畠山記念館  茶の湯のことはじめ

img918

畠山記念館は、お茶道具の優れた所蔵品を有する個人博物館である。何時もの常客は、お茶を嗜むご婦人方が多い。今回も、常連客が多いが、その中に混じって中学生、高校生がいたのが目立った。チラシには「これからお茶の湯に触れたい方 茶の湯は少し敷居が高そうと感じていらっしゃる方におすすめ」と書いている。そういう意味では、あまり行く気がしない展覧会であったが、思いがけない名品の数々が展示されており、満足感の高い展覧会であった。中学生や高校生は、夏休みの自由研究のテーマに「お茶の湯研究」を取り上げたのであろう。熱心にメモを執る風景が何時もの展覧会とは異なっていた。(7月30日より9月11日まで)

赤楽茶碗 銘 早船  楽長次郎作         桃山時代(16世紀)

img911

初代長次郎の赤楽茶碗である。長次郎七種に数えられる赤楽茶碗では、これが現存する唯一である。この茶碗は薄造りで、口縁はやや内に抱え込み、胴はまっすぐで、腰のあたりは丸みを帯び、小さな高台が付いている。口縁から腰回りまで長い貫入があり、黒漆の繕いを施している。赤土の素地に黄身を帯びた赭釉が掛り、潤いのある艶を見せる一方、高台際は直接火を受けたかのように見える。胴から高台に向かって、山形に青鼠色の釉が流れて独特の景色をなしている。「早船」の銘は添状に見えるように、利休が茶会で細川三斎らに質問を受けた際、高麗から早船で取り寄せた、と答えたとされることに因む。内箱蓋表貼紙「者やふ年」(はやふね)利休、内箱蓋裏貼紙「此書付利休自筆」、中箱蓋表貼紙「早舟」(竹倉竹翁)付属文書として、利休書状が有る。利休が、最も愛した茶碗として名高い。赤楽茶碗として、一度見てみたい作品であり、感激した。

禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)    南宋時代(12~13世紀)

img912

禾目天目は、窯変によって黒釉地に銀色が発色し細長い線が走っているのを、稲の禾に見立てたことから言う。この茶碗は、「ゆてきてんもく」と箱書きにあるように、油滴天目として伝来する茶碗であるが、油滴班は流下して禾目状の斑文が現れており、むしろ禾目と分類するのが妥当であろう。おそらく禾目より格の高いものとされた油滴に見立てられたものと考えられる。口縁下をわずかに締め、口縁を端反りにした天目形であるが、胴から腰にかけてやや丸みがある。口にかけられた覆輪は金である。これも優品であり、一度是非拝見したい作品であった。

雨漏手堅手茶碗(あまもりかたでちゃわん)       李朝時代(16世紀)

img913

雨漏は、使用する間に釉肌に生じた雨漏りに似た滲みのある景色を特色とするが、雨漏堅手は特に磁胎のものを指している。たっぷりとした碗型の茶碗で、竹節状に削り込まれた高台は褐土の土味を見せ、高台内にくっきりと兜巾が目立つ。見込みは深く、目跡が四つ見られる。全体に失透性の卵殻色の釉が厚くかかり、粗い貫入を生じている。請来された高麗茶碗が雨漏の特徴を持つに至る年月と伝来の現れであり、これを尊んだ茶人たちの審美眼が想起される。鴻池家に伝来したものである。

黒楽茶碗  馬(ば)たらい  楽一入作    江戸時代(17世紀)

img914

楽焼の天形的な型の一つである平茶碗で、その形を馬の餌桶にたとえて「馬たらい」と呼ばれるものである。胴部を少し絞り、口縁は僅かに内側に寄せている。見込は鏡をつけ、高台と高台脇は一部黒釉が掛るが土見で、削り出した箆目がはっきりと残る。高台内にはよく削り込まれ、渦巻状の兜巾を付けている。一入の特徴とされる朱釉が内にも外にも見られる。全体に釉腐に巣穴が生じており、光沢の少ない侘びた趣をもつ茶碗となった。楽一入は、楽家四代一入(1640~1696)で、父の道入(ノンコウ)が光悦の影響を受けて作為の強い個性的な茶碗を造ったのに対し、初代長次郎の作風に似た、端正な形の茶碗を多く制作している。黒楽茶碗の銘曙がある。

呉須山水沓形茶碗(ごすさんすいくつがたちゃわん)   明時代(17世紀)

img915

口部が端反り、楕円に歪み、大振りな高台を持つ茶碗である。不透明性の白釉が器全体と高台内まで厚く掛り、高台内に数か所火割れが生じている。畳付は箆削りにより白い素地を見せている。胴と高台周囲には渋い色調の染付による絵付けが施され、胴には山水、楼閣、樹木と人物、高台には流水、橋や土坡の文様が簡略化され、軽快な線描で描かれている。こうした山水楼閣の略画は、禅林で尊ばれた山水軸と同じ構成であること、また古染付が鮮やかな発色と異なる趣きを持つことなどから、日本より中国に注文されたものの一つと考えられる。松平不昧公に伝来したものである。

瀬戸茶入  銘滝浪(たきなみ)        室町時代(15世紀)

img916

瀬戸金華山窯、滝浪手本歌の茶入である。口は丸みを帯び、甑は撫肩で、胴は少しくびれて全体に轆轤目が巡っている。渋い茶褐色の肌に、黒釉が上方から肩を覆うように掛けられ、そこから一条のなだれが裾のあたりまで至っている。この景色に因んで小堀遠州が「滝浪」と命銘した。寛政の頃、相模屋儀兵衛の取次にて千両で不昧公のもとに収まった。不昧公は「雲州蔵帳」の中で、この茶入を「中興名物之部」に入れている。不昧は、所持する茶道具を「宝物之部」、「大名物之部」、「中興名物之部」、「名物並之部」、「上之部」の五段階に分けて、道具を格付けしていた。その後、更に「中之部」、「下之部」、まで七段階に分けている。

芙蓉に鶉(うずら)図  酒井抱一作  12幅の内(8月) 江戸時代

img917

抱一の作品の中に、十二ケ月花鳥図と呼ばれる十二図一組の作品群がある。現在、十二福揃いのものが、宮内庁三の丸尚蔵館本、米国プライス氏蔵本、米国ファインバーグ氏所蔵本、畠山記念館の四組と、十二図を六曲一双の押絵屏風に仕立てたものが二例知られている。各月にちなんだ花と鳥とを十二図に描く十二カ月花鳥図のテーマは「定家詠十二か月花鳥歌絵」として伝統的な画題であり、狩野派や土佐派を中心に、光琳、乾山らも手掛けている。しかし抱一は、その伝統を基本としながらも、自由な十二ケ月花鳥の取り合わせを行い、自身の画風を生かした情緒豊かな作品を作り上げている。本作は8月を表す軸である。

真夏の本館  畠山記念館の四季(夏)

img919

畠山記念館は3階館ての建物であり、展示室は2階、1階は受付、事務所で、地下1階は講堂、保管収蔵庫等である。それほど広い庭では無いが、春は桜、秋は紅葉の美しい庭であり、茶室も多い。この写真は、夏の本館を庭から写したものである。

 

「これまで茶の湯に触れたことがない方はもちろん、日々嗜んでおられ方にも、茶の湯の魅力を発見する機会になれば幸いです。”茶の湯の世界は堅苦しくて難しい”と敬遠することはありません。たくさんの驚きと感動にあふれることうけあいです。」これが、今回の「茶の湯ことはじめ」の紹介文であった。あまり肩もこらず、気分も軽やかに出かけたが、思いがけない名器に巡り合い、長年是非身近に見たいと念願していた茶椀や茶入や茶杓が並んでおり、長年の思いを達することが出来た。興味の順番で言えば、黒楽茶碗 銘早船 楽長次郎作、禾目天目茶碗 南宋時代、黒楽茶碗 馬たらい 楽一入作等であるし、総じて名器が多かった。中学生や高校生が「床の間」「伝来」「名物」など茶の湯に関するキーワードを、丁寧に筆写している様を見て、良い「自由学習になっただろう。少し難しいかな」等と思った。一人一人の感動であろう。

 

(本稿は、図録「與衆愛玩  壱」、図録「與衆愛玩 畠山即翁の美の世界」、図録「與衆愛玩  琳派」、図録「大名茶人 松平不昧の数寄 雲集蔵帳の名茶器」、千宗屋「茶 利休と今をつなぐ」、を参照した)

九州国立博物館  平常展

img902

九州国立博物館は、日本の国立博物館として4番目(東京、京都、奈良に続く)に開設された博物館である。開館は2005年(平成17年)であった。私は、新しい国立博物館の誕生を心から喜び、これで九州の人々も等しく日本文化、世界文化に接することが出来、文化国家を国是とした戦後日本の快挙であると思った。しかし、内情を知るに及び、果たして第四の国立博物館として機能するかどうか不安になったものである。まず、出発に当たり、この博物館は収蔵品ゼロからの出発であり、特に国宝が1点も無い状態であった。しかし、開館の年に当たる2005年には、東京国立博物館から3件の国宝が贈られた。借用品だけでオープンするのは、余りにも気の毒である。学芸員の皆さんが肩身も狭いだろうと勝手に思っていた。しかし、心配することなく平成12年度(2000)には文化庁から「鍋島大皿」や対馬の「宗家文書」1万点をはじめとする、重要文化財を含む32件の美術工芸品や歴史資料が、九博に管理替えがなされた。また糸国歴史博物館から平原王墓(2~3世紀頃の糸国王墓)から出土した世界最大級の内行花文鏡が1面九博に寄託(あるいは分譲かも知れない)された。これらの事で、やっと「国宝を持たない国立博物館」から抜け出すことが出来た。私は九博の「その後」を知りたくて、ここ数年毎年、九博を訪問している。稀有壮大な建物を見ると、私の胸がワクワクする。九博の存在価値は、私はアジア諸国との文化交流であろうと思う。その意味で年々、所蔵品が増え、内容が充実し、アジア諸国との文化交流が盛んに行われている現状を見て、心から喜んでいる。なお、今回は特別展ではなく、平常展を見た。どれほど収蔵品が増え、アジア諸国との交流が進んでいるかを点検するためである。

九州国立博物館の外観

IMG_2990

九博は、九州大宰府天満宮の奥地にある。立地場所は「天満宮の隣り」と言えば、分かり易い。九博では「大宰府と言えば九州国立博物館と言われるようになりたい」と述べているが、それはまだまだのことである。2016年7月31日に訪ねたが、その時は「東山魁夷美術展」を開催し、大変な人気であった。2015年の同時期は「大英博物館展」であったが、それほどの入場者数では無いように見えたが、今年の企画は大きく当たったようであり、少なくとも九州(乃至は福岡では)知名度も上がり、企画さえ良ければ、大勢の見物客が集まることが証明されたのは、誠に喜ばしいことである。九博のために、心から喜びたい。建物は4階建で、特別展は3階、平常展は4階である。グッズ売り場は1階である。図録の順序に、写真が入手できたものについて解説する。

北野天神絵巻(「天拝山」の部分) 第2巻    南北朝時代(14世紀)

img903

「天神縁起絵巻伝」は、全国各地の天神神社にある。京都の北野天満宮には国宝の縁起絵巻が現存する。この「天神縁起絵巻」は、南北朝時代のものであり、九州では一番古い縁起絵巻だそうである。天神縁起は、菅原道真の一生、怨霊となった道真の祟り(たたり)、天神を侵攻する者に与えられる御利益、天満宮建設の由来などからなっている。本巻は全6巻のうち第2巻に当たるもので、道真の一生のうち時平の讒言に合う場面、紅梅との別れを惜しむ姿、九州へ下っていく海路の旅路、太宰府で涙する場面、天拝山に登って無実を訴える場面までの、最も充実した劇的なシーンである。悲劇的内容とは異なり、見る者の心をなごませるものがある。これが南北朝という時代を示す。南北朝時代は日本文化の大きな変わり目であった。鎌倉時代までなんとか命脈を保ってきた貴族文化が落日の時を迎え、新たに伝統の束縛から解き放たれた華々しい活気ある婆沙羅(ばさら)文化、すなわち武士の文化が誕生した。この絵巻はそうした潮目の変わるさなかに制作されたものであるが、伝統的技法が十分に維持されている。

奈良三彩壺                  奈良時代(8世紀)

img909

中国の「唐三彩」に倣って日本で作りだされた陶器で、唐三彩と区別するため奈良三彩と呼ばれる。唐三彩は7世紀末には遣唐使などにより日本にもたらされており、九州でも福岡県沖ノ島祭祀遺跡から発見されており、国宝に指定されている。奈良三菜の多くは、この緑・褐または黄・白の三色を用いているので、三彩と呼ばれる。奈良三彩は緑釉が中心となり、それに黄・白が配色されるが、奈良時代後半には多くが緑・白の二彩となる。朝鮮では、新羅三彩が作り出された。奈良時代には中国を中心として朝鮮半島から日本に三彩陶器の文化が広がっていたのである。

三角神獣鏡               古墳時代(4世紀)

img904

この三角神獣鏡は、明治18年(1885)、福岡県早良群姪浜(現・福岡市西区姪浜)在住の帆足可楽氏が、自分の所有する通称「城の辻山」を発掘して発見したもので、この鏡以外にも鉄剣1本発見されていた。この「卯内尺古墳」(うないじゃくこふん)は現在消滅している。これが発見された時代には、日本は日清戦争に向けて軍靴の音が高まる時代であったため、霊鏡として祭り挙げられた。明治26年(1893)、宮内省の監査会議でも多くの称賛を浴びて、8月に全国宝物参考簿に登録された。この鏡は現在の考古学では三角神獣鏡と呼ばれるものである。三角神獣鏡とは、古墳時代の始め(3~4世紀)に、近畿地区の古墳から集中して出土する、銅鏡である。この鏡が重要であるのは、同じ型で製造された鏡が南九州から東北南部にわたって500面ほど出土した点である。大和の政権が中国から入手した貴重な鏡を地方支配の承認として下賜したものと考えるのが考古学界では通説となっている。(一説では考古学者の90%が、そのような考えているそうである)実は、この三角神獣鏡は耶馬台国畿内説の根拠となっている。しからば、何故福岡市内の古墳から出土したのか?「耶馬台国は九州にあった」のではないかと私は考えている。

突線鈕袈裟文銅鐸(とっせんちゅうけさもんどうたく) 弥生後期(2~3世紀)

img905

九州国立博物館には現在2点の銅鐸を所有している。この2点は、弥生時代の終わりに近い2~3世紀頃のもので、その一つがこの銅鐸である。銅鐸のルーツは、中国中原地域の殷周青銅文化で使われた鈴・鐘にあたると考えられる。日本最古の銅鐸がどこで作られたかは、九州説、畿内説に別れている。しかし2004年12月に名古屋市内で最古級の銅鐸鋳型が発見され、最初の銅鐸生産地について新たな謎が生まれた。銅鐸は元来「音を聞く銅鐸」であった。事実、中国の銅鐸は、内部に舌が有り、音を出す楽器であったと私は認識している。しかし、日本では大型化し「見る銅鐸」へ変化している。九博の2基の銅鐸は最末期のものであり、それに凹帯が見えるのは、従来の通説に一石を投ずるものである。

重要文化財 浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)   鎌倉時代(14世紀)

img906

西方浄土は、蓮池を前に華麗な楼閣宮殿が並び、常に妙なる音楽が響き、馥郁たる香りに包まれ、光あふれる所として経典には描写される。中国では初唐から盛唐にかけて(7~8世紀)この浄土図が盛んに制作された。敦煌莫高窟には、今でも素晴らしい浄土曼荼羅図が描かれている。日本では、その図柄をもとに綴織(つづれおり)という技法で織った巨大な浄土図が、奈良の当麻寺(たいまでら)に伝来している。(8世紀)これを別名「当麻曼荼羅」と呼ぶ国宝である。ところが、この当麻曼荼羅は、平安時代にはなぜか世間には知られることは少なかった。一挙に広まるのは、鎌倉時代の浄土宗西山派の祖、証空上人の時からである。仏教では、釈迦亡き後、長い時間が経過すると、正しい教え(法)が失われる法滅期が来るとされた。いわゆる末法の世である。日本では永承7年(1052)に、それが訪れると信じられ、末法における救済策が焦眉の急となった。そこでクローズアップされたのが、阿弥陀如来である。浄瑠璃寺の九体仏が信仰された時代である。この九博の所蔵となった、この作品は重要文化財に指定されており、鎌倉時代半ばから後半にかけて制作されたと思われる当麻曼荼羅図である。類品の中では、きわめて丁寧に仕上げられた綴織である。

銅製瓔珞付鏡筒(ようらくつききょうづつ)    平安時代(12世紀)

img907

平安時代の終わりごろから人々は、仏教の経典を書写し、経巻という巻物にして容器に納めて、地面に埋葬することが流行した。この埋葬した場所を経塚と呼ぶ。最も有名な例が、寛弘4年(1007)銘の藤原道長の金銅経筒(国宝)である。経塚築造の流行には、この世の終わりを説く末法思想が結びついていた。仏教の歴史観では釈迦が亡くなると、釈迦の教えである仏法が段階的に滅んでいき、平安時代の1052年が末法1年に当たると考えられた。この時期は自然災害や飢饉、動乱などが続き、この末法思想は現実味を増して受け入れられた。この経筒は岩手県から鹿児島県まで全国に及んでいるが、近畿と並んで北部九州が多い。特に福岡県太宰府の四王寺周辺に集中している。この経筒は、青銅製の鋳物瓔珞付経筒である。瓔珞という飾りを垂らしているのが大きな特徴である。出土は四王寺で、観世音寺に隣接した地域での出土であることから、観世音寺の僧がその製造と埋納に深くかかわったと考えられている。土中に埋める共筒であるが、見るからに美しい形状である。

重要文化財  浮彫三尊仏龕(さんそんぶつがん)   唐時代(8世紀)

img908

石灰岩に浮彫で、如来と二菩薩の三尊像が表された二面の石仏が九博に伝わる。かって唐の都であった長安の法慶寺にあったもので、早くに中国から流出し、現存する三十面のうち二十一面が重要文化財に指定されている。九博の石仏龕二面は、中尊がともに左手を膝に伏せた印相であるから、いずれも弥勒仏の三尊龕である。この仏龕には玄宗皇帝の開元12年(724)の刻銘がある。玄宗時代に制作されたこれら二面の銘文には、一字の即天文字も使用されていない。そこには即天武后の統治を否定した、玄宗時代の政治と文化の姿勢を反映している。

重要文化財  鬼瓦  都府楼跡       奈良時代(8世紀)

img910  IMG_3024_1

福岡県太宰府には、現在都府楼跡(とふろうあと)の名で市民に親しまれている。都府楼跡から、その栄華を物語る遺物が多数出土している。瓦類が一番多い。そんな瓦の一つに鬼面模様の鬼瓦がある。文字通り、太宰府を象徴する顔である。鬼瓦が登場するのは7世紀前半の法隆寺若草伽藍である。(焼けた法隆寺)鬼面の鬼瓦が成立するのは8世紀の奈良時代になってからである。平城京やこの大宰府など、主要な官衙(かんが)の建物に瓦葺きが採用され始めたことと軌を一にしている。中国風の瓦葺きを普及させることで、新しい国づくりのための威勢と権力を、仰ぎ見る者に示したかったのであろう。

 

関東の人が九州国立博物館に行くことは稀であろう。私は、その稀な例の一人であるが、かねて九州国立博物館の開館については知っていた。「国宝を1点も持たない国立博物館」と言われ、その館蔵品の充実を期待したが、年をふるごとに重要文化財の展示品も多くなり、安心していた。博物館の建物は、異形であり、驚かされる。平常展示物を見れば、その博物館の実力が判るが、九博は着々と実力を付けて来ている。また、本来の役割は「アジア諸国との文化交流」と思っていたが、それも概ね出来ている。第四の国立博物館として信用できるものになってきた。心から喜んでいる。

 

 

(本稿は、図録「いにしえの旅  2009年版」、図録「いにしえの旅 2005年版」、石田茂作「仏教美術の基本」を参照した)

ルノワール展  古典への回帰と成熟

おおよそ12年にわたる印象派の時代、年齢でいえば21歳頃から39歳までの期間だけ見ても、ルノワールの画家としての生活は充実したものであった。それほど、ルノワールの印象派時代の仕事は鮮烈な効果を上げている。ルノワールの天賦の感性が芽生え、育ち、自然に咲き出した第Ⅰ期の活動だった。このまま進めば、おそらく外光一筋の道を歩み、モネ等と同じく印象派画家の態勢をくずさなかったのであろう。しかし、1879年頃から多少とも印象派の自然描写の中にとどまり切れぬ自分を感じていたと思う。ただ外光の中に輝く自然の追及だけではルノワールは満足できなかった。ルノワールの前には人間があり、幼児があり、女がおり、そして裸婦があった。そしてその中に豊かな色の世界があった。すこしずつルノワールは印象派の歩みから離れていくようだった。この年の印象派展覧会に出品しないで、サロンの方へ作品を送っているところを見ると、このあたりからルノワールは、自らの歩みをどこか別の方向へ向けてゆく気持ちになってきた感じがする。1881年、ブージバル近くのセーヌ川で、舟遊びをする人たちの昼飯の大作(本展には出品していない)を最後として、ルノアールは印象派時代に別れを告げることになる。しかし、1882年の第7回印象派展覧会には25点の作品を出品している。この時期に大きな転機が訪れた。1881年の3月から4月にかけて、フランスを去って旅に出かけた。アルジェの町に行き、秋になるとイタリアに渡り、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイを訪ねた。このイタリア旅行は、ルノワールに深い感動と新しい視野を与えることになった。それぞれの町のルネサンスの画家たちの芸術もさることながら、ルノワールはとりわけ、ポンペイの古代ローマの壁画を見て感動した。単にこの壁画に対して尊敬を捧げるにとどまらず、ルノワールは古典一般に対する関心を高めることになったのである。イタリアの16世紀の画家チェーンニーノ・チェンニーニの絵画論をひもどき、ルネサンス時代の技術を調べ始めた。ルノワールはこうしてこれまでの手法から抜け出て、古典の持つ手堅い「形式」にも心をひかれた。色調の単純化と形体の定着へと進む。その結果、これまであまり目立たなかった線が働きだし、線によって形体が定着するという形式が見られるようになった。(8月22日まで)

猫を抱く小ども ルノアール作  油彩・カンヴァス  1887年

img765

1887年、ベルト・モリゾ(1841~1895)と、その夫で、画家のエドゥアール・マネの弟でジェーヌ・マネ(1883~1892)は、当時9歳だった一人娘ジュリー・マネ(1878~1966)の肖像画を友人のルノワールに注文した。彼は、一旦この注文を断りながら、結局引き受けた。この肖像画は、ルノワールが作品においてより安定した形態や、より正確なデッサンを追求するようなった転換期に描かれた。この作品はジュリーが亡くなるまでずっと手元に置かれていたそうである。斉藤勝利氏(第一生命会長)は、「印象派の女性画家であるベルト・モリゾと画家マネの弟ウジェーヌの一人娘である。モリゾは溺愛していたジュリーを度々、絵にしている。その彼女がなぜルノワールに娘の肖像画を依頼したのであろうか?抑制の効いた画面、輪郭がはっきりした筆づかいは印象派というより伝統的絵画を思わせる。印象派を経て古典に回帰したルノワールへの評価を誰もためらっている時に、モリゾはいち早くその挑戦の価値を認めた。最愛の娘の肖像を託すことで、友人の背中を、そっと押したのかもしれない」と評されている、誠に的を得た評論だと思う。

ガブリアルとジャン  ルノアール作 油彩・カンヴァス    1895年

img673

ルノワールは妻アリーヌとの間に3人の息子をもうける。二人目の息子ジャン(1894~1979)が生まれる頃から、アリーヌの従妹ブリエル・ルナール(1878~1959)が、出産の世話をするため家族に加わった。1894年の夏、16歳でシャンパーニュ地方のエッソワからやってきた彼女は、その後20年以上にわたって一家に留まり、子どもたちとともに画家のお気に入りのモデルとなった。赤ん坊を後ろから抱き、牛のおもちゃを動かす10代のガブリエルの垢抜けない雰囲気が、かえって優しい雰囲気を際立たせている。白のベビー服をまとったジャンの生え立ての毛の柔らかさ、甘えた表情。画面のすみずみまで父の愛情に満ち、思わずほほえんでしまう。

道化師(ココの肖像) ルノアール作  油彩・カンヴァス   1909年

img689

ココの愛称で知られるクロードは、ルノワールの末子となる三男で、1901年に生まれ、兄のピェールやジャンと同様に父のお気に入りのモデルでああった。クロードの肖像画は90点以上を数える。あどけなさの残る表情がかわいらしい。画家は華やかな衣装を好んで着せた。

静物  ルノアール作  油彩・カンヴァス     1885年

img681

この頃、ルノアールは印象派を乗り越え、デッサンによる古典的な形態把握を目指していた。テーブルクロスの背景に寒色系の色彩を配置し、果物や花の色を引き立たせると同時に、全体として落ち着いた雰囲気にまとめている。ルノワールの作品は知的で厳格なセザンヌとの絵画とは、確かに何もかもちがう。しかし、印象派を経て、再び古典に回帰することで花開いた画風は力強く新しい。まっさきに気づき、絶賛したのはマチスであり、ピカソだった。

モスローズ  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1890年頃

img674

自由なタッチが画面全体を覆うこの絵は、印象派時代の作風に近づいており、バラの形態を把握するよりも、花弁のニュアンスを色彩に置き換えることに関心が向けられているようだ。本作は、外科医で印象派のコレクターであったジョルジュ・ヴィオが1907年まで手元に置いていた。

ピアノを弾く娘たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス  1892年

img691

ルノワールの最も有名な作品である。この主題は、ルノワールは6点描いている。二人の娘たちが寄り添ってピアノを弾きながら、一つのメロディーの中にとけあっている。二人の心持が結んできたさわやかな音調そのものになっている。こういう和らぎの空間をルノワールは愛していた。色と色との調和もこのように和らぎの中に充実することを願っていた。主題は別にとりたてることもない日常の生活の一片であるが、この肌さわりのよい和らぎの感覚をルノワールはどのような色調の中にとらえるかに苦心するのである。赤や青や黄や緑という元色を基調として、これと対比しつつ融合の色感に包むのである。この作品の国家買上げに際して重要な役割を果たした、画家の友人であり詩人であったマラルメは「決定的な絵画、非常にのびやかで自由な、円熟した作品」と評している。

バラを持つガブリエル  ルノアール作  油彩・カンヴァス   1911年

img678

子供たちの世話役として1894年にルノワール家の一員となったガブリエル・ルナールは、その後も画家のお気に入りのモデルとして約200点の作品に登場する。特に晩年のルノワールは、このガブリエルをたびたび描いていた。ふくよかな肉体が、まさしくルノワールの求める感覚的充実感にぴったりしていたのであろう。上半身だけれども、この肉体はあらわにされた胸のあたりだけでも十分にみずみずしく豊麗であることをうかがわせる。晩年期の作品になると、こういう肉体感を強いて主張するすることなく、自然につぶらかに表現する。この豊かさをさらに一層華麗なバラの花びらによって勢いづけている。きわまりない豪華な官能に向かってルノワールは老齢にもかかわらず、ひたすら没入してゆき、最晩期になってもその作品に新鮮な若さをもっている。

カーニュの風景  ルノアール作  油彩・カンヴァス    1915年頃

img680

1890年代になると、次第に激しく頻繁に起こるようになった関節炎の発作に苦しんだルノワールは痛みの緩和のために南フランスに滞在した。南仏の陽光に魅了されたルノワールは、とりわけニース近辺のカーニュとその丘の上にある古い町に夢中になった。1898年ないし1899年から何度もそこに滞在したのち、樹齢100年のオリーブが植わった広大な場所をレ・コレットに求めた。ルノワールの描く風景は、色調の調和の中に自然が包まれている。樹木が一つ一つ存在しているのではなく、どの木も、またどの葉も、みな互いに一つの調和の中に溶け込んでいる。そういう調和が微妙な色の関係から生まれている。明るい光と暗い木陰との対称も画面全体の色のリズムをなし、暗い面も色として大きく働いている。印象派以後、陰は決して黒や褐色ではなく、紫とか青とかの色として働き、画面のアクセントとして効果をあげているのである。

浴女たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1918~1919年

img692

病に立ち向かっていたルノワールは、プロヴァンス地方のカーニャのレ・コレットの邸宅で、亡くなるまでの数か月を費やして「浴女たち」を描き上げた。78歳で亡くなる直前に仕上げた傑作が「浴女たち」である。豊満な女性が、大地と一つになって微笑みを浮かべた夢のような光景である。画家は最後に何を描きたかったのだろうか。ルノワールのひ孫、ジャックさんは次のように述べている。「オーギュスト(画家のファーストネーム)は、裸婦に美を見出した。それは女性を生命の源と考えていたから。裸婦と大地が一体になった作品は、いわば、生きとし生けるものへの賛歌である。生命や宇宙といった、大きなエネルギーを表現したかったんじゃないのかな」最後は50キロを切るほどやせこけていく画家とは対照的に、カンヴァスの女性はますます豊かに、鮮やかになった。そして最後に描いたのが生命賛歌であったのだ。」

 

ヨーロッパの画家の中で、日本で一番人気の高い画家は、ルノワールだと思う。どこの美術館へ行っても、ルノワールの絵画の無い美術館は無いと言っても過言ではない。大原美術館、岡山県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館など、その所蔵する絵まで思い出すことが出来る。また、どこの家庭でも、ルノワールのポスターやカレンダーはあるに違いない。日本には、雑誌「白樺」等の出版物を通してその名と画風を知り、影響を受けた画家たちが沢山いる。それは岸田劉生、中村彜、赤松麟作、さらには日本画土田麦僊などにまでおよぶ。なかでも梅原龍三郎がカーニュのレ・コレットを訪ねたときの様子は、画家の次男のジャン・ルノワールの回想録の最後に近いページに記している。1908年にパリに着いた梅原はリュクサンブール美術館で見たルノワールの作品に感激し、翌09年2月にレ・コレットのルノワールに会いに行くのである。その年に梅原は、山下新太郎や有島生馬を連れて再度レ・コレットを訪れた。彼らはルノワールの作品を譲り受け日本に請来した。100年以上昔の話である。東京近辺には「ルノワール」と名付けた喫茶店が100店以上ある。落ち着いた雰囲気で、ルノワールの名画の複製を展示している。この落ち着いた雰囲気を好む人が多いのも、店名に由来するのであろう。なおルノワール展の入場者数は50万人を突破した。これも日本人のルノワール好きの結果であろう。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館 2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術展「第4巻ルノワール」、日経新聞「美の美、2016年2月14日、2月21日、2月28日」、日経新聞「ルノワール展特集、2016年4月24日、4月30日、5月2日、5月4日、6月4日、6月26日、7月28日、日経新聞「生命のよろこび、2016年5月16日から5月24日まで」、を参照した。

ルノワール展    印象派時代

img822

ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)は、フランス中部の都市リモージュに生まれた。この街は陶器の生産で名高い所であり、父は仕立て職人、母はお針子であった。リモージユは、島崎藤村の「新生」の中に出てくる街で、パリの下宿先であったシモネーの姉を頼って、第一次世界大戦をさけるため、約3ケ月を過ごしたことで、日本人にも馴染みのある街である。ここで生産される陶器は世界でも屈指のものであり、私は2枚の皿を大切に持っている。3歳の時に、一家はパりに移り、ルノワールは父親の意向で陶磁器工房に見習工として入る。絵付けの仕事に従事するが、その腕前は周囲の人を驚かせた。この間に、装飾美術を教える素描学校に通っている。ルノワールのその時代の絵付け燭台がパリ装飾美術館に残っている。工房を辞めたのは、機会化によって手書きの職人が不要になったからである。1861年(20歳)にシャルル・グレールの画塾に学び、そこで後に印象派と呼ばれるシスレー、バジール、モネらと交友を深めた。グレールはサロン(官展)入選を目指すような指導を行ったそうである。1862年(21歳)で国立美術学校に入学し、本格的に絵画を学んだ。ルノワールの職人から芸術家への道を歩み始めるのは20歳頃、1860年頃である。グレールの画塾で学ぶルノワールやシスレー、バジールはモネを介してピサロやセザンヌと親しくなり、彼らはフォンテンブローの森やセーヌ川周辺で一緒に風景画を描いた。もう一人の師は、1863年の落選展でスキャンダルを惹き起こした都会派のマネである。マネはアトリエと住まいをバティニョール地区にもっていたから、その近くの「カフェ・ガルボア」が彼らの集会場所になった。1860年代の印象派予備軍をパティニョール派と呼ぶ。1870年に普仏戦争が勃発し、ルノワールは騎兵隊に入った。モネやピサロは徴兵を逃れるためロンドンに渡った。普仏戦争とパリ・コミューンの動乱の時期が過ぎると、パティニョール派の中で、少なくとも画商デュラン=リュエルの支持を得た画家たちは「僕たちの時代が来た」と感じたかも知れない。主にモネとピサロの尽力で、パティニョール派を中心とした最初のグループ展は1874年に開催された。後に第1回印象派展と呼ばれた展覧会である。ルノワールは、そこに7点出品した。この印象派展は1886年までのあいだに8回開催されたが、ルノワールは最初の3回までは熱心に参加したが、後半は1882年の第7回のみに参加した。第4回展からグループ展に参加しなくなった理由は、出版業者シヤルパンティエn保護と援助を得て、再びサロン出品を始めたからである。しかし、この間にも昔の仲間との友情は続き、作品制作でも戸外風景や近代的な都市風俗など、他の印象派画家たちと共通のテーマの追及を行っていた。

陽光のなかの裸婦 ルノアール作 油彩・カンヴァス1876年 第2回印象派展

img682

1876年の第2回印象派展に「習作”エチュド”」の題名で出品された。緑の木立のあいだから、少女の上半身に陽光がふりそそぐ。花ひらいたばかりの新鮮な肉体は、むせかえる若葉のなかで,彼女自身まだ意識しない生命の輝きを示す。この神秘を生み出したのは明るい太陽の光である。当時の雑誌「ル・フィガロ」に、批評家のアルベール・ヴォルフが次のような文章を発表している。「さて、ルノワール氏に次のことを説明してほしい。女性のトルソ(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色の斑点をともなう分解中の肉の塊ではないことを。」これは旧世代の無理解を示す言葉として有名である。彼は少女の上半身に施された光と影の効果の表現を、彼女自身の肌の固有色だと誤解しているのである。

クロード・モネ ルノアール作 油彩・カンヴァス 1875年 第2回印象派展

img677

「クロード・モネ(1840~1926)」はアトリエ内で制作する親友の姿をとらえた1枚である。モネのパレットには鮮やかな赤や黄色の絵具が並んでいる。これから草原に咲く花々を描くところなのだろうか。真っ黒な服を着た画家の表情は穏やかで、信愛の情に満ちている。その後の二人の交流は絶えることなく、それぞれの場所でモネの風景画の、ルノワールの人物画の巨匠として大成していく。この絵は、第2回印象派展に出品された。

読書する少女ルノアール作 油彩・カンヴァス1874~76年頃第3回印象派展

img676

画面の左側からそそぐ光が少女の頭部と顔の右側に当たっている。開かれた本のページからの照り返しも、少女の鼻や口元に反映している。光と影の効果を少女の顔で確認する作業を、画家は小さな筆触や併置(へいち)することによって達成した。エドモンド・ドュランティの言う現代の「生き生きとしたフランスの女性」の好例である。

草原の坂道 ルノアール作 油彩・カンヴァス 1874~77年

img683

坂の一番上に糸杉かモミの大木が立っている。視線を自然と引き付ける。強い日差しを浴びて、2組の母子が下りてくる。母親がさす日傘は、彼らが都市の住民であることを示唆する。この2組は1組の親子の距離の移動と時間の経過を暗示しているかもしれない。ほぼ全面が草原である。やわらかい独特の筆触で土から生え出る草花が描かれている。モネの「ひなげし」(1873年)と似ている。いずれも印象派らしい作品である。私が最も好きな絵の一つである。

ぶらんこ ルノアール作 油彩・カンヴァス  1876年 第3回印象派展

img684

モンマルトルの象徴であるサクレ=クレール寺院から西に少し下がったあたりに位置するこのコルトー街に、ルノワールがアトリエを借りたのは1875年4月のことであった。「ぶらんこ」はこのアトリエで描かれたが、そこにはモンマルトルの有名なダンス・ホール、ムーラン・ド・ギャレットからも近く、このダンス・ホールを描いたルノワールの畢生の大作も同じアトリエで描かれている。画面中央で楽しげにぶらんこに揺れているモデルはジャンヌ。ジャンヌは「大きな黒い瞳、赤い唇、明るい栗色の巻き毛」を持った16歳の娘で、ムーラン・ド・ギャレットで彼女を見かけたルノワールは一目で気に入り、渋る彼女とその母親をあの手この手でかきくどき、なんとかモデルになることを了解させたという。このジャンヌは「ぶらんこ」だけではなく、「ムーラン・ド。ラ・ギャレット」でも主要なモデルを務めている。傍らの二人の男性は、ルノワールの弟のエドモンドと画家仲間のノルベール・グヌットではないかとされている。降り注ぐ木漏れ日を浴びながら、楽しげに語り合う男女の姿は、まさに印象派の世界そのものである。だがそれゆえにこの作品が1877年の第3回印象派展に出品された時の観客の反応は、芳しいものではなかった。「レヴェヌマン」紙に掲載された批評は「この作品では太陽の光が非常に奇妙なやり方で処理されており、まさしく人物の衣装に油じみのような効果をもたらしている」と述べている。また、「パリ=ジュナル」紙は「ルノワールはこの会場では多産かつ大胆不敵な画家の一人である。私は彼の”ぶらんこ”を推薦するが、これほどグロテスクで恥知らずな作品もないだろう」とこき下ろしている。しかし、リヴィエールは用語の筆を採っている。モンマルトルの片隅のありふれた庭の情景が、ルノワールの手にかかるとまるで別世界の喜びに満ちたユートピアへと変貌してしまう。そこには安酒場や見世物小屋が立ち並び、あやしげな女たちが街頭にたむろするモンマルトルの猥雑な空気は全く見当たらない。同時代のパリに、そして庶民の生活に取材しながらも、マネやドガとは全く異なる世界を描き出してみせる、もう一人の印象派の画家の姿がここにはある。

アルフォンシーヌ・フルネーズ ルノワール作 油彩・カンヴァス 1879年

img685

19世紀後半、パリでは郊外へのピクニックが流行した。若きルノアールもセーヌ河畔の行楽地に足しげく通い、新しい絵画を生み出していった。この絵は、シャトーのレストランが舞台で、貸ボート屋を営むフルネーズ氏が1860年に開いた店で、ルノワールは常連であった。麦藁帽子と涼しげなブルーのドレスをまとったモデルは店主の娘である。川をのぞむ2階のバルコニー席でほおづえをつき、優しくほほえんでいる。大陽の光を受けたドレスと、背景の木々、川の色が響き合い、幻想的な雰囲気が漂う。レストランは現存し、バルコニー席も健在で、往時をしのばせる。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 ルノワール作 油彩・カンヴァス 1876年第3回印象派展

img686

ルノワールの最高傑作とされ、日本では初めての展示である。この舞踏会場の名称は、ムーラン(風車)を建物の目玉にして、入場者にギャレットというクレープのようなお菓子を配ったことに由来する。ルノワールは、この舞踏場の庶民的な雰囲気が気に入り、モンマルトルの丘の中腹にアトリエを借りてこの作品を描いた。現場で制作するために友人たちがカンヴァスを運ぶのを手伝い、モデルの役もつとめてくれた。この舞踏場は庭園でもダンスを楽しむことができた。大きな樹木が木陰をつくり、シァンデリアが輝いていた。世紀末になると、ロートレックやピカソが、この舞踏場の室内の退廃的な雰囲気を描くようになった。男性と踊っているピンクのドレスの女性はマルゴ(ぶらんこのモデル)である。ルノワールはこの絵の制作に1876年春から秋にかけての数ケ月を費やしている。本作品の準備段階にあたる全体図のデッサンがある。ルノワールは完全な現地制作と言っているが、実のところは戸外制作ののち、明らかにアトリエで手直しが加えられている。展覧会場では、この作品の参考のために、沢山の画家の絵画を展覧している。例えばゴッホの「アルルのダンス・ホール」や、同時代の「夜会」、「舞踏会」などの作品である。この作品を際立たせるために、精一杯の努力をしているように感じた。また、十分、その気持ちが伝わる演出であった。兎に角「楽しい」絵画である。

シァトゥーの鉄道橋 ルノアール作 油彩・カンヴァス   1881年

img679

この絵では、花を付けたマロニエの木々が画面の中心的役割を果たしている。女性も子どももここには見当たらない。植物に覆われた中景に目をやると、麦藁帽子を被った男性がいるのが分かる。ルノワールは、19世紀中ごろからフランスの風景を変えていった工業化に厳しい批判を浴びせようとする当時の風潮のなかにありながら、この作品においてはそのような批判的態度は取っていない。橋は正確に描写されてはいるが、周りを取り囲む植物のなかに埋もれ、調和を乱すこともない。ルノアールは1880年代初期には印象派的な作風を捨てたとしばしば指摘されるが、この作品は、画家の変化の過程が、一般に想像されるよりも複雑で、豊かなものであったことを示している。

田舎のダンス ルノワール作  油彩・カンヴァス   1883年

img687

「田舎のダンス」と「都会のダンス」は対の作品で、いずれも1883年の制作である。日本で、両作品が揃って展示されるのは45年振りだそうである。実は、今回展示されていないが、「プーシヴァルのダンス」という作品もあり、「ダンス3部作」と呼ぶそうである。この「田舎のダンス」の女性モデルはアリーヌ・シアリゴ(画家の後の妻)、男性のモデルはアンドレ・ロート(友人で小説家)である。画面の左上に女性が持つ扇があり、右下に男性が被っていたであろう麦わら帽子が落ちている。19世紀後半のパリの庶民の間でダンスが流行しており、美術作品でもしばしば取り上げられた。ルノワールは周囲の雰囲気を変えながら、二人の夢の楽園を求めていたのかも知れない。この2点の「ダンス」は、1891年に画商デュラン=リュエルが画廊を飾るために買い入れた。画商は、このルノワールの傑作を展示することはあっても、決して手放すことはなかった。ヨーロッパやアメリカで両作品を展示することはあった。

都会のダンス  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1882~3年

img688

女性のモデル、シュザンヌ・ヴァラドンはまだ17歳、怪我でサーカスを止め、モデルになった。画家ユトリロの母親だが、ルノワールが父親に擬(ぎ)せられたこともある。「田舎のダンス」のモデルの衣装は木綿であるが、「都会のダンス」はタフカスである。前者の場所はラ・グルヌイエール近くのガンケット(居酒屋)、後者は都会のダンス・ホールである。この絵を描いた当時、ルノアールはアリーヌ・シアルゴとラ・グルヌイエールの双方に好意を抱いていたと言われる。さて、両者を較べて、どちらがお好きですか?私は無条件に「田舎のダンス」が好きである。一緒に展覧会を観た家内は、「都会のダンス」の写真を買いました。

 

19世紀後半、産業革命が進んだパリは、地方の労働力を集めて人口が一気に増えた。その時代、庶民の憩いの場として栄えたのが、安い酒を出すガンケット(安酒場)だった。手頃な酒や料理に加えて、ダンス場をそなえた店が流行した。特に多かったのがモンマルトルである。1860年にパリ市に編入されて、家賃は安いので、労働者や画学生が住みついた。ルノワールにとっても、ガンゲットは仲間と過ごす格好の場所だった。1876年、丘の中腹にある人気店「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を舞台にした大作をてがけた。ムーラン(風車)がトレードマークのこの店は、戸外のダンス場が最大の売り物だった。この「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は、若いルノワールの最高の傑作と言われた。19世紀後半に活躍した印象派の画家は、神話などの伝統的な画題ではなく、同時代の日常生活を描いた点が斬新であった。その筆頭がルノワールである。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術全集「第4巻 ルノワール」、日本経済新聞社「美の美」2016年2月14日、21日、28日、日本経済新聞社2016年4月24日、30日、5月2日、4日、6月4日、26日、7月18日「ルノワール展特集」、日本経済新聞社2016年5月16日~24日「ルノワール展から 生命のよろこび1~8」を参照した)

東京国立近代美術館 2016年度第1回館蔵名品展  (昭和)

2016年第1期館蔵名品(MOMATコレクション)展の昭和時代の名品を紹介する。

ガス燈と広告  佐伯祐三作  油彩・キャンパス   昭和2年(1927)

img753

壁に貼られたポスター、しかもそこに書かれた文字が、絵の重要な要素になっている。はねるような文字の書き方=描き方と、画面左下に見える女性と子供の靴の描き方はほとんど同じ、ガス燈の根元も同じである。全体にみなぎるリズムは、そうしたところかtら生まれると言ってよいだろう。佐伯祐三は、パリの街、裏町風景を描かせれば、一流の画家であった。ヴラマンクやユトリロの影響が大きい。ポスターが一杯貼られている壁の街の、沈鬱な哀愁に翳る画面を描かせれば大一級の画家である。この絵では、暗褐色の家並のうえに淡く青い空がわずかに見え、家並の壁には一杯に白、赤、黄、緑に彩られたポスターが張付けられている。佐伯を継ぐ画家は荻須高徳(たかのり)である。

モランの寺  佐伯祐三作  油彩、麻布      昭和3年(1928)

img754

彼は1927年に再びパリに留学し、6ケ月で145枚の絵を描いたとされている。この白熱的な制作が、決局その寿命を縮めた。彼の最後の制作の高揚期となったのは、1928年2月の約1ケ月のパリ近郊の村モランへの写生旅行であった。この時に描かれた作品の中で、特に村の教会堂をさまざまな視点から描いた連作がある。この作品は、その連作の中でも、まず第一に挙げられるべき作品である。形は単純化され肉太の強い描線で描かれたこの「モランの寺」は、「ガス燈と広告」とはまた別の魅力を持っている。

金蓉(きんよう)安井曽太郎作 油彩、キャンパス   昭和9年(1934)

img755

モデルは小田切峰子という女性である。5ケ国語に通じた才人で、普段からチャイナドレスを着ていたため、「金蓉」という中国風の愛称で呼ばれていた。その名を与えた父親は、上海総領事を務めた外交官の小田切寿之助だという。安井は肖像を描く場合、さまざまな角度からモデルをスケッチした。ここではおそらく複数のスケッチを合成し、わざと身体の各部分を不釣り合いにしている。そのことが今にも人物が動き出すかのような印象を生み出している。本作は、発表直後からチャイナドレスの部分の多数のひび割れが入ってしまっている。その状態で長らく知られていたが、2005年の修復により、ひび割れの部分の補填・補彩することで、現状となった。肖像画を得意とした安井曽太郎の代表作である。傑作と思う。

空港  北脇 昇作  油彩、キャンパス   昭和12年(1937)

img759

1937年頃からシュルレアリスムの影響を示している。シュルレアリスム(超現実主義)とは、人間の夢や無意識を探究するフランス発祥の芸術動向である。北脇は、しばしば身近なものを別の何かに見立てる手法で異世界を描き出した。この作品ではカエデの種は飛行機に、ヒマワリの種のようなものは管制塔風の建物に見える。上空に浮かぶ木片はまるで宇宙ステーsィヨンのようだ。ごく小さなものが巨大なものになり、広大な世界が出現したのである。静かなのにどこか不安を掻きたてる作品である。阪神淡路大震災を機に書かれた村上春樹著「神の子どもたちは踊る」(2008年)の表紙に使われたそうである。

北京秋天  梅原龍三郎作 油絵、岩絵具、紙  昭和17年(1942)

img756

梅原の絵の中で、私が一番見たかった絵画である。この絵を前に快哉を叫んだ。1日を割いて、近代美術館へ来たかいがあった。1939年に初めて北京を訪れた梅原は、色彩感豊かで量感のある街並みに魅せられた。その夜彼は、戦時にも拘わらず、43年までに合計6回も同地を訪れ、数多くの名品を描いた。本作に描かれているのは紫禁城で、明・清時代の王宮で、現在は「故宮」の名で知られている。定宿のホテルの窓から見える紫禁城を描いた本作について、梅原は「秋の高い空に興味をもった。何だか音楽をきいているような空だった」と述べている。その言葉通り、空がとても印象的である。しかも、どこか透き通って見えはしないだろうか。実は本作は、日本画で使われる岩絵具が、油絵具とともに使用されている。しかも支持母体は紙である。西洋と日本双方の技術を用いつつ紫禁城を描いた時期が戦中であったことから、梅原のなみなみならぬ意欲を推し量れるだろう。しかし、今の北京の空はPM2.5で真っ暗である。梅原がみたら、さぞかし残念に思うだろう。

Y市の橋  松本俊介作  油彩・キャンバス   昭和18年(1943)

img760

岩手県で幼少期に聴力を失った。1929年に上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。35年二科会に初入選。43年靉光(あいみつ)、麻生三郎らと新人画会を結成した。戦後の46年に日本美術協会、47年に自由美術家協会の設立に参加するが、48年に急逝した。Y市とは横浜市のこと。俊介は横浜駅近くを流れる新田間川の風景を、角度を変えて何度も描いている。月見橋とその奥に見える跨線橋、そして右手に見える国鉄の工場が織りなす景色の造形的な面白さを発見したのである。若くして亡くなった松本に対する評価は高い。

道  東山魁夷作  紙本彩色、額     昭和25年(1950)

img757

東山魁夷は1947年(昭和22)に第3回日展に「残照」を出品して、それまでの低迷を抜け出し以後の自分の方向をつかんだ。1950年第6回日展に出品した「道」は「残照」の延長線上にあり、温雅で平明な自然のとらえ方や単純化された構図などは、魁夷の作風のの特徴をよく示している。これは青森県八戸の種差海岸にある牧場で写生した道だが、画家が初めて八戸を訪れたのは十数年前も前のことだった。その時は灯台や放牧馬も描き込まれていたがスケッチからヒントを得て、道ひとつに構図を絞り、他の説明をすべて省いて画面を構成したものである。画家自身がこの絵について「遍歴の果てでもあり、また新しく始まる道でもあり、絶望と希望をおりまぜてはるかに遠く一筋の道であったーそして遠くの丘の上の空をすこし明るくして、遠くの道がやや右上がりに画面の外に消えていくようにすることによって、これから歩もうとする道という感じが強くなった」と語っている。作者にとっても、忘れえぬ作品である。なお、2016年7月31日に九州国立博物館を訪れた際に、「東山魁夷」展が行われており、そのポスターの写真が、この「道」であった。代表作なのだろう。

雨  福田平八郎作  紙本彩色、額     昭和22年(1953)

img758

写実から出て装飾的な美の世界を構築することを目指した福田平八郎の芸術の特徴をよく示しており、ほとんど単色に近い色彩と極端に単純化された形で、自然の情景をじつにこまやかにとらえている。素描を重ねながら、次第に説明的な要素を省き、究極的には瓦を主体に凝縮した形に要約するのである。京橋の近代美術館で見た時から、忘れ得ぬ1枚になった。久しぶりの再会が楽しかった。

 

流石に、東京国立近代美術館には、優品が多い。中でも梅原龍三郎の「北京秋天」には感激した。「道」や「雨」は再会ではあるが、懐かしく何十年前の感激を思い出した。古典絵画も良いけれども、現代絵画にも素晴らしい絵画があることを痛感した。

 

(本稿は、図録「「国立近代美術館 名品選」、図録「近代日本の美術  1984年」、図録「日展 100年  2007年」、土方定一「日本の近代美術」、岸田麗子「父 岸田劉生」を参照した)

東京国立近代美術館 2016年第1回館蔵品名品展(明治・大正)

東京国立近代美術館は、1952(昭和27)年、日本初の国立近代美術館として東京の京橋に開館した。たまたま私の勤務先に近い場所であったため、良く出かけたけれども収蔵品も少なく、ブリジストン美術館と比較すれば、魅力ある存在では無かった。その後、現在の竹橋に移転して、収蔵品を増やし、現在では12,500点に及んでいる。これらの収蔵品を通して、1900年頃から今日に至る、日本とそれを取り巻く世界の美術の流れを展示するのが、この美術館の役割である。一時は展示品が多すぎて、絞り切れない時期が続いたが、今では、年間4回程度に分けて、有名作品、美しい作品を展示して、喜ばせてくれる。今回は、2016年度第1回の館蔵品名品展で、息を飲むような名品に出会うことが出来て、本当に楽しい時間を過ごすことができた。この展示会では、作品が多いため、日本人の絵画で、明治・大正と昭和の2回に分けて連載する。なお作品の選定については、私の好みで、かつ写真が入手できたものに限定した。

重要文化財 湯女(ゆな) 槌田麦僊作 紙本彩色 屏風(2曲1双)大正7年(1918)

img744

土田麦僊は、ヨーロッパ美術に対する強い憧憬を持ちつつ自己の芸術の方向を模索した。「油絵具でなければ自分の心情は表現できない。何度か日本画を呪い、捨てようと思った」という意味のことをのちに書いている。究極的には西洋近代絵画へ開かれた目を日本の古典的絵画に向けて、そこに近代絵画を成り立たたしめる要素を再発見し、この経緯のうちに自己の画風を築くのでだが、「湯女」は後期印象派への強い共鳴を示していた時期の作品である。麦僊が意図したのは、どちらが主でも従でもない風景画と人物画の融合であった。好色本や黒表紙本、さらに鳥居派の作例なども広く学び、江戸風俗画の官能やルノワールの情感、大和絵や桃山障壁画の雄渾な装飾感など、さまざまな要素を渾然と画面の中に取り込んでいる。国画創作協会第1回展に出品し、注目された。

夏  中沢弘光作  油彩・麻布         明治40年(1907)

img745

はじめ大野幸彦や堀江正章から、基礎洪として工部美術学校流のコンテと擦筆による厳格な素描を学び、ことにコバルト先生と称された堀江からは色彩の意味を伝えられた。次いで色彩の開眼は、黒田のもたらした外光描写への接近を容易にし、その手法によって自らの画風を形成した。この作品の特徴は平明な色調である。夏の陽光の激しい輝きは抑制される一方、陰影もほとんど除かれ、ニュアンスはあるが強いコントラストは見られない。未成熟ながら明治市民意識の台頭を背景に、中沢は、均質化された光と色彩によって穏やかなではあるが感覚的な喜びと感情を表現しようとしている。

うつつ 藤島武二作  油彩・麻布      大正12年(1913)

img747

藤島武二の画風は、黒田清輝のもたらした外光派絵画を基礎としながらも、その平明な自然観照をこえ、黒田になかった豊かな叙情性を特色としていた。それは明治30年代の浪漫主義文学の隆盛と新たな世紀末美術の紹介に呼応して描かれた「天平の面影」に代表され、耽美的で情趣と優美な装飾性が強く示されていた。その後4年間にわたるフランス、イタリア留学によって、繊細で優美なものから強直で重厚なものへと一変した。この「うつつ」は、そうした変貌をとげた藤島が帰国後にはじめて日本で描いた作品である。しどけない女性の姿とまどろむような眼差しは甘美でさえあり、それはかっての耽美的な情趣と共通するが、一方で留学中の剛直な筆致はやわらかく平明なものとなり、その後の藤島の作品を特徴づけるものとなっている。記憶すべき逸品である。

重要文化財 道路と土手の切通し岸田劉生作 油彩、麻布 大正4年(1915)

img748

これは、代々木当たりの土手と道路である。彼の代々木時代(1914~1917)に描いた風景画の代表作であり、第2回草土社(1916)に出展した作品である。劉生はこれを「クラッシックの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響を脱し、再び「じかに自然の質量そのものにぶつかってみたい要求が目覚め」として生まれた風景画の一つに挙げている。劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作であり、近代日本洋画の傑作の一つであると思う。

麗子五歳之像  岸田劉生作 油彩、麻布     大正7年(1918)

img749

最初の油絵による麗子像である。1918年の8月下旬に着手され途中中断もあったが、実質20日間ほどかけて10月8日に描き上げている。言うまでもないが5歳は数え年で、萬では4歳である。この絵は、額縁に入った形で描かれている。ここで得た自信こそが、以後麗子像やお松像を描くスプリンターボードとなったのであろう。岸田麗子さんには「父岸田劉生」という本がある。この5歳像について、次のように述べている。「数え年5歳になった私ははじめての油絵のモデルになって、モデル台の上に座った。藍の色の美しいちじみの浴衣を着て、赤まんまの花を手に持った「五歳麗子之像」がそれである。この絵が最初でこれから数多くの油絵、水彩、素描のモデルになり、たくさんの麗子像ができたが、この最初の五歳之像には父の気持ちにやはり何か特別なものがあった気がする。画面の上の方はアーチで飾られ、その下に中心から左右に分けて装飾風に描き込まれた文字を読んでみると、”千九百十八年、十月八日擱筆 画家之娘麗子・五歳・娘の父写す”とある。」

バラと少女 村山槐多作 油絵、麻布      大正6年(1917)

img750

この作品は「奈良美智がえらぶMOMAT」というブースに飾られていた。一番奥に見えたが、最も強く引き付けられ、食い付くように見込んだ絵である。作者は22歳で夭折した村山槐多で、20歳の時の絵であるそうだ。10代の頃からボードレールやランボーに読み耽り、自分でも詩を書いていたという。奈良美知恵さんは「当時の美術学校の優等生には絶対に描けない絵だろう。技量を超える強い力を持った絵なのだ」と評している。これ以上の解説は不要だろう。今回の展示品の中で一番記憶に残る作品である。

三星  関根正二作  油彩・キャンパス    大正8年(1919)

img751

3人人物が並ぶ、不思議な絵である。中央は関根本人、両脇の女性は彼の姉と、失恋した恋人だと伝えられる。(ただし、中央の人物も、赤外線写真で見ると乳房が確認でき、当初は女性として構想されていたようである)。題目の「三星」とはオリオン座の中央の三ツ星のことだというから、関根は闇の中に浮かぶ自身と近しい女性たちを、夜空の星になぞらえることで、神話化しようとしたのであろうか。中央の人物、すなわち関根の頭部に巻かれた包帯も、ファン・ゴッホの「耳を切った自画像」を連想させ、強い時代意識と切迫した想いを感じさせる。(「大原美術館」の「信仰の悲しみ」を参照ねがいたい。)

重要文化財 エロシェンコ氏像  中村彜作 油彩、麻布 大正9年(1920)

img752

モデルは一時新宿中村屋に身を寄せていたエスペランティストで詩人の盲目のロシア青年である。彜(つね)の友人・鶴田吾郎がたまたま目白駅で一人立っているエロシェンコを見かけてモデルを頼み、当時借家住まいで画室のなかった鶴田が彜にこの話をすると、彼も描きたいというので、9月6日から彜の画室で描き出した。8日午前いっぱい描き続け、もう1日やりたいという彜を鶴田はとどめて筆をおかせた。彜は、この絵をごく少なく限り、薄く溶いた絵具を含んだ絵筆をやわらかく使って、モデルを的確に写すと同時に画面に微かなしかし生気ある韻律を与えている。近代日本の肖像画の傑作である。因みに、鶴田の「エロシェンコ氏像」は、新宿中村屋美術館が所蔵している。これも優品である。

 

日本の近代絵画(洋画、日本画)は、西洋の強い影響を受けつつ、日本らしい美しさや貧しさを表現している。私は、西洋絵画よりも、同時代の日本人画家の作品を多く見る機会が多いし、かつ、そこに楽しみを求めている。ここでは3点の重要文化財が含まれるが、私に一番強い印象を与えたのは、村山槐多の「バラと少女」である。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館 名品選」、図録「近代日本の美術 1984年」、図録「日展100年  2007年、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

山種美術館  江戸絵画への視線

img850

江戸時代は公家や武家だけではなく、町民、庶民に至るまで文化・芸術を享受する層が拡大した時代である。このような社会になると個性豊かな芸術家たちが次々と登場して、豊かな文化が生み出され、厚みを増してきた。本展は山種美術館のコレクションの中から江戸絵画の歴史を概観する催しである。実は、私は山種美術館へは、今回が初めての拝観である。現代の日本画を含めて、数々の名品が揃っていることは承知していたが、JR駅からも地下鉄駅からも、徒歩10分の距離が気になり、中々出かけ辛かったというのが本音である。ネットで調べてみたら、恵比寿駅西口からバスで二つ目と知り、初めて拝観した次第である。一度、行ってみると、予想以上に近く便利であることが判り、今後は足しげく通う美術館に加えたい。案外小さい美術館で、展示も41点(江戸絵画のみ)で、丁度手頃な規模である。時代順に並べるのが妥当だろうが、琳派を最後にまとめる形にしたい。なお、琳派の中でも酒井抱一の優品が多いのに驚いた。山下裕二氏(明治学院大学教授)による図録の解説では、思いがけない「山種美術館コレクション収集」のこぼれ話が冒頭に出てくる。山下氏は、図録の冒頭に次のような秘話からスタートする。「もっぱら近代日本画のコレクションが著名な山種美術館。だが設立者である山崎種二(1893~1983)にとって、実は丁稚奉公をしていた頃目にした江戸琳派の画家、酒井抱一(1762~1828)の掛軸との出逢いが、後にコレクターとして邁進していくきっかけとなる原体験だったことはあまり知られていない。」以下「山種証券五十年史話」の聞き書きが引かれている。

重要文化財  官女観菊図  岩佐又兵衛作    江戸時代(17世紀前半)

img841

岩佐又兵衛が1枚だけ、掛けてあったことに驚いた。「まさか、まさか」である。岩佐又兵衛は「浮世絵又兵衛」として知る人ぞ知る画家である。辻惟雄氏「奇想の系譜」は、この岩佐又兵衛から始まる。図録から岩佐又兵衛の人物史を眺めてみる。「江戸時代前期の画家、名を勝以(かつもつ)という。伝説的な絵師として不明な点が多いが、伊丹城主・荒木村重の末子とされる。父が信長に反旗を翻したために一族郎党皆殺しとなるが、乳飲児だった又兵衛は奇跡的に生き延びて、母方の岩佐姓を名乗った。京都で狩野派、土佐派の画法を学び、両派融合した画風を確立した。50歳の頃福井に移り住み、福井藩主松平忠昌の御用絵師となった。その後、徳川家光の招きにより江戸に出て、三十六歌仙奉納画などを手がける。しかし、福井に残した妻子の元には戻れず江戸で没した。没後彼の存在は「浮世絵又兵衛」として伝説化されていく。」私自身は、岩佐又兵衛の絵は、浮世絵元祖と称する怪しげな絵以外見たことがなく、果たして実在の人物かどうかも疑問視していた。この絵を見れば、御所車のすだれをそっと上げて菊を愛でる王朝の貴婦人二人を、繊細な白描やまと絵の手法で描いたものである。ふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と言われる又兵衛作品に典型的な顔の三人が描かれている。元は「旧金谷屏風」と通称される六曲一双の押絵屏風のなかの一つである。(いずれ岩佐又兵衛についてはMOA美術館の所蔵する「山中常盤」(やまなかときわ)で詳細に説明したい)

伏見人形図  伊藤若冲作  紙本着色   江戸時代(18世紀)

img842

全国の稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社界隈では、現在でも本作に見られるような独特の土産物「伏見人形」が販売されている。この地域から豊富に産出される粘土を用いて様々な形を作り、焼き上げて粗末な泥絵具で着彩したこの素朴な玩具の持つ、ほのぼのとした情趣を若冲は愛したのか、縦・横の作品を多数残している。先の伊藤若冲展でも、ジョー・プライス・コレクション(縦)と国立歴史民俗博物館(横)の2種が出展されていた。最近は、江戸絵画展と言えば、必ず若冲作品が展示されるようになった。いささか鼻に付く。

指頭山水図(しとうさんすいず)池 大雅作紙本墨色淡彩 延慶3年(1745)

img843

池大雅(1721~1776)は江戸時代中期の画家である。京都に生まれ、独学した南宋画に日本の伝統的絵画や西洋絵画の手法を加え、個性的で新鮮な画風を確立し、蕪村と共に「日本南画の祖」と言われる。「指墨」「指画」とも称され、筆を使わず手の指先や爪、掌(てのひら)などを使う描法で描かれている。本作は大雅22歳の初期の作例である。画面左上に東皐壽(とうこうじゅ)による七言節句の賛が描き込まれている。柳の曲線や指の腹で押したような樹木群の描写は、筆線にはない大雅独自の自由闊達なのびやかさが感じられる。

槇楓図(まきかえでず)屏風  俵谷宗達作 紙本金地彩色 六曲一双 江戸時代

img847

無背景の金地画面に、老木から若木までさまざまな形の六株の槇と、一株の楓が密生する。構図の要は、幹が大きく湾曲する右端の槇である。それに呼応するのは、右から3扇目、株の全体を画面に納めつつ、より大きく身をくねらせる槇の木であり、さらにその動きを槇の樹林の背後に紅葉する楓が継承し、画面左斜め上に解き放っている。途中に挟み込まれる立木は曲面にリズムを与えると同時に、空間に厚みを加える効果をもつ。鬱蒼と重なり合う槇の枝や葉、重々しい筆致がやや渋滞した印象を画面に与えている。その重厚な画面に、桔梗や女郎花、刈茅(かりかや)といった秋草が可憐な趣を添える。琳派を代表する力作である。似た意匠の尾形光琳作「槇楓図屏風」(東京芸術大学蔵)は、重要文化財に指定されている。

新古今和歌集鹿下絵和歌巻断簡 俵谷宗達絵 本阿弥光悦書 紙本金泥彩色江戸時代初期

img845

金銀泥で鹿の群れが描かれた、全長20メートルの及ぶ巻物の断簡である。三井財閥を支えた増田鈍翁が所蔵していた巻物が、増田家を離れ、断簡として諸家のもとに散らばったうちの一つである。宗達が下絵を描き、その周囲に光琳が書をバランス良く配している。巻物は、この鹿から始まっていたと伝えられている。西行法師の和歌が添えられている。

四季草花和歌短冊帖 俵谷宗達絵 本阿弥光悦書 紙本金銀泥短冊画帳 江戸時代初期

img846

宗達・光琳画による共同制作をした和歌巻、色紙帖などが多数残っているが、短冊で、しかも18面も残っているものは希少である。本作品は短冊という小さな画面からはみ出しそうな宗達の図柄と、のびのびと墨書された光悦の書から、彼らの自由な発想と情熱が窺われる。歌は「新古今和歌集」から選ばれている。短冊は右から躑躅(女御微小女王)、月に松山(西行法師)、薄に桔梗(藤原定家長臣)の3枚である。琳派の代表作である。

重要美術品 秋草鶉図 酒井抱一作 紙本金地彩色屏風二曲江戸時代(19世記)

img844

二曲一双の屏風には穂の出た薄の原と銀の半月(現在は黒く変色)、五羽の鶉の群れ、そこに女郎花、露草、そして紅葉した楓葉を散らして描き、深まり行く秋の武蔵野をイメージしている。大変緻密な描写で、光琳の華やかな雅趣を思い起こさせる。優品である。

宇津の山図 酒井抱一作  紙本金地彩   軸一幅   江戸時代(19世紀)

img840

「伊勢物語」の第九段「東下り」に取材した作品である。在原業平が宇津の山で京に残してきた女への思いにふけり、歌を詠んで、出会った知り合いの修行僧に手紙を託したという内容である。「伊勢物語」は宗達以来、琳派の作品の主題として頻繁に取り上げられている。

四季花鳥図 鈴木其一作 紙本金地彩色、屏風二曲一双 江戸時代(19世紀)

img848  img849

二曲一双の金屏風に四季の草花と鳥を描いている。右隻には春と夏ー菜の花、スミレ、タンポポ、向日葵、朝顔などと雄鶏、雌鶏。左隻には秋と冬ー菊、吾亦紅、薄、女郎花、水仙などと鴛鴦が描かれている。一つの画面に二つの季節が混在しているが、違和感はなく、見事に調和している。如何にも琳派らしい派手な意匠である。

 

山種美術館のイメージは現代絵画(日本画、洋画)のコレクションとして広く知られているが、これだけの琳派の名品を有していることは全く知らなかった。過去の図録を丁寧に調べてみると、確かに「大琳派展」や、根津美術館の「燕子花と紅白梅」に山種美術館の蔵品が出展されていた。改めて、琳派の名品の素晴らしさに酔った「江戸絵画への視線」であった。創業者が、酒井抱一の柿の朱色を見て、コレクションを思い至ったという話題からして当然のことかも知れない。

 

(本稿は、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画」、図録「大琳派展 2008年」、図録 根津美術館「燕子花と紅白梅 2015年」を参照した)

 

観音の里の祈りとくらし  Ⅱ

img823

国宝や重要文化財の多い地域は、東京(東京国立博物館があるため)、奈良、京都の順に多いが、4番目となると知る人は少ない。実は滋賀県である。近江・滋賀は政治の中心になった時期は、短い。殆ど古代のことであり、都の跡も明確ではない。しかし、近江国は京都から東国への交通の要衝に位置しており、歴史上幾多の戦乱に見舞われて、多くの寺社仏閣は、その災禍に巻き込まれて、失われてしまった。堂宇は失われたが、村の人達は大切な仏様を救いだし、自分たちの手で護り通してきた。「湖北」と呼ばれる、長浜市の北部地域には、百を超える観音像が伝わり、村々のお堂には観音菩薩像、薬師如来像、大日如来像が、村人の手によって守り継がれてきた。長浜市は「観音の里」として有名である。この「観音の里」を一躍有名にしたのは、昭和40,50年代に発表された文学に拠る所が多い。特に井上靖の「星と祭」、白洲正子の随筆「十一面観音巡礼」、「近江山河抄」などではないかと、私は思っている。近江国は大変行き難い場所であり、特に観音の里では、お寺ではなく地域住民(「惣村」と呼ばれる自治組織)に守られ、秘仏が多く簡単には拝めないということもあり、今までも生きたいけれども、行き難い場所であった。今回、東京芸大が、長年湖北に伝わる観音様の修理・保存を通して、地域の皆さんと協力して43体の仏像、光明本尊1と重要文化財の文書を5文書・合計49点が展示された。これは、東京芸大と地域の住民の信頼関係の上で実現した展覧会であり、2度と見ることが出来ない仏像も多い。是非、拝観されることをお勧めする。

重要文化財  伝千手観音菩薩像  長浜市 観音寺蔵   平安時代

img824

観音寺本堂の厨子内に安置されている伝(でん)千手観音立像である。十八臂(ぴ)は珍しい。針葉樹材製で頭体幹部は一木造りである。たくましい上半身には胸と腹の括れを大きく彫り込み、足首にかけて絞り込んだ下半身には太い衣文線や渦巻を深く彫り込む。顔の墨描、朱彩は後から補修したものであろう。卓越した技量で木彫で彫り込んでいる。平安時代前期(9世紀半ば)の作と見られる。観音寺は、軍師官兵衛の黒田家発祥の地として知られる長浜市木之本町黒田にある。無住で住職は兼務のため、日常の維持管理と参拝者対応は、世話方(せわかた)が行っている。世話方は定員3名、任期3年、集落のうち17軒から毎年1人づつ選出されて、入れ替わり2年目の世話方が代表者となる。この度、厨子をでることすら稀であった本尊が初めて展覧会に出陳されることとなった。

重要文化財 十一面観音菩薩立像  長浜市 医王寺蔵    平安時代

img825

湖北の観音様は、どなたも美しい。医王寺の十一面観音も、息をのむほど端正である。この観音様は、明治20年に、当時のご住職が長浜の骨董店で見つけ、購入したものだと伝わる。巳高山(こみたかやま)にあったどこかのお寺から流失したものであろう。明治初期の神仏分離、廃仏稀釈の際に流出したものであろう。優品である。

重要文化財  聖観音立像  長浜市 来現寺蔵     平安時代

img837

弓削(ゆげ)町(旧びわ町)の観音堂に安置される。堂々としたボリュームあふれる等身大の聖観音立像である。弓削(ゆげ)の地名は、古代この地に、弓を制作する弓削部(ゆげべ)が居住したことによると言われる。湖北長浜市には、石作・玉作・田部・物部など古代の部民(べみん)制を連想させる地名が多く残っている。かっては村の西方、小字「万願寺」あったと言われる。萬願寺は、聖徳太子の建立した寺院であった跡と伝える。萬願寺は火災で消失したが、本像は村人が池に沈めて難を逃れたという。弓削部落で火事がないのは「観音さんのおかげ」と、代々語り継がれている。

重要文化財  十一面観音立像  長浜市 浅井町  善隆寺蔵  平安時代

img830

この寺は、山門(やまかど)という名の里にある。文字通り山に囲まれた集落は、まさに日本文化の原風景である。この観音様は、湖北を代表する美人観音である。井上靖は「飾り気というものの全くない質素な美しい女体」と評している。確かに、装飾が少なくシンプルである。しかし、お顔は鼻筋がくっきりと通り、しこぶる秀麗である。湖北には十一面観音立像が多い。その理由は、最後にまとめたい。

重要文化財  伝薬師如来立像  長浜市 高月町 充萬寺蔵  平安時代

img827

この寺には、十一面観音菩薩立像(重文)と伝薬師如来立像(重文)と、驚くべき仏像が2体残されている。(十一面観音菩薩立像は出展していない)寺の創建は奈良時代末期。伝教大師最澄が、ここでその2体の像及び薬師如来の眷属である十二神将を彫って祀ったのが始まりと伝わっている。ほぼ等身大の堂々たるものである。胸や腹は量感たっぷりである。お顔も肉厚で男性的である。正に、寺の名称通り、充分に活力に満ちた、頼りがいがある仏像である。薬師如来像と伝えられているが、現在は薬師の標識である薬壷を持たず、阿弥陀如来来迎印を結んでいるが、この両手先は後補であるため、当初の名称は確かめることは出来ない。制作は平安時代、10世紀と推測される。

重要文化財  大日如来坐像  長浜市 太田町 光信寺蔵  平安時代

img828

意外であるが、浄土真宗寺院光信寺の文化財収蔵庫に安置される金剛界の大日如来坐像である。ケヤキ材製で、頭部幹部は髪から地付まで一木造として、後頭部と背面から内刳(うちぐり)する。低く抑えた髷、丸顔の穏やかな表情、薄い衣に浅く刻まれた衣文線など定朝様(じょうちょうよう)の特徴を備えるが、目の見開は強く、正面から絞り込まれた腰の側面観は意外に奥行がある。平安時代後期(11世紀)の作と思われる。この大日如来像は、もとは隣接する中山神社境内の大日堂に安置され、かっては天台宗寺院・寂静山(じゃくじょうざん)大福寺の本尊であったと言われている。実際の管理は太田自治区で結成する太田大日保存会が行っている。町内20軒ほどがすべて光信寺の門徒であり、町全体で守るということから、保存会の会長・副会長は正副自治会長が務める。以前は50年に一度開帳する秘仏であったが、現在は1月の中神社の新年祭とオコナイ、大日堂のオコナイ、9月の放生会(ほうしょうえ)の際に開帳される。(秘仏だから現色が残っている。)

重要文化財  阿弥陀如来仏頭   長浜市 浅井街 善隆寺蔵 平安時代img831

図録では、単に仏頭とのみ記されているが、私は阿弥陀如来像の頭部と思う。長縁寺旧蔵で、現在は善隆寺の文化財収蔵庫の安置される如来形の仏頭である。はじめから頭だけを造ったとも言われるが、来歴は不明である。タイのアユタヤ遺跡には、木の根に抱かれた謎の仏頭もある。日本では、興福寺の国宝館にある旧山田寺の仏頭が有名である。伏せた目や鼻、口を丸い顔の中央に集めるさまは定朝様(じょうちょうよう)を踏襲する。収蔵庫に安置される十一面観音菩薩像と仏頭は、観音講である「和蔵講」が異時・管理している。山門区内77軒のうち4軒が4軒が講員で、全隆寺もその中に含まれる。講の役員は「当番」と呼ばれ、1年毎に持ち回りで交代し、収蔵庫の鍵と仏器を引き継ぐ。毎年8月9日の千日参りでは、この十一面観音像を本尊として収蔵庫内で法要が営まれる。現代まで宗教は生きている。

重要文化財  愛染明王坐像  長浜市 宮前町 遮那院蔵  鎌倉時代

img839

遮那院の秘仏本尊である。炎髪(えんぱつ)を逆立て獅子冠(ししかん)を戴き、三目で牙を剥き出しにした憤怒相(ふんぬそう)を表す。鎌倉時代の作である愛染明王は、躍動感あふれる像である。頭上に獅子頭をいただき、額には第三の目。尖った上向きの牙も印象的である。このような激しい姿であるにもかかわあらず、愛染明王は愛の仏様である。愛欲は人間の本能であり、否定できないため、そのエネルギーを転換して悟りへの道へとつなげるというのが、この仏の功徳である。愛染明王の像は比較的珍しく、特に近江では数が少ないと思われる。

千手千足観音立像  長浜町 高月町  正妙寺蔵    江戸時代

img832

琵琶湖のほとりの田圃の真中の小高い丘の上に立つ小さいお堂の中に、日本で多分一つだけと思われる不思議な観音様が祀られている。何しろこの観音様に十一の顔と千本の手と足がある。少なくとも国内では千足という名のついた仏様は知らない。顔も独得である。馬頭観音によく見られる憤怒相だが、怒っているというより威張っている子供のようにも見える。この寺は11世紀の建立され、その当時から、千手千足観音が祀られていたという。元和3年(1617)には兵火にかかり、お堂は消失。しかし村人は必死でこの像を守ったという。江戸時代に金泥を塗り直す修復も行われ、蓮台もその時に造られた。明治時代にはお堂も再建され、今も村人たちは、この像を大切に守り続けている。一度見たら、絶対に忘れない不思議な姿の観音様である。

 

琵琶湖の北部(湖北と呼ぶ)に位置する滋賀県長浜市周辺の地域には、古くから仏教文化が栄え、優れた仏菩薩像が今でも多数伝来している。特に慈愛に満ちた観音菩薩像が多いことが特色で、広く「観音の里」とも言われる。古いものは奈良時代末期に遡るといわれるが、優品の多くは平安時代につくられている。何故、これほど多くの観音象(なかんずく十一面観音菩薩の優品が多い)があるのか、不思議に思っていた。私は、仏像の歴史を専門に研究したことは無いが、私自身の独特の十一面観音菩薩像の広がりに対する私見を有している。まず、日本に十一面観音菩薩が請来されたのは、朝鮮半島からであると思う。従って、まず朝鮮半島に一番近い若狭(福井県)に渡来したのでは無いかと思っている。現に、若狭には沢山のお寺が残っている。また、東大寺のお水取りの行事は、若狭の神宮寺から香水を川に注ぎ、この香水が地底を通り3月12日の深夜に東大寺二月堂前の若狭井に湧き出すとされている。この香水を汲んで二月堂の本尊である十一面観音にお供えする仏事を「お水取り」と呼ぶ。若狭の芳賀寺には美しい重要文化財に指定されている十一面観音菩薩像がある。若狭一の美仏と言われる。この像は、古代日本随一の美人女帝で、この寺の開基である元正天皇のお姿をそのまま写したものであるという。この若狭から、琵琶湖の真東が湖北地区に当り、美しい十一面観音菩薩像が沢山造られている。湖北の徒岸寺(どうがんじ)には国宝の十一面観音菩薩像が立つ。更に東に進めば、奈良市の法華寺、更に東の桜井市には、日本一美しいと言われる聖林寺の十一面観音菩薩像があり、更に進めば、室生寺の十一面観音菩薩像がある。即ち、若狭ー湖北ー奈良市ー桜井市ー宇陀郡室生の「カンノン・ライン」の曲線上に、日本の十一面観音菩薩像が並ぶのである。朝鮮半島から日本の奈良市や宇陀郡室生への仏像の流れは、湖北を経由することで、カーブで結ぶことが出来るのである。井上靖は「十一面観音」という本の中で、次のように述べている。「私が観音像の中で、特に十一面観音に惹かれるのは、十一の仏面を戴いた姿が美しく、その美しさが抵抗なくこちらに伝わってくるからである。これほどすばらしい王冠はない。(渡岸寺の観音像)美しく、尊く、衆生救済の力を持っている。それからまた、その多くが悩み多き女体の姿を借りていることも、私にとっては大きい魅力がある。十一面の仏面によって超人的な大きな力と、悩み多き女体によって人間的苦悩を、十一面観音像は併せ示しているのである。女体が多いのは、制作者にとっては情勢的表現の方が自然にも思われ、主題追及にも恰好であったからであろう。それから信仰する者の立場から言っても、女体の観音さまの方が親しみやすいことは言うまでもあるまい」

 

(本稿は、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2016年」、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2014年」、吉田さらさ「近江若狭の仏像」、井上靖「十一面観音」、探訪日本の古寺「第5巻  近江・若狭」「第10巻奈良Ⅰ」、井上靖「星と祭」、白洲正子「近江山河抄」、「十一面観音巡礼」を参照した)

石峰寺  若冲終焉の地

 

話題の多かった「生誕300年記念 若冲展」も44万人の見学者を集め、5月24日に終わった。最終の頃は、入場まで4時間待ち、入場後2時間、かつグッズ類は大半が売り切れたとのことであった。異常なブームということもあったが、辻惟雄氏の「奇想の系譜」の中の「この本に登場する六人の画家たちは、当時はみな美術史の脇役だったが、今やかれらの江戸時代絵画史上のスターであり、とりわけ伊籐若冲の人気上昇は異常なほどだ。知らない間に現代の美的好みの方が、どんどんこちらへと接近して来たようなものである」(文庫本あとがき)という記述が、正しい認識かも知れない。さて、今回は6月に京都に行く機会があったため(聚光院創建450年記念公開を見学することが主目的であった)ついでに若冲終焉の地である石峰寺を訪ね、若冲のお墓に詣でる気持ちで、京阪線「深草駅」下車、徒歩5分の場所を訪ねた。朝9時からの石仏開扉であるが、私が8時半に着いた所、お寺の奥様が、気を使って入門を許可されたので、まず若冲の墓前に参詣し、その後、石峰寺の五百羅漢に詣でた。世に五百羅漢と呼ばれているが、釈迦の一生を石仏群で造ったものであった。私が、東京の「椿山荘の美」(2013年11月11日)で取り上げた羅漢石(伊東若冲の下絵による)20体は、この石峰寺から流出したものであった。裕福な家庭に生まれ、凡そ絵画を売却することも無かった若冲に、大変な危機が訪れた。天明8年(1788)1月30日の夜明け前から翌2月1日夕刻にかけて、京都の街は応仁の乱以来と言われる大火事に見舞われた。猛火は洛中全体に燃え広がり、後世まで「天明の大火」として記憶される江戸時代最大の京都の火災となった。若冲73歳の老境であった。市内4ケ所に持っていたアトリエと多数の作品も失った。錦街の2軒の住居も失った。この不慮の災厄により、若冲の生活環境は激変した。生活のために描くという、これまでに全く配慮の必要がなかったことに、彼は初めて直面した。これ以後、西福寺襖絵をはじめ、多くの傑作が生まれることになった。西福寺における制作のあと、若冲は京都へ戻り、石像の制作以来縁の深い石峰寺に偶居したようである。

石峰寺の赤門

IMG_3230

石段を登りつめると赤壁の竜宮造りの門が見える。このお寺は、若冲のお墓があり、かつ五百羅漢像のあるお寺である。9時開門であったが、8時半に着いた所、奥様の計らいで、お墓と五百羅漢像を拝観させて頂いた。

石峰寺の本堂

IMG_3205

卍くずしの勾欄に囲まれた禅風のお寺である。正式には黄檗宗のお寺である。お寺の建築は昭和に入ってからの建築である。

若冲のお墓(石峰寺)                 江戸時代

IMG_3209

若冲は、寛政12年(1800)9月10日に亡くなった。葬儀は石峰寺で行われたと思われ、遺体は同寺に土葬された。「三暇寮日記」10月27日の条には、没後尽七日(四十九日)に当たるこの日、相国寺一山の仮方丈となった鹿苑院で、若冲生前の同寺に対する篤志に報いるべく法要が行われたことが記録されている。若冲のお墓は、相国寺の寿蔵のほか石峰寺にも残る。ここの墓地には、墓石と、筆形の石碑が並んでいる。この墓は、石峰寺の石蔵が文政13年(1830)の大地震によって崩れたので、当主の伊籐清房が、天保4年(1833)修復した。お墓には、相国寺の寿像と同じ「斗米庵若冲居士墓」とあった。

筆塚(石峰寺)          天保4年(1883)  江戸時代

IMG_3210

伊藤家の当主であった清房が、天保4年(1833)に墓の修復と併せて、若冲の遺言により筆形の墓を傍らに造った。所謂、筆塚である。この筆型の石碑の軸の部分には、貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文が刻まれている。海屋に評伝を依頼したものである。伊藤家は、この清房の代あたりまではなお資産を残していたようであるが、その頃から、急速に没落し、慶応3年(1867)遂に家屋敷を町中に売渡して大阪へ去った。その際、伊藤家に伝わった下絵など長持一杯分の若冲関係の資料が、大阪へ運ぶべく委託した運送屋の火災で消失してしまったと伝えられる。

五百羅漢像(釈迦誕生)             江戸時代(18世紀)

IMG_3211

五百羅漢と称しているが、現実には、釈迦の一代記である。この写真は、雨の中で撮ったため、暗いが、釈迦誕生の場面である。

五百羅漢図(托鉢修行)              江戸時代(18世紀)

img782

この写真は、石峰寺で購入した専門家の写した写真である。全部、専門家の写真を使った方が分かり易いが、五百羅漢という言葉に釣られて、仏殿図の意味が理解されていないようである。

五百羅漢像(涅槃像)               江戸時代(18世紀)

img784

釈迦涅槃の場面である。一番奥に眠る(横たわる)のが、釈迦の涅槃像である。

虎図  伊藤若冲作   紙本墨色  一幅 石峰寺   江戸時代(18世紀)

img779

江戸時代に生きた虎を見ることは出来ないため、絵師たちは舶載された毛皮や古画に基づいて虎図を作成した。尾形光琳「竹虎図」に通じるとされるが、似た粉本に基づいて虎図を作成した可能性が高い。若冲が晩年を過ごした石峰寺に伝わった作品で、印の状態より最晩年の作ではないが、深草隠棲後の作例と見られる。

五百羅漢図  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅   寛政3年(1791)

img780

画面を見下ろし遠くを眺めるように構図が工夫されており、画面中央の対角線で空間は区切られ、下半分は羅漢が群れをなして左下方向に波の上を徒水する様子を描いている。画面に署名はなく、右側に「籐汝鈞印」(白文方寸)、「若冲居士」(朱文円印)を押す。実際の五百羅漢像とは、まるで違う図である。構想であろう。

石峰寺  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅       寛政3年(1791)

img781

若冲は遅くとも寛政5年(1793)までに石峰寺門前に移り住み、この地で没した。石峰寺の裏山には、若冲が下絵を描き、制作にかかわった羅漢の石像が残っており、同寺院とは非常に縁が深かった。本図の景色は石峰寺の実景とは異なるが、若冲が思い描いていた石像群の最終予定図とも言われている。裏山には中国西湖のイメージを重ね合せているとも思える。

 

石峰寺は深草にある黄檗宗の寺院で、この裏山には五百羅漢と呼ばれる石像群がある。天明7年(1787)刊の「拾遺都名所図会」に「石像五百羅漢像」が紹介されている。辻惟雄氏の推計によれば、石像群は安永の中頃(1776年頃)から天明の初め(1782年頃)にかけて、すなわち還暦に当たる60歳から66,7歳の頃にかけて、若冲の指揮下に制作されたものである。「図会」では釈迦説法のみを紹介しているが、実は釈迦の、所謂「本生譚」(釈迦一生の物語)を石像を使用して展開したものであるが、全体の構想は天明の大火以後のことらしい。現在、石峰寺で見られる石像は、釈迦の仏伝(釈尊の一代記)の諸場面である。寛政3年(1791)76歳の若冲は、大火後の困窮につき、町内及び相国寺と交わした永代供養の契約を解除している。寛政5年頃(1793)78歳の若冲については、平賀白山が「焦斎筆記」の中で次のように述べている。「今は稲荷街道(伏見街道)に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山の中へ自身の下絵の思ひつきにて、羅漢一体づつを建立しぬ。」若冲は妹とその子供と、石峰寺の門前に偶居していたと伝えられるが、最近の研究では、妹ではなく、末弟の荘厳の妻と、その子と同居し、仲睦まじい老夫婦と見られていたようである。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲 2016年」、図録「生誕300年 若冲と蕪村   2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「若冲」を参照した)

出光美術館開館50周年記念  美の祝典 Ⅳ  伴大納言絵巻

平安時代末期は、日本絵画史上では”絵巻の時代”と呼ばれている。後白河法皇院政期当時には数多くの絵巻が制作されているが、この国宝「伴大納言絵巻」も、その一つである。国宝の「鳥獣戯画」、「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起」と共に四大絵巻と称され、現存する絵巻の中では第一級の優品である。史実によれば、貞観8年(866)3月10日の夜、応天門が炎上した。原因は放火とされたが、放火の真犯人は不明のままであった。大宅鷹取(おおやたかとり)という者の告発をきっかけに、事件は時の大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)らの放火事件という驚くべき決末で一応の落着をみた。しかし、伴大納言の犯行動機が不明であることなど、この事件はいまだに謎に包まれている。当時の資料から、天皇を取り巻く太政大臣、右大臣、左大臣、大納言の政治的対立の構図が事件の背後にあったことが浮かび上がり、今にいたるまで様々に解釈されている。「伴大納言絵巻」は、この事件から約300年経った平安時代末期に制作された絵巻物である。現在「伴大納言絵巻」には、上巻だけ詞書(ことばがき)がなく、何らかの事情で消失してしまったと思われる。しかし、中巻、下巻の詞書とほぼ同じ文章が、説話集「宇治拾遺物語」巻十の最初にある「伴大納言焼応天門事」にあるので、それに従って復元することができる。それによると、絵巻物のストーリーは史実通りではなく、むしろ、人々に語り継がれてきた説話をもとに、面白い脚色が加えられていることが判る。研究者によって、絵巻の筆者は12世紀の宮廷絵師の常盤光永(ときわみつなが)、詞書の筆者は能筆家・藤原教長(のりなが)(1109~1180)とする考えが一部に定着している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「事の川下でパニック状態の人々」 平安時代

img811

検非違使の一行が太刀を手にして劇的に始まる。騒ぎを聞きつけた野次馬たちが疾走している。直衣姿で脇目もふらずに馬を走らせる公卿、草履を手に疾走する僧侶。僧侶の前には火の粉が見える。どうやら前方が火事らしいと逆走する男もいる。

国宝 伴大納言絵巻 上巻  「応天門炎上」       平安時代

img812

今まさに焼け落ちる寸前の応天門であり、日本の絵画における三大火焔表現と呼ばれる。朱、丹、橙を巧みに使い分けて、炎の温度の違いまで見事に表している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「風上の会昌門に集まる人々」  平安時代

img813

壮絶な火事場を挟んで、こちら側は川上側である。大内裏の内側に集まるのは、官人(貴族)たちである。応天門から離れた会昌門では、火事場の緊張感はそれほどはない。笑いながら手をかざす者や、火事場に完全に背を向けて談義にふける高位の官人。いずれも会昌門に立っている。波打つ風下の群集との対立的な表現に、絵師の優れた構成力が感じられる。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「無罪を訴える源信」    平安時代

img814

木立の間に荒筵を敷いて座り、天道に自らの無実を一心不乱に訴える源信。突然に降りかかった冤罪に、怒り、恐怖、むなしさのすべてが一緒くたになって、ただ祈ることしかできないでいる。その姿には左大臣としての自信はない。わなないているようなその両肩には切実な気持ちが滲み出ている。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「家人たち」      平安時代

img815

駆けこんできた家人たちを見て、いよいよ逮捕の時が来たと騒ぐ源信家の女房たち。手を摺り合わせて嗚咽をこらえる者。しかし、使者は放免を知らせに来たことが伝わると、一転喜びに包まれる。画面の左方に視点が移るに従って、女房たちの表情が嬉し泣きに変わってゆく。奥の部屋にいるのは奥方とこどもであろう。年端もいかない子を抱き寄せながら安堵の涙に暮れている。

国宝  伴大納言絵巻 中巻  「子供のけんか」     平安時代

img816

七条通りで始まった子供同士のとっくみあいの喧嘩。その左側から片方の子供の父親が血相を変えて走り寄っている。同じ画面の手前では、相手の子どもを殺さんばかりに蹴飛ばす父親と、父親を楯ににしながら喧嘩でむしり取った髪の毛を掲げて勝ち誇る子ども。その斜め上は子どもをたしなめながら家に連れて帰る出納の妻。異時同図法を用いて円環状に時間をすすめながら、その周囲に喧嘩に足を止めた貴顕さまざまな人々の感情をリアルに描く。

国宝  伴大納言絵巻  中巻 「喧嘩の内容」       平安時代

img817

この隣に住む子ども同士のありふれた喧嘩が、まさかの事態を引き起こす。蹴飛ばした父親は伴大納言に仕える出納(しゅつのう)。蹴飛ばされた子どもの親は、放火事件の目撃者の舎人(とねり)だったのだ。あまりの悔しさに、舎人は目撃したことを暴露してしまう。大声で叫ぶ舎人夫婦の周囲には霞がたなびき、その先には両手を組みながら自慢げに話す男。またたく間にうわさは広がってゆく様子が視覚的に工夫されている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「逮捕に向かう検非違使」   平安時代

img818

この噂が広がり、ついに伴大納言に逮捕状が下された。この逮捕のため、伴邸に向かう検非違使の一行。この一行の物々しさは、事件の重大さを物語っている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「悲しみに暮れる伴邸の女房たち」 平安時代

img819

主人のいなくなった伴邸。二つの枕だけが残された夫妻の寝所では、衾を引き被る夫人の黒髪が覗く。ひっくり返って天に手を差し伸べる者、涙をぬぐうことも忘れて号泣する者。用意された朝食にも箸をつけようとする者はいない。御簾にすがって泣くまだ幼そうな女房。その横では年配の女房が茫然と座り込む。残された彼女たちの究極の悲しみと絶望感の描写に、鑑賞者は伴大納言が逮捕されたことを知るのである。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「見送る家人たち」    平安時代

img820

主人が連れ去られてゆくのを門のところで見送る家人たち。門の扉に手をかけて体を支える者、力なく座り込む者など、家人たちの悲しみは想像を絶する。重い現場とは対極的にただひたすら美しい木立の描写は、伴大納言への同情を誘っているかのようである。

国宝  伴唾納言絵巻  下巻 「伴大納言を連行する検非違使」  平安時代

img821

伴大納言を連行する検非違使の一行。逮捕された伴大納言は、八葉車に後ろ向きに座らされている。肩から下の左半身だけ覗き、その表情はうかがい知ることは出来ない。楕円形に描かれた車輪は、車輪が回転し、車が確実に前進していることを表している。事件は一気に収束し、伴大納言の野望はここについえてしまったのである。

 

国宝「伴大納言絵巻」が公開されたのは10年前であった。随分混雑した記憶があるが、今回は3回に分けて公開したため、さほど混雑はしなかった。国宝絵巻を3回に分けて公開する事例は少ない。お蔭で、この物語を3回読むことになり、伴大納言絵巻が、1千年前の物語ではなく、ごく最近の出来事のように感じるようになった。この絵巻の伝承は、次のような経緯である。絵巻は後崇光院(1372~1456)の「看聞御記」(かんもんぎょき)という日記にもっとも早く登場する。そこには、嘉吉元年(1441)4月26日の条に、当時絵巻は若狭国松永荘(まつながのしょう)の新八幡神社に「彦火々出見尊絵巻(ひこははでのみことえまき)」二巻と「吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)(ボストン美術館)一巻と共にあり、なかなか見事な出来であることから、これら四巻を後花園天皇にご覧に入れたと記されている。これ以来の伝来は、小浜藩主酒井忠勝に関する記事の中に、松永荘から忠勝に献上したのち、酒井家の家臣の所蔵となり場外持出を禁じたことが出てくる。その後、寛政の内裏造営にあたって設計の参考として提出して以来、再び酒井家の所有となり、「吉備大臣入唐絵巻」とともに伝来してきた。昭和56年(1981)に出光美術館の所蔵となってからは、度々の公開と研究が進められてきた。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「国宝 伴大納言絵巻」を参照した)