フェルメール展(2)

フェルメールは1632年、オランダの商都デルフトで宿屋を営む夫婦のもとに生まれた。宿屋「メーヘレン亭」は居酒屋も併設しており、父が画商としても活動していたから、街の画家たちが多く出入りしていたようである。フェルメールは10代でデルフトを離れ画業修行をしたとされるが、どこで誰を師匠としたかは不明のままである。1652年、フェルメールの父は亡くなった。この知らせを受けたフェルメールはデルフトn戻り、宿屋と画商業を継ぐことになった。この時フェルメールは20歳であった。以後殆どデルフトを離れることなく、この地で画家としてのキャリアを積んだ。その翌年の1653年、20歳のフェルメールは裕福なカトリックの娘カタリーナ・ボルネスと結婚した。カタリーナの両親は、一介の画家であり、プロテスタントの教徒であるフェルメールとの結婚に反対したが、彼がカトリックに改宗することで同意を得た。同年の年末にはデルフトの聖ルカ組合(画家の同業者組合)に登録した。これにより一人前の親方画家として工房を構え、作品に署名し販売したり、弟子を取ったりすることが出来るようになった。フェルメールは、はじめ神話やキリスト教の主題を描いた歴史画に力を入れたが、市民階級の需要の高まりから、市井の人物を描く風俗画を描くようになった。オランダの市民階層は、一家に一枚の絵画を飾るだけの余裕が出来たのである。「今日の日本で、一人前の画家の絵画を飾っている家庭がどれほそあるだろうか?)代表作の一つである「牛乳を注ぐ女」は20歳代後半に描かれた作品ながら、フェルメール作品の特徴である、光に満ちた室内の情景や、鮮やかな青と黄色の対比を、すでに見ることができる。順調に画家としての評価を挙げたフェルメールは、29歳の時に史上最年少で聖ルカ組合の理事に選任された。この頃には、風俗画家の画風を確立し、後世に残る名作を、次々に生み出した。1667年には「デルフト市誌」に「ファブリティスを継ぐ画家」として紹介され、デルフト随一の画家として評価された。その一方で生活は苦しく、義母の支援や友人からの借金に頼ることを余儀なくされていた。その理由として多くの子供を養うことや、フェルメールが多用した非常に高い顔料、ウルトラマリンブルーへのこだわりも、家計を圧迫していたと伝えられる。デルフト一の画家となったフェルメールは、40歳の頃には、絵画の鑑定家としても活動した。しかし、この頃からオランダ経済の衰退が始まった。第三次英蘭戦争が勃発し、フランスにも宣戦布告されたオランダは、大不況に陥り、絵の注文も激減した。そして1675年、フェルメールは43歳でこの世を去った。未亡人となったカタリーナは翌年4月、裁判所に破産を申請し、夫が残したわずかな作品も、パン代のかたに渡してしまう程に困窮した状態であった。

マルタとマリアの家のキリスト 1654~55年頃 ヨハネス・フェルメール作油彩・カンヴァス スコットランド・ナシォナル・ギャラリー

この絵はイエス・キリストが二人の姉妹の家に招待された際のワンシーンを描いた宗教画である。食事の支度をする活動的なマルタと、キリストの足元に座り込んで話し込む瞑想的なマリアを描く。教会での祈りを重んじるカトリックと、聖書のの教えを重んじるプロテスタントの教えを象徴しているという説もある。この絵を描く2年ほど前、21歳のフェルメールは、一つ年上のカタリーナと結婚するため、プロテスタントからカトリックに改宗している。信仰の違いからカタリーナの母親マーリアが、結婚に強く反対していたことからである。どちらかを選ばせるキリスト教的教訓が問われるこのテーマをフェルメールが描いているのは、自身の「選択」の影響ではないととも言われている。

執り持ち女 ヨハネス・フェルメール作 1656年 油彩・カンヴァス ドレスデン国立古典絵画館

フェルメールの作品のうち制作年が記されているのは3点のみである。1656年の年紀のある本作は、他の作品の制作時期を推定する際の基準となっている。描かれているのは売春宿の情景である。黄色い服を着た女性が、赤い服の男性からコインを受け取ろうとしている。女性の左胸に向かって背後から伸びる男性の左手が描かれている。その隣では、男性に娼婦を斡旋した「取り持ち女」が不気味な笑みを浮かべ、左端ではフェルメールの自画像とも言われる男性が、こちらに視線を投げかけている。一方で、この絵の設定は、新約聖書にある「放蕩息子」の一場面を連想させるという意見もある。宗教画や歴史画などを手掛けていた若きフェルメールが、風俗画家への転向を模索していた頃の作品である。

牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気の高い作品で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだが、フェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビラスズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされ室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対称の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机と右側の床にある木製足温器は古典的な三角構図を形成している。フェルメールは、透視図法の焼失線を女性の右手の真上にある消失点に向かって集中させることによって、絵を見る人の視線をさりげなく絵の中心要素に導いている。カンヴァスのその箇所にある小さな穴は、フェルメールが17世紀のアトリエでよく行われていた方法を用いたことを物語っている。画家は消失点となる場所にピンを刺し、透視図法の消失線をさだめるためにそこから絵の末端まで糸を張ったのである。

ワイングラス ヨハネス・フェルメール作 1661~62年頃 油彩・カンヴァス ベルリン国立美術館

「ワイングラス」は、フェルメールの制作活動の中期に属する絵画である。この時期、彼は「遠近法によって絵の中につくりだされる」空間を拡張する方向に向かっていた。人物や品々ははっきりと私たち鑑賞者から遠ざけて配置されている。この作品で初めて、フェルメールの対象をクローズアップして描くことを放棄した。人の座っていない椅子をテーブルの手間に置くことで「二人の人物による」出来事から私たち鑑賞者を隔てて、私たちを後ろに下がらせたのである。この革新的な方法は、フェルメールより3歳年長であったデルフトの同僚画家、ピーテル・デ・ホーホの初期の傑作からの影響を示唆している。画面左から、とりわけ2枚ある窓ガラスのうちの手前の1枚から差し込む冷たい光の反射の中で、若い婦人がテーブルの前に座ってワインを飲んでいるのが見える。この女性は、グラスを完全に傾けていて、ワインの最後の一滴を飲もうとしているようだ。落ち着きのある洗練されたしぐさでグラスの脚を手にする女性の動作は礼、この儀作法にかなうもので、また上流階級の人々によりふさわしいものである。この女性の隣には、ワインのポットを手にした優雅な身なりの紳士が立ち、ワインをつぎ足そうと待っているが、自らは飲んでいない。この若い婦人を見るとその自信に満ちた、まさに高慢といってよい表情は、この怪しげな人物の艶っぽい関係がこれから始まろうとしていることを示している。無垢な若い女性への誘惑、すなわち経験豊かな男性に言い寄られるという主題を取り上げた。その際、彼はオランダ風俗画家たちの間で流行していたこの主題に変化をつけている。同僚画家のヘラルド・テル・ボルフがフェルメールに着想を与えたのであろう。彼は、酒を飲む若い女性を紳士が誘惑するという場面をモチーフに何点もの作品を描いている。しかしながら、フェルメールの場合、この出来事に猥雑さも皮相的な官能性も加えない。彼は二人の関係の本当のところをはっきりと伝えるようなものは何も描いていないのだ。画面左側の窓には、片手でねじられた帯状のものを持つ女性像が描かれた色鮮やかな紋章が描かれている。この帯状のもののなかでは手綱が重要である。というのも、手綱は「節制」を意味する小道具だからである。ここに描かれた二人の関係とは、この二人が自制することに失敗するだろうという予測をも示唆していると考えたよいだろう。この絵は、まさに「節度を知る」ことへの警告である。

リュートを調弦する女 ヨハネス・フェルメール作 1662~63年頃 油彩・カンヴァス  メトロポリタン美術館

若い女性が窓辺に座り、リュートを調弦している。リュートの糸巻きに耳を傾け、楽器をかき鳴らしながら、窓越しにじっと外の通りを眺めている。鉛の窓枠のついた窓ガラス越しに差し込む光は、この女性の耳と首元を飾る真珠をきらめかせているだけでなく、彼女の隣にある椅子の磨き上げられた真鍮の飾り鋲をも輝かせている。彼女の前のテーブルには、楽譜が散らばっている。部屋の背後には飾り気のない白い壁で、そこには手彩色されたヨーロッパの地図が掛かっている。この絵は、建築的な空間の確固とした描写を一歩、椅子とテーブルの遠近法に基づく後退が、鑑賞者の眼を、画面を横断する力強い対角線上の動きに導いている。私たちの眼にはこの女性演奏者に向けられるが、彼女は、椅子と地図の間のまばゆいばかりの支点となっているのである。この作品においても図面左の窓からの光が柔らかく中景を満たすという形式になっているが、前景はそれに比べると暗くなっている。17世紀の画家達には自由に使える人工的な照明があまりなかったので、アトリエに差し込む光を調整するには窓を開けるか、雨戸を閉めるかしかなかった。この女性が見に着けた黄色い服は、フェルメール歿後、財産目録に載ったもののようであり、しばしば描かれた女性が着ている。

真珠の首飾り ヨハネス・フェルメール作 1662~65年頃 油彩・カンヴァス  ベルリン国立美術館

6作品に登場する黄色いマントを羽織った女性が、鏡を見ながら今しも真珠の首飾りをかけようとする様子である。黄色いカーテンがかかった右側の窓から、オランダ特有のやわらかい光が射し込んでいる。左側からの光、真珠に反射する光、黄色いマントの単身女性、人物の存在を際立たせる無地の壁。「光の魔術師」と称されたフェルメールならではの特徴が十分に詰まった中期の名作である。フェルメールは「青の画家」と称されるが、「「黄色の画家」であることがよく判る。

手紙を書く女 ヨハネス・フェルメール作 1665年頃 油彩・カンヴァス  ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フェルメールは、オランダのどのような画家達にまして、不動の静謐さと一瞬のうつろいとの間で繊細な均衡を保つことができた。彼は、この作品において、手紙を書くのを中断された女性が、穏やかで思慮深い作法で私たち鑑賞者の方に頭を上げているところを描いている。女性の姿と、この作品には永遠性がゆきわたっている。たとえば、フェルメールは青いテーブルクロスに斜めの折り返しをつくっているが、この折り返しは机に置かれた女性の左腕と平行になっている。また、人物像と静物の関係に対する同様の関心からフェルメールはテーブルの上に黄色いリボンを描いたが、このリボンは女性の伸ばした右手の輪郭線と呼応している。この絵の年紀は記されていないが、この様式から、1660年代半ばから後半にかけて制作されたほかのフェルメールの作品と関連づけられている。さらに、頭の後ろの髪を束ねて編み込み、星形に結んだリボンをつけたこの女性の髪形は、1660年代半ばに流行していた。女性の着る優雅な黄色い上着は、おそらくフェルメールの没後に作成された財産目録に記載されたものであろう。この時期のほかの3点の作品にもこの上着が描かれているが、そのうちの2点「リュートを調弦する女」と「真珠の首飾りの女」が本展に出品されている。

赤い帽子の娘 ヨハネス・フェルメール作 1665~66年頃 油彩・板  ワシントンナショナル・ギャラリー

フェルメールは、1660年代半ばないし後半に本作品を制作した。カンヴァスでは無く、板に描かれた、この注目すべき小品からも見て取れるように、フェルメールはm作品の雰囲気を作り出す際の色彩の役割にきわめて鋭敏であった。この作品では、若い女性が炎のように赤い帽子をかぶっているが、この帽子の外側の緑は、光が帽子の羽毛のなかにまで差し込んでいるので、まるで蛍光色であるかのように見える。この女性は溌剌として、生気に満ちている。目に青緑色のハイライトがあり、半分開いた口にピンクのハイライトがあるので、その表情は生き生きとしていて、まさに今、私達鑑賞者のほうに目を向けたのだという印象を強めている。青い上着の上に黄色いアクセントを置くという異色の大胆な組み合わせが、作品に視覚的な力強さを加えている。フェルメールが描いたほかの多くの人物画とは違って、この女性は、思惟的で抽象的な世界にはいない。彼女は、柄物のタペストリーを背景にして、私たちをじっと見つめ、関心を惹きつけ、私たちと直接やりとりしている。23.2×18.1cmと一番小さな絵である。

手紙を書く婦人と召使い ヨハネス・フェルメール作 油彩・カンヴァス 1670~71年頃 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

フェルメール後期作品の最高傑作として広く評価されている。この絵は、堂々たる品格をそなえた名品である。フェルメールの早すぎる死の数年前に描かれたこの作品には、緑のボデイス(胴着)とパフスリーブの白いブラウスを着た女性が敷物が掛けられた机の上で一心に手紙を書いているところが描かれている。手紙の文面はわからないが、女性の後ろに腕組みをしたメイドが立っている。このメイドは左側を向き、装飾が施されたステンドグラスの窓の外を見やっているが、何をみているのか定かではない。フェルメールはこの二人の女性を意図的に対比している。つまり、俯きながら坐っている婦人は内向的に見えるが、一方のまっすぐ立つメイドは外の世界につながっている。社会的身分や手前に位置していることからすれば、婦人が主役だが、メイドは女主人に従う身であり奥の部分に配置されているにもかかわらず、まさに構図の中心に全身像で描かれている。フェルメールは、既成の社会的ヒエラルキーを軽く扱うことによって、メイドがこの絵の場面の本質的要素であることをみなすように私達に望んだのだろう。本題材は、デルフトの画家が特に好んだもののひとつだった。フェルメールの早い時期の3点の作品には、女性が独りで手紙を読む、あるいは書くところが描かれている。そして残りの3点には、手紙を渡すメイド、今まさに渡そうとするところ、また本作品がそうであるように、女主人から手紙を送るように命じられるのを待つメイドが描かれている。フェルメールが手紙という題材を好んだのは決して例外的なことではなかった。彼が生きた時代のオランダ風俗画では男女の手紙のやり取りは最も頻繁に見られる画題の一つだった。

 

フェルメール展と名乗った展覧会は、日本では6回目であるが、その前後にオランダ絵画展とか、「レンプラントとオランダ絵画巨匠展」など19回、日本で開催されている。その中で、今回は10点が日本で見られる。(内1点は大阪会場のみ)従って、東京展では9点が見られる。これは過去最高の点数であり、初来日は3点もある。今回の「フェルメール展」では、日時指定制という初めての方法で入場切符を発売した。それは、絵画展を視るために、数時間も待つケースが多く、たとえば昨年の若冲展では、数時間並んだ人もいた筈である。今回は、入場予定日を前もって決め、かつ時間帯も決めて、指定された電話番号に電話すると、ナンバーを教えられ、セブンーイレブンの店舗を指定すると、その番号を指定した店で伝えれば、入場券が買えるという仕組みである。多分、日本では初めての採用では無いだろうか?入場料は2500円と非常に高い。いまだかって経験したことの無い高い値段であった。実際、私は初日の時間帯、10月5日の午前9時半~10時半を指定し、10時頃に行ったが、すでにかなり人は入っていた。しかし、当日券も販売しており、必ずしも事前購入が絶対条件では無いようであったが、万一満員になれば、当日券は販売しないだろうから、やはり事前予約しておくべくだろう。17世紀はオランダ全盛期であり、フランスより、イギリスより豊かな国であった。このキラキラした国では1637年にチューリップ・バブルがはじけ、ロンドンの「南海泡沫事件」より80年余り古い話である。こんp展覧会の入場券はかって経験したことの無い高いものであったが、結論として十分満足出来る内容であった。今後、少なくとも10年間は、これほどのフェルメール絵画が日本に来る機会は無いだろうから、是非拝観をお勧めする。十分満足出来る筈である。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「フェルメール展 公式ガイドブック 2018年」、クロワッサン 2018年10月25日号、日経大人のOFF「2018年1月号」を参照した)

フェルメール展(1)

ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダ共和国の黄金時代を代表する画家である。作品数は45店程度(異論はある)と寡作であるが、17世紀オランダを代表する画家であることは、間違いない。しかし、現存する作品は35点程度(異論あり)であり、長い無名の時代に行方不明となり、フェルメールの名誉が回復されてから、作品が発見された画家である。オランダとは、ほぼ現在のオランダとベルギーに当たる地域で、17世紀までは「ネーデルランド」(低地地方)と呼ばれた地で、海面より低い土地が多いため穀物の自給は、当時は困難であり、輸入に頼らざるを得なかった。その為この地域では、商人が活躍をして、仲立ち貿易により生きて行かなければならない事情があった。このネーザーランドの繁栄は、17世紀のイギリスを遙かに超えるものである。当時のオランダはヨーロッパ隋一の繁栄を誇る国であった。イギリスの作家ダニエル・デフォーは、イギリスの貿易は「輸出貿易」であり、オランダは「中継貿易」に過ぎないと酷評している。オランダのこの時代の歴史は、戦争の100年であった。歴史を振り返ると、まず1568年から1648年まで、スペインからの独立戦争を興し、オランダが決定的に勝利し、ヨーロッパで初めて市民階級が成立した。チューリップ・バブルの頂点の時代(1632年)にフェルメールは生まれているが、間もなく1637年にはチュリップ・バブルははじけている。17世紀世界を制覇したオランダの豊かさを土台に、文化が成熟していった肥やしのようなものを、この時代の絵から感じるが、一方でオランダの凋落の兆しも感ずる。事実第一時英蘭戦争が1662年に発生し、1654年に終結している。その後英蘭戦争は、第三次まで続き(1674年)、決極オランダは海上覇権をイギリスに奪われてしまった。フェルメールの生きた時代は、オランダが近代市民社会を生み出し、生き生きとした社会を生み出し、その絶頂期に生まれた作品群である。ヨーロッパ絵画には、19世紀頃までは、厳格なヒエラルキーがあった。それは歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の序列で、16世紀には、この序列は厳格に存在したが、今回の「フェルメール展」では、概して風俗画が多い。第1回は、フェルメール以外の著名作家の作品を取り上げる。

ルカス・デ・クレルク(1593~1652年)の肖像            フィンテェ・ファン・ステーンキステ(1603~1640)の肖像画     フランス・ハルス筆1635年頃 油彩・カンヴァスアムステルサアム国立美術館

 

この2作品は対をなす作品である。等身大の男の肖像は、画家の卓越した描写方法が素晴らしい。17世紀おいては、結婚した夫婦が自分たちの肖像の対作品を所有するのは普通のことだった。ここに描かれているのはハーレムの商人とその妻である。二人は1626年に結婚した。どちらも白いひだ襟のついた黒い服を着ている。極めて質疎な服装である。その理由は彼らの宗教的信条にあった。この二人は厳格な服装規定に従うプロテスタントの一派メノ一派の信者だったのである。妻のステーテンキステは、両手を腹の前で組み、妊婦のような姿勢を取っている。右手の関節や指のハイライトは立体感をありありと表現している。

ハールレムの聖ルカ組合の理事たち 1675年頃 ヤンデ・ブライ作 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

7人の男性が一つの部屋に集まっている。壁には金色の額縁に収められた風景画がかけられている。机はオリエント風の敷物に覆われている。この人物たちは、ハールレムの聖ルカ「画家」組合の理事たちである。聖ルカ組合は主として、若手芸術家の監督や、外部との競争から会員を保護などを行う芸術家の職業組合であった。オランダ共和国ではおもな芸術の中心地にはすべて聖ルカ組合が存在した。画家組合の一員だったヤン・デ・ブライはこの絵の中にも登場し、画板を手にした左から2番目の人物が彼その人である。彼は歴史画を描いたが、フランス・ハルス亡き後のハルレムで最も重要な肖像画家であった。

宿屋デ・クローンの外 1630年頃 ヤン・ミーンセ・モレナール作 油彩・カンヴァス フランス・ハルス美術館

宿屋の前で陽気な仲間たちが楽しんでいる。農民が酒やカード遊び、音楽等に興じる生活風景を表す。このような絵画は、時として享楽的生活への戒めという道徳的な意味を含む。しかし、モレナールは喜劇的な風俗画を得意としたことから、本作も単純に鑑賞者を楽しませる目的で描かれたものであろう。17世紀オランダ共和国では、このような風俗画が楽しまれた。

港町近くの武装商船と船舶 1620~25年頃 コルネリス・ファン・ウィヘン作 油彩・板 ロッテリアム海洋博物館

画面中央をすべての帆を張った武装商船が左に進んでいる。大砲を撃ったあとで、大きな砲煙が上がっている。この3本マストの武装商船はオランダの旗を掲げている。画面右奥からこちらにやって来る別の3本マストの帆船には3本のユリの鑑旗が掲げられているのでフランス籍であることがわかる。武装商船は、遥かアジア、アメリカ等に輸出貨物を積んで商売をするのであろう。当時のオランダの富をかせぐ手段であったろう。前景の浜辺では、漁師たちが忙しそうに釣り上げた魚を運んでいる。漁船やボートを引き上げられている前景の狭苦しい砂浜では、人々が様々な作業をしている。この作品は、実景を描写したかのような印象を与えられるが、ファン・ウィーリーヘンは、船や海、漁師に対する広範な知識を活用して、こうした情景をアトリエで描いてていた。しかし、オランダが海洋国家としてヨーロッパに覇を遂げた時代の風景である。

捕鯨をするオランダ船 アブラハム・ストルク作 1670年 油彩・カンヴァス ロッテルダム海洋美術館

17世紀、ネーデルランドでは商業用の捕鯨がはじまり、1614年から1642年まで、「北方会社」と呼ばれる組織が専売権を有していた。「アムステルダム」と呼ばれていたスピッツベルゲン島のスミーレンブルグを拠点として、グリーンランド海の沖に生息する大量のクジラが捕獲された。この産業によって北大西洋のクジラが絶滅しかけた。「北方会社」が30年ほどで解散された理由は、このクジラの絶滅危惧にあったのであろう。狩猟された2頭の北極熊やセイウチの姿も見られる。メルクは、このような主題の絵を少なくとも3点以上描いており、作品が確認されており、成功したようである。海洋国家オランダを象徴するような絵として受け入れられたのであろう。

海辺の見える魚の静物 ヤン・で・ボント作 1643年 油彩・カンヴァス ユトレヒト中央美術館

前景の海辺には様々な種類の魚介類がどっさりと置かれている。様々な種類の魚が実物大で描写されている。前景の左には、ひっくり返ったカニとその後ろに大きなロブスターが見える。これらの生き物の間に、ムール貝が砂地の上にある。中程には大きなヒラメがひっくり返っていて、その右側には巨大なエイがいて、その下にもまたヒラメが見える。これらの魚は、大きな籠の上やかたわらに置かれていて、その向こうには木の塀があり、そこには水指しとかロープがかかっている。塀の向こうにも釣竿がもう1本見える。画面左、砂地の先では、帽子を被り、棒を担いだ少年が、こちらを見ながら歩き去ろうとしている。背景では、砂丘の上に何人かの人物が立っていて、海を眺めている。はるかなかなたの海辺には、帆を張った漁船が何艘か見える。この魚介類は、背後の漁船で獲れたもので、これから海辺で売られるのであろう。様々な魚介類が取れた豊漁の様子が、深い知識に基づいて丹念に描かれている。署名された作品は少ないが、それらがはすべて魚の静物画である。「海辺の見える静物」というこの野心的な作品は、極めて品質も良く、画面も大きいもので、この画家の豊かな才能を示している。

手紙を読む女 ハプリエル・メッソー作1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

「手紙を書く男」の対作品で、女性は求婚者からの愛の告白の手紙を読むために、針仕事を中断している。メイドは手紙を渡したところで、彼女の傍に立っている。手紙を読む女性は、明るい方に向けて見ているだけでなく、他人から見られないようにしているのである。しかし、メイドは、手紙の内容について、よくわかっている。彼女は壁に懸けられた波立つ水面を航海する船が描かれた単色の絵画を見せるため、緑色のカーテンを片側に引いている。こうした海洋絵画は、「愛は荒れる海のようだ」、という広く知られた比喩となっている。このメッセージはフェルメールの「恋文」の背景に見られる海洋風景でも示されている。つまり、メイドがこの寓意を露わにすることによって、この女主人は彼女の前に横たわる危険を認識すべきだ、ということを鑑賞者に告げている。本作品は、真っ先にフェルメールの影響を受けている。「手紙を書く男」では、メツーの絵画をデルフトの巨匠フェルメールの特定の作品と関連させることは不可能である。フェルメールの作品に起源を持つような要素、例えば、背景の壁に反射する自然光、大きな対象を幾何学的に配列すること、背景の壁に物体を吊るして強調することは、フェルメールの様々な作品から学得したものである。フェルメールからの模倣で最も際立った点は、女性の上着である。メツーは彼自身の作品において、フェルメールの並外れた絵画技法を模倣した数少ない画家のひとりである。

手紙を書く男 ハブリエル・メツー作 1664~66年頃 油彩・板 アイルランド・ナショナル・ギャラリー

一人の紳士が開かれた窓の前にあるテーブルに座り、手紙を書いている真っ最中である。文通している彼の多情な気質は、欲望を象徴する動物の2つの図像によって示唆されている。かれの背後にあるイタリア風の風景画には山羊の群れが描かかれ、手の込んだ金色に輝く緑の鳩の群れが見える。男性の手紙は、対作品「手紙を読む女」の上品な衣服を着た女性のために書いているものである。その作品では、恋人が書いた情熱的な文面に夢中になって読んでいる女性の情景が描かれている。本作品は背後の壁に当たる暖かな明るい光によって、彼が午後に手紙を書いていることが示唆されている。一方、女性は、翌日のやや冷たい朝の光のなかで手紙を読んでいる。「手紙を書く男」と「手紙を読む女」はメツーが描いた多くの絵画のなかでも、最も成功した作品だと考えられる。彼は、この、対作品を1660年代半ばに描いており、それは彼の画業の絶頂期にあたる。そして38歳で早逝する数年前に相当する。その時、メツーはアムステルダムにおける風俗画の先導者となっており、日常生活の情景を繊細にえがいたことで名声を得た。こうした作品の大半は、音楽を演奏したり、飲食を共にしたり、お互いに手紙を交換したりすることによって、愛を求め合うオランダ上流階級の若く優雅な仲間たちが気晴らしをする様子を描いたものである。メツーの作品群はフェルメールの作品と共鳴するいくつかの特徴が含まれている。メツーがフェルメールから模倣した点は、フェルメールの特定の作品と関連付けることはできない。そのことはメツーが何度かデルフトに滞在した際にフェルメールの最晩年作を何度か研究していることを示唆している。

人の居る庭 ピーテル・デ・ホーホ作 1663~65年頃 油彩・カンヴァス アムステルダム国立美術館

1650年代後半、ピーテル・デ・ホーホは、これまで常に室内に置かれた少人数の集団や、せっせと働く主婦たちを、外の新鮮な空気のなかに配置するという考えを思いついた。彼は屋内のときのように、眺望や屋外の情景のなかに組み込んだ。これによって、彼は興味深い遠近法や照明の効果を探究する機会を得ることができた。デ・ホーホは通常、簡素なレンガ造りの裏庭に人物を配置した。この作品は小振りで手の行き届いた邸宅を背景に、小道が描かれている。視線は小道に沿って、囲いの開かれた扉へと導かれる。そこには群棲する木々を水際に見ることができる。良い天気で、邸宅には溢れるほどの日が差しており、優雅に着飾った若い女性と男性が涼しい日陰に逃れている。男性はわずかに前のめりになり、女性がレモンを絞ってグラスを手にしているが、おそらくこれは男性のために用意されたものである・もう一人の女性は雨水タンクで大きな銅製の容器を洗っているか、もしくは容器を洗っているか、もしくは磨く仕事に従事している。壁のレンガは庭の小道と同様に、ひとつずつ念入りに描かれている。デ・ホーホはしばしばフェルメールと共に語られる。年齢も3歳しか違わず、1650年代、この二人の画家はデルフトに住み、制作をしている。かれらの主題の選択や構図にはきわめて共通性があり、疑いなく、彼らはお互いに作品を知っており、相互に影響されていた。

家庭の情景 ヤン・ステーン作 1665~75年頃 油彩・板 アムステルダム国立美術館

滑稽で陽気な場面を多く描いたステーンの絵には常に教訓が隠されている。ここでは飲み騒ぐ大人たちが、テーブルに立つ幼児の悪い手本であり、左端の老女と若者は「老いが歌えば、若きは笛吹く」「(この親にしてこの子あり)の意味」という諺を表し、子供は大人をまねるので気をつけろという警告となる。「ヤン・ステーンの家族」という表現が、無秩序の支配する家庭を表すオランダの成句となったように、ステーンはこうした活気あり乱雑な室内を数多く描いた。ユーモアと逸話に富んだ細部描写を視る楽しみは、彼の作品のいて最も重要かつ不変的なもので、17世紀の風俗画において独自の地位を確保している。

 

私は1993年(今から24年前)に「たばこと塩の博物館」で開催された「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会を見た。今回「フェルメール展」で憧れのフェルメールを見る前に17世紀オランダ絵画を拝観することになった。24年前の記憶が、はっきりと思い出された。特に展名に「栄光のオランダ絵画」という言葉が含まれており、実に懐かしく「大塚久雄先生」の名著が浮かび上がってきた。それは「富」という題名で、昭和27年に刊行されたアテネ文庫(弘文堂刊)として販売された小さな文庫本である。オランダの17世紀から18世紀の経済紙が語られており、そこには有名な「チューリップ・バブル」や、世界一速く市民社会を生み出したオランダを、如何にイギリスが三度に亘る英蘭戦争デオランダを撃破し、イギリスの産業革命につなげたかが書かれている小冊子である・全部で76ページという小文庫であるが、実に興味深い内容であった。実は、フェルメールが活躍した17世紀は、オランダ共和国の黄金時代であり、世界一豊かな国であり、近代市民社会が成立していたのである。しかし、17世紀を頂点として3度の英蘭戦争の結果、オランダがイギリスに敗北し、資本主義社会の成立に至らなかったのである。24年前の展覧会と同じ画家名を見つけ、懐かしく、古い図録を詠みこんだものである。残念ながらフェルメールの作品は1点も無く、後からフェルメールの名声を知り、今度こそと思い、初日の朝一番に展覧会を見た。大変楽しい、展覧会であった。

 

(本稿は、図録「フェルメール展  2018年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本  1993年」、図録「フェルメール公式ガイドブック」、朝日新聞社「フェルメール展解説書」産経新聞刊、クロワッツサン2018年10月25日号、「日経大人のOFF 2018年1月号」を参照した)

 

 

 

2018年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた、「黒川孝雄の美」10選を決める季節がきた。今年は、生誕150年とか歿後50年とか大きな美術展が多数開催された。なかなか生きたくても行けない展覧会もあった。いずれも力作揃いで、見応えのある内容であった。昨年は何故かお茶に関する展覧会が続いたが、今年は殆どなかった。その年の好みであろうか。中々十点を選ぶことは難しい。候補として26点が上がったが、結局次の10点にまとめた。

第1位「仁和字と御室派のみほとけ 御室派編」国宝 千手観音菩薩立像3月6日

私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の最高峰であると評価していた。葛井寺(ふじいでら)は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来氏族が集まり、5世紀には巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建築された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面を戴き、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手とを合わせて1041本の手を持ち、各手の掌に眼が描かれる、十一面千眼観音菩薩坐像である。インドの初期密教が生み出した変化漢音の一つである。本像の作風はは天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の製作年代は天平年間の前半頃とみるべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手の美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本であったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。

第2位「生誕140年記念 木島桜谷 近代動物画の冒険」 寒月 4月2日

本作は大正元年(1912)の第6回文展出品最高賞に輝く作品である。森閑とした月夜の竹たぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介そうな眼であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの顔料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かびあがる。林立する竹にはダークな群青の絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛とした空気が漲る絵である。この絵を見た夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は、今年は”寒月”を出品しているが、不愉快な作品である。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。ところが動物はいえ昼間ですと答えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」は、この年の第6回文展で最高賞を取った。全国から出品された入選作186点中、主席であった。忘れ去られた名作を見ることが出来、私は非常に幸せであった。

第3位 江戸絵画の文雅  国宝 夜台楼台図 与謝蕪村作 11月21日

蕪村が最晩年、安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜台楼台雪万家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みが続く。しかし描かれているのは、中国の山水画bで理想とされる雪に閉ざされた秘境では無く、京都の東山に似た、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようである。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。

第4位 長谷川利行展(上) カフェ・パウリスタ      7月4日

本作は1911年に東京の銀座に開店した喫茶店である。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草や神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白とぴった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっかけとなり再び世に出てきた。額も無くかなり汚れた状態だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を蘇らせた。長谷川利行の代表作である。

第5位 「ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)」 叫び    12月13日

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうととしていたー物憂気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃え盛る雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこにたったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然と貫くのを感じた」(手稿T2760「夢の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物は、ムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに耐えられず、耳をふさいでしまっている。彼の体は、強い圧力を受けている。このように引き伸ばされて変形しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強力な力にさらされていることを示している。

第6位 岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 浄瑠璃物語絵巻 重分第四巻(2)6月18日

重要文化財「浄瑠璃物語絵巻」がMOA美術館で公開されたため、それを見たさに熱海まで出かけた。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した絵巻物である。金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物であり、重要文化財に指定されている。浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は祝言を挙げる。いよいよ姫がなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

第7位 名作誕生 つながる日本美術(3) 士庶花下遊楽図屏風 江戸時代 伝岩田又兵衛作 5月29日

船を浮かべた大きな池の周りに、桜咲く春の一日をさまざまに楽しむ人々の姿を描きこんだ野外遊園図である。桜の下での乱舞、道行く女性の一行に声をかけて遊びに誘ういわゆるナンパの場面、扇を手にして舞う若衆を囲んで下り藤の紋のある幔幕の内で繰り広げられる野外での宴、座敷では将棋や囲碁、三味線に興じる人々を、建具を取り払った建物に配した邸内遊楽の場面も加えられ、江戸時代初期の風俗画によく描かれたテーマである。この絵は、岩佐又兵衛となっているが、又兵衛工房と又兵衛の共作ではないかと解説では説明している。「憂き世」を「浮き世」と転換させた発想は、桃山時代から江戸初期にかけて広まった思想である。又兵衛らの活躍した元和から寛永年間(1624~44)に至って、時代の先端を行く流行思想となった。この「浮き世」の思想をまさに絵に描いた、男女遊楽の情景が最も好まれて取り上げられている。それを後の、江戸の菱川師宣を元祖として誕生した浮世絵の先駆とみなすことはごく自然なことであろう。

第8位 横山大観展 夜桜 絹本着色 六曲一双 昭和4年(1929)8月11日

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマの展示や運営も任された。本作はローマがねらいだったから、大観は海外の観客にも理解されやすい主題と画風を選んだのである。色の取り合わせから室町時代のやまと絵などを意識したと思われるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。

第9位 Re・加山又造典  春秋波濤 絹本採色 1966年  4月16日

この絵画は、国立近代美術館で何度も拝観した。この絵画と、別に3重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種での山を3枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。

第10位 横山崋山展 祇園祭歴図  江戸時代(天保6~8年) 11月5日

上下2巻、計30メートルの長さにわたって祇園祭の全貌を描きつくそうとした稀有の例の祭礼絵巻である。上巻は稚児社参に始まり、青山、そして山鉾二十三基が巡航する様子を丁寧に描く。下巻は後祭の山鉾計十基が巡航する光景を描き、三基の神輿が御旅所より祇園社へ還幸する様子、そして四条河原の納涼、祇園ねりものと実に印象的に描いている。本図は江戸時代後期以前の祇園祭の祭儀を知る上で欠かせない資料である。

(本稿は、「原色日本の美術全30巻、「探求日本の古寺 全15巻」高橋秀爾「近代絵画(上)(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(2)

ムンクの一見未完成に見える絵画は、初期の頃にはノルウエーやドイツの評論家たちの批判の的となった。ノルウエー国外では、1892年のスキャンダラスな成功とともにムンクの名は広まった。ベルリン芸術家協会での個展は、保守的な会員やメディアからの圧力により1週間で閉鎖に追い込まれた。だがこの事件のおかげで、ムンクはドイツをはじめ他のヨーロッパ諸国で画家としての頭角を現していく。そして20年後の1912年には、ケルンで開催された歴史的な分離派展で、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ダン・ゴッホと言った主動的なモダニストと並ぶ新しい芸術の担い手として招介され、一室が与えられた。ムンクは最も先進的なモダニズムの芸術家の一人ともなされたのである。そして1927年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展による確固たるものとなった。ムンクが生計を立てるにあたって、作品の販売よりもむしろ「展示」による入場収入に主眼をおいたことも興味深いことである。1892年、ベルリン芸術家協会で人々の怒りや嘲笑を掻き立て展示会が1週間で打ち切られた「ムンク事件」ー事実ムンクはこの一件で時の人となり、古展がドイツ国内を巡回する機会を得た。この時画家は200マルクの報酬か、チケット売上高の3分の1を受け取るかの選択に迫られ、後者を選んでいる。スキャンダルが反響を呼び、数多くの人々が自分の個展に足を運ぶことを理解していたのだろう。ムンクが死去した1944年、ほとんどの作品がオスロ市に寄贈された。1963年同市に「ムンク美術館」が開館した。現在でもなお、ムンクの芸術は世界中からの関心を集めている。日本でもたくさんの展覧会が開催されてきたが、本展のように、ムンクの初期から晩年までの作品を網羅する展覧会が最後に開催されたのは、20年前に遡る。たまたま、私が見学した「世田谷美術館」で開催された。1997年の「ムンク展」である。

月明かり、浜辺の接吻  油彩・カンヴァス         1914年

男と女は、互いに抱き合い接吻を交わしながら一体になる。男女間の愛は、互いの境界を決壊させる。それは個人が抱える孤独や疎外感に打ち勝つ手段となる。だが、ムンクはその誘惑に決して身を委ねなかった。いくつかの情事や恋愛事件は別として、彼は生涯を通じて独身のままでいた。ムンクが彼自身の創造力を維持することをどれほど望んでいたかがわかる。彼は、芸術家がその力量を十全に発揮するためには孤独でなければならないと確信している。

森の吸血鬼  油彩・カンヴァス         1916~18年

ムンクが生涯にわたりさまざまな方法で再制作し、組み合わせた一連のモチーフを生み出したのは1890年代のことであった。本作品においては、女の吸血鬼と男の犠牲者というムンクの象徴的なモチーフと、「夏の夜、声」に描かれた風景、さらに他のいくつかの主題が組み合わされている。ムンク自身の作品の見本として、繰り返し利用することで、新しい解釈と意味の転換を創りだした。

別離  油彩・カンヴァス             1896年

本作品において、ムンクは別離を迎えた一組のカップルを描いた。女のドレスは砂と一体化し、髪は大気の中に溶け込んでいる。前景の男は重々しさをたたえて立ち、その失意の心が大地に肥沃さをもたらし、血のように赤い植物を咲かせている。別離の情景は浜辺を舞台とした、ムンクの生涯にわたり繰り返し描いた湾曲する風景の中で繰り広げられている。

生命のダンス  油彩・カンヴァス               1925年

場面は夏の夜の海岸である。永遠に続く人間ドラマのように見える光景を満月が照らし出している。ムンクは人生を、誕生と繁殖、そして死が織りなす終わりなき循環と考えている。本作品における主要な人物は、前景に描かれた3人の女性たちである。白いドレスを着た若い女性は、青春期の純真さを表している。性愛が支配する画面中央では、赤いドレスの女性と、彼女に魅惑されたパートナーがダンスを踊っている。右側では、黒い服を着た年配の女性が、人生の終わりに近づきづつあることを表している。

フリードリヒ・ニーチェ  油彩・テンペラ、カンヴァス   1906年

ムンクは、コレクターから本人や家族の肖像画などの依頼を受けるようになった。ドイツの有名な哲学者を描いたこの肖像画は、妹のエリーザベルト・フェルスター=ニーチェによって注文された。ムンクはフェルスター・ニーチェが亡くなってから6年後に、写真をもとに本作品を描いた。ムンクはフェルスター=ニーチェが兄の文章類を管理していた東ドイツの都市ヴァイマールも訪ねている。この肖像画には「叫び」の構図の中心的な二つの要素が取り入れられている。それは画面に斜めに配され、線遠近法の強い効果を生み出している小道と、風景や紅色の空に見られる、うねるような有機的フォルムである。

緑色の服を着たインゲボルグ  油彩・カンヴァス     1012年

この大型の絵画に描かれた女性は、インゲンボルグ・ガウリンである。彼女はムンクのモデルを定期的務めた女性の一人で、数年は家政婦としも働いていた。後の1915年、彼女はノルウエーの画家ソーレン・オンサーゲルと結婚した。本作品は、緑色の色彩研究とみなすことができるかも知れない。ムンクは緑色を補色の紫色と対比させ、極めてヴァラエティに富む色調を展開させている。さまざまな緑色が表されている。ムンクの作品の中では、珍しい色使いである。

疾駆する馬  油彩・カンヴァス           1910~12年

視る者に向かって疾駆する馬を描いた本作品によって、ムンクは絵画の静的な領域の中で最大限のダイナミズムを生み出した。馬が疾駆するスピードは、極端な短縮法や粗い筆遣い、ぼやけた色面、雪のはね返り、そして道から飛びのく人々の姿によって伝わってくる。こうした絵画的な効果は、写真や映画といった新しいメデイアの技術に対するムンクの実験に影響を受けた可能性をうかがわせる。1902年は、ムンクは既にカメラを購入していた。図録にも沢山のカメラ映像が残されている。

太陽  油彩・カンヴァス            1910~13年

ヨーロッパでの評価が高まる一方、ノルウエーでは作品が受け入れられなかったムンクは、長年諸国を転々とし、酒に溺れ神経症に苦しんだ。1909年の個展で国立美術館が作品5点を購入した。ようやく祖国での名声を確立することになった。クリスチャニア大学(現オスロ大学)の講堂壁画は、ノルウエーに帰国したムンクが7年を費やした記念碑的な大作である。3方を囲む巨大な作品群の中心となるのが「太陽」である。強烈な光線が降り注ぎ、爆発的なエネルギーが画面からあふれ出ている。故国を終のすみかにしたムンクは、かってと打って変わった明るい色彩で、豊かな自然や人々の姿を描いた。80歳になるまで、創作への情熱を最後まで燃やし続けた。

星月夜  油彩・カンヴァス           1922・24年

亡くなるまでの30年は、オスロー近郊のエーケリーに邸宅とアトリエを構えた。幻想世界を立ち上げる筆がさえる「星月夜」はここで生まれた。冷えた空気にまたたく星と、オスロの街の灯が美しい。画面左下に控えめに映り込む影はムンク本人とみられる。人間の暗部や負の感情を直接的に訴えた前半の表現とは一転し、急性精神病を乗り越えたムンクは、美しい色彩やエネルギーに満ちた多くの風景画を製作した。

自画像  油彩・カンヴァス            1940-43年

ここに、80歳に届こうとしている老年のムンクがいる。彼は壁いっぱいに自分の絵を飾った部屋の中にいて、ベッドと時計に挟まれて立っている。この柱時計とベッドは、象徴的な意味を持つものとして描かれている。砂時計は伝統的に死を意味するシンボルであったが針も振り子も描かれていない時計は、ムンクに残された時間がもはやほとんどないことを暗示している。一方ベッドは「思春期」や「病室での死」など、愛と死を扱った多くの作品に登場してきたモチーフとして、彼のこれまでの画業を象徴するものであると同時に、もうすぐ彼自身の死の床となるであろうことを暗示している。画面左横にある裸婦像はムンクの画業において欠かせないものであった。これは死に対応する愛の象徴なのかも知れない。

 

エドバルド・ムンクはノルウエーの由緒ある家の生まれである。紆余曲折を経て徐々に名声を高め、国民的画家へと上り詰めた。精神的な病に苦しみ、複雑な内面を抱えていたが、そんな自らを冷徹に観察し、終生自画像を描き続けた。カメラを手に入れ、「自撮り」の写真まで残している。自画像は、彼の芸術家然とした姿を世間に印象づける、効果的な手段であったのであろう。60年に及ぶ画業の全体像を描き出す、素晴らしい展覧会であった。是非、大勢の方に見てもらいたい展覧会であった。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する魂の叫び  2018年」、図録「ムンク展ー1997年」、朝日新聞 記念号外「ムンクー共鳴する魂の叫び」、高橋秀爾監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

ムンク展ー共鳴する魂の叫び(1)

待望のムンク展が東京都美術館で開催された。私に取っては、待ちに待ったムンク展であった。1997年(平成9年)に世田谷美術館でムンク展を観て以来であり、大変懐かしく、待望の「ムンク展」であった。ムンクを招介する前に、「ムンク」について、どれほど日本の美術界で知られているかを調べてみたら、驚くほどムンクは招介されていない。例えば、高橋秀爾監修「西洋美術史」(美術出版社)には、後期印象主義としてゴッホの次に「ノルウェーのエドヴァルド・ムンク」として「叫び」の写真が載っているのみである。次に、福島繁太郎「近代絵画」(岩波新書)では、やはりゴッホの付けたしのように「主観主義的傾向」の中の「エクスプレショニズム」の項で、「この流れはフォーヴに伝わり、更にノルウエーのムンクに至った」と記しているのみである。ムンクはこんなに日本では知られて居なかったのかと不審に思い、やや丁寧に調べてみたら、驚くべき事に、日本で一番最初にムンクを招介したのは、白樺派であった。「白樺派と近代美術」という本の中で、「文芸雑誌というよりも、むしろ美術雑誌と言ったほうがよいほど徹底して」西洋美術を招介した「白樺」が最初にムンクを取り上げたのは、早くも創刊後2年の6月号(1911/明治44)である。そこでは「近代のえらい画家」として「シャバンヌ、ゴッホ、ホフマン、エリック、ムンク」と並んで招介されていた。武者小路がすでにムンクにお作品には「彼の心の底にうつるものが描かれ」、「彼の自然は幽霊のように生きている。そうして人間の心をおびやかす、彼の描く人間は、孤独と、恐怖と、不安におののいている」とムンクの本質をぴったりと捉えているには注目に値しよう。                         主催者の「ごあいさつ」の言葉を借りた方が早い。「ノルウエーの由緒ある家系に生まれたムンク(1863~1944)は、病弱だった幼少期に家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。ヨーロッパ各地で活動しながら世紀末の思想や文学、芸術で出合う中で、人間の内面に迫る象徴主義の影響を強く受けながら、個人的な体験に根差した独自の画風を確立し、ノルウエーの国民的画家としての地位を築きました。愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の感情を強烈なまでに描き出した絵画は、国際的にも広く影響を及ぼし、20世紀における表現主義の潮流の先駆けにもなりました。」

自画像 油彩・紙(厚紙に張付)             1882年

ノルウエーの画家・ムンク(1863~1944)は、今や世界中に知られた画家である。家族の死を体験した病弱な幼少期を経て、ノルウエーの都市クリスチャニア(現オスロ)で画家として歩み始めた1880年代。そして第二次世界大戦の前年に孤独な死を遂げるまで、その画業は60年の長きに及んだ。画家になる以前、ムンクはクリスチャニアの工業専門学校でエンジニアになるため勉強していたが、1年で考えを変えた。芸術への情熱に捧げる決心をしたのである。1880年、彼はクリスチャニアの画学校(後の王立美術工芸学校)に入学した。父のクリスチャニアは必ずしも賛成ではなかったようである。ムンクは多くの自画像を描いているが、これが一番最初の自画像であり、端正な顔立ちと魅力をそなえた人物として知られていた。

臨終の床  リトグラフ                 1896年

ムンクは早い時期に母と姉を失い、「死せる母とその子」というリトグラフを残している。本作もリトグラフであるが、母か姉かの臨終の床を表したリトグラフである。一見、木版画のようであるが、リトグラフである。この作品において、棺を取り囲む幾筋もの木目調の水平線は、死と悲しみの雰囲気を強調している。さらに、線の間に現れるいくつもの顔は、魂の存在をほのめかしているのかも知れない。

病める子   エッチング・ドライポイント        1894年

「病める子」は、ムンクにとってはさまざまな意味で突破口を意味していた。死にゆく少女の顔に焦点を当てられている。ムンクは生涯を通じて、さまざまな技法を用いて、これと同じテーマの作品を生み出した。ムンクの姉のソフィェは15歳の時に結核で亡くなった。この作品はその姉を失った経験と結びついている。「病める子」の最初の版画が1886年にクリスチャニアに展示されたとき、作品は厳しい拒絶反応と熱狂的な称賛の声の両方を引き起こした。

メランコリー  油彩・カンヴァス       1894~96年

ムンクによる「メランコリー」のイメージは、孤独や悲しみに陥り、意気消沈する人間を表現する古き伝統の系譜にある、ムンクである美術評論家ヤッペ・ニルセン(1870~1931)の恋わずらいに着想を得て、昔からあるこのモチーフに新しい生命を与えた。ニルセンが情事をもったオーダー・クローグ(1860~1935)は、彼より10歳年長で、ノルウエーの画家クリスチャン・クローグとすでに結婚していた。クローグはムンクの初期の師の一人である。ここでの風景は、互いに溶け合うフォルムと色彩によって構成されている。本作品は、男の憂鬱な内面を表す精神的なイメージと捉えることができるだろう。

渚の青年たち(リンデ・フリーズ) 油彩・カンヴァス  1899~1900年

ある時、リンデ・フリーズの制作依頼を受けたムンクは、「メランコリー」のモチーフを本作品に再利用しつつ、それに変更を加えた。窓辺の風景と、孤立し、物憂げな人物からなるこの作品は、「リンデ・フリーズ」と呼ばれるシリーズの1点である。注文主であるドイツの眼科医マックス・リンデンの名にちなむこの連作は、8点の絵画からなるもので、ドイツの町リューベックにあるリンデ家の邸宅の子供部屋のために制作された。しかし、この絵の出来栄えに満足しなかった。このシリーズには愛し合い接吻を交わす恋人たちが描かれていて、リンデ夫妻はこうしたイメージが子供たちにふさわしくないと考えた。この「りんで・フリーズ」に関しては意見が合わなかったムンクとリンデだが、二人の友情はその後も永年にわたって続いた。

赤と白  油彩・カンヴァス          1899~1900年

前景に描かれた二人の女性が画面を支配している。白い服を着た金髪の女性は海の方を向いており、身体を柱のように直立させている。赤い服を着た濃い髪色の女性は、身体の曲線がかなり強調されている。木々の幹の間に暗い色のドレスをまとった女性の痕跡が見える。この女性は、本作品と同じモチーフを表す初期の油彩のスケッチに描かれていたが、ここではムンクの手によって塗りつぶされている。二人の姿は、女性の生涯の異なる段階、あるいは性格の異なる側面を象徴しているのかも知れない。白い服を着た女性の無垢と純真さは、赤い服の女性の成熟と情熱的なエロチシズムと対照的である。こうした象徴的な対比はありふれているが、この絵画の魅力はむしろ、象徴の「解釈」を超えて、赤、白、青、黒といった色彩が生み出す、緊張感に満ちた相互作用にある。

星空の下で  油彩・カンヴァス          1900~05年

二人の人物が抱き合っている。場面は星明りに照らされている。この星空は、私にはゴッホを思い出させる。家が象徴する社会の存在は、絵画の背景に押しやられている。女性の顔はぼんやりとして、ううつろに描かれている。赤い唇がなければ、頭蓋骨のように見えるだろう。ムンクはここで、二者の間の愛と欲望という不変の現象を表した。それは本質的に隔絶され、非社交的な世界であり、都市生活の喧騒とは無縁の世界である。青と緑は、この情景に神秘的で厳かな雰囲気をもたらしている。

叫び  テンペラ・油彩・厚紙             1910年?

この作品のもととなった体験は、「1892年1月22日、ニース」という年紀のついた日記に記されている。「友達二人と道を歩いていてー太陽が沈もうとしていたー物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなってー僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていたー血のように、剣のように、燃えさかる雲ー青く沈んだ港湾と街を見たー友達は歩き続けたー僕はそこの立ったまま、不安で身をすくませていたーぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」(手稿T2760「紫の日記」)この記述によれば、橋の上に立って正面を向いている人物はムンク自身ということになる。彼は自然を貫く叫び声のあまりの大きさに堪えられず、耳をふさいでしまっいている。彼の体は、強い圧力を受けているかのようにお引き伸ばされて変型しており、頭蓋骨の形が現れているのは、彼が死の強大な力にさらされていることを示している。内心の恐怖に耐えられずに、彼自身も口を大きく開けて叫んでいるようだが、その叫びは前を歩く二人の男には聞こえていないようである。画面左端へと鋭い角度で後退してゆく遠近法は、見る者の視線を有無を言わさず引きずり込むかのようである。ムンクがニースでの体験をクリスチャニアの風景の中に置き換えて描いたのは、子供の頃の母と姉の死や、彼自身がさらされてきた死への不安によって増大した恐怖と不安の感情が、この町と分かちがたく結びついていたからであろう。「叫び」は不朽の名画として讃えられたいる。この作品は複数枚ある。世田谷美術館で見た「叫び」は、1893年制作で、年代も大きく異なっている。今回の「叫び」は別作品である。また、リトグラフも複数枚ある。夫々違った表情をしている。

絶望  油彩・カンヴァス                1894年

ムンクは本作品に「叫び」と同じ構図を採用した。「叫び」に描かれた人物を物憂げな男に置き換えた。本作品は、わずかな変更によってまったく異なる視覚的効果を生み出すことができるムンクの才能を証明している。この人物は、ムンクが「メランコリー」のイメージにしばしば用いるのと同じ人物像である。絶望や悲しみ、そして憂鬱といった感情は、ヨーロッパの芸術や文化において長い伝統がある。

不安  木版画・手彩色                   1896年

「叫び」と同じオスロとその周辺の景色を背景にムンクは町の人の群れを描いた。並んで待つ人々は、お互いに無関心で、ただ私達のほうをじっと見つめている。彼らの顔は、黒と白の大まかなシルエットに簡略化されている。彼らに個性を示す特徴は皆無である。この手彩色の木版画は、不安というテーマを特定の人物に対する恐怖としてではなく、近代生活における実在主義的な状態あるいは条件として提示している。不安とは、都市に生きる人々の生活を駆り立てるものであり、彼らをお互いに孤立させるものなのだ。同時に、人物たちの背後に見える夕暮れの燃えるような色彩は、彼らの不安な状態をきわめて劇的に演出している。

 

ムンクの代表作である「叫び」を中心に、比較的初期の作品を(1)としてまとめてみた。ムンクの描くものは、叫び、絶望、不安に代表されるとうに「不安」・「孤独」・「絶望」・「憂鬱」という近代社会の人間が持つ感情を絵にして描いたものが多く、特に「叫び」はムンクの代表作であり、近代市民の持つ負の要素を総合的に、見事に表現したものである。ムンクは80歳以上と長生きした画家であり、長い画家生活を通して多彩な面を見せるので、次回(2)で、この後のムンクの実績を招介したい。尚、ムンクの作品は、印象派のように大量にアメリカへ流れたわけではなく、大半がノルウエーの美術館に保存されている。従って、ムンク作品は10年以上のスパンを採って来日する傾向があるので、是非、今回の「ムンク展」を見学されることをお勧めする。なお、最近、どこの美術館でも図録が大幅に上昇し、博物館関係者の間では、「図録が売れない」という愚痴がおおいそうである。(永青文庫104号「館長のひとりごと」より)しかし、このムンク美術展の図録は、230ページに及ぶ大きさながら、2400円と大変手頃な価格である。是非、拝観された方は、この図録を求められることをお勧めする。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する叫び  2018年」、図録「ムンク展 1997年」、高橋秀而監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)

「黒川孝雄の美」300編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、300編に至るまで7年の歳月を要した。1年に44編を書いたことになる。スローな様であるが、途中で80編程を失ったため、実質は380編を7年で書いたことになり、1年間に平均54編を書いた計算になる。ここ数年、急いで書いた理由は、その辺にある。このブログを書き始めたきっかけは、望洋会(名古屋大学経済学部第4期生の同窓会)の「幾山河」に学生時代の思い出として飛鳥、奈良地方の古寺を廻ったことを書いたことである。大学時代の思い出と言われても、特別勉強したこともなく、敢えて言えば「飛鳥・奈良・大和地方」の古寺・古仏を訪ね歩いたことが唯一の財産であったからである。「幾山河」には「おほてらの まろき はしら」と題して幾つかの古寺・古仏の思い出を書いた。飛鳥寺、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招招寺など、思い出深い5ケ寺を描いたように思う。題名の「おほてら」とは、唐招題寺にて、會津八一が「鹿鳴集」で謳った金堂の歌である。奈良・京都の仏寺が当初のテーマであったが、いつしか「美術展の招介」に移行していった。古寺巡礼と同様に、私は大学生時代から、数少ない経験であったが、西洋絵画の展覧会は必ず見学するようになった。また「徳川美術館」が、古い建物で残っており、毎月1回は訪れることにしていた。展示物は殆ど変らず、毎回同じ物を見学する訳だが、何かそこには、日常とは異なる物があるような気分であった。                会社へ入社(昭和31年)して、本社の近くに「ブリジストン美術館」が在ったのは、大変幸いであった。ここで、西洋絵画、近代日本絵画、彫刻等に触れ、大きな感動を覚えるようになった。昭和34年(1959)6月に国立西洋美術館が上野に完成したのも大きな変化であった。旧松方コレクションの一部(絵画196点、素描80点、彫刻63点、参考作品5点)合計370点が、フランスからの返還として上野にもたらされた。この松方コレクションは本来、もっと大きな収蔵品であったが、戦時中に「敵性美術品」としてフランス政府に没収され、一番素晴らしい美術品はフランス政府が美術館に収蔵し(例えば、ゴッホの「寝室」)、残り370点を「日本国民への寄贈」という形で返還したものである。松方コレクションは、15世紀頃から20世紀にかけてのコレクションであり、西洋美術を理解する上で、この上ない教科書であり、むさぼるように見学したものである。    さて「美」の読者数は月間4,500回という数字(年間54,000回)が基礎になる。誰に読んでもらっているかは、不明であるが、最近パソコンよりスマホに移動している。読者層が、20代~50代にシフトしたことが窺える。しかし、その内容は分からない。望洋会に記事が招介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻巣美術館」からである。望洋会の読者数は、ネットを扱える人と考えると10人~13人位と思う。私たちの同世代は、残念ながら、パシコンには詳しくない人が大半である。従って、読者層は殆ど名前も地位も知らない人ばかりである。                                   ブログを書くためには、まず美術館へ行く、図録を買う(これで1日)、図録を詠みこむ、過去の関連図録や図書を読み直す(これで1日)、これを基礎にして原稿を書く(ここが一番時間を取られる。2日程度は必要)、同時に写真を10枚程度選んで、パソコンに収録する(これは前の2日間に含まれる)、原稿・写真をパソコンに取り込んで「ブログ」として完成させる(約1日)、これをアップして、望洋会や友人にアップしたことをメールで連絡する(2時間)、合計すると一つのブログを完成するのに4日強を要するということになる。            これを年間54編×4日=216日という計算になる。要するに私の自由になる時間の大半は、「美」に取られていることになる。果たして、それだけの価値があったであろうか?どうせ、何もすることも無い身であるから、自由になる時間をつぶす絶好の機会であったと思っている。しかし、このままでは、やや情けない。折角ならば、多少は、誰かのお役に立つ記事にしたいと思う。           話は変わるが、私は自分のホームページ上に、10年(120回)に渡り、「フランチャイズ時評」という記事を書き、いまだに大学生から「卒論に引用したいが、許可してもらいたい」という電話が架かってくる。それどころか、関西の有力私大のフランチャイズ専門家(大学教授)より、「メガフランチャイズ」について私の見解を聞きたいとして、上京されることが最近あった。「フランチャイズ」は私の専門であり、その程度の要望があっても可笑しくない。しかし、それ以上に時間を掛け、情熱を燃やしている「美」に対しては、特段の要望も出ない。      察するに、私の「美」のレベルは美術愛好者の域を出ず、誰も専門家とは見ていないからである。300編が一応の目標であり、ここで止めても良いが、私の気持ちは、まだまだ続く。多分500編程度までは掻き続けることになるだろう。専門家とまではいかないが、一つの意見として注目してもらえるようになるためには、やはり専門的知識の素養が足りない。日本美術史、西洋美術史から進んで、日本仏教史、日本史、西洋史、中国史、旧約聖書、新約聖書等など、美術全体の系統的知識、教養、更には専門的見識に至るまで備えなければ、誰も「意義あるブログ」とは見做してくれないのである。所詮、現在程度の知識、素養では素人の域を出ないのである。本格的、かつ体系的知識を身に付け、専門家からも一目置かれる「黒川孝雄の美」を更に書き続けたいと思っている。                 なお、望洋会へのブログ・アップについては佐藤君、中山君に大変お世話になった。この二人の励ましが、今日まで続いた原動力であった。厚く御礼申し上げる。なお、この「300篇」に関しては、DVを作成して、古い友人に配布したいと思っている。

 

畠山記念館  生誕150年  原三渓ー茶と美術へのまなざし(2)

原三渓(1863~1939)は、増田鈍翁と並んで明治、大正を通じて、日本美術品の海外流出を防いだ、日本美術品の大コレクターであった。また、この二人は数寄者としても著名であった。原三渓は慶応4年岐阜県に生まれ、明治21年に上京し、跡見女学校で漢学と歴史を教える傍ら、東京専門学校(現早稲田大学)に学んだ。明治25年、教え子の原屋寿と結婚した。原屋寿は両親に早く死なれ、横浜で生糸問屋を営んでいた祖父原善三郎の相続人となっていたため、富太郎が原家に入籍して店を継いだのである。善三郎亡き後は原商店を原合名会社に改組して輸出業に着手、34年からは株式会社第二銀行の頭取も勤めた。三渓は事業を拡大する一方、その莫大な財産を後ろ盾として本牧三の谷の三溪園に居を移し、ここに古建築の購入、移築を行い、今日の「山渓園」を作庭した。また数寄者として、茶人との交流も多く、三溪園でも茶会を催している。しかし、至福の時は続かなかった。大震災で強羅の別邸白雲洞を失い、生糸も焼失し、その後の世界的恐慌もあり、後継者も亡くなり、晩年は恵まれないまま、昭和14年(1939)に亡くなった。膨大な収蔵品は、奈良の大和文華館や東京国立博物館に多数引き取られた。また、茶道具をはじめ一部の美術品は、畠山即応にも渡り、今回の展覧会となった。今回は、写真が多く入手出来たので、2回に亘り、連載することにした。畠山記念館としては、初めてである。

重美  四季花木図屏風  渡辺始興作   六曲一双 紙本着色 江戸時代

誠に華麗な屏風であり、茶人の即応が何故、このような美しい屏風を手に入れたのか、不思議に思ったが、琳派の収蔵品も多く、琳派の一人であるため、入手したものであろう。四季花木図は琳派の画家達が好んで屏風絵とした題材で、四季の花木や草花を右から左に配置し、一双を立て廻らせることによって、居ながら花園を鑑賞することができるものである。本作は始興の代表作とも言うべき作品であり、たらし込みの技法や胡粉を盛り上げ、その他草花に用いらた意匠化など琳派様式であり、如何にも公家好で王朝風である。この姿勢は、始興が仕えた近衛家煕(いえひろ)の影響があったのではないかと思われる。地味な茶道具の最後に、この華やかな屏風には、毎度驚かされる。原三渓の旧贓品である。

重文 竹林七賢人図屏風  雪村周継作  六曲一双屏風 紙本墨画 室町時代

中国の魏末・晋初(3世紀頃)竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨て、あるべき人間の理想の一つと認識されている。中国では四世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢図」が描かれるようになり、日本では等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧。常陸を中心に會津、鎌倉において活動し,晩年は三春(福島県)に渡り、当地で没した。昨年、名古屋で「雪村周継展」が開催され、見学できなかったことが残念であったが、思わぬ所で作品に接し、大変勉強になった。本作も、原三渓の旧贓品である。

重文 大慧宋杲墨跡  尺牘           南宋時代(12世紀)

この墨蹟はは大慧晩年70歳のもので、宛名は判明しないが、厚誼の深い禅者に送った書簡である。終わりより三行目に戊寅とあるから、南宋高宗朝の紹興8年(1158)であることが知られる。茶会の席に飾られたものであろう。

水玉透鉢  野々村仁清作            江戸時代(17世紀)

この作品は、畠山記念館で拝見したのは初めてではない。全く同じ品を、今年の2月にサントリー美術館で開催された「寛永の美」で拝観したので、係員に「サントリー美術館に貸し出したのか?」と聞いたところ、外部には全く貸し出していないとの返事であった。「寛永の美」の図録を確かめたところ、MIHO MUSEUMの所有であった。思うに仁清は、似たような作品をある程度の数を作り、各所に販売したのであろう。なお「白釉円孔透鉢」の名称で陳列されていた。図録では「シンプルかつシャープな造形で現代の工芸品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵とは違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品であろう」とまとめている。誠に要点を得た説明であり、そのまま借用しておく。なお、この作品は、三渓とは無関係とのことであった。

備前種壺共蓋水指  銘 太秦(うずまさ)    室町時代(16世紀)

中世以来壺・甕・擂鉢等生活雑記を焼造してきた備前焼は、侘び茶の広がりと共にその素朴な作風が好まれ、水指・建水等に見立てて使用されたり、次第に茶陶として茶人好みの作品が焼かれるようになった。この水指にような器形を、種壺と称している。箱蓋裏には三渓の花押があり、その横に畠山即応が「太秦」と銘を書きつけている。作意の感じられない侘びた趣は、小壺を見立てたものとも考えられる。

青磁鍔花入                 南宋時代(13世紀)

青磁は今から2千年ほど前、中国の漢時代(前220~後221)の初期には既に黄河や揚子江流域で焼かれていたが、釉色は茶色味がかかってオリーブ色を呈していた。青いいわゆる青磁の美しい色が出せるようになるのはそれから千年後、宋時代(960~1279)のことである。日本には花入・香炉・瓶などが禅宗の渡来と共に請来され、寺院の荘厳具、座敷の床飾りにと、珍重された。この花入れは古代銅器をかたどって造られたもののようである。中蕪の胴に太い円筒状の頸がつき、頸の胴に近い部分にある張り出しを茶人は刀の鍔に見立てて、鍔花入れと呼んでいる。

共筒茶杓  銘寿  尾形光琳作        江戸時代(18世紀)

尾形光琳(1658~1716)は、高級呉服商の雁金屋の次男に生まれた。絵画の制作、手箱の蒔絵、弟の乾山陶器への絵付けなどさまざまな作品を残し、江戸琳派を代表する一人となった。芸術家の茶杓としては、狩野探幽・尾形乾山・酒井抱一などが知られるが、蒔絵類まで手掛けた光琳の茶杓には、その洗練された意匠性がうかがわれる。櫂先は丸みを帯びてゆったりとした中節の茶杓で、節下、追取の部分は竹の模様に沿って削り込まれ景色をなし

共筒茶杓 銘 有明 小堀十佐衛門政貴作        江戸時代(17世紀)

作者小堀政貴(1639~1704)は、遠州の四男で茶道具の目利きに勝れ、特に茶杓は得意であつたと言われている。本作の銘の由来は明らかでないが、茶杓の露と櫂先は、急角度に曲げられている。露の先端中央から細い縦縞が通っており、中節を過ぎるとやや右寄りに流れている。全体的にほっそりとして引き締まった造形は、父遠州の作風を踏襲した瀟洒な作行きである。

共筒茶杓  佐久間将監真勝作       江戸時代(17世紀)

作者佐久間将監真勝(1570~1642)は、家康・秀忠・家光の三代将軍に渡って作事奉行を勤めた人物で、晩年は京都柴野の大徳寺に隠棲し、寸松庵という茶室を設けて茶湯三昧に過ごした。所持していた紀貫之の色紙は「寸松庵色紙」として知られている。茶杓は櫂先が大きくたっぷりとして、やや右上がりの作振りである。中節は直腰、節上は鼈甲色で直下には刀で刹ぎ目を入れた景色がある。本作は下方に「寸松庵」と墨書された珍しい一作となっている。箱裏蓋には三渓翁の署名が認められる。

備前火襷水指   銘玉柏           桃山時代(16世紀)

備前焼特有の緋襷(ひたすき)は器に入子にして焼成する際、作品同士のくっつきを防ぐために間に挟んだワラが器胎の鉄分と反応し、赤く襷掛けしたような文様に焼き上がったものを言う。備前焼は茶人に賞玩されてきたが、自然の力によって生まれた緋襷等は殊に珍重された。この水指の肩は心持ち張らせ、裾へかけてすぼまった端正な作行きで、白い地肌に襷の火色も鮮やかに出ている。形、色とも品格がある。

 

原三渓より畠山即翁が譲り受けた作品(水玉透彫は除く)ばかりであるが、優品が多い。特に二つの屏風には驚いた。重文、重美などの指定を受けたもので、雪村の「竹林七賢図」、渡辺始興の「四季草花図屏風」、共に傑作であり、この茶の湯専門の美術館でお目に懸れるとは思っていなかった作品である。また、水差、茶杓など、毎回拝観しているが、写真が入手できないため、招介をあきらめていたが、今回は図録などのおかげで、招介することが出来た。畠山記念館を2回にわけて紹介したのも、茶杓、水差など、常日頃招介できないものが、多数招介できたる機会となった。

 

(本稿は、図録「原三渓旧蔵の茶道具」、図録「与与衆愛玩  畠山相応の美の世界」、図録「与衆愛玩 琳派」を参照した)

畠山記念館  生誕150年 原三渓ー茶と美へのまなざし(1)

明治、大正そして戦前の日本美術コレクターであり、茶の湯も愛好された横浜の実業家・原三渓(1868~1939)。今年が生誕150年を迎える事を記念して、畠山記念館が所蔵する原三渓旧蔵の書画や工芸品約50点を、一挙公開をした。国宝1点、重要文化財6件、重要美術品6件を含む三渓コレクションと関連資料を通して山渓のまなざしに迫る企画である。三期に分けて展示され、私は中と最後の2回拝観した。構想としては、やはり全部3回とも見るべきであったことを残念に思う。あまり内容が多いため、今回は珍しく2回に分けて連載することにした。

布袋図  尾形光琳筆             江戸時代(18世紀)

光琳は布袋図を愛好し、蹴鞠をしている姿、馬に乗った姿など、様々に描いている。寿老人・大黒天も多く、めでたい絵として当時の人々に好まれたことがわかる。本図は、光琳晩年の作として知られる。宗達風のゆったりとした描線、衣に見られるたらし込みの手法などには余裕が感じられる。布袋の口の速い筆づかいなど、軽妙洒脱な味わいもある。大きな頭の複副しさ、温かくユーモラスな表情、がっしりとした足取りの悠々とした姿は、明るく親しみの感じられる絵である。

重文  春景山水図  横川景三賛        室町時代(15世紀)

山間に閑居する高士を友人が誘う様子を描いた図で、室町時代の五山僧に好まれた題材である。無落款であるが、従来、周文の弟子である岳翁蔵丘の作となされてきた。前景には大きく斜めに描かれた松があり、従者をつれた人物が歩いている。楼閣には高士らしい人の姿が見られ、後景には岩壁が聳え、更に遠方の山がかすんでいる。樹木や岩駿などの調所に濃墨の線を使用しており、また淡彩を賦して早春の雰囲気を伝えている。賛を書いた横川景三は、相国寺・南禅寺に住し、明応2年(1493)没。散文に勝れ、小補と号した。箱書きは狩野探幽である。

国宝  禅機図断簡  印陀羅筆 礎石梵琦賛   元時代(14世紀)

禅宗祖師や禅僧と参禅者の問答を描く禅機図のうち、李渤・智常の対面を描く一図である。江州の地方官吏であった李渤は、大変な読書家であっあたが、ある時「維摩経」の「芥子粒に須弥山を衲れる」という語をどうしても理解することができず、深く帰依する帰宗智常禅師を訪ねて問い、はじめてその意味を悟ることができたという、禅会の場面を描いている。本図と同一の画巻から切断されたと見られる断簡が「寒山拾得図」・「布袋図」等4点現存している。この禅機図鑑の制作は礎石が中天竺寺に住した元末の至正年間(1341~)頃と考えられている。印陀羅の作品はすべて禅宗関係の人物画であり、濃淡墨を対照的に用いて粗放に表現し、枯淡で素朴味を帯びつつ、奇々飄々たる独自の境地を示している。

重文 継色紙  伝小野道風筆         平安時代(11世紀)

「継色紙」は「枡色紙」・「寸松庵色紙」と共に「三色紙」と呼ばれ、古筆の中でもとりわけ珍重されている。「万葉集」や「古今和歌集」などの古歌を集めた未詳私選集の断簡である。料紙はさまざまな鳥の子の染紙を用いている。「色紙」と呼ばれているが。もとは粘葉(でっちょう)装の冊子本であった。和歌一首を見開の二頁にわたって書写し、方形の料紙を二枚継いだようにみえるため、この名で呼ばれる。1頁には「反首切」と呼ばれた。本品は、薄茶治の鳥の子の染紙に「古今和歌集」巻第二十・東歌の和歌一首を詞書や作者名を記さずに、歌のみを上の句と下の句に振り分けてそれぞれ四行に散らし書きする、ゆったりとした筆運びを基本に、一点一画すべての線が緊張感を持ち、軽妙かつ力強い書風である。文字の配置に工夫のあとが見られ、独自の散らし書きの構成力にも一段の冴えを見せている。筆者は小野東風(894~966)と伝えるが東風の自筆仮名が確認できないため確証はない。

赤楽茶碗  銘李白   本阿弥光悦作     江戸時代(17世紀)

能書家として知られる本阿弥光悦(1558~1637)の作陶活動は、元和元年(1615)鷹ケ峰に庵住するようになって以降のことと考えられている。楽第二代状慶や参代道入らの協力を得て、土を取り寄せたり、釉がけや焼成を依頼しての作陶はあくまでも素人の趣味的要素が強く、それゆえに鋭い感覚の生きた造形美を造り出している。このたっぷりした筒茶碗は「加賀光悦」「富士山」等に共通する作行きで、低い高台からほぼ直角に腰を張り、同部はやや開き気味に真直ぐ立ち上らせている。口縁の鋭い箆使いや、平に削られた見込も特徴的である。赤土に透明釉がかかり明るく発色しており、胴に丸くたまった釉が景色となっている。楽旦入の添状が備わり、内箱蓋表には「光悦茶碗」とし、裏には「李白 山渓(花押)」と書付けがある。

古瀬戸肩衝茶入  銘 畠山             室町時代(15世紀)

「畠山」の銘は閑事庵宗信の「雪間草茶道或解」によると、京都の畠山辻子で一条宗貞が北野天神社参詣の帰りに、これを求めたことに由来するという。口造りの甑は低く、捻り返しはなく、肩は一文字にきっかりと強く張り、腰で急にすぼまっている。裾から下は金氣色の土見であるが、総体に掛かる光沢のある黒褐色釉は天目風で厚く、随所に禾目の窯変が見られる。ざんぐりとした粗い糸切底で、手取りはずっしりと重い。伝来は、加賀前田家や原三渓を経て畠山記念館に伝来した。惹家の上蓋と箱、替蓋の箱書付は小堀遠州である。

青織部菊香合                桃山時代(17世紀)

蓋の甲に九弁の菊をあしらったこの香合は、「雲州蔵帳」の上之部に収められ箱書には松平不昧筆で「織部焼きく香合」としるされている。又、蓋裏に三渓の署名が認められる。愛らしい円型で釉を削り取って表された菊が、くっきりと白い土の色を見せている。合口までかけられた織部釉の濃淡も美しい。織部釉は酸化銅で、黄瀬戸の胆盤が発達したものだが、この香合では薄い所は透明な緑色、濃く溜まった所は表面が青く光って、移り変わる美しさを見せている。

由鉾香合   尾形乾山作            江戸時代(18世紀)

原三渓翁の箱書きで、左右にそれぞれ「春」「ゆいほこ」と記されている。前者は京都の祇園会の鉾に結いつけて吊るした飾に因んで名づけられた。乾山の香合では鑓梅の香合が名高いが、ゆいほこ香合は他に類品を見ない独特のものである。球形に近い形に、自由に箆目を入れ変化をつけ、香合の切れ目、甲に付けられた把手などが力強く、温かさを感じさせる。淡い色の地には、銹絵の幹枝と白土の梅に、紅と黄をあしらって白梅一株が描かれている。底は無釉で、銹絵の「乾山」の銘がある。

絵瀬戸割高高台茶碗  元鬢(げんびん)       江戸時代(17世紀)

すっきりと胴を立ちあがらせ、口縁を少し反らせている姿は端麗で、品のある筒型茶碗である。御深井釉と呼ばれる透明度のある淡黄色の釉がかかり、平に削られた見込には釉がたっぷりとたまり、ガラスのような青緑色を呈している。大振りな高台は無釉で、内部は削らず十文字に割ってある珍しい作りである。胴側面に一方に鯉に水草、他方に一群の笹が鉄絵具で描かれ、釉の景色と相まって趣深い。李朝鉄絵の影響を思わせることもあってか原三渓は内箱蓋裏に「元鬢」と張り紙している。陳元鬢(1587~1671)は明の亡命者で、尾張徳川家藩主徳川義直に厚遇され、瀬戸焼、特に徳川家のお庭焼である御深井焼を指導し、釉の改良を行った人物である。

出雲茶碗  倉崎権兵衛作            江戸時代(17世紀)

出雲焼は、出雲松江藩の御用窯として倉崎兵衛重由によって創窯された。権兵衛は朝鮮渡来の陶工を父に持ち、萩で生まれ育ったが、延宝5年(1677)松江藩主松平綱隆よりかねてから陶工招請があったことを受け、助手二名と共に出雲に移る。松江市東郊の楽山に窯を開いた。元禄7年(1694)に没するっまで作陶を行い、また技術者の養成にもあたった。その作風は朝鮮の焼物の影響が強く、伊羅保写・高麗写を得意とした。この茶碗も和陶にない大らかな作行きで伊羅保に似て薄作りであるが、大胆に箆を使い釉がかかり面白い。箱蓋裏に「権兵衛」と三渓が書きつけている。

 

畠山記念館は、主として茶道と能の道具を集めた美術館であったが、絵画、屏風など様々な美術品を収蔵する美術館であることを確認した。従来、抹茶の茶碗を多く招介してきたが、今回は屏風、茶杓、水指など茶器を種類多く書くことが出来たのは、写真が入手できたからである。今までの、畠山記念館の記事とは、大分異なる記事となった。趣味を同じくする旧友Y君と、いずれゆっくりと鑑賞したいと思う。

 

(本稿は、図録「與衆愛玩  畠山即応の美の世界」、図録「與願愛衆 琳派」、図録「原三渓旧蔵の茶道具」を参照した)

出光美術館 江戸絵画の文雅ー魅惑の18世紀

元禄年間(1687~1704)は江戸文化の爛熟時代を迎えた。日本は経済活動の発展により、空前絶後の繁栄を極めた。開府よりおよそ100年を迎えた江戸の人口は100万人を突破し、世界最大級の都市となった。そして大阪、京都もまた数十万規模の大都市へと発展した。日本における「都市」という新たな生活空間の誕生は、文学・演劇・美術など、多様な文化の成立・発展に結び付いた。これら文化芸術の特質を端的に表す言葉に「雅俗」、すなわち漢文学・和歌に代表される伝統的な「雅」と、俳諧や戯作といった新興の「俗」がある。この二つの文野が画然と分かたれてるものではなく、実際は相互に混じり合いながら、豊かな文化構造を形成していった。古くから文芸と絵画は不可欠の存在であり、雅俗の混交は、画壇にも当てはまるものであった。「雅」なるものの象徴とも言える文人画においては、漢文学に対する深い素養とともに、俳諧など「俗」なる文芸が重なり合いながら、日本独自の情趣性を帯びていった。この雅俗の絵画をキーワードに見て行く趣旨の展覧会であった。中国で生まれた、正統な画として君臨した文人画。画家の精神性を尊ぶこの絵画が日本で花開いた。そしてこの中で、日本の文人画を象徴する二人の画家が生まれた。それが池大雅と与謝蕪村である。

蜀桟道図   池大雅作  絹本着色     江戸時代(18世紀)

蜀桟道は、長安と蜀の都・成都の間の大山脈を越える難路である。古くより陜西と四川を結んできた交通の要所として知られる。3千メートル級の豊嶺山脈の断崖に穴を穿ち、穿った穴に柱を差し込んでで丸木を組んだ道は、人馬が一列になってやっと進める広さである。盛唐の詩人・李白が「蜀道の難は、青空に上がるよりも難し」と詠じるなど、古来、詩文や絵画の好画題となった。大雅の描く桟道も馬が落ちてきそうなほど急峻だが、馬上の人物の表情は愉しげで、振り返って聲を掛け合っている姿は滑稽なほどである。古来の文人画のイメージは、大雅特有のおおらかな人間性によって、今まで誰も無しえなかった明るく開放的な主題に生まれ変わった。

寒林弧鹿図  与謝蕪村作  絹本着色    江戸時代(安永8年ー1779)

蕪村は安永7年(1778)より、私淑する明時代の画家・唐寅にちなんで「謝寅」の号を用い始める。時に蕪村63歳である。多様な展開を見せた蕪村の画業は、これ以降円熟期を迎えることとなる。本作は謝寅時代の名品と呼ぶにふさわしい作品である。冷え冷えとした晩秋のくさむらの中を走る一本の道。そこを行くのは一頭の鹿である。道の脇を勢いよく流れる川の源をたどると、後景で高々と聳え立つ峻嶮な山へと行きつく。荒涼としてた情景と寄る辺ない鹿の姿が見る者の胸に迫る。本作において、峻厳な面持ちを見せる中国画風の山水でありながら、画面全体からそこはかとなく日本的情趣を感じさせるのは、物哀しいながらも飄逸な雰囲気を漂わせる鹿がなんともいえぬ俳味をかもしだしているためであろう。中国と日本、雅と俗が混交した、蕪村の達成を象徴する一作と言えよう。

龍山落帽図 与謝蕪村作    紙本着色  江戸時代(宝暦13年ー1763)

中国の晋時代、将軍・亘温が龍山で酒宴をもよおした時、補佐官の猛嘉の帽子が風で飛ばされた。周囲は猛嘉の失態を嗤ったが、猛嘉は当為即妙に返答し、かえって名を挙げたと言う。風流洒脱な文人をあらわすこの「猛嘉落帽図」の故事を、本作で蕪村は色彩豊かに描いている。中間色を多用しながらもヴィヴィッドな色彩感覚や奇矯な人物表現は、明末に活躍した徽宗派の画家を想起させる。当時の人々が描いた理想の文人表象を見て取ることができる。

国宝 夜色楼台図 与謝蕪村作 紙本墨画淡彩江戸時代(宝暦11年ー1761)

蕪村が最晩年m安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜色楼台雪萬家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みの画が続く。しかし描かれているのは、中国の山水画で理想とされる雪に閉ざされた秘境ではなく、京都の東山ににた、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようだ。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。実は、出光美術館の「江戸絵画の文雅」を拝観した大半の目的が、この蕪村の「夜色楼台図」を見ることが目的であり、この絵さえ見れば、目的はほぼ達成された。名画に接した興奮は、何物にも代えがたい歓びである。

重文山水図屏風与謝蕪村作六曲一双(一部)江戸時代(宝暦13年ー1763)頃

左右の両端に山並みを描き、中央に水景を配する。安定感のある雄大な構図の山水屏風である。右隻には青々とした木々が茂る春から夏にかけての風景が描かれている。第二扇の山並みの背に暮れ行く夕陽がうっすらと描かれ、空全体をほの赤く染めあげている。水亭には団扇を手にくつろぐ高士が配され、木々の葉はそよ風に揺れる。夏の夕暮れの爽やかな情景である。一方左隻では、木々の葉のあちこちが赤く染めあげられ、深まる秋の気配が感じられる。山に抱かれるようにして立つ茅屋の中には、青い衣を着た人物が一人。あるいはこれは蕪村かも知れない。光沢感のある布に描かれることによって、陽光のきらめきさえも表現されているようである。季節の微妙な変化までをも見事にとらえた、蕪村の鋭敏なまなざしが感じられる。

富士図扇面  伝尾形光琳作 下絵鈴木其一作  薄下絵 鈴木其一作 江戸時代

三保の松原を見越して雪をかぶった富士を望む。金地の扇面画である。落款がないため作者は不明であるが、光琳の系統に属する作例であることは間違いない。しかし、本来の光琳作とは思えないので、光琳の原本をもとに、次世代の絵師が描いたものと見做すのが妥当だろう。なお、本作は、掛軸に改められた際に、江戸琳派の絵師・鈴木其一(1795~1858)が薄を下地に描いている。本作の富士を「伊勢物語」「東下り」の段に擬した上で、同書の「武蔵野」を暗示させる薄を下絵として描いたのであろう。

梅に柳図扇面  伝 俵谷宗達作  紙本着色(上)     江戸時代    いんげん豆図扇面 伝 俵谷宗達作 紙本着色(下)     江戸時代

「琳派」の祖とも称される宗達(生没年不詳)は、「俵屋」という工房を率い、扇絵や料紙などを制作していたと考えられている。本作はこうした俵屋工房での扇面制作の実態をうかがい知ることができる珍しい作例である。「梅に柳図」はやわらかな筆墨で梅と柳の木が描かれ、そこに付け立で葉や花が描かれている。「いんげん豆」も緑青の付け立でインゲン豆を描き、下部には謹直な筆戦で波紋を配している。面白いのは画面余白で、各所に「銀泥」「金泥」など下地装飾の指示が認められる。これにより本作は、工房内で類品を制作するための粉本(見本)か試作品あるいは破棄された未完成品と考えられる。元和元年から寛永年間にかけて宗達工房内で制作されたものと推定できる。

芙蓉図屏風(一部) 六曲一双  伝尾形光琳作     江戸時代

群生する芙蓉が、花弁や葉に金や銀を用いて表される。図様の連続性が不自然である。もともと六曲一双で仕上げられた屏風がのちに一隻の屏風として再構成されたと考えられる。本作の伝称者である尾形光琳には、本作が呈する装飾性に富んだ金属的表現と通底する要素が感じ取れる。「絵画」と「工芸」の間を自由に行き来する光琳の特徴を良く感じさせる一作である。

重文 籠煙惹滋図  浦上玉堂作  紙本墨画     江戸時代

画面最下部の中央に配された土埞には木々が高々と伸び、その脇あずまやの中にはくつろぐ人物の姿が描かれる。その視線の先には水景が広がり、さらに奥に眼をやると、ひときわ高く屹立する峰を中心に、垂直方向に誇張して伸びる山々が立ちあがる。色紙程度の寸法の画面からは思いもよらぬほど広く深い光景が描かれている。画面左上には、玉堂自身による「籠煙惹滋」の四字題が見られる。玉堂が得意とする渇筆によって余すところなく表現されている。玉堂73歳頃の作品と見られる。

 

文人画の池大雅、与謝蕪村、琳派の宗達、尾形光琳、19世紀の浦上玉堂を取り上げ、「文と雅」を求めたが、矢張り蕪村の「夜色楼台図」に大半の興味を取られたの止むを得ないことだろう。但し、この絵はⅠ1月13日から18日までの6日間の展示であり、その期間は良く混んでいた。やはり、この絵を観たくて来た人が多かったようである。

 

(本稿は、図録「江戸絵画の文雅  2018年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

京都・大法恩寺 快慶・定慶のみほとけ(2)

六観音と言う言葉は、必ずしも仏教美術で決まった用語では無いようである。私が愛用する石田茂作氏の「仏教美術の基本」には、「六観音」という言葉一切出てこない。また平凡社刊の「仏教美術入門」全6冊にも現れない。これは、六観音という言葉は、何かしら謂れが有るのだろうと調べてみたら、次のような事情が分かった。平安時代に栄華を極めた藤原道長が造営に励んだ法成寺は、大日如来や阿弥陀如来などを祀る総合的な大寺院であった。七仏薬師を祀る薬師堂に六観音も安置されることになったが、その姿について道長から相談された真言宗の仁海(にんかい)は、従来とは異なる仏の名前を挙げた。それが、この大報恩寺に伝わる六観音と同じ観音像であった。日本では平安時代まで観音と言えば現世利益の仏であり、あらゆる世界の、特に来世の救済の対象となったことは画期的であった。古代インドの死生観では、あらゆる生き物は生まれ変わり続けるとされており、この転生(てんしょう)する世界をまとめて六道と呼ぶ。六道輪廻と呼ばれる転生の考え方は、仏教の伝来と共に東アジアでも広く受け入れられた。六道とは、上から天、人(じん)、阿修羅(あしゅら)、畜生、餓鬼、地獄という六つの世界であり、私も子供の頃から、祖母から六道について教えられた記憶がある。仏教とは、この輪廻(りんね)から逃れること、すなわち解脱(げだつ)を目指す宗教であった。六観音は六道のどこにいても救済の手を差し伸べるものである。このように説明すると、六観音はどの宗派でも、同じでは無いかと思うのだが、天台、真言宗等に限定されているようである。大報恩寺に伝わる観音像は真言宗で信仰された六観音と言えよう。しかし、大報恩寺の最初から、この六観音が伝来した訳ではない。もともと北野天満宮の鳥居の南側にあった願成就寺経王堂(がんじょうじゆじきょうおうどう)に安置されていたという。大報恩寺の縁起や棟札によれば、「六観音と地蔵像」は、寛文十年(1670)に破損甚だしかった経王堂から大報恩寺に移されたという。さて、この六観音はいずれもカヤ材が用いられており、表面は彩色や漆箔はせず、木肌を露出したままである。これは壇像(だんぞう)を意図して造られたものと考えられる。壇像とは本来、インド原産の白檀で造らるべきであるが、東アジアでは白檀は自生せず、代用材として日本では奈良時代後期より、白檀の代用材としてカヤを用いて多くの木彫像が造られるようになった。この六観音は、動物性の膠では無く、植物性の漆を採用していることも、大きな特徴である。展示会場では真暗な中で、六観音象が弧線状に並べられ、一像、一像にライトが当てられ、浮彫りのように美しく並べられていた。地蔵菩薩は、出口辺りに一躯にみ飾られていた。

国宝洛中洛外図 上杉本 狩野永徳筆 安土桃山時代(16世紀)米沢上杉博物館

この洛中洛外図の第5図の上部に「北野天満宮」を示す鳥居が立ち、左側に北野経王堂が建つ。堂内外には数人の人影が見える。お堂の四面は開け放たれているように見える。蔀戸はあるが、開け放たれているように見える。これは江戸期に入ると壁が出来る。蔀戸を開け放つ状態で、六観音が祀られているとは思えない。慶長11年(1606)豊臣秀頼による経王堂の修繕が行われたことが資料により明らかである。六観音は、経王堂に移座されたとされる。寛文10年(1670)大報恩寺が修繕された際の棟札に「六観音」とある以前、大報恩寺の記録に六観音の記述は確認できない。寛文10年以降は、本堂内陣に安置されていたことがうかがえる。それは明治21年(1888)にフェノロサや九鬼隆一らが京都・奈良等を寺社宝物調査のために巡ったことが知られ、その際の写真(小川一真撮影)が残されている。それによれば本堂内陣向かって右側に馬頭観音・十一面観音・聖観音、向って左手には千手観音・如意輪観音・准胝観音が並んでいた。従って、霊宝館に入る前には、このように並んでいたのであろう。

経王堂扁額  木造・彩色  室町時代(応永32年ー1425) 大報恩寺

北野経王堂に掲げられていた額。「経王堂」と大書し、左下には「大樹陰涼」の方印が刻印されている。江戸時代初期に編まれた大報恩寺の寺誌には、応永8年(1402)足利義満が経王堂を建立した際、みずから「経王堂三大字」を書いて「大殿」に掲げたと記されている。北野経王堂に残された六観音像や「北野経王堂一切経」(5千帖を超す)は、現在大報恩寺に伝来している。六観音像は、いずれも木造、素地、玉眼である。

重文 聖観音菩薩立像  肥後定慶作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

六観音菩薩立像はいずれも針葉樹のカヤの一木造、一木内矧造で造られている。表面には彩色や漆箔をせず、木肌を露出したままとする。これは壇像造りを意図して造られたものであると考えられる。いずれも運慶の長男湛慶よりも10歳程若い「肥後別当定慶」の署名がある観音象であり、定慶一門の作品と解されている。鎌倉時代前期に定慶と呼ばれる仏師は少なくとも四人いたことが知られるが、この定慶は、運慶一門の仏師であることは間違いない。観音菩薩とは、観世音または観自在と訳す。この菩薩は衆生の苦しみを見るとじっとしていられず、その場に飛んで来て苦難を救って下さるのである。蓮華を持つものえを聖観音(しょうかんおん)と呼ぶ。

重文 千手観音菩薩立像  定慶一派作成  鎌倉時代(13世紀)

蓮華を手に持つ観音像である、銘は無く、定慶一派の作品と解されている。正しくは十一面千手千眼観音という。千手の一つ一つの掌に目がついていることによって一切の衆の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。観音菩薩の救済活動の絶大なるを具象的に表したものである。この尊を念ずれば、延命・滅罪・男女和合・転女身等の利益があると説かれ、奈良時代末期頃から平安・鎌倉にかけて信仰が盛んであった。この千手観音菩薩立像は四十二臂にしたものである。

重文 馬頭観音菩薩立像  定慶一派作   鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見いだされ、施主であると見られている。馬頭明王とも言い、その尊容は三目九目八臂の憤怒形で頭上に牛馬を置く。馬頭にちなんで牛馬の息災安全を祈る対象とせられることも多い。定慶一派の作品と見られる。

重文  十一面観音菩薩立像 定慶一派作   鎌倉時代(13世紀)

十一面観音菩薩立像は観音菩薩の頭の上にさらに十個の頭をつける。よって十一面観音という。もともとインド教の神であったが、仏教に取り入れられ観音菩薩の超人間的な頭の働きを分担する菩薩として崇められるに至った。従ってkの尊を念ずれば一切衆生の憂愁・病苦・悪夢等が除減せられると説かれている。定慶一派の作品と見られる。

重文  准胝観音菩薩立像  定慶作 鎌倉時代(13世紀)

准聤観音菩薩立像(じゅんていかんのんぼさつ)は清浄の意味である。女子の純潔の徳をあらわしたものであろう。夫婦和合法、また求児法は、この尊を対象として修せられることが多い。その像容は一面八臂の菩薩形で、連台に乗る。平安中期以降に信仰された菩薩で遺品は、わりあいに少ない。本像の背面に記された墨書銘には「肥後別当定慶」と記され、この六観音菩薩立像はは、定慶一派の作品と推定される根拠になった。

重文  如意輪観音菩薩立像  定慶一派作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見い出された。如意は如意宝珠を意味する。すなわち民衆のために財宝を与え、法輪を転じて煩悩を断徐するを本誓とする観音菩薩である。その尊容は、右足を立膝して坐し、右手第一手を頬に当てて思惟の相をし、第二手は宝珠、第三手に念誦を持ち、左第一手は垂れて地を押さえ、第二手蓮華、第三手に輪宝を持つ。一面六臂が普通である。定慶一派の作品と見られる。

地蔵菩薩立像  木造、彩色、玉眼   鎌倉時代(13世紀)

本像は、寛文10年(1670)、経王堂が解体される際に、六観音菩薩像とともに大法恩寺に移された像と考えられる。なお、京都府で昭和16年(1941)に始まった京都府寺院調査によると、この時点では本堂須弥壇上に安置されていたという。六観音菩薩像のうち、肥後定慶作の准胝観音菩薩立像とよく似ている。衣文は定慶が好んだ表文表現と共通している。また本像は六観音と大きさが釣り合うばかりではなく、鎌倉時代のこの大きさの像としては珍しく一木割矧造としており、六観音菩薩像のうち、十一面観音菩薩像と本像は同時期の造像で、一対の観音と地蔵として造られた可能性が高いと言えよう。本像は、左足の親指を持ち上げて上に向けており、この動きは仏の動的な性格を示すもので、現世に具体的に姿を現した仏であることを表していると言えよう。

 

本稿では、大法恩寺に古くから伝わって来なかった、六観音像や地蔵菩薩像を取り上げた。何時もならば、霊宝館に祀られ、十大弟子と、同様に並んでいるので、あまり深く考えず、制作年代を異にする仏像群程度の認識しか無かったが、「北野経王堂」の存在を知り、そこに安置された、美しい六観音菩薩像と地蔵菩薩像の詳細について触れることが出来た。この、六観音の美しさには、深く感動させられた。「鎌倉時代」の観音様で、一木造り、木肌も綺麗に見える六観音菩薩像は、私を惹きつけてやま無い。

 

 

(本稿は、図録「京都・大恩寺 快慶・定慶のみほとけ  2018年」石田茂作「仏教美術の基本」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」日経新聞社「2018年9月28日 ガイド ワイド」を参照した)