京都・大法恩寺 快慶・定慶のみほとけ(2)

六観音と言う言葉は、必ずしも仏教美術で決まった用語では無いようである。私が愛用する石田茂作氏の「仏教美術の基本」には、「六観音」という言葉一切出てこない。また平凡社刊の「仏教美術入門」全6冊にも現れない。これは、六観音という言葉は、何かしら謂れが有るのだろうと調べてみたら、次のような事情が分かった。平安時代に栄華を極めた藤原道長が造営に励んだ法成寺は、大日如来や阿弥陀如来などを祀る総合的な大寺院であった。七仏薬師を祀る薬師堂に六観音も安置されることになったが、その姿について道長から相談された真言宗の仁海(にんかい)は、従来とは異なる仏の名前を挙げた。それが、この大報恩寺に伝わる六観音と同じ観音像であった。日本では平安時代まで観音と言えば現世利益の仏であり、あらゆる世界の、特に来世の救済の対象となったことは画期的であった。古代インドの死生観では、あらゆる生き物は生まれ変わり続けるとされており、この転生(てんしょう)する世界をまとめて六道と呼ぶ。六道輪廻と呼ばれる転生の考え方は、仏教の伝来と共に東アジアでも広く受け入れられた。六道とは、上から天、人(じん)、阿修羅(あしゅら)、畜生、餓鬼、地獄という六つの世界であり、私も子供の頃から、祖母から六道について教えられた記憶がある。仏教とは、この輪廻(りんね)から逃れること、すなわち解脱(げだつ)を目指す宗教であった。六観音は六道のどこにいても救済の手を差し伸べるものである。このように説明すると、六観音はどの宗派でも、同じでは無いかと思うのだが、天台、真言宗等に限定されているようである。大報恩寺に伝わる観音像は真言宗で信仰された六観音と言えよう。しかし、大報恩寺の最初から、この六観音が伝来した訳ではない。もともと北野天満宮の鳥居の南側にあった願成就寺経王堂(がんじょうじゆじきょうおうどう)に安置されていたという。大報恩寺の縁起や棟札によれば、「六観音と地蔵像」は、寛文十年(1670)に破損甚だしかった経王堂から大報恩寺に移されたという。さて、この六観音はいずれもカヤ材が用いられており、表面は彩色や漆箔はせず、木肌を露出したままである。これは壇像(だんぞう)を意図して造られたものと考えられる。壇像とは本来、インド原産の白檀で造らるべきであるが、東アジアでは白檀は自生せず、代用材として日本では奈良時代後期より、白檀の代用材としてカヤを用いて多くの木彫像が造られるようになった。この六観音は、動物性の膠では無く、植物性の漆を採用していることも、大きな特徴である。展示会場では真暗な中で、六観音象が弧線状に並べられ、一像、一像にライトが当てられ、浮彫りのように美しく並べられていた。地蔵菩薩は、出口辺りに一躯にみ飾られていた。

国宝洛中洛外図 上杉本 狩野永徳筆 安土桃山時代(16世紀)米沢上杉博物館

この洛中洛外図の第5図の上部に「北野天満宮」を示す鳥居が立ち、左側に北野経王堂が建つ。堂内外には数人の人影が見える。お堂の四面は開け放たれているように見える。蔀戸はあるが、開け放たれているように見える。これは江戸期に入ると壁が出来る。蔀戸を開け放つ状態で、六観音が祀られているとは思えない。慶長11年(1606)豊臣秀頼による経王堂の修繕が行われたことが資料により明らかである。六観音は、経王堂に移座されたとされる。寛文10年(1670)大報恩寺が修繕された際の棟札に「六観音」とある以前、大報恩寺の記録に六観音の記述は確認できない。寛文10年以降は、本堂内陣に安置されていたことがうかがえる。それは明治21年(1888)にフェノロサや九鬼隆一らが京都・奈良等を寺社宝物調査のために巡ったことが知られ、その際の写真(小川一真撮影)が残されている。それによれば本堂内陣向かって右側に馬頭観音・十一面観音・聖観音、向って左手には千手観音・如意輪観音・准胝観音が並んでいた。従って、霊宝館に入る前には、このように並んでいたのであろう。

経王堂扁額  木造・彩色  室町時代(応永32年ー1425) 大報恩寺

北野経王堂に掲げられていた額。「経王堂」と大書し、左下には「大樹陰涼」の方印が刻印されている。江戸時代初期に編まれた大報恩寺の寺誌には、応永8年(1402)足利義満が経王堂を建立した際、みずから「経王堂三大字」を書いて「大殿」に掲げたと記されている。北野経王堂に残された六観音像や「北野経王堂一切経」(5千帖を超す)は、現在大報恩寺に伝来している。六観音像は、いずれも木造、素地、玉眼である。

重文 聖観音菩薩立像  肥後定慶作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

六観音菩薩立像はいずれも針葉樹のカヤの一木造、一木内矧造で造られている。表面には彩色や漆箔をせず、木肌を露出したままとする。これは壇像造りを意図して造られたものであると考えられる。いずれも運慶の長男湛慶よりも10歳程若い「肥後別当定慶」の署名がある観音象であり、定慶一門の作品と解されている。鎌倉時代前期に定慶と呼ばれる仏師は少なくとも四人いたことが知られるが、この定慶は、運慶一門の仏師であることは間違いない。観音菩薩とは、観世音または観自在と訳す。この菩薩は衆生の苦しみを見るとじっとしていられず、その場に飛んで来て苦難を救って下さるのである。蓮華を持つものえを聖観音(しょうかんおん)と呼ぶ。

重文 千手観音菩薩立像  定慶一派作成  鎌倉時代(13世紀)

蓮華を手に持つ観音像である、銘は無く、定慶一派の作品と解されている。正しくは十一面千手千眼観音という。千手の一つ一つの掌に目がついていることによって一切の衆の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。観音菩薩の救済活動の絶大なるを具象的に表したものである。この尊を念ずれば、延命・滅罪・男女和合・転女身等の利益があると説かれ、奈良時代末期頃から平安・鎌倉にかけて信仰が盛んであった。この千手観音菩薩立像は四十二臂にしたものである。

重文 馬頭観音菩薩立像  定慶一派作   鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見いだされ、施主であると見られている。馬頭明王とも言い、その尊容は三目九目八臂の憤怒形で頭上に牛馬を置く。馬頭にちなんで牛馬の息災安全を祈る対象とせられることも多い。定慶一派の作品と見られる。

重文  十一面観音菩薩立像 定慶一派作   鎌倉時代(13世紀)

十一面観音菩薩立像は観音菩薩の頭の上にさらに十個の頭をつける。よって十一面観音という。もともとインド教の神であったが、仏教に取り入れられ観音菩薩の超人間的な頭の働きを分担する菩薩として崇められるに至った。従ってkの尊を念ずれば一切衆生の憂愁・病苦・悪夢等が除減せられると説かれている。定慶一派の作品と見られる。

重文  准胝観音菩薩立像  定慶作 鎌倉時代(13世紀)

准聤観音菩薩立像(じゅんていかんのんぼさつ)は清浄の意味である。女子の純潔の徳をあらわしたものであろう。夫婦和合法、また求児法は、この尊を対象として修せられることが多い。その像容は一面八臂の菩薩形で、連台に乗る。平安中期以降に信仰された菩薩で遺品は、わりあいに少ない。本像の背面に記された墨書銘には「肥後別当定慶」と記され、この六観音菩薩立像はは、定慶一派の作品と推定される根拠になった。

重文  如意輪観音菩薩立像  定慶一派作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見い出された。如意は如意宝珠を意味する。すなわち民衆のために財宝を与え、法輪を転じて煩悩を断徐するを本誓とする観音菩薩である。その尊容は、右足を立膝して坐し、右手第一手を頬に当てて思惟の相をし、第二手は宝珠、第三手に念誦を持ち、左第一手は垂れて地を押さえ、第二手蓮華、第三手に輪宝を持つ。一面六臂が普通である。定慶一派の作品と見られる。

地蔵菩薩立像  木造、彩色、玉眼   鎌倉時代(13世紀)

本像は、寛文10年(1670)、経王堂が解体される際に、六観音菩薩像とともに大法恩寺に移された像と考えられる。なお、京都府で昭和16年(1941)に始まった京都府寺院調査によると、この時点では本堂須弥壇上に安置されていたという。六観音菩薩像のうち、肥後定慶作の准胝観音菩薩立像とよく似ている。衣文は定慶が好んだ表文表現と共通している。また本像は六観音と大きさが釣り合うばかりではなく、鎌倉時代のこの大きさの像としては珍しく一木割矧造としており、六観音菩薩像のうち、十一面観音菩薩像と本像は同時期の造像で、一対の観音と地蔵として造られた可能性が高いと言えよう。本像は、左足の親指を持ち上げて上に向けており、この動きは仏の動的な性格を示すもので、現世に具体的に姿を現した仏であることを表していると言えよう。

 

本稿では、大法恩寺に古くから伝わって来なかった、六観音像や地蔵菩薩像を取り上げた。何時もならば、霊宝館に祀られ、十大弟子と、同様に並んでいるので、あまり深く考えず、制作年代を異にする仏像群程度の認識しか無かったが、「北野経王堂」の存在を知り、そこに安置された、美しい六観音菩薩像と地蔵菩薩像の詳細について触れることが出来た。この、六観音の美しさには、深く感動させられた。「鎌倉時代」の観音様で、一木造り、木肌も綺麗に見える六観音菩薩像は、私を惹きつけてやま無い。

 

(本稿は、図録「京都・大恩寺 快慶・定慶のみほとけ  2018年」石田茂作「仏教美術の基本」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」日経新聞社「2018年9月28日 ガイド ワイド」を参照した)

京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ(1)

京都の大法恩寺は、天台宗の僧侶・義空(ぎくうー1171~1241)によって鎌倉時代のはじめ、承久2年(1220)に創建された古刹である。大法恩寺の歴史は、寺に伝わる二つの縁起(えんぎ)から知ることが出来る。義空は出羽国の出身であり、岩手中尊時に眠る、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡(ひでひら)を祖父に持つと言う。幼少期は鎌倉で学び、19歳で出家、授戒した。鶴岡八幡宮で夢告(むこく)を受け、天台宗を学ぶために上京し、滋賀・延暦寺に入り、澄憲(ちょうけんー1126~1203)に弟子入りした。承久元年(1219)、義空は霊夢を得て、大法恩寺の建立を発願した。翌年に仮堂を建て、3年後の貞応2年(1223)には本堂にとりかかった。この年、「仮堂」には「本尊等身釈迦と三尺の十大弟子」が置かれたという。棟木(むなぎ)の墨書によると、本堂の上棟は、更に4年後の安貞元年(1227)であった。実に発願から十年近い歳月をかけて棟上げにまでこぎつけたことになる。最近の年輪年代測定法で、本堂部材の年輪年代調査を行ったところ、最も新しい部材は、伐採年が1229年と判明した。この調査は、外陣の用材の伐採年が上棟の銘より2年遅れる事を示しており、上棟以後も、本堂の完成まで、さらに時間がかかったことをうかがわせる。多くの人々の寄付を募る勧進(かんじん)という手段によったからであろう。やがて寺は整備され、嘉貞元年(1235)に義空は、俱舎宗・真言宗・天台宗の参宗をあまねく広めること、天下が幾久しく続くよう祈願することを天皇に奏上した。これが認められ、大法恩寺は天皇のお墨付きを得た御願寺(ごがんじ)となった。多くの人々が、天台宗の戒律を受け、天台宗の根本経典である法華経の講義に結縁(けちえん)するために、門前に集ったという。内陣の骨格が出来上がり、最上部に棟木が架けられたのは安貞元年(1227)12月26日頃のことだった。棟木に記された義空自筆の願文には、本堂に等身釈迦如来、弥勒(みろく)、文殊(もんじゅ)、十大弟子の各像が安置されたと記されている。(墨書の写真がある)ここで、六菩薩が明記されていないことを、記憶にとどめて頂きたい。

国宝  本堂  木造・桧皮葺き  鎌倉時代(安貞3年ー1227の棟木あり)

大法恩寺本堂は、棟木銘の願文により安貞元年(1227)に、市井の人々の信仰を集め、天台宗に学んだ義空によって建立されたことが知られる。本堂は桁行5間、梁行(はりゆき)6間で、大棟に並行な方に入口のある平入(ひらいり)の建物で、檜皮葺(ひはだふき)、入母屋造(いりもやつくり)の屋根で、国宝に指定されている。平面は太い四天柱に囲まれた内陣と脇陣、正面に礼堂(外陣)、背面に後戸(うしろど)が取り付き、これらの周囲に切目縁が廻る。中世初期の密教本堂の代表作の一つである。同寺の最古の建築であり、建立後は、たびたび大きな修理によって改造がおこなわれてきたが、昭和29年(1954)の解体修理によって当初の姿に復元され、檜肌葺きの屋根のゆるやかな勾配に復元された。創建当初の姿をとどめる本堂は、奇跡的に戦火を免れた、洛中最古の木造建造物である。

国宝 礼堂(外陣)  木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

中世の密教本堂は、仏像を安置する正堂(内陣)と人間が礼拝する場である礼堂(外陣)が併設されることを大きな特徴とする。大法恩寺の礼堂は、母屋柱の上に大虹梁(だいこうりょう)を架けることにより梁間2間分の広々とした空間を作り上げている。私たちが、大法恩寺に詣でる時に、上がって仏像を拝む場所に当たる、現存する建築物のなかでは、大法恩寺本堂が初例である。

国宝  正堂(内陣) 木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

本堂中心部の平面は、太い四天柱(してんばしら)に囲まれた内々陣とその周囲一間をめぐる内陣で構成された一間四面堂の平面となっており、四天柱内には仏壇を作って厨子を置き、本尊を納めている。このような中心部に四天柱を持つ求心的平面形式は、天台宗の阿弥陀堂や法華堂などを原型として発展したものと考えられ、義空と天台宗の関係性が建築の形に表されたと考えられる。写真には本尊が映っているが、秘仏であり、私は、本展覧会で初めて本尊を拝した。

重文 釈迦如来坐像  行快作  木造、金泥塗り、漆箔 鎌倉時代(13世紀)

大法恩寺の秘仏本尊であり、年数回しか開扉されない。釈迦如来坐像で、本陣須弥壇の厨子内に安置されている。台座は蓮華九重座、光背は透かし彫り周縁部を伴う二重円光で、また厨子の天井中央には天蓋が吊るされているが、これらはすべて像造当初のものが残されている。本尊は、像高89.3cm(約3尺)の等身坐像である。像内には全面的に黒漆が塗られており、背面下部には「巧匠法眼 行快」と朱署名がある。鎌倉時代を代表する仏師。快慶の弟子、行快(ぎょうかい)(生没年不詳)の自筆の署名であろう。行快が法橋に任ぜられたのは、嘉禄3年(1227)8月以降であるとされる。衣を偏袒右肩(へんたんうけん)に着し、左手を膝の上に置いて掌を上に向け、右手は掌を前に向ける施無為・與願印(せむい・よがんいん)を結び、左足を上に坐している。図録によれば、最も重要な本尊を快慶が造らい訳がない。快慶作の本尊は、「仮堂」に安置され、それが何等かの事情で失われたために、一番弟子の行快が、秘仏を作成したものであろうと推察している。脇侍の弥勒・文殊菩薩は、何時しか失われたのであろう。

重文 十大弟子立像 快慶作  木造・彩色・裁金・玉眼 鎌倉時代(13世紀)

釈迦の弟子のなかでも、特に優れた十人を取り上げて「十大弟子」と呼ぶ。それぞれに出家した年次によってのみ上下関係が築かれ、協力して教団を支えた。経典には個別に登場することが多く、次第に釈迦の弟子の代表として4人、6人と選ばれるようになり、十人ひとかたまりとすることが定着した。出身地こそ、釈迦の布教範囲であるガンジス河流域に集中しているが、王族である釈迦の親族から司祭者階級のバラモン、労働者に至るまで、幅広い出自を持ち、さまざまなエピソードも知られる。奈良・興福寺の十大弟子(国宝・奈良時代ー8世紀、現存は六躯)、京都・清凉寺の十大弟子(重文、平安時代ー11世紀)、京都・大法恩寺(重文・鎌倉時代ー13世紀)神奈川・極楽寺十軀(重文・鎌倉時代ー13世紀)などが有名である。夫々に○○第一と名付けられるが、それは個々に招介したい。大法恩寺の十大弟子の色彩は、背面が今にも美しく残る。それぞれ頭部体幹部を一材から彫り出したのち、前後に割放して内刳りをほどこす割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられている。目建連には「巧匠/法眼快慶」の銘がある。また優婆離の像内には「法眼快慶/法橋行快」の銘がある。署名のある弟子、無い弟子と夫々であるが、快慶歳晩年の名作でまとまって現存するのは、この大報恩寺の十大弟子なのである。制作時期については、発願された承久元年(1219)から仮堂が建った承久3年(1221)頃が推定される。快慶は嘉禄3年(1227)に亡くなっているので、その最晩年の快慶(一門)の作である。

重文 十大弟子の内 舎利拂立像 像高 94.8cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 目建連立像 像高 97.2cm 鎌倉時代(13世紀)

 

舎利拂(しゃりほつ)は聡明さで知られる「智恵第一」の舎利仏である。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。目建連(もっけんれん)は釈迦の護衛を勤めた「神通第一」の舎利仏である。目建連立像には快慶の名前が記されている。優婆離と目建連以外に、他の像には銘文は見出されないので、素直に捉えるなら、目建連は快慶作であり、優婆離は、快慶とその弟子行快の合作であると解すべきであろう。

重文 十大弟子の内 大迦葉 像高 98.0cm 鎌倉時代(13世紀)   重文 十大弟子の内 須菩提 像高 94.0cm 鎌倉時代(13世紀) 

大迦葉(だいかしぉう)は清貧を貫いて、釈迦没後の教団を指導した長老で「頭陀第一」の舎利仏である。この像は快慶一門の工房作となるだろう。作者の名前は特定できない。須菩提(ずぼだい)は何事にも実体はないことを明らかにする「解空第一」の舎利仏である。この像も、快慶一門の工房作であろう。作者の名前は特定できない。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。

重文 十大弟子の内 冨楼那立像 像高96.4cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 迦旋延立像 像高 99.8cm 鎌倉時代(13世紀)

 

冨楼那(ふるな)は、仏弟子の中でもっとも説法に優れた「説法第一」とされた。冨楼那の風貌は、比較的若い。迦旋延(かせんえん)は、釈迦の教えを分かりやすく解説した「論議第一」とされる。容貌は穏やかで深く沈んだ表情をしている。この2体には作者の銘記が無いので、快慶工房の作であろう。

重文 十大弟子の内 阿那律立像 像高 96.7cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 優婆離立像 像高 96.0cm 鎌倉時代(13世紀)

  

阿那律(あなりつ)は、説法中に居眠りを叱責され、不眠の修行に励んだため失明するに至り、代わりに智恵の眼を得た「天眼第一」とされた。穏やかな顔には、唇の朱が目立つ。失明したせいか、穏やかな風貌で若く見える。優婆離(うばり)は戒律を守ることに勝れた「持律第一」とされた。本像には像内の額裏に「法眼快慶/行快/法橋」と記されている。快慶と行快の共同作であろう。

重文 十大弟子の内 羅醐羅立像 像高97.9cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 阿難佗立像 像高 97.0cm 鎌倉時代(13世紀)

   

羅醐羅(らごら)は、修行態度が堅実で、もっとも学ぶ意欲に満ちた「密行第一」とされた。釈迦の肉親であり、「釈迦の息子」と伝えられている。顔も若く見える。阿難佗(あなんだ)は、釈迦の侍者を勤め、多くの説法を聞いた「多聞第一」とされた。釈迦の従妹とされる。

 

この展覧会では、真っ暗な大きな部屋で、釈迦如来を中心に、十大弟子を扇面のように配置し、一つ一つの仏像にライトを当てるという素晴らしいレイアウトで魅了された。毎回、霊宝館で見てきた十大弟子が一人一人ライトアップされ、黒漆塗の肌が美しく照り映えた。「見せ方」一つでこんなに変わる物かと思った。釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子像は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内に安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写真で残されている。大法恩寺が建立された13世紀前半は、人々に仏の教えが届かず、仏法を実践する者すらいなくなる末法(まっぽう)の世を強く実感させる時代であった。12世紀末より全国規模で起こった源氏と平氏の内乱、度重なる大規模災害、なにより戦乱のさなかに東大寺の大仏が焼く崩れてしまったことは、仏法の破滅とそれと連動する王権の衰微を強く印象づけた。こうした時代背景のもと、仏教の教主である釈迦の教えに立ち帰ろうとする動きが強くなり、釈迦信仰が隆盛した。天台僧の義空は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという「法華経(ほっけきょう)」の教えにもとずいて、大法恩寺を創建した。須弥壇表、裏には壁画が描かれている。今は、朽ちて殆ど満足に見られないが、比較的画題の判り易い仏後壁には「釈迦例鷲山説法図」(しゃかりょうじゆさんせっぽうず)を主題とするものである。大法恩寺本堂後壁は、裏面は壁画により、表面は壁画のみならず釈迦、十大弟子の像によって成り立つ立体曼荼羅により、釈迦霊鷲山説法を表した類例のない空間構成をとるものと思われる。

 

釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内にに安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写されている。大法恩寺は、京都では千本釈迦堂と呼ばれ、愛されている。上京区にあり、本堂前には「お福さん」と呼ばれる笑みの美しい女性像が安置されている。「千本釈迦堂のお福さん」と京都の人々は愛称している。むしろ庶民信仰のお寺のように人気の高いお寺である。

 

(本稿は、図録「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ   2018年」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第8巻 京都Ⅲ」を参照した)

横 山 崋 山 展

 

江戸末期に京都で活躍した画家・横山崋山については全く知らなかった。NHKの日曜美術館で、「伊籐若冲に並ぶ画家」と教えられ、東京ステーション・ギャラリーで見学した。結論から言うと、「伊籐若冲と並ぶ」は言い過ぎであるが、一応注目しておく画家であることは間違いない。特に風俗画に勝れ、最後の作「祇園祭礼図」は素晴らしい傑作であり、歴史的記録としても貴重である。横山崋山(1781/4~1837)は江戸後期の京都で活躍した絵師であり、画壇の潮流に左右されない自由な画風と筆遣いで人気を博したと言う。同時代の記録によれば、かなり有名な絵師であったらしいが、大正、昭和期に入ると、いつしか無名の画家になってしまった。図録では「樺山崋山を見逃せない」という記事を描いている辻惟雄氏(かの「奇想の図譜」を書かれた)が、「私も実はこれまであまりよく知りませんでした」と冒頭に延べられている。この展覧会の聡監修者であった永田生慈氏(故人・葛飾北斎研究の第一人者)は、約20年前から崋山に興味を持ち、少しずつ「崋山の画業」を研究してこられ、「今は埋もれてしまったが、必ず年何年後に再評価される画家だ」と話されていたそうである。辻惟雄しは、最晩年の「祇園祭礼図」を絶賛されるが、私は初期のものから十分研究し、評価できる絵師ではないかと思う。詳しい履歴は略すが、越前の生まれ、京都の横山家に養子入りし、そこで曽我蕭白(1730~81)の絵に接し、その影響を受けたようである。その後、岩駒(がんく)に師事し、呉春に私淑して一家をなし、西洋風の陰影も学び、いずれの傾倒にも属さず、「平安人物誌」にも掲載されたことがあったそうである。また、江戸にも聞こえたこともあり、幕末には、京都・江戸では有名な画家であり、弟子も取って横山派を率いたとされる。明治15年頃には、フェノロサやウイリアム・ピゲロー、ヘンリー・アダムス等が崋山を評価し買い集め、すべてボストン美術館に集められたいるそうである。また大英博物館に所蔵されているものもある。明治初期に、外国人には高い評価を受けながら、日本社会からは何時しか忘れ去られた存在となった。私が、「崋山展」でみた作品から判断すれば、横山崋山は、十分評価できる画家であり、明治期の散逸が惜しまれる。

蝦蟇仙人図 横山崋山作 一幅  絹本墨画淡彩

曽我蕭白の蝦蟇仙人図(ボストン美術館)と並んで、懸けられていた。蝦蟇仙人とは、妖術を使った中国の仙人で、日本でも古来より好画題として描かれている。特に有名なのが、曽我蕭白の作(ボストン美術館)であるが、横山崋山は幼い頃から蕭白を学んでおり、自らの世界観を広げて蕭白に追いつき、超えよと努力をしてきた跡が見える。蕭白を写すのではなく、蕭白画の不自然な形態を変え、自然な姿に描いている。

観山拾得図 横山崋山作 一幅 紙本墨画 江戸時代 ボストン美術館

松ノ樹の下で巻子と箒を持って佇む寒山と拾得は、奇矯な行動で知られた中国・唐代の国清寺の僧である。寒山の落款と印章がなければ、蕭白画と見誤る人も多いだろう。この絵は蕭白だけでなく、岩駒(がんくー1749~1833)の画風も偲ばせるものがある。両者を見後に折衷している。蕭白よりも近代性を感ずる。

唐子図屏風 横山崋山作 六曲一双 紙本着色 江戸時代(文政9年ー1826)

右隻では犬と猫を連れた子供が走りだし、花を摘む子、蝶を追いかける子の姿がある。画面中央では闘鶏が行われている。子供達の円らな瞳はその対戦に向けられている・第4扇で手を挙げる子供の視線の先には、極細の線で描かれた糸が伸び、鳳凰を象った凧が空を飛ぶ。岸辺には亀を放つ子、川の中では少年がドジョウを取り逃がすまいと両手を挙げている。屏風浦には明治25年(1892)の監査状が転付されており、認定者には岡倉天心、九鬼隆一の名前が見える。当時の所蔵者は、大丸創業者十二代当主の下村正太郎氏であった。少なくとも、明治時代中頃には、横山崋山は、監査状を貼られる程に著名であったことが分かる。

華落一覧図 横山崋山作 紙本木版摺  江戸時代  京都市資料館

崋山の名を一躍世に知らしめた刷物で、京都を俯瞰的に捉えた近世の都市鳥瞰図として知られる。刷物であり、広く京落の人々から愛好されたのであろう。京都の様子を西山の上空から東山方面を大きく俯瞰している。画面中程の左右に鴨川が流れ、中央やや左寄りに二条城、右より御所が見える。右下の東寺、鴨川をはんさんだ反対側には、当時焼失したはずの方広寺の大仏殿のみが描かれ、名所が分かりやすい。それだけ大雑把に描かれているのであろう。文化5年(1808)に京都で発行されたものである。なお、発行元の風折政香は京都の蒔絵師である。発売されると大評判になり、版が重ねられた。

紅花屏風 六曲一双 横山崋山作 紙本着色 文政6年、8年(1823~25)山型美術館

 

これより先は、図録で風俗(人々の共感)と題している部類である。私は崋山らしさが一番発揮される絵画であると思う。この絵は、京都の紅花問屋、伊勢屋理右衛門が、祇園祭の屏風祭で飾る為に本図の制作を崋山へ依頼したものである。伝統的な四季耕作図の画面構成を下地に、画面上部は山々や川を遠景に描き、画面下部には紅花生産に従事する市井の人々の営為を描く構図となっている。右隻に種まきから花摘みといった紅花を育て収獲するまでの光景mそして大振りの紅餅(花餅)を作る様子が描かかれる。左隻には小振りの紅餅を作る作業風景とともに、荷造りを経て紅花を出荷する光景が表現されている。人物の顔や体には西洋風の陰影表現も見られる。両隻には年紀があり、右隻は文政6年(1823)、左隻は同8年(1825)と左右両隻で制作年が異なる。本図の制作に際し、崋山が文政2年(1819)に紅花の産地を巡る取材旅行を敢行したことが分かっているが、右隻の制作年まで4年の歳月があることから、取材旅行は2回行われたと思われている。最良質の岩絵具や紙、金を惜しげも無く遣い、長い年月をかけて丁寧に制作しているだけあって、崋山が描く風俗画の屏風としては飛び抜けた出来栄えの作品である。山形県指定有形文化財である。

夕顔棚納涼図 一幅 絹本着色 江戸時代    大英博物館

実に牧歌的な絵である。夕顔の蔦が伸び、花開く棚の下、夫婦らしき男女2名二人が涼む夏のひと時を描く。鍬が二人の傍らに描かれており、農作業を終えた跡の解放感に満ちた姿であろう。庶民の何げない日常のひと時を描きながら、風雅な印象を与えている。崋山が私淑したという吾春の描法をしっかり身に付け、存分にこなしていることが本図より明らかである。画中にある「平安」の文言により京都ではなく、地方に住む人の注文作とわかる。この画題から、私は国宝の久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」を想い浮かべた。図録の作者も同じ感想を漏らしている。しかし、何故、この名画が、大英博物館に移ったのであろうか?大英博物館の目利きの鋭さと、日本人の鈍さを痛感した。

 

天明火災絵巻 横山崋山作 紙本着色  江戸時代  京都国立博物館

天明8年(1788)に、京都で天明の大火が発生した。正月晦日の夜のことで、若冲も住居を失い、転居している。近世京都を大きく2分した出来事である。団栗橋の東詰より出火した後、その炎は鴨川を超えて京都市中のごとんどを瞬く間に焼きつくした。天明の大火の被災状況を報じる瓦版や版本は多いが、この未曾有の大火を描く肉筆画は無い。本図は無款のため、筆者の名を直接示す情報は無いが、人物や樹木などの描法は崋山そのものである。落款や印章を捺す必要は無かったのであろう。特定の人物による依頼作だった絵巻と思われる。炎のすざまじさが、良く表現されている。

やすらい祭図屏風 横山崋山作 紙本着色六曲一双 江戸時代 京都国立博物館

京都洛北の今宮神社のやすらい祭の祭列を大きく活写した作品である。鉦や笛などで奏でるお囃子の音が今にも聞こえてきそうである。一人ひとりが大きく描かれているだけに、祭列の直ぐ傍らにいるかのような錯覚を覚える。このように臨場感に富む祭礼描写は崋山の独壇場である。本図には引手の跡があり、もとは襖絵であったことが分かる。

祇園祭礼図巻 横山崋山作 上巻 紙本着色 縦31.7×長1514.5cm天保6~8年 江戸時代 下巻 縦31.8×長1570.0cm

(上巻)

(下巻)

上下2巻、計30メートルもの長さにわたって祇園祭の全貌を描き尽くそうと稀有の例の祭礼絵巻である。上巻(上2枚)は稚児社参より始まり、宵山、そして前祭の山鉾二十三基が巡行する様子を丁寧に描く。下巻(下2枚)は後祭の山鉾十基が巡行する光景を描き、三基の神輿が御旅所より祇園社へ還幸する様子、そして四条河原の納涼、祇園ねりものと実に印象的に描いている。本図は江戸後期の祇園祭の祭儀を知る上で欠かせない資料である。

 

 

冒頭で、横山崋山について全く知らないと述べたが、自分が持っている本を確認したところ、井浦新「江戸絵画の非常識」にしばしば出てくることに気付いた。作品として「紅花屏風」、「花洛一覧図」が写実的描写として招介されている。最後の「祇園祭礼図巻」が紹介されていないのが残念である。横山崋山は、江戸時代から明治時代までは、割と知られた絵師であったようである。しかし明治15年頃にアメリカ、イギリスに大量に流出し、特に昭和になってからは、殆ど忘れられてしまった絵師である。夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも出てくる。岩波文庫版30pに崋山が二人出てくる。四国の骨董好きの下宿の親爺から、二人の崋山のどちらかの掛軸を15円で売りつけようとする場面がある。明治期には、地方でも知られた存在であったことが分かる。横山崋山を何時、何故、日本人は忘れたのか?思いがけない、横山崋山との出逢いは、近代日本とは何であったのか、何故大切な美術品をやすやすと外国に売り飛ばしたのか、等幾つかの疑問が出てきた。特に大英博物館に出た、「夕顔棚納涼図」が残念である。

 

(本稿は、図録「横山崋山展    2018年」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、夏目漱石(岩波文庫版「坊ちゃん」を参照した)

オルセー美術館 ピエール・ボナール展(2)

1900年代に入ると、ボナールは食堂、果物、花を画面の中心にした静物画を多く残した。このような室内画や静物画では鮮烈な色彩によって、慣れ親しんだモチーフが未知のものへと変貌を遂げているかのようである。ボナールはやがてやわらかな光のなかに壮大な風景が広がるノルマンディー地方の自然に魅了されるようになった。クロード・モネの睡蓮の展示を見たボナールは1909年の冬、ボナールはヴゥイヤールと連れ立ってジヴェルニーにモネの家を始めて訪れた。翌1910年には、ジヴェニールからおよそ5キロメートルのところに位置するヴェルノンの地に小さな家を借り、1912年にこの家を購入している。ノルマンディーの暮らしはボナールの制作意欲をおおいに刺激し、窓やテラスに広がるセーヌ川の眺めをはじめ、野生の植物の茂る庭、窓やテラス等に制作意欲を刺激されている。また、南フランスの陽光にも魅せられており、1910年の初めから、フランス各地を転々としながら制作に励んだ。それはモネやルノワールら印象派の画家たちを発見した時期にも重なっている。1900年代半ばからコート・ダジュール沿岸を毎年のように訪れていたボナールは1926年にル・カネの丘の上に建つ家「ル・ボスケ(茂み)」を購入し、この地からは、なだらかな斜面を覆う家々とその先に地中海を臨むことができた。1939年以降は、パリやノルマンディーに赴くことを止め、第二次世界大戦の戦火を避けて、ル・カネに引き籠ることになった。このようにフランス各地を転々としながら、各地で制作に励んだ。

猫と女性 あるいは餌をねだる猫 油彩・カンヴァス 1912年頃 オルセー美術館

モデルの顔の上半分陰で覆われいるが、丸みを帯びた顔、ぼってりとした唇、そして栗色の髪の毛は、彼女をマルトだと認識できる。1893年、パリの街角でボナールはマルト・ド・メリニーと名乗る少女と出合った。彼女はやがてボナールの恋人となり、1925年には正式に結婚した。出逢ってから1942年にマルトが亡くなるまで、彼女はボナールの作品にしばしば登場する。本作でボナールは、マルト、猫、そして食卓という、馴染み深い3つの主題を一緒に描いており、日常の何気ない主題が扱われているにもかかわらず、工夫を凝らした構図が用いられている。前景では、皿の丸み、そしてテーブルの丸みとマルトの肩の丸みが呼応しており、後景では、暖炉の端、壁、椅子に用いられた垂直方向の直線の要素が画面を支配している。この静的な画面に動きを与えているのが斜めの要素である。テーブルに乗り出した白い猫の体を伸ばした斜めの姿勢は、皿の上に置かれた魚を狙う猫の視線とほぼ同じ角度で描かれている。この絵はボナールを代表する絵であり、展覧会の冊子の表紙に取り上げられていた。

ル・カネの食堂の片隅 油彩・カンヴァス  1932年頃 オルセー美術館

ボナールは1926年にカンヌ近郊のル・カネに別荘を購入し、「ル・ボスケ(茂み)」と名付けた。翌1927年、それに隣接するアーモンドの木々が植えられた土地も購入して同地に居を定め、1931年以後はこの別荘を南フランスの主な住居とした。ボナールはこの時期「ル・カネの食堂」等の構図を好んで採用した。「ル・カネの食堂」等の構図を好んで採用した。「ル・カネの食堂の片隅」は、1933年のベルネーム=ジュンヌ画廊での個展に出品された。この作品は、空間の統一性という点では比較的整合性の取れた作例であった。

ル・カネの食堂 油彩・カンヴァス  1935年  オルセー美術館

画面の手前にテーブルを置き、その一番奥に人物や動物を配した構図が非常に多く見られるようになった。本作も、人物が一番奥に配され、壁の色に溶け込んで、注意して見ないと見落としてしまうほどである。シャルダンを崇拝したボナールは、テーブルの隅にモチーフを置くことに喜びを覚えていた。淡いタッチで画面の端に描かれた人物は、周辺部がぼやけて見えるという、私たちの実際の視覚とも呼応したかのようである。人物が背景に溶け込み、容易に見付けることが出来ない。こうした室内画では、鮮烈な色彩によって、慣れ親しんだモチーフが未知のものへと変貌を遂げているかのようである。

ボート遊び 油彩・カンヴァス  1907年   オルセ美術館

20世紀に入って印象派を「再発見」したボナールは、とりわけクロード・モネに惹きつけられ、1912年には彼の住むジヴェルニーに近いヴェルノンに居を構えている。この絵は、前景のボートは、犬を連れた女性と子供たちを乗せて川のたゆたう。水鳥や落葉で彩られた水面に向かって、画面右端のボートで寝そべる少年は、木の枝を垂らしている。緑景の丘には家々が立ち並ぶ。ここで舟先は大胆にトリミングされており、見る者の立ち姿と遠景のモチーフが同じ色調で描かれているために、本作の遠近法は厳密ではない。戸外ではなくアトリエの内部で印象派的な主題に向き合った彼の絵画には、現実離れした空間構成や色使いが認められる。

セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて 油彩・カンヴァス 1911年頃 ジュール・シェレ美術館

ボナールが購入したヴェルノンの家「マルロット(私の馬車車)は、セーヌ川に面する斜面に建つている。2階にはテラスがあり、そこから見える眺望を、ボナールは風景画や装蹄画で度々描いている。本作に描かれた窓は解放された室内に明るい光をもたらしている。本作を手掛けた頃、彼はアンリ・マチスの「開いた窓」(1911年)を購入した。画面端で切断された家具や、壁にかけられた画中画は、マチスの作品に共通するモチーフであるが、本作の特徴的なのは、室内に差し込む西日に沈んでいる点である。本作は室内画であると同時に風景画なのであり、両者の関係は、暖色と寒色、人工物と自然物、定型と不定形といった対立項の均衡で表現されている。

にぎやかな風景  油彩・カンヴァス  1913年頃 愛知県美術館

本作は富豪ヘレナ・ルビンスタインの邸宅を飾るために注文されたものである。小さな別荘「マ・ルロット(私の馬車馬)」のセーヌ川の対岸に位置するジヴェルニーにはモネが住んでいる。本作の舞台はセーヌ川が流れるヴェルダンだと推測される。川の畔で、前景右側のマルトと愛犬ユビュは陰に覆われるように描かれており、中景には動物を従える人物たちがひっそりと描かれているのが分かる。前景左側で明るい陽射のもと動物たちと戯れている4人の女性は、日常を楽しんでいるようであり、この世ではないアルカデイアの住人にも見える。1910年代にボナールは、このような叙情性に満ちた牧歌的風景を描いた大型の装飾画を立て続けに制作している。

ル・カネの眺望  油彩・カンヴァス  1924年  オルセー美術館

この地からは、なだらかな斜面を覆う家々と、その先の地中海を臨むことができた。また「ル・ボスケ」の2階のテラスに立つと、眼下に広がる家並みと彼方の海、背後にそびえるエステケレ山脈を一望でき、ボナールは飽きることなくこの俯瞰の風景を描いている。1939年以降は、パリやノルマンディーに赴くことを止め、第二次世界大戦の戦火を避けてル・カネに引きこもることになった、政治や社会のみならず、歴史や芸術までも揺らいでいた時代にあってボナールは、ただひたすら自然に対峙し、そこから得た感動を絵画化するという姿勢を貫き通した。こうした態度をニースに暮らすアンリ・マチスも共有しており、戦争中ふたりの画家は多くの書館を交わしてお互いを鼓舞しあった。

南フランスの風景、ル・カネ 油彩・カンヴァス 1928年 オルセー美術館

ボナールは1926年に小高い丘に建つ家「ル・ボスケ(茂み)」を購入した。この家からは、ル・カネの街並みと地中海、エステル山脈が一望できた。庭にはミモザやアーモンドの木が茂っている。晩年のボナールは、あらゆる角度から「ル・ボスケ」の周辺を描いている。ボナールは、下り坂に広がる街並と、高くそびえる山脈の織りなす起伏に興味を持ったようだ。

花咲くアーモンドの木 油彩・カンヴァス 1946~47年 オルセー美術館

「ル・ボケ(茂み)」には小さな庭があり、画家の寝室からはアーモンドの木を見ることができた。冬が終わりを告げるとともにピンクがかった白い花を咲かせるこの木を画家はしばしば描いている。一連の作品の中でも最後の1点となる本作は1946年に着手された。黒々とした線で描かれた木の枝は、それまでの作品に較べるとかなり簡略化されれ、色彩はより鮮やかなものとなっている。死が目前に迫った1947年の1月、すでに自ら筆をとることのできなくいなっていた画家は、甥のsィアyルル・テラスに頼んで画面左下の緑色の部分を黄色で覆い尽くした。色彩の限りない豊かさを求めることでボナールは、この小さな絵の中に、毎年花開くアーモンドの再生を謳い上げようとしたのである。

 

パンフレットによれば、ピエール・ボナールは20世紀に入ると、目にした光景の印象をいかに絵画化するかという「視神経の冒険」に身を投じ、鮮烈な色彩の絵画を多数生み出した。本国フランスでは近年ナビ派の画家たちへに評価が高まり、2015年にオルセー美術館で開催されたピエール・ボナール展では51万人が魅了され、2014年のゴッホ展に次ぐ歴代企画展入場者数の第2位を記録したそうである。約130点超の作品で構成される展覧会には約30点の初来日の作品が含まれているそうである。間違いなく「色彩の魔術師」のとりこにされるだろう。

 

(本稿は、図録「オルセー美術館 ピエール ボナール展  2018年」図録「国立西洋美術館名作選」、高橋秀爾「近代絵画(上)」、日本経済新聞社2018年10月27日「ピエール ボナール展」を参照した。

オルセー美術館企画 ピエール・ボナール展(1)

1880年代の後半から90年代にかけて歴史の上で決定的な役割を果たすようになったゴーギャン、ゴッホ、ルドン等の新しい傾向は、印象派の後に登場したという意味で、一般的に「ポスト印象派」という名称で一括されることが多い。事実、私も「国立近代美術館 平常展(2)」で、「印象派以降」という名称で、ゴーギャン、ゴッホ、ボナール等を取り上げた。たしかに彼らは、多少印象派の美学の影響のもとに育ち、スーラー、ゴーギャン、ルドン等は印象派グループ展にも参加しているから、その意味で「印象派」の画家の後継者であったと言えないことはない。実は、彼らの活動を見てみると「ポスト印象派」というより、むしろ「反印象派」だったのである。1886年の第8回印象派グループ展は、形式的には印象派の最後の展覧会であったが、実質的には「反印象派」の最初のマニフェストであったと見て良い。では、1886年の第8回印象派展に続く歴史的催しは、1889年、ゴーギヤンやその仲間たちが集まって開催したポン=タヴェン派の展覧会であった。この展覧会は「印象主義及び反印象主義のグループ展」と名乗った。後に「象徴主義」と呼ばれる派や、ゴッホ、ロートレックを経て「ナビ派」が誕生した。若い画家が、秘密結社に似た熱心なグループ活動を行った。ネブライ語で「預言者」を意味する「ナビ」という言葉のグループの名称とした彼らは、自分たちの仲間だけで通用する独特の用語を使ったり、絵画、彫刻、工芸、舞台美術などの広い分野で、多面的な活動をした。この「ナビ派」は、19世紀から20世紀にかけての転換点を代表する重要な運動であった。ポール・セリュジェ、ピエール・ボナール(1867~1947)、エドュワール・ランソン、モーリス・ドニ(1870~1943)、ポール・ランソン等が主要なメンバーであった。この「ナビ派」の中で、特に代表的な芸術家を選ぶとすれば、ピエール・ボナールであろう。彼は、仲間から「日本かぶれのナビ」と呼ばれた程、日本の芸術(特に浮世絵)に強く惹かれたのであった。ピエール・ボナールは20世紀に入ると、「色彩の魔術師」と呼ばれるほど、多彩な輝きの豊麗な色彩に覆われるようになる。ピエール・ボナールは間違いなくフランスを代表する画家の一人である。「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」は、オルセー美術館の豊富なコレクションを中心に国内外の作品を集めた大回顧展である。企画や素描や版画、写真など約130点を展示する。うち30点が初来日である。東京国立新美術館で12月17日まで展示される。

庭の女性たち  4組装飾パネル  1890~91年  オルセー美術館

ボナールの日本美術に対する強い関心が現れている初期の代表作で、1891年に画家が初めてアンデパンダン展に参加した際に出品された装飾パネルである。当時フランスでは日本の浮世絵が関心を集め、ジャポニズムという流行が生まれた。ボナールはナビ派の一員として活動していた。彼のなかでもボナールの日本美術への愛着は際立っており、「日本かぶれのナビ」と称されるほど、作品には日本美術の影響が強かった。この絵の縦長は、日本美術における掛軸の形式を想起させる。長いドレスを着た後ろ向きの女性の服装に施された幾何学的文様と背景に描かれた植物文様は、画中の奥行きを暗示することなく、遠近感を無効化する効果を画面に与えている。

黄昏(クロッケーの試合) 油彩・カンヴァス  1892年 オルセー美術館

1892年の第8回アンダパンダン展に出品された。この絵を見た評論家が「日本かぶれのナビ」と評した。本作は、一つの視点から描いたような遠近法の統一は見られず、複数の異なる視点が画中に導入されていることがわかる。これはナビ派時代のボナールの描き方の大きな特徴の一つである。舞台はイゼール県ル・グラン=ランスにあったボナール家の別荘の庭である。当時流行していたクロッケーに興じる家族とその周りを走る犬、その奥には白いドレスを着た少女たちが輪になって踊っている姿が描かれ、これらの人物を手前の木立から覗き見る構図となっている。

格子柄のブラウス  油彩・カンヴァス  1982年   オルセー美術館

これも第8回アンデパンダン展に出品された作品である。ボナールは、画面はあくまでも自然とは別のひとつの「構成された世界」であり、それ自身の秩序を持つ自律的な世界だったのである。あくまでも自然の忠実な鏡であろうとしたモネの美学との差は、おのずから明らかである。

乳母たちの散歩、辻馬車の列 多色摺りリトグラフ 1987年 ボナール美術館

この作品は1894年にテンペラで描かれた4点1組の屏風形式の作品で、110部限定で制作された多色摺りリトグラフの一つである。この作品も日本美術の要素が色濃く反映されている。屏風形式や広い余白の取り方は、明らかに日本美術からの影響である。腰をかがめた女性の姿勢は浮世絵にしばしば現れる女性の姿である。ボナールの手紙によれば、本作の場面はコンコルド広場である。上部に描かれた停車する辻馬車の列は、各々の屏風の場面を一つに統一する役割を果たしている。この辻馬車の列を後景として、中景では柵を前に釣鐘型の衣装を身にまとった3人の乳母たちが、前景の人物たちを静観している。静的な後景と中景は、前景の車輪で遊ぶ子供達と2匹の犬、それを見守る女性の動きを際立たせている。

ランプ下の昼食  油彩・厚紙  1898年  オルセー美術館

このランプのある室内というテーマは、当時のブルジョア家庭の雰囲気を伝えると同時に、ナビ派画家たちが携わっていた象徴主義演劇の仄暗い演出にも通じていた。ボナールにとってこの主題は、ランプが生み出す思いがけない光と影の効果を探究する場でもあった。5人の登場者がいるが、判るであろうか?閉ざされた空間の中に巧みに人物や調度品を配置しながらボナールはありふれた日常にひそむ幻想性を描き出している。

大きな庭 油彩・カンヴァス  1895年   オルセー美術館

ボナールはしばしばフランス東南部イゼール県のル・グラン=フランスにある別荘「ル・クロ(果樹園)」を訪れ、夏の余暇を両親や妹アンドレの家族と共に過ごした。敷地内の果樹園で、一家は果物の収穫を楽しんだ。「大きな庭」の舞台もこの地である。犬や鶏が歩き回る庭で果物を収獲する子供達はアンドレの子供達と推測される。右を向いた女性と画面右側の体半分しか描かれない子供は、画面の右外側で起きている見えない出来事に対して観者の意識を促す。自然の風景と、子供の外部の出来事を推測させる不思議な絵である。

フランス=シャンパーニュ 多色摺りリトグラフ1891年川崎市民ミュージアム

ボナールの父は息子が法律の道に進むことを望んでいたが、芸術に目覚めたボナールは、大学で法律を学ぶかたわら絵画制作に励んでいた。そして1889年、ボナールが制作したポスターがフランス=シャンパーニユの広告コンクールで受賞し、賞金100フランを獲得したことをきっかけに、父はようやく息子が画家になることを認めた。黄色い背景に、シャンパンを持つ女性の身体とシャンパンの泡がリズミカルなアラベスクで浮かび上がるこのポスターは、1891年にパリの街中に張り出されて話題を呼び、ロートレックにも大きなインスピレーションを与えた。このようにボナールは(ナビ派は)絵画に止まらず、ポスター、印刷にも乗り出したのである。

化粧台 油彩・カンヴァス 1908年   オルセー美術館

1908年頃からボナールは、身体を洗う裸婦の主題に取り組むようになる。バラ模様の壁紙に彩られた室内に立つのは生涯の伴侶マルトだろう。鏡の枠で裸婦の頭部は大胆に切り取られているが、かとぁらに写り込む白い布から、入浴する裸婦の姿であることが分かる。この作品が描かれたモンマルトルのアパルトマンでは数々の裸婦画が生み出されたが、特に重要なのは、鏡の効果を探究した一連の作品である。

化粧台あるいはバラ色の化粧室 油彩・カンヴァス 1914~21年オルセー美術館

化粧室内における裸婦像の中で一番完成された作品が、この作品であると私は考えている。特に裸婦像の中で重要なのは、鏡の効果を探究した一連の作品であり、この作品が、一番完成した作品であると思う。裸婦の姿が鏡に執り込まれた様子が良く判る。バラ色の壁紙も美しいが、裸婦の後ろ姿も一番美しい。生涯の伴侶であったマルトと推定されている。「ボナール展」の冊子にも採用されている。

浴盤にしゃがむ裸婦 油彩・カンヴァス 1918年 オルセー美術館

本作は10年ほど前に撮影されたスナップショットやデッサンに基に描かれた作品である。浴盤の上にしゃがんで、緑色に輝く水を注いでいるマルトは画家の存在に気付いていないかのようである。浴女という主題や折れ曲がった身体の表現、俯瞰する構図は、エドガー・ドガの裸婦像を思わせる。ボナールは、モデルにポーズを取らせず、各々の動作に没頭するように求めた。ここで描かれているものも、持病の神経障害を和らげるために一日に何度も入浴したというマルトの日常的動作である。一連の入浴する前後の夫人像は、マルトの持病が、一つの要因であったかも知れない。

 

ピエール・ボナールと言う作家は、それ程日本では興味を持たれていなかった。私も、わずか1回だけ、国立西洋美術館 常設展(2)の中で一度取り上げただけである。ナビ派についても、詳しい説明をしてこなかった。今回の展覧会を通じて「色彩の魔術師」と言われたボバールの全体像が示され、単に「ポスト印象派」ではなく、「ナビ派」として世紀の転換点に立つた、絵画であることを理解した。「ボナール」はフランスを代表する画家の一人であり、印象派に続く世代であり、日本美術にも強い影響を受け、浮世絵の手法などを積極的に取り込んだ画家である。この作品は世界的に人気が高まっている。

 

(本稿は、図録「ピエール ボナール展  2018年」、図録「国立西洋美術館名作選」、高橋秀爾「近代絵画史(上)」、日本経済新聞社2018年8月20日「特集 アートライフ」を参照した)

お江戸散歩  江戸川と大名庭園から大隈庭園まで

明治乳業のOBグループ有志(東京在住)で、毎年行う秋の「お江戸散歩」を10月16日に楽しんだ。曇り勝ちで、写真の出来栄えは悪い。今年は20名余の参加で、年々参加者が増加している。一番若い人で65歳位から、最長老は90余歳であるが、70~80歳代が一番多い。世間から見れば、高齢者かも知れないが、日常的に牛乳やヨーグルト、チーズ等を常食しているためか、年齢以上に元気な方が多かった。昨年から「大名庭園」をテーマにしてコースを組み立てているが、今年は肥後熊本家の池泉回遊式庭園が選ばれた。まず、地下鉄有楽町線の「江戸川橋駅」に集合して、表に出て、江戸川橋まで歩いた。本来神田川であるが、何故かこの辺りは江戸川と古来呼んでいたようである。今でも駅名は「江戸川駅」である。

江戸川の流れ

川は真っ黒い色をした悲しい情景を見せてくれている。

江戸川橋の名札

確かに「江戸川橋」と書かれており、今でもこの辺りは江戸川と呼ばれているのであろう。東京と千葉の県境にあるのが「江戸川」であると思っていたのに、何故お江戸の真ん中に江戸川があるのだろうか?橋だけでは無い。公園まで「江戸川公園」となっている。

「江戸川公園」の地名表

橋だけでは無い。公園まで「江戸川公園」になっている。ちなみに東京都の「歴史散歩」と題する本には次のように記している。「井の頭池・全福寺池・妙正寺池から流れる川が合流して江戸川となり、九段下・一つ橋・本石町あたりから日本橋川となって永代橋で隅田川に流れ込む。浅草橋で隅田川に流れ込む。浅草橋で隅田川にそそぐようにしたのが人工の神田川なのである。」江戸川とは、東京と千葉県の間を流れる「江戸川」と関係なく江戸に流れる川なので、江戸川と呼んだのであろう。不思議に思った川の名前が良く分った。まるで、全体が「神田川」と勝手に思い込んでいたが、どうも「神田川」という歌に引かれて、すべての川を「神田川」と勝手に思い込んでいたのであろう。この公園は文京区が管理する公園で、気持ち良く整理されていた。

江戸川の両岸の桜

この江戸川橋あたりから上流にかけて桜が両岸に植えられ、桜の季節にはさぞ、賑わうことであろう。今でも、桜が咲いていないのに大勢の人が散策を楽しんでいるようである。

大滝橋

この辺りから神田川と呼ばれていたようである。昔はこの辺りに大洗堰(定量以上の水は堰の上を流れこえるように設計した堰堤)と呼ばれた堰(せき)が造られていたそうである。伊賀」上野藤堂家が幕府からこの堰堤(えんてい)工事を命ぜられたとき、旧主家の縁で、芭蕉も工事に従事したとの伝えがある。

関口芭蕉庵の門

この工事の関係か、芭蕉は「隠棲庵」と呼ばれる水番屋に住んだが、これがいつしか関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。月、火が休みなっているため、当日は中に入り見学することは出来なかった。古い建物では無く、現代の建築物である。門の写真のみでを写した。この辺りは椿山荘が近く、椿山荘ホテルの建物も見えた。ここから先は急坂で、大凡20度程度の角度の傾斜面を登った。かなりきつい坂であった。

永青文庫

肥後・細川家の家宝を伝える美術館である。この美術館は細川家の2代前の細川護立氏が建立し、細川家に伝わる美術品の保管と、自身が集めた白隠や仙崖の作品等の保管・展示を目的とした美術館で、江戸期の作品が多く保管されている。熊本県立美術館にも、細川家の美術品が保管されており、永青文庫と熊本県立美術館の間で、美術品が往来することもある。この美術館の大きな特徴は、図録を造らず、「永青文庫」世飛ぶ呼ぶ小冊子を年4回の特集に合せて発行することである。最近の図録は一般的に厚くなり、3000円程度の金額になり、それを残そうと思うと、大変な重さになり、余程、保管能力を家の設計時に作って置かないと、10年、20年間の図録を保館することは不可能である。しかし永青文庫は、前は300円であったが、今回の「江戸美術の美」は絵入り印刷が多く、500円で28ページに纏められていた。軽量で低価格の図録となるが、欠点は全作品が採用されていないことである。小松館長が、永青文庫104号に「館長の独り言」というエッセーを書かれている。それに依れば、「最近、業界の人たちが集まると、展覧会図録の売れ行きが悪い、という話が良く出ます。これも、お客様と図録を作る側の意識のずれていることのあらわれではないでしょうか。(一部略)展覧会情報をコンパクトに発信し続けている「季刊永青文庫」の形は、まことに斬新で、多くのお客様の意にかなったものではないかと思います」と述べられ、大体10人に1人が買上げてくれるそうである。「図録販売不調の時代にあって、これはすごいことだと思います」と結ばれていた。誠にその通りだと思った。図録の3000~2500円は高すぎると思う。小さい美術館では、図録の発刊が難しくなっいている。例えば、隅田区立の「すみだ北斎美術館」では、最初の図録は出来たが、その後は図録を作っていない。従って、私は、1回しか「すみだ北斎美術館」には行っていない。

永青文庫 「江戸絵画の美」 衛藤良行筆「領内名勝図鑑」 江戸時代後期

熊本で細川家の御用を勤めた絵師に矢野派という流派がある。室町時代の雪舟とその画流を受け継いだ雲谷派を祖とした。初代矢野三郎兵衛吉重が、細川忠利が熊本に転封されたときに付き従い、以後熊本に根付いた。5代目良行の代に全盛を迎えた。その代表作が「領内名所図鑑」であり、15巻にわたって濃密な筆致で描いたもので、全巻合わせると400メートル以上になる。この時代、細川斉滋(なりしげ)のもとで、熊本では多彩な絵画文化が花開いた。この絵は図鑑の中の「上益城郡矢部手之内」を描いたものである。

肥後細川庭園への案内板

本日のメイン会場である、肥後細川庭園への入口であるが、ここから庭園に降りるまでは急坂の連続であり、体力のある人でないと無理である。かねて急坂であると聞いていたが、聞いた話以上に急坂が続いた。

肥後細川家庭園

これは池泉回遊式庭園であり、庭の大半が池である。実は尾張徳川家の庭園が解放され、今年の6月に、徳川庭園を訪ねたが、大半が池で、これは庭園というより徳川池と呼ぶ方が相応しいのではないかと思ったが、この肥後細川家の庭園も80%以上が池である。これだけの池を造るのに、どれだけの人力が懸ったかは、思いのほか、多いであろう。後方に見えるのが「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれる建物で、旧熊本肥後藩下屋敷のあった地で、細川家の学問所として使用されていた。大正時代に改修を行い、一時期は細川家が使用していた。現在の建物は、歴史性を生かして保存・修復を行うと共に、耐震性を確保し、平成28年(2016)にリニュアル・オープンした。集会室が四室、回遊式展望所・山茶花、喫茶・椿があり、そこではお抹茶とお菓子が頂ける。

大隈庭園

歩く会の終点は、早稲田大学内にある大隈庭園である。この庭園は、井伊掃部頭、松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を早稲田大学の創設者・大隈重信が文人風に改造したものである。没後、邸宅と共に大学に寄贈された。昭和20年5月の空襲で庭園は廃墟と化したが、多くの人々の努力により、ほぼ昔の景観どおりに復元され、今日に至っている。

桜が満開

先の台風で葉が散ってしまい、桜が季節を間違えたのか、この桜は満開であった。異常気象の影響もあるだろう。大隈庭園の入口に近い場所である。後ろに、大隈講堂の頭が見える。

重文 早稲田大学大隈記念講堂 鉄筋コンクリート造 三階建地下一階 時計台付

庭園の近くに大隈講堂が建っている。重要文化財に指定されていたので、写真に収めた。昭和2年(1927)に建設され、早稲田のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としたゴシック様式を加味したわが国近代の折衷主義建築の優品として、高い価値がある。佐藤功一氏の代表作である。平成19年(2007)に重要文化財の指定を受けた。

 

今回の「お江戸歩き」は、階段の多い道であり、胸突坂や、永青文庫から細川庭園まで降りる急坂など、結構階段の多い散歩となった。しかし全員、終点の大隈庭園まで、無事到達し、午後4時半から6時半まで、大隈講堂の横に新設された高層ビルの15階にある「森の風」レストランで、ビールと食事を楽しんだ。15階からの夕方の東京の景色は素晴らしく、暮れゆく夕色を楽しんだ。

 

(本稿は、「東京都の歴史散歩・上」、文京区刊「目白台・関口の歴史」、「肥後細川庭園」、「松聲閣」、図録「永青文庫NO104号」を参照した)

京都・醍醐寺ー真言密教の宇宙(3)

16世紀に入り第八十代座主となった義演(1558~1626)は、豊臣秀吉からの保護を受け、戦乱に荒廃した伽藍の復興整備を進めた。秀吉最晩年の慶長3年(1598)春に催された「醍醐の花見」は、安土桃山時代の華麗な文化を象徴的に表す出来事として、広く知られる。慶長年間に造営された三法院表書院障壁画の金銀に彩られた襖絵や俵谷宗達をはじめとする諸流派の絵師が描いた屏風は、当時の醍醐寺の繁栄をよく伝えている。宗教というより一大文化運動とも呼ぶべき「醍醐の花見」を、まとめてみたい。

重文 醍醐花見短冊  安土桃山時代(慶長3年ー1598)

慶長3年(1598)3月15日、豊臣秀吉、秀頼、北野政所、淀君をはじめとする近臣数百名による絢爛豪華たる花見が醍醐寺で開催された。その際に詠まれた歌を、上に藍、下に紫の雲形を漉き込んだ内曇(うちぐもり)の料紙に金銀泥で下絵を描いた短冊に認め、後に醍醐寺に奉納したもので、131葉からなる短冊帖である。秀吉の最晩年を飾るに相応しい花見であり、この年の8月に秀吉は63歳で没した。

金天目・金天目台口径12.6cm、高台径2.5cm天目高5.9cm桃山時代

慶長3年(1598)の醍醐の花見のあと、豊臣秀吉は病に伏した。これは秀吉の平癒を祈祷した座主儀演に、褒美として遺されたと伝える秀吉愛用の金天目と金天目台である。木製の碗に薄く延ばした金板を被せたもので、当時流行を見せた中国の盃被天目(はいかぶりてんもく)を祖形としたものとされる。なお、醍醐寺にはこれと同形・同寸の金天目1口が別に伝わる。いかにも秀吉愛好の天目である。

松桜幔幕図屏風 生駒等寿作  六曲一双   江戸時代(17世紀)

松と桜の間に張られた幔幕を、六曲一双全体に描いた屏風である。右隻には大きな松を幔幕の手前に描くが、右隻には桜の幹を幔幕の向うに描き、左端の上方から画面中央に向けて満開の花をつけた桜が枝を伸ばす形で描かれている。幔幕は赤い地の上に白く染め抜いた五七桐紋を、白の平塗りによって表している。調度品としての屏風の機能内には、室内や桟敷席の間仕切りとして使用される他に、野外の宴の場に広げられる場合があるが、この屏風も用途に合わせてさまざまに活用される可能性もある。作者は生駒籐寿(1626~1702)である。如何にも、秀吉好みの派手な屏風である。

国宝秀吉不例北杜法次第 醍醐寺文書聖教 紙本墨書安土桃山時代(慶長3年)

北杜法は天変、疫病、夭死(ようし)などの除災のために北杜七星を供養する密教の修法(ずほう)である。本品は、慶長3年7月、病床に伏せる豊臣秀吉の平癒を祈願して、儀演を道士に、醍醐寺金剛輪院において修された北杜法の次第を書き記したものである。本題の末尾には長文の奥書があり、このたびの病状悪化に伴って、7月7日に北政所から祈祷料として黄金50両の下賜があり、翌8日から14日まで金剛輪院小御所において北杜法が修されることをはじめ、伴僧を勤めた僧十口の名と装束、道場や護摩壇の荘厳や供物の内容、声明、伴僧や関係の人々への施物の分配などが記されている。その時代の、細部に亘る内容が記された貴重な資料である。

重文 三法院障壁画 表書院上段之間 柳草花図 安土桃山~江時代(16~17世紀)

醍醐寺三法院障壁画には、長谷川等伯派の筆と推定される画面が、この表書院上段之間の柳草花図である。現状では、何れの画面も剥落が激しく退色も進み、さらに補筆がかなり施されており、描かれた当初の状態を復元する作業は極めて難しい。少なくともこの画面は永徳様式の紺碧障壁画とは異なり、中世のやまと絵系障壁画にむしろさかのぼるような情趣深い様式を備えている。四室に残る障壁画の中でも、最も優れた画面として評価が高いのは、この「柳草花図」である。

重文 三法院障壁画 東側四面 秋草図 安土桃山~江戸時代(16~17世紀)

秋草図は、水墨の雪山を配置し、遠景に大きく瀧を描く。さらには秋の野の紅白の菊花や、遠景に大きな滝を描く。さらには秋の野の紅白の菊花や、著色の萩を近景に描く傍らに、前後にしなやかな枝葉を伸ばす竹と柴垣とを墨の濃淡を変えながら描き添え。「秋草花図」に通じる性格を見出せよう。この「秋草図」は等伯の作品と認定する学者もいる。

重文 扇面散図屏風 俵谷宗達作 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)

俵谷宗達(生没年不詳)が手掛けた扇面画を、二曲一双の屏風に貼り付けた作品である。仮名草子「竹斉」によれば、宗達は京都の絵屋「俵屋」を営み、扇面画で評判をよんだらしい。そのため工房作も少なくないが、本屏風の扇面の各所にには、宗達その人の悠然とした息遣いが感じられる。この扇面画の制作背景としての他の宗達作品と醍醐寺の深い関係があったと推測される。おおらかでくつろいだその色彩と意匠性は多くの人を楽しませるに違いない。同寺には宗達の重文・「舞楽図屏風」もあるが、今回は出展されなかったのが残念である。

 

密教美術の宝庫である醍醐寺は、近世の豊臣秀吉の「花見の宴」を除いて語ることは出来ない。秀吉関係の美術品・古文書も多数あるが、今回は花見の宴に関わる美術品を中心に、三法院障壁画を加えて解説した。いずれ京都古寺巡礼の旅で、醍醐寺の三法院と、その庭園を報告する機会を作るので、今回は、この3回で終わりたい。

 

(本稿は、図録「京都醍醐寺 真言密教の宇宙  2018年」、古寺巡礼京都「6醍醐寺」、探訪日本の古寺「第七巻 京都洛中・洛南」、日本経済新聞2018年9月18日特集「真言密教の歩み 追走」を参照した)

京都・醍醐寺  真言密教の宇宙(2)

密教は、教理そのもを探究する「教相」(きょうそう)と、その実践である「事相」(じそう)の二つからなるもので、特にこれまでの仏教とは異なる現世利益を実現する事相は、寺院と僧侶によって重要な宗教活動とされ、教相よりも強調される傾向にあった。加持祈祷(かじきとう)とか修法(ずほう)と呼ばれるものが目立つ。これらの相承は、誰も出来るものではなく、師から資質が認められた弟子へと口伝(くでん)によってされることを原則としている。このような相承の流れを「法流」と呼ぶ。本来ならその流れは一つである筈だが、加持祈祷や修法の実践方法の違い等により次第に細分化していくことになる。真言密教における大きな法統は小野流と廣澤流であり、小野流の祖となる人物が聖法で、醍醐寺がその中心寺院となった。もう一つの広沢流は聖宝の法兄になる益信(やくしんー827~906)を祖とし、仁和寺を拠点としている。どりらもその寺院のある地名に因んだ呼称となるものである。醍醐寺は、真言密教の二大法流の一方の拠点として、密教でもより事相である実践に重きをおいた寺院として発展してきたのである。この性格は、醍醐寺に伝わる密教美術を中心とする宝物に関わってくる。密教の実践は、身、口、意(しん・く・い)の三密行を基本とし、手に印を結び(身)、口には陀羅尼(だらに)を唱え(口)、心には本尊を観想する(意)ことにより、行者と本尊の一体化をはかり、それによって様々な宗教的効験を得られるとするもので、これが密教の修法の基本となる。その際、思い描く本尊や緒像の図像が不可欠で、密教と造形美術の密接な結びつきが生まれる。つまり、密教の修法において、その本尊となる絵画などの絵像であり、時には彫刻となるのである。事相の寺として様々な願いに応じるための修法を行ってきた醍醐寺に、数々の彫刻や、白描図が伝わってきた訳である。本章では、白描図、図像をまとめて研究したい。

国宝 閻魔天像  絹本着色  平安時代’(12世紀)

地獄の支配者閻魔大王を密教像として、太い線をもって力強く描いた画像である。正面向きではなく斜め右に描かれており、左足を垂れ、右脚を曲げて水牛の背の乗る。うすい彩色や墨線で仕上げられて、堅苦しさがなく柔らかに描かれている。閻魔天像は宮中の安産を祈祷する密教修法である五檀法(ごだんほう)を修する際、脇壇の本尊として用いられる。醍醐寺においても鳥羽天皇の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)も安産祈願のために閻魔天供が修されたことが知られ、現存する「閻魔天騎牛像」は、その際の本尊に当たると考えられている。

重文 普賢延命菩薩坐像 紙本彩色  鎌倉時代(建久9年ー1198)

四頭の象に支えられた蓮華座に坐す二十臂(ひ)の普賢延命菩薩を墨のみで描く。「金剛口決」(こんごうくけつ)に説かれる像容を示し、その姿は、次の像に似ているが、持物の一部と白象の頭上に立つ四天王が右から多聞天、持国天、増長天、広目天と並ぶのはほとんど類例が無い。書写年を示すと考えられる「建久九年六月廿四日」のほか、「仏身黄色」「朱」といった色合いの指示が記されておりそれは裏面にも及ぶ。由緒ある画像を忠実に写そうとする慎重な配慮がうかがえる。

重文 普賢延命菩薩像  絹本着色  鎌倉時代(13世紀)

増益(ぞうやく)や延命長寿を祈るための普賢遠命法の本尊となる普賢延命菩薩を描く。二十本の腕(二十臂)を持ち、四頭の白象が支える蓮華座に結跏跋座する。像の頭上には四天王(右から持国天、増長天、広目天、多聞天)が立つ。普賢延命菩薩像には二臂と二十臂の二つのタイプがある。真言密教では二十臂が主流である。本図に見られる激しい損傷は、この図像が三内で重んじられ、たびたび修法に使用されたことが窺える。延命長寿は、多くの人が望んだことだろう。

重文 孔雀明王図像  紙本墨色  鎌倉時代(12~13世紀)

羽を広げて立つ孔雀の上に坐す孔雀明王を描く。孔雀明王は四臂で、右手第一は蓮華、第二手は倶縁果(くえんか)を、左手第一手は胸前で吉祥果を持ち、第二手は孔雀尾を持つ。明王の下に華盤(けばん)を描くほか、頭部や羽などを描いた部分図も同じ料紙に貼り合わせている。孔雀明王像を本尊とする孔雀経法は、息災(そくさい)や増益(ぞうやく)のほか、さまざまな祈りに応える修法(ずほう)として平安時代以来、絶大な支持を得た。白描図像ながら丁寧に彩色を施し、正中線を用いて正確を期すなどの慎重な制作態度から、本図は彩色本を制作するための本格的な下絵として描かれたと見られる。

孔雀明王  一幅  絹本着色   鎌倉時代(13世紀)

正面向きで羽を広げる孔雀に乗り、蓮華座に座る孔雀明王を描く。四本の手を持ち、右手には蓮華と倶縁果(くえんか)、左手には吉祥果と孔雀尾を持つ。画面下の左右には宝珠を置き、右上に月輪(がちりん)に包まれた蓮台(れんだい)を表す。孔雀明王は。、毒蛇さえも食べるという孔雀を神格化したもので、あらゆる災厄をはらうとして信仰を集めた。息災や増益(ぞうやく)、祈雨のため修される孔雀経法の本尊とされるが、空海の影響が大きい。裏彩色(うらざいしき)や中間色を多用したおだやかな色調、肉身に施された微妙な朱、丸みを帯びたおだやかな面相など、平安仏の雰囲気を残した優美な作例である。

重文 善女竜王図像 深賢筆  鎌倉時代(建仁元年ー1201)

冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女善竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。醍醐寺には、善女竜王を描いた作例としては鎌倉時代にさかのぼる白描図がもう一幅、彩色本も一幅残されており、醍醐寺において重視されたことが窺える。

善女竜王図  絹本着色  一幅   鎌倉時代(13世紀)

空海所縁の尊格で、請雨経法(しょううきょうほう)の本尊として重視された善女竜王を描く。涌雲に乗る王族風の龍王の姿は、平安時代・久安元年(1145)に絵仏師定智が描いた「善女竜王図」(国宝、和歌山、金剛岑寺蔵)と細部まで一致する。前出の白描描図像をもとに描いたと推定される。本図における、緑や青、橙などほぼ原色で用いる明快な色使いと謹直で太さのある描線は、醍醐寺に残る鎌倉時代の絵画に共通する。

重文 不動明王像 紙本白描 信海作   鎌倉時代(弘安5年ー1282)

右上隅の銘文より、弘安5年(1282)に仔細があって描かれた像であることが分かる。海上に孤立した岩の上に立ち、剣を杖に体を前かがみにして前方を見るともなく沈思している精悍な不動の姿を描く。筆者の信海は似絵(にせえ)の名手といわれた宮中繪所(えどころ)の絵師藤原信実(のぶざね)の第4子に当たると言われ、醍醐寺に住み画僧として仏画を描いていたらしい。

重文 不動明王図像  長賢筆  鎌倉時代(13世紀)

向って左に顔をふり、身体は右に向け、右手に剣、左手に羂索を持って悉悉座(しつしつざ)に坐す不動明王、両目は見開き、上の歯で下唇を咬む。髪は全体をまとめて左耳前に垂らし、頭頂に蓮華を載せる。全体を包む火焔光背には迦楼羅鳥(かるらちょう)が表されている。本図の原本は京都・神護寺に伝わる高雄曼荼羅(国宝)の中の不動明王像に求められる。高雄曼荼羅は、空海が唐から請来した両界曼荼羅(現存せず)の現存最古の転写本で、空海在世時に制作されたと考えられる。本図はその不動明王の姿を細部までよく写しているものである。なお、彫刻作例ではあるが、醍醐寺に残る快慶作不動明王坐像も同じ図像による。

重文  不動明王坐像  快慶作  鎌倉時代ー建仁3年ー1203)

像内削り面に墨書銘があり、そのうち胸部には建仁3年の年紀や仏師快慶の法号が記されていた。本像の像様については、これまで京都・東寺講堂像に端を発した、いわゆる「大師様」であることが語られてきたが、醍醐寺伝来の長賀筆「不動明王図像」は裏面に「以高雄曼荼羅本様摸之」と注記があり、本像とほぼ一致する形式を示す。白描図は彫刻の下図として活用されていたことが分かる。

 

真言密教は教相(教義)と事相(教義に基ずく実践)を主柱として継承されてきたが、とりわけ醍醐寺では、聖宝(しょうほう)による創建以来、公武権力との関わりのもとで事相を前面に掲げ、鎮護国家や現世利益のための修法を重んじながら存続と発展を図ってきた。醍醐寺に伝存する聖教は、事相に関するものが大半を占めている。特に修法の次第や作法に関する口伝を記したものが多く、醍醐寺聖教の世界は、修法の世界そのものと言っても過言ではない。第二章では、絵画特に白線描図を中心にまとめてみた。白線描図は仁和寺と醍醐寺が最も多く伝わっている。やはり真言密教の事相を中心に維持発展してきた流派であると思った。事実、長賢筆の不動明王図像が、鎌倉時代の快慶作の「不動明王」(重文)となって表されている。仏像の彫刻のみを見ていては、本当の密教美術は理解できないと思った。

 

(本稿は、図録「京都・醍醐寺真言密教の宇宙  2018年」、古寺巡礼・京都「醍醐寺」、図録「鳥獣戯画 京都・高山寺の至宝  2015年」日本経済新聞2018年8月20日「特集 アートライフ」を参照した)

京都・醍醐寺 真言密教の宇宙(1)

サントリー美術館で「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」展を11月11日まで開催している。醍醐寺は密教美術の宝庫であり、特に真言密教の仏像・仏画は7万点に登り、日本でも世界でも密教美術の宝庫として知られる。御承地の通り、密教は空海が日本にもたらした新しい仏教であるが、真言密教の仏像類は、日本が世界で最大の保管数を誇る。醍醐寺では、平成28年(2016)国宝・重要文化財を多数含む寺宝を、初めて中国で展示した。展覧会は高評を博し、上海と西安の二都市で80万人以上の来場者を迎えた。この中国の展覧会を記念して、この展覧会が日本で開催されることになったのである。私は、何度も醍醐寺を訪れているが、今回は展覧会に沿って、寺宝(仏像・仏画・古文書類)を中心に解説を試みたい。密教美術は、ある意味でグロテスクであり、中々興味を持てないものであるが、できるだけその用途、修法(ずほう)などに触れながら、解説したい。なお、醍醐寺と言えば、秀吉の桜見物が有名であり、その意味でも三法院が重要であるが、今回は堂塔の紹介は最小限に抑え、展覧会の目的である「真言密教の宇宙」を中心にお話を展開したいと思う。いずれ、「京都古寺巡礼」として、醍醐寺と周りのお寺を巡り、「京都古寺巡礼」の旅を記す機会をお約束して、展覧会を忠実に再現したい。さて、醍醐寺には下醍醐(しもだいご)と上醍醐(かみだいご)に別れる。上醍醐とは、下から約1時間20分程登った山頂に存在する寺院である。私は、登ってみて約500メートル程の高度であると思ったが、中々上醍醐まで登頂する人は少ない。貞観11年(869)に東大寺別当であった聖宝(しょうほう)は、笠取山の山頂で湧き出る水を発見し、飲んだところ、「醍醐味なり」と称賛し、「私はここに精舎(しぉうじゃ)を建て、仏法を広めたい」と思い、自ら刻んだ准睼観音(じゅんていかんのん)・如意輪観音菩薩を奉安し、醍醐寺の開創となった。時は貞観16年(874)のことであると伝えられている。以来、醍醐天皇の帰依を受けこの山上に延喜7年(907)に、薬師堂を建立し、薬師三尊を奉安した。

国宝  薬師如来及び両脇侍   平安時代(10世紀)   霊宝館

醍醐寺を開創した聖宝(しょうほう)の死後、弟子の観賢(かんけん)が遺志を継いで延喜13年(913)に完成したものである。薬師如来像は、台座から3メートルもある大きな仏像であるが、それを取り巻く脇侍の日光・月光菩薩は120cm程度で、如来の大きさと、脇侍の高さがアンバランスに見える。しかし10世紀以来の形である。三尊とも一木造、表面に漆箔を施している。醍醐寺草創期の記念碑的作品であり、思わず頭が下がる尊像である。平安初期の仏像の典型例である。本尊はもとより、日光、月光菩薩とも平安時代初期の仏像の典型例であり、本尊は特に重厚な感じがする。

重要文化財 如意輪観音像  平安時代(10世紀)    霊宝館

如意輪観音は、聖宝(しぉゆほう)が准抵(じゅんてい)、如意輪観音像をまつり醍醐寺の始まりとして以来、寺内においては特別に信仰されてきた。本像は、もと上醍醐滝宮(寛治2年ー1088)鎮座の本地仏(ほんじぶつー神体)として祀られていた像である。6本の腕には蓮華・輪宝・如意宝珠・数珠を持ち、ふきらみのある顔や頭部と胴部を一木で彫成しているなど平安時代初期の作風を示し、10世紀末までさかのぼる可能性が高い。美しい、密教仏らしい仏像であり、私は好きだ。

醍醐水(だいごすい)の基

笠取山中で聖宝(しょうほう)が出合った翁(地主尊、横尾明神)が「永く此の地を師に献ぜむ。よく密教を広め群生を救済せよ。吾も亦擁護せむ」と告げ、落葉をかき分けて、その下から湧き出した泉を汲んで「ああ醍醐なる哉」と讃えたという醍醐寺発祥の湧水である。醍醐(だいご)とは牛乳から作った乳製品とされているが、多分「チーズ」の意味であろうと言われている。それが液体化したということは、私は、むしろ今日のヨーグルトではないだろうかと勝手に想像している。「ヨーグト」こそ、醍醐寺の場合は、心の糧として仏法が最高の味の味であるとするのであろう。

国宝  五重塔  平安時代(10世紀)    下醍醐

3間5重の塔婆(とうば)で本瓦葺、高さ38.2メートルの安定感のある堂々たる五重塔で、京都に遺るものとして最古の五重塔である。「醍醐寺雑事記」によれば、承平元年(931)朱雀天皇が醍醐天皇の冥福を祈って建立を祈願、20年を経た天暦5年(951)村上天皇の御宇うに完成し、翌年に塔供養が催行された。初層内部に描かれた両界曼荼羅・真言八祖像をはじめとする壁画は、醍醐寺最古の密教絵画で、我が国絵画史上貴重な作品である。

国宝 五重塔初重壁画両界曼荼羅図 旧連子窓羽目板断片 平安時代(天暦5年ー951)

塔の建立とほぼ同じ時期に完成したと考えられる両界曼荼羅や真言八祖像などによって埋め尽くされている。今回展示されたのは、旧連子窓羽目板断片2枚で、かっては南側西寄りの壁に嵌められていたものである。ここに描かれた壁画は、唐からの将来品に倣うことから少し自由になり、やがて平安時代後期にわが国独自の美麗なる表現を確立するまでの過渡期を伝える極めて貴重な遺例である。

重分 五大明王像  木造  5体  平安時代(10世紀)  霊宝館

中央が不動明王坐像で、左に金剛夜叉明王、大威徳明王、右に降三世明王、軍荼利明王の五大明王像である。かって上醍醐にあった醍醐寺初代座主観賢(かんげん)の草建になる中院(ちゅういん)に本尊として伝わったとみられる像である。当初の五躯がそろう五大明王像としては、京都・東寺講堂像に次ぐ古作となる。眼球を飛び出させ、歯をむき出した恐ろしげな顔を持ち、細身の体つきなど独特の雰囲気を醸し出す五大明王像で、胴体・頭部を一木で彫りだし、深い内刳りを施す技法で造られる。10世紀ごろ制作になる五大明王の古例として珍重される。醍醐寺には五大明王像が仏画を合せて数組存在しており、密教寺院らしい象徴的な尊像の一つである。その中にあって本像は、上醍醐の五大堂に安置されていた五大明王像に次いで制作された伽藍整備期の作であり、醍醐寺の実質的な基盤を築いた初代座主の観賢の思想が反映された違例として貴重な遺産である。

国宝  虚空菩薩立像  木造  平安時代(9世紀)   霊宝館

醍醐寺に現存する仏像のうち、最古の仏像で、制作時期は同寺の創建以前に遡る。像本体から遊離する天衣(てんね)部分も含め、本体から台座蓮肉部まで一材より彫り出したものである。着衣は体躯の動きに合わせながら深く鋭く刻まれており、量感ある肉身表現とともに、本像をスケールの大きな像に仕立てている。カヤと見られる堅い材を用い、一木から彫り出す技法や、固い材を生かした彫刻表現などは、本来香木である白檀を用いてつくる壇像の特徴となるものである。カヤは白檀が自生しない日本における代用材と考えられ、本像はそれを用いた「代用壇像」の一例に数えられる。本像は長く聖観音像とされてきたが、近年の調査で醍醐寺内に伝わった菩提寺の「虚空蔵菩薩」と刻まれた版木に表された像の形状が本像と同じであることから、平成27年(2015)の国宝指定に伴って名称が変更された。なお私見であるが、この仏像は密教仏ではなく、顕教仏であると私は見ている。専門家の意見を聞きたい。

国宝  五大尊像  図像 絹本着色 鎌倉時代(12~13世紀) 霊宝館

図像であり、彫刻仏では無い。中央が軍荼利明王、大威徳明王、右が降三世明王、金剛夜叉明王の五大尊像の図像である。鎮護国家を祈る仁王経や、息災や調伏(ちょうふく)を目的とする五檀法の本尊となる五大尊像である。不動明王や大威徳明王など五尊を一幅ずつに描いた五幅対である。不動明王以外の四明王は、12世紀に成立した図像集「別尊雑記」所載の遠心様(えんしんよう)にほぼ一致する。鎌倉時代初期にさかのぼる五大尊の名品である。これこそ、密教美術らしい図像であると思う。

重分 大元帥法本尊像(6図)内大元帥明王像(36臂)絹本着色 鎌倉時代(14世紀)

大元帥法(だいげんすいほう)は鎮護国家や外敵調伏(がいてきちぉゆぶく)を祈る秘法で、空海の弟子である常業が承和6年(839)に留学先の唐から図像や経軌を持ち帰り、その効験を朝廷に訴え、承和7年(840)に内裏で初めて修されたのち、忍寿元年(851)からは毎年正月に勤修(ごんしゅう)されるようになった。常暁の住した小栗栖法琳寺は大元帥法の修法院と定められ、本尊も安置されるなど、長くその修法を護り継いだ。平安時代後期に法脈が衰退すると、理性院の祖である兼覚が法琳寺の別当となるなど影響を及ぼすようになり、やがて南北朝時代以降、大元帥法は理性院に承継されることになる。現在の六幅は、正和2年(1313)、法琳寺大元堂の本尊が焼失したため、絵仏師賢信によって新たに描かれたものである。その画風は「醍醐寺様」とも呼ばれる醍醐寺伝来の鎌倉時代の仏画に共通してみられる、鮮烈な彩色と謹直な線描といった特徴を備えている。密教の大元帥法を醍醐寺が如何に、吸収していったかという道筋が明らかにされた事例であろう。

国宝 訶李帝母像 一幅 絹本着色  平安時代(12世紀)

訶李帝母は鬼子母神ともいい、他人の子を捕って食べる悪鬼であったが、釈迦の教化によって子供たちを守る神になったという。絵は、左腕の中に赤子を抱き、右手に多産の象徴である柘榴をとって床座に座る訶李帝母を大きく描く。訶李帝母像は、安産や子供の成長を祈る訶李帝母法の本尊となる。訶李帝母法は、安産祈願のために平安時代以降、たびたび修されたことが資料から明らかで、特に大治元年(1126)と翌年にかけて、三方院流の祖である勝覚が鳥羽天皇の皇后である待賢門院の安産祈願のために訶李帝母法を行っている。この像も密教らしい像である。

 

上醍醐の時代と仏像や、修法の密法の図像を多数示したが、密教の仏教美術には、なかなか馴染み難い点が多々ある。しかし鮮烈な元色や、荒々しい仏像の姿は、多分平安時代の人々を魅了し、既存仏教とは違う妖しい美しさに魅了されたであろう。朝廷と結びついて発達したことも、大きな特徴であり、大いに繁盛した理由であろう。今日の私達にも、何かと馴染み難い仏教美術であるが、それを乗り越えると密教美術の妖しさに心惹かれるものである。醍醐寺は、京都・東寺、仁和寺と並ぶ密教美術の宝庫であり、この後も、引き続き醍醐寺を連載するので、是非、密教美術の魅力を堪能して頂きたい。

 

(本稿は、図録「京都・醍醐寺真言密教の宇宙  2018年」、京都古寺巡礼「京都6 醍醐寺」、探訪日本の古寺「第七巻  京都洛中・洛南」2018年9月18日「日経特集号」を参照した)

国立西洋美術館  常設展  ポスト印象派

この章で取り上げる作家は、ゴッホ、ゴーギヤン、藤田嗣治などで、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した画家たちの作品である。これを「ポスト印象派」等という呼び方は如何かと思うが適当な呼び名を思いつかないため、あえて一般的な呼び名にししたので、お許し頂きたい。

ばら フィンセント・ゴッホ作 油彩・カンヴァス     1889年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、1889年5月上旬には自らサン=レミの療養所に入った。入院してからしばらく外出を禁じられていたゴッホは、状態が落ち着くと療養所の庭に出て制作するようになる。何週間も療養院の敷地内に留まらざるを得なかったものの、新たな環境はゴッホにインスピレーションを与えた。庭に対しては以前から興味を持っていた。療養院での日々の様子を弟のテオに伝える手紙の中では、庭で描き上げた作品のモチーフについて「キヅタに覆われた木々の太い幹、同じくキヅタやツルニチソウに覆われた地面、石のベンチとひんやりした木陰のバラの茂み」と挿図を添えて書き送っている。本作もまた、療養院の荒れた庭に咲くバラの茂みを描いたものであろう。草が生い茂る地面を背景に、淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は、浮世絵やジークフリート・ビングの「芸術の日本」の挿図など、パリ時代にゴッホが触れた日本美術の影響が見て取れる。ゴッホほど、日本の浮世絵を愛した画家は少ない。

海辺に立つブルターニュの少女たち ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス1889年

ゴーガンは1888年の夏にポン=タヴェンを訪れたエミール・ベルナールから刺激を受けて、明瞭な輪郭線に囲まれた平らな色面で画面を構成する「クロワニズム」の様式を取り入れた。彼は、印象主義を乗り越え、象徴主義絵画の創始者のひとりとなった。ゴーガンは1889年の大半をブルターニュで過ごしている。秋にはポン・タベンから海辺の寒村ル・プールデュへ移り、オランダ人画家メイエルデ=ハーンと共同生活を送りながら制作した。この作品はル・プールデュの農家の子供たちをモデルにしながら、ブルターニュの印象を総合主義の理念に基づいて表現したものである。黒い頭巾を被り、大きすぎる服を着たふたりの少女は、拗ねたような表情を浮かべ、警戒の眼差しを返している。ごつごつした素足を誇張して描かれた彼女らの姿は、素朴な木彫像のようである。背景は鮮やかな色面によって帯状に分割され、岩礁のある険しい海岸の眺めを表わす。

坐る娘と兎  ピエール・ボナール作 油彩・カンヴァス 1891年

ナビ派の画家達はゴーガンの言葉や作品に触発され、自然の再現とは異なった、絵画として独立した色面、線、構図を追求し、作品に装飾的な傾向を示したグループである。ナビとは「預言者」を意味する。ボナールはこのグループのひとりとして活躍を始め、特に当時ヨーロッパ全体に広がっていた日本趣味(ジヤポニズム)に深く傾倒した画家である。のちに人物や風景など身近な日常の光景を、周囲に溶けるような明るい色彩と筆致で描くようになる。本作は1891年、サン=ジェルマン=レで開催されたナビ派の第1回展に出品された。この時期のボナールは、全面的な構成による装飾的な絵画やポスターを制作し、浮世絵などの日本絵画の影響を全面的に出していた。それは日本画を思わせる縦長の画面が用いられた本作にも十分認められ、アールヌーヴォー風の曲線を描く肘掛椅子に座る女性が、木の葉の上にまるで貼り付けられたように見える。すべてが流れるような曲線で描かれ、画面にリズムを造り出している。

サン・トロペの港 ポール=シニヤック作 油彩・カンヴァス 1901~2年

最後の印象派展となった1886年の第8回展に参加したジョルジュ・スーラーとともに新印象派を創始したシニャックは、1891年のスーラーの急逝後この流派を率いた。彼は1892年にみずから操縦するヨットで南仏のサン・ト・ロペを訪れて以来、この色彩豊かな風物に魅了され、毎年数カ月をこの港町で過ごす。本作はサン・ト・ロペを見出してちょうど10年目に当たる1902年に完成された。シニャックの風景画としては最大の作品であり、彼の代表作の一つに数えられる。サン・ト・ロペの旧い港の全貌が西側から捉えられ、特徴ある教会の鐘楼を中心とした旧市街地、17世紀の城塞がそびえる丘、波止場に泊まる帆船、漁師たちを乗せた小舟など、シニャックが愛した街の歴史と風土を物語るさまざまなモチーフが描かれている。新印象派に特有の色とりどりの筆触が画面を覆っているが、作者自身が本作について「強いオレンジ色の背景に青のアラベスク」と記した通り、遠景の街並みのオレンジ色と前景を包む影の青という補色の組み合わせが、全体の配色の基調である。彼のこうした新しい画風は、マチスを始め、純粋な色彩による表現を求める20世紀初頭の画家たちに示唆を与えることになる。

花と泉水アンリ=ジャン=ギョーム・マルタン作油彩・カンヴァス 1900年頃

新しい世代の筆頭であるジョルジュ・スーラーが新印象派を創始する一方、彼と同世代のアンリアルタン、アマン=ジャン、エルネスト・ローランらはアカデミズムを基礎としながら印象派や新印象派の手法を吸収し、世紀末に流行する折衷的な絵画様式を作り上げた。マルタンは新印象派の点描技法を取り入れたが、厳密な色彩分割の原理に基づくのではなく主観的な感覚によって配色を選び、光の効果や神秘的雰囲気を生み出すためにこの技法を利用している。マルタンは1890年代に象徴主義的な寓意画をサロンに出品して注目され、20世紀初頭から1930年代まで、故郷トゥールーズとパリの市庁舎、エリゼ宮、国務院など多数の交共建築のために大画面の装飾画を手がけて成功を収めた。その一方、フランス南西部ロト県の小村ラバスティード=デュ=ヴィエールの丘に建つマルケロールという名の屋敷を拠点に、自然と人工の美に調和を表現する色彩豊かな風景画を数多く描いている。マルケロールの庭園に設けられた半円形の人工池は、彼の作品にたびたび描かれたモチーフである。池の石壁の中央には、鵞鳥を連れたプットーの石像が立つ。池の周囲にはゼラニュームの鉢がびっしりと並び、その赤い花が緑の茂みと鮮やかな対比をなす。

テラスの二人 エルネスト・ローラン作 油彩・カンヴァス 1922年

エルネストローランはサロン肖像画の伝統に印象派と象徴派の新しい感覚を取り入れ、ベル・エポックの富裕層の間で人気を博した画家である。彼は国立美術学校で知り合ったジョルジュ・スーラー、アマン=ジャンと親交を結び、印象派やピュヴィ・ド・シャパンヌの作品に関心を寄せたが、1889年にローマ賞を得てイタリアで5年間の留学生活を送り、帰国後は伝統あるフランス芸術協会サロンを発表の場として、アカデミックな経歴を貫いた。1919年には美術アカデミー会員に選出され、国立美術学校の主任教綬にも就任している。1900年代以降は肖像画のほか、女性を主役とした日常の穏やかな情景を描いており、同様の傾向を持つアマン=ジャン、アンリ・マルタン、ル・シダネルとともに「アンチミスト」としばしば呼ばれる。「テラスの二人の夫人」は、ローランの洗練された色彩感覚をよく示す晩年の作品である。舞台はおそらくパリ郊外ピエーヴルの自宅の庭であろう。

坐る女 藤田嗣治作  布・油彩             1929年

足を投げ出して座るポーズは、肖像画の際に藤田が好んで用いたものである。マネやルノワールの影響と思われるが、藤田の代名詞でもあった「横たわる裸婦」のような雰囲気を、肖像画でも再現する格好のポーズだろう。また、衣装の柄やデザイン、布の襞などをたっぷりと見せることの出来るポーズでもあり、この作品でも柔らかな布の作る美しいドレープを見せ場の一つになっている。一方、金地で仕上げた背景もお得意のスタイルだった。藤田が金箔を自作に取り入れ始めるのは、乳白色の下地を生み出すよりも早く、1910年代後半である。日本的な仕上げや、中世のキリスト教絵画のような雰囲気を模索する中で見出した手法だったが、乳白色の下地で人気を博した頃から、注文制作の肖像画にも積極的に使うようになる。金箔は現地で調達したものを使い、大きな作品の場合でも、貼る作業まで自分で行うことが多かったらしい。金地で仕上げたオリエンタルな雰囲気の肖像画は、注文主が藤田の作品に求めるイメージにぴったりだったに違いない。藤田の画家人生において絶好調の時代であり、作品の価格はマチス、ピカソと並んだとも言われる。

 

ポスト印象派は、新印象派・象徴主義・ナビ派など多彩な展開を見せたが、20世紀のピカソやマチスに繋がる美の系統を作った。印象主義と現代を繋ぐ重要な時代であった。私個人としては、最後のフジタの作品が一番好きである。理屈ではなく、好みを好きに言える場は有りがたい。

 

(本稿は、図録「国立西洋美術館名品選」、図録「新印象派  2014年」、図録「ゴッホとゴーギヤン展 2016年」、図録「藤田嗣治展  2016年」を参照した)