ボストン美術館 俺たちの国芳 わたしの國貞

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ボストン美術館は5万2千枚という膨大な浮世絵コレクションを有している。それはウィリアム・スタージス・ピゲローが、1911年(明治44年)にボストン美術館へ寄贈した日本美術コレクションがスタートであった。ピゲローが日本へ来たのは、明治15年(1882)のことである。ピゲローはコレクションの大部分を1880年代に集めた。これはボストン美術館にとって大変な幸運であった。19世紀の最も優れた日本の版画は、北斎や広重と考えられており、国芳、国貞は「退廃的」として退けられていた。ピゲローのコレクションの内、群を抜いていたのは、歌川国芳(3千枚以上)、歌川国貞(9,000枚以上)であった。現在では国芳、国貞の作品は、世界中で愛されているマンガやアニメの原型と目され、評価は極めて高い。歌川国芳(寛政9年~文久元年ー1797~1861)は、江戸で染物業を営む柳屋吉左衛門の子として生まれた。15歳で初代歌川豊国の門人となった。文政年間の「水滸伝」シリーズで好評を得て、人気絵師となる。力強い「武者絵」をはじめ、洋風画の陰影法を取り入れた「名所風景図」、さまざまな着想による「戯画」などで有名である。19世紀の浮世絵界を代表する一人である。歌川國貞(天明6~元冶元年ー1786~1864)は、江戸の本所五つ目の渡し場を経営する亀田屋の角田肖兵衛の子として生まれる。初代歌川豊国に入門したのは15,6歳頃と考えられている。早くから画才を発揮して、役者大首絵などで好評を博した。文政12年(1829)から売り出された柳亭種彦作の合巻「偽紫田舎源氏」の挿絵が評判となり、この挿絵の主人公の姿を独立させて錦絵として売り出したところ、これも人気を呼んで、「源氏絵」という浮世絵の新しいジァンルを生み出すこととなった。2代豊国を称した後は画風が類型化したとも言われるが、歳晩年の役者大首絵シリーズは、役者の姿を余すところなく描くことに長けていた國貞の、集大成とも言える作品である。なお、国貞は2代目豊国と称したが、すでに初代に養子に入った豊重が2代目を襲名したため、今日では3代豊国として区別している。文化期(1804~18)の浮世絵は、それまでの歌麿(文化3年、1806年没)の美人画や勝川派の役者絵の代表される寛政期(1789~1800)から世代交代して、歌川豊国の主導するところとなり、豊国は役者絵・美人画の双方で人気を博し、門人も多く、一門を率いて幕末に至る歌川派の一大潮流を築いた。国芳より11歳年長の兄弟子、国貞は国芳の入門以前の文化4年(1807)には、既に非凡な画才によって一門の中でも師に続く位置を占めていた。後に国貞、国芳と共に活躍することになる広重は国芳と同年の寛政9年(1789)の生まれである。(bunnkamuraで6月5日まで)

「通俗水滸伝豪傑百八人之一人浪裡白跳張順」 歌川国芳作 文政10~天保元年(1827~30)

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国芳は豊国門下となったが、文政10年(1827)までいい仕事に恵まれず、甚だ困窮した時代を過ごした。その頃の国芳を評する言葉が残っている。「其性放蕩不羈にて親族にも見限られし程に有しとぞ」と「広瀬六左衛門雑記」に残っている。美人画、役者絵は兄弟子の国貞の牙城であったからである。20代のころ、商人で狂歌師でもある梅屋鶴寿(かくじゅ)という最大の後援者を得たのち、江戸に水滸伝ブームが訪れ、国芳の転機となった。中国の奇譚「水滸伝」は、「通俗忠義水滸伝」、「新編水滸伝」、「傾城水滸伝」、「通俗水滸伝」などさまざまなシリーズが出版された。「水滸伝」が錦絵として取り上げたのは、初めてである。豪傑の勇猛な姿を描くこのシリーズは、国芳の浮世絵師としての地位とともに、浮世絵の「武者絵」というジジャンルを確立した作品である。水練の達人である頂順(ちょうじゅん)が単身敵城に忍び込み、湧金門(ゆうきんもん)の水門を破ったものの、敵兵に集中攻撃を浴び壮絶な最後を遂げる場面を描いたものである。

「国芳もよう正札附現金男野晒梧助」 歌川国芳作    弘化2年(1845)

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山東京田の「本朝酔菩提全伝」巻四・五に登場する野晒梧助(のざらしごすけ)を描く。梧助が身にまとう髑髏模様(どくろもよう)の衣装は、「人の災いを省くこと髑髏目中の草を抜くがごとく」というモットーを意匠化したものである。初代豊国による「本朝酔菩提全伝」挿図によって定着した。国芳はこれを継承しつつ、それぞれの髑髏にネコたちが寄せ合って形作られるという、彼ならではのユーモアを盛り込んだ。張り詰めた漢気に、健気なまでの愛嬌を融合させた、伊達男の像の傑作である。

「当世好男子伝」松 歌川国貞作     安政5年(1858)      「九紋龍支進に比す のざらし梧助」三代目市川市蔵、「花和尚魯智真に比す朝比奈藤兵衛」初代中村福助、「行者松に比す 腕の喜三郎」初代河原崎厳十郎、大判錦絵3枚続

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「当世好男子伝」は、安政5年(1858)7月から翌年8月にかけて3回売り出された。松、竹、梅を背景にあしらう三枚ずつの揃物で、全9枚からなる。日本の侠客に扮した歌舞伎役者の肖像を、中国の通俗小説で、江戸後期の日本でも人気が高かった「水滸伝」の登場人物に見立てて描いたものである。

「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」歌川国芳作  弘化元年(1844)「相馬の古内裏に将門の姫君瀧夜妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を試さんと茲に来り竟に是を亡ぼす」 大判錦絵3枚続

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江戸時代の読み物で、平将門没後の後日譚「善知鳥安方忠義伝」(うとうやすかたちゅうぎでん)の一場面をダイナミックに描いたものである。下相馬(現茨城県辺)にかって将門が築き、朽ち果てた古内裏で、平安時代の武将源頼信の家臣大宅太郎光国(画面中央)が、妖術を操る将門の姫君瀧夜叉と対決する緊迫した場面である。光国が姫を守ろうとする荒井をねじ伏せたとき、御簾(みす)を打ち破り巨大な骸骨が襲い掛かる。国芳は迫力あるバケモノに変更することで、見るものの度胆を抜いた。骸骨を詳しく描き込む国芳は、西洋から伝わった解剖書の挿絵を参考にしたと考えられる。いかにも幕末に相応しい錦絵である。

「讃岐院(さぬきいん)眷属をして為朝(ためとも)をすくふ図」 歌川国芳作 大判錦絵3枚続  嘉永4,5年(1851,52)

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平安末期、皇位継承に関わる内戦の保元の乱(1156)で、崇徳上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎為朝が活躍する伝記小説「鎮西弓張月」(ちんぜいゆみはりづき)の一場面である。父の仇、平清盛を討つため出帆した為朝の舟は、暴風雨のために難破した。妻の白縫姫(画面右下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自分の悲運を嘆き、切腹しようとする為朝(画面左)を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした鴉天狗が捺しとどめる。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎とその妻(中央部)が乗り移った巨大な鰐鮫(わにざめ)が海中より現れ、嫡子の昇天丸(すてんまる)を抱える喜平治を背に乗せ救い出す。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大な架空戦記の世界に一瞬で虜になっただろう。国芳の創意は、この3枚続きの図面法に革命をもたらした。従来の3枚続きは、それぞれの1枚が独立していたが、国芳は、3枚続きの画面全体を、完全に一個のワイドスクリーンとして意識し、思い切った独創的構図をそこに展開したのである。この錦絵の金属片を敷き詰めたような鱗(うろこ)や鋸状の歯も生々しいワニザメの異様な実在感は、国芳の想像力が、オランダ輸入の生物図鑑の類にでも載せられていた精巧な魚類の銅版画に触発された、おそらくその産物だろう。勿論、鰐鮫は架空の動物である。また、白く見える鴉天狗は、讃岐院の使者であり、神の代理であるから眼に見えないように薄い灰色で塗ってある。異時間を1枚にまとめる同図である。

「木曽街道六十九次之内下諏訪 八重垣姫」 歌川国芳作 大判錦絵 嘉永5年(1852)

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木曽街道六十九次は、木曽街道の宿駅名を語呂合わせなどで歌舞伎や浄瑠璃の物語と関連付け、その一場面を描くシリーズである。全71枚、目録1枚の揃物である。本図は、「本朝廿四孝」(ほんちょうにじゅうしこう)の奥庭狐火の場面である。この物語は竹田信玄と上杉謙信の争いを軸に、両家の子弟同士の恋愛模様を織り交ぜ描かれる。近松門左衛門の浄瑠璃「信州川中島合戦」をもとに脚色された作品である。コマ絵は竹田菱。湖を駆ける姫の躍動感が複数の狐のシルエットによって巧みに表現されている。

「大当狂言ノ内 八百屋お七」 五代目岩井半四郎  大判錦絵 歌川国貞作 文化11,12年(1814~15)

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かって役者絵は鳥居派・歌川派の浮世絵師によって描かれてきたが、初代豊国の登場により歌川派が台頭し、文化年間(1804~18)後半から幕末まで、その門弟・国貞が主流を占めることになった。本図では八百屋お七に扮するのは、文化~天保期を代表する女形の五代目岩井半四郎である。そのチャームポイントは「目千両」と呼ばれたまなざしで、本図もその鮮烈な印象を与えている。

「欠伸人物更紗(あくびどめじんぶつさらさ)十四人のからだにて三十五人にミゆる」歌川国芳作 大判錦絵 天保13年(1842)

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奇々怪々、複雑に絡み合った男たち。股引や褌姿の者がほとんどで、中には腹掛け姿の大工も見える。男たちは立烏帽子を被った武士や公家、盲目の座頭など身分もさまざまで、若者から年配までえ年齢も幅広い。タイトルに更紗とあるように、人物たちが織り成す複雑な形が背景の水色に映えて更紗の模様のように見える。更に面白いのは、副題に「十四のからだにて三十五人にミゆる」とあるように、単純に数えられる頭数より体の数が多く描かれているところである。

「当世三十弐相(とうせいさんじゅうにそう)よくうれ相」 歌川国貞作 大判錦絵 文政4,5年(1821,22)

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想い人からの文を読む女性像である。「よくうれ相」とあるので売れっ子の芸者なのだろうか。男が宛てた手紙に良からぬことが認めてあったとみえ、口から覗く白い歯でクシャッと潰した一枚を強く咬んでいる。嫉妬なのか、怒気なのか、文を持つ手に力がこもるが指先が艶めかしい。一際目を引くのは異国情緒あふれる更紗の帯である。恋に生き、いかにもエキゾチックなお洒落に身を包んだこの芸者は、客の目にもさぞかし魅力的に映ったことだろう。なお、今様江戸女子姿は「当世三十二相」は全部揃って展示されていた。

「山城 宇治川蛍狩之図」(やましろうじかわほたるとりのず)国貞、広重作 大判錦絵 文久元年(1861)

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柳亭種彦の合巻「偽紫田舎源氏」の流行に触発され数多く刊行された錦絵「源氏絵」のひとつである。国貞が人物を、広重が風景を描く。宇治川の蛍狩を主題とする本図は、合巻の筋とは関係ないが、合巻の本歌である「源氏物語」の最後、橋姫から夢の浮橋までの「宇治十帖」は宇治が主要な舞台であり、このイメージが本図の成立に影響したものであろう。

 

江戸の男たちが熱狂した歴史伝奇小説に登場する英雄屋異形のものたちは、現実世界のものではない。しかし、男たちは、国芳の生み出す荒唐無稽な世界に没入することで、巨大な生物が画面の中で動き回る実感を得て、ヒーローの生き方に強く共感した。また、力強いポーズや彫物は、男たちの心中に抱くべき男気の象徴として、自然に心中に浸透していった。そして国芳の絵をみた男たちは、同好の士が集まって「俺たち」の国芳を熱く語りあったのである。国貞の絵を見る女性は、そこに、それぞれが求める最新のファッションを見出して、自らの生活を彩る新たな道具を買い求める心情を持たざるを得ないだろう。まさに映画やドラマのなかで、華やかに活躍する登場人物の服装や髪形やメイクの仕方、そしてインテリアなどの家具をみて、自らの暮らしに彩りを加えたいと願った。「わたし」の国貞の浮世絵を手にとる女性は、憧れの俳優に思いを馳せ、次に出掛けるときの着物や化粧法に心躍らせることになったのであろう。国芳を乱調の美とするならば、国貞は、いわば洗練された「型」の美と言えよう。清長、歌麿、写楽らの活躍した天明・寛政年間(1781~1802)を、浮世絵の「黄金時代」と呼び、以後のいわゆる末期浮世絵を北斎、広重の風景画を除いては、衰退、退廃として低く評価する、今までの浮世絵史観は、そろそろ見方を改める時期である。今回の展示会は、その意味で意義のあるものであった。幕末は、激動の時代であった。安政期には日本各地で大地震が頻発し、安政2年(1855)には江戸を巨大地震が襲い甚大な被害が出た。そして嘉永6年(1853)ペリー率いるアメリカ海軍の黒船が来航した。人々の不安が高まった陰鬱な時代であった。こんな時代には国芳、国貞の浮世絵がもてはやされたのである。困難な社会状況の中でも、絵師や版元は、人々が求める浮世絵を描き、人々は一抹の享楽をその絵に求めたのである。

 

(本稿は、図録「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳、わたしの国貞」、図録「大浮世絵展  2014年」、岩切友里子「国芳」、辻惟雄「奇想の系譜」を参照した)

生誕300年記念  若冲  「丹青活手妙通神」

若冲に大きな影響を与えたのは、相国寺の梅荘顕常(ばいそうけんじょう)大典禅師である。大典は、安永3年(1772)、滋雲院に戻り、同8年(1779)相国寺第113世の住持に昇った。幕府より朝鮮修文職に任ぜられ対馬以酊庵(いていあん)に赴任している。この地で李氏朝鮮との間でやりとりされる外交文書の解読・作成や使節への対応を司った。大典は、当時の最高の知識人であったのである。もう一人の人物は、月海元昭(げっかいげんしょう)である。異色の禅僧であり、精神の高貴さを求めて黄檗宗(おおばくしゅう)であることを止めてしまい、敢えて人の卑しむ茶売りとなった。売茶翁は、若冲が相国寺に献納した「動稙綵絵」12巻を、宝暦10年(1760)に一見して、同年11月冬至の日に、「丹青活手妙通神」(たんせいかっしゅのみょうかみにつうず)(丹青活手の妙、神に通ず)の一行書を、若冲に与えた。時に元昭86歳、尊敬茶禅両道の陰士から得たこの言葉に感激した若冲は、七文字をそのまま朱文長方形の印章に彫って、自らの励みにした。この印は遊印として画面に押した。(署名とは離れた場所に押してある。)

売茶翁像(ばいさおうぞう) 伊藤若冲作  宝暦7年(1757) 個人蔵

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天秤棒で煎茶道具を担って右側を見返る姿で描かれているのは黄檗僧(おおばくそう)、月海元昭(げっかいげんしょう)こと売茶翁高遊外(こうゆうがい)である。売茶翁は肥前蓮池に生まれ、幼時に出家して龍津寺の化霖(けりん)の弟子となり、万福寺での修行を経て龍津寺に戻ったが、化霖の遷化を契機に法弟に寺を託して京都に上った。折々に茶具を担って相国寺の円通閣や東福寺の天通閣などの名勝で茶を売った。まさに高く外に遊んだ売茶翁の生き様は、当時の京都の文化人たちに敬愛され、大典や若冲も深い親交を持った。若冲は、数多くの売茶翁の肖像画を描いている。

一行書 丹青活手妙通神  売茶翁作    宝暦10年(1760)

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(たんせいかっしゅのみようかみにつううず)と読む。売茶翁が若冲に与えた書である。小林氏は相国寺蔵としているが、福士雄也氏は「宮内庁三の丸尚蔵館」としている。いずれが正しいかは、図録では判読できない。若冲は尊敬する売茶翁から得たこの賛辞に感激して、七字句をそのまま朱文長方形の印章に彫って、自分の励みにした。研究者によれば、現在確認できる若冲の作品で、この印を押印しているのは4作品のみであるそうだ。多分、若冲としては一番気に入った作品にのみ捺印したのであろうと推察する。「動稙綵絵」3面、その他1面である。では、その印の押印してある作品を見てみよう。

蓮池遊漁図 「動稙綵絵」の一部 伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)

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この光景は水中で眺めているのか、水上から見下ろしているのか、いつの間にか視覚が移動している。中国の蓮池図に基づくのだろうが、複数の視点を混在させた明(みん)の藻魚図(そうぎょず)にも有りえない空間である。池中を泳ぐのは、アユとヤマベだが、蓮の咲く池のような魚が住むとは思えない。動稙物の生態の正確な再現については、若冲は驚くべき無関心である。この図には若冲の造形を特色づける「無重力性」と「正面凝視」とが最も典型的にあらわれている。兎に角、奇妙な絵であり、記憶に残る。

牡丹小禽図 「動稙綵絵」の一部 伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)

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若冲の執拗な描写意欲が、この目のくらむような複雑混沌の空間に仕立て上げられている。細密描写の極で、殆ど空間が無い。確かに右側中央側面に印「丹青活手・・・」がある。小禽二羽が美しい。(この図は「動稙綵絵」の項で説明済)

池辺群虫図 「動稙綵絵」の一部 伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)

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夏のたそがれどきの庭の一隅に、若冲の知る限りの虫が集められた。50種類を超すそれらの一つ一つは、かたちや色彩の特徴が、こまやかな観察によって忠実に描かれている。眼は漆の盛上げという丹念さである。彩絵の中でも、若冲のいう「真物」に即しての写生をもっとも徹底させた作と言えよう。応挙の「昆虫写生帳」、曙山の「写生帳」にわずかに先行して、このような昆虫図譜的性格を持つ作品が試されたことの意義は大きい。

百犬図(ひゃくけんず) 伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)個人蔵

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59匹の仔犬を描いた、まさに犬尽くしの作品である。注意を要するのは、この「百犬図」は、「動稙綵絵」の掛軸と、縦横共に同じ寸法であり、使用された絹地も全く同じものである。私は、この「百犬図」は、「動稙綵絵」の一環として構想された可能性があると思う。この絵に、若冲が「丹青活手・・・」の印章を押印しているのは、余程自信のあった作と考えられる。近年の研究は、この絵の込められた意味について二つの要素を見出している。一つは吉祥性で、多くの犬が描かれるという意味での「百狗小図」(ひゃっくしず)か「百小図」(ひやくしず)と音読することから、これが犬の持つ安産、多産のイメージと結びつき、子孫繁栄を寓意するとの解釈である。今一つは禅宗との関連で、犬のくわえる葉・箒(ほうき)を暗示するモチーフであると解釈して、仔犬と箒によってそれぞれ趙州(じょうしゅう)禅師と寒山を示しているとする見解である。私は、後者に魅力を感ずる。

 

丹青とは絵画の意味である。従って丹青活手とは、絵を描く素晴らしい手という意味であり、その手の描く絵の妙が、神に通ずると解釈できる。恐らく、若冲は、常日頃尊敬している売茶翁から、このような賛辞をもらい、大変嬉しかったと思う。だから、この書の印を作り、自分の気にいった絵に捺印したのであろう。「遊印」という形で、署名とは異なる場所に捺印した。その作品が4点とは気付かなかった。なお、遊印とは「筆者の好む数字以内の字句を印章にしたもので、鎌倉時代に題賛の肩などに押され、それが絵画にも応用されて画面の余白部に”落款印章”とは別に押される」(日本美術辞典より)。特に「百犬図」は晩年の作であるから、余程気に入ったのであろう。

なお、今回販売された図録について一言意見を述べておきたい。「生誕300年記念 若冲」は、極めて多彩な記事(辻惟雄、小林忠、有馬管長、太田彩一三の丸尚蔵館主任研究員、ジョー・プライス、安村敏信、山下祐二、狩野博之、渋谷雄一、ユキオ・リピッド、猪子寿之、福士雄也、岡田秀之、村田隆志)各氏の渾身の解説が書かれ、恐らく「若冲研究書」としても超一流の研究書であると思う。手元に置いて、今後の若冲の参考書として扱いたい。解説を担当された諸先生に厚くお礼申し上げたい。ただ1ケ所、保管場所として、「三の丸尚蔵館」と「相国寺」に別れた記述があったので、総合監修を辻先生か小林先生に務めて頂きたかったと思っている。日経新聞の5月14日号(土)の春秋欄では、「もはや若冲は、北斎と並んで日本を代表する画家の一人になった」と述べている。正に”活手の妙は、神に通ず”である。」(本稿は、フジテレビの5月7日に放映された「美の巨人たち」で「百犬図」が取り上げられたので、後から追加で書き足した原稿である。若冲展については、これで終わりとする。)

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝Ⅰ2009年)、辻惟雄「若冲」、野間清六他「日本美術辞典」を参照した)

生誕300年記念 若冲 プライス・コレクション

米国のジョー・プライス氏は、日本美術とは縁もゆかりもないオクラホマ出身の一人のエンジニアであったが、ニューヨーク・マジソンの古美術店で一点の掛軸に出会った。それは景和と署名された墨絵の「葡萄図」で、1953年(昭和28年)のことであった。プライス氏は墨だけで表現された「葡萄図」の自然の美しさに惹かれたのである。ジョー・プライス氏は図録で「23歳の私がニユーヨークで若冲作品と初めて出合った60数年前の感動は、今でも昨日のことのようにはっきり覚えています」と述べている。その後、若冲を中心として江戸絵画の優品を収集、保護し、プライス・コレクションと呼ばれる一大コレクションを作りあげた。このコレクションは2006年(平成18年)の里帰り展や、2013年(平成25年)の東日本大震災復興支援のコレクション展の開催を通して、日本美術の新たなファン層を拡大した。私は、東日本大震災復興支援コレクション展の開催を新聞やテレビで観て、是非拝観したいと強く思ったが、このコレクション展のみを観るために仙台へ行くことも憚られ、遂に拝観できなかったのが、大変残念であった。今回の若冲展で思いがけずプライス・コレクションを拝観する機会に恵まれ、大変感謝すると共に、若冲について大きな問題点にも気づいた。

葡萄図  伊藤若冲作  江戸時代(18世紀) プライス・コレクション

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この葡萄図を見て、若冲のファンとなったプライス氏(当時28歳)の鑑賞眼の確かさに驚いた。この葡萄図は葡萄のフォルムに自由な動きが出て来ており、節くれ立った蔓を交叉反転させた力強い表現など、その印象が強い。若冲の水墨画が、習作的要素を無くし、より奔放な主観的表現へと向かう秀作である。(景和は、若冲作品にの内、40歳代を中心に「藤氏景和」という印章を使用した作品が12作品ある。内「動稙綵絵」には6作品がある。)

雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)伊藤若冲作江戸時代(18世紀)プライス・コレクション

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厳冬の池畔に凍着する雪と、無心に遊泳する一つがいの鴛鴦を題材とするこの図は、透徹した間隔がすみずみまで行き渡り、若冲の幻想詩の結晶と呼ぶにふさわしい。自己の絵画世界をすでに確立し終えた若冲にとって、動稙綵絵の構想はごく自然に浮かんできたのであろう。

紫陽花(あじさい)双鶏図 伊藤若冲作江戸時代(18世紀)プライス・コレクション

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「動稙綵絵」に先行する他の作品に較べて、色彩が濃厚に感じられるのは、その入念な絵具の使い方によるのであろう。複雑な顔料と染料の併用の仕方が本図では見られる。紫陽花の花の描写は、同じ形の花びらが並んで平面的にも見えるが、花びらの青色は二種類の群青が用いられ、一つの花の中で、大小の花びらが入り交じり、外側を向いて描かれるものもある。「若冲の鶏」と言われる得意の図柄である。

虎図  伊藤若冲作  宝暦5年(1755) プライス・コレクション

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前脚をかがめる姿がユーモラスで、猛獣のイメージではない。家業を弟に譲って、絵師の道に専念することを決意した宝暦五年の首夏(陰暦四月)に描かれたことが落款により明確な、若冲の作品の中で重要な一点である。本図が京都。正伝寺(お庭が美しいことで有名)に伝わる「猛虎図」を手本として描いたことが知られる。なお、この正伝寺の作品は当時、北宋画家・李龍眠と伝えられていたが、近年の研究では朝鮮李朝時代の作品ではないかと考えられている。

鳥獣花木図(ちょうじゅうかぼくず)六曲二双屏風伊藤若冲作江戸時代(18世紀)

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若冲は「動稙綵絵」を完成させたのちに、通称「モザイク屏風」と呼ばれる、特殊なデザインを施した作品群を残している。プライス・コレクションには有名な「鳥獣花木図屏風」二双を含んでいる。この屏風の桝目は、一双通じて8万6千個有る。各枡の一辺は1.1cmある。細かな桝目の一つ一つには、2度または3度、時には4度の重ね塗り、重ね描きがしてある。一つ一つ創意を込めた、無限の変化を持つこの桝目描きは、驚くべきものであり、それがこの屏風のマチェールを、日本の顔料の陥りやすい平板な塗りから救い、より重厚で変化に富んだものにしていることも指摘しておきたい。辻氏は次のように指摘している。(概略)「プライス・コレクション本は、数多くの動物(74種類)が描かれている。色彩モザイク屏風は色彩なしでは語れない。色彩の基調となるものは、赤、青、緑、白の4色であり、これに赤、黒、黄およびすべての中間色が加わって、豊かな階調を織りなしている。右隻の白象の背に敷かれた織物は、その上に坐す普賢菩薩を暗示している。それは、この図と仏教との深いつながりを思わせるものである。この屏風の制作年代については、この屏風に描かれた三種の動物ーロバ、チンパンジー、ヤマアラシは、若冲77歳にあたる寛政4年(1792)に長崎から舶載され、その都度絵師がスケッチしたものによっている。従ってこの屏風は、若冲最晩年に制作されたことを物語る。」この作品とほぼ同じ図柄の「樹花鳥獣図屏風」が、静岡県立美術館に保管されている。なお、この辻説に対しては反対論もあるが、それは別途論じたい。

 

このプライス・コレクションは全部で9図もたらされているが、主要なものは以上の説明でほぼ尽くしたと思う。私たちは、高校時代の歴史で、江戸の文化の花は元禄年間と文化・文政期(化政期)と教えられ、私は今まで、そのように理解していた。しかし、この私たちの江戸文化に対する理解は、大きく替えることが求められていると思う。むしろ、江戸文化は前期、中期、後期の三つに区分して捉えるのが適当であると、現在の日本文化史は語っている。それぞれ17世紀、18世紀、19世紀にほぼ対応する。そして中期の文化は、後期の文化と切り離し、それ自体独立して考察されるべきである。絵画で言えば、18世紀は若冲と蕭白、大雅と蕪村、応挙と芦雪らが次々と新奇の試みを打ち出したのが京都画壇である。同時期の江戸は、晴信から清長、春章、歌麿から初期の北斎に至る浮世絵師たちが錦絵や絵本を競い合っていた。江戸中期こそが江戸美術史の黄金時代であり、中でも京都画壇の重要性は高い。これは絵画のみではなく、文化全体、いや政治史も含めて、江戸中期こそ、更に深く研究することが必要である。(佐藤康宏氏の論文による)

佐藤氏は、プライス・コレクションの「鳥獣花木図屏風」に対して、非常に厳しい意見を述べている。「プライス・コレクションの”鳥獣花木図屏風”は絶対に若冲その人の作ではない。若冲の描く緊張感に富んだ形態はまったくなく、すべてゆるみきって凡庸なである。プライス氏の屏風の配色は平板で抽象的な模様を作るだけで終わっている。工房作というにはあまりにも若冲画との落差が大きいので、稚拙な模倣作というべきであろう」。辻氏の意見を採用するか、弟子の佐藤康宏氏(東京大学教授)の意見に耳を傾けるべきか判断に迷う。山下祐二氏(明治学院大学教綬)は「僕は真作であると断言できる。8万6000個以上の桝目一つ一つに絵具を充填していくという途方もないことをする人は、若冲の他には考えられない。この作品は一種の仏画であり、若冲は写経をするような心持ちで、1枡1枡を塗りつぶしていったと僕は考えている。」

私は屏風を見た瞬間に白い部分が多く、若冲作にしては「保管状態が悪い」と直感した。しかし、プライス・コレクションには秀作が多く、プライス氏が偽物を掴むということも考え難く、やはり若冲の真作と考えたい。しかし、若冲の老齢から考えて、工房(現在4名の弟子の名前が明確になっている)の手伝いもあったかも知れないと考えている。むしろ山下氏の「仏画」「写経」という言葉に魅力を感ずる。キリスト教の「天地創造図」の影響を述べる意見がある。屏風の右端、左端に樹木の幹が描かれているのは、非常に珍しく、「天地創造図」の影響を考える人もいる。一種の宗教画という意見には、耳を傾ける必要があるかも知れない。この桝目を埋める作風は、私はフランスの点描派の走りのように感ずる。19世紀末の新印象派の100年前に、若冲は既に点描を試みていたのであろうと思う。正確には、銅板画の影響による「筆触分割」と呼ぶべきかも知れない。

さて、これまで若冲を3回に分けて連載したが、確かに若冲は素晴らしい美しさである。それは無条件で認める。しかし、初日の4月22日の開館前に並び、グッズ類を買うまでに4時間を要したことは、あまりにも若冲ブームの行き過ぎであると思う。勿論、東京では「釈迦三尊像」と「動稙綵絵」が同侍に公開されるのは、初めてであり、それにプライス・コレクションまで並ぶのだから、相当の混雑は予測していたが、それにしてもこの混雑振りはひどすぎる。若冲ブームが過激でありすぎると思う。それは肝心の「動稙綵絵」を宮内庁が保管しており、めったに見られないということが根本にあるのでは無いだろうか。明治政府の行き過ぎた「古社寺いじめ」が、根本の原因であると思う。法隆寺の小金銅仏のように東京国立博物館(もしくは京都)に寄託してはどうか。いろんな機会に見ることが出来ると思えば、こんな馬鹿げた混雑は招かずに済むと思う。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝12009年」、図録「若冲と蕪村  2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「奇想の図譜」、「若冲」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、佐藤康宏「伊藤若冲」、田中英道「日本美術史全史」、「日経大人のOFF2016年1月号」、日経新聞「2016年4月16日 生誕300年記念 若冲」を参照した)

生誕300年記念  若冲  雅遊人、若冲

18世紀という多彩な文化が花開いた活気ある時代に、85年の生涯を生きた若冲は絵師としては、恵まれた環境のなか、充実した画師生活を送った。鮮やかな色彩、多彩な墨色が生み出す表情を求め、様々な技法を駆使して、画事を愉しんだ”画遊人”であった。若冲は、18世紀の江戸時代の京都では有名な画家であり、平安人物志では、丸山応挙に次いで2番目に有名画家であり、蕪村、大雅と続くほどの有名画家であった。しかし、応挙のように弟子を抱え、丸山四条派を築くようなことはしなかったため、いつしか忘れ去られ、日本画家としての地名度は無い状態であった。1970年、辻惟雄氏の「奇想の系譜」、「奇想の図譜」によって、俄かに浮上し、一般にも広く知られるようになった。若冲の作品が一般に注目されたのは平成12年(2000)に京都国立博物館で行われた「没後200年 若冲」展がきっかけとなった。そして平成18年(2006)に「プライスコレクション・若冲と江戸絵画」展が全国各地を巡回し、翌年平成18年(2007)に相国寺承天閣美術館において開基足利義満600年記念 若冲展」の開催があり、更に平成21年(2009)、東京国立博物館で「御即位20年記念特別展」Ⅰ期(永徳、若冲から大観、松園まで)で「動稙綵絵」全30幅が公開された。第Ⅱ期は「正倉院宝物と書・絵巻の名品)であり、正倉院宝物類が多数展示され、大勢の観客を集めた。私が、若冲の「動稙綵絵」全30巻を見た最初であり、その色彩の多彩さに、正に仰天した。今では、日本絵画史の上で、一番人気の高い画家となった。この稿では、図録が画遊人と名付けた部分から、特に優秀な作品を招介する。

孔雀鳳凰図  双幅  伊藤若冲作   江戸時代(18世紀) 岡田美術館蔵

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このほど存在が確認された「孔雀鳳凰図」は、宝暦5年(1755)若冲40歳前後に描かれた作品と推定され、小林忠氏は「動稙綵絵」の直前の画風を伝える作品とされ、畢生の大作に向けた若冲の制作過程をうかがい知ることができると述べられている。この双幅が投げかけるもう一つの問題は、その来歴である。大正15年(1926)に、美術専門誌「国華」にモノクロ図版で紹介されたが、その時の所蔵者は公爵浅野長勲(ながこと)氏 だったことが分かっている。浅野長勲(1842~1937)氏は、安芸広島藩浅野家の12代藩主で、昭和の時代まで生き抜いた「最後の大名」として知られる人物である。大政奉還を建白するなど明治維新の功労者デ、イタリア公使、貴族院議員、十五銀行頭取などを歴任、政財界で活躍した。若冲の絵の来歴の中で、「武家との直接的な関わりを示す作品は聞いたことがない」と話すのは、若冲研究家の狩野博幸・同志社大学教授である。若冲の絵は、若冲が帰依した臨済宗や黄檗宗をはじめとするお寺や神社に納められるか、商家に伝わったと見られる作品が大半だからである。もし「孔雀白鳳図」が浅野家に長く伝来したら、安芸広島藩42万石の大大名と、京都の絵師、若冲との意外な接点が浮かび上がることになる。今回およそ90年ぶりにこの双幅が公開されることになった。一見して明らかなように「孔雀図」は「動稙綵絵」の「老松孔雀図」に、「鳳凰図」は同じく「老松白鳳図」に図柄が酷似している。孔雀図も鳳凰図も裏彩色(うらざいしき)に黄土と胡粉を活用しており、白色の羽が金色色に見えるのは、その裏彩色のせいである。

重要文化財鹿苑寺大書院障壁画 葡萄小禽図屏風伊藤若冲作宝暦9年(1759)

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京都・鹿苑寺の境内には、金閣から錦湖池を挟んで東側に方丈がある。本作は、その方丈に隣接する大書院を装飾していたものである。鹿苑寺は相国寺の開基でもある足利義満の別邸「北山第」を没後に寺院としたものであるが、室町末期にはすでに荒廃し、金閣の他には殆ど堂宇がないほどの状況であった。寛永13年(1636)に鹿苑寺が落成し、長く白い襖のままで推移したと考えられる大書院に、大典の弟子であった龍門承猷(じょうゆう)の入寺に相前後して若冲が墨筆の筆を振るったことにも、相国寺と同様の事情があった可能性がある。本作はこの大書院のうち、最も格式の高い「一之間」を飾るものである。同様に「二之間」には「松鶴図襖絵」、「三之間」には「芭蕉叭々鳥図襖絵」、「四之間」には「菊鶏図襖絵」「狭間」には「竹図」が描かれ、全部で50図となり、すべて重要文化財に指定されている。

重要文化財 菜蟲賦(さいちゆうふ)伊藤若冲作 寛政4年(1792)佐野市立吉沢美術館蔵

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巻頭に絖本(こうほん)墨書の題字が付けられ、続いて2メートルほどの長さの絵絹が5枚貼りつがれる中、前半には蔬菜や果物、後半には昆虫や両生類が彩色で描かれそして巻末に、絖本墨書の跋文を付した珍しい巻子作品である。巻頭の題字は大阪の書家・福岡撫山(ぶざん)、巻末の跋文は大阪の漢学者・細合半斎(はんさい)による。そして最後、縦に断ち割った冬瓜の中に「斗米庵米斗翁行年七十七歳」とあり、天明の大火によって若冲が大阪に逃れていた時期の作例であることがわかる。「動稙綵絵」等で完成されたモチーフは、老齢に至るまでにすっかり成熟し、力みのない垢抜けた表現として、新たな魅力を表出している。若冲の最後期の作品である。

重要文化財 仙人掌(さぼてん)群鶏図襖絵 伊藤若冲作 天明9年(1789)大阪・西福寺蔵

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左右3面づつの群鶏が三角形を作る安定した構図で、デフォルメされたサボテンと鶏の尾羽の動きを揺さぶる。奔放な鶏は水墨画で描かれていたが、ここで再び濃彩の細密描写と融合することで、宗達や光琳の金碧障屏画(こんぺきしょうへいが)とも違う新しい美しさを作り出している。檀家の鰻谷の薬種問屋、吉野五運の依頼で制作された。若冲唯一の金碧画である。若冲71歳の作品であり、天明の大火の後の作品である。

重要文化財 蓮池図(れんちず)伊藤若冲作 寛政2年(1790)大阪・西福寺

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上記の群鶏図の裏面であり、一転して墨色である。群鶏図襖絵の裏面に描かれていた襖絵であった。西福寺内陣側に本作が描かれていたのである。抑制された筆線による描写は、独特の水墨技法である。

象と鯨図屏風六曲一双 伊藤若冲作寛政9年(1797) MIHOMUSEUM

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近年、所在が明らかになったこの「象と鯨図屏風」の圧倒的な存在感はどうであろうか。陸の王者と海の王者を左右に描いた六曲一双の大画面が、圧倒する。象は先を丸めた鼻を高く上げ、耳はゆで卵を思わせる二重の楕円形、口からは太い牙が上へ向かって伸び、大きな鳴き声をあげているようだ。一方の鯨は、大きな体の一部が海面に浮きあがり、胴からは潮が勢いよく吹き出す。波の水しぶきや鯨の背びれには躍動感がある。

 

天明8年(1788)1月30日の夜明けから翌2月1日の夕刻にかけて、京都の町は応仁の乱以来とも言われる大火に見舞われた。後世まで「天明の大火」と記憶される江戸時代最大の京都の火災となった。相国寺も例外ではなく、宝堂(はっとう)といくつかの塔頭(たつちゅう)を除いて境内の堂宇のほとんどが灰燼に帰した。そうした状況の中で、「釈迦三尊像」と「動稙綵絵」を納めていた南蔵が類焼を免れたのは、幸いなことであった。若冲はこの正月には73歳を迎え、老齢の身にはじめての生活困窮が迫った。画室の有る自宅はもとより貸家など資産を失って、寛政3年(1791)76歳になった若冲は、相国寺との永代供養契約を解除せざるを得なくなった。大火の2年後に摂津の国、豊中の小曾根にある西福寺の襖絵制作に挑んでいる。大阪の薬種問屋の主で数寄者として知られた吉野五運の依頼を受けて、同家の菩提寺である西福寺に、金地濃彩の「仙人掌群鶏図襖絵」及びその裏面に墨絵による「蓮池図」の左右に離れて三面ずつ、表裏の襖絵六面づつを描いた。また、この頃、画面に無数の枡目を作って色点を埋めていく、モザイク絵のような屏風画に挑戦したようである。恐らく、門人たちの手も借りながら、一時期升目描きに没頭したようである。寛政4年(1792)には家業を譲っ次弟五代目伊藤源左衛門こと宗厳が享年74歳で亡くなり、それより先、安永8年(1779)に母が80歳で物故しており、若冲の直接の身内は、石峰寺の門前で晩年を妹(後家)とその子のみになってしまった。寛政12年9月18日(1800年10月27日)享年85歳でついに天寿を全うした。法名は米斗翁(あるいは斗米翁)若冲居士、縁の深かった石峰寺に土葬され、遺髪が伊藤家の菩提寺宝蔵寺と相国寺とに埋められた。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝 Ⅰ 2009年」、図録「若冲と蕪村 2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「奇想の図譜」、「若冲」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、佐藤康宏「伊藤若冲」、田中英道「日本美術史全史」、「日経大人のOFF1月号」、日経新聞「2016年4月16日生誕300年記念 若冲」、日経新聞「2016年2月2日 夕刊文化」を参照した)

生誕300年記念 若冲 釈迦三尊像と動稙綵絵

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伊藤若冲(1716~1800)は、正徳6年2月8日(1716年3月1日)に京都市中、高倉錦小路の青物問屋「枡源」(ますげん)の長男として生まれた。この年には、6月2日に琳派の巨匠尾形光琳が亡くなり、同月22日に享保と年号が改まり、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍に就任している。江戸時代の歴史上、また美術史上での転換期であった。文人画家として大を成す与謝蕪村も、若冲と同い年で、この年に生まれた。若冲は、屋号は枡屋、代々源左衛門を名乗り、略して枡源といった。父宗清はその三代目であり、宗派は浄土宗で、宝蔵寺(蛸薬師上ル)がその菩提寺であった。元文3年(1738)数え年23歳の時に父を失い、四代目枡屋源左衛門と「枡屋」の家業を継ぐことになった。それから17年間を商家の主として務めを果たし、一方で趣味としての絵画に傾倒していった。それと同時に仏教、特に禅へ傾倒した。若冲居士という居士(こじ)号を絵画に記すようになった。宝暦5年(1755)40歳にいたった若冲は店を次弟宗厳(そうごん)に譲り、楽隠居の身となった。居士号とは、出家しないで仏門に帰依する男子に与えられる称号である。相国寺の大典和尚と相知る仲となり、それが禅宗への傾倒の理由であったかも知れない。相国寺は、室町時代の1382年に将軍足利義満によって創建された禅寺で京都五山の一つに数えられる、由緒ある名刹である。現在、宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されている、若冲の代表作である「動稙綵絵」と、相国寺に伝わる「釈迦三尊像」は、共に若冲によって相国寺に寄贈されたものである。相国寺への寄贈は、両親と自己の永代供養を願う作善(さぜん)の行為であったのであろう。明和2年(1765)に末弟宗寂が亡くなったのを機に、「動稙綵絵」24幅と、「釈迦三尊像」3幅を諸国寺に寄進し、明和7年(1770)10月に、最後の6幅を加えた全33幅の寄進が完了した。

釈迦三尊蔵 釈迦如来像(中央)文殊菩薩像(右)普賢菩薩像(左)絹本着色3幅江戸時代(18世紀)相国寺

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明和2年(1765)9月、動稙綵絵のうち24幅とともに寄進されたものである。この3幅だけでは、現在も同寺に保管されている。この縦2メートル以上の大幅に、独特の濃艶な色彩で彩色を施し、驚くべき緻密さで細部の文様を描いている。本図は東福寺(京都五山の禅寺)に伝来した張思恭筆と伝えられる古画(釈迦如来はクリーブランド美術館、文殊、普賢像は静嘉堂文庫美術館、現在展示中)を模写したものであるが、若冲は鮮烈な色彩と力感を持ったものとして描き上げている。辻惟雄氏は「若冲が模写した伝張思恭画は明画(みんが)ではなく、朝鮮画であったという可能性も否定できない」としている。この寄進に際し、若冲は寄進状を書いている。図録の「大意」から引用する。「私は才能の乏しい身ではありますが、日頃より絵画に心と力を尽くし、常に草木、植物の素晴らしいものを描き、鳥や虫の姿を描き尽くしたいと思っております。また、このため、画題を広く求め、多く集めて一家の技を完成させるに至りました。また、かって張思恭の描いた釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の像をみたところ、その巧妙なことは他と較べることができないほどであり、つよく模倣したいと感じました。そしてついに「釈迦三尊像」三幅と「動稙綵絵」二十四幅を描き上げたのでのです。」この「動稙綵絵」には、大勢の観客が集まり、初日から大変な人気で、見終わるまでに1時間程度もかかったが、肝心の三尊像を熱心に拝んでいるのは私だけであり、三尊像の前に人は殆どいなかった。若冲の寄進状を引用するまでもなく、若冲は三尊像を寄進し、その荘厳(そうごん)の目的で「動稙綵絵」を併せて寄進したのである。まず三尊像ありき、なのである。しかし、私は仔細に見て、この三尊像の持つ宗教性、荘厳さを感じることは出来なかった。私の信仰心が薄いためだろうが、平安時代や鎌倉時代の仏像画の持つ”気高さ”を感じなかった。そういう意味で、大変不満であった。

秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず) 伊藤若冲作 宝暦9年(1759)

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若冲はかって、市中で鳥を商う者から、数十羽の雀を買い取り、自宅の庭に放してやったが、空に帰してやる前に、雀たちの動きをしっかり把握したのであろう。まるで編隊を組んで来襲するような勢いで飛ぶ雀の群れに、白色の一羽が混ざっている。落下してくる雀たちの目標は、たわわに実った粟(あわ)の穂に間違いない。先に着いて穂に群がっていた雀たちは、飛んで来る雀とは逆にさまざまな形に描かれている。雀の観察が、この絵に生かされているのであろう。

梅花皓月図(ばいかこうげつず) 伊藤若冲作   宝暦10年(1760)

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複雑に広がった梅の枝に、白い花と蕾(つぼみ)とがびっしりと付いている。梅の枝の間から満月をのぞかせている。小さな花や蕾が無数の星のように見える。「動稙綵絵」のシリーズの中には珍しく、画中に鳥の姿が見えない。その代わりに、辺りにただよう梅特有の清らかな香りが想像される。

南天雄鶏図(なんてんゆうけいず) 伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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南天の赤い実と鶏の黒い羽が極端な対比を見せ、さらに南天の実と鶏冠とが同色で呼応する。この激しい迫力に満ちた画面の上には、枝にとまって赤い実を一つくわえる黄色い小鳥を描きこみ、緊張感をやわらげている。白い菊の花も加えて余白がほとんどないほどに描き込んだため、署名を書き入れることができず、初期に愛用した二つの印章を捺印している。南天の実をよく見れば、一粒一粒に雌しべの柱頭の跡が描かかれている。南天の実の生々しさを一層際立たせる効果を狙ったのでろう。また、この絵には裏彩色(うらざいしき)という技法を用いている。即ち、南天の実はただ一色の赤で描かれているのではない。辰砂(しんさ)という赤色顔料を用いて、浦彩色した実、また表面では辰砂の上に染料の赤色を加えた実等、その濃度や重ねの違いによって房全体に立体感を現わそうとしている。

棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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南方原産の棕櫚の、それも自然林のように林立する特殊な背景の前に、黒と白の羽装(うそう)を対比させて、二羽の雄鶏がむかいあっている。本当に、18世紀の京都に棕櫚の木があったのだろうかと不思議に思う。若冲の幻想と言う人もいる。棕櫚の放射線状に伸びる葉の軸になる部分が、目のようにも見える。不思議な絵である。

牡丹小禽図  伊藤若冲作    江戸時代(18世紀)

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赤、薄紅、白の三色に花開いた牡丹が主役となり、蕾のコデマリが脇役として加わって、画面いっぱいに絨毯の花柄のように花と葉で充満させている。そこに二羽の小禽と岩が描かれている。若冲の執拗な描写意欲が、このように目のくらむような複雑混沌の空間に仕立て上げている。江戸美術に対する概念を打破するような、余白否定の態度を貫かれたこの図は、綵絵連作を通じて若冲が追及してきた装飾空間の、一つの極限的な姿を示すものだろう。この牡丹の花には陰影がある。これはマネの牡丹の絵に付けられた陰影(印象派)の100年前、に若冲が光の陰影を描いていたことにある。

老松白鳳図  伊藤若冲作     江戸時代(18世紀)

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若冲は、鶏や鸚鵡(おうむ)、孔雀(くじゃく)や鶴など、もともと白い羽の鳥や、あるいはわざわざ白い変わり種を描くことを好んだ。ここでも、あえて白鳳を主役に選んでいる。白い体に点ぜられた口や鶏冠、それに尾羽の先のハート形の文様、それらの赤い色が右上の太陽に鮮やかに呼応して、効果を高めている。羽の下からのぞく金色に見える地肌は裏彩色(うらざいしき)と言われる、画面の絹地に裏から塗った黄土(おうど)という絵具によるものであろう。「動稙綵絵」には、しばしば裏彩色を使用している。

菊花流水図(きくかりゅうずいず)  伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)

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菊の下を流れる水を飲むと長寿が得られるという故事を踏まえた絵であろう。菊は亡き父と末弟への献花だろうか。俗世間の重力を逃れてゆるやかに弧を描き、空中に大輪の花をつける。まるで尾形光琳の紅梅図屏風の流水の曲線を描いて、それと菊花が柔らかにからんでいる。動物はいない。琳派の意匠を見る思いである。秀作である。

紅葉小禽図(こうようしょうきんず) 伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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紅葉の色が多彩で美しい。幾何学的な形への好みは続いているが、激しく屈曲する折れ線や蛇行する曲線は無い。紅葉の葉の色がさまざまであるのは、裏彩色によるもので、冴えない色の紅葉は、裏からの彩色のみである。明和7年(1770)10月の「釈迦三尊像」三幅と「動稙綵絵」三十幅を相国寺に寄進したのは、父の三十三回忌を追善供養するものであり、この絵を描いた動機には格別なものがあったのであろう。二羽の小鳥を向かい合せて描いているのも、親子の情愛を暗示しているのかも知れない。

 

 

「動稙綵絵」と「釈迦三尊像」の寄進に際して、若冲は相国寺に対して寄進状を寄せている。既に一部を「釈迦三尊像」の所で披露したが、その最後の部分を「大意」で記したい。(図録303pより引用)「これは世間に私の画名を広めたいといった志のもとに描いたものではありません。このすべてを満年山相国寺承天禅寺に喜捨し、荘厳の一助となること、そしてこれらが永久に伝えられることこそ、私の望む所です。また、私の死後、この地に埋葬されることを願っておりますので、謹んでいくらかの寄進をさせていただき、香華の縁を結びたいと思います。つきましては、すべてご嘉納いただくことを伏して望みます。」(相国寺保管)若冲の希望通り、相国寺によって大切に守られ、明治維新後は明治22年(1889)に皇室に献納されて、今日まで無事に保たれた。(図録より)しかし、私は明治政府の強権で、時価100億円以上の寺宝を、当時の1万円という下賜金で召し上げたものと理解している。これは法隆寺の小金銅仏と同じ形であり、明治政府のえげつない施策と思う。但し、相国寺派管長の有馬氏は、図録で「その下賜金により明治の廃仏稀釈、上知令により疲弊していた相国寺が近代の復興を成し遂げた」と述べている。菅長という立場であれば、内心はともあれ、このように言わざるを得ないのだろう。毎年6月17日に行われていた法要、観音繊法(かんのんせんぽう)では、「釈迦三尊像」三幅を正面中央に掲げ、その東西左右に十五幅ずつ対になるように掛け並べられて、都の評判を呼び、大変な人気であったそうである。だからこそ、平安人物志では、画家の部で円山応挙の次に若冲が並び、大雅や蕪村がその下に並んだそうである。小林忠氏(岡田美術館長)は、「花や実をつける草や木と大小の鳥や各種の虫、水に棲む貝に到るまでを登場させる「動稙綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという、「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の思想を具体化したものであるのに相違はない」と述べている。(図録13pより引用)「若冲展」の拝観を勧めたいが、私は初日の4月22日の9時半の開館と同時に並んだが、実に中に入るまでに1時間、拝観2時間、グッズ類購入のため1時間、合計4時間を要した。かって経験したことのない混雑振りである。「若冲ブーム」と言えばそれまでだが、5月24日までの実質1ケ月という期間が短すぎる。多分、宮内庁の意向で、1ケ月が限度であったのだろうが、それにしても異常な混雑振りである。「日経大人のOFF」1月号では「若冲展は、かってない大行列になる。ひどい天気の平日、閉館間際に行くほかしかない」と山下祐二氏(明治学院大学教授)が予言していた。更に「こんな展覧会、僕が死ぬまで二度とないでしょう。しかも会期が1カ月と短いから、何時間待ちの行列になるのか想像できない。この展覧会はもう宣伝しないほうがいいね。」とまで言っていたのである。よせば良いのに、新聞広告、テレび宣伝をバンバンやるから観客はたまったものではない。もし観にいくならば、1日掛ける積りで、平日の雨の日にお出かけになることをお勧めする。なお「奇想の系譜」の中で、辻惟雄氏が、「文庫版あとがき」に次のように述べていることに気付いた。これが若冲現象を説明する一つのキーワードかも知れない。「この本に登場する六人の画家たちは、当時はみな美術史の脇役だったが、今や彼らは江戸時代絵画史のスターであり、とりわけ伊藤若冲の人気上昇は異常なほどだ。知らない間に現代の美的好みが、どんどんこちらへ接近してきたようなものである。」(2004年夏)

 

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝 1 2009年」、図録「若冲と蕪村  2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「奇想の図譜」、「若冲」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、佐藤康弘「伊藤若冲」、田中英道「日本美術全史」、「日経大人のOFF1月号」、日経新聞「2016年4月16日 生誕300年記念 若冲」を参照した)

出光美術館開館50周年記念  美の祝典  Ⅰ

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出光美術館は、今年で開館50周年を迎える。その記念企画として「美の祝典」と題して、出光美術館所蔵の絵画作品から、選び出した屈指の名品を一挙公開する。展覧会は3部構成として、第一部は日本絵画の伝統美を象徴する「やまと絵」と仏画の世界を展示する。第二部ではこれと対照的に、東洋ならではの自然美に着目し、「水墨画」や「文人画」を中心に展示する。第三部は江戸絵画を代表する狩野派、琳派、浮世絵などの多彩な美を展開する。なお、同館が所蔵する国宝「伴大納言絵巻」三巻は、各会ごとに1巻ずつ公開する。この絵巻の公開は10年ぶりであり、貴重な展示会となる。「黒川孝雄の美」では、この「美の祝典」を四回に分けて書くことにした。国宝「伴大納言絵巻」は、3回に分けずに、最後の第四回にまとめて掲載した方が、ストーリーの理解に役に立つと思う。なお、「美の祝典」は連続して掲載することは、困難なので、他のブログを中に挟みながら連載することになる事をご了解願いたい。さて、やまと絵とは、日本で生まれ発展した伝統絵画である。中国の模倣に始まったわが国の絵画が、身近な自然や風俗を積極的の取り込むことによって、やまと絵を誕生させたのは、平安時代の前期、9世紀のことであった。それ以来、われわれの祖先は、つねに中国絵画の影響を受けながらも、日本の風土やみずからの感覚に合った絵画様式を創り上げてきたのである。其の様相は時代によって多様に変化するが、一貫して日本人の自然に対する深い愛着と、物語への強い関心などが画面に反映されている。王朝時代の優美な装飾絵画、物語や説話を描いた各種の絵巻、風俗画、四季の自然を描く山水、花鳥の屏風など、日本人の感性が生み出した美しい造形の歴史が展望できる。

重要文化財 扇面法華経冊子断簡(せんめんほっけきょうさっしだんかん)平安時代(12世紀)

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「法華経」八巻と「無量壽経」「観普賢経」の解結(かいけち)二巻の計十巻扇面に写したもので、大阪・四天王寺に伝来した。各巻をそれぞれ一帖にあて、計十帖からなっていたものと考えられる。現在は四天王寺に五帖、一帖が東京国立博物館(いずれも国宝)に所蔵されるほか、断簡が諸家に分蔵されている。この断簡はその一つである。絵は貴族や女房たちの営みや市井の庶民の生活、草花や花鳥、どこかの名所風景など、多様なやまと絵に主題を描くもので、「法華経」の経意を表したものはない。こうした扇面に経文を記す作例は他に見当たらず、世俗的な画題に経文を重ねるという趣向そのものがきわめて個性的である。

重要文化財西行物語絵巻 第一集(部分)三巻の内俵谷宗達作 寛永7年(1630)

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本作品は、放浪の歌人として知られる西行(1118~90)が、発心して僧となり、諸国行脚の修行の末に往生するまでの行状を描き出したものである。この絵巻は俵谷宗達(生没年不詳)によって描かれたもので、巻四末尾の烏丸光弘が記した奥書により、その制作背景が判明した。それによると、寛永7年(1630)、光弘は越前松平家の家老・本田富正の依頼によって、禁裏が所蔵する「西行法師行状之絵詞四巻」を借り出し、その摸本の制作を「宗達法橋」に命じたという。本絵巻は本田富正より主君・松平忠昌へと移り、その後毛利家に伝来したため「毛利家本」とも呼ばれる。この絵巻が日本美術史において重要な意味を持つのは、殆ど人生が謎に包まれている俵谷宗達の画作中、制作年が明示される唯一の作品のためである。

重要文化財 日月四季花鳥屏風(左隻) 六曲二双   室町時代(15世紀)

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一画面中に四季の移ろいを描く花鳥図屏風は、平安時代よりやまと絵の好画題として数多く制作されており、本作もその伝統に則ったものである。左隻は、緑の葉を茂らす松と紅葉を中央に配し、その左には白菊、右には水辺に生える秋草の茂みの中にたたずむつがいの鹿が描かれる。左右上方には金属板によって日月が配され、特に左隻の三日月のシャープな形状が印象的である。稚拙な表現であるが、このダイナミミックな構成には迫力を感じる。こうした伝統モチーフの組合せによる作品の完成された姿を、次の「四季花木図屏風」に見ることができる。私は、日本絵画の中どぇ、やまと絵が一番好きである。

重要文化財 四季花木図屏風 六曲二双  室町時代(15世紀)       右隻

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右隻には紅梅と松、左隻には紅葉と秋草と竹を大きく配し、夏は毛鞠花、姫百合、冬は遠山の松林の雪を指標に描く。古来馴染のある四季の自然景物が画の主題である。池か流れか水景が大きく描き出され、当初はその流水の澱みない描線の美しさに見所の一つがあったと考えられる。画面全体には雲母(きら)が引かれ、金箔が明るく輝き、濃彩の花木が引き締まった美しさを見せる。画中には狩野探幽(1602~74)による紙中極が認められ、それにより探幽は本作品を、室町中期の繪所預として活躍した土佐光信の手によるものだと見なしていたことがわかる。実際は、筆者が誰であるかはいまだ特定できていない。

宇治橋柴舟(うじばししばふね)図屏風六曲一双の内右隻 桃山時代(16世紀)

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右隻には、左右から右上かけて対角線状にゆるい弧を描きながら、金色に輝く橋が架かる。橋の下を流れる川面には、柴を積んだ舟が二艘浮かぶ。画面全景には水車が配され、水流を受けて回っている。水車よりこぼれ落ちる水は経年のため黒くなっている。本来は銀色に輝き、清涼感演出していたことだろう。橋と水車というモチーフより、本作品の主題が宇治の情景であることは明らかである。宇治は古来より文学作品に取り上げられたことにより、多様なイメージがあるが、中でも「源氏物語」の掉尾を飾る「宇治十帖」の印象が特に強い。このような「柳橋水車図」と称されるこうした画題の屏風絵は、桃山時代より長谷川等伯(1539~1610)と、その後を承継する長谷川一派によって数多く描かれた。

月に秋草図屏風(部分) 伝俵谷宗達作 六曲一双  江戸時代(17世紀)

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宵闇に浮かぶ半月の下、可憐に咲く萩や薄、桔梗や撫子などの秋の草花を描き出した屏風である。本作品には俵谷宗達(生没年不詳)の工房で制作されたことを示す「伊年印」印が捺される。「伊年印草花図」と通称さ草花図屏風は多数現存している。(府中美術館の「四季草花図屏風」その一例)しかし、その多くが四季」草花を華麗な色彩をもって描くのに対して、本作はそうした作品群とは異なり、秋草のみを繊細な筆致で描きだした、稀な作品である。本作を宗達自身の作とする説、あるいは宗達在世中に有力な弟子によって描かれたとする説などがある。現在その制作期について確証は得られない。図録では「琳派がその後数多く制作した草花図屏風の中でも最も初発的な作例であり、かつ一群の草花図屏風の中でも群を抜いた傑作である」と述べている。私は、特に月を示す、銀板が見事であると考えている。やまと絵は、この作例でおわりであり、続いて仏画となる。

化財 絵因果経(えいんがきょう)一巻  奈良時代(8世紀)

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「絵因果経」とは、求那跋陀羅(ぐなばつだら)訳「過去現在因果経」を絵画化した絵巻物のこと。この経典は釈迦の前世においてなしえた善行を説くことから始まり、さらに現世における釈迦の生涯から、舎利仏・目連・大迦葉ら弟子たちの出家に到るまでを記す。現存する絵因果経の中でも、制作時期が奈良時代まで遡る伝本を「古因果経」と称し、現在五種が知られている。その中の一種が本作品である。絵因果経は経文を下に書写し、それに相当する挿絵を上段に描くと言う形式をとる。本作品は第五巻にあたる。絵巻に描かれた内容は、釈迦の出家から、苦行を経て、菩提樹下での瞑想、魔王の妨害の場面である。本作品の巻頭には、興福寺伝法院の伝来を示す「興福伝法」印の押印が認められる。

山越阿弥陀図(やまこしあみだず)託磨栄賀(たくまえいが)作 一幅 南北時代

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険しい山をはさんで向こう側には、金色の雲がわきたち、そのさらに向こうには、山よりもさらに巨大な阿弥陀如来が、まるで日の出のように光り輝きながら姿を表している。一方山のこちら側には、雲に乗った二菩薩が描かれる。向かって右の蓮台を持つ観音菩薩、左の合掌するのが勢至菩薩である。本作品のように、山並みの向うから阿弥陀如来が姿を現すタイプの来迎図を山越阿弥陀図という。平安時代以降、浄土信仰の発展とともに阿弥陀来迎図はさかんに描かれたが、この山超阿弥陀の形態を持つ来迎図は、鎌倉時代以降に登場・普及した。仏の姿は金泥と截金でもって皆金色身であらわされ、また画面はほぼ完全な左右対称の構図を取るため、装飾性と象徴性が高められている。

重要文化財 十王地獄図 双幅(一部) 鎌倉時代末期~南北朝時代(14世紀)

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十王とは冥界で死者を裁く十人の王のことである。初七日から七七日(四十九日)までは泰江王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の七人の王が七日ごとに百個日には平等王、一周忌には都市王等の十王信仰が中国で晩唐期に発生し、日本には平安時代末期より普及しはじめ、鎌倉時代以降は、「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」に基づく信仰が盛んになった。

 

 

「やまと絵」は「唐絵(からえ)」に対する言葉である。平安時代には、倭絵・倭画・やまとゑ・大和画などと表記され、近世においては、更に和画・日本絵・日本画などの文字があてられている。最近では、文字違いに付随する時代のイメージを避けるため、「やまと絵」の表記が一般化したそうである。やまと絵を広義に解釈し、それらを「王朝絵画の伝統を受け継ぐもの」という観点からまとめると、正に「雅(みやび)の系譜」ということになり、江戸時代の琳派まで含むことが可能である。「やまと絵」や「琳派」を愛好する私の好みから言えば、一番適した定義である。

(本稿は、図録「開館50周年記念 美の祝典 2016年」、図録「特別展 やまと絵 1993年」、図録「物語絵  2015年」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

フアンタスティック  江戸絵画の夢と空想   後期

「江戸絵画の魅力を再発見する」ことが、この展覧会の目的であると「図録」は述べている。確かに江戸絵画については、一部の琳派や文人画については良く展覧会も開催されるが、それ以外の江戸絵画については、殆ど知識がないし、知ろうとする努力もしない。江戸時代と言えば、反射的に「浮世絵」と答える人が多いだろう。今回の展覧会は、その常識を覆す試みであり、その面白さに惹かれて後期も引き続いて拝観した。一言で言えば、その魅力に惹きつけられてしまった。なお、浮世絵の展示もあったが、今回は浮世絵を抜きにして、「江戸絵画の夢と空想」に浸りたい。

四季花草図屏風 伊年印 六曲二双屏風   江戸時代初期(17世紀初期)

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この四季草花屏風は、根津美術館で見た覚えがあり、同館の図録を調べたら、かなり草花の種類が違い、別物であることを確認した。伊年とは、俵谷宗達の一門が印章として使用していたものであり、宗達の指導の可能性もある。江戸時代前期に、宗達の工房で描かれた作品であり、数は多い。画面の全てに金箔を貼って、その上に絵具で四季の草花を描き込んでいる。花々はいくつかの種類でひとかたまりをなし、それが上に配置されている。画面の下辺には頭だけが見えるかたまりもあって、画面の中に納まりきらない広がりを感じさせる。厚く塗られた絵具は、金箔に対抗するように華やかに色を発している。そもそも四季の花を同時に目の前に咲かせようという「四季花草」の題目自体が、ファンタスティックな体験装置である。

夏山霽靉(かざんせいあい)図 谷分晁(ぶんちょう)作 寛政7年(1795)

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谷文晁(1763~1840)は江戸時代初期の大画家であり、寛政期には、南宋画と北宋画を融合させた独自の漢画風を展開し、関東の絵画界の大御所として活躍し、門人を多数輩出した。題の「夏山霽靉」とは、寛政7年(1795)、33歳の時に「写山楼」つまり、江戸の自身の画室で描いた作品だと分かる。墨と茶色の淡彩だけで描いているが、何より山の形や描き方が目を引く。全体を見ると、画面中ほど上へk向かって突き出す岩場や、下の方の山へ続く地形など、立体感や奥行きを相当意識しているのが理解できる。さすがに、谷文晁の絵画の素晴らしさが理解できる。

菊滋童図(きくじどうず)狩野惟信(これのぶ)作   江戸時代(18世紀)

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狩野惟信は奥絵師四家の一つである木挽町狩野家、狩野典信の子として生まれる。12歳で早くも奥御用をつとめ、29歳で法眼、42歳で法印に叙された。狩野派の伝統的筆致を守りつつ、大胆さを見せる作品でも知られている。菊滋童は王の寵愛を受けていたが、ある事件で山深くに流された。王は滋童を憐み、お経の一部を与え、滋童は山の中でそれを唱えて暮らしていたが、忘れてはいけないとお経を菊の葉に書いておいた。そして、その葉の滴りを口にした滋童は不老不死の命を得た、という話である。惟信の作品の美しさ、立ち込める神聖な空気は、この物語のイメージを見事に造形化している。若くして法眼、法印に叙せられるだけあって、狩野派の伝統の画力の真骨頂とも言える作品である。

亀図  伊藤若冲作     江戸時代中期(18世紀後半)

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この図は、長い毛のような藻(も)が付いた、いわゆる「藻亀」である。「毛」は、太い筆に濃い墨をつけて、うねらせながら思い切り描いている。しつこいほど重ねられたその激しい描写で画面の大半が満たされているが、亀の甲羅の模様は、「筋目描き」と呼ばれる手法で巧みに表している。水を多く含んだ墨で塗り、それが乾かないうちにその隣にも塗ると、外へ広がる水分が互いにはじき合って、墨の色のない線となって現れるのである。中でも、注目は、亀の前足と目、それに鼻である。絵の全体には力強くいかつい雰囲気もあるが、黒く小さな目と、同じように表された鼻が、可愛くて、心を和ませてくれる。豪快さと愛嬌が味わえる一幅である。、その頃は「米斗翁」(べいとおう)と名乗り、米一斗で絵を描いてあげたと言われるが、そのような絵の一枚ではなかろうか?

乗興舟(じょうきょゆしゅう)1巻  伊藤若冲作  明和4年(1767)

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親しく交わった相国寺の大典顕常と共に、京都の伏見から大阪まで淀川を舟で下った旅から生まれた作品である。幅は20cm、長さは110cmの紙に刷られたものがつなぎ合わされて、全長1150cmの巻物となっている。この作品は木版画だが、版木に墨をつける普通のそれではない。版木には墨をつけず、紙をその上から圧着する。すると、紙に版木と同じような凹凸ができるわけだが、その上から、墨をつけた道具で叩いて着色するのである。石碑に刻まれた文字を写し取る時に使う「拓本」に似た方法である。色は単純ではなく、淡い部分やグラデーションの部分もある。まるで夜景のようであるが、二人は夜間に船に乗ったわけではない。大典の言葉には、次のような文がある。「船はしばらくすると晴れた空に逢い、春の日が清らかに照らす」。この巻物は昼と夜とかではなく、そういった現実を超えた美しさに浸るための「黒の世界」なのである。

白狐図  吉川一渓(いっけい)作  江戸時代中期~後期(18世紀後半~19世紀前半)

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吉川一渓(1763~1837)は名古屋の画家、通称は小右衛、名は義信、号は養元、自寛斎。吉川家は、尾張藩御用絵師に学んだ知信に始まるいわゆる町狩野の家だが、藩に関わる仕事にも従事した。一渓も、天保6年、名古屋城本丸御殿障壁画鑑定を命じられている。この絵は、暗闇に現れた白い狐。筋肉の様子を表にしながらも、長くて先が膨らんだ尻尾を含めた全体の姿は、写生的というよりも、流れる形そのものである。狐火も、妖しさを示すだけでなく、その非現実的な形が見る者の心を別世界へ誘うようである。狐は怪異を起す動物として恐れられてきた。それに「お稲荷様」である。花の咲く野辺にいる白狐は、ありがたい。

月夜山水図  曽我蕭白(しょうはく)作  江戸時代中期(18世紀後半)

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曽我蕭白(1730~1781)は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」で、奇想の画家として紹介され、昭和40年代に一躍有名になった。辻氏は「古美術通をもって任ずる人でも、曽我蕭白について知ることは多くあるまい」と記している。また、解説を書いた服部幸雄氏も「-岩佐又兵衛、狩野山楽、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳ーは、今日でこそ多くの人々の熱い注目を浴びるようになっているが、本書の初版が出版された1970年代の時点では、ほとんど知られない画家たちであった。日本絵画史の専門家でもあまり知られていない」と述べている。正に現代は「江戸ブーム」、「奇想の画家」の時代である。蕭白の人物図は仙人など、奇想と言われる絵も多いが、この月夜山水図を見て、私は驚いた。この風景画は完璧であり、見事に構築された作品である。絹に墨で描いた中国風の風景画である。豊かに水の流れる川のそばに、侍者を連れた人の姿がある。よく見れば崖の上に門があり、更に高い所には建物がある。建物の背後には、険しい山々が聳え立つ。この地上の景観を照らし出し、作品全体を一つのファンタスチックな空間へ変えているのが、月の光である。私は「奇想の画家」ではなく、極めて正統的な素晴らしい画家であることを見出した。

月下山水図 黒江武禅(1734~1806)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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大阪の人。名は道寛、号心月、蒙斎など多数。黒江は本来は号で、画姓として用いていたと考えられる。絵は月岡雪鼎に学び、宗元画を研究した。この作品の、描き方がすこぶる変わっている。一見して不思議な画面である。大きな湖なのか海なのか、広がる水面に点々と陸地が浮かんでいるようだ。山水画としては珍しい風景である。狭くて長い陸地に松の木が生える様子も、奇観である。この作品を強烈に印象づけるのが、光と影の表現である。月夜によって生じる陰を陸地の起伏に沿って表しているが、面白いことに、陰の濃さは何段階かにはっきり分けられている。江戸中期、西洋絵画からの影響もあって、光や陰の表現に興味を持つ画家が登場した。この不思議な月夜の光景は、画家の強い興味から生まれた、現実とも非現実ともつかない世界なのである。

朧月(おぼろつき)図 長沢芦雪(1754~1799)作寛政6年(1794)

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長沢芦雪も又、辻惟雄氏の「奇想の系譜」に書かれた作家である。丹波篠山藩士、上杉彦右衛門の子として生まれ、長沢氏を継ぐ。京に出て円山応挙の弟子となり、天明6年(1786)からは、応挙の代理として紀南の無量寺、草堂寺、成就寺の障壁画を制作。寛政2年(1790)の新造内裏や寛政7年(1795)の大乗寺など、数々の障壁画を制作した。「奇想の画家」では無量寺の虎図襖、薔薇に鶏図襖、山姥図(厳島神社)等が掲載されている。この朧月図には「於厳島写」とあるので、厳島で描いたものである。江戸中期、丸山応挙による研究に端を発した日本絵画の精密化は、それまで画家も、絵を観る者も意識していなかったレベルで、ものの様子を捉えることを促した。そして、個々の人が心の中だけで感じていたものや、歌人や詩人、俳人によって言葉に表してきたものが、「絵に表せる」ようになったのである。見上げれば、天空に月が浮かび、鳥たちが飛び交う世界がある。霞の中にほんわりと見える、人の世界から切り離されたような世界である。前衛的、かつ多くの人が味わえる趣きを湛えた作品である。

重要美術品 蓬莱山水図  長沢芦雪作   寛永6年(1794)

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蓬莱山は遠くに小さく、しかし細部まで変化に富んだ様子が表されていて、その中歩いてみたくなるほどである。絵を見る者は、自分が上空から接近しているような気分になる。また遠くには、仙人が立ったまま乗る鶴が、列をなして飛んできている。見る者が感じる空中と、描かれた空中、その両方が功を奏して、リアルで爽快な空間を体感できるのだろう。上陸する亀も、やはり目指すのは蓬莱山である。色もまたファンタスティックである。海の青、蓬莱山に架かる橋の赤、桃の花の色、砂州の白、芦雪は、応挙風の静謐で細やかな作品を描いた前半から、奇抜な構図や自由な筆使いを押出した作風に転じた作家である。この絵は、広島で描いた作品である。画家としての完成度は極めて高い作家と思う。天明2年(1782)29歳の時には、既に応挙の高弟として一家をなしていたようである。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙、若冲、蕪村からだいぶ離れてはいるが、芦雪の名前がある。辻氏は「種々奇想を凝らしてそれらからの脱出を終生心がけながら、師(応挙)の画風をあまりにも完璧に見に付け過ぎた器用さが仇となって、結局のところ、応挙という(水)を離れることはできなかったようであるし、晩年のグロテスクへの傾倒も、蕭白というその道の天才の後とあっては、しょせん2番煎じを免れなかった」と酷評している。私から見て、本作の出来具合は、極めて完成度が高い。応挙の代理が務まるほどの高弟であれば当然かも知れない。

馬入川富士遠望図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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画題は日本の風景である。景色から見て馬入川、つまり、相模川ではないかと推測される。遠くの川岸には舟が並び、人の姿もちらほら見える。青空にはうっすらと雲がたなびき、雪を戴いた富士山もくっきり見える。しかし、この絵の主役は、美しい風景を独り占めしている一羽の鶺鴒である。尾羽をぴんと上げ、頭も上に向けその視線は、画面の対角線と重なっている。この絵の最大の特徴は「空」を描いている。人が見たままの空を描いた絵は、これまで殆ど存在しなかったのである。宇宙に興味を持った江漢は、日々、地平線の上に広がる青空を眺めつつ、想像を膨らませていたのであろう。

富士超竜図 葛飾北斎(1760~1849)作 江戸時代後期(19世紀後半)

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縦が174cmに及ぶ大作である。「画狂老人卍筆」という晩年の署名がある。富士山の稜線が長く、山頂が小さい。やや奇異に感じられるが、形の面白さに加えて、山の巨大さ、高さが演出できる独特の描き方だろう。この作品のもう一つの主役が竜である。山麓に立ち込める黒雲は、富士山をぐるりと回って向こう側で初めて立ち上り、そしてその先に竜がいる。雲は竜の動きの軌跡なのだろ。つまり、龍は富士山の手前から現れ、体をうねらせばがら山の周りをめぐり、ようやく勢いよく真上に向かって上昇したのである。江戸時代、富士山を竜が超えるところを描いた作品は多いそうだ。定番になった理由は、山頂に竜が住むと考えられていたことだそうだ。画面の左上に、佐久間象山が漢詩の賛を着けている。その内容は「海から現れた竜」である。北斎の潤いに満ちた墨の表現からも「沛然として」降る雨が想像できる。

 

さて何名の作家をご存じでしたか?私は「奇想の画家」伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪に加え、伊年印、谷文晁、司馬江漢、葛飾北斎の合計7名でした。またファンタステチックと思う絵は①は葛飾北斎 富士超竜図でした。富士山に登り竜の取り合わせは、私にはファンタスチックでした。②は吉川一渓 白狐図でした。狐火で明かりを執る発想と、流線形の形でした。③は伊藤若冲 亀図でした。亀がまるで尻尾のように引きずる藻亀は異常な図でした。一人一人のファンタスチックな絵画を探して下さい。しかし、遠い存在であった江戸絵画が、随分近くに見えるようになりました。

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、辻惟雄「奇想の系譜」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

ファンタスチック  江戸絵画の夢と空想  前期

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「ファンタスチック」と言う言葉は、「「素晴らしい」というような意味に用いられる。府中市美術館では、あえて、この単語を用いて、江戸絵画の展覧会を開催している。(5月8日まで)同美術館では、図録の冒頭に「本展の目的は、この現代の日本において、あえてこの片仮名の言葉を通して江戸絵画の魅力を再発見することにある」と述べている。この「再発見とは,一旦見失ってしまったということであり、いつ、どうして見失ったのだろうか」と問いかけている。その理由として、近代以降の人々が、江戸時代の絵画は「芸術以前のもと考えるようになったことが挙げられるのではないだろうか」とし、明治時代に日本に入ってきた西洋の美術こそ芸術であり、それ以外のものは「芸術ではない」と、思い込んだ結果であると考えた。この考えには、私は疑問を感ずる。江戸時代の260年の間に、浮世絵は別格としても、琳派と呼ばれる俵谷宗達、尾形光琳,酒井抱一、鈴木其一、文人画と呼ばれる大雅と蕪村、同時代の円山応挙や伊藤若冲、やや下って浦上玉堂、青木木米、田能村竹田など多士済々であり、むしろ江戸時代こそ日本画が最も輝いた時代ではないかと思っている。しかし、府中市美術館が提起した問題点は、確かに言い当てて妙を得ている。上記以外の作家で、「ファンタスチック」と呼べる画家がどれほどいるだろうか?実は知識がないだけで、江戸絵画には「夢と空想」が一杯つまっていることを、明らかにしたい。なお、「黒田清輝展」の後に、この江戸絵画を書いたのは、みんなに近代絵画を考えてもらいたいからである。

元旦図 丸山応挙(1733~1795)作     江戸時代(18世紀)

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裃で正装した男性が太陽に向かって立っている図である。箱書きには「元旦」と記されており、応挙自身の個人的な心境を描いたのか、誰かの注文なのかは分からない。ここに表現されているものは、正装で太陽を正面に拝しているところで、初日の出のういういしさが表現されている。光や陰を描写することへの意識があったからこそ、こんなに斬新な感情表現ができたのであろう。

四条河原夕涼図屏風  山口素侚(1759~1818) 江戸時代(18世紀)

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京都の画家で円山応挙に学んだ。四条河原の夕涼みの様子を描いた図である。露店ではスイカや白酒などさまざまな物が売られている。見世物も多い。中でも目を引くのが人魚の見世物である。そんな賑わいとは別に、遠くの建物の中の宴の様子や行き交う人々のシルエットが見える。まるで夢の世界のようである。楽しげな人々の描写には、思わず引き込まれてしまう。良い絵である。私は京都に2年半暮らしたけれども、夏は暑く、眠れない夜が続いた。この四条河原の夕涼みができたら、どれほど楽しかったであろう。

観桜・紅葉に鹿図屏風  作者不明     江戸時代前期(17世紀?)

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二曲一双の屏風である。江戸時代前期、作者は不明であるが17世紀の作と思われる。一方には花見の図で、武士たちの宴。被毛氈や華美な敷物の上で,舞を楽しんでいる。金箔で雲の形があしらわれ、銀箔を細かく切った砂子も蒔かれ、華やかな屏風である。下図は紅葉と鹿の情景である。この鹿図には、人は現れず、山中の秋である。日本では,秋に聞こえる鹿の声にことのほか風情を感じる。どちらの図も力強く、堂々とした描写である。

気球図 原鵬雲(ほううん)作 (1835~1879年)作 江戸・明治時代(19世紀)

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鵬雲(ほううん)は嘉永3年(1850)に描いた徳島藩の御鉄砲組、喜根井善種の肖像画が初期の作例として知られている。徳島藩の銃率として、安政元年(1854)、藩が大森・羽田の警備についた時に出陣。文久2年(1862)、幕府の遣欧使節団に随行した。約1年間西欧を旅して、各地の風物を写生した。だから本当に気球を目撃した日本人の絵画である。どこで目撃したかは分からない。恐らく帰国後に描いたものであろう。広々とした画面を使っておおらかに仕上げている。まるで童話の絵本を見ているかのようである。

飛竜図(ひりゅうず)原在中(1750~1837)作江戸時代後期(19世紀)

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この場面は,鯉が竜に変わるところである。中国では,鯉は竜文の滝を登ると竜に変わると言われ、鯉の滝登りの図は立身出世を表す画題として、江戸時代に大変多く描かれた。飛竜とは、この絵の箱書きにあったので、この命名となったそうである。この絵はまだ登り切っていない。その途中の変身中である。頭だけが竜、それより下はまだ鯉という姿で、非常に珍しい絵姿である。墨と金泥だけで描かれ、モノクロームの落ち着きと深さがある。

地獄図 河鍋暁斎(かわなべきょうさい)・薫玉作(1831~1889)江戸・明治時代(19世紀)

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閻魔王が女性を抱いて鏡を見ている。署名の入れ方からみて、後姿を暁斎、鏡に写る姿を薫玉が描いたのであろう。閻魔が見ているのは「浄玻璃の鏡」である。地獄で亡者が裁かれる時に、生前の行いが映し出される鏡である。ところが映っているのは女性を抱く閻魔自身である。この閻魔の顔をどのように見ますか?

八尾狐図 狩野探幽(1602~1674)作  江戸時代前期(17世紀)

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江戸時代初期を代表する有名な御用絵師である。徳川家康が、江戸に幕府を設けると、幕府の奥絵師の地位を得て活躍した。この図は三代将軍家光が見た夢の光景である。寛永14年(1637)のこと、この頃家光は病気がちであったが、不思議な霊夢を見た。八本の尻尾のある狐が、御宮の方から家光の所へやって来て、家光に向かって奉り、御患いは、回復されるでしょうと告げて去っていった。夢から覚めて本当に元気になった家光は、八尾の狐を、夢に見た通り描くよう仰せになった、というのである。いかにも夢らしいファンタスチックな世界である。

蛙の大名行列 河鍋暁斎作   明治時代(19世紀)

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彼は擬人化した蛙の絵の名手であった。まるで平安時代の鳥獣戯画のようである。この「蛙の大名行列」も「鳥獣戯画」の後編と言っても良いほどの作品である。構図が巧みである。大名行列を大きくカーブを描き、蛙たちも、同じ方向から説明的に図示されることなく、色々な角度から捉えられている。お殿様はかなり幼いようだが、藩の事情だろうか。こんな絵が江戸時代には好まれたのであろう。面白さと描写の妙技が、現代の我々を魅了する。

円窓唐美人図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代後期(19世紀)

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西洋の技法を使って中国の女性を描いたもので、江漢の油彩画としては早い頃の作品であろう。遠くの山の立体感の表し方や女性の着衣の襞など、念入りである。画面全体としても力強い。当時の人は、この絵を見て、異国を目の当たりにする思いだったであろう。

虎図(部分)与謝蕪村(よさぶそん)(1716~1783)江戸時代(19世紀)

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俳画で有名な与謝蕪村の46歳の時の作品である。うねりながら近づいてきたような虎動き、頭を斜めにしてこちらに向ける視線、そして交叉させた前足や、画面の最上部まで伸びた尻尾まで、まさに「生きている」という感じである。江戸時代、虎の絵は人気があったそうである。しかし、本物の虎を見る機会が無かった。そこで海外からもたらされた絵が、参考とされたのであろう。

 

さて、どの絵が一番ファンタスチックだったでしょうか。私の好みから言えば①四条河原夕涼み図です。京都の夏は蒸し暑い。とても満足に眠れるものではない。そんな夏の夕暮れに、四条河原で夕涼みが出来たら、どんに京都の夏が過ごしやすかったでしょうか。因みに、向こう側に描かれた建物は、料亭の床と呼ばれる、川原に出された屋根の無い座敷である。ここの夕涼みは、京の贅沢の極みであり、私も何度も楽しんだ。この絵にあるように床の反対側は、現在は鴨川が流れており、立ち入ることは出来ない。②は気球図です。これを見た江戸時代の人はさぞかし驚いたことでしょう。③は蛙の大名行列です。なんともユーモラスで、まさに鳥獣戯画の延長線上です。しかし河鍋暁斎の絵は上手ですね。改めて感心しました。是非、一人一人が、「私のファンタスチックな絵」を選んで楽しんで下さい。

 

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代洋画の巨匠 黒田記念館 

黒田がフランスに留学した1880年代は「新旧入り乱れた坩堝のような絵画状況」(三浦東京大学教授)であった。アカデミズムは依然として権威を保っ一方で、印象派以降の様々な動きも台頭してきた。黒田は「外光派」と呼ばれるが、果たしてフランス絵画のどのような要素を摂取したか、かつどのように日本に移したか、まずは、代表作である「智・感・情」から見ていこう。

重要文化財智・感・情 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治32年(1899)

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この作品は、明治30年(1897)の第2回白馬会に「湖畔」などとともに出品された。等身大の日本女性が、裸体で描かれ、その大きさからも、また金地背景にあたかも実際にあるかとみまがうばかりに描写されている視覚的表現からも、裸体の体に日本画のような輪郭線を施す、という東西融合の実験的要素には、こと欠かない。大いに注目されたが、世評は必ずしも好意的ではなかった。明治28年に京都で開かれた第4回内国博覧会に黒田が出品した「朝妝(ちょうしょう)」を契機として、裸体論争がが盛んになっている中で公にされたことも一因となって話題を呼んだが,当時の評はあまり好意的ではなかった。その筆力を認める一方で、画題とポーズの意味が不可解であり,裸体画としても成功しているとは言い難いという批判もなされた。白馬会出品後、黒田自身による加筆ののち(1889年)、1900年のパリ万博に「裸婦習作」として出品され、日本の油彩画では最高賞に当たる銀賞を受賞した。同万博には「湖畔」も出品されたが、海外での評価は「智・感・情」の方が高かった。読売新聞の明治30年(1897)11月29日の記事には、次のように紹介している。(図録より引用)「中なるは感と言ひて、Impressionの意、右なるは智と言ひてIdeal、左なるは感と言ひて、Realの意なりとか」。この作品は日本の絵画史における意義としては、一つに描かれた裸体の意味するものを人々に考えさせたこと、即ち象徴としての裸体表現を広く知らしめたことにあり、二つめはそうした象徴的裸体表現を日本人の身体像によって行い、日本人の裸体像のカノンを築いたことにあるのであろう。本作が世に出てから、日本絵画に登場する人物像のプロポーションはこの作品に準じて大きく変わった。先人は何を取り入れ、どう苦闘したのか、その試行錯誤の足跡に新たな光を当てることになった。

裸体婦人像  黒田清輝作  油彩・カンヴァス 明治34年(1901)

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この作品は、1901年(明治34)秋の第6回白馬会に出品された。しかし裸体画は公序良俗に反するとして、警察の指示により下半身を布で覆って展示されるという、いわゆる「腰巻事件」をひき起こすことになった。黒田によれば、「最も困難で最も巧拙の分かる腰部の関節に力を用いた」のに「肝心の所へ幕を張られた」と述べている。フランスと日本では、社会環境や価値観が著しく異なることを目のあたりにした黒田は、フランスの精神風土を日本に根付かせることが課題になった。画家だけでなく教育者、行政官、政治家として,様々な役割を担う重要性を痛感したのであろう。黒田にとって重要なことは、現在「構想画」とも言われる、西洋美術の根幹である裸体画で構成された画面で抽象的概念を表す「理想画」を描くことであった。このように考えると、前遍のくくりで、私は「黒田の日本美術界に及ぼした功罪は大きい」と総括したが、これは私の矮小な誤解であったようである。黒田が目指したのは、絵画のみではなく、フランス絵画の前提となっている「近代化」を目指し、教育界、行政界、政治界全体の近代化を狙っていたのでは無いだろうか?黒田を絵画の世界だけで評価してはいけない。黒田は、日本文化全体の近代化を進める闘士となり、全力を傾けるために貴族院議員などになったのであろう。

昔語り(下絵 舞妓) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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フランスから帰国した明治26年(1893)の秋、黒田は初めて京都に遊び、清水寺近くの清閑寺(せいかんじ)を訪ねて、同寺の由来である平家物語の「小督(おごう)」の話にある高倉天皇と小督の悲恋にまつわる物語を岩佐恩順という僧から聞き、昔がよみがえってくるような不思議な体験をした折に得られたものである。1893年の写生帳に本作に関連する素描が複数枚描かれている。1895年の第4回内国勧業博覧会のために京都を訪れた際、西園寺公望に大作の制作を促され、本格的な制作が始まった。黒田は1895年の夏に京都の円山公園内に簡易なアトリエを建てて本作に取り掛かり、翌年4月に東京に移るまでの間には構図も決め、完成のための下絵を多く描いた。この下絵は、今回の展覧会でも36枚の多きに達していた。1部屋、まるまる「昔語り(下絵)」であった。

昔語り(下絵 構図Ⅱ)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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この下絵は第1回白馬会(1896)に出展されたものである。この完制作は西園寺公望の仲介によって、製作費の実費を西園寺の実弟、住友友純(ともいと)が負担した。当然、完成時は住友家に飾られたが、先の大戦の際に空襲で焼かれた。従って、現在残っているのは、下絵のみである。私は、先に久米の言葉として「幸福な才能」という表現をしたが、この膨大な下絵を見ると、黒田は、才能も優れていたが、むしろ下絵をふんだんに描く、努力の人であると思った。スケッチは画家ならば誰でもするのであろうが、この「昔語り」ほど、素描が沢山残されている例は知らない。

ダリア 黒田清輝作 油彩・カンヴァス  大正2年(1913)

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植物や花を好んだ黒田であったが、花の静物画は少ない。数点が知られているのみである。この作品は画面左下の年記から大正2年(1913)に描かれたものであることが分かるが、1913年4月に東京美術学校での教え子で、フランスに留学していた金山平三からダリヤの球根が届き、その球根から育った花だろうと推定されている。同年111月に大阪で開催された国民美術協会第1回西部展にも「ダリア」と題した作が出品されている。(本作と同一のものであるかどうかは不明)

自画像 黒田清輝作  油彩・カンヴァス 大正4年(1915)

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黒田は、1910年頃から、多数の名士の肖像画を描いている。例えば「桂公肖像」「大熊重信肖像」「寺島宗則肖像」等である。写真ではなく、本人と面接して描いたと言われ、著名人の時間の調節が、さぞかし大変だったろうと思われる。本作は自画像であり、大正4年、49歳の自画像である。でっぷりと太った貫録を示している。

梅林  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  大正13年(1924)

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大正12年(1923)末に黒田は宮内省に出勤中、狭心症で倒れ、翌年春小康を得て、箱根に静養、5月に帰京、7月15日没したが、春、小康をえたころは麻布の別邸の離れが病室に当てられていた。この作品はそこから庭を見て描いたものと思われる。絶筆となった作品である。

黒田記念館

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黒田清輝は、大正13年(1924)7月に58歳で没した。その際遺産の一部を美術奨励事業に役立てるようにと遺言した。それを受けて、昭和3年(1928)に建築竣工したのが、この黒田記念館である。館内には、遺族、門弟等から寄贈された黒田の油彩画、素描、写生帳、書簡等を展示するため黒田記念室が設けられた。この記念室は二階にあり「昔語り下絵」等の代表作を含む油彩画、デッサン等約50点が展示され、逐次入れ替えも行われている。2007年4月より、黒田記念館及び収蔵品は、国立東京博物館に管理が移行された。2002年には建物が国の登録有形文化財に指定された。黒田記念室に加え、2015年には、黒田の代表作である「読書」、「舞妓」、「湖畔」、「智・感・情」をそろえた特別室(新年、春、秋の各2週間公開、一階)を設けるなど、展示環境の充実が図られている。なお、2年ほど前までは、月曜休み、後は毎日開館であったが、現在は毎週木・土曜日が開館で無料拝観できる。念のため、必ず黒田記念館のHPを確認の上、見学することをお勧めする。なお、黒田記念館は、東京国立博物館の西隣りにある。

 

 

フランスで画家を志した黒田は、フランス画壇を標準として理想の画家像をつくっており、帰国後は、その理想を日本で実現できないこと、また理想に向かう試みが意図の通りに受け取られないことに苦しんだ。黒田は、画家として自由な自己表現を目指したが、黒田の構想画は理解されなかったようである。黒田が貴族院議員になったのは、日本に欠けていた「西洋の雰囲気」を、政治を通して実現しようとし、美術教育や美術にまつわる制度の確立のために尽力しようとしたと思われる。このように理解するならば、「黒田は日本洋画界に対し、功罪半ばする」と断言した前篇の言葉は、取り消さざるを得ないことになった。(無論、前篇を記載する前に、このことは理解出来ていたが、私の考えの変化の過程を理解してもらうために、あえて「前言を翻す」という記述にこだわったのである)

 

(本稿は図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画に巨匠  2016年」、図録「黒田清輝展 近代日本洋画の巨匠 2010年」、土方定一「日本の近代美術」、田中英道「日本美術史全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠

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黒田清輝(1865~1924)は、鹿児島市に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した)明治4年(1871)に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母になる貞子に伴われて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代を送った。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、維新後には、東京府参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、明治20年(1887)には、子爵をさずけられた。清輝は、10代になると、大学予備門を目指して英語を学び、ついでフランス語に転じ、17歳のとき、外国語学校フランス語科2年に編入した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉強する目的からである。明治17年(1884)に義兄橋口直右衛門がフランス公使に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。それから明治26年(1893)、27歳で帰国するまでの9年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己形成の時代に当たる、中でも、もっとも大きな転機は、法律の勉強から画家になることを決意したことであった。それは明治19年(1893)2月、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりがあり、そこで出会った画家山本芳翆(1850~1906)、工部省留学生としてパリに学んでいた同じく画家の藤雅三(1853~1916)らから、しきりに画家になることをすすめられたことであった。黒田は、自分の心情を養父に書簡を送った。この書簡の翌日に、さっそくフランス人画家ラファエル・コランに入門した。黒田が師事することになったラファエル・コランと言う画家は、今日ではまったく忘れ去られて人である。久米桂一郎(画家)は、後に「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代という言葉が浮かんでくる」(美術新潮)と回想している。ここで幸福な環境と言ったのは、富裕な貴族の子弟として年少にしてフランスに留学していることであり(1884~1893年、在仏)、幸福な才能と言ったのは、自然のまま絵画に近づき、才能が大きく成長し、そして彼が帰国したのは、日清戦争を経て、明治市民が「冷笑と反動」(徳富蘇峰の言葉)の長い期間を経て、ようやく彼方に夜明けを見た時であった。黒田がフランスに着いた頃は、フランスは普仏戦争の敗北とパリ・コンミューンの混乱を経て、第三共和政が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていた。黒田が入門した頃のラファエル・コランはサロンに入選を重ね、アカデミズムの中の新進画家として評価が高まった時期であった。時代的には、印象派全盛の時代であったが、黒田はコランの印象派の明るい外光表現とアカデミックで堅実な描写に新しさを感じ、受け入れたのであろう。また黒田は画業の始まり頃からバルビゾン派の画家ジャン・フランソッワ・ミレーに惹かれ、ミレーに傾倒した時期があった。

編物  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治23年(1890)(在仏中)

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黒田が画家として大きく成長するのは、1890年(明治23年)頃からであった。久米桂一郎(画家)とともに、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンを訪れ、ここに滞在しながら制作をすすめることになった。黒田がこの地に惹かれたのは、風景の美しさだけではなく、好みのモデルと巡りあったためだったと思われる。それが、マリア・ビョーという名前のこの村の農家の娘であった。留学時代の作品であり、サロンに初めて入選した「読書」や「婦人図(厨房)」に描かれた女性であり、この編物のモデルでもあった。黒田は、この娘の一家とも親しくなり、その一隅にあった小屋ヲ借り受け、アトリエとして使って制作に励んだ。マリアとの交際が深まり、黒田はビョー家の婿のようになっていたと言う。(国民美術)この時代の一連の作品は婦人の木炭画が優れている。油彩画ではいずれも色調が青で統一されており、清傑で明澄な画面となっている。窓を通して室内に指し込んでいるやわらかな光の表現を楽しんでいるようである。

読書  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治24年(1891)(在仏中)

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1891年に開催されたフランス芸術家協会のサロンに「夏の読書」のタイトルで出品、初入選した作品である。当時フランスには二つの協会が並立していた。黒田は、まず師のコランも出品する「旧の共進会」に入選し、フランス画壇へのデビューを果たした。本作品もグレーで黒田と恋仲になったマリア・ビョーをモデルに描き始められたものである。(久米桂一郎氏の記述)画面下には「明治24年 源清輝写」と日本語でサインが入れられている。これも作者が日本人であることがすぐわかるようコランから勧められたものであるそうだ。サロン出品後、この作品は日本へ送られ、1892年春の第4回明治美術会展に出品された。

風景(グレー黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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ロワン川に沿ったグレーの集落には、一本だけ橋がかけられていた。この図は、その橋の上から枯木を通して古塔を望んだ光景のスケッチで、この塔は「ガンヌの塔」と呼ばれ、12世紀のもであるが、黒田がこの作品を描いてから約10年後に、浅井忠が同じ場所の風景を描いている。黒田は在仏中に「パリー風景」等の作品もあるが、概してグレーのような農村のスケッチが多い。恐らく、ミレー等の影響を強く受けたのであろう。

赤髪の少女 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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萌えいでた緑のなかに、背を向けて立つ少女。この人物そのものの表現よりも、赤髪のうえに映える陽光、したたるような樹葉の輝きなどに描写や表現力の力点がおかれているようである。在仏中の作品の中では、一番印象派的要素が強い作品の一つである。美術商林忠正(浮世絵の画商として知られている)の旧蔵品であり、当時のヨーロッパにおけるジャポニズム盛行に重要な役割を果たした林との交友をしのばせるものとなっている。

婦人像(厨房)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)在仏中)

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黒田は、1891年11月に本作の制作に着手し、完成したのは1892年の3月頃であった。黒田は、秋の景を描いた油絵1枚とともにサロンに提出したが、2点とも落選した。しかし、師であるコランが本作品を評価したためか、黒田は「どこに出しても恥ずかしハないつもりです」と母宛に送っている。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめる女性は、画面左上から差し込むたやらかい逆光に照らされている。マリアの姉の家に投宿しており、この作品はその家の台所であると見られている。「読書」と違って、質素な作業衣風の衣服を着けていることからも、グレーの自然の生活の中から生まれ出た作品だろう。「編物」、「読書」、「婦人像(厨房)」は、同じモデルを使った、在仏中の傑作である。

フロレアル(花月ーはなつき)ラファエル・コラン作油彩(1886年)

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黒田のフランスでの絵画の師であった、コランの作品である。(オルセー美術館)黒田は、「コラン先生追憶」の中で、次のように回想している。「此の時代の代表作は、ルクサンブール美術館にある”フロレアル”で,花時というやうな感じで描かれたものです。それは湖水の辺りの美しい草原に、裸体の女が草の羽を咥えて臥ている図で、有名なものです。裸体の柔らかい外光の肉色を描くことは巧妙なことは、先生を以て現代の第一人者と推さねばなりません。」

重要文化財舞妓(まいこ)黒田清輝作油彩・カンヴァス 明治26年(1893)

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明治23年(1893)の夏、9年におよぶ留学より帰国した黒田は、その年の秋に久米桂一郎とともに京都に旅行した。東京育ちの黒田にとって京都は初めての地であった。長らく日本を不在にした者の眼には、京都の風俗が新規に映ったようである。そのような眼差しのもとに描かれたのが「舞妓」であり、帰朝後の傑作である。鴨川を背景にした舞妓の着物を描くに当たり、黒田は黄、朱といったさまざまな色のタッチを散らしながら、その柄を表現している。留学時代には、好んで田園風景や田園の女性を描いた黒田は、新しいモチーフを前に、堅実なアカデミズムの描法から解放された画面は、色彩豊かな輝きに満ちている。京都旅行のデッサンも3枚付けられていた。

昼寝(部分) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治27年(1894)¥img545

黒田は鎌倉の別荘に移って夏を過ごした。この作品はそのときに描かれたものである。草上に午睡する少女に真夏の強い太陽の光が樹間をとおしておちているさまを生々しい赤と黄の色の細い線で描きだしている。黒田が外光派を超えて印象派的色彩を最も濃厚にみせたのは、この夏の制作であった。印象派の筆致や光の表現が用いられている。こうした画風は従来の日本の洋画とは一線を画すほど新しく、「新派」あるいは「紫派」と称された。

重要文化財 湖畔 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

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箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの麗人は、現在では「湖畔」の題名で広く知られているが、明治30年(1897)の第2回白馬会展では「避暑」の題で出品され、1900年のパリ万博にも出品されたものである。明治30年夏、黒田は照子夫人を伴って箱根に避暑のため滞在、そのときに描かれたものである。本作ではモデルの浴衣を湖面と同様に青色系の色でまとめて統一感をもたせ、優れて調和のとれた画面に仕上げている。この傑作も、また「紫派」の名前がぴったりの作品であろう。但し、田中英道氏は「日本では名作とされているが、世界的にいえば平凡な作品に過ぎない」という厳しい意見を述べていることも、付け加えておく。

 

黒田は、東京美術学校の洋画科の最高の指導者になり、新人画家を養成し、それらの弟子たちはまたラファエル・コランの教室に入り、文展設立とともに黒田清輝=コランの画風が、団体で言えば白馬会系の画風が文展という唯一の官設展の支配的画風となった。官尊民卑の国の官営展を支配した上に、文部省の美術政策は敗戦まで、この官設展だけを保護するという官僚統制の美術政策であったために、白馬会系の日本的アカデミズムは、長く近代日本の美術界を支配し続けた。黒田清輝は、声望を一身に集めた当代一流の巨匠として、文展(官営展)の審査員ばかりでなく、さまざまな展覧会の審査員、会長、顧問を兼ねて、大正9年(1925)には森鴎外の後を継いで第二代の帝国美術院長となり,公私とも多忙となった。当然、絵画を画く時間も少なくなり,晩年は小さなデッサンばかりという状態であった。黒田清輝の日本美術界に及ぼした功罪は極めて大きいと思う。(あくまでも私感)しかし、黒田清輝展であるから、かれの罪を唱える言葉は、図録のどこにも出て来ない。止むを得ぬことかも知れないが、あえて一言言及しておく。

 

(本稿は、図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 2016年」、図録「近代日本洋画の巨匠  黒田清輝  2010年」、土方定一「日本の近代美術」田中英道「日本美術全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)