浅井忠の京都遺産展

浅井忠(1836~1907)は、工部美術学校の生徒として、フォンタネージュのよい影響を受けた弟子であった。この子弟のなかには心情的に親しいものがあったと想像される。浅井忠の初期の代表作に第1回明治美術会(明治22年)に出品した「春畦」(はるあぜ)、第2回明治美術会に出品した「収獲」(重文)がある。(これは「芸大コレクション」で紹介している。)いずれも田園風景であり、懐かしい心情を感ずる。浅井忠は、明治31年(1898)、東京美術学校教授に招かれ、浅井教室を持つが、翌年2ケ年間のフランス留学を命ぜられ、フランスに赴いた。浅井忠の洋画家としての地位は既に不動に高まっていたのである。浅井忠はどこの教室にも入らず、黒田清輝が「読書」を描いたグレーに滞在し、またフォンテーヌブローに行き、主として風景画を描いている。浅井がパリ滞在中の1900年(明治33)に、パリでは5回目の万国博覧会が開催された。交通、情報網の発達により5100万人を集客した同博覧会は過去最大規模の祭典となり、装飾芸術が花開き「アール・ヌーヴォーの勝利」と称され、会場にはエミール・ガレやティファーニの華麗な工芸品が並び、ミュシャによる壁画やポスターで装飾された。このパリ万博には、浅井忠をはじめ、夏目漱石、竹内栖鳳など作家、美術家も大勢参加していた。丁度、京都高等工芸学校設立準備のためヨーロッパに来ていた中沢岩太は、パリで浅井と出会い、同佼の図案化教授就任を依頼した。浅井は、この万博で日本の絵画が「精神も無く気力もなく色は全く無味乾燥」であることを痛感し、この申し出に快諾した。(洋画家として黒田清輝と並ぶ大家であったにも関わらず)

椿姫 リトグラフ(懸け幕として使用) アルフォンス・ミュシャ作1896年京都工繊大

中沢氏の依頼を受け、浅井は、パリで京都工芸学校の教材となる資料取集を行った。石膏像のほか、フランス陶磁器19点とヨーロッパのポスター72点がある。中には、当時ヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーを代表する人気作家のポスター(懸け幕)もあり、このミュシャと同様のポスターが2点展示してあった。このミュシャの椿姫(つばきひめ)は中でも人気を呼んだ。

グレーの河岸 浅井忠作 水彩・紙 明治35年(1902)泉屋博古館

浅井は、明治32年(1990)、文部省より2年間フランス留学の命を受けた。丁度パリでは1900年のパリ万博が開催されており、彼はその監査官も命ぜられた。しかし、パリ万博もさることながら、浅井を惹きつけたのは、大都会の華やかさよりも、むしろフォンテンブローやグレーの田園景色であった。ここに掲げる水彩スケッチを数多く残している。それまでの彼の作品に見られなかった濁りない色や透明感など、明るい色彩を感じさせる表現が目立っている。

河岸洋館 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902)  泉屋博古館

上の「グレーの河岸」と同じ時期の水彩画である。素早いタッチで描かれた簡単な水彩画であるが、そこにひそむ田園の詩情を画面に表現する彼の腕前は、見事に発揮されている。

クレーの教会 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

特にロアン河畔のグレーの村は、彼のお気に入りの地で、何回となく繰り返し訪れ、明治34年から翌年にかけては、冬の間ずっとグレーに滞在し続ける程であった。素早い筆致で描かれた簡単な水彩画であるが、対象をある一定の距離から的確に捉えている。見事な筆致である。

垂水の浜 浅井忠作 水彩・紙  明治36年(1903) 泉屋博古館

兵庫県の垂水の浜を淡い色で描いた水彩画である。この垂水の浜の近くには住友家の別荘があった。浅井は既に東京美術学校の職を辞し、京都工芸繊維高等学校の教授となり、住まいも京都に移していた。(泉屋博古館は住友家が主催した美術館)

秋林 浅井忠作  水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

帰国後の明治35年(1902)、京都高等工芸学校教授として赴任した浅井は、フランスで学んだものを、関西の穏やかな風景に置き換え、季節や時の移ろいを光とともに映し出す瀟洒な水彩風景画を描いた。これは、京都の大原のあたりの秋の林を描いたものである。京都に根ざした日本画に接し、少年時代以来再び開眼した、軽妙洒脱な筆致で自ら楽しむ風情が共感を呼んだ。

武士狩図  浅井忠作  油彩・カンヴァス  明治38年(1905) 京都工芸繊維大学

本作は、浅井が京都時代に描いた最大級の洋画であり、当時の東宮御所東二の間「狩りの間」に向けられた綴織壁掛の二分の一のサイズの原画である。秋の山路で狩りを楽しむ三人の武士たちが描かれている。本作品を含め、下図など関連資料がⅠ3件残されている。会場では、下絵として馬、武士など4点が展示されていた。(昨年の黒田清輝展でも多数のスケッチが展示されたが、このような下絵の展示は素人には、非常に参考になるので、せめて古い画家には、スケッチを展示して頂きたい)浅井は実際に狩装束を着たモデルを乗馬させて写生し、入念な構図研究を行った。この際使用された装束や馬具類は、京都高等工芸学校に標本資料として現在も資料館に収蔵されている。この下絵の2倍の綴織が、大正2年(1913)に川島織物のもとで完成している。(因みに東宮御所は、現在の迎賓館 赤坂離宮であり、昨年この「美」で取り上げているが、残念ながらこの織物は撤去されていた)この作品は、明治40年(1907)10月の第1回文部省展覧会(文展)に出品された。好評であったが、浅井は装飾的な趣向を目指していたので、好評とは裏腹に、不満の残る作品だったようである。

梅図花生 浅井忠図案 陶磁  明治35~40年(1902~07)

浅井忠は画家として有名であるが、一方後半生に手がけた図案(デザイン)には、絵画に劣らぬ輝きを放っている。風景画が端正であるのに較べ、浅井のデザインは大胆でスタイリッシュ、時には躍動的である。この花生は梅という伝統的な題材であるが、まるでアール・ヌーヴォーを思わせる大胆なデザインであり、極めてスタイリッシュである。思わず「恰好いい」と叫びたくなるデザインである。

野分蒔絵(のわけまきえ) 文庫 浅井忠下絵 杉林古香作 明治39年(1906)

猪を鉛で、牙や目、桔梗を螺鈿で、千草を高蒔絵で表現した本作品は丸みを帯びた形状が光悦蒔絵に通じる一方、猪という漆芸品には珍しい主題で、蓋の曲面を利用して強調された猪の躍動により、独特の表現となっている。

鬼が島 浅井忠作 絹本着色 双幅  明治38年(1905) 個人蔵

幼少の頃、黒沼槐山(かいざん)について日本画を学んだ浅井は、東京時代は油彩画の先覚者として制作を続けたが、京都時代には、黙語(もくご)と号し、一転して軽妙な日本画を多く描いた。戯画風の人物画など、油彩画面にはない描線の軽やかさを楽しむような浅井の日本画は、図案制作とはまた異なる一面を見せてくれる。

大原女  浅井忠作  「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」(出版物)の中の一図である。大原女をデザイン化したものである。

大津絵・藤娘  浅井忠作 「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」の中の一図である。大津絵の藤娘をデザイン化したものである。

 

日本洋画壇の先駆者浅井忠(1856~1907)は、パリ万国博覧会などのため訪れたヨーロッパの経験を通じ、画風を変化させただけでなく、全盛期のアール・ヌーヴォーの洗礼を受け、デザインへの強い関心を抱くようになり、滞仏中に京都高等工芸学校の図案化に誘われ、京都移住を決意した。明治35年(1902)からこの世を去る明治40年まで、浅井は京都で教鞭をとるかたわら、聖護院洋画研究所、関西美術院と続く洋画家育成機関の中心となり関西画壇の発展に尽力した。また陶芸家や漆芸家を結ぶ団体を設立し、自らもアール・ヌーヴォーを思わせる斬新なデザインで京都工芸界に新風を巻き起こした。明治初期の洋画家として有名であるだけでなく、デザイン家としても評価できる仕事をし、近代日本を代表する一人の芸術家である。黒田清輝が、光あふれる印象派の作風を学んで明治26年にフランスから帰朝して「外光派」とよばれたのに対し、アカデミックな浅井の画風は、「脂派(やには)」「旧派」と呼ばれることもあった。しかし、浅井の京都遺産を見ると、単なる洋画家ではなく、優れたデザイン家であった事も理解できた。この展覧会は、今年の大きな収穫であったと思う。

 

(本稿は、図録「浅井忠の京都遺産  2017年」、土方定一「日本の近代美術」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、図録「芸大コレクション  2017年」を参照した)

世界遺産”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”

第41回世界遺産委員会は7月9日に”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”の世界文化遺産への登録を決めた。地元は歓迎一色であった。この登録が決定した遺産群とは、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか宗像大社沖津島遥拝所、同中津宮、同辺津宮、と新原・奴山古墳群が一括で登録されたのである。ユネスコ世界遺産委員会は「構成資産は文化的・歴史的に結びついた一体のもので、価値を理解するには全てが必要である」と指摘している。九州北部と大陸の文化交流の拠点であるこの宗像は、玄界灘に面した福岡県宗像市にある辺津宮(へつぐう)、沖合の大島の中津宮(なかつぐう)、そして朝鮮半島と日本のちょうど中間に位置する沖ノ島の沖移宮(おきつぐう)という三つの宮があり、それぞれ三人の女神が祀られている。これら三宮をあわせて宗像大社と呼んでいる。三宮の中でも沖津宮のある沖ノ島は、朝鮮・中国、さらには遠くペルシャといった遠方の工芸品がシルクロードを通して運ばれ、「海の正倉院」と称される内容を持った奉献品を出土したことで知られている。1954年から1971年までの三次にわたる学術調査によって発見され、4世紀から9世紀にわたる沖ノ島出土品約8万点はすべて一括して国宝指定されている。一方、遣唐使の派遣の廃止などをうけ、辺津宮(宗像社)での祭祀が中心となった中世以降も、対外交渉に活躍した宗像大宮司家を中心に宗像三女神への尊崇が続いたことが当時の古文書からも知られる。江戸時代には、宗像大社は福岡藩主黒田家の庇護を受けるとともに、歴代藩主より様々な品が奉納されている。

重要文化財 宗像大社拝殿         桃山時代(天正18年ー1590)

宗像大社の社殿は、遅くとも12世紀末までに築かれたことが判っているが、度々の戦乱などにより焼失し、最後に焼失したのが弘治3年((1557)で、天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞により本殿(国宝)が再建され、拝殿(重文)は小早川隆景によって天正18年(1590)に再建された。

重要文化財  宗像大社拝殿  三十六歌仙篇額 36面 江戸時代(17世紀)

柿本人麻呂など三十六歌仙篇額が拝殿に奉納されている。これは黒田藩第三代藩主黒田光之が、延宝8年(1680)に辺津宮に奉納したもので、書は藤原基時(1635~1704)、絵は狩野安信(1614~1685)によるものである。狩野安信は、狩野探幽の弟で、狩野家の頭領となった。のちに江戸中橋に屋敷を拝領し、江戸幕府の御用絵師となり、江戸城などの障壁画制作に係った。絵の技量は探幽に劣ると言わざるを得ないが、著書「画道要訣」(1680)では、狩野派の絵画に対する考え方をまとめ、江戸時代を通して日本絵画史に与えた影響は大きい。本絵馬は、重厚な画風が現れている。

国宝 宗像大社本殿        桃山時代(天正18年1590)

本殿には辺津宮が祀られている。桃山時代を代表する宸殿造りである。特に桧肌葺による曲線が美しいと思う。沖津宮、中津宮も同じ宸殿造りであると言われている。

高宮斎宮                古墳時代(3~5世紀)

宗像大社の横の道をぬけ、背後の宗像山へ昇っていくと、高宮祭場があらわれる。高宮祭場は辺津宮の起源となる古代祭祀の場であるそうだ。この祭祀場は、荘厳な趣きがある。ここより、少し下がった場所に遥かに大島を拝する場所がある。但し、沖津島は、ここからは望めない。

沖ノ島全景

玄界灘の真只中に浮かぶ孤島である。周囲は4km、最高峰一の岳は243m、前面には小屋島、御柱島、天狗岩と島々が浮かぶ。この島は「神宿る島」として人々から宗敬を集めててきた。島の信仰が深まる中で、女人禁制、禊(みそぎ)、島での見聞の口外無用、島内のものの持出無用、一般人の入島禁止など禁忌(きんき)が現れ、今でも厳守されている。この島では、百済との通交がきっかけにヤマト王権による国家祭祀が始まった。当初は巨岩を盤座(いわくら)とし、その上面に祭場を営んでいたが、やがて祭場は岩陰へと移ってていった。岩上祭祀期は弥生時代から古墳時代にかけてである。岩陰祭祀期は古墳時代から磐井の乱の時代にかけてである。露店祭祀期は奈良・平安時代とされている。4世紀初めには、玄界灘と宗像地域に勢力を持った宗像一族が奉斎することとなった。4世紀後半、ヤマト王権と百済の通交開始の際、宗像一族とその信仰の重要性が高まり、沖ノ島でヤマト王権による国家祭祀が始まった。昭和29年(1954)から、昭和46年(1971)に行われた学術調査で、23ケ所の大規模な祭場と約8万点に及ぶ奉納品(国宝)が発見され、この祭祀跡が4世紀後半から9世紀にかけて繰り広げられたヤマト王権・大和朝廷と東アジア諸国との対外交渉に深く関わることが明らかになった。

国宝  三角神獣鏡(さんかくしんじゅうきょう)中国・魏~西晋時代(3世紀)

内区に不老長寿の思想を表す神仙や霊獣の文様を配した鏡を神獣鏡というが、そのうち鏡背の縁の断面が三角形をなす鏡が三角神獣鏡である。わが国では古墳時代前期の古墳から大量に出土し、多くは中国三国時代の魏で製作されれた舶載教と推定されるが、それを模した仿製鏡(ほうせいきょう)も存在する。

国宝 堅玉・水晶・雲母片岩・滑石製棗玉・滑石製臼玉・碧玉・古墳時代

白色を帯びた堅玉勾玉2点のうち、大型品は沖ノ島出土品では最大の勾玉である。碧玉勾玉は出雲の花仙山(かせんざん)産と見られる勾玉5点が含まれる。管玉(くだたま)には経が0・5cm程度のものと、経が1cmの太めの大形のものがある。

国宝 鉄剣、鉄刀、鉄地銀張鎺(てつじぎんはりはばき)古墳時代(4~6世紀)

本作品のうち、鉄製鍔(つば)と銀製鍔の豪華な装具を持つ鉄剣は茎(なかご)の端部近くに目釘孔を一孔穿っている。他の二刀は、倭風太刀で、二振りの捩じり環頭太刀が奉献された思われる。古墳時代前期以来の伝統的な刀剣の外装具の流れを引く倭風太刀の一種で、5世紀に出現した可能性が高い。

国宝  滑石製子持勾玉             古墳時代(4~6世紀)

その名のごとく、比較的大きな勾玉の背・両側面に、複数の小さな勾玉や突起を削り出して形作ったものである。4~6世紀のものであろう。滑石という軟らかい石で作られている。増殖等に関する呪術的な祭具とも考えられている。沖ノ島祭祀では長期にわたって奉献されている。

国宝  金製指輪     朝鮮・新羅時代(三国時代、5~6世紀)

純金製の指輪は、正面中央を上下に突き出るように菱形にした金板を曲げて、正面と反対側で接合し環状に仕上げたものである。菱形状の中心には四枚の花弁を持つ花文があしらわれ、花弁の間には円環を配している。この形の指輪は、韓国慶州にある三国時代新羅(しらぎ)の王陵の出土品に多数類例が見られる。本品は新羅からもたらされたものと見られている。

国宝  カットグラス碗片(わんへん)  イラン・ササン朝時代(6世紀)

気泡を多く持ち、淡い緑色をおびた半透明のガラスの破片は、表面に浮出の円文が施されている。復元すると、上段に九個、下段に七個の浮出文をめぐらした特異な趣のカットグラス碗となる。本作品はササン朝ペルシャから伝来したササン・グラスと見られている。(碗片のみが発見され、この透明のカットグラスは、想像図である)正倉院御物の白璃碗に似ている。

国宝 金銅製棘䈎形杏葉(きょくようがたぎょうよう) 古墳時代(6~7世紀)

鞍から馬の胸部や臀部に伸びる革帯に下げて馬を飾り立てる金具である。馬具は、百点以上出土している。三国時代新羅の技術要素を持つ「新羅系馬具」を主体としており、ヤマト王権と朝鮮半島諸国との活発で複雑な交渉を反映するものである。この馬具類の多さは、戦後発表された、江上波夫氏の「騎馬民族説」を、思い出させる。

国宝 金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう) 一対 中国・東魏時代(6世紀)

一対をなす龍頭は、同形同大のようだが、葉の本数など細部の表現に違いがある。鋭い眼、湾曲しながら後ろへ伸びる頭角、先端が大きく開いている鳥の嘴状に尖った分厚い唇、迫力を持つ龍である。敦煌莫高窟の隋代、唐代の壁画には、竿先に本品と同様の龍がつけられ、口元から幡た天蓋が吊り下げる様子が描かれており、用途を知ることが出来る。

国宝  奈良三菜小壺(こつぼ)         奈良時代(8世紀)

奈良時代にわが国で制作された鉛釉彩陶のうち、複数色を用いた多彩釉陶器を奈良三彩という。7世紀後半頃、朝鮮半島南部の影響の下に製作が始まった緑釉陶器の技術に、8世紀の中国唐三彩の技術が加わり誕生したものである。

 

”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”が7月9日にユネスコ第41世界遺産委員会で「世界文化遺産」への登録が決定された。通常、立ち入ることが出来る場所は宗像市の宗像大社と、大島である。今回は、宗像大社に詣で、かつ神宝館の国宝類を見学した。時間があれば、大島の中津宮へ行きたかったが、残念ながら時間が無く、宗像大社と神宝館の国宝に限定した報告となった。大島は、宗像大社の高宮祭場から、やや下がった場所から拝することできた。世界遺産への登録は、参詣者を増やし、大勢の参拝者が訪れていた。しかし神宝館まで、足を伸ばす人は少なく、大変残念である。

(本稿は、図録「宗像大社国宝展  2014年)、日経新聞2017年7月16日、7月17日”「宗像・沖ノ島」世界遺産に”、ウイキペディア「宗像大社」を参照した)

長府藩武家屋敷小路と 国宝 仏殿

今年(2017年)の夏・7月に下関の花火を見学する機会があった。折角の機会でもあるので、下関に行く前に、長府藩毛利邸と武家屋敷跡を見学して、大きな感動を覚えた。そもそも長府藩(ちょうふはん)は江戸時代の藩の一つである。長州藩の支藩(しはん)で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)とも言う。藩祖は毛利輝元の四男の穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元であった。秀元は、天正20年(1592)4月11日に朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって養嗣子となることを承認された。但し、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡子秀哉が誕生したので、慶長3年(1598)8月1日に、豊臣政権は秀哉を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分治されて大名となることが決定された。翌年の慶長4年(1599)6月には、この方針に則って秀元に長門国一国と安芸佐伯群及び周防群の合計17万石をもって、叔父である小早川隆景の例に倣って毛利家臣でありながら大名としての身分が認められることとなった。この時(慶長4年)が、長門藩の立藩である。関ヶ原の戦いの後に、毛利輝元は安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元が東の守りとして岩国に吉川広家を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(元在の山口県下関市)に秀元の領地を与えられた。後に長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しをおこなった。長府藩は、最初6万石であったが、後に1万石を分治して幕末には5万石となった。この長府藩の跡を訪ね、素晴らしい武家屋敷の小路に感激し、かつ国宝の仏殿を拝して、この上ない旅となった。

長府藩の武家屋敷の塀の連なり

長府藩は、明治維新により豊浦県を経て山口県に統合されている。従って、現在の地名は下関市長府となる。江戸時代から続いた武家屋敷の跡が整然と残っており、繕いも出来ない武家屋敷の塀は、どのような経済変化の跡を受けて、現在に残ったのであろうか?鹿児島県には、武家屋敷の跡が残っていることで有名であるが、この長門藩の跡地も素晴らしい景色である。

古江小路(ふるえこうじ)

古江小路とは、上の長府藩の武家屋敷の塀の連りのことを言う言葉であろう。この城下町長府の武家屋敷は合戦に備えて防衛的配慮がしてあり、この土塀は防壁として築かれている。そのため町筋は碁盤の目ではなく、丁字型になった部分も多く、わざと迷路のように造られている。

菅家長屋敷門・練塀

古江小路の中ほどに「菅家長門門・練塀」がある。これは長府藩初代藩主毛利秀元が、京都から招いた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった。現在は、門と練塀を残すのみであるが、江戸時代の面影を良く伝えている。

長府  毛利邸

明治維新により大名は、すべて東京に住むことになり、新政府は爵位を与えて厚遇した。長府藩も支藩とは言え大名であるので、東京に住むことになった。長府毛利藩邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もうりもととし)公が、政府の許可を受けて、東京から下関に帰住し、この土地を選んで建てた邸宅である。明治31年(1898)に起工し、明治36年(1903)6月に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用された。純日本風の建築であり、庭には淵黙庵(えんもくあん)と名付けた茶室もある。武家屋敷造りの重厚な母屋と日本庭園が、見事な風情を感じさせてくれる。

母屋より庭園を望む

母屋の縁側から、庭園を写したものである。庭園は池泉回遊式である。

池泉回遊庭園より母屋を望む

逆に、庭園から母屋を写した。明治時代の建物であるから、古い家というより、むしろ立派な邸宅という感じを受けた。

国宝 功玉寺 仏殿 二重屋根入母屋造り、 鎌倉時代(嘉暦2年ー1327)

長府の毛利邸を辞する時に、功山寺(こうざんじ)というお寺が近くにあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って功山寺を何の予備知識も無く、訪問した。功山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで鎌倉円覚寺の舎利殿と同形式で、鎌倉時代の仏殿建築の代表的な建物である。なお、時間的に午後4時頃であったため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。

国宝 功山寺   仏殿  後方からの写真

二重入母屋造りの桧肌葺きである。毛利氏とは歴史的に離れているが、この寺の歴史は毛利氏以前に遡る。毛利氏以前に中国地方で権勢を振るっていたのは大内氏である。大内義孝は周防など7か国の守護職を兼ねていた。天文年間(1532~55)ザビエルを引見しキリスト教の布教を許し、西洋文明の輸入に勤めた守護大名である。しかし、天文20年(1551)、彼は家老の陶晴賢(すえはるかた)に襲われ、やがて自殺するが、その跡を継いだ大友宗麟の弟が、大内義長と名乗った。安芸国(広島)吉田庄から出た毛利氏が、かの元就の代にぐんぐん勢力を伸ばし、弘治元年(1555)元就は陶晴賢を安芸厳島に襲撃、敗死させ、ついで弘治3年(1557)4月、大内義長を長門勝山城に攻めて、功山寺(当時は長福寺といった)に、逃げ込み、毛利勢の追討が押し寄せ、この仏殿で割腹自殺した。その時、従った家来は30名と伝えられている。

国宝  功山寺 仏殿  斜め後ろより撮影

勝者毛利輝元は、中国地方から大内と尼子の勢力を駆逐し、その大部分を支配した。孫の輝元は、豊臣政権下において、安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐・伯耆の八カ国、百十二万石の大大名であり、五大老の一人であった。しかし、関ケ原の合戦(慶長5年ー1600)で、毛利輝元は名義上とは言え西軍の総大将として大阪城に入城したから、徳川将軍によってその罪を問われ、周防・長門二国に領地を削減された。これが以後270年余にわたって続いた長州藩である。八カ国、百十二万石にふくれあがった家臣団を、二カ国36万石の規模に再編成するのは容易なことではなかったであろう。長州藩の本拠萩城では、毎年元旦に大広間に藩士一同が居並び、歴代家老がお殿様に「おそれながら統幕の儀、本年はいかが相はからいましょうや」と申し上げると、殿様が「いまだ時期熟すまい」と答える。これが毎年の行事であったそうである。(多分、後から作った話と思う)

高杉晋作銅像    功山寺内

長州藩では、元治元年(1864)12月16日、高杉晋作がわずか80名をひきいて、俗論党の支配する藩政府を打倒すべく挙兵した。いわゆる「回天義挙」であり、長州藩のその後を支配する最も重要な一つであることは間違いない。長府藩には下関も含む。ここでは、下関海峡における外国連合艦隊と交戦し、長州藩が惨敗した歴史もあるが、長州と薩摩国が連合し、徳川幕府を倒し、明治維新を切り開いた歴史の幕開けの場所でもあった。

下関海峡   ホテルのテラスより写す

遙かに下関より門司を望む景色であり、かって「壇の浦」の合戦の場であり、近くは、連合国との「下関会戦」の場でもあった。日本の歴史の転換点に、登場する下関海峡である。

 

なお、功山寺の寺の前身は、嘉暦2年(1327)虚案玄寂(こあんげんじゃく)が開山として創建された長福寺(ちょうふくじ)という臨済宗禅院であった。しかし、仏殿内陣の柱に書かれた墨書銘によると元応2年(1320)立柱とあるので、創建年代は少し遡るであろう。室町時代には守護大内氏の庇護を受けて、大いに繁栄したが、弘治2年(1556)大内義長が仏殿で自刃するなど、戦乱の余波を受けて衰微したが、長府藩初代毛利秀元は金岡用兼(きんこうようけん)を招いて再興し、功山寺と寺号を改め、菩提寺とした。               長府藩の古江小路と毛利藩邸を見学する予定であったが、思いがけず功山寺 仏殿を拝し、あまりにも豪華な国宝に接し、話が長くなった。中々行き難い場所であるが、下関の花火と共に、今年の夏の良き思い出となった。

 

(本稿は、パンフレット「長府毛利邸」、ウイキペディア「長府藩」、探訪日本の古寺「第14巻 山陽・山陰」、山岡宗八「毛利元就1・2巻」を参照した)

ボストン美術館の至宝展  フランス編

日本でボストン美術館展があれば、必ず見学している積りであるが、図録を探しても「ミレー展」(名古屋ボストン美術館)しか無いし、見学した記憶もない。ボストン美術館の中でも西洋画、なかでも印象派、後期印象派には素晴らしい名品が含まれている筈である。当時、パリをはじめとして多くの国で批評家やコレクター達が、新しい美術運動に疑念を抱いていた時期に、ボストン美術館に後年寄付するアメリカのコレクター達は、積極的集めた筈であり、印象派の最大の支持者は、最初からアメリカ大陸であった。ボストン美術館の中でも特に魅力を持つコレクションである。特にモネ、ピサロ、ミレー、ファン・ゴッホの作品が大きなみどころになっている。

編み物稽古 フランソワ・ミレー作 油彩・カンヴァス  1854年頃

「編み物稽古」は、ボストン美術館では2点所蔵している。今回は1854年頃の旧い方が展示されていた。この時代、自身の衣服をつくることは田園地帯の家庭生活においてはきわめて重要な部分を占めていた。母親たちは娘たちに編み物や縫い物を教えたものであった。その様子は本作品に描かれている、愛情あふれる瞬間にみてとれる。年配の女性の被り物は、彼女たちの住む地域の風習の違いを暗示している。ノルマンディー地方の女性たちはボンネットのような帽子を被っている。

くぼ地のひなげし畑 ジヴェルニー近郊 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス1885年

1883年、モネはパリの北西にある小さな町ジヴェニールへ引っ越した。後に有名になる庭と睡蓮の池をつくる前に、彼はまず新居の周辺の田園地帯を描いた。この絵画は、近郊にあった明るく輝く赤いヒナゲシ畑を描いた。初期の作品の1点である。赤と緑の補色の併置は絵に生き生きとした力強さを生み出している。

ルーアン大聖堂、正面 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1894年

1892年の冬にモネが着手した30点に及ぶ連作のひとつで、ルーアン大聖堂に面した部屋で描かれたものである。彼は聖堂の精巧な石造りの壁にうつろうさまに集中し、一日を通じて太陽の光が角度を変えるたびにカンヴァスを取り換えて描いた。画面を覆う筆蝕は、風雨にさらされた石の肌合いを感じさせる。

睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス   1905年

1883年にパリ郊外のジヴェニールの村に住み始めたモネは、1890年にそれまで借りていた土地と家を正式に買い取った。その後隣接した土地も買い取り、のちに有名になる庭と睡蓮の池をつくることになる。1903~04年以後モネは第二の連作生み出す。彼の視点はぐっと高まり池の面を見下ろすようになる。水の面に浮かぶ睡蓮の葉も花も、別の次元の空間の中に漂うのである。つまり、その次元とは、時には雲を映し、柳の影を映し、岸の花や叢を映す。あの倒立した巨像の次元なのである。睡蓮は、水面の連続を暗示しながら、その下にあるもっと広大な世界をひらく指標となっている。

腕を組んだバレエの踊り子 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1872年

ドガが亡くなったとき、アトリエには未完のまま残されていたこの絵画はややぎこちない印象を与える作品で、それがスポルディング(寄贈家)の現代的な感性に訴えかけた。踊り子のスカート部分のむき出しの下地の層や、両腕を組むスケッチした輪郭線は、画家の制作過程をあらわにしている。製作中のまま残されたのである。

卓上の果物と水指し ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス1890~94年頃

傾斜したテーブルの上の果物というシンプルに見えて複雑な一連の静物画は、セザンヌを代表する作品で、いずれの作品も空間と形態の探究、そしてそれらを描く画家の表現手法を示すものである。この絵では、テーブルクロスと背景の落ち着いた緑と青の色彩が、丸味のある果物の明るい黄色やオレンジ色や赤色と鮮やかな対照を成している。

郵便配達人ジョゼフ・ルーラン ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス1888年子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン婦人    1889年

南フランスのアルルに移り住んだゴッホの生活は、依然として、人々の嘲りや無理解にしばしば囲まれていたが、仕事のあいまにくつろぐ夜のカフェなどで、彼は次第に親しい友人を得ていった。この「金の飾りのついた青い制服を身につけ、ひげをはやして、まるでソクラテズのように見える郵便配達夫」のルーランは、なかでももっとも親しく永続的な友情さえ生み出した。ゴッホはルーランに「父というほどではないとしても」、その威厳ある沈黙に尊敬さえ感じていたらしい。この堂々たる肖像画に、そうしたゴッホの感情が十分に見出されるようである。青の強烈さ、画面いっぱいの構図、あらゆる点で、アルル時代の肖像の頂点をなす作品の一つである。ゴッホのこの人物の肖像画は6点あるが、本作品はその最初のものと考えられている( ルーランは郵便配達夫ではなく、郵便管理人だったと言われている。)1888年12月、ファン・ゴッホはジョゼフの妻オーギュティーヌの一連の肖像画を描はじめた。本作品は、かれが完成させた彼女の肖像画のうち、おそらく最後に描かれたものである。鮮やかに花々が配される背景に、彼女の大胆な際立った色彩で描かれており、手にする紐はゆりかごへとつながっている。画面右側に、画家は「ラ・ベルズース」というタイトルを記しているが、このフランス語の単語は「子守唄」と「ゆりかごを揺らす女性」という両方の意味を持つ。ルーラン家には赤子がいたが、ファン・ゴッホはまた、その「揺らす」ということより広い意味でも考えていた。彼は弟のテオに宛てた手紙で、この肖像画の主題について触れている。「漁船の船室の中に」この絵が飾られたとき、「あらゆる危険にさらされた荒涼たる海にたったひとりで残されて、沈鬱な孤独のうちにある」漁師たちは、「ゆりかごに揺られているような感じを経験し、自身がかって聞いた子守唄を思い起こすだろう」と。

 

流石に、ボストン美術館の保有するフランス絵画は優れたものが多い。いずれも感激するが、やはり最後のルーラン夫妻の肖像画が立派であり、アルル時代のゴッホの代表作と呼んでよいだろう。先の「ボストン美術館 東洋編」の最後に、「これと言った名品・珍品がない」と述べたが、これは誤りであった。このアルル時代のゴッホの名品2点は、素晴らしい作品であることを再度強調したい。なお2点を併せ持つ美術館が世界で何館あるだろうか?

 

(本稿は、図録「ボストン美術館の至宝展 2017年」、図録「ボストン美術館ミレー展 2015年」(名古屋ボストン美術館)、現代世界美術全集「第8巻ゴッホ」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)

ボストン美術館の至宝展  東洋編

1870年に設立されたボストン美術館は、アメリカ合衆国において最も古く、また最も良く知られた美術館の一つである。ボストン美術館の大きな特徴は、公的財源から作品収集のための資金援助を受けていないことである。この美術館の卓越したコレクションを構築できたのは、何世代にもわたる寄贈者とコレクターたち個々人による、類い稀な慈善活動によるものであった。特に、東洋・日本の美術蒐集に当たった著名人には、次の人たちを上げることができる。エドワードシルベスター・モース、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ、チャールズ・ゴダート・ウエルド、ウイリアム・スタージュ・ピゲロー等々である。日本史、もしくは国語で習った名前である筈だ。現在22,000点以上の作品を擁するボストン美術館から、今回は80点に厳選した美術品が来日した。その美術品を大区分すれば、古代エジプト美術、中国美術、日本美術、フランス絵画、アメリカ絵画、現代美術の6区分になるだろう。今回、取り上げたのは、第1回は中国美術・日本美術、第2回はフランス絵画の2区分にした。毎年のようにボストン美術館展は開催され、ある時は日本美術のみ、ある時は中国美術のみ、ある時はミレーのみ、ある時は北斎の浮世絵のみと実に多彩である。今回のように各国の多彩な美術品を展示するのは、むしろ珍しい程である。

五色鸚鵡図巻 徽宗作 絹本着色  北宋時代 1110年頃

徽宗(在位1101~1125)は北宋第8代の皇帝である。徽宗(きそう)は、美術品を蒐集した皇帝として著名であるが、自分自身でも花鳥画等の名画を残している。徽宗の現存する伝統的作品のうち、花鳥画については歴史、文学において徽宗が花鳥画を得意とすることが知られており、山水画、人物画に比較して、より広く承認されている。この「五色鸚鵡図」は、徽宗の伝承作品の中でも最も信頼しうる作品の一つである。この画巻の徽宗自身の題詩によれば、本図は嶺表(五例の南の地)より宮廷に貢物として珍奇な鸚鵡が献上されたのを記念して制作されたという。徽宗は春に宮廷内の庭園で満開の杏木の真ん中に飛んでいくこの鸚鵡を見て、この出来事を記録するために自ら描いたものである。満開の白花や蕾など様々に花開いた杏木に満足げに止まっているように見える鳥は、横向きの姿で写実的に描かれている。この画は自然をあるがままに写生したような印象を視る者に強く与え、その表現を誇張しようという意向は見られない。徽宗は、女真族の国・金の侵攻によって、捕虜となり連行された先で没したという不幸な皇帝でもある。

九龍図巻(部分) 陳容作  紙本墨画淡彩  南宋時代 淳裕4(1244)年

中国の諸芸術家が表現した多くの道教的主題の中で、龍は中国において諸神の中でも最も宗教的精神と哲学を象徴する存在であった。龍は神秘的な生物であり西洋においてはドラゴンの名で一般的に知られている。前漢の開祖である劉邦(在位、前206~前195)が、自らを神である龍の子として宣言して以来、龍は中国の皇帝の象徴としての役割を果たしてきたのである。本図は、今日、現存する中国の龍の絵画作品の中でも最も古く最も優れた作品である。画巻の終わりに書かれた画家の詩と跋文によると、この「九龍図」は8世紀の画家槽覇の「九馬図」と北宋末の恵崇(956頃~1017)の伝承を持つ「九鹿図」に画因を得たものという。陳容は、これらの名画に匹敵するような優れた質の絵画のみならず、その自らの制作の過程についても跋文にも書き記したのであった。彼の詩は、いかに陳容が精神の高揚した状態で絵を描くことができたかが詳しく述べている。その作画の過程は跋文と作品そのものの双方に示されているが、それは道教の超自然的な実践と深く結びついた一種の精神の変容の体験と事物に対する洞察力を反映したものと言える。自ら描いた九龍図の高い芸術性に満足した陳容は、詩の最後の部分で次のように述べている。「私は九龍図を描いた。筆端から発した微妙な芸術は世界中の他のどこにもないものである。この絵を離れて見れば、浪と雲が飛動するようにみえるであろうし、また近づいて見れば、神人のみがこのような龍の絵を描くことができると思うであろう」と。

涅槃図  英一蝶作  紙本墨色 一幅 江戸時代・正徳3(1713)年

英一蝶は、反骨心のある文化人の象徴だった。絵師でありながら、俳諧を嗜んでいた。そして遊興に通じた粋人、幇間(ほうかん)でもあったが、その経歴の頂点にあったときに、江戸から10年以上にわたり三宅島に島流しにされている。何の罪を犯したかは知られていないが、噂話や憶測は数多くあった。赦免されて江戸に戻ったのちは、正徳3年(1713)に一蝶は自身にとって象徴的な「涅槃図」を描いた。この感覚的で、なおかつ宗教的な傑作は、蝙蝠から菩薩まで、感情をもつ生きとし生けるものが釈迦の横たわる宝台のまわりで嘆き悲しむ様子をとても緻密に、また色彩豊かに描くのを特色とする。彼の「涅槃図」は、極めて独創的な情景の表現ゆえに、注目に値するものとなっている。日本の寺院では、釈迦の命日(旧暦2月15日)に執り行う涅槃会で、このような涅槃図を1年に1回開帳することが多い。芝愛宕町の青松寺塔頭吟窓院に寄進された。(この作品は、ボストン美術館で、最近修復された)

風仙図屏風 曽我蕭白作 六曲一双 江戸時代宝暦14~明和元年(1764)頃

曽我蕭白はいわゆる「奇想の画家」として、辻惟雄氏によって最近発掘された奇人と思っていたが、明治10年代に、日本で発掘し、アメリカに持ち帰っていた大作である。ボストン美術館展というと必ず出品されると言っても良いほど、良く見るようになった屏風である。曽我蕭白(1730~1781)は、文政7年編の「近世奇人画師」の記事以来、伊勢の生まれと信じられてきたが、辻氏は、京都興聖寺の墓地に墓石を発見したとされている。辻氏によれば、蕭白は、丹波屋、あるいは丹後屋を屋号とする京都の商家の出身と思われると推定している。興聖寺に異様な大作「寒山拾得図」双幅(重文指定)ほか数点の蕭白画を有している。また最近、ボストン美術館で異様な「雲龍図」が発見されて話題になっている。この「風仙図屏風」は、中国の伝説上の仙人である呂洞賓(ろどうひん)を描いたものと言われてきた。この屏風では、霊力を持つ男が剣を振るって、渦巻く旋風で表された龍と戦っている。この人物を南宋の伝説的な道士で、龍を退治した嵐とともに恵みの雨をもたらした陳南(ちんなん)であると考える説もある。この屏風は、フェノロサが日本に滞在していた1878年から86年の間に入手したものであろう。

絵看板  鳥居派 一面 紙本着色 江戸時代 宝暦8年(1758)

絵看板は町行く人々を歌舞伎の芝居へと引き込む役割を果たしていた。こうした額装の絵看板は、芝居小屋の軒下に斜め下向きに飾られ、下の狭い通りからも見えるようになっていた。絵看板は、主役の役者たちが演じる、選り抜きの劇的場面を描いたもので、その衣装には役者が誰であるかがわかる定紋が目立つかたちで入れられている。美術品よいうよりはむしろ、その時だけの短命な宣伝物だったと考えられるこうした絵のほとんどは破棄されてしまった。本作品は知られる中では最も古い現存例で、宝暦8年(1758)8月に江戸の中村座で上演された芝居のものである。

花魁図 酒井抱一作 一幅 絹本着色  江戸時代(18世紀)

大名家の次男であった酒井抱一は、江戸時代の主要な芸術家たちの誰よりもきわめて高い社会的地位を享受していた。裕福な家系に生まれたいかげで余暇と資力があった抱一は、自身の絵画に対する興味を追求することが出来た。とりわけ出家を果たした寛政9年(1735~1814)以後はその傾向が高まった。まず狩野派に学ぶことから始め、20代の間は歌川豊春(1735~1814)のもとで浮世絵を学び、次に琳派の様式によって江戸琳派の開祖として知られる。この掛軸は、浮世絵の肉筆画や版画に良く見られる典型的な主題を扱ったもので、新年の正装で吉原を練り歩く花魁の姿を描いている。豪華な衣装が素晴らしい。明治時代に活躍した絵師・河鍋暁斎(1831~89)が所蔵していたが、誤って抱一の師・豊春の作とする極めを画中に描きいれている。この絵の素晴らしい出来映えからすれば、無理もない間違いである。

三味線を弾く美人図 喜多川歌麿作 一幅 絹本着色 文化元年~3年(1804~06)頃

三味線の音締(ねじめ)をする若い女性。右手の撥(ばち)で三味線をかきならし、左手で糸巻きを調節している。手の込んだ髪飾りは、彼女が芸者か、あるいは娘浄瑠璃師であることを示唆している。娘浄瑠璃は、あまりにも人気が高くなりすぎ、文化2年(1805)には禁止されてしまった芸能様式だった。高く結い上げた髪型、深みのある色彩、そしてトリミングされた構図は、歌麿の画業のなかでも後期の制作であることを示しており、娘浄瑠璃の良く似た絵柄は彼の後年の版画のいくつかにも描かれている。

 

 

ボストン美術館は、今まで「日本絵画名品展」、「「中国宋・元名品展」、「ミレー展」等的を絞った展覧会が多かったが、今回は「オールスター展」とも呼ぶべき、各国の絵画、彫刻類が展示された。総数も80点と、拝観するには誠に都合の良い点数であった。反面、これが特徴だと言える名品・珍品もなかった。中国、日本、フランスの有名な名画を見たという印象は残るが、「この1点」と言うべきものは無かった。最近、東京では世界中の名品が見られ、何時でも、何処の美術館でも、満足できる展覧会を楽しむことが出来る。極めて恵まれた環境にある。これが名古屋、仙台になると途端に不便になる。文化の一極集中は如何なものかと思う。わざわざ、千葉へ行ったり、仙台へ行ったりする機会があってもいいような気がする。あまりにも恵まれた環境の下にいるせいだろう。

 

(本稿は、図録「ボストン美術館の至宝展   2017年」、図録「ボストン美術館・日本美術の至宝  2012年」、図録「ボストン美術館  ミレー展 2014年」、図録「ボストン美術館の至宝 中国宋元名品展  1996年」、図録「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展 1983年」を参照した)

芸大コレクション展   後期

この展覧会は、東京芸術大学が保有するー芸大コレクションー(凡そ2万9千点)-を公開し、大学美術館の存在理由を明らかにし、様々な問題点を素直に展覧会に反映させるという意魏があった。初日に入館した時は、観客が少なく(7月14日)不安を覚えたが、流石に後期で、しかも期日が過ぎると(8月18日)、かなりの入館者であった。他の美術館と異なる点は、和服の女性が目立ったことである。お茶の展覧会には和服の女性客が多いことがある。(例えば畠山記念館)芸大コレクション展という性格からして、日本美術の粋、もしくは芸大卒業生等、どちらかと言えば地味な展覧会であり、余程芸大の美術館を見慣れた人以外は参観し難い展覧会であるにも関わらず、和服姿の女性客(かなり高齢)が多いのが不思議であった。

重要文化財 槇楓図屏風 尾形光琳作  紙本金地彩色  江戸時代

山種美術館が保有する伝俵谷宗達作の「槇楓図屏風」を光琳が模写、正確にはそれに修正を加えて独自にアレンジした作品である。まず右端の大木の幹の湾曲を抑え、また右から第3扇の身をくねらせるような木の急角度なねじれを弱め、さらに、原本においおいてやや画面上での役割が明らかでなかった左端の槇の枝ぶりをより安定感のあるものに変え、かつ少し左に移動している。結果として、原本の持つ力強い運動間は弱まったが、平面的な律同感はより鮮明になると同時に、色彩も明るくなって緑と朱の対比が鮮やかになった。明治時代には蜂須賀家に伝来したものである。

柳下鬼女図屏風 曽我蕭白作 紙本墨画淡彩 二曲一双  江戸時代

曽我蕭白は、近年辻惟雄氏の「奇想の系譜」において紹介され、俄かに有名になった江戸時代の画家である。最近まで、伊勢出身と考えられていたが、京都出身で、京都の興聖寺に墓石があることが明らかになった。「群仙図屏風」が有名である。この絵は、謡曲「鉄輪」からの着想で、嫉妬に狂う女が鬼となって、もとの夫を呪い殺そうとする場面である。顔貌部分の損傷がその恐怖を煽る。

重要文化財 不動明王 狩野芳崖作  紙本墨色  明治20年(1887)

フェノロサとともに日本画の改良を試み、その成果を示した作例の一つである。従来の狩野派にはない求心的な構図の彩色の濃淡に工夫が見られる。

重要文化財 白雪缸樹 橋本雅邦作  紙本彩色   明治23年(1890)

第3回内国勧業博覧会に出品された大作である。東京美術学校教綬として新しい日本画の方向を内外に示すための遠近感などが意識されている。岡倉天心の影響が認められる。

ティヴォリ、ヴィラ・デステの池 藤島武二作  油彩・カンヴァス 明治42(1909)年

イタリアへ留学した時のティヴォリでの取材した作品である。藤島は、既に日本で装飾風の独自の画風を確立していたが、フランス・イタリアへの留学は大変勉強になったようであり、様々な作品を描いている。日本では既に独自の画風を確立していたが、滞欧経験は、藤島に色彩の解放と新たな装飾性の志向をもたらした。

村童観猿翁 横山大観作 絹本着色  明治26年(1893)

横山大観の卒業制作であり、「作家の原点」として展覧されたもので、これからしばらく、卒業制作が続く。大観は日本画科率、猿回しの翁は恩師である橋本雅邦を見立て、村童たちは同期生11人の幼顔を想像して描いたという。大観は4年間の学校教育だけで画家としての基礎を身に付けたはじめての日本画家ということが出来る。

砂丘  高山辰夫作  絹本着色   昭和11年(1936)

日本画卒の卒業制作。房総の御宿海岸で、砂丘の風紋の美しさに魅了されたのが制作動機となっている。雄大な自然に感動した作者の心情世界が広がる。いい絵である。

渡頭の夕暮れ 和田栄作作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

鹿児島に生まれ、はじめ黒田清輝らの指導を受ける。1896年、東京美術学校西洋画科助教綬となるが、翌年4年に編入、卒業。フランス留学から帰国後母校の教綬となりのち同校校長。穏健な作風で官展の重鎮として活躍した。その人の卒業制作である。私の好きな画家の一人である。多摩川の渡し場で舟を待つ人々を描いたものである。夕焼けに染まる空と川の色を的確に捉えた画面は、叙情的で郷愁を誘う。まさしく、和田栄作の制作の原点と言って差し支えない。

稽古  白滝幾之介作  油彩・カンヴァス   明治30年(1897)

兵庫生まれ。はじめ山本芳翆、ついで黒田清輝に師事。1896年東京美術学校西洋画予科3年に編入。1898年卒業。その後欧米へ7年間遊学。1911年帰国の後は官展に作品を発表。外光派表現を取り入れた穏健な画風を示した。1952年に日本芸術院恩賜賞を受賞。この卒業制作は、黒田清輝の外交派の影響を強く受けている。下町の日常風景を描いたものである。

草花鳥獣文小手箱 松田権六作  金沃懸地  大正8年(1919)

蓋内部で大きく口をあけて吠える獅子と表の鹿や兎と各種の鳥が逃げ惑う描写により、百獣を怖れさせる威力を持つ獅子吼(ししく)という釈迦の説法の譬えを表わす。表面には漆に金粉を全体に蒔き、漆の固まらないうちに一気に動物の輪郭を針金で引っ掻き、金銀の箔片を散らす。卒業時の成績採点では百点満点がつけられた。当然だと思う。

重要文化財 日本婦人 ヴィンチェン・ラグーザ作銅像 明治13年(1880)

ラグーザは工部学校の教師として彫刻科教師をつとめ、日本滞在中に著名人の銅像を作成すると同時に「日本婦人」、「日本の大工」といった身近な人々を生き生きと映し出した秀作を残している。この「日本婦人」の石膏原型は重要文化財に指定されている。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に出品され、大いに注目された。本作品は、昭和33年(1958)に原型から鋳造された作品である。

裸婦  原 憮松作 油彩・カンヴァス  明治39年(1906)

岡山に生まれる。洋画家多賀清光、平野雄也に学ぶ。1904年渡英。古今の名画を模写し、イギリスで高い評価を得た。明治期における本格的な油彩技法を習得した画家の一人であるが、1907年の帰国後、作品を発表する機会に恵まれず病没した。本作品は平成25年度に画面洗浄等の処置を、芸大で施した「修複作品」である。

黄泉比良坂 青木 繁作 紙・色鉛筆・パステル 水彩 明治36年(1903)

第1回白馬会賞受賞作、黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、古事記の一場面で、それが水彩や色鉛筆で幻想的に表現されている。本紙の波状の折れ等に対し変形修正等の処置が施された。「修複作品」の事例である。私は、青木繁の生涯」を追い、手に入る限りの写真を集めて、いずれ、この恵まれない天才画家の生涯を、この「美」でまとめてみたいと思っていた。この「よもつひらさか」がどこに所蔵されているか不明であったが、思いがけない処で、遭うこと出来、かつ写真も入手することが出来た。非常に喜んでいる。

 

後期は、江戸時代の琳派の名品や、明治時代初期の日本画、洋画、卒業制作、修復作品など幅広く紹介した。思いがけない青木繁作の「よもつひらさか」に出会えるなど、寄寓もあった。卒業制作は、正に作家の原点であり、力作を作成した作家は、その後も大家に成長した作家が多い。しかし、萬 鉄五郎氏のように、ゴッホやマチスを思わせるような「裸体美人」を卒業制作にしたことにより、黒田清輝教授の反対により、卒業成績を下位に落された(と思われる)事態も発生している。しかし、作家の評価は大学の教授が決めるものでは無く、万人の眼で決められるものであり、結果として、学校の卒業順位はさして意味が無いこともある。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション  2017年」、図録「明治ニッポンの美    2015年)、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

マリー・ローランサン美術館  都心に開館

マリー・ローランサン美術館は、東京でタクシー会社グリーキャブを設立した高野将弘氏が、1996年はじめてヨーロッパ旅行の折、パリの画廊にてマリー・ローランサンの作品と出会ったことから始まった。5人の息子に恵まれたが女の子を得ることが出来なかった高野氏にとって、その作品を手にすることはまるで自分の娘ができたかのような感覚であったろう。その画家の生涯を学び、その絵から物語を感じた高野氏は、将来美術館を建てようととの野望もなしに彼女の作品の蒐集を始めた。画家の誕生百周年を紀念して長野県蓼科高原のホテルに付属するマリー・ローランサン美術館を設立した。2011年に諸般の事情により、残念ながらホテルも美術館も惜しまれつつ閉館に至った。フランスパリ市マルモッタン=モネ美術館での回顧展を経て、日本全国各地の美術館を巡りながら、マリーローランサン・ファンを確実に日本中に広げた。私は、たまたま府中市美術館で2015年10月に、この展覧会を観て、改めてマリー・ローランサンの美術家としての歩みを同美術館の音ゆみ子学芸員の「マリー・ローランサンの歩んだ道」という研究論文を読んで知った次第である。全国を巡回するこの作品類の将来を案じておった所、たまたま日経新聞2017年8月3日(夕刊)の展覧会情報で、このマリー・ローランサン美術館が、東京都心のニューオータニ・ガーデンコート内に「マリー・ローランサンが東京にお引越し」というキヤッチ・コピーで掲載されているのを発見して、正に天にも昇る気持ちになった。抒情と官能の独特の世界に生きた女性画家マリー・ローランサン(1833~1956)の、世界で唯一の専門美術館が、都心に腰を下ろしたのである。現在の収蔵品は、ローランサンの初期から晩年に到る油彩・水彩・デッサン・版画・挿絵その他、600点以上の作品を網羅している。また貴重な写真や書簡などの資料の拠点となっている。これこそ、世界唯一のマリー・ローランサン美術館(専門)である。なお、第1回の美術展は11月12日までで、その後は、また代わった企画で展覧される予定である。油彩画の主力作品が展示されているので、是非一度足を運んで頂きたい。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・板絵   1904年

マリー・ローランサンは、世紀末のパリで生まれた。未婚の母親と二人暮らしであったが、教育熱心であった母親の方針で、良家の子女の通う女学校に入学したが、本人曰く「世にもなまけものの生徒」だったらしい。やがて女学校を卒業する頃、ローランサンは「画家になりたい」という希望を持つようになった。1904年(21歳)で、画家のフェルナン・アンベールの画塾に通うことになった。画塾では彼女が望んだ本格的な美術教育、すなわちデッサン等の基礎教育の習得が出来た訳ではないが、それ以上に重要な出会いがあった。1つ年上のジョルジュ・ブラックとの出会いである。彼は「あなたは才能がある」と言って新入りのローランサンに自信を与えてくれた。そして何よりも、画塾では学べない「新しい絵画」へと眼を開かせてくれたのである。この自画像は1904年の作であり、画塾に入り、本格的に絵画の勉強を始めた頃の作品である。彼女は、自分を陰気で美しくない乙女として描いた。確かに、後年のローランサンの面影はない。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1908年

1906年頃、ローランサンはブラックに連れられて、始めて「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)を訪れた。後に恋人となるアポリネールやパブロ・ピカソと出会った。彼らの影響でフォービスムの絵画の表現に興味を持った。この自画像は、単純化された素朴な形態で、鋭い描線などから、原色を使った大胆な色彩のフォーヴィスムや、対称をいろいろな方向から見て描くキュビスムの影響が表れているし、自信に満ちている。

家具付きの貸家  マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1912年

キュビスムの作家として売り出したローランサンは、根っこの部分で彼らとつながっていなかった。後に「キュビスムの画家にならなかったのは、なろうとしてもなれなかったのです」と自ら語っている。ローランサンの表面的なキュビスムは、他の画家にない独特の魅力を生み出していた。それを最も良く理解したのはアポリネール(評論家)であった。しかし、彼女を先導したアポリネールは、1911年の「モナ・リザ」窃盗事件の容疑者として収監された。結局、この疑いはすぐ晴れたものの、この突拍子もないスキャンダルによって、ローランサンの心は次第にアポリネールから離れていった。ここで描かれている家具付きの貸家とは、家具のついた長期滞在用のホテルのことで、おそらくローランサンとアポリネールが逢瀬を楽しんだ貸家を描いたものであろう。この年(1912年)に二人は破局を迎えることになった。窓辺に向き合い恋人と深刻に語り合う情景は、二人のエンドを意味する場面だろう。

アンドレ・グルー夫人ニコル マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1913年

楕円形の画面はピカソやブラックも1911年から翌年にかけて試みている。ニコルはファッション・デザイナー、ポール・ポワレの妹で、室内装飾アンドレ・クルーの妻である。自身もデザイナーであり、夫とともにアール・デコの潮流の中心にいた。彼女はアンデパンダン展に出品されたローランサンの作品を購入して以来、ローランサンの芸術の良き理解者であった。牡鹿にふわりと腰かけるニコラスは身にまとう衣ともども重力から解き放たれた優美な姿である。線の描き方などキュビスムの影響が見られる。しかしパステルカラーは後年のローランサンを予告するようである。キュビスムとは正反対の軽快で優しい世界へ模様替えしたような絵を生み出していたのである。

読書する女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1913年頃

けだるい様子で机の上の書物に目を落とす女性。白っぽい灰色に、ピンクと水色を加えた色彩、線描を主体にした表現は同時期の他の作品と共通するが、背景のカーテンや女性のターバンなど、わざわざと絵具をにじませる描き方が異色である。この数年後にローランサンは、強い線を表現の中心に据えたキュビスム的な造形を変えようと本格的に模作を始めるが、この作品の描き方は、すでにこの頃からその兆しが始まっていたことえを示しているだろう。つまり、彼女のキュビス画家としての頂点とも言われる1913年にも、キュビスムと、「自分らしい」作風の間で揺れ動くローランサンの姿を見出すことができるのである。

三美神 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1921年

1914年、ローランサンはドイツ人男爵と結婚した。しかし、丁度、その年に、第一次世界大戦が勃発したため、夫とともに中立国のスペイン各地で終戦まで過ごすことになった。亡命生活の中、夫との関係は悪化し、祖国に戻ることも出来ず、私生活の上では苦しい日々であった。しかし、パリの芸術界から離れることが、彼女自身の創作と向き合うことになった。それは結果的に、キュビスム的表現から脱皮する契機となった。さらに1920年代に入ると、輪郭線は完全に消え、ゆるゆるとした形が生まれた。キュビスムとは対極の「ローランサン・スタイル」が生まれたのである。亡命生活を終え、夫であったオットーと別れを告げ、パリに移った年に描いた作品である。亡命中は沈んだ色が多かったが、心機一転、本作のように青空のもと、微笑みのある女性が登場している。三美神とは、ギリシャ神話とローマ神話に登場する三人の美しい女神のことであり、サンドロ・ポッティチェリーの名作で知られる。

私の肖像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1924年

1924年6月に描かれた自画像である。ローランサンは40代に入っていた。1921年にポール・ロザンベールの画廊で開いた第一次世界大戦後初の個展が成功し、1923年に制作したグールゴー男爵夫人の肖像画をきっかけに、流行の肖像画家として人気が高まっていた。のちに「狂乱の時代」と呼ばれる活気に満ちた両大戦間のパリで、ローランサンは充実期を迎えたのである。それを反映して本作での画家は、伏し目がちながら落ち着きをみせ、ゆったりと佇む。ドレスのピンクと背景の青に見られるパステルカラーがほどよい華やぎをつくり、髪飾りの緑がやや赤みのあるピンク色の唇と補色をなして、アクセントを効かせている。(この絵が、入場券に印刷されていた)

接吻 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1926年

私は、この絵こそ、ローランサン・スタイルの極致を表す絵画であると評価している。1920年前後にスタイルを確立して以来、パステルカラーを中心とした柔らかな色調を用いてきたローランサンだが、1920年代中頃から、黒色を効果的に活かすようになった。それは、あくまでもパステルカラーをより美しく見せるために、引き立て役として黒色を加えたのである。

シュザンヌ・モロー(青い服)マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1940年

シュザンヌ・モローは、1925年からローランサンの家政婦として働き始め、その後一緒に生活し、ローランサンが亡くなる2年前に養女となった女性である。スザンヌとの二人きりの生活は、大好きな母親ポーリーヌとの二人暮らしに似ていたかも知れない。本作からは穏やかな空気が伝わってくる。ローランサンは1956年6月8日に、心臓発作のため、パリの自宅で息をひきとった。遺志に従い、白い衣装に真っ赤なバラの花と、アポリネール(恋人)から送られてきた手紙の束を抱いて、パリ東部のペーラ=ラシューズ墓地に埋葬された。

シャルリー・デルマス夫人マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1923年

空前の好景気に湧いた1920年代の「狂乱の時代」は、1929年のニュヨークの株価暴落に端を発する世界恐慌によって幕を閉じた。一変して不安と暗い1930年代に入った。もちろん美術市場も急落し、ローランサンも以前のような派手な生活を送ることはできなくなった。しかし、そうした中で、レジオン・ドヌール勲章シュヴェリエの受賞、さらに作品の国家買上げなどといった公の評価は、50歳代を迎えた彼女を流行作家から一流画家へと押し上げた。女優シァルリー・デルマス夫人の肖像画は、この人物の優雅さや優しい表情を引きたてている。また画面右奥には建物が姿をみせ、奥行きをしめし、構図、色彩ともに工夫を凝らした魅力的な肖像画である。

三人の若い女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1953年

ギターを弾く女性を中心に寄り添う三人の女性を描いたものである。三人ともローランサンが生み出した世界の住人である。彼女が追及したものは、一枚の絵の中に「愛らしさ」(私は「カワイイ」と呼びたい)を凝縮することであった。立体的なのっぺりではなく、ふっくらとした立体感を加えることで、柔らかな感触を伝える表現を目指したものであろう。晩年は世間との関わりを極力避け、ひとり静かに制作を続けた。自身の絵画世界を深めるために、もはや他人の芸術は必要がないとはっきり気づいたからであろう。

 

 

マリー・ローランサンは「カワイイ」女性を美しく描く画家と思っていた私に、この「マリー・ローランサン展」は思いがけない、ローランサンの世界を見せてくれた。図録「マリー・ローランサン展  2015年」(府中市美術館)に寄せられた音ゆみ子氏(府中美術館学芸員)の「マリー・ローランサンの歩んだ道」によれば、次のような人生を歩いている。父親のいない母子の生活、素人画家がキュビスムやフォービスムの仲間入り、前衛画家の一人として活躍したこと、アポリネールという絵画評論家との恋愛、その恋人が「モナ・リザ」窃盗事件の容疑で逮捕され、このスキヤンダルから恋人と別れ、第一次大戦の前にドイツの男爵と結婚し、ドイツ国籍となり、夫とスペインに亡命、スパイ容疑を掛けられ、夫は酒に溺れ、夫婦生活が行き詰まり離婚、亡命生活の時代にキュビスムから徐々に逃れて、独自のスタイルへ向かったこと等、すべて新知識であった。ローランサンと言えば「カワイイ」女性を描く、「夢幻的」な女性画家と思い込んでいた、自分の無知に驚いた始末である。やはり個人美術展でないと、深堀りできないことを痛感した。なお、私の教科書である福島繁太郎氏の「近代絵画」では、次のようにマリー・ローランサンをまとめている。「フランスでは、女性画家は一括して民衆画家に近いものとして扱うのが一般的である。(中略)この本能的な女性画家の代表者はマリー・ローランサンである。ローランサンはアカデミーに通ったが大した技術を会得したとは思われず、ピカソやアポリネールのグループに加わって、たちまち仲間の人気者となったが、何れにしても、彼女自身はキュビスム風の絵は描かなかった。」このテキストから、ローランサンを理解していた私には、誠に思いがけない人生劇であった。

 

(本稿は ,図録「マリーローランサン作品集 2017年」、図録「マリー・ローランサン  2015年」(府中美術館)、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「西洋美術史」を参照した)

生誕150年紀念  藤島武二展

藤島武二は1887(慶応3)年9月18日、薩摩藩士藤島賢方の三男として鹿児島市に生まれた。父を早く亡くし、兄2名も西南戦争に従軍し、負傷のため夭折したので、若くして武二が家督を継いだ。小学校を卒業後、佐々木松屋という人物に就いて書を学び、芳州という号を受けた。次いで、学業の傍ら1883(明治16)年頃、平山東岳に四条派の絵を学んだ。書の学習に続いて墨筆の扱いを学んだことになる。上京を許されて、東京で仏蘭西学校に入学する一方で、1885(明治18)年頃に川端玉章に入門し、号を玉堂と改めた。玉章のもとで、色彩表現を身に付け、人物画に向かったようである。同郷の曽山幸彦を知り「玉章に通ふ傍ら、この人に就いて洋画を稽古し始めた」と語っている。家族を養う立場にあった藤島は、教員免許を取得して1893(明治26)年、三重県尋常中学校教諭として三重県津に赴任した。この時期に黒田清輝、久米桂一郎へたびたび長文の手紙を送り、地方で洋画を続けることの困難を切々と訴えている。1896(明治29)年3月東京美術学校に西洋画科が設置されることが決定すると、黒田は、藤島に「学校の助手にならぬか」と手紙を書いて呼び寄せた。この時から藤島は生涯、東京美術学校に奉職し文部官僚としての公的立場を持つ画家として歩むことになった。制作では、1896(明治29)年に黒田が中心となって結成された白馬会に参加し、皆の写生に同行したり、自分で写生旅行に出かけた。この時期の大作として「池畔納涼」がある。

池畔納涼 藤島武二作 油彩・カンヴァス1898(明治31)年 東京芸術大学

白馬会第2回に、習作「池畔納涼」を出品した。木炭習作は4人の群像表現で、構図について辛辣な批評がなされたそうである。本作は、女性2人の対話に簡略化し、外光派の典型的な表現となった。しかし、明度の高い色彩を多用している点では、のちの藤島固有のパレットを先取りしている作品である。津時代に藤島は黒田に作品の批評を仰ぎ、黒田からの指摘に対し、自分でも「気取りすぎる傾きがある」と自覚しながら改められなかったと書き送っている。「気取り」が文学的、ロマン主義的、あるいは夢見るような雰囲気であるならば、そのような藤島の資質は、アール・ヌーヴォーと出会って一層花開いたと言うことができる。初期の代表作である「天平の面影」(重文)との共通点も指摘できる。

婦人と朝顔 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1904(明治37)年 個人蔵

白馬会の第9回展に、藤島は同じモデルによる6点を婦人肖像として出品している。本作品「婦人朝」は、この内の「朝」と考えられる。これらの6点の作品キャプションには「装飾用」との但し書きがあったそうである。通常のタブローとは異なる意味合いを込めていたことがわかる。同年に装丁と口絵を手がけた、与謝野鉄幹、晶子共著の「毒草」の中に、藤島は「朝」、「昼」、「夕」、「夜」の木版挿絵を織りこんでいる。タブローと挿絵の違いはあるものの、一つの場面で一つの抽象概念を表すという象徴的な表現は、所謂「構想画」の一種を試みていたと考えることもできよう。この時期、藤島は「明星」、「文芸界」、「中学世界」、「キング」等の装丁、挿絵、表表紙を手がけ、日本のグラフィック・デザインの先駆者でもあった。

幸ある朝 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1904(明治37)年 個人蔵

1905(明治23)年、藤島は文部省の命を受け絵画研究にために渡欧し、フランスとイタリアで4年間を過ごした。藤島は、海外留学が遅れたが、渡欧した頃には後期印象派やフォーヴィズム等百花繚乱の時代であり、アカデミズムが急速に過去のものとなる時期であった。森田恒之氏は「日本人で印象派の本質を曲がりなりにも理解した画家であり、絵柄ではなく、絵画技法として印象派を理解している」と指摘している。遅れた留学は、藤島に大きなチャンスとなった。この作品は、窓から差し込む光を頼りに、手紙を読む若い女性が描かれている。この主題は西洋においては古くから頻繁に描かれた場景であった。その多くは、愛する人からの便りを読む若い女性を通して、彼女たちの静かな喜びやはにかむ様子の愛らしさを表すものである。この作品は1911(明治44)年の第5回文展に出品された。発表時より、卓越した陽光と朝の空気感の描写から、幸福感に満たされた柔らかな室内の雰囲気が表されており高く評価された。

チョチャラ 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1908~09(明治41~42)年 ブリジストン美術館

本作品は、藤島がイタリアに留学した時代に描かれた肖像画である。明るい色調に大胆な筆致で、画面に軽快さを与えると同時に、どこか感傷的な印象を受ける「チョチャラ」と題されているが、これはかっての「チョチャラ」と呼ばれた地方の出身の女性を指す。現在のローマに在するラツィオ州の南東部にある地方で、フロジノーネを中心都市とする地域である。黄色地に赤い花の刺繍が施されているのだろうか。鮮やかなスカーフを巻いた彼女の装いはチョチャリア出身の花売娘のいでたちである。ちなみに石井拍亭も水彩画に、この花売娘の姿を留めている。(1911年、東京芸術大学)

イタリア婦人像 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1908~09(明治41~42)年 東京芸術大学

留学の機会を得たのは38歳の時で、既に藤島は「装飾風の絵」という自分の方向を定めていた。留学において「異なる側」を知りたいと考え、風景画、肖像画の研究を望んだ。ローマのフランス・アカデミーの院長であったカルロス・デュランに肖像画について作品批評を乞うており、本作のアカデミックな画風にはその助言が活かされていると考えられている。

うつつ 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1913(大正2)年 東京国立近代美術館

藤島の画風は、黒田清輝のもたらした外光派絵画を起点にしながらも、その平明な自然観照をこえ、黒田にはなかった豊かな叙情性を特色としている。それは、明治30年代の浪漫主義文学の隆盛と新たな世紀末美術の紹介に呼応して描かれた「天平の面影」(重文)に代表され、これには耽美的で感覚的な情趣と優美な装飾性が強く示されている。しかし、その後の4年間にわたるフランス、イタリアへの留学によって、その表現は印象派的な視覚を保ちながら、繊細で優美なものから、強直で重厚なものへと一変した。この「うつつ」は、そうした変貌を遂げた藤島が帰国後にはじめて日本で描いた作品である。藤島は自作について、「夢幻的な心境を描いてみたまでであって、若い女がクッションに凭れて憩んでいるポーズで、日本の古代の刺繍をした綸子の着物をつけている。窓辺に柔らかな光線を浴びて、うっとりとしている姿に興味をもった」と語っている。

匂い 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1915(大正14)年 東京国立近代美術館

藤島は1913(大正2)年、学術研究のため30日間の朝鮮出張を命ぜられる。帰国早々の藤島の文章には朝鮮の魅力、女性の色鮮やかな着物の強烈な印象が語られている。この体験が藤島に新たな眼を開かせるきっかけとなったようだ。本図は第9回文展出品作品で、審査委員として文展に出品した最初の作品である。テーブルに置かれた鼻煙壷、花瓶のカーネーションがタイトルの「匂い」を連想させる。表情の乏しさに対して画面構成の巧みさなどが云々された作品であるが、その一番の魅力は何といってもピンクのチャイナドレスであろう。藤島は何着もチャイナドレスを求めており、朝鮮、中国のちがいはあれど、着物の配色、色彩の豊かさに重きをおいているようだ。これが東洋趣味につながっていくのである。

東洋振り 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1924(大正13)年 個人蔵

第5回帝展出品作品で、かつ藤島が作り上げた至高の女性像である。つまり、ルネサンスと東アジアそして日本を融合し得た横向き女性像の嚆矢であり、白眉と言える1点である。藤島自身「これが私の多少画期的な出発になっている」と回想するほど、快心の一作であったのだろう。ルネサンス期の横向きの女性像に強いあこがれを抱き、その翻訳を試みたのは藤島が最初ではない。黒田もルネサンスの横向き女性像に触発されて美しい日本女性へと翻訳している。もちろん翻訳するに当たっては、彼の師のラファエル・コランという辞書を通しながら。そういう意味で、藤島の横向き女性像は、黒田作品に本歌を求めることは可能であろう。藤田は東アジア、ことに本作品では中国というフィルターを通して独自の時代感と異国性を創造している。一連の女性像は、黒田からの飛躍を遂げた、時代の記念碑と言えるのである。

室戸岬遠望 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1935(昭和10)年 泉屋博古館分館

1928(昭和3)年、藤島は、岡田三郎助とともに、昭和天皇即位を祝う宮内庁学問所の油彩画制作の依頼を受ける。以後10年近い歳月をかけて各地を旅し、「日本の国を象徴するに相応しい風景」を海辺や山間部に求めて、様々な場所を描いた。その結果、藤島は風景画の第一人者としての地位を確たるものにした。本作品は他の藤島の海景画に多く見られるような、とりどりの色彩を織り交ぜた海面の表現と異なり、平坦な深い青が大きく配され、浪間や飛来沫の粗い筆触は中央の岩場に集約されている。海面から顔を出す岩は、太い輪郭線と強烈な陰影表現によってかたちづくられ、画面の平面性を強調している。青と白といった色彩の対比が藤島の印象に強く残ったことが読み取れる。

耕到天 藤島武二作 油彩・カンヴァス 1938(昭和13)年 大原美術館

本作品は、完成に数年を要したという藤島晩年の代表作である。自身の解説によると、画題は「耕到天」は、日本を訪れた中国人の言葉、「耕到天是勤勉也」と「耕到空是貧也」に由来する。日中戦争という時勢を鑑みた藤島は、日本人の勤勉さと国土の貧弱さを説いた言葉を画題にして、ここに愛国の意を表現したのである。空まで届く雄大な山肌と畑は色とりどりの面に還元され、画面は極端に単純化されている。事物の本質を結晶化したような簡潔な表現は、藤島が到達した究極の写実を示す。晩年を代表する「到達点」の優作である。

 

この美術展は練馬区立美術館で7月23日から9月18日まで開催され、その後鹿児島、神戸と廻る展覧会である。藤島武二の作品を日本各地の美術館から集めて、よくぞこれだけの「美術展」にしたという印象である。観客も、練馬区近辺の方が多く、年齢もかなり高齢者が目立った。欲を言えば、重要文化財に指定されている「天平の面影」、「黒扇」の2作品の展示が欲しかった。特に「天平の面影」は、明治30年代の浪漫主義の華やかな作品であり、是非この展覧会に出品してもらいたかった。藤島の留学が、他の教綬に較べ遅れたことは、藤島にとっても、日本の画壇にとっても、結果として大きな収穫となった。後期印象派、フォーヴィズムなど、西洋の新潮流に接し、アカデミズムが急速に過去のものとなったことを体感したからである。黒田清輝と並ぶ藤島武二は、終始、東京美術学校を基盤として、恵まれた環境の中で、東洋趣味や風景画の試みなど新分野を開拓した天才でもあった。「美術展は個人展を見ることが大事」という私論を確認する展覧会であった。

 

(本稿は、図録「生誕150年紀念 藤島武二展 2017年」、大原美術館 図録「はじまり、美の饗宴 2016年」、図録 東京国立近代美術館「近代日本の美術 1984年」、図録「神奈川県立近代美術館 コレクション展 絵画Ⅰ」を参照した)

没後90年  萬 鉄五郎展

萬 鉄五郎(よろず てつごろう)は1885(明治18)年に岩手県東和賀群の通称「土沢」に生まれ、1927(昭和2)年、神奈川県高座郡茅ヶ崎に没した。享年41歳。東京美術学校西洋画予科では、アカデミックな美術教育を徹底的に受け、1907年9月には、本科合格者中首位の成績であった。その後も級長などを勤め、美術学校での萬は、真面目な優等生であった。しかし、萬も主観的な表現性の後期印象派やフォービズムに深く感応し、たちまち優等生から「級内の革新派」へ転じていった。本科の卒業制作に「裸体美人」を提出し、日本の洋画に革命的衝撃を与えた。萬は、卒業制作を機に、新しい絵画表現の最前線に立ったことになった。萬 鉄五郎の個人展は、私は初めて見たけれども、図録によれば、1962(昭和37)年の神奈川県立美術館(鎌倉)で紀念すべき「萬 鉄五郎展」が開催された。次いで、1985(昭和56)年に鎌倉、津、仙台の近代美術館で「生誕百年紀念 萬鉄五郎展」が開催された。今から20年前の1997(平成9)年、東京国立近代美術館が「没後70年 萬 鉄五郎展」を開催し、その後京都へ回っている。従って、今回の「没後90年 萬 鉄五郎展」は4回目となる展覧会である。キュビズム、表現主義、未来派、アーバニズムなど、1910年前後に極東の日本に及んだモダニズムの衝撃について重要な展覧会が開催されるたびに、萬 鉄五郎は欠かすことのできない存在として、文化史の文脈でさまざまな検討が加えられてきた。

重要文化財 裸体美人 萬鉄五郎作 油彩・画布1912(明治45)年東京国立近代美術館

美術学校の卒業制作の一つが、この「裸体美人」であり、主席で入学した萬の卒業成績は19人中16位であったそうである。外光派を引っさげて、美術学校教授となった黒田清輝にとっては、到底見逃せない作品だっのだろう。16位という卒業成績は、この「裸体美人」という、日本における後期印象派を受容した最初の作品を見逃すことの出来ない作品だったのだろうと推察する。萬は後に、この作品について「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と述べているように、画面からは炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホを、そして剛直な筆致で単純化された裸婦の表現にマチスを見出すことは容易だろう。ただし、萬は、明治末年からようやく日本に紹介されはじめた彼れらの絵画を単に模倣したのではなかった。後期印象派からフォーヴィズムに至る近代絵画の根底にあって流れる、個の存在の発現という表現主義的な傾向を感知し、その強烈な色彩、意志的な線、単純化されたデフォルメーションなどの表現に自らの個性と、本能的な表現欲を盛り込むことを学び取ったといえよう。鮮やかな赤と緑の対比もさることながら、この裸婦の堂々とした大胆不敵な態度こそ本作の魅力であろう。モデルはよ志夫人であると言われている。さまざまなポーズをする裸婦の素描があるが、その中の一つには本作と似た裸体美人(油彩習作)が展示されていた。デフォルメされた人体、ピンクの雲、萬の特徴的なモチーフがすでにここに描かれている。近代日本洋画の最大傑作であると、私は思う。

自画像(卒業制作)萬鉄五郎作油彩、画布 1911(明治44)年頃東京芸大

萬の卒業制作は「裸体美人」と「自画像」の2点であった。この自画像では黄色を基調とした色彩と厳しい筆致という点で後期印象派的であるものの、全体的には堅実なデッサンに裏打ちされた極めて端正な作品である。本作以降描かれた自画像の中では最も写実的であると言える。その点では東京美術学校時代に培われたデッサン力が最も発揮された油彩画であり、全体に淡い色彩が支配していることから、黒田清輝らによる外光派の影響を見ることができる。萬の卒業制作の評点は72点で、本科卒業生19名中16位であり、入学時に萬が主席であったことを考慮すると、「裸体美人」の後期印象派風の作風が受け入れ難かったのであろう。萬の卒業制作の低い評価は、専ら「裸体美人」によるものと考えられる。

雲のある自画像 萬 鉄五郎作 油彩、画布1912(明治45・大正元)頃大原美術館

幼少期から日本画に親しんだ萬は、1903年に中学進学のため岩手県から上京、在学中は1905年に白馬会第二洋画研究会に通い始めた。中学を卒業後、かねて参禅していた禅師の布教活動に加わってアメリカに渡り、この地で絵画を学ぼうと計画した。しかし、諦めて半年ほどで帰国し、翌1907年に東京美術学校西洋画予備科に入学した。アプサント会に参加するなど在学中から活躍した萬は、1912年に卒業制作として「裸体美人」を発表し、話題になった。同年、萬は岸田劉生らとフュウザン会を結成した。生涯を通じて多数の自画像を残した萬は、この1912年前後、画家としての自己を模索したのか、印象派、後期印象派、ヴァン・ゴッホや未来派など、きわめて多様な様式で集中的に自らを描いた。本作品も、そうした一連の作品自画像に属する。力強い筆触、補色の関係にある赤と緑の雲を青地に浮かべた強烈な色彩と比べて、萬の面持ちは比較的穏やかである。「裸体美人」にもあった雲は、自我の探究という文脈でいっそう暗示的効果をあげている。

太陽と道 萬 鉄五郎作 油彩、板 1912(明治45・大正元年)頃 萬鉄五郎紀念美術館

太陽をモチーフに、ギラギラした光を放射線状に描いた作品であり、第1回フュウザン会に出展した作品である。似たような作品として「太陽の麦畑」、「煙突のある風景」(所在不明)等がある。後期印象派の影響を受けていると思われる。

田園風景 萬 鉄五郎作 1912(明治45、大正元年)頃 神奈川県立美術館

フォーヴィズム的な色彩からキュビズム的な造形表現へと転換していくなかに土俗性も加わり、うねるような筆使いは自然そのものを鷲づかみにする力強さがある。明治末にハインド著「後期印象派」が日本に紹介されると多くの画家がこれに反応した。萬もその一人であり、第1回フュウザン会に出品した「田園風景」は、少なからずこの本からの影響を感じさせる。この作品では、赤と緑が激しい補色の対比がやや後退し、色味を抑えた、動きのある筆致が特徴的である。西洋絵画の刺激を受けつつも、萬の資質が発揮された、湿度を帯びた日本の田園風景となっている。なお「田園風景」は、エッチングでも制作されている。

日傘の裸婦 萬 鉄五郎作 油彩・画布 1913(大正2)年神奈川県立美術館

1913(大正2)年の第2回フゥウザン会展に「エチユード」というタイトルで出品された作品である。画面下に大正2年とあるが、美術学校で描かれた初期の素描に同じ椅子がみられることから、在籍中であったのではないかとも思われるが、美術学校で描き始められたと考えられる。裸婦に傘を持たせるという発想は萬自身によるもので、「傘の赤い光線が肉体に影響するところが愉快だと語っていた」という。広がる傘が頭部の大きさを一層強調させ、長い胴部と短い脚部という、モデルの日本女性の体型の悪さを際立たせている。晩年の「水着姿」でも傘を持つ構図が用いられていることから「傘を持つ構図」に萬が強いこだわりを持っていたことがうかがい知れる。

丘のみち萬 鉄五郎作 油彩、画布1918(大正7)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

1914(大正3)年9月に、萬は妻と二人の子供を連れて郷里・岩手県土沢へ帰る。その理由を「段々制作にうえる事になった」と記している。6月に長男が誕生して、更に生活苦に悩まされ、製作に専念できずに満たされない描くことへの欲求、画家としての危機感があったのだろう。1年4カ月余りの帰郷に区切りをつけた萬は、1916(大正5)年1月に家族と共に再び東京に戻った。土沢から上京した萬は、その後数年にわたり故郷の風景を描く。土沢での写生を通して、移ろう四季の中で変化する土地の息吹を体感し自身に記憶させた萬は、遠く離れた東京で眼前にない過去の風景を反芻し、そこにキビュズムや表現主義など異なる様式を選択しながら、造形の実験を押し進めたのだろう。判然としない画面だが、郷里の人々には土沢の館山城周辺を描いたものに写るようだ。さらにここにはおなじく、「かなきり声の風景」に描かれた場所でもある。その土地の生活者のみが共感できるような、まさに萬が咀嚼した土沢の風景になろう。

裸婦 萬 鉄五郎作 油彩、画布 1918(大正7)年 神奈川県立美術館

小さい脚部から大きな頭部にむかって積み上げていくような人体の捉え方は、キュビズム風の作品「裸婦」にも通じるものである。この「裸婦」と「日傘の裸婦」には、似たような傾向が見られる。同じような裸婦のスケッチが多数のこされているが、以前描いたスケッチやタブロウーをもとに繰り返しや再構成を経て新たな表現へと向かう制作スタイルは、萬の特徴的な手法の一つである。しかし、これは、今回のような個人展覧会で、スケッチや習作など多数展示されたことで理解できることで、単独の絵画を見ているだけでは思いつかない手法である。

土沢時代の水墨画 筏の図 萬鉄五郎作紙本墨画 1914~16(大正3~5)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代に描かれた水墨画は「苔庵」(たいあん)の落款と朱文印を使った作と思われるので、郷里に集中的に残っている。「筏の図」は「材木を流す図」と対幅の大作で、郷里の風景を南画風に描いたものである。米点(べいてん)の手法で水墨画の装いを見せているものの、遠近感を意識した洋画的な描写が認められ、運筆にも稚拙さが残り、南画としては荒削りの感は否めない。依頼されて描いた地元に伝わっており、同地を描いた類似する風景スケッチが存在することから、それをもとに作画した可能性が高い。萬 鉄五郎は、洋画家でありながら、水墨画の作品も多く、洋画家としては珍しく水墨画を描く画家であることを、今回の展覧会で意識した。なお、土沢時代を水墨画と呼び、神奈川県茅ケ崎時代の作品を南画と言って区別していることも、今回知った。

茅ケ崎時代の南画 松林 萬 鉄五郎作 1922(大正11)年 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代の墨画を水墨画、茅ケ崎時代の墨画を南画と呼んで区別するそうである。「南画の頂点」を1922(大正11)年の作品群だと陰理哲郎氏は判断しているそうである。理由は、萬が、南画に対する活動をエネルギュシュに展開したからである。確かに以前の作と比べると、柔軟闊達な筆墨と澱みの無い運筆に加え、詩的な画面構成に各段の差が認められる。表現主義的な萬独自のフォルムを取り入れられ、これまでにない南画空間を創出している。1922年より後年の作と思われるものに、大らかな空気感や宇宙的な広がりを持った作品群が存在する。この「松林」が一つの例である。この時代の南画の数は多い。

男 萬 鉄五郎作 1925(大正14)年 木炭、紙 岩手県立美術館

萬によると「男」は、もともと1920(大正9)年に着手したが、散々手こずった末に制作を放棄し、「今度或る充実を感じて来たので一気にかき上げた」ものだと言っている。おそらく彼にとって重要だったのは画面内で大きな破綻なく、筆触の勢いも失うことなしに、この大作を「一気にかき上げた」ことではなかっただろうか。そのような解釈に立てば、本作は描画プロセスの点で南画に最も近づいた作品と位置づけることもできそうである。

水着姿 萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

絵の表面化、様式化、装飾化が進んでいる。黄と緑と茶と青とが照応しあい、曲線が生む画面全体のゆらめきと、開いた傘の円形が対応している。薄塗りである。これまで描いてきた人物画と異なっている。あつらえた水着をつけたモデルを写生して、写真屋の背景幕のような海と合成している。油絵で和風の意匠を表す試みであろうか。「日傘と裸婦」と同様の、傘を差す女性像というモチーフも、ひどく突拍子もないもので、それ自体で萬的であると言えよう。

裸婦(宝珠をもつ人)萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

最晩年の奇妙な作品が出現した。最大の大作(100号)の一つであり、未完成である。(卒業制作の「裸体美人」も100号であった)巨人のような裸婦が右の掌の上に宝珠をかざしている。そのため、仏像を想起させて、故郷の成島の兜跋毘沙門天像と結びつける論がある。考え方としては魅力的である。病の長女登美子の回復を願って描き、叶わずに未完となってしまったという話もある。信仰と病が合わさって、さらに説得的である。しかし、これで作画の理由はわかったろうか。わからない。謎めいた絵ばかりが多い萬の中の、最大の謎作品といえるであろう。「裸体美人」で生じた謎の裸体研究が、「裸婦」(宝珠を持つ人)で閉じ、謎の円環を形成してしまった。

 

萬 鉄五郎の作品との出会いは、東京近代美術館の「裸体美人」「もたれて立つ人」、神奈川県立近代美術館の「日傘の裸婦」、「田園風景」、「裸婦」の5点であった。何れも傑作であり、特に「裸体美人」は、日本における後期印象派のトバ口となる傑作であり、記憶に強く残る作品であった。この度「没後 90年 萬鉄五郎展」が、神奈川県葉山館で開催されるのを聞いて、是非観たいと思い、かなりの時間をかけて葉山館まで日帰りで往復した。誠に充実した展覧会であった。いかに萬 鉄五郎に対し、生半可な知識であり、水墨画や南画があれほど沢山作られているとは思ってもいなかった。萬は、日本の洋画の近代化にもっとも貢献した人物であることを、しかも画家歴はせいぜい20年程度であったこと等を再確認した。なお、土方定一氏は「日本の近代美術」のなかで、萬鉄五郎氏を「世界的巨匠」とまで賛美している。この本は、私の古典であり、100回は読んでいる筈であるが、全く見落としていた。不明を恥じる。

 

(本稿は、図録「没後90年 萬鉄五郎展 2017年」、東京国立近代美術館「名品選」、図録「近代日本の美術」、神奈川県立近代美術館 図録「コレクション選 2001年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

芸大コレクション展  前期

東京芸術大学は、今年、前身である東京美術学校の設立から130周年を迎えた。官立の美術学校としては、明治9年(1876)に開校し明治16年(1883)に廃校となった工部省所管の工部美術学校があったが、それは文明開化の時代を象徴する「西洋技術の獲得」という一過性の役割を持ったものであった。それに対して明治20年(1887)に設置された東京美術学校は、近代国家の形成期にあたって文明国の世界表準を備えるため、美術教育を奨励する新しい国家政策の柱として期待された文部省所管の機関である。東京美術学校の創設、開佼に深く尽力した岡倉覚三(天心)は、学校運営のなかに参考美術品の蒐集、学校関連品の収蔵という、コレクションの蒐集と活用を組み込んだ教育方針を草案した。この方針に沿って、初期の東京美術学校では生徒が制作の参考とするために有数の古美術品を購入している。今日、国宝、重要文化財などの指定を受けている名品の数々が所蔵されているのは、この草創期の蒐集実績によるところが大きい。        芸大の保有する芸大コレクションは、現在およそ2万9千点に及ぶものである。この度の、東京芸術大学130周年記念ー「芸大コレクション展」-は、芸大コレクションはどうあるべきか、今後どうするのか等、様々な問題を素直に展示に反映させることによって、この大学美術館の存在理由を明らかにしていきたいと考えた展覧会である。(吉田亮氏の見解)                      これだけ大きな展覧会であるが、入場者数は思いがけない少ない人数であった。(7月14日現在)。例えば、グッズ売り場で、図録や写真を購入していたのは、私1人であった。これだけの名品を揃え、高校の日本史では必ず目にする名品の数々を、何故、もっと多くの人が見学しないのか?実に不思議に思う。西洋美術館の「アルチンボルド展」が大入りであるのに対し、何故、日本の古代及び近代美術の名品を拝観しないのだろうか?1回で800円、2回券1300円(2期展示があるため)と割安で、国宝、重要文化財が多数拝観できるチャンスである。是非、拝観して頂きたい。近代日本の西洋画の重要文化財指定作品は20件だそうである。その中の4点を、この展覧会で見ることが出来る。美術愛好家でなくても、話題豊富な展覧会である。展覧会の構成は次のようになっている。

テーマ編                                 名品編 平櫛田中コレクション 卒業制作  作家の原点  現代作家の若き日の自画像 真似から学ぶ、比べて学ぶ  石膏原型一挙公開  芸大コレクションの修復

アーカイブ編                               藤田嗣治資料   記録と制作ーガラス乾板・紙焼き写真から見る東京美術学校

第1回は「名品編」をまず、見て行く。

国宝 絵因果経 紙本彩色墨書 26.5×1100.5cm奈良時代(8世紀)

絵因果経は仏伝経典の一つで、釈迦の前生における善行から説き起こすが、主として釈迦の誕生から太子時代の事績、続いて出家、山中の苦行、降魔成道、初転法輪を述べ、最後に太子の出家入団に至るまでを叙し、多くの仏教経典と同様に釈迦の前半生を取り扱っている。

重要文化財  菩薩立像  銅像 高 43.4cm  白鳳時代(7世紀)

法隆寺献納宝物48体のほかにも、各地の寺に飛鳥、白鵬時代の小金銅仏が伝わっている。これらの小金銅仏は、古代の人々の念持仏(ねんじぶつ)として制作されたものであろう。30~40cm程度の大きさの像が多いこと、朝夕祈りを捧げるのにふさわしい、親しみやすいお顔つきに作られている点も、このことを訟している。本作は、端正な白鳳様式をみせる金銅の菩薩像である。頭部の三面宝冠、胸から腰を飾る瓔珞、翻る天衣等華やかに装飾されている。お寺の名前が不明なのは、廃仏毀釈の時代に、学校が入手したためでは無いだろうか?

美人(花魁) 高橋由一作  カンヴァス・油彩    明治5年(1872)

作品の中に署名、年紀は無いが、裏には「長崎/美人油画 高橋由一筆」とある。明治5年作については異論が多々あったが、現在は明治5年とされている。新吉原の花魁・こ稲を描いたものである。わが国最初期の油彩による肖像画である。技術的な未熟さに関わらず、写実への意欲がみなぎる作品である。

重要文化財  鮭 高橋由一作  紙・油彩   明治10年頃(1877)頃

明治30年(1897)5月付で「鮭」は東京芸術大学資料館に収蔵された。納入者は小林万吾氏である。現在のように表具仕立てになったのは昭和10年(1935)頃であるが、修理記録は残されていない。修理される以前は、鮭を描いた部分以外の紙には波状の襞ができていた。高橋由一の代表作であるが、この作品には署名・年紀がない。また「鮭」と題する作品は、少なくとも3作ある。1994年の「高橋由一展」で3作が並べられたことは記憶している。比較すれば、本作が一番優れている。ざっくりとしたタッチで、荒縄、鱗、ヒレ、赤身などそれぞれの質感を描き別ける。その迫真性は近代日本洋画の幕開けを告げる作品であった。

重要文化財靴屋の親爺 原田直次郎作カンヴァス・油作 明治19年(1886)

灰色のバックの前に、仕事着を着てやや斜めに身構えた靴屋の親爺の半身を力強い写実的な手法で描き出した力作である。禿げ上がった額、深く落ち窪んだ眼、豊かな髭のなかにしっかりと結ばれた唇等、相貌の個性的特徴を余すところなく捉えられ、かなりコントラストの強い明暗の効果によって、ほとんどドラマチックなまでの表現力を見せている。この作者が、森鴎外の「うたかたの記」のなかで、日本人画家巨勢(こせ)として登場してくる原田直次郎で、この作品は明治19年(1886)、ドイツ留学中のものである。

重要文化財 収獲 浅井忠作 カンヴァス・油彩 明治23年(1890)

明治23年(1890)の第2回明治美術会展に出品されたもので、浅井忠代表的名作である。明るい日ざしを受けながら取り入れの作業にいそしむ農家の人々を、褐色を主調とした柔らかい色調のなかに落ち着いた抒情味を湛えながら見事に描き出している。ここには何とかして対象に肉薄しようとする高橋由一のあのドラマチックな緊張感はもはや見られないが、その代わり、的確な空間構成の中に、風景も、人物も、さらには空気や光までをも巧みに捉えて、一つのまとまりある画面を作りだしいるところは、空間を統一的に把握する成熟した眼の存在を物語っている。この作品によって、はじめて日本人の体質に根ざした写実主義が生まれたと言われる。

婦人像(厨房) 黒田清輝作 カンヴァス・油彩  明治25年(1892)

本作はパリ郊外のグレーシー=シュエル・ロワンにて豚肉屋の娘マリア・ビヨーをモデルに描かれた作品である。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめている女性は、男物の上着を羽織り、画面左奥上から差し込むやわらかな逆光に照らされている。黒田はグレーでマリアの姉の家に投宿しており、本作に描かれているのはその家の台所であると見られている。その前の作品である「読書」が、わざわざ衣装をそろえて描いたのに較べて質素な作業衣着風の衣服を身に付けていることからも、あるいはそうした生活の中から自然に生まれた作品かも知れない。黒田は、秋の景を描いた油彩1枚とともにサロンに提出したが、作品は2点とも落選した。黒田は「まことにびしびなことにてめんもないことでございます」と養母に書簡を送っている。しかし、一方で師であるラファエル・コランが本作を評価したこともあってか、同年8月に日本へ手紙を送った際には「どこに出してもまた人がなんとゆってもはずかしはないつもりです」と養母に書き送っている。私は名品と思う。

重要文化財 悲母観音 狩野芳崖作  紙本彩色 明治20年(1887)

芳崖の絶筆となった「悲母観音」は、晩年を芳崖がフェノロサと共に挑んできた日本画革新運動の終結点であると同時に、次世代に受け継がれた近代日本画の出発点として位置付けることができる。狩野芳崖は、かの桃山時代以降の狩野家を継ぐ日本画の大家であり、下図を見ると(これも重文)、逐次狩野派から近代日本画家へ転身する様が見て取れる。「日本画再生の原点」とも呼ぶべき大作である。観音と童子の組み合わせは伝統的なものだが、少なくとも空中で球体に包まれる嬰児のポーズは一般的な仏画には見られない。下図を重ねながら芳崖が創造したものである。芳崖はもはや仏画を描こうとしたのではなく、母の子を思う愛という普遍的な主題を絵画表現したものであり、奥行きや空間表現とも相まって、近代的な絵画の在り様を示している。

白頭  前田青邨作  紙本淡彩   昭和36年(1961)

前田青邨は岐阜県生まれ。上京して梶田半古の塾に入る。1914年再興日本美術院の同人となる。1929年「洞窟の頼朝」を発表・1935年帝室技芸員。1951年東京芸術大学日本画科教授となる。法隆寺金堂壁画の模写事業に尽力した。本作は、喜寿を迎える画家の自画像である。青邨は鏡を見つめるのではなく、制作に打ち込む自分の姿を客観的に捉えることで自己の肖像画にした。

径(みち) 小倉遊亀作  板・彩色    昭和41年(1966)

滋賀県に生まれる。旧姓溝上。奈良女子高等師範学校卒業後、教職の傍ら安田靫彦に入門、1932年女性で初めての再興日本美術院同人となる。1961年「母子」で日本芸術院賞を受賞。1973年勲三等瑞宝章。1976年日本学芸員会員。1980年文化勲章を受章。                      本作は、明るく、温かく、たのしいもの。遊亀はふと思い浮かんだその印象を絵画化するために、女性、子供、犬で構想を練り、本作の構図に至った。見るだけで楽しくなる画面である。名品として推奨したい。

 

第1回は「名品」の部にすべてを割いた。まさに日本の美術史(通常高校で学ぶ日本史)の教科書を見る思いで、日本の近代洋画、近代日本画を生み出すための苦難の時代を物語るものである。本稿とは離れるが、資料の部に「藤田嗣治資料」が含まれていることに違和感を覚えた。勿論、藤田氏は芸術大学卒業であり、ここに資料が存在することには異論がないが、晩年にはフランス国籍を得て、日本に帰国する意図は全くなかった。その藤田氏が何故、大量の資料を芸大に残したのか?芸大に寄贈された資料は、5,808件に及び膨大な資料であるが、それは夫人君代氏からの寄贈であった。記録魔とも呼びたくなる、精密な資料である。出展しているのは数点であつたが、私が一番知りたい戦後の日本の「戦犯問題」に関する重要資料を見つけ出したのである。書類の名称は、不確かであるが「確認書」と書いてあったように記憶する。占領軍に対して、自分(藤田氏)が戦犯に該当しないことの証明を求める書類であり、占領軍より、「戦犯に該当しない」との回答書であった。藤田氏は1947年(昭和22年)の2月6日の日記に「追放なし」と書いている。更に翌2月7日の日記には「お祝いする 赤飯たく」と記している。(図録181ページ)図録の写真によれば、昭和24年3月2日付のビザには、1947年4月14日付指令に基いて「連合国最高司令官により許可された日本国民であるに相違ないことを証明する」とされ、日本国外務大臣吉田茂が捺印している。戦争画に対する世間の評判から(実は日本人画家の嫉妬)、藤田氏は戦犯に指定されて、極刑にされるとの噂が流れたことがあった。同僚の荻巣氏が渡仏することを羨んでいた時であるだけに、さぞうれしかっただろうと思う。同年5月29日の日記には、「仏領事館より仏へ渡航許可外務省より来れりとて出頭せよ通知うれしくて君代涙す」とある。藤田氏の心情が心から理解出来る資料であった。これも本展覧会を観た余禄である。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション パンドラの箱が開いた」、図録「ダブルインパクト 明治ニッポンの美 2015年」、図録「黒田清輝 日本近代絵画の巨匠2016年」、図録「明治100年 高橋由一展  1994年」、現色日本の美術全30巻のうち「第27巻 近代の洋画」を参照した)