出雲と大和ー日本書記成立1300年特別展(1)

令和2年(2010年)は、わが国最古の正史「日本書記」が編集された養老4年(720)から1300年となる記念すべき年である。これに先立ち和銅5年(712)に撰上された「古事記」は8年前の平成24年(2012年)に1300年を迎えている。この古い歴史書(略して記紀と呼ぶ)は、律令国家が自らのアイデンティティを主張した史書であった。私は、昭和27年に飛鳥地方をK君と、共に歩き、日本書記を読む必要に迫れれ、当時岩波文庫に納められていた「日本書記」の岩波文庫に納められていた「日本書記」の3巻を古本屋で求めて、熱心に読んだ。その編者は黒板勝美氏(元東大教授、右翼学者として、戦後は東大を離れ、自営隊などで日本歴史を教えていたと言われる)であり、上巻は神話、中巻は神武天皇より宣化天皇まで、下巻は欽明天皇より持統天皇までの日本の古代史を綴っている。どこまでが神話で、どこから歴史なのか、論者によって、様々な意見がある。私は都が飛鳥の地に移った飛鳥時代、藤原京に移った藤原時代(古美術の上では白鳳時代と呼ばれる時代である)を熱心に読みこみ、飛鳥、藤原京を歩き回った記憶が残る。日本書記には「国譲り神話」が出てくる。まとめれば、出雲の大国主神は、皇祖神の天津神に芦原中国の支配権を穣る代わりに、自らを出雲の高い神殿に祭ってもらうことになった。そして「日本書記」神代上、第八段では出雲の簸(ひ)の川上に振ってきた天照大御神の弟スサノウのミコトの末裔として位置づけられたいる。出雲神話と呼ばれる説話・伝承のなかでは「出雲風土記」の「国引き神話」が豊かな想像力で在地社会の国造りの息吹を伝えている。在地の國土創成神として「八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)は、「古事記」「日本書記」には登場しない。しかし「出雲風土記」では、出雲の国土を創成した八束水臣津野命が国引きを行って今の島根半島の土地を引き寄せて出雲の国土を拡張した姿が描かれている。

国宝  日本書記 神代巻(幹玄本) 鎌倉時代 奈良・天理大学

「日本書記」の写本は,古本系統と卜部系統に分類される。乾玄本は、巻末の奥書に乾玄2年卜部兼夏書写とある。ト部家本系統として、また神代巻写本として年紀が確認できるものとしては、弘安9年(1286)の裏書の弘安本に次いで古い。神代巻の第九段一書第二には、出雲と大和を象徴する「顕露之事」(あらわのこと)と「幽事」(かくれたること)(神事)の分任について記されている。

金輪御造営指図(かなわごぞうえいさしず) 一巻 紙本着色 島根・千家家

往古の出雲大社の平面図とされるもの。本殿は長さ一町、(約109メートル)の引橋(階段)を有し、巨木3本を束ねて一組とする一丈(約3メートル)柱9本で支えられ、壮大な威容を誇った姿で描かれる。従来は図面として信憑性に疑いがもたれていたが、平成12年(2000)、出雲大社境内遺跡より、図面同様に木材3本を1組として柱が発見されたことを契機に再評価されることとなった。

重文 宇豆柱(うづはしら) 3本1組 島根・出雲大社境内遺跡出土 木製 鎌倉時代

平成12年(2000年)に発掘調査により出土した。出雲大社大型本殿遺構の柱材。スギの大木3本をあわせて一つの柱とする。大社造を構成する9ケ所の柱のうち、正面中央の棟持材にあたる宇豆柱と呼ばれる。柱材、柱穴の規模が比類ない大きさにあるだけでなく、3本の材を束ねる柱の構造が古代出雲大社本殿の平面図として出雲大社宮司千家国造家に伝わる平面図の「金倫御造営指図」としての表現と一致することが注目された。鎌倉時代の法治2年(1248)に遷宮された本殿の柱材である可能性が高い。樹齢200年以下の成長の早いスギ材であった。改築のたびに大材をを用いて造営され続けた出雲大社の高層性を端的に示す主材である。今回の展覧会では、一番最初に、この宇津柱が出てくるため、非常に来場者を驚かす。私は、出雲大社で拝観したことがある。

重分 心御柱(しんみはしら)出雲大社境内出土 鎌倉時代 宝治2年(1248)

3本の内の1本。平成12年(2000)に出雲大社の地下1.3メートルから出土した、大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて、一つの柱とする。大型本殿遺構の柱材である。杉の木材3本を束ねて一つの柱とする。大社造りを構成する9ケ所の橋のうち3ケ所が発掘確認されており、本殿中心に位置するのが心柱である。金輪御造営指図と一致することでも注目される。私は、この心御柱を見るのは初めてである。今回の展覧会では宇津柱、次に新御柱が並び、度肝を抜かれる。

模型 出雲大社本殿 一基 木製 全長1325.0cm  出雲市

株式会社大林組の古代出雲大社復元図をもとに、松江工業高校の生徒14人が製作した十分の一スケールの本殿模型である。復元図は、心御柱の宇津柱が発掘調査で発見された平成12年より以前に、京都大学名誉教授の福山敏男氏(故人)の考えをもとに、同氏の監修により作成された。金輪御造営指図をもとに、天禄元年(970)に編纂された口遊(くちづさみ)の記述に見られる大きな建屋の順位「雲太・京二・京三」(出雲大社、東大寺大仏殿、平安京大極殿)の記述と社伝などから、標高を16条(約48メートル)、引橋を長さ一町(約109メートル)としている。想定している時代は十世紀(平安時代)で、展示してある鎌倉時代の心御柱、宇豆柱の出土遺構から想定される本殿規模とは異なっている。しかし、現状では古(いにしえ)の出雲大社本殿の姿は不明なままであり、その巨大性を議論するに相応しい模型である。

重文 銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)、出雲市 眞名井遺跡出土 弥生時代(前2~前1世紀) 出雲大社

出雲大社に伝わる銅戈と勾玉・中細形銅矛b類に分類される銅戈は、樋内に綾杉文を配し、頸部(なごぶ)にかすかな鉤形文を配し、頸部にかすかに鉤形文が中出される。勾玉は新潟県糸魚川産と考えられる硬玉性の優品で、頭部の孔は片面穿孔である。これは寛文年度造営に際し、眞名井神神舎で出土したものである可能性が高い。

重文 手斧(ちょうな)

出雲大社の法治度本殿遺構に伴って出土した鉄製の手斧。宇津柱の材底付近から、柄を抜いて出土した。立柱時の儀礼的に使用し、意図的に埋葬されたものと考えられる。

重文 鎹(かすがい) 三個 鉄製 最長 25.5cm

重文 帯状金具 一個 鉄製  長さ 22.0cm

重文 釘  五個 鉄製 最長 36.2cm

出雲大社の法治年度本殿に使用されたと見られる建築金具の一部である。本殿遺構の発掘調査で出土した。

出雲大社に関わる、器物、道具類であり、出雲大社の成立、立て直しに係る道具類を多く採用した。次回も出雲大社に関わる記事が多くなると思う。」

(本稿は、図録「日本書記成立1300年特別展 出雲と大和  2020年」、図録「聖地の至宝  出雲   2012年」、岩波文庫「日本書記3冊」を参照した)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(3)

シャガールは1887年7月7日、白ロシア共和国(現ベラルーシ共和国)の貧しい町ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。敬虔な宗教的雰囲気と、動物達に囲まれた素朴な日常とが交錯する故郷での生活は、その後のシャガールの作品の全ての源泉となった。シャガールがパリに来たのは1910年前後とされる。現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを挽き付け、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。19世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他共に認める不動の地位を築き上げ、それが20世紀の初頭に華やかな実りをもたらした。事実、シャガールと前後してパリにやってきた異邦人画家は、歴史に名を残すほどの大家に限っても、同じロシアから来たスーチンを始め、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリーニ、ブルガリアのバスキン、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は「素朴派」と同じように、歴史家によって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。従って、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーを込めて呼ぶ言葉であったに過ぎない。「エコールド・パリ」は「エコール」の厳しい体系よりも「パリ」の懐かしさをいっそう強く思い出させる名称なのである。

モンマルトルのミュレ通り モーリス・ユトリロ作 1911年頃 油彩・カンヴァス

細い路地の向こうに望むものは、いまやモンマルトルのランドマークとなったサクレ=クール寺院。現在のように観光地化されていないモンマルトルの路地には道行く人も少なく、雨戸は閉じられ、ひっそとした趣である。この作品を制作した1911年頃は、のちに「白の時代」と呼ばれるユトリロの画業における最盛期である。本作でも、屋根のレンガ色のほか、建物の壁の白い冬のパリを連想させる曇天の鉛色など、モノトーンを中心とした色彩が画面の大部分を占めている。定規で引いたかのようにまっすぐにのびるミュレ通りの奥には、現在は「モーリス・ユトリロ通り」と呼ばれ、サクレ=クール寺院へと続く長い階段のある通りがのびている。

五人の奏者 マリー・ローランサン作 1935年 油彩・カンヴァス

ローランサンはしばし群像を描いているが、5人以上の人物の組み合わせた作品はそう多くない。本作では、庭園のような場所を背景として音楽を奏でる5人の女性たちを配している。左から順に、花、ギター、トランペット、フルートを持った女性たちが並び、中央の女性は何も手にせず横たわっている。はだけた衣や官能的なポーズは神話画における女神をほうふつとさせ、背景ののどかな自然風景と相まって、18世紀のロココ趣味を思わせる牧歌的な情景となっている。

座る子供 キース・ヴァン・ドンゲン作 1925年 油彩・カンヴァス

ヴァン・ドンゲンは社交界の人々を描いた肖像画で人気を博したが、本作は良く知られた華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色づかいを茶色の華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色使いを茶色の背景が緩和し、画面に落ち着きが生まれ、大人びた子供の雰囲気に調和している。モデルはフランスで映画俳優兼衣装デザイナーとして活躍したマルク・ドゥルニッツで、当時まだ4歳であった。幼児を描いた大型の肖像画は、この画家には珍しく、その知られざる一面を伝える作品である。

背中を向けた裸婦 モイーズ・キスリング作 1949年 油彩・カンヴァス

モイーズ・キスリングは、1891年、ポーランド南部のクラクに生まれた。本作で目を引くのは、背中から腰にかけて量感を見事に表す、繊細な陰影で、明るい色で平坦に描かれた顔と対照をなしている。また部屋の角を背にして座るのは、キスリングの定番の構図で、壁に伸びた影がモデルの輪郭を浮かび上がらせる役割を果たしている。頭にターバンを巻き、背中を向ける画中の女性は、新古典主義の巨匠、ジャン=ドミニク・アングルによる「ヴァルパンソンの浴女」を想起させる。しかし、いり直接的に影響を与えたのは、パリで親交の芸術家、マン・レイが制作したアングルヘのオマージュ「アングルのヴァイオリン」(1924年)であろう。「アングルのヴァイオリン」のモデルは、モンパルナスで歌手兼女優として活躍し、キキという愛称で親しまれた女性で、キスリングをはじめアメデイオ・モディリティアーニや藤田嗣治らのモデルも務めた。

逆さ世界のヴァイオリン弾き マルク・シャガール作 1929年 油彩・カンヴァス

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代、シャガールにとって、人生の中で最も平穏で安定した時代であった。画家は時折、キャンヴァスを回転させて描くことで、作品にっ幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間に生み出されたキャンヴァスの中で故郷のヴィテブスクの風景も歌いだし踊り出しているようだ。

バラ色の肘掛椅子 マルク・シャガール作 1930年 油彩・カンヴァス

1930年代の夏から秋にかけて、シャガールは家族と共に南仏のペイラ・カヴァで過ごした。地中海から内陸へ向かって20数kmの距離にあるこの山間の町は、風光明媚な保養地として知られ、数多くの著名人が過ごしている。このペイラ・カヴァでシャガールは何点かの作品を残したが、いずれもこの作同様に画面中央に大きく窓を配置し、そこからはるかに望む山並みの風景を描き出している。窓の外に広がる風景は写実的に、誇張も歪曲もなく淡々と描かれ、手前の室内もほぼ同様に表現されるのだが、その空間に静かに異質な侵入者が紛れ込んでくる。抱き合う男女は他のシャガールの作品同様、画家とその妻ベラの姿を重ねているのだろうが、創造の女神である妻から霊感うぃ得て、画家は今カンヴァスに向かおうとしているように見える。

夢 マルク・シャガール作 1939~44年 油彩・カンヴァス

5年間にわたって描かれた作品だが、第二次世界大戦をはさむ1930年代後半から40年代半ばの時期に、同様に長期間にわたって制作された作品が少なくない。「夢」と題されたこの作品が完成したのはアメリカ亡命中の44年、この9月2日、妻のバラが急逝している。生涯の恋人であり、創作の霊感を与えてくれたミューズでもあったベラを失ったシャガールは、しばらく鉛筆を取ることも叶わなかったが、その悲しみから立ち直る中で完成した作品と見て間違いないであろう。制作を開始した39年、シャガール家は次第に近づいてくる戦争の足音に不安を覚えつつ、パリを離れてフランス中部の田舎町に転居していた。そして2年後のは反ユダヤ法の採択とフランス国籍の剥奪という危機的な状況に直面し、ついにフランスを離れアメリカへの亡命の道を選んでいる。その折携えた作品群の中に、この「夢」はあったのだろう。そして妻の死という悲劇に直面した後で、再び取り上げられ、現在の姿になったものと推測される。

モンマルトルの恋人たち マルク・シャガール作 1953年 油彩・カンヴァス

シャガールにとってはフランスは「第二の故郷」であり、自らも認めるようにパリは彼の芸術を育んだ大切な場所であったが、なぜかその作品の中にこの街が登場することは稀であった。画中に繰り返し描かれるのは、遠い故郷のヴィデブスクの古ぼけた家並みばかりである。そこには当然、彼の戦略的な意図が含まれている。多くの画家が描きつくし、よく知られたパリの街並みではなく、遠いロシアの田舎町が舞台であれば、人が空を飛び、動物と語らう奇跡が繰り広げられても不思議ではない。「超現実的」と評された作品に対して、自らはリアリストであり、描かれた世界は生々しい現実そのものに他ならないと強弁できたのも、フランス人は誰も知らぬ遥かな故郷が舞台であればこそである。この状況が変化し、シャガールが集中的にパリを描くようになるのは第二次大戦後の事である。アメリカ亡命を終えて、画家がフランスに戻ったのは1948年の事だが、それ以前にも何度か短期間、彼は終戦後のフランスを訪れている。

翼のある馬 マルク・シャガール作 1962年 油彩・カンヴァス

翼を持つ馬、と言えばギリシャ神話に登場するペガサスを先ず思い浮かべるが、ここに描かれているのはイスラム世界を舞台にした物語「アラビアン・ナイト」の一場面である。戦争中の反ユダヤ主義を逃れてアメリカに亡命していた1946年、シャガールは同じくヨーロッパから亡命していたドイツ系ユダヤ人の出版業者クルト・ヴォルフの依頼を受けて「アラビアン・ナイト」の版画集に取り組んだ。長大な叙事詩から選ばれた四つの物語をテーマに、13枚のグワッシュが描かれ、その内の12点がカラー・リトグラフ化され、1948年に版画集として刊行されたが、この「翼のある馬」はその内の1点をそのまま油彩に置き換えた作品である。「アラビアン・ナイト」はシャガールにとって初めての色彩版画集であった。戦前、画商のヴォラールの依頼により制作したラ・フォンテーヌ(寓話)の際にも、シャガールは色彩版画を試みたが、思うような結果が得られず、結局白黒の銅版画作品として出版している。

 

「エコールド・パリ」の作家5人の作品9点を紹介したが、私は「エコールド・パリ」の中では、藤田嗣治が一番好きであり、かつ優秀な作品が日本に多数残されている。特に東京国立近代博物館にある「五人の裸婦」とか、京都国立近代美術館の「タピスリーの裸婦」など、藤田氏の最高傑作が、日本で鑑賞することが出来る。吉野石膏コレクションに藤田作品が入っていないのは誠に残念であるが、コレクターの方針や好みもあることだから、止むを得ないことかも知れない。藤田の「白の裸婦像」は、「エコールド・パリ」の中の最高傑作だと思うが、「エコールド・パリ」はい異国人の描いた絵であり、フランスでも極めて高い評価を得ている。

 

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション 2020」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「シャガールー三次元の世界  2017」、高階秀爾「近代絵画(下)」を参照した。)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(2)

本章では、20世紀前半の西洋絵画を取り上げる。20世紀前半の西洋美術は、しばしば「モダーン・アート」という言葉で総称される。ここでは取り合えず、19世紀後半から20世紀前半にかけて、西洋の伝統的な表現を脱却して、絵画の自立を目指す革新的な表現を追求した画家や作品を取り上げる。写実主義こそが西洋絵画の中心を貫いていた原理であった。印象派は光や大気のような形のないものまで表現しようとした。その点では究極の写実主義と言えるが、結果として生まれた作品からは、遠近法も明暗法も消え、色彩と筆触の存在感が前面に押し出される平面的な画面となり、絵画は世界からの自立の第一歩を踏み出したのである。印象派が切り開いた新しい絵画の歴史は、20世紀を迎えると一気に奔流のようにその変化の速度を上げていった。この第2章に含まれる作家は、いずれも20世紀前半のモダーン・アートの展開に関わった作家ばかりである。

占い師 ジョルジュ・ルオー作  1937~39年 油絵・厚紙

ルオーと言えば、必ず宗教画と思い込みがちであるが、本作は「占い師」である。周囲を太く縁取る構図はルオーが好んで採用したもので、しばしばそこに文字が描き込まれることで壁龕(へきがん)のような役割や、晩年作にみられた装飾性を強調する役割を担っている。人物は希釈された黒い絵具で輪郭をかたどられ、右手をあげる身振り、枠にそって曲げられた腕はロマネスク美術の造形性を連想させる。特徴的な三角帽の衣装はルオーが描く道化師に共通しており、目を伏せる表情はこの時期に集中して描いたキリストの顔に連なるものがある。

バラの髪飾りの女 ジョルジュ・ルオー作 1939年 油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)

1930年代以降、ルオーの作品は暗く沈んだものから、透明で輝くようなマティエールへの変貌を遂げた。この作品も明るいエメラルドグリーンを多用し、カドミュムイエロー、カドミュウムレッドディープで彩っている。「バラの髪飾りの女」の支自体はより興味深い。紙に描かれた後、目の粗い布と麻布によって裏打ちされ、その後も制作が続けられている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねられた額が構成されている。一度塗った油絵具を削り取り、また何層にも塗り重ねる手法がルオー独自のものであることは広く知られている。

靴下をはく若い女 ピエール・ボナール作 1908~10年 油彩・カンヴァス

ボナールは身近な生活を主題とし、そこに差し込む光の効果と色彩を描いた。1893年に生涯の伴侶となるマルト・ド・メリーニと出会う。間もなく彼女は、モデルとしてカンヴァスにたびたび登場することとなる。病弱で神経の病を患っていたマルトは、異常なほどの潔癖症だったこともあり、しばしば入浴をくりかえしていたことから、ボバールは浴室での彼女の姿をはじめ、室内で身づくろいするしどけない女性をモチーフとした作品を数多く手掛けた。ボナールの描く裸婦は、エロチックな欲望の対象から造形的な要素へと変貌していく。本作では、マルトと考えられる女性の身体が大きく描かれ、室内には親密な空気が充満する。彼女の腰掛ける赤色のソフアと対照的な色調の青い背景の壁は、ナビ派の特徴である装飾的な点描で描かれている。

緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女 アンリ・マティス作1924年 油彩・カンヴァス

マティスが初めて南仏ニースを訪れたのは1917年12月のことである。以後、画家は秋から春にかけては南仏で過ごし、春のおわりから夏にかけて、パリ近郊のイッシー=レ=ムリーノで過ごすという生活パターンを繰り返すようになる。作家たちは様々な思惑が渦巻く刺激的なパリを離れたことは、自ら芸術についてじっくり再考する機会をマティスに与えた。こうしてフォーヴの誕生以降、絵画のあらゆる可能性の探求に捧げられた緊張に満ちた日々は一旦終わりを告げ、光と色の戯れに優しく身を任せる、快楽主義とも言えるニース時代が1920年代に始まる。読書に没頭する女性を描いたこの作品でも、画面左手から射し込む光が作り出す明暗が、女性の身体の豊かなヴォリューム感を生み出している。マチスの色彩は、私が好むものである。

静物・花とコーヒーカップ アンリ・マチス作 1924年 油彩・カンヴァス

ニースの中心部、シャルル・フェリックス広場の海辺のアパートにマチスが滞在するようになるのは、1921年の9月初旬からである。以後28年頃まで、画家はこのアパートの一室をアトリエにして様々な作品を生み出したが、この静物もその中の1点である。この時期のマティスの作品は、排他的なほどに室内に集中しており、アトリエは単なる制作のための場所ではなく、空間そのものが絵画のモチーフと化していた。

セーヌ河の岸辺 モーリス・ド・ヴラマンク作 1906年 油彩・カンヴァス

いわゆる「フォーヴ」の名称が俎上に上げられることとなった1905年の前後、ヴラマンクの画面は最も鮮やかに彩られていた。自然の形態を的確に把握し、モティーフをファン・ゴッホ流の流動的な筆致、あるいはシニャック風の点描法を駆使しながら、色彩自体が自律するような豊穣さをもって表現した一連の作品は、画家のフォーヴ時代を華やかに彩っている。この作品もそうした彼のフォーヴ時代に手掛けられた1点である。

村はずれの橋 モーリス・ド・ヴラマンク作 1911年 油彩・カンヴァス

鮮やかな色彩を用いたフォーヴ時代を経て、ヴラマンクはやがてセザンヌを思い起こさせる画面構成に挑んだ。ピカソやブラックらがセザンヌの事物に対する形態把握と分析、それら事物に対する再構築に端を発したキュヴィズムへと突き進んでゆく西洋美術史の流れに沿うかのように、ヴラマンクもこの後にキュビズムの影響を受けた画風へと変化させていくことからすれば、ある種必然的な道程とも思われる。この作品もそうしたセザンヌの影響下に置かれるもので、画面上部中央に描かれた丘の起伏やその上に建つ古城とおぼしきモチィーフ、画面左の木の葉叢、画面下の水面と思しき表現からは、形態の単純化といったセザンヌ技法が垣間見える。

工場のある町 アンリ・ルソー作 1905年 油彩・カンヴァス

本作品の場所を特定することの出来ない町の光景が描かれているが、タイトルとなっている工場もまた、ルソーにとって、新しい文明の到来を告げるものであった。放射線状に伸びた道は、画面奥で中央に集まっている。工場と思われる建物が描かれているが、奇妙なことにその半分以上は木立に隠れている。

フォンテーヌブローの風景 パブロ・ピカソ作 1921年 パステル・紙

ピカソの「新古典主義」時代を代表する母子像が集中的に描かれた場所が、21年の夏に滞在したパリの南東に位置するフォンテーヌブローである。地中海沿岸の町で過ごしたそれまでの夏とは異なり、家族での静かな生活の中、ピカソは多くの油彩、ドローイング、パステルを描いた。本作はこの滞在中、珍しくフォンテーヌブローの風景を描いたものである。形態の分割や平面化を控え、パステルの柔らかな筆致による対象を大まかな色彩としてとらえた陰影づけー特に画面右のうねるような幹を伸ばす樹木の描写ーには、母子像と共通する様式化が見られる。

 

本稿では、主にピカソ、マチス等フォーヴから抽象画までを扱ったが、私自身にも判りやすい作品を選んだ積りである。読んでいただく皆さんにも、判りやすい絵画を選んだ積りである。「判り難い」「理解できない」とソッポを向きがちな画家たちであるが、判りやすい絵も沢山描いている。好きな絵を選んでみたら良いと思う。

2019年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた「黒川孝雄の美」10選を決める季節がきた。今年は、国交150年記念とか没後90年とか大きな展覧会が多数開催された。力作揃いで、見応えのある展覧会が多かった。今年は、興福寺中金堂再建も大きな話題となった。また、新天皇ご即位記念展「正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美」等も大きな話題を集め、大勢の観客で、大行列を作った。中々、10点を選ぶには苦労が多かったが、次の10点を「2019年黒川孝雄の美10選」に選んだ。

第1位 ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(1)

「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ(1651~1673)ディエゴ・ヴェラスケス作 1659年  油彩・カンヴァス       12月4日掲載

スペイン国王フェルペ4世は、最初の妃イサヴェル・デ・ボルボンが没した2年後の1646年、マリアナ・デ・アウストリア(1634~1696)と再婚した。イサヴェルとの間に生まれた8人の子供は、一番下の王女を除き全員が成人前に死没したため、再婚から5年後にマリアナが生んだマルガリータ・テレサは世継ぎ問題に悩まされていた宮廷に希望の星として輝いた。ヴェラスケスは彼女をおよそ3歳、5歳。そして本作品の8歳(1659)と3度単独で全身像を描いており、それは全て現在美術史美術館に保存されている。中でも最晩年に描かれた本作品は、自由な筆致と色彩の斑点が、もののかたちや質感に見事に伝える、ベラスケスの油彩技法の頂点を示す傑作である。この作品を父親が買っていた世界美術全集の中で、最高傑作と見た中学1年生の審美力は正確なものであったと自負している。

興福寺 再興された中金堂(平成30年ー2018年)2月21日

天平時代の中金堂をそのままの大きさで、再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川管主は、次のように挨拶されている。「本日、中金堂の再建落慶を迎え、自ずから思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の導線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な実情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれが漸く再現でき、感無量という他有りません。」このご挨拶を記せば、中金堂の再建内容をゴタゴタ記す必要は無いであろう。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者が御生存されたならば、必ず興福寺を一項目として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更させるほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要だろう。

フェルメール展(2) 牛乳を注ぐ女 ヨハネス・フェルメール作 1658~60頃                       1月13日掲載

フェルメールの代表作の一つである。会場では最後に飾られていたが、一番人気が多い場所で、なかなか一番前に出る事のできない作品であり、人気は一番であった。しかし、台所で牛乳を注ぐことに没頭する女性、というごくありふれた日常の所作を描いた作品である。20代の頃に描いたものだがフェルメールの特徴的な色使い、青と黄色、赤の三原色対比の鮮やかさに目を奪われた。青は勿論、ラビスラズリのフェルメール・ブルーである。「やわらかな光に照らされた室内に佇む単身の女性」というのもフェルメールが好んで描いた構図である。細かい粒子で構成された光の描写も見られる。透視図法、光の処理、個々の描写、対象の配列、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机の右側の床にある木製足温器は、古典的な三角構図を形成している。

大安寺                       6月16日掲載

重文     十一面観音立像  奈良時代(8世紀)

大安寺は、藤原京で「大管大寺」の寺号が与えられた官寺であり、平城京では「薬師寺」を上回り、四大寺の筆頭に位置した官寺であった。十一面観音菩薩立像は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳があると説かれている。頭部と両腕部が後補で制作されている。体部から像立当初の端正な御姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波型にひるがえり、裳腰左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣の皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾りが極めて華麗で、台座にも華の文様が浮き彫りにされている。奈良時代の秀作である。(秘仏 公開は10月1日より11月30日まで)

御即位記念 正倉院の世界ー皇室がまもり育てた美(2)  11月11日掲載

正倉院宝物 螺鈿紫檀五弦琵琶 木製・螺鈿 中国・唐時代(8世紀) 正倉院

「国家珍宝帳」所載の楽器で、正倉院を代表する優品として知られている。五弦の琵琶が四弦の琵琶と異なるのは、弦が五本であることや、頸(くび)が真っ直ぐで、槽の部分が厚いことなどである。インド起源で、中国の文献や壁画などに見えるが、現存品は世界唯一のものである。

遊びの流儀ー遊楽図の系譜(2)           8月19日掲載

国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)大和文化館

右双

左双

「松浦屏風」と呼ばれるこの屏風の名称は長崎県・平戸の大名 松浦家所蔵であったことによる。しかし、松浦家の記録では、この屏風はその制作年代と考えられてきた近世初期に平戸にあったのではなく、松浦氏34世の活(号清山、1760~1841)が京都で入手したものであり、当時は岩佐又兵衛作とされていたという。総金地を背景とする大場面に、十八人の婦女を立たせたり座らせたりなど変化をつけて配列している。こうした等身大に近い人物群の描写は、他の日本の風俗画や遊楽図には類例がない。

開館60周年記念 松方コレクション展(2)        7月4日掲載

1921年の9月14日に、松方ら5人がローザンヴェール画廊を訪れた。そこで「アルルの寝室」を発見し、購入した。「アルルの寝室」は3つのバージョンが知られている。明るい静けさに満ちた本作品は、サンレミの療養所で、母親のために描いたものである。この「アルルの寝室」は、戦後日本に返還するにあたり、フランス政府が、フランス国家に留置したもので、今回の展覧会のためにオルセー美術館から借り出した作品である。

コートールド美術展ー魅惑の印象派(2)       11月27日掲載

フォーリー=ベルジュのバー エドゥアール・マネ作 油彩・カンヴァス 1882年

フォリー=ベルジェールのパーは、パリのミュージック・ホールで、歌や踊り、曲芸や珍獣の公開など多彩な演じ物で人気を博した。本作品の舞台は、その1角にあったバーである。バーメイドはアルコール提供だけではなく、娼婦となることもあったという。マネは実際にここを何度も訪れているが、制作の際にはアトリエにバーカウンターの一部を再現し、シュゾンという名のフォリー=ベルジェールを呼び、モデルとした。その表情は、ぼんやりとしているようでも、物憂げな様子でもあり、解釈は鑑賞者に委ねられているようだ。マネ晩年の傑作として知られる本作品は、亡くなる前年の1882年のサロンで発表された。無数の観客と喧騒がすばやく粗い筆致で描かれる一方、手前の大理石のカウンターには酒のボトルやオレンジが丁寧に描写される。本作品は、鏡で作られた複雑で多義的な空間に、人物、群衆、静物を卓越した技術で描いたマネの画業の集大成と言えよう。

没後90年記念 岸田劉生展(2)            10月7日掲載

重文 麗子微笑(果物持てる) 油彩・カンヴァス 1921年 東京国立博物館

いつもの綿入れの着物に、いつもの毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプトの彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術の中にある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定をうけている画家は、私は知らない)

クリムト展 ウイーンと日本1900          10月7日掲載

ユデイト1 油彩・カンヴァス 1901年 ヴェルデール宮オーストリア絵画館

クリムト代表作の一つとして知られる<ユデイト1>、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。装飾的な効果を伴う用式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公のエロチシズム。そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの「黄金時代」の時代の幕開けを飾る作品となった。本作品は、旧約聖書外典の一場面を主題とする。(以下略す)

(本稿は、「原色日本の美術全30巻」、「探求日本の古寺 全15巻」、高橋秀爾「近代絵画史(上)(下)」を参照した。)

印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(1)

吉野石膏コレクションは、吉野石膏株式会社及び吉野石膏美術振興財団が所蔵する、19,20世紀のフランス絵画及び近代日本絵画の作品群である。いろいろな印象派展で、「吉野石膏株式会社」という所有者名は、しばしば見たことがあるが、コレクション全体をを見るのは勝目手である。石膏ボードを中心とした建築資材の会社として吉野石膏株式会社はは、kねて興味を持っていたが、今回、そのコレクションの全体を72点の展示作品で公開された。幾つかは、既に他の美術展で拝観したことがあるが、全体像をみることは、初めてである。紹介文によれば山形美術館に153点の寄託をして、多分この公開された作品群の中にも、その寄託品が含まれているだろうと推察する。全体を見て感ずる点は、「印象派からフォーブ・抽象絵画」まで、かなり広い範囲で収集された作品群で、比較的小型の作品が多いことを感じた。優れたフランス美術のコレクションであり、一企業が何代かに渡って収集された軌跡もよく分かるコレクションであった。この展蘭会の順序に従って3回にわけて連載したい。

第1部 印象派、誕生~革新へと向かう絵画

バター作りの女 ジャン=フランソワ・ミレー作 1870年 油彩・カンヴァス

バターを製造している絵画である。私自身、乳業メーカーに長年勤務し多関係で、バター造りの現場経験もある。私が知っているバター製造は、「バターチャン」という機械で牛乳からバターを造り、それから分離する液体をホエーと呼び、様々な機会に利用される。この作品は1870年のサロン出品作である。この年ミレーは初めて審査員に選出されたが、サロン出品はこれが最後となった。本作に描かれた、桶に入れた牛乳を棒を上下させて撹拌し、バターを製造する方法は中世末期から存在した、かなり古い製法である。一時間以上かかるこの作業を行うのは、主に子供と女性であった。ミレーはバターを造る女性を繰り返し描いており、その表現の変遷を知ることが出来る。ミレーは、このバターの製造方法の表現を本作の数年前に描かれたパステル画で確立し、本作で初めて大型の油彩画として描いた。右下にミレーのサインも描かれている。

イサベル・ルモニカ嬢の肖像 エドュアール・マネ作 1879年頃 油彩・カンヴァス

1879年の4月1日、マネはパリ8区のアムステルダム通り77番地の新しいアトリエに引っ越し、83年に亡くなるまで終生ここで過ごすことになる。マネはサロンでみとめられることを目指した長きに渡る闘争の果てに、病に侵され最晩年を迎えている。そのような中でも心を通わせた人物との交流はマネに少なくない安らぎを与えたことだろう。マネがイザベル・モニカに関して最初に言及したのは、76年8月ごろのエミール・ゾラに宛てた書簡の中で「金曜日に私はイザベル嬢の肖像を手掛けるつもちだ」と綴ったことがある。絵の背景は暗く漠然としている中で、長手袋を着けて両手を組むドレス姿の女性が佇み、こちらを見ている。胸元はかなり平板に描かれている。左目は茶色、右目は暗い青と別の色彩で塗られている。マネとイザベルの交流を示すのは水彩の絵入りの手紙である。80年マネからイザベルへ宛てて、西洋スモモ(仏語でミラベル)と美しい(ベル)の韻を踏んだ短い詩が贈られている。

サン=ジェルマンの森の中で クロード・モネ作 1882年 油彩・カンヴァス

1880年代に入り、70年代後半に比べてモネの生活は安定し始める。1880年に経営難から脱した画商デュラン=リュエルの支援や、第4回までは参加していた印象派展の第5、6回には参加せずサロンへ入選し、個展が評判になることで、モネの作品は売れ行き好調となる。79年から80年にかけて厳寒の冬をヴェトゥイュで過ごし、セーヌ河の凍結と解氷を目の当たりにした画家は、自然の壮大さや力強さといった主題に関心を寄せていく。81年末にセーヌ河沿いのポワッシーへ移るが、制作に格好のモティーフが見当たらず82年の大半はノルマンディーの沿岸部プールヴィル、ディエップに家族を連れて滞在している。本作はポールヴィルへ再び旅行に出る前のポワッシーで初夏に描かれたものとされる。森林の中で奥へと続いていく道が描かれている。消失点へ向かう小さな光の輪は、差し込む日差しと日陰のコントラストを表している。太陽に照らし出された森は赤、ピンクや黄色の様々な色調で、細かな筆致で描かれている。後年、連作として手掛けられた(薔薇の小道)(マルモッタン・モネ美術館)と共通した構図とも感じ取られる。

テムズ河のチャリング・クロス橋 クロード・モネ作 1903年 油彩・カンヴァス

(積み藁)を皮切りに本格的な連作を手掛け始めたモネは、(ポプラ並木)や(ルーアン大聖堂)に至る1890年代の連作の時代を経て、ウォータール橋や国会議事堂を描くロンドンの風景へと移行していく。70年の普仏戦争から逃れるためにロンドンへ半年ほど滞在して以来、かの地への勉強に行かせていた息子ミシェルが98年に体調不良となっいたことで、およそ20年ぶりに2週間ほど訪れる。翌年99年9月中旬に再訪した折、サヴォイ・ホテルに1ケ月半滞在し、南南西に見えるチャリング・クロス橋を10点以上制作している。ロンドンの名物の霧は、テムズ河の水蒸気が凝結した際に排出される煙が混ざったもので、20世紀初頭にスモッグと呼ばれた。モネは画商ルネ・ギンベルに対して、次のように語っている。「もし霧がなかったら、ロンドンは美しい街ではなかっただろう。霧こそが荘厳な美を街に与えたのである。」

モレ=シュル=ロワン,朝の光 アルフレッド・シスレー作 1888年 油彩・カンヴァス

1882年の第7回展が最後の印象派展への参加となったシスレーは、83年にフォンテーヌブローの森の東端に位置するモレ=シュル=ロワンに居を移す。デュラン=リユエルに宛てた書簡の内容は、作品の売れ行きに対する不安と困窮についてが多数を占める。晩年を迎え、長らく希望していたフランスへの帰化についても動きを見せている。本作は、前景の4本の木が鮮やかな緑で塗られ、舞台装置や袖幕のように、ロワン川の対岸に立つ街や、水面の反射に観る者の視点を誘う。日の光が左から照らし、建物や橋は日陰となり薄い青で塗られている。水面に映る反射も水色、白、赤や茶の筆触分割が用いられている。

ロワン川沿いの小屋、夕べ アルフレッド・シスレー作 1896年 油彩・カンヴァス

画面手前の川岸には小屋が描かれている。川の流れが画面左に向かって曲がっていくのが見える。水面に反射した木々が映り込み、対岸のさらに向こう側にはこちら側からは見えない空間が広がっていることを感じさせる。1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにてシスレーは喉頭癌により60歳で没する。およそ3ケ月後の4月29日と30日に展覧会が、5月1日にオークションが、パリの9区セーズ通りのジョルジュ・プテイ画廊で行われた。本作はその出品作の1点である。シスレーの作品27点の絵画と6点のパステルが売りに出され、本作は9000フランの高値をつけた。

シエザンヌ・アダン嬢の肖像 ピエール=オーギュスト・ルノワール作 1887年 パステル・紙

ルノワールは80年代後半に「アングルの時代」と呼ばれる輪郭のはっきりした古典的な作風へ移行する。本作では青い服を身に着けた少女が正面を向いており、幼さを残しつつ大人へと変貌する一舜を捉えている。油彩ではなくパステルで制作されたため、柔らかさが発揮されている。フランス北部のブーローニュ=シュル=メールに拠点を持つ「アダン銀行」は、ナポレオン時代から続く由緒ある銀行である。ブーローニュ出身の銀行家で、北部鉄道の重役やウトロー市長を歴任したイポリットを父に持つ4姉妹、シモーヌ、アントワネット、マドレーヌと末っ子のシュザンヌ(1877~1957)は、家族ぐるみでルノワールと付き合いがあったようだ。ルノワールは、職業モデルではなく、日常的に交流のある人物をモデルとすることを重視していた。ルノワールは、イボリットの妻のアダン夫人がル・ラヴァンドゥに所有する別荘地を度々訪れており、夫人が娘たちの肖像画を注文したことを述べている。この作品は、会場では一番人気であった。ルノワールの絵画は分かり易い点が魅力であり、そこが、目を引いたのであろう。

踊り子たち エドガー・ドガ作 1894年 パステル・紙

ドガが初めて踊り子の主題の作品を手掛けたのは1860年代末かた70年代初頭にかけてのことである。以来、ドガが生涯をかけて取り組むことになる近代生活の主題のいちの最も重要なもののひとつである踊り子を描くきっかけになったのは、オペラ座での観劇やカフェ・ゲルボで交わした新しい芸術をめぐる討論であった。当時の踊り子の社会的地位は今日のそれと大きく異なり決して高くはなかった。ドガが、舞台の上で堂々と舞う主役に限らず、書き割りの裏、舞台袖、練習室などの「裏の顔」に視点を投げかけ、油彩、パステル等の技術で色鮮やかに描き出している。

ポントワーズの橋 カミューユ・ピサロ作 1878年 油彩・カンヴァス

1879年に開かれた、第4回印象派展に出品された作品である。ポントワーズはパリを中心とするイル=ド=フランス地域圏に属し、穀倉地帯として知られるヴェクサン地方の都市である。ピサロは1866年移住してから、普仏戦争での国外避難を経て、14年余りをこの地で過ごしている。当時のポントワーズは、鉄度の開通でパリへのアクセスが容易になり、都市化と工業化が進む一方、郊外には伝統的な田園風景が広がっていた。こうした多彩な景観とともに、フォンテーヌブローやバルビゾンほど他の画家に知られていなかったという点でも、ピサロにとっては魅力的な場所だった。本作では、オワーズ川に架かるポントワーズ橋を描いている。橋の向こうには中心部の近代的な光景、そして右手に中州のポテュイ島に生えるポプラ並木がみえ、川岸を渡る人々の視線で、当時の町ボ様子が一望できる構図となっている。

雪原で薪を運ぶ人々 フィンセント・ファン・ゴッホ作 1884年 油彩・カンヴァス

この作品は、1884年の夏ころ、ファン・ゴッホがアントホーフェンの金細工職人アントン・ヘルマンの注文を受けて制作した6枚組の装飾画下絵の1点である。ヘルマスは、自宅の食堂を飾る装飾画の下絵(油彩)をファン・ゴッホに依頼し、それらを模写して自分で装飾画を完成させるつもりで、「最後の晩餐」のような宗教的図像を希望した。しかし、ファン・ゴッホは、近隣の農民生活から主題をとり、四季を象徴する装飾画のほうが相応しいと注文主を説得し、「ジャガイモの植え付け」「牛耕」「小麦の収穫」「種撒く人」「羊飼い、風の情景」「薪を運ぶ人々、雪景色」の6つの主題で仕上げたという。ゴッホのオランダ時代の作品であり、オランダ時代には太陽を描いた例を私は知らない。

 

印象派、誕生という章であるが、ジャン・フランソワ・ミレーは印象派の魁と見たのであろう。最後のゴッホも印象派に影響を受けた時代(パリ時代)はあったが、オランダ時代は全く印象派の影響を受けていない。しかし、先駆けや、後世に影響を受けた画家と判断すれば、この章に入れるのは妥当だろう。大作は少ないが、印象派の作家を網羅しているコレクションであり、日本では貴重なコレクションである。

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション2019年」、高橋秀爾「近代絵画史(上)」を参照した)

ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(3)

ハプスブルス家の最も重要なコレクターに一人で、今日の美術史美術館絵画の礎を築いた、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム(1614~1662)のコレクションに注目する。既にコレクシヨンの歴史(2)」で大半を取り上げたが、まだ全部紹介できた訳ではない。この章では、「芸術を愛したネーデルランド総督」であったヴィルヘルム大公の集めた絵画1400点の一部をまず紹介したい。また最終章である本稿では、ハプスブルグ家の難局を乗り切り、広大な領土を統治した女帝マリア・テレジアや、神聖ローマ帝国最後の皇帝で、オーストリア帝国初代皇帝でもあるカール6世や18世紀という激動の時代に生き、それによって我々を魅了してやまないハプスブルグ家の人々を、肖像画を通して紹介することで、本稿を終わりたい。

ユピテルとメルクリウスを歓待するフィレモンとバウキウス 1620~25年頃 油彩・カンヴァス

本作品の主題は、オウイデイウスの「変身物語」に基づく。フリギア(小アジア中西部)で、神々の父ユピテルと彼の伝令使メルクリウスは変貌して宿探しをしていた。幾度も門前払いをされたが、フィレモンとバウキスという老夫婦のみが、彼らの正体を知ることなく自ら簡素な小屋へ招き入れる。夫婦は簡素ながら心のこもった食事を提供し、籠に盛ったナッツ、イチジク、そして甘い香りのするリンゴとブドウのデザートまでつけた。酒も出しのだが、驚くべきことにそれは一向に減らず、飲み干すと自ら満ちるのだった。このために、老夫婦は自らの客人が神であることに気付いたのである。本作品では、向かって左にユピテル、その奥に赤い衣服をまとったメルクリウスが、フィレモンと共に円卓を囲んでいる。フィレモンはメルクリウスの方を向き、右手を胸に当てて粗末なもてなしへの許しを乞う仕草をしている。自らの客人が神々だと気づくのである。円卓の上にはまだパンがまるまる一つと、オウィディウスの記述にあるデザートに似たリンゴ、イチジク、ブドウがいっぱいの籠が載っている。本作品は、バロック期のフランドルにおける傑出した画家ポーテル・パウル・ルーベンスの工房で制作された。ルーベンスは1600年にイタリアに旅たち、1608年にアントウエルペンに戻った後、その地で高度に組織化された工房を設立した。この工房で専門画家たちと共働することさえあった。フランス・スネイルデルス(1579~1657)は静物と動物をしばしば依頼された専門画家であり、本作品におけるガチョウと静物部分は彼の工房によるものである。

ソロモンの塗油 コルネネーリス・デ・フォス(フュルスト、1584/85・アントウエルパエン 1651)

本作品において、コルネーリス・デ・フォスは、主に塗油の儀式に焦点を当てている。そのため19世紀においては、フランク王国の王クローヴィス1世(466年頃~511年)の洗礼を描いたものと見做された。実際、ソロモンが細工の施された盆に屈みこむ様子は、キリスト洗礼のを描いた場面をおおいに想起させる。しかしながら、王家の象徴である笏(左)と王冠(右)を載せたクッションを手にした小姓が左右に控えるために、主題は王に関係していることが明らかである。コルネーリス・デ・フォスはペーテル・バウル・ルーベンスよりも10歳ほど若く、今日ではその肖像は作品によってよく知られている。1630年代には、スペイン王フェリペ4世からルーベンスに注文されたた作品のため、ルーベンスの下で働いていた。1636年から1638年にかけては、王の狩猟休憩塔トーレ・デ・ラ・バラーダのためルーベンスの下絵を用いて「ヴィーナスの誕生」や「アポロンとピユトン」を制作している。

だまされた花婿 ヤン・ステーン作 1670年頃 油彩・カンヴァス

結婚式の一行が宿屋に到着したところである。宴はすでにたけなわにで、音楽と演奏され、ゲストは楽しそうに食べたり飲んだりしている。人々は賑やかに花嫁と花婿の周りでひしめき合う。テーブルについているゲストはわずかである。新婚のふたりはゲストを後にして寝室に向かおうとしている。「花嫁の初夜の床へ誘う」行為が構図の右半分で繰り広げられている。やや中心から外れた位置に置かれているものの、この風俗画作品の主題を解き明かすのはこの場面である。この作品でステーンは16世紀の絵画伝統から生かされた要素をさりげなく用い、全体として、床入り、不釣り合いな恋人たちの讃え、欺かれた花婿という主題を取り上げている。

神聖ローマ皇帝カール6世(1685~1740)の肖像 1720~30年頃 油彩・カンヴァス オーストリアの画家

この楕円形の肖像画は神聖ローマ皇帝カール6世が描かれている。彼は1711年に没した兄ヨーゼフ1世を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。皇位の承継と同時に、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王の地位も引き継いだ。カール6世は男子の世継を得ないまま1740年に死去したが、周到にも1713年に発布した国事詔書によって、長女マリア・テレジアに代々の領地だけでなく、ボヘミヤとハンガリーの王位も継承できる手筈を整えていた。ただし女性であるがゆえに、彼女が皇帝の称号を引き継ぐことは叶わなかった。かれの地世の対外政策は、南ヨーロッパにおける対オスマン帝国との戦争と、国事詔書を何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書は何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書によって、ハプスブルグ領の不分割と、女性による皇帝継承の可能性が担保された。またオーストリアのバロック芸術は彼女の地世下に頂点を迎え、とりわけ音楽、建築、フレスコ壁画が発展した。

皇妃マリア・テレジア(1717~1780)の肖像 マルティン・ファン・メイデンス作 1745年頃 油彩・カンヴァス

この作品に描かれるのは、オーストリア史で最も重要かつ人気の高い統治者に数えられるマリア・テレジアである。マリア・テレジアは1736年にロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚し、その後に父である神聖ローマ皇帝カール6世が死去すると、オーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王の地位に就く。この三つの地位は、聖イシュトヴァーン王冠(ハンガリー)、聖ヴァーツラフ(ボヘミア)、そしてオーストリア大公冠という、テーブルの上に3つの王冠で表現されている。女性は神聖ローマ皇帝にはなれなかったため、夫が1745年に神聖ローマ皇帝にフランツ1世として即位した。この絵はそのその少し後に制作され、フランツ1世を描いた現存しない絵と対になっていたに違いない。版画に添えられた銘が説明するように、両肖像画はマリ・テレジアの治世初期に重用された宮廷画家、マルティン・ファン・メイテンス(子)によって描かれた。

ホーフブルグで1766年に開催されたオーストリア女大公マリア・クリスティーナとザクセンのアルベルトの婚約記念晩餐会 ヨハン¥カール・アウアーバッハ作1773年頃 油彩・カンヴァス

この大勢の人物が描きこまれた1773年の絵画は、オーストリア大公女マリア・クリスティーナとザクセンのアルペルトの婚約を祝って1766年に開催された公式晩餐会の記録である。マリア・テレジアの愛娘マリア・クリスティーナは2年前にザクセン公アルベルトと知り合い、恋におちていた。しかし父のフランツ・シュテファン(後のローマ皇帝フランツ1世)は、アルベルトと結婚したいいう娘の希望を、妻の同意にもかかわらず受け入れなかった。フランツ1世が亡くなってようやく、後を継いだヨーゼフ2世から、後のザクセン=テシュン公アルベルトー宮廷内ではその地位がマリア・クリスチーナにふさわしくないという意見もあったーとの結婚に同意が得られた。婚礼は、婚約を祝った4日後に宮殿シュロスホーフで行われた。絵に中では、2番目の妻マリア・ヨーゼファ・バイエルンと並んでゲストを前に天蓋のしたに座る皇帝の左手に、新郎新婦が見える。

フランス王妃マリー・アントワネットの肖像 マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルフラン作 1778年 油彩・カンヴァス

1776年、ヴィジェル=ルブランは王家の肖像画家として王室建築局に雇われ、2年後にがその腕を見込まれて王妃マリー・アナントワネットの肖像を描く大役を得る。ヴィジエル=ルブランが描いた肖像画は1779年に引き渡され、それを待ちわびていた母后マリア・テレジアのもとへすぐさま送られた。それが本作である。画家は政略結婚によりフランス王家に嫁いで間もない若きマリー・アントワネットを、瑞々しさと高貴さをかねそなえた佇まいで描き出した。画面右腕には夫ルイ16世の胸像が高い台座の上に掲げられ、その下には王権を象徴する王冠が置かれている。バニエで膨らみをもたせた宮廷ドレスは、サテン地の真珠色と房飾りの金色の繊細なニュアンスによって、豪華でありながらも落ち着いた気品を漂わせる。その一方で、手にしたバラの花と呼応するかのように薄紅色を帯びた王妃の唇や頬は、白くすべらかな肌によく映え、健康的な印象を与える。誠に、素晴らしい出来栄えである。

イタリア王としてのナポレオン・ポナバルト 1806年以降 油彩・カンヴァス アンドレ・アッピーニの工房作

本作品の像主であるナポレオンは、流星の如き異例の勢いで頭角を現した。青年期までをコルシカ島で過ごした後、1793年にトゥーロン包囲戦で砲兵体長を務め、初めて指揮を執ったこの戦いで見事に勝利を収めた。それからわずか数年後に、軍勢の数で劣勢に立たされながらも、ピエモンテ=オストリア連合軍の同盟関係を切り崩し、北イタリアの大部分をフランスの支配下に置くことに成功した。彼はとりわけ将軍として兵士たちの忠誠心を掌握する能力に秀でていた。また戦術に長け、戦場の地勢についての正確な知見を有していた。イタリア遠征とそれに続くエジプト遠征ににょって、彼はフランスのあらゆる政治派閥から幅広い支持を得た。ナポレオンはまた、政治家としても精力的に活動した。イタリア王ナポレオンの戴冠式は、1805年5月26日にミラノ大聖堂で執り行われた。アッピーニによって手掛けられた本作品は、おそらく戴冠式の直後に描かれたものであろう。

オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨゼフ1世 ヴィクトール・シュタウフアー作 1916年頃 油彩・カンヴァス

フランツ・ヨーゼフ1世は最後から2番目のオーストリア皇帝で、在位は68年に及んだ。この肖像画は、有名な肖像亜画家ヴィクトール・シュタウファー作である。皇帝の死の直前に制作された可能性が高く、どちらかと言えば非公式なものである。皇帝は明らかに年を取っているが、意思の力を感じサセルオーラがにじみ出ている。くすんだ水色の陸軍元帥の軍服を身に包んでいるが、これは1914年に第一次世界大戦が勃発して以来、ハプスブルグ帝国が戦争状態にあることを意味するようである。フランツ・ヨーゼフ1世の死の2年後に終結するこの壊滅的な戦争は、オーストリア=ハンガリー帝国の敗北と君主制の廃止をもたらした。ハプスブルグ家のコレクションをまとめたウィーン美術史美術館が1891年に開館したのも、その在位中のことである。

薄い青のドレスの皇妃エリザベト  ヨーゼフ・ボラチュク作 1858年 油彩・カンヴァス

エリザベトを縮めたシシィという愛称で知られる。オーストリア=ハンガリー二重帝国皇妃の生涯は、その死後ほどなくして、神話的な地位を得るようになる。数々の書籍、ミュージカル、映画が、彼女の生涯を感傷的かつロンティックな物語として描き出したのである。こうした物語の登場人物としてシシィが盛んに取り上げられたのは、言うまでもなく、彼女が「世紀末」という、ハプスブルグ家が君主政治が隆盛を極めた時代に生きたことによる。さらに無政府主義者ルイージ・ルケーニの手に掛かり悲劇的な死を遂げたことも、大衆の関心を一層高める要因となった。一方で、シシィが名声を獲得しえたのは、自立心の強いその人間性によるところも大きく、その点で彼女はハプスブルグ皇帝の皇妃たちと一線を画した。

 

ナポレオン戦争をきっかけに神聖ローマ帝国は解体し、1804年にオーストリア帝国が誕生する。(1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組)しかし、同帝国も大一次世界大戦での敗戦により崩壊し、ハプスブルグ家の栄華は終焉を迎える。いわゆる同家の黄昏の時代であるが、この時代には、現在につながるウィーンの街の姿を整えられ、ウイーン美術史美術館の建設も行われた。最終章では、実質的な「最後の皇帝」として、ハプスブルグ家有終の美を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世ゆかりの品品である。また彼の皇妃で、類まれな美貌と悲劇的な人生で今日も注目をされ続けるエリザベト(1831~1898)の肖像画である。神聖ローマ帝国とか、ハプスブルグ家とか、必ずしも詳しくない近世、中世のオーストリア、ハンガリーの歴史や人物を詳しくしることがっ出来て、大変良い歴史の勉強になった。特に、小学校の時から憧れた「マルガリータ・テレサ」の肖像画に出会え得たことは、何よりも大きな収穫であった。特に、今年の美術展では記憶に残る展覧会であった。

(本稿は、図録「ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクション 2019年」、図録「フェルメール展  2018年」、山川出版社「山川世界史」を参照した)

ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(2)

神聖ローマ皇帝レオボルト1世と皇妃マルガリータ・テレサの宮中晩餐会 1666年 油彩・カンヴァス ヤン・トマス作

フランドルの画家ヤン・トマスは、神聖ローマ皇帝レオポルト1世とスペインから嫁いだマルガリータ・テレサとの結婚を祝って数年間続いた祝賀期間中、ウイーン宮廷で特に重用された画家の一人である。本作品で、画家は過去に描いた皇帝夫妻の肖像をそのまま引用した。ここに描かれる仮想パーティーの舞台は、おそらくウィーンのホーフブルグのレドゥーテンザーが翼にある舞踏会場である。画家は、60人以上が馬蹄形のテーブルに沿って並んだところを、中心軸からややずれた視点から見下ろして描いている。このテーブルが並び、ゲストが席についている。観音開きのドアの向こうには控えの間があり、護衛が待機している。テーブルと皿の上に置かれた印象的な花ー主にチューリップの仲間ーはフランス風に飾られたテーブルの過剰な豪華さを示すだけではなく、ウィーンの宮廷でこの東洋の植物が有していた重要性を強調してもいる。

クレオパトラ チェザー・ダンディーニ作 17世紀 油彩・カンヴァス

帝政ローマ時代の著述家ブルタコスの「英雄伝」によれば、アクティウムの海戦に敗れ、愛するアントニュウスに先立たれたエジプトの女王クレオパトラは、捕虜にになることへの恥辱とアントニウスを失った悲しみから、蛇に身を噛ませて自ら命を絶った。本作品では、クレオパトラは女王にふさわしい豪華な衣装を身にまとい、右手で蛇を握りしめている。蛇は身をくねらせながら襲いかかり、彼女の胸元からは血が流れている。苦悶に打ちひしがれたクレオパトラは、左手を大きく広げ、目を潤ませながら天を仰いでいる。制作者はチェザーレ・ダンディーニであると考えられる。フィレンツェに生まれ、主に同地で活動した画家ダンディーニは、1630年代半ばごろから晩年まで、抽象的な概念を擬人化した女性たちや、キリスト教の聖人伝および古代史に取材した女性たちの半身像を多く描き、人気を博したとされる。

キリスト降誕 アンジェロ・ソリメーナ作 1665年頃 油彩・カンヴァス

このトンド(円形画)では、ベツレヘムにおける神の子の降誕と将来のその自己犠牲という二つの神学的主題が一つになっている。ただし前者が明示されているのに対し、後者は隠されている。一家が身を寄せた間に合わせての宿の外では夜が明けつつあるが、マリアとヨセフと幼子を明るく照らしているのは側面からの光である。さらに、幼子の頭の周りには後光が輝き、この場面が神の誕生(古代ギリシャ語でいう「エピファネイア」つまり顕現の場面)を描いたものであることを明らかにしている。キリストの仕草も目を引く。子羊の方を指さし、受難と自己犠牲という、表面には現れない第二の主題をほのめかしているのである。人物の様式、その魅力的だが憂いを帯びた登場人物たち、とりわけ丹念に描写された相貌、色彩といった要素から、ウィーンの作品はグラヴィーナ(煉獄教会)にある「天使と聖人を伴う聖母」(モノグラムと1667年という年代が記されている)の時期に制作されたアンジェロ・ソリメーナの作品に結びつけられる。

東方三博士の礼拝 ヤン・ブリューゲル(父)の作品に基づく 1663年頃 油彩/鋼板

ヤン・ブリューゲル(父)の人気作品に基づく模写である。ヤンは16世紀フランドルを代表する画家ピーテル・ブリューゲル(父)の長男で、細密描写を駆使した、多くの場合小型の歴史画や寓意画、風景画などで人気を博し、1598年の年記を持つヴァージョンおよび、ヤン自身が水彩で制作したその模写とほぼ完全に一致する。画面では、朽ちかけた厩の前で、聖母の膝に抱かれたイエスが贈り物を捧げる賢者たちを祝福している。聖母の後ろで何事かを耳打ちされるのは彼女の夫のヨセフである。(「東方三博士の礼拝」は、キリスト教では良く描かれる)

緑のマントをまとう女性の肖像 バリス・ボルトドーネ作 1550年頃 油彩・カンヴァス

ボルドーネは、1500年、トレヴィーゾに生まれた。父の死後、ヴェネツィアでおじに育てられ、ラテン語と音楽の教育を受けた。1514年頃、ティツィーノの工房に加わったが、間もなく不仲となり、わずか数年で工房を去った。両者がライバル関係にあったことは、ボルドーネの絵画制作が長きにわたりティツィアーノの作品に触発されていたことを意味するからである。ボルドーネは小型の歴史画の制作に長けていた。その独自の様式は官能的な女性像に適しており、それらの作品によって彼は名声を轟かせた。本作品の女性像は四分の三正面観で描かれ、膝から上の画面に収められている。彼女は壁の凹みの前に立っており、その身体をわずかに左に、頭部は右を向いている。彼女の視線は身体の動きに従い、右遠方へと向けられている。両腕は力強く彫塑的だが、肌の肌理は柔らかさを感じさせる。右肩のごく一部のみを覆う緑のマントは左腕にまとわりつき、腹部に押し付けられている。そのたっぷりとした量感を、壁に埋もれた左小指が強調している。彼女は左肩の上で結んだ「カミーチャ」と呼ばれる肌衣を身につけているが、その胸は完全に露わになっている。白い肌衣と胸を縁取るような赤味がかかった金髪は、肌衣とともに胸を際立たせ、乳首の赤みが、頬や小鼻の赤みと一致して本作品の官能性を高めている。ボルドーネは、この肖像画を通して、絵画の生き生きとした輝きを提示した。像主は、恥じらいつつ慎ましやかに、しかし、同時に堂々と女性としての魅力を誇るが、この羞恥と誇らしさの間で揺れ動く感情表現が、本作品のとりわけ顕著な特徴となっている。

甲冑をつけた男性の肖像 ヤーコボ・ロプスティ作 油彩・カンヴァス 1555年頃

ヤーコボ・ロプティス(本名)は伝承に従うと、彼はティツィアーノの工房で徒弟時代を過ごしたと考えられる。その後、1539年までには独立した画家として活動するようになった。彼が関心を向けるようになった頃、ヴェネツィアでは、トスカーナ摘方と、ロマのマニエリスム様式が人気を博していた。それゆえ、彼はまさに画家としての修行を始めた当初から、その教えを吸収することとなった、優れた肖像画家としても名声を得た。本作品がオーストリア大公レオボルト・ヴィルヘルムのコレクションに入って以来、テイントレットへの帰属に疑義が呈されたことは一度もない。この美しいカンヴァスの画は、円柱の基礎にある銘が示すように、30歳前後の男性の容貌を生き生きと描いている。彼の顔は赤みがかった顎髭に囲まれており、冷静で確かな自信を伝える、穏やかな揺るぎのない眼差しが感銘をもたらす。彼は赤い脚衣をつけ、金の装飾をもつ一揃いの高価な甲冑を、腿より上のみに着用している。描かれているのは出陣前の軍人であることは、繊細な彫金の施された豪華な甲冑のみならず、像主の自信を映すその姿勢からも明らかである。本作品は、ティントレットの最良の肖像画の一つであり、像主の個性を十全にとらえるとともに、その社会的役割を伝え、彼が身を置いていた文脈のうちに描いている。本作品は、1550年代の肖像群において頂点を迎えた、表現手段の洗練がみて取れる。

ホロフェルネスの首を持つユディト ヴェロネーゼ作 1580年頃 油彩・カンヴァス

ここに描かれている物語の舞台は、紀元前6世紀のベトリアというユダヤの町を包囲していた、アッシリア軍の将軍ホロフェルネスの野営陣内である。魅力的で高潔なユデイトという裕福な寡婦は、自らの町を救うため敵陣に入り込み、策略によってホロフェルネスに取り入った。ホロヘルネスはおそらく彼女を誘惑しようとテントに誘い込んだが、ユデイトは彼が酔いつぶれたのを見てその剣をつかみ、首を切り落として持ち帰ったのである。アッシリア軍は彼女の恐ろしい勝利品を見て逃げ帰り、かくして町へ戻ったユデイトは女傑と称賛された。ヴェロネーゼはまさに、ホロフェルネスの首をはねた直後のユディトを描いている。ヴェロネーゼは画家アントニオ・バディーレの工房で画家としての教育を受けた、ヴェローバに浸透し豊かな実りをもたらしていた中部イタリアのマニエリスムの影響は、この若き画家に重要な役割を果たした。同様に、この町でみつかったローマ時代の遺物の魅力は、彼の将来の芸術家としての成長に間違いなく関係している。若き画家はヴェネツィア共和国の田園地帯に点在する貴族の別荘(ヴィラ)のフレスコ装飾に従事した。この絵を見て、私は、かつて粗筋を読んで、どこかで見た絵画であると思い、前の図録を読み直してみたら「フェルメール展」で見た、ヤン・デ・ブライの「ユーディトとホロフェルネス」という絵画であった。この話は聖書外典の「ユーディト記」10-14章に出てくる話のようである。去年見た展覧会であるが、案外記憶は鮮明に残るものであると感じた。

キリスト捕縛 バルトロメオ・マンヅレーディー作 1582年 油彩・カンヴァス

これは、キリストがオリーブ山で祈りを捧げた後、ユダの裏切りによって捕らえられる場面である。赤い衣のキリストが、兵士たちに囲まれ、茶色い衣まとったユダから今にも裏切りの接吻を受けようとしている。キリストはわずかに視線を下に落とし、抵抗することもなく自らの運命を受け入れるかのように静かに両手を広げている。銀貨30枚で買収されたユダは、闇夜の中誰がイエス・キリストであるかをユダヤの祭司長に知らせるため、イエスに接吻した。この作品は、カラヴァッジョによる同主題作品の構図を反転して構成されている。研究者パピによって「マンフレーディの最も重要な作品の一つ」として紹介された。北イタリ生まれのマンフレディーは、ローマにおけるカラヴァッジョの最も重要な追随者の一人で、遅くとも1607年頃から同地で制作をしていた。

エジプト逃避途上の休息 ヤン・ブルューゲル(父) 1595年頃 油彩・鋼板

「エイジプト逃避途上の休息」は16世紀フランドル絵画でとても人気のあった主題である。ベツレヘムからエジプトに旅する聖家族という主題は幼子イエスにとっての最初の試練にかかわり、受難の悲劇を予測させるものだが、その旅の途中に休息をとるという主題は、親子水入らずの愛情に満ちた場面として人気を博した。本作品でも、悲劇的な要素は希薄で、森の近くで休憩する親子の姿に苦難の色は認められない。ヤン・ブリューゲルが風景を担当し、そこにロッテンハンマーが人物モチーフを描いたのである。異なる分野を得意とする複数の画家がそれぞれ専門分野を担当して一つの絵画を制作するやり方は、17世紀フランドル絵画に頻繁に見られる形式である。

堕罪の場面のある楽園の風景 ヤン・ブリューゲル(父)作 1612~3年頃 油彩・板

本作品に記された年代は下2桁が欠けているが、1612年の年記は施されたローマのドーリア・パンフィーリ美術館にある同サイズかつ本作品と同じ聖書の主題を扱った絵画や、1613年の年記を持つロスアンゼルスのjポール・ゲッティ美術館の「ノアの箱舟への乗船」、そしてこれら同年代に制作された考えられるブタペゲル(父)の作品の例にもれず、主に1620年以降、その大規模な工房では彼の楽園風景の複製と類似作品がいくつか生み出された。そうした作品はやはり画家であった息子ヤン・ブリューゲル(子)の作とされている。本作品はブリューゲルの楽園描写が特に洗練された例で、自然の青々とした草木のうちに様々な種が写実的かつ詳細に描き込まれている。ヤン・ブリューゲル(父)はピーテル・ビリューゲル(父)の次男で、何世代も続く有名な画家一族の一員である。

 

この章では、主に旧約聖書や古い記録にのこされた話題を絵画に仕立てたものを取り上げた。図録の分類で言えば「Ⅱルドルフ2世とプラハの宮廷」、「Ⅲ コレクションの黄金時代:17世紀における偉大な収集のうち1.スペイン・ハプスブルグ家とナポレオン1世」の項の一部である。旧約聖書などを扱った絵画を取り上げたせいか、どこかで見た事例が多かった。あまり旧約聖書の場面を描いた絵画を取り上げなかったので、今回は敢えて、古い文書にしるされた絵画場面を多く採用した。また企画は「日本・オーストリア友好150周年記念」というサブタイトルが付いている。明治維新以来150年であり、多分新しい明治政府は、徳川幕府の「鎖国条例」を廃止し、世界各国と友好条約を結んだ年(明治元年)に当たったのであろう。

本稿は、図録「ハプスブルグ展ー600年にわあtる帝国コレクション 2019年」、図録「フェルメール展  2018年、2019年」参照した)

ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(1)

欧州の名門=ハプスブルグ家=の美術品が、今回国立西洋美術館で開催されている。非常に興味を持って、同展を観覧した。「素晴らしい」の一言である。ハプスブルグ家はライン川上流地域の豪族として頭角を現し、13世紀末にオーストリアに進出し、同地域を拠点に勢力を拡大し、広大な帝国を築き上げた。15世紀以降は、神聖ローマ帝国の皇帝位を代々世襲した。ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国解体後は、後継のオーストリア帝国(1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組)の皇帝となった。第一次世界大戦後に帝国が終焉を迎えるまで、数世紀にわたり広い領土と多様な民族を統治したヨーロッッパ随一の名門である。なお、今回の展覧会で最大の「見たい絵画」はベラスケスによる「マルガリータ・テレサ スペイン王女」の肖像画であった。私の美術関心は中学生時代に愛読した、「世界の美術全集」全30巻の全集(父の集めた書籍の一つ)である。中でもベラスケス作の「マルガリータ・テレサ スペイン王女」の肖像画が秀逸であり、こんな素晴らしい美術品がスペインに有るのだと思った。今回の「ハプスブルグ展」の最大の関心は、ベラスケスの「マルガリータ・テレサ  スペイン女王」の幼い時期の絵画であった。私だけの関心ではなく、展覧会を見た観客の最大の関心は、愛らしい「お姫様」の絵であって、黒山の人だかりであり、人気を一番集めていた。

ローマ王としてのマクシミリアン1世 ベルハルト・シユトリーゲン作 1507年頃 油彩・板

マクシミリアン1世(ローマ王在位1486~1519)/神聖ローマ皇帝在位1508~1519年)は、ハプスブツグ家による支配の基礎を築いた人物で、同家がヨーロッパで最も勢力のある一門として長く君臨するために、巧みな結婚政策を展開した。自身は1477年にマリーー・ド・ブルゴーニュ(1457~1482)と結婚し、彼女が早世したため、ブルゴーニュの領地を手に入れた。同様に、子供や孫たちの結婚も将来にまで及ぶ重大な結果をもたらし、これによって、ボヘミヤ、ハンガリー、そしてスペインもハプスブルグ家の所領となった。熱心な美術品収集家でありマクシミリアン1世は、同時代の最も有名な芸術家たちを雇い入れた。彼は自身を記憶に留めさせることに関心を持ち、それが作品制作を命じる上での主要なテーマの一つとなった。

馬上試合用甲冑、「網模様の甲冑セット」より アウグスブルク 1571年頃 アントン・ベッフェンハイザー作

この甲冑は、16世紀における最も印象的な甲冑セット、いわゆる「網模様の甲冑セット」に属するものである。この名称は、腐食させた金属に鍍金して著した帯が絡み合い、甲冑全体の表面に織りなされる装飾を施している。本作品を制作したのはアウグスブルグを拠点とした甲冑師アントン・ペッフェンハウザーとみられる。1545年にはアウスブルグで親方甲冑師の資格を得るや、彼は帝国自由都市ニュルンベルグで最も成功した甲冑師の一人となった。彼の経済的成功は、オーストリアとスペイン双方のハプスブルグ家や、神聖ローマ帝国内のその他有力な諸侯たちの栄誉ある注文に応えて指揮した、甲冑の大量生産に基づくとみられる。「網模様の甲冑セット」は、徒歩による試合用、馬上試合用、馬上槍試合用により構成される。

オデュッセウスとキルケ バルトロメウス・スプランゲル作 1580~85年頃 油彩・カンヴァス

スプランゲルは神聖ローマテイコクルドルフ2世の宮廷画家である。スプランゲルはネーデルランドの写実描写とイタリアのマニエリスムスを結び付けて、人工的な優美さと洗練された官能性を持つ独特の作風を発展させ、ルドルフ2世を魅了した。1580年代には、皇帝のために、古代神話の恋人たちを描いた一連の作品を手掛けており、英雄オデュッセウスと魔女キルケを描いた本作品もその一例である。真珠のような肌をあらわにし、蠱惑的に言い寄るキルケに対して、オデュッセウスは嫌悪と同時に抗い難い魅力を感じているようだ。このキルケの奸計に打ち勝ち、部下たちを救ったオデュッセウスは臣民の庇護者としての皇帝に重んじられ、皇帝称揚の文脈で好んで描かれた。

ユピテルとカリスト ヨーゼフ・ハインツ(父) 1603年頃 油彩・鋼板

神聖ローマ帝国ルドルフ2世の宮廷画家であったハインツは、皇帝の趣味に応えて、古代神話の物語を感応的かつ優美に描いた小型絵画を数多く制作した。本作品もおそらくはその一例であろう。茂みのそばで抱き合う男女は、かって美と愛の女神ヴィーナスとその恋人アドニスと考えられていたが、むしろ最高神ユピテルとニンフのカリストと見做すべきであろう。ユピテルとカリストの情事の物語は、古代ローマ詩人オウィディウスの「変身物語」に記されている。複雑に絡み合う二人の身体の表現には、ハインツがかって滞在したローマで学習した古代彫刻への参照が指摘される。

対トルコ戦争の寓意 ヨーゼフ・ハインツ(父) 1603年頃 油彩・鋼板 ハンス・フォン・アーヘン作

ハンス・フォン・アーヘンも神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の最も重要な宮廷画家のひとりである。本作品は、神聖ローマ帝国とオスマン帝国のいわゆる「長いトルコ戦争」(1593=1606年)に取材した連作の一点である。この連作は、菅亜節的な手法で皇帝のプロパガンダに大いに貢献したと指摘される。神聖ローマ帝国側の人物グループの中には、オーストリア大公国の紋章を携えた人々も見られ、そのうちの数名は囚人として描かれている。彼らはオスマン帝国に迫害される神聖ローマ帝国民を表すのだろう。

アダムとエヴァ アルヴレヒト・デューラー作 銅版画 1504年

1505年から1507年にかけて2度目のイタリア滞在を行い、ルネサンス芸術の成果を本格的に母国ドイツへ持ち帰ることになるデューラーが、決定的な旅に先立って示していた一つの到達点ともいうべき仕事が、この1504年の銅版画「アダムとエヴァ」である。この作品は同時代のイタリア・ルネサンスの芸術の遠い記憶を、あらたにドイツの地で再生しようとしたデューラーの仕事の最初における原点である。アダムとエヴァは、キリスト教における人類の祖である。アダムとエヴァは、蛇が差し出す禁断の果実をいまだ口にしていない。それを口にしたために愛欲に目覚めてエデンの園から追放され、現生の人間を生み育ててゆくふたりは、まだそこにはいないのだ。したがって彼らの身体は、穢れや欠損のない超越性を構造的に内在化していなかればならない。この「アダムとエヴァ」を含むデューラーの版画のオリジナルの銅板そのものが、やがて神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世のクンストカマーに入り、ハプスブルグ家のコレクションに収まったことが記録されている。

宿屋のふたりの男と少女 ディエゴ・ベラスケス作 1618年頃 油彩・カンヴァス

ベラスケスの生地セビーリャは、16世紀から17世紀にかけてスペインの最も反映した都市の一つであった。当時のスペイン芸術家たちは、イタリアの画家の作品にみられる光と影の劇的なコントラスト等、外国からの影響を大いに受けており、また北方の版画からも着想を得ていた。この刺激に満ちた雰囲気の中で、ベラスケス絵画の技術を学んだ。1623年ニマドリードに赴き、フェリペ4世の宮廷画家となって、以降の生涯を主に肖像画に捧げたのである。本作品の茶褐色と黄土色の色調は、ベラスケスの初期作品であることを示唆し、食宅を囲んで座る3人に人物は、スペイン黄金時代に流行したピカレスクの小説の登場人物を連想させる。質素な食事と、女中が持つヴェネツィアン・グラスや鋼製の塩入れは著しい対照をなし、描かれた人物たちが没落した貴族であることを示唆している。

スペイン国王フェリペ4世の肖像 1631年頃 油彩・カンヴァス ディエゴ・ベラスケス作

スペイン・ハプスブルグ家の国王フェリペ4世(1605~65)と、その妻イサベル・デ・ボルボン(1602~1665)を表した一対の肖像画は、おそらく全身像に対応策として意図されたものである。この2点は、「ドイツへ送るための国王陛下夫妻」と見做されている。ハプスブルグ家は、カール5世の退位後領土を分割相続されたことで、オーストリアとスペインに分かれたが、両王家はその後も婚姻を通じて密接な関係を保ち続けた。フェリペ4世は、スペイン国王フェリペ3世を父に、そしてオーストリア大公カール2世の娘にして神聖ローマコウテイフェルデイナンド1世の孫であったマルガレーテを母に生まれた。フェリペ4世は黒衣に身を包み、簡素な平たい襟(ゴリーリャと呼ばれる)をつけ、胸には羊をあしらった金羊毛勲章を下げて立っている。左手は剣の柄頭に乗せ、右手には何も書いていない紙片を携えている。

スペイン国王妃イサベラ(1602~1644)の肖像 ディエゴ・ベラスケス作(1631年頃)

スペイン国王フェリペ4世は、最初の妃イサヴェル・デ・ボルボンが没した2年後の1646年、マリアナ・デ・アウストリア(1634~96)と再婚した。イサベルとの間に生まれた8人の子供は、一番下の王女を除き全員が成人前に死没したため、再婚から5年後にマリアナが生んだマルガリータ・テレサは世継ぎ問題に悩まされていた宮廷に希望の星として輝いた。ベラスケスは彼女をおよそ3歳、5歳。そして本作品の8歳の頃(1659)と3度単独で全身像を描いており、それは全て現在美術史美術館に保存されてている。中でも最晩年に描かれた本作品は、自由な筆致と色彩の斑点が、もののかたちや質感を見事に伝える、ベラスケス油彩技法の頂点を示す傑作である。この作品は、父親が買っていた美術全集の中で、最高傑作と見た中学1年生の審美力は正確なものであったと自負している。

緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ(1651~73)ファン・バウティスタ・デル・マーソ作 油彩・カンヴァス

本肖像画に描かれた愛らしく純真な幼い王女は、マルガリータ・テレサである。王女は、スペイン王フェリペ4世と、2度目の妻にして姪のマリアナ・デ・アウストリアとの間に生まれ、1666年15歳で母方の叔父である神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁いだ。この結婚はスペイン、オーストリアの両ハプスブルグ家の繋がりを強固にするためのものであったが、おそらく繰り返される近親婚のために王女は体が弱く、4人目の子を産んで間もなく、合併症により21歳で亡くなった。本作品は、ベラスケスの作品に似ているが、工房による模写とみられてきた。現在では、ベラスケスの娘婿である、工房のファン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソの作品であるとみなされている。ベラスケスの作品に似ているが、やはり工房作であろう。本作品は、マーソの肖像画家、そして模写制作者としての技量を示す重要な作例となっている。

 

ハプスブルグ展の第1回の説明である。ベラスケスの「青の王女マルガリータ・テレサ」を是非じっくりと見て頂きたい。ベラスケスの力が遺憾なく発揮されている。よくぞ、中学1年生の田舎者が、この素晴らしい美術品を見抜いたものだと感心している。

 

(本稿は、図録「ハプスブルク展ー帝国コレクションの歴史(1)を参照した)

コートールド美術館展ー魅惑の印象派展(3)

いよいよ最終章である。ここで再度コートールド氏の美術品収集の意義についてまとめておきたい。1934年には、コートールド夫妻が収集した印象派・後期印象派絵画の傑作選55点を掲載した豪華なカタログを出版した。このカタログは、重要で質の高い作品が並んでおり、印象派・ポスト印象派に絶対的な重点を置いて作品が選定され、収集の努力が払われてきたことが判る。彼の心を占めていたのはあきまでもこの印象派の潮流であり、20世紀美術に敢えて手を出すことは殆ど無かった。コートールドの親しい友人で経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)が、イギリスの芸術家にいくらかの収入を保証し作品展示を行うための「ロンドン芸術家教会」を1925年に発足させており、その支援者としても関わっている。コートールドは、世界的に印象派絵画の需要が高まる決定的な時機を捉えて決然と打って出て、19世紀を決定づけたこの流派の最高の作品がイギリスの公的コレクションに確実に収められるように計った。コートールドのような大立者が、社会奉仕に強靭な意思を持って積極的に献身したこと、そして芸術に触れる者を感動させ、社会全体を向上させる芸術の力に対する彼の熱烈な信念は、当時にあって比類のないものであった。そしてそれは、今日も特別なものであり続けている。コートールドは、20世紀を代表する偉大で高潔なコレクターたちの殿堂に、確かにその名を連ねているのである。

クールブヴォワの橋 ジョルジュ・スーラー作 1886~87年 油彩・カンヴァス

スーラーが自ら編み出した点描技法を画面全体に用いた最初の作品とされる。色彩を小さな点で並置することで、網膜上で混ざり合い知覚されることが目指された。こうした視覚混合は、絵具をパレット上で混色するよりも色彩が明るく効果的に認識されるという科学的な理論に基づいている。スーラはシャルル・ブランによる「デッサン諸芸術の文法」(1867)を通じて、化学者ミシエル・ウジェーヌ・シュブルールの視覚混合の法則を学んだほか、アメリカの物理学者オグデン・ニコラス・ルードによる光学理論などを研究し、自らの芸術を確立していった。スーラが用いた新しい表現は、こうした19世紀の科学の発展とも無縁ではなかった。印象派もくすみのない輝く色彩のを目指し筆触分割を用いたが、その粗い筆致によって、形態は失われていった。スーラは、印象派の実践を科学的に発展させ、細かな点描を用いることで、明度の高い色彩と堅固な形態を実現しようとした。描かれているのは、セーヌ川の中州であるグランド・ジャッド島からの眺めで、橋の向こうにクールブヴォワの工場地帯を望む。代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」をはじめ、スーラはこの地で繰り返し制作をした。煙を出す煙突のような同時代の要素を描きこみながらも、時間を超越し、現実離れした情景が生み出されている。

釣り人 ジョルジュ・スーラー作 1884年 油彩・板

この絵は、スーラが「クロンクトン」と呼んだ小さな板に描かれた油彩習作である。「釣り人」、「グランド・ジャット島の日曜瓶の午後」、「水に入る馬」は、コートールドが国の美術館のために自ら寄付した基金により購入したスーラの代表作「アニエールの水浴」の習作の一つである。

舟を塗装する男 ジョルジュ・スーラ作 1883年 油彩・板

スーラは、クロクトンで様々な表現の実験を行っており、「船を塗装する男」には交差するような筆使いが見られる。特に水面の表現には点描派の特色がよく出ている。

グラヴリーヌの海辺 ジョルジュ・スーラ作 1890年 油彩・板

この「グラヴリーヌの海辺」の絵具に混じった砂の粒からは、クロクトンが現地でのスケッチに用いられたことがわかる。グラブリーヌは、北フランスの小さな港町で、スーラは31歳で夭折する前年の夏、この地で海辺の風景を制作している。目の前の風景の観察に基づいているが、抽象的といえるほど簡略化されて描かれている。スーラの短い画業における様式の展開を窺い知ることが出来るだろう。

裸婦 アメデオ・モディリアーニ作 1916年ごろ 油彩・カンヴァス

モディリアーニの裸婦像の白眉と言える本作は、1917年にパリのベルト・ヴェイユ画廊で開催された彼の個展で初めて公開された。裸婦を描いた作品は5点ほど展示された。うち2点はシォユーウインドに飾られたことから騒ぎがとなり、公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたという。近年の科学調査は、モディリアーニが様々な技法を駆使し、この官能体の筆使いがまったく異なることがわかっている。身体には、カンヴァスに筆を押し付けていくような独特のうろこ状の筆触が見える。一方で、顔には細い線で薄く絵具が置かれ、より滑らかな仕上がりが目指された。髪には絵具が乾かぬうちにひっかいた跡が見られ、繊細にその質感を描き分けていることが窺われる。また、目元や眉,鼻と口元には、下塗りの青みがかった灰色が効果的に生かされている。モデリアーニは、1916年から17年にかけて、こうした裸婦を集中して描いた。彼は、1916年に画商レオポルド・ズボラスキーと契約を結び、プロのモデルを雇って制作することができるようになった。下絵の線は認められず、すばやく描かれた本作品は、この裸婦シリーズの初期のものと位置付けれれる。

白いブラウスを着た若い女 ジャイラ・スーテイン作1923年頃 油彩・カンヴァス

大きい目と赤の唇、黒い髪がとりわけ目を引く。一見すると激しい筆づかいで描かれているようだが、よく見ていくと、頭部と白いブラウス、背景にはそれぞれに多彩な筆触が使い分けられている。白いブラウスは、下の濃い絵具で透けて見えるほど、すばやくおおまかに描かれている。厚くしっかりと絵具が塗られた頭部は、デフォルメされた描写により、モデルの顔の特徴が強調されている。青みを加えられ、やや上目づかいである目元は、憂鬱さや恨めしさを表現しているようにも、あるいはただ1点を無心に見つめるようにも見える。唇には、口紅がははみ出したかのように勢いよく赤が置かれ、女性の表情に覚える奇異な印象を増幅させる。そうした描写は、風刺画のようであるが、スーティンの絵画は、人の脆さや哀愁といったものを感じさせる。

干し草 ポール・ゴーガン作 1889年 油彩・カンヴァス

コートールドが初めて入手したゴーガンの作品の一つ。マネやセザンヌの作品とともに、コートールド邸に飾られていた写真が残されている。近代化する大都市パリに嫌気のさしたゴーガンは、昔ながらの素朴な生活を求め、1886年にフランス北西部のブルターニュに初めて滞在した。独特の衣装や文化に魅せられたゴーガンはこの地方に繰り返し足を運び、ポン=タヴェン、次いでル・ブルデュを拠点に制作を行った。本作品は1889年、ル・ブルデュ近郊で描かれた。同年12月にゴーガンは、前年末まで南仏アルルで約2ケ月の共同生活を送ったファン・ゴッホに宛て、次のように書き送っている。「ここブルターニュでは、農民たちは中世のような様子で、今パリが存在することや、1889年だということを考えていないようだー南仏とは正反対だ。この地のすべては、ブルターニュの言葉のような粗野で、とても閉鎖的だ。衣服もまたほとんど象徴的で、過度なカトリック信仰から影響されたものだ。背中を見ると胴部は十字で、頭部は修道女のような昔風のスカーフに包まれている」。

ネヴァーモア  ポール・ゴーガン作  1897年 油彩・カンヴァス

1891年、ゴーガンは素朴で原始的な生活を求めて南太平洋のタヒチ島を訪ねる。1893年に一度帰仏するも、2年後に再び島に戻った。本作品は二度目のタヒチ滞在時に描かれたものだが、横たわる裸婦という主題は西洋の伝統的な絵画を想起させる。ゴーガンがタヒチ島に複製を持っていったマネの「オランピア」(1863年)のような生々しさも感じられない。ゴーガンは、現実と想像の世界を融合させ、装飾的な空間に島の娘を配した。裸婦とふたりの人物、窓辺の鳥の関係性を明確に示されず、全体に謎めいた雰囲気が生み出されている。タイトルの「ネヴァーモア」は「二度とない」などの意味を持つ英語が用いられている。ゴーガンは、自らの作品がタイトルからのみ直接的に解釈されることを懸念したのであろう。

テ・レリオ ポール・ゴーガン作 1897年 油彩・カンヴァス

本作品は「ネヴァーモア」の制作から2,3週間後に、10日ほどで描かれたという。「テ・レリオ」というタイトルは、ヤヒチ語で夢という意味である。その単語は悪夢という意味もあるが、それを知らなくても、画面からどことなく不穏な印象を受けるかもしれない。二人の女性と眠る赤ん坊、猫らしき動物はそれぞれ視線を交わすことなく、関係性は読み取りにくい。女性たちの表情にも明らかな特定の感情を認めることは難しい。木製のレリーフの存在から、その室内がゴーガンの暮らした小屋だとも考えられているが、レリーフの合間に見えるタヒチ島の風景は、窓からの景色なのか画中画なのかはっきりしない。「すべて夢」の世界、つまり謎めいたゴーガンの世界であり、その曖昧さが、本作品の魅力ともなっている。

 

コートールドが、ポスト印象派に高い関心を持つ大きな契機は、1922年にロンドンのバーリントン美術クラブで開催された「フランス美術の100年展」であった。同年、コートールドが最初のポスト印象派の作品として購入したのが、ゴーガンの2点の油彩画である。コートールドは、ゴーガンの感性に訴える色彩に魅了されたとも伝えられている。1924年にはレスター画廊で、イギリス初のゴーガンの個展が開催された。コートールドは、その出品作品の一部を購入している。その後も情熱を傾け、7年ほどでブルターニュとタヒチ時代の油彩画をはじめとする油彩画5点、版画10点、彫刻1点、素描2点を収集した。そのコレクションを核としたコートールド美術館は、今日、イギリス随一のゴーガン・コレクションを有することとなった。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派   2019年」高階秀爾作「近代絵画史」(下)を参照した)

コートールド美術館展ー魅惑の印象派(2)

コーートールド展の第2章は「時代から読み解く」がテーマである。産業が近代化し急速に進んだ19世紀フランスでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えた。また、パリを起点として鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、気軽に足を運ぶようになった。また、パリは19世紀半ばから「パリ大改造」が行われ、街は大きく変化した。劇場やミュージック・ホール、カフェが次々と開店したほか、街灯や人口照明の普及によつて、人々は昼夜を問わずさまざまな娯楽を楽しむようになった。画家たちは、そこに集う人々の姿を、その光景を描写するに相応しい表現を用いて、多くの絵画を描いていった。

アルジャントゥイュの河岸 エドゥアール・マネ作 1874年 油彩・カンヴァス

19世紀後半、余暇を楽しむ時間を得たパリの中産階級の人々は、休みになると大都市を離れ、まだ自然の多く残る郊外の町へと繰り出したていった。アルジャントュイユもそうした町の一つで、セーヌ川の船遊びや岸辺の散策を楽しみに訪れるパリの人々でにぎわった。本作品の前景には、レジャー用のヨットと散策を楽しむ親子が描かれている。モデルは、マネの最初の妻カミーユとその息子ジャンであろう。1874年の夏、マネはモネー一家の住むアルジャントゥイュに滞在した。この年の4月から5月にかけて、いわゆる第1回印象派展が開催されている。マネは、印象派展に参加せずサロン(官展)への出品を選んだが、彼らとの交流は続いていた。部分的に屋外で制作されたと考えられる本作品は、マネが熱心に印象派の表現を試みた作例の一つである。モネからの影響を受けた、明るい色彩と粗い筆触の並置を用いて、夏らしい日差しやセーヌ川のきらめきが捉えられている。一方で、船やカミーユの帽子のリボンには、印象派が避けた黒が餅られている。

秋の効果 アルジャントュイユ  クロード・モネ作 1873年 油彩・カンヴァス

画面の下半分を占めるのはセーヌ川の支流である。画面中央には青い筋で表されたセーヌ川の本流と、その向こうには、その頃モネ一家が暮らしたアルジャントゥイユの町が見える。1851年に鉄道がと通ると、豊かな緑とセーヌ川を楽しむために、パリの人々がこぞって訪れるようになった。パリからは15分ほどであったという。1870年代になると、化学工場、製鉄所などが次々と建ち、アルジャントゥイュは工業都市へと変貌してゆく。しかし、本作品は変化する街並みよりも、秋の印象、移ろいゆく光や色彩、大気を捉えることに主眼が置かれている。中央の白い塔は、工場の煙突と指摘されたこともあったが、アルジャントゥイユ教会の尖塔であり、穏やかな風景に似つかわしいモチーフが採択されている。

春、シャトー オーギュスト・ルノワール作 1873年頃 油彩・カンヴァス

シャトゥーは、パリの中心部から西へ14キロメートルほどの町で、週末にはパリから訪れる人々で賑わう郊外の町の一つであった。アルジャントゥイュから少し下流のセーヌ川沿いに位置するが、シャトゥー吹き付近ではセーヌ川が中州にあり、二つに分かれて川幅は狭くなる。sルジャントゥイユがヨット遊びで知られたのに対し、シャトゥーはボート遊びを楽しむ人々が多く訪れていた。穏やかなこの地の様子を気に入ったルノワールは、1870年代の中ごろから足しげく通い、郊外の自然とそれを楽しむ人々を描いていった。代表作の一つ「船遊びの昼飯」も、この地の川沿いのレストランで描かれたものである。

ポン=タヴェンの郊外 オーギスト・ルノワール作 1888-90年油彩・カンヴァス

1880年代後半から90年代初頭にかけて、ルノワールはポン=タヴェンをいくどか訪ねている。ブルターニュ地方の芸術家の集う村で、ゴーガンが繰り返し滞在し、制作を行ったことがよく知られている。ルノワールは、1892年に、この地でのちにセザンヌの手紙を公開するベルナールともで会っている。晩年のルノワールは、1883年頃に印象派の表現に限界を感じ、行き詰まったと述懐している。ルノワールが得意とした人物画では、比較的明確な筆触に分割していく印象派の技法は、人物の形態を表すのに適しているとは言えなかった。1880年代の作品には、その試行錯誤の跡と画風の展開に顕著に認められる。イタリア旅行で目にしたラファエロ・サンツィオの作品やポンペイの壁画などに刺激を受け、1880年代前半からルノワールは、色調を抑え、明確な輪郭線を用い、古典主義に回帰する。しかし1880年代末になると、その揺り戻しのように、豊かな色彩と優しくやわらかい雰囲気をまとう表現が、画面に再び姿を見せるようになる。本作品は、こうした過渡期のなかで描かれたものである。

アンブロワーズ・ヴォラールの肖像 オーギュスト・ルノワール作 1908年 油彩・カンヴァス

アンブロワーズ・ヴォラールは、20世紀初頭に活躍した画商である。1900年以降、ルノワールの作品を扱う主要な画商のひとりとなり、晩年のルノワールから聞き取った話をまとめた「ルノワールは語る」を出版した。ヴォラールは、多くの作家に自らの肖像画を注文したが、なかでもルノワールは彼の肖像画を5点も手掛けている。本作品は3番目の作であり、1908年、ルノワールがヴォラールを南仏に招いた際に制作された。ヴォラールは、裸婦の小像を鑑定する目利きの姿として描かれている。テーブルに肘をつき、小さな石膏像を大きな手に持ち吟味している。胸に黄色いハンカチーフを挿し、スーツを着た姿は成功した画商に似つかわしい。団子鼻で浅黒く巨漢、ときに物売りに間違えられるほど洗練さに欠けた身なりであったと伝えられるヴォラールは、ルノワールの手によって、現実の姿よりもかなり魅力的に描写されているようだ。ヴォラールが手にする石膏像は、アリスティド・マイヨールによるものである。マイヨールはこの頃、ヴォラールからルノワールの胸像の制作を依頼されていた。ヴォラールが彼の作品を手にするのは、そうした関係を示唆しているものかも知れない。テーブルには、青と白の陶人形と陶器が置かれている。どっしりとした画商の存在感を和らげるように、テーブルクロスには軽やかに動物が置かれている。赤を基調とした背景に加え、親密さを感じさせるテーブルクロスは、モデルに対するルノワールの温かなまなざじを伝えてくれる。

靴紐を結ぶ女 オーギュスト・ルノワール作 1918年頃 油彩・カンヴァス

ルノワール最晩年の作品の一つである。印象派展に参加していた頃、ルノワールは近代都市となったパリの人々の新しい日常を積極的に描いていたが、次第に時代を超越した普遍的な主題へと関心を高めていった。晩年は、水浴や身支度する女性の姿を繰り返し描いていった。くつろいだ、様子で、女性は靴紐を結んでいる。左手には、これから身につけるであろう衣服や花飾りがついた帽子が置かれている。晩年のルノワールの作品に特徴的な赤みを帯びた色彩が用いられ、明確な輪郭線は見られず、全体にやわらかい印象がつくられている。女性がまとう下着やペチコート、背景には粗い筆触が顕著にみられ、滑らかな肌の質感を際立たせている。青を用いて陰を表していたルノワールだが、晩年になると本作品に認められるように、黒やグレーを使うようになった。

桟敷席 オーギュスト・ルノワール作 1874年 油彩・カンヴァス

普仏戦争が終わって第三共和制が始まると、観劇の習慣が戻ってきた。劇場は市民にとって社交の場でもあった。桟敷席に陣取った二人は舞台を熱心に鑑賞しているようには見えない。豪華な衣装を身に着けている女性は、ニニと愛称されていたモンマルトルの少女。オペラグラスをかけてあらぬ方向を見ている男性はルノワールの弟のエドモンドである。1874年の第1回印印象派展に出品された記念すべき本作は、1925年、イギリスの画商パーシ・ムーア・ターナーを介し、サミュエル・コートールドが購入したもので、11万ドルという価格は、コートールドが収集に費やしたなかでも最も高額なものであった。オペラやコンサートへも支援を惜しまなかったコートールド夫妻は、本作品を自邸の音楽室に掛けて愛でたという。

税関 アンリー・ルソー作 1890年頃 油彩・カンヴァス

20年以上もパリの関税に務めたルソーは、「税官吏ルソー」とも呼ばれる。40歳頃から本格的に絵を描き始めるが、専門的な美術教育は受けていない。本作品は、彼が自らの職場である税関を主題とした唯一の絵画とされるが、現実と想像を組み合わせて描かれたと考えられている。パリ市の入市税関を撮影した同時代の写真が残されているが、本作品の風景のいずれにも類似しない。本作品はコートールドが収集した唯一のルソーの作品である。本作品は「とても素晴らしい質の小品」と評価していたが、さらなる購入を促すには至らなかったようだ。

舞台上の二人の踊り子 エドガー・ドガ作 1874年 油彩・カンヴァス

踊り子に魅了されたドガは、稽古場やリハーサルの様子をはじめバレエに関わる数多くの作品を残している。上演作品が明らかにわかるがドガの絵画は非常に少ないが、本作品の踊り子は、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の幕間に上演される、「バラの踊り」を舞っているところである可能性が指摘されている。ひとりは赤とピンクの花をモチーフにした衣装、もう一人は葉や萼を思わせる緑が配された服を衣装にまとい、バラに扮しているようだ。ドガは当時流行した日本美術から刺激を受け、西洋美術の伝統には見られない新しい視点を採用することがあった。本作品も、桟敷席から見下ろすかのような、やや高い視点から舞台を捉えている。画面左手には舞台の床が広がり、余白の多い斬新な構成がつくられている。

フォリー=ベルジュのバー エドゥアール・マネ作 1882年 油彩・カンヴァス

フォリー=ベルジェールはパリのミュージック・ホールで、歌や踊り、曲芸や珍獣の公開など多彩な演じ物で人気を博した。本作品の舞台は、その一角にあったバーである。バーメイドはアルコールの提供だけでなく、娼婦となることもあったという。マネは実際にここを何度も訪れているが、制作の際にはアトリエにバーカウンターの一部を再現し、シュゾンという名のフォリー=ベルジェールのバーメイドを呼び、モデルとした。その表情は、ぼんやりとしているようでも、物憂げな様子でもあり、解釈は鑑賞者に委ねられているようだ。マネ晩年の傑作として知られる本作品は、亡くなる前年の1882年のサロンで発表された。無数の観客と喧騒がすばやく粗い筆致で描かれる一方、手前の大理石のカウンターには酒のボトルやオレンジが丁寧に描写される。本作品は、鏡で作られた複雑で多義的な空間に、人物、群衆、静物を卓越した技術で描いたマネの画業の集大成と言えよう。この作前には、大勢の観客が集まり、一番人気の作品であった。

 

本稿は、「時代背景から読み解く」と題する章から選んだものである。産業化が急速に進んだ19世紀フランス。近代都市となったパリでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えていく。パリを起点とした鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、以前より気軽に足を運ぶようになった。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派  2019年」、高橋秀爾「近代絵画史 上」を参照した。)