開館60周年記念  松方コレクション(2)

1920年代の第一次世界大戦下のパリでは、松方はパリに拠点を置き、名作を次々と購入していった。この時期、パリにいた松方の部下日覆三郎、姪の黒木竹子とその夫黒木三郎夫妻、仏文学者成瀬正一夫妻のほか、美術史家矢代幸雄や洋画家和田英作ら多数の日本人が滞在していた。多分、これらの人々のアドバイスもあったのであろう。松方は次々と名作を買い集めた時代であった。

青い胴着の女 パブロ・ピカソ作 油彩・カンヴァス 1920年 国立西洋美術館

1912年8月31日に、タ・ベ通りのレヴィ画廊を見た松方、和田、矢代はボエシー通りのローザンベール画廊を訪れ、ここでポカソの作品を多数見ている。同年9月14日に、先の4人のほかに成瀬夫人を加えて5人で改めて同画廊を訪ね、ここでピカソの「青い胴着の女」を求めている。これは「新古典主義時代」のピカソ作品の特徴を良く伝えている。

ばら フィンセント・ファン・ゴッホ作 1889年  国立西洋美術館

ゴッホはフランス南部のアルル=レミから北部オーヴェルへと遍歴した生涯最後の2年間に、地に生える草花や、花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな植物を画面いっぱい描く構図は、ゴッホ以前の西洋絵画にはほとんど例がない。そこには日本の美術の影響もみらえるが、根本には彼の宗教的な自然観がある。ゴッホはパリの2年間に浮世絵を熱心に収集し、その大胆な構図と色彩に魅了されたが、1888年創刊の「芸術の日本」に掲載されたサミェル・ピングの評論をアルル滞在中に読み、ますます日本の美術に共感を寄せるに至った。                      アルルでのゴーガンとの共同生活が1888年の暮れに破綻して以来、ゴッホは何度かてんかん性の発作に襲われ、1889年5月上旬に自分の意志でサン=レミの涼養院に移る。最初の数週間は外出を禁じられ、専ら病院の庭で写生会を行った。弟テオに当てた手紙の中に独立した「バラの茂み」を写生したと伝えている。これが本作であると考えられる。

アルルの寝室 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1889年オルセー美術館

1921年の9月14日に、松方ら5人がローザンベール画廊を訪れた。そこで「アルルの寝室」を発見し、購入した。「アルルの寝室」は3つのバージョンが知られている。明るい静けさに満ちた本作品は、サンレミの療養所で、母親のために描いたものである。この「アルルの寝室」は、戦後日本に返還するにあたり、フランス政府が、フランス国家に留置したもので、今回の展覧会のためにオルセー美術館から借り出した作品である。

扇のある静物  ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1889年頃 オルセー美術館

松方がドリュエ画廊から買ったゴーガンは、1880年代のブルターニュ時代の作品に限られている。「扇のある静物」は日本美術に着想を得て画家自らが描いた扇肩作品が画中画をなす。この扇と画面右奥に置かれた陶器作品は「アレクサンドル・コーラ婦人の肖像」にも登場する。本作品は戦後もフランスに留め置かれ、現在はオルセー美術館に所蔵される。

ブルターニュ風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1888年 国立西洋美術館

大西洋に突き出たフランス北西部の半島であるブルターニュ地方は、19世紀後半にもケルト色の濃い古来の風習を残し、フランスにおける異郷といして芸術家たちの関心を引いていた。近代文明の及ばないこの素朴な世界に芸術の源泉を求めたゴーガンは、1886年夏に初めてこの地方を訪れて、この地方の村のポン=タヴェンを訪れて、この地方の村のポン=タヴェン を訪れ、独特の風土に魅せられた。彼は1888年11月末にこの村を再訪し、10月にゴッホの待つ南仏のアルルへ発つまで滞在した。次のような手紙を友人の画家に送っていたる。「私は静かに自然を眺めて暮らした。私はブルターニュが好きだ。ここには野生と原始性がある。私の木靴が花崗岩の大地に響くと、鈍く乾いた力強い音がする。それこそが私が絵画をに求めているものだ。細い筆致を並べた描写法は印象派の影響をとどめ、モチーフはピサロの農村風景を思わせるが、冬の野の侘しく荒涼とした雰囲気に独自の感性が現れている。

マネと婦人像 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1868,9年頃 北九州美術館

1922年、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れた絵画コレクsィヨンも一部購入する話が神戸の松方のもとに舞い込んだ。1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。           妻シュザンヌがピアノに向かう姿を座って眺めていたマネを描いたドガの「マネとマネ婦人像」は、これを贈られたマネが妻の肖像を気に入らず、画面を切断したといわくを持つ作品である。のちにドガがマネ婦人の顔を描き直すために画布を付け足しが描き直されることがなかった。

積みわら クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1885年 大原美術館

モネはカミーユが遺したふたりの子供に、オシュデの妻のアリスとその子供たちを加えて新たな家族を形成しつつ、1883年にジヴェニールへ移住する。ノルマンディー地方南東に位置するこの小村でやがて数々のモネの代表作が生み出されることになる。「積みわら」は1885年に描かれた3点の「積みわら」のうちの1点で、モネの家の近くに広がる牧草地に積み上げられた干し草を描いたものである。単純な形と色彩を持つ積みわらに、モネは刻々と移り変わる光の効果を表すためのかっこうのモチーフを見出し、1884年から1886年にかけて8点を手掛けた。ここでは、さわやかに晴れ渡る空の下、光の効果で微妙に色を変える積みわらの影に憩うアリスと息子のミシェルが描かれている。背景にはポプラ並木が続く。この「積みわら」のモチーフが名高い連作に発展して1891年に発表され、大きな成功をもたらした。なお、本作品は松方旧蔵作品を多数所有している和田久左衛門の旧贓品の一つである。現在は、大原美術館に保存されている。松方コレクションを、やむを得ず手放した場合、多くが日本の西洋美術の美術館に保管された格好の事例である。

サン=マメス 六月の朝  アルフレッド・シスレー作 油彩・カンヴァス 1884年 ブリジストン美術館

サン=マメスはパリの南東イル・ド・フランスの村であり、セーヌ河とロワン河が合流する地点にある。シスレーは1882年9月にこの穏やかな自然に恵まれた小村に移り住みここを中心として多くの作品を制作した。青々とした緑が印象的な「サン=マメス六月の朝」は、1882年の第7回印象派展に出品されたもので、題名通り、初夏の爽やかな朝が描かれる。画面の片側へ向かって道と川が曲線を描いて遠のいていく伝統的構図だが、街路樹の茂りや対岸の植物、そしてそれらの緑が照り映える川の水面と、画面右手の建物のレンガ色が鮮やかなコントラストをなし、緊密な構図を作り出している。

収穫  カミーユ・パサロ作 テンペラ・カンヴァス 1882年 国立西洋美術館

この作品は、1882年の第7回印象派展の出品作である。オワーズ河を挟んでポントワーズの対岸にある麦畑を舞台に、収穫の後景が描かれている。地平線は画面の上の方に置かれ、横長の画面いっぱいに、麦の刈り取られた明るい緑色の畑が広がる。画面の左手前には、麦の束を腕に抱えて運ぼうとする農婦の姿がまじかに迫り、そこから画面の右上に向かって、畑に並べられた麦の束の列に沿って空間の奥行が表されている。1880年代初頭には、印象派の画家たちの多くが転換期を迎えていた。誰よりも印象派の美学に誠実であろうとしたピサロもその例外ではなく、制作活動の停滞を乗り越えるためのさまざまな試みをこの時期に行っている。この「収穫」は第7回印象派展の出品された作品の中で、唯一テンペラの技法を用いたものであり、彼のテンペラ画としては前例のない大きさをも持つことからも、この作品を通じて新たな方向を探る狙いがあったと考えられよう。この技法によって色彩の透明感を増し、油彩画とは味わいの違った、艶がなく乾いた感じのある絵肌が生まれている。

 

 

松方コレクションの中核をなす、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れたフランス絵画コレクションの一部を購入するチャンスが神戸の松方のもとに舞い込んだ。スイスのオスカー・ラインハルトら各国のコレクターとの競合の中、パリのベネデットや成瀬らを通じて交渉の末、1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。マネヤモネなど粒そろいの印象派絵画を中心とするこれらの作品は、いったんロダン美術館の旧礼拝堂で保管されたのち1930年代半ばまでほとんど日本へ送られ、」コレクション散逸期に多くが売却されていった。しかしながら現在それらの作品が、国内外、特に日本各地の美術館やコレクションの代表的な作品の数えられていることは、松方コレクションと、日本の西洋美術普及の歴史に残した足跡のひとつと言えるだろう。本編は、松方コレクションと、日本で売却され、日本の西洋美術館にかいそろえられた一部を表したものである。

 

(本稿は、図露「億立西洋美術観開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した)

開館60周年記念  松方コレクション(1)

日本の芸術家、大勢の人々のために美術館を作るー神戸の川崎造船所(現川崎重工業株式会社)」は30年にわたって率いた松方幸次郎氏(1868~1950)は、大一次世界大戦によって船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916年~1927年頃のパリやロンドンを中心に西洋の美術品を買い集めた。その総数は3000点を超え、フランスから買い戻した浮世絵の約8000点を加えれば、約1万点を超える規模であった。しかし、1927年、昭和金融恐慌により造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も一部はパリでフランス政府に接収された。戦後、フランスから日本へ寄贈という名目で返還された375点と共に、1959年(昭和44年)、国立西洋美術館が設立され、ようやく松方コレクションは安住の地を得た。(詳細については、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」-陳岡めぐみ・国立西洋美術館館長)に詳しく書かれている)

睡蓮  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

「睡蓮」をめぐるモネの作品の中でも、パリのオランジュリー美術館に飾られている大装飾画は、モネの画業の集大成として広く知られている。ジヴェルニーに居を構えた晩年のモネは、1980年代後半から自宅の庭の睡蓮の池をモチーフとする一連の作品の制作に没頭した。1918年11月、第一次世界大戦の終結とフランスの勝利を記念してモネは、当時の首相で旧友のジョルジュ・クレマンソー(1841~1929)に作品の国家寄贈を提案した。完成に向けて努力したが、1926年12月に故人となった。作品は、その後、1927年にテュイルリー公園の一角にあるオランジュリー美術館に設置された。松方は、モネと親交があり、二度にわたって松方がジヴェルニーを訪れて多数の作品を購入した。モネは未完の作品をアトリエから外に出すことを嫌った                  松方はモネから入手した2点の「睡蓮」のうち1点が本作品である。恐らくジベルニーの作品の第一室の東の壁にある「緑の反映」に関連づけることができる。もう1点が近年発展されたが(睡蓮、柳の反映)、それは最後に紹介する。

松方幸次郎氏の肖像 フランク・ヌラグイン作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

この肖像は、松方とブラグイがロンドンで出会った頃、そして美術品収集を始める1916年に制作された。松方にこの画家を紹介したのは、ロンドンに外交官として駐在していた芸術通の兄正作や、在英日本人画家の石橋和調等と言われるが、画家と石橋は親しい関係を築き、松方はブラグインに彼の作品の売却、東京に建設予定の美術館のデザイン、そして他の画家の作品の購入の代理を依頼するようになった。本作品では、カンヴァス裏面に「1時間で描く」とあるように、素早い筆さばきで生き生きと、モデルの姿を捉えている。

花野に眠る少女 ジョバンニ・セガンティー作 1884-85 水彩・カンヴァス        国立西洋美術館

牧歌的な情景を描いたパステル画(花野に眠る少女)はブリアンツ地方で描かれた。後にセガンティーニ画風は「生」や「死」と言って普遍的な概念を扱う象徴主義へと移行していくだが、松方は自然主義的な作品に限って購入した。実際、コレクション全体を見渡しても、神秘主義や観念を偏重するタイプの象徴主義的作品はほとんど含まれていない。

春(ダフニスとクロエ)ジャン・スランソワ・ミレ作 1865年 国立西洋美術館

農民画家として名高いフランソワ・ミレーはノルマンディーの海辺に生まれた。1837年にパリに出て、国立美術学校でドラロッシュに師事し、1840年にサロン初入選。当初は肖像画や物語絵を描いたが、次第に素朴な農民生活を題材とした作品に取り組んでいく。1849年にバルビゾン村に移住し、後にバルビゾン派と称された。大地に根差した農民の姿を感情豊かに描き続け、晩年は高い名声を得た。1864年、ミレーはマールの銀行家トマの注文を受け、翌年にかけて、パリの邸の食堂を装飾するため「四季」を主題に天井画と3枚のタブローを描いた。そのうち本作は、「春」を描いたものである。春の陽光が降り注ぐ森の中で少年と少女が雛に餌を与え、木立の向こうには山羊の親子と海辺の遠景が覗く。場面は二人の捨て子ダフニスとクロエがエーゲ海のレスボス島の牧歌的な自然の中で幼い愛を育み結ばれるという、古代ギリシャで書かれた恋愛物語に取材している。後ろに立つ石像は、草花や卵を捧げられた豊穣の神である。ここでは人生の春に四季が重ね合わせられている。

並木道(サン=シメオン農場の道) クロード・モネ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

貧しき農夫 ピエール・ピュヴィス・ド・シャバンヌ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

19世紀フランスを代表する壁画家ピュツヴィ・ド・シャバンヌは第二帝政期から第三共和政期にかけて、重要な公共建築物を飾る裕福な家庭に生まれるが、病気静養で訪れたイタリアで画家を志し、パリでトマ・クチュールらに師事する。古典の伝統を受け継ぐ継ぎつつ、抑えた色彩と簡潔な表現、平坦で装飾的な画面構成を特徴とする作風で、独自の象徴主義的な作品世界を築き、続く世代へ大きな影響を与えた。本作は、ピユヴィ・ド・シャパンヌの代表作の一つ「貧しき農夫(パリ・オルセー美術館)」のヴァリトンである。貧し気な漁師の一家を水辺に風景と共に横長の画面に描いた1881年の作品は、サロンに出品された当時は批判の声も多かったものの、1887年に当時の所有者エミール・ボアヴァンから国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。スーラーやマイヨールをはじめ、多くの若い画家たちがこの作品の影響を受けたことが知られている。本作については、1893年に画商デュラン=リュエルからポワヴァンのもとに渡った記録が残されていることから、恐らくこの愛好家のためにオリジナルに代わるものとして制作された。縦長の構図や小船のモチーフとあいまって、画面はジャポニズムの影響をより色濃く見せている。

波  ギュスタヴ・クールベ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

フランス東部、スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地方に生まれ育ったクールベにとっては、海は長い間未知の世界だった。彼が生まれて初めて海を見たのは、ノルマンディーの地方を旅した22才の時である。1850年代のモンペリエ滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。その後、1850年代のモンペリア滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。しかし、クールベが海の風景に本格的取り組むのは1860年代後半のことである。この時期、彼は英仏海峡に面したル・アーブル周辺の海岸をたびたび訪れた。特に1866年はブーダンとモネを伴なって周辺の海岸をたびたび訪き、海岸の風景を25点ほど描いている。更に1869年の夏には、断崖の奇観で知られるエトルタ海岸に約2ケ月滞在し、それから翌年にかけて、嵐の海の風景を沢山制作した。1870年のサロンに出品した「嵐の海」と「嵐の後の風景とエトルタの断崖」は共に高い評価を受け、前者はクールベ歿後間もなく、彼の作品として初めてリュクサンブール美術館のためにフランス政府に買い上げられた。エトルタの嵐の海を描いた本作には、ほとんんど同一の構図による異作が数点ある。茜色に染まった雲が広がる暗い空の下で、巨大な波のうねりを頂点に達すると同時に崩れ落ち、岩礁にぶつかって白いしぶきをあげる。画面は空と海にほぼ二等分され、荒れる海面はカンヴァスの境界を越えて手前に広がり、大波が目の前に迫るかのようである。構図はごく簡潔だが、茜色の空と暗い緑色とを対比させた配色や、絵筆とペインテイングナイフを使い分けた質感表現に、優れた技量が認められる。一連の波は物語的要素や感情を一切交えずに、峻厳な自然の実相を客観的にとらえようとした点において、故郷の山岳地方に取材した1860年代中期の「ピュイ=ノワールの渓谷」や「ルー河の水源」の作品に通じる性格を持つクールベの風景画の独自性を示している。」

芍薬の花園 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

ヴェトゥイユ時代を経て1883年にモネはパリの北西、ノルマンデイーも南東部に位置する小村ジヴェルニーに移り住む。」セーヌ河とエプト川が合流する自然豊かなこの水辺の土地を気に入ったモネはやがて自宅の周囲に土地を広げ、後期の制作においては重要な着想源となる庭園の造成を進めた。「芍薬の花園」は、この題材として描かれた作品の中で初期のものである。この庭に水を引いて造った睡蓮の池は、モネ晩年のライフワークとなる「睡蓮」の連作を産むことになる。「芍薬の花園」は「睡蓮」への道のりを示す作品である。

「日本婦人の肖像(黒木夫人)」 油彩・カンヴァス 1922年 エドモンド・アマン・ジャン作  国立西洋美術館

画家モネに愛され、松方とモネの出会いにも貢献した黒木竹子は、松方家長兄で十五銀行頭取の松方巌の娘であり、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに対在したていた夫の三次とともに1920年前後のパリに滞在していた。夫妻も美術を好み、画家と交流し、絵を集めている。当時のフランス画壇の中心的地位を占め、洋画家児島虎次郎との交流でも知られていた。和服姿の竹子を描いた「日本婦人の肖像(黒木夫人)」は、夫妻がパリを発つ1922年4月の年紀を持つことから、夫妻のパリ滞在の記念に松方が注文したようだが、1922年4月に始まったパリの国民美術協会のサロンの画家から出品されている。おそらくそのためにパリに残されたのだろう。

 

かって「国立西洋美術館名品選」を、「黒川孝雄の美」に連載したことがあり、かなり重複する記事があるので、重複を避けるようにした。「松方コレクション」は第一次世界大戦後、美術品を日本に持ち帰ろうとした時に、「関東大震災の時と合致し、政府は奢侈品に十割という関税を課すし、それれを嫌って松方が欧州に送り返した」という程度の知識は持っていた。ところがパリとロンドンに送り返した美術品は、まずロンドンでは倉庫の火災で焼失し、パリに残った美術品には敵国性美術品としてフランス政府に没収された。戦後、松方コレクションが返還された際には、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものであり、かつ「返還」ではなく「寄贈」とすることにより、歴史的意味にかんがみて若干の絵画作品を返還の対象から外すという3点が問題となったとうに記憶する。幸い、フランス政府の指名した建築家はル・コルビジュであった、              久さしぶりに国立西洋美術館に入館したが、いかにも狭い。せめて、美術品はゆったりと拝観したいものである。

 

(本稿は「図録 確率西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した。)

奈 良  大 安 寺

天平19年(747)の「大安寺伽藍欄縁起並流記資材帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)によれば、大安寺の創立は聖徳太子の熊懲精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとする。しかし、私は、これは神話の世界だと思う。太子の遺志を引き継いで舒明天皇は舒明11年(639)に百済川のほとりに百済大宮と百済大寺の造営を開始した。天王家が建立した最初の寺であり、「大寺(おおでら)」の名を持つ規模であり、偉大な大王の寺の意味を持つ。王宮護持のため、大寺は大宮と対にして造営された百済大寺に建てられたという九重塔は王家の象徴でもあった。百済大寺の遺跡は吉備池廃寺(桜井市吉備)が最も有力視されている。(発掘されている)                          天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に、高市大寺となる。高市の地に遷されたのは、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)の護持に関わると見られ、天武6年(677)には大官大寺(だいかんだいじ)の寺号が与えられた。     現在、藤原京の左京八条二坊の地の大官大寺跡は、発掘調査の結果、7世紀末、文武天皇の代に造営された大官大寺であり、未完成で焼失していることが明らかになった。和銅3年(710)、都は平城に遷される。王宮、国家の護持のため大寺も遷都によって平城京に遷され、新都には官寺として大安寺、薬師寺、私寺として元興寺、興福寺が営まれた。大官大寺を受け継ぐ大安寺はいちはやく、霊亀2年(716)に平城京左京六条四坊後に遷されることになり、天平元年(729)には入唐留学生を経験した道慈律師が造営の任に当たることとなった。搭は六条大路を隔てた七条四坊の別院に営むことを特徴とする大安寺伽藍となった。天平10年(738)前後には塔を除き、主要伽藍はほぼ完成していたと考えられる。   奈良時代には、大安寺は四大寺の筆頭に位置し、道慈、善議,勤操に連なる三論の系譜ほか、来日僧も止住し、都の教学拠点であった。

平城京における大安寺の位置

官寺である薬師寺より、広い寺地を持つことが明らかで、奈良時代の官寺の最高位にあった。今日、薬師寺は観光地として有名であるが、大安寺を知る人は殆どいない。私が、大安寺に参詣した3時間ほどの間に、観光客は一人も来なかった。

重文 十一面観音菩薩立像        奈良時代

十一面観音菩薩は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳が説かれている。頭部と両腕部が後世に補作されているが、体部から造立当初の端正なお姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波形にひるがえり、裳腰の左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣と皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾が極めて華麗であり、台座にも華の文様が浮き彫りされている。奈良時代の秀作である。                     (秘仏  毎年10月1日より11月30日まで開扉)

重文 馬頭観音立像     奈良時代

災厄を消除する馬頭観音像として信仰されている。目尻を吊り上、上歯で下唇をかみ、厳しい怒りの表情を見せる。腰には獣皮をまとい、胸飾と足首に蛇を巻き付ける。一般的な観音のおだやかな姿と異なり、悪事や邪心を退けるような、畏怖すべき姿である。平安時代に密教が流行すると多趣の憤怒像が造られるが、本像はそれに先立つ貴重な古作である。                       (秘仏で、毎年3月1日より31日まで開扉される)

重文  聖観音立像    奈良時代

聖観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)は、姿をさまざまに変えて人を救うとされ、本来の姿が聖観音と呼ばれる。大安寺の他の観音像と同じく、カヤの一木造である。足下に楕円形の台(履物か)を表すのは、馬頭観音・楊柳観音と共通する珍しい特徴である。顔立ちはおだやかで、肩から垂れる天衣は優美である。衣の衣文は細かく数多く刻まれ、装飾も華やかであり、全体に造形感覚が現れている。  (この仏と他の6佛像は、常設で鉄筋の讚仰殿(さんぎょうでん)に、祀られている。常時拝観出来る)

重文  不空羂索観音立像    奈良時代

不空羂索観音は、慈悲の縄(羂索)で、すべての衆生を救いとると説かれる菩薩である。8本の腕は小ぶりに補作されているものの、当初の形をとどめる体部は、幅と厚みも大きく、量感豊かである。顔立ちや衣文も力強く刻まれ、実に堂々たるお姿である。衣には、彩色されていたと見られる装飾文様の痕が、浮き彫り状になって残っている。

重文  楊柳観音立像      奈良時代

岩座に立ち、目尻を吊り上げて開口する。その姿は類例を見ないもので、本来の尊は明らかではなく、馬頭観音立像と同様に、空海が真言密教を広める以前の古い古密教(雑密)の尊像とと考えられている。肉体表現に優れ、体の肉づきの抑揚や、顔の筋肉の隆起が巧みに表されている。肩にかかるお髪は、木と粉の木糞漆(こくそうるし)によるものである。                       多くの菩薩像が着ける丈帛(じょうはくー左肩から右脇にかける衣)が見られず、腹部に薄い衣をまとうように帯を腹部上方で締めるのも珍しい。容姿が異色で彫技も優れた重要な像である。

重文  四天王立像   多聞天    奈良時代

4体とも頭部から台座までカヤの一本で掘出(両腕先は後補作)されているが、作風に違いがあることから、複数の四天王像があったうちの4体が残ったと考えられる。多聞天像は前身の動きが大きくバランスも良い。その肉づきは抑揚に富んでいて、顔立ちが気迫に満ち、甲冑も体制に応じた自然な動きを見せる。

重文  四天王立像 持国天立像    奈良時代              重文  四天王立像 増長天立像    奈良時代              重文  四天王立像 広目天立像    奈良時代

この三天王立像は、頭体部の動きを控えて重厚な姿に造られ、鷹揚な趣がある。持国天と多聞天は胸甲に華やかな花紋の浮彫が良く残る。力強さと華麗さを併せ持つ名作である。

大安寺西塔の遺構(東南から)

大安寺には、寺からかなり離れた場所に七重塔跡が残る。東西両塔で、現在の奈良地方では見られない大きな東西二棟の堀跡が残る。大安寺を見学される場合は、少々寺から離れているが、この東西二棟の跡地は必ず見学して頂きたい。いかに大きな規模のお寺であったかが、一目でわかる。

和辻哲郎や亀井勝一郎の「古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く、恥ずかしながら私も「大安寺」と呼ぶ、「大官大寺」の後系となる古寺の存在に全く気付かなかつた。奈良の旅行案内書を読んで、「大安寺」に気付き、遅ればせながら、「大安寺」に詣でた。規模の大きな、大官大寺の後を継ぐ大寺を、遅ればせながら拝観した。仏像類は、七仏は常時「讚仰殿」(さんぎょうでん)に祀られており、何時でも拝観できる。2佛は秘仏で時期限定で拝観できる。近鉄奈良駅からバスで約20分で「大安寺前」で降りて、15分程歩く。小学校や、民家があり、昔の「大安寺」の遺構は見られない。現存する「大安寺」は、狭くて小さなお寺であるが、鉄筋の讚仰殿は何時でも拝観できる。七仏は常時拝観出来る。大安寺の規模を知るためには、やはり東西両塔(七重塔)跡地を拝見する必要がある。バスを降りて約20分歩き、仏像類を拝観して、更に10分程歩くことは、かなり厳しいが、大安寺のかっての規模や、寺格を知る上で是非拝観して頂きたい。同じ官寺である「薬師寺」の規模をはるかに上回る規模に驚かされる。

(本稿は、森下惠介「大安寺の歴史を探る」、大安寺編「大安寺」を参照した)

ウイーン・モダーン クリムト・シーレ・世紀末への道

 

今年は日本とオーストラリアの外交樹立から丁度150年目に当たる記念すべき年であり、2019年はこの展覧会を開催するに最も相応しい年である。ただし、オーストリアと言っても、当時のオーストリアは、オーストリア・ハンガリー二重帝国であり、換言すればハプスブルグ帝国であった。ウイーンは「ハプスブルグ帝国の主都」であり、1740年から1790年までの半世紀の間に大きく改造されて、近代化を果たした。ウイーンは「自由な精神」を持つ啓蒙された知識人たちを魅了し、ヨーロッパ文化の中心地となり、更に知性の中枢となり、様々な国人たちが出会う場所となった。この展覧会の特徴は、展示作品が400点以上に上り、かつウイーンの町の改造を示す絵画や写真、座椅子等の家具類、銀の家庭用品、装身具、ポスター、グリーティングカード等様々な生活用品が展示されており、その一部に絵画と彫刻が混じっていることである。そのすべてを解説する知識が、私に無いため、絵画のみの解説にした。私に能力があれば、家具類、服飾類も解説したいと思った。また絵画も19世紀末頃の知名度の高い画家に限定した、これも私の能力不足が原因であることを、最初にお断りしておく。

愛 グスタフ・クリムト作  油彩・カンヴァス 1895年

この作品は、グスタフ・クリムトが1895年に描いた「愛」の寓意画である。これはウイーンの有名な出版社ゲルラハ&シエンク社が発行した絵画制作のためのアイディア集「アレゴリー:新連作」のために描かれた。この図案集には多くの素描が掲載されたが、一方で油彩は数点しかなく、本作品は、有名な「接吻」(1908~09年)の初期ヴァージョンに位置付けられる。背後に見える不気味な姿は、恐らく運命の擬人像達として解釈できるが、併せて過去と未来の光景としても読み解くことが出来るだろう。若いカップルの幸福に満ちた愛に対して、苦々しい警告か、裕津さを与えている。画面を三分割する手法は、クリムトの初期の作品のも現れるが、金箔表現の巧みな表現は、これほど早い段階で、すでにクリムトが日本美術に関心を寄せていたことが分る。ジャポニズムの浸透である。

バラス・アテナ グスタフ・クリムト作 油彩・カンヴァス 1898年

1898年、分離派会館の開館にあわせた展覧会で発表するために、グスタフ・クリムトは、戦闘態勢にあるポーズを取ったバラス・アテナの油彩画を制作した。アテナが身に着けいる金属製の胸当ては、見ている人をあざ笑い舌を出すメドゥーサの顔になっている。これは明らかに分離派を批判する人々に向けられた反論だろう。女神は右手に小さな女性像を握っている。もし伝統的なハラス・アテナの像ならば、この小さな像は翼を持った勝利の女神の女神ニケアと同定できるのだが、本作品に描かれている、この小像は、見る者に鏡を向ける裸のスータ・ヴェルタス、つまり「裸の真実」である。背後には、海の怪物トリトン(反動的な保守主義者)と戦っているヘラクレス(新しい芸術の象徴)がいる。つまりクリムトの「ハラス・アテナ」は、分離派の哲学的寓意を描いたものとして解釈できる。

黄色いドレスの女(画家の妻)マクシミリアン・クルツヴァイル作 1899年

ウイーン分離派の創設者の一人であるマクシミリアン・クルツヴィルは、1895年に結婚したフランス人妻を、伝統にとらわれない方法で描いた。歯ながらのソフアーの背面に腕を伸ばした彼女は、エレガントなイヴニングドレスを身にまとい、自身に満ち溢れ、そして少々扇情的なポーズを取っている。明るい肌と黄金のような黄色いドレスは、青や緑など補色の模様が散りばめられたソフアーの前で際立っており、彼女自身が光り輝いているような印象を与える。彼女は冷笑を浮かべて鑑賞者を挑発するようかのようであり、わずかに首をかしげ、画面が持つ厳密な左右対称性を崩してしまう。

朝食をとる母と子 油彩・カンヴァス カール・モル作 1903年

カール・モルはウイン分離派の創設メンバーの一人で、初代副会長を勤めた人物である。本作品の中でモデルは、自身のプライベートの様子を鑑賞者に垣間見せた。本作では、画家の妻アンアと娘マリーが一緒に朝食をとる様子が描かれており、これと似たような作品をモルは複数描いている。

エミーリェ・フレーゲの肖像 グスタム・クリムト作  油彩・カンヴァス    1902年

クリムトの「エミーリェ・フレーゲルの肖像」は、ウイーン・ミュージアムが所蔵する作品の中で最も有名貴重な絵画の一つである。ここにお描かれているのは、等身大のエミーリェ・フレーゲだ。彼女は恐らくクリムトの人生で一番重要な女性だったと言ってよい。そんな彼女が、まるで泥のようなぼんやりとした色を背景に、顔や手、そしてデコツテだけが浮かび上がるように描かれている。写実的に描かれた顔とは対照的に、体全体、そして頭や肩のまわりを、まるでオーラのように抽象的な装飾が覆っている。フレーゲが着ているドレスを、研究者たちはたいてい「改良服(リフォーム・ドレス)として解釈しているが、しかしこのドレスは異例である。ドレスがぴったりと体に張り付くので、臀部のかたちがはっきろちわかる。肖像画としては細すぎるフォーマットと、二つの落款のような四角い署名を見たならば、日本美術がクリムト作品に影響を及ぼしたことがよくわかるだろう。

自画像 エゴン・シーレ作 油彩・板          1911年

エゴン・シーレ(1890~1818)はグスタム・クリムトを称賛してやまなkったが、彼自身は、すでにクリムトら先駆者たちとは全く違ったスタイルや要素を操る、新しい世代の芸術家であった。この表現主義的な自画像は、1911年、ボヘミアのクルマウを去り、新たな住居を構えたニーダーーエスターライヒ州のノイレンバッハで、シーレが描いたものである。若い画家は恐らく自己肯定感を得るために田舎に引っ越したのであろう。この自画像では自身の姿を横長画面の左側に描いている。シーレは自分の頭を右肩の方へわずかに傾け、左手の指を暗色で覆われた上半身の前で広げている。彼の背後にあるのは、枯れ木を描いた絵画や、クルマウの町を描いた作品など、おそらく彼自身の手による作品であろう。シーレは1907年、ウイーンのミートケア画廊で開催されたゴーギャンの作品を見て、インスピレーションを得たのであろう。いずれにしても、象徴主義の伝統からも影響を受けていると解釈できる。こうした手法により、彼自身が思い抱く自分に対する考えを、あるいは同時代の社会に対する考えを反映させながら、双面神ヤヌスの顔として自分自身を描いたのだ。

ノイレングバッハ画家の部屋 油彩・板  エゴン・シーレ作  1911年

1911年秋、シーレは小さな家にある自分の部屋を描いた。シーレはボヘミアのクルマウから戻ったあと、ノイレングバッハの郊外にあるこの家を借りていたのである。この小さなフォーマットの作品が、フィンセント・ファン・ゴュホの「アルルの寝室」と較べられることが多いというのは驚くことでは無いだろう。シーレ自身、ゴッホに対して親近感を抱いており、ゴッホが死んだ年に自分が生まれたのだと、繰り返し語っていた。1909年に開催された国際美術展クンストシャウ、シーレは、カール・ライニングハウス・コレクションの小さな展示室にあった「アルルの寝室」(1889年・シカゴ美術館)を見ることが出来た。シーレの本作品の特徴の一つは、サインが三回繰り返されている点である。この絵が完成するやいなや、アルトゥーレ・レスラーは」すぐさま本作品を入手した。このほか多くのシーレの作品とともに、レスラーの遺産の一つとしてウイーン・ミュージアムの所蔵となったのである。

ひまわり  油彩・カンヴァス エゴン・シーレ作  1909~10年

1909~10年に描かれたこの「ひまわり」を見ると、若い頃のシーレがどのように自然に対してアプローチしていたか、その姿勢がよくわかる。萎れた葉が茎から垂れ下がる様子は、まるで疲れた手足のようだ。乾ききった花はわずかに傾き、疲れてうなだれるた様子を思い起させるだろう。特徴的な画面形式は、当時の流行を反映させたものだと考えられる。縦長のフォーマットは、世紀末ウイーンのブック・アートに見られる欄外装飾のようであり、あわせて当時人気を博していた日本美術のイミテーションを思い出させる。ひまわりというモチーフは恐らく画家フィンセント・ファン・ゴッホからインスピレーションを受けたのであろう。シーレはゴッホの作品をウイーン国際美術展クンストショウで間違いなく見ていたはずだ。また同時に、ほまわりは1900年頃のウイーン芸術界で人気のモチーフだった。

美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作 油彩・カンヴァス1910年

この肖像画は、若き芸術家シーレとそのパトロンの長年に亘る親密な関係性を記録した点で、重要な作品である。目を閉じたレスラーの顔は左を向いているが、上半身は鑑賞者の方を向いているが、両手の指は広げられ、それぞれ反対方向に向けられている。右足は画面の左端まで広げられている。こうした対照的な動きによって、鑑賞者の視線は、白い淡いピンク色の背景から浮かび上がる人物像の上にジグザグをたどってゆくのである。右肩のすぐ近くに書き込まれた「s。10」という文字が目を引くが、これは画家のイニシアルと年紀である。この作品は世紀末ウイーンの装飾性豊かなデザインをはっきりと拒否した、革新的な性格を持つ。描かれている人物の心の状態に光を当てた本作品は、心理学的解釈を示した最初期の例の一つであり、あわせて、シーレがオーストリア表現主義に手を染めた最初の作品である。

イーダ・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作  油彩・板  1912年

この絵の描かれた1912年には、エゴン・シーレは未成年者誘拐と公然猥褻の容疑で逮捕・勾留されている。世紀末の大画家として紹介しようとしたところ、飛んでもない疑惑で逮捕された。「イーダー・レスラーの肖像」は、肖像画の構想段階に当たる作品で、完成作ではない。

 

ウイーン万博は1873年に開催されている。明治政府は、初めて国をあ揚げて参加し、この展示品は観客たちを魅了したと伝えられている。その前から、ジャポニズムが西洋世界に大きな影響を与えていた。一番影響を受けたのはゴッホかも知れない。世紀末ウイーンの画家達(グスタム・クリムト、エゴン・シーレ等)にも多大な影響を与えたことが、この展覧会の作品を通しても理解できる。

 

(本稿は、図録「ウイーン・モダーンクリムト・シーレの世紀末への2019年」、図録「クリムト展 ウイーンと日本展   1919年を参照した)

美を紡ぐ  日本美術の名品(3)

[美を紡ぐ  日本美術の名品(3)」は、本稿をもって終わりとする。江戸時代から昭和までの明作を綴る。一度、取り上げた作品もあるが、日本美術の粋として選ばれているので、我慢して読んで頂きたい。勿論、大半が、初めての収録である。

虎図  一幅 谷文晁作 絹本着色  江戸時代(18^19世紀)三の丸尚蔵館

多彩な画題、画風を学び、多くの絵師をはじめとして、さまざまな分野の文芸人と交流した谷文晁(1763~1841)が、西欧から渡来したヨンストン「動物図譜」の指図の模写や、伝統的な水飲虎の図様をヒントに描いたもの。近代絵画の萌芽を感じさせる。

花鳥版画「牡丹に蝶」「紫陽花に燕」葛飾北斎2枚 錦絵 江戸時代(19世紀)東京国立博物館

「牡丹に蝶」

「紫陽花に燕」

葛飾北斎による花鳥画の代表作で、「富岳三十六景」と同時期に同じ版元の西村屋与八から出版された十図のシリーズである。「牡丹に蝶」では墨を面的に使って筆線に強弱をつけるなど、各図の描き方を変える意欲的な試みがなされている。北斎70歳代前半の作品。

玄圃瑶華(げんぽようか) 伊藤若冲自画・自刻 江戸時代・明和5年(1768)東京国立博物館

「壇特・華鬘草」(だんとく・けまんそう)

「花菖蒲・棕櫚」(はなしょうぶ・しゅろ)

「玄圃瑶華」の「玄圃」は仙人の居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を充着させ、拓本と同じようにその上から墨を打つて形を出す。若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。なお、初収と思い思い、「生誕300年記念 若冲」の図録を調べたところ、図録の148,185ページに発見した。地味な作品であるから見逃したのであろう。しかし、自画・自刻は珍しい。見たことも、聞いたこともない。流石に若冲の「奇想振り」である。

「玄圃」(げんぽ)は仙人に居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を密着させ、拓本と同じようにその上から墨を打って形を出す、若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。

「舞子」 黒田清輝作  カンヴァス・油彩 明治26年 東京国立博物館

明治26年夏、9年に及ぶフランス留学から帰国した黒田清輝(1866~1924)は、その秋に京都を訪れた際に舞妓を新鮮に思いスケッチをとり、本図を絵が描いた。鴨川を背に座る舞妓は、京都祇園の小野亭という茶屋の「小えん」を、隣は「女中のまめどん」をそれぞれモデルにしたという。黒田は、外交派と呼ばれた明るい画風を日本の洋画界に紹介し、明治43年(1910)には洋画家として最初の帝室技芸員に任命された。もし、黒田が本は本格的に印象派を学んできたならば、日本の洋画の世界も変わったのではないかと思う。如何であろうか。黒田の日本洋画界に及ぼした影響は、図り知れないものがる。

「雩性(うせい)」一幅 絹本着色 竹内栖鳳筆 大正13年 三の丸尚蔵館

古木の柳で白鷺が羽をつくろい、上部の枝では雀が喧しくさえずっている。丸山四条派の写実的な画風がに西洋画の描法や空間表現を取り入れた竹内栖鳳(1864~1942)の特徴がうかがえる作品。「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ京都画壇の中心として活躍した栖鳳は、皇室の御用も多く手掛けた。

秋茄子 絹本着色 西村五雲筆 昭和7年(1932)  三の丸尚蔵館

昭和7年の第13回帝展にて宮内省お買い上げとなった西村五雲(1877~1932)の代表作である。五雲は師である竹内栖鳳ゆずりの温雅な動物絵に定評があり、そこには徹底した観察眼が根底にあった。制作にあたり名古屋動物園に足を運ぶだけではなく、山奥まで野生の狐を探し、ついには自宅の庭に狐を飼い写生を繰り返した。

重文 色絵若松図茶壷 仁清作 江戸時代(17世紀)  文化庁

仁清は丹波(現兵庫県の一部)出身の陶工である。性を野々村、名を仁清といい、洛西御室の仁和寺前に窯を開いた。江戸前期に活躍した京焼の大成者として名高い。この茶壷は、小型の肩衝茶入の形態を拡大して茶壷にし、四方の肩に耳を付したもので、仁清独特の器形をしている。底は、平底とし、銅部は薄く焼き上げられて均整のとれた姿を呈しており、卓越した轆轤技術が遺憾なく発揮されている。さらに、細く緩やかな曲線は、総体に嫋やかで瀟洒な印象を醸している。地には仁清黒と呼ばれる独特の光沢を発する黒漆が掛けられており、下方の土膚は土埕に見立て、金泥で遠景の山並みを表し、赤、緑、金泥、銀泥を用いた若松、椿、桜などの花弁を組み合わせた吉祥の図様がリズミカルに配置されている。深い漆黒地に色絵によるミチーフが鮮やかによく映えた本作は、仁清色絵陶器の代表作の一つとして、評価が高い。

重文 色絵牡丹図水差  仁清作  江戸時代(17世紀) 東京国立博物館

17世紀前半に京都の仁和寺の門前で御室窯を開き、京焼における色絵の大成者として知られる野々村仁清(生没年不詳)の代表作の一つである。明治41年(1908年)に明治天皇の皇后により、東京国立博物館の前身である帝室博物館に御下付された。

 

「美を紡ぐ  日本美術の名品」を3回に亘り連載した。いずれも宮中となにかの形で縁のあった作家か、作品である。何れも名品であり、二度と見れないものが多数展示された。皇室の代替わりか、20周年記念などでない限り、二度と見れない名品揃いであった。改めて、「令和」の代が、人々にとって良き時代になることを祈りたい。

(本稿は、図録「美を紡ぐ 日本美術の名品  2019年」、「生誕300年記念 若冲  2016年」、図録「生誕150年黒田清輝  2016年」田中栄道「日本美術全史」、小林忠「日本水墨全史」を参照した)

「美を紡ぐ  日本美術の名品(2)

「美を紡ぐ 日本美術の名品(2)」は、先の(1)に続くもので、日本美術の粋を集めたものである。時代はやや下って、室町時代、江戸時代を舞台とするものが多い。名品揃いであるので、是非読んで頂きたい。

重要文化財 浜松図屏風  室町時代(15世紀) 文化庁

遺品の少ない室町時代やまと絵屏風の一つとして古くから著名な作品である。砂浜に松樹が群生する海辺の光景を描く。右隻(本作)には、紅白梅と桜で春、生い茂る芦で夏を表す。左隻(謝意なし)には紅葉で秋、雪山で冬を表す。向かって右から左へ季節が移ろう伝統的な四季絵屏風の構成を執るが、季節の表出は限定的である。また苫屋、干し網、船などによって人々の生活が暗示されるものの、人物そのものは描かれず、風俗画のような活気に満ちた情景は見られない。中世やまと絵と屏風風に多用される、雲母や金、銀の装飾が、極力排除されている点も珍しい。こうして生きた独特の静謐な画面からは、室町中期に心敬らの歌論書で称揚された「冷え寂び」た情趣が漂っている。

伊勢物語 八橋図(やつはしず) 絹本着色 江戸時代(18世紀) 東京国立博物館

「伊勢物語」第九段「東下り(あずまくだり)」の冒頭、「八橋」に取材した作品である。ちなみに八つ橋駅は、東海道線に現存する。都を出て東国へ旅立った友人二人ともに三河国八橋にたどり着き、燕子花(かきつばた)の群生する水辺で休息を執る。そこで「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んだ和歌、「唐衣(からころも)着つつなれにしつまにしあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」を詠み、望郷の念を募らせて、食べた乾飯(かれいい)の上に涙をこぼした、という小話である。この短い物語の一節を、本作品は忠実に描き表している。画面右下には「法橋光琳」とあるため、本図は尾形光琳(1658~1716)が法橋に叙任された元禄14年(1702)以降の作と見られる. 尾形光琳と言えば、根津武術館・国宝・「燕子花図屏風」を思い出すが、時代的には、この「八橋図」が先行する作品のようである。

西瓜図(すいかず) 葛飾北斎筆 一巻 絹本着色 江戸時代 文化庁

天保10年、葛飾北斎(1760~1849)が「齢八十」の年に描いた肉筆画である。画面上部からくねりながら垂れ下がる西瓜の皮、その下には半分に切られた西瓜の上にその真っ赤な果肉の果汁を吸い出した和紙、更に包丁が載せられるという不可思議な構図が、何とも言えない、魅力を持つ作品である。本図は、宮廷行事に関する等諸説が発表されたことがある。その後の調査で江戸後期の国学者、小林歌城が関わっていたであろうことがわかり、柳亭種彦を通じて北斎とも交流していたことが資料より明らかになり、宮中に保管される理由が、ほぼ明確になった。

「唐子遊図屏風」 六曲一双(上下2段) 江戸時代(17世紀) 狩野探幽筆 宮内庁三の丸尚蔵館

鶏合(とりあわせ)、花合(はなあわせ)、獅子舞(ししまい)、春駒(はるこま)など、初春に因む遊びを唐子に演じさせた図録を総金地の上に描き表し、また裏面も絹地に金泥塗に仕上げた格調高い屏風である。内容や仕立てから、祝儀の場に飾るために誂えたものと推察され、落款印章より、狩野探幽(1602~74)の最晩年に位置する作品と考えられる。

国宝 納涼図屏風 久隅守景(くすみもりかげ)筆 二曲一双 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀) 東京国立博物館

狩野派の久隅守景(生没年不詳)は一時、狩野探幽門下の四天王とさえ言われた画であるが、息子の不行跡で破門され、師の画風から離れて、まさに日本的「風俗画」の好例のような本作「納涼図屏風」を描いた。農村で夕顔の下、親子三人の涼をとる何気ない姿が描かれる。このような何気なさそのものが興味深い。いかにも物語性を払拭した「近代」性の先駆的な意味を持つているのが興味深い。この図の面白さは、やはり農民の生活や、競馬を楽しむ情景が描かれた「四季耕作図屏風」や「賀茂競馬・初治茶摘図屏風」の伝統的画題に依拠しない作品に存在する形式性を超えているのである。

重文 前後赤壁図屏風 六曲一双 池大雅筆・自賛 寛永2年(1749)文化庁

中国北宋の政治家で詩人として知られる蘇軾(そしょく)(1036~1101)が三国志で知られる古戦場赤壁に遊んだ際に描かれた「前赤壁賦」を題材に、右隻(上)は「前赤壁」と題して賦の冒頭部分を楷書で記し、船に遊ぶ蘇軾を描く。左隻(下)は「後赤壁」と題し、賦の最後を隷書で書きその内容を絵画化している。27歳の作である。

重文 新緑杜鵑図 与謝蕪村筆 一幅 絹本着色 江戸時代(18世紀)文化庁

明るい陽射しを受けて、新緑したたる梢の上を、夏の訪れを告げるホトトギスが飛んでいく。その一舜をとらえた作品、まるで木々の向こうから高い泣き声が聞こえてくるようだ。遠くには初夏の山が見え、のびのびとした空間構成となっている。俳人として著名な与謝蕪村は、池大雅(1723~76)とともに日本文人画の大成者として知られる。

牡丹孔雀図 一幅 絹本着色丸山応挙筆 安永5年(1776) 宮内庁三の丸尚蔵館

18世紀の京都において、写生画様式を確立した丸山派と呼ばれる画派を生み、多くの弟子を輩出して活躍した丸山応挙(1733~95)の代表作である。岩場の傍らには牡丹が咲き競い、静かにたたずむ雌を守るかのように、岩上に立ちあがる雄孔雀の姿は実に凛々しい。孔雀図を得意とした応挙の、数え年44歳の作品である。この5年後には光格天皇(在位1779~1817)の即位大礼のための屏風を制作するなど、御所の絵事にも数多くたずさわった。

「美を紡ぐ(2)」は、主として江戸時代の絵画になった。久隅守景の「国宝 納涼図」が一番知られた作品であるが、私が、この「美」に採用したのは初めてではないかと思う。どこかの機会に取り上げたいと思っていたが、良い出番となった。丸山応挙の「牡丹図屏風」が、応挙の代表作という点も驚いた。やはり三の丸尚蔵館に蔵された作品は、なかなか目に入らないし、作品集からも除かれることがある。

 

(本稿は、図録b「美を紡ぐ 日本美術の名品  2019年」、田中栄道「日本美術史全史」小林中「日本水墨が全史」、日経大人のOFF 2019年1月号を参照した)

美を紡ぐ  日本美術の名品(1)

平成から令和にかけて、新たな時代を迎える節目の時に「美を紡ぐ 日本美術の名品「雪舟、永徳から、北斎までー」が、東京国立博物館で開催されている。この展覧会では、わが国で大切に守り伝えられてきた日本美術の精華を、東京国立博物館、文化庁、宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品より、よりすぐりの名品を展覧したものである。特に宮内庁三の丸尚蔵館は、宮内庁の管轄であり、今回のような天皇の代代わり、平成20年など区切りの年にしか展示されない。           そういう意味で、今回、令和への改元に伴い、この「美を紡ぐ」展は、期待を込めて待ち望んだ展覧会であった。宮内庁の所有物を見学できる機会は少ない。この機会を逃がすと二度と見れないとの思いを込めて、雨の降る5月11日に拝観した。なお、本展覧会は5月3日から6月2日までの1ケ月間であり、珠玉の名品が揃っている。日本文化の素晴らしさを堪能できる機会である。

唐獅子図屏風 狩野永徳筆(右隻)  安土桃山時代(16世紀)三の丸尚蔵館

 

 

雌雄二頭の唐獅子が、威風堂々と岩間を歩く。画面の天地だけでも225cmあるという比類のない大きさであるが、これを大胆に描きこなした筆力もまた驚嘆にあたいする。誇張もあり、粗放と見られる向きも無いわけではないが、かかる題材に精緻な雅趣を求めるのはむしろあたらない。探幽による「狩野永徳法印筆」の紙中極めがある。画風の上からも、大画面に腕を揮った永徳の筆と考えられる。伝承では、1582年(天正10年)の豊臣秀吉が毛利軍が秀吉と毛利軍が講和した際に、その記念として贈った陣屋屏風と言われている。いかにも仙谷武将たちの好みにふさわしい画面である。代々毛利家に収蔵され、明治期に献上された御物(ごもつ)となった。もとは一双であったが、現在では狩野常信(江戸期)による保作の一隻の出品であったが、あえて永徳筆の右隻に限定して、お目に掛ける次第である。

国宝 檜図屏風 狩野永徳筆 四曲一双  安土桃山時代(天正18年ー1590)三の丸尚蔵館

群青の水を底深くたたえた幽谷である。天地をつきぬくような一本の巨大な檜が、左右に枝を広げ、大画面いっぱいに支えている。老樹に漲る生命力は枝の先端にまで及ぶ。荒れてすさまじい幹の質感と檜葉のつけたてが対照的である。雑多なものをなるべくはぶいて、中核となる題材を強力にあらわすために、色数もおさえられて、重厚な彩色の対比がねらわれている。桃山障壁画特有の大構図方式による典型的な花木図の一例である。本図は、もとは八条宮智仁(としひと)親王の屋敷内に描かれていたと考えられている。二扇ごとに襖の引手あとが残り、襖四面を八曲屏風一隻に改装したことがわかる。天正18年(1590)に八条宮の御殿が建てられたときのものとすると、同年に没した永徳の絶筆にちかい作品とみる説もある。確かに、この豪快な画風は永徳的なものに通ずる一面もあるが、技法上の諸点、たとえば檜の幹と枝との関係、沓曲する枝ぶり、皺法である。本図は、もと八条宮智仁(よしひと)親王の屋敷内に描かれていたと考えられて(しゅんぽう)などを考え合わせると、即断を許さないものがある。しかし秀吉からの依頼で永徳一門が天正16年(1588)に制作した「天髄寺方丈障壁画」(縮図のみ現存)のなかに、檜図に類似する表現があり、そのため本図は永徳が最晩年に自ら筆を揮った作品として有力視されている。「檜図」には少なくとも2度は襖として利用された痕跡があるが、この時期に屏風風に仕立て直された可能性も考えられる。いずれにせよ安土桃山時代の精神を表す絵画であることは間違いない。

重要文化財 継色紙「よしのかは」 一幅 平安時代(10世紀) 文化庁

継色紙「万葉集」と「古今和歌集」の収蔵歌から、四季、恋、賀の歌を抄写した粘葉装(でつようそう)冊子本の断簡で、小野道風筆と伝えられる起筆切の名品である。和歌一首に対して二枚の料紙を用い、一方の料紙の半分に上句、もう一方に下句を散らし書きにしている。優美な書風に加えて、余白や行間の間隔、傾きなど見事な美的空間を作り出している。明治時代まで石川県大聖寺の前田家に十六首半の零本が伝えられていたことが確認されており、その後解体されて掛幅装や手鏡に張り込まれている。

国宝 寛平御時后宮歌合(十巻本) 伝宗尊親王筆 平安時代(11世紀) 東京国立博物館

歌合は和歌を左右一首ずつ組み合わせてその優劣を競う行事で、平安時代以降、宮廷を中心に盛んに開催された。「寛平御時后宮歌合」は、現存する最も早い歌合の事例の一つで、宇田天皇の代(887~899)に光孝天皇の母・班子女王が主催し、春・夏・秋・冬・恋の各二十番、計二百首からなる歌合であった。紀貫之、紀友則、藤原興風、素性法師など当代の著名な歌人が名を連ねる。この写本はもと近衛家に伝来した「十巻本歌合」の一部で、その巻第四に属することから「十巻本」とも呼ばれる。「十巻本歌合」は平安時代中期に関白藤原頼道(9992~1074)が編纂を企画したが途中で中止となり、四十六の歌合を十巻にまとめる草稿本のまま後世に伝わった。そのため各所に書入れや訂正の跡が見られる。この写本はもと近衛家に伝来した「十巻本歌合」の一部で、その巻第四に属することから「十巻本」とも呼ばれる。「十巻本歌合」は平安時代中期に関白藤原道長(992~1074)が編集を企画したが途中で中止となり、四十六の歌合を十巻にまとめた草稿のままで後世に伝わった。そのため各所に書入れや訂正の跡が見られる。

伊勢集断簡(石切山)「秋月のひとへに」 一幅 平安時代(12世紀) 文化庁

本幅は,西本願寺本「三十六人歌集」のうちの粘場冊子「伊勢集」の断簡で、昭和4年(1929)に「貫之集下」と共に分割されて巷間に流出したものの一つである。これらの断簡は、「三十六人歌集」が天文18年(1549)に後奈良天皇から證如(しょうによ)へ贈られた当時に本願寺にあった石山の地名にちななんで「石切山」と名付けられた。本稿はもと「伊勢集」の代六十五庁裏に収められていたもので、金銀泥にて飛鳥、蝶、蜻蛉、折枝や秋草を描いた具引き唐紙を主にして、朽葉唐紙等を破り重ねて作成した美麗な料紙を用いている。本文は落ち着いた力強い筆で、半紙に「秋月ひとへに」「はるかすみ」の二首と、「おもひかは」の詞書と上の句までの十行を収めている。平安時代後期を代表する装飾料紙として著名な「石切山」の遺品として、また、増田鈍翁(ますだどんおう)自筆の箱書きを合わせ伝えるものとしては価値が高い。

更科日記 藤原定家筆 一帖紙本墨書 鎌倉時代(13世紀)宮内庁三の丸尚蔵館

後鳥羽天皇の近臣であり、和歌、古典書写の校訂における功績でもよく知られる藤原定家(1162~1241)が、平安朝の日記文学「更科日記」を書写したものである。王朝貴族の一女性・菅原孝標(ふじはらたかすえ)の女(むすめ)の回想記である。日本古文の古典で高校時代に読んだ記憶がある。この名作「更科日記」(さらしなにっき)は、本作の伝存により、現代に伝えられている。多く現存するbすべての写本は、この定家筆写本を底本としている。表紙は、金銀泥により波の上を群れ飛ぶ千鳥を装飾し、定家自らの筆により題名が記されており、元装を伝えている。また本書には定家の奥書があり、それによって、もともと定家が所持していた「更科日記」があり、それを他者へ貸したことで失われたため、別の人物が定家所持本から書写したものを借りて、改めて書写したものが本書であることがわかる。

重文 古今和歌集 一帖 紙本着色 後伏見天皇筆 鎌倉時代・元亨2年(1322)東京国立博物館

後伏見天皇(1288~1336)宸筆の「古今和歌集・後伏見天皇」は、能書帝・伏見天皇の第一皇子。伏見天皇は、上代様の書を学びながら独自の書風を編み出し、その書風は「伏見院流」と呼ばれて流行した。後伏見天皇は、父の書風を引き継いでいる。本書は、「古今和歌集」の仮名序と巻一から巻二十まで書写されており、真名序がないものの、藤原定家書写の「貞応本」系統」である。その本文のあとに追加された奥書には、元亨2年(1322)4月7日の日付と御製三首が記される。さらにそのあとに、江戸時代の能書・烏丸光弘(1579~1638)が極書を付している。奥書は後伏見天皇の宸翰と鑑定していると述べ保証した。平安時代の書を基礎としながら、のびやかな筆力のある仮名である。

国宝 秋冬山水図 雪舟藤楊作 2幅 紙本墨画 室町時代(15世紀末~16世紀初) 東京国立博物館

この秋冬図は四季山水図中の二図であり、雪舟が入明を試みた四季山水図屏風図制作において習得したものを一歩進めて、雪舟自身の自然観にもとづいて構成表現したものである。冬景図中(下)、画面中央の空間に忽然と垂直に下された強力墨線は印象的で、雪舟山水画の到達した一つの頂点を示す空間構成である。この垂直線によって外郭された岸壁の内部には多数の短小な沓曲した直線の集まりがあり、点苔(てんたい)がつけられている。上方の余白には無限の空間が暗示されている。 一方、秋景図(上)は、冬景図の峻厳さに比べるとのどかな情景描写であり、人間の営みが温和な自然に溶け込んでいる。このように自然と人間の調和は雪舟の人間味を示すもので、文人的な人柄を感じさせる。

 

本稿で取り上げた作品は、概ね第一会場に展示さqれた名品である。中でも、狩野永徳作「唐獅子図屏風」、国宝「檜図屏風、雪舟作「秋冬山水図」を一度に拝観出来る機会は、初めてであった。すべて、日本美術の秀作揃いであるが、さすがに「日本美術の名品」展であり、天皇の代替わりを記念する展覧会に相応しい内容であった。日本美術の粋を集めた展覧会を拝し、日本美術の美しさに、ただただ頭が下がる思いである。素晴らしい展覧会を見て、久しぶりに高揚感を得た1日であった。

 

(本稿は、図録「美を紡ぐ 日本美術の名品」、別冊、原色日本の美術第11巻「水墨画」、第13巻「障壁画」、新潮日本美術文庫1「雪舟」、日経大人のOFF 2019年1月号を参照した。)

円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美(2)

鎌倉に幕府が出来ると、新仏教が鎌倉の地に進出してきた。北条氏が執権として政権を握った頃、新仏教の一つである禅宗は北条氏の保護を受け、建長寺のなどの寺院ができた。室町時代になって三代将軍足利義満の時に、中国の宋の制度にならって五山をつくることになり、京都五山・鎌倉五山が定められた。五山は禅宗寺院のうち最高の寺格を持として五つを定めたもので、鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄明寺の五つである。鎌倉五山の学僧たちは漢詩・漢文などの優れた作品を作り、それらは五山文学として高く評価されている。五山の住職たちは自らの肖像画を作り、次の住職となるべきものにそれを与えた。それが頂相(ちんぞう)である。五山のうちには現在、托鉢を行ったり、座禅の会を開くものがあり、昔の在り方を今に伝えている。

重文 蘭渓道隆坐像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 建長寺

建長寺の開山、蘭渓道隆の頂相彫刻。建長寺の西来庵にある開山堂に安置されている。頂相とは禅僧の肖像画を指すが、本像は頂相を彫刻に表した一例である。頂相彫刻は、体部正面で払子や竹箆を執るか禅定印を結び、曲彔に座して着衣を垂下させ、沓を置く姿を通形とする。本像は、表面が厚い漆で覆われていたが、近年の修理で取り除かれた。蘭渓道隆が示寂した弘安元年(1278)頃の作と考えられており、頂相彫刻の中でも早期の優品として名高い。

国宝  蘭渓道隆 自賛 絹本着色 鎌倉時代 文永8年(1271)建長寺

蘭渓道隆(1213~78)は、中国の禅僧で寛元4年(1246)に来朝し、京都泉涌寺来迎印の住した後、鎌倉の寿福寺に寓居し、北条時頼の招聘により建長寺の開山となった。日本に本格的な純粋禅を伝えたとされ、示寂後に大覚禅師の諡号(しごう)が贈られている。本図は、竹箆を持ち、曲彔に座す姿を描いており、繊細な墨線と熊取を施した頂相には生彩がある。頂相彫刻と同様、痩身に厳しさを漂わせ、日本で描かれた南宋様式の頂相図として高く評価されている。(国宝)

重文 無学祖元坐像          木造彩色   鎌倉時代(13世紀)  円覚寺

円覚寺の開山、無学祖元の頂相彫刻で、通常は舎利殿背後に所在する開山堂に安置される。払子を採り曲彔に座し、着衣の裾と両袖を垂下させる通形の頂相彫刻である。しっかり前方ををとらえた眼差しからは、内に秘めた強靭な意志を感じさせる。上半身をやや前傾させて座し、着衣は厚みを持たせた張のある質感で、衣文をあまり刻まずゆったりと垂下しており、頂相彫刻の中でも特に優れた出来栄えを示している。

重文  無学祖元像 自賛 絹本着色  鎌倉時代(弘安7年ー1284)円覚寺

無学祖元(1226~86)は、中国の禅僧で蘭渓道隆歿後の弘安2年(1279)に北条時宗の招聘により来朝し、建長寺住持の後、円覚寺開山となった。その後も建長寺・円覚寺を兼官し、示寂後の諡号は仏光国司である。無学祖元の頂相は少なく、「仏光国司語録」に収録されている自筆の頂相25幅のうち現存するのはこの一幅だけで、貴重である。

重文 瀧見観音菩薩遊戯坐像(たきみかんおんゆげざぞう)木造彩色南宋時代(13世紀)清運寺

横須賀市に所在する清雲寺の本尊、右肘を立て右手を膝頭に置き、左足を下ろして左手を地面に付き、もたれかかるように座す。いわゆる「遊戯坐像」の一例である。現在は瀧見観音と称され、背後に滝が表された台座(後補)に座している。遊戯坐像は、中国玄宗時代の仏画に見出だされ、特に中世の鎌倉周辺における絵画・彫刻に大きな影響を与えた。本像は鎌倉文化圏における宋風彫刻を考えるうえでも重要な作例と言える。

重文 被帽地蔵菩薩像 絹本着色  高麗時代   円覚寺

死後に亡者が冥界で十人の王に裁かれるという十王思想を背景とし、地獄の救済者としての地蔵菩薩と十王を組み合わせた地蔵十王図が西域由来の図像として流布した。錫杖を執り、頭巾を被る地蔵菩薩像を中尊とし、十王を伴なう地蔵十王図は、敦煌出土の唐時代(8世紀)の古例が知られ、その後、朝鮮半島にも伝播し高麗時代後期の仏画に遺品が多く見られる。地蔵菩薩の寶珠や頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に施された繊細な文様から十四世紀にはじめころの高麗仏と見られる。

重文 前机  木製漆塗り 鎌倉~南北時代  円覚寺

前机とは、須弥壇や尊像の前に置き、三具足(華瓶・蝋燭・香炉)と呼ばれる供養具を載せる机のことである。禅宗とともに宋の装飾様式がもたらされるようになるが、本作もその一つで、宋風の意匠・技法が鮮明な作例である。本作は円覚寺開山である無学祖元像の前に置かれて用いられてきた。

重文 無窓礎石坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  瑞泉寺

無窓礎石の頂相彫刻で瑞泉寺の開山堂に安置される。無窓礎石は、高峰顕日に師事し法を継ぎ、円覚寺・浄智寺などの住持を歴任したほか、瑞泉寺や京都の禅宗寺院の開山となり、鎌倉~南北朝時代にかけて鎌倉や京都を中心に活躍した。彼の一派は無窓派と称され、当時の禅宗における支流となる。一方、庭園、和歌、漢詩など禅文化の興隆にも尽力した。無窓礎石の頂相は多くの作例が存在するが、頂相彫刻としては本像が傑出した代表的な作例である。小ぶりなものが多い鎌倉周辺の頂相彫刻の中では珍しく等身大の大きさで表されており、制作時期は観応2年(1351)の示寂に近い頃と思われる。

重文  東明慧日坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  白雲庵

円覚寺第十世東明慧日の頂相彫刻。東明慧日は中区の僧で、北条定時に招かれて来日し、円覚寺・建長寺・寿福寺などの住持を歴任した。本像が安置されている白雲庵は東明慧日の塔所である。本像は東明慧日の姿を現した唯一の頂相彫刻で、腹前に禅定印を結び、着衣の袖と裾を垂下させて座す。東明慧日は暦応3年(1340)に白雲庵で示寂したが、本像も示寂前後の作と考えられる。

重文 銅像阿弥陀三村像 銅造・彩色 加茂延時作 文永8年(1271)円覚寺

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銅像の阿弥陀三尊像で、中尊の台座連肉下枘部に刻まれた銘により、文永8年(1271)に鋳物師賀茂延時によって鋳造された事が判明した。円覚寺創建よりも早い時期の作であるが、鋳造当時の伝来については不明である。中尊と両脇侍の三尊が一つの光背を背にする一光三尊形式で、中尊は右手施無畏印とし、左手は垂下し、第二、第三指を伸ばし、両脇侍は両手を胸前で重ね合わせた梵蕎印を結ぶ。善光寺阿弥陀式三尊像は、阿弥陀信仰の隆盛に伴い関東を中心に多くの模造が造立されたが、本像もこの一例にあたる。

重文 跋陁羅尊者像(ばったらそんじゃぞう) 紙本墨画淡彩 室町時代 円覚寺

大画面に、竹杖に預けて立つ老羅漢を描く。跋陀羅尊者は、「首桁厳経」に水因により悟りを開いたと説かれるため、寺院の浴室の本尊として祀られる、画面左下に「宋淵筆」の落款とともに「如水」が捺され、円覚寺の像主であった如水宋淵の筆とされる。宋淵は雪舟等様(1420~1506?)に師事し、明応4年(1495)の帰郷に当たり、破墨山水図(国宝)を付与された。繊細な小画面の山水が多い宋淵の作例中では、珍しく雪舟風が強く打ち出されていると言えよう。また、鎌倉に伝存する唯一の作例として貴重である。

 

「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」展は、三井記念美術館で4月20日より6月23日まで開催されている展覧会である。鎌倉は、東京に近いため、鎌倉の寺院を展覧会に選ぶ事例は少ない。私は、鎌倉の寺院は詳しく、鎌倉近辺の会員制マンション(逗子マリーナ)を持ち、毎月のように、鎌倉の古寺や、近代美術館を見て歩いた経験があり、大変懐かしく拝観できた。円覚寺のお寺の写真は、この展覧会に出品されたものではなく、私が集めた写真集より、拾い集めたものである。     記事を書くにあたり、重要文化財と国宝に重点を置いた。それはあまりにも多い寺宝の中で、選び抜かれたお宝であるからだ、ご承知のように、鎌倉の各寺院は11月1日から7日頃まで、「「寺宝風入れ」と称して、無料もしくは低廉な価格で、寺宝を開放する期間がある。良く見学したものであるが、残念なことに、図録を発行しないし、余りにも多数の寺宝を拝観するために記憶に残らないことが多い。それにしても第一級の作品を多数集められた三井記念美術館に感謝したい。図録も、丁寧に書かれているため、非常に参考になり、学ぶ点が多かった。関係者のご努力に感謝したい。

 

(本稿は、図録「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美   2019年」、探訪日本の古寺第3巻「東京・鎌倉」、
中央公論・日本の歴史(全26巻)の内、「第7巻鎌倉武士」、カラーブックス「鎌倉の寺」、「秘宝のある寺(鎌倉)
原色日本の美術第9巻「中世寺院と鎌倉彫刻」、第10巻「禅寺と石庭」を参照した)

円覚寺の至宝 鎌倉禅林の美(1) 建築物

円覚寺は、弘安5年(1282)に、鎌倉幕府の時の執権・北条時宗(1251~1284)によって開創された。その前年に、弘安の役がり、そこで亡くなった多くの人々を弔う為であった。円覚寺の開創と元寇は大きな関りがあった。モンゴル帝国は、チンギス・ハーンによって創設された大国であり、最盛期には、東はヨーロッパ、南はアフリカ、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、その領土を拡大した。第5代皇帝クビライ・カーンは、文永5年(1268)、日本に対して高麗を通じて、国交を求める文書を遣わした。その年に、わずか18歳で執権に就任したのが北条時宗であった。時宗は、「兵を用うるに至りては、それたれが好むことろならん」といおう脅かしとも取られる言葉の入った国書を無視した。その後再三にわたり、国交を求めてきたにも関わらず、時宗は一切取り合わなかった。そしてのちに文永11年(1271)、モンゴルは、国を大元に改め、高麗に命じて約4萬の軍勢をもって日本を攻めさせた。文永の役である。対馬、壱岐は、必死の奮戦も空しく全員が虐殺されてしまった。更に元軍は、博多湾を襲い、箱崎付近に上陸した。日本の武士たちも懸命に応戦し、少弐影資(かげすけ)が追撃する敵将である、副司令官に当たる劉復亨(りゅうふくこう)を矢で射落とした。追撃をあきらめた元軍は海上に退却し、その夜のうちに撤退していった。明くる年には、元の使者、杜世忠らが来航したが、幕府は鎌倉に護送した。時宗は、鎌倉滝の口において使者を斬首の刑に処した。元に対して毅然と戦う決意を示したのであった。弘安4年(1281)元は東路軍4萬の軍勢を朝鮮半島から派遣した。壱岐対馬を襲い、志賀島能古の島を占領、宗像の海岸で激戦を繰り広げた、更に江南軍を南方から十萬の軍勢をもって攻めさせ能子島、志賀島、鷹島に上陸した。両軍必死のb戦いが続いたが、防風雨によって大軍は撃破してしまった。時宗は、二度に亘る元寇の心労が重くなった。弘安7年(1284)病の床に臥すようになり、出家得度して4月4日に亡くなった。34才の若さであった。弘長3年(1262)、時頼が亡くなると、もはや日本に禅を理解する者無しと、譜寧が宋の国に帰ってしまった。時宗は、建長寺を開山された蘭渓道隆に参禅していた。更に文永4年(1267)大休和尚が来日し、時宗はこの宋僧に師事し参禅した。後に仏源禅師と諡されて、円覚寺2世となった。また無学祖元は、時宗の要請に応じて弘安2年(1279)に中国から鎌倉へきて、まず建長寺の住職となり、後に円覚寺に迎えられた。本稿は、「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」であるが、まず円覚寺の僧房について説明したい。(尚、「円覚寺の至宝」展には、僧房の出展は無い)

総門

北鎌倉の駅から望める。円覚寺の入口であり、総門と呼ばれる。階段を上がると、円覚寺の入口に当たる「山門」に至る。

山門    木造   江戸時代

円覚寺の山門であり、「円角興聖禅寺」の扁額を架けている。ものさびた山門であり、ここが円覚寺の正規の入口である。もとは横須賀線の線路あたりも境内であったそうだから、山門の歴史もそれほど古くないのであろうか。現在の山門は、天明年間(1781~894)、第189世によって再建されたものである。山門は「三門」とも呼ばれる。夏目漱石の「門」に描かれた「円覚寺の山門」である。楼上には十一面観音像、十六観音像が安置されている。

選仏場  木造    江戸時代(1699)

選仏場とは、修行僧の座禅道場のことである。現在の建物は、元禄年間の11699年に伊勢長嶋城主松平忠充が、江戸月松寺・徳運住職の勧めにより、大蔵経を寄進し、それと共に所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物を寄進したものである。

仏殿     鉄筋コンクリート     昭和時代(1963)

円覚寺の仏殿(大光明殿)は、1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物である。もとの仏殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、その40年後に再建された。禅宗様式で、本堂は宝冠釈迦如来坐像で脇侍の梵天立像と帝釈天立像は、ともに市の文化財に指定されている。仏殿前のビャクシの古木は市の天然記念物に指定されている。

開基廟(仏日庵)

円覚寺を創建した北条時宗を祀る仏日庵・円覚寺塔頭の一つである。円覚寺境内の中では一番人気があり、参詣する人が絶えない。拝観時にお茶を楽しめる唯一の場所であり、それもあって参拝者は絶えない。

国宝  舎利殿      鎌倉時代

舎利殿は、円覚寺の奥にある由緒ある建物である。舎利殿の名称の通り、仏の舎利(骨)を祀る一番大事な建物である。舎利殿の建築様式は鎌倉時代の唐様の建築物の中で代表的なものである。屋根が大きいこと、礎石と柱の間に基盤があること、柱は丸く上端と下端を細くする粽の様式をとっていることなどに特徴がある、窓は花頭窓になっていることなどに特徴がある。唐様・天竺様・和様の三種類があるが、円覚寺の舎利殿は、唐様の代表的な遺構である。非公開で簡単に拝めないが、私は幸運に、拝観の機会を持てた。将軍実朝が宋から招じて仏舎利が収められてあった。以前は、鎌倉時代創建のままと考えられていたが、最近になって安永7年以降三回の火災にあったことが明らかになった。現在の建物は永禄6年(1536)の火災後に鎌倉内の尼寺の大平寺の建物を移したものらしく、(鎌倉時代の建物)、優雅な感覚が先に立つ。瀟洒な木組み、水のゆらめきを思わせる欄干の波型連子技巧はあくまで繊細である。最近、屋根を藁拭から杮葺へと復元し、よりすっきりした。

 

「円覚寺の至宝」展から外れるが、円覚寺を知らない人も読者の中にいるので、まず鎌倉円覚寺の現存する建物を紹介し、「円覚寺の現状」を理解してもらうことが大切と思い、冒頭にこの章を設けた。勿論、図録には全く出てこない。参考までに円覚寺の建物を通して、円覚寺の歴史、元寇の乱を理解してもらいたいと思った。

本稿は、「探訪日本の古寺ー東京・鎌倉」、カラーブックス「鎌倉の古寺」、カラーブックス「秘宝のある寺(鎌倉)
を参照した)

 

クリムト展  ウイーンと日本1900

金色の画家として著名なグスタフ・クリムトの絵画が、クリムト歿後100年と日本ーオーストラリア友好150周年を記念して「クリムト展」が開催された。私は、かねてクリムトの描く金色の女性像に、あこがれに近い感情を持って眺めていたが、幸い120点に及ぶオーストラリア及びクリムトの絵画が日本にもたらされ、非常に興味深く拝見することが出来た。「クリムトと日本画」の深いつながりを理解し、非常に楽しい美術展であった。オーストラリアと言えば、神聖ローマ帝国の一部であり、中世には大きな力を持った国であった。日本国内で開催された展覧会の中では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を展示する貴重な機会に巡り合わせた。またオーストラリアと日本の絵画は、非常に深いつながりがあり、「ジャポニズム時代」とも呼ぶべき時代があったことも記憶されるべき事項であろう。

女友達(姉妹たち)油彩・カンヴァス 1907年  クリムト財団

クリムトは、幅の広い縦長の変則的な寸法で、毛皮のコートを着た二人の女性を表現しようとした。向かって前方に顔を向ける女性は、横顔を見せる女性の背後に立っている。前景の女性は、傾けた頭部からわかるように、わずかに体をひねっている。布の物質的な存在感を中心とする静的な構図に、女性たちの視線によって動きがもたらされている。本作品では大部分を占める色調が効果的な素材となり、装飾部分の形と色彩を際立たせている。それは画面下に見える、左側の女性が纏う衣装の一松模様と、画面右上部の端に見える、コートの高い襟の後ろに施された色彩豊かな装飾パターンである。こうした着想は、彼は浮世絵から得たものであろう。18世紀末に、例えば鳥居清長による芸者や遊女の浮世絵が人気を得たが、こうした縦長の版型の浮世絵もまた、本作品と同じような姿勢で描かれる。興味深いのは、およそ100年後のヨーロッパに見られる流行とよく似た市松模様と幾何学的な装飾パターンが好んで用いられている。

赤子(ゆりかご) 油彩・カンヴァス 1917年 ワシントン・ナショナルギャラリー(以下作者名のグスタム クリムトは省略する)

クリムトが子供を描いた一連の絵画の中でも、本作品は際立っている。多様な形と色からなる構図には、いあわゆる象徴的な効果も見出すことは出来ない。クリムトは異例の速さで本作品を仕上げた。作品が出来上がるまでの異例の速さは、これが画家にとってなじみの主題であったこと、また彼が意図した通りの構想を意欲的に描いたことを物語る。本作品では、実在しない空間の向こう側からこちらを見下ろしているように赤子が表されている。白い襞に包まれ、左頬が隠れた赤子の頭部は、緑と茶色からなる背景に、様々な布地で構成されるオイラミッドの頂点として配置されている。本作品の着想源が、19世紀前半の文政から天保年間(1818~44)に制作された日本の多色摺木版画(錦絵)にあるのもうなずける。歌川豊国をはじめとする歌川派は、簡素さが重んじられた前時代に比べて、より豊かに表現力を高めていった。19世紀に日本で生まれ、ヨーロッパの革新的な芸術家たちにとっては斬新なこのような作風は、彼らに新しい平面構成の在り方を示すことになった。

ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実) 油彩・カンヴァス 1899年 オーストリア演劇博物館

ウイーン分離派が結成される中、1989年頃にクリムトが着想した本作品は、ウイーン分離派の掲げる綱領に基づき制作された象徴的絵画に数えられるとともに、新たな芸術運動の理想に身を投じようとするクリムトの決意を示す作品の一つである。ペン画から絵画への発展への意図せずにこのペン画が描かれたことは、他の数点の素描から推察される。本作品の制作準備は、実際はにはスケッチブックの素描から行われたと考えられる。クリムトは、妥協せずに真実を指向し、大衆の批判に迎合しない芸術を支持する意思表示としてこの主題を選んだのである。クリムトはこの意図にふさわしいスローガンとしてフリードリヒ・シラーの言葉を引用し、女性の頭上に大文字を書き込んだ。「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないなら、それを少数者に対して行え。多数者に好んでもらうのは悪なり」。クリムトは当初、人間に向かって鏡をつきつける「真実」を表す裸婦とそれに向き合う群像を構想していたが、結局、一人の正面向きの裸体像だけが描かれることになった。「真実」の足元には、鑑賞者が見出すべき罪を象徴する蛇がうずくまる。完成した作品は1899年3月から5月まで開催された第4回ウイーン分離派展で初めて展示された。女性の裸体表現ときわめて現代的な様式は、激しい議論を巻き起こすことになった。

ユデイト1 油彩・カンヴァス 1901年ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

クリムトの代表作のひとつとして知られる<ユディト1>は、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。装飾的な効果を伴なう様式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公の女性のエロチシズム。そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの「黄金様式」の時代の幕開けを飾る作品となった。本作品は、旧約聖書外典の一場面を主題とする。アッシリアのネブカトネザル王に仕える司令官ホロフェルネスは、遠征の途中でユダヤの町ベトゥリアを包囲する。ベトゥリアに暮らすうら若き未亡人ユディトは、包囲を解くために計画を練り、夜陰に乗じてアッシリア軍の陣地に向かう。ユディトはホロフェルネスを誘惑して酔いつぶし、その剣で隣に眠る彼の首を切り落とした。翌朝アッシリア兵は、司令官の首が城壁にさらされているのを目にする。指揮官を失った軍の混乱に乗じて、ユダヤの住民たちはアッシリア兵を全滅させた。ホロフェルネスの首を持つユデイトの姿は、ヨーロッパ絵画では非常によく見られる主題で、どんな手段も厭わないことを決意した女性の持つ強さと能力を誇示するものとして使われることが多い。この伝統においてユデイトの行為は道徳面で模範的なものと解され、ユデイト自身は貞淑な婦人として描かれる。しかし、同時に、この主題は女性の魅力に誘惑されることによって生じる危険を男性に警告するものとして使われる。クリムトがこの主題を選んだのも、後者の解釈によるものと思われる。事実、本作品のユデイトは、胸元をあらわにした蠱惑的な眼差しも誘惑者として描かれていても、本作品の歴史的な物語性が強調されている。クリムトが手本としたのはニネヴェの宮殿のレリーフだった。1856年から大英博物館に所蔵されるレリーフは、アッシリア司令官センナケリブによるパレスチナも町ラキシュの包囲が描かれている。類似する歴史上の出来事が表された考古学的遺物を用いることで、クリムトはほぼ架空のユディトの物語に歴史的な枠組を与えた。

アッター湖畔のカンマー城Ⅲ 油彩・カンヴァス 1909,10年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

世紀末、多くの芸術家が好んで夏を過ごしたのが、オーバーエスターライヒのザルツカンマーゲートにあるアッター湖畔である。具体的には、バロック様式のカンマー城で、クリムトがこの城を描いた有名な作品が複数ある。1908年から1912年に制作された4点の作品では、城のファサードが様々な角度から描かれている。この城は、湖に突き出した岬に建っているため、様々な視点から捉えることが可能であった。本作品は、望遠鏡を使って描いたという説が有力である。そうであれば、実際には離れていて、位置関係も異なる複数の建物が平面的に重なっていることも説明がつく4点のうち3番番目にあたる本作品には、城の中庭を囲む低い建物が側面から描かかれている。その背後には中心となる建物の赤い瓦屋根が見える。日本の風景描写との最大の違いは、輪郭の描き方である。日本美術では、輪郭で明確に区別される形態が重視されるのに対し、クリムトは幻想的な色彩構成によって対比を際立たせ、形態を浮かび上がらせた。

丘の見える庭の風景 油彩・カンヴァス 1916年頃 ツーク美術館

クリムトが本作品に取り掛かったのは、1914年から1916年にアッター湖畔のヴァイセンバッハで過ごした夏の間とされる。クリムトは1点の作品に数年をかけることが多かったため、本作品も未完成のまま、彼が亡くなるまでアトリエに残っていた可能性もある。クリムトは前景の花畑と後景の森に覆われた山の斜面からなる構成を選んでいる。この構図を用いることで、距離の異なる面を階層化することができた。花畑は昔から、多産と自然の中で咲き誇る命の象徴とされる。水平方向の層に対し、垂直の木々や灌木が配置されることで、水平と垂直の要素が調和した鴻巣が生み出されている。この時期の風景画には、おもにファン・ゴッホの影響が考えられる。ゴッホの作品に見られるようにクリムトはまず各部分の輪郭を筆でカンヴァスに描き、後から色彩で埋めていった。この極めてグラフィック的手法によって一つ一つの形態が区別され、対比がより強調される。クリムトは、ファン・ゴッホにとっても重要だった日本の水墨画の特徴を取り入れたと思われる。また、この構図には浮世絵の影響、とりわけ葛飾北斎と歌川広重の影響が感じられる。中でも広重の「木曽海道六十九次之内  三留野」とクリムトも作品には、構図においていくつかの共通点がある。クリムト後期の風景画では北斎、広重などの著名な浮世絵を思わせる色遣いが認められる。

マリー・ヘンネベルクの肖像 油彩・カンヴァス 1901~2年頃 ザクセン=アンハルト財団

マリー・ヘンネベルクを描いた本作品は、女性を堂々とした姿で捉えながら、その個人的な特徴を描き出すというクリムトの才能を示す好例である。彼女はクリムトの親しい友人であった。ヘンネベルク夫妻は、1899年にクリムトと一緒にヴェネツィア旅行をした仲間で、ホーエ・ヴァルテの芸術家コロニーでカール・モル、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマンの隣に住んでいた。マリーの夫のフーゴ・ヘンネベルクは裕福な自然科学者で、アマチュアとして芸術写真とグラフィックを手掛けていた。フーゴは、ピクトリアリズム写真の第一人者として、またグループ「ヴィーン・トリフォリュム」のメンバーとして、同時代の最も有名な写真家の一人であった。長年に及ぶ親しい関係が、この作品のある種の親密さに影響を与えているかもしれない。とりわけうす暗い照明と、それによって生じる部屋と一人掛けソフアの境界の曖昧さが親密な雰囲気を高めている一方で、マリーの思慮深い、眼差しは、鑑賞者との間に距離を作り出す。まるで舞台上の室内劇を描写したようなこの作品の印象は、クリムトが意図的に作り出したものと思われる。印象派風の筆のタッチは、揺れ動く雰囲気とともに、周囲の不穏な空気を生み出している。作品の中心は、フレーゲ姉妹のサロンで改良された服を纏うマリーに据えられている。彼女の眼差しは示唆に富み、顎に当てた特徴的な手の仕草は、クリムトが何度も通った劇場で研究した女優の技を思わせる。描法においても、本作品は注目に値する。本作品は、ほぼ二つの基本色から成り立っているように見える。すなわち、下塗りとしての明るい茶色と青色である。短い筆のタッチで施された青色が室内の光の雰囲気と肘掛け椅子を描き、さらに青と白と様々に混ぜて表されたドレスが茶色に対して際立ってあらわれる。クリムトがこうした技術にせいつうしていたことは、エミーリエ・フィレーゲを描いた初期の作品からもわかる。

オイゲニア・プリマフェージの肖像 油彩・カンヴァス 1913-14年 豊田市美術館オ

オットーとオイゲニアのプリマフェージ夫妻は、クリムトの最も重要な支援者に数えられる。オイゲニアは1874年にウイーン近郊の庶民的な家庭に生まれ、女優になり、オイルミッツの工場主で銀行家のオットー・プリマフージと出会い、1895年に結婚する。クリムトは1912年ごろから一家の親しい友人となり、娘メーダの肖像画を依頼された。彼がオイゲニアの肖像画を描いたのはその翌年である。本作品はオイゲニアへのクリスマスプレゼントだったため、春に何度も実際にポーズを取ってもらうところから始まり、おそらくクリスマス直前に依頼主に届けられたものと思われる。12月19日付の手紙で、クリムトは納期に間に合うように仕上げることの難しさを嘆いている。本作品は地塗りがみえたままの部分が残り、未完成に思われる個所がいくつかあることも頷ける。本作品は、クリムトの後期の肖像画のなかでも最も重要なものに数えられる。女性たちはたいてい色彩豊かな絨毯が広げらた床の上に立ち、東洋の美術品に由来する様々な形をしたモチーフで彩られた壁を背にしている。本作品でクリムトは色とりどりの花を用いながら、右上の隅に、陶器、もしくは七宝の置物から着想を得たと思われる。幸運と長寿を象徴する鳳凰を描き込んでいる。クリムトは後期の作品のほとんどに、補色による対比を取り入れた。とりわけ肖像画では分光城の一色、もしくは組み合わせが顕著である。本作品では、背景の黄色が支配的である。その黄色と、オイゲニアのドレスの色と背景にある花の装飾の色が対比的に表されている。ここでクリムトは黄色、オレンジ、緑、紫、赤、ターコイズと青、つまり分光色のすべてを使っている。このような組み合わせによる色彩の豊かさは、特に東洋の作品に多い。クリムトは中国、日本の工芸品に特徴的な色の組み合わせをそのまま、自分の作品に取り入れていたようである。

リア・ムンク1 油彩・カンヴァス  1012年  個人蔵

死の床にある人物は、中世に遡るヨーロッパの絵画の伝統的主題である。こうした絵画は、おもに貴族や著名人を遺し、最後の姿の証として後世に伝えることを目的に制作された。この伝統は20世紀初頭まで続き、著名な芸術家もそれに倣った。死の床につくリア・ムンクの肖像は、クリムトが描いた死者の作品としては6作目にあたる。リア(マリア)の悲劇は、1911年から1912年にかけてウイーンの社交界を騒がせた。1911年12月28日、裕福な材木商の娘だったマリアは、恋の悩みから24歳でピストル自殺した。その直前、彼女は、婚約者の作家ハンス・ハインツ・アヴァースに別れを告げていた。この肖像画を依頼したのは、リアの母アランカ・ムンクでクリムトの支援者で教え子でもあったゼレーナ・レーデラーと従妹だった。本作品は、死者の顔を囲む色彩豊かな花(おそらくバラの花ビラと思われる)によって、ジョン・エヴァレット・ミレイの有名な「オフィーリア」を思わせる。ハムレットの恋の苦悩から死を選ぶオフィーリアという、ウイリアム・シェクスピアが生み出した人物像を考えると、クリムトが意図的にミレイの名作を連想させる作品を制作したことは十分考えられる。おそらくクリムトは、素描や写真をもとに描いたものではなく、実際に亡くなった人を前にカンヴァスに描いたのであろう。

女の三世代 油彩・カンヴァス  1905年  ローマ国立近代美術館

本作品は<人生は戦いなり「黄金の騎士」>と<接吻(恋人たち)>と並ぶ、クリムトの「黄金様式」の傑作の一つである。本作品は<医学>や<哲学>と同じく、「生命の円環」をテーマとする。いずれの作品も裸体で表現された年齢や性別の異なる人間が、誕生から死に至るまでのあらゆる段階を示している。人生の三段階という主題は、中世依頼、頻繁に取り上げられてきた。これまでクリムトの着想源としては、とくにウイーン美術史美術館所蔵のハンス・バルドゥイング・グリーンによる16世紀の作品が挙げられている。クリムトは本作品において伝統的な比喩に明快に表現したとき、すでに成熟した芸術家だった。作品の意図は、人物の身体的特徴によってのみ伝わる。そのため、同種の作品に描き込まれる死が、本作品には含まれていない。近づいてくる死は、すでに老女の姿に見て取ることができる。彼女たちの背後を彩る装飾は、それぞれの人物の象徴性をほのめかす。若い女性の背後には、三角、円、渦巻などの色とりどりの文様があしらわれている。彼女にはヴェールと、様式化された蔦が絡まり、髪には小さな花ビラが見える。黄色、茶色、赤の色調で描かれた老女のシルエットと、生命と成長の象徴を対比をなす。クリムトは本作品に用いた箔については、視覚的に判断すると、背景に銀箔を使ったことは間違いないだろう。一部が酸化して黒ずんでいることからもそう考えられる。クリムトは金箔に加え、人物の背景装飾の一部に本物の金泥も使ったとうである。本作品は、1905年にベルリンで初公開されたが、1911年にローマで開催された国際芸術展で紹介されたときに、イタリア政府に買い上げられた。完成から売却までの6年間の間に、クリムトが作品の一部を修正したこともわかっている。

 

グスタフ・クリムトは見事な装飾による比喩的な表現を得意とする画家として、また魅力的なウイーン社交界の女性を描く肖像画家として名高い。ウイーン分離派の設立以降のクリムトはもっぱら風景画、肖像画、そして象徴的な女性像を描いた。象徴的な絵画には、さらに4つの異なる主題に分けられる、一つ目は、画家によるメッセージが込められた綱領的な絵画である。二ツ目の主題は、クリムトが女性の神秘を追及した絵画である。とりわけ「ユディト1」等である。三つ目の主題は個人的、かつ己の芸術的な理念の実現を目指す芸術家である。四つめの主題は、生殖から死までの生命の円環に取り組んだ作品である。「女の三世代」が、その代表作品である。クリムトはこれだけ多数の魅力的な女性を描きながら、結婚したことは無い。しかし非嫡出子は、多数いたようである。モデルの子供が多;

(本国は図クリムト展ーウイーンと日本 1900      2019年」福島繁太郎「近代絵画」、高橋修爾「近代絵画史(偈)」
美術出版社「西洋美術史」を参照した)