特別展  大和古寺の仏たち(4)

大安寺

奈良市街の南西部に位置し、かったは壮大な伽藍を誇り、東大寺、西大寺に対して南大寺とも呼ばれたが、現在の境内はかなり縮小され、木立に囲まれた閑静なたたずまいを見せる。草創は聖徳太子の建立した熊凝道場に遡り、これを大寺にしたいという太子の遺志をを継いで、舒明天皇がその十一年(639)に百済川の畔に建立した百済大寺に始まると伝える。その造営は天智朝にも及んだとみられ、天智天皇7年(668)には、後世、薬師堂金堂の薬師如来像とりも優れると賞賛された乾漆造りの釈迦如来像が造立された。百済大寺の位置は現在の北葛城郡広陵町とされているが、天武天皇2年(673)に武市郡に移築されて寺名を高市大寺と改められ、同6年に大官大寺と改称された。大官は天皇を示し、大官大寺はまさに国家仏教の頂点に位置する寺院となった。平城遷都後、飛鳥の藤原京から平城京の左京に移されるが、その位置は右京の薬師寺と対応する。鎌倉時代以降は徐々に衰退し、その美観を失っていった。現在は、本堂や収蔵庫に安置されている木彫像、境内の南方にある広大な東西両塔の跡に往時の面影を伝えるのみである。     高野山真言宗

重分 伝不空羂索観音立像  木造 彩色  奈良時代(8世紀)

大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。八本の腕を持ち、不空羂索観音と伝えるが、腕はすべて後世補われたものに替わっている。現在の腕は像本体に対して小振りであり、全体に窮屈な印象を与えるが、当初は八本の腕の動きによって現状よりももっと大きな造形空間を形成していたと推定される。不空羂索観音は観音信仰の展開によって考えだされた様々な形をとる観音(変化観音)の一つで、十一面観音に次いで成立した。羂索(狩猟で使われた罠の一種)で、すべての人々や生き物を逃がすことなく救済し、あらゆる願いを叶える観音であり、日本では奈良時代から信仰され、東大寺法華堂(三月堂)の像はその代表的な作例である。本像は、通例の不空羂索観音が両目のほか、額中央に第三の縦の目が表されるのに対して両目のみであり、不空羂索観音の特色である鹿側をつけた形蹟がない点、やや像容を異にしている。なお、現在、本像はほとんんど木肌を著しているが、裳や天衣には草花や団花文などの彩色文様、截金にとる小花、銀泥描きの茎や葉などの痕跡があり、かっては華やかな彩色が施されていたことが判る。

重分 楊柳観音立像  木造・彩色 奈良時代(8世紀)

先の伝不空羂索観音像とともに大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。菩薩でありながら怒りの表情を示す、他に類例のみない像で、楊柳観音と伝えられるが、本来の尊名明らかではない。憤怒相の特異な像容から密教系の尊像であると思われるが、本像は弘法大師によって日本に密教が伝えられる以前の初期的な密教彫像の様相を示す作例として貴重である。

元興寺(がんごうじ)

奈良市街の中心、猿沢池の南方に所在し、かっては南都七大寺の一つとして栄え、壮大な伽藍を誇っていた。今では旧伽藍跡地の大部分に民家が建ち、往時の面影はわずかに極楽坊の一画や塔跡、小塔院跡などに残るだけである。草創は日本最初の仏教寺院として蘇我馬子によって飛鳥の地に建立された飛鳥寺(法興寺)に遡り、この飛鳥寺が平城遷都に際して平城京に移されて以降、元興寺と称されるようになった。平城京の移転は他の寺よりもやや遅れて、養老2年(718)であり、造営も8世紀後半まで及んだ。             真言律宗

重分 阿弥陀如来坐像 木造・彩色  平安時代(10世紀)

堂々とした姿の阿弥陀如来坐像で、もと本堂の厨子内に本尊として安置されていたが、現在は収蔵庫に移されている。伝来については明らかではないが、現在「大乗院寺社雑事記」(興福寺寺社雑事記)の、文明15年(1483)9月13日条によると、宝徳3年(1451)10月14日に大和の徳政一揆で願興寺禅上院の八角多宝塔が炎上した後に、その本尊阿弥陀如来像を極楽坊の道場に入れたという記載があり、本像がこの阿弥陀仏像に当たる可能性もある。高く盛り上がった肉髻(にっけい)、丸みのある顔立ち、柔らかさの肉親や着衣の表現など、全体にまろやかさが印象的な像である。本像は天平彫刻の伝統を濃厚に継承した造形を示していると言えよう。制作時期は、その顔立ちやなで肩の体形などに正歴4年(993)に造立されたことが知られる滋賀・善水寺の薬師如来坐像と共通する趣があり、10世紀末頃と考えられる。

法華寺

平城京の東、奈良市宝華町にある。この地は、和銅3年(710)の平城遷都の際に、右大臣藤原不比等等が邸宅を構えた所であった、養老4年(720)に不比等が亡くなると、光明皇后が受け継ぎ皇后宮としていた。天平17年(745)遷都を繰り返していた聖務天皇が都を平城に戻した時に宮寺となり、更に天平19年頃に、総国分寺である東大寺に対して、女人修養の場であり、天下の太平や人々の豊かに暮らせることを願う總国文尼寺(法華滅罪之寺)としての役割を担うようになった。造営と兵火、大地震等をへて、慶長6年(1601)より豊臣秀頼によって再興事業が行われ、現在の本堂や南門などが建立された。光明皇后の姿を写したと伝えられている本尊十一面観音立像は、平安初期に制作されたもので、慶長6年、秀頼の本堂再興に際して本尊とされた。

重分 維摩居士坐像  木造、彩色  奈良~平安時代(8世紀)

維摩は、「維摩経」の主人公として想定された人物で、釈迦の時代に毘舎利城に住んだ、学識に優れた富裕な居士(在家の仏教信者)である。いま法華堂本堂の一隅に安置されている本像は老貌痩躯の姿で、「維摩経」問疾品(もんしつほん)に説く、病をおして文殊菩薩と法論をたたかわす維摩の姿を現している。かって法華寺金堂で修されていた維摩会(ゆいまえ)が興福寺に移された後、金堂に西向きに安置されていた維摩居士像が興福寺を恋うて東南の方に向き直ったという話が記録されている。法華寺で維摩会が行われたのは延歴20年(801)以前の一時期であったという。本像は作風上その頃の作とみてさしつかえないので、そのせい制作時期はおおむねおさえることができる。

秋篠寺

西大寺の北西、秋篠の里の閑静な一画にあり、雑木林に囲まれた境内は落ち着いた風情を示し、本堂に安置されている伎芸天はその美しい姿でつとに知られいる。寺伝によると、当寺は光仁天皇と桓武天皇の御願により、善珠(ぜんじゅ)を開基として創建されたと云われる。開基の善珠は法相宗の高僧で、桓武天皇の護持僧としても活躍した。当寺には鎌倉時代の作例であるが、大元帥明王像が伝えられている。保延元年(1135)には兵火のため講堂を残して一山焼亡したといわれ、現在の本堂の南方には金堂や東西両塔の礎石が残っている。江戸時代中期に至って衰退の傾向を示し、明治の廃物希釈の際には無住となった。その後、浄土宗西山派に一時帰属し、やがて真言宗、法相宗兼学の寺として独立し今日に至っている。私には「伎芸天の秋篠寺」という印象が強い。 真言宗、法相宗兼学の寺

重分 梵天立像 奈良時代(8世紀) 頭部 脱乾漆造 彩色 体部 木造 彩色

脱乾漆造りの頭部に木造の体部を補った像である。梵天と呼ばれているが、本来の名称は明らかではない。補作の体部は、甲を着た上に丈帛をかけ裙を着けており、その姿はむしろ帝釈天を思わせる。同工の補作を行った四駆の像のうちでは、本像頭部はもっとも保存がよく、木製の天冠台や頭髪以外の彩色が後補であるほかは制作当初の原形を保っている。唐代8世紀後半の中国彫刻に類例がある。厳しい表情は、唐招提寺像ほどのスケールの大きさに欠ける。一方、表情の厳しさは一段と進んでおり、平安初期彫刻に通ずるものがある。秋篠寺創建期の奈良時代末期の制作であろう。

重分 伝菩薩立像(伝救脱菩薩像) 頭部 脱活乾漆造 彩色/体部 木造 彩色

秋篠寺に伝わる伎芸天・伝梵天・伝帝釈天・伝救脱菩薩の四駆の像は、いずれも頭部が脱乾漆造りで、体部は鎌倉時代に木造で補われたものである。これらの名称はいずれも仮の名で、いま救脱菩薩というめずらしい名で呼ばれている本像もその由緒は明らかではない。他の三像と同時期の制作とすれば、奈良時代末期の制作と見られる。体部は檜材寄木造り、彩色。梵天像と同様に正応2年(1289)頃の補作であろう。

 

秋篠寺と言えば、伎芸天像を思い起こすほど著名であり、多くの仏像ファンがいる。多分お寺の都合で、この展覧会には伎芸天像を出品できない事情があったのであろう。思わず、60年前の大和仏像鑑賞の旅を思い起こす、懐かしい寺名である。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち 1993年」、「南都大安寺」、亀井勝一郎「大和風物詩」を参照した)

特別展  大和古寺の仏たち(3)

唐招題寺

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奈良市の西郊、「西の京」とよばれる地域に位置し、今も天平文化の香を伝える。聖武天皇の招きに応じ、日本へ戒律を伝えるため、さまざまな困難を経て中国から来日した鑑真が、新田部親王の旧宅をもらい受けて天平宝字3年(759)に「唐招招寺」という名の私的な寺として建立したのに始まる。当初の建物は先住者の旧家屋を利用した簡素なものであったようだが、やがて宮廷や貴族の支援を受けて寺として一応の形態が整ったところで「唐招提寺」と称するようになり、官寺の寺院に準ずる定額寺(じょうがくじ)となった。もっとも、鑑真在世中に建てられたのは、平城京の朝集殿を移建した講堂をはじめ、食堂や僧坊など、僧侶の宗教生活に必要な建物にとどまっていたようである。天平宝宇7年の鑑真没後も、その弟子たちによって金堂やその前方の伽藍の造営が進められ、9世紀初めにはほぼ完成した。(律宗)

重文  伝薬師如来立像 木造  奈良時代(8世紀) 新宝蔵

唐招提寺には、もと講堂に安置されていた多数の木彫像が依存し、現在、新宝蔵に移されている。これらの中には鑑真和上による本寺創建期に遡ると思われる一群の等身大像が含まれているが、伝薬師如来立像はその代表的な作品の一つである。本像は、一見して太造りの重量感あふれる体躯をしめし、またその豊頬の顔立ちはどこか茫洋とした大陸的な趣を漂わせる。一方、偏袒右肩(へんたんうけん)にまとう大衣は、胸から腹、そして股間へと、身体の起伏に沿ってヴォリュームを強調すべく、図式的ともいえる衣文を表す。本像のような桧や榧(かや)など針葉樹の太い丸太をもとに、それらのきめ細かで清浄な材質感をできるだけ保とうとする一木造りの木彫像は、これ以降、奈良末から平安初期にかけて盛んに造られるようになった。独特のうねりをみせる衣文は、中国からもたらされた一部の壇像彫刻にも認められ、その間の密接な関連もうかがわせる。このような本像における大理石や壇像との作風的つながりは、8世紀中頃の中国における造像傾向をそのまま反映するものとみなされる。本像をはじめとする木彫の造像概念そのものにおいて、それ以降の日本の仏像に、少なからぬ影響を与えたことは十分推測される。

重文  伝衆宝王菩薩立像  木造  奈良時代(8世紀)

目頭に蒙古襞を刻み、眉根を寄せ気味に遠くをみつめる両眼はもとより、張り切った頬と強く引き締めた口元が本像の顔立ちに独特の機微さを与える。そして背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ体躯は、やや肩幅が広めながらも、太からず細かからず、バランス良くまとめられる。また正面の衣文の折りたたみなど、彫刻面に直角に刻みこまれたノミさばきは鮮やかで、像の静かなたたずまいに、峻烈ともいえる緊迫感をみなぎらせる。このほか、臂釧や腰の石帯の緻密な彫技に加え、冠帯や天衣の垂下部など像身から離れた部分もできるだけ一木で彫成しようとする意識は、当時、中国で盛んに造られた壇像のそれを思わせる。また、額に縦に表された一眼や腕のつけ根の痕跡から知られる六臂の形相は、雑密と呼ばれる初期密教の、特異な尊格が認められ、その作者は、和上に随行した唐工人、ないしはその直接的指導下にあった人物が想定される。

重分 伝持国天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

重分 伝増長天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

唐招提寺講堂本尊弥勒菩薩像の前方左右に立つ像である。その作風から一具同時の作とみることに問題はないが、本来の二点像なのか、四天王像中の中の二躯が残ったものなのかは不明である。持国天・増長天という名称も確かではない。二躯はいずれも頭上に髷を結び、顔をやや右に向け、左手を下げ、腰を右にひねって邪鬼上に立つ姿である。増長天は口を閉じ、右手に剣を取って高くかざすが、右腕は後補である。持国天は口を開いて、右手に三鈷を握る。ともに檜材の一木造りで、髻頂から足枘までを完全に一材から彫り出し、内刳りもない。表面は現在まったく素地をあらわしている。ずんぐりとした一種のユーモラスな、量感あふれる体躯の表現や、増長天像の腕下に巻かれた帯や腰甲の形などの新しい形式は、盛唐後期の石彫像に通ずるものがある。甲の細部やその装飾文様を克明に刻みだす点には中国壇像の技法の影響も認められる。唐代彫刻の最新の意匠を積極的に取り入れたところに、本像作者の姿勢がうかがわれる。

重文 如来立像  木造 彩色  平安時代(9世紀) 新宝蔵殿

頭部や手足が欠けたギリシャ・ローマの彫刻をトルソーと呼ぶ。この如来立像が唐招提寺のトルソーとして注目されるにいたる背景には、ヨーロッパ近代の彫刻に対する新しい見方がかかわっている。本像の立ち姿は瀟洒で美しい。ここまで来ると、この像の元の像の名前は問わないことで良いのではないだろうか?

西大寺

平城京の西、丁度東大寺と対応する位置に造営された寺院で、その草創は、天平宝治8年(764)、藤原仲麻呂の乱に際し、乱平定のため、孝謙天皇によって金堂四天王像が発願されて以降、孝謙上皇と上皇の信任厚かった道鏡によって大伽藍が造営され、宝亀年間(770~780)にはほぼ完成したとと考えられる。平安時代に入ると数度の火災で衰退したが、鎌倉時代、興正菩薩叡尊によって、戒律の復興運動と真言蜜教の修養のための中心道場として再興された。現存する当寺の仏像や工芸品の多くは、叡尊関係のもののみであり、その伽藍も、文亀2年(1502)の兵火でその大部分が壊滅した。(真言律宗)

重文 釈迦如来坐像  木造・漆箔  奈良時代(8世紀)

西大寺の五重塔の初層に安置されていたと伝えられた四体の如来坐像の一体である。他に、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来と呼ばれる像が現存している。四体ともに大きさがほぼ同じで、その作風や木心乾漆造りに近い構造を示すなど共通し、本来一具の像であったことが推定される。西大寺中興の祖叡尊の伝記である「感身学生記」に弘安6年(1283)に「御塔四佛」が補修され供養されたと記しており、この四佛が現在像に該当する可能性が高い。この釈迦如来像は当寺の四佛の中でも優れた出来栄えを示し、切れ長の目や丸く頬の張った顔立ち、やや太造りで柔軟性のある体躯、深いうねりを持つ柔らかい衣文表現は乾漆像に近い趣を示す。

重文 愛染明王坐像  木造・彩色 鎌倉時代・法治元年(1247)愛染堂所在

愛染明王は、空海将来の「金剛嶺楼閣一切瑜伽経」に説く名王で、人間の愛欲などの欲望すらも佛心に通ずることを教える仏である。西大寺愛染堂の秘仏本尊である本像は、五胡鍾を付けた獅子冠をいただき、宝瓶蓮華座に結跏跋座する三目六臂の姿で、「瑜伽経」に説く姿とほぼ一致する。

重文 釈迦如来坐像 木造  鎌倉時代・建長元年(1249) 本堂所在

西大寺の本尊として本堂に安置される釈迦如来像で、鎌倉時代に寺を再興した叡尊が自らの意向で造像を希望した由緒深い像である。叡尊の宗教的目的の一つはインドの釈迦時代の仏教の原点に戻って戒律を再興し、多くの人々に戒を授け、その仏縁によって衆生救済をはかることにあったが、釈迦如来像は叡尊の理念を象徴するに最もふさわしい尊像であった。現在、京都・嵯峨の清凉寺に伝わる釈迦如来像の模像の制作を希望して、弟子の堅任が施主10人、結縁者186人と相談して法治2年(1248)8月8日に造像を発眼した。建長元年(1249)3月13日に、西大寺から僧衆16人、大仏師善慶を中心とする仏師9人が、清凉寺に派遣され、翌年3月に清凉寺にて釈迦像を供養し、模造の制作を行った。その年の5月7日に開眼供養が行われた。

 

大和の地は、まさに「国のまほろば」であり、時空を超えた望郷の地として、わたくしたちの心を捉え、多くの人々が大和の古佛に魅了され、古寺の巡礼を繰り返している。この特別展では16の寺院から、仏像類が出品されている。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」、山本勉「日本仏像史講義」を

特別展 大和古寺の仏たち(2)

興福寺

美しい芝生の上を鹿が戯れ遊ぶ奈良公園。その一画に興福寺はある。藤原氏の氏寺であるこの寺の歴史は藤原鎌足の妻が建てた山階寺に始まるという。その後、鎌足の子の不比等により飛鳥の地に移され厩坂寺(うまやさかでら)と称し、更に和銅3年(710)の平城京遷都に伴い現在の地に移った。当時は、大極殿から離れた、坂の上の寺に見えたかも知れないが、現在、奈良市内から見れば、一番の好立地であり、目立つ場所である。平城京に移転した後、不比等の死後も藤原氏一族とと朝廷のの力を背景に、着々と伽藍が整備されていった。平安時代以降の興福寺の歴史は火災と復興の歴史である。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちにあい、東大寺同様に堂塔の大半を焼失してしまうが、この時も順次復興された。(法相宗)

重文 薬師如来坐像  平安時代(長和2年ー1013年頃)

螺髪の大半が失われているが、そのきりっとした端正な顔立ちが印象深い像である。かっては釈迦如来とされていたが、像内から発見された「薬師経」の奥書によって薬師如来として造られたことがわかった。この奥書には仏堂を造り、お経を自ら書くという願文(がんもん)の次長和2年(1013年)8月12日の年紀と沙門輔静(ほせい)という願主が記されている。また、この奥書に記された宝治元年(1247)の修理銘には「三尊」とあるので、本来は本尊の他に両脇侍像があったことが知られる。しかしこの両脇侍像をはじめ、光背、台座、持物の薬壺(やっこ)が失われ、安置されていた仏堂も不明である。仏像破壊の明治初年の「廃仏希釈」の被害佛かもしれない。(黒川私見)

国宝  伝宮毘羅大将像(板彫十二神将のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

国宝 伝真達羅大将像(板彫十二神将像のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

厚さ3センチメートル程度の檜の板から十二神将を半肉彫りにした珍しい作例である。12面全部が現存しているが、本展では伝宮毘羅大将と伝真達羅大将が出品されている。猫背風に両肩を下げて、左斜前方を見据える三度羅、正面を向き、口を「へ」の字に曲げて合掌する真達羅、ともに髪を逆建てて怒りの表情を示すが、ユーモラスな雰囲気をたたえている。自在な彫り口、面と面の微妙な段差と起伏によって、浮彫り像とは思えないほどの立体感と奥行きが表され、制約された方形の枠内から前面に飛び出してきそうな迫力ある造形を示している。」「興福寺濫觴記」の東金堂の項目に、この板彫に相当する十二神将の記載がある。東金銅は薬師如来を本尊としているので、仁和寺旧北院の薬師如来像(白檀製)や教王護国寺金銅の約如来像の例から考えて、この板彫像は東金堂の薬師像の台座の側面を囲むように貼られていたものと推定される。

国宝 天燈鬼立像 木造・彩色 鎌倉時代(13世紀)

もと興福寺西金銅に安置されていた。仏前に捧げる大きな灯篭をかかげる鬼形像である。本造は左肩に灯篭を担ぎ上げて腰をひねり、右腕、右脚を側面に張って立ち、激しく怒号する姿で、灯篭を頭上にのせて黙して立つ龍燈鬼と一対をなす。二像は阿吽の組み合わせであるとともに、両者間で動静二態の巧みな対象を図っている。江戸時代の「享保弐日時記」によると龍燈鬼の複内には健保3年(1215)に仏師法橋康弁が造った旨を記す書付が納入されていたという。康弁は運慶の三男に当たる仏師であるが、写実を基調とした見事な出来栄えは運慶子息の作にふさわしく、伝えは信ずるに足りよう。

東大寺  東大寺大仏殿除夜  入江泰吉氏撮影

奈良市街の東北、若草山のふもとに今も威容を誇る全国の区分時の上に立つ総国分寺として位置づけられたこの寺の歴史は、天平15年(743)に聖武天皇の出した大仏建立の詔に始まる。当初、大仏の建立は信楽宮にて着手されたが、天平17年の平城京遷都にともない現在の地に変更された。平城京の外宮にあたるこの地には、大和国分寺と定められた金鐘寺があったが、そこに大仏建立の地として選び、大伽藍の造営が始まった。同年8月にはやくも着工し、天平勝宝4年(752)にはインド僧菩提僊那を開眼師とする開眼供養が盛大に行われた。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちによって堂塔の大半を焼失するという甚大な被害を受けたが、これを復興したのは重源である。鎌倉時代に復興された堂塔は、永禄拾年(1567)の兵火で再び大きな被害を受けた。その後復興はなかなか進まず、現在の大仏殿は江戸時代になって創建時よりも規模を縮称してようやく再建された。宝永6年(1709)に落慶供養が行われた。大仏殿の裏には高度の礎石が今も残り、江戸時代に再建された大仏殿ともども往年の規模の大きさにを偲ばせる。(華厳宗)

国宝 誕生佛釈迦如来立像   奈良時代

仏伝では、シッダルタ太子(後の釈尊)は、母マーヤー夫人がルンビニ園でアショーカ樹の花を摘もうとして右手をあげたとき、その右脇の下から誕生したとされる。生まれたばかりの太子は、七歩歩んで天地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱え、温冷二種の水で浄められ(灌頂・潅水)た。インドやガンダーラでは、この一連の場面を表した仏殿浮彫が多数あり、ナーガ(龍)、あるいはインドラ(帝釈天)とブラフマー(梵天)に潅水され、天空にはハーブ、太鼓などの楽器が舞い、仏陀の誕生を祝福する様が描かれている。インド・ガンダーラの作例では、太子は両腕を垂加するか、施無畏印を結ぶように挙げているものが多く、本像も含めて朝鮮・日本の誕生佛には通例の姿である右腕を天に向かって高くさしあげているものがみられない。本像は、右手前膜で手をついてでいる以外は、一鋳である。ふくよかな顔に笑みを浮かべ、赤ん坊のような腹や腕のくびれを表現した豊満な肉体は、大仏殿前の八角灯篭火袋の音声菩薩彫像とも類似しており、ともに天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の行われた頃に制作されたと考えられている。

重文  弥勒菩薩坐像  木造  平安時代(9世紀)

本像の大きい頭部と小さい脚部の比例は、巨像のそれを思い起こさせる。前傾させた体躯や前に突き出した頭部、指先が像底よりもさらに下方に伸びる襞る手は、観る者に迫ってくるような印象を与える。この像は「試みの大仏」の名で広く知られる。なお、明治25年の「国華」31号に「東大寺廬舎那仏雛形」と紹介されるのが、この呼称に関わる最も古い記録のようである。本像は明治37年までは法華堂に安置され、今でも本尊不空検索観音像の背後には、それまで収められていた小厨子が置かれている。

重文 阿弥陀如来立像  快慶作  木造  鎌倉時代(13世紀)俊乗堂所在

運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師として著名な快慶の代表作の一つで、彼が最も得意としたいわゆる三尺の阿弥陀如来立像の優作である。像の右脚枘正面に「アン」(梵字)の刻銘があり快慶が安阿弥陀仏と名乗った時代の作である。快慶は制作の時期によって、「仏師快慶」、「巧匠アン阿弥陀仏」、「巧匠法橋快慶」、「巧匠法眼快慶」の名を作品にとどめているが、建久3年(1192)から建仁3年(1203)に及ぶ十年間は「巧匠アン阿弥陀仏」(安阿弥陀仏)時代は、快慶が作家として最も充実した時期であり、彼の阿弥陀信仰の師である重源上人関係の造像を精力的行ったことが知られる。重源は東大寺再興の勧進上人で、念仏を中心に造寺造佛などに結縁して事業を推進する独特の阿弥陀信仰集団を率いていたが、快慶の三尺阿弥陀像は彼らから来迎阿弥像の典型として高く評価されたばかりでなく、法然上人の念仏集団からも歓迎されて、後世に至るまで大きな影響を与えていく。快慶が制作した三尺阿弥陀像は、絵画的に整えられた美しい衣文線や穏やかな形姿による優美な表現に特色があるが、特に安阿弥時代の作品には頭頂部を除く表面全体に金泥を塗り、衣の部分にはさらに切金(きりがね)文様を表す入念な仕上げが採用されている。俊乗堂にも七宝繋ぎ、四ツ目亀甲、二重斜格子、籠目などの繊細な切金文様のきらきらとした輝きが見事に調和している。

 

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶の仏像として紹介したい。

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも、私は快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶作の仏像として紹介した)

大和古寺の仏たち(1)

コロナ・ウイルスのせいで、全国の美術館、博物館がすべて閉鎖されている。私は「美」の連載を止めたくないので、かって拝観した美術展の中で、記憶に残る美術展の図録を頼りに、「美」の続きを書きたいと思う。最初に2012年に開催された「中国  王朝の至宝 2012年」を取り上げた。一応4回で終わりとし、今回からは1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の仏たち」を、取り上げたい。大和の国の仏たちは、私が大学1年生であった昭和27年(1963)からのお付き合いで、実に60年近くお参りしてきた事となる。この展覧会は1993年(平成5年)の春の開催であり、まだ「美」という論評を書き出す前の展覧会であり、30年近い歳月が経つ。しかし、大和の国は、大きな変化はなく、仏像は全く昔のままである。30年経ったじかrと言って古くなるものでは無い。私からすれば、昨日のような思い出である。しかし、細かに見れば、お寺の建物が新しくなったり、良く見れば変化はある。しかし、変化よりも「変わらない美しさ」が、何時までも魅了してやまない。是非、私と一緒に大和の古寺を巡ってもらいたい。

平城京跡   大極殿の跡地

現在は、立派に大極殿が再建され、この石の遺物を見ることは出来ない。こんなに桜が咲いていたのかと驚くばかりである。奈良へ行く人は、年間何百万人といるが、大極殿まで足を延ばす人は少ない。「大極殿跡」として、広い場所があるので、是非一度足を運んでもらいたい。

国宝  薬師寺 東塔  木造3階建  養老2年(718)

薬師寺の歴史は古い。天武天皇9年(680)、天皇が鵜野(うの)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願(ほつがん)し、藤原京の地(現在の橿原市木殿)に創建された。伽藍の造営は、持統天皇、孫の文武天皇まで引き継がれ、東西両塔を備えた寺院が建立されたが、和銅3年(710)の平城遷都に伴って、現在の地(奈良市西の京)へ移された。その時期は、文献では養老2年(718)とされているが、近年の発掘の結果、平城薬師寺の造営工事は、霊亀2年(718)には始まっていたことが確認されている。養老年間には、現在の東院堂の前身である東禅院が建立され、天平6年(734)頃までに主要伽藍は完成したと云われる。昭和50年代には金堂、西棟、中門が相次いで復興された。この写真は、東塔の昔の姿であり、金堂は新しく立て直された。      法相宗

国宝  聖観音立像  飛鳥~奈良時代(7~8世紀)  入江泰吉撮影

東院堂の本尊で,宝髻(ほうけい)は高く結い、丈帛(じょうはく)、裳をつけ天衣をまとい、胸飾、瓔珞などの装飾をつけ、通例の観音像とは逆に右手を垂加し、左手を上方に屈臂して直立する。正面から見ると、若々しい、青年のような表情と相まって体躯も非常に引き締まって見えるが、側面にまわると肉身の重厚さが見る者を圧倒する。金銅薬師如来像の両脇侍と、近い時期に制作されたと思われる。

重文  十一面観音立像  木造  奈良時代(8世紀)

薬師寺には、木彫の十一面観音立像が三体あり、本像はその中でも最古のものであるが、伝来に関しては不明である。檜の一木造りで、両肘先、両足先は別材を矧ぎつけ、背面に、後頭部肩から腰、腰から裳裾の三か所で内刳りを施し、別材をあてている。長年の風触のためか顔面の損傷がはげしいが、わずかに柔和な表情の輪郭を辿ることができる。頭上面は、、菩薩面が六面現存している。細かに抽出された胸飾りや臂釧(ひせん)には、かっての宝石が嵌入されていたようで、もとは華やかな美しさを備えたものであったのだろう。

国宝 僧形八幡神坐像    平安時代(8.9世紀)

 

国宝  神功皇后像     平安時代(8、9世紀)

国宝  興津姫命像     平安時代(8,9世紀)

南門前に位置する休岡(やすみがおか)八幡神社は、関平年間(889~898)に薬師寺別当の栄紹(えいしょう)が、宇佐八幡宮を勧請し、薬師寺の鎮守としたと伝わる。寺の鎮守として八幡神社をつくる例は、東大寺、大安寺などにあり、薬師寺でもそれに倣ったのであろう。この三像は、その祭神として祀られたのであろう。主神の僧形八幡神は、応神天皇に、二体の女神像は天皇の母である神功皇后と、天皇の后の仲津姫命にあてられている。制作年代は、八幡神社が建立された9世紀末頃と見られている。八幡神は、円頂(坊主頭)で袈裟をつけた比丘形につくられ、翻波式を交えた彫りの深い衣文が力強く表現されている。神宮皇后は左肘を立てて、興津姫命は右肘を浮かせて座す。両像とも頭上に髻(もとどり)を結い、豊かな髪を長く垂らす。着衣の形式も共通で、大袖の上に背子を重ね裙(くん)をつけている。胸元から長く垂れる紐は、背子の内懐紐と見る説と、裙の紐と見る説がある。本像は、平安時代の作でありながら、奈良朝の古式を踏襲した形で作られており、奈良・平安時代の服飾のあり方を感がえる上でも極めて興味深い作例である。

国宝 広目天立像 木造・彩色  鎌倉時代・正応2年(1289)隆賢・定秀作

国宝 多聞天立像 鎌倉時代 正応2年(1285) 隆賢・定秀作

東院堂の須弥壇上、聖観音像の厨子をとりまいて安置される四天王像のうちの二躯である。この四天王像は1986年に多聞天像台座框裏面の墨書名が発見され、鎌倉時代彫刻の基準作品として注目されることとなった。多聞天像台座の銘記によれば、この一具は正応4年(1296)に京都五條坊門の仏師法眼隆賢と駿河法橋貞秀により造立され、永仁4年(1296)に興福寺の絵師により彩色を施されたものである。正応2年(1289)は東院堂建立の弘安8年(1285)の4年後である。四駆の形・身色は、基本的には鎌倉時代初期の快慶作金剛峯寺像以後に一般的になる四天王像のそれに一致する。この形式は東大寺大仏殿の鎌倉再興像を典拠にしていると考えられ、南都の伝統に従うものである。

 

薬師寺と言えば、本尊の三尊像を思い浮かべるが、まさか展覧会に本尊を出品することはあり得ないことなので、それに続く聖観音立像をはじめ多数の仏像・神像が出品された。今回の解説は、僧形八幡神像や神功皇后像など、普段あまり取り上げない仏像・神像を取り上げた。薬師寺を最初に取り上げる理由は、数多くあるお寺の中でも官寺(天皇・国家が造ったお寺)だからである。当然、大安寺、東大寺も大きく取り上げられことになるだろう。乞うご期待。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」,和辻哲郎「古寺巡礼」、入江泰吉「大和路巡礼 平城京」を

 

中国王朝の至宝(4) 初めての統一王朝「秦」と「漢」

紀元前221年、それまで黄河と長江の上下流域で覇を競い合っていた諸国は、西方から進出してきた秦に相次いで滅ぼされた。ここに、中国史上初の統一王朝が誕生した。始皇帝(在位前221ー前210)による秦王朝である。秦はそれまでの社会体制を大きく変え、国ごとに異なっていた文字や度量衡、貨幣などを統一し、中央集権国家を実現した。急激な変革と強圧的な支配ゆえに、人心の反発を招き、わずか3世15年で王朝の幕を閉じたが、万里の長城の修築や、広大な宮殿(阿房宮)の建設、そして陵墓(秦始皇帝陵)の造営など、治世を象徴する空前の規模の事績によって、秦の立役者であった始皇帝の偉業をしのぶことができる。短命に終わった秦の次に中国全土を治めたのが漢である。漢は基本的には秦の諸制度を継承、発展しながら国家体制を整備し、また儒教を奨励するなど、統一王朝の永続的な運営基盤を築くとともに、周辺地域へも勢力を伸長し、秦をもしのぐ広大な領域を支配下に収めた。王莽(在位8ー23)による王朝の一時的簒奪があったものの、その前後を通して見ると、およそ400年間にわたって中国全土を統治したのである。漢字をはじめ、漢文、漢語、漢方、漢人など、後に中国全体を意味する言葉にこの王朝の名前が冠され、広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえでもあった。広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえである。長安と洛陽という前漢・後漢の周辺では、皇帝の陵墓をはじめとする数々の遺跡から、おびただしい数量の漢時代の文物が出戸し、かっての栄華を雄弁に物語っている。

踦射俑(きしぁよう) 陶・彩色 秦 前3世紀

秦の始皇帝(前259~前210)は13歳で秦王に即位すると、翌年から自らの陵墓建設に着手した。39歳で東方の六国を平らげて戦国の乱世に終止符を打ち、皇帝を号して郡県制の実施や度量衡の規格統一などの国家施作を実施した。50歳で亡くなると、2代皇帝の胡亥(こがい)によってかねて準備していた驪山稜に埋葬された。この陵墓の周辺には、等身大の陶馬や陶製人形(俑)を収める地下施設(兵馬俑坑)が作られた、本品は、戦車や兵士、戦馬など1372体とも言われる陶製の兵馬を収めた第2号坑から見つかった兵士俑である。この兵馬俑坑については、過去の@「美」で詳しく報告しているので、この1体に留める。

竹節柱博山炉(ちくせつちゅうはくさんろ)青銅・鍍金銀 前漢・前2世紀

博山炉は、大海の中にそびえる博山という山をかたどった香炉である。青銅製で、外面のほとんどの部分に鍍金を施すが、部分的に鍍銀を施している。台座には2頭の龍を浮き彫りで表す。2頭の龍は頭を上に向けて口を開け、ここから竹をかたどった柱が伸びる。節の部分には、細かい枝が枝分かれする様が表されている。柱の上部に香炉の身が乗るが、柱の上部から枝分かれするようにつくり出された3頭の龍の頭が香炉の身の下部を支えている。身の側面の上半には、後ろを振り返る4頭の龍の姿を浮き彫りにする。本作は博山炉としてはもっとも大きく、精巧かつ華麗に作られた屈指の優品である。

男性俑 1躯 前漢 前2世紀 陶、彩色

前漢第6代景帝(前188~前141)を葬った陽稜の陪葬墓から見つかった男性官吏の俑である。陶土の特性を十分生かして、実に巧みな人物表現を見せている。頭髪は額中央で左右に梳き分けて後頭部へおくり、梳き上げた後ろ髪でそれを覆っている。頭上には小さな冠をのせ、顎紐をかけて固定している。顔は墨線で太めの眉、瞳、髪を表し、口元には朱色をさしている。

女性俑 1躯 陶、彩色 前漢 前2世紀

男性俑を埋葬したのと同じ墓から出土した女性侍女の陶俑である。同墓出土の要はいずれも造形が巧みであり、前漢時代の髪形や服装を知る上で基準となる。頭髪は額中央で左右に梳き分け、耳の上を通して後頭部へおくり、後ろ髪と一束ねにして背中へおろす。途中で逸れを瘤状に縛ったのち、さらに腰まで垂加させる。顔は墨線で細くつりあがった眉、瞳を表し、眉に朱色をさす。着衣は右衽(うじん)であり、朱色と白色と藍色の三色の衣を重ね着し、その上に白色の長衣を身に着け、朱色の帯で縛る。これらの俑を埋葬した墓からは、「周応」の名を刻んだ銅印が出土している。史書の記載から、景帝の時代の鄲侯か縄侯のいずれにか封じられた人物と考えられる。

鴈形灯  1躯 青銅、彩色 前漢 前1世紀

後ろ向きの鴈が魚をくわえた姿をかたどった照明器具。鴈の背と魚の間にある円筒の中に火を灯した。円筒の側壁は左右に開閉することができ、照明の範囲調整や風よけといった機能を果たした。内部はすべて空洞になっており、灯火から出る煤は鴈の口から首を経由して腹の中に貯まり、外に漏れることはなかった。表面全体を赤、朱、白,黒などで着色している。青銅器の表面は総じて円滑であるのにも関わらず、絵具がこれほど見事にのって良好な状態を保っているのは、「漆」と報告されている粘性のある塗料を用いているほか、あらかじめ表面をヤスリで凹凸にして塗料のくいつきをよくしているためだろう。本作は漢代の青銅器の中でも、技術と趣向の面で最高の水準に達した傑作である。

馬  1躯  陶、施釉 前漢前2世紀~前1世紀

前漢第7代武帝(前156~前87)の陪葬墓におさめられていたもので、胴部と四肢、尻尾を別別の型で作り合わせた陶製の牡馬である。胴部は中空で、底面と臀部にのみ、四肢と尾をあわせるための穿孔がある。直立して胸を張り、ややうつむき加減の姿態、発達した頬骨などは、前漢時代に特徴的な馬の表現である。本来は表面に鉛釉をかkて焼成したと見られるが、その多くは剥落している。

玉舗首 1個  陶、施釉  前漢  前2世紀~前1世紀

重さ10Kgをゆうに超える大型の舗首で浮彫・線刻などの多彩な技法を駆使して一つの玉の塊から彫り上げている。表面は所々で風化しているが、この玉材が本来持っているきめの細かさや青味がかかった白の色つやは、現在もよく残っている。技巧と玉材の本来持つている自然の美しさが融合した漢代でも屈指の玉器である。漢の武帝を葬った茂稜の東南で出土した。付近には大型建築の遺構があり、茂稜付近の重要な門や建物の扉に玉舗首を使用していた可能性がある。

硯 1合 石 後漢 延憙3年(160)

蓋を伴う石製の硯である。硯本体にも蓋に華麗な装飾を施している。硯の本体は円盤状で、獣をかたどった3本の足をもつ。硯の上面の一角に耳杯(じはいー楕円形の身の両側に人の耳のような把手が付く食器)の掘り込みがある。磨った墨を溜めたのでろう。掘り込みの周囲には波を表したような文様を刻んでいる。硯の上面は平滑で、墨の痕跡がある。古代中国の石製の硯としてはもっとも手が込んだものである。出土した墓の規模から観て、有力な地方豪族の持物であったと考えられる。

 

始めての統一王朝である、秦と漢の遺物を紹介した。秦については、すでに詳細な報告をしているので、専ら前漢、後漢の遺物を紹した。

(本稿は、図録「中国 王朝の至宝 特別展 日中国交正常化40周年記念 2012年」を参照した)

中国王朝の至宝(3)特別展 日中國交正常化40周年記念 

殷の次に中原を支配した周の威光が薄れると、各地に諸侯が並び立つ春秋戦国の時代になった。黄河の下流域では、周の流れをくむ斉や魯が栄え、なお周の伝統を維持しつつ、諸氏百家といわれるような様々な思想・文化が花開いた。斉は、周建国の功臣であった太公望(呂尚)の封地として始り、臨淄(りんし)を拠点として発展し、第15代の桓公(かんこう)が覇者になるなど、春秋戦国時代を通じて大きな勢力を維持し続けた。魯(ろ)は、周王朝の隆盛に貢献した周公旦の長男・伯禽(はくきん)を祖とし、曲阜を都としながら、孔子などの名士を輩出し、文化的に大きな影響力を保った。ちなみに春秋という時代名は、孔子が著した魯の年代記と伝える「春秋」に由来する。長江の中流域では、黄河流域の諸国とは風俗習慣を異にした勢力、すなわち楚が隆盛を誇った。楚は強大な国を築いた。荘王の時に一時覇者となり、また戦国七雄の一つに数えられるほどである。中原諸国からは蛮族とみなされたが、土着的な信仰を色濃く残し、神秘的な姿をした神や獣を崇め、古来の神話体系を維持するなど、独自の高度な文化を展開したことが明らかとなってきた。いまに残る青銅器など、この時代の代表的な文物を選りすぐり、南方の雄であった楚と、中源の伝統に連なる斉・魯の文化を比較しながら、豊穣な古代中国文化の諸相を浮き彫りにする。

甲冑  1具 革・漆・絹 戦国 前4-前3世紀

漆塗の革を綴って作ったかち甲冑である。生の革を型で圧して定型化し、褐色の漆を塗るなどの工程を経て、絹の紐で綴って仕立てる。鎧は、上半身、裾、袖の紐の3つの部分から成る。袖の鎧は馬蹄形の革を綴ったもので、肩から肘までの外側の鎧は馬蹄形の革で綴ったもので、肩から肘までの外側を護る。発見された時、革はほとんど腐っており、漆の皮膜だけが残っていた。湖北省隋州市の曽侯乙墓でも、これとほぼ同じ形状の革製漆塗りの甲冑が出土している。曽侯乙墓の年代は前433年頃であり、これより100年以上古い。戦国時代の弧北省一帯では、こうした革製漆塗りの甲冑が長く飾られたことがわかる。

鎮墓獣  1基 木・漆・鹿角  戦国 前4世紀

戦国時代の楚の地域の墓からは、方形の台座の上に立つ怪獣の木彫像がしばしば発見される。その多くは頭に鹿角を挿し、舌を長く伸ばすという不思議な姿を見せる。これらは悪霊を退け、墓を守る目的で作られたと考えられ、鎮墓獣と呼ばれている。戦国時代の楚の領域以外では類例は見られないもので、楚の文化を代表する遺物と言っても過言ではない。

羽人(うじん) 1具 木・革・漆 戦国  前4世紀

獣形の台座と、鳥の頭に立つ羽人を一体で作った物からなる。両者の形状から見て、本来は、台座の上に何かが差し込まれ、その上に鳥と羽人が差し込まれたと想像されるが、中間に何があったのかわからない。現在、台座とその上部をつなぐ木製の柱は、修復の際に補われたものである。羽人とは、中国で古くからその存在が信じられた仙人である。その像はまだわからないことが多い。楚の独自の文化は国の滅亡と共に失われてしまった。この像は、失われた楚の文化を研究する上で貴重な資料となる。

虎座鳳凰架鼓(とらざほうおうかこ) 1具 木・漆・ 戦国 前4世紀

背を向け合った2頭の獣の上に、やはり背を向け合った首の長い鳥が立ち、2羽の鳥の間に太鼓を吊り下げる。台座は木の板で黒漆を塗る。四隅に、移動したり固定したりする時に用いる青銅製の把手を備えている。台座の上には、背を合った虎が一対配される。虎は黒漆を塗り、身には赤色で斑点を表す。虎は黒漆を塗り、身には赤色で斑点を表す。虎の背の上に鳥が立つ。2羽の鳥の胴は一本で連続して作られており、これに足と首を差し込むように作られている。鳥は首が長く、上を向く。とさかの後ろに太鼓を下げるための銅製の鉤(かぎ)がある。黒漆を塗って地とし、その上に赤黄・灰色の文様を描く。翼の部分には、細長いとさかを付け、足が細長く、尾が上を向いて翼を広げているさまを描く。虎の上に立つた鳥に太鼓を掛ける同様の楽器は、戦国時代の楚の墓から多数発見されているが、保存状態が良くないものが多い。本品も復元による部分が少なくないが、保存状態の良さは他を圧している。作りが複雑で豪奢であることから、実用の楽器というよりは宗教的儀式に用いた祭器と考えられる。楚の文化を考える上で貴重な資料である。

人物俑(じんぶつよう) 3躯 木・彩色 前漢・前2世紀

一木造りの人物像に白で下地を施し、黒と赤で着色している。いずれも右前合わせの長袍をまとい、袖の中で拱手して立っている。長袖の裾は左側から巻き上げて腰で留めている。襟元には長袍の下に着ているが赤い服がのぞいている。3体とも衣服、姿勢、髪を結った髪型にほとんど違いはない。頭頂部には小穴が穿たれており、出土時にはここに棒状の飾りが差し込まれていたという。馬王堆1号墓は前漢時代前期に長沙国の丞相(じょうしょう)を務め、対候(たいこう)に封ぜられた利蒼(りそう)の妻の墓である。約1000件もの副葬品の中には162体の木俑が含まれていた。ここに示した木俑はそのうちの3体である。被葬者が死後も生前と変わらぬ暮らしを過ごせるように、侍従として副葬されたものであろう。

豆(とう) 2合  青銅・紅銅  戦国 前4~前3世紀

身には細身の脚部と一対の環状把手を、蓋には4個の紐をそれぞれ別作りにしたうえで鋳接いでいる。大きさ、形ともほぼ同じ一対の豆であるが、装飾の細部には違いが見られる。たとえば、向かって左の個体のS字紐には嘴(くちばし)を持つ動物の横顔が表現されているが、もう一方のS字紐には顔の表現がない。両者とも全体の表面に褐色の紅銅を象嵌しており、周囲の青銅の文様帯を際立たせている。向かって右側の蓋は青銅の文様帯の上にも細い線を刻み込み、さらに紅銅を象嵌することで繁縟(はんじょく)な文様を生み出している。楚の貴族墓から出土した青銅製の豆の中でも、当時の金工技術を駆使して作った一対として特筆される。

猿形帯鉤(たいこう) 1個 銀・貼金・ガラス象嵌  戦国 前3世紀

猿が上体をひねって腕を伸ばしながら足を後方に蹴り上げる姿は、枝から枝へと飛び移る一瞬の動きを捉えているかのようである。表面を鎚鑃(ついちょう)や研磨などで整えることで、胴体と四肢では丸みのあるしなやかな筋肉を、顔ではくぼんだ眼窩と突出した周囲の凹凸を巧みに表現している。青ガラスの小珠を象嵌した瞳はつぶらで愛くるしい。銀製の身体のうち左手には金の板を貼り付け、表面の雲気文と背面には鍍金を施している。雲気をまとうこの猿はおそらく現実世界の動物ではなく、仙界に棲む霊獣の一種なのであろう。数ある戦国時代の帯鉤の中でも、本作は、造形、意匠、技巧などのあらゆる面で傑出している。

犠尊(ぎそん)  1個 青銅・金銀緑松石象嵌 戦国 前4~前3世紀

動物をかたどった青銅器の容器で、背中の中央に蓋が備わる。蓋は後ろを振り返る水鳥の姿をかたどっており、鳥の首がつまみになっている。動物の口に孔が開いており、蓋を開けて背中から入れた酒を口から注ぎ出す仕組みになっているものと思われる。しかし、重さ6.5Kgもある本作を持ち上げて酒を注ぐのは不便なため、酒を入れて祭壇などに供えることがおもな用途であったと考えられる。保存状態ももっとも良好である。犠尊の中でも白眉と呼ぶに相応しい本作は山東半島に勢力を誇った斉の都付近で発見されており、この地の高度な青銅文化をよく見て取ることができる。

佩玉(はいぎょく) 1具(11点) 玉  戦国・前4~前3世紀

合計11点の玉器を紐でつづったもので、腰や胸から垂らして身を飾った。もっとも上に配された壁は上部に方形の孔をもち、ここで紐を正面から背面に回す。壁の左右やや下寄りに小さな龍型突起があり、ここで紐を正面から背面に回す。壁の左右やや下寄りに小さな龍型突起があり、そのうち片方は背中の部分が欠失しているが、突き出された背中の部分が背面で分岐させた紐を正面に戻す環となっている。壁の下では、管と珠の同形のものを4対連ねている。その下の扁平な直方体の管が分岐していた紐は収斂され、最下部の弓なりに背中を持ち上げて後ろから振り返る龍形玉器に至る。柔らかい半透明の光沢、淡緑色に濃緑色の染みた色合いなど、玉の質感は11点ともみな一致していることから、すべて同一の玉材から切り出されたものと考えられる。本作は魯国の都城遺跡にともなう貴族墓から出土したものである。良質の玉材と精緻な彫刻による佩玉は、斉魯の玉器の中でも高い完成度を示している。

銀製高脚盒(こうきゃくごう) 1合 銀・青銅  前漢 前2世紀

身と蓋にそれぞれ杏仁形の文様を上下互い違いになるように並べている。杏仁形の文様は型を当てて外側に打ち出す鎚鑃(ついちょう)という技法によって施されている。蓋の頂部には伏せた牛をかたどった紐を3個配し、底部にはラッパ状に開く脚部をもつ。牛型紐と脚部は青銅製であり、銀製の身と蓋に後ろから溶接している。蓋の内部に「木南」の2字が刻まれている。本作は西方から将来された後に中国で青銅製の紐と脚部を追加したものと考えられている。たとえすべて中国で作られたものとしても、その器形や製作技法が西方より伝来したものであることは間違いない。本作は前漢時代前期に山東を領有した斉王の墓の器物坑から出土した。広東省、雲南省、安徽省(あんきしょう)の王墓や高級官僚の墓でも類例が発見されている。

 

戦国時代の前2~4世紀頃の出土物の中でも、特に優れた作品を選んだ。いずれも逸品であり、当時の楚・斉・魯の技術の高さが判る。中国の古代の技術の高さ、最後の将来物などには驚いた。正に5千年の歴史の古さ、深さに驚く器物であった。

(本稿は、図録「中国王朝の至宝 特別展 日中国交正常化40周年記念 2012年」を参照した)

中国 王朝の至宝(2)-日中国交正常化40周年記念展 2012年

(1)では、中国の初期王朝として、三星堆遺跡から出土した大量の青銅器や金製品など、数千件の遺物が発掘され、古代「蜀」の存在を先に明らかにした。その後2001年に成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見された。これまでに(2012年頃)5キロメートル近くにわたって発掘され、大形建築跡、住居跡、墓地、祭祀坑などが発見され、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺構であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷の次の西周王長野頃まで存続した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。古代蜀については、漢時代頃の「蜀王本記」や東晋時代の「華陽国志」に伝説的な事績を交えた記載があり、古代蜀の王として、蚕叢・柏灌(はっかん)・魚鳬(ぎょうふ)等の王名を伝えている。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。それらは「史記」などに記された夏王朝を想定してのことである。夏については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明されたわけではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡に見られるような大規模な宮殿跡、道路、青銅器、玉器の工房などの遺構と、各種の出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域に相当規模の権力を持つた集団があり、すでに国としての体裁を整えていたであろうことはある程度まで認めることができる。夏の次の殷時代になると、史書の記載や各地の遺構、そして多数の青銅器や玉器、甲骨文などの例証により、前1600年頃から前11世紀後半にかけて存続した王朝の輪郭がおぼろげながら明らかとなる。殷前期の都の可能性が高い鄭州(ていしゅう)商城遺跡には、当時も巨大な城壁の一部が残り、その内外からは各種の文物が大量に発見される。南方の雄であった楚に対し、山東半島からその西部まで版図とした斎や、それと隣接した魯は、共に、殷王朝(いんおうちょう)を滅ぼした。斎(せい)は,周王室の権威が衰えた春秋時代に、山海の自然と温暖な気候に恵まれた山東半島の地の利を生かして国力を伸長し、次第に大きな影響力をを持つようになった。

中国古代史の関連地図

魯(ろ)は、古くから曲阜(山東省)を都とし、春秋時代には、斎(せい)とともに強国の一つに数えられた。斎・魯は、国力こそ大小の開きがあったものの、思想・文化の点では、春秋戦国時代において多大な影響力を持つ文化大国であったともいえる。孔子・孟子の儒家、老子や荘子の道家、孫武の平家など、諸氏百家と言われる優れた学者や学派が競い合うように世に出た背景には、この方面における両国の保護奨励策が大きな役割を果たしたと見られる。こうした土壌に立って、文物の上でも、目覚ましい展開が見られた。中でも、青銅器にあっては、西周時代までもっぱら祭祀用の礼器としてあったものが、次第に実用的な側面に重きが置かれるようになるという、春秋戦国時代を通じた大きな転換があったことが特筆される。幾種類のもの玉器を多数連ねた豪華な飾り物が増えていったことなど、殷・周時代の祭祀儀礼具の荘重な感覚が仏拭され、より人間的な精神の躍動が前面に表出された実用的な傾向が顕著となっていく。概して見ると、古くからの地域的な文化の中原の伝統を加味しつつ、そこに新たな時代の要素を積極的に取り入れ、高度に洗練された文化を築いていったところに、斎・魯の独自の境地があったということができよう、

玉綜(ぎょくそう) 玉 殷ー周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江下流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品のように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

梯形玉器(ていけいぎょくき) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品にのように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

玉琩(ぎょくしょう) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉璋は、長方形の板状の玉を加工し、上方にかけて側面をわずかに湾曲させ幅を広げ、先端(上端)に内側へ湾曲する刃を作り,下部の左右に鋸歯状に凹凸する装飾を施した玉器で、左右が非対称となるのが通例である。新石器時代に山東半島あたりで栄えた山東竜山文化で発展し、それが中原の二里頭文化を経て古代蜀に伝来したものと推測される。

動物文飾板 青銅・緑松石 二里頭文化期(夏)(前17世紀ー前16世紀)

文様の輪郭が突出する青銅器の板に、緑松石(トルコ石)を巧みにはめ込んで文様を表したものである。何かに縫い付けるか縛り付けるかをするためと思われる輪が4ケ所ある。背面は青銅の板のままでなんの装飾もない。象嵌は高度な技術で施されて、美しく迫力がある。多くの研究者が、獣の顔を表したとするが、細部の解釈は一定しない。

方鼎(ほうてい) 青銅  殷(前16世紀ー全15世紀)

殷時代には青銅器鋳造技術が発展した。殷王朝前期の首都である現在の河南省鄭州市では大型の青銅器が多数出戸しており、本品はその代表例である。方鼎とは身の断面が長方形で、4本の足を持つ器である。神々や先祖の霊に供える肉を煮るのに用いた。銅と錫の合金である青銅の本来の色は金色である。ここにある文様は殷時代から西周時代にかけて作られた青銅器にしばしば表されている。

盉(か) 青銅 殷(前16世紀ー前15世紀) 河南省鄭州市出土

殷時代の青銅器の盉(か)である。二里頭文化期(夏)の土器と盉と、基本的な形態は同じである。中空の3本の足が合わさって胴となり、一つの足に縦長の把手が付く。筒状の注ぎ口は把手の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盉の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盃の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側は長く伸びて稜をなす。把手は注ぎ口と直角に側面に付く。細長い脚が3本あり、1本は把手の下に位置する。また多くの場合、注ぎ口の根元に柱が2本立つ。あるいは爵に酒を入れる時に、ここに布をかけて酒を漉したのではないかとも想像される。この爵の胴部には、2本の隆起線の間に珠門を配している。殷時代の爵としては簡素な文様である。

尊(そん) 青銅 殷(前14-前13世紀) 河南省鄭州市出土

尊は酒や水を備える容器である。口は大きく広がり、胴部はやや上下に押しつぶされた形で底に至る。底の下に高い高台が付く。側面にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央には水牛の頭を大きく表す。

玉戚(ぎょくせき) 玉  殷(前13世紀) 河南省安陽市出土

戚とは斧のやや大型のものである。大型の斧は人の首を切るのに用いられたことから、古代中国では斧は軍を指揮したり死刑の執行したりすることが出来る高い身分を象徴する器物であった。この玉戚は実用の武器ではなく宗教的な威力を備えた儀器と考えられる。この戚は円盤の一部を切り取ったような形をしている。中央の円孔は縁が一段高く、断面がT字型になっている。四川省金沙遺跡の玉器にも同様の形状のものがある。老力を費やして、あえて貴重な玉材をすり減らして作った、大変ぜいたくな玉器である。

ト甲(ぼっこう) 亀甲 殷・前13-前11世紀  河南省安陽市出土

殷の王室では、国家の大事から日常の生活に至るまで、様々な事柄を占った。占いには亀の甲螺(主に腹側の甲羅)や牛あるいは羊の肩甲骨を用い、これらを加熱して生じるひび割れの形で吉凶を判断した。占ったのち、ひび割れの周囲に占った内容や占いの結果を文字に刻んだ。占いに用いた甲羅と卜甲、占いに用いた骨をト骨と呼ぶ。甲や骨に彫りこんだ文字であることから、これらを甲骨文字という。甲骨見字は今日の漢字の祖型であり、甲骨文字から殷代の歴史や文化を知ることが出来る。

 

「蜀」と「夏・殷」の遺物を取り出してみた。特に「夏・殷」は、私には神話の世界の思いが強かったが、遺跡から出土した文物を見ると、かなり高い精神文化が、既に前16世紀頃に、中国にあったことが判明した。この大国から、日本は文字を学び、文化を学び、今日に至ったのである。中学生の頃に、藤井先生から聞いた話は、現実であり、出土物件で見事に証明されたのである。改めて、中華文明の先進性に感心した次第である。

(本稿は、図録「中国王朝の至宝 特別展 日中国交正状化40周年 2012年」、図録「誕生!中国文明  2010年」を参照した)

中国王朝の至宝(1)

最近、コロナウイルスの関係で、日本国中の美術館等が閉鎖されており、コロナウイルス病の見透しが出来るまで、閉鎖は続くようである。どこの美術館でも「現在は閉館、予定していた美術展は開館出来るようになれば、計画通り開催致します」という張り紙が出ている。従って当分の間、閉館は続くものと考えている。「美」は、その間、止めることも出来るが、実は、1990年頃から2015年までの頃の美術展は見て、かつ図録は買ってあるが、「美」には書けなかった美術展が10回以上残っている。そこで、まず中国関係の美術展を皮切りに、逐次掲載しなかった美術展を、振り返りながら、ここで改めて掲載してみたい。特に、中国関係の美術展は、日本と中国の関係が悪化してから、完全に止まっている。そういう意味で、今回、中国関係の美術展の「掲載できなかった美術展」を、改めて「美」の原稿に付け加えたいと思う。                         一番最初は、「日中国交正常化40周年記念」の「中国王朝の至宝」(2012年10月10日より東京国立博物館で開催され、逐次神戸市立美術館、名古屋市博物館、九州国立博物館まで(2013年7月9日~9月16日)約1年間にわたり、ほぼ東京より西の主力美術館で開催され、私の記憶では、これが中国関係の美術展の最後となり、2022年の今日まで、中国美術展は開催されていない。)   記念すべき美術展であったし、また内容も濃いものであった。

私は、中国の歴史をまともに受けたのは、中学2年生の時のみであり、高校、大学では「世界史」の一環として、中国史を学んだ筈である。中学2年とは、昭和22年で、日本はアメリカの占領下にあり、アメリカが中学生に日本史を教えることを禁止していた時期であった。しかし、この占領軍の学習制度は、私には思い掛け無い幸運であった。東洋史という名前の授業は100%中国史であり、ここで、しっかり中国の歴史を学び、記憶したことは私の生涯の財産となった。当時の藤井先生の学恩に篤く感謝したい。その時に学んだ東洋史という名前の中国史は、黄河流域の中原に誕生した「夏」(か)「殷」(いん)王朝から始まった。これが中国史の常識と思っていた私の中国史観をひっくり返すような、思いがけない内容の美術展であった。1986年、成都市の北方約40キロメートルの所に位置する三星堆(さんせいたい)遺跡から、大量の青銅器や金製品をはじめ、玉石器、土器、象牙、貝など、数千件もの遺物がまとまって発掘され、一躍古代蜀(しょく)の王国の存在が脚光を浴びることとなった。高さ2mを超える青銅像や、突出する目と角状の部位を持つ仮面、さらに総高が4m近くに達する青銅の神樹など、それまで予想もしていなかった驚異の文物の出現に、世界中が耳目をそばだてたわけである。遺構や遺物を総合的に検証した結果、この遺跡は、中原の殷王朝とほぼ平行した時代に、蜀の中心的な都城として機能したことが判明し、古代蜀(しょく)の王都である可能性が高まった。それまで歴史の靄の中に埋もれていた古代蜀に、驚くべき古代文化が栄えていたことが証明されたわけである。その後、2001年に、成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見されると、三星堆から金沙に続く古代蜀(しょく)の姿がよりはっきりと浮かび上がってきた。

「蜀」と「夏・殷(か・いん)」王朝の遺跡    写真

金沙(きんさ)遺跡は、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺跡であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷(いん)の次の西周王朝の末頃まで存在した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。三星堆から続く独自の文化を維持しながら、他の文化圏とも交流を持つという当時の蜀(しょく)の情勢を端的に物語るものであり、それは同時に、初期王朝期の多元的な文化の在り方を示唆するものでもあった。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。私は「夏」王朝は、日本の神話の世界のような漠然とした史実の無い時代であると信じていた。紀元前2000年頃に「夏(か)」王朝が誕生したというのは、あくまでも「史記」などに記された夏王朝を想定してのことであった。夏(か)については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明された訳ではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡(河南省偃師市)に見られるような大規模な宮殿跡や住居跡、道路、青銅器、玉器の工房跡などの遺構と、各種出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域(黄河流域)に相当規模の権力を持つた集団があり、既に国として体裁を整えていたであろうことは認めることができる。

蜀 突目仮面 1個 青銅 前13~前11世紀 三星堆遺跡出土物

この種の遺物は、これまでのところ、この作品が出土した三星堆遺跡でしか発見されておらず、古代蜀の地域に特有の信仰ないし祭祀に根差した儀礼用の器物と考えられる。古代蜀のことを記した史書に、蜀の始祖である蚕叢(さんそう)という王が「縦目」であったと記すことから、この作品はこの蚕叢を表したものとも言われている。いずれにしても、中原とは異質な文化圏が古代の蜀地域に形成されていたことを物語る、きわめて貴重な遺例である。

人頭像 青銅・貼金 前13世紀~前11世紀 三星堆遺跡

これは巫祝(ふしょくー神職)といった特殊な人物を想定したものかも知れない。後頭部から首にかけて、三つ編状の髪が表現されているが、頭頂部が平に形成されていることからすると、この上に頭髪または冠など、何らかの部位が載せられていた可能性がある。同種の仮面状のものが三星堆遺跡から57点出土したが、この作品のような金製の仮面状のものが添付されているのは4例に過ぎない。三星堆遺跡以外ではなお類品が知られず、この地域固有の文化の実態を示唆する貴重な遺品の一つである。

金製仮面  金 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

全体的にごく薄く脆弱な作りであることからすると、これを単独に使用したとは考えにくく、人頭像(前掲)に見られるように、何らかの像の顔に貼り付けたものかも知れない。ただし、三星堆遺跡の人頭像に比べると、眉や目・鼻といった各部がより柔和な表現となっている。同じ文科系統に属しながらも、造形には時代ないし地域的な相違が反映されているようである。この作品のように、金を使用したり、人の形ないしその一部を造形化するのは、古代蜀文化の特徴の一つで、そこに、青銅や玉によってもっぱら祭祀儀礼具を作り続けた中原文化との違いを見出すことができる。

金製漏斗形器 金 殷ー西 前12-前10世紀 成都州金沙遺跡出土

漏斗のような形状をした器物で、金の薄い板を打ち伸ばし、身の三方に、3個ずつの渦巻を連ねた文様を3組、透彫によって表している。表面が平滑に研磨されているのに対し、裏面はやや荒れた地肌を示していることから、もとは何らかの器物に被せていたもののようである。一節には、鈴の類に付けたとも言われるが、形状から見ると。器物の蓋に取り付けたと考える方が理にかなっているかと思われる。似たような形をした金製と青銅製の器物が同じ金沙遺跡から発見されているが、それらには、この作品に見られるような浮彫の文様が見られない。このような漏斗形をした金製や青銅器の器物は、この金沙遺跡には未だ発見されておらず、この地域固有の文化に連なる希少な遺物といえる。

尊(そん) 青銅 殷・前13-前11世紀 三星堆遺跡出土

尊(そん)は、中原地域に発達した祭祀儀礼用の酒器の一種で、三星堆遺跡からは8点が出土している。長江中流域の湖北省や湖南省からも類品が出土していることからすると、突面仮面・人頭像のような古代蜀に特有の器物と異なり、中原地域あるいは長江流域の影響や交流によってこの地域でも作られるようになったものと考えられる。同じ遺跡の出土品に、尊を頭上にささげもつ人物像があり、古代蜀では、尊の本場である中原地域とは異なった使用法をとっていた可能性が高い。古代中国における地域間の文化交流のあり方や地域的な文化の展開の様相の一端を垣間みることができる。

跪坐(きざ)人物像 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

両足をそろえて跪き、上体をやや前かがみとしながら顔は正面を向け、手を後ろで交差している。この種の石像は、金沙遺跡からこれまでに12躯が発見されている。おおむね次のような形成が基本となっていることがわかる。頭髪は、左右を刈り上げて頭頂中央で左右に分け、後髪を三つ編み状にして背面に長く垂らす。目と口は刻線で表現され、張り出した頬骨の間に大ぶりの鼻がおさまり,耳朶には小穴が開く。口や耳の辺りには朱の着色跡が認められる。背後に回した手は、手首のところを縄で縛られ、また着衣の表現が見られないことから、裸体であるとみなされる。これの石人は、すべて祭祀坑から発見されていることから、奴隷や被征服民、あるいは犯罪者などを生贄とする代わりに、その姿を石材でかたどり、祭祀儀礼において用いたものと推測される。

虎 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀  金沙遺跡出土

四肢を折って蹲り、頸をもたげて口を大きく開き、雄たけびをあげているかのような虎の姿を一つの石材から彫り出している。頭体部とも、四肢や耳及び口腔を牙以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、顔や口の周囲以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、額や口の周囲の文様は線刻で表し、臀部にも縦横の刻みを入れている。口腔や耳の辺りには朱色の彩色がはっきりと残る。臀部中央には円穴があり、当初はそこから別材を挿入して尻尾を表現していたようである。石材は、跪坐人物像と同じく、地元産の蛇紋岩と鑑定されている。洗練された造形感覚をうかがうことができる。

人形器(ひとがたき) 青銅 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

人の形を基本としながら、頭部を表現せず、胸の上部に孔を設けるという、特異な形状をした青銅製品。なで肩をした、細長い胴の両側に腕を垂加し、脚を開き気味に構え、つま先を外側に向けている。両手先には、細い刻線によって指らしきものを表している。腰と両腿の付け根に凹溝を刻出しているのは、着衣の表現であろうか。肩の外側と脚の裸(はだし)付近の内外の対比位地は,小孔を設けていることからすると、鋲や釘の類によって固定するなどして用いたものと推測される。古代蜀文化の独自の発想と想像力が生み出した、きわめてユニークな作例である。

 

中国古代蜀文化の遺物5点と、古代殷の遺物3点を紹介した。特に古代蜀の遺物は極めて稀で、三星堆遺跡、二里頭遺跡から発掘されたもので、初めて見る物である。特に突面仮面、人頭像は、極めて異例な人物像で、中国でもごく最近の発見であった。殷と同じ時代に古代蜀の文化があったことは新発見であり、中国古代史にとって大きな発見である。あえて古い展覧会の図録をご紹介したのも、古代蜀の異色の古代文化があったことを、ご報告したいと思ったからである。この「日中国交正常化40周年記念展」以降、中国との関係は悪化し、その後、一切の中国関係の展覧会は開催されず、わずかに台湾の「神品至宝ー台北国立故宮博物院」が2014年に開催されただけである。国交正常化した今日、是非、中国の文物を展示する展覧会を開催してもらいたいと思う。

(本稿は、図録「特別展 日中国交正常化40周年記念 中国王朝の至宝」を参照した)

「ふつうの系譜(5)」

後期展覧会の最後の章となる。後期展示の後半部分で、主として江戸中期の作品が多い。概して優れた作品が多いように思う。「ふつうの系譜」という変わった名称を持つ展覧会も今回が最後となる。

海上飛鶴図  原 在中作   江戸後期

「海上飛鶴図」は、原在中が88歳の時に描いた最晩年の作品である。五羽の丹頂鶴が雲の棚引く海上を飛翔している。まるで広大な山脈を俯瞰しているかのような波のうねりが面白い。やまと絵にも見られる波模様で、在中が」やまと絵の画法を取り入れていることがわかる。88歳にしても尚劣らない在中独特の写実精神と表現力が魅力である。五羽の鶴の配置やバランスや波の隆起のリズムがユニークである。

松下福禄寿図    岸駒作    江戸中期

落款にある「越前刺史」は越前守のことである。岸駒が越前守の官職名を受けたのは、亡くなる1年前の天保8年(1837)。つまり最晩年の一作である。テーマは言うまでもなく、おめでたい福禄壽。松や鶴、鹿も描かれていて、本当に縁起の良い掛軸である。縁起物の掛軸というだけで、ありきたりのもの、と思い込んでしまう人もいるだろうが、じっくり見れば、人物や動物は、主役から脇役かに関係なく、どこか楽しげで面白い。何もないように見える空や地面にも薄い墨が塗られている。岩の凹凸や木の葉にも深みがある。大きな画面の全てに、京の絵画界を引っ張ってきた岸駒の筆から生まれた、形や線、色がある。

猛虎図  岸駒作    江戸中期

「猛虎図」は、初期の「岸矩」時代の作品である。描かれた当時、この絵が何と呼ばれたかはわからないし、今日の私たちが思うような「作品名」などなかっただろう。江戸時代の虎の絵を「猛虎図」と名付けるのは、今日ではごく一般的だし、虎もそもそも猛々しい動物なのだから、「虎イコール猛虎」で問題ないのかも知れない。この絵は確かに「猛虎」と呼んでよさそうだ。江戸時代、虎の絵は、中国や朝鮮から輸入された。迫力いっぱいのものから、おかしな姿まで、色々な魅力を持つ作品があっただろう。日本の画家たちは、そんな絵を手掛かりにして虎を描いたのである。この絵にも手本があったに違いないが、プロポーションといい、動きといい、柔らかくて自然な感じの毛といい、さすが岸駒の描写力である。

猛虎嘯風図  岸良作     江戸後期

岸良の「猛虎嘯風図」は一匹の虎が咆哮する姿を描いている。画題は「虎嘯風生」(虎が嘯くと風が強く起きること。優れた能力を持つ人物が機会を得て奮起すること)からきているのだろう。虎を正面から捉えるのではなく、背後から描いた視点が新鮮である。背景には川が流れ、一本の松が植わっている。空間に薄墨を施して、風が吹いている様子を表現している。日本には虎が生息していないため、かって丸山応挙は輸入された虎の毛皮を実見して写生し、虎のリアルな姿に迫ったが、岸駒は更に虎の頭蓋骨や脚を取り寄せて体の構造を研究し、より迫真的で獰猛な虎を描いた。岸良も岸派の技法を受け継ぎ、的確で存在感たっぷりの虎を描いている。今更ながら、江戸時代の画家は研究熱心であったことを痛感する。

粟に鶉図   土佐光貞作   江戸中期

人々は古来から絵に寓意を持たせ、特に縁起の良い意味と組み合わせて用いることで願いを込めてきた。鶉は、中国では「鵪(an)」と書き、「安」と音が通じていることから「平安」を意味するそうだ。また、子孫繁栄の意味もあるという。土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄の意味もあるという。(まさか、この絵にこんな意味が込められているとは知らなかった)土佐光貞の「粟に鶉図」は、たわわに実った粟と鶉を組み合わせて、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願していたのであろう。土佐光貞は江戸中期から後期にかけて活躍した土佐派の絵師である。土佐光芳の次男で、後に分家して一家を立てている。土佐派と言えば柔らかい線描のイメージがあるが、この作品では粟や笹の葉のバキッと洗練された輪郭線、そして隙のない緑と茶の彩色が画面を引き締めている。

花鳥図 張 月樵作    江戸後期

名古屋で活躍した画家、張月樵は多くの花鳥図を残している。呉春に師事したと言われており、応挙や呉春の画風をもとに独自の画境を切り開いた。地面のない空間に、ロウバイとバラ、ロウバイに止まる二羽のカラ類の小鳥、そして主役ともいうべきマナヅルが描かれている。背景となるロウバイは至極あっさりと、しかし所々で複座に枝を絡ませながら描かれ、そんな枝に止まる二羽の小鳥はまるで会話をしているようである。ロウバイの手前、バラに半ば埋もれるようにして一羽のマナズルが佇んでいる。楽し気なカラ類の姿と比較すると、孤高の精神性さえ感じさせるその姿には、人格を与えられたかのように対象を描き出す月樵の花鳥画の魅力が感じられる。

菊に鶏図   原  在中作   江戸後期

原在中による相当の力作である。菊は一枚一枚、花弁のひとひらひとひらとひらくが、くっきりと、しかし薄い透明な色で描かれ、それがたくさん集まり、わさwさした群れを成している。その密集感と、目を近づけて見た時の描写の丁寧さ、細密感には驚かされる。それをバックにした雄鶏は、白と黒と赤がくっきりとして、明瞭すぎるほど明瞭だ。口にくわえているのはバッタ。触角も足もしっかり付いている。それれを待つヒヨコのかわいいこと。見上げる二羽と、もらえる位置へ急行する一羽。口の開き方や目に、ちゃんとあどけない表情がある。天明5年(1785)、在中が36歳の時の作品だが、この頃の京では、伊藤若冲が70歳で、まだ現役の頃である。若冲の「動植採絵」や数々の色鮮やかな鶏の絵を、在中もきっと見ていたはずだ、kれども、全てにわたって「きちっと」している、この律儀な描きぶりは、後の在中の、定規で描いたかのような描写感覚につながっていくものだろう。

関ケ原合戦屏風図  菊池要斎作   江戸時代後期

「関ケ原合戦図屏風」は、濃く鮮やかな絵の具の発色と金の眩さが豪華な屏風だが、描かれている世界は生々しい戦いの様子である。徳川家康率いる東軍と石田三成の率いる西軍とが衝突した慶長5年(1600)の関ケ原の合戦を題材に描いているが、右隻は主に島図義弘、石田三成、大谷吉継、宇喜田秀家らの西軍と、東軍に寝返る脇坂安治や小早川秀秋も配されている。左隻には主に東軍の本田忠勝、藤堂高虎、井伊直正、有馬豊氏などの諸將が配されている。徳川家康は左側の木に隠れて見えなくなっている。兵士たちや馬の動きには躍動感があり、その表情も一人一人描き分けられて迫真的である。極彩色で濃密に描いていることで、血生臭い戦いの様子が伝わってくる。リアルな描写だけではなく、その俗っぽい生々しさが菊池容斎の画風の魅力の一つでもある。

 

後期の作品の残り半分を書いた。後期の方が、前期に比べ、ややなじみ深い題材が多かったように思う。いずれしろ、これだけの江戸時代の日本画を丁寧に見たことは、一度もなかった。誠に勉強になった。府中市美術館と敦賀市博物館に厚く御礼申し上げたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)

「ふつうの系譜(4)」

4月14日より後期展示会が始まった。せいぜい100点程度の展示であるから、一度に済ませばよいものをと思うが、美術館としては2度訪れる人もいるとの思惑か、あるいは貸し出す敦賀美術館の都合か知らないが、とにかく2回に分けて50点ずつ展示とは、いかにも面倒であり、また江戸時代初期から明治時代初期までの歴史を辿ることになる。「奇想があるなら普通もある」という、展示会のコンセプトに興味を感じ、2度見学することになった。特段、後期に名品が多い訳ではなく、作者も似たり寄ったりのメンバーである。何故2回に分けたのか、見学者としては、実に面倒であり、意味が無いように思う。次回以降は100点程度の展示ならば、1回で済ませてもらいたい。

伊勢図  土佐光起作   江戸中期

土佐派は室町時代から宮廷の繪所預(専属で絵画制作を行う工房の長の職)として代々引き継がれていったが、戦国時代に土佐光茂の息子が戦死し一時断絶してしまう。土佐派に伝わる技法や資料は光茂の弟子である土佐光吉が引き継ぎ、堺を拠点に活動した。こうして皇室専属から離れた土佐派が、土佐光起の時代に再び絵所預に任命されて京に戻り、復興を果たした。光起は伝統のやまと絵の画風を守るだけでなく、中国画や狩野派の技法を取り入れて様々な作品を生み出した。清少納言は「枕草紙」の第151段に「うつくしきもの」の中で「なにもなにも、ちいさきものはみなうつくし」と、小さいものは皆かわいらしいと述べているが、現代の私たちも、小さく繊細なものに心惹かれるものである。「伊勢図」は、雛人形のような小さく愛らしい女性が滝を眺めている。山の木々や滝は水墨でシンプルに描かれている一方、女性の色鮮やかで華やかな衣装に目が惹き付けられる。これは「古今和歌集」巻台17「龍文にまでうでたきのもとにてよめる 伊勢/たち縫わぬきぬ着し人もなきものを なに山姫の布さらすらむ」をもとに絵画化している。

隅田川図  浮田一薫作   江戸中期

「隅田川図」の題材は、やまと絵の世界の定番「伊勢物語」。都から失意のうちに東国に下ってきた主人公の男の一行が、武蔵国の隅田川にやって来たところである。川のほとりにみなで座って、遠く来てしまったなあと嘆き合っていると、渡し守が、日が暮れるから早く船に乗れと云う。その時、白くて鷺の足が赤い、鴨ほどの大きさの鳥が、水の上で魚を食べていた。都では見ない鳥なので渡し守に尋ねると、「都鳥」だと答える。そこで主人公の男は「名にし負わばいざこととわぬ都鳥、わが思ふ人はありやなしや」と、都に残してきた人を思う歌を詠んだ。人間の姿が小さい。まるで、みんなで「伊勢物語」ごっこをしてかのようだ。

朝陽鷹図 狩野探幽作   江戸時代初期

「朝陽鷹図」は朝日をバックに、波が打ち付ける岩の上に立つ白鷹が描かれている。細い筆で輪郭線がとられた鷹に、胡粉で白く彩色が施されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白く彩色されている。お腹側は墨で模様を入れてから上に薄く白色を全体に重ね、濃い白色で毛並みを細かく描いている。画面上部に浮かぶ真っ赤な日輪の周りを囲む薄暗い雲は、淡墨で外隈(描く対象の外側を墨などでぼかして対象を浮き立たせる技法)を使って表し、雲が流れていく様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした様子が想像できる。岩に佇む白鷹の凛とした姿が、画面に動と静とをもたらしている。

日月岩浪図  狩野養信作

この絵は、「古事記」に出てくる「国生みの一場面」のオノコロ島を題材にしたものだろうと編者は推測している。狩野派の圭角のある筆致で岩肌を表している。それを緑青や群青の岩絵の具で彩色し、更に所どころに金泥を施して豪華で迫力がある。一方で海の波濤は、やまと絵風の柔らかな描線であり、漢画と融合を成した養親ならではと言える。背景の朝日と月によって霊験あらたかな雰囲気の作品となっている。

西王母・寿老図   丸山応挙作    江戸中期

二人の仙人を描いた「西王母・壽老図」は、応挙の典型的なきれいな絵である。西王母は、女仙全てを支配し、不老不死の仙桃を管理する仙人。江戸時代、西王母の絵は特に人気があったようである。この絵のように、侍者を従えたところを描いたものが多い。西王母の向こうにいるのは壽郎人。こちらは鹿と一緒である。日本では七副人の一人として親しまれているが、もとはやはり中国の仙人である。斜めを向いた西王母と、体は西王母と同じ方へ向けながらも、顔はこちらに見せる侍者。そして完全に正面向きの寿老人。それあおれのこんな姿が単独で描いた作品は多いが、応挙は、一つの絵の中で、組み合わせることで、立体感のある群像に仕立てている。立体感のありさまを平面に描くことを得意とした、応挙らしい作品である。

相生松図   丸山応挙作   江戸中期

「相生松図」は、前作とはかなり描き方が違う。「相生松」は、同じ場所から雌雄の木が立ち上がって、まるで一つの株のように見えるもの。長壽や縁結びなどの御利益があるとされる、ありがたい木である。松の輪郭は太い直線をばきばき連ねている。幹の姿も、無理に直線で表したような感じである。遠くのものを薄くすればリアルに表せる、そんな約束事に従って、まるで機械的に表現したかのようだが、強い線や直線的な造形感覚とも相まって、突飛なくらいの雰囲気を醸し出している。

猛虎図   丸山応挙作    江戸中期

「虎嘯けば風が生づ」というのは、中国の禅の書物などにも書かれた有名な言葉である。日本でも、、多くの虎の絵で風が表現されている。この作品でも、上空の様子と激しい波からして、風が吹き荒れているようだ。しかし虎は、向かい風ににもなんのその、きりっとした姿を見せている。応挙は、若い頃から晩年まで、様々な時期に虎を描いたが、ある時期、40代の頃の作品では、体の模様を複雑に表している。本物の毛皮を見て、模様を取り入れたかわである。この作品もその一つで、数ある応挙の虎の絵の中でも、ひときわ「リアル」な雰囲気をまとう一匹である。

老子図  長澤蘆雪作   江戸中期

牛の背に乗る老人は、古代中国の思想家、老子。「老子図」に描かれているのは、周の国が衰退するのを見て落胆した老子が、国を去るところである。牛の背にちんまりと乗る様子、虚ろな目つきは、本当にがっかりしている様子である。老子の身体や腕の感じは立体的だし、牛も、破天荒な描き方ながら、しっかりと三次元的な表し方ができていて、応挙譲りの立体表現が生きている。

紅葉狗子図    長澤芦雪作     江戸中期

子犬の絵と言えば応挙の独壇場、と思いきや、最近は弟子の蘆雪の人気が応挙に迫る勢いだ。もちろん蘆雪の子犬は、応挙のおsれを真似るところから始まっているが、どこか違う。「紅葉狗子図」は、そんな「芦雪犬」の典型的な例である。まず、犬の身体が間延びしている。真ん中の後ろ姿の一匹を見れば、不自然に胴体が長い。また顔の表情も、かわいい中にきりっとしたところのある応挙の子犬と違って、三枚目っぽい。そして決定的なのが、場面設定と構図。一匹一匹がほぼ独立している応挙の場面設定に対して蘆雪のそれは、重なり合ったり、だらけたりしている。構図も、全体のバランスを考えずに、成り行きで描いたように見える。しかし、こうした「ゆるさ」こそ、昨今の蘆雪犬の人気の理由なのであろう。

 

後期の作品の半分を書いた。前半と大きな違いがある訳ではないが、後期の方が、やや絵画としては秀作が多いように思う。多分、殆ど変わらないだろうが、同じような絵を見ていると、段々好きになるのだろう。

 

(本稿は、図録「ふつうの系譜  2020年」、辻信雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した)