ファンタスチック  江戸絵画の夢と空想  前期

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「ファンタスチック」と言う言葉は、「「素晴らしい」というような意味に用いられる。府中市美術館では、あえて、この単語を用いて、江戸絵画の展覧会を開催している。(5月8日まで)同美術館では、図録の冒頭に「本展の目的は、この現代の日本において、あえてこの片仮名の言葉を通して江戸絵画の魅力を再発見することにある」と述べている。この「再発見とは,一旦見失ってしまったということであり、いつ、どうして見失ったのだろうか」と問いかけている。その理由として、近代以降の人々が、江戸時代の絵画は「芸術以前のもと考えるようになったことが挙げられるのではないだろうか」とし、明治時代に日本に入ってきた西洋の美術こそ芸術であり、それ以外のものは「芸術ではない」と、思い込んだ結果であると考えた。この考えには、私は疑問を感ずる。江戸時代の260年の間に、浮世絵は別格としても、琳派と呼ばれる俵谷宗達、尾形光琳,酒井抱一、鈴木其一、文人画と呼ばれる大雅と蕪村、同時代の円山応挙や伊藤若冲、やや下って浦上玉堂、青木木米、田能村竹田など多士済々であり、むしろ江戸時代こそ日本画が最も輝いた時代ではないかと思っている。しかし、府中市美術館が提起した問題点は、確かに言い当てて妙を得ている。上記以外の作家で、「ファンタスチック」と呼べる画家がどれほどいるだろうか?実は知識がないだけで、江戸絵画には「夢と空想」が一杯つまっていることを、明らかにしたい。なお、「黒田清輝展」の後に、この江戸絵画を書いたのは、みんなに近代絵画を考えてもらいたいからである。

元旦図 丸山応挙(1733~1795)作     江戸時代(18世紀)

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裃で正装した男性が太陽に向かって立っている図である。箱書きには「元旦」と記されており、応挙自身の個人的な心境を描いたのか、誰かの注文なのかは分からない。ここに表現されているものは、正装で太陽を正面に拝しているところで、初日の出のういういしさが表現されている。光や陰を描写することへの意識があったからこそ、こんなに斬新な感情表現ができたのであろう。

四条河原夕涼図屏風  山口素侚(1759~1818) 江戸時代(18世紀)

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京都の画家で円山応挙に学んだ。四条河原の夕涼みの様子を描いた図である。露店ではスイカや白酒などさまざまな物が売られている。見世物も多い。中でも目を引くのが人魚の見世物である。そんな賑わいとは別に、遠くの建物の中の宴の様子や行き交う人々のシルエットが見える。まるで夢の世界のようである。楽しげな人々の描写には、思わず引き込まれてしまう。良い絵である。私は京都に2年半暮らしたけれども、夏は暑く、眠れない夜が続いた。この四条河原の夕涼みができたら、どれほど楽しかったであろう。

観桜・紅葉に鹿図屏風  作者不明     江戸時代前期(17世紀?)

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二曲一双の屏風である。江戸時代前期、作者は不明であるが17世紀の作と思われる。一方には花見の図で、武士たちの宴。被毛氈や華美な敷物の上で,舞を楽しんでいる。金箔で雲の形があしらわれ、銀箔を細かく切った砂子も蒔かれ、華やかな屏風である。下図は紅葉と鹿の情景である。この鹿図には、人は現れず、山中の秋である。日本では,秋に聞こえる鹿の声にことのほか風情を感じる。どちらの図も力強く、堂々とした描写である。

気球図 原鵬雲(ほううん)作 (1835~1879年)作 江戸・明治時代(19世紀)

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鵬雲(ほううん)は嘉永3年(1850)に描いた徳島藩の御鉄砲組、喜根井善種の肖像画が初期の作例として知られている。徳島藩の銃率として、安政元年(1854)、藩が大森・羽田の警備についた時に出陣。文久2年(1862)、幕府の遣欧使節団に随行した。約1年間西欧を旅して、各地の風物を写生した。だから本当に気球を目撃した日本人の絵画である。どこで目撃したかは分からない。恐らく帰国後に描いたものであろう。広々とした画面を使っておおらかに仕上げている。まるで童話の絵本を見ているかのようである。

飛竜図(ひりゅうず)原在中(1750~1837)作江戸時代後期(19世紀)

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この場面は,鯉が竜に変わるところである。中国では,鯉は竜文の滝を登ると竜に変わると言われ、鯉の滝登りの図は立身出世を表す画題として、江戸時代に大変多く描かれた。飛竜とは、この絵の箱書きにあったので、この命名となったそうである。この絵はまだ登り切っていない。その途中の変身中である。頭だけが竜、それより下はまだ鯉という姿で、非常に珍しい絵姿である。墨と金泥だけで描かれ、モノクロームの落ち着きと深さがある。

地獄図 河鍋暁斎(かわなべきょうさい)・薫玉作(1831~1889)江戸・明治時代(19世紀)

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閻魔王が女性を抱いて鏡を見ている。署名の入れ方からみて、後姿を暁斎、鏡に写る姿を薫玉が描いたのであろう。閻魔が見ているのは「浄玻璃の鏡」である。地獄で亡者が裁かれる時に、生前の行いが映し出される鏡である。ところが映っているのは女性を抱く閻魔自身である。この閻魔の顔をどのように見ますか?

八尾狐図 狩野探幽(1602~1674)作  江戸時代前期(17世紀)

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江戸時代初期を代表する有名な御用絵師である。徳川家康が、江戸に幕府を設けると、幕府の奥絵師の地位を得て活躍した。この図は三代将軍家光が見た夢の光景である。寛永14年(1637)のこと、この頃家光は病気がちであったが、不思議な霊夢を見た。八本の尻尾のある狐が、御宮の方から家光の所へやって来て、家光に向かって奉り、御患いは、回復されるでしょうと告げて去っていった。夢から覚めて本当に元気になった家光は、八尾の狐を、夢に見た通り描くよう仰せになった、というのである。いかにも夢らしいファンタスチックな世界である。

蛙の大名行列 河鍋暁斎作   明治時代(19世紀)

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彼は擬人化した蛙の絵の名手であった。まるで平安時代の鳥獣戯画のようである。この「蛙の大名行列」も「鳥獣戯画」の後編と言っても良いほどの作品である。構図が巧みである。大名行列を大きくカーブを描き、蛙たちも、同じ方向から説明的に図示されることなく、色々な角度から捉えられている。お殿様はかなり幼いようだが、藩の事情だろうか。こんな絵が江戸時代には好まれたのであろう。面白さと描写の妙技が、現代の我々を魅了する。

円窓唐美人図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代後期(19世紀)

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西洋の技法を使って中国の女性を描いたもので、江漢の油彩画としては早い頃の作品であろう。遠くの山の立体感の表し方や女性の着衣の襞など、念入りである。画面全体としても力強い。当時の人は、この絵を見て、異国を目の当たりにする思いだったであろう。

虎図(部分)与謝蕪村(よさぶそん)(1716~1783)江戸時代(19世紀)

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俳画で有名な与謝蕪村の46歳の時の作品である。うねりながら近づいてきたような虎動き、頭を斜めにしてこちらに向ける視線、そして交叉させた前足や、画面の最上部まで伸びた尻尾まで、まさに「生きている」という感じである。江戸時代、虎の絵は人気があったそうである。しかし、本物の虎を見る機会が無かった。そこで海外からもたらされた絵が、参考とされたのであろう。

 

さて、どの絵が一番ファンタスチックだったでしょうか。私の好みから言えば①四条河原夕涼み図です。京都の夏は蒸し暑い。とても満足に眠れるものではない。そんな夏の夕暮れに、四条河原で夕涼みが出来たら、どんに京都の夏が過ごしやすかったでしょうか。因みに、向こう側に描かれた建物は、料亭の床と呼ばれる、川原に出された屋根の無い座敷である。ここの夕涼みは、京の贅沢の極みであり、私も何度も楽しんだ。この絵にあるように床の反対側は、現在は鴨川が流れており、立ち入ることは出来ない。②は気球図です。これを見た江戸時代の人はさぞかし驚いたことでしょう。③は蛙の大名行列です。なんともユーモラスで、まさに鳥獣戯画の延長線上です。しかし河鍋暁斎の絵は上手ですね。改めて感心しました。是非、一人一人が、「私のファンタスチックな絵」を選んで楽しんで下さい。

 

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代洋画の巨匠 黒田記念館 

黒田がフランスに留学した1880年代は「新旧入り乱れた坩堝のような絵画状況」(三浦東京大学教授)であった。アカデミズムは依然として権威を保っ一方で、印象派以降の様々な動きも台頭してきた。黒田は「外光派」と呼ばれるが、果たしてフランス絵画のどのような要素を摂取したか、かつどのように日本に移したか、まずは、代表作である「智・感・情」から見ていこう。

重要文化財智・感・情 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治32年(1899)

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この作品は、明治30年(1897)の第2回白馬会に「湖畔」などとともに出品された。等身大の日本女性が、裸体で描かれ、その大きさからも、また金地背景にあたかも実際にあるかとみまがうばかりに描写されている視覚的表現からも、裸体の体に日本画のような輪郭線を施す、という東西融合の実験的要素には、こと欠かない。大いに注目されたが、世評は必ずしも好意的ではなかった。明治28年に京都で開かれた第4回内国博覧会に黒田が出品した「朝妝(ちょうしょう)」を契機として、裸体論争がが盛んになっている中で公にされたことも一因となって話題を呼んだが,当時の評はあまり好意的ではなかった。その筆力を認める一方で、画題とポーズの意味が不可解であり,裸体画としても成功しているとは言い難いという批判もなされた。白馬会出品後、黒田自身による加筆ののち(1889年)、1900年のパリ万博に「裸婦習作」として出品され、日本の油彩画では最高賞に当たる銀賞を受賞した。同万博には「湖畔」も出品されたが、海外での評価は「智・感・情」の方が高かった。読売新聞の明治30年(1897)11月29日の記事には、次のように紹介している。(図録より引用)「中なるは感と言ひて、Impressionの意、右なるは智と言ひてIdeal、左なるは感と言ひて、Realの意なりとか」。この作品は日本の絵画史における意義としては、一つに描かれた裸体の意味するものを人々に考えさせたこと、即ち象徴としての裸体表現を広く知らしめたことにあり、二つめはそうした象徴的裸体表現を日本人の身体像によって行い、日本人の裸体像のカノンを築いたことにあるのであろう。本作が世に出てから、日本絵画に登場する人物像のプロポーションはこの作品に準じて大きく変わった。先人は何を取り入れ、どう苦闘したのか、その試行錯誤の足跡に新たな光を当てることになった。

裸体婦人像  黒田清輝作  油彩・カンヴァス 明治34年(1901)

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この作品は、1901年(明治34)秋の第6回白馬会に出品された。しかし裸体画は公序良俗に反するとして、警察の指示により下半身を布で覆って展示されるという、いわゆる「腰巻事件」をひき起こすことになった。黒田によれば、「最も困難で最も巧拙の分かる腰部の関節に力を用いた」のに「肝心の所へ幕を張られた」と述べている。フランスと日本では、社会環境や価値観が著しく異なることを目のあたりにした黒田は、フランスの精神風土を日本に根付かせることが課題になった。画家だけでなく教育者、行政官、政治家として,様々な役割を担う重要性を痛感したのであろう。黒田にとって重要なことは、現在「構想画」とも言われる、西洋美術の根幹である裸体画で構成された画面で抽象的概念を表す「理想画」を描くことであった。このように考えると、前遍のくくりで、私は「黒田の日本美術界に及ぼした功罪は大きい」と総括したが、これは私の矮小な誤解であったようである。黒田が目指したのは、絵画のみではなく、フランス絵画の前提となっている「近代化」を目指し、教育界、行政界、政治界全体の近代化を狙っていたのでは無いだろうか?黒田を絵画の世界だけで評価してはいけない。黒田は、日本文化全体の近代化を進める闘士となり、全力を傾けるために貴族院議員などになったのであろう。

昔語り(下絵 舞妓) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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フランスから帰国した明治26年(1893)の秋、黒田は初めて京都に遊び、清水寺近くの清閑寺(せいかんじ)を訪ねて、同寺の由来である平家物語の「小督(おごう)」の話にある高倉天皇と小督の悲恋にまつわる物語を岩佐恩順という僧から聞き、昔がよみがえってくるような不思議な体験をした折に得られたものである。1893年の写生帳に本作に関連する素描が複数枚描かれている。1895年の第4回内国勧業博覧会のために京都を訪れた際、西園寺公望に大作の制作を促され、本格的な制作が始まった。黒田は1895年の夏に京都の円山公園内に簡易なアトリエを建てて本作に取り掛かり、翌年4月に東京に移るまでの間には構図も決め、完成のための下絵を多く描いた。この下絵は、今回の展覧会でも36枚の多きに達していた。1部屋、まるまる「昔語り(下絵)」であった。

昔語り(下絵 構図Ⅱ)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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この下絵は第1回白馬会(1896)に出展されたものである。この完制作は西園寺公望の仲介によって、製作費の実費を西園寺の実弟、住友友純(ともいと)が負担した。当然、完成時は住友家に飾られたが、先の大戦の際に空襲で焼かれた。従って、現在残っているのは、下絵のみである。私は、先に久米の言葉として「幸福な才能」という表現をしたが、この膨大な下絵を見ると、黒田は、才能も優れていたが、むしろ下絵をふんだんに描く、努力の人であると思った。スケッチは画家ならば誰でもするのであろうが、この「昔語り」ほど、素描が沢山残されている例は知らない。

ダリア 黒田清輝作 油彩・カンヴァス  大正2年(1913)

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植物や花を好んだ黒田であったが、花の静物画は少ない。数点が知られているのみである。この作品は画面左下の年記から大正2年(1913)に描かれたものであることが分かるが、1913年4月に東京美術学校での教え子で、フランスに留学していた金山平三からダリヤの球根が届き、その球根から育った花だろうと推定されている。同年111月に大阪で開催された国民美術協会第1回西部展にも「ダリア」と題した作が出品されている。(本作と同一のものであるかどうかは不明)

自画像 黒田清輝作  油彩・カンヴァス 大正4年(1915)

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黒田は、1910年頃から、多数の名士の肖像画を描いている。例えば「桂公肖像」「大熊重信肖像」「寺島宗則肖像」等である。写真ではなく、本人と面接して描いたと言われ、著名人の時間の調節が、さぞかし大変だったろうと思われる。本作は自画像であり、大正4年、49歳の自画像である。でっぷりと太った貫録を示している。

梅林  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  大正13年(1924)

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大正12年(1923)末に黒田は宮内省に出勤中、狭心症で倒れ、翌年春小康を得て、箱根に静養、5月に帰京、7月15日没したが、春、小康をえたころは麻布の別邸の離れが病室に当てられていた。この作品はそこから庭を見て描いたものと思われる。絶筆となった作品である。

黒田記念館

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黒田清輝は、大正13年(1924)7月に58歳で没した。その際遺産の一部を美術奨励事業に役立てるようにと遺言した。それを受けて、昭和3年(1928)に建築竣工したのが、この黒田記念館である。館内には、遺族、門弟等から寄贈された黒田の油彩画、素描、写生帳、書簡等を展示するため黒田記念室が設けられた。この記念室は二階にあり「昔語り下絵」等の代表作を含む油彩画、デッサン等約50点が展示され、逐次入れ替えも行われている。2007年4月より、黒田記念館及び収蔵品は、国立東京博物館に管理が移行された。2002年には建物が国の登録有形文化財に指定された。黒田記念室に加え、2015年には、黒田の代表作である「読書」、「舞妓」、「湖畔」、「智・感・情」をそろえた特別室(新年、春、秋の各2週間公開、一階)を設けるなど、展示環境の充実が図られている。なお、2年ほど前までは、月曜休み、後は毎日開館であったが、現在は毎週木・土曜日が開館で無料拝観できる。念のため、必ず黒田記念館のHPを確認の上、見学することをお勧めする。なお、黒田記念館は、東京国立博物館の西隣りにある。

 

 

フランスで画家を志した黒田は、フランス画壇を標準として理想の画家像をつくっており、帰国後は、その理想を日本で実現できないこと、また理想に向かう試みが意図の通りに受け取られないことに苦しんだ。黒田は、画家として自由な自己表現を目指したが、黒田の構想画は理解されなかったようである。黒田が貴族院議員になったのは、日本に欠けていた「西洋の雰囲気」を、政治を通して実現しようとし、美術教育や美術にまつわる制度の確立のために尽力しようとしたと思われる。このように理解するならば、「黒田は日本洋画界に対し、功罪半ばする」と断言した前篇の言葉は、取り消さざるを得ないことになった。(無論、前篇を記載する前に、このことは理解出来ていたが、私の考えの変化の過程を理解してもらうために、あえて「前言を翻す」という記述にこだわったのである)

 

(本稿は図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画に巨匠  2016年」、図録「黒田清輝展 近代日本洋画の巨匠 2010年」、土方定一「日本の近代美術」、田中英道「日本美術史全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠

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黒田清輝(1865~1924)は、鹿児島市に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した)明治4年(1871)に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母になる貞子に伴われて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代を送った。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、維新後には、東京府参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、明治20年(1887)には、子爵をさずけられた。清輝は、10代になると、大学予備門を目指して英語を学び、ついでフランス語に転じ、17歳のとき、外国語学校フランス語科2年に編入した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉強する目的からである。明治17年(1884)に義兄橋口直右衛門がフランス公使に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。それから明治26年(1893)、27歳で帰国するまでの9年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己形成の時代に当たる、中でも、もっとも大きな転機は、法律の勉強から画家になることを決意したことであった。それは明治19年(1893)2月、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりがあり、そこで出会った画家山本芳翆(1850~1906)、工部省留学生としてパリに学んでいた同じく画家の藤雅三(1853~1916)らから、しきりに画家になることをすすめられたことであった。黒田は、自分の心情を養父に書簡を送った。この書簡の翌日に、さっそくフランス人画家ラファエル・コランに入門した。黒田が師事することになったラファエル・コランと言う画家は、今日ではまったく忘れ去られて人である。久米桂一郎(画家)は、後に「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代という言葉が浮かんでくる」(美術新潮)と回想している。ここで幸福な環境と言ったのは、富裕な貴族の子弟として年少にしてフランスに留学していることであり(1884~1893年、在仏)、幸福な才能と言ったのは、自然のまま絵画に近づき、才能が大きく成長し、そして彼が帰国したのは、日清戦争を経て、明治市民が「冷笑と反動」(徳富蘇峰の言葉)の長い期間を経て、ようやく彼方に夜明けを見た時であった。黒田がフランスに着いた頃は、フランスは普仏戦争の敗北とパリ・コンミューンの混乱を経て、第三共和政が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていた。黒田が入門した頃のラファエル・コランはサロンに入選を重ね、アカデミズムの中の新進画家として評価が高まった時期であった。時代的には、印象派全盛の時代であったが、黒田はコランの印象派の明るい外光表現とアカデミックで堅実な描写に新しさを感じ、受け入れたのであろう。また黒田は画業の始まり頃からバルビゾン派の画家ジャン・フランソッワ・ミレーに惹かれ、ミレーに傾倒した時期があった。

編物  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治23年(1890)(在仏中)

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黒田が画家として大きく成長するのは、1890年(明治23年)頃からであった。久米桂一郎(画家)とともに、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンを訪れ、ここに滞在しながら制作をすすめることになった。黒田がこの地に惹かれたのは、風景の美しさだけではなく、好みのモデルと巡りあったためだったと思われる。それが、マリア・ビョーという名前のこの村の農家の娘であった。留学時代の作品であり、サロンに初めて入選した「読書」や「婦人図(厨房)」に描かれた女性であり、この編物のモデルでもあった。黒田は、この娘の一家とも親しくなり、その一隅にあった小屋ヲ借り受け、アトリエとして使って制作に励んだ。マリアとの交際が深まり、黒田はビョー家の婿のようになっていたと言う。(国民美術)この時代の一連の作品は婦人の木炭画が優れている。油彩画ではいずれも色調が青で統一されており、清傑で明澄な画面となっている。窓を通して室内に指し込んでいるやわらかな光の表現を楽しんでいるようである。

読書  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治24年(1891)(在仏中)

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1891年に開催されたフランス芸術家協会のサロンに「夏の読書」のタイトルで出品、初入選した作品である。当時フランスには二つの協会が並立していた。黒田は、まず師のコランも出品する「旧の共進会」に入選し、フランス画壇へのデビューを果たした。本作品もグレーで黒田と恋仲になったマリア・ビョーをモデルに描き始められたものである。(久米桂一郎氏の記述)画面下には「明治24年 源清輝写」と日本語でサインが入れられている。これも作者が日本人であることがすぐわかるようコランから勧められたものであるそうだ。サロン出品後、この作品は日本へ送られ、1892年春の第4回明治美術会展に出品された。

風景(グレー黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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ロワン川に沿ったグレーの集落には、一本だけ橋がかけられていた。この図は、その橋の上から枯木を通して古塔を望んだ光景のスケッチで、この塔は「ガンヌの塔」と呼ばれ、12世紀のもであるが、黒田がこの作品を描いてから約10年後に、浅井忠が同じ場所の風景を描いている。黒田は在仏中に「パリー風景」等の作品もあるが、概してグレーのような農村のスケッチが多い。恐らく、ミレー等の影響を強く受けたのであろう。

赤髪の少女 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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萌えいでた緑のなかに、背を向けて立つ少女。この人物そのものの表現よりも、赤髪のうえに映える陽光、したたるような樹葉の輝きなどに描写や表現力の力点がおかれているようである。在仏中の作品の中では、一番印象派的要素が強い作品の一つである。美術商林忠正(浮世絵の画商として知られている)の旧蔵品であり、当時のヨーロッパにおけるジャポニズム盛行に重要な役割を果たした林との交友をしのばせるものとなっている。

婦人像(厨房)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)在仏中)

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黒田は、1891年11月に本作の制作に着手し、完成したのは1892年の3月頃であった。黒田は、秋の景を描いた油絵1枚とともにサロンに提出したが、2点とも落選した。しかし、師であるコランが本作品を評価したためか、黒田は「どこに出しても恥ずかしハないつもりです」と母宛に送っている。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめる女性は、画面左上から差し込むたやらかい逆光に照らされている。マリアの姉の家に投宿しており、この作品はその家の台所であると見られている。「読書」と違って、質素な作業衣風の衣服を着けていることからも、グレーの自然の生活の中から生まれ出た作品だろう。「編物」、「読書」、「婦人像(厨房)」は、同じモデルを使った、在仏中の傑作である。

フロレアル(花月ーはなつき)ラファエル・コラン作油彩(1886年)

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黒田のフランスでの絵画の師であった、コランの作品である。(オルセー美術館)黒田は、「コラン先生追憶」の中で、次のように回想している。「此の時代の代表作は、ルクサンブール美術館にある”フロレアル”で,花時というやうな感じで描かれたものです。それは湖水の辺りの美しい草原に、裸体の女が草の羽を咥えて臥ている図で、有名なものです。裸体の柔らかい外光の肉色を描くことは巧妙なことは、先生を以て現代の第一人者と推さねばなりません。」

重要文化財舞妓(まいこ)黒田清輝作油彩・カンヴァス 明治26年(1893)

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明治23年(1893)の夏、9年におよぶ留学より帰国した黒田は、その年の秋に久米桂一郎とともに京都に旅行した。東京育ちの黒田にとって京都は初めての地であった。長らく日本を不在にした者の眼には、京都の風俗が新規に映ったようである。そのような眼差しのもとに描かれたのが「舞妓」であり、帰朝後の傑作である。鴨川を背景にした舞妓の着物を描くに当たり、黒田は黄、朱といったさまざまな色のタッチを散らしながら、その柄を表現している。留学時代には、好んで田園風景や田園の女性を描いた黒田は、新しいモチーフを前に、堅実なアカデミズムの描法から解放された画面は、色彩豊かな輝きに満ちている。京都旅行のデッサンも3枚付けられていた。

昼寝(部分) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治27年(1894)¥img545

黒田は鎌倉の別荘に移って夏を過ごした。この作品はそのときに描かれたものである。草上に午睡する少女に真夏の強い太陽の光が樹間をとおしておちているさまを生々しい赤と黄の色の細い線で描きだしている。黒田が外光派を超えて印象派的色彩を最も濃厚にみせたのは、この夏の制作であった。印象派の筆致や光の表現が用いられている。こうした画風は従来の日本の洋画とは一線を画すほど新しく、「新派」あるいは「紫派」と称された。

重要文化財 湖畔 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

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箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの麗人は、現在では「湖畔」の題名で広く知られているが、明治30年(1897)の第2回白馬会展では「避暑」の題で出品され、1900年のパリ万博にも出品されたものである。明治30年夏、黒田は照子夫人を伴って箱根に避暑のため滞在、そのときに描かれたものである。本作ではモデルの浴衣を湖面と同様に青色系の色でまとめて統一感をもたせ、優れて調和のとれた画面に仕上げている。この傑作も、また「紫派」の名前がぴったりの作品であろう。但し、田中英道氏は「日本では名作とされているが、世界的にいえば平凡な作品に過ぎない」という厳しい意見を述べていることも、付け加えておく。

 

黒田は、東京美術学校の洋画科の最高の指導者になり、新人画家を養成し、それらの弟子たちはまたラファエル・コランの教室に入り、文展設立とともに黒田清輝=コランの画風が、団体で言えば白馬会系の画風が文展という唯一の官設展の支配的画風となった。官尊民卑の国の官営展を支配した上に、文部省の美術政策は敗戦まで、この官設展だけを保護するという官僚統制の美術政策であったために、白馬会系の日本的アカデミズムは、長く近代日本の美術界を支配し続けた。黒田清輝は、声望を一身に集めた当代一流の巨匠として、文展(官営展)の審査員ばかりでなく、さまざまな展覧会の審査員、会長、顧問を兼ねて、大正9年(1925)には森鴎外の後を継いで第二代の帝国美術院長となり,公私とも多忙となった。当然、絵画を画く時間も少なくなり,晩年は小さなデッサンばかりという状態であった。黒田清輝の日本美術界に及ぼした功罪は極めて大きいと思う。(あくまでも私感)しかし、黒田清輝展であるから、かれの罪を唱える言葉は、図録のどこにも出て来ない。止むを得ぬことかも知れないが、あえて一言言及しておく。

 

(本稿は、図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 2016年」、図録「近代日本洋画の巨匠  黒田清輝  2010年」、土方定一「日本の近代美術」田中英道「日本美術全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

 

 

大宰府  観世音寺  宝蔵のみ仏たち

私は、前篇の「大宰府 観世音寺 お堂と塔跡」で、観世音寺とは観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という名前が付いたのであろうと推定し、広く「観音信仰の寺」と判断したのである。境内にある宝蔵庫に入ると、極めて大きな木造仏が並び、非常に驚いた。これは何度訪れても、驚きは変わらない。これの仏像類は、本堂に当たる講堂、金堂に安置されていたのであろうが、すべ初期の仏像はなく、平安時代、鎌倉時代の仏像類である。大火、災害等によって焼失したり、毀損したりして、残っているのは梵鐘のみである。従って、どの仏像がどこのお堂に安置されていたかも不明であるが、いずれにせよ観世音寺に伝来したことは間違い無い、「観音信仰の寺」と言う前提で、まず「観世音菩薩」と言われる仏像から紹介したい。

重要文化財不空羂索観音菩薩立像(ふくうけんじゃくかんのんぼさつりゅうぞう)鎌倉時代(13世紀) 像高517cm  寄木造

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この観音像は、手に持つ不空の羂索によって罪業の溺れ、悪業に沈む衆生の救済を悲願とする観音である。日本では東大寺三月堂本尊(奈良時代)、興福寺南円堂像(鎌倉時代)が知られている。私は、この像こそ、観世音寺講堂の本尊であり、寺院名の由来像であると確信している。この像は、大正3年(1914)修理のため解体したとき、胎内から塑像の顔面破片、塑像の木心(写真左に写る),経巻などと共に、この像の由来を記した胎内銘が発見された。これによると観世音寺講堂には奈良時代の不空羂索観音の塑像が講堂本尊として安置されており、康平7年(1064)の火災にも焼けず尊容を保っていたが、承久3年(1221)7月12日夜、俄かに倒れて砕けてしまった。この像の傍に立つ心木が奈良時代の塑像の心木であるという。再建にあたっては、鎌倉前期の貞応元年(1222)8月14日に滋済阿闍梨(じさいあじゃり)を勧進上人とし、良慶法橋を行事検校として、仏師琳厳が長尊を助手にして造ったもので、その頃における地方作としては極めて出来の良いものであり、また仏としてまことに本格的なものであった。三目八臂を持つその容姿は成熟した女性の美しさを表す。頂上仏の如来形は,平安初期の優秀作である。

重要文化財 十一面観世音菩薩立像  像高 498cm 寄木造り平安時代後期

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十一面観世音菩薩は六観音の一つで、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のうちでは修羅道にあって衆生を済度すると言われている。この像の胎内に多くの銘と共に延久元年(1069)7月という平安後期の墨書銘があって、この像の像立期を実証している。この時代は、日本的ないわゆる藤原文化の華が咲き、法成寺、法勝寺など寺院の建立が盛んで、その中に安置する丈六の巨像の像立も多いが、現在まで残っていて、しかも製作期の銘のある例は非常に少ない。その点で、本像は極めて貴重な仏像である。

重要文化財 馬頭観世音菩薩像  像高 503cm 木彫寄木 平安時代初期

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馬頭観世音菩薩は六道の中では畜生道にあって、頭上に戴く馬が草を多く食う様に衆生の悩みを執り尽くして救済するという。もともと馬はインドでは四聖獣(獅子、象、牛、馬)の一つとして、アーリヤ的に神聖視されている。仏教以前のバラモン的要素を多分に持つ馬頭観世音は、怒りと悲しみの複雑な顔でなければならないが、その表現は困難である。それをこの像はよく表現しているので、世に馬頭観音像の傑作と言われている。寺伝によると、この像は大治年間(1126~1130)大宰府大弐藤原経忠の寄進とされているが、像の胎内に当時、観世音寺の責任者として活躍した上座威儀師の銘があって,寺伝が正しいことを証明している。従って、この像は遺例の少ないわが国の馬頭観世音菩薩中最古のものであり、文字通り日本一の馬頭観音像と言えよう。

重要文化財  兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)像高 221cm 平安時代初期

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毘沙門天は梵語で、仏法守護の神である。仏法を多く聞き帰依したので四天王では多聞天という。北方を守る独尊では毘沙門天として信仰されている。観世音寺の毘沙門天は、観世音寺の仏像の中で最も古く優秀な像である。踏まえている地天から像頭まで樟の一木彫りになり、その力強い彫方は平安時代前期いわゆる弘仁期の姿を残すものである。地天を踏まえている毘沙門天を兜跋毘沙門天と言う。兜跋毘沙門天は兜跋国王(今のチベット辺り)を表すものと言われ、その姿は寒い国の服装をしているのが本来の姿である。この形をしたものは平安初期作(但し唐代)の京都東寺にあるが、観世音寺像はそれより少し時代が下がる。この像は静的な観世音寺像の中にあって、あくまで動的な逞しさを持った像である。

重要文化財 地蔵菩薩像 像高123.6cm寄木造 平安時代後期(12世紀)

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数多い仏像の中で一番庶民に親しまれている姿である。地蔵菩薩像は釈迦入滅後、次の弥勒が生まれるまでの末法界の六道にあって一切衆生を済度するという。その姿は一般の菩薩と異なり僧形で衆生の親しみを感ずる姿である。この岩座に半跏像は平安時代後期の作である。この岩座の半跏像は錫杖をもついわゆる延命地蔵である。延命地蔵は、平安時代に当時流行した延命経によってなされた像である。この像はその童顔が美しい。拝する者に如何にも地蔵さんらしい親しみを感じさせる。

重要文化財 大黒天像  像高171.8cm 木彫 平安時代中期(11世紀)

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大黒天は元来仏法を守る武神であり、また寺院の食堂に祀ると自然の栄があると信じられていた。それが日本人の習慣や生活に同化し、民信仰なども加わって、現在では槌を持ち米俵の上に立つ福徳の神になっている。この観世音寺の大黒天像は大黒天神法にある姿とよく似ている。日本人の信仰に同化したものであるが、そ顔に憤怒の感じがあるのは、古式の武神のおもかげを残している。この像は平安時代中期(11世紀)の作で、この様式の大黒天の中、最も古く優秀な像である。なお、この像は現在くつを履いているが、これは大正3年(1914)の修理によるもので、それ以前はわらじであったそうである。

重要文化財阿弥陀如来坐像 像高219.7cm寄木造平安時代中期(12世紀)重要文化財 四天王像 像高236cm 一木造 平安時代中期(12世紀)

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この像は鳥羽院の時(12世紀初)大宰府大弐長実の寄進と伝えられるが、それに相応しい平安時代の定朝様式を持った如来像である。この時代は菅原道真の進言によって遣唐使が廃され、それまでの唐文化の流入に変わって日本文化が盛んになっ時代であり、仏教もまた自己内証によって悟りを開く密教から、ただ仏にすがって現世に浄土を具現しようとする他力的な浄土思想に心を傾けた時代である。定朝様式の阿弥陀仏の美しさが見られる。四天王は仏法の守護神で本尊の四方に立つ。その配置は本尊に対し、東から右回りに置かれる。東ー持国天、南ー増長天、西ー広目天、北ー多聞天の順である。武神であるから甲冑に身をかため、武器を持ち、邪鬼を踏んで威力を示している。この四天王は平安時代中期の作で、穏健で力に溢れた作である。私は、個人的には、この阿弥陀如来坐像等は、今は無い金堂に納められていたのではないかと推測している。

 

観世音寺の仏像は、概して巨大であり、圧倒される思いがする。木彫では、日本でも珍しい大きさである。何故、圧倒する巨大さが必要であったのだろうか?その理由を自分なりに考えてみた。一つは、この大宰府の土地が、古代日本の大陸(支那、朝鮮)に対する窓口であり、大陸文化に対して虚勢を張る必要があったからではないだろうか。支那、朝鮮の進歩した文化に対し、日本も負けるものでは無いという、一種の気負いを感じるのである。もう一つは、日本国内で京都(みやこ)文化に対し、西海道の文化は聊かも劣るものでは無いという,これも一種の虚勢であったろう。しかし、そんな虚勢を張らなくても、太宰府は、日本(京都、鎌倉)の外交、軍事、文化の先進的な場所であり、江戸時代の長崎、明治時代の横浜のような外国文化や外交情報をいちばん最初に吸収する場所だった。ここで、古代日本の大陸に対する歴史を述べて、仏像の巨大さの原因を考えてみたい。最明6年(660)7月、百済は唐によって滅ぼされ、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に難波を出て筑紫へと向かった。そして3月には那大津に上陸して、盤瀬行宮に入る。さらに5月には朝倉橘広庭宮へ遷り、朝鮮半島への派兵の準備を進めるが7月に死去した。そして663年8月、百済復興を目的とした倭軍は、朝鮮半島南部の錦江河口で、唐・新羅の連合軍と戦った。世にいう,白村江(はくそんこう)の戦いである。倭軍は大敗し、この年の9月、百済は完全に滅亡した、この敗戦によって唐・新羅軍の海路を超えた侵攻は現実的なものとなった。「日本書記」によれば、天智3年(664)に、「白村江の敗戦によって唐・新羅の脅威にさらされた倭は、有事に備えた伝達手段として烟(けむり)や火をあげる烽火(のろし)を整備し、また西海防備のための防人を置いて外敵の侵攻に備えた。そして百済の亡命官人の指揮のもと、水城(みずき)、大野城など、太宰府の防衛施設」を造営している。まさに「大宰府羅城」と呼ばれた、西方の防備施設であった。観世音寺が完成する746年に対し、83年前の事件であったが、この唐・新羅連合軍に対する恐怖心は、癒されるものではなく、単なる虚勢のみではなく、「大宰府羅城」の一環であった可能性も高い。大野城や水城をを見ると、1350年前の、倭の防備の姿が見える。それほどまでに,支那大陸や朝鮮半島に対する、備えが必要であったのである。かかる国際的な危機の後で作られた観世音寺は、日本にはかって存在しなかったような巨大な仏像群が必要だったのであろう。そうすると、虚勢ではなく、倭の「偉大さ」を示す、「実力の存在」を表すモニュメントであったのであろう。

 

(本稿は、図録「観世音寺」、杉原敏之「遠の朝廷」、五木博之百寺巡礼「第10巻四国・九州」、五味文彦他「山川日本史」、原色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」「日本書記」を参照した)

大宰府  観世音寺  お堂と塔跡

西海道における文化の中心地であった大宰府には、拠点となる多くの寺院が建立された。このうち、観世音寺、筑前国分寺、同尼寺などは、太宰府を支える護国の寺であった。中でも観世音寺は、府の大寺と呼ばれた西海道随一の寺であった。「続日本紀」の和同2年(709)2月に元明天皇が「天智天皇が斉明天皇のために、誓願した筑前観世音寺の造営が開始されたが、その後、年を重ねながら、今に至るまで造営されていないので、速やかに造営を遂げよ」という詔を出された。この記録から、観世音寺は、斉明天皇7年(661)に朝倉橘広庭宮で急逝した斉明天皇の追福のため、息子である天智天皇によって発願されたことがわかる。しかし、発願から建立までには、じつに80年以上かかっており、実際には伽藍の造営が完了したのは天平18年(746)であった。さらに天平宝字5年(761)には、西海道諸国の僧尼に戒律を授ける戒壇が設置された。東大寺、下野薬師寺とともに天下の三戒壇の一つとなった観世音寺は、名実ともに、西海道随一の権威を誇る府の大寺となった。だが、観世音寺はその後、幾度もの火災や様々な災難によって焼失してしまう。創建時の伽藍はすべて失われ、現在は、日本最古と言われる梵鐘と、江戸の初めに再建された講堂と戒壇を残すのみである。

観世音寺の石碑

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観世音寺の石碑が右側に立つ、何時の時代かは知れない。

南大門跡

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観世音寺の南大門の跡に碑が立っている。1360年前の南大門跡である。

観世音寺伽藍絵図        室町時代 大永6年(1526) 観世音寺蔵

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観世音寺の伽藍は、東に五重塔、西に東面する金堂、中央北の講堂に中門から伸びる回廊がとりついている。そして、その背後に大房を配している。戒壇院は廻廊の外側の寺院であろう。(この絵図には記載が無い)観世音寺伽藍の大きな特徴は、金堂が東を向いている点である。この正面に講堂、東に塔、西に東面する金堂からなる伽藍配置を”観世音式”と呼ぶ人がいる。この伽藍配置は、飛鳥の川原寺、近江崇福寺、陸奥多賀城廃寺などにある。斉明天皇にゆかりのある寺院や朝廷が関与した国家的な寺院に採用されることがわかる。長い僧坊は,僧の宿泊施設であり、往時の研修僧が多かったことを偲ばせる。

講堂                    江戸時代前期

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一時は廃絶状態にあったこの寺を甦らせたのは、黒田藩の力だったそうである。代々の藩主と、博多の豪商である天王寺屋らの支援で、伽藍の整備が行われて、観世音寺はかろうじて復興したのである。講堂は、観世音寺の本堂に当たるお堂である。創建時の講堂は、現在の2倍以上の広さを持つ巨大な建物だったという。現在の観世音寺は天台宗になっているが、当初は戒壇があった関係で、「八相兼学(はっしゅうけんがく)の寺」と称されていた。天台宗の寺になったのは、明治以降のようである。もともと観世音寺は観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という寺名がついたのであろう。むしろ「観音信仰の寺」といった方が分かり易いだろう。

鐘楼(しょうろう)      江戸時代初期

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黒田藩の援助によって造営された建物であるが、この鐘は、現存する日本最古の銅鐘(どうしょう)として名高い。創建時の唯一の遺品である。

国宝  梵鐘(ぼんしょう)     白鳳時代

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観世音寺のながい歴史の間に創建時代の寺宝のことごとくが失われた中にあって、この鐘だけが1300年以上の歴史を誇り、挽歌を奏している。この鐘には文武2年(698)の銘を持つ、日本最古の有銘鐘である京都妙心寺の鐘とその大きさ、様式が最もよく似ており、同じ時代に製作されたものと言われている。しかも妙心寺の鐘は「粕谷」の銘があり、これが九州福岡県粕屋の地にあたる。観世音寺の鐘は無名鐘と言われていたが、この鐘に「上三毛」の銘が発見され、これが豊前の国にある地名であることがわかった。又、この鐘の音響については荘重な音で昔から親しまれている。今でも、年末の百八の鐘は、この鐘がつかれ、テレビでも放映されることがある。

五重塔心礎

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鐘楼の手前に、五重塔の心礎(しんそ)がある。これは、かってここに立っていた五重塔の中心の柱(心柱)を支えていた「心礎」と呼ばれる礎石である。その大きさには驚かされる。当時の五重塔の壮大なすがたが偲ばれる。

戒壇院             江戸時代

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戒壇院は、江戸時代まで観世音寺の堂宇の一つであったが、明治以降独立して臨済宗妙心寺派の寺になった。鑑真が、天平勝宝6年(754)に東大寺に戒壇をもうけた。それ以来、国家公認の僧侶となるためには、東大寺の戒壇まで行くのはあまりにも遠くて大変であった。そのため天平宝字5年(761)には、この大宰府の観世音寺と、下野(しもつけ)の薬師寺にも戒壇院を設けられた。これが「天下の三戒壇」である。九州や四国、中国地方にいて仏門に入ろうと若者たちは、みなこの大宰府の戒壇に集まったのである。一遍上人が、四国からわざわざ大宰府に来た理由が分かったような気がする。戒壇に登壇するまでの過程は大変なものであったらしい。誰でも戒壇を受けられる訳ではなく、いくつもの難関を突破して、戒壇院に授戒を申し込むことが出来た。1年のうちで授戒がおこなわれるのはわずかに八日間のみで、中国の科挙の試験のように、大変競争率の高い難関だったようである。その代り、ここで合格すると正式に官僧となり、将来の仏教界での栄達が期待できることになる。天下の三戒壇の中では、現在、ここが一番奈良時代の面影を伝えていると言われる。

宝蔵(収蔵庫)          昭和時代

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講堂等に仏像を配置すれば、保存状態が悪く傷みが激しくなるので、境内の一角に宝蔵が新設され、重要文化財に指定されている巨大な仏像類は、ここに保存されている。

大宰府政庁跡の礎石と碑        奈良時代

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正殿跡の礎石は平安時代の再建時のままで、柱座の経は60cmを超える。その上に建つ3基の碑、背後の大野城とともに大宰府政庁を象徴する景観である。近年の研究で大宰府に条坊があり、観世音寺は(縦)左郭七房、八房、(横)二条,三条に位置することが明らかになった。大宰府政庁の真中を走る道は、朱雀大路と言われていた。

 

観世音寺の歴史は古く、奈良時代まで遡ることができる。古さという点では、九州だけでなく日本全国の寺の中でも指折りの寺である。かって、この地には大宰府政庁があり、勉学の施設があり、外交、軍事の拠点として重要な役割を果たしていた土地である。大宰府は、後世の長崎や横浜のような東アジア全体の文物の交流の渦の中にあり、日本でも最も支那大陸や朝鮮半島に近い場所であり、最新の情報が流れる地であったのである。

 

(本稿は杉原敏之「遠の朝廷」、探訪日本の古寺「第15巻九州・四国・沖縄」、五木博之「百寺巡礼第10巻四国・九州」「続日本紀」を参照した)

大原美術館  日本の近代洋画

大原美術館は、昭和5年(1930)、大原孫三郎氏の手によって開館し、わが国最初の西欧絵画の美術館が誕生した。昭和10年(1935)に、財団法人に改め、戦後も蒐集を続けた。戦後新たにセザンヌ、ドガ、シスレーなど19世紀絵画や、ピカソ、ルオー、ブラックをはじめとする20世紀のエコールド・パリの巨匠たちの作品を加え、更にカンディンスキー、キリコ、ニコルソン等の現代絵画までに及んだ。これと前後して明治、大正,昭和の三代に亘る近代日本の洋画の代表作品も併せて蒐集した。昭和35年(1960)に開館30周年を記念して新館を設立し、古代エジプト美術品やペルシャ美術陶器などを陳列した。更に昭和36年(1961)には、陶器館を建設し、バーナード・リーチ、宮本健吉、河井寛次郎、浜田庄司のいわゆる民芸作家の陶器類を陳列し、更に昭和45年(1970)には東洋館、47年(1972)には児島虎次郎館を増設した。今回は民芸、版画、染色、古代美術の紹介は省略する。

和服を着たベルギーの少女  児島虎次郎作 油彩・カンヴァス  1911年

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児島虎次郎は1902年に東京美術学校西洋画予科にに入学し、黒田清輝に学んだ。この年、大原家の奨学生となり、1歳年長の孫三郎との親交も始まった。この作品は、ベルギー時代の児島の代表作である。明るく鮮やかな色彩と躍動感あふれる筆遣いは、児島が指導を受けたエミール・クラウスによるベルギー印象派の影響を示している。画面には、少女の髪や顔に施された細かい筆触や、着物の柄を模した闊達な筆触、また帯に見られるペインテイング・ナイフの使用など様々な技法が用いられている。本作品は快心の出来映えであり、フランスの国民美術協会展で初入選した。

男の顔  青木繁作  油彩・カンヴァス   1903年

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明治44年(1911)に僅か29歳で世を去った青木繁は、明治の洋画壇に特異の画風を残したまことに天才と呼ぶに相応しい画家であった。「男の顔」は明治37年(1904)美校を卒業する年に制作したもので、自画像ではあるが、彼はこのなかにジンギスカンのような東洋的英雄の風格を表現しようとしたらしい。暗い背景のなかから浮かび上がる表情には、幻想的なロマンチックな情熱に憧れた多感な青年の夢がある。

雲のある自画像  萬鉄五郎作  油彩・カンヴァス   1912年

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大正期の日本洋画壇はフランスのフォービスムやキューヴィスムが相次いで紹介され、多くの画家がその洗礼を受けることに成るが、それの運動を最も鋭敏に把握したのが萬鉄五郎であった。萬鉄五郎の芸術は、大正期を通じてもっともユニークで本質的な新しさをみせたので、その足跡は鋭敏な観察力と高い叡智と情熱とをもって、近代絵画の正しいコースを示し、昭和期の日本洋画への大きな発展の道を開いたものと言える。本作品は、初期のフォービスムの影響を受けたところのある作品である。強烈な色彩の対比や奔放な筆致のなかに、新鮮な風をいっぱい吸い込もうとする彼の自由な若々しさがあふれている。

重要文化財 Nの家族  小出楢重作  油彩・カンヴァス  1919年

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小出楢重は佐伯祐三とともに大阪の生んだ最も傑出した画家でああった。大阪に生まれ、芦屋で亡くなった典型的な関西人に気風を持つこの画家は、大阪人の粘っこい体質と気質とを、油絵独特のマチェールや造型のなかに余すところなく表現した。大正8年(1919)彼の出世作ともなった「Nの家族」を描き、二科展に出品して樗牛賞を受け、その才能を認められた。彼自身とその妻子を描いたこの作品は色彩を渋く暗い調子でありながら、セザンヌの影響を思わせる堅固な安定した粘りのある作風を示している。

重要文化財  信仰の悲しみ  関根正二作  油彩・カンヴァス 1918年

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大正期と言う時代は、きわめて特異で個性的な画家、いわゆる異色の画家と呼ばれた人たちを生んだ。萬鉄五郎、村山槐多、関根正二などがその代表的な画家であるが、わけても関根は異色な存在であった。明治32年(1918)福島県に生まれ、僅か20歳で亡くなった。「信仰の悲しみ」は彼の代表作で、その芸術的意図や素質のすべてこの作品のなかに凝集されている。この頃彼は強度のノイローゼに悩まされいたが、ある日、日比谷公園に休息していた彼の前を共同便所から出てきた4,5人の女たちが通り過ぎるのを見て、不思議な幻想にかられて描いたという。朱や青や黄の衣をつけた女たちが髪をたらし、うなだれて、暗く重苦しい空の下を黙々と歩む。鮮やかな色彩が陽炎のように燃えて,観る人を幻想的な世界に引き入れる魅力を持っている。関根は当初「楽しき国土」と題していたが、友人から逆の評を得て「信仰の悲しみ」に変更した。関根は、この絵について、次のように述べている。「朝夕孤独の寂しさに何者かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです。あれは未だに完全に表現できないのです」と。本作品を気に入っていた大原総一郎は、「関根の数少ない絵の中でも傑作だがら、大切にするように」との言葉を残している。(図録より引用)

頭蓋骨を持てる自画像  中村彜(つね)作  油彩・カンヴァス 1923年

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明治末から大正期にかけて日本の洋画画壇には多くの傑れた画家が生まれた。中村彜もその一人であった。優れた才能を持ち、文字通り絵画に生命を賭けて37歳の若さで倒れたこの画家の生涯は短かったが、その残した仕事は日本洋画史上に不滅の光を放つものである。本作は死の前年である大正12年(1923)の作である。すでに自己の死を予感したごとく彼は髑髏(どくろ)を題材とした作品を描いている。ここにはセザンヌとゴチック建築の影響がある。彼は抽象的な方法を試みている。この病弱な画家が死に直面しながら渾身の力を振り絞って掻き上げたまことに力動感に溢れる作品である。

広告”ヴェルダン” 佐伯祐三作  油彩・カンヴァス  1927年

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1917年に大阪より上京した佐伯は、川端学校で藤島武二に師事、翌年に東京美術学校予備科に入学した。1923年に妻子とフランスへ出発。翌24年の夏、里見勝蔵に連れられモーリス・ド・ブラマンクを訪れた「アカデミック」と批判されて転機を得た。この頃の佐伯はヴラマンクの強い影響が残っていたが、佐伯は、パリの街、裏街風景に向かい、太い筆触やや技法はヴラマンク的でありながら、ヴラマンク的な激しい劇的な自然の解釈から退いた、ユトリロ的な静かなピトレスク的な解釈に向かい、佐伯の人間的な生活的な哀愁深まる画面となっていく。本作品は佐伯祐三にしか見られないパリの裏町の、ちぎれそうになったポスターの一杯貼られている壁の、沈鬱な哀愁に翳る画面となっている。VERDUNとは、大一時世界大戦でフランス軍がドイツ軍の猛攻を防いだ街の名である。パリの裏町風景を美しいと思う佐伯の伝統をついでいるのは荻須高徳(おぎすたかのり)である。

舞踏の前  藤田嗣治作  油彩・カンヴァス   1925年

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20世紀前半のパリ画壇では、マチス、ルオー、ブラックらの純粋なフランス人画家と、ピアソ、モジリアーニ、シャガール、藤田などの異国の画家たち(エコールド・パリ)が、それぞれの個性的な仕事で、その美を競っていた。藤田は独自の東洋的技法でパリ画壇の寵児となった。藤田は、東洋的な技法(むしろ浮世絵風と呼んだ方が正しいかも知れない)をヨーロッパの伝統的な油絵の中に取り入れることを試み、面相筆の細い線で形を包み、淡い墨をぼかしたマチエールで、いわゆる「乳白色の地肌」を作り上げたが、これが繊細優雅を好み、エキゾチズムに憧れた当時のパリの人達に大きな声望を博し、彼は一躍パリの流行児となった。本作は、藤田の最高傑作と言われた。この作品には乳白の肌と黒い線と、ほのかな黄、青、ピンクなどの抑制された色彩とが完璧に調和して、彼の技法がここに凝縮されている。

深海の情景  古賀春江作  油彩・カンヴァス   1933年

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古賀春江は大正末期から昭和初期にかけて立体主義、シュールレアリスムを反映させた日本人画家としては特異な存在であった。本作品は、彼の死の年に描かれた作品で、深い海の底のさまざまな魚や海草が揺れ動き、この画家の不思議なイメージを展開している。動物の顔をした白い生物はグラフ雑誌の舞踏に関するページから、深海の不思議な生物は、少年雑誌から転用したものである。本作品の完成時には、すでに古賀の衰弱は激しく、友人の高田力蔵がサインを代筆したと伝えられている。

被毛氈  満谷国四郎作  油彩・カンヴァス   1932年

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満谷は明治44年(1911)秋から二回目の渡欧を果たし、パリではローラスに師事した。またセンザンヌやルノアールの影響を受けたと言われてる。彼が、この二人の巨匠からその芸術の本質をどの程度学んだかは疑問であるが、彼はセザンヌから画面構成や表現方法を、またルノアールからは装飾的な効果を学んだものと思われる。しかし、この二人からの影響は満谷の後期の装飾的な東洋風の様式へすすむ動機となったことは、彼にとっては極めて重要なことであった。本作品は昭和7年(1932)の制作で、満谷国四郎の晩年を飾る傑作として知られている。黄,朱、黒などの極度に単純化された色彩と簡潔な構図によって、彼の晩年の東洋画風な様式がよく示されている。ゆるやかな情感がただよい,観る人をしみじみとした雰囲気のなかに誘ってくれる。

孫  安井曽太郎作  油彩・カンヴァス    1950年

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安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和の洋風画壇の重鎮として活躍した。彼が梅原と同年の明治21年(1888)に同京都に生まれ、よきライバルとして、またきわめて対照的な個性や画風によって常に画壇の中心的な存在であった。本作は昭和25年(1950)の制作であり、彼の晩年を飾る傑作である。自分の肉親を描いただけに、のびのびとした自由な雰囲気と、生き生きとした情感にあふれている。安井芸術の特質がここに結集されているように見える。

耕到天   藤原武二作   油彩・カンヴァス   1938年

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昭和13年(1938)に制作され、その年の第二回文展に出品されたもので、藤島武二の晩年を飾る傑作である。積み重なって天に迫る自然の壮大さと、緑の麦畑と茶の山畑と咲き乱れる花の色彩が交錯して続く装飾的な効果とが、力強い筆致と大胆な構図によって十分に表現され、晩年の円熟した力量が画面の中に感じられる。彼は明治、大正、昭和の三代にわたり日本洋画の発展とともに常に革新的な道を歩んだ画家で、洋画壇に残した足跡は極めて大きい。「耕到天」(耕して天に到る)とは、貧しさを語る言葉であるが、この画面にはたゆまざる勤労のたくましさと豊かな自然を感じさせることは、この画家のなみなみならぬ力量を示すものである。

 

日本の近代洋画を所蔵する美術館は、国立近代美術館、神奈川県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館、大原美術館の5大美術館をおもい起すが、この中で、特に、質,量を誇る美術館は大原美術館だと思う。いずれ劣らぬ美術館であるが、大原美術館は、歴史、資力、選定力で群を抜く力を示す。特に大原美術館は、倉敷にあり、関東でない点を高く評価したい。西日本の近代日本美術を愛好する方には、欠かせない美術館である。今回、たまたま月曜日の午後に時間が出来て、開館している美術館を調べたら、国立新美術館に、大原コレクションを展示していることを知り、10数年ぶりに観覧することが出来た。展覧品には、古代エジプト、中国、21世紀美術品、民芸等多数の展示品があり、興味深く観覧したが、取りあえず西洋、近代日本の洋画を2回に亘り、書き綴った。更に大原美術館に行く機会に恵まれたら、他の分野も取り上げてみたい。

 

(本稿は図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

大原美術館   西洋の近代絵画

国立新美術館において「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」が16年1月8日より4月4日まで開催されている。大原美術館は、西洋近代絵画、日本近代絵画、オリエント・中国古代美術品、現代、21世紀の美術品に至るまで、幅広い取集で知られている。大原美術館は岡山県倉敷市に1930年(昭和5年)に開設され、日本では最初の私立美術館となり、今日でも西洋近代美術品では、国立近代美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館と並んで、4大美術館の地位を確保している。創業者の大原孫三郎氏は、児島虎三郎氏、満谷国四郎氏などに協力を依頼し、100年以上に亘って取集活動を続け、幅広い分野での美術品取集を現在でも続けている。日本近代絵画では、重要文化財2点も所有しており、年間100万人以上の入館者を誇っている。大原孫三郎氏は「倉敷紡績」(現在のクラレ)の経営者であり、大原社会問題研究所、大原農業研究所、労働科学研究所など幾多の文化事業を残し、中でも美術館が一番自分の負担になったと述懐されたそうである。私は、近代絵画の勉強のため10回以上大原美術館を訪れ、どれほど多く勉強させてもらったか知れない。岡山、広島等への出張を利用して訪れたものである。

受胎告知   エル・グレコ作  油絵  1590~1603年

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「エル・グレコ」とは古いスペイン語で「ギリシャ人」を意味し、画家がクレタ島出身であることに由来している。この作品は、古くから1600年前後の作品と解され、紫がかった朱,黄の強烈な色調や、暗い背景と輝くような光芒の激しい明暗の対比、マリヤや天使ガブリエルの長く引き伸ばされた彼独特の変型は、彼がイタリアで学んだヴェネチァ派やミケランジェロの影響の名残があるが、ここではもはやグレコ独特の様式であり、スペイン的感情がある。1922年にパリ画廊で売りに出されたのを児島虎次郎氏が見つけ,高額であったが大原孫三郎氏に打診し購入に至った。大原美術館所蔵のうち唯一のオールドマスターズによる作品である。

幻想  シャバンヌ作  油絵   1866年

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高い崖を背景にした森の中で、腰掛けたニンフがペガサスーこの羽翼の馬は一般的に幻想の象徴ーを捉えようと葡萄の蔓を投げ、その近くで子供がリースを作っている。女性のポーズはアングルによって古代ローマの壁画にあるモチーフを思い起こさせる。牧歌的な雰囲気を作りだし、古代の神話へいざなうシャバンヌの力を<幻想>は、典型的に示すもので、1866年のサロンでは大きく注目を浴びた。(この「幻想」は2014年3月の「美」の「水辺のアルカイダ」で取り上げている)

アルプスの真昼  ジョヴァンニ・セガンティーニ作  1892年

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この作品は1892年、すなわちセガンティニの中期の終わり頃のもので、彼の全作品の中でも傑出した名作である。彼は印象主義の理論と技法をグラビティから教わり、この作品にも新印象派の色彩分割の技法が余すところなく用いられている。単なる模倣ではなく、自己の中に吸収しつくしている。セガンティーニは自分の妻子、ごく少数の理解者以外に、殆ど親しく交わる人も無く孤独であった。この作品は、明るく輝く陽光の下にたたずむ羊飼いの娘の平和な姿に、表面的な描写以上に、彼の宗教的な自然観が窺える。都会を嫌悪してバルビゾンの村に閉じこもったミレーの心境に似通ったところがある。

泉による女  オーギユスト・ルノワール作    1914年

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ルノアールがこの「泉による女」を描いたのは亡くなる5年前、すなわち彼の73歳の時で、最晩年の作品である。老齢でしかも身体の不自由なルノアールがこのように瑞々しい豊麗な裸婦を描いたとは誰も信用しないほどである。ルノアールの所謂「乾いた時期」が数年続くが,晩年には再び豊麗な色彩が甦り,彼独特の画風が確立された。彼は印象派の光としての色にこだわらず色彩そのものの価値を自由に生かして輝くような画面を作り出している。若い娘の肉体の持つ豊かさ、感応的甘美さを、これほどまでに自由に描いた画家がいるであろうか。

かぐわしき大地  ポール・ゴーギャン作         1892年

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ゴーギャンは1891年、南太平洋の孤島タヒチに向けて旅立った。野性的な性格の持ち主であり、絶えず野蛮と原始への憧憬にかり立てられていた彼は、自分の魂を煩わすことのできないヨーロッパの合理的な文明生活に見切りをつけ、絶海の楽園を夢見てタヒチ島に渡った。「かぐわしい大地」は1892年に描かれた。「ここは幻想的な果樹園、その誘惑的な草木の群れがエデンのイヴの欲情をそそる。彼女の腕が恐る恐る伸びて悪の華を摘もうとし、そのとき怪鳥がの赤い翼がはためいて彼女のこめかかみをかすめ打つ。」これはゴーギャンが自ら彼の「私記」のなかに引用しているドラローシュの文の一節である。この堂々たる傑作も、93年に彼がパリに持ち帰り、オテル・ドルオで個展をしたときには誰も顧みるものはなかった。

「髪」 エドモンドー=フランソワ・アマン=ジャン作    1912年頃

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1878年にパリの国立美術学校に入学し、ポスト印象派に影響を受け、美術学校を中退。やがてアカデミックな写実的描写に印象派などの手法を折衷したスタイルを確立し、甘美な女性像を描いて人気を博した。全体的に柔らかい色調で描かれた本作品も、女性の姿が優美に表現されている。ウエーブした亜麻色の豊かな髪は、肌を露わにした上半身と相まって官能的な雰囲気を漂わせている。当時フランス画壇の重鎮であったアマン=ジャンの作品が日本の画家にとって有益と考え、本作品の購入を大原孫三郎に依頼した。送金を受けて、児島がアマン=ジャン宅を直接訪れて、作品を受け取った。この「髪」が大原コレクションの第一号である。

「マルトX夫人ーボルドー」 ロートレック作    1900年

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この絵はロートレックの最晩年の作である。彼は若い頃ベラスケススやゴヤ、アングルの影響を受けた。しかし「ロートレックに何よりも大きな影響を与えたのはドガと日本の浮世絵版画であった」とダグラス・クーパーが述べているように、1885年ごろ初めて会ったドガからはきびしいデッサンを、浮世絵版画からは色彩の単純化と簡素な表現を学んだ。この作品に描かれた夫人はモンマルトルの女ではなく、貴婦人の一人である。独特の線とすみずみまで丹念に塗られた色彩とが融合された堂々たるできばえで、彼の作品の中でも指を屈する傑作である。

「マチス嬢の肖像」  アンリ・マチス作    1918年

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20世紀前半のパリ画壇は「ベル・エポック」を背景にパリを中心とした華麗な華を開かせたが、その中でもっとも輝かしい光彩を放ったのはマチスの作品であった。1869年北仏ル・カトーに生まれた彼はパリの美術学校でモローに師事し、その後印象派や新印象派の影響を受けるが彼がもっとも感銘を受けたのはゴーギャンとゴッホの作品である。二人の影響によって20世紀最初の革命的な美術運動であるフォービズムが生まれた。この絵は、構図と色彩の単純化が追及されている。背景の青、帽子の白、顔のピンク、衣服の茶などの色彩がすべて同じ比率で、同じ強さで描かれ、巧みに組み合され調和されている。多様にして単一なるもの、秩序、調和の創造こそマチスの追及する課題である。この作品は児島虎次郎が直接マティスを訪ねて手に入れたものである。モデルのマルグットが売却を拒み、マチスが説得したというエピソードが伝わっている。

「ジャンヌ・エピュルヌの肖像」 モディリアーニ作   1919年

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10代で絵画の手ほどきを受けていたモデイリアーニは、26歳の時にパリに出てモンパルナスを拠点に活動し、藤田嗣治やシャイムス・スーテンらと交流したいわゆるエコールド・パリの画家である。本作品に見られる、全体的に細長く引き伸ばされ、目には瞳が与えられず、ほぼ正面を向いて幾分首をかしいだポーズは、モディリアーニの典型的な描き方である。肩と両腕がなだらかな曲線を描き、画面の下で手を組むことによって胴体は楕円形を構成している。円形のイメージが強く打ち出されている。描かれている女性は、画家の妻ジャンヌである。ジァンヌをモデルにした作品をモディリアーニは短い生涯においておよそ30点余り制作している。

 

倉敷の街は、江戸時代には天領であり、4公6民と言われ、税金は収獲の4割であり、豊かな生活が送られた。町衆が力を持ち、天領は日本中では400万石と言われた。これが徳川幕府の収入となり、倉敷には代官所があるのみで、諸大名の領地に較べれば、行政コストが安く済んだ。天領を実質的に動かしたのは商人たちであった。そして町の在り方は、商人たちに自治や公益性に対する意識を醸成させた。この街の持つ雰囲気と、大原美術館を創設した大原孫三郎に対する尊敬の念が、何時も私を倉敷に引きつけるのである。2010年に開館100周年を迎え、次のような使命宣言をしたそうである。

1.アートとアーチストに対する使命

2。あらゆる「鑑賞者」に対する使命

3.子どもに対する使命

4.地域に対する使命

5.日本と世界に対する使命

この5つの使命宣言は、大原美術館ならではの宣言であると思う。

 

(本稿は、図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、福島繁太郎「近代絵画」、司馬遼太郎「この国のかたち」第二巻を参照した)

伊藤若冲   動稙綵絵

江戸時代の画家を代表する尾形光琳が亡くなったのは正徳6年(1716)で、今年は光琳没後300年忌である。ところが、この同じ年、すなわち正徳6年(1716)はまた二人の大画家、伊藤若冲と与謝蕪村が生まれた年でもある。若冲と蕪村の名は、ともに同時代に刊行された人名録「平安人物志」の「画家」の項に載っている。この「平安人物志」は明和5年(1768)に初版が出て以後、慶応3年(1867)まで、計9回にわたり刊行された。若冲と蕪村の名が「平安人物志」に載るのは、明和5年の初版と、安永4年の再販、天明2年の三版の3回にわたってであり、二人はそれぞれ「画家」として登録されている。初版の「画家」のトップは大西酔月で、今日では殆ど知られていない。この画家に続いて、応挙、若冲、大雅、蕪村の四人が並んでいる。二版になると,他界した大西酔月の名は消え、応挙、若冲、大雅、蕪村と並ぶ。伊藤若冲は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(昭和44年ー1969)で突然、名を表した奇人と思っていたが、江戸時代には指折りの大画家であることを知った。同氏の「奇想の図譜」(昭和44年ー1969)もほぼ同じ時期に刊行された図書である。私が「伊藤若冲」を知ったのは、平成21年(2009年)の「御即位20年記念特別展」で、伊藤若冲の動稙綵絵(どうしょくさいえ)全30巻を見た時である。その写実力、彩色の鮮やかさに仰天した。動稙綵絵の一部をご紹介したい。(すべて三の丸尚蔵館所蔵)

芍薬群蝶図 伊藤若冲作  宝暦3~明和3年頃(1757~1766)江戸時代(18世紀)

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さまざまな花の相を見せる芍薬の花の上を、いろんな蝶の群れが飛んでいる。芍薬の花は実に生き生きと描かれているが、ほとんどの蝶は翅(はね)をいっぱいに広げた姿で空中を飛んでいる。一羽だけ花にとまり変化を見せている。本来動きを見せるべき蝶は、完全に静止しているように見える、実際に写生しているようで、どこか現実離れしている。これが若冲の写生である。同じ写生派でも、応挙はプロ、若冲はアマと評価される所以であろう。蝶の動きは別として、芍薬の花の描き方は尋常ではない。これが若冲の魅力だろうか。

大鶏雌雄図  伊藤若冲作  宝暦9年(1759)  江戸時代(18世紀)

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若冲は、若い時に狩野派に入門したが、所詮狩野派を超えることは出来ないと考え、狩野派を捨て、宗元画を学ぶことにしたが、宗元の名手と競ったところで優劣は明らかである。「物」を描いているのに、自分がそれを写していたのでは,差は隔たる一方であると考えた。とどのつまり、動稙物を観察して描く以外に方法が無いことに気付いた。ここが若冲の優れたところである。鶏を窓下に数十羽飼い、それを写すことに数年を費やした(即物写生)。若冲は鶏の絵が実に多い。この動稙綵絵の中でも何点もの鶏の絵が採用されている。ついには、鶏の画家と呼ばれるまでになった。ここに美しい羽の色を誇る雄鶏(おんどり)と、全身が真っ黒な雌鶏とを、背景も無い空間に絶妙なバランスを取って向かい合わせている。今にも動き出しそうな二羽の姿は、画家の鋭い観察眼がもたらしたものであろう。

老松孔雀図  伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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孔雀は異国の鳥だったが,羽の美しさから喜ばれ、日本にも早くから渡来して、親しまれてきた。若冲の時代には、京の祇園の孔雀茶屋というものがあり、容易に実物を目にすることができた。このほど存在が確認された「孔雀鳳凰図」(双幅)は、この動稙綵絵の老松孔雀図と図柄が似ているとのことである。この所蔵者は、安芸広島藩浅野家12代当主である浅野長薫氏であった。若冲の絵の来歴の中で、「武家と直接的な関わりを示す作品は聞いたことが無い」というのが一般論だった。若冲は、自分の描いた絵を売る必要が無い優雅な身分であったため、その作品の多くは臨済宗や黄檗宗の寺や寺社に納められるか、商家に伝わったと見られる作品が大半である。浅野家と若冲の由来は不明であるが、大名家が所蔵したのは、この作品が最初であり、いずれその理由が明らかになるだろう。

老松鸚鵡図  伊藤若冲作          江戸時代(18世紀)

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まるで大蛇のような松の木に二羽の鸚鵡(おうむ)がとまり、奥の枝には緑色のインコも加えられている。当時、身分の高い人や裕福な商人の間で、このような異国の鳥を飼う趣味が流行っていたが、普通は鳥籠のなかで飼って鑑賞したものである。このように戸外で放し飼いすることはありえなかった。渓流沿いの自然環境の設営は、空想の絵空事として喜ばれたのであろう。

梅花群鶴図  伊藤若冲作         江戸時代(18世紀)

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花の開いた梅の木のかたわらに、鶴が体を寄せ合い、思い思いの方向を向いている。一見5羽に見えるが、足が11本見えるところから6羽のようである。鶴の描写は中国画から学んでいるが、それを群れとして描いているところが、若冲独特の感覚であり、誰の真似でもない。魅力的な作品である。

群鶏図   伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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彩絵の中で9図を占める鶏連作の集大成ともいうべき作品である。全部で何羽の鶏が描かれているか、判らないが鶏冠(とさか)の数で、ようやく13羽と確認できる。若冲の観察力と想像力、装飾的才能がみごとに融合している傑作である。余談ながらブログに絵画を取り込むためには、1MK以内に縮小する必要があるが、この群鶏図は3KM以上の濃さがあり、縮小するのに一番手間がかかった。顔料が多く、かつ西洋渡来の染料も用いられていたのではないかと推測している。

貝甲図(ばいこうず)  伊藤若冲作        江戸時代(19世紀)

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この絵は貝尽くしを試みたもので、潮の引いた浜辺にさまざまな種類の貝が集められている。自由に装飾と空想を加えた形と色の千変万化が見られる。甲は殻の意味で、これほどの形や色や大きさが異なる貝殻の知識を、どこから、誰から仕入れたのであろう。正に博物学の世界である。18世紀後半の京都市民が生んだシュルレアリスムである。マニアックで、非現実的光景である。

諸魚図   伊藤若冲作            江戸時代(18世紀)

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魚だけを集めて描いた魚尽くしの絵である。右上から左下に向かって泳ぐ魚たちの群れを横から描いたもので、大小の蛸が主役の役割を果たし、見事な鯛が目だって大きく描かれている。鯛の左下前方を泳ぐルリハタという魚には、当時ヨーロッパから伝わったばかりの絵具、ベルリンブルーが使用されている。鎖国当時の京都にいて、外国文化への関心や好奇心が強い若冲であった。

 

 

若冲は京都錦小路通にあった青物問屋「枡屋」(ますや)の長男として生まれた。23歳のときに父親が亡くなったため、四代目枡屋源左衛門として青物問屋を継いだが、若冲がいつから絵を習い始めたかは不明である。ただ、若冲が明和3年(1766)に造った寿蔵(生前墓)に刻された銘文によれば、当初は狩野派の絵師に学んだとする。40歳で家業を次男・宗厳(そうがん)に譲って以降、絵の制作に没頭していった。基本的に注文によって制作する他の画家と違い、若冲は隠居後も、生家の経済的援助を受け、良質な絹・紙・顔料などを贅沢に使い、自分自身のために絵を描いていったと考えられ、相国寺や大雲院、正伝寺などの代寺院の什宝を写す機会に恵まれた。

若冲の代表作である動稙綵絵30幅の制作は、宝暦7年頃から画き始め、明和3年(1766)には完成していたと考えられる.若冲は42歳頃から約10年の歳月を掛けて完成したものと推定される、この大作は、若冲が精神的にも、経済的にも、最も充実した時期に描かれたものである。この絵は、釈迦三尊像とともに相国寺に寄進した仏画であるが、その鮮やかさ、意表をつく荘厳さで評判となり、若冲の名を高めた。若冲の言葉「千栽具眼の徒を俟」は、自分の絵を理解する人が現れるまで千年待つという意味で、その言葉通り、さまざまな技法や表現駆使しており、若冲の作品は、時を超えて多くの人をひきつけてやまない。

「動稙綵絵」30幅は、明治22年(1989),下賜金の返礼として相国寺から皇室へ献納され、現在宮内庁の保管となっている。これは法隆寺の小金銅仏と同じ形であり、下賜金(1万円)の名目で,皇室が徴収したものと私は理解している。(時価に換算すれば、何十億円の価値であろう。明治政府も”えげつないこと”をしたものだと思う。)もっとも法隆寺側は「宝物が寺外の各所に散逸ししまい、一括の宝物として維持することが困難になるという予想は十分にあった」とし、下賜金をもって「伽藍などの修複、整備も緊急の課題であった」とも述べているが、私は後から付けた理屈に見えてしょうがない。(以上はすべて私感であり、実際にどのような想いがあったのかは知る由もない)

 

 

(本稿は図録「御即位20年記念特別展  皇室の名宝1 2009年」、図録「生誕300年同い年の天才絵師 若冲と蕪村  2015年」、図録「岡田美術館名品選 2013年」,辻惟雄「奇想の系譜」,辻惟雄「奇想の図譜」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、澤田弘子「若冲」、図録「特別展 法隆寺献納宝物」、日経新聞2016年3月4日記事を参照した)

ボッティチェリ展

サンドロ・ボッティチェリがフィレンツェに誕生したのは、1445年であった。イタリアで1400年代の都市国家フィレンツェの経済的興隆と、それとともに展開していった文化、なんずく美術、工芸作品、絵画が、最も美しく開花した時代であった。産業活動の面で、1400年代に典型的な成功例がメディチ家であった。「祖国の父」と称されたコジモ・メジチ(1389~1464)の時代には、「大アルテ」と呼ばれていた同業組合の力が、土地貴族階級の力を凌駕するに至った。つまり農村に対し都市が優位を誇り、商工業を経営する都市のブルジョアが政治を動かす力を担うかたちになってきた。その中心人物がコジモ・メディチであった。フィレンツエは共和国であったが、彼は政治の中心的地位に立とうとはしなかった。政治を動かす組織はメデェチ家一統に占められていた。ボッティチェリが誕生した頃、コジモ・メディチは55歳となっており、彼の権勢がまさに安定期にあたっていた。ボッティチェリの父は皮なめしの職人であり、15歳になった息子のサンドロが当時活躍の最盛期を迎えていたメディチ家の信頼も篤いフラ・フィリップ・リッピ(1406~1469)に弟子入りしたのは、当然のなりゆきであった。師の寵愛を受け,師の没後には、その息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)を弟子として一流の画家に育て上げた。フィレンツェを中心とするトスカーナ地方は、新たな遠近法の発明とヴェネチェアにおける複式簿記の発明(ルカ・パツィオロ)との関係は強調されるべきであろう。ボッティチェリと言えば、私は中学時代に親しんだ世界美術全集の彼の「ヴィーナスの誕生」や「春」を思い浮かべる。(今回は2作品とも出展されていない)ヴィーナスは、海の底から生まれ、貝に乗り、春風の息吹に送られて、いまにも岸辺に着こうととしている。さざ波の模様化された美しさ、いまにも消えそうなヴィーナスの身体と風に吹き流される金髪。長い中世の暗い絵画に比較して、何と明るい絵画だろうと思い、これこそルネサンスの象徴だろうと思ったものである。この展覧会は、東京都美術館で16年4月3日まで開催されている。

ラーマ家の東方三博士の礼拝 サンドロ・ボッティチェリ作 1475~76年頃

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この作品はボッティチェリの手になる「東方三博士の礼拝」図としては、最も名高い作品である。この作品では、地面が奥に向かって傾斜することにより、図面上半分に厩(うまや)が設定されている。この結果聖母子が一段高いところに描かれることになり、ピラミッド型構図になっている。小振りな板絵ながら、堂々たるモニュメンタリティを獲得している。ここに登場する人物は、メディチ家の人々であり、画面左端の黄色いガウンをまとった男はボッティチェリの自画像である。

聖母子(書物の聖母) サンドロ・ボッティチェリ作 1482~83年頃

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聖母が幼児イエスを膝に抱いている。聖母の伏し目がちな顔は思いにふける表情を湛えており人類救済のためにわが子に運命づけられた来たるべき受難を予知しているようだ。幼児の右手は、書物の上に置かれた聖母の右手に重ねられ、母子の親密さをうかがわせる。この書物は祈祷書とみられるが、完全には判読できない。キリストは左手に金鍍金された3本の釘を持ち,茨の冠を腕に通し、将来の受難を予知している。本作は極度に緻密に仕上げ、金箔やラビスラズリなど高価な材質の多用から、当時人気の量産された個人の礼拝用絵画に属するが、極めて重要な注文による制作だったことが推測される。

聖母と4人の天使(バラの聖母) サンドロ・ボッチィチェリ作 1490年代

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本作品はトレンドと飛ばれる円形のフォーマットに聖母とキリストや天使たちを描いたもので、周りに極めて豪華な額縁が用いられている。本作の画面には、いくつかの花が咲き、まだ蕾のままのバラの高い茂みの前に設定されている。通称「バラの聖母」は、これらのバラに由来する。画面の中央には跪く聖母マリアが位置し、彼女は手を合わせて小さなイエスの方を向く。イエスは母の方に手を伸ばす様子で、二人の天使広げる布で支えられている。マリアの後ろにも二人の天使がいる。個人的な礼拝に用いられていたものであるが、1631年にトスカーナ大公フェルデイナンド2世の時に、古物商から購入されたものである。

美しきシモネッタの肖像 サンドロ・ボッティチェリ作 1480~85年

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シモネッタ・ウエスブッチは、結婚前の名前をシモネッタ・カッターネオといい、1454年にジェノヴァ近郊の港町ポルト・ヴェーネレの富商の娘として生まれた。1468年頃にレンツェのマルコ・ヴェスプッチと結婚したが、1476年に若くして世を去った。本作品は、フィレンツェ一番の美人とされたシモネッタを理想化し、美しい女性の常套表現として描いたものである。このシモネッタの肖像は、彼の描く女性像に、共通する特徴がある。それは面長で目鼻立ちが似ている。もし、彼の近辺にいた特定の女性がモデルならば、正にこの「美しきシモネッタの肖像」の本人ではないだろうか?日本に渡った、唯一のボッティチェリの作品である。(丸紅の保有である)

書斎の聖アウグスティヌス サンドロ・ボッティチェリ作 1490~94年頃

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本作品では丹念で精緻な描写がおこなわれている。聖人は、向って左に書棚がカーテン超しに見える、ヴォールト天上の狭い僧坊に正面向きに座り、鵞鳥ペンを手に本に書き付けている。机の下には書き損じの紙屑と鵞鳥の羽が散らばっている。この場面設定の異例の遠近法的な効果や労を惜しまぬ精緻な細部描写は、ボッティチェリの光学的な妙技と教養ある知性に帰されるという。

磔刑のキリスト サンドロ・ボッティチェリ作  1496~98年頃

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本作品は、十字架上で処刑されるキリストの姿を表したもので、十字架とキリストの体に沿って切り取られた板の側面に描かれている。本作品の描かれた時代のプラートでは、1496年にサン・ドメニコ聖堂でジローラモ・サボナローラが説教を行ったことが知られている。サボナローラはドメニコ会修道士であり、15世紀末のフィレンツェを中心として活躍した。メディチ家時代のフィレンツェの華美な文化を批判し、1949年のメディチ家のフィレンツェ追放以後は政治的にも大きな影響力を持った。この時代のボッチィチェリの作品には、サボナローラの支持者たちのために制作されたと考えられる作品も多い。

オリーブ園の祈り サンドロ・ボッティチェリ作  1495~1500年頃

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この作品は、オリーブ園で祈るキリストを描いている。岩の多い断崖として表されたオリーヴ山の上で、キリストは跪き、ルカ福音書の語る通り、天使から犠牲の聖杯を受け取る。岩の下部には洞窟があり、キリストの死後の復活を暗示する石棺が見える。画家のサボナローラ帰依に結びついた特徴がある。遠近法がまるで使われていない。

 

ルネサンスと言う言葉は、もともとフランス語の「再生」という意味である。この言葉が歴史上の概念として使われ始めたのは、19世紀のことである。つまり中世の「暗黒時代」が去って、人々が人間性を尊重し、現実主義、合理主義にのっとって生きようとし出した時、かってそういう立場で輝かしい文化と社会を築いてきたギリシャ、ローマ時代を再現しようとした運動のことである。14世紀のイタリアに始まって、全ヨーロッパに広がったこの古典復興という運動を「ルネサンス」と名付け、その盛んな時代をルネサンス時代と呼んだのである。単に精神運動だけではなく、ひろくそういう精神を生んだ社会を考察すると、次ように言えるあろう。領主対農民という社会関係が中心で、キリスト教思想がその精神内容である。その中世社会が、農民上層部の上昇と、都市の発展つまり市民階級の興隆という新事態に対応できなくなったとき、ルネサンスという文化運動が起こったことがはっきりしたのである。フィレンツェで花開いたルネサンスは、メディチ家の没落と同時に、中心地はローマに移動し、更にヴェネチャに移動し、約200年間続いて、フランス、ドイツへ移動した。日本にも、非常によく似た時代があったと私は思う。日本の室町時代末期から桃山時代のころと、ヨーロッパのルネサンス時代とである。ここまでとく似た道を歩んできたヨーロッパと日本が、全く運命を分かったのである。ヨーロッパはその後、近代的な社会を急速に発展させていったのに対し、日本が再び封建社会が作られて、世界の発展から大きく取り残されてしまったのである。ルネサンスと言う言葉を聞くと、日本の遅れたことがある意味で意義のあることだったと思う。

 

(本稿は図録「ボッティチェリ展 2016年」、図録「ボッティチェリとルネサンス 2015年」、塩野七生「ルナサンスとは何であったのか」、松田智雄編「世界の歴史第7巻」、「日経大人のOFF2016年1月号」、2016年1月3日日経「美の美」を参照した)

 

 

勝川春章と肉筆美人画

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」が2016年3月27日まで開催されている。勝川春章(1726~92、享保11~寛政4)は、江戸中期の浮世絵師であり、50歳頃から肉筆の美人画家として著名な人である。浮世絵は、美しい女性画と、華やかな歌舞伎の舞台で演技する男性役者絵とを、2本の主要な柱として展開した。中でも美人画は浮世絵の華と言ってよく、菱川師宣に始まり宮川豊信に至る初期(1670年代~1764)、鈴木晴信、鳥居清長、喜多川歌麿、勝川春章らが黄金時代を築いた中期(1675~1806)、葛飾北斎、歌川國貞、歌川国芳らの後期(1807~58)、そして葛飾応為、月岡放念らの幕末明治の終期(1859~1900)と,全期に亘って各時代の中心的な絵師が多彩に活動した。勝川春章は、当初役者絵版画、相撲絵版画などで一躍時代の寵児となったが、50歳以降没年まで肉筆美人画の制作に没頭し、数々の名品を残している。

勝川春章が活躍した時代は18世紀後期・和暦では明和・安永・天明・寛政期にあたる。その頃、欧米ではアメリカの独立宣言、イギリスの産業革命の本格化、フランス革命などが次々と起こった激動の時代であった。鎖国下の日本では,京の都で応挙が写生画を立上げ、それが近代日本画に繋がる動きとなった時代である。(出所が記載していない図は出光美術館所蔵)

雪中傘持美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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水分を含んだ雪を、女性が傘から振り落とそうとして、傘の先を下に向けている。春章の描く女性像は、彼の創意にあふれている。長袖の黒い地色は、白銀の中に強いコントラストを運び込むことでいっそう映え、袖と裾にほどこされた模様は鮮やかな色彩を伝えている。画業の全盛期を迎えた春章画の美質が伝わる作品である。

桜下三美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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満開の桜の側を蛇行しながら小川が流れ、その下に三人の女性の姿をとらえている。女性たちの背後に群生する土筆やたんぽぽの描写は微細を極めている。この絵の圧倒的な植物の描写は、春の訪れをことほぐ「若菜摘み」を風俗画の中に写したものである。

桜下遊女図  勝川春章作  天明3-7年(1783~88年)頃 千葉市美術館

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吉原中之街の桜が霞のなかに満開の花をあらわす。その下では、一人で歩く遊女の姿が捉えられる。左足はつま先だけを地面に接し、右足をぐっと踏み出した様子を伝える。鏑木清方(かぶらぎきよかた)の旧蔵品で、みずから箱書をしたためている。

婦人風俗十二か月 端午  勝川春章作  寛政元~4年(1789~92)千葉市美術館

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十二か月の風俗をひと月ずつ、十二枚の画面に描きわけた一連の作品である。この形式の絵は「月次絵」(つきなみえ)と呼ばれ、その歴史は古く、11世紀頃にはやまと絵の基本的な型の一つとして普及していた。浮世絵にも例は多い。これは端午の節句の様子を描いたものである。朱鍾馗と宝尽くしの幟が立っており、粗放な筆触を強調した鍾馗図の表現は、その異形を強調するのみならず、春章の画技のバラエティを示すものである。

美人鑑賞図 勝川春章作 寛政2~4年(1790~92)頃64.9×123.2cm

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美人画としては破格に大きな画絹の上に、おもいおもいに時を過ごす十一人の女性の群像が描かれている。屋外の庭園風景は、輪郭を目立たせず、絹地が透けて見えるほどに淡薄な彩色によって、みずみずしく澄んだ自然景観が描かれている。この絵画は、かねてより春章の作品を愛好したことで知られる大和郡山藩主・柳沢信穐(やまぎさわのぶとき)の古稀をことほぐためと考えられる。庭園は信穐(のぶとき)が隠居後に過ごした駒込・六義園(りくぎえん)に似ている。また屋舎の釘隠しの意匠が柳沢家の花菱紋であることからも推察できる。華やかさと伝統的な大和絵を思わせる古典的な文化の息吹を感じさせる名品である。勝川春章の最後の傑作であろう。

娘と童子図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年(1792)、春章がこの世を去ったまさに直後に、浮世絵界に華々しく登場してくるのが、喜多川歌麿(1756~1829)や鳥文斎栄之(1756~1829)など、浮世絵史上にその名をとどろかせる絵師たちである。春章スタイルの美人画が、どのように後世の浮世絵へ受け継がれたのかが窺える。この絵は、桜の模様を散らした振袖をまとい、いまだに十歳代とも思える女性がてまりをもてあそんでいるのを、童子が右手を伸ばしてそれを欲しがっている様子を映したものである。二人の関係は姉と弟と推測される。

重要文化財  更衣美人図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年に春章が世を去ったのち、まさにそれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品は歌麿の美人画の中で、最も成功した事例であろう。

月下歩行美人図  葛飾北斎作  江戸時代(19世紀前期)

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葛飾北斎(1760~1849)が、絵を学ぶべくはじめて門を叩いたのが、勝川春章であり、当時春朗と称していた。入門以降、名所絵や役者絵を手がけたのち、春章没後の寛政6年(1794)に勝川派を去った。北斎について語る必要は無いであろう。

 

 

肉筆浮世絵はこれで2回目となるが、いずれも保管状態が良く、かつ70点に及ぶ収集が主として出光美術館で行われていた。今回は「勝川春章生誕190年記念」として、春章を中心に取り上げたが、多数の肉筆画の画家の絵が出品されていた。シカゴ ウエストンコレクションと比較しても劣らない優品であり、日本にもこれだけ多数の肉筆浮世絵があることを知り安心した。

 

(本稿は図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、図録「肉筆浮世絵ー美の饗宴  2016年」、図録「大浮世絵展  2014年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)