中国 王朝の至宝(2)-日中国交正常化40周年記念展 2012年

(1)では、中国の初期王朝として、三星堆遺跡から出土した大量の青銅器や金製品など、数千件の遺物が発掘され、古代「蜀」の存在を先に明らかにした。その後2001年に成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見された。これまでに(2012年頃)5キロメートル近くにわたって発掘され、大形建築跡、住居跡、墓地、祭祀坑などが発見され、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺構であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷の次の西周王長野頃まで存続した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。古代蜀については、漢時代頃の「蜀王本記」や東晋時代の「華陽国志」に伝説的な事績を交えた記載があり、古代蜀の王として、蚕叢・柏灌(はっかん)・魚鳬(ぎょうふ)等の王名を伝えている。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。それらは「史記」などに記された夏王朝を想定してのことである。夏については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明されたわけではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡に見られるような大規模な宮殿跡、道路、青銅器、玉器の工房などの遺構と、各種の出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域に相当規模の権力を持つた集団があり、すでに国としての体裁を整えていたであろうことはある程度まで認めることができる。夏の次の殷時代になると、史書の記載や各地の遺構、そして多数の青銅器や玉器、甲骨文などの例証により、前1600年頃から前11世紀後半にかけて存続した王朝の輪郭がおぼろげながら明らかとなる。殷前期の都の可能性が高い鄭州(ていしゅう)商城遺跡には、当時も巨大な城壁の一部が残り、その内外からは各種の文物が大量に発見される。南方の雄であった楚に対し、山東半島からその西部まで版図とした斎や、それと隣接した魯は、共に、殷王朝(いんおうちょう)を滅ぼした。斎(せい)は,周王室の権威が衰えた春秋時代に、山海の自然と温暖な気候に恵まれた山東半島の地の利を生かして国力を伸長し、次第に大きな影響力をを持つようになった。

中国古代史の関連地図

魯(ろ)は、古くから曲阜(山東省)を都とし、春秋時代には、斎(せい)とともに強国の一つに数えられた。斎・魯は、国力こそ大小の開きがあったものの、思想・文化の点では、春秋戦国時代において多大な影響力を持つ文化大国であったともいえる。孔子・孟子の儒家、老子や荘子の道家、孫武の平家など、諸氏百家と言われる優れた学者や学派が競い合うように世に出た背景には、この方面における両国の保護奨励策が大きな役割を果たしたと見られる。こうした土壌に立って、文物の上でも、目覚ましい展開が見られた。中でも、青銅器にあっては、西周時代までもっぱら祭祀用の礼器としてあったものが、次第に実用的な側面に重きが置かれるようになるという、春秋戦国時代を通じた大きな転換があったことが特筆される。幾種類のもの玉器を多数連ねた豪華な飾り物が増えていったことなど、殷・周時代の祭祀儀礼具の荘重な感覚が仏拭され、より人間的な精神の躍動が前面に表出された実用的な傾向が顕著となっていく。概して見ると、古くからの地域的な文化の中原の伝統を加味しつつ、そこに新たな時代の要素を積極的に取り入れ、高度に洗練された文化を築いていったところに、斎・魯の独自の境地があったということができよう、

玉綜(ぎょくそう) 玉 殷ー周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江下流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品のように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

梯形玉器(ていけいぎょくき) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品にのように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

玉琩(ぎょくしょう) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉璋は、長方形の板状の玉を加工し、上方にかけて側面をわずかに湾曲させ幅を広げ、先端(上端)に内側へ湾曲する刃を作り,下部の左右に鋸歯状に凹凸する装飾を施した玉器で、左右が非対称となるのが通例である。新石器時代に山東半島あたりで栄えた山東竜山文化で発展し、それが中原の二里頭文化を経て古代蜀に伝来したものと推測される。

動物文飾板 青銅・緑松石 二里頭文化期(夏)(前17世紀ー前16世紀)

文様の輪郭が突出する青銅器の板に、緑松石(トルコ石)を巧みにはめ込んで文様を表したものである。何かに縫い付けるか縛り付けるかをするためと思われる輪が4ケ所ある。背面は青銅の板のままでなんの装飾もない。象嵌は高度な技術で施されて、美しく迫力がある。多くの研究者が、獣の顔を表したとするが、細部の解釈は一定しない。

方鼎(ほうてい) 青銅  殷(前16世紀ー全15世紀)

殷時代には青銅器鋳造技術が発展した。殷王朝前期の首都である現在の河南省鄭州市では大型の青銅器が多数出戸しており、本品はその代表例である。方鼎とは身の断面が長方形で、4本の足を持つ器である。神々や先祖の霊に供える肉を煮るのに用いた。銅と錫の合金である青銅の本来の色は金色である。ここにある文様は殷時代から西周時代にかけて作られた青銅器にしばしば表されている。

盉(か) 青銅 殷(前16世紀ー前15世紀) 河南省鄭州市出土

殷時代の青銅器の盉(か)である。二里頭文化期(夏)の土器と盉と、基本的な形態は同じである。中空の3本の足が合わさって胴となり、一つの足に縦長の把手が付く。筒状の注ぎ口は把手の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盉の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盃の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側は長く伸びて稜をなす。把手は注ぎ口と直角に側面に付く。細長い脚が3本あり、1本は把手の下に位置する。また多くの場合、注ぎ口の根元に柱が2本立つ。あるいは爵に酒を入れる時に、ここに布をかけて酒を漉したのではないかとも想像される。この爵の胴部には、2本の隆起線の間に珠門を配している。殷時代の爵としては簡素な文様である。

尊(そん) 青銅 殷(前14-前13世紀) 河南省鄭州市出土

尊は酒や水を備える容器である。口は大きく広がり、胴部はやや上下に押しつぶされた形で底に至る。底の下に高い高台が付く。側面にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央には水牛の頭を大きく表す。

玉戚(ぎょくせき) 玉  殷(前13世紀) 河南省安陽市出土

戚とは斧のやや大型のものである。大型の斧は人の首を切るのに用いられたことから、古代中国では斧は軍を指揮したり死刑の執行したりすることが出来る高い身分を象徴する器物であった。この玉戚は実用の武器ではなく宗教的な威力を備えた儀器と考えられる。この戚は円盤の一部を切り取ったような形をしている。中央の円孔は縁が一段高く、断面がT字型になっている。四川省金沙遺跡の玉器にも同様の形状のものがある。老力を費やして、あえて貴重な玉材をすり減らして作った、大変ぜいたくな玉器である。

ト甲(ぼっこう) 亀甲 殷・前13-前11世紀  河南省安陽市出土

殷の王室では、国家の大事から日常の生活に至るまで、様々な事柄を占った。占いには亀の甲螺(主に腹側の甲羅)や牛あるいは羊の肩甲骨を用い、これらを加熱して生じるひび割れの形で吉凶を判断した。占ったのち、ひび割れの周囲に占った内容や占いの結果を文字に刻んだ。占いに用いた甲羅と卜甲、占いに用いた骨をト骨と呼ぶ。甲や骨に彫りこんだ文字であることから、これらを甲骨文字という。甲骨見字は今日の漢字の祖型であり、甲骨文字から殷代の歴史や文化を知ることが出来る。

 

「蜀」と「夏・殷」の遺物を取り出してみた。特に「夏・殷」は、私には神話の世界の思いが強かったが、遺跡から出土した文物を見ると、かなり高い精神文化が、既に前16世紀頃に、中国にあったことが判明した。この大国から、日本は文字を学び、文化を学び、今日に至ったのである。中学生の頃に、藤井先生から聞いた話は、現実であり、出土物件で見事に証明されたのである。改めて、中華文明の先進性に感心した次第である。

(本稿は、図録「中国王朝の至宝 特別展 日中国交正状化40周年 2012年」、図録「誕生!中国文明  2010年」を参照した)

中国王朝の至宝(1)

最近、コロナウイルスの関係で、日本国中の美術館等が閉鎖されており、コロナウイルス病の見透しが出来るまで、閉鎖は続くようである。どこの美術館でも「現在は閉館、予定していた美術展は開館出来るようになれば、計画通り開催致します」という張り紙が出ている。従って当分の間、閉館は続くものと考えている。「美」は、その間、止めることも出来るが、実は、1990年頃から2015年までの頃の美術展は見て、かつ図録は買ってあるが、「美」には書けなかった美術展が10回以上残っている。そこで、まず中国関係の美術展を皮切りに、逐次掲載しなかった美術展を、振り返りながら、ここで改めて掲載してみたい。特に、中国関係の美術展は、日本と中国の関係が悪化してから、完全に止まっている。そういう意味で、今回、中国関係の美術展の「掲載できなかった美術展」を、改めて「美」の原稿に付け加えたいと思う。                         一番最初は、「日中国交正常化40周年記念」の「中国王朝の至宝」(2012年10月10日より東京国立博物館で開催され、逐次神戸市立美術館、名古屋市博物館、九州国立博物館まで(2013年7月9日~9月16日)約1年間にわたり、ほぼ東京より西の主力美術館で開催され、私の記憶では、これが中国関係の美術展の最後となり、2022年の今日まで、中国美術展は開催されていない。)   記念すべき美術展であったし、また内容も濃いものであった。

私は、中国の歴史をまともに受けたのは、中学2年生の時のみであり、高校、大学では「世界史」の一環として、中国史を学んだ筈である。中学2年とは、昭和22年で、日本はアメリカの占領下にあり、アメリカが中学生に日本史を教えることを禁止していた時期であった。しかし、この占領軍の学習制度は、私には思い掛け無い幸運であった。東洋史という名前の授業は100%中国史であり、ここで、しっかり中国の歴史を学び、記憶したことは私の生涯の財産となった。当時の藤井先生の学恩に篤く感謝したい。その時に学んだ東洋史という名前の中国史は、黄河流域の中原に誕生した「夏」(か)「殷」(いん)王朝から始まった。これが中国史の常識と思っていた私の中国史観をひっくり返すような、思いがけない内容の美術展であった。1986年、成都市の北方約40キロメートルの所に位置する三星堆(さんせいたい)遺跡から、大量の青銅器や金製品をはじめ、玉石器、土器、象牙、貝など、数千件もの遺物がまとまって発掘され、一躍古代蜀(しょく)の王国の存在が脚光を浴びることとなった。高さ2mを超える青銅像や、突出する目と角状の部位を持つ仮面、さらに総高が4m近くに達する青銅の神樹など、それまで予想もしていなかった驚異の文物の出現に、世界中が耳目をそばだてたわけである。遺構や遺物を総合的に検証した結果、この遺跡は、中原の殷王朝とほぼ平行した時代に、蜀の中心的な都城として機能したことが判明し、古代蜀(しょく)の王都である可能性が高まった。それまで歴史の靄の中に埋もれていた古代蜀に、驚くべき古代文化が栄えていたことが証明されたわけである。その後、2001年に、成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見されると、三星堆から金沙に続く古代蜀(しょく)の姿がよりはっきりと浮かび上がってきた。

「蜀」と「夏・殷(か・いん)」王朝の遺跡    写真

金沙(きんさ)遺跡は、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺跡であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷(いん)の次の西周王朝の末頃まで存在した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。三星堆から続く独自の文化を維持しながら、他の文化圏とも交流を持つという当時の蜀(しょく)の情勢を端的に物語るものであり、それは同時に、初期王朝期の多元的な文化の在り方を示唆するものでもあった。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。私は「夏」王朝は、日本の神話の世界のような漠然とした史実の無い時代であると信じていた。紀元前2000年頃に「夏(か)」王朝が誕生したというのは、あくまでも「史記」などに記された夏王朝を想定してのことであった。夏(か)については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明された訳ではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡(河南省偃師市)に見られるような大規模な宮殿跡や住居跡、道路、青銅器、玉器の工房跡などの遺構と、各種出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域(黄河流域)に相当規模の権力を持つた集団があり、既に国として体裁を整えていたであろうことは認めることができる。

蜀 突目仮面 1個 青銅 前13~前11世紀 三星堆遺跡出土物

この種の遺物は、これまでのところ、この作品が出土した三星堆遺跡でしか発見されておらず、古代蜀の地域に特有の信仰ないし祭祀に根差した儀礼用の器物と考えられる。古代蜀のことを記した史書に、蜀の始祖である蚕叢(さんそう)という王が「縦目」であったと記すことから、この作品はこの蚕叢を表したものとも言われている。いずれにしても、中原とは異質な文化圏が古代の蜀地域に形成されていたことを物語る、きわめて貴重な遺例である。

人頭像 青銅・貼金 前13世紀~前11世紀 三星堆遺跡

これは巫祝(ふしょくー神職)といった特殊な人物を想定したものかも知れない。後頭部から首にかけて、三つ編状の髪が表現されているが、頭頂部が平に形成されていることからすると、この上に頭髪または冠など、何らかの部位が載せられていた可能性がある。同種の仮面状のものが三星堆遺跡から57点出土したが、この作品のような金製の仮面状のものが添付されているのは4例に過ぎない。三星堆遺跡以外ではなお類品が知られず、この地域固有の文化の実態を示唆する貴重な遺品の一つである。

金製仮面  金 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

全体的にごく薄く脆弱な作りであることからすると、これを単独に使用したとは考えにくく、人頭像(前掲)に見られるように、何らかの像の顔に貼り付けたものかも知れない。ただし、三星堆遺跡の人頭像に比べると、眉や目・鼻といった各部がより柔和な表現となっている。同じ文科系統に属しながらも、造形には時代ないし地域的な相違が反映されているようである。この作品のように、金を使用したり、人の形ないしその一部を造形化するのは、古代蜀文化の特徴の一つで、そこに、青銅や玉によってもっぱら祭祀儀礼具を作り続けた中原文化との違いを見出すことができる。

金製漏斗形器 金 殷ー西 前12-前10世紀 成都州金沙遺跡出土

漏斗のような形状をした器物で、金の薄い板を打ち伸ばし、身の三方に、3個ずつの渦巻を連ねた文様を3組、透彫によって表している。表面が平滑に研磨されているのに対し、裏面はやや荒れた地肌を示していることから、もとは何らかの器物に被せていたもののようである。一節には、鈴の類に付けたとも言われるが、形状から見ると。器物の蓋に取り付けたと考える方が理にかなっているかと思われる。似たような形をした金製と青銅製の器物が同じ金沙遺跡から発見されているが、それらには、この作品に見られるような浮彫の文様が見られない。このような漏斗形をした金製や青銅器の器物は、この金沙遺跡には未だ発見されておらず、この地域固有の文化に連なる希少な遺物といえる。

尊(そん) 青銅 殷・前13-前11世紀 三星堆遺跡出土

尊(そん)は、中原地域に発達した祭祀儀礼用の酒器の一種で、三星堆遺跡からは8点が出土している。長江中流域の湖北省や湖南省からも類品が出土していることからすると、突面仮面・人頭像のような古代蜀に特有の器物と異なり、中原地域あるいは長江流域の影響や交流によってこの地域でも作られるようになったものと考えられる。同じ遺跡の出土品に、尊を頭上にささげもつ人物像があり、古代蜀では、尊の本場である中原地域とは異なった使用法をとっていた可能性が高い。古代中国における地域間の文化交流のあり方や地域的な文化の展開の様相の一端を垣間みることができる。

跪坐(きざ)人物像 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

両足をそろえて跪き、上体をやや前かがみとしながら顔は正面を向け、手を後ろで交差している。この種の石像は、金沙遺跡からこれまでに12躯が発見されている。おおむね次のような形成が基本となっていることがわかる。頭髪は、左右を刈り上げて頭頂中央で左右に分け、後髪を三つ編み状にして背面に長く垂らす。目と口は刻線で表現され、張り出した頬骨の間に大ぶりの鼻がおさまり,耳朶には小穴が開く。口や耳の辺りには朱の着色跡が認められる。背後に回した手は、手首のところを縄で縛られ、また着衣の表現が見られないことから、裸体であるとみなされる。これの石人は、すべて祭祀坑から発見されていることから、奴隷や被征服民、あるいは犯罪者などを生贄とする代わりに、その姿を石材でかたどり、祭祀儀礼において用いたものと推測される。

虎 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀  金沙遺跡出土

四肢を折って蹲り、頸をもたげて口を大きく開き、雄たけびをあげているかのような虎の姿を一つの石材から彫り出している。頭体部とも、四肢や耳及び口腔を牙以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、顔や口の周囲以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、額や口の周囲の文様は線刻で表し、臀部にも縦横の刻みを入れている。口腔や耳の辺りには朱色の彩色がはっきりと残る。臀部中央には円穴があり、当初はそこから別材を挿入して尻尾を表現していたようである。石材は、跪坐人物像と同じく、地元産の蛇紋岩と鑑定されている。洗練された造形感覚をうかがうことができる。

人形器(ひとがたき) 青銅 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

人の形を基本としながら、頭部を表現せず、胸の上部に孔を設けるという、特異な形状をした青銅製品。なで肩をした、細長い胴の両側に腕を垂加し、脚を開き気味に構え、つま先を外側に向けている。両手先には、細い刻線によって指らしきものを表している。腰と両腿の付け根に凹溝を刻出しているのは、着衣の表現であろうか。肩の外側と脚の裸(はだし)付近の内外の対比位地は,小孔を設けていることからすると、鋲や釘の類によって固定するなどして用いたものと推測される。古代蜀文化の独自の発想と想像力が生み出した、きわめてユニークな作例である。

 

中国古代蜀文化の遺物5点と、古代殷の遺物3点を紹介した。特に古代蜀の遺物は極めて稀で、三星堆遺跡、二里頭遺跡から発掘されたもので、初めて見る物である。特に突面仮面、人頭像は、極めて異例な人物像で、中国でもごく最近の発見であった。殷と同じ時代に古代蜀の文化があったことは新発見であり、中国古代史にとって大きな発見である。あえて古い展覧会の図録をご紹介したのも、古代蜀の異色の古代文化があったことを、ご報告したいと思ったからである。この「日中国交正常化40周年記念展」以降、中国との関係は悪化し、その後、一切の中国関係の展覧会は開催されず、わずかに台湾の「神品至宝ー台北国立故宮博物院」が2014年に開催されただけである。国交正常化した今日、是非、中国の文物を展示する展覧会を開催してもらいたいと思う。

(本稿は、図録「特別展 日中国交正常化40周年記念 中国王朝の至宝」を参照した)

「ふつうの系譜(5)」

後期展覧会の最後の章となる。後期展示の後半部分で、主として江戸中期の作品が多い。概して優れた作品が多いように思う。「ふつうの系譜」という変わった名称を持つ展覧会も今回が最後となる。

海上飛鶴図  原 在中作   江戸後期

「海上飛鶴図」は、原在中が88歳の時に描いた最晩年の作品である。五羽の丹頂鶴が雲の棚引く海上を飛翔している。まるで広大な山脈を俯瞰しているかのような波のうねりが面白い。やまと絵にも見られる波模様で、在中が」やまと絵の画法を取り入れていることがわかる。88歳にしても尚劣らない在中独特の写実精神と表現力が魅力である。五羽の鶴の配置やバランスや波の隆起のリズムがユニークである。

松下福禄寿図    岸駒作    江戸中期

落款にある「越前刺史」は越前守のことである。岸駒が越前守の官職名を受けたのは、亡くなる1年前の天保8年(1837)。つまり最晩年の一作である。テーマは言うまでもなく、おめでたい福禄壽。松や鶴、鹿も描かれていて、本当に縁起の良い掛軸である。縁起物の掛軸というだけで、ありきたりのもの、と思い込んでしまう人もいるだろうが、じっくり見れば、人物や動物は、主役から脇役かに関係なく、どこか楽しげで面白い。何もないように見える空や地面にも薄い墨が塗られている。岩の凹凸や木の葉にも深みがある。大きな画面の全てに、京の絵画界を引っ張ってきた岸駒の筆から生まれた、形や線、色がある。

猛虎図  岸駒作    江戸中期

「猛虎図」は、初期の「岸矩」時代の作品である。描かれた当時、この絵が何と呼ばれたかはわからないし、今日の私たちが思うような「作品名」などなかっただろう。江戸時代の虎の絵を「猛虎図」と名付けるのは、今日ではごく一般的だし、虎もそもそも猛々しい動物なのだから、「虎イコール猛虎」で問題ないのかも知れない。この絵は確かに「猛虎」と呼んでよさそうだ。江戸時代、虎の絵は、中国や朝鮮から輸入された。迫力いっぱいのものから、おかしな姿まで、色々な魅力を持つ作品があっただろう。日本の画家たちは、そんな絵を手掛かりにして虎を描いたのである。この絵にも手本があったに違いないが、プロポーションといい、動きといい、柔らかくて自然な感じの毛といい、さすが岸駒の描写力である。

猛虎嘯風図  岸良作     江戸後期

岸良の「猛虎嘯風図」は一匹の虎が咆哮する姿を描いている。画題は「虎嘯風生」(虎が嘯くと風が強く起きること。優れた能力を持つ人物が機会を得て奮起すること)からきているのだろう。虎を正面から捉えるのではなく、背後から描いた視点が新鮮である。背景には川が流れ、一本の松が植わっている。空間に薄墨を施して、風が吹いている様子を表現している。日本には虎が生息していないため、かって丸山応挙は輸入された虎の毛皮を実見して写生し、虎のリアルな姿に迫ったが、岸駒は更に虎の頭蓋骨や脚を取り寄せて体の構造を研究し、より迫真的で獰猛な虎を描いた。岸良も岸派の技法を受け継ぎ、的確で存在感たっぷりの虎を描いている。今更ながら、江戸時代の画家は研究熱心であったことを痛感する。

粟に鶉図   土佐光貞作   江戸中期

人々は古来から絵に寓意を持たせ、特に縁起の良い意味と組み合わせて用いることで願いを込めてきた。鶉は、中国では「鵪(an)」と書き、「安」と音が通じていることから「平安」を意味するそうだ。また、子孫繁栄の意味もあるという。土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄の意味もあるという。(まさか、この絵にこんな意味が込められているとは知らなかった)土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願していたのであろう。土佐光貞は江戸中期から後期にかけて活躍した土佐派の絵師である。土佐光芳の次男で、後に分家して一家を立てている。土佐派と言えば柔らかい線描のイメージがあるが、この作品では粟や笹の葉のバキッと洗練された輪郭線、そして隙のない緑と茶の彩色が画面を引き締めている。

花鳥図 張 月樵作    江戸後期

名古屋で活躍した画家、張月樵は多くの花鳥図を残している。呉春に師事したと言われており、応挙や呉春の画風をもとに独自の画境を切り開いた。地面のない空間に、ロウバイとバラ、ロウバイに止まる二羽のカラ類の小鳥、そして主役ともいうべきマナヅルが描かれている。背景となるロウバイは至極あっさりと、しかし所々で複座に枝を絡ませながら描かれ、そんな枝に止まる二羽の小鳥はまるで会話をしているようである。ロウバイの手前、バラに半ば埋もれるようにして一羽のマナズルが佇んでいる。楽し気なカラ類の姿と比較すると、孤高の精神性さえ感じさせるその姿には、人格を与えられたかのように対象を描き出す月樵の花鳥画の魅力が感じられる。

菊に鶏図   原  在中作   江戸後期

原在中による相当の力作である。菊は一枚一枚、花弁のひとひらひとひらとひらくが、くっきりと、しかし薄い透明な色で描かれ、それがたくさん集まり、わさwさした群れを成している。その密集感と、目を近づけて見た時の描写の丁寧さ、細密感には驚かされる。それをバックにした雄鶏は、白と黒と赤がくっきりとして、明瞭すぎるほど明瞭だ。口にくわえているのはバッタ。触角も足もしっかり付いている。それれを待つヒヨコのかわいいこと。見上げる二羽と、もらえる位置へ急行する一羽。口の開き方や目に、ちゃんとあどけない表情がある。天明5年(1785)、在中が36歳の時の作品だが、この頃の京では、伊藤若冲が70歳で、まだ現役の頃である。若冲の「動植採絵」や数々の色鮮やかな鶏の絵を、在中もきっと見ていたはずだ、kれども、全てにわたって「きちっと」している、この律儀な描きぶりは、後の在中の、定規で描いたかのような描写感覚につながっていくものだろう。

関ケ原合戦屏風図  菊池要斎作   江戸時代後期

「関ケ原合戦図屏風」は、濃く鮮やかな絵の具の発色と金の眩さが豪華な屏風だが、描かれている世界は生々しい戦いの様子である。徳川家康率いる東軍と石田三成の率いる西軍とが衝突した慶長5年(1600)の関ケ原の合戦を題材に描いているが、右隻は主に島図義弘、石田三成、大谷吉継、宇喜田秀家らの西軍と、東軍に寝返る脇坂安治や小早川秀秋も配されている。左隻には主に東軍の本田忠勝、藤堂高虎、井伊直正、有馬豊氏などの諸將が配されている。徳川家康は左側の木に隠れて見えなくなっている。兵士たちや馬の動きには躍動感があり、その表情も一人一人描き分けられて迫真的である。極彩色で濃密に描いていることで、血生臭い戦いの様子が伝わってくる。リアルな描写だけではなく、その俗っぽい生々しさが菊池容斎の画風の魅力の一つでもある。

 

後期の作品の残り半分を書いた。後期の方が、前期に比べ、ややなじみ深い題材が多かったように思う。いずれしろ、これだけの江戸時代の日本画を丁寧に見たことは、一度もなかった。誠に勉強になった。府中市美術館と敦賀市博物館に厚く御礼申し上げたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)

「ふつうの系譜(4)」

4月14日より後期展示会が始まった。せいぜい100点程度の展示であるから、一度に済ませばよいものをと思うが、美術館としては2度訪れる人もいるとの思惑か、あるいは貸し出す敦賀美術館の都合か知らないが、とにかく2回に分けて50点ずつ展示とは、いかにも面倒であり、また江戸時代初期から明治時代初期までの歴史を辿ることになる。「奇想があるなら普通もある」という、展示会のコンセプトに興味を感じ、2度見学することになった。特段、後期に名品が多い訳ではなく、作者も似たり寄ったりのメンバーである。何故2回に分けたのか、見学者としては、実に面倒であり、意味が無いように思う。次回以降は100点程度の展示ならば、1回で済ませてもらいたい。

伊勢図  土佐光起作   江戸中期

土佐派は室町時代から宮廷の繪所預(専属で絵画制作を行う工房の長の職)として代々引き継がれていったが、戦国時代に土佐光茂の息子が戦死し一時断絶してしまう。土佐派に伝わる技法や資料は光茂の弟子である土佐光吉が引き継ぎ、堺を拠点に活動した。こうして皇室専属から離れた土佐派が、土佐光起の時代に再び絵所預に任命されて京に戻り、復興を果たした。光起は伝統のやまと絵の画風を守るだけでなく、中国画や狩野派の技法を取り入れて様々な作品を生み出した。清少納言は「枕草紙」の第151段に「うつくしきもの」の中で「なにもなにも、ちいさきものはみなうつくし」と、小さいものは皆かわいらしいと述べているが、現代の私たちも、小さく繊細なものに心惹かれるものである。「伊勢図」は、雛人形のような小さく愛らしい女性が滝を眺めている。山の木々や滝は水墨でシンプルに描かれている一方、女性の色鮮やかで華やかな衣装に目が惹き付けられる。これは「古今和歌集」巻台17「龍文にまでうでたきのもとにてよめる 伊勢/たち縫わぬきぬ着し人もなきものを なに山姫の布さらすらむ」をもとに絵画化している。

隅田川図  浮田一薫作   江戸中期

「隅田川図」の題材は、やまと絵の世界の定番「伊勢物語」。都から失意のうちに東国に下ってきた主人公の男の一行が、武蔵国の隅田川にやって来たところである。川のほとりにみなで座って、遠く来てしまったなあと嘆き合っていると、渡し守が、日が暮れるから早く船に乗れと云う。その時、白くて鷺の足が赤い、鴨ほどの大きさの鳥が、水の上で魚を食べていた。都では見ない鳥なので渡し守に尋ねると、「都鳥」だと答える。そこで主人公の男は「名にし負わばいざこととわぬ都鳥、わが思ふ人はありやなしや」と、都に残してきた人を思う歌を詠んだ。人間の姿が小さい。まるで、みんなで「伊勢物語」ごっこをしてかのようだ。

朝陽鷹図 狩野探幽作   江戸時代初期

「朝陽鷹図」は朝日をバックに、波が打ち付ける岩の上に立つ白鷹が描かれている。細い筆で輪郭線がとられた鷹に、胡粉で白く彩色が施されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白く彩色されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白色を全体に重ね、濃い白色で毛並みを細かく描いている。画面上部に浮かぶ真っ赤な日輪の周りを囲む薄暗い雲は、淡墨で外隈(描く対象の外側を墨などでぼかして対象を浮き立たせる技法)を使って表し、雲が流れていく様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした姿が、画面に動と静とをもたらしている。

日月岩浪図  狩野養信作

この絵は、「古事記」に出てくる「国生みの一場面」のオノコロ島を題材にしたものだろうと編者は推測している。狩野派の圭角のある筆致で岩肌を表している。それを緑青や群青の岩絵の具で彩色し、更に所どころに金泥を施して豪華で迫力がある。一方で海の波濤は、やまと絵風の柔らかな描線であり、漢画と融合を成した養親ならではと言える。背景の朝日と月によって霊験あらたかな雰囲気の作品となっている。

西王母・寿老図   丸山応挙作    江戸中期

二人の仙人を描いた「西王母・壽老図」は、応挙の典型的なきれいな絵である。西王母は、女仙全てを支配し、不老不死の仙桃を管理する仙人。江戸時代、西王母の絵は特に人気があったようである。この絵のように、侍者を従えたところを描いたものが多い。西王母の向こうにいるのは壽郎人。こちらは鹿と一緒である。日本では七副人の一人として親しまれているが、もとはやはり中国の仙人である。斜めを向いた西王母と、体は西王母と同じ方へ向けながらも、顔はこちらに見せる侍者。そして完全に正面向きの寿老人。それあおれのこんな姿が単独で描いた作品は多いが、応挙は、一つの絵の中で、組み合わせることで、立体感のある群像に仕立てている。立体感のありさまを平面に描くことを得意とした、応挙らしい作品である。

相生松図   丸山応挙作   江戸中期

「相生松図」は、前作とはかなり描き方が違う。「相生松」は、同じ場所から雌雄の木が立ち上がって、まるで一つの株のように見えるもの。長壽や縁結びなどの御利益があるとされる、ありがたい木である。松の輪郭は太い直線をばきばき連ねている。幹の姿も、無理に直線で表したような感じである。遠くのものを薄くすればリアルに表せる、そんな約束事に従って、まるで機械的に表現したかのようだが、強い線や直線的な造形感覚とも相まって、突飛なくらいの雰囲気を醸し出している。

猛虎図   丸山応挙作    江戸中期

「虎嘯けば風が生づ」というのは、中国の禅の書物などにも書かれた有名な言葉である。日本でも、、多くの虎の絵で風が表現されている。この作品でも、上空の様子と激しい波からして、風が吹き荒れているようだ。しかし虎は、向かい風ににもなんのその、きりっとした姿を見せている。応挙は、若い頃から晩年まで、様々な時期に虎を描いたが、ある時期、40代の頃の作品では、体の模様を複雑に表している。本物の毛皮を見て、模様を取り入れたかわである。この作品もその一つで、数ある応挙の虎の絵の中でも、ひときわ「リアル」な雰囲気をまとう一匹である。

老子図  長澤蘆雪作   江戸中期

牛の背に乗る老人は、古代中国の思想家、老子。「老子図」に描かれているのは、周の国が衰退するのを見て落胆した老子が、国を去るところである。牛の背にちんまりと乗る様子、虚ろな目つきは、本当にがっかりしている様子である。老子の身体や腕の感じは立体的だし、牛も、破天荒な描き方ながら、しっかりと三次元的な表し方ができていて、応挙譲りの立体表現が生きている。

紅葉狗子図    長澤芦雪作     江戸中期

子犬の絵と言えば応挙の独壇場、と思いきや、最近は弟子の蘆雪の人気が応挙に迫る勢いだ。もちろん蘆雪の子犬は、応挙のおsれを真似るところから始まっているが、どこか違う。「紅葉狗子図」は、そんな「芦雪犬」の典型的な例である。まず、犬の身体が間延びしている。真ん中の後ろ姿の一匹を見れば、不自然に胴体が長い。また顔の表情も、かわいい中にきりっとしたところのある応挙の子犬と違って、三枚目っぽい。そして決定的なのが、場面設定と構図。一匹一匹がほぼ独立している応挙の場面設定に対して蘆雪のそれは、重なり合ったり、だらけたりしている。構図も、全体のバランスを考えずに、成り行きで描いたように見える。しかし、こうした「ゆるさ」こそ、昨今の蘆雪犬の人気の理由なのであろう。

 

後期の作品の半分を書いた。前半と大きな違いがある訳ではないが、後期の方が、やや絵画としては秀作が多いように思う。多分、殆ど変わらないだろうが、同じような絵を見ていると、段々好きになるのだろう。

 

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)

「ふつうの系譜 (3)」

江戸中期、すなわち18世紀の京の絵画は、華やかである。伊藤若冲、曽我蕭白ら「奇想」もいれば、池大雅や与謝蕪村、丸山応挙らもいた。続く江戸後期、19世紀になると、誰もが知っている画家は少ない。そんな中にあって、華々しく活躍したのが、原在中、岸駒(がんく)である。二人とも、若冲や応挙らと重なる18世紀後半、既に実力も人気も得ているが、19世紀を迎えて、より目立つ存在になったと言えるだろう。岸駒(がんく)の出身は、越中または加賀と言われる。安永8年(1779)に京に上り、初めは「岸矩」(がんく)という名で、清の画家沈南頻風の花鳥画などを描いていた。例えば「厳上双鶴図」などを描いている。天明5年に「岸駒」(がんく)と名前を変えてからは、彼ならではの描き方を打ち出した。特に虎の絵に人気があった。、岸駒は、有栖川宮家に抱えられたのを出発点として、雅楽助の称を許され、ついには越前守に任じられた。当時の宮中を中心とする世界での地位を高めることによってもまた、自分の絵を優れたものとして浸透させたのである。そして、その子の岸岱、岸駒の養子となった岸連山、連山の弟子の竹堂へと、その流れは続いていった。

寒山十得図    岸駒作   江戸中期

実在したかどうかわからない唐時代の人物、寒山と拾得。物乞いのような姿、突然叫んだり、笑ったり、走りだしたりといった変わった行動の中に、真理や奥義があるとされ、禅の世界で崇拝を集めた人物である。そんなテーマだから、中国でも日本でも、薄気味悪い笑みを浮かべた、不可解な表情に描かれる。しかし、数々の寒山拾得の絵と比べても、岸駒の描写は、あまりにもその表情が鮮明で、しかも「いやな感じ」の演出が思い切りツボにはまっている。完全にこちらに向けた視線、二人の口の開き方の違いや眉の形の違い。しかし、見ていて飽きない、不思議に目を惹き付ける味のようなものがある。

竜虎図 岸 連山作  江戸後期

岸連山は、絵の技量を見込まれて岸駒(がんく)の養子になった人物である。かれが描いた「竜虎図」は、雨雲を起こす龍と風を起こす虎という画だとして定番の組み合わせで、天と地を表す両者を墨一色でダイナミックに表している。岸駒の画風を継承しつつも四条派的な温和な雰囲気も感じられる。墨の表情を自在に操つて対象の立体感や空間を描き出しており、水墨画の奥深さを示す作品である。

群鳥図  岸 竹堂作   江戸後期

この群鳥図には48羽の鳥たちが隠れている。アカゲラや雀、エナガ、ウソ、ノジコなど実に様々な鳥が描かれている。「隠し絵」的な遊び心のあるこの作品を描いたのは、幕末から明治にかけて活躍した岸竹堂である。竹堂は岸連山に弟子入りして、岸派を継いだ。画面全体は落ち着いた色調だが、まだ青みのあるドングリや、烈開した栗、赤く色づいた木の実などが、夏から秋への季節の移ろいをみせている。木の幹や枝葉に輪悪銭を用いないで絵がき上げているところである。(没骨法と呼ばれる技法)。鳥たちも、輪郭線は最低限にして殆どが彩色のみで描かれている。画面内にこれだけの数の鳥がいることは驚きだが、それぞれの色彩や配置などが調和していることによって、作品に窮屈な印象を与えていない。

船鉾図  幸野媒嶺作   明治時代

近代京都画壇の画家として思い浮かべる人物は誰であろうか。すぐ思いつくのは竹内栖鳳や上村松園あたりではないだろうかと思うが、彼らが指導した幸野媒嶺を知る人は、まだ少ないだろう。しかし幸野媒嶺なくして近代京都画壇の発展はありえないと言えるほど重要な人物である。(私は、この解説を読むまで、幸野媒嶺は知らなかった)媒嶺は、江戸から明治への時代の変革期において、伝統の丸山四条派の技術を新時代に引き継いだ伝承者でありながら、新たたな美術の道を次代に繋いだ。絵画教育の近代化に尽力し、指導者としての評価が高い一方で、優れた作品も多く残している。「船鉾図」は、その媒嶺が京都の祇園祭で巡行する船鉾を主題にに描いた作品である。前祭の船鉾(出陣船鉾)と後祭の船鉾(凱旋船鉾)との二基が存在したが、後者は元治元年(1864)の禁門の変で焼失し,近年まで休み鉾となっていた。平成26年に鉾の再建が完了し、祇園祭の山鉾巡行に本格復帰した。ここに描かれているのが、幕末に焼失した大船鉾で、当時の姿を伝える歴史資料としても貴重な作品である。雨粒を描くのではなく、人々がさす傘でその場の天候を匂わせるところが洒落ている。

雪中清水寺 幸野媒嶺作  明治時代

清水寺と言えば京都観光では欠かせない定番のスポットである。覚悟を決めて物事を実行する時に使う「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるが、その由来である断崖に建つ本堂から張り出した舞台の高さは約13メートルあり、この高層建築が清水寺なのかと思ってしまうくらいに人影がなく静かである。本堂の「懸け造り」と呼ばれる格子状に組まれた柱は、建築的に整合性を持って描かれているが、雪の音羽山が薄闇に包まれる中、薄墨によってぼんやりと浮かび上がった清水寺はまるで別世界のようだ。

朝陽蟻群金銀搬入図 鈴木松年作  江戸後期

明治初期、「今蕭白」とも称され、自らも蕭白は勿論岸駒も敬愛したという鈴木松年が描いた作品である。見る人をギョツとさせる迫力がある。金銀をせっせと巣穴へ運び込む八十匹を超えるアリ。たらし込みによって描かれた土手や笹とは対照的に、アリは肢の節一つ一つまで強調するかのように丁寧に描き込まれている。勤勉さの象徴であるアリを、あたかも画家と共に地面に這いつくばって眺めているような構図が面白い。

花籠図  土佐光起作  江戸後期

江戸時代に土佐派を再興させた土佐光起の「花籠図」は、まさに「精密さ」そのものである。狂いの無い正確な輪郭線と、その中を彩る精緻な色使いに惚れ惚れしてしまう。その丁寧な筆運びはまさに職人技である。光起は伝統的なやまと絵を継承しながらも、中国絵画の手法を勉強し取り入れた。中国には宋代に隆盛した緻密で写生的な院体花鳥画があり、本作はそこからの影響もうかがえる。本図の花入れは唐物瓢手付籠花入れと呼ばれる形である。それに白菊を中心にススキ・女郎花・紅葉・朝顔といった季節の草花を挿して秋を表している。

岩上鷹・柳枝鷹図  曽我二直庵作  江戸初期

曽我派の曽我二直庵は鷹画を得意としたが、二直庵も同様に優れた鷹画を残している。「巌上鷹・柳枝鷹図」は、二羽の鷹を配置している。右福は柳の木の枝に留まって下を見つめる鷹である。画面に対して後ろを向いた状態で脚を広げ、その間から顔を覗かせている。数ある鷹画の中でもこの様なポーズは珍しく、ユニークである。左幅は岩の上で今まさしく飛ぼうとしている体制の鷹を描いている。両方とも何かに狙いを定めているかのような鷹の表情が勇ましい。鷹画は、その勇猛な姿から戦国武将や徳川将軍家に好まれた。また、どちらからも枝葉の流れや鷹の姿勢が画面上で円を描く様な形になっており、構図の妙が効いている。

十界曼荼羅図  浮田一薫作   江戸時代中期

仏画は色の宝庫である。古来、中国の仏画や厳密な教義に従って、様々な仏を色で表現してきた歴史がある。平安時代後期には、宮廷や貴族の世界で、信じられないくらい繊細で美しい仏画の数々が制作されているが、そこには、美しいものを求める気持ちと、その美しさがすなわち仏の力だという考えがあった。この「十界曼荼羅」は、日蓮宗の本尊として拝される曼荼羅。全ての境地が釈迦如来と法華経の救いに包まれていることを表したものである、「南無妙保蓮華経」の題目を掲げて、右に釈迦如来、左に多宝塔如来が描かれ、題目の下には、獅子に乗る文殊菩薩。ほかにも様々な仏や高僧が見えるが、一番下の真ん中は日蓮である。十界曼荼羅図は鎌倉時代から描かれてきたが、古いそれを模写したのかも知れない。

三国志武将図屏風  中島来章作   江戸中期

丸山派の画家、中島来章。清々しい色調の鯉の絵や花鳥画を多く描いたが、この屏風は、来章としても、丸山派としても、更に江戸時代の絵画としても異色である。テーマは「三国志」。江戸時代にはその小説版である「三国志演義」の翻訳本も出て、幅広い人気があった。登場人物をシリーズ化した歌川国芳の浮世絵は大ヒットして、彼の出世作になったほどである。現代と同じように、江戸時代の人たちも登場人物に入れ込んで、熱くストーリーを語りあっていたのかもしれない。上の図は関羽。馬に乗って振り返る姿は、中国から伝わった定番のポーズである。下の図は劉備。許都の攻撃に失敗して、劉表のところに身を寄せていたが、自分を暗殺する計画を知り、馬に飛び乗って逃げた。追手が迫る中,行く手を阻む激流を飛び越えたという「馬跳壇渓」のシーンである。見事なジャンプを見せる馬と劉備。力を振り絞ってピンチを脱した、その姿である。

 

江戸時代の中期、後期、明治時代の絵画を紹介したが、いずれも日本人が好んだ絵画である。何時の時代でも、流行があり、それぞれの趣向を表している。

「ふつうの系譜」(2)

江戸時代に入った頃の「絵画の世界」には、大きく見ると二つの流派があった。平安時代から続くやまと絵の土佐派と、中世に中国から来た水墨画の流れから生まれた漢画の流れから生まれた漢画の狩野派である。京ではまず、裕福な町人の世界から、豪華でダイナミックなものを描いた俵屋宗達が登場した。そのスタイルは尾形光琳に受け継がれ、更に江戸後期には酒井抱一、鈴木其一等が加わり、独特の感覚を加えている。今日、琳派と呼ばれる画家たちである。また江戸では町人文化として浮世絵がもてはやされた。江戸中期には、文人画も描かれるようになった。日本でも京の池大雅や与謝蕪村ら、文人画を描く人たちが現れた。このほか、清から来た沈南簸のリアルで色の綺麗な花鳥画の描き方が流行した。日本独自の絵を描いた丸山応挙、原在中、岩駒らと、後に生まれた丸山四条派、原派、岸派などがある。この江戸期の絵画の流れを頭に入れて、「ふつうの系譜」2を描き進めたい。なお画家の紹介は江戸初期、江戸中期、江戸後期など大まかな時代区分で紹介したい。

藤下遊猿図   森 祖仙作   森派   江戸中期

藤下猿遊図では、より長いストロークで全身の毛を描き、少しごわごわした毛の質感を再現している。また青を陰影として効果的に使用することで、毛の下にある硬く締まった筋肉の感じを再現している。一連の猿の図は、見事である。右下の落款から、こ図は60台で「狙仙」と代えた以降の60台で号を「祖仙」に代えて以降の晩年の作品と知られる。

雪中鴛鴦図  長澤芦雪作 丸山派   江戸中期

江戸中期、18世紀後半の画家、長澤芦雪と言えば、今では、奇想の画家として知られる。芦雪は非常に優れた門人の一人であり、天明6年(1786)に無量寺に赴いたのも、忙しい応挙の代理としてだった。芦雪と言えば、和歌山県串本の無量寺の「虎図襖」が有名である。一頭の虎を、襖六面にわたって墨で描いた豪快な作品が有名である。今回は「ふつうの画家」として腕を振るってもらった。「雪中鴛鴦図」は、簡潔ながら、手際良く本物らしさを出す手法を使って描いた一作である。鴛鴦や真っ赤な椿の花だけは細かく描き込み、要所要所で作品をぎゅっと締めている。

合歓花小禽図  村松景文作  江戸末期

村松啓文の「合歓花小禽図」に描かれるネムノキに憩う小鳥はヒガラだろうが、ネムノキは六月から七月にかけて花をつける。名前の由来は、暗くなると葉を閉じる様子が眠っているように見えることからきているという。画面に対角線上に伸びる枝や飛び立つヒガラのリズム感、瑞々しい緑の葉に可憐なピンクの花、これらを軽やかに描き、爽やかな夏の情景を見事に表している。

二見富士図  原  在中作  江戸中期

実際にある見事な景色の様子が描かれたのは、江戸中期のことである。室松時代に雪舟が天橋立を描いた作品は有名なので、意外に思わっるかもしれないが、本物の景色を題材にしたリアルな絵を多くの画家たちが描くようになったのは、18世紀の終わりから19世紀にかけての頃だった。原 在中もその一人であるが、ただ実景を写実的に描いた画家の一人と見るだけでは物足りないように思われる。細かいところが写実的すぎるほど写実的であること、定規で描いたような雰囲気が張り詰めていること。実景を描いたというだけではなく、そんな当たり前のを通り超してしまったような奇妙さに、もっと目を向けても良いのではないだろうか。「二見浦富士山図」は、天保元年(1830)、81歳の時の作品である。実際に伊勢の二見ガ浦からは富士山が見えるが、その光景を描いた作品である。太陽からの一筋の光が海上に映し出されている描写は、いかにも「光」を説明して感じで、少々ストレートすぎて面白いほどである。

養老滝真景図  原 在中作  江戸中期

「養老滝真景図」は、岐阜県にある有名な養老の滝を描いている。落差30メートル、幅約4メートルあるこの滝は、古くから名所として親しまれてきた。養老の滝にまつわる逸話は、親孝行の源丞内が泉から湧き出る酒を見つけ、老父を養い喜ばせた伝説がある。画面の噂を聞いた元正天皇によって「養老」と根付けられたという。画面の上から下まで伸びる白い帯状の滝が印象的だが、白の絵具で作者の迫真性が表れている。本作は、箱書きから孝明天皇の御遺物であったことが知られ、夏の宮中を涼やかに彩っていたのであろう。

嵐山図  原  在中作  江戸中期

丸山応挙の絵を思わせる透明感のある淡い色調ではなく、濃い色が使われている。不透明な緑青の絵具がそのまま使われた木々の美しさは、土佐派のやまと絵のようでもある。この横長の掛け軸、そしてもう一つの屏風である。描かれた場所は嵐山、今では京都の観光地の中でもとびきり賑やかで、景色の良さをじっくりと味わうのは難しいほどであるが、少し静かになると、さすがに古くからの名所だと唸らされる。

氷室山水図 原 在明作  江戸中期

「氷室山水図」は、珍しい光景を描いた作品である。夏まで氷を貯蔵しておいて氷室から、氷を取り出して京の御所まで運ぶ、その様子である。人々の描写はとにかく小さい。白い装束の二人が氷を入れる櫃を担いでいるが、夏の山中の細い道を延々と歩いて、天皇のもとへ氷を届ける心境とは、一体どんなものだったのだろうか。点描のような手法で、山の起伏を表している。狩野派の山水画のような筆遣いの妙で見せるのではなく、土佐派のように絵具そのものの美しさで見せるわけでもない。きっちりと、細かい起伏にまでこだわって描いた「精密な風景」。ここにも、父の在世中の、いわばごまかしのない、曖昧さを嫌うような絵づくりが生きている。

巌上双鶴図  岸駒作  江戸中期

岩駒(がんく)は、江戸中期から後期にかけての京では、非常に有名な画家であった。「平安人物史」に掲載されている有名画家であった。若冲や応挙よりずっと若いとは言え、その前半生を彼らと同じ時代の京の画家として生きていたわけである。そして、天保9年(1838)に83歳または90歳で亡くなるまで、絵の実力でも評判でも、第一線を守り続けた。「岸駒と言えば虎」と言われるくらい、独自の手法で描いた虎の絵は知られていたが、今日の目で色色な作品を見渡してみると、虎の絵以外で画家としての特徴をつかむのは、なかなか難しい。「岩上双鶴図」は、沈南頻風の絵を描いた時期の作品である。どちらにも「岩駒」と改める前の「岸矩」の署名がある。突き出した岩の上にいる鶴を描いた「巌上双鶴図」の鶴は、狩野派でも南頻派の絵でも丸山派でも定番の題材だが、岩の起伏をたくさんの線で表しているところや、岩に添えられた菊の描き方などは、南頻風である。しかし全体としては南頻風のこってりとした描き込みは見られず、応挙風のさっぱりとした心地よさが感じられる。応挙風の空間表現から感化された、リアルで広がりのある空間を持った作品である。

白蓮翡翠図  岸駒作   江戸中期

蓮は古くから水墨画などに描かれてきた題材である。秋になって敗れた葉もまた、敗荷と呼ばれ、はかない風情が愛されてきた。しかし、この岩駒の作品は、枯れ方も破れ方もあからさますぎる。蓮池の蓮というものは確かに密集して林立しているが、その光景の一部をそのまま切り取ったように、わさわさしている。そして葉の輪郭を表すがくがくした岸駒独自の描線。奇想かふつうか。あえてそんな見方をしている本展であるが、私は奇想の蓮葉と見たい。これは、「ふつうの系譜」に反する見方だろうか。

富士山図 岩駒作   江戸中期

この絵もまた、がkがくとした線を使って描いている。なぜ、富士山までこんな描き方をするのであろうか。ただ、改めて考えれば、本物の光景に忠実に描くことが日本の絵画の世界に登場する以前は、例えば狩野派の富士山の絵にしても「筆使いの美しさ」が作品の魅力を形作る大きな役目を担っていた。岸駒は、狩野派の描き方とは違う「専売特許のような自分だけの筆づかい」を探求して、がくがくした線にたどり着き、虎や色々な題材を描いたのかも知れない。横が130センチを超える、大きな絵である。空気感、雲の感じ、富士山の見え方など、本物らしさにもこだわっている。

岸駒の「虎図」は後期の展示のため、図禄にはあるが、私自身は本物は見ていない。しばらく猶予を頂きたい。後期展を見て、岸駒の「虎図」を紹介するので、今回は、これでご勘弁願いたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜」、辻惟雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した。

「ふつうの系譜」(1)

この題名を京王電車の中の広告で知った時、私の頭は「電撃」が走った。確かに、日本の美術界では「奇想の系譜」がかりが喧伝され、古くからの日本画が軽んじられている事に、一途の「不安」を感じていた私には、晴天の霹靂であった。今更言うまでもなく辻惟雄しが1970年(昭和45)に美術出版社から出版された「奇想の系譜」は」、当時新進気鋭の美術研究家であった著者の30歳代の著作であるった。私が、本書に出逢ったのは2004年にちくま学芸文庫から出版された「奇想の系譜」の文庫版であり、恐らく現在は30版近い売れ行きを示す、日本美術界のベストセラーになっているであろう。私は、この本に魅入られ、まづ最初に見たのは、平成天皇御即位20周年記念に展示された伊藤若冲の「動植採柄」全29巻の全巻展示であった。その素晴らしさに惹かれ、その後、京都の相国寺(若冲の墓がある)や石峰寺(晩年をこの近くで過ごし、お寺の裏山には若冲が設計した石造群が残る)を訪ね、伊藤若冲の展覧会のある時には、すべて見てきた。また岩佐又兵衛についてはMOA美術館に保管される「山中常盤」全八巻の絵巻物や、各美術館が保存する若冲の銘品を見て回ったものである。昨年の春の「山下裕二氏」監修になる「奇想の系譜ー江戸絵画のミラクルワールド」は、その初日の朝に並んで拝観した。延30万人が拝観したという「奇想の系譜展」は、日本美術界の話題をさらった。私は、今でも「奇想の系譜」は面白いと思う。しかし「ふつうの系譜」が無ければ、「奇想の系譜」は成り立たない。「ふつうがあるからこそ奇想が人を呼ぶである」ことを改めて、感じた次第である。この「ふつうの系譜」という思いがけない題名を思いついたのは、図録によれば「府中市美術館の学芸員」の方々が、展覧会のタイトルについて悩みに悩んでいたある時、スタッフから飛び出した言葉が「ふつうの系譜」であったそうだ。これこそが敦賀コレクションが今の時代に投げかける無二の意味と輝きを表せる言葉だと思った・・・と図録の最初に載せられた「本展の趣旨と構成」に書かれている。その文章の作成者の署名が無いところを見ると、美術館のスタッフの皆さんを代表して、どなたかが執筆されたものであろうと思う。通常、図録の最初の言葉は、主催者の代表(例えば館長)の言葉が、載るものであるが、この図録は、出だしから異様である。署名なしの文書が、巻頭を飾る図録は見たことがない。異様づくめであるが、これぞ「ふつうの系譜」を生んだ、府中市美術館のスタッフの皆さんの「想い」であると考える。       江戸時代の日本画の歴史は、土佐派ややまと絵が定石である。なお、作品の大半が敦賀市美術館の作品であるため、一々美術館名は出さない。

仙洞御所修学寺御幸図 土佐光孚作 安永9年(1780)-嘉衛5年(1852)

土佐光孚の「仙洞御所修学寺御幸図」は、橋を渡る烏帽子集団の長い行列が見える。天皇に位を譲って上皇となった前天皇のことを仙洞御所と称するそうだが、その上皇が修学寺へ行幸する様子を描いている。修学寺とは、現在の修学院離宮のことを指しているのだろう、橋の途切れる中州に位置する輿には上皇が乗っていると思われる。やまと絵の魅力は筆の繊細さとまろやかさではないだろうか。

菊鶉図 土佐光起作 元和3年(1738)~文化3年(1806)

この絵は、満開の白菊の傍らに番の鶉が描かれている。整った線で緻密に描かれた鶉図は、中国宋代の院体画からの影響をうかがわせる。お腹の部分は黄色の下地に胡粉の白で一枚一枚描いている。背中側は、茶や墨を用いて絵具の濃淡だけでなく線の太さも使い分けて綺麗に描き上げている。特に、顔の部分は針に糸を通すような、いたそれ以上と言えるほど繊細な点と線で正確に模様を描いている。白菊の葉、ススキからは深まる秋の風情が感じられる。

業平東下図 板谷広長作 宝暦10年(1760)~文化11年(1814)

作者の板谷広長は、やまと絵系の流派で幕府御用絵師である住吉派から独立し、板谷派を築いた板谷広当の息子である。幕府お抱え絵師として御用を務め、伝統的なやまと絵を継承した。「伊勢物語」の「東下り」を題材にした作品である。「伊勢物語」のモデルとされる在原業平が、京を離れて東国へと向かう途中で、駿河の国にて富士山の山頂にかかる雪を眺めて「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか、鹿の子、まだらに雪の降るらむ」と歌を詠んでいる。初めて目にする富士の山に、季節外れの雪が積もっている。その様子を眺めて、都から遠く離れて見知らぬ土地へやって来たことを侘しく思う場面である。業平と従者たちの華やかな衣装が画面を彩っている。右福の背景には冠雪の富士山が描かれており、左右を並べると業平らが富士山を見上げる構図になっている。

忠孝図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

この絵は、歴史の物語の一場面を描いた作品である。右は「平家物語」の話である。後白河法皇周辺に平家討伐の動きを知った平清盛は、朝敵の汚名を着せられる前に、法皇を自分の屋敷に連れてくるか、鳥羽の離宮に幽閉しようと考え、一同は戦いの準備をする。そこへ息子の重盛が、雅な平服で現れる。青い衣の人物が重盛で、清盛は、既に鎧を着けていた自分が恥ずかしく思い、衣で隠そうとしている。この後、重盛は涙ながらに父に進言する。法皇を守りますが、そうなれば大恩ある父上に背くことになります。どうすれば良いか判りませんから、私の首を取って下さい、と。そして一同は、重盛の勇気ある進言に涙するのである。

五位鷺図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

「五位鷺図」は「平家物語」にある、五位鷺という鳥の名の由来である。醍醐天皇が神泉苑の池の汀に鷺がいるのを見て、六位の蔵人に「捉えて参れ」と命じる。六位の蔵人は、どうやって捕らまえようかと思いながら鷺の方へ近寄り「天皇の命だぞ」と言う。すると鷺は飛び去らず、捕らえることが出来た。天皇は「命令に従って参ったのは殊勝である。すぐに五位になせ」と言って、鷺を五位に叙した、という話である。この絵の魅力は、六位の蔵人と鷺が、会話をしているような、目と目を合わせるような両者の視線同士の結びつきに尽きるだろう。

楼閣山水図 狩野永岳作 寛政2年(1790)~慶応3年(1867)

京で興った狩野派は、探幽の時代に江戸へと拠点を移したが、狩野山楽は京に残り、京狩野として代々継承されていった。「楼閣山水図」は、水辺に切り立つ山々の広大な景色が精緻に描かれている。伝統医的な狩野派の画法を基本に、より硬く鋭角的な描線で山の表土が捉えられている。輪郭線に金泥を引き、彩色には緑青や群青を施して美しく豪華な仕上がりのイメージだが、建物や木々の彩色は柔らかく、清雅な印象も併せ持つ。永岳は狩野派の技法を遵守するだけでなく、丸山四条派や南画にも傾倒しており、本図の点苔法や樹木の描き方、加えて隠遁する文人たちの理想郷的な世界観には南画の影響が感じられる。

伊勢大輔図  源琦作  延亨4年(1747)~寛政9年(1797)

「伊勢大輔図」は、百人一首でお馴染みの平安時代の歌人、伊勢大輔を描いた作品である。彩色がとても濃厚である。完全に不透明な塗り方、かつ一切グラデーションを使わない絵具の用い方は、やまと絵の持つ美しさを取り入れたものだろう。

 

この展覧会に採用された絵画のほぼ全ては敦賀博物館の保有する絵画である。府中市美術館とは、強いつながりのある博物館で、しばしば、敦賀博物館の保有する絵画を」、府中市美術館が、お借りして、いろいろな展示会を開催する仲のようである。私が感心したのは、今回の図録の制作である。会場に来るまでは、いろんな美術館の共催の一環と思った所、この展覧会は府中市美術館の単独開催であり、図録作成には敦賀市立博物館の皆さんの協力を得ているということのゆである。失礼であるが、府中市美術館の単独開催で、この図録が売り切れる訳が無いと思った。厚さはあるが、何分にも小さい図書で、2800円という価格では、中々売れないだろうと推察した。最近、どこの美術館でも、学芸員に聞いてみると、「図録が売れない」の一言である。図録を買わずに、果たして十分観ることが出来るだろうか。私は、必ず図録を求め、精読する癖がある。そうしないと美術館へ行っても、何時までも覚えていないからである。折角時間を割いて美術展を見るのだから、せめてふりかえりを試みないと、私の年(86歳)では、見た片端から忘れてしまう。これだけの図録を何冊売れるのだるか、私は不安を覚えて府中市美術館を後にした。この企画、この発想は素晴らしい。今年一番の「美術展」と評価したい。「奇想の系譜」を相手にして「ふつうの系譜」がどこまで戦えるか、楽しみにしている。府中市美術館の学芸員の皆さんの努力には、毎度敬服する。成功をお祈りいたします。後期も、是非拝観したいと思います、皆さん、頑張って下さい。エールを送ります。

(本稿は、図禄「ふつうの系譜ー「奇想」があるなら「ふつう」もありますー(1)」、山中栄道「日本美術全史」、辻信雄「奇想の系譜」を参照した)

アーチゾン美術館会館記念展(6・終)

アーチゾン美術館が保有する日本人画家を最後に紹介したい。ここでは安井曽太郎、藤田嗣治、古賀春江、関根正二、佐伯祐三,松木俊介の7氏である。大家もいれば、まだ知名度も高くない作家もいるかも知れな。いずれにしてもアーチゾン美術館が保有する美術品は一流揃いと、私は思うので、もし知らない画家がいたら、せめて、その履歴を調べて、近代日本絵画参照の参考にして頂きたい。

水浴裸婦 安井曽太郎作  1914(大正3)年 油彩・カンヴァス

10代の終わりから7年間、フランスに留学した安井曽太郎は、古典からポスト印象派までの様々な西洋美術を学び取った。カーニュのアトリエに晩年のピエール=オーギュスト・ルノワールを訪ねてもいるが、安井にとって最も大きな存在はポール・セザンヌであった。帰国する年に描かれたこの作品は、留学中の最大の油彩画で、集大成ともいえる充実ぶりを示している。セザンヌ、ルノワールも取り組んだ水浴する裸婦という西洋の伝統的な主題を大画面にまとめ上げつつ、人体や背景には彼らの影響を、隠すことなく吐露している。

巴里風景  藤田嗣治作 1918(大正7)年 油彩・カンヴァス

藤田嗣治については、この美術評で、しばしば取り上げている。皆さんもご存じの画家である。藤田は、渡仏初期はパリ周辺部の寂れた景色を好んで描いており、モノクロームに近い灰色を基調とした風景画を多数残している。この作品は、比較的鮮やかな色彩を用いて、街中の情景を題材にしているやや例外的であるものの、全体に漂う寂寥感や人物の描き方などに初期の風景画の特徴が見られる。エッフェル塔や地下鉄の入口のアーチ、大きな肉をぶら下げた屋台といったモティーフから、当時藤田が暮らしていたモンパルナスの界隈、エドガー・キネ通りの市場を描いたものと間あげられる。

横たわる女と猫 藤田嗣治作  1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス

新たな画業の展開を求め、藤田嗣治は1931(昭和6)年に中南米へと旅立った。そしてブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルー等を周遊して、作風は、鮮やかな色彩とより写実的な描写へと大きく変化した。この作品は、右下の署名と年紀から、1932年にリオ・デ・ジャネイロで描かれたことが判っている。しかし、この時期の特徴である鮮やかな色彩表現は見られない。むしろ乳白色の下地や繊細な描線といった、エコールド・パリ時代の技法を用いて、藤田の得意としたモチィーフである女性と猫を描いている。

猫のいる静物 藤田嗣治作 1939~40(昭和14~15)年 油彩・カンヴァス

この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれた。テーブル上に描かれる様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもある。しかし飛び立つ獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い平面性を強調する役割を果たしている。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場する。

街道(銀座風景) 岸田劉生作 1911(明治44)年 油彩・カンヴァス

この作品は、岸田劉生の実家近くの銀座通りを描いたものと考えられている。劉生の実家は、銀座2丁目で水目薬などを販売する店、楽善堂精錡水本舗を営んでいた。街角の赤煉瓦の建物や右端に見える路面電車などは、当時の銀座通りを象徴するようなモチーフである。この頃劉生は、雑誌「白樺」を通して知ったポスト印象派に関心を寄せ、特にフィンセント・ファン・ゴッホ風の強烈な色彩と光の輝きに惹かれていた。強い陽射しに照らされた道路の明るい色彩が、この作品の画面半分以上を覆い、印象的なコントラストを生んでいる。

素朴な月夜 古賀春江作 1929(昭和4)年 油彩・カンヴァス

古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画研究所で学んだ。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名とした。宗教大学(現・大正大学)にも一時通学したが、1918年に辞め、その後は画業に専念した。1922年に二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現に転じた。1929(昭和4)年、古賀はこの作品をと鳥籠を含む5点を第16回二科展に出品した。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機、卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているようである。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない世界が広がる。脈絡のないモチーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術のシュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品とともにその作風は注目を集めた。

子供 関根正二作  1919(大正8)年 油彩・カンヴァス

20歳2ケ月で亡くなった関根の最後の半年の間に、6歳の末弟・武雄を描いた肖像画と考えられている。貧しかった関根は、自作の古いカンヴァスを潰してその上に新しく制作ことが少なくなかった。肉眼でも分かるように、この作品もそうして例の一つである。印象的な朱色はおそらく最初の画面にあったものを利用したのであろう。朱色と背景の澄んだ青との鮮やかな対比は、死を前にした画家の生命への希求が感じられる。

テラスの広告 佐伯祐三作  1927(昭和2)年 油彩・カンヴァス

佐伯祐三のアトリエから程近い、ポール・ロワイヤル通りの周辺のカフェを描いた作品である。この作品は、絵に描かれた文章から2度目のフランス滞在時期である1927(昭和2)年の11月に制作されたことがわかる。画面を踊るいくつもの黒い文字は、作品全体の中で装飾的に再構成され、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしている。この作品は、佐伯の没後開かれた1929年の第四回1930年教会の特別陳列に出品された。

運河風景  松木俊介作  1943(昭和11)年 油彩・カンヴァス

松木俊介は1930年代から第二次世界大戦にかけて、知的な操作による抒情豊かな風景画や人物画を数多く残した。東西の古典美術を学習し、考え抜かれた静謐な画面を透明感のある点描でつくり出した。また妻禎子とともに月刊誌「雑記帳」を刊行し、様々な文章を意欲的に発表するなど、時代に翻弄されがちな画家のあるべき姿を世に問い続けた。1930年代初めからジョルジュ・ルオーやアメデオ・モデリアーニなどの影響を受けて、青や茶色のモンタージュ風の都市風景に取り組んだが、戦火が激しくなる1940年代には、東京や横浜の気に入った風景を暗く静かな色調で繰り返し描いた。この作品は、東京の新橋近くのゴミ処理場とそこから流れる塩留川にかかる蓬莱橋(ほうらいばし)だと考えられている。この堀り割りは1960年代に埋め立てられてしまったが、「蓬莱橋」は地名として今でも残っている。この作品は1943(昭和18)年4月に、靉光(あいみつ)、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎らと結成した新人会の第1回展で発表された。

 

アーチゾン美術館には、英仏など外国の作家と並んで、日本人画家も沢山保有されている。どうしても、西洋の印象派以降の作家の作品群と考えられがちであるが、結構明治以降の西洋風画家の名画が沢山保有されている。今回の展覧会は「開館記念展 見えてくる光景」「コレクションの現在地」と題された、石橋財団の保有する秀作を一堂に展示した展覧会であった。この展覧会は、第1章 新収蔵作品から31点を初公開  第2章コレクションへの新たな視点 第3章 従来に無い鑑賞体験 の3つの見どころを挙げている。また「無料音声ガイド」を歌い、「ご自分のスマートフォンをお持ち下さい。アプリをダウンロードして音声ガイドを無料でお楽しみいただけます。音声の細谷佳正さんをナレーターに迎え、作品の背景や見どころをわかりやすく解説します」とアッピールしている。要するにスマホを持参しないと、一切の解説が無く、また図録にも解説が書かれていないという徹底ぶりであり、老人には不便な美術館である。多分2度と行かないと思う。但し、日本の古美術を保有していることが「石橋財団コレクション」を読んで判った。この日本古美術を展示する機会に、多分出かけるであろう。下手な解説は不要であり、私の古美術鑑賞力で十分、学芸員の力を借りる必要は無いと思う。

 

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

アーチゾン美術館開店記念展’(5)

藤島武二が黒田清輝=コラン系の外光派のアカデミズムの中で剛毅に自己の性格を展開した巨匠とすれば、青木繁は、同じように、白馬会、文展の外光派のアカデミズムの中で、同時代の浪漫主義的な詩人(雑誌「明星」の文学運動であり、いわゆる(薄田)泣菫、(蒲原)有明時代と共有する明治30年代の浪漫主義的心情のなかで、近代日本美術史の永遠の作品「海の幸」(明治37年、第九回白馬会)「わだつみのいろこの宮」(明治40年、東京府勧業博覧会)を描いた作家である。しかし、それ以後、漂泊の窮乏の末に、福岡市松浦施療病院で、明治44年、28歳の若さで肺結核のために死んだ不幸な作家であった。「海の幸」は、東京美術学校を明治37年(1904年)に卒業した直後に友人、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと千葉県布良(めら)に旅行した時に描かれている。すでに前年(明治36年ー1903年)、第八回白馬会に出品した「黄泉比良坂」(よもつひらさか)、その他で白馬賞を得た作家として、記紀の神話に託した浪漫主義的な抒情を独自の性格の中に描いた青木繁は、青春の自信と恋愛の満潮のような、創造のうねりの中で、碧い海、白く砕け、たかなる波濤、金地の空を背景として、生命の韻律を持つ構図のなかに、大鮫(おおさめ)をかついでいる群像を描いたものが「海の幸」であり、たかなるような青春の賛歌を歌っている。それと反対に「わだつみのいろこの宮」は青が主調となった静かな構図を持つ情緒深い作品となっている。いわゆる「ラファエル前派」のイギリスの画家ロセッティ(1828~82)と呼ぶ人もいるが、土方定一氏は、「青木はロセッティより上」と評価している。しかし、それ以降、生活の窮乏の中で、制作も少なく、敗残のなかで死んでいる。私は渡辺洋著「悲劇の洋画家ー青木繁伝」を読んで、青木繁の生涯を知り、浪漫主義的な画題を生み出した天才の不幸な一生(わずか29歳で死亡)を、思わずにはいられない。

自画像  青木繁作 1903年(明治36年) 油彩・カンヴァス

私が見た青木繁の自画像は、本作の前に描かれた東京美術大学が保有する、青木の卒業制作の自画像と、大原美術館が保有する自画像(1903年)、及び本作であり、いずれも1903年(明治36年)の作品である。私は、その中では、大原美術館の作品が一番良く描かれていると思う。青木繁は、これ以外に幾つもの印象的な自画像を書き残している。青木は作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に掛かったところがあり、油彩や鉛筆による様々な自画像はどれも表現が異なり、大きな振幅を持っている。この自画像では,暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせている。よく見ると背景には不定形な形が幾つも見えるが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられている。魔物のような暗い情念を塗りこめたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれている。

重文 海の幸 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

明治37年の夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、友人の森田恒友、坂本繁二郎、それに愛人の福田たねと一緒に、房州布良(めら)海岸に写生にでかけた。同郷の友人であり詩人であった高島泉郷から、房州海岸の素晴らしさをいろいろ聞いたのが直接の動機であった。この時描かれて、同年9月の第九回白馬会に出品された。画題は「古事記」の神代巻にある海佐和から執って「海の幸」と名付けた。「海の幸」は、繁の自信にたがわず会場を訪れる人々を釘付けにした。同行した坂本繁二郎の話によると、この「魚師の一群がモリを持ち、大鮫をかついで引き上げてくる壮烈な情景を見たのは、実は坂本氏であり、青木は坂本の話を聞いただけであったそうだ。おそらく青木は、その話をパン種として、この鮮やかな群像図を展開さていったのであろう。背景は現在ではかなり金が剥げ落ちているが、最初は金色と深い青に輝いたはずである。青木に傾倒している詩人の神原有明は、この作品について、長い歌を歌っている。この「海の幸」で、青木繁は「白馬賞」を受けている。

海 青木繁作 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

1904(明治37)年初夏、青木繁は坂本繁二郎らと千葉県館山市布良海岸に滞在し、「海の幸」を制作したが、あわせてこの海岸の波打ち際を何点も描いている。熱い日差しに輝く岩が、太平洋の激しい波を受け留めている。荒々しく鮮やかな点描表現は、1880年代のクロード・モネの作品を思い起こさせる。青木は何らかの手段によりモネの作品を知っていたに違いない。彼自身は何も語っていないが、この作品は青木と親しく交流した象徴派詩人神原有明の所蔵となり、第二次大戦後に一時、川端康成コレクションに加わった。

重文わだつみのいろこの宮 青木繁作 1907(明治40)年 油彩・カンバス

明治40年(1907)の東京府勧業博覧会に出品された青木繁の代表作の一つである。この作品は、日本の古代神話にテーマを求めて、海の底に降りた山幸彦を画面上部中央に、画面の下の方に豊玉姫と白衣の侍女を配し、画面全体を濃い青で染め上げた華麗なげ幻想画で、青木の優れた構想力が遺憾なく発揮されている名作である。夏目漱石は、明治42年刊行の「それから」のなかでこの作品に触れている。「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている昔の高い女を描いた。大助は多くの出品のうちで、あれが良い気持ちに出来ていると思った。つまり自分もああ云う落ち着いた情緒に折りたかったからである。」と書いた。      その作品には、青木の好んだラフェロ前派の影響が濃厚であるから、あるいは漱石の共感を得る要素が強かったかもしれない。青木自身も、この作品にはかなり自信を持っていたが、審査の結果は、三等賞末席で、青木にしては期待はずれであった。そのため、彼は、雑誌「方寸」に激しい攻撃文を書いたほどである。しかし現在では名実ともに青木の最高傑作に数えられ、重要文化財に指定されている。

天平時代 1904年(明治37) 油彩・カンヴァス

明治36年(1903)の末から翌年の春にかけて、青木繁の作品には「享楽」「春」そしてこの「天平時代」など、遠く万葉の時代への初々しい憧れを艶麗な色彩で華やかに歌い上げたものが次々にと登場する。それは藤島武二の「天平の面影」や薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」などと相通ずる時代の精神風土でもあったが、同時に、青木繁の生来の豊かな幻想性によく適したものでもあったq。当時の繁は、ロセッティやバーン・ジョーンズのようなイギリスのラファエロ前派に強く惹かれており、また、モローやシャーヴェンヌなどいわゆる世紀末の画家たちに強い共感を寄せていた。白馬会の主流であった自然描写とは対照的に、曲線のアラベスクと多彩な色調を駆使したこの優雅な幻想の世界の上代世界は、繁の鋭敏な感受性と西欧への特異な反応の仕方とを良く示すものと言える。

自画像 中村 彜作 1909~10年(明治42~43年)油彩・カンヴァス

旧水戸藩士の三男として生まれた中村彜(つね)は、幼い頃に両親と姉、ついに兄を亡くした。自身も肺結核のため身体が弱く、療養をかねて各地で水彩のスケッチを描き、画家を志すようになる。白馬会研究所や太平洋画会研究所で修業を積み、新宿の中村屋裏のアトリエにお住んで、家主の相馬愛蔵、黒光夫妻を慕って集う若い芸術家たちと交流した。この作品は、彜が22歳の頃に描いた自画像である。画面に対してやや斜めに構え、画家の頭上から光が強く照らし出すという構図は、レンプラントの自画像からの強い影響を示している。この作品は1910年の第4回文展に出品され、三等賞を受賞した印象派風の「海辺の村(白壁の家)(1910年」とともに入選を果たした。中村彜の最高傑作は「エロシェンコ氏の像」であることは有名である。

山幸彦 小杉放菴作 1917年(大正6年) 油彩・カンヴァス

小杉放菴は画家五百木文哉に学び、1899(明治32)年不同舎へ入門した。放菴は、1913年ヨーロッパを巡遊、翌年、日本美術院の再興に参加した。再興第4回院展へ出品されたこの作品には神話の一場面が描かれている。平坦な人物表現に奥行きの排除された背景、象徴主義の先駆けとなるフランスの画家ピュヴィス・ド・シャパンヌを想起させる装飾的な画面は、小杉の渡欧を支援した銀行家渡辺六郎の依頼で壁画として制作された。この大きさのカンヴァスを用意するのは容易ではなかったと画家自身が述べている。

放牧三馬 坂本繁二郎作 1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス

生涯にわたって牛や馬、能面などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教えた。青木繁とは小学校が同級であり、その関係もあってか、後にブッリジストン美術館の絵画収集に当たり、石橋正二郎氏にアドヴァイスをしたと地耐えられている。特に青木繁の作品収集を勧めた人物である。1921(大正10)年39歳の時にパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化される表現へ変わった。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天上まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てた。その新しいアトリエで描かれたのがこの作品である。坂本は没するまで数多くの馬を描いた。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったと云われる。この作品は、坂本が創立会員でもある二科展の第19回展へ出品さえれた直後、正二郎氏によって購入されたものである。そして石橋美術館(久留米市美術館)へ訪れた坂本自身の手によって2度加筆されている。同級生の青木繁とは、正反対の物静かな生涯であった。

 

青木繁は、明治40年(1907)以来、貧困のゆえに故郷の九州へ帰り、酒と女におぼれ,小遣い銭稼ぎに絵を描きながら、九州を放浪し、結核を病み、最後は施療病院に収容され、敗残の中で死去した。1911年(明治44年)の3月に28歳の若さで亡くなった。家族に宛てて、次の手紙が残されている。        「小生も是まで如何に志望のためとは云いながら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だに志成らず業現れずしてここに定命尽きる事、如何ばかりか悔しく残念に候なれど、諦めれば是も前生よりの因縁にても之あるべく、小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝もなく水の泡と消え候も。是不幸なる小生が宿世の為劫にて候べき。さればこれ等の事に就いては最早言ふべき事も候わず。唯残るは死骸にて、是は御身達にて引き取りくれずば、致し方ななく、小生は死に逝く身故跡のことは知らず候。よろしく頼み上げ候。火葬料位は必ず枕の下に入れ置き候に付き、それにて当地にて焼き残りたる骨灰は、高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて下されたし。小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就くべく候。」

 

本稿は、図録「石橋財団コレクション  2020」、図録「ブリジストン美術館名作選  2015年」、渡辺 洋「悲劇の洋画家 青木繁 伝」、土方定一作「日本の近代美術 岩波文庫」 原色日本の美術全集第27巻「近代の洋画」を参照した。

アーテイゾン美術館開館記念展 (4)

アーチゾン美術館は、西洋絵画と並んで、近代日本絵画も多数保有している。特に青木 繁の絵画は、日本で一番沢山保有している。その意味でも、アーチゾン美術館は、私が最も愛している美術館の一つである。今回は、ヨーロッパ人が描いた絵画6点、日本人画家が描いた絵画4点を選んだ。

女の顔 パブロ・ピカソ作  1923年 油彩・砂・カンヴァス

青の時代、バラ色の時代、キュビスムの時代など、ピカソは生涯を通じて次々と画題を展開していった。そして大一次大戦後、ピカソはそれまでの革新的なキュビズムとは一変して、古典的な作風に回帰した。この新古典主義の時代と呼ばれる様式への大胆な転換は、世間を驚かせた。しかし実際には、1920年代前半まで総合的キュビズムと呼ばれる用式が共存し、ポカソは主題やモチーフによって使い分けていた。この作品は、鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれ、小品ながら明朗な力強さを持ち、新古典主義時代の特徴をよく表している。また、作品に用いられた絵具には砂が混ぜ込まれ、まるで古代の彫刻や浮彫のような質感と荘厳さを感じさせる。モデルについては諸説あり、妻のオルガノであるとも、当時親しく交流していた画家ジェラルド・マーフィーの妻のサラであるとも言われている。しかし、新古典主義の時代にあって、特定の人物の肖像画というよりも、むしろ普遍的な美しさを讃えた女性像としての要素が重視されていることは明らかであろう。この悪品は、美術評論家でコレクターの福島繁太郎氏が愛した作品で、戦前に日本にもたらされたものである。石橋正二郎が特に愛した作品で、1952年の開館記念展のポスターやカタログの表紙にもなった、いわば石橋コレクションの「顔」ともいえる作品である。

腕を組んですわるサルタンバンク パブロ・ピカソ作 1923年 油彩・カンヴァス

ピカソは、大一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けた。結果として1918年に描かれる対象が、古代貯穀のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入った。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持つている。ここで描かれているのは「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉である。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていた。力強い黒い線、洗練されかつ迫力のある色彩コントラスト、安定した構図の巧みさ、清潔感に溢れたサルタンバンクの表情などは、ギリシャ・ローマ時代の古代彫刻に通じる造形美を持っている。ここでピカソは、芸人への憐憫の情を抱いて描いているようには見えない。むしろ芸人は、新しい時代を先導する英雄のごとき凛々しさを身にまとっている。そこには、伝統的な美を、自らが試行錯誤して洗練させた結果としての新しい手法で乗り越えようとする画家の意図が重ね合わされているようである。この作品は、かって20世紀を代表するピアニストで美術品の収集家としても知られているウラジミール・ホロヴィッツが所有しており、自宅の居間を飾っていたことが知られている。

画家とモデル パブロ・プイソ作 1963年 油彩・カンヴァス

道化師のテーマと同じように、画家とモデルのテーマにもピカソが若い頃から取り組んできた。1904年の水彩画(瞑想)には粗末なベッドに眠る少女を見つめる貧しい身なりの若者が描かれている。彼らは恋愛関係にあるようである、その後、この二人が画家とモデルの関係に移行するのに伴い、このテーマは芸術創造にまつわる謎に深く関わるようになった。さらにこの関係には、第三の要素が加わる。モデルから霊感を与えられた芸術家が創造した「作品」である。この「画家とモデル」では、赤い線で囲われたベッドの上に、緑色に塗られたモデルが横たわっている。そのモデルの前にして、画家がカンヴァスに作品を描いているのである。

バッカス祭 モーリス・ドニ作 1920年  油彩・カンヴァス

1920年にスイス、ジュネーヴの毛皮店「ティーグル・ロワイヤル(ベンガル虎)から注文を受け、大装飾画(バッカス祭)(完成作は分割。一部は新潟県近代美術館))を描いた。この作品はその準備のために描かれた下図でではあるが、かなり細かく描かれている。バッカス祭とは古代ギリシャからローマへ引き継がれた酒神バッカス(ディオニソス)を祀る密儀であるが、ルネサンス期以降好んで描かれた神話主題の一つである。中央に描かれている虎は注文主の意向であり、その他にも店で扱うのであろう動物が描かれている。

ヴェルノン付近の風景 ピエール・ボナール作 1929年 油彩・カンヴァス

ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開いた。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には「マ・ルロット(私の馬車)」と自ら名付けた、この時期のボナールの家があった。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配され一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっている。

吟遊詩人 ジョルジョ・デ・キリコ作 1948年 油彩・カンヴァス

デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えた。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいている。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘であった。エックス線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されているが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼ぶ。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ている。

プレハの女 黒田清輝作  1891年 油彩・カンヴァス

1891年9月、黒田清輝は友人の画家・久米桂一朗と、パリを発ってブルターニュ半島のサン=ロマ湾に浮かぶプレハ島に遊んだ。この島の変化に富み風光明媚な景色やケルト系住民の風俗を喜び、同じように訪れた画家たちとの交流もP楽しんだ黒田は、約1ケ月滞在した。その間に海岸風景に加え、現地の子供をモデルにして人物画を描いた。少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだ眼差し、手に持つ布切れの黄色、左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた帵。画面を覆う筆遣いも荒々しく、穏健な画風を示す黒田には珍しく、激ししい表現が散りばめられた作品である。旅先での自由な空気が、彼の内面の情熱を引き出したのであろう。確かに日本画壇に聳え立った黒田らしくない、珍しい絵である。いまだかって見たことが無い絵であった。

重文 天平の面影 藤島武二作  1902年(明治35年) 油彩・カンヴァス

藤島武治は、明治30年代から昭和10年代まで日本のの洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家である。日本人による油彩画の在り方を突き詰めて追及し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出した。30台半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方へ感情を表そうとした時代の典型作である。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモチーフを組み合わせた。花咲く桐の下に立つ女性には、奈良時代の衣装を身に着け、箜篌(くご)という古代楽器を手にしている。その健康的な体躯は右脚に体重を載せ、自由の利く左肘をすこし前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS字を描いている。古代ギリシャで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズである。東洋と西洋の二つの古代への憧憬を、藤島は具体的に女性像を重ね合わせた。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古代古典とも言うべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っている。白馬会に発表されると、ただちに象徴派詩人神原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げた。

屋島よりの展望 藤島武二作 1932(明治7)年 油彩・カンヴァス

藤島竹二は国立公園協会の委嘱を受けて、瀬戸内海の景勝地屋島に、取材のために夏の1カ月滞在した。屋島は、香川県高松市の北西に位置し、瀬戸内海に向かって真北へ突き出した台地条の小さな半島である。その頂上に近い宿に泊まった藤島は、夜明けには真東に向かい、古戦場の入り江を挟んでそびえ立つ五剣山の稜線から昇る朝日を描いた。朝食、昼食をとって休んだ後、午後に西側の志度湾や女木島を描いた。この作品は午後に描かれた1点で、不要な他の島影を省いて画面を整理し、次第に夕陽が空と女木島の色を変化させていく様子を演出している。

パブロ・ピカソやキリコと並んで、日本の格調高い藤島武二の作品を並べたのは、やや違和感があったが、全部で6回にまとめるには、西洋と日本人画家が混在する章が、どうしても出てくる。ご勘弁頂きたい。次は、私の一番好きな青木繁の全作品(当日展示された作品の限定)を、格調高い詩歌をつけて、ご披露するので、我慢して読んでもらいたい。

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、高橋秀爾「近代絵画 下」を参照した)