンを描いたが、このリボンは女性の伸ばした右手の輪郭線と呼応している。この絵の年紀は記されていないが、この様式から、1660年代半ばから後半にかけて制作されたほかのフェルメールの作品と関連づけられている。さらに、頭の後ろの髪を束ねて編み込み、星形に結んだリボンをつけたこの女性の髪形は、1660年代半ばに流行していた。女性の着る優雅な黄色い上着は、おそらくフェルメールの没後に作成された財産目録に記載されたものであろう。この時期のほかの3点の作品にもこの上着が描かれているが、そのうちの2点「リュートを調弦する女」と「真珠の首飾りの女」が本展に出品されている。

赤い帽子の娘 ヨハネス・フェルメール作 1665~66年頃 油彩・板  ワシントンナショナル・ギャラリー

フェルメールは、1660年代半ばないし後半に本作品を制作した。カンヴァスでは無く、板に描かれた、この注目すべき小品からも見て取れるように、フェルメールはm作品の雰囲気を作り出す際の色彩の役割にきわめて鋭敏であった。この作品では、若い女性が炎のように赤い帽子をかぶっているが、この帽子の外側の緑は、光が帽子の羽毛のなかにまで差し込んでいるので、まるで蛍光色であるかのように見える。この女性は溌剌として、生気に満ちている。目に青緑色のハイライトがあり、半分開いた口にピンクのハイライトがあるので、その表情は生き生きとしていて、まさに今、私達鑑賞者のほうに目を向けたのだという印象を強めている。青い上着の上に黄色いアクセントを置くという異色の大胆な組み合わせが、作品に視覚的な力強さを加えている。フェルメールが描いたほかの多くの人物画とは違って、この女性は、思惟的で抽象的な世界にはいない。彼女は、柄物のタペストリーを背景にして、私たちをじっと見つめ、関心を惹きつけ、私たちと直接やりとりしている。23.2×18.1cmと一番小さな絵である。

手紙を書く婦人と召使い ヨハネス・フェルメール作 油彩・カンヴァス 1670~71年頃 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

フェルメール後期作品の最高傑作として広く評価されている。この絵は、堂々たる品格をそなえた名品である。フェルメールの早すぎる死の数年前に描かれたこの作品には、緑のボデイス(胴着)とパフスリーブの白いブラウスを着た女性が敷物が掛けられた机の上で一心に手紙を書いているところが描かれている。手紙の文面はわからないが、女性の後ろに腕組みをしたメイドが立っている。このメイドは左側を向き、装飾が施されたステンドグラスの窓の外を見やっているが、何をみているのか定かではない。フェルメールはこの二人の女性を意図的に対比している。つまり、俯きながら坐っている婦人は内向的に見えるが、一方のまっすぐ立つメイドは外の世界につながっている。社会的身分や手前に位置していることからすれば、婦人が主役だが、メイドは女主人に従う身であり奥の部分に配置されているにもかかわらず、まさに構図の中心に全身像で描かれている。フェルメールは、既成の社会的ヒエラルキーを軽く扱うことによって、メイドがこの絵の場面の本質的要素であることをみなすように私達に望んだのだろう。本題材は、デルフトの画家が特に好んだもののひとつだった。フェルメールの早い時期の3点の作品には、女性が独りで手紙を読む、あるいは書くところが描かれている。そして残りの3点には、手紙を渡すメイド、今まさに渡そうとするところ、また本作品がそうであるように、女主人から手紙を送るように命じられるのを待つメイドが描かれている。フェルメールが手紙という題材を好んだのは決して例外的なことではなかった。彼が生きた時代のオランダ風俗画では男女の手紙のやり取りは最も頻繁に見られる画題の一つだった。

 

フェルメール展と名乗った展覧会は、日本では6回目であるが、その前後にオランダ絵画展とか、「レンプラントとオランダ絵画巨匠展」など19回、日本で開催されている。その中で、今回は10点が日本で見られる。(内1点は大阪会場のみ)従って、東京展では9点が見られる。これは過去最高の点数であり、初来日は3点もある。今回の「フェルメール展」では、日時指定制という初めての方法で入場切符を発売した。それは、絵画展を視るために、数時間も待つケースが多く、たとえば昨年の若冲展では、数時間並んだ人もいた筈である。今回は、入場予定日を前もって決め、かつ時間帯も決めて、指定された電話番号に電話すると、ナンバーを教えられ、セブンーイレブンの店舗を指定すると、その番号を指定した店で伝えれば、入場券が買えるという仕組みである。多分、日本では初めての採用では無いだろうか?入場料は2500円と非常に高い。いまだかって経験したことの無い高い値段であった。実際、私は初日の時間帯、10月5日の午前9時半~10時半を指定し、10時頃に行ったが、すでにかなり人は入っていた。しかし、当日券も販売しており、必ずしも事前購入が絶対条件では無いようであったが、万一満員になれば、当日券は販売しないだろうから、やはり事前予約しておくべくだろう。17世紀はオランダ全盛期であり、フランスより、イギリスより豊かな国であった。このキラキラした国では1637年にチューリップ・バブルがはじけ、ロンドンの「南海泡沫事件」より80年余り古い話である。こんp展覧会の入場券はかって経験したことの無い高いものであったが、結論として十分満足出来る内容であった。今後、少なくとも10年間は、これほどのフェルメール絵画が日本に来る機会は無いだろうから、是非拝観をお勧めする。十分満足出来る筈である。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「フェルメール展 公式ガイドブック 2018年」、クロワッサン 2018年10月25日号、日経大人のOFF「2018年1月号」を参照した)