美の探求者 安宅英一の眼ー安宅コレクション(2)

第1部 コレクションの形成 第二期 発展期

第2期は安宅コレクションの土台が固まった時期で、昭和29年から昭和40年までの12年間である。会社の規模も次第に大きくなり、経営も堅実に伸びて行った。コレクションの開始の昭和26年には資本金6千万円であったが、昭和28年には3億円、昭和31年には6億円、昭和32年には30億円になった。因みに、私が大学を卒業し、明治乳業に入社したのは昭和31年で、この発展期の真最中であり、明治もぐんぐん業績を上げ、会社は発展していた時期であり、乳業も上げ潮の時代であった。日本経済全体を見ると、昭和30年に始まる神武景気、昭和32年には一転してななべ底不況、昭和34年には再び岩戸景気を迎え、昭和40年には、戦後最大の証券不況であった。

重美  青磁彫刻  童女形水滴  高麗時代(12世紀前半)

愛らしい童女の姿に作った水滴である。蓮の蕾形の髷が蓋になっており、その部分から水を入れ、抱え持つ瓶が注ぎ口になっている。瞳のかすかな鉄彩や,衣服の繊細な模様が可憐さを際立たせる。

青磁彫刻  童子形水滴  高麗時代(12世紀前半)

大きさ、全体の作り、表現方法など、童女形水滴とほぼ同様の、同時の姿をした水滴である。注入口が器底部にあることと、注ぎ口が胸に抱かれた鴨の口であること等が異なる点である。

重美 青磁印花  龍文  方形香炉  高麗時代(12世紀前半)

中国の古代の青銅器で法鼎の器形を模したものである。また雷文など文様にも古代の青銅器に由来するものもある。これらの文様は印花で表されている。

青磁陰刻  蒲柳水禽文  浄瓶   高麗時代(12世紀前半)

浄瓶には仏前に清らかな水を捧げるための器で、高麗では日常の貯水器としても使われた。前後に春夏のシンボルである柳と葦、水鳥があらわされているが、高麗青磁には春夏を象徴する文様が多く見られる。

青磁象嵌 竹鶴文  梅瓶  高麗時代(12世紀後半9

象嵌とは文様を彫った後に白土や赤土などを埋め込み、白黒の色を加える技法。鶴は時形周りに「涙天」「啄胎」「警露」など中国古来の「六鶴図」に由来するポーズをとっている。

重文  青磁象嵌  海石榴華文  高麗時代(12世紀中葉)

重文に指定された3点の高麗青磁の一つである。文様の背景に白土を埋め込む逆象嵌という珍しい技法により、多産を意味する海石榴華の中央に、蔓をよじのぼる男の子を表し、多産への願いをこめている。

青磁象嵌  折枝文  水注   高麗時代(12世紀後半)

瓜形に作った胴部に、更に象嵌で文様を表した凝った意匠の水注である。肩にはたいへん細かい線刻の蓮華文が巡らされ,丁重な仕事ぶりがうかがえる。蓮華座に作った蓋には鳥形の紐がつく。

青磁象嵌  六鶴文  陶板  高麗時代(12世紀後半)

象嵌とは文様を彫った部分に白土や赤土を塗りこめて白黒に発色する技法。鶴は左から「顧歩」「涙天」「啄苔」「舞風」など中国古来の「六鶴図」に由来するポーズを取っている。

青磁象嵌  牡丹文  壺   甲羅時代(13世紀)

文様の大部分を白象嵌で表したために、連弁と牡丹葉の黒象嵌が効果的なアクセントとなっている。肩に四つ表された房のような文様は、壺の口を覆うための袱紗の房が文様化されたものと思われる。

青磁白堆  雲文  梅瓶   高麗時代(12世紀後半)

青磁白磁の大作は、他に類例を見せない。口縁と銅裾に白泥を塗り、肩と銅には絞り出しで、連弁と雲を描いている。絞り出しの不定形な線が、空にたゆたう雲の様子を見事に表している。

第2期の発展期の1部である。朝鮮陶磁が主力で、いずれも優品であり、これだけ朝鮮陶磁を集めた事例は少ないだろう。

(本稿は、図録「美の伝道師 安宅英一の眼ー安宅コレクション  2007年」、図録「東洋陶磁の展開」大市立東洋陶磁美術館を参照した)

美の探求者 安宅英一の眼  安宅コレクション(1)

安宅コレクションとは、かって日本の十大商社の一角を占めた安宅産業株式会社が、事業の一環として約1,000点に及ぶ東洋陶磁コレクションを言う。その収集を一貫して推進し、指導し、厳しい眼をもって一点たりともゆるがせにせず、比類ないコレクションを築き上げたのが安宅英一氏(」1901~94)であった。安宅氏は昭和30年から40年まで同社の取締役会会長を務め、その後は相談役社賓として同社の取締役会会長を務め、その後は相談役社賓として会社の経営に参画された。しかし、その足跡は、むしろ美術品のコレクターとして知られている。安宅コレクションの母体である安宅産業は、石油事業の破綻から、昭和52年(1977)、伊藤忠商事株式会社との合弁という形を取ることによって事実上の崩壊に追い込まれた。安宅コレクションの帰趨は、国会でも議論されるほどの国民的関心を呼び、海外の愛陶家も注目の眼を向けていた。幸い、安宅産業の主力銀行であった住友銀行(当時)を中心とする住友グループ21社によって、コレクションのすべては、大阪市に寄贈され、散逸を免れることになった。大阪市はそれを受けて昭和57年(1982)、大阪市立東洋陶磁美術館を設立し、コレクションの公開を行っている。私は、今でも大阪へ行く機会があれば、東洋陶磁美術館を訪れ、安宅コレクションを鑑賞することにしている。この「安宅栄一の眼ー安宅コレクション」は、平成19年10月3日(2007)より三井美記念美術館で開催された展覧会であり、その図録を参考にして、本文を書き上げた。「美の求道者」と名付けられた安宅栄一氏の「安宅コレクション」の優品を集めた美術展であり、今でも図録を楽しく見ている毎日である。なお、東洋陶磁美術館にも「東洋陶磁の展開」と題する図録を販売しているが、この「安宅栄一の眼」の図録に込められた愛情は、比較にならない程大きく深い。

第一部  コレクションの形成期  第一期 草創期

青磁陽刻 蓮華文  梅瓶  高麗時代(12世紀前半)

高麗の梅瓶は、王宮や寺院用の高級容器としてつくられた。美しい釉色を通して陽刻による繊細な文様が浮かび上がるのは、この磁器の特徴である。全羅道唐津群沙堂里窯跡から同種の破片が出土している。

青磁象嵌 雲鶴文 水注  高麗時代(12世紀後半)

金属器の水注をモデルにしたものであるが、広い面に鶴と雲が大きく表されている。大空に浮かぶかのような雲と鶴は古くから描かれた画題であるが、高麗青磁の文様にも多用され、その美しい釉色を生かした表現となっている。

青磁象嵌 蝶牡丹文  浄瓶  高麗時代(13世紀)

鶴首瓶の祖型は越窯青磁や金属器、西方のガラス器などとも言われている。本来、蓋が付き、水などの液体を入れていたと考えられる。首がやや太く胴部はまん丸でずしりと重みがある。文様の配置も巧みである。

青磁象嵌  蝶牡丹文  浄瓶  高麗時代(13世紀)

浄瓶は浄水を入れる仏具で、観音菩薩の持物の一つでもある。青銅製のものがその祖型で、高麗では銀象嵌の青銅製浄瓶も知られる。蝶と牡丹を交互に配するなど精緻な文様構成がこの作品の大きな魅力である。

黒釉  瓢形瓶  高麗時代(13世紀)

青磁土にたっぷりと黒釉をかけるが、黒色や褐色など、さまざまな色の変化を見せている。黒釉の年代はまだよく分かっていないが、形は12~13世紀の青磁に通じ、同じ頃に焼かれたとみられる。

粉青掻落  牡丹文  梅瓶   朝鮮時代(15世紀前半)

小さな口を持ち肩部が膨らんだ器形を梅瓶という。15世紀になるとやや肩部の下がった造形になってくる。器面に施された白化粧を掻き落として、胴部の牡丹文や胴裾の連弁文が表されている。

粉青絵粉引  草花文  梅瓶  朝鮮時代(16世紀)

ロクロで瓶をひきあげた後、両面から押して胴を平に作る篇壷と呼ぶ。白土を溶かした液に器を浸して白一色とし、鉄絵具で簡略な草花を描くもので、全羅南道高與群雲岱里窯跡などで焼かれた。

草花    草花文       壺           朝鮮時代(16世紀)

胴部中央に余白をたっぷりとり、草花文がコバルトで描かれている。口縁部の外側には如意頭の文様帯が巡らされ、壺の形を引き締めている。

草花          葡萄文          盤         朝鮮時代(19世紀前半)

見込み中央に一房の葡萄が草花で濃淡をうまく生かして描かれ、水墨画のような巧みな表現となっている。周囲の広い余白によって葡萄の豊穣さが一層際立っている。

三彩刻花          花文       瓶      慈州窯系・金時代(12世紀)

唐時代の明器を中心に流行した三彩は、宋や遼、金時代でも引き続き造られた。首のやや長い造形や、簡素で大きめの花の文様表現は金時代の特徴と言える。華北地帯の慈州窯系の窯の製品と考えられる。

 

「安宅栄一の眼」は記憶に残る展覧会であった。まず、陶器のコレクションとしては世界最大と言ってもよい位、内容の充実していた展覧会であった。また、個人コレクシヨンでは無く、営利会社の法人としてのコレクションであり、かつ内容も素晴らしいものであった。中国・韓国の陶器コレクションは、日本に数多くあるが、法人のコレクションとは、他に類を見ない。勿論、石橋コレクションのように会社が資金を提供し、非営利法人を設立して、収集する事例は多いし、多分、大抵のコレクションは三菱にせよ、住友にせよ、非営利法人を作って、そこの活動としてコレクションを集めることは常識でもある。営利法人の事業、その営利法人が倒産した等話題になるケースであった。特に、安宅産業の社宅は、明治乳業の市川工場の社宅の近くにあり、個人的に親しい人もいた関係で、誠に他人事ではなかった。展覧会開催後、まだ13年しか経過していないが、何時しか遠い昔の出来事になってしまった。この展覧会の図録を見ながら、安宅英一氏の鑑賞願の鋭さに驚き、世界でも稀なコレクションとして、この展覧会を取り上げてみた。安宅氏の御永眠を祈る。

(本稿は、図録「美の求道者     安宅栄一の眼」、図録「東洋陶磁の展開」を参照した)

特別展  大和古寺の仏たち(6・終)

室生寺

奈良県の北東部、室生川の上流の山間にある山寺で、四季折々の自然に溶け込んだ美しい景観を見せる伽藍と「女人高野」という名で親しまれている。当寺の建つ室生寺一帯は急峻な山岳や渓流によって神秘的な境内が形成され、山中には竜神が住むと信じられた龍穴と呼ばれる洞窟もあり、古来、竜神信仰の霊場として知られている。当時の創建の由来は、宝亀年中(770~78)に、後の桓武天王となった山部親王が病気になった時、室生山中で祈祷を行わせところ平癒し、その後、興福寺の僧賢珪(けんけい)が天皇の仰せを蒙って鎮護国家のために建立した寺であると伝える。賢珪の後を継いだ当時の興隆に務めたのが賢珪の弟子で興福寺の別当に任ぜられた修円であり、優美な姿で名高い五重塔はこの時期に建立されたと考えられる。9~10世紀にかけて、金堂が建立されるなど伽藍の整備が進められ、真言宗や天台密教の流れも加えながら、その後も長く興福寺との密接な関係を保っていた。しかし近世に入ると、当寺の帰属をめぐって興福寺と真言宗が争い、元禄年中(1688~1704)に至って真言宗に編入された。徳川綱吉の母桂昌院の帰依もあり、当寺が、女人禁制の高野山に対して、「女人高野」と呼ばれるようになったのは、これ以降のことである。私は、大学3年生の5月(1954)の連休後に、室生寺に初めて訪れた。殆ど訪ねる人もなく、階段の脇の美しい石南花(しゃくなげ)に魅入られ、更には本堂の部像群の美しさに圧倒され、小さな五重塔にも美しく感じ、「なんと美しい寺だろう」と圧倒されたことを思い出す。当日、大学では、イギリスの有名な女性経済学者が講演する日に当たり、講演よりも室生寺を選んだことに,幸福を感じた。65年前のことが、まるで昨日のように思いだされる。以来、室生寺は私の一番好みの寺となり、何回訪れたか思い出せない程、お参りをしている。

国宝  十一面観音立像   木造  彩色   平安時代(9~10世紀)

室生寺金堂須弥壇の向かって左側に安置されている十一面観音像である。伏し気味の細い目、丸くふっくらとした頬、やや突出した小さめな唇など、豊頬の女性を思わせる特色ある顔立ちを示し、現存する数ある十一面観音像の中でも、とりわけ美しく、親しみ深い像である。十一面観音は変化観音と呼ばれるいろいろな形をした観音の中では最も早く成立し、その超人的な姿はあらゆる方向に顔を向けて人々を救済する観音の力を象徴している。本像の頭上には、髻の上に如来の頭部(佛面)を一面、冠帯上の頭髪部の正面に穏やかな表情を示す菩薩面、その左側に怒りの表情を示す瞋努面(しんぬめん)、右側に口端から牙を出す狗牙上出(くげじょうしゅつ)面を各3面ずつ、さらに同背面中央に大笑いの表情の大笑面を一面の計十一面を拝している、二メートル近い大きな像であるが、頭体を通して榧の一材から彫り出され、背面から内刳りを施している。体躯には張と奥行きがあり、堂々とした量感を示されるが、誇張的なものではなく、頭部がやや小振りに表されているものの、頭体のバランスはよく整っている。本像は、平安時代初期一木彫の特色が整理され、さらに洗練された趣があり、その制作時期は9世紀末ないし10世紀初めに置くのが妥当と思われる。なお、現在の光背は後世補われたものであり、像の表面に残る漆箔や彩色もその大半が後世の補作である。

重文  伝安定羅大将立像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

重文  伝波夷羅大将立像  木造。彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

室生寺金堂の須弥壇を囲む供物壇の正面内側台上に横一列に並べられている十二神将像のうちの2躯である。室生寺本来の像かどうかは明らかではない。いずれも十二支標識を頭上につけ、岩座上に立つ武装神の姿である。今回陳列の安定羅大将は午の,波夷羅大将は酉の標識をつける像で、いずれも炎髪を表し、甲の下に裾を垂らした衣を着ける。波夷羅大将の着衣の形式や右手を振り上げた姿勢は他の十二神将にもよくみられ、もととなった図像も知られるが、安定羅大将の袖なしの上半身の衣、または袴をつけずに素足に長靴を履く姿はくぁっており、典拠はもとより類例もあまりない。鎌倉時代初期に慶派仏師が制作したとみられる十二神将像に連なるものであるが、やや誇張が過ぎ、ぎごちなさもみえるところから、鎌倉後期、13世紀末ごろにくだる時期の制作とみられる。

重文  光背(地蔵菩薩立像付属) 木造 彩色 平安時代(9~10世紀)金堂

現在、室生寺金堂の地蔵菩薩像に付属している光背であるが、本来は、この堂の当初像とみられる安産寺の地蔵菩薩立像の一具をなしていたと考えられる。この光背は二枚の檜の板を中央で接合し、宝珠形の頭光や光脚などの輪郭を浅く彫り出したもので、表面には九体の地蔵菩薩と唐草や花などの文様が鮮やかに描かれている。葉の先端の一部が火焔のようになびく唐草の形をはじめ、文様の描法や配色法、光脚などは同寺金堂の中尊像の光背とよく類似している。この光背は、出色の出来栄えを示す作例の一つとして注目され、さらに、一般に知られる僧形の地蔵の姿を描いた絵画作品としても、日本最古の作例であり貴重である。

安産寺(あんざんじ)

室生寺に近い、室生村三本松の中村区に所在する無宗派の寺である。中村区には、三重方面に向かう近鉄奈良線の室生口大野駅からさらにもう1駅行った三本松駅にほど近い位置にある。当寺は、真堂とも呼ばれ、その管理は中村区によってなされている。本尊は地蔵菩薩像で、現在収蔵庫に祀られているが、その作風が室生寺金堂の中尊と近似しいつことから、本来は室生寺金堂に安置されていたと考えられている。この像がいつ頃当地に遷されたのかは明らかではないが、土地の伝承によると、その昔、当地を流れる宇田川が、豪雨によって異常に増水した時に川辺に流れ着いたもので、村人がこれを救って運んでいくと、現在地付近で急に足が進まなくなった。そこで村人はここが像の安住の場所であると悟って、この地に像を祀ったという。像内には貞享5年(1688)に修理が行われた際に収められた木札があり、その頃にはすでに当地にあったことが知られる。現在、この地蔵菩薩像は中村区の人々によって大切に保護され、「子安地蔵」と呼ばれて親しまれている。また毎年1月に初地蔵会、9月には本尊御命日の法会が行われるなど、篤く信仰されている。

重文  地蔵菩薩立像  木造、彩色   平安時代(9~10世紀)

もと室生寺の金堂に安置されていたと推定される地蔵菩薩像で、現在は室生寺に近い室生村三本松に所在する安産寺に祀られている。いつの時期に室生寺を離れて三本松の地に移ったのかは不明である。この像が安置されている新堂(真堂)の岡下を流れる宇田川(室生川の支流)に漂着したという伝承が残っている。像内には貞享5年(1688)の修理銘を墨書した木札が収められており、本像がその頃、すでにこの地にあったことが知られる。この作風は、室生寺金堂の当初像として中尊像と同一の工房によって製作されたと推測される。平安初期一木彫の特色を示しながらも、誇張の少ない体形や形式的な整いを示す衣文表現など、一歩洗練した感覚があり、制作時期は9世紀乃至10世紀の初めにおくのが妥当と思わせる。なお前掲した光背は、現在室生寺金堂に安置されているという地蔵菩薩像に付属しているが、その大きさの一致からも本来は本像と一具をなしていたと考えられる。(なお、私は、この地蔵尊を拝したことはない。室生寺に近いことは判っているが、どうしても室生寺の美しさに惹かれ、中々室生寺を離れられないのである。今となっては、少し地蔵菩薩を拝するために「安産寺」に行くことは難しい。

當麻寺

二上山の東南の麓に所在し、中将姫の伝s熱を持つ當麻寺曼荼羅と毎年5月14日に行われる迎講(むかいこう)で良く知られる。草創については正確な記録がないため明らかではないが、鎌倉時代の縁起によると、用命天皇の皇子麻呂子親王の発願によって建立された寺を、天武天皇10年(681)に、壬申の乱で功績のあった当麻真人国見が当地に遷し造立しあっと伝えている。天武10年という年次は、現在講堂に安置されている塑像の弥勒如来像や乾漆造りの四天王像の制作時期としても矛盾はなく、当寺はその頃に当麻氏の氏寺として創建されたとみるのが妥当であろう。奈良時代から平安時代にかけての東西両塔が建立されて伽藍が整備され、當麻曼荼羅を祀る現本堂(曼荼羅堂)の前身の堂も建立された。治承4年(1180)平家の軍勢によって金堂や講堂を焼いたが、後に再建されている。鎌倉時代に入ると浄土信仰の展開と共に阿弥陀浄土を描いた當麻曼荼羅が脚光を浴び、多くの信仰を集めていった。現在の宗派は寺内の子別院にて異なる。珍しいお寺である。で                             高野山真言宗勤                              浄土宗

重文 持国天立像(四天王のうち) 脱活乾漆造  彩色  飛鳥時代(7世紀)

金堂土壇の四隅に配される四天王中の一躯で、頬から顎にかけて表される雄大なひげが、その偉丈夫のさまを際立たせる。このひげは、麻布ないし獣皮のようなものを一本づつコヨリ状にした芯の木糞(こくそ)を盛って植え付ける丁寧なつくり方で、本尊の表面仕上げにかわる技法的な特色を端的に示している。本体は、塑土に麻布を漆で張り重ねて乾かす脱活乾漆造りからなる。本像で際立つのはその異国性である。大きな襟を立て、肩で締める形はもとより、胸甲・肩甲・背中のそれぞれを独立的に表し、かつ、その下方の胴部両脇に当てた腰甲とそれを締める幅広の皮状玉帯、さらには最近しばしば言及される未だ日本化されない前楯(まえだて)など、その服制は成都万仏寺出土の神将像や敦煌莫高窟第220窟北壁薬師浄土図中の神将など、中国6世紀後半から7世紀にかけての神将像のそれを正しく継承する。鎌倉時代にはすでにそれらが金銅に祀られていたことが明らかである。一方、他の作例との比較では、飛鳥前期の法隆寺金堂四天王や同玉虫厨子の神将像、同じく飛鳥後期の法隆寺ー橘夫人厨子扉絵の神将像、さらには法隆寺金堂壁画の九号壁中の神将像などからあげられる。このうち最も近いのは法隆寺金堂壁画であるが、中国・敦煌膜後窟第220窟のそれとの近接も著しい。これらを総合すると年代は、やはり本寺創建の天武朝から持統朝にかけて造られたとみるのが妥当であろう。

(1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の佛たち」と題する展覧会の図録を参照して、1から6まで合計6回に分けて記載した、思いがけない長い「美」となった。6月から博物館がコロナのため、逐次閉館されるようになったので、古い図鑑を活用した「美」は、まだ続くと思う。この「大和古寺の佛たち」は中々、力の入った展覧会であったと思いながら、この長い6回に亘る連載を終わることにしたい)

 

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の佛たち  1993年」、図録「特別展 日本仏教美術名宝展  奈良国立博物館 1995年」を参照した)

特別展  大和古寺の仏たち(5)

百毫寺(びゃくごうじ)

奈良市街の東、高円山の中腹に建つ。この寺の創建については、天智天皇の発願により、皇子志貴親王の離宮を寺としたものであるとも、大安寺の勤操僧都(ごんそうそうず)が創建した岩淵寺の一院であるととも伝えられるが確かではない。鎌倉時代には律学を復興したことで有名な西大寺の僧叡尊(高正菩薩)によって再興されている。百毫寺は一切経寺とも呼ばれるが、これは当寺で春を告げる行事として親しまれた一切経転読に由来する。この一切経転読は、叡尊の弟子道照が発眼し、のちに中国宋より一切経を将来したことにはじまる。明応6年(1497)、兵火により本堂をはじめ、ほとんどの堂宇を焼失した。この後、復興は漸次進んだものの、再度火災に見舞われ、現在は本堂・御影堂などを残すのみである。真言律宗

重文 菩薩坐像 木造・漆箔    平安時代(9世紀)

大正6年に百毫寺から大阪市宝塚市の長尾山に移築された多宝塔に安置されていた像であるが、塔は桃山時代から江戸時代の建築であり、それ以前の伝来は不明である。寺伝では文殊菩薩といわれるが、伝来は不明であることや両手首から先が後補であることから、造像時の尊名は詳らかにし難い。かつ本像が密教像であったとは考えにくい。造像年代にゆいては、承和期の像に近似しながら、熟練した木彫技術や表現の硬さから9世紀後半とする意見があるが、本像の髻(もとどり)は安祥寺像のような側面で結束が複雑に絡む形とは異なり、神護寺像に近い。造像は承和期に遡る可能性もあると思われる。

法隆寺

聖徳太子が宮を開いた斑鳩の地は当時、大和と河内をむすぶ交通の要所であった。この地に今もいにしえの姿を伝える法隆寺は、聖徳太子一族のために建てられたお寺である。(近年、高校の教科書から「聖徳太子」という氏名が消えているが、私は、日本仏教史の上からも欠かせない人物であり、名称はともあれ実在したと考えている)お寺の創建について諸説あるが、仏教を信仰した聖徳太子が自らのお寺を建立しなかったとは考え難く、太子存命中の推古朝半ばには建てられていたと考えるのが妥当であろう。天智天皇9年(670)に法隆寺が落雷により被災したことという「日本書記」の記事を巡って、明治以降、いわゆる法隆寺再建、被再建論争が行われてきたが、西院伽藍の南に残る若草伽藍跡が昭和14年に発掘調査され、再建説が有力となった。私が大学1年生の頃まで、この論争は続いていたが、やはり再建説が妥当と思われる。現在せは、若草伽藍が推古朝に創建された当初の法隆寺で、それらが焼失した後、寺地を移して再建されたのが現在の西院伽藍であると考えるのが一般的である。再建は和銅年間(708~715)には終えたと考えられる。異論はあるが、再建説は間違い無ない。い。                      聖徳宗(しょうとくしゅう)

重文  菩薩立像  銅造  鍍金  飛鳥時代(7世紀)

両手で法珠を持ち、立ち上がりの強い連弁のついた蓮華座上に直立する。伝来の経緯が明らかでなく、寺伝では観音菩薩といわれるらしいが、観音の印である阿弥陀如来の化佛(けぶつ)が表されておらず、尊名も特定しがたい。頭や両手先・足先が太振りに作られ、全体に左右相称を保った厳格な作風をみせる。止利仏師作と伝える法隆寺金堂本尊釈迦如来三尊像(623)の脇侍佛に似通っており、7世紀前半の像佛界の主導的な役割をになった、いわゆる止利派の典型的な作例の一つに数えられる。

重文 観音菩薩立像(伝金銅阿弥陀如来脇侍) 銅造 鍍金 飛鳥時代(7世紀)

かって法隆寺金堂西の間本尊阿弥陀如来坐像の脇侍とされ、同像の台座下段にまつられていた。威容からみて、本来、単独像として造立された可能性が高く、いまは大宝蔵殿に安置されている。本体・台座・持物まですべて一鋳で仕上げており、この期の金銅仏の中でも精作に属し、古代の彫刻史を考える上で貴重な遺例といえよう。法隆寺献納宝物などにも類似した作風の像がいくつもあることから、法隆寺あるいは周辺で活躍した仏師の手になるものと考えられられていた。像容からみて、本来、単独像として造立された可能性が高く、いまは大宝蔵殿に安置されている。本体・台座・持物まですべて一鋳でしあげており、この期の金堂像の中でも精作に属し、古代の彫刻史を考える貴重な遺例といえよう。法隆寺献納宝物などにも類似した作風の像がいくつもあることから、法隆寺あるいは周辺で活躍した佛師の手になるものと考えられる。

国宝  観音菩薩立像(夢違観音) 銅造・鍍金  飛鳥時代(7世紀)

この尊像に祈れば、悪夢を吉夢に変えてくれる霊験があるという伝承にちなみ、何時の頃からか夢違観音と呼ばれ、多くの人々に親しまれている。江戸時代以降、法隆寺東院絵殿の本尊とされてきたが、それ以前の伝来が定かでなく、現在は同寺大宝蔵殿の北倉に安置されている。7世紀後半頃、中国大陸や朝鮮半島から新たな様式が波及し、それまでの抽象的・観念的な造形から、写実身のある柔軟な造形が日本でも徐々になされるようになった。飛鳥時代後期のいわゆる白鳳期の代表作の一つである。所々にわずかに鍍金が残り,往時、金色に輝いていた端麗な姿がしのばれる。

国宝 地蔵菩薩立像 木造 彩色 平安時代(9世紀)  金堂所在

本像は現在金堂本尊の背後に北向きに安置されるが、江戸時代までは奈良県桜井市の大神神社神宮司である大三輪寺に伝わり、慶応4年(明治元年、1868)の廃物希釈で同市の聖林寺に、さらに明治6年に法隆寺北室院に移されたという。像は円頂で、天衣・編纂・裙を着けて直立する。両手首より先を除き、連肉を含めて榧の一材より掘出し、表面には白土地を着けて直立する。両手首より先を除き、連肉を含めて榧の一材より掘出し、表面には白土地を施し彩色する。体躯は重量感に満ち、大衣脚部には量感を強調するy字型の衣文が表される。これは8世紀後半に中国よりもたらされた表現で、唐招提寺新宝蔵の伝薬師如来座像が日本に残る最も古いと思われる。

岡寺

飛鳥の東、里を見下ろす小高い丘の上にあり、龍蓋寺とも呼ばれる。その創建については、法相宗を広めた奈良時代初期の高僧義淵が、草壁親王の岡宮の地を天智天皇より賜り、寺としたのが始まりであると伝えられている。この説に従えば、遅くとも義捐が没した神亀5年(740)の文書に既に見え、旧寺地とみられる現在の伽藍の西方、治田神社あたりから飛鳥時代末の瓦も出土しており、これらのことからも岡寺の創建は7世紀末から8世紀初頭頃と思われる。平安時代に興福寺の末寺となり、興福寺の僧が代々この寺の別当となっている。平安時代の末に興福寺の末には本尊如意輪観音への信仰とともに、観音霊場三十三所のひとつとなり栄えた。また「水鏡」によると二月初午にこの寺へ詣で厄をよける信仰があったようである。                          信義宗真言豊山派

重文  菩薩半跏像  銅造  鍍金  奈良時代(8世紀)

岡寺の本尊如意輪観音坐像(塑像)の体内佛と伝えられている。榻(とう)と呼ばれる円筒形の椅子に座り、右足を曲げて足首を左足の上にのせ、右手首を軽く頬にそえた、いわゆる半跏思惟の姿である。寺伝では如意輪観音と言われるが、当寺の通例からすれば、恐らく弥勒菩薩として造立されたものであろう。半跏思惟の仏像は7世紀を中心に日本でも盛んに造立されたらしく、今日でも数多くの作例が残る。全体は一鋳になり、底部から榻座の上部まで中空につくられ、台座の下端近くの側面の四方に小孔が開けられている。この台座下部のつくりかたからすると、当初は、今の台座の下にさらに大ぶりの台座が取り付けられていたのかも知れない。

橘寺

岡寺からの道を西に向かって歩くと、河原寺跡と道をはさんで反対側、南の丘の上にある。この寺は正式には仏頭山上宮皇院菩提寺というように、聖徳太子生誕の地との伝承があり、当寺も太子建立七寺のうちの一つに数えられる。しかしながら、この寺の名が文献に見られるのは天武9年(680)の記事に岡寺の尼十坊が焼けたとあるのがはじめてであり、出土する瓦の年代からも7世紀後半、天智天皇のころの創建と考えるのが妥当と思われる。発掘の結果、創建当初の伽藍配置は堂塔が東向きに一直線上に並ぶ、四天王寺式の伽藍配置であることがわかった。鎌倉時代より、聖徳太子信仰に伴い繁栄したが、文安初年以降数度の兵火にあい、寛永元年(1628)ころには講堂と礎石のみを残すばかりであったという。その後復興され、現在は本堂、太子堂などが立ち並ぶ。

重文  伝日羅像  木造  彩色   平安時代(9世紀)

円頂で大衣・偏䙁・裙を着ける姿は地蔵菩薩のものであるが、寛政4年(1792)に行われた寺社の宝物調査記録である「寺社宝物展閲目録」では、すでに「日羅木造」と記されている。「日本書記」によると日羅は、583年に敏達天皇によって百済より日本に召されて国政を説き、後に随身に暗殺されたという。そこでは仏教との関わりは何も語られないが、後の聖徳太子信仰の高まりの中で太子の仏教上の師とされるようになる。橘寺には聖徳太子建立の伝えがあり、それが橘寺と日羅を結び付けたと思われる。本像が日羅として造像されたものではないことは推測に難くないが、明確に表現された髪際線、面を取って表される弧状の眉、左に捻る腰にあわせて左下方に視線を向ける切れの長い目、写実味のある口元、といった異相の風貌は”お地蔵様”のイメージでは捉えにくい。小さめな頭部とすらりとしたプロポーションには九世紀前半の重厚さの表現は認められない。また、正面では左に捻る腰も、背面ではその様子を思い起こさせるに足る表現はなされておらず、整理された衣皺線とともに時代の降下を示し、9世紀中頃の造像と考えられよう。

百毫寺、法隆寺、岡寺、橘寺、と奈良・飛鳥地方と多くの地域とお寺を巡ったが、法隆寺以外は、案外知られていないお寺ではなかと思う。私にとっては、大学時代の4年間にこのすべてのお寺を回り、社会人になっても何度か訪れた懐かしい古寺である。特に飛鳥地方は、大学3年生の春に、法学部のK君と同行して回ったのが最初であり、「日本書記」を片手に持って,回ったものであり、実に懐かしい。今回、展覧会に出品された仏像は、必ずしも、そのお寺の一級品ではないかも知れないが、私には掛け替えの無い青春の思い出である。まさに「大和し、うるわし」である。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」、竹山道雄「古都遍歴」を三照した)

特別展  大和古寺の仏たち(4)

大安寺

奈良市街の南西部に位置し、かったは壮大な伽藍を誇り、東大寺、西大寺に対して南大寺とも呼ばれたが、現在の境内はかなり縮小され、木立に囲まれた閑静なたたずまいを見せる。草創は聖徳太子の建立した熊凝道場に遡り、これを大寺にしたいという太子の遺志をを継いで、舒明天皇がその十一年(639)に百済川の畔に建立した百済大寺に始まると伝える。その造営は天智朝にも及んだとみられ、天智天皇7年(668)には、後世、薬師堂金堂の薬師如来像とりも優れると賞賛された乾漆造りの釈迦如来像が造立された。百済大寺の位置は現在の北葛城郡広陵町とされているが、天武天皇2年(673)に武市郡に移築されて寺名を高市大寺と改められ、同6年に大官大寺と改称された。大官は天皇を示し、大官大寺はまさに国家仏教の頂点に位置する寺院となった。平城遷都後、飛鳥の藤原京から平城京の左京に移されるが、その位置は右京の薬師寺と対応する。鎌倉時代以降は徐々に衰退し、その美観を失っていった。現在は、本堂や収蔵庫に安置されている木彫像、境内の南方にある広大な東西両塔の跡に往時の面影を伝えるのみである。     高野山真言宗

重分 伝不空羂索観音立像  木造 彩色  奈良時代(8世紀)

大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。八本の腕を持ち、不空羂索観音と伝えるが、腕はすべて後世補われたものに替わっている。現在の腕は像本体に対して小振りであり、全体に窮屈な印象を与えるが、当初は八本の腕の動きによって現状よりももっと大きな造形空間を形成していたと推定される。不空羂索観音は観音信仰の展開によって考えだされた様々な形をとる観音(変化観音)の一つで、十一面観音に次いで成立した。羂索(狩猟で使われた罠の一種)で、すべての人々や生き物を逃がすことなく救済し、あらゆる願いを叶える観音であり、日本では奈良時代から信仰され、東大寺法華堂(三月堂)の像はその代表的な作例である。本像は、通例の不空羂索観音が両目のほか、額中央に第三の縦の目が表されるのに対して両目のみであり、不空羂索観音の特色である鹿側をつけた形蹟がない点、やや像容を異にしている。なお、現在、本像はほとんんど木肌を著しているが、裳や天衣には草花や団花文などの彩色文様、截金にとる小花、銀泥描きの茎や葉などの痕跡があり、かっては華やかな彩色が施されていたことが判る。

重分 楊柳観音立像  木造・彩色 奈良時代(8世紀)

先の伝不空羂索観音像とともに大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。菩薩でありながら怒りの表情を示す、他に類例のみない像で、楊柳観音と伝えられるが、本来の尊名明らかではない。憤怒相の特異な像容から密教系の尊像であると思われるが、本像は弘法大師によって日本に密教が伝えられる以前の初期的な密教彫像の様相を示す作例として貴重である。

元興寺(がんごうじ)

奈良市街の中心、猿沢池の南方に所在し、かっては南都七大寺の一つとして栄え、壮大な伽藍を誇っていた。今では旧伽藍跡地の大部分に民家が建ち、往時の面影はわずかに極楽坊の一画や塔跡、小塔院跡などに残るだけである。草創は日本最初の仏教寺院として蘇我馬子によって飛鳥の地に建立された飛鳥寺(法興寺)に遡り、この飛鳥寺が平城遷都に際して平城京に移されて以降、元興寺と称されるようになった。平城京の移転は他の寺よりもやや遅れて、養老2年(718)であり、造営も8世紀後半まで及んだ。             真言律宗

重分 阿弥陀如来坐像 木造・彩色  平安時代(10世紀)

堂々とした姿の阿弥陀如来坐像で、もと本堂の厨子内に本尊として安置されていたが、現在は収蔵庫に移されている。伝来については明らかではないが、現在「大乗院寺社雑事記」(興福寺寺社雑事記)の、文明15年(1483)9月13日条によると、宝徳3年(1451)10月14日に大和の徳政一揆で願興寺禅上院の八角多宝塔が炎上した後に、その本尊阿弥陀如来像を極楽坊の道場に入れたという記載があり、本像がこの阿弥陀仏像に当たる可能性もある。高く盛り上がった肉髻(にっけい)、丸みのある顔立ち、柔らかさの肉親や着衣の表現など、全体にまろやかさが印象的な像である。本像は天平彫刻の伝統を濃厚に継承した造形を示していると言えよう。制作時期は、その顔立ちやなで肩の体形などに正歴4年(993)に造立されたことが知られる滋賀・善水寺の薬師如来坐像と共通する趣があり、10世紀末頃と考えられる。

法華寺

平城京の東、奈良市宝華町にある。この地は、和銅3年(710)の平城遷都の際に、右大臣藤原不比等等が邸宅を構えた所であった、養老4年(720)に不比等が亡くなると、光明皇后が受け継ぎ皇后宮としていた。天平17年(745)遷都を繰り返していた聖務天皇が都を平城に戻した時に宮寺となり、更に天平19年頃に、総国分寺である東大寺に対して、女人修養の場であり、天下の太平や人々の豊かに暮らせることを願う總国文尼寺(法華滅罪之寺)としての役割を担うようになった。造営と兵火、大地震等をへて、慶長6年(1601)より豊臣秀頼によって再興事業が行われ、現在の本堂や南門などが建立された。光明皇后の姿を写したと伝えられている本尊十一面観音立像は、平安初期に制作されたもので、慶長6年、秀頼の本堂再興に際して本尊とされた。

重分 維摩居士坐像  木造、彩色  奈良~平安時代(8世紀)

維摩は、「維摩経」の主人公として想定された人物で、釈迦の時代に毘舎利城に住んだ、学識に優れた富裕な居士(在家の仏教信者)である。いま法華堂本堂の一隅に安置されている本像は老貌痩躯の姿で、「維摩経」問疾品(もんしつほん)に説く、病をおして文殊菩薩と法論をたたかわす維摩の姿を現している。かって法華寺金堂で修されていた維摩会(ゆいまえ)が興福寺に移された後、金堂に西向きに安置されていた維摩居士像が興福寺を恋うて東南の方に向き直ったという話が記録されている。法華寺で維摩会が行われたのは延歴20年(801)以前の一時期であったという。本像は作風上その頃の作とみてさしつかえないので、そのせい制作時期はおおむねおさえることができる。

秋篠寺

西大寺の北西、秋篠の里の閑静な一画にあり、雑木林に囲まれた境内は落ち着いた風情を示し、本堂に安置されている伎芸天はその美しい姿でつとに知られいる。寺伝によると、当寺は光仁天皇と桓武天皇の御願により、善珠(ぜんじゅ)を開基として創建されたと云われる。開基の善珠は法相宗の高僧で、桓武天皇の護持僧としても活躍した。当寺には鎌倉時代の作例であるが、大元帥明王像が伝えられている。保延元年(1135)には兵火のため講堂を残して一山焼亡したといわれ、現在の本堂の南方には金堂や東西両塔の礎石が残っている。江戸時代中期に至って衰退の傾向を示し、明治の廃物希釈の際には無住となった。その後、浄土宗西山派に一時帰属し、やがて真言宗、法相宗兼学の寺として独立し今日に至っている。私には「伎芸天の秋篠寺」という印象が強い。 真言宗、法相宗兼学の寺

重分 梵天立像 奈良時代(8世紀) 頭部 脱乾漆造 彩色 体部 木造 彩色

脱乾漆造りの頭部に木造の体部を補った像である。梵天と呼ばれているが、本来の名称は明らかではない。補作の体部は、甲を着た上に丈帛をかけ裙を着けており、その姿はむしろ帝釈天を思わせる。同工の補作を行った四駆の像のうちでは、本像頭部はもっとも保存がよく、木製の天冠台や頭髪以外の彩色が後補であるほかは制作当初の原形を保っている。唐代8世紀後半の中国彫刻に類例がある。厳しい表情は、唐招提寺像ほどのスケールの大きさに欠ける。一方、表情の厳しさは一段と進んでおり、平安初期彫刻に通ずるものがある。秋篠寺創建期の奈良時代末期の制作であろう。

重分 伝菩薩立像(伝救脱菩薩像) 頭部 脱活乾漆造 彩色/体部 木造 彩色

秋篠寺に伝わる伎芸天・伝梵天・伝帝釈天・伝救脱菩薩の四駆の像は、いずれも頭部が脱乾漆造りで、体部は鎌倉時代に木造で補われたものである。これらの名称はいずれも仮の名で、いま救脱菩薩というめずらしい名で呼ばれている本像もその由緒は明らかではない。他の三像と同時期の制作とすれば、奈良時代末期の制作と見られる。体部は檜材寄木造り、彩色。梵天像と同様に正応2年(1289)頃の補作であろう。

 

秋篠寺と言えば、伎芸天像を思い起こすほど著名であり、多くの仏像ファンがいる。多分お寺の都合で、この展覧会には伎芸天像を出品できない事情があったのであろう。思わず、60年前の大和仏像鑑賞の旅を思い起こす、懐かしい寺名である。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち 1993年」、「南都大安寺」、亀井勝一郎「大和風物詩」を参照した)

特別展  大和古寺の仏たち(3)

唐招題寺

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奈良市の西郊、「西の京」とよばれる地域に位置し、今も天平文化の香を伝える。聖武天皇の招きに応じ、日本へ戒律を伝えるため、さまざまな困難を経て中国から来日した鑑真が、新田部親王の旧宅をもらい受けて天平宝字3年(759)に「唐招招寺」という名の私的な寺として建立したのに始まる。当初の建物は先住者の旧家屋を利用した簡素なものであったようだが、やがて宮廷や貴族の支援を受けて寺として一応の形態が整ったところで「唐招提寺」と称するようになり、官寺の寺院に準ずる定額寺(じょうがくじ)となった。もっとも、鑑真在世中に建てられたのは、平城京の朝集殿を移建した講堂をはじめ、食堂や僧坊など、僧侶の宗教生活に必要な建物にとどまっていたようである。天平宝宇7年の鑑真没後も、その弟子たちによって金堂やその前方の伽藍の造営が進められ、9世紀初めにはほぼ完成した。(律宗)

重文  伝薬師如来立像 木造  奈良時代(8世紀) 新宝蔵

唐招提寺には、もと講堂に安置されていた多数の木彫像が依存し、現在、新宝蔵に移されている。これらの中には鑑真和上による本寺創建期に遡ると思われる一群の等身大像が含まれているが、伝薬師如来立像はその代表的な作品の一つである。本像は、一見して太造りの重量感あふれる体躯をしめし、またその豊頬の顔立ちはどこか茫洋とした大陸的な趣を漂わせる。一方、偏袒右肩(へんたんうけん)にまとう大衣は、胸から腹、そして股間へと、身体の起伏に沿ってヴォリュームを強調すべく、図式的ともいえる衣文を表す。本像のような桧や榧(かや)など針葉樹の太い丸太をもとに、それらのきめ細かで清浄な材質感をできるだけ保とうとする一木造りの木彫像は、これ以降、奈良末から平安初期にかけて盛んに造られるようになった。独特のうねりをみせる衣文は、中国からもたらされた一部の壇像彫刻にも認められ、その間の密接な関連もうかがわせる。このような本像における大理石や壇像との作風的つながりは、8世紀中頃の中国における造像傾向をそのまま反映するものとみなされる。本像をはじめとする木彫の造像概念そのものにおいて、それ以降の日本の仏像に、少なからぬ影響を与えたことは十分推測される。

重文  伝衆宝王菩薩立像  木造  奈良時代(8世紀)

目頭に蒙古襞を刻み、眉根を寄せ気味に遠くをみつめる両眼はもとより、張り切った頬と強く引き締めた口元が本像の顔立ちに独特の機微さを与える。そして背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ体躯は、やや肩幅が広めながらも、太からず細かからず、バランス良くまとめられる。また正面の衣文の折りたたみなど、彫刻面に直角に刻みこまれたノミさばきは鮮やかで、像の静かなたたずまいに、峻烈ともいえる緊迫感をみなぎらせる。このほか、臂釧や腰の石帯の緻密な彫技に加え、冠帯や天衣の垂下部など像身から離れた部分もできるだけ一木で彫成しようとする意識は、当時、中国で盛んに造られた壇像のそれを思わせる。また、額に縦に表された一眼や腕のつけ根の痕跡から知られる六臂の形相は、雑密と呼ばれる初期密教の、特異な尊格が認められ、その作者は、和上に随行した唐工人、ないしはその直接的指導下にあった人物が想定される。

重分 伝持国天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

重分 伝増長天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

唐招提寺講堂本尊弥勒菩薩像の前方左右に立つ像である。その作風から一具同時の作とみることに問題はないが、本来の二点像なのか、四天王像中の中の二躯が残ったものなのかは不明である。持国天・増長天という名称も確かではない。二躯はいずれも頭上に髷を結び、顔をやや右に向け、左手を下げ、腰を右にひねって邪鬼上に立つ姿である。増長天は口を閉じ、右手に剣を取って高くかざすが、右腕は後補である。持国天は口を開いて、右手に三鈷を握る。ともに檜材の一木造りで、髻頂から足枘までを完全に一材から彫り出し、内刳りもない。表面は現在まったく素地をあらわしている。ずんぐりとした一種のユーモラスな、量感あふれる体躯の表現や、増長天像の腕下に巻かれた帯や腰甲の形などの新しい形式は、盛唐後期の石彫像に通ずるものがある。甲の細部やその装飾文様を克明に刻みだす点には中国壇像の技法の影響も認められる。唐代彫刻の最新の意匠を積極的に取り入れたところに、本像作者の姿勢がうかがわれる。

重文 如来立像  木造 彩色  平安時代(9世紀) 新宝蔵殿

頭部や手足が欠けたギリシャ・ローマの彫刻をトルソーと呼ぶ。この如来立像が唐招提寺のトルソーとして注目されるにいたる背景には、ヨーロッパ近代の彫刻に対する新しい見方がかかわっている。本像の立ち姿は瀟洒で美しい。ここまで来ると、この像の元の像の名前は問わないことで良いのではないだろうか?

西大寺

平城京の西、丁度東大寺と対応する位置に造営された寺院で、その草創は、天平宝治8年(764)、藤原仲麻呂の乱に際し、乱平定のため、孝謙天皇によって金堂四天王像が発願されて以降、孝謙上皇と上皇の信任厚かった道鏡によって大伽藍が造営され、宝亀年間(770~780)にはほぼ完成したとと考えられる。平安時代に入ると数度の火災で衰退したが、鎌倉時代、興正菩薩叡尊によって、戒律の復興運動と真言蜜教の修養のための中心道場として再興された。現存する当寺の仏像や工芸品の多くは、叡尊関係のもののみであり、その伽藍も、文亀2年(1502)の兵火でその大部分が壊滅した。(真言律宗)

重文 釈迦如来坐像  木造・漆箔  奈良時代(8世紀)

西大寺の五重塔の初層に安置されていたと伝えられた四体の如来坐像の一体である。他に、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来と呼ばれる像が現存している。四体ともに大きさがほぼ同じで、その作風や木心乾漆造りに近い構造を示すなど共通し、本来一具の像であったことが推定される。西大寺中興の祖叡尊の伝記である「感身学生記」に弘安6年(1283)に「御塔四佛」が補修され供養されたと記しており、この四佛が現在像に該当する可能性が高い。この釈迦如来像は当寺の四佛の中でも優れた出来栄えを示し、切れ長の目や丸く頬の張った顔立ち、やや太造りで柔軟性のある体躯、深いうねりを持つ柔らかい衣文表現は乾漆像に近い趣を示す。

重文 愛染明王坐像  木造・彩色 鎌倉時代・法治元年(1247)愛染堂所在

愛染明王は、空海将来の「金剛嶺楼閣一切瑜伽経」に説く名王で、人間の愛欲などの欲望すらも佛心に通ずることを教える仏である。西大寺愛染堂の秘仏本尊である本像は、五胡鍾を付けた獅子冠をいただき、宝瓶蓮華座に結跏跋座する三目六臂の姿で、「瑜伽経」に説く姿とほぼ一致する。

重文 釈迦如来坐像 木造  鎌倉時代・建長元年(1249) 本堂所在

西大寺の本尊として本堂に安置される釈迦如来像で、鎌倉時代に寺を再興した叡尊が自らの意向で造像を希望した由緒深い像である。叡尊の宗教的目的の一つはインドの釈迦時代の仏教の原点に戻って戒律を再興し、多くの人々に戒を授け、その仏縁によって衆生救済をはかることにあったが、釈迦如来像は叡尊の理念を象徴するに最もふさわしい尊像であった。現在、京都・嵯峨の清凉寺に伝わる釈迦如来像の模像の制作を希望して、弟子の堅任が施主10人、結縁者186人と相談して法治2年(1248)8月8日に造像を発眼した。建長元年(1249)3月13日に、西大寺から僧衆16人、大仏師善慶を中心とする仏師9人が、清凉寺に派遣され、翌年3月に清凉寺にて釈迦像を供養し、模造の制作を行った。その年の5月7日に開眼供養が行われた。

 

大和の地は、まさに「国のまほろば」であり、時空を超えた望郷の地として、わたくしたちの心を捉え、多くの人々が大和の古佛に魅了され、古寺の巡礼を繰り返している。この特別展では16の寺院から、仏像類が出品されている。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」、山本勉「日本仏像史講義」を

特別展 大和古寺の仏たち(2)

興福寺

美しい芝生の上を鹿が戯れ遊ぶ奈良公園。その一画に興福寺はある。藤原氏の氏寺であるこの寺の歴史は藤原鎌足の妻が建てた山階寺に始まるという。その後、鎌足の子の不比等により飛鳥の地に移され厩坂寺(うまやさかでら)と称し、更に和銅3年(710)の平城京遷都に伴い現在の地に移った。当時は、大極殿から離れた、坂の上の寺に見えたかも知れないが、現在、奈良市内から見れば、一番の好立地であり、目立つ場所である。平城京に移転した後、不比等の死後も藤原氏一族とと朝廷のの力を背景に、着々と伽藍が整備されていった。平安時代以降の興福寺の歴史は火災と復興の歴史である。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちにあい、東大寺同様に堂塔の大半を焼失してしまうが、この時も順次復興された。(法相宗)

重文 薬師如来坐像  平安時代(長和2年ー1013年頃)

螺髪の大半が失われているが、そのきりっとした端正な顔立ちが印象深い像である。かっては釈迦如来とされていたが、像内から発見された「薬師経」の奥書によって薬師如来として造られたことがわかった。この奥書には仏堂を造り、お経を自ら書くという願文(がんもん)の次長和2年(1013年)8月12日の年紀と沙門輔静(ほせい)という願主が記されている。また、この奥書に記された宝治元年(1247)の修理銘には「三尊」とあるので、本来は本尊の他に両脇侍像があったことが知られる。しかしこの両脇侍像をはじめ、光背、台座、持物の薬壺(やっこ)が失われ、安置されていた仏堂も不明である。仏像破壊の明治初年の「廃仏希釈」の被害佛かもしれない。(黒川私見)

国宝  伝宮毘羅大将像(板彫十二神将のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

国宝 伝真達羅大将像(板彫十二神将像のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

厚さ3センチメートル程度の檜の板から十二神将を半肉彫りにした珍しい作例である。12面全部が現存しているが、本展では伝宮毘羅大将と伝真達羅大将が出品されている。猫背風に両肩を下げて、左斜前方を見据える三度羅、正面を向き、口を「へ」の字に曲げて合掌する真達羅、ともに髪を逆建てて怒りの表情を示すが、ユーモラスな雰囲気をたたえている。自在な彫り口、面と面の微妙な段差と起伏によって、浮彫り像とは思えないほどの立体感と奥行きが表され、制約された方形の枠内から前面に飛び出してきそうな迫力ある造形を示している。」「興福寺濫觴記」の東金堂の項目に、この板彫に相当する十二神将の記載がある。東金銅は薬師如来を本尊としているので、仁和寺旧北院の薬師如来像(白檀製)や教王護国寺金銅の約如来像の例から考えて、この板彫像は東金堂の薬師像の台座の側面を囲むように貼られていたものと推定される。

国宝 天燈鬼立像 木造・彩色 鎌倉時代(13世紀)

もと興福寺西金銅に安置されていた。仏前に捧げる大きな灯篭をかかげる鬼形像である。本造は左肩に灯篭を担ぎ上げて腰をひねり、右腕、右脚を側面に張って立ち、激しく怒号する姿で、灯篭を頭上にのせて黙して立つ龍燈鬼と一対をなす。二像は阿吽の組み合わせであるとともに、両者間で動静二態の巧みな対象を図っている。江戸時代の「享保弐日時記」によると龍燈鬼の複内には健保3年(1215)に仏師法橋康弁が造った旨を記す書付が納入されていたという。康弁は運慶の三男に当たる仏師であるが、写実を基調とした見事な出来栄えは運慶子息の作にふさわしく、伝えは信ずるに足りよう。

東大寺  東大寺大仏殿除夜  入江泰吉氏撮影

奈良市街の東北、若草山のふもとに今も威容を誇る全国の区分時の上に立つ総国分寺として位置づけられたこの寺の歴史は、天平15年(743)に聖武天皇の出した大仏建立の詔に始まる。当初、大仏の建立は信楽宮にて着手されたが、天平17年の平城京遷都にともない現在の地に変更された。平城京の外宮にあたるこの地には、大和国分寺と定められた金鐘寺があったが、そこに大仏建立の地として選び、大伽藍の造営が始まった。同年8月にはやくも着工し、天平勝宝4年(752)にはインド僧菩提僊那を開眼師とする開眼供養が盛大に行われた。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちによって堂塔の大半を焼失するという甚大な被害を受けたが、これを復興したのは重源である。鎌倉時代に復興された堂塔は、永禄拾年(1567)の兵火で再び大きな被害を受けた。その後復興はなかなか進まず、現在の大仏殿は江戸時代になって創建時よりも規模を縮称してようやく再建された。宝永6年(1709)に落慶供養が行われた。大仏殿の裏には高度の礎石が今も残り、江戸時代に再建された大仏殿ともども往年の規模の大きさにを偲ばせる。(華厳宗)

国宝 誕生佛釈迦如来立像   奈良時代

仏伝では、シッダルタ太子(後の釈尊)は、母マーヤー夫人がルンビニ園でアショーカ樹の花を摘もうとして右手をあげたとき、その右脇の下から誕生したとされる。生まれたばかりの太子は、七歩歩んで天地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱え、温冷二種の水で浄められ(灌頂・潅水)た。インドやガンダーラでは、この一連の場面を表した仏殿浮彫が多数あり、ナーガ(龍)、あるいはインドラ(帝釈天)とブラフマー(梵天)に潅水され、天空にはハーブ、太鼓などの楽器が舞い、仏陀の誕生を祝福する様が描かれている。インド・ガンダーラの作例では、太子は両腕を垂加するか、施無畏印を結ぶように挙げているものが多く、本像も含めて朝鮮・日本の誕生佛には通例の姿である右腕を天に向かって高くさしあげているものがみられない。本像は、右手前膜で手をついてでいる以外は、一鋳である。ふくよかな顔に笑みを浮かべ、赤ん坊のような腹や腕のくびれを表現した豊満な肉体は、大仏殿前の八角灯篭火袋の音声菩薩彫像とも類似しており、ともに天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の行われた頃に制作されたと考えられている。

重文  弥勒菩薩坐像  木造  平安時代(9世紀)

本像の大きい頭部と小さい脚部の比例は、巨像のそれを思い起こさせる。前傾させた体躯や前に突き出した頭部、指先が像底よりもさらに下方に伸びる襞る手は、観る者に迫ってくるような印象を与える。この像は「試みの大仏」の名で広く知られる。なお、明治25年の「国華」31号に「東大寺廬舎那仏雛形」と紹介されるのが、この呼称に関わる最も古い記録のようである。本像は明治37年までは法華堂に安置され、今でも本尊不空検索観音像の背後には、それまで収められていた小厨子が置かれている。

重文 阿弥陀如来立像  快慶作  木造  鎌倉時代(13世紀)俊乗堂所在

運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師として著名な快慶の代表作の一つで、彼が最も得意としたいわゆる三尺の阿弥陀如来立像の優作である。像の右脚枘正面に「アン」(梵字)の刻銘があり快慶が安阿弥陀仏と名乗った時代の作である。快慶は制作の時期によって、「仏師快慶」、「巧匠アン阿弥陀仏」、「巧匠法橋快慶」、「巧匠法眼快慶」の名を作品にとどめているが、建久3年(1192)から建仁3年(1203)に及ぶ十年間は「巧匠アン阿弥陀仏」(安阿弥陀仏)時代は、快慶が作家として最も充実した時期であり、彼の阿弥陀信仰の師である重源上人関係の造像を精力的行ったことが知られる。重源は東大寺再興の勧進上人で、念仏を中心に造寺造佛などに結縁して事業を推進する独特の阿弥陀信仰集団を率いていたが、快慶の三尺阿弥陀像は彼らから来迎阿弥像の典型として高く評価されたばかりでなく、法然上人の念仏集団からも歓迎されて、後世に至るまで大きな影響を与えていく。快慶が制作した三尺阿弥陀像は、絵画的に整えられた美しい衣文線や穏やかな形姿による優美な表現に特色があるが、特に安阿弥時代の作品には頭頂部を除く表面全体に金泥を塗り、衣の部分にはさらに切金(きりがね)文様を表す入念な仕上げが採用されている。俊乗堂にも七宝繋ぎ、四ツ目亀甲、二重斜格子、籠目などの繊細な切金文様のきらきらとした輝きが見事に調和している。

 

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶の仏像として紹介したい。

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも、私は快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶作の仏像として紹介した)

大和古寺の仏たち(1)

コロナ・ウイルスのせいで、全国の美術館、博物館がすべて閉鎖されている。私は「美」の連載を止めたくないので、かって拝観した美術展の中で、記憶に残る美術展の図録を頼りに、「美」の続きを書きたいと思う。最初に2012年に開催された「中国  王朝の至宝 2012年」を取り上げた。一応4回で終わりとし、今回からは1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の仏たち」を、取り上げたい。大和の国の仏たちは、私が大学1年生であった昭和27年(1963)からのお付き合いで、実に60年近くお参りしてきた事となる。この展覧会は1993年(平成5年)の春の開催であり、まだ「美」という論評を書き出す前の展覧会であり、30年近い歳月が経つ。しかし、大和の国は、大きな変化はなく、仏像は全く昔のままである。30年経ったじかrと言って古くなるものでは無い。私からすれば、昨日のような思い出である。しかし、細かに見れば、お寺の建物が新しくなったり、良く見れば変化はある。しかし、変化よりも「変わらない美しさ」が、何時までも魅了してやまない。是非、私と一緒に大和の古寺を巡ってもらいたい。

平城京跡   大極殿の跡地

現在は、立派に大極殿が再建され、この石の遺物を見ることは出来ない。こんなに桜が咲いていたのかと驚くばかりである。奈良へ行く人は、年間何百万人といるが、大極殿まで足を延ばす人は少ない。「大極殿跡」として、広い場所があるので、是非一度足を運んでもらいたい。

国宝  薬師寺 東塔  木造3階建  養老2年(718)

薬師寺の歴史は古い。天武天皇9年(680)、天皇が鵜野(うの)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願(ほつがん)し、藤原京の地(現在の橿原市木殿)に創建された。伽藍の造営は、持統天皇、孫の文武天皇まで引き継がれ、東西両塔を備えた寺院が建立されたが、和銅3年(710)の平城遷都に伴って、現在の地(奈良市西の京)へ移された。その時期は、文献では養老2年(718)とされているが、近年の発掘の結果、平城薬師寺の造営工事は、霊亀2年(718)には始まっていたことが確認されている。養老年間には、現在の東院堂の前身である東禅院が建立され、天平6年(734)頃までに主要伽藍は完成したと云われる。昭和50年代には金堂、西棟、中門が相次いで復興された。この写真は、東塔の昔の姿であり、金堂は新しく立て直された。      法相宗

国宝  聖観音立像  飛鳥~奈良時代(7~8世紀)  入江泰吉撮影

東院堂の本尊で,宝髻(ほうけい)は高く結い、丈帛(じょうはく)、裳をつけ天衣をまとい、胸飾、瓔珞などの装飾をつけ、通例の観音像とは逆に右手を垂加し、左手を上方に屈臂して直立する。正面から見ると、若々しい、青年のような表情と相まって体躯も非常に引き締まって見えるが、側面にまわると肉身の重厚さが見る者を圧倒する。金銅薬師如来像の両脇侍と、近い時期に制作されたと思われる。

重文  十一面観音立像  木造  奈良時代(8世紀)

薬師寺には、木彫の十一面観音立像が三体あり、本像はその中でも最古のものであるが、伝来に関しては不明である。檜の一木造りで、両肘先、両足先は別材を矧ぎつけ、背面に、後頭部肩から腰、腰から裳裾の三か所で内刳りを施し、別材をあてている。長年の風触のためか顔面の損傷がはげしいが、わずかに柔和な表情の輪郭を辿ることができる。頭上面は、、菩薩面が六面現存している。細かに抽出された胸飾りや臂釧(ひせん)には、かっての宝石が嵌入されていたようで、もとは華やかな美しさを備えたものであったのだろう。

国宝 僧形八幡神坐像    平安時代(8.9世紀)

 

国宝  神功皇后像     平安時代(8、9世紀)

国宝  興津姫命像     平安時代(8,9世紀)

南門前に位置する休岡(やすみがおか)八幡神社は、関平年間(889~898)に薬師寺別当の栄紹(えいしょう)が、宇佐八幡宮を勧請し、薬師寺の鎮守としたと伝わる。寺の鎮守として八幡神社をつくる例は、東大寺、大安寺などにあり、薬師寺でもそれに倣ったのであろう。この三像は、その祭神として祀られたのであろう。主神の僧形八幡神は、応神天皇に、二体の女神像は天皇の母である神功皇后と、天皇の后の仲津姫命にあてられている。制作年代は、八幡神社が建立された9世紀末頃と見られている。八幡神は、円頂(坊主頭)で袈裟をつけた比丘形につくられ、翻波式を交えた彫りの深い衣文が力強く表現されている。神宮皇后は左肘を立てて、興津姫命は右肘を浮かせて座す。両像とも頭上に髻(もとどり)を結い、豊かな髪を長く垂らす。着衣の形式も共通で、大袖の上に背子を重ね裙(くん)をつけている。胸元から長く垂れる紐は、背子の内懐紐と見る説と、裙の紐と見る説がある。本像は、平安時代の作でありながら、奈良朝の古式を踏襲した形で作られており、奈良・平安時代の服飾のあり方を感がえる上でも極めて興味深い作例である。

国宝 広目天立像 木造・彩色  鎌倉時代・正応2年(1289)隆賢・定秀作

国宝 多聞天立像 鎌倉時代 正応2年(1285) 隆賢・定秀作

東院堂の須弥壇上、聖観音像の厨子をとりまいて安置される四天王像のうちの二躯である。この四天王像は1986年に多聞天像台座框裏面の墨書名が発見され、鎌倉時代彫刻の基準作品として注目されることとなった。多聞天像台座の銘記によれば、この一具は正応4年(1296)に京都五條坊門の仏師法眼隆賢と駿河法橋貞秀により造立され、永仁4年(1296)に興福寺の絵師により彩色を施されたものである。正応2年(1289)は東院堂建立の弘安8年(1285)の4年後である。四駆の形・身色は、基本的には鎌倉時代初期の快慶作金剛峯寺像以後に一般的になる四天王像のそれに一致する。この形式は東大寺大仏殿の鎌倉再興像を典拠にしていると考えられ、南都の伝統に従うものである。

 

薬師寺と言えば、本尊の三尊像を思い浮かべるが、まさか展覧会に本尊を出品することはあり得ないことなので、それに続く聖観音立像をはじめ多数の仏像・神像が出品された。今回の解説は、僧形八幡神像や神功皇后像など、普段あまり取り上げない仏像・神像を取り上げた。薬師寺を最初に取り上げる理由は、数多くあるお寺の中でも官寺(天皇・国家が造ったお寺)だからである。当然、大安寺、東大寺も大きく取り上げられことになるだろう。乞うご期待。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」,和辻哲郎「古寺巡礼」、入江泰吉「大和路巡礼 平城京」を

 

中国王朝の至宝(4) 初めての統一王朝「秦」と「漢」

紀元前221年、それまで黄河と長江の上下流域で覇を競い合っていた諸国は、西方から進出してきた秦に相次いで滅ぼされた。ここに、中国史上初の統一王朝が誕生した。始皇帝(在位前221ー前210)による秦王朝である。秦はそれまでの社会体制を大きく変え、国ごとに異なっていた文字や度量衡、貨幣などを統一し、中央集権国家を実現した。急激な変革と強圧的な支配ゆえに、人心の反発を招き、わずか3世15年で王朝の幕を閉じたが、万里の長城の修築や、広大な宮殿(阿房宮)の建設、そして陵墓(秦始皇帝陵)の造営など、治世を象徴する空前の規模の事績によって、秦の立役者であった始皇帝の偉業をしのぶことができる。短命に終わった秦の次に中国全土を治めたのが漢である。漢は基本的には秦の諸制度を継承、発展しながら国家体制を整備し、また儒教を奨励するなど、統一王朝の永続的な運営基盤を築くとともに、周辺地域へも勢力を伸長し、秦をもしのぐ広大な領域を支配下に収めた。王莽(在位8ー23)による王朝の一時的簒奪があったものの、その前後を通して見ると、およそ400年間にわたって中国全土を統治したのである。漢字をはじめ、漢文、漢語、漢方、漢人など、後に中国全体を意味する言葉にこの王朝の名前が冠され、広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえでもあった。広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえである。長安と洛陽という前漢・後漢の周辺では、皇帝の陵墓をはじめとする数々の遺跡から、おびただしい数量の漢時代の文物が出戸し、かっての栄華を雄弁に物語っている。

踦射俑(きしぁよう) 陶・彩色 秦 前3世紀

秦の始皇帝(前259~前210)は13歳で秦王に即位すると、翌年から自らの陵墓建設に着手した。39歳で東方の六国を平らげて戦国の乱世に終止符を打ち、皇帝を号して郡県制の実施や度量衡の規格統一などの国家施作を実施した。50歳で亡くなると、2代皇帝の胡亥(こがい)によってかねて準備していた驪山稜に埋葬された。この陵墓の周辺には、等身大の陶馬や陶製人形(俑)を収める地下施設(兵馬俑坑)が作られた、本品は、戦車や兵士、戦馬など1372体とも言われる陶製の兵馬を収めた第2号坑から見つかった兵士俑である。この兵馬俑坑については、過去の@「美」で詳しく報告しているので、この1体に留める。

竹節柱博山炉(ちくせつちゅうはくさんろ)青銅・鍍金銀 前漢・前2世紀

博山炉は、大海の中にそびえる博山という山をかたどった香炉である。青銅製で、外面のほとんどの部分に鍍金を施すが、部分的に鍍銀を施している。台座には2頭の龍を浮き彫りで表す。2頭の龍は頭を上に向けて口を開け、ここから竹をかたどった柱が伸びる。節の部分には、細かい枝が枝分かれする様が表されている。柱の上部に香炉の身が乗るが、柱の上部から枝分かれするようにつくり出された3頭の龍の頭が香炉の身の下部を支えている。身の側面の上半には、後ろを振り返る4頭の龍の姿を浮き彫りにする。本作は博山炉としてはもっとも大きく、精巧かつ華麗に作られた屈指の優品である。

男性俑 1躯 前漢 前2世紀 陶、彩色

前漢第6代景帝(前188~前141)を葬った陽稜の陪葬墓から見つかった男性官吏の俑である。陶土の特性を十分生かして、実に巧みな人物表現を見せている。頭髪は額中央で左右に梳き分けて後頭部へおくり、梳き上げた後ろ髪でそれを覆っている。頭上には小さな冠をのせ、顎紐をかけて固定している。顔は墨線で太めの眉、瞳、髪を表し、口元には朱色をさしている。

女性俑 1躯 陶、彩色 前漢 前2世紀

男性俑を埋葬したのと同じ墓から出土した女性侍女の陶俑である。同墓出土の要はいずれも造形が巧みであり、前漢時代の髪形や服装を知る上で基準となる。頭髪は額中央で左右に梳き分け、耳の上を通して後頭部へおくり、後ろ髪と一束ねにして背中へおろす。途中で逸れを瘤状に縛ったのち、さらに腰まで垂加させる。顔は墨線で細くつりあがった眉、瞳を表し、眉に朱色をさす。着衣は右衽(うじん)であり、朱色と白色と藍色の三色の衣を重ね着し、その上に白色の長衣を身に着け、朱色の帯で縛る。これらの俑を埋葬した墓からは、「周応」の名を刻んだ銅印が出土している。史書の記載から、景帝の時代の鄲侯か縄侯のいずれにか封じられた人物と考えられる。

鴈形灯  1躯 青銅、彩色 前漢 前1世紀

後ろ向きの鴈が魚をくわえた姿をかたどった照明器具。鴈の背と魚の間にある円筒の中に火を灯した。円筒の側壁は左右に開閉することができ、照明の範囲調整や風よけといった機能を果たした。内部はすべて空洞になっており、灯火から出る煤は鴈の口から首を経由して腹の中に貯まり、外に漏れることはなかった。表面全体を赤、朱、白,黒などで着色している。青銅器の表面は総じて円滑であるのにも関わらず、絵具がこれほど見事にのって良好な状態を保っているのは、「漆」と報告されている粘性のある塗料を用いているほか、あらかじめ表面をヤスリで凹凸にして塗料のくいつきをよくしているためだろう。本作は漢代の青銅器の中でも、技術と趣向の面で最高の水準に達した傑作である。

馬  1躯  陶、施釉 前漢前2世紀~前1世紀

前漢第7代武帝(前156~前87)の陪葬墓におさめられていたもので、胴部と四肢、尻尾を別別の型で作り合わせた陶製の牡馬である。胴部は中空で、底面と臀部にのみ、四肢と尾をあわせるための穿孔がある。直立して胸を張り、ややうつむき加減の姿態、発達した頬骨などは、前漢時代に特徴的な馬の表現である。本来は表面に鉛釉をかkて焼成したと見られるが、その多くは剥落している。

玉舗首 1個  陶、施釉  前漢  前2世紀~前1世紀

重さ10Kgをゆうに超える大型の舗首で浮彫・線刻などの多彩な技法を駆使して一つの玉の塊から彫り上げている。表面は所々で風化しているが、この玉材が本来持っているきめの細かさや青味がかかった白の色つやは、現在もよく残っている。技巧と玉材の本来持つている自然の美しさが融合した漢代でも屈指の玉器である。漢の武帝を葬った茂稜の東南で出土した。付近には大型建築の遺構があり、茂稜付近の重要な門や建物の扉に玉舗首を使用していた可能性がある。

硯 1合 石 後漢 延憙3年(160)

蓋を伴う石製の硯である。硯本体にも蓋に華麗な装飾を施している。硯の本体は円盤状で、獣をかたどった3本の足をもつ。硯の上面の一角に耳杯(じはいー楕円形の身の両側に人の耳のような把手が付く食器)の掘り込みがある。磨った墨を溜めたのでろう。掘り込みの周囲には波を表したような文様を刻んでいる。硯の上面は平滑で、墨の痕跡がある。古代中国の石製の硯としてはもっとも手が込んだものである。出土した墓の規模から観て、有力な地方豪族の持物であったと考えられる。

 

始めての統一王朝である、秦と漢の遺物を紹介した。秦については、すでに詳細な報告をしているので、専ら前漢、後漢の遺物を紹した。

(本稿は、図録「中国 王朝の至宝 特別展 日中国交正常化40周年記念 2012年」を参照した)

中国王朝の至宝(3)特別展 日中國交正常化40周年記念 

殷の次に中原を支配した周の威光が薄れると、各地に諸侯が並び立つ春秋戦国の時代になった。黄河の下流域では、周の流れをくむ斉や魯が栄え、なお周の伝統を維持しつつ、諸氏百家といわれるような様々な思想・文化が花開いた。斉は、周建国の功臣であった太公望(呂尚)の封地として始り、臨淄(りんし)を拠点として発展し、第15代の桓公(かんこう)が覇者になるなど、春秋戦国時代を通じて大きな勢力を維持し続けた。魯(ろ)は、周王朝の隆盛に貢献した周公旦の長男・伯禽(はくきん)を祖とし、曲阜を都としながら、孔子などの名士を輩出し、文化的に大きな影響力を保った。ちなみに春秋という時代名は、孔子が著した魯の年代記と伝える「春秋」に由来する。長江の中流域では、黄河流域の諸国とは風俗習慣を異にした勢力、すなわち楚が隆盛を誇った。楚は強大な国を築いた。荘王の時に一時覇者となり、また戦国七雄の一つに数えられるほどである。中原諸国からは蛮族とみなされたが、土着的な信仰を色濃く残し、神秘的な姿をした神や獣を崇め、古来の神話体系を維持するなど、独自の高度な文化を展開したことが明らかとなってきた。いまに残る青銅器など、この時代の代表的な文物を選りすぐり、南方の雄であった楚と、中源の伝統に連なる斉・魯の文化を比較しながら、豊穣な古代中国文化の諸相を浮き彫りにする。

甲冑  1具 革・漆・絹 戦国 前4-前3世紀

漆塗の革を綴って作ったかち甲冑である。生の革を型で圧して定型化し、褐色の漆を塗るなどの工程を経て、絹の紐で綴って仕立てる。鎧は、上半身、裾、袖の紐の3つの部分から成る。袖の鎧は馬蹄形の革を綴ったもので、肩から肘までの外側の鎧は馬蹄形の革で綴ったもので、肩から肘までの外側を護る。発見された時、革はほとんど腐っており、漆の皮膜だけが残っていた。湖北省隋州市の曽侯乙墓でも、これとほぼ同じ形状の革製漆塗りの甲冑が出土している。曽侯乙墓の年代は前433年頃であり、これより100年以上古い。戦国時代の弧北省一帯では、こうした革製漆塗りの甲冑が長く飾られたことがわかる。

鎮墓獣  1基 木・漆・鹿角  戦国 前4世紀

戦国時代の楚の地域の墓からは、方形の台座の上に立つ怪獣の木彫像がしばしば発見される。その多くは頭に鹿角を挿し、舌を長く伸ばすという不思議な姿を見せる。これらは悪霊を退け、墓を守る目的で作られたと考えられ、鎮墓獣と呼ばれている。戦国時代の楚の領域以外では類例は見られないもので、楚の文化を代表する遺物と言っても過言ではない。

羽人(うじん) 1具 木・革・漆 戦国  前4世紀

獣形の台座と、鳥の頭に立つ羽人を一体で作った物からなる。両者の形状から見て、本来は、台座の上に何かが差し込まれ、その上に鳥と羽人が差し込まれたと想像されるが、中間に何があったのかわからない。現在、台座とその上部をつなぐ木製の柱は、修復の際に補われたものである。羽人とは、中国で古くからその存在が信じられた仙人である。その像はまだわからないことが多い。楚の独自の文化は国の滅亡と共に失われてしまった。この像は、失われた楚の文化を研究する上で貴重な資料となる。

虎座鳳凰架鼓(とらざほうおうかこ) 1具 木・漆・ 戦国 前4世紀

背を向け合った2頭の獣の上に、やはり背を向け合った首の長い鳥が立ち、2羽の鳥の間に太鼓を吊り下げる。台座は木の板で黒漆を塗る。四隅に、移動したり固定したりする時に用いる青銅製の把手を備えている。台座の上には、背を合った虎が一対配される。虎は黒漆を塗り、身には赤色で斑点を表す。虎は黒漆を塗り、身には赤色で斑点を表す。虎の背の上に鳥が立つ。2羽の鳥の胴は一本で連続して作られており、これに足と首を差し込むように作られている。鳥は首が長く、上を向く。とさかの後ろに太鼓を下げるための銅製の鉤(かぎ)がある。黒漆を塗って地とし、その上に赤黄・灰色の文様を描く。翼の部分には、細長いとさかを付け、足が細長く、尾が上を向いて翼を広げているさまを描く。虎の上に立つた鳥に太鼓を掛ける同様の楽器は、戦国時代の楚の墓から多数発見されているが、保存状態が良くないものが多い。本品も復元による部分が少なくないが、保存状態の良さは他を圧している。作りが複雑で豪奢であることから、実用の楽器というよりは宗教的儀式に用いた祭器と考えられる。楚の文化を考える上で貴重な資料である。

人物俑(じんぶつよう) 3躯 木・彩色 前漢・前2世紀

一木造りの人物像に白で下地を施し、黒と赤で着色している。いずれも右前合わせの長袍をまとい、袖の中で拱手して立っている。長袖の裾は左側から巻き上げて腰で留めている。襟元には長袍の下に着ているが赤い服がのぞいている。3体とも衣服、姿勢、髪を結った髪型にほとんど違いはない。頭頂部には小穴が穿たれており、出土時にはここに棒状の飾りが差し込まれていたという。馬王堆1号墓は前漢時代前期に長沙国の丞相(じょうしょう)を務め、対候(たいこう)に封ぜられた利蒼(りそう)の妻の墓である。約1000件もの副葬品の中には162体の木俑が含まれていた。ここに示した木俑はそのうちの3体である。被葬者が死後も生前と変わらぬ暮らしを過ごせるように、侍従として副葬されたものであろう。

豆(とう) 2合  青銅・紅銅  戦国 前4~前3世紀

身には細身の脚部と一対の環状把手を、蓋には4個の紐をそれぞれ別作りにしたうえで鋳接いでいる。大きさ、形ともほぼ同じ一対の豆であるが、装飾の細部には違いが見られる。たとえば、向かって左の個体のS字紐には嘴(くちばし)を持つ動物の横顔が表現されているが、もう一方のS字紐には顔の表現がない。両者とも全体の表面に褐色の紅銅を象嵌しており、周囲の青銅の文様帯を際立たせている。向かって右側の蓋は青銅の文様帯の上にも細い線を刻み込み、さらに紅銅を象嵌することで繁縟(はんじょく)な文様を生み出している。楚の貴族墓から出土した青銅製の豆の中でも、当時の金工技術を駆使して作った一対として特筆される。

猿形帯鉤(たいこう) 1個 銀・貼金・ガラス象嵌  戦国 前3世紀

猿が上体をひねって腕を伸ばしながら足を後方に蹴り上げる姿は、枝から枝へと飛び移る一瞬の動きを捉えているかのようである。表面を鎚鑃(ついちょう)や研磨などで整えることで、胴体と四肢では丸みのあるしなやかな筋肉を、顔ではくぼんだ眼窩と突出した周囲の凹凸を巧みに表現している。青ガラスの小珠を象嵌した瞳はつぶらで愛くるしい。銀製の身体のうち左手には金の板を貼り付け、表面の雲気文と背面には鍍金を施している。雲気をまとうこの猿はおそらく現実世界の動物ではなく、仙界に棲む霊獣の一種なのであろう。数ある戦国時代の帯鉤の中でも、本作は、造形、意匠、技巧などのあらゆる面で傑出している。

犠尊(ぎそん)  1個 青銅・金銀緑松石象嵌 戦国 前4~前3世紀

動物をかたどった青銅器の容器で、背中の中央に蓋が備わる。蓋は後ろを振り返る水鳥の姿をかたどっており、鳥の首がつまみになっている。動物の口に孔が開いており、蓋を開けて背中から入れた酒を口から注ぎ出す仕組みになっているものと思われる。しかし、重さ6.5Kgもある本作を持ち上げて酒を注ぐのは不便なため、酒を入れて祭壇などに供えることがおもな用途であったと考えられる。保存状態ももっとも良好である。犠尊の中でも白眉と呼ぶに相応しい本作は山東半島に勢力を誇った斉の都付近で発見されており、この地の高度な青銅文化をよく見て取ることができる。

佩玉(はいぎょく) 1具(11点) 玉  戦国・前4~前3世紀

合計11点の玉器を紐でつづったもので、腰や胸から垂らして身を飾った。もっとも上に配された壁は上部に方形の孔をもち、ここで紐を正面から背面に回す。壁の左右やや下寄りに小さな龍型突起があり、ここで紐を正面から背面に回す。壁の左右やや下寄りに小さな龍型突起があり、そのうち片方は背中の部分が欠失しているが、突き出された背中の部分が背面で分岐させた紐を正面に戻す環となっている。壁の下では、管と珠の同形のものを4対連ねている。その下の扁平な直方体の管が分岐していた紐は収斂され、最下部の弓なりに背中を持ち上げて後ろから振り返る龍形玉器に至る。柔らかい半透明の光沢、淡緑色に濃緑色の染みた色合いなど、玉の質感は11点ともみな一致していることから、すべて同一の玉材から切り出されたものと考えられる。本作は魯国の都城遺跡にともなう貴族墓から出土したものである。良質の玉材と精緻な彫刻による佩玉は、斉魯の玉器の中でも高い完成度を示している。

銀製高脚盒(こうきゃくごう) 1合 銀・青銅  前漢 前2世紀

身と蓋にそれぞれ杏仁形の文様を上下互い違いになるように並べている。杏仁形の文様は型を当てて外側に打ち出す鎚鑃(ついちょう)という技法によって施されている。蓋の頂部には伏せた牛をかたどった紐を3個配し、底部にはラッパ状に開く脚部をもつ。牛型紐と脚部は青銅製であり、銀製の身と蓋に後ろから溶接している。蓋の内部に「木南」の2字が刻まれている。本作は西方から将来された後に中国で青銅製の紐と脚部を追加したものと考えられている。たとえすべて中国で作られたものとしても、その器形や製作技法が西方より伝来したものであることは間違いない。本作は前漢時代前期に山東を領有した斉王の墓の器物坑から出土した。広東省、雲南省、安徽省(あんきしょう)の王墓や高級官僚の墓でも類例が発見されている。

 

戦国時代の前2~4世紀頃の出土物の中でも、特に優れた作品を選んだ。いずれも逸品であり、当時の楚・斉・魯の技術の高さが判る。中国の古代の技術の高さ、最後の将来物などには驚いた。正に5千年の歴史の古さ、深さに驚く器物であった。

(本稿は、図録「中国王朝の至宝 特別展 日中国交正常化40周年記念 2012年」を参照した)