出光美術館開館50周年記念  美の祝典 Ⅳ  伴大納言絵巻

平安時代末期は、日本絵画史上では”絵巻の時代”と呼ばれている。後白河法皇院政期当時には数多くの絵巻が制作されているが、この国宝「伴大納言絵巻」も、その一つである。国宝の「鳥獣戯画」、「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起」と共に四大絵巻と称され、現存する絵巻の中では第一級の優品である。史実によれば、貞観8年(866)3月10日の夜、応天門が炎上した。原因は放火とされたが、放火の真犯人は不明のままであった。大宅鷹取(おおやたかとり)という者の告発をきっかけに、事件は時の大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)らの放火事件という驚くべき決末で一応の落着をみた。しかし、伴大納言の犯行動機が不明であることなど、この事件はいまだに謎に包まれている。当時の資料から、天皇を取り巻く太政大臣、右大臣、左大臣、大納言の政治的対立の構図が事件の背後にあったことが浮かび上がり、今にいたるまで様々に解釈されている。「伴大納言絵巻」は、この事件から約300年経った平安時代末期に制作された絵巻物である。現在「伴大納言絵巻」には、上巻だけ詞書(ことばがき)がなく、何らかの事情で消失してしまったと思われる。しかし、中巻、下巻の詞書とほぼ同じ文章が、説話集「宇治拾遺物語」巻十の最初にある「伴大納言焼応天門事」にあるので、それに従って復元することができる。それによると、絵巻物のストーリーは史実通りではなく、むしろ、人々に語り継がれてきた説話をもとに、面白い脚色が加えられていることが判る。研究者によって、絵巻の筆者は12世紀の宮廷絵師の常盤光永(ときわみつなが)、詞書の筆者は能筆家・藤原教長(のりなが)(1109~1180)とする考えが一部に定着している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「事の川下でパニック状態の人々」 平安時代

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検非違使の一行が太刀を手にして劇的に始まる。騒ぎを聞きつけた野次馬たちが疾走している。直衣姿で脇目もふらずに馬を走らせる公卿、草履を手に疾走する僧侶。僧侶の前には火の粉が見える。どうやら前方が火事らしいと逆走する男もいる。

国宝 伴大納言絵巻 上巻  「応天門炎上」       平安時代

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今まさに焼け落ちる寸前の応天門であり、日本の絵画における三大火焔表現と呼ばれる。朱、丹、橙を巧みに使い分けて、炎の温度の違いまで見事に表している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「風上の会昌門に集まる人々」  平安時代

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壮絶な火事場を挟んで、こちら側は川上側である。大内裏の内側に集まるのは、官人(貴族)たちである。応天門から離れた会昌門では、火事場の緊張感はそれほどはない。笑いながら手をかざす者や、火事場に完全に背を向けて談義にふける高位の官人。いずれも会昌門に立っている。波打つ風下の群集との対立的な表現に、絵師の優れた構成力が感じられる。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「無罪を訴える源信」    平安時代

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木立の間に荒筵を敷いて座り、天道に自らの無実を一心不乱に訴える源信。突然に降りかかった冤罪に、怒り、恐怖、むなしさのすべてが一緒くたになって、ただ祈ることしかできないでいる。その姿には左大臣としての自信はない。わなないているようなその両肩には切実な気持ちが滲み出ている。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「家人たち」      平安時代

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駆けこんできた家人たちを見て、いよいよ逮捕の時が来たと騒ぐ源信家の女房たち。手を摺り合わせて嗚咽をこらえる者。しかし、使者は放免を知らせに来たことが伝わると、一転喜びに包まれる。画面の左方に視点が移るに従って、女房たちの表情が嬉し泣きに変わってゆく。奥の部屋にいるのは奥方とこどもであろう。年端もいかない子を抱き寄せながら安堵の涙に暮れている。

国宝  伴大納言絵巻 中巻  「子供のけんか」     平安時代

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七条通りで始まった子供同士のとっくみあいの喧嘩。その左側から片方の子供の父親が血相を変えて走り寄っている。同じ画面の手前では、相手の子どもを殺さんばかりに蹴飛ばす父親と、父親を楯ににしながら喧嘩でむしり取った髪の毛を掲げて勝ち誇る子ども。その斜め上は子どもをたしなめながら家に連れて帰る出納の妻。異時同図法を用いて円環状に時間をすすめながら、その周囲に喧嘩に足を止めた貴顕さまざまな人々の感情をリアルに描く。

国宝  伴大納言絵巻  中巻 「喧嘩の内容」       平安時代

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この隣に住む子ども同士のありふれた喧嘩が、まさかの事態を引き起こす。蹴飛ばした父親は伴大納言に仕える出納(しゅつのう)。蹴飛ばされた子どもの親は、放火事件の目撃者の舎人(とねり)だったのだ。あまりの悔しさに、舎人は目撃したことを暴露してしまう。大声で叫ぶ舎人夫婦の周囲には霞がたなびき、その先には両手を組みながら自慢げに話す男。またたく間にうわさは広がってゆく様子が視覚的に工夫されている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「逮捕に向かう検非違使」   平安時代

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この噂が広がり、ついに伴大納言に逮捕状が下された。この逮捕のため、伴邸に向かう検非違使の一行。この一行の物々しさは、事件の重大さを物語っている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「悲しみに暮れる伴邸の女房たち」 平安時代

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主人のいなくなった伴邸。二つの枕だけが残された夫妻の寝所では、衾を引き被る夫人の黒髪が覗く。ひっくり返って天に手を差し伸べる者、涙をぬぐうことも忘れて号泣する者。用意された朝食にも箸をつけようとする者はいない。御簾にすがって泣くまだ幼そうな女房。その横では年配の女房が茫然と座り込む。残された彼女たちの究極の悲しみと絶望感の描写に、鑑賞者は伴大納言が逮捕されたことを知るのである。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「見送る家人たち」    平安時代

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主人が連れ去られてゆくのを門のところで見送る家人たち。門の扉に手をかけて体を支える者、力なく座り込む者など、家人たちの悲しみは想像を絶する。重い現場とは対極的にただひたすら美しい木立の描写は、伴大納言への同情を誘っているかのようである。

国宝  伴唾納言絵巻  下巻 「伴大納言を連行する検非違使」  平安時代

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伴大納言を連行する検非違使の一行。逮捕された伴大納言は、八葉車に後ろ向きに座らされている。肩から下の左半身だけ覗き、その表情はうかがい知ることは出来ない。楕円形に描かれた車輪は、車輪が回転し、車が確実に前進していることを表している。事件は一気に収束し、伴大納言の野望はここについえてしまったのである。

 

国宝「伴大納言絵巻」が公開されたのは10年前であった。随分混雑した記憶があるが、今回は3回に分けて公開したため、さほど混雑はしなかった。国宝絵巻を3回に分けて公開する事例は少ない。お蔭で、この物語を3回読むことになり、伴大納言絵巻が、1千年前の物語ではなく、ごく最近の出来事のように感じるようになった。この絵巻の伝承は、次のような経緯である。絵巻は後崇光院(1372~1456)の「看聞御記」(かんもんぎょき)という日記にもっとも早く登場する。そこには、嘉吉元年(1441)4月26日の条に、当時絵巻は若狭国松永荘(まつながのしょう)の新八幡神社に「彦火々出見尊絵巻(ひこははでのみことえまき)」二巻と「吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)(ボストン美術館)一巻と共にあり、なかなか見事な出来であることから、これら四巻を後花園天皇にご覧に入れたと記されている。これ以来の伝来は、小浜藩主酒井忠勝に関する記事の中に、松永荘から忠勝に献上したのち、酒井家の家臣の所蔵となり場外持出を禁じたことが出てくる。その後、寛政の内裏造営にあたって設計の参考として提出して以来、再び酒井家の所有となり、「吉備大臣入唐絵巻」とともに伝来してきた。昭和56年(1981)に出光美術館の所蔵となってからは、度々の公開と研究が進められてきた。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「国宝 伴大納言絵巻」を参照した)

 

出光美術館開館50周年記念 美の祝典 Ⅲ 江戸絵画の華やぎ

日本絵画史上、大きな飛躍を遂げたのは江戸時代である。多彩な表現が確立し、公家と武家が拠点を東西に分かっ中、画家たちの世界はその双方を往来することによって互いに目覚ましい発展を遂げた。この時代を牽引したのは狩野派、琳派、そして浮世絵といった諸派の画家たちであった。桃山時代から江戸後期にいたるまで、社会的な階層を超えて、さまざまな輝かしい活躍をみせた名立たる画家たちの優品が、それぞれの美しさを見せてくれた。なお、写真の入手できるものが琳派に偏ってきらいがあるが、それは筆者の好みと理解して頂いて結構である。(7月18日まで)

南蛮屏風 六曲一双(左隻の一部)  紙本着色   桃山時代(16世紀)

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南蛮船、すなわちポルトガルやスペインからの船が日本の港に来航した情景を描くものである。本図は、左隻の沖合に停泊した南蛮船よりさまざまな積荷が陸へと運ばれる様が描き出されている。およそ、南蛮屏風は、日本に百点程存在すると言われるが、実際にどのような出来事が主題とするかは不明である。天正19年(1592)にポルトガル使節一行が京都をパレーどを行い、豊臣秀吉の歓待を受けたことが知られるほか、文禄元年(1592)の秀吉の肥前名護屋城築城に当たった、襖絵制作のために狩野光信一門の者が長崎で南蛮船入港を見て、その光景を描いたのが最初であるかも知れない。正に大航海時代の幕開けの時代であった。現存の南蛮屏風は、後の京都や名護屋で起こった南蛮ブームの高まりのなかで制作されたものと考えるのが適当であろう。また、数々の珍しい品々をもたらしす南蛮船は宝船にも見立てられ、招福趣味のなかで考案されたとも推測される。金雲で画面の上下を分断して二画面を構成する手法は、狩野派の絵師によるものと推測される。

重要文化財 更衣美人図  喜多川歌麿作 絹本着色  江戸時代(18世紀)

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寛政4年(1792)に、勝川春章(1723~92)が世を去ったのち、まさにこれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品が歌麿の中で、最も成功した事例であろう。

伊勢物語 武蔵野図色紙  俵谷宗達作  紙本着色  江戸時代(17世紀)

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「伊勢物語」は、在原業平と目される男を主人公とする歌物語である。主人公の男は、ある人の娘とともに武蔵野へ逃げるが、追手が真近に迫ってくる。男は草むらに女を隠して逃げるが、追手は男女が潜む野に火をつけようとする。宗達(生没年不詳、17世紀活躍した画家)は、自らが主宰する工房の絵師たちを動員し「伊勢物語」に取材する絵画の制作を行った。本図は、現在59面が伝わる色紙型の作品群の1枚である。

蓮華絵百人一首和歌断簡 書 本阿弥光悦 下絵俵谷宗達 江戸時代(17世紀)

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俵谷宗達が下絵を描き、そこに本阿弥光悦(1558~1637)が和歌をしたためた巻子装の作品は、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」をはじめ多数が知られている。この作品もこうした作例と同様、もともとは全長25メートルに及ぶ長巻であったが、関東大震災によってその半分以上が焼失したため、残りの部分が断簡として軸装に改められ、各所に分蔵されることとなった。本作品では、金泥でもって蓮の葉を真上からとらえた斬新な構図で描き、そこに三首の歌が書かれている。輪郭線を用いず、水気をたっぷり含んだ金泥に滲ませながら描かれた蓮の葉の描写は、宗達の水墨画の代表作「蓮池水禽図」にも通じる表現を見せている。

八橋図屏風(部分)絹本金地着色 六曲一双 酒井抱一作 江戸時代(19世紀)

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「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、燕小花と八橋を描いたものである。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表した燕小花が、ほがらかに画面を作りだしている。尾形光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)を忠実に倣って描いている。しかし、橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画の燕小花の花群を減らし整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一(1761~1828)は、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ,さらには遊里での遊びにも長けていた。さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で興隆した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み、「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、造り上げたのである。

紅梅図屏風 酒井抱一作 紙本銀地着色 六曲一双  江戸時代(19世紀)

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紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。光琳の「風神雷神図」と抱一の「夏秋草図屏風」の関係がすぐに想起されるが、表絵が誰の作品であったかは分からない。やはり光琳の金屏風であったのではなかろうか。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。銀色の屏風は珍しいが、燦然たる絵であり、琳派を代表する傑作であると思う。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色  六曲一双 江戸時代(19世紀)

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画面全体を埋めた金箔地に根元を強調した楓の下部分が置かれ、満開の桜を色鮮やかに捉えている。左の楓の木が右に描かれた上部分だけの桜へと迫ってくるかのように配置されている。たらしこみによる滲みの効果を生かして描かれた楓の幹に青々とした葉をつけた春の景色である。本来、秋の景色に登場する楓であるが、青葉として描かれたために、型で描いたように正面を向いて密集する桜花の季節がいっおう強調されている。絵は春の盛りであるが、桜の葉が枯れる頃、左方の楓葉は色付き、鮮やかな朱の葉となることを見る人に思い起こさせることを、作者其一が想定しているという魅力的な意見がある。これも江戸琳派を代表する傑作である。

風神雷神図屏風 酒井抱一作  紙本金地着色 二曲一双 江戸時代(19世紀)

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右隻には、風袋を両手に持ち、天上より舞い降りる風神。大きく見えを切って今まさに雷を落とそうとする雷神。kのユニークな図様が、宗達の代表作「国宝 風神雷神図屏風」(建仁寺)を源としていることは広く知られている。風神・雷神は古くからそのイメージが見られ、三十三間堂の彫像や、「北野天神縁起絵巻」(弘安本系)の清涼殿落雷の場面における雷神、また「長谷寺縁起絵巻」にも風神・雷神の姿が描かれ、その造形は人々になじみ深いものである。あまつさえ金地の空間に描くなどという前例は見当たらず、この点に宗達のずば抜けたオリジナリティーを見て取ることが出来る。本図は、光琳が宗達本を模写した「風神雷神図屏風」(東京国立博物館蔵)を抱一が転写したものである。抱一が出版した「光琳百図後編」の最終頁には、抱一が実見した光琳本「風神雷神図」が掲載されている。先行する宗達本・光琳本と比較すると、描線は簡略化され、色彩も明るいものになっている。また風神・雷神の面貌もこころなしか滑稽さが増しており、全体的に軽みのある平明な表現が抱一本の特徴と言えよう。琳派の「風神雷神図」は軸装や、扇面など様々な作品がある。

 

予想通り大半の記事が琳派の絵画になった。これは必ずしも私個人の好みだけでは無いと思うことが間々ある。例えば、先に開かれた伊勢・志摩サミットの昼飯の会場では、向って左側のガラス面は、この八ッ橋図屏風(実際は、酒井抱一画ではなく、多分尾形光琳の八ッ橋図屏風{メトロポリタン美術館蔵}だと思う)が大きく描かれた画面が写っていた。また、国宝 迎賓館 赤坂離宮でも「朝日の間」には尾形光琳のカキツバタの模写が展示されていた。「彩鸞の間」では、尾形光琳のキリシマツツジ絵の模写、酒井抱一の桜・山鳥の絵の模写が展示されていた。明治の昔から、今日まで、日本の美の代表選手は、琳派であったのである。今回の展示は酒井抱一、鈴木其一が多かったが、酒井抱一の金地の「風神雷神図屏風」と鈴木其一の銀地の「紅梅梅図屏風」の対比は、正にこの展覧会の最大の見所であった。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「物語絵 2015年」、図録「大琳派展 2008年」、日経大人のOFF2016年1月号)を参照した)

天正遣欧少年使節   伊東マンショの肖像

今年は日伊国交樹立150周年に当たる記念すべき年である。日本とイタリアを結ぶ最初の架け橋であった天正遣欧少年使節のひとり、伊東マンショ(1569頃~1612)を描いた肖像画が世界で初めて、東京国立博物館で公開されることになった。歴史書の上で、天正遣欧少年使節の存在は知っていたが、まさかこのような素晴らしい肖像画が、イタリアに伝わっていたことは、初めて知った。天正10年(1582)、九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節が長崎を出航した。彼らは中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、ルネサンス期のイタリアの地を踏んだ。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、天正18年(1590)4人揃って帰国した。それから400年以上を経た平成26年(2014)3月、ミラノのトリヴルツィオ財団が発表したドメニコ・ティントレット(1560~1635)筆「伊東マンショの肖像」の存在は、使節団が16世紀のヴェネツィアで公式に歓待された事実と、これまで文献でのみ確認されていたティントレットによる油彩肖像画の存在とを裏付ける、歴史的な発見となった。この展覧会では、使節団の動向を速報するために出版された「天正遣欧使節記」(重要文化財)や、博物館が保有するキリシタン資料からイタリアに関連する作品を併せて展示し、16~18世紀にキリスト教を通して交流した日本とイタリアの姿を見ることが出来る。尚、展覧会は7月10日までで、この機会を逃がすと、この肖像画には2度と見られない恐れもある。

伊東マンショの肖像  ドメニコ・ティンレッド作 カンヴァス・油彩 1585年

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1585年、使節団がヴェネツィア共和国を訪問した際、歓待した共和国元老院がルネサンス期ヴェネツィアの大画家ヤコボ・テンントレット(1519~94)に使節の肖像画を発注したことは、これまでも同時代の文献から知られていた。今回、発見された「伊東マンショの肖像」は、その記録を裏付けるものである。ヤコボは当初、より大きな集団肖像画として本作品の制作を始め、没後、工房に残された絵を息子ドメニコが切り詰めて単独の肖像画として完成させた、あるいは個別に制作した肖像画のうち唯一ほぼ仕上がっていた「伊東マンショの肖像」をさらに切り詰めて完成させたとみられる。この絵はイタリアのミラノ、トリヴルツィオ財団の所蔵に関わるもので、展覧会後返却されるものである。大きさは54.0×43.0cmと小作であるが、色、形は極めて明細である。

天正遣欧少年使節の行程図

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1582年10月5日、グレゴリオ13世新暦交付により、10月15日に定められる。使節団はゴア以降、新暦を採用。長崎ーマカオーゴアーリスボンを経由していることが、上の図で判る。

重要文化財  天正遣欧使節記  1冊活字本  イタリア、レッジオ刊行

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イタリア現地での歓待振りを刊行した冊子で、イタリア語で書かれている。東京国立博物館蔵。

重要文化財  三聖人像   外国人宣教師による舶来品

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ロザリオを持つ聖母子が描かれる破風付きの古代的な建物の中に、三聖人が描かれている。その持物から、中央が聖ラウレンティウス、右がシェナの聖カタリナ、左がドミニカあるいはパドヴァの聖アントニウスと判る。当時日本には無い麻製で絵画技術が高いことから、外国人宣教師による舶来品と見られる。

重要文化財  三聖人   日本人による模写

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セミナリョで西洋絵画技法を学んだ日本人による模写と考えられる。九州各地のセミナリョでは、天正11年(1583)に来日したイタリア、ナポリ出身の修道士ジョヴァンニ・ニコラオ(1560~1626)が日本人の少年たちに絵画、銅版画を教えていた。キリスト教禁制前の日本では、ルネサンス期の絵画技法が学ばれていたのである。

重要文化財 聖母像(親指のマリア) 1面 銅板・油彩 イタリア17世紀後半

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この聖母像は、江戸時代のキリスト教禁制下に、イタリア人宣教師ジョバンニ・バチィスタ・シドッチ(1667~1714)が携行したものである。青のマントに身を包む憂いに満ちた聖母の姿は、17世紀にフィレンツェで活躍した宗教画家カルロ・ドルチ(1616~87)が描いた聖母像に酷似している。シドッチを訊問した幕府高官で学者の新井白石(1657~1725)の記録によれば、シドッチはシチリア島バレルモ出身である。日本の風俗、言語を学んで、宝永5年(1798)、和服で屋久島に潜入したところを捕えられた。日本での布教を再開する使命を負って来日したが、江戸・小石川の切支丹屋敷に幽閉され、正徳4年(1714)に47歳で没した。平成26年(2014)、その屋敷跡からシドッチと見られる手厚く葬られた遺骨が出土している。「市塵」という小説の中で、新井白石がシドッチを訊問する箇所が出てくる。それによれば、長崎奉行所からの目録には「ビイドロ鏡」とされた物は、「ビイドロを嵌めた木の枠にいれた画像で、鏡のような物というのはビイドロの外見に気を取られた見方だろう。画像は頭に衣をかぶった西洋の女人像だった。白石は持って来た目録と照らし合わせた。サンタマリアと申す宗門の本尊の由、申し候と書いてある。」「白石はサンタマリアの像の前に戻った。若くはない、齢のころ四十近いかと思われるほどの女子の横顔だった。白石の気持ちを惹きつけたのは、鼻の高いその顔に現れているいかにもうれわしげな表情である。着けているものは白で、頭にかぶった布は藍色だった。」(藤沢周平「市塵」)この聖母像を巧みに表現している。シドッチと白石の問答からも、文化的背景や立場の異なるふたりが言葉の壁を越えてお互いを尊敬しあう姿が浮かび上がってくる。だから白石は、シドッチを死刑にしないで、小石川の切支丹屋敷に幽閉という形で、生かしたのであろう。

 

この「天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」は、私に取っては思いがけない収獲であった。このような展示会が行われていることは全く知らず、「ほほえみの御仏」と「法隆寺宝物館」を見学する目的で、上野博物館で行ったところ、垂れ幕で、この「伊東マンショ」の展示会を知った次第である。かねがね興味のある話題であったので、絶好のチャンスと思って見学した。思いがけないイタリアに関する重要文化財4点と、シドッチ関連の解説を読んで、藤沢周平の「市塵」を懐かしく思い出した次第である。天正遣欧少年使節については、日本歴史の上で、ある程度承知していたが、改めて読み直してみた。天正10年(1582)、有馬(長崎県島原地区)のセミナリオ(初唐教育機関)の少年4人が九州のキリシタン大名の名代として長崎からヨーロッパへ向かったのである。正使は豊後の大友宗麟(1530~87)の名代・伊東マンショ(主席)、肥前の大村純忠(1533~87)、有馬晴信(1567~1612)の名代・千々石ミゲロ、福使は肥前から原マルチノ、中浦ジュリアンで、いずれも13歳前後であったという。この壮大な計画を立てたのは、イタリア・キェーティ出身のイエズス会巡察師のアレッサドロ・ヴァリニャーノであった。目的は日本での布教の状況を教皇や君主たちへ知らせ、日本の教会への資金援助を求めることと、帰国後に使節らがヨーロッパでの見聞を普及させることが大きな目的であった。ところが天正15年(1587)の豊臣秀吉による伴天連追放令、慶長9年(1614)の徳川家康によるキリスト教禁止命令によって日本におけるキリシタンの状況は一変した、4人は天正18年(1590)にそろって帰国したが、その後の人生はさまざまであった。肖像画の像主・伊東マンショ(1569頃~1612)は、天正8年(1580)洗礼を受け、「マンショ」を名乗ると、有馬に設立したイエズス会のセミナリョに入会した。秀吉と聚楽第(じゅらくだい)で謁見し、秀吉の覚えも良く、仕官を進められたことが知られている。

 

(本稿は、図録「伊東マンショの肖像」、藤沢周平「市塵」、日本の歴史・林屋辰三郎「第12巻天下統一」を参照した)

 

ほほえみの御仏展  二つの半跏思惟像

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東京国立博物館で「ほほえみの御仏」展が7月10日まで開催されている。今年は、日韓国交正常化50周年に当たり、両国の友好関係を構築していく上で、貴重な年に当たり、日韓両国の文化交流の一層の発展を図るために企画されたものである。この展覧会は日韓両国の代表的な半跏思惟像(はんかしゆいぞう)を1体ずつ選び、それらを両国において一緒に展示することにより、互いの文化を広く両国民に観覧してもらい、両国の友好と絆を更に深める一つの契機になればとの思いからである。朝鮮国立中央博物館が所蔵する「国宝78号像」は、韓国の至宝として広く親しまれたものである。日本からは、奈良中宮寺門跡に伝わる国宝の半跏思惟像ーまさに日本を代表する御仏であるーを展示するものである。すでに韓国の国立中央博物館で5月24日から6月12日まで展示され、期間中に4万5千人の観客があったそうである。2つの半跏思惟像が並ぶのは、初めての試みである。中宮寺の半跏思惟像が、海外で展示されるのは初めてである。韓国文化体育観光省は「古代韓日文化交流の産物である半跏思惟像の出会いが両国関係の新たな未来につながることを期待する」と表明している。」私も、日韓関係の正常化に繋がる試みとして、大いに期待したい。

国宝  半跏思惟像   木造、彩色  奈良・中宮寺  飛鳥時代(7世紀)

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左足を踏み下げ、右足をその膝の上に組んで丸椅子状の座具に座り、右手を頬に添えて思惟(思案)している。厳密には片足をもう一方の足の上に組んで座ることを半跏と言うが、半跏思惟像と言う場合には、このように片足を踏み下げる姿をいうのが普通である。頭頂の二つの球形は結った髪で、両肩から腕に垂れているのも髪である。やや面長で頬はふっくらとし、伏し目で微笑(ほほえ)みを浮かべる優しい表情をしている。現在、像の表面は黒光りしているが、肉身部の一部に肌色が残っていて、本来はより肌の柔らかさが強調された表現であったことがわかる。飛鳥時代の木彫仏に一般的なクスノキが使われているが、材を複雑に組み合わせるのは、この像の特徴である。和辻哲郎や亀井勝一郎が、実に美しい言葉で語った中宮寺の半跏思惟像(お寺では如意輪観音像と呼ぶ)は、日本の至宝である。

韓国国宝78号  半跏思惟像  銅像・鍍金    三国時代(6世紀)

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右手の指先を頬に添え、右脚を組んで座る半跏思惟像である。その名称には諸説があるが、朝鮮半島では特に信仰が盛んであった弥勒菩薩(みろくぼさつ)としてくくられたものが多いと見られる。目元を伏せつつうつむいた姿は、人々の救済を願いながら瞑想する様子を表すものであろう。頭と手足が大きく、なめらかにすっきりとした体躯の表現、線刻による波紋状の衣の襞(ひだ)といった特徴は、三国時代(高句麗、百済、新羅)の6世紀後半に流行するスタイルであるが、日本では飛鳥時代、7世紀の金銅仏に承継される特色であり、超越者である仏の気品にあふれる姿で表現することに成功している。銅造に鍍金(金メッキ)を施した金銅仏としては大型に属するが、近年、韓国国立中央博物館が実施した科学分析によって、頭と体、左足の小蓮華と三分割して原型をつくることで、5mm前後という均一な銅厚を維持できる慶尚北道出土との伝承があるものの、製作地の確定には至っていない。洗練された造形や高度な鋳造技術から、王室の関与する造佛であったと推測される。最新の研究では、高句麗(こうくり)の仏像とする意見が出ている。(展示されたのは、この2体のみである)

重要文化財 菩薩半跏像 銅像鍍金(法隆寺小金銅佛)   飛鳥時代(7世紀)

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法隆寺宝物館(東京国立博物館内)に納められた小金銅仏の一つである。現在は、すべての小金銅仏が重要文化財に指定されているが、本像は1990年代には重要文化財に指定されていた。指先を頬に添えて、物思いにふけった姿で表される像を、半跏思惟像と呼び、法隆寺宝物館の四十八体佛の中に9体含まれている。内1体は朝鮮伝来の菩薩半跏像で、三国時代の6~7世紀作とされる。後の8体は日本国内制作である。この姿は、インドや中国でも、釈迦の出家前の姿である悉達太子(しつたるたいし)や、釈迦あるいは弥勒の脇侍などとして造られている。三国時代の朝鮮半島では、弥勒菩薩がこの姿で表されるが、それには貴族の間で盛行した弥勒信仰の象徴的意味合いがあったものと思われる。日本における半跏思惟像の造像は、朝鮮半島の影響が大きかったと考えられている。

重要文化財  菩薩半跏像 銅像鍍金(法隆寺小金銅仏) 飛鳥時代(7世紀)

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私は、1996年に開催された「特別展 法隆寺献納宝物」で見た物であり、現在は東京国立博物館の「法隆寺宝物館」に常時展示されている。何時もは殆ど見学する人もいないが、流石に「ほほえみの御仏」展の後だけに、多数の人達が見学に来ていた。小金銅佛はすべて重要文化財に指定され、この仏像は、前は「白鳳仏」と記されていたが、現在はすべて飛鳥時代と表記されている。(私は、この表記の変更を見て、東博の仏像鑑定眼を疑っている。私自身は、すべて飛鳥佛とみていたが、権威が白鳳仏と言い張るので、やむを得ず、「東博は白鳳仏とするが、私見では飛鳥佛」などと書いていた)今回の展覧会に合わせて、これら半跏思惟像は、一番奥の部屋にまとめて9体陳列されていた。多分、半跏思惟像を求めて来られる来館者のために特別陳列したものであろう。

韓国国宝83号  半跏思惟像  三国時代(7世紀?) 朝鮮国立中央博物館

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国宝78号と双璧をなす、三国時代に制作された韓国を代表する半跏思惟像である。二つの像には、造形的な面で明確な差がある。最も大きな差は、頭に戴く宝冠の形状である。国宝83号像のそれは低く、三つの山型を持つことから三山冠または蓮華冠と呼ばれる。国宝78号と異なり、上半身にはまったく衣服をまとわず、シンプルな胸飾りのみを着けている。簡潔ながらバランスの取れた身体、立体的で、自然に表現される衣の襞(ひだ)、はっきりとした目鼻立ちから6世紀後半に制作された78号像よりも少し遅れて7世紀前半に制作されたものと考えられる。また、国宝83号像は大きさが93.5cmと、金銅の半跏思惟像のなかで最も大きいもので、かつ京都の広隆寺の木造半跏思惟像と非常に似ており、韓国仏像の古代日本への伝来と関連して注目される重要な作品である。制作地は不明である。(広隆寺の木造半跏思惟像は日本で造られたが、作者は、渡来人であると私は考えている)

金銅弥勒菩薩半跏像 銅像・鍍金 統一新羅時代(668年以降)国立中央博物館

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この像は明確に弥勒菩薩像として伝わっている。弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、インド語で「マイトリア」という。滋氏(じし)と訳し滋氏菩薩という。この菩薩は釈迦の補処(ほしょう)の菩薩とされ、釈尊没後56億7千万年後この世に下生(げしょう)し、第二の釈迦として竜崋樹下で説法し群集をして仏道を成さしむと言う。しかし、今兜率天(とそつてん)上にあって修行の最中であるという。よってその尊像は菩薩の形姿ではあるが思惟の姿勢をなし、却は左足を下げて半跏につくる。朝鮮半島では広く信仰を集めたが、日本では観音菩薩と並んで仏教渡来当初の飛鳥時代より信仰されたが、奈良時代以降その信仰が衰え、従って造像も少なくなった。

 

日本に仏教が伝わったのは欽明天皇13年(552)(日本書記説)で、金銅の釈迦如来像や経典などが朝鮮半島の百済(くだら)よりもたらされたと「日本書記」に書かれている。(異説あり)その時、欽明天皇は、仏の姿は今まで見たことがないほど厳かであると語っている。(書記によれば、次のような天皇の言葉を伝えている。「西蛮(にしのくに)の献(たてまつれ)る仏の相貌(みかお)端厳(きらきらし)く、全(あわ)ら未だにかって看(み)ず。禮(いやま)ふべきか以不(いな)や」。現在その像は伝わっていないが、奈良・法隆寺伝来の四十八体佛の中にある、同時代に朝鮮半島でつくられた作品が参考になるだろう。金銅仏を初めて見た人は、鍍金(金メッキ)されて光り輝き、厳かで神々しいと感じたことであろう。この半跏思惟像の姿はインドで生まれて、中国、朝鮮半島を経て、日本に伝わった。中国では半跏思惟像はおもに出家前の釈迦を現わすことが多かったようであるが、朝鮮半島では6,7世紀頃に盛んであった弥勒信仰と結びついて弥勒菩薩として造られたものである。日本の半跏思惟像は、朝鮮半島の影響を受けて造られ、作品に記された銘や資料から多くは弥勒菩薩と考えられる。中宮寺の半跏思惟像も、いま如意輪観音像としてまつられているが、弥勒菩薩として造られた可能性がある。日本では半跏思惟像は決して多くないが、京都の広隆寺にも、国宝に指定される2体がある。半跏思惟像に日本を代表する名品があるのは、高い技術力を持った仏師が選ばれたせいではないかと思われる。半跏思惟像が流行したのは、仏像の表現を人々が真剣に求めた時代であったということも理由の一つであったはずである。

 

(本稿は、図録「ほほえみの御仏」、図録「韓国古代文化展  1983年」、図録「特別展 法隆寺献納宝物展  1996年」、石田茂作「仏教美術の基本」、ハンリム出版社「韓国の歴史」、日本経済新聞 「2016年5月24日号」を参照した)

国宝 三十三間堂  二十八部衆

国宝 三十三間堂には千一体の千手観音立像があり、まるで極楽浄土に導をかれたような荘厳さがある。更に、このお寺には国宝 風神・雷神像を含む二十八部衆の仏像が完備している。私の知る限りでは、二十八部衆が全部揃っているのは、三十三間堂と常楽寺(滋賀県)の二寺のみである。但し、絵画はかなり残存している。この二十八部衆は、仏像の中では天部に属する。天部はインド語で「ガーナ」と言う。仏教に帰依した仏法守護を誓うインドの神格である。これは仏教の院外団のようなもので、大別して貴顕天部と武人天部に別れる。貴顕天部は梵天王・帝釈天王・吉祥天王などインテリ層の紳士淑女であり、武人天部は執金剛神・仁王・四天王・十二神将などを言う。天部像は、貴顕天部・武人天部ともそれぞれの服装をなし仏・菩薩とはおのずから異なるが、なお仏・菩薩像とは、次の点で区別される。①白毫相がない。②頭光だけはあるが身光は無い。③蓮華座に乗らず、荷葉座または岩座にのる。こうした階級制度が厳守されるのは大乗仏教の特徴である。仏教は平等思想を説くというが確立された大乗仏教はむしろ階級的であり、封建的な反面をかなり濃厚にもっていたと言わねばならない。二十八部衆は、観音の眷属(けんぞく)である。これは大乗仏教の主要な天部である金剛力士(1)・梵釈(2)・四天王(4)・八部衆(8)・風神雷神(2)・弁財天(1)・金毘羅(1)・婆籔(ばすう)仙人(1)に六王一大将一天を加えたいわば天部総動員の結集である。だから二十八部衆の像が全部揃っている事例は極めて珍しい。

国宝 風神(右)・雷神(左)像 木造 彩色                       鎌倉時代

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千体千手観音立像の前に並ぶ二十八部衆を両側から挟む形で、南に風袋を持つ風神像、北に太鼓を持つ雷神像が安置される。両神は千手観音に侍し、観音を信仰する者を擁護する役割を担う。二十八部衆と同様、内刳を行う寄木造りで、彩色を施し玉眼を挿入する。鬼神らしい怪異な容貌と隆々たる筋肉を写実的に表した、いかにも鎌倉時代盛期の慶派仏師らしい作行きで、建長の再興にあたり中尊と千体仏制作を主導した湛慶一門の作と見られる。私は、俵谷宗達が、この「風神・雷神像」を見て、「国宝 風神雷神図」(建仁寺蔵)を書いたと思っている。それは、宗達が世に認められるきっかけとなった養源院は、三十三間堂の目の前だからである。宗達は養源院の仕事をする前に、この「風神雷神像」を見て、その図を描くことを考えたに違いない。以来、「風神雷神図」は琳派の得異分野となり、尾形光琳(重要文化財)、酒井抱一等が描いている。

国宝 迦楼羅王(かるらおう)像  像高 163.9cm  鎌倉時代

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金翅鳥王(こんしちょうおう)ともいい、鳥の頭と翼を持った人身で表す。龍を食うヒンズー教の聖鳥ガルーダに源流がある。笛を吹く姿は儀軌になく、浄土で楽の音に舞う迦陵頻迦(かりょうびんが)のイメージが重なる。天竜八部衆の一に数えられる。本質は翼を持つ鳥身人頭で横笛を吹く姿である。

国宝 婆藪仙人(ばしゅせんにん)像 像高154.5cm 鎌倉時代

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杖をつき、経巻を捧げて歩む半裸の老人である。多くの罪人を地獄から釈尊のもとへと連れてゆくところである。鎌倉時代彫刻の動性と写実性を余りあるほどに伝える。老衰痩骨(ろうすいそうこつ)にして志操(しそう)の厳しさが漂う名品である。

国宝 那羅延堅固(ならえんけんご)像 像高 167.9cm 鎌倉時代

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仁王像の一対神である。金剛力士の方が一般的である。仏法の敵を撃退する法具、金剛杵の威力を神格化した像である。この像は開口して阿(あ)形、もう一方が吽(うん)形となる。筋骨を強調した裸身で下半には裳(も)をまとう。鎌倉時代らしい力強さがよく表現されている。

国宝 大弁功徳天(だいべんくどくてん)像 像高166cm 鎌倉時代

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原語シュリー・デービーの訳である。古くから千手観音の脇侍とされる財宝神・吉祥天である。仏教にいう「天」とは、神を意味する原語デーバの訳で、生死をくり返すという六道の最上位に位置し、飛空自在・読心術などの「五神通」を具えるという。やさしい風貌が特徴である。

国宝  緊那羅王(きんならおう)像 像高 164cm  鎌倉時代

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原語キンナラの音写語である。馬頭で一角をもつ音楽神とされるインドの土俗神で、インド神話には、ヒマラヤ山中に棲み美しい声で歌い舞う人首鳥身の神として登場する。仏教では、護法神・天竜八部の第七に数えられ、帝釈天、毘沙門天に仕える音楽神とされる。本像も鼓を打つ楽神の相である。

 

今まで、すべて三十三間堂として述べてきたが、実は単独の宗教法人では無い。京都府文教課の宗教法人名簿には、三十三間堂の名前は無い。それは、法住寺殿(ほうじゅうじどの)の復元図で示した通り、後白河上皇が造営した法住寺殿の「常の御所」と呼ばれる住居に宗教施設が附設されたからである。現在は、妙法院(東山通り沿いの600Mほど離れたお寺)と一体で宗教法人となっており、天台宗妙法院の名簿に含まれている。この妙法院は門跡寺院であり、多くの宝物を持った寺院として名高い、いずれ、このブログで紹介したい古寺の一つであるが、世間では三十三間堂の名前の方が通りが良い。この稿で紹介した二十八部衆の仏像は、極めて珍しい仏像であり、是非、この程度の仏像は覚えておいて頂きたい。中でも、風神雷神は琳派の名品が多い。例えば、俵谷宗達は国宝(建仁寺)、尾形光琳は重要文化財(東京国立博物館)、その他酒井抱一(出光美術館)などの名作もある。琳派の絵画としては馴染みが深いが、仏像表現は少ない。三十三間堂の近くに養源院がある。そこには、宗達筆の白象図、唐獅子図、襖絵「松図」など多数の重要文化財がある。前にも述べたが、京都で3時間程度の時間が空いたら、京都国立博物館、三十三間堂、養源院、智積院等を回遊すると、思いがけない名品に接することが出来る。お勧めのコースである。

 

(本稿は、図録「国宝三十三間堂」、古寺巡礼京都第18巻「妙法院・三十三間堂」、現色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第7巻京都Ⅱ」、石田茂作「仏教美術の基本」を参照した)

国宝  三十三間堂  千手観音立像と中尊

今は跡を止めないが、京都市左京区の岡崎公園一帯には、かっては平安末期の院政期・白河院(1053~1129)の御願による法勝寺(ほっしょうじ)をはじめ、いわゆる六勝寺(りくしょうじ)(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成藤寺・円勝寺)の伽藍が並び、更に南・北白河殿や得長壽院(とくちょうじゅいん)・蓮華蔵院(れんげぞういん)といった御所や御堂が立ち並び、偉観を呈していた。中でも、法勝寺の八角九重の塔は81メートルの高さを誇った。平清盛(1118~81)が後白河院のために造進(ぞうしん)した蓮華王院(れんげおういん)は、その30年ほど前に父忠盛が建てた得長壽院ともども、桁行(けたゆき)三十三間という長大な建造物であり、しかも中には千一体もの仏像が安置されていた。この時代はひたすら長く、多く、であった。どこよりも高い・長い・多くー。これは信仰の世界における物量主義であり、破格の造形であった。(ここまで書いてきて、現代もまた、高く、長く、大きい、が表現されている時代であると感じた。)

国宝  三十三間堂  木造  文永3年(1266) 鎌倉時代

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平清盛は後白河法皇のために蓮華王院(三十三間堂の正式名称)を増進したことで但馬(たじま)の国主に任じられた。平忠盛の時に、平家が飛躍したのは、父忠盛が鳥羽院のために白河の地に得長壽院を造進し、「内昇殿」を聴(ゆる)されたことにある。地下侍(じげさむらい)が貴族の仲間入りを果たした瞬間である。院政期には、公的な事業を行う必要が生じた時、相応の官位など一定の見返りを与えることを前提として、事業を遂行することを「功を成す」-成功(じょうごう)と言った。院政期独特の政治体制であった。造寺と同時に千体仏寄進も、勿論含まれている。平安時代末期の黄金色に輝く千体仏はどのように輝いていたであろうか。延長元年(1249)市中よりの火災で焼失したが、約20年後の文久3年(1266)後磋峨上皇により再建供養された。その後も何回も修復され、今日に至っている。柱間が33間を数えるため三十三間堂と称され、何時の時代でも京都を代表する有名な建造物であった。蓮華王院は五重塔、阿弥陀堂など多数の堂塔を持つ寺院の総称で、三十三間堂はその本堂に相当する。造寺造仏の数を誇る平安末期の風潮をいまに伝える遺構として貴重であると同時に、鎌倉時代の京都の建築を代表する大作である。

国宝  三十三間堂内部(外陣)   木造   鎌倉時代

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堂内の外側1間分は、四方を巡る外陣となる。東側の正面外陣の南北端か眺めると、列柱が連なる長い回廊のように見える。内陣中央の千手観音坐像を安置する内々陣のみ折り上げ組天井となっている。

重要文化財  千体千手観音象    木造      鎌倉時代

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もともと、千体仏とは、古代インド仏教の千仏思想を基としたもので、それは、もし帝王が手におよぶ多数の仏を造れば、その統治下の万民が幸福になるということであった。したがって、わが国でも古く飛鳥奈良時代にもかなりその盛行をみている。しかし、そのもとの姿のままで、いまに伝えているのは、後白河上皇の発願(ほつがん)によって営まれた蓮華王院本堂のものだけで、これはほぼ建長3年(1251)から文永3年(1266)頃にかけて再興されたものである。やはり、素晴らしい造営である。この千体千手観音像を見た時の感激は、誰しも忘れないだろう。これは極楽浄土を表すものであった。

国宝  千手観音坐像   湛慶作         鎌倉時代img569

蓮華王院本堂の本尊で、千体千手観音像の中尊をなしている。復興造営のもっとも早い頃の仕事として、建長3年(1251)から同6年(1254)にかけて、大仏師湛慶(たんけい)が小仏師康円(こうえん)と康清(こうせい)とを率いて、この像を造ったもので、そのことはこの像の胎内に記された銘記によって知られる。なお、この建長6年(1254)に湛慶すでに82歳の高齢であったのだから、この像造は彼の最後を飾る代表作でもあったわけである。たしかに、この像の様式や手法などは、鎌倉新様(かまくらしんよう)の最も典型的なものであり、しかもそれを極めて完成されたものとして仕上げているのを見ることができる。

重要文化財 千体千手観音立像(第40号)(左) 湛慶作    鎌倉時代  重要文化財 千体千手観音像(第50号)(右)康円作      鎌倉時代

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再興時には、その足枘(あしほぞ)に作者の銘記が有るものが504体(同一作者が重複することもある)確認されている。千体仏の造営には、慶・円・印派の在京造仏師集団三派が総動員されたことが分かる。なお、上野2体は千仏の一番前に並べられている。

重要文化財  太閤塀(たいこうへい)      桃山時代

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天正期に豊臣秀吉が東大寺を模して発願(ほつがん)した大仏殿方広寺は、定礎から7年を経て文禄4年(1595)9月に竣工した(現在の京都国立博物館の一帯)。この木骨土蔵の築地塀は高さ5.3m、桁行92mの堂々たる建築物で蓮華王院を方広寺に取り込み、その南限を区画する目的で設けられた。軒平瓦(のきひらかわら)には「太閤桐」の文様が用いられていることから太閤塀と呼ばれている。因みに、「洛中洛外図 舟木本」には、大仏殿の一部として三十三間堂が描かれ、その間にこの太閤塀が描き込まれている。

重要文化財  南大門(現在の東寺の)          桃山時代

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南大門は三間一戸切妻の八脚門で、虹梁の刻銘から慶長5年(1600)の建造と推測される。豊臣家ゆかりの桃山気風にあふれたものである。現在は、東寺南大門として再利用されている。

法住寺殿(ほうじゅうじどの)復元図

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保元3年(1158)8月に、二条天皇に譲位した後白河上皇が院庁(いんちょう)として造営したのが「法住寺殿」である。その敷地は四方十余町に及ぶ広大なもので、「常の御殿」と呼ぶ住居に宗教施設が付設された南殿(みなみどの)と政治施設の北殿(きたどの)からなり、阿弥陀峰山麓より鴨川の川原まで続いたという。蓮華王院は、常の御所西隣に建立されたので、院庁は「蓮華王院御所」とも呼ばれた。御所は寿永2年(1183)11月、木曽義仲の襲撃により焼失したが、三十三間堂は奇跡的に難を免れ、往古の盛を物語る稀有の物証として現存している。

 

千体千手観音像は、正に極楽浄土を表していると思う。千手と言われるが、実際は42本の手であり、1本の手が25の救いの働きを持つという。だから千手と言うのである。千手観音像の頭の上には沢山の仏の顔もある。一番上が頂上仏面と呼ばれ、悟りの境地を表している。全部で11面、頂上仏以外は慈悲面が三つ、悪行を叱る面が三つ、善行をたたえる面が三つ、後頭部にある一面は悪行を笑い飛ばし、善に向かわせる顔である。これは一般には”異形”(いぎょう)と呼ぶが、この千手観音像は不思議に全く感じない。むしろ見事な調和を見せる神々しい仏である。京都へ行ったら、必ず見学するお堂である。仏教には、末法思想がある。釈迦入滅後の仏教流布の期間を三区分し、その一が正法、続いて像法、その後末法の時代が来ると信じられていた。末法は1052年であり、この蓮華王院が平安時代に完成した頃は、末法時代の始まりであり、極楽浄土を求める思想が大流行したのである。

 

(本稿は図録「国宝三十三間堂」、菅原信海他「妙法院・三十三間堂」、現色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉仏」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」を参照した。)

国宝 迎賓館 赤坂離宮

迎賓館 赤坂離宮は、明治の終わりごろに、わが国の建築、美術工芸等各界の総力を結集して、東宮御所として建設されたものである。日本が日清戦争に勝ち、洋風の東宮御所(皇太子殿下の住まい)を新しく建築する気運が高まり、明治31年(1898)には、宮内庁に東宮御所御造営局が設けられた。東宮御所として赤坂離宮は明治42年(1909)に完成したが、時の皇太子(後の大正天皇)は、殆ど使用されず、大正の末期から昭和初めにかけて、摂政宮時代の皇太子(後の昭和天皇)が、大正12年(1923)8月から昭和3年(1928)9月まで、およそ5年間を過ごされた。また、現在の天皇も皇太子時代の紹和20年11月から翌年5月まで住まわれた。要するに、東宮御所としては、殆ど使われなかったと言ってよいであろう。戦後、皇室財産であった赤坂離宮の建物と敷地は国に移管されたが、決して充分活用された訳ではない。戦後十数年を経て、日本は国際社会に復帰し、外国からの国賓などの賓客を迎える機会が多くなってきたが、わが国にはそれに相応しい施設が無く、昭和38年(1963)国の迎賓館を作る方針が立てられた。検討の結果、昭和42年(1963)、赤坂離宮を改修し、迎賓館とすることが決定し、大改造が行われた。旧赤坂離宮は純洋風建築であり、加えて日本風の接遇のできる別巻が新設されることとなった。本館の大改造については村野藤吾、別館は谷口吉郎が設計を担当した。大改造は行ったものの、基本的には明治時代の建築を基礎としているため、フランスのヴェルサイユ宮殿、ルーブル宮殿、更にイギリスのバッキンガム宮殿なども参考にした。敷地面積約118万平方メートル(約3万6千坪)、本館面積5,153平方メートル(約1600坪)、延べ面積約15千平方メートル(約4700坪)の地上2階、地下1階の鉄骨補強煉瓦造りである。建設後、百年強を経過したこの赤坂離宮は、わが国の貴重な文化遺産として平成21年(2009)12月に国宝に指定された。

国宝  迎賓館 赤坂離宮の正門

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正門前から見た迎賓館赤坂離宮の正面である。まるで外国の宮殿を見る思いであり、やや日本離れしている。明治という「上向き」の時代を象徴する建物である。正門の上に作られた紋章は「五七の桐」と呼ばれる、迎賓館の紋章である。五七の桐の紋章は皇室の紋章であり、宮中で大使などを接遇する際の食器、勲章、賜杯、褒状に使用される。

国宝 赤坂離宮の正面外観と正面玄関

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赤坂離宮は花崗岩でがっしりと造られたネオ・バロック様式の2階建ての完全なシンメトリーの宮殿である。正面中央部と両翼部はオーダー柱で支えられたペディメント(切妻屋根の下の三角形の壁)で強調されている。屋根は緑青(ろくしょう)でおおわれいる。中央部屋根には、左右に青銅製の甲冑・弓矢などが飾られ、少し離れた左右の階段屋根には、それぞれ金の星を散りばめた天球儀と翼を広げた金色(こんじき)に輝く霊鳥(鳳凰の一種)が4羽飾られている。

国宝 赤坂離宮の横から見た図

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両横から湾曲した様式は、同じ頃に建設されたオーストリアのウィーンの新王宮にも見られる。両翼を手前に広げて、人々抱きかかえるような形をしている。

国宝  赤坂離宮 南面外観

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大噴水から見た赤坂離宮の外観であり、前面からすれば、裏側に当たる。

国宝  赤坂離宮  「朝日の間」(第1客室)

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迎賓館の正面玄関から正面の階段を上がった、大ホールをさらに進むと「朝日の間」がある。かっては、第1客室と呼ばれていた。朝日の間は、表敬訪問や首脳会談など国公賓のサロンとして使用されていた。また国賓が天皇皇后両陛下とお別れの挨拶をする際に使用される。迎賓館では最も格式の高い部屋である。内装はフランス18世紀末の古典主義様式で、広さは180平方メートルある。天井の中央に描かれた絵画にちなんで「朝日の間」と呼ばれる。この天井画は、朝日を背にうけた暁の女神オーロラ(ギリシャ神話ではエオス)が、左手に月桂樹の小枝を持ち、右手には手綱をもって4頭だての白馬の車に乗って天空を駆ける姿が描かれている。この絵はフランスの名画家の監督のもと、諸名流が描いたという記録があるが、諸名流とは誰を指すかは不明である。天井から大きな2基のシャンデリアが下がっており、これはフランスから輸入した豪華なもので、クリスタルガラスを主体に造られている。東西に白い大理石の暖炉があるが、その前に尾形光琳のカキツバタの模写と、酒井抱一の秋草花の絵の模写が張られている。明治時代に、琳派が日本の美を代表していたのであろうか。壁面には金華山織という美術織物が8枚貼られている。

国宝  赤坂李宮  「羽衣の間」(舞踏室)

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本館の西側に「羽衣の間」がある。かっては舞踏室と呼ばれていた。羽衣の間は、雨天の時の歓迎式典や首脳会談、在日外交団が国賓に謁見したり、晩餐会の際に、一般招客に食前酒や食後酒を供する場として使用される。広さは約300平方メートル、室内装飾はフランス18世紀末の古典主義様式で「鏡と金色と緋色」の華麗な大部屋である。羽衣の名は、フランス画家が描いた約200平方メートルの大きな天井画に由来している。謡曲の「羽衣」の一節「虚空に花ふり音楽聞え霊香(れいきょう)四方(よも)に勲(くん)ず」の景趣をモチーフにし、曲面画法という珍しい画法で描かれている。この部屋にはシャンデリアが3基吊り下がっている。これらのシャンデリアは赤坂離宮においては最も大きく、かつ豪華なものであり、創建当初、フランスから輸入したもので、重さは800キロである。躯体部分に装着してあるので、地震の心配は無いとの説明であった。

国宝  赤坂離宮  「彩鸞の間」(さいらんのま・第2客室)

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正面玄関の真上の部屋を彩鸞の間という。かっては第2客室と呼ばれていた。彩鸞の間は、条約や協定の調印を行ったり、晩餐会、レセプションの際に、一般招待客が国賓や公賓に謁見したり、国賓、公賓とのテレビインタビューなどに使用されている。東西の大きな鏡の上と、イタリア産のねずみ色の大理石で造られた刀剣などのレリーフがある暖炉の両脇に、それぞれ鳳凰の一種である鸞(らん)と呼ばれる霊鳥の翼を広げた姿に金箔をはった石膏レリーフがあることから彩鸞の間と名付けられている。広さは約140平方メートルである。天井は、楕円形のアーチ状になっており、戦場に天幕を張ったように見せかける意匠となっている。天井から3基のシャンデリアが吊り下がっており、中央のものがほかの2つより大きくなっている。壁には、10枚の大鏡が張られ、鏡が多いため、部屋が広く、奥深く感じられるようになっている2つの暖炉のの前には、衝立が置かれ、尾形光琳のキリシマツツジ絵の模写、酒井抱一の桜・山鳥の絵の模写が張られている。

国宝  赤坂離宮  「花鳥の間」(饗宴の間)

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赤坂離宮の建築では、羽衣の間と対称の位置にあるのが、この花鳥の間である。面積も同じく約300平方メートルで、ともにこの宮殿では最大の広さとなっている。部屋の内装の雰囲気は大きく異なり、羽衣の間が華やかさを漂わせるのに対し、花鳥の間は重厚な感じがする。花鳥の間はかって饗宴の間と呼ばれ、現在でも公式晩餐会が催されている。「花鳥の間」という名は、格天井(ごうてんじょう)の油絵や壁に貼られた七宝焼の画題が花と鳥となっていることに由来する。シャンデリアは、重さ1.125キロ、同じ大きさのものが3基下がっている。四季の花鳥をモチーフにした楕円形の七宝焼の額が30面飾られている。下絵は明治時代の有名な日本画家・渡辺省亭が描き、制作は、七宝の名工・涛川聡助(なみかわそうすけ)が当たった。

国宝 赤坂離宮   庭園

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迎賓館赤坂離宮の敷地面積のおよそ7割が庭園となっている。この写真は噴水の更に南へ行った所にある池畔を撮影したものである。菖蒲の花が美しい。庭園にある木は、約180種2万本である。

和風別巻  「遊心亭」(ゆうしんてい)

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別巻「遊心亭」は、和風の意匠と日本式の接遇で諸外国の賓客をお迎えする施設である。本館の東側に位置し、本館からは洋風庭園、日本庭園を経て、別館に入ることになる。別巻は、お茶・お花・和食など日本風のおもてなしによって、日本の「家」と「庭」が持つ美しい特長を、諸外国の賓客に紹介する目的を持っている。

花鳥の間 クリントン米国大統領来日時の歓迎晩餐会

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「花鳥の間」で1998年(平成10)11月に来日した米国クリントン大統領を小渕総理主催が、もてなす歓迎晩餐会である。

 

赤坂離宮は、かって明治時代に、皇太子の東宮御所として建設されたものであるが、実質的には、昭和天皇が摂政時代の5年間住まわれただけで、殆ど利用されてこなかった。戦後、日本が国際社会に復帰し、奇跡的な経済発展を迎えた後、大改装を行い、各国国王、大統領、賓客の接待に用いられ、特に先進国首脳会議(G7、1979,1986,1993)や日本・東南アジア特別首脳会議(2003、2013)などの重要な国際会議に使用されてきた。しかし、時代は代わり、G7も沖縄、北海道、伊勢志摩等で開催されるようになり、迎賓館赤坂離宮の利用価値は、相対的に低下したと思う。勿論、日本で唯一のネオ・バロッック様式の西洋風宮殿建築であり、その建物、工芸技術の粋としての価値は、極めて高い。即ち、外交機関としての価値は、むしろ低下して、歴史的建築物としての価値が高まっている。それならば、主権者である国民に更なる公開を行い、西洋建築の美しさを、国民に示す物件であろう。政府も今年4月から年間を通じて公開を始めた。一日の定員は4千人に増やしたが応募者が殺到しているそうである。特に、中高年の見学希望者が多いそうである。事前予約の当選倍率は個人が4倍、団体は5倍とのことである。現在の受け入れ枠は事前予約の個人・団体(ネットで可)各1500人、当日枠が1000人であるそうだ。私は、団体の事前申し込みで予約したが、外れ、当日、庭園だけでも見たいと思い、訪ねたところ、何の問題も無く入館できた。更に人員枠を2倍程度に増やし、主権者を尊重する態度が必要だろう。現在の枠は余裕があり、倍増は殆ど問題ない。料金は大人1000円、中高生500円である。私の意見としては、中学生は無料にするべきであろう。中学生こそ、一番見学して頂きたいターゲットであるからだ。また、現在ロッカーが無い。是非、ロッカーを備え付け、有料で利用できるようにすれば、ロッカー代金は1年以内に回収できるであろう。ご検討を願いしたい。

 

(本稿は、図録「国宝 迎賓館赤坂離宮」、パンフレット「迎賓館 赤坂離宮」、日経新聞2016年5月25日号を参照した)

 

 

 

原安三郎コレクション 広重ビビッド  北斎・国芳

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原安三郎コレクション展(広重ビビッド)には、広重のみではなく、葛飾北斎(宝暦10年~嘉永2年ー1797~1858)と歌川国芳(寛政10年~文久元年ー1797~1861)の名品も展示されている。広重については、「六十余州名所図会」と「名所江戸百景」の全図が出品されている。それに対し、北斎は「富嶽三十六景」、「千絵の海」の全図と、国芳の「東都」、「東都名所」、「近江の国の勇婦お兼」等が出品されている。いずれも名品で名高いものであるが、原コレクションの初摺、藍色の素晴らしさを愉しむため、下記6点を選び出して、解説する。

富嶽三十六景  神奈川沖浪裏  葛飾北斎作    天保2年(1831)頃

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題にある神奈川は、「東海道」の神奈川宿場であり、横浜ではない。ゴッホの弟テオはこの絵を見て「あの波は爪だ、船がその爪に捕まれている」とアルルの兄に書き送ったそうだ。それは1888年のことである。ドビュッシーの部屋には「大浪」(「浪裏」を英語で「ザ グレート ウエーブ」と呼ぶ)が懸けてあって、彼の交響曲「海」(1905)のスコアの表紙にはこの図が載せられたそうである。沖合の海を進む子船にせり上がった大波が襲いかかる。画面右からのうねりの大きな曲線は、波の底から急激にせり上がりながら、波頭へと向かい、砕け散る。その波の彼方に、泰然として動かない富士が立つ。小さな和紙に摺るだけの木版画でどうしてこれほど偉大な表現ができるのかと思うと、感動的である。一度見たら決して忘れることのできない強烈な印象を与える。この浪の描き方は、何とも異様である。日本人の描いた絵画の中で、世界中で最も有名な絵画だろう。

富嶽三十六景  凱風快晴  葛飾北斎作     天保2年(1831)頃

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この富士山はどこから描いたものであろうか。太宰治は「富嶽百景」の中で「御坂峠は、甲府から東海道に出る鎌倉街道の衝(しょう)に当たっている。北面富士の代表的観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか侮蔑さえした。あまりにも、おあつらいむきの富士である」と述べている。海抜1300mの御坂峠から描かれた図として見ると、太宰の好き、嫌いは別として、多分こんな景色になるのだろう。しかし、富士山の角度が違う。多分、富士の高さを2倍(7千m以上)にすると、この絵の角度になると思う。因みに、太宰治は「富士には月見草がよく似合う」と、この御坂峠で述べている。「凱風」とは南風、初夏のそよ風のことである。黒い山肌が闇の中から次第にその輪郭を明らかにし、紅く染まったその瞬間を描いたものである。早朝の美しい富士山の姿を、人間などの添え物もなく、見事に描き切っている。この絵は、「赤富士」と一般的に呼ばれている。北斎の描いた富士山のなかで、色といい、形といい、頂点を極めたものの一つである。(この絵が御坂峠から描かれたものかどうかは不明である。)

富嶽三十六景  山下白雨(さんかはくう)葛飾北斎作 天保2年(1831)頃

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「白雨」とは夕立のことである。まばゆい稲妻が一気に下界へと駆け抜ける。垂れ込めた黒い雲の下は、突然の夕立だが、雲の上は、一転して明るい世界が広がる。富士は下界の騒ぎをよそにそびえ立っている。白く輝く空と黒く重い雲、雷雲を挟んだ対照的な二つの世界の対比が強く印象づけられる。「黒富士」の異名を持つ本図と、「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」の比較も面白い。さて、この「山下白雨」が描かれた場所はどこだろうか。「美の巨人たち」では、「白糸の滝」の上であると推察している。しかも300mほど上空からの景色を描いたものとしている。それは左の山並みが、「白糸の滝」からは見えないからである。この絵もまた、富士山を2倍に高くしている、2倍にしないとこの角度にならない。この300m上空の想像に、私は思い当たる節がある。かねて浮世絵の視点は、私たちの視点より上から描いていると常に思っていたからである。私たちの目線より、やや上部から描いた浮世絵という推察を前から感じていたので、この300m上部という仮説には魅力を感じた。この「山下白雨」の富士山の頂上は、「凱風快晴」に比較すると凹凸が激しくなっている。富士のお鉢といわれる部分の様子を詳しく描くようになったのであろう。北斎の描く富士は、いずれも魅力的であるが、特にこの3点(大浪、赤富士、黒富士)が、優れていることに、異論はないと思う。

忠臣蔵十一段夜討之図   歌川国芳作     天保3年(1832)頃

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国芳は、辻惟雄「奇想の系譜」に取り上げられた幕末の浮世絵師であり、既に「俺たちの国芳、わたしの国貞」で取り上げたことがある。忠臣蔵の十一段目と言えば、通常は屋敷内での対決の場面を取り上げるが、国芳は大星由良之助らが高師直邸に押し入る場面を選んでいる。この直線的な建物は如何にも異様である。近年の研究で、ニューホフ著「東西海陸紀行」の銅版画に基づくことが明らかにされた。バタビヤの領主館を高師直邸に置き換え、画面右下で指図を出す大星の姿も原本から採ってきたものである。しかし、異様とは言え、この絵が忠臣蔵の討ち入り場面であること、日本人なら誰でも分かる。要するに、単なる模倣、丸写しではなく、国芳独自の工夫があるから独創性が認められるのである。先人は、苦労してヨーロッパ文化を取り入れたことが理解できる。

近江の国の勇婦お兼   歌川国芳作     天保3年(1832)頃

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「近江のお兼」は「古今著聞集」に登場する近江国海津(かいづ)宿の遊女お金(かね)のことである。怪力で知られ、暴走した馬の端綱(はづな)を下駄で踏み付けて鎮めたとされる。本図はこの有名な逸話に取材している。近年の研究では、馬はフランス語版「イソップ物語」の「馬とライオン」が典拠となっていることが判明した。ライオンを女性に置き換える発想には驚く。また、遠景の山並みは「東西海陸紀行」の情景を写している。最近の研究では、岡本太郎や横尾忠則が北斎や歌川国芳の影響を受けているとの報告がある。19世紀前半の江戸では、ヨーロッパの書物が容易に読む(見る)ことが出来る環境にあったようである。浮世絵と言えば、日本画の印象派に対する影響のみが論じられる、もっと東西文化の交流があったことも研究されるべきでは無いだろうか。

東都名所  佃嶋(つくだしま)歌川国芳作 天保3~4年(1832~33)頃

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隅田川に架かる永代橋から佃嶋を望む。橋脚を手前に大きく配した構図が斬新である。こういった構図の新しさが浮世絵の魅力であった。橋の間を通る舟は斜め後方という難しい角度から描かれているが、立体物としての描写としては狂いはない。水面に映る橋の影には藍色のぼかしが用いられ、その不規則な形状がゆらぐ水の動きを的確に表現している。橋の上から川瀬餓鬼(かわせがき)の紙片が舞い落ちる。川瀬餓鬼とは、川で亡くなった人を弔う供養で、川岸や船の上で行われた。

 

原コレクションの美しさに惹かれ、広重から「北斎、国芳」まで脱線したが、この色合いの美しさ、初摺の印刷の素晴らしさを理解してもらうために、あえて、一文を書いたものである。美術ファンには嬉しいニュースがある。墨田区で生涯のほとんどを過ごした葛飾北斎を柱に据え、浮世絵の魅力に取り組む「すみだ北斎美術館」が、今年の11月22日に開館する。約1500枚の浮世絵を蔵するという。場所は両国駅から徒歩5分ほどの場所で、建物はほぼ完成している。アルミの外壁が周囲の景色を写し街並みに溶け込む美術館であるそうだ。多分、開館の暁には、北斎に関するすべての本が、ここで入手できるようになるだろう。25年ほど前からこの企画は聞いており、墨田区に本社を構える会社から、「墨田区には、北斎の浮世絵も、版木も多数保管されている」とのことであった。開館が待ち遠しい。

 

(本稿は、図録「原安三郎コレクション 広重ビビッド」、図録「俺たちの国芳、わたしの国貞  2016年」、図録「大浮世絵展 2014年」、図録「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎  2014年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日本経済新聞2016年5月10日(地域版)、同5月14日(文化欄)を参照した)

出光美術館開館50周年記念 美の祝典 Ⅱ 水墨の壮美

出光美術館開館50周年記念の第2部として、「水墨の壮美」が展示された。(6月12日まで)ここで取り上げられるのは、「水墨画」と「文人画」である。水墨画の日本における受容の歴史を見て行く上で欠かすことのできないのが、「東山御宇物」と呼ばれる室町将軍家が蒐集した唐物(中国絵画)の存在である。なかでも牧谿(もっけい)と玉澗(ぎょくかん)による宋元画である。出光美術館には、牧谿、玉澗の代表作が保管されているが、今回は中国の絵画は除いて、日本人画家の絵画を観たい。出光コレクションの水墨画には、能阿弥、長谷川等伯、雪舟という二つの大きな流れが見える。江戸時代初期に、日本は鎖国を行い、キリシタンを弾圧し、貿易港を長崎だけに絞り、オランダのみと交易した。(実は中国、朝鮮との間の国交はあった)この「鎖国」は少なくとも、日本人自体には大きな影響を及ぼしたように見える。「海外渡航禁止令」によってもたらされた「日本」を意識する感情は、結果的に他国への憧れ、生半可な知識の導入を阻み、「ジャポニズム」(日本主義)を生み出した。中国の山水画が日本の山水画となり、その独自性を生み出した、この次に第二の「ジャポニズム」ともよぶべき「文人画」が生まれた。本展覧会では、「水墨画」に続いて「文人画」を取り上げている。出光美術館の特徴として、田能村竹田、玉堂、大雅の優品が揃っている。蕪村の佳作も数点保有されているが、決して多くはない、なお、この期間には国宝「伴大納言絵巻」の中巻を展示していたが、これはⅣとして最後にまとめてご紹介する。

破墨山水図(はぼくさんすいず) 雪舟等楊作  室町時代(15~16世紀)

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雪舟(応永2年~永正3年ー1420~1506)の家系や生地は不詳である。若い時期に相国寺に入って当楊と名付けられ禅僧修行を積み、やがて同寺を去った。寛正3年(1462)43歳以前に雪舟と号し、大内家をたよって周防国にゆき、応仁2年に幕府の遣明船に陪乗して入明し、天道山に参じて大一座の名を与えられ、翌年文明元年(1469)ごろには周防の山口に住し、その庵を雲谷と名付けた。代表作としては「山水長巻」「破墨山水図」「慧可断碑図」「天橋立図」等がある。この図は、淡墨を含ませた太筆で舟と樹木、そして家屋を配した水墨山水画である。即興性にあふれた筆致は現代美術のアブストラクトのようにも見える。このような水墨山水を、雪舟は生涯を通じて描き続けている。本作品に見られる、水気をたっぷり含んだ淡墨と濃墨の劇的なコントラストは、国宝「破墨山水図」の表現に近い。この制作時期は1500年前後に当たると、美術館では判断している。

四季花鳥図屏風 右隻(部分)  能阿弥作     応仁3年(1469)

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この作品は、室町幕府の同朋衆として足利義政に仕えた能阿弥(のうあみ)(1397~1471)の代表作であり、年紀を伴う水墨屏風としても最古に位置付けられる作例であり、極めて貴重な作品である。本屏風は、四曲一双という室町時代のものとしては珍しい形式をなし、両隻を横並びに立ててみると、左右両端と中央に主要な景物を配する、安定感のある構図が出来上がる。右積右端には松、左右隻にまたがる中央部には蓮、そして左隻左端には枯木と竹を配し、それぞれを背景として右から叭々鳥、白鷺、燕、雁、鴛鴦、鳩などの禽獣が描かれている。日本最古の水墨花鳥図であろう。本作品は「応仁3暮春初一日、七十有三歳」と記された落款があることから、応仁3年(1469)に描かれたものであることが判明する。能阿弥は同朋衆としての仕事のみではなく、私的な動機による絵画制作をも請け負っていたことがわかる。

松に鴉(からす)、柳に白鷲(しろさぎ)図屏風 六曲一双 長谷川等伯作 桃山時代(16世紀)右隻(部分)左隻(部分)

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右隻には巨大な松樹があり、その一枝に鴉(からす)が巣を作り、母鳥の下には三羽の雛鳥が見える。近くの枝には餌を運んできたのだろうか、父鳥が止まり、さらに雛鳥たtに餌を催促されているように映る。左隻では雪景色のなか、柳の古木に白鷲が佇み、さrに一羽の白鷺が飛来しようとしている。番(つがい)の白鷺の情愛の交歓の場のようである。本作品は鴉一家の愛情と番の白鷺の情愛の交歓という、動物の感性そのものが描かれていることに加え、右隻の中央部寄りの松樹がもたらす構図の不安定感は、国宝「松林図屏風」につながる新しさであることと、水墨画において黒い鳥の好画題としてさかんに描かれてきた叭々鳥に代わり、古来忌避されてきた鴉をその家族愛というテーマに変えて表現した点に等伯の水墨画制作における清新な意欲を感じる。このような表現における平明さがいかにも近世的であり、単に牧谿画の模倣に終始しなかった等伯の真面目(しんめんもく)である。

竹鶴図屏風 六曲一双(部分) 長谷川等伯作   桃山時代(16世紀)

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牧谿の「観音猿鶴図」の鑑賞体験によって描かれた作品であろう。現在は屏風仕立てであるが、紙継や引手跡によって襖であったことが知られる。左隻の竹林を背にして啼く鶴の姿は、牧谿画の鶴図そのままと言えるほどである。しかし、牧谿には無い解釈がなされている。それは右隻の簾籠り(すごもり)する雌鶴の存在である。等伯画では、雄鶴の雌への愛情を示す解釈が加えられている。番(つがい)間の情愛表現である。等伯は日本人に親近される光の持つ温もりとして共感を寄せ、それを象徴するように動物の温もりを描いている。本作品の竹木の墨の効いた表現は、国宝「松林図屏風」の松林の表現に通じる。「松林図屏風」が一連の牧谿画鑑賞の動物制作の系譜で誕生することを示す作品では無いだろうか。

重要文化財 十二カ月離合山水図屏風(部分)池大雅作 明和6年(1769)頃

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私は、文人画を第二の「ジャポニズム」とした。一般的に「ジャポニズム」と言えば、浮世絵を思い浮かべ、それが印象派作家に影響を与え、世界の絵画に影響を与えたと理解されている。しかし、日本の絵画が歴史の中では、文人画は「ジャポニズム」であると思う。池大雅(1723~76)の父は、京都に出て尾形光琳の後援者である中村内蔵助の下役をつとめた人物で、大雅4歳のとき死んでいる。家は代々農家であった、彼は幼い時から芸術に親しみ、書画を習った。14歳のとき柳沢淇園と出会い、元文2年(1737)数え年15歳のとき、宗達同様、扇屋として出発した。すでに菱屋嘉左衛門と名乗り「八種面賦」にならった絵を扇子に描いていた。つまりはじめから扇子に絵画を描く職業的画家どぇあったが、京都松尾神社の神官であった松室煕載(ひろこと)に親しみ、文人的素養も身につけていった。大雅に文人的特徴を感じさせるのは、「千里の道を行き、萬巻の書を読む」べきだとする中国文人画の教え通り、旅を多くしていることである。26歳のとき富士登山を試み、江戸に出、さらに日光、松島まで足を延ばしている。これ以後毎年のように旅に出ており、まさに千里の道を行ったといえよう。本作品は山水図十二枚の押絵貼屏風で各図はそれぞれ一月から十二月までの季節の移り変わりを表しつつ、まとめて大画面の山水としても鑑賞できるように描かれている。右隻は一月から六月へと季節が移り変わっていく様が、大らかな筆使いによって表現されている。特に第三図(本図)の点描を用いた樹葉の表現は、初夏の陽光のきらめきを感じさせる。それに対し、左隻は七月から十二月の景を描くもので、各図とも厳しい山を画面の中央に配し、冬へと向かう寒々しい季節感が強調されている。左隻は十月に当たり、岩山の輪郭線には直線が多様されており、鋭角的で厳しい印象である。

重要文化財 籠煙惹慈図(ろうえんじゃくじず)(部分)浦上玉堂作 江戸時代(19世紀)

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浦上玉堂(1745~1820)は岡山池田藩の支藩、鴨方池田家の藩士の四男として生まれたが、長姉を除くと兄弟は早世し、7歳で父が死んだ時に家督を継がねばならなかった。28歳のとき結婚し、30歳で江戸に出仕、玉田黙翁について朱子学を学び、その紹介で江戸の医佼跡寿館の学政、井上金蛾を知り、幕府の医官多岐藍渓に琴を習った。大阪の画家で文化人の木村兼葭堂(けんかどう)に出会い、その知己となった。43歳の時、彼は大目付から御小姓支配役という閑職につかされたが、文人的な傾向が顕著になり、仕事が疎かになったからだろう。49歳の後半から50歳(1793,94年)の折、脱藩し、文雅の道に入った。画面左下に玉堂自身がみとめた四字題「籠煙惹慈」は、明時代末期の陸紹珓(りくしょうこう)が著した「酔古堂剣掃」の中に認められる句をもとにしたものである。目を覆うほどの緑を茂らす山間に靄が低く立ち込め、潤いのある大気を惹き起こすという詩意を、この作品は余すところなく絵画化している。玉堂晩年の70歳前後の作と推定される。

重要文化財 雙峰挿雲図(そうほうそううんず)(部分)浦上玉堂作 江戸時代(18~19世紀)

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中国浙江省杭州にある西湖は景勝地として知られ、室町時代より西湖図、西湖十景図などが、漢画系の画師によって描かれた。「雙峰挿雲」は西湖十景のひとつで、これより画面前景から中景にかけて配される広々とした水景は西湖、そして後景に聳え立つ二峰は、西湖より望むことのできる北高峰、南高峰である。本作では縦長の画面構成に、北高峰と南高峰を隣り合うように描いている。画面全体に見られる自由闊達な筆法から、玉堂60歳後半の制作と推定される。

重要文化財 梅花書屋図(ばいかしょくず)(部分)田能村竹田作 天保3年(1832)

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田能村竹田は安永6年(1777)豊後の国竹田で藩医の子として生まれた。藩校の由学館で儒学者唐橋君山に詩作を習い中国の絵を紹介され、さらに淵野真斎などに絵を学んだ。文化2年(1805)、29歳のとき京都に遊学した。京都で浦上玉堂、岡田米山人などと知り合い、さらに34歳のとき頼山陽と知り合って文人画家たらんと決意した。文化8年(1811)、彼は自ら致仕の願いを出し、同10年(1813)37歳のとき公職を辞した。画面の中央には石積みの塀に囲まれた屋敷がある。書斎の中では高士がふたり、楽しげに語り合う。一方、手前にみえる騎馬に乗った旅人が頭巾を被っていることからすれば、まだ寒さの残る時候なのだろう。しかし、この厳しさがじきに去って行くことは、一面に咲く梅の花より見て取れる。近景から遠景にかけて一貫して認められるジグザグ丈の水辺や、連続的な樹木の配置によって深い奥行き感が出ている。

 

水墨画は中国・宋元を手本として学んだ技であったが、そこに日本独自の風情を重ね合せることで、新たな表現を獲得した。ここでは雪舟、能阿弥、長谷川等伯といった著名な巨匠たちの優品を愉しむことが出来た。中国の士太夫と呼ばれる高官の職を辞し、隠遁生活を楽しんだ知識人たちは、技巧的な宮廷画家とは一線を画す余技の絵画を手がけていた。江戸時代には、彼らの生き方に憧れを抱いた「文人」画家が特質は、画家の観念や思想を絵画で表すことにある。ここでは浦上玉堂、池大雅、田能村竹田などを紹介した。室町、桃山、江戸時代の300年程度の絵画の歴史である。高校の日本史の教科書に出てくる名画が多いが、どこまで記憶に残っているだろうか。次回は絢爛たる江戸絵画の美に接することになるだろう。

 

(本稿は、図録「開館50周年記念 美の祝典」、図録「若冲と蕪村 2015年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

原 安三郎コレクション 広重ビビッド  六十予州名所図絵、名所江戸図絵

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歌川広重(寛政9年~安政5年ー1797~1858)は、幕末を代表する浮世絵師である。歌川豊広門人となり、俗称重右衛門、更に徳兵衛と改めた。号は一幽斎・一立斎・立斎とした。絵は豊広の他、岡島林斎、南宋画、四条派などを習得した。初めは美人画、役者絵を描いたが、天保3年(1833)「東海道五十三次」(保永堂版)を描き、一躍名声を得て、風景画家として第一人者となった。その作風は純客観的視覚を以て自然を描き、しかもよく情趣のある日本的風景画を完成した。殊にその月、雨、雪を取材した図は世界的称賛を今も博しつつある。今回の展覧会は、日本財界の重鎮として活躍した日本化薬株式会社元会長・原安三郎氏(1884~1982)の蒐集した浮世絵コレクションのうち、歌川広重最晩年の代表作である「六十余州名所図会」および、「名所江戸百景」を中心に展覧するものである。本展で全点公開となる、この二つの揃物(そろいもの)は、貴重な「初摺」(はつすり)のなかでも特に早い時期のもので、国内にも数セットしか存在しないものである。初摺の行程では、広重と摺師が一体となって色彩や構図を検討しながら進めており、広重の意志が隅々まで込められている。保存状態も極めて優れており、退色のない刷りたての姿が鑑賞できる、極めて貴重な機会となった。「六十余州図絵」は嘉永6年(1853)7月から安政3年(1856)5月までの約4年間にわたり、作品を制作発表している。その内訳は、五畿内5、東海道16、東山道8、北陸道7、山陰道8、南海道6、西海道11の69枚となる。これに目録を付けて70枚揃である。この作品は、広重はほとんど江戸を離れることなく制作した。典拠資料を元に描いた作品が多い。画面構成には広重の心象風景の表現を加え、あたかも広重がその場所に行っているように描いたような臨場感がある。典拠としては「山水奇観」など多数である。「名所江戸百景」は120枚の揃物であり、内容は118枚を初代広重が描き、1枚を二代広重、梅素亭玄魚がデザインした目録1枚、改印(かいいん)から制作年は、安政3年(1856)2月から同5年(1858)10月までの約3年間である。この間、広重は安政5年(1858)9月6日に亡くなっているが、その翌月10月の改印の3点を制作し、大判118枚までを広重が制作したことになっている。(作品の落款も初代広重の筆跡で書かれている)。版元は下谷黒門町上野広小路に店舗を構えた地本問屋の魚屋栄吉(さかなやえいきち)といい、通称「魚栄」と言った。「名所江戸百景」は、全120枚の揃物となったのである。この時期、広重の作品制作は大きく変化した。まず構図が横絵から竪絵(たてえ)が多くなり、実際人の眼で見ているかのような遠近の捉え方、明るい色彩感覚、意匠効果、時間の推移などさまざまな演出を工夫し、新しい独自の画域に挑戦している。「六十余州名所図会」、「名所江戸百景」では、竪絵への新しい挑戦を試みている。成功例としては「亀戸梅屋敷」「大はしけあたちの夕立」「深川須崎十万坪」「亀戸天神境内」などがあげられよう。

六十四州名所図会 尾張 津嶋 天王祭り 歌川広重作 嘉永6年(1853)

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ここに描かれた津嶋 天王祭り は私が旧制津島中学、新制津島高校の6年間を送った土地であり、この上もない懐かしさを感じた。尾張津島天王祭は、牛頭天王の鎮魂のための祭りであり、500年以上の歴史を持つ。島崎藤村の大作「夜明け前」の「序の章」の書き出しに「伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、あるいは善光寺への参詣」と書かれている。かっては天王川が流れており、この辺りは津島湊と称された。伊勢湾に通じる尾張の湊町として、随一の繁栄を誇り、織田信長の資金源となったとの説もある。江戸時代になると土砂の堆積が進み、天明5年(1785)に川をせき止めて入江とした。天王祭りは、旧暦の6月14日、15日に行われ、14日の宵祭には、提灯を飾った巻藁舟(まきわらぶね)が川面を巡行した。巻藁船は、2隻の船を繋ぎ中央に建てた真柱に12張の提灯と、半円形の部分に365張の提灯を飾る。津島笛の音色とともに巻藁船が順行する様は、光と音とが織りなす壮麗な祭りである。現在、入江は天王公園の丸池として名残をとどめている。なお辻惟雄「奇想の図譜」の中では、「かざりの奇想」の章で、次のように述べている。「尾張津島の川祭を最近見る機会があった。まだこんなものがあったのかと驚き感激した。津島川祭の宵祭では、日月をあらわす数百の提灯を、光る巨大な帽子のように被った五艙の船が、闇の水上をゆるやかに動く、その情景はUFOの出現を想わせるほどに幻想的だった。翌朝、船はがらりと装いを変え、小袖や刺繍の幕、能人形で飾られた高さ16メートルもの屋台(山)を載せて現れる。」辻氏は、「津島祭礼図」(江戸時代中期、大英博物館)と「現在の津島祭の川祭」の写真を載せている。かくまでに有名な祭りとは、私は知らなかった。

六十余州名所図会  美作 山伏谷  歌川広重作  嘉永6年(1853)

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山伏谷とは、岡山県久米郡美咲町柵原栗子の「ボウズ谷」であろう。ボウズ谷の名は正式に残っていないが、その付近の吉井川に接する沢筋を進むと、「大峰行者」と刻された碑が残されている。典拠とされた「山水奇観」「美作山伏谷」には、奇岩の名称には「地蔵岩」とある。突風を伴う雨脚の強さを帯のように表現し、巨大な円の一部に画面をはめ込んでいる。画面上部には、藍色のぼかしと、左端のぼかしは、ただならぬ風雨であることを十分に感じさせる。揃物のなかの名品の一つに数えられる。突風をこのように表現した浮世絵は、私は見たことがない。記憶に残る逸品である。

六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 歌川広重作  安政2年(1855)

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鳴門は、満潮で有名な海峡である。昔は舟を借り切って遠巻きに見物をした旅人もいたそうである。私は、新神戸からバスで淡路島を通り抜け、鳴門大橋を渡る時に、この有名な渦潮を眺めた。海峡の幅が狭く、中瀬や裸島や岩礁が点在し、海底の地形も複雑で、播磨灘と紀伊水道の水位差により、満潮と干潮時には最大30メートルに及ぶ大小さまざまな渦巻が発生する。広重は、まるで船に乗り間近に渦巻を見物したように、岩に荒々しくぶつかり砕ける波と渦潮の逆巻く速い潮の流れを大胆に捉えた。渦潮の藍色の濃淡は何度も何度も丁寧に摺りを重ね、深く複雑な色合いである。六十余州名所図絵のなかの一番の出来であると思う。

名所江戸百景 大はしあたけの夕立 歌川広重作   安政4年(1857)

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大橋とは正確には両国橋の旧名を言い、この橋は新大橋ということになるが、江戸の人々は大橋と愛称していた。隅田川の四大橋の一つで、現在は江東区深川新大橋1丁目と中央区浜町2丁目を結んでいるが、江戸時代の橋はこれよりやや上流にあったとされる。初めて懸けられたのは、元禄6年(1693)で、長さは凡そ108間(約196m)であった。広重は、対岸と橋が交叉するような雨脚を用い、夏の夕立ちの橋は激しさをよく表現している。雨を得意とした広重の最高傑作とされる。本図は、印象派のゴッホが油絵で模写している事は有名である、なお”あたけ”とは地名である。

名所江戸百景 深川萬年橋  歌川広重作   安政4年(1857)

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萬年橋は、子名川が大川(隅田川)に注ぐところの近くに架かる橋である。現在の江東区常盤1丁目と清澄2丁目とを結ぶ。広重と名声を競った葛飾北斎(1760~1849)も、その代表作「富嶽三十六景」シリーズ中で、深川萬年橋を取り上げている。隅田川の中州を経て、遠くに富士山を望む。その富士をも凌ぐ亀は、ただの亀ではない。これは捕獲した鳥獣を山川に放ち殺生を戒める儀式で、旧暦8月15日に各地の神社仏閣で行われた放生会における「放し亀」である。広重は、この大胆な構図によって亀の命に重きを置いたのであろう。放生会に合せて萬年橋では、橋の名にかけて萬年も生きるという亀が売られたのである。

江戸名所百景 永代橋佃しま 歌川広重作      安政4年(1857)

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関東群伊奈氏が、上野寛永寺の建築資材で、元禄11年(1698)日本橋箱崎と永代との間に架橋したもので、永代橋と名付けた。広重描く図の停泊する船の前方の島が佃島である。「名所江戸図絵」によれば、寛永年間(1634~44)摂州佃島から召された漁師が、江戸入りの際功績があったとして、この地を拝領し、生国の名を取って佃島と名付けた。彼らは将軍家御用の白魚をとり、佃煮を工夫した。ここが佃煮の元祖である。図では、その白魚をとる漁火が海面を照らし、空の無数の星を表すために、独特の”彫り抜き”という版画技法が活用されている。半月が美しい。現在の橋は江戸時代より約100m下流に架かっている。

名所江戸百景 亀戸天神境内  歌川広重作   安政4年(1857)

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九州大宰府天満宮の宮司大鳥居信裕が、生保3年(1646)神木「飛梅」の木で道真像を造り、諸国を廻り、寛文元年(1661)8月亀戸之天神塚の地にあった祠に祀った。同3年(1663)現在地に大宰府天満宮の社殿を模して亀戸天満宮が創建された。境内には梅の木も多かったが、池畔の藤棚は見事で、藤の名所として今でも人気のスポットである。私も、藤の季節には、毎年亀戸天満宮にお参りしている。境内の料亭は老舗である。図は近景にその藤を配し、中央の太鼓橋の下から遠景を望む構図としている。しかし、この浮世絵は初摺のため、誤って橋の下が藍色一色に塗られ、遠景は望めない。滅多にない初摺りの面白さである。印象派の画家モネが、自宅の睡蓮の池に太鼓橋を架けたのは、多分この絵からヒントを得たのであろう。境内からは、東京スカイツリーが良く見える。

名所江戸百景  亀戸梅屋敷  歌川広重作   安政4年(1857)

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梅園は、現在の江東区3丁目の北十間川に架かっている境橋から福神橋の一面にあり、清香園といって、吉左衛門という者の所有であったが、八代将軍吉宗が鷹狩りの途中にここに立ち寄り”臥龍梅”(がりゅうばい)を褒めたので、一躍有名になったという。しかし明治43年(1910)の大洪水で、大部分の木が枯死し、大正10年(1921)には完全に滅びたという。今では「臥龍梅」と標示した石柱が建てられているに過ぎない。広重は、前景に大きな梅の一木を配し、遠景をその間から望む大胆な構図を行い、緑の大地、空に紫・紅の天ボカシの効果的な配色を試みて、この構図を一層印象深いものとしている。本図は、印象派の画家ゴッホがデッサンや油絵で模写した事でも有名である。ゴッホは慣れない手つきで、「大国屋錦水江戸町1丁目」「新吉原」等と両脇の額縁に漢字で記している。良く漢字が書けたものだと感心する。5月22日のNHK BS1の22時から始まった「ドキュメントWAVEパリ夜に広場で若者が激論」という番組で、パリの女子学生の部屋を写すシーンがあったが、その部屋には広重の「亀戸梅屋敷」の浮世絵のポスターが貼ってあった。印象派を引くまでも無く、現在のパリ市民からも広重の浮世絵は評価されているのであると感じた。

名所江戸百景 堀切の花菖蒲  歌川広重作  安政4年(1857)

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現在葛飾区堀切2丁目に「都立堀切菖蒲園」があり、無料で入園できる。私も何度か訪れたが、規模や花の種類の多さから、現在は専ら横須賀衣笠(きぬがさ)の菖蒲園に行くことにしている。堀切の菖蒲園は15世紀末、地頭窪寺胤次の家臣宮田将監が、奥州厚安積沼(あさかぬま)から持ち帰った野生の”花かつみ”が変化した品種を植えたのに始まり、その後、寛政3年(1791)堀切村の農民が特に花菖蒲を愛し、自園に180種の花菖蒲を咲かせて自慢したという。行楽の道程も江戸から適当な距離にあったので、人々の関心を集めた。天保8年(1837)尾張藩主の徳川斎温(なりはる)が「日本一の花菖蒲」と折り紙をつけたので、花菖蒲はますます有名となった。広重は、花菖蒲を近景に大きく描き、水を隔てる菖蒲畑を望む構図とし、この地の花菖蒲の見事さを描いている。

名所江戸百景  深川洲崎十萬坪   歌川広重作   安政4年(1857)

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この深川十万坪は、享保8年(1723)江戸の町人が3年掛かりで埋め立てた土地だという。現在の江東区千田・海辺・千石一帯に当たると言う。寛政8年(1796)に一橋家の領地となり、「御府内備考」にも「今は一ツ橋殿十萬坪の御料地と唱えり」と記されているそうだ。広重は、この広大な低地で、陸地か水面かはっきりしない荒涼とした情景を、あたかもヘリコプターからでも見た様な雪景に描き、大きな鷲を配して、その印象をより強いものとしている。広重の代表作とされるばかりでなく、このシリーズの傑作の一つに数えられる。

 

原安三郎コレクションの大きな柱となる浮世絵は、昭和のはじめに横浜にいた米国の宣教師から譲りうけたものが母体となったと言われる。平成17年(2005)に初公開されるまで秘蔵されており、一人の蒐集家の所蔵品としては、質の高さと量の多さにおいて最大級の発見と言われた。特に北斎と広重の名所絵の揃物の多くが、全揃として蒐集されていることは驚きである。浮世絵の、優れた揃物は、ほぼ外国へ渡ったと思い込んでいたが、この作品群を見て、非常に驚き、喜んでいる。また、質に関してもこの展覧会で初公開となる「六十余州名所図会」「名所江戸百景」は、初摺にして、しかも保存状態が極めて優れている。なお、私は「六十余州名所図会」は初めて観る物で、あまりにも良質で全部揃っていることに、ただ驚き、感激した。これだけの名品が一堂に会することは、今後も無いだろう。一方、「名所江戸百景」は、旧東海銀行蔵とか、大浮世絵展等で、何回も見たが、初摺で、かつ保管状態が良く、特に藍色が濃厚な「名所江戸百景」は、初めてである。浮世絵は保管状態によって観る者の感激が大きく変わるが、この展覧会に展示された全ての作品の質、保管状態に関しては最高のもである。日本国内にこれだけの名品が揃って残っていることに、心から感激した。

 

 

(本稿は図録「原安三郎コレクション 広重ビビッド」、図録「大浮世絵展2014年」田中英道「日本美術全史」、野間青六他「日本美術辞典」、辻惟雄「奇想の図譜」を参照した)