徳川美術館(2)  大名の室礼と書院飾り

徳川美術館は、徳川家伝来の宝物を展示すると同時に、名古屋城の二の丸御殿にあった「広間・上段の間」を展示する施設でもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みでもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みである。この稿では大名の室礼(しつれい)や書院飾り(しょいんかざり)を、美術館内部に再現したものである。

広間・上段の間                   平成16年(2004)

この黄金色に輝く広間は、名古屋城二の丸御殿にあった「広間・上段の間」の再現である。ここは大名が公務を行う場であり、室内には押板(床の間の前身)・違棚・書院床という飾り付けの空間が設けられ、そこには武家の故実にそって、書画や香道具・文房具などが飾られた。床の間、違い棚と言っても、マンション住まいの人が多くなり、なかなか理解を得にくい言葉であるが、写真で見て頂きたい。正面の一番広い所が「床の間」であり、通常掛軸で飾るものである。ここは流石大名家だけあって三幅対の掛軸が掛けられている。これだけ広い床の間は珍しく、一般家庭では、掛軸は一本である。大名家の素晴らしい三幅対の掛軸を堪能して頂きたい。また、床の間の前に青磁三具足(せいじみつぐそく)が並んでいるので、これは別途解説したい。

押板飾り(おしいたかざり)

書院・広間と呼ばれる将軍や大名の接見場の中心となる押板壁(おしいたかべ)と呼ばれる壁面(一般家庭では「床の間」と呼ぶ)には、三幅対の掛軸をかけ、その前には花瓶・香炉・燭台からなる「三具足(みつぐそく)」を飾った中央卓(ちゅおうじょう)と呼ばれる机を据え、その両脇に立花(りっか)による一対の花瓶が飾られている。

青磁三具足(香炉・燭台・花生)

青磁三具足(せいじみつぐそく)(香炉・燭台・花生)・香合(こうごう)・火道具・木製の机を除き、すべて中国の元時代、明時代(16~17世紀)の名品である。

違棚飾り(ちがいだなかざり)

床の間の右側が違棚飾り(ちがいだなかざり)である。銀閣寺の書斎・同仁斎に設けられた違棚(ちがいだな)が、我が国初の違棚である。違棚の上段には、唐物の香炉(こうろ)や香箱(沈箱)などの香道具が乗り、下段には盆石(ぼんせき)や本来食物を収納する容器であった食籠(じきろう)などが飾られた。

書院飾り(しょいんかざり)

書院床は中世の禅宗寺院で僧侶たちが勉強するための出窓(でまど)が起源と言われている。中国の文人たちが心を清らかにしたり楽しんだりするために室内に文具類を飾った例にちなみ、硯や、筆やペーパーナイフを立て掛けておくための筆架(ひっか)・墨・文鎮・水注などを入れておく印籠(いんろう)などが飾られた。

中国明代の墨コレクション(唐墨)        明時代(16世紀)

徳川美術館には、中国や朝鮮、日本で生産された五百挺(ちょう)を超える墨が保存されている・そのうちおよそ八割が中国・明時代の墨で占められている。世界的にも極めて質の高いコレクションとして知られる。この墨は、方芋魯製百子駿(ほううろせいひゃくししゅん)と呼ばれる。

鎖(くさり)の間

名古屋城二の丸御殿にあった、茶室と書院の中間に位置付けられる座敷である。北向きに火灯窓(かとうまど)を設けた付書院(つけしょいん)のある三畳からなる御上段と、七畳の下段(げだん)(復元は3畳分)から成っている。これに続く中の間には、壁貼付け(かべはりつけ)の床が構えられ、炉が切られている。将軍家の使いである上使(じょうし)が訪れた際には、この部屋で茶が出された。

台子飾り(だいすかざり)

茶の道具一式が乗っている台である。明代・江戸時代のものが多い。

 

徳川美術館に再現された、名古屋城二の丸御殿の様子を、常設展として再現したものが、この稿の内容である。最も大名美術館らしい展示である。そこに展示された宝物は、いずれも一級品であり、中国の宋・明代、朝鮮王朝時代、江戸時代の一級工芸品ばかりである。一々、名指しで紹介することはしないが、一級品揃いであることは間違いない。しかし、個々のお宝の紹介よりも、大名屋敷、もしくは名古屋城の室礼を紹介することが目的であり、一度機会があれば、是非拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック  2017年」、図録「毛利家の至宝 2012年」、図録「二条城展  2012年」を参照した)

徳川美術館(1)  大名の数寄

徳川美術館は、江戸時代の御三家の筆頭である尾張徳川家に伝えられた、大名道具を展示公開している美術館である。尾張徳川家は家康の九男義直(よしなお)を初代とし、今から400年以上前の慶長12年(1607)に、この尾張の地の大名となった。この居城は言うまでも無く名古屋城で、石高は61万1500石で、尾張一国・美濃国の一部・三河国の一部、さらに信濃国の木曽山などを領地としていた。ここまで書くと、島崎藤村の「夜明け前」が思い出される。木曽山は、尾張藩の所領であり、「夜明け前」にもしばしば木曽山の記述が出てくる。徳川美術館の建っている場所は、「大曽根屋敷」と呼ばれた尾張徳川家二代光友の隠居所の跡地である。当初は総面積13万坪に及ぶ広大な敷地で、光友没後は、家老の長瀬・石河・渡辺の三家の別邸となっていたが、明治22年(1889)に、この屋敷跡の一部が尾張徳川家の所有となり、翌年に名古屋藩邸(戦災で消失)が建てられた。玄関正面に建つ門(黒門)は、その当時の遺構である。徳川美術館は、尾張徳川家19代公爵義親(よしちか)の寄付によって、昭和6年(1931)に創設された財団法人・徳川黎明会が運営する私立の美術館で、昭和10年(1935)に開館した。この古い徳川美術館は、私の大学時代の、唯一の常設展をする名古屋の美術館であり、私は毎月のように見学したものである。それが、私の美術鑑賞の基本知識になっていることは間違いない。収蔵品は「駿府御分物」と呼ばれる、徳川家康の遺品を中核として歴代藩主や夫人たちの取集品、婚礼の際の持参品などで、その数1万数千件に及ぶ。これらの中には、室町幕府の足利将軍をはじめ織田信長・豊臣秀吉ゆかりの名品も多く含まれている。明治維新、第二次世界大戦を通じ各大名家の道具がほとんど散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家の宝庫・コレクションで唯一まとまった存在であり、「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いかけに答えられるわが国唯一の美術館である。私が見た徳川美術館は昭和6年に建てられた古い美術館であったが、昭和62年(1987)秋に、地元の自治体や経済界・一般市民からの寄付によって、常設展示室を初めとする施設が充実し、更に平成16年(2004)秋に、尾張徳川家に伝来した貴重な書物を伝える蓬左文庫(ほうさぶんこ)や、池泉回遊式の大名庭園がよみがえった徳川園など、徳川美術館周辺が整備され、総合的に江戸時代の大名文化を体感できる施設となった。料理店、喫茶店も多数あり、半日程度を過ごすことの出来る楽しい美術館となった。残念なことは、特別展示を行う場合に、図録が発行されないことがある。名古屋文化では、図録の印刷も出来ないのであろうか。幸い、美術館では、現在は、ほぼ常設展示のみに特化して、常設展示図録は販売されている。やっと願いがかなった思いである。本稿ではまず、大名の数寄(茶の湯)を取り上げたい。

黒門  木造建築物           明治22年(1937)頃建設

明治22年(1889)に、ここに尾張徳川家・名古屋藩邸が建てられたが、昭和19~20年のアメリカ軍の大空襲により本邸は焼失した。幸いこの門(通称「黒門」)のみが残り、現在は徳川美術館の入口となっている。

徳川美術館の建物  鉄筋コンクリート製    昭和62年(1987)建設

蓬左文庫の建物    鉄筋コンクリート製    平成16年(2004)建設

蓬左文庫の裏側に当たり、正面の門は、道路に面して建つ。蓬左文庫は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、和漢の優れた古典籍を所蔵・公開している。様々な書籍は約11万点に及ぶそうである。昭和10年(1935)、徳川美術館が名古屋の地で開館すると同時に、蓬左文庫は財団法人尾張徳川黎明会所属の文庫として東京目白にある尾張徳川邸脇に開館した。第二次大戦を経て、昭和25年(1950)に名古屋市に譲渡され、徳川美術館に隣接する現在地で蔵書の管理と公開が行われた。平成16年(2004)秋の徳川園やその周囲の整備により、徳川美術館と蓬左文庫とが渡り廊下でつながり、大名道具を収蔵している徳川美術館と、蔵書類を収蔵している文庫が一体となって展示を行うようになった。

猿面茶室 数寄道具置き合わせ   木造建築物  平成16年(2004)建設

猿面茶屋は、もとは清州城にあり、慶長15年(1610)の名古屋城建築の際に移築された。「猿面」の名は床柱の上部の面取り部分に一対ある節が猿の顔に似ているところから名づけられたとする説がある。この茶室は、京都山崎・妙熹庵の「待庵(たいあん)」、京都建仁寺の「如庵(じょあん)」(現愛知県犬山市に移築)とともに日本の三名席の一つに数えられ、戦前は国宝に指定されていた。明治維新後は名古屋城を離れ、最終的には名古屋市内の鶴舞公園内に移築されたが、昭和20年(1945)の戦災によって焼失した。この展示室に造られた茶室は、残された図面をもとに忠実に再現したものである。写真は、その茶室の一部(数寄道具置き合わせ)を、写したものである。二代将軍徳川秀忠が、元和9年(1613)2月23日に、初めて尾張徳川家江戸屋敷にお成りした際に使用された道具立てを再現したものである。

窯変天目茶碗(油滴天目)大名物  中国・金時代(12~13世紀)駿府御分物

碗の内外に無数の星のような油滴があり、光にかざすと虹色に輝く天目である。室町時代かた名碗として珍重されていた。中国からもたらされた茶の湯の文化は、抹茶を飲む習慣に加え、このような茶碗や諸道具を日本に定着させた。

重要文化財 白天目  大名物          室町時代(15~16世紀)

白天目と言われる茶碗は、釉の色が薄い白青色である天目茶碗である。日本では油滴・窯変などに遅れて、室町時代末期頃から好まれたようである。産地については不明のものが多い。この茶椀の伝来は、武野紹鷗・新野新左エ門・徳川義直(尾張初代)である。この所有者によって、茶碗の価格が大きく変わるので、果たして美術品に入れて良いかどうか迷うものである。大名物は大名茶人・松平不昧が評価したものである。不昧は宝物、大名物、中興名物、名物並、上、下の6段階で評価している。しかし、上の部で国宝に指定されているものがあり、現在の評価とはやや違うようである。

井戸茶碗  銘  大高麗  大名物      朝鮮王朝時代(16世紀)

高麗茶椀の一種で、井戸、刷毛目、三島といった種類があった。大高麗の銘を持つこの茶椀は、井戸茶碗の代表的茶碗であろう。畠山記念館に重要文化財に指定された井戸茶碗がで銘を細川という茶碗を「美」に紹介した記憶がある。この大高麗も、細川と比較して見劣りしない優品である。徳川家が所有し、家康没後の「駿府御分物」の一つであり、天下の名碗であろう。

重要文化財 織部筒茶碗  銘 冬枯    桃山時代(16世紀)岡谷家寄贈

織部茶碗は、私は好きであるが、古田織部の作陶した茶椀が、徳川家に伝来することが不可解であった。織部は千利休没後、慶長年間のはじめに「茶の湯名人」となり、寂びた茶を極めて師の利休とは対照的に、新しく大胆な奇抜な造形性を見せ、斬新な美の世界を創造した。歪んだ器形や抽象的文様を描き、数寄屋御成に対応した新たな武家茶の規範を創ったとされた。しかし元和元年(1615)大阪夏の陣に際し、家臣木村宗喜の反乱が露見したことを契機に、伏見の屋敷に幽閉され、6月11日、伏見自邸で子の重弘とともに自刃(72歳)した。誠に不思議な事件であり、デッチアゲと私は見ている。利休に続いて、織部まで2代の家元が自刃したことは不可思議な事件である。徳川家に背いた茶匠の茶碗が尾張徳川家の家宝として伝来したことに不審を抱いたが、その理由が直ぐ分った。この茶碗は、岡谷家寄贈品であり、徳川家伝来の品ではなかった。私は、織部焼のこの冬枯が好きである。筒型の茶碗は、お茶を立てる時に立てやすい点が特徴である。

南蛮水指  銘 芋頭  大名物    中国  明時代(16世紀)

東南アジア方面で焼かれた陶器であり、茶人たちはその素朴な味わいを愛好した。武野紹鷗の遺品である。豊臣秀吉が所持した由緒があり、「天下一」の水指とされた。伝来は次の通りである。武野紹鷗・豊臣秀吉・徳川家康所用(駿府御分物)

竹茶杓  銘  泪(なみだ)  千利休作  名物  桃山時代(16世紀)

天正9年(1591)2月23日、豊臣秀吉に切腹を命じられた利休は、淀から舟に乗って堺へ謹慎のため、一人旅たった。多くの茶の弟子がいたが、この船着き場に来た者は細川忠興と古田織部の2名のみであった。他の大勢の弟子たちが、秀吉への配慮から別れの場には顔をださなかった。この二人に対し、利休は自ら竹を削った茶杓を形見に分け与えた。忠興に渡った茶杓は「いのち(命)」と命名され、織部は「なみだ(泪)」と命名した。「いのち」は行方不明であるが、「なみだ(泪)」は、古田織部が茶杓の箱に長方形の窓をあけてた筒を作り、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。これを見るのが、徳川美術館を見学した真意であった。伝来・千李休作・古田織部・徳川家康・駿府御分物。

 

徳川美術館は20年ほど前に、新しくなった美術館を拝観した。それは年紀によれば昭和62年(1987)に地元自治体や経済界の寄付によって、展示施設が一新した時であった。今回は、それから10数年を経過し、年紀によれば平成16年(2004)秋の蓬左文庫や池泉回遊式の大名庭園がよみがえり徳川園として整備された後になる。大学時代に毎月通っていた徳川美術館は、すっかり変わり、大名美術館としては、全国に誇れる素晴らしい美術館、徳川園に生まれ変わり、実に見甲斐のある常設展示であった。なお、大名美術園としては私が知っている範囲では毛利美術館が山口県にある。それは美術館としては古くなり、常設展示品も、長州が薩摩と組んで徳川幕府を倒そうとした、極く近代の展示物が大半を占めて、到底大名美術館と呼べるものではない。但し、秋には雪舟作の「四季長図」(山水長巻)が1ケ月間展示される。これが展示される期間こそ大名美術館と呼べる美術館である。しかし、徳川美術館には国宝「源氏物語絵巻」(12世紀)、(現存最古の源氏物語絵巻)がある。本来、武家の美術館であれば、「武具」の展示が有る訳であり、徳川美術館でも、まず「武家のシンボル」として「武具、刀剣、甲兜」が展示されている。しかし、私は武具、中でも刀剣を美術品とは思っていないので、全く触れないことにした。これは、私個人の好みの問題であり、刀剣に興味のある方には、それはそれで多分満足して頂けるものだろうと思う。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック」、図録「毛利家の至宝  大名文化の精粋・国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開  2012年」、山本兼一「利休にたずねよ」、図録「没後400年  古田織部展  2014年」を参照した)

府中市美術館  長谷川利行展(下)

昭和11、12年(1936,37)には、驚異的な個展記録が記されている。その昭和11年(1936)、新宿の中村屋の裏辺りに、高崎正男の経営する天城画廊がオープンし、6月から12月までの半年で、5回の長谷川利行個展を開催した。昭和12年(1937)には、9月までに8回の個展。更に昭和12年(1937)12月、14回目の個展を開いたが、これが最後の個展になり、個展を終えて、翌年天城画廊も閉館した。兎に角、すざましい個展ラッシュである。昭和12年の6月に、利行は新宿に移転してきて、そこの木賃宿へ入った。矢野に言わせると、利行は「絵具とカンバスを買い与えられ、酒をおごられ宿賃を保証され、その代わりに何百枚かの油絵やデッサンを天城に渡した」そうだった。そうしてこの9月に、二科展に大作の出品をしたが、それが最後の二科展であった。天城画廊閉鎖の後、利行は、また新宿を去った。胃癌の痛みに苦しんでいた。二科展最後の作品は「白い背景の人物」であった。昭和10年(1935)以降に描いた、小さい作品は多数残っている。高崎が管理し、商売し、その以前に、良質の画材を提供し、制作をうながして、それだからこそ、これだけ多数の作品が残ったのであろう。どんづまって、窮乏生活も極まった。身体は恐ろしく衰えた。戦争は拡大し、浮浪・非国民は、どこを向いても行き場が無くなった。そんな中で、ついに路上で倒れ、東京市養育院で誰に看取られることなく49歳の生涯を閉じた。

二人の活弁の男 油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 信越放送株式会社

活弁とは「活動写真弁士」の略称で、無声映画の時代にスクリーンのそばで物語の筋や状況を解説し、登場人物の台詞を代弁する役割を担う職業である。当時唯一の映像であった映画を楽しめるか否かはこの弁士の力量に左右され、腕の良い弁士は大変な人気となった。利行がこの絵を描いた頃は、徐々にトーキーの上映が増え、弁士の需要に陰りが見えてきた時期ではあったが、彼の交友関係には弁士の名も現れ、絵の「弟子」となった者もいた。利行特有の素早い筆による背景の中に表された二人の姿からは、それぞれの人物の内面まで伝わってくるように感じられる。

矢野文夫氏肖像  油彩・カンヴァス  昭和8年(1933)  個人蔵

矢野氏は、利行の最大の理解者として多くの時間をともに過ごし、彼の死後はその芸術の顕彰につとめた詩人・矢野文夫氏である。利行も「仲の悪い兄弟のよう」と矢野宛ての書簡に綴っている。白い顔で少し俯くように画かれた青い服を着た矢野の体は、奔放な朱や白い線に覆われ、背景に溶け込んでいくようである。

大和家かほる  油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

「どじょうすくい」で知られる出雲地方の民俗芸能・安来節は、大正期の全国巡業を機に全国的な流行を見せる。浅草で初めて安来節公演は大正11年(1922)、出雲出身の姉妹、春子、八千代、清子による「大和家三姉妹一座」によるものと言われ、一座はその後も永く公演を続け人気となった。和装の女性の横顔を描いた本作には「大和家かほる」の名が書かれており、おそらくこの一座の座員であるだろう。静かで落ち着いた雰囲気の肖像画となっている。

安来節の女 油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

画家仲間の熊谷登久平は「当時、隆盛であった安来節の小屋で、絵を描いたものである。酒気を帯びた彼は、安来節のはやしがとても愉快であったらしく、三味や太鼓に合わせて、歌いながら絵を描いていた」と回想している。舞台の芸人を描いた本作は、まさにそのような状況で描かれたものであろう。

上野広小路  油彩・カンヴァス  昭和11年(1936) 宇都宮美術館

道路には、少ない車が走っており、路面電車の軌道もみることができる。道路脇には、人影のようなものが見えるが、はっきりと描かれていないため、その存在は街の中に溶解していくようだ。視線を上に向けると、高くそびえる電信柱とそれを結ぶ架線が画面を分断している。窮屈な印象を受ける。外神田方面から上野公園の方向を眺めた広小路である。

四宮潤一郎氏像  油彩・カンヴァス 昭和11年(1936)  個人蔵

四宮潤一は美術評論家で、アヴァン・ガルド芸術家クラブに所属し、自由美術協会顧問を務めた人物である。矢野文夫氏によると、四宮は日本画家・松林桂月の弟子であり、利行と矢野が水墨画を始めるにあたり手ほどきをしたという。しかし、彼らが水墨画を始めるのは、体調悪化により利行が油絵を描く気力をなくした昭和14年(1939)頃のことである。モデルは知的ですました表情がよく捉えられている。

新宿風景 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」では、この絵について、次のように紹介している。「奔放な生活を続ける利行の表現主義的な激しい画風がよくうかがわれる。特に白を基調とした色彩配合が美しい」まさか、長谷川利行が、日本美術全集に乗っている訳はないだろと確認の意味で探してみたら、思いがけなく、この記事を発見した。なお、記事の続きとして、次のような言葉でまとめている。「奔放な筆使いによる原色の輝きの強い独自の画風を作り上げた。文章家でもあり、独学の人で、しかも激しい原色調を好んだところは、初期のヴラマンクに似ているが、ヴラマンクよりいっそう幻想的であり、荒涼とした詩境を感じさせる。昭和2年、二科展で樗牛賞を受け、その2年後に「1930年協会」展で同協会賞を受賞、その後もずっと二科展には出品を続けたが、その放浪の生活とあまりに汚れた風態のために、ついに会員には推されなかったという。つまり彼は、最後まで画家としての純粋な魂を持ち続けた生活破産者だったのである」ほぼ、結論めいたものとなった。

ノアノアの少女 油彩・カンバヴァス 昭和12年(1937) 愛知県美術館

ノアノアもまた、当時新宿にあったカフェのこと。利行はそこで個展を開いたこともあった。この作品は、そこで働く女性をモデルに描いたものの一点である。この作品のほかに、顔だちも服装も異なる作品が数点残っている。パーマをかけた髪、丸いバックルの付いたベルトという当時流行のファッションに包まれたこの女性は、誰よりも首が長く、そしてチャーミングに描かれている。

白い背景の人物 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937) 個人蔵

白く塗り込めた背景のなか、今まさに描かれたばかりのように瑞々しく輝く画面を切り裂くような強い鋭い線描が光る。そこにぼんやりと居並ぶ5人の人物の顔が浮かび上がり、その間に見える緑の線は植物のように見える。この展覧会の直前に発見された50号の大作である。利行は昭和12年(1937)、第24回二科展に「夏の女」と「ハルレキン」を出品している。「ハルレキン」は、上野精養軒のビヤガーデンの藤棚で女が数人立っている様子を、白ペンキなどを使ってわずか30分程度で描き上げ、そのまま二科展に搬入したものであったと、現場に立ち会った海老原省象や岩崎把人が証言している。なお「ハレルキン」とはドイツ語で道化師の意味である。本作が二科展に出品された「ハレルキン」に該当する可能性が高い。

荒川の風景  油彩・カンヴァス  昭和14年(1939) 府中市美術館

昭和13年(1938)、利行は天城俊彦と袂を分かち新宿を離れ馴染み深い浅草付近の簡易旅館や友人宅を転々とする生活に戻った。病により衰弱し、歩き回る体力も絵を描く気力もない利行だが、ただ寝て過ごす場所も金もなく、日々荒川付近を放浪した。本作は夕暮れ時だろうか、荒川の川面もわずかに赤みを帯びている。電信柱を描く線は細くかすれ、対岸の「お化け煙突」の影もどこか頼りなげに揺れる。寂寞として荒涼感が漂っている。

 

私の尊敬する土方定一先生は「日本の近代美術」の中で次のように述べている。「関東大震災と前後して、20世紀の前半に次々と現れた近代美術のさまざまなイズムが、フォーヴィスム、キュービスム、シュールレアリスムが紹介された。これらの作家は、二科展に出品すると同時に、1930年協会を設立して、昭和元年に第1回展を開催した、(中略) 出品者の中にはファン・ゴッホ風の筆触と色彩で「瓦斯会社」などの工場風景を描き続け、二科第14回に樗牛賞をうけた長谷川利行(1891~1940)らがいた。長谷川利行は昭和15年に施療病院で貧困とアルコール中毒のなかでくもらされなかった魂の宝石のような小品を描きつづけて死んだ。」この言葉を、長谷川利行の霊魂に捧げたい。

 

(本稿は、図録「長谷川利行展   2018年」、図録「名品選  東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄  池袋モンパルナスとニシカムイ美術村2018年」を参照した)

府中市美術館  長谷川俊行展(上)

戦前・戦中の日本を破天荒に生きた画家・長谷川俊行(1891~1940)が亡くなって、80年近い歳月が流れた。これを機会に、全国五つの美術館で「長谷川利行展」が開催されることになった。私は、近くの府中市美術館で観覧できる機会に恵まれた。実は、先に「美」に書いた「東京⇄沖縄、池袋モンパルナスとニシムイ美術村」で、俊行の絵画2点を紹介している。また、東京国立近代美術館の「MOMANT展」でも、1枚紹介している。最近、行方不明と伝えられた絵画が2点発見され、その都度話題を集めた。今回は、油彩、水彩、素描、ガラス絵等約140点を集めて、改めてその画業の全貌を展望し、利行の芸術について深く考える機会が提供された。多分、2度と見ることの出来ない展覧会であると思う。長谷川利行は京都に生まれ、若い時期には文学に傾倒し、自ら詩集も出版している。30歳頃に上京し、本格的に絵画を志して作画活動に没頭し、遅まきながら36歳で第14回二科展樗牛賞、翌年には1930年協会展で奨励賞を受賞する等、一挙に画家としての天賦の才能を開花させた。しかし、生活の面では、いつしか定居を持たず日銭暮らしを送るようになり、ついに東京市養育院で49歳の生涯を閉じた。彼の描く絵画は、フォーヴィズムとも呼ばれたが、私は、戦前・戦中の東京の下町を生き生きと描いた生命感あふれる画家であったと思う。掲載は1回で済まそうと思ったが、その魅力に引きずられ、2回の連載にすることにした。絵画は、原作を見ないと理解できないもので、もしご希望ならば府中市美術館まで足を運ぶことをお勧めする。開催は7月8日までである。

自画像  油彩・カンヴァス  大正14年(1925)頃 個人蔵

関東大震災後、俊行(としゆきー私は「りこーさん」と呼んでいる)は東京から京都に戻っている。帰郷しても父とは別居し、伏見稲荷近くのアパートに一人住み、絵を描いていたらしい。本作はこの頃に画かれたものである。関東大震災は利行に大きな衝撃を与えたと思われる。この作品からは、強い意志の持主であることが感じられる。何か深く思いつめている表情である。画家には自画像が多いものであるが、利行には、この1点しか、自画像は確認されていないそうである。

田端変電所  油彩・カンヴァス 大正12年(1923) 広島県立美術館

新光洋画会第4回に初入選した作品である。本作により長谷川利行は画壇へのデビューを果たした。早く入選して画家として身を立てたいという焦りがあってか、二科や春陽会に落選を続けていた。漸く入選したのが本作である。当時、鉄道は漸く電化されつつあった。変電所は目新しい建造物であった。東京のモダンな姿を捜し歩いていた利行にとって、変電所は格好の画題となったのであろう。柵の強い縦の黒い線、屋根と支柱の赤い斜めの線は、対比をなし、この絵にリズムを与えている。冒頭論文を寄せられた美術史家・原田光氏は、結論として「利行は、やはり、線の画家だと思う」と述べられている。正に、その通り、黒い線、赤い線が、この絵の見所であろう。

酒売場(PUB) 油彩・カンヴァス 昭和2年(1927) 愛知県美術館

第14回二科展で樗牛賞を受賞した代表作である。行き付けの浅草神谷バーの店内を描いたものである。恐らく店内にカンヴァスを持ち込み、速写したものであろう。昭和30年代の神谷バーと殆ど変っていない。店内の騒めき、食器やグラスの響きが聞こえてきそうである。それは赤や緑といった色彩の交響によって引き起こされた効果である。この絵では、文字通り、音色が色に置き換えられいるのである。速写のスピードが店内の光と音を一つのものにしている。

浅草停車場 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 泰明画廊

浅草停車場は、現在の東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅に当たる。明治35年(1902)の開通時は吾妻駅と言った。明治43年(1910)、浅草停車場として整備され、貨物や旅客の起点となった。大正期には東京市電も延び、交通の要として発展した。この作品においては、駅を生き交う群衆を見事に捉えている。個々の人物の表情や姿は、簡略化され、大きな一つの塊として表現されている。そこにこの絵の新しさがある。

機関車庫  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928)頃 鉄道博物館

第14回二科展樗牛賞の大作(100号)であり、意欲に満ちている。赤煉瓦の車庫の中に黒い機関車が生き物のようにうごめいている。いきなり100号の大作であり、見ていても驚く。第4回1930年出展作である。「鉄道博物館」の所蔵であり、誠に所を得た「作品」である。

夏の遊園地 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

描かれたのは、大正11年(1922)開園の荒川遊園地である。近くになじみの銭湯があって、利行は初期の描き方で、対象の骨格を素早くカンヴァスに刻むように筆を運んでいる。色と形は溶け合っていない。夏の夕暮れのなか、人気(ひとけ)はなく、暑気をはらんだ空気が漂っている。原色を多用しながら、水彩画的な淡い彩やかすれによって、広場の孤独をたくみに描き出している。第15回二科展で出品され好評を得た。100号の大作である。

カフェ・パウリスタ油彩・カンヴァス 昭和3年(1928)東京国立近代美術館

本作は1911年に東京の銀座に開店したカフェである。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草か神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白といった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっけとなり再び世に出てきた。額もなく、かなり汚れた情愛だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を甦らせた。私は、MOMANT展で何度も視ているし、この「美」でも取り上げたことがある。長谷川利行の代表作である。

靉光像  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

靉光(あいみつ)は若くして夭折したため、作品の数は少ない。しかし、彼に対するファンは実に多い。作品数も少なく、中々お目に懸れない。そんなこともあって靉光のファンは、満たされない思いが何時も強い。靉光は利行の画友である。利行と靉光ともに1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会奨励賞を受賞しており、この頃に出合ったと思われる。なお、同賞は翌年利行も受賞している。彼と靉光は16歳離れており、一時期、靉光は利行の影響を随分受けていたという。昭和3年(1928)、利行は靉光のポートレートを描いた(本作)。靉光は作品を見て喜んだことだろう。利行は靉光をはじめ若い画友たちに親愛の情を抱き、彼らも利行を慕っていた。

岸田国士像 油彩・カンヴァス 昭和5年(1930) 東京国立近代美術館

岸田国士は劇作家として著名な人物である。矢野文夫を介して、利行は強引にモデルを依頼した。胸に白いハンカチを入れ、黒い礼服姿の岸田を利行は勢いよく描いた。岸田の表情には、明らかに戸惑い、困惑していることを窺わせる。「肖像画の押し売り」にあい、さらに金をたかられるのではないか?その不安は的中した。岸田は肖像画の完成後も利行の襲撃を受けたらしい。1931年(昭和6)の第18回二科展出品作であり、好意的に受け取られたようである。

水泳場  油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 板橋区立美術館

「女」、「ガスタンクの昼」とともに昭和7年(1932)の第19回二科展に出品された作品である。50号の大きさで、利行の作品としては、大作の中に入る。関東大震災からの復興の一環として、東京市が墨田区公園内に造った水泳場(プール)を描いたものである。二科展での評価は賛否相半ばしたようだが、白い雲の湧き上がる夏の青空の下で、水泳場に集い、水泳を楽しむ大勢の人々の姿を素早いタッチで描かれ、画面全体に散らばる鮮やかな原色とも相まって、賑やかで明るいざわめきが伝わってくる。この作品は、長い間、行方不明であったが、10年ほど前に再発見され話題となり、板橋区立美術館に保管されている。

 

美術史家の原田光氏の「利行の幸福」という冒頭論文によれば、長谷川利行は二科展への出品が制作の背骨となっていたそうである。氏の論文によれば、次のような年賦が付けられている。                          大正12年(1923)と大正14年(1925)は落選           大正15年(1926)  第13回二科展  「田端変電所」、初入選    昭和2年(1927)   第14回二科展  「酒売場」樗牛賞受賞     昭和3年(1928)   第15回二科展  「夏の遊園地」他       昭和4年(1929)   第16回二科展   「子供」他         昭和5年(1930)   第17回二科展  「タンク海道」他       昭和6年(1931)   第18回二科展  「岸田国士像」他       昭和7年(1932)   第19回二科展  「水泳場」他         昭和8年(1933)   第20回二科展  「風景」他          昭和9年(1934)   第21回二科展  「割烹着」          昭和10年(1935)  第22回二科展  「鋼鉄場」他          昭和11年(1936)  第23回二科展  「裸女」他          昭和12年(1937)  第24回二科展   「夏の女」、「ハレルキン」

合計25点、この内、今も見ることができる作品は12点か13点、他の作品は行方不明か消失であろう。ほぼ半分の作品が残っている。よくぞ残ってくれたものだ。二科の効果があったのではないかと、原田氏は推測している。原田氏は、最後の出品作の「夏の女」、「ハレルキン」の内、どちらかが「白い背景の人物」(下で講評する)ではないかとも推定している。それは「下」で掲載し、論表したい。長谷川利行が描いた場所は、荒川より南、駅名で言えば、尾久、田端、日暮里、上野、御徒町辺りが多い。新宿、渋谷にも出没した形跡がある。活躍したのは大正末期から昭和15年頃までであり、私が生まれた頃に該等する。

 

 

(本稿は、図録「長谷川利行展  2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄展 池袋モンパルナスとニシイ美術村  2018年」を参照した。)

プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画

プーシキン美術館は、帝政ロシア時代の実業家セルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフという伝説的な二人を中心とするコレクター達が収集した秀逸な西洋絵画コレクションとしてその名が知られている。プーシキン美術館の歴史をたどれば、1912年に「モスクワ大学付属アレクサンドル三世美術館」として開館した。1917年にロシア革命が勃発し、社会主義体制が敷かれて個人コレクションは国有化され、多くのコレクターは海外へ亡命した。シチューキンとモロゾフのコレクションは邸宅ごと接収され、西洋近代美術館(旧モロゾフ邸)に統合された。レニングラードのエルミタージュ美術館から多くの美術品がモスクワに移され、これを統合して「国立モスクワ美術館」に改組された。1937年に詩人プーシキンの没後100年を記念して「国立プーシキン美術館」に改名されて、今日に至っている。旧友Y君と二人で、この「プーシキン美術館展」を見学に出かけのは5月18日であった。当日は、思いがけない「65歳以上無料」の日に当たり、高齢者集団の混雑する中の1名として、無料で参観出来ることとなった。この美術展が日本で開催されたのは、今年が「ロシアにおける日本年」「日本におけるロシア年」に当たり、国立プーシキン美術館の所蔵品による「プーシキン美術館展ー旅するフランス絵画展」を開催することとなったのである。この展覧会は、風景画に焦点を当てたものであった。この企画は17世紀から20世紀のフランス絵画における風景画を紹介することが目的であつた。西洋画において、風景画の地位は極めて低いものであり、宗教美術を頂点とする絵画の序列の中では最下位に近い位置付けであった。しかし、フランスにおいてバルビゾン派の台頭や、19世紀の新しい絵画の道、印象派やポスト印象派の誕生・隆盛により、風景画の地位は高まった。65作の秀作が展示されたが、私は19世紀から20世紀にかけて、馴染みの深い作家中心に解説を試みたい。なお「プーシキン美術館展」を是非観たいという要望は、旧友Y君からの声で、「ロシアを訪ねた際にプーシキン美術館を見たから」という理由であったが、私は、中でもモネの「草上の昼飯」を視たいという願望で見学したようなものである。

山の小屋 ギュスターブ・クールベ作 油彩・カンヴァス  1874年

1871年3月、普仏戦争敗北後のパリに、労働者階級を中心とした、いわゆるパリ・コンミューンが樹立された。4月にクールベはその議員に選ばれ、革命側に立って活動した。しかし、間もなくコミューンがヴェルサイユ政府軍により鎮圧されてからは、クールベは、ヴァンドーム広場のナポレオン記念円柱を破壊した責任を問われ、サント=ベラジー監獄に抑留されてしまった。1873年には円柱再建の賠償金として財産が差し押さえられ、身の危険を感じたクールベはスイスへの亡命を余儀なくされた。雪で覆われたアルプス山脈が遠く背景にそびえる、慎ましやかな山小屋の風景である。亡命先で手掛けられた本作品は、クールベ晩年を代表する1点である。軒先に干された洗濯物、煙突から上がる煙は、そこでクールベが営んだ日常生活を偲ばせるものであろう。1877年、故郷オルナンに思いを馳せつつ、失意のうちに58歳の生涯を閉じることとなった。

刈り入れする人 レオン=オーギュスタン・レルミット作 油彩・カンヴァス1892年以前

レルミットはミレーからの影響を受けて、もっぱら農村部の日常生活を絵に描いていった。油彩に限らず、木炭やパステルを積極的に取り入れた点で、新しいタイプの農民画家であったと言えるであろう。黄金に輝く麦畑で刈り入れ作業にいそしむ二人の女性を描いたものである。農作業にともなう苦労はあまり強調されず、むしろ自然と共に生きる、農婦たちのたくましさに焦点が当てられている。クールベ的な写実主義を見る観がある。レルミットの作品は、同時代の画家たちからも注目を集めていたそうである。とりわけフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は熱心な受容者の一人であり、ゴッホは、画商であった弟テオに、その複製画を送るようにしばしば依頼したことが図録に記されている。(ゴッホの手紙「岩波文庫中巻、下巻」では見当たらない)

庭にて ムーラン・ド・ラ・ギャレットの木陰 ピエール=オーギュスト・ルノワ-ル作 油彩・カンヴァス 1876年

パリの街の北端にあるモンマルトルの丘は、パを見下ろす絶好の地である。19世紀後半には、パティニヨール地区を含むこのあたりがパリ市に編入されるまでは、畑や風車のある郊外の田舎の村であった。産業革命の影響で風力より蒸気機関が動力源として有力になると製粉業を営んでいたドブレー親子は、風車だけを残して、製粉小屋を田舎風の舞踏場に改装した。城壁で囲まれていた古いパリ市との境界線上にある地域には、舞踏場や安い居酒屋などが軒を連ね、庶民の憩いの地になった。モンマルトルの丘の中腹にあるムーラン・ド・ラ・ギヤレットの舞踏場は特に有名であった。1876年にルノワールの名作「ムーアン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」を描き、2017年に初来日した。(2016年8月9日「黒川孝雄の美」参照)この「庭にて」は、「舞踏場」を描く準備段階で描かれたものと思われる。「舞踏場」の前景に座る女性のドレスは、本作品に描かれる青いストライプのドレスとよく似ていいる。ルノワールは親しい友人たちにしばしばモデルを依頼し、近代生活を楽しむパリの人々を描いていた。この集まりに指し込む陽光や人物たちの重なり合うような配置は、彼らの親密さを強調しているようである。印象派の特徴の一つに戸外制作が挙げられるが、「舞踏会」と同様に、戸外制作ののち、適切な光のもとでアトリエで手直しがなされたと思われる。

草上の昼飯 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 130×181cm 1866年

私は、オルセー美術館展(2014年)で、この絵の巨大な作品を見て、「黒川孝雄の美」(2014年8月11日)に記している。「モネは1865~66年に大きな「草上の昼飯」に取り組んだ。モネはまず準備習作に取り組み、次いで秋にはパリのアトリエで大きな絵画(縦4M、横6M以上)を制作した。この作品にはエドュアール・マネに対しての挑戦でもあった。1866年のサロンに出品されるはずであった。しかし、モネは絵を完成させることなく、アルジャントュイュの債権者へ預けた。そしてモネが1884年に買い戻したときには、湿気の多い地下室に保管していたことで傷んでしまったことが分かったので、二つの断片に切り分けたのである。しかしながら、左と中央の部分の二つの断片が残されていて、これは幸いにオルセー美術館のコレクションに入り、今日では隣り合っている。」今回のプーシキン美術展では、この完制作が見られるということが最大の話題であり、私自身も大いに楽しみにしていた。また、主催者も、この絵が最大の話題になることを期待しているように、案内書の写真は、モネの「草上の昼飯」であった。この作品は、上記の「創作準備に取り組み」とある、準備作品(下書き)を完全に仕上げて、ロシアのコレクターに売ったものであろうと思う。(諸説あり)完全に完制作として創られていた。モネの作品を見ていて、一番左に位置する画家はモネ、その隣はモネの妻カミーユと思う。不思議なのは右端の白樺に書かれたPと言う文字と、ハートのマークに矢印が突き刺さっていることである。何かを象徴するものだろうが、私には不明である。もうひとつ、白樺の右下に一人の紳士が潜んでいる。誰か?目的は?いずれも不明である。パリからピクニックに来た若者たちの楽しむ風景は美しいが、不明な点も多い絵である。縦130、横180cmの意欲作であり、当日の一番人気の作品であった。

ジヴェルニーの積みわら クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1884~89年

1883年4月、モネはパリの北西65キロほど離れたジヴェルニーに家を借りた。この地は余程気にいったのであろう。モネは7年後にその家と土地を買い取り、1926年に86歳で亡くなるまで、この地で過ごした。さて、この「積みわら」の絵は、丘とポプラ並木を背景に、陽の当たる場所に丘とポプラ並木を配し、日陰には大きく干し草の山が描かれている。日陰の大きな積みわらに灰色がかった縁取りが施されており、モチーフの周りで揺れ動く光や大気に対するモネの関心の高さが読み取れる。同じような角度から、同じポプラと積みわらを描いた2点の作品が残されているそうである。この連作という行為は、ジャポニズムの大きな影響だろうと思う。北斎の富嶽三十六景等に触発されて、この時期、連作がいろんな作家が描いている。典型的なのは、同じ時期に制作された「エッフェル塔三十六景」という作品等であろう。(「北斎とジャポニズムー2017年」)

白い睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1899年

ジヴェルニーに移り住んで10年を経た1893年、モネは自宅に隣接した土地を購入した。そこに水を引き、睡蓮を育てて、太鼓橋をかけ、自邸の庭に自らの理想の風景を造り上げていった。1897年、モネは敷地内に第二のアトリエを建設し、睡蓮をはじめとする庭のモチーフに精力的に取り組んで行く。最晩年までに200点以上もの作品に睡蓮を描くが、この作品はその初期に当たるものである。この太鼓橋を描いた図は、ポーラ美術館でも見た。1899年から1900年にかけて、モネは睡蓮の浮かぶ池に太鼓橋が架かる風景を18点てがけているそうである。ポーラ美術館の作品は18点の内の1点であろう。所で、印象派作家と呼ばれる作家は多いが、最後まで印象派を貫いたのはモネ1人だと私は思う。例えば、ルノワールはイタリア旅行を契機に、印象派から離れて、人物等を多く描くようになった。モネは印象派の指導者と目されるが、ただの1回も印象派展に出品したことは無く、常に官展を狙っていたのである。モネが印象派の指導者であることは間違いないが、決して徹底した印象派作家ではなかったと言うのが、私の持論である。

ブーローニュの森 アンリ・マチス作 油彩・カンヴァス 1902年

19世紀後半、パリを起点に鉄道網が発達した。大都市パリに住む人々は、気軽に郊外でレジャーを楽しむようになり、自然に触れながらつかの間の休息を楽しみ、画家たちはこぞって郊外に滞在、あるいは移り住み、緑あふれる光景を作品にしていった。マチスは大胆な筆使いで差し込む陽光を表現した。木々は固有の色を保ちながらも、形態はやや単純化され、陽光は幅の広い筆触で大胆に小道に指し込んでいる。一定の広がりをもった濃淡のある色彩の塊が、風景を形作っている。本作品に見られるこうした力強い色彩の採用は、1905年のフォービズム誕生を予感させるものである。

サント=ヴィクトワル山、レ・ローブからの眺め ポール・セザンヌ作 1905~6年

(サン=ヴィクトワール山、レ・ロープからの眺め)(1882-85年)から20年ほど経て制作された、最晩年の作品の一つである。2点の作品を較べると、色彩や筆触、山の様子と距離などが大きく異なり、画家の風景に対するまなざしと表現の変化がよくわかる。1902年に63歳のセザンヌが念願のアトリエを構えたレ・ロープの丘は、高い位置からサント=ヴィクトワール山をのぞむ未払台に近かった。丘から眺めるサント=ヴィクトワール山は、10点ほどの油彩画と17点ほどの水彩画に描かれるほか、数枚の数枚の絵がカンヴァスに残されている。前景の木々やふもとの家には具象的な形態を表す線を認めることができるが、抽象的といえる画面が構築されている。こうした最晩年のセザンヌの表現は、キビュズムの画家たちに高く評価されていった。

マタモエ、孔雀のいる風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1892年

1891年4月、ゴーガンはタヒチ島へと出航した。出発前にその動機を、「文明の影響から解放されて、心静かに暮らすために行く。私は単純な、ごく単純な芸術しかつくりたくない。そのためには、汚れない自然の中で自分を鍛え直し、野生の人にしか会わず、彼らと同じように生きる」必要があると述べていたが、タヒチ島にはすでに近代社会の影響が及び、ゴーガンが考えていた以上に西洋式の暮らしが広まっていた。しかし鮮やかな色彩や見慣れない素朴なモチーフの数々に魅せられてゴーガンは、ときに豊かな想像力を駆使しながら、美しい風景を描いていく。本作品は、最初のタヒチ滞在の早い時期に制作されたと考えられる。山や地面には不定型の鮮やかなな色の面が広がり、幻想的な熱帯の風景が生み出されている。装飾的な画面には、パンダナの葉で覆われる小屋、高く優雅に伸びるココナッツの木、孔雀など異国的なモチーフが配されている。

馬を襲うジャガー アンリ・ルソー作 油彩・カンヴァス 1910年

私の先生である福島繁太郎氏は「近代絵画」の中で、次のようにルソーを表している。「穏やかな、純真な、そして誰もが親しみやすい美しい詩は、老いたる天使と言われた無教育の聖者アンリ・ルソーの単純な心に安住の住居を見出している。」と解説している。そして、「ルソーの主題は、自分が身近に感じたものに限られている」と述べたあとに、次の文章を書き足している。「ルソーは青年時代、マキシミリアン応援の仏軍に軍楽手として加わりメキシコに渡ったが、温帯のフランスばかりで生活し、又知識も狭い彼にとって、熱帯の激しい雰囲気は偉大な脅威であるばかりでなく、恐怖でさえあった。この脅威の追憶が熱帯の空想画となって現れたのである。」この教科書通りの絵画が、プーシキン美術館にあったことには驚いた。ルソーは1890年初めに描いたジャングルを舞台とした風景を、1905年頃から再び手掛けるようになったのである。中央に動物を配し、熱帯の植物がそれを囲む構図は、彼の多くの作品に繰り返され、「馬を襲うジャガー」も同様の構図が採用されている。アンリ・ルソーの絵が、プーシキン美術館の展示会の終わり頃に登場して、懐かしさと、意外感に襲われた。

 

プーシキン美術館の「旅するフランス風景画」展は、非常に幅広い風景画を含んでいた。17世紀から20世紀にかけての風景画であったが、取り上げたのは、殆ど印象派とポスト印象派と呼ばれる画家であった。やはり、印象派は懐かしい、書き易い作品が多いからである。65点を見終わって、感じたことは保管状態が極めて良く、新しい印象が強かった。一番関心が高かったのは、当然、モネの「草上の昼飯」である。オルセー美術館の二枚に別れた、巨大な作品(4M×6M)を見てきた私にとって、鑑賞した作品はは小さいという印象であった。しかし丁寧に見てみると、思いがけない発見を幾つかした。右端の白樺に書かれたPという文字(誰かのイニシャルか)、ハートマークに突き刺さった矢印はどんな意味か、更に白樺の木陰に隠れた紳士は誰か?など謎は多い。しかし、オルセー美術館で視た、無残な絵が、小さいと言え、完制作が見られたことは幸せであった。更に、アンリ・ルソーの「馬を襲うジャガー」には驚いた。アンリー・ルソーは、もっと前の時代の人といおう印象であったので、最後の、フォーブの時代の作品の中に1点、見事なルソーの作品は意外感で一杯であった。私が、今まで見たルソーの絵は、20年ほど前の19世紀終わり頃の作品が多く、まさか20世紀の作品が出てくるとは思わなかったのである。

 

(本稿は、図録「プーシキン美術館ー旅するフランス絵画  2018年」、図録「オルセー美術館ー印象派の誕生ー描くことの自由  2014年」、福島繁太郎「近代絵画」、吉河節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、日経大人のOFF2018年一月号、朝日新聞・記念号「プーシキン美術館ー旅するフランス風景画」を参照した。

東京ステーション・ギャラリー  夢 二 繚 乱

明治の末年から大正、昭和初期にかけて、日本中の若い男女の心に夢と憧れの哀切な美しさを教えた詩人画家・竹久夢二(1884~1934)は、岡山県の酒屋の息子に生まれ、神戸で中学を途中まで学んでから上京し、早稲田実業に入学した。この早稲田実業も中途で退学した。早くから絵の才能を示し、新聞のコマ絵や雑誌の挿絵画家として出発した。画風は、一方で鏑木清方の美人画の影響を受けながら、他方藤島武二にあやかって夢二と名乗ったことから明らかなように、江戸時代以来の伝統的な絵草子の世界と西欧の世紀末の耽美主義的雰囲気とともに受け継いで、ハイカラであると同時に郷愁を感じさせる甘美な叙情世界を作り上げた。詩人としても「宵待草」(よいまちくさ)をはじめ、世人に親しまれた多くの感傷的な抒情詩を歌い上げた。また、自伝小説「出帆」を昭和2年(1927)に都新聞に連載した。これは夢二の半生を綴った自伝小説である。挿絵には、彼の愛した女性達や彼女たちと訪れた場所の風景、あるいは抽象的な心理描写などが水墨で描かかれている。本来、この展覧会の企画は、「夢二と出版業界」とも言うべき企画であったが、私の興味で、「夢二の人生と絵画」について、重点的に触れることにする。大正3年(1914)10月、日本橋呉服町(現中央区八重洲一丁目)に「港屋絵草子店」(みなとやえぞうしてん)を開店した。夢二が正式に結婚した唯一の女性・「岸たまき」が主人を勤めた港屋は、夢二がデザインした千代紙、便箋や封筒、半襟などを販売するブランド・ショップであった。また恩地孝四郎や田中京吉ら若い芸術家が集い、作品を発表できるギャラリーでもあった。この時期に「夢二式美人」のスタイルが確立されただけでなく、絵葉書、雑誌の表紙や挿絵、本の装蹄など、多方面にわたって夢二は活動を展開させていった。竹久夢二は優れた画家であると同時に優れたデザイナーでもあった。デザイナーとしての仕事は、主要な仕事はグラフィックデザインと服飾デザインの二つに大別される。夢二が描く女たちが着ている着物は、夢二独自の意匠によるものであり、当時の着物を再現したものでは無いと言われている。つまり、夢二が絵の中で新しい着物の柄を造り出、それれを女性達が現実の着物として作り上げていったということになる。

白目連と乙女 竹久夢二作    大正8年(1919)頃

港屋の商品の一つである。夢二の代名詞とも言える「夢二式美人」は、妻のたまきをモデルとして生まれた瞳の大きな女性像のことである。視線を伏せがちで愁いを帯び、ポーズも何かに寄りかかっていたり、身をよじっていたり儚げな(はかなげな)魅力で目を惹き付ける。このようにして「夢二式」はスタイルとして確立されていった。この「白目連と乙女」は、モデルはお葉こと佐々木かよこと考えられている。お葉は藤島武二など多くの画家たちの創造力を刺激したモデルであった。

秋 竹久夢二作    大正9年(1920)頃

この作品は鏡台に向って髪を梳る(くしけずる)女性を描いている。夢二は女性らしさのイメージとして化粧や身支度をよく描いているが、この作品では儀式のような静かな雰囲気を演出している。夢二は身近な女性を題材に、生涯にわたって理想の女性像を追求した。

港屋絵草子店(みなとや版) 竹久夢二作   大正3年(1914)頃

大正3年(1914)10月1日に港屋絵草紙店を開店した。「いきな木版画、かわいい石飯画、カードや絵本、詩集や絵日傘人形、千代紙、反襟」などを扱う店として開業した。同棲生活を続けていたものの、離婚した最初の妻たまきが自活できるように、夢二がこの店を出したのだと言われる。この木版画は、東京のモダンな男女を描いた「みなと屋」の商品の一つである。

玉椿(みなとや版) 竹久夢二作   大正3~5年(1914~16)

夢二のデザイナーとしての作品の一つで、当時のみなと屋の商品であり、夢二のデザインの港屋のオリジナル商品である。江戸趣味と異国趣味が取り入れられ、独特の雰囲気を醸し出していた。港屋は東京名物の一つに数えられ、とくに若い女性の人気が高かった。店には夢二を慕う若い画学生も集い、ときには彼らの作品を扱う展覧会の会場ともなった。しかし、次第に夢二の興味も薄らいで品数も減っていき、大正5年(1916)に閉店した。

かるた会 新少女 竹久夢二作   口絵原画    大正4年(1915)頃

夢二は多くの雑誌や新聞、書籍などの挿絵を手掛けた。この「かるた会」は「新少女」大正5年(1916)1月号の挿絵の原画である。この時代は、多くの雑誌新聞に夢二は挿絵を描いていた。夢二の影響を受けた画家の一人である中原淳一は、夢二の挿絵は「小説の中の一場面や情景を説明する絵ではなく、その小説の中に出てくる、”女”の、また”人間”の、哀しさと宿命を、場面とは無関係に、一枚の絵として描いている」(昭和45年)と語っている。

「絵日傘」長田幹彦著一の巻 竹久夢二装蹄   大正8年(1919)

夢二は自著の装蹄のほか、他著の装蹄でも300冊近い書籍の装蹄を手掛けた。最も多く担当したのは長田幹彦の著作である。幹彦は夢二の装蹄について「よき援助者であり、伴走者であり、鞭撻者であった」と賛辞を贈っている。勿論、夢二の自著の装蹄も手がけ、全部で57冊に及ぶそうである。この装蹄は、本の表紙であり、本の横も見えることに注目してもらいたい。

舞姫  竹久夢二作  大正7年(1918)頃

夢二の絵は、書籍や雑誌など出版物によって全国に知られ、彼の肉筆画を見られる機会は限られていた。大正元年(1912)、京都府立図書館で開催された最初の個展である「第一回夢二作品展」は、その肉筆画が展示される機会とあって、同時期に催された文展に劣らぬ盛況ぶりであったという。「舞姫」は大正7年に開催された「竹久夢二抒情画展覧会」(京都府)への出品作である。夢二が何度も主題とした舞妓をほぼ投資大に描いた大作で、桜をあしらった装いが春の到来を感じさせる。

コーヒーと女  竹久夢二作  大正4年(1915)頃

唇に艶やかな紅を引いた女性がカフェで寛ぐという、まさに大正ロマン期らしいモダンな姿をさらさらと流れるような筆遣いで描いている。(個展の出展作である)

宵待草 楽譜の表紙 竹久夢二作  大正7年(1918)三版大正10年(1921)

楽譜の発行所、音楽社の「音楽界」編集部にいた妹尾幸次郎(1891~1961)は、大正4年(1915)にいくつかの作品の版権を譲り受けて、セノオ音楽出版社を創業した。大正期は凝った装幀の楽譜が登場したが、中でもセノオ楽譜はその代表格であり、西洋のオペラ、ロシア民謡、童謡、小唄など幅広い内容の楽譜が刊行された。夢二は大正5年から昭和2年(1927)にかけて270枚余りのセノオ楽譜の表紙を手掛けた。表紙は石販印刷で摺られ、内容は夢二らしい和装美人や洋装の少年少女像も数多く見られるが、装飾的なもの、木版画や影絵を思わせる簡略化されたもの等多岐にわたり、タイトル文字も夢二によってあわせて図案化された。セノオ楽譜での夢二の登場は表紙だけでなく、楽曲の作詞も20曲以上に及んだ。この「宵待草」は、代表作であり、良く歌われたそうである。私の自宅(愛知県)にも、セノオの楽譜が沢山残されており、非常に懐かしく思い出された。

五月  「婦人クラブ」大正15年5月号表紙   大正15年(1926)

明治末~大正期には、女子の進学率も上がり「小女界」「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌が創刊され、その内容は少女たちにファッションも含めて大きな影響を与えた。夢二はこうした少女向けの雑誌を代表する流行挿絵画家であった。「婦人グラフ」は大正13年(1924)に創刊した婦人グラビア誌で、昭和3年(1928)11月号まで発刊された。表紙や挿絵には、彩色木版画を摺り込むという手間のかかった高級誌であった。この木版画は、職人によって彫られ、最新式の機械で摺ったもので発色がよい。木版画の下絵は、当時の代表的な挿絵画家が手掛けた。知名度の高い人気挿絵画家の夢二も、この雑誌に登場することになったのである。夢二の描く女性像は、洗練されたデザインで完成度が高く、ある種の「婦人クラブ」風ともいった統一感を放っている。この「五月」は、「婦人クラブ」大正15年(1926)5月号の表紙を飾った絵である。夢二らしい絵である。

「遠山に寄す」二曲一双屏風 竹久夢二作 昭和6年(1931)夢二郷土美術館

夢二の寂しげな様子をした自画像でもある。シルクハットをかぶり、コートを着てステッキをつく後姿の男性は、夢二の自画像である。「遠山に寄す」というタイトルは、大正8年(1919)に夢二が出版した「山へよする」を想起させるが、この歌集は夢二が愛した笠井彦乃を歌ったものであり、「山」とは彦乃のことである。交際に反対する彦乃の父親に知られないように二人は、彦乃が「山」、夢二が「川」という符合で手紙をやりとりしていた。夢二にとって「山」とは彦乃のことを指しており、この「遠山に寄す」の山も当然彦乃のことであろう。夢二の傍らに寄り添っていながら、それぞれ別の方向を見ている。その視線を辿ると、夢二が見ているのは遠くの「山」で、彦乃が見ているのは足元を流れる「川」である。ともに相手のことを想っていることが分かる。

 

竹久夢二は、大正ロマンの騎士であり、一度機会があれば、書いてみたいと、かねがね思っていたが、今回の東京ステーション・ギャラリーの企画は、その思いに応えてくれるものだった。しかし、展示されたものは「出版業界と夢二」とも題すべき内容であり、テーマの「夢二繚乱」とは、かなり違う内容であった。しかし、雑誌のグラビアや表紙、セノオの楽譜、挿絵など多分500点近い展示であり、数量的には、ゆっくり見られるものでは無かった。夢二の「人生遍歴」には殆ど触れていないが、絵画の解説に徹した。いずれ、「夢二美術館」等へ行く機会を作り、その時に、夢二の「女性遍歴」にじっくりと触れたい。

 

(本稿は、図録「夢二繚乱」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

伝岩佐又兵衛  重要文化財 浄瑠璃物語絵巻

岩佐又兵衛は辻惟雄氏の「奇想の系譜」の一人として紹介されて、いろんな所で又兵衛の作品を見る機会に恵まれた。この「美」でも昨年2月にMOA美術館で「山中常盤物語絵巻」で観覧し、その内容を「美」で紹介している。今年は「浄瑠璃物語絵巻」が展示され、その内容を、再び「美」で報告したいと思う。また彼が京都時代に描いた舟木本「洛中洛外図」が、昨年国宝に指定され、それも又昨年4月に「美」に収録している。又兵衛は、福井から江戸に出る時、「廻国之記」という道中記を書いている。それが又兵衛の経歴を知る上で、一番信用できる記録である。それによれば、岩佐又兵衛は天正6年(1578)摂津伊丹城主として織田信長の信認厚かった荒木村重の妾腹の子として生まれた。その年の10月、父村重は主君信長に反逆を企てる。信長は苦戦の末、翌年伊丹城を落したが、村重はその前に城を遁れていた。怒った信長は、城中に残された者全員の処刑を命じ、村重一族30余人は、京の六条加原に引き出され、幼児に至るまで首を刎ねられた。又兵衛は乳母の手で城から救出され、京都の本願寺教団のもとにかくまわれ、そこで成長したという。成人してのちは、信長の子信雄に仕えたとのことだが、お伽衆あるいは祐筆のような役を務めたらしい。姓も、母方の姓と言われる岩佐に改め、勝以(かつもち)と名乗った。武門の再興をあきらめ、関白二条昭実の邸で催された詩歌管弦の集いなどに顔を出し、村重の遺児としての出生のいきさつと、恵まれた画才に身を助けられて渡世する途を、彼は選んだ。慶長20年(1615)の夏、大阪夏の陣によって豊臣方の命運は尽き、年号も元和と改められる。この年、又兵衛は38歳。おそらく画名は相当聞こえていただろうが、彼は程なく京を離れ、越前北之庄へ赴いた。当時の北之庄城主は、菊池寛の「忠直郷行状記」で知られる松平忠直である。家康の孫に当たりながら、乱行ゆえに、元和9年、幕府の命によって豊後へ配流となったと言う。このまことに「かぶき大名」と又兵衛との興味深い出会いについては、「浮世又兵衛行状記」(篠田達明氏)に詳しい。忠直郷追放後の北之庄は甥の忠昌が継ぎ、名を福居(福井)と改めたが又兵衛は引き続きこの地に止まり、結局、寛永13年(1636)まで、足掛け20年を越前で過ごすことになった。彼の個性的な画風は各地へ広まり、寛永14年(1637)、彼は将軍家筋の用命を受け、福井に妻子を残して発ち、京都を経由して江戸へ向かった。当時既に60歳になっていた彼は「廻国道之記」という道中記を記している。今回、MOA美術館で「浄瑠璃物語絵巻」が公開されたので、それを見る為に熱海まで、出掛けた次第である。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した12巻の絵巻である。全長、12、988cmの長巻である。豊頬長頤(ほうきょうちょうい)の特徴を持つ人物の姿形や、金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物である。重要文化財に指定されている。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

15歳の春、牛若は平家討伐を成すため、鞍馬の山を出立し奥州を目指す。牛若は金売吉次の一行として旅を急ぐ。吉次一行は三河の国・矢矧宿(やはぎしゅく)に着いた。宿に泊まった夜、宿を出た牛若は宿場で名高い長者の唐御門からもれる管弦にひかれ、門前でしばし耳を傾ける。管弦に笛がないので、牛若は肌身離さぬ名笛を出して唐御門の管弦に合せる。琴を奏でていた浄瑠璃姫は笛の音に気付き、管弦を止めて笛の音に聞き入る。名手ならではの音色に、浄瑠璃は女房十五夜に命じて、笛の主を確かめさせる。十五夜は牛若の凛々しい高貴な姿を見て、着物の紋から源氏の御曹司と見受けられたと報告した。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第三巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は、牛若と察し、女房たちを使いに立たせて牛若を招く。牛若は七度目の使いである桔梗の局に連れられて、邸内へと進む。牛若は室内に上がり、女房達と合奏した。その時一陣の風が、浄瑠璃の前の御簾を噴き上げ、見つめ合う二人に恋心が芽生える。

重文浄瑠璃物語絵巻 第四巻(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

一旦宿に戻り装束を整えた牛若は、再び浄瑠璃の屋敷を訪れ、邸内が寝静まるのを待つ。十五夜に招き入れられた牛若は、女房達の部屋の前を通って浄瑠璃の寝所へと通される。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(2)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃の寝所に近づく牛若は、四方の障子には四季の絵が描かれ、その豪華さは都の御所に勝るとも劣らない。牛若が枕屏風の側からそっと中を覗くと、浄瑠璃は部屋で眠っている。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(3)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

部屋に入った牛若は、思いを和歌にして助瑠璃を口説こうとする。なかなか靡かない浄瑠璃に、牛若は、さまざまな例を出しながら浄瑠璃を口説くために言葉を重ねる。浄瑠璃は、父の供養のため、読経念仏にいそしむ精進中の身であり、叶わぬ恋なので、あきらめてほしいと嘆願する。牛若は自らの素性を打ち明け、互いに精進中の身であるから差しさわりは無いと言う。浄瑠璃は、断りきれないと覚悟し、心を寄せる。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第五巻伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は仮の祝言を挙げる。いよいよ姫はなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第八巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

蒲原の宿では、一行を歓迎して盛大な宴会が催される。牛若は、旅の疲れと浄瑠璃と別れた悲しさから病となり、床に伏してしまう。宿の女将は牛若に娘と結婚をせまるが、なびかない。夫の与一が箱根権現に行った留守中に、女将は近くの男たちを雇い、牛若を海に沈めるよう命じる。

重文浄瑠璃物語絵巻第九段(1)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

源氏に伝わる宝物が大蛇、白鳩、鳥、子童に姿をかえて牛若を守る。牛若は、浄瑠璃への手紙を客僧に託す。牛若の手紙を読んだ浄瑠璃は病に伏す牛若を思い、矢も楯もたまらず、母にも告げず牛若の後を追う。箱根権現の化身である尼公から、牛若の命が尽きたことを聞かされ、浄瑠璃は嘆き悲しむ。浄瑠璃は牛若を砂から掘り出す。浄瑠璃の涙が不老不死の薬となり、牛若は息を吹き返す。

重文浄瑠璃物語絵巻 第十一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は平家討伐の暁には浄瑠璃を北政所にすることを約し、大天狗・子天狗に矢矧の宿まで送り届けるよう頼む。

重文浄瑠璃物語絵巻第十二段(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は大天狗、子天狗から受け取った浄瑠璃の文を読み、涙ながらに東国を目指す。軍勢を引き連れ都へ上がる牛若は、途中矢矧の宿に立寄る。長者から歓待を受けるが、浄瑠璃の姿が見当たらない。不審に思って牛若は、様子をさぐるように命じる。髪を剃った冷泉が現れ、浄瑠璃は母の長者から屋敷を追い出され、悲しい最後を遂げたと涙ながらに語る。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第十二段(2)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は冷泉の安内で浄瑠璃の墓に参り、法華経を詠むと、墓より返歌が聞こえてくる。和歌のやり取りの後、五輪塔が輝いて砕け散り、一部は牛若の懐へ飛び込んだ。牛若は浄瑠璃の成仏を確信し、墓の上に寺を建て、冷泉寺と名付ける。

 

 

「浄瑠璃物語」の正本はそのまま用いた詞によって、牛若の衣装模様や女房たちの局の襖の画題、浄瑠璃姫の寝室の調度、二人が交わす大和言葉の逐一まで事細かに語られ、それらの場面が、金箔・金銀泥・緑青・群青・朱など各種の高価な顔料を使い、艶麗な色調で微細に描かれている。又兵衛作とされる絵巻物群中、最も色彩の華麗な絢爛豪華な作品である。本絵巻物は、伝岩佐又兵衛作とされるが、岩佐又兵衛の関与は極めて少なく、殆ど又兵衛工房の作と考えられる。むしろ「全く関与していない」と言っても良い作品であり、絢爛豪華な絵巻物は、越前藩主松平家からの注文によるものと推定される。越前藩主松平忠直の子光吉が転封(てんぽう)になった津山藩主松平家に伝わったものである。越前藩主であった松平忠直の署名がある稲富流鉄砲伝書「直矢倉之巻」に用いられている菊花流水押し文様が、「浄瑠璃物語絵巻」の銀箔地の軸付紙に空押しされていることからも、本絵巻制作における越前松平家の関与が想定される。制作時期は、寛永(1624~45)末年から正保(1645~48)・慶安(1648~51)頃と推定されるが、元和(1615~24)とする意見もある。又兵衛の年齢から考えて、私は、寛永末年から正保・慶安年間(1624~48)と見たい。「浄瑠璃物語絵巻」の人物の顔貌・姿態と金銀泥を多用した濃密な彩色は「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館)との共通点が多く、又兵衛工房と風俗画との関係を考えるうえでも重要な作品である。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集  2013年」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵   2017年」、日本美絵画全集「第13巻  岩佐又兵衛」、辻 惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、辻惟夫「奇想の系譜」を参照した)

東京国立近代美術館  MOMATコレクション展

東京国立近代美術館では、シーズンに合わせて、年間4回の所蔵名品展(MOMAT展)を開催する。これは4月12日に東京国立近代美術館のMOMAT展を見学した際の展示品の中で、特に優れているか、問題視されたことがある近代絵画(日本画含む)をピックアップして、簡単な解説を加える。なお、中には重要文化財が含まれているが、近代絵画の中で、重要文化財に指定されている絵画は20点に過ぎない。名品中の名品であると考えて間違いないと思う。なお、過去に同じものを取り上げたことがあるが、それについては、解説を新しくしている。

重要文化財 騎龍観音像 原田直次郎作  明治23年(1890)

明治になり、日本の画家たちは、西洋画に倣って遠近法や陰影描写を取り入れ始めた。本作はそうした受容の初期の重要な作例である。明治23年(1890)上野公演で開かれた第3回内国勧業博覧会の出品作である。当時は「サーカスの綱渡りのようだ」との酷評もあったが、それを擁護したのが親友の森鴎外であった。原田直次郎は、保守的なミュンヘンアカデミーで2年半、西洋の伝統的アカデミズムを学び、明治20年7月、鴎外より一足先に帰国した。この作品は、手に楊柳(やなぎ)の一枝をさげ、白衣観音が緑青色の背をした龍に乗って暗雲たちこめる火焔を渡るところを描いた宗教画であると思う。鴎外は、反論し、擁護した。夭折した原田直次郎に対し、画壇の重鎮、黒田清輝は次のような追討の言葉を贈っている。「画についてはいかにも思想の高い人で、又思想ということを技術よりも余程重く見ている人である。若し、この人が短命でなかったならば、この想と言い必ず面白い作品が沢山出来て、我が国に一種の理想画が発達したことであろう」(原田線先生記念帳)流石に、重要文化財に指定されるだけのことは有ると思った。

重要文化財 賢首菩薩  菱田春草作 絹本着色  明治40年(1907)

華厳宗の第三祖、中国唐時代の名僧である宝蔵大師は「賢首菩薩」と呼ばれた。側天武功の直問に答えるために、庭先にあった黄金の獅子をかりて華厳経の教えを諭した場面を描いている。それまでは、輪郭線を描かず絵具を空刷毛でぼかす朦朧体で描いていたが、初めての点描を試みた作品で、第一回文展で二等賞を受賞した。一等賞は該当なしであったため、首位の作品である。これに疑問の声もあったが、それを聞いて春草は「来年はもっと程度を下げて、審査員に解る絵を描いてやろう」と言ったという。菱田春草(1874~1911)は長野県に生まれ、結城正明に学び、東京美術学校へ入学する。日本美術院の創立時から横山大観と共に朦朧体等の実験を重ねる。日本美術院が五浦(いずら)へ移転し、そこでの研鑽の成果が本作品である。以後、写実と琳派の装飾性を兼ねた作品を発表した。

南風 和田三蔵作            明治40年(1907)

第一回文展で、最高賞に該当する二等賞を受賞した作品である。海上を帆走する船に、勇壮四人の漁師が描かれている。堂々とした体躯の中央に立つ男は、上着で暑い陽射しを避け、その上着は南風を受けてはためく。男が腰に巻いた赤い布と青々とした海の鮮烈な対比、帆影の描写によって、夏の陽射しや風の強さが伝わってくるようである。この作品は当時の浪漫主義外光派の代表作とされ、「人物の各自の表情も善く、兎に角第一等の作」で「強い覇気のある作品」として好評を博した。作家は兵庫県に生まれ(1883~1967)、上京して白馬会洋画研究所、東京美術学校西洋画科で学んだ。1905年の白馬会十周年記念展で白馬会賞を受賞。第一回文展でに出品したこの作品も二等賞を連続受賞し、1909年から15年まで文部省留学生として渡欧。帰国後は、工芸、図案の方面で活躍し、東京美術学校で図案化主任などを勤めた。

小雨降る吉野(左隻)二曲一双 菊池訪文作      大正3年(1914)

吉野山に題を得たこの作品で、作家は、桜の名手といわれた名人芸を発揮すると同時に、その高度な芸をも感傷的に眺めるような観照の世界を、無理のない画面の構成のうちに展開させる。名手の技巧を示す左隻の満開の桜に目を向け、その美しさからおのずと遠い桜に目を転ずる観照の世界へといざなう。古くから吉野の桜が開く観照のコチーフとなっており、法文はこのモチーフを小雨に煙る吉野山に着想した。風景の観照には、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠われた悲劇の舞台への歴史的感傷が漂う様である。法文にとって吉野山の風景は、その桜ゆえに、華麗な花鳥画の舞台となる一方、その歴史ゆえに、しめやかな観照の舞台でもあったのだろう。静かな歴史的観照のうちに漂い出る消えゆくものの美しさに、四条派の最後を飾ると言われた訪文らしさがうかがえる。

重要文化財 行く春 六曲一双屏風 川合玉堂作     大正5年(1916)

京都と東京で日本画を学んだ玉堂は、水墨技法を色彩表現と融合させた、独自の温和な風景描写を確立した。彼の作品では、四季折々の日本の風景とそこに暮らす人々の日常を、何の衒いもなく平明に描くのを特徴とするが、そうした平明さを実現させるために、玉堂は西洋的な遠近法の表現を積極的に取り入れた。本作は、埼玉県の長瀞(ながとろ)の光景を描いたものである。六曲一双の大画面である。そこで働く人の姿を描く。多くの日本人が「風景」の中に見出す情緒を、玉堂は近代的な視覚から見ても不自然さの無い広がりの中に描き表した。近代の日本画における新機軸を示した、この作品は1971年に重要文化財に指定された。

麗子像(五歳の像) 岸田劉生作     大正7年(1918)

娘麗子を描いた最初の油絵である。画面上部のアーチの下には「千九百十八年十月八日擱筆」「画家之娘麗子・五歳・娘の父写す」と記されている。5歳というのは数え年で、このとき麗子は4歳6ケ月であった。右手に赤まんまの花を持つポーズや克明な描写は、この頃心酔していたデューラーからの影響を思わせるが、この作品で手ごたえを感じた劉生は、次第に独自の「内なる美」の探究へと向かっていく。

京の家・奈良の家  速水御舟作      昭和2年(1927)

右に京都の町家、左に奈良で良く見られた大和棟の家屋が描かれる。「京の家」の黄色い家を見ると、下の方では遠近の法則から離れて、横方向の線がことごとく平行に引かれている。正確な建物の描写や奥行きを表現するよりも、平面上の造形要素を整理することが優先されているのである。「奈良の家」では整理した結果、特に中庭に空間の歪が顕著となっている。「構成」が絵画の主要な関心事となった時代に、御舟の知的な反応をうかがわせる代表作の一点である。

シンガポール最後の日 藤田嗣治作     昭和17年(1942)

この頃は、日本軍は破竹の勢いであった。小学校2年生であったわたしにも、日本軍の強さが頼もしい存在であった。戦後、画家仲間から「藤田は戦犯である」とされ、フランスへの渡航は出来ないとされたが、占領軍に問い合わせた処、「戦犯では無い」とのお墨付きを得て、藤田が非常に喜んだことが日記に記されている。しかし、何故かフランスでは無く、昭和24年にまずアメリカへ一人で渡航し、そこで1年ほど過ごしてから、昭和25年(1950)にフランスに移り、奥さんも呼び寄せた。最後は、フランス国籍を得て、カトリックに改宗し、1955年(69歳)にカトリックの洗礼を受け、洗礼名の「レオナール」をとって、「レオナール・フジタ」と名乗った。同年、フランス政府よりレジョン・ドヌール勲章を受章した。1966年(昭和43)、静養先のスイス、チューリッヒで死去した。享年81歳。日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。戦犯として日本画壇から追放同様の仕打ちを受けた藤田の死に際し、日本政府は最高の勲章で報いた。日本画壇では、何の反応も無かったように思う。最近、藤田の展覧会が多いが、今改めて藤田の業績が、一般社会から、高く評価されているのであろう。

 

東京国立近代美術館には、流石に名品が揃っていると思う。ここに取り上げた、明治、大正、昭和の名品8点のうち、重要文化財が3点も含まれている。この時代には、絵画の世界に作家が口をはさみ、その影響力が結構大きいことを異常に思う。しかし、当時としては、桜谷の「寒月」に、漱石がもの言いを付け、「写真屋の風景画として張れば良い」とか、原田直次郎の「騎龍観音像」に対する世間の批判に対し、鴎外が応援を送るなど、今では考えられない判断が、画壇を支配する傾向があり、世人も、この判断に頷き、納得する傾向があったようである。これら作家は、帝大を出て、イギリス、ドイツに留学し、世上最高のエリートとして認められ、何事にも口を出し、それを良しとする傾向が、日本にあったのであろう。日本人の美術・芸術に対する判断力が、いまだに生長していなかったのであろう。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館  名品選」、図録「近代日本の美術 東京国立近代美術館名品選」、図録「日展100年 2007年」、現色日本の美術「第26巻 近代の日本画」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」を参照した)

山種美術館  琳派ー俵谷宗達から田中一光まで

17世紀の初め、王朝文化復興の気運が高まる京都で活躍したのが俵谷宗達と本阿弥光悦である。光悦は上層町衆の出身で、書、焼物など様々な造形芸術において才能を発揮した。また扇屋を営んでいたとされる宗達は、平安時代以来の料紙装飾ややまと絵の伝統を取り込みながら、大胆なアレンジを施し、斬新でおおらかな作風を確立した。光悦・宗達を琳派の第一世代とするなら、第二世代にあたるのが、京都の高級呉服商の家に生まれ、17世紀末から18世紀初めにかけて活躍した尾形光琳である。光琳は、宗達の作風をもとに、平面性と装飾性を際立たせ、デザイン性に富んだ画風を確立した、さらに第三世代の酒井抱一は、姫路藩主酒井家に生まれ、19世紀の江戸で、光琳の画風に洗練と洒脱を加え、新たなスタイルへと発展させた。それを継承した弟子の鈴木其一は、師の没後、鮮烈な色彩と厳密な描写による個性を開花させた。其一は安政5年(1858)、明治維新もあと少しというところで亡くなった。琳派の系譜は、その後も田中芳二等と続き、更には現代作家である速水御舟、加山又造等に引き継がれ、本展では田中一光というグラフィックデザイナー(ポスター)まで拡張している。琳派とは血縁ではなく私淑の歴史であり、時空を超えて飛び火する現象であった。その意味で、20世紀において加山又造、田中一光らが、一番強く琳派に私淑し、飛び火によってその表現が大きく燃え上がったのである。今回の展示会の最大の特徴は、19世紀の江戸琳派に終わらせず、20世紀の速水御舟、福田平八郎、加山又造等の作品も”琳派”として展示したことであり、山種美術館(山下祐二顧問)の美意識を展開したことであると思う。

新古今集鹿下絵和歌巻断簡俵谷宗達(絵)本阿弥光悦(書)江戸時代(17世紀)

金銀泥で鹿の群れが描かれた、全長20Mに及ぶ巻物の断簡である。益田鈍翁が所蔵していた画巻が、戦後、増田家を離れ、断簡として複数の所蔵家のもとに散らばったうちの一つである。宗達が下絵を描き、その周囲に光悦がバランスよく配している。巻物はしなやかに首をひねっている鹿から始まったと伝えられている。この物憂い風情の牡鹿に、西行法師の「こころなき身にも哀れはしられけり、鴫たつ澤の秋の夕暮」(新古今和歌集)という和歌が添えられている。

槇楓(まきかえで)図 伝俵谷宗達作         江戸時代(17世紀)

画面全体に緑の槇と朱の楓が奔放に張り、下部には女郎花、桔梗などの秋草が添えられている。まっすぐに伸びる奇妙に曲がりくねった幹を持つ槇、斜めに突き出る楓が画面にリズムを与えている。左下に「対青軒」という工房の印が捺されている。この図柄は、尾形光琳の「槇楓図」(重要文化財・東京芸術大学美術館蔵)にも影響を与えていると思われる。

月梅図 酒井抱一作 絹本墨画淡彩 軸一幅  江戸時代(19世紀)

光琳に私淑した抱一は、光琳の「紅梅図屏風」(MOA美術館蔵)や「光琳百景」に掲載されている梅の図様から、抱一自身のインスピレーsィヨンを受けていると思われる。本作品の紅梅梅の老木の枝振りや梅花の五つの花弁がひとつづきになる光琳独特の描き方にもその片鱗がうかがえる。

重要美術品秋草鶉図酒井抱一作紙本金地彩色二曲一双屏風 江戸時代(19世紀)

山下祐二氏によれば、二曲屏風という形式自体が林班の特殊なフォーマットであり、専売特許みたいなものであるそうだ。確かに日本の屏風は六曲一双が圧倒的に多く、まれに四曲一双がある程度で、二曲は琳派の独特の形式であるそうだ。この作品は、極めてクオリティの高い作品であり、酒井抱一の作品の中でも特にクオリティが高いものだそうである。二曲一双の屏風に穂の出た薄の半月、五羽の鶉の群れは、そこに女郎花、露草、そして紅葉した楓葉を散らして描き、深まり行く武蔵野ヲイメージしている。大変緻密な描写で、光琳の華やかな雅趣を想いおこさせる。画面左下に書かれた落款「抱一画鶯邨書屋」により、浅草千束から鶯谷の新居に移り住んだ時期、49歳以降の作品である。

菊小禽図 酒井抱一作 絹本着色 軸一幅 文政6~11年(1823~28)

抱一が60歳に手がけた特徴的な作品群として十二ケ月揃いの花鳥図シリーズがある。この「菊小禽図」は、もとは十二ケ月花鳥図の押絵貼屏風であったと思われる。赤、黄、白の発色の美しいもので、本図は9月の景である。

牡丹図 鈴木其一作 絹本着色 軸一幅  嘉永4年(1851)

抱一の弟子である鈴木其一の名は、近年ますます評価が高まっている画家である。其一は師である抱一の作風を忠実に学び、時には抱一の代作も手がけていたと推測される。師の没後は堰を切ったように、自分ならではの表現に邁進した。(夏秋渓流図屏風、朝顔図屏風)に代表されるように「奇想の画家」と言っても良いような、ややエキセントリックな作風を示している。この牡丹図は、最近、山種美術館の所蔵となったが、中国絵画の「牡丹図」(宮内庁三の丸尚蔵館)と図様はほぼ一致しているとされる。其一の中国絵画学習の実態を論じた学芸員の論考(塙萌衣氏)があるそうだ。また伊藤若冲との関係を論ずる学者もあり、若冲ー其一ー御舟という、何か見えない糸が繋がってきたようなところがあると論ずる意見もあり、今後私も研究したい。

四季花鳥図 鈴木其一作 紙本金地彩色 二曲一双屏風 江戸時代(19世紀)

二曲一双という琳派的なフォーマットによる、非常に装飾的な画面で、抱一系列の作品であるが、其一ならではの一種の鋭さがある。其一は師以上に若冲を意識していたと考えられる。例えば、この屏風で主役のように大きく表されている向日葵は、17世紀の中頃に日本に入ってきたらしく、当時としては新規な画題であったのである。若冲は既に「動稙綵絵」の「向日葵雄鶏図」で大きく取り上げている。また畠山記念館には「向日葵図」という単体の絵がある。(参考「美」)恐らく其一は若冲の特異な画風に親近感を覚えていて、それが師のスタイルから一歩踏み出すための起爆剤になったのではないか。(山下祐二氏説)

翠苔緑芝(部分)速水御舟作 紙本金地・彩色 四曲一双屏風 昭和3年(1928)

これほど平面的で、装飾的な画面は他に見られない。正しく、琳派の特徴を備えた、昭和の名作である。山下氏は、左隻の兎の脚などは、宗達が描いた養源院の杉戸絵を意識した描き方として注目している。

濤と鶴(小下絵) 加山又造作 紙本彩色  昭和52年(1977)

山種美術館の入口に掲げられた加山又造作の「千羽鶴」に下絵で、これが彫金で制作され(番浦史郎作)で、現在も山種美術館の入口に飾り付けられている。千羽鶴と波の下絵である。

華扇屏風 加山又造作  六曲一双 絹本彩色 昭和41年(1966)

全く、宗達のこの形式のよく出来た屏風(扇面貼交屏風)を見るといつもどこかで一瞬、眩惑(めまい)に似た感覚を味わわされる。それはどこかで絵の何かの部分が急に裏返しになってしまったといったような複雑な美のためか、とにかく一つの画面でこのように多くの世界とゆったりとしたちながりを持ち得、そのどれへも大胆にさりげなく人をひきずり込む方法を明確に表出した高度の絵画は他に無いのではないかと、思う(加山又造文)(名作誕生に伝俵谷宗達筆「扇面貼交屏風」が六曲一双の屏風が出品されていた。金地である点が異なっている。)

 

俵谷宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一と続く、琳派に対して、私は一番好きなタイプの画風である。そこには意匠、スタイル、デザイン等という言葉でしか表現できない世界である。今回の展覧会は、所謂、琳派の大御所の作品を紹介すると共に、明治以降から現在に至るまでの、琳派風作家を同列に並べた企画が光る展覧会であった。また、山種美術館の顧問をされている山下祐二氏(明治学院大学教授)の「私淑の系譜ー宗達・光琳・抱一から田中一光へ」という図録の冒頭論文が光り輝く論文である。琳派を評して、これだけインパクトのある文章に接し、大変収穫が多く、簡単に消化仕切れない思いである。特に抱一、其一が伊藤若冲の研究をして、若冲から取り入れていたという指摘は、大いに参考になり、今後、その点も含めて、更に琳派全体を研究したいと思った。

 

(本稿は、図録「特別展 琳派ー俵谷宗達から田中一光へ  2018年」、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画  2010年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)

宋滋  神秘のやきもの

出光美術館において「宋滋  神秘のやきもの」展が開催されている。長い歴史を有する中国陶磁の中で、宋代(960~1279)にはその美しさが頂点に達したとも言われる。その宋滋の特徴は、青磁・白磁・黒釉滋などの単色の釉薬をまとい、非常にシンプルかつ研ぎ澄まされた造形性が美しい格調高い雰囲気を放っていることにある。その圧倒的な美と存在感に多くの人々が神秘性を感じ、魅了されてきたのである。宋滋の格調高い清雅な雰囲気は、士太夫層の頂点には皇帝と宮廷、朝廷が君臨していた。宮廷では大量に陶磁器が必要とされ、また消費された。それらの需要を満たすために、宋代以前には各地方の名産品として陶磁器を献上・献納した「貢滋」、あるいは宮廷で使用する陶磁器を民間へ委託・注文して生産し納品させる仕組みが存在していた。宋代になると官窯が存在したことが文献の記載にあり、南宋官窯に関しては、実際に窯跡の比定もされている。唐時代(618~907)の陶磁生産は「何青北白」と称され、南方地域では青磁、北方地域では白磁が主に焼造されていたと言われる。宋時代(960~1279)には、中国全域で様々な陶磁器が盛んに作られ、皇帝・宮廷用のうつわを焼造する官窯を頂点に、北方地域では定窯(ていよう)、滋州窯(じしゅうよう)、鈞窯(きんよう)、南方地域では景徳鎮窯(けいとくちんよう)、越州窯(えつしゅうよう)、龍泉窯(りゅうせんよう)等に代表されるような、青磁、白磁、黒釉のうつわなど、それぞれの窯で独特の様式が展開された。また中国の中原地域の宋王朝と対峙した北方の遼王朝は、中原の陶磁器文化の影響を受けながらも、独自の陶器文化を生み出している。

白磁刻花牡丹文甁(へい) 北宋時代  定窯 高32.0cm 東洋陶器美術館

定窯は、宋代五名窯の一つに数えられ、晩唐時代から白磁を生産している。最盛期の定窯の製品は、碗、皿、深鉢などが多い。この甁は最盛期にかかる以前、北宋初期と考えられる珍しい作例で、強い調子で彫られた胴下部の連弁文などにもそれがうかがえる。口は欠失しているが、おそらく盤口甁の形であったと想像される。格調高い名品である。

重要文化財 白磁銹花(しゅうか)牡丹唐草文甁 定窯北宋時代 東洋陶磁美術館

口が小さく、肩が張り、そのまま胴裾に向かってすぼまる梅甁を、途中で胴切りにしたような形で、俗に吐嚕瓶(とろびん)、あるいは泰白尊(たいはくそん)と呼ぶ。この甁は表面に鉄絵具を塗りつめ、文様の部分を浮出すように掻落(かきおとし)している。滋州窯で良く見かける手法であるが、滋州窯のように白化粧されておらず、白く見える部分は、白磁の素地である。定窯の技法としては珍しく、また文様、器形ともに北宋時代の格調の高さを示すものである。

白磁刻花牡丹唐草文鉢 北宋時代 定窯 口径 26.5cm 出光美術館

北宋時代の定窯で造られた深鉢である。底部から腰にかけてゆっくり湾曲し、口縁部がやや端反り状を呈し、金属製の覆輪を嵌める。薄い器壁は叩くと金属的な響きがするが、光を通すほど薄く作られている。内面にはゆったりと流れる様に連花文が片切彫りで表され、外面は無文である。定窯の特有の色調として知られるアイボリーホワイトを呈する。

白地黒掻落牡丹文甁 北宋時代 滋州窯 高31.7cm 京都国立博物館

細長い胴部に小さな盤形の口がつく甁で、いわゆる梅瓶と称される。粗い灰色の素地に白化粧を行い、その上に鉄釉をかけ、鉄釉部分に刃物を用いて文様を彫っている。文様でない部分は掻き落し、牡丹唐草文、さらに肩と胴下部には簡略化した連弁を流れるように一周めぐらし、最後に透明釉をかけ、焼き上げている。温和な乳白色の地に漆黒の牡丹唐草文が浮かびあがる。大胆な構図とリズミカルな文様の動きが白と黒の対比によって生み出される滋州窯の典型的な作例である。

緑釉白地描落牡丹唐草文甁 北宋時代 滋州窯 高54.5cm 出光美術館

緑色の世界の下に透けて見える牡丹唐草の文様と地の部分が浮出している錯覚を覚える。北宋時代の滋州窯の甁である。滋州窯では白と黒のコントラストを生かした意匠のみならず、本作品のように色釉を用いた装飾技法も発達した。緑釉は胴を呈色剤とした500度前後の低火力の鉛釉であるが、中国では漢時代にまでその歴史を遡る。伝統的な技法を継承しながら新しい作品を生み出されていることを知ることが出来る作例とも言える。宋・金時代の磁州窯製品は、日本では出土例は少ない。

緑釉白地鉄絵牡丹文甁 金時代 滋州窯 高26.7cm 出光美術館

胴部は算盤玉のように膨らんでいる。胎は黄灰色を呈し、白化粧をかけて胴の前後に鉄絵具で牡丹折枝文を描き、牡丹の花弁や葉の一部を掻き落して、文様を整えている。その後、透明釉をかけて高火度焼成し、さらに全体に緑釉をかけ低火度焼成している。高台の裾から畳付は釉が掛からず露胎で、高台内に朱書が見られる。牡丹文が美しい。

白地緑釉花文甁 遼時代 乾瓦窯 高37.3cm 出光美術館

遼(りょうー916~1125)は契丹人により中国の東北地域に建国され、その地で生産された陶磁器である遼滋は、遼の美術、文化を良く表すものとして知られる。遼滋は遊牧民族である契丹人の生活習慣から生まれた造形や、独自の色彩感覚や意匠、様式美を展開している。白地を背景に、線刻により飾り気なく表された草花文の上に緑釉が掛けられた遼三彩とも称される鉛釉陶器に属する長首瓶である。地味ながらも力強く伸びていく草花の意匠は宋時代の中原の陶磁器には見られない遼滋の特徴とも言える。日本ではこの草花文を「葱坊主」と呼んで、鑑賞を楽しんだそうである。

白滋皮嚢壺 遼時代 定窯 高23.7cm   出光美術館

皮袋形の壺で短い注ぎ口と、太い把手が付く白磁の壺である。紐を意識したと思われる突帯が付く。白い素地の上から透明釉が施され、やや黄味を帯びた釉色を呈する。遊牧民族らしい作品である。定窯作とされているが、実は明らかではない。遼の領域に接する地域で遼の宮廷向けに注文生産された作品ではないかと思う。

重要文化財 青磁下蕪甁(しもかぶへい) 南宋官窯 南宋時代 高23.1cm出光美術館

いわゆる「下鏑形」を呈する南宋官窯の甁である。青銅器にその祖形があることがわかる。釉は厚く重ね塗りされて、落ち着いた天青色を呈する釉色である。実に美しい。宋代の代表作の一つである。

青磁輪花鉢 南宋時代 南宋官窯 口径26.1cm 東京国立博物館

明るく深い水色が印象的な、口が大きく開いた六輪花形の鉢である。口径に対して高台経はかなり小さく、形に緊張感を与えている。うつわの内外面には縦横さらに重想的に貫入が見られ、その大きさも大小様々であるが、釉薬がやや薄くなっている口縁部付近は内底と比べると小さく細かい。薄作りの胎に釉薬を重ねかけし厚くなったいわゆる「厚釉薄胎」の作例である。口には覆輪を嵌めている。南宋官窯の優品である。見事な出来であると思う。

 

今から35年前の1983年(昭和58年)に、私は東京国立博物館で「新安海底引揚げ文物展」を見た。その後、韓国へ行った時に韓国国立博物館で、その「私安海底引揚げ文物」を視る機会に恵まれた。その時、朝鮮で引き上げられた物は大半が陶磁器であり、南宋様式青磁が大半であった。引揚げ品の中には、日本人の履く下駄や、日本の将棋の駒の桂馬と書かれた駒が1個あり、また「東福寺」という寺名を表した木札もあった。これらのことから、船員に日本人が含まれていたこと、目的地は日本で、青磁の陶器を沢山積んでいたことが明らかになった。新安引揚げ品の総数は18,000点に達すると報告されている。当時の日本の対中国貿易における主要品は陶磁と銅銭であり、輸出品は砂金と銅地金であったことは明らかである。いかに日本人が中国の陶磁器に憧れていたかが分かる。そういう意味で今回の「宋滋 神秘のやきもの」の展覧会は楽しかった。大阪の東洋陶磁美術館が有名であるが、出光美術館の所有する「宋滋」も見事な物が多い。私個人の思い出が強く、この記事を読まれた方には、面白くない内容かも知れないが、是非写真だけでもご覧戴きたい。青磁、白磁の素晴らしさは、先人のみならず現代の我々にも、その素晴らしさを感じることが出来るだろう。

 

(本稿は、図録「宋滋  神秘の焼物  2018年」、図録「東洋陶磁の展開 1990年」、図録「新安海底引揚げ文物展  1983年」を参照した)