大原美術館  日本の近代洋画

大原美術館は、昭和5年(1930)、大原孫三郎氏の手によって開館し、わが国最初の西欧絵画の美術館が誕生した。昭和10年(1935)に、財団法人に改め、戦後も蒐集を続けた。戦後新たにセザンヌ、ドガ、シスレーなど19世紀絵画や、ピカソ、ルオー、ブラックをはじめとする20世紀のエコールド・パリの巨匠たちの作品を加え、更にカンディンスキー、キリコ、ニコルソン等の現代絵画までに及んだ。これと前後して明治、大正,昭和の三代に亘る近代日本の洋画の代表作品も併せて蒐集した。昭和35年(1960)に開館30周年を記念して新館を設立し、古代エジプト美術品やペルシャ美術陶器などを陳列した。更に昭和36年(1961)には、陶器館を建設し、バーナード・リーチ、宮本健吉、河井寛次郎、浜田庄司のいわゆる民芸作家の陶器類を陳列し、更に昭和45年(1970)には東洋館、47年(1972)には児島虎次郎館を増設した。今回は民芸、版画、染色、古代美術の紹介は省略する。

和服を着たベルギーの少女  児島虎次郎作 油彩・カンヴァス  1911年

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児島虎次郎は1902年に東京美術学校西洋画予科にに入学し、黒田清輝に学んだ。この年、大原家の奨学生となり、1歳年長の孫三郎との親交も始まった。この作品は、ベルギー時代の児島の代表作である。明るく鮮やかな色彩と躍動感あふれる筆遣いは、児島が指導を受けたエミール・クラウスによるベルギー印象派の影響を示している。画面には、少女の髪や顔に施された細かい筆触や、着物の柄を模した闊達な筆触、また帯に見られるペインテイング・ナイフの使用など様々な技法が用いられている。本作品は快心の出来映えであり、フランスの国民美術協会展で初入選した。

男の顔  青木繁作  油彩・カンヴァス   1903年

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明治44年(1911)に僅か29歳で世を去った青木繁は、明治の洋画壇に特異の画風を残したまことに天才と呼ぶに相応しい画家であった。「男の顔」は明治37年(1904)美校を卒業する年に制作したもので、自画像ではあるが、彼はこのなかにジンギスカンのような東洋的英雄の風格を表現しようとしたらしい。暗い背景のなかから浮かび上がる表情には、幻想的なロマンチックな情熱に憧れた多感な青年の夢がある。

雲のある自画像  萬鉄五郎作  油彩・カンヴァス   1912年

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大正期の日本洋画壇はフランスのフォービスムやキューヴィスムが相次いで紹介され、多くの画家がその洗礼を受けることに成るが、それの運動を最も鋭敏に把握したのが萬鉄五郎であった。萬鉄五郎の芸術は、大正期を通じてもっともユニークで本質的な新しさをみせたので、その足跡は鋭敏な観察力と高い叡智と情熱とをもって、近代絵画の正しいコースを示し、昭和期の日本洋画への大きな発展の道を開いたものと言える。本作品は、初期のフォービスムの影響を受けたところのある作品である。強烈な色彩の対比や奔放な筆致のなかに、新鮮な風をいっぱい吸い込もうとする彼の自由な若々しさがあふれている。

重要文化財 Nの家族  小出楢重作  油彩・カンヴァス  1919年

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小出楢重は佐伯祐三とともに大阪の生んだ最も傑出した画家でああった。大阪に生まれ、芦屋で亡くなった典型的な関西人に気風を持つこの画家は、大阪人の粘っこい体質と気質とを、油絵独特のマチェールや造型のなかに余すところなく表現した。大正8年(1919)彼の出世作ともなった「Nの家族」を描き、二科展に出品して樗牛賞を受け、その才能を認められた。彼自身とその妻子を描いたこの作品は色彩を渋く暗い調子でありながら、セザンヌの影響を思わせる堅固な安定した粘りのある作風を示している。

重要文化財  信仰の悲しみ  関根正二作  油彩・カンヴァス 1918年

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大正期と言う時代は、きわめて特異で個性的な画家、いわゆる異色の画家と呼ばれた人たちを生んだ。萬鉄五郎、村山槐多、関根正二などがその代表的な画家であるが、わけても関根は異色な存在であった。明治32年(1918)福島県に生まれ、僅か20歳で亡くなった。「信仰の悲しみ」は彼の代表作で、その芸術的意図や素質のすべてこの作品のなかに凝集されている。この頃彼は強度のノイローゼに悩まされいたが、ある日、日比谷公園に休息していた彼の前を共同便所から出てきた4,5人の女たちが通り過ぎるのを見て、不思議な幻想にかられて描いたという。朱や青や黄の衣をつけた女たちが髪をたらし、うなだれて、暗く重苦しい空の下を黙々と歩む。鮮やかな色彩が陽炎のように燃えて,観る人を幻想的な世界に引き入れる魅力を持っている。関根は当初「楽しき国土」と題していたが、友人から逆の評を得て「信仰の悲しみ」に変更した。関根は、この絵について、次のように述べている。「朝夕孤独の寂しさに何者かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです。あれは未だに完全に表現できないのです」と。本作品を気に入っていた大原総一郎は、「関根の数少ない絵の中でも傑作だがら、大切にするように」との言葉を残している。(図録より引用)

頭蓋骨を持てる自画像  中村彜(つね)作  油彩・カンヴァス 1923年

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明治末から大正期にかけて日本の洋画画壇には多くの傑れた画家が生まれた。中村彜もその一人であった。優れた才能を持ち、文字通り絵画に生命を賭けて37歳の若さで倒れたこの画家の生涯は短かったが、その残した仕事は日本洋画史上に不滅の光を放つものである。本作は死の前年である大正12年(1923)の作である。すでに自己の死を予感したごとく彼は髑髏(どくろ)を題材とした作品を描いている。ここにはセザンヌとゴチック建築の影響がある。彼は抽象的な方法を試みている。この病弱な画家が死に直面しながら渾身の力を振り絞って掻き上げたまことに力動感に溢れる作品である。

広告”ヴェルダン” 佐伯祐三作  油彩・カンヴァス  1927年

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1917年に大阪より上京した佐伯は、川端学校で藤島武二に師事、翌年に東京美術学校予備科に入学した。1923年に妻子とフランスへ出発。翌24年の夏、里見勝蔵に連れられモーリス・ド・ブラマンクを訪れた「アカデミック」と批判されて転機を得た。この頃の佐伯はヴラマンクの強い影響が残っていたが、佐伯は、パリの街、裏街風景に向かい、太い筆触やや技法はヴラマンク的でありながら、ヴラマンク的な激しい劇的な自然の解釈から退いた、ユトリロ的な静かなピトレスク的な解釈に向かい、佐伯の人間的な生活的な哀愁深まる画面となっていく。本作品は佐伯祐三にしか見られないパリの裏町の、ちぎれそうになったポスターの一杯貼られている壁の、沈鬱な哀愁に翳る画面となっている。VERDUNとは、大一時世界大戦でフランス軍がドイツ軍の猛攻を防いだ街の名である。パリの裏町風景を美しいと思う佐伯の伝統をついでいるのは荻須高徳(おぎすたかのり)である。

舞踏の前  藤田嗣治作  油彩・カンヴァス   1925年

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20世紀前半のパリ画壇では、マチス、ルオー、ブラックらの純粋なフランス人画家と、ピアソ、モジリアーニ、シャガール、藤田などの異国の画家たち(エコールド・パリ)が、それぞれの個性的な仕事で、その美を競っていた。藤田は独自の東洋的技法でパリ画壇の寵児となった。藤田は、東洋的な技法(むしろ浮世絵風と呼んだ方が正しいかも知れない)をヨーロッパの伝統的な油絵の中に取り入れることを試み、面相筆の細い線で形を包み、淡い墨をぼかしたマチエールで、いわゆる「乳白色の地肌」を作り上げたが、これが繊細優雅を好み、エキゾチズムに憧れた当時のパリの人達に大きな声望を博し、彼は一躍パリの流行児となった。本作は、藤田の最高傑作と言われた。この作品には乳白の肌と黒い線と、ほのかな黄、青、ピンクなどの抑制された色彩とが完璧に調和して、彼の技法がここに凝縮されている。

深海の情景  古賀春江作  油彩・カンヴァス   1933年

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古賀春江は大正末期から昭和初期にかけて立体主義、シュールレアリスムを反映させた日本人画家としては特異な存在であった。本作品は、彼の死の年に描かれた作品で、深い海の底のさまざまな魚や海草が揺れ動き、この画家の不思議なイメージを展開している。動物の顔をした白い生物はグラフ雑誌の舞踏に関するページから、深海の不思議な生物は、少年雑誌から転用したものである。本作品の完成時には、すでに古賀の衰弱は激しく、友人の高田力蔵がサインを代筆したと伝えられている。

被毛氈  満谷国四郎作  油彩・カンヴァス   1932年

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満谷は明治44年(1911)秋から二回目の渡欧を果たし、パリではローラスに師事した。またセンザンヌやルノアールの影響を受けたと言われてる。彼が、この二人の巨匠からその芸術の本質をどの程度学んだかは疑問であるが、彼はセザンヌから画面構成や表現方法を、またルノアールからは装飾的な効果を学んだものと思われる。しかし、この二人からの影響は満谷の後期の装飾的な東洋風の様式へすすむ動機となったことは、彼にとっては極めて重要なことであった。本作品は昭和7年(1932)の制作で、満谷国四郎の晩年を飾る傑作として知られている。黄,朱、黒などの極度に単純化された色彩と簡潔な構図によって、彼の晩年の東洋画風な様式がよく示されている。ゆるやかな情感がただよい,観る人をしみじみとした雰囲気のなかに誘ってくれる。

孫  安井曽太郎作  油彩・カンヴァス    1950年

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安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和の洋風画壇の重鎮として活躍した。彼が梅原と同年の明治21年(1888)に同京都に生まれ、よきライバルとして、またきわめて対照的な個性や画風によって常に画壇の中心的な存在であった。本作は昭和25年(1950)の制作であり、彼の晩年を飾る傑作である。自分の肉親を描いただけに、のびのびとした自由な雰囲気と、生き生きとした情感にあふれている。安井芸術の特質がここに結集されているように見える。

耕到天   藤原武二作   油彩・カンヴァス   1938年

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昭和13年(1938)に制作され、その年の第二回文展に出品されたもので、藤島武二の晩年を飾る傑作である。積み重なって天に迫る自然の壮大さと、緑の麦畑と茶の山畑と咲き乱れる花の色彩が交錯して続く装飾的な効果とが、力強い筆致と大胆な構図によって十分に表現され、晩年の円熟した力量が画面の中に感じられる。彼は明治、大正、昭和の三代にわたり日本洋画の発展とともに常に革新的な道を歩んだ画家で、洋画壇に残した足跡は極めて大きい。「耕到天」(耕して天に到る)とは、貧しさを語る言葉であるが、この画面にはたゆまざる勤労のたくましさと豊かな自然を感じさせることは、この画家のなみなみならぬ力量を示すものである。

 

日本の近代洋画を所蔵する美術館は、国立近代美術館、神奈川県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館、大原美術館の5大美術館をおもい起すが、この中で、特に、質,量を誇る美術館は大原美術館だと思う。いずれ劣らぬ美術館であるが、大原美術館は、歴史、資力、選定力で群を抜く力を示す。特に大原美術館は、倉敷にあり、関東でない点を高く評価したい。西日本の近代日本美術を愛好する方には、欠かせない美術館である。今回、たまたま月曜日の午後に時間が出来て、開館している美術館を調べたら、国立新美術館に、大原コレクションを展示していることを知り、10数年ぶりに観覧することが出来た。展覧品には、古代エジプト、中国、21世紀美術品、民芸等多数の展示品があり、興味深く観覧したが、取りあえず西洋、近代日本の洋画を2回に亘り、書き綴った。更に大原美術館に行く機会に恵まれたら、他の分野も取り上げてみたい。

 

(本稿は図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

大原美術館   西洋の近代絵画

国立新美術館において「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」が16年1月8日より4月4日まで開催されている。大原美術館は、西洋近代絵画、日本近代絵画、オリエント・中国古代美術品、現代、21世紀の美術品に至るまで、幅広い取集で知られている。大原美術館は岡山県倉敷市に1930年(昭和5年)に開設され、日本では最初の私立美術館となり、今日でも西洋近代美術品では、国立近代美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館と並んで、4大美術館の地位を確保している。創業者の大原孫三郎氏は、児島虎三郎氏、満谷国四郎氏などに協力を依頼し、100年以上に亘って取集活動を続け、幅広い分野での美術品取集を現在でも続けている。日本近代絵画では、重要文化財2点も所有しており、年間100万人以上の入館者を誇っている。大原孫三郎氏は「倉敷紡績」(現在のクラレ)の経営者であり、大原社会問題研究所、大原農業研究所、労働科学研究所など幾多の文化事業を残し、中でも美術館が一番自分の負担になったと述懐されたそうである。私は、近代絵画の勉強のため10回以上大原美術館を訪れ、どれほど多く勉強させてもらったか知れない。岡山、広島等への出張を利用して訪れたものである。

受胎告知   エル・グレコ作  油絵  1590~1603年

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「エル・グレコ」とは古いスペイン語で「ギリシャ人」を意味し、画家がクレタ島出身であることに由来している。この作品は、古くから1600年前後の作品と解され、紫がかった朱,黄の強烈な色調や、暗い背景と輝くような光芒の激しい明暗の対比、マリヤや天使ガブリエルの長く引き伸ばされた彼独特の変型は、彼がイタリアで学んだヴェネチァ派やミケランジェロの影響の名残があるが、ここではもはやグレコ独特の様式であり、スペイン的感情がある。1922年にパリ画廊で売りに出されたのを児島虎次郎氏が見つけ,高額であったが大原孫三郎氏に打診し購入に至った。大原美術館所蔵のうち唯一のオールドマスターズによる作品である。

幻想  シャバンヌ作  油絵   1866年

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高い崖を背景にした森の中で、腰掛けたニンフがペガサスーこの羽翼の馬は一般的に幻想の象徴ーを捉えようと葡萄の蔓を投げ、その近くで子供がリースを作っている。女性のポーズはアングルによって古代ローマの壁画にあるモチーフを思い起こさせる。牧歌的な雰囲気を作りだし、古代の神話へいざなうシャバンヌの力を<幻想>は、典型的に示すもので、1866年のサロンでは大きく注目を浴びた。(この「幻想」は2014年3月の「美」の「水辺のアルカイダ」で取り上げている)

アルプスの真昼  ジョヴァンニ・セガンティーニ作  1892年

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この作品は1892年、すなわちセガンティニの中期の終わり頃のもので、彼の全作品の中でも傑出した名作である。彼は印象主義の理論と技法をグラビティから教わり、この作品にも新印象派の色彩分割の技法が余すところなく用いられている。単なる模倣ではなく、自己の中に吸収しつくしている。セガンティーニは自分の妻子、ごく少数の理解者以外に、殆ど親しく交わる人も無く孤独であった。この作品は、明るく輝く陽光の下にたたずむ羊飼いの娘の平和な姿に、表面的な描写以上に、彼の宗教的な自然観が窺える。都会を嫌悪してバルビゾンの村に閉じこもったミレーの心境に似通ったところがある。

泉による女  オーギユスト・ルノワール作    1914年

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ルノアールがこの「泉による女」を描いたのは亡くなる5年前、すなわち彼の73歳の時で、最晩年の作品である。老齢でしかも身体の不自由なルノアールがこのように瑞々しい豊麗な裸婦を描いたとは誰も信用しないほどである。ルノアールの所謂「乾いた時期」が数年続くが,晩年には再び豊麗な色彩が甦り,彼独特の画風が確立された。彼は印象派の光としての色にこだわらず色彩そのものの価値を自由に生かして輝くような画面を作り出している。若い娘の肉体の持つ豊かさ、感応的甘美さを、これほどまでに自由に描いた画家がいるであろうか。

かぐわしき大地  ポール・ゴーギャン作         1892年

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ゴーギャンは1891年、南太平洋の孤島タヒチに向けて旅立った。野性的な性格の持ち主であり、絶えず野蛮と原始への憧憬にかり立てられていた彼は、自分の魂を煩わすことのできないヨーロッパの合理的な文明生活に見切りをつけ、絶海の楽園を夢見てタヒチ島に渡った。「かぐわしい大地」は1892年に描かれた。「ここは幻想的な果樹園、その誘惑的な草木の群れがエデンのイヴの欲情をそそる。彼女の腕が恐る恐る伸びて悪の華を摘もうとし、そのとき怪鳥がの赤い翼がはためいて彼女のこめかかみをかすめ打つ。」これはゴーギャンが自ら彼の「私記」のなかに引用しているドラローシュの文の一節である。この堂々たる傑作も、93年に彼がパリに持ち帰り、オテル・ドルオで個展をしたときには誰も顧みるものはなかった。

「髪」 エドモンドー=フランソワ・アマン=ジャン作    1912年頃

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1878年にパリの国立美術学校に入学し、ポスト印象派に影響を受け、美術学校を中退。やがてアカデミックな写実的描写に印象派などの手法を折衷したスタイルを確立し、甘美な女性像を描いて人気を博した。全体的に柔らかい色調で描かれた本作品も、女性の姿が優美に表現されている。ウエーブした亜麻色の豊かな髪は、肌を露わにした上半身と相まって官能的な雰囲気を漂わせている。当時フランス画壇の重鎮であったアマン=ジャンの作品が日本の画家にとって有益と考え、本作品の購入を大原孫三郎に依頼した。送金を受けて、児島がアマン=ジャン宅を直接訪れて、作品を受け取った。この「髪」が大原コレクションの第一号である。

「マルトX夫人ーボルドー」 ロートレック作    1900年

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この絵はロートレックの最晩年の作である。彼は若い頃ベラスケススやゴヤ、アングルの影響を受けた。しかし「ロートレックに何よりも大きな影響を与えたのはドガと日本の浮世絵版画であった」とダグラス・クーパーが述べているように、1885年ごろ初めて会ったドガからはきびしいデッサンを、浮世絵版画からは色彩の単純化と簡素な表現を学んだ。この作品に描かれた夫人はモンマルトルの女ではなく、貴婦人の一人である。独特の線とすみずみまで丹念に塗られた色彩とが融合された堂々たるできばえで、彼の作品の中でも指を屈する傑作である。

「マチス嬢の肖像」  アンリ・マチス作    1918年

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20世紀前半のパリ画壇は「ベル・エポック」を背景にパリを中心とした華麗な華を開かせたが、その中でもっとも輝かしい光彩を放ったのはマチスの作品であった。1869年北仏ル・カトーに生まれた彼はパリの美術学校でモローに師事し、その後印象派や新印象派の影響を受けるが彼がもっとも感銘を受けたのはゴーギャンとゴッホの作品である。二人の影響によって20世紀最初の革命的な美術運動であるフォービズムが生まれた。この絵は、構図と色彩の単純化が追及されている。背景の青、帽子の白、顔のピンク、衣服の茶などの色彩がすべて同じ比率で、同じ強さで描かれ、巧みに組み合され調和されている。多様にして単一なるもの、秩序、調和の創造こそマチスの追及する課題である。この作品は児島虎次郎が直接マティスを訪ねて手に入れたものである。モデルのマルグットが売却を拒み、マチスが説得したというエピソードが伝わっている。

「ジャンヌ・エピュルヌの肖像」 モディリアーニ作   1919年

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10代で絵画の手ほどきを受けていたモデイリアーニは、26歳の時にパリに出てモンパルナスを拠点に活動し、藤田嗣治やシャイムス・スーテンらと交流したいわゆるエコールド・パリの画家である。本作品に見られる、全体的に細長く引き伸ばされ、目には瞳が与えられず、ほぼ正面を向いて幾分首をかしいだポーズは、モディリアーニの典型的な描き方である。肩と両腕がなだらかな曲線を描き、画面の下で手を組むことによって胴体は楕円形を構成している。円形のイメージが強く打ち出されている。描かれている女性は、画家の妻ジャンヌである。ジァンヌをモデルにした作品をモディリアーニは短い生涯においておよそ30点余り制作している。

 

倉敷の街は、江戸時代には天領であり、4公6民と言われ、税金は収獲の4割であり、豊かな生活が送られた。町衆が力を持ち、天領は日本中では400万石と言われた。これが徳川幕府の収入となり、倉敷には代官所があるのみで、諸大名の領地に較べれば、行政コストが安く済んだ。天領を実質的に動かしたのは商人たちであった。そして町の在り方は、商人たちに自治や公益性に対する意識を醸成させた。この街の持つ雰囲気と、大原美術館を創設した大原孫三郎に対する尊敬の念が、何時も私を倉敷に引きつけるのである。2010年に開館100周年を迎え、次のような使命宣言をしたそうである。

1.アートとアーチストに対する使命

2。あらゆる「鑑賞者」に対する使命

3.子どもに対する使命

4.地域に対する使命

5.日本と世界に対する使命

この5つの使命宣言は、大原美術館ならではの宣言であると思う。

 

(本稿は、図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、福島繁太郎「近代絵画」、司馬遼太郎「この国のかたち」第二巻を参照した)

伊藤若冲   動稙綵絵

江戸時代の画家を代表する尾形光琳が亡くなったのは正徳6年(1716)で、今年は光琳没後300年忌である。ところが、この同じ年、すなわち正徳6年(1716)はまた二人の大画家、伊藤若冲と与謝蕪村が生まれた年でもある。若冲と蕪村の名は、ともに同時代に刊行された人名録「平安人物志」の「画家」の項に載っている。この「平安人物志」は明和5年(1768)に初版が出て以後、慶応3年(1867)まで、計9回にわたり刊行された。若冲と蕪村の名が「平安人物志」に載るのは、明和5年の初版と、安永4年の再販、天明2年の三版の3回にわたってであり、二人はそれぞれ「画家」として登録されている。初版の「画家」のトップは大西酔月で、今日では殆ど知られていない。この画家に続いて、応挙、若冲、大雅、蕪村の四人が並んでいる。二版になると,他界した大西酔月の名は消え、応挙、若冲、大雅、蕪村と並ぶ。伊藤若冲は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(昭和44年ー1969)で突然、名を表した奇人と思っていたが、江戸時代には指折りの大画家であることを知った。同氏の「奇想の図譜」(昭和44年ー1969)もほぼ同じ時期に刊行された図書である。私が「伊藤若冲」を知ったのは、平成21年(2009年)の「御即位20年記念特別展」で、伊藤若冲の動稙綵絵(どうしょくさいえ)全30巻を見た時である。その写実力、彩色の鮮やかさに仰天した。動稙綵絵の一部をご紹介したい。(すべて三の丸尚蔵館所蔵)

芍薬群蝶図 伊藤若冲作  宝暦3~明和3年頃(1757~1766)江戸時代(18世紀)

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さまざまな花の相を見せる芍薬の花の上を、いろんな蝶の群れが飛んでいる。芍薬の花は実に生き生きと描かれているが、ほとんどの蝶は翅(はね)をいっぱいに広げた姿で空中を飛んでいる。一羽だけ花にとまり変化を見せている。本来動きを見せるべき蝶は、完全に静止しているように見える、実際に写生しているようで、どこか現実離れしている。これが若冲の写生である。同じ写生派でも、応挙はプロ、若冲はアマと評価される所以であろう。蝶の動きは別として、芍薬の花の描き方は尋常ではない。これが若冲の魅力だろうか。

大鶏雌雄図  伊藤若冲作  宝暦9年(1759)  江戸時代(18世紀)

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若冲は、若い時に狩野派に入門したが、所詮狩野派を超えることは出来ないと考え、狩野派を捨て、宗元画を学ぶことにしたが、宗元の名手と競ったところで優劣は明らかである。「物」を描いているのに、自分がそれを写していたのでは,差は隔たる一方であると考えた。とどのつまり、動稙物を観察して描く以外に方法が無いことに気付いた。ここが若冲の優れたところである。鶏を窓下に数十羽飼い、それを写すことに数年を費やした(即物写生)。若冲は鶏の絵が実に多い。この動稙綵絵の中でも何点もの鶏の絵が採用されている。ついには、鶏の画家と呼ばれるまでになった。ここに美しい羽の色を誇る雄鶏(おんどり)と、全身が真っ黒な雌鶏とを、背景も無い空間に絶妙なバランスを取って向かい合わせている。今にも動き出しそうな二羽の姿は、画家の鋭い観察眼がもたらしたものであろう。

老松孔雀図  伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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孔雀は異国の鳥だったが,羽の美しさから喜ばれ、日本にも早くから渡来して、親しまれてきた。若冲の時代には、京の祇園の孔雀茶屋というものがあり、容易に実物を目にすることができた。このほど存在が確認された「孔雀鳳凰図」(双幅)は、この動稙綵絵の老松孔雀図と図柄が似ているとのことである。この所蔵者は、安芸広島藩浅野家12代当主である浅野長薫氏であった。若冲の絵の来歴の中で、「武家と直接的な関わりを示す作品は聞いたことが無い」というのが一般論だった。若冲は、自分の描いた絵を売る必要が無い優雅な身分であったため、その作品の多くは臨済宗や黄檗宗の寺や寺社に納められるか、商家に伝わったと見られる作品が大半である。浅野家と若冲の由来は不明であるが、大名家が所蔵したのは、この作品が最初であり、いずれその理由が明らかになるだろう。

老松鸚鵡図  伊藤若冲作          江戸時代(18世紀)

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まるで大蛇のような松の木に二羽の鸚鵡(おうむ)がとまり、奥の枝には緑色のインコも加えられている。当時、身分の高い人や裕福な商人の間で、このような異国の鳥を飼う趣味が流行っていたが、普通は鳥籠のなかで飼って鑑賞したものである。このように戸外で放し飼いすることはありえなかった。渓流沿いの自然環境の設営は、空想の絵空事として喜ばれたのであろう。

梅花群鶴図  伊藤若冲作         江戸時代(18世紀)

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花の開いた梅の木のかたわらに、鶴が体を寄せ合い、思い思いの方向を向いている。一見5羽に見えるが、足が11本見えるところから6羽のようである。鶴の描写は中国画から学んでいるが、それを群れとして描いているところが、若冲独特の感覚であり、誰の真似でもない。魅力的な作品である。

群鶏図   伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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彩絵の中で9図を占める鶏連作の集大成ともいうべき作品である。全部で何羽の鶏が描かれているか、判らないが鶏冠(とさか)の数で、ようやく13羽と確認できる。若冲の観察力と想像力、装飾的才能がみごとに融合している傑作である。余談ながらブログに絵画を取り込むためには、1MK以内に縮小する必要があるが、この群鶏図は3KM以上の濃さがあり、縮小するのに一番手間がかかった。顔料が多く、かつ西洋渡来の染料も用いられていたのではないかと推測している。

貝甲図(ばいこうず)  伊藤若冲作        江戸時代(19世紀)

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この絵は貝尽くしを試みたもので、潮の引いた浜辺にさまざまな種類の貝が集められている。自由に装飾と空想を加えた形と色の千変万化が見られる。甲は殻の意味で、これほどの形や色や大きさが異なる貝殻の知識を、どこから、誰から仕入れたのであろう。正に博物学の世界である。18世紀後半の京都市民が生んだシュルレアリスムである。マニアックで、非現実的光景である。

諸魚図   伊藤若冲作            江戸時代(18世紀)

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魚だけを集めて描いた魚尽くしの絵である。右上から左下に向かって泳ぐ魚たちの群れを横から描いたもので、大小の蛸が主役の役割を果たし、見事な鯛が目だって大きく描かれている。鯛の左下前方を泳ぐルリハタという魚には、当時ヨーロッパから伝わったばかりの絵具、ベルリンブルーが使用されている。鎖国当時の京都にいて、外国文化への関心や好奇心が強い若冲であった。

 

 

若冲は京都錦小路通にあった青物問屋「枡屋」(ますや)の長男として生まれた。23歳のときに父親が亡くなったため、四代目枡屋源左衛門として青物問屋を継いだが、若冲がいつから絵を習い始めたかは不明である。ただ、若冲が明和3年(1766)に造った寿蔵(生前墓)に刻された銘文によれば、当初は狩野派の絵師に学んだとする。40歳で家業を次男・宗厳(そうがん)に譲って以降、絵の制作に没頭していった。基本的に注文によって制作する他の画家と違い、若冲は隠居後も、生家の経済的援助を受け、良質な絹・紙・顔料などを贅沢に使い、自分自身のために絵を描いていったと考えられ、相国寺や大雲院、正伝寺などの代寺院の什宝を写す機会に恵まれた。

若冲の代表作である動稙綵絵30幅の制作は、宝暦7年頃から画き始め、明和3年(1766)には完成していたと考えられる.若冲は42歳頃から約10年の歳月を掛けて完成したものと推定される、この大作は、若冲が精神的にも、経済的にも、最も充実した時期に描かれたものである。この絵は、釈迦三尊像とともに相国寺に寄進した仏画であるが、その鮮やかさ、意表をつく荘厳さで評判となり、若冲の名を高めた。若冲の言葉「千栽具眼の徒を俟」は、自分の絵を理解する人が現れるまで千年待つという意味で、その言葉通り、さまざまな技法や表現駆使しており、若冲の作品は、時を超えて多くの人をひきつけてやまない。

「動稙綵絵」30幅は、明治22年(1989),下賜金の返礼として相国寺から皇室へ献納され、現在宮内庁の保管となっている。これは法隆寺の小金銅仏と同じ形であり、下賜金(1万円)の名目で,皇室が徴収したものと私は理解している。(時価に換算すれば、何十億円の価値であろう。明治政府も”えげつないこと”をしたものだと思う。)もっとも法隆寺側は「宝物が寺外の各所に散逸ししまい、一括の宝物として維持することが困難になるという予想は十分にあった」とし、下賜金をもって「伽藍などの修複、整備も緊急の課題であった」とも述べているが、私は後から付けた理屈に見えてしょうがない。(以上はすべて私感であり、実際にどのような想いがあったのかは知る由もない)

 

 

(本稿は図録「御即位20年記念特別展  皇室の名宝1 2009年」、図録「生誕300年同い年の天才絵師 若冲と蕪村  2015年」、図録「岡田美術館名品選 2013年」,辻惟雄「奇想の系譜」,辻惟雄「奇想の図譜」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、澤田弘子「若冲」、図録「特別展 法隆寺献納宝物」、日経新聞2016年3月4日記事を参照した)

ボッティチェリ展

サンドロ・ボッティチェリがフィレンツェに誕生したのは、1445年であった。イタリアで1400年代の都市国家フィレンツェの経済的興隆と、それとともに展開していった文化、なんずく美術、工芸作品、絵画が、最も美しく開花した時代であった。産業活動の面で、1400年代に典型的な成功例がメディチ家であった。「祖国の父」と称されたコジモ・メジチ(1389~1464)の時代には、「大アルテ」と呼ばれていた同業組合の力が、土地貴族階級の力を凌駕するに至った。つまり農村に対し都市が優位を誇り、商工業を経営する都市のブルジョアが政治を動かす力を担うかたちになってきた。その中心人物がコジモ・メディチであった。フィレンツエは共和国であったが、彼は政治の中心的地位に立とうとはしなかった。政治を動かす組織はメデェチ家一統に占められていた。ボッティチェリが誕生した頃、コジモ・メディチは55歳となっており、彼の権勢がまさに安定期にあたっていた。ボッティチェリの父は皮なめしの職人であり、15歳になった息子のサンドロが当時活躍の最盛期を迎えていたメディチ家の信頼も篤いフラ・フィリップ・リッピ(1406~1469)に弟子入りしたのは、当然のなりゆきであった。師の寵愛を受け,師の没後には、その息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)を弟子として一流の画家に育て上げた。フィレンツェを中心とするトスカーナ地方は、新たな遠近法の発明とヴェネチェアにおける複式簿記の発明(ルカ・パツィオロ)との関係は強調されるべきであろう。ボッティチェリと言えば、私は中学時代に親しんだ世界美術全集の彼の「ヴィーナスの誕生」や「春」を思い浮かべる。(今回は2作品とも出展されていない)ヴィーナスは、海の底から生まれ、貝に乗り、春風の息吹に送られて、いまにも岸辺に着こうととしている。さざ波の模様化された美しさ、いまにも消えそうなヴィーナスの身体と風に吹き流される金髪。長い中世の暗い絵画に比較して、何と明るい絵画だろうと思い、これこそルネサンスの象徴だろうと思ったものである。この展覧会は、東京都美術館で16年4月3日まで開催されている。

ラーマ家の東方三博士の礼拝 サンドロ・ボッティチェリ作 1475~76年頃

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この作品はボッティチェリの手になる「東方三博士の礼拝」図としては、最も名高い作品である。この作品では、地面が奥に向かって傾斜することにより、図面上半分に厩(うまや)が設定されている。この結果聖母子が一段高いところに描かれることになり、ピラミッド型構図になっている。小振りな板絵ながら、堂々たるモニュメンタリティを獲得している。ここに登場する人物は、メディチ家の人々であり、画面左端の黄色いガウンをまとった男はボッティチェリの自画像である。

聖母子(書物の聖母) サンドロ・ボッティチェリ作 1482~83年頃

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聖母が幼児イエスを膝に抱いている。聖母の伏し目がちな顔は思いにふける表情を湛えており人類救済のためにわが子に運命づけられた来たるべき受難を予知しているようだ。幼児の右手は、書物の上に置かれた聖母の右手に重ねられ、母子の親密さをうかがわせる。この書物は祈祷書とみられるが、完全には判読できない。キリストは左手に金鍍金された3本の釘を持ち,茨の冠を腕に通し、将来の受難を予知している。本作は極度に緻密に仕上げ、金箔やラビスラズリなど高価な材質の多用から、当時人気の量産された個人の礼拝用絵画に属するが、極めて重要な注文による制作だったことが推測される。

聖母と4人の天使(バラの聖母) サンドロ・ボッチィチェリ作 1490年代

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本作品はトレンドと飛ばれる円形のフォーマットに聖母とキリストや天使たちを描いたもので、周りに極めて豪華な額縁が用いられている。本作の画面には、いくつかの花が咲き、まだ蕾のままのバラの高い茂みの前に設定されている。通称「バラの聖母」は、これらのバラに由来する。画面の中央には跪く聖母マリアが位置し、彼女は手を合わせて小さなイエスの方を向く。イエスは母の方に手を伸ばす様子で、二人の天使広げる布で支えられている。マリアの後ろにも二人の天使がいる。個人的な礼拝に用いられていたものであるが、1631年にトスカーナ大公フェルデイナンド2世の時に、古物商から購入されたものである。

美しきシモネッタの肖像 サンドロ・ボッティチェリ作 1480~85年

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シモネッタ・ウエスブッチは、結婚前の名前をシモネッタ・カッターネオといい、1454年にジェノヴァ近郊の港町ポルト・ヴェーネレの富商の娘として生まれた。1468年頃にレンツェのマルコ・ヴェスプッチと結婚したが、1476年に若くして世を去った。本作品は、フィレンツェ一番の美人とされたシモネッタを理想化し、美しい女性の常套表現として描いたものである。このシモネッタの肖像は、彼の描く女性像に、共通する特徴がある。それは面長で目鼻立ちが似ている。もし、彼の近辺にいた特定の女性がモデルならば、正にこの「美しきシモネッタの肖像」の本人ではないだろうか?日本に渡った、唯一のボッティチェリの作品である。(丸紅の保有である)

書斎の聖アウグスティヌス サンドロ・ボッティチェリ作 1490~94年頃

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本作品では丹念で精緻な描写がおこなわれている。聖人は、向って左に書棚がカーテン超しに見える、ヴォールト天上の狭い僧坊に正面向きに座り、鵞鳥ペンを手に本に書き付けている。机の下には書き損じの紙屑と鵞鳥の羽が散らばっている。この場面設定の異例の遠近法的な効果や労を惜しまぬ精緻な細部描写は、ボッティチェリの光学的な妙技と教養ある知性に帰されるという。

磔刑のキリスト サンドロ・ボッティチェリ作  1496~98年頃

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本作品は、十字架上で処刑されるキリストの姿を表したもので、十字架とキリストの体に沿って切り取られた板の側面に描かれている。本作品の描かれた時代のプラートでは、1496年にサン・ドメニコ聖堂でジローラモ・サボナローラが説教を行ったことが知られている。サボナローラはドメニコ会修道士であり、15世紀末のフィレンツェを中心として活躍した。メディチ家時代のフィレンツェの華美な文化を批判し、1949年のメディチ家のフィレンツェ追放以後は政治的にも大きな影響力を持った。この時代のボッチィチェリの作品には、サボナローラの支持者たちのために制作されたと考えられる作品も多い。

オリーブ園の祈り サンドロ・ボッティチェリ作  1495~1500年頃

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この作品は、オリーブ園で祈るキリストを描いている。岩の多い断崖として表されたオリーヴ山の上で、キリストは跪き、ルカ福音書の語る通り、天使から犠牲の聖杯を受け取る。岩の下部には洞窟があり、キリストの死後の復活を暗示する石棺が見える。画家のサボナローラ帰依に結びついた特徴がある。遠近法がまるで使われていない。

 

ルネサンスと言う言葉は、もともとフランス語の「再生」という意味である。この言葉が歴史上の概念として使われ始めたのは、19世紀のことである。つまり中世の「暗黒時代」が去って、人々が人間性を尊重し、現実主義、合理主義にのっとって生きようとし出した時、かってそういう立場で輝かしい文化と社会を築いてきたギリシャ、ローマ時代を再現しようとした運動のことである。14世紀のイタリアに始まって、全ヨーロッパに広がったこの古典復興という運動を「ルネサンス」と名付け、その盛んな時代をルネサンス時代と呼んだのである。単に精神運動だけではなく、ひろくそういう精神を生んだ社会を考察すると、次ように言えるあろう。領主対農民という社会関係が中心で、キリスト教思想がその精神内容である。その中世社会が、農民上層部の上昇と、都市の発展つまり市民階級の興隆という新事態に対応できなくなったとき、ルネサンスという文化運動が起こったことがはっきりしたのである。フィレンツェで花開いたルネサンスは、メディチ家の没落と同時に、中心地はローマに移動し、更にヴェネチャに移動し、約200年間続いて、フランス、ドイツへ移動した。日本にも、非常によく似た時代があったと私は思う。日本の室町時代末期から桃山時代のころと、ヨーロッパのルネサンス時代とである。ここまでとく似た道を歩んできたヨーロッパと日本が、全く運命を分かったのである。ヨーロッパはその後、近代的な社会を急速に発展させていったのに対し、日本が再び封建社会が作られて、世界の発展から大きく取り残されてしまったのである。ルネサンスと言う言葉を聞くと、日本の遅れたことがある意味で意義のあることだったと思う。

 

(本稿は図録「ボッティチェリ展 2016年」、図録「ボッティチェリとルネサンス 2015年」、塩野七生「ルナサンスとは何であったのか」、松田智雄編「世界の歴史第7巻」、「日経大人のOFF2016年1月号」、2016年1月3日日経「美の美」を参照した)

 

 

勝川春章と肉筆美人画

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」が2016年3月27日まで開催されている。勝川春章(1726~92、享保11~寛政4)は、江戸中期の浮世絵師であり、50歳頃から肉筆の美人画家として著名な人である。浮世絵は、美しい女性画と、華やかな歌舞伎の舞台で演技する男性役者絵とを、2本の主要な柱として展開した。中でも美人画は浮世絵の華と言ってよく、菱川師宣に始まり宮川豊信に至る初期(1670年代~1764)、鈴木晴信、鳥居清長、喜多川歌麿、勝川春章らが黄金時代を築いた中期(1675~1806)、葛飾北斎、歌川國貞、歌川国芳らの後期(1807~58)、そして葛飾応為、月岡放念らの幕末明治の終期(1859~1900)と,全期に亘って各時代の中心的な絵師が多彩に活動した。勝川春章は、当初役者絵版画、相撲絵版画などで一躍時代の寵児となったが、50歳以降没年まで肉筆美人画の制作に没頭し、数々の名品を残している。

勝川春章が活躍した時代は18世紀後期・和暦では明和・安永・天明・寛政期にあたる。その頃、欧米ではアメリカの独立宣言、イギリスの産業革命の本格化、フランス革命などが次々と起こった激動の時代であった。鎖国下の日本では,京の都で応挙が写生画を立上げ、それが近代日本画に繋がる動きとなった時代である。(出所が記載していない図は出光美術館所蔵)

雪中傘持美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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水分を含んだ雪を、女性が傘から振り落とそうとして、傘の先を下に向けている。春章の描く女性像は、彼の創意にあふれている。長袖の黒い地色は、白銀の中に強いコントラストを運び込むことでいっそう映え、袖と裾にほどこされた模様は鮮やかな色彩を伝えている。画業の全盛期を迎えた春章画の美質が伝わる作品である。

桜下三美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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満開の桜の側を蛇行しながら小川が流れ、その下に三人の女性の姿をとらえている。女性たちの背後に群生する土筆やたんぽぽの描写は微細を極めている。この絵の圧倒的な植物の描写は、春の訪れをことほぐ「若菜摘み」を風俗画の中に写したものである。

桜下遊女図  勝川春章作  天明3-7年(1783~88年)頃 千葉市美術館

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吉原中之街の桜が霞のなかに満開の花をあらわす。その下では、一人で歩く遊女の姿が捉えられる。左足はつま先だけを地面に接し、右足をぐっと踏み出した様子を伝える。鏑木清方(かぶらぎきよかた)の旧蔵品で、みずから箱書をしたためている。

婦人風俗十二か月 端午  勝川春章作  寛政元~4年(1789~92)千葉市美術館

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十二か月の風俗をひと月ずつ、十二枚の画面に描きわけた一連の作品である。この形式の絵は「月次絵」(つきなみえ)と呼ばれ、その歴史は古く、11世紀頃にはやまと絵の基本的な型の一つとして普及していた。浮世絵にも例は多い。これは端午の節句の様子を描いたものである。朱鍾馗と宝尽くしの幟が立っており、粗放な筆触を強調した鍾馗図の表現は、その異形を強調するのみならず、春章の画技のバラエティを示すものである。

美人鑑賞図 勝川春章作 寛政2~4年(1790~92)頃64.9×123.2cm

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美人画としては破格に大きな画絹の上に、おもいおもいに時を過ごす十一人の女性の群像が描かれている。屋外の庭園風景は、輪郭を目立たせず、絹地が透けて見えるほどに淡薄な彩色によって、みずみずしく澄んだ自然景観が描かれている。この絵画は、かねてより春章の作品を愛好したことで知られる大和郡山藩主・柳沢信穐(やまぎさわのぶとき)の古稀をことほぐためと考えられる。庭園は信穐(のぶとき)が隠居後に過ごした駒込・六義園(りくぎえん)に似ている。また屋舎の釘隠しの意匠が柳沢家の花菱紋であることからも推察できる。華やかさと伝統的な大和絵を思わせる古典的な文化の息吹を感じさせる名品である。勝川春章の最後の傑作であろう。

娘と童子図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年(1792)、春章がこの世を去ったまさに直後に、浮世絵界に華々しく登場してくるのが、喜多川歌麿(1756~1829)や鳥文斎栄之(1756~1829)など、浮世絵史上にその名をとどろかせる絵師たちである。春章スタイルの美人画が、どのように後世の浮世絵へ受け継がれたのかが窺える。この絵は、桜の模様を散らした振袖をまとい、いまだに十歳代とも思える女性がてまりをもてあそんでいるのを、童子が右手を伸ばしてそれを欲しがっている様子を映したものである。二人の関係は姉と弟と推測される。

重要文化財  更衣美人図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年に春章が世を去ったのち、まさにそれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品は歌麿の美人画の中で、最も成功した事例であろう。

月下歩行美人図  葛飾北斎作  江戸時代(19世紀前期)

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葛飾北斎(1760~1849)が、絵を学ぶべくはじめて門を叩いたのが、勝川春章であり、当時春朗と称していた。入門以降、名所絵や役者絵を手がけたのち、春章没後の寛政6年(1794)に勝川派を去った。北斎について語る必要は無いであろう。

 

 

肉筆浮世絵はこれで2回目となるが、いずれも保管状態が良く、かつ70点に及ぶ収集が主として出光美術館で行われていた。今回は「勝川春章生誕190年記念」として、春章を中心に取り上げたが、多数の肉筆画の画家の絵が出品されていた。シカゴ ウエストンコレクションと比較しても劣らない優品であり、日本にもこれだけ多数の肉筆浮世絵があることを知り安心した。

 

(本稿は図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、図録「肉筆浮世絵ー美の饗宴  2016年」、図録「大浮世絵展  2014年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

東寺  1200年の宝物

東寺には、秘法の国宝両界曼荼羅図(りょうかいまんだらづ)を始めとして、密教にかかわる絵画、工芸品、書跡など多数の宝物がある。昭和40年(1965)、宝物館が館内北側に新設された。兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像など、数々の秘宝が安置されている。春・秋に2回展示されるので、是非開扉を確かめて拝観して頂きたい。

宝物館(写真)   境内の北側

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昭和40年(1965)に、東寺の秘宝を公開する方針に転じ、講堂、金堂、食堂の公開と併せて、宝物館を新設し、東寺の秘宝を公開する方針に転じた。東寺の方針転換に心から敬意を表する。

国宝 兜跋毘沙門天立像  木造   中国・唐代(9世紀)

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四天王のうち多聞天が単独で造られると毘沙門天と呼ばれるが、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)はそのなかで、地天女の掌の上に立つ形式のものを呼ぶ。この像は唐代に中国で造られたと考えられるが、その像は特異で、鎖を編んで作られる裾長の金鎖甲をまとい、腕には海老の甲のような籠手を付ける西域風である。中世の記録では、この像は、もともと平安京の出入口であった羅生門に安置され、王城の守護神としての信仰を集めていたという。羅生門が倒壊したので、近くの東寺に移されたものとみられる。正域の兜跋国に出現した毘沙門天の姿を模したとされ、兜跋毘沙門天の名で知られる。エキゾチックでスマートなお姿である。

国宝  真言七祖像  李真筆写  空海将来  唐代(9世紀)

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「御請来目録」に記載された、空海の師・恵果(けいか)が、空海に与えるため唐の宮廷画家・李真等に制作させた善無畏(ぜんむい)など5人の密教祖師像の一つである。空海が直接係った根本の祖師像で、唐代宮廷画家の手になる本格的な絹本色彩の肖像画遺品であり、現存する唯一の画像である。

国宝  御請来目録  空海選  最澄筆   平安時代(9世紀)

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空海が中国・唐から請来した新訳本247巻等、合計461巻に曼荼羅、阿闍梨御影など十鋪、密教の道具など九種十八個等を記載した目録で、天台宗の開祖最澄が空海より借用して写したものと考えられている。(「空海の風景」に記載あり)これらの品々のうち現在に伝わる物も多いことから、空海入唐中の密教研究の事績・成果物として理解されるとともに、日本の真言密教の始まりを示す重要な資料である。

国宝 密教法具  空海請来    唐代(9世紀)

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弘法大師空海は、唐で密教を学ぶと共に、数多くの仏画、仏像、経典、法具類を持ち帰った。その法具の一つと伝えられているもので、五鈷鈴(ごこれい)・御鈷杵(ごこしょ)とこれを法安する金剛盤(こんごうばん)の三点からなる組法具である。

国宝 両界曼荼羅図(りょうかいまんだら)(胎蔵界曼荼羅)平安時代(9世紀)灌頂院

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上記と並んで保管される胎蔵界曼荼羅であり、唐で作られたものという意見もある。「曼荼羅」を日本美術辞典で調べてみると、概ね次のように記している。「古インド語の音訳で、意義は輪廻具足または聚集のことを示し、即ち渾然とした一つの体系を意味し、それを具体的に示したものから壇または道場の意味もある。曼荼羅の語を専ら用いているのは密教であって、経意を壇の形式に象って図示したものをいい、各種の形式がある」佐和隆研氏の「仏教美術入門」には、次のように記されている。「曼荼羅といえば、現在では広い画面に多数の仏・菩薩などを並列して描かれている特殊な形式の仏画を思い起こす。しかし曼荼羅とういう言葉の中には聚集・壇・円満具足等の意味がある。これは現在我々がみる曼荼羅の歴史を思いださせるのである」要するに「仏教世界の表現」を曼荼羅と呼んだのである。胎蔵界曼荼羅は「理の世界」を示す。

国宝 両界曼荼羅図  金剛界曼荼羅      平安時代(9世紀)灌頂院

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金剛界曼荼羅の金剛とはダイヤモンドのこと。人間の悟りの心がまるでダイヤモンドのように堅固であることを、この図は表現している。「会」(え)という9つの区画からなり、そのため金剛界曼荼羅を九会(くえ)曼荼羅とも呼ばれる。曼荼羅は古代インドで生まれたものだが、ここで見る胎蔵界・金剛界のように左右均等の形に整えれたのは中国に伝わってからである。空海は中国で盛行したその最新の曼荼羅を描かせ、日本にもたらしたが、空海請来の曼荼羅は現存しない。この二つの曼荼羅は現存最古の彩色曼荼羅である。

国宝  天蓋(てんがい) 木製彩色    平安時代(9世紀)

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木製彩色、区内に八葉蓮華をすえ、中央に圏帯(けんたい),外区に八葉蓮華弁帯を廻している。材は檜である。御影堂に安置される国宝・不動明王坐像(9世紀)の上に掲げられていたものである。

国宝  東寺百合文書  (奈良、平安、中世)

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東寺が、中世、どのようであったかを知る資料として東寺百合文書(奈良・平安時代の文書も含まれている)がある。江戸時代に100個の桐箱に納めて保存されたので「百合文書」と称される。文書は約2万4000通に及び、現在は京都府立総合資料館が所蔵し、国宝の指定を受けている。東寺の荘園関係、法令仏事の文書を中心として、百姓申状(もうしじょう)や注進状など、当時の荘園のありさまや民衆の生活ぶりをいきいきと伝える資料が豊富に含まれていて、中世史研究にとって欠かすことが出来ない貴重な文書群である。世界記憶遺産の指定を受けている。

 

空海の存在は余りにも大きく、空海の思想は完璧であった。その為か、後進に独創的な思想を考える人は出なかった。せいぜい、空海を師とし、仰ぎ見る弟子ばかりであった。しかし、空海は「お大師様」として、現在でも大衆から親しまれている。四国八十八カ寺の巡礼は今でも盛んである。一方、同時代の最澄は顕教であり、顕教は読んで判るものであった。最澄は、日本における一代精神文化財とも言うべき叡山を開いた。没後300年後には、13世紀の鎌倉仏教が開花した。法然が浄土宗を、日蓮が法華宗を、そして親鸞が浄土真宗を起した。今日の日本仏教は叡山から生まれた。

 

 

(本稿は、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、小学館「古寺を行く 「第3巻東寺」、野間清六「日本美術辞典」、佐和隆研「仏教美術入門」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国にかたち」第2巻を参照した)

東寺   講堂と立体曼荼羅(2)

彫像・塑像などの立体物で構成する曼荼羅は、普通、羯磨曼荼羅(かつままんだら)と呼ばれる。密教では、そこに真理が存在する以上、それはかならず形をとって表現されなければならない、というのを基本理念としている。空海の代表的な営みが講堂内に密教彫像をもって形成した立体曼荼羅である。中でも特異な仏像類は、一番奥(向かって左側)の五大明王(ごだいみょうおう)像で、これらは密教伝来による新しい仏像類である。天平物仏に慣れ親しんだ私にとって、特に違和感を強く感じたのは、この五大明王像であり、中々理解できず、何回もお詣りし、少しでも近づけるように努力したものだが、未だに、その意義が十分理解出来ていない。五大明王はすべて平安仏であり、国宝指定を受けている。

国宝  不動明王坐像  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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五大明王の中心に位置し、保存状態は一番良い。両眼をかっと開け、上下歯牙(しが)で下唇(したくちびる)を噛みしめた表情はいかにも力強い。「大師様」(だいしよう)とも呼ばれる不動明王のスタイルであり、その後の規範となっている。頭髪を総髪に、左耳の辦髪を垂らすのは、初期不動明王の特徴である。躍動的な行動の群像のなにあって、静かな憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべて座すその姿は、主尊としての威厳に満ちている。不動明王像の特徴は「高雄曼荼羅」(たかおまんだら)(神護寺蔵)の胎蔵界の不動と一致している。「高雄曼荼羅」は、空海が師の恵果(けいか)から与えられた両界曼荼羅(現図曼荼羅)を在世中に映させたもの。原図曼荼羅は失われてしまったが、それを立体的に表現したこの像によって、後世まで不動明王の手本とされた。

国宝 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)木造承和6年(839)平安時代(9世紀)

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明王は密教固有の尊像で、密教の教えを聞こうとしないものを教化するために、その妨げとなる煩悩や欲望などを力づくで調伏する憤怒の仏である。五大明王のひとつで、東北方に配される北方尊である。三面六臂と、密教特有の多面多臂仏である。しかも、中央の面は眼が5つ、左右の面は3つと、顔が異様である。六臂にはそれぞれ独鈷(とっこ)や矢など法具・武器を持っており、今にも飛び掛かってきそうな躍動感が感じられる。これらの明王像はみな針葉樹の一木(いちぼく)造りで、衣の一部や臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん)などの装身具は、乾漆(かんしつ)を盛り上げて成形されている。奈良時代の伝統的技法である乾漆を用いて、新来の密教尊像の特異な姿を表したものである。

国宝 大威徳明王騎像(きぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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大威徳明王は、頭上の3つを含め6つの面、六本の腕、六本の足を有する異形の姿である。六本足から六足尊とも呼ばれる。六面とも額にも目がある。左右の第一手は胸前で両手の指を組み各第三指を立てる。やはり密教独特の複雑な形である。他の手には剣や法棒などの武器を執る。水牛を座とするが、その水牛はヒンドュー教の死の神のヤマを表し、その上に大威徳明王が座るということは調伏を意味する。

国宝 降三世明王立像(ごうさんせいみょうおうりつぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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降三世明王は、正・左・右・背面のそれぞれ顔がある。眼は四面とも、目頭部弧状の縁のある瞋目(しんもく)と呼ばれる形式が採用され、見開いて吊り上り、上の歯列と牙を剥き出しにする憤怒の相である。焔髪(えんぱつ)と呼ばれる逆立つ髪も怒りを表している。腕は八本で、胸前で左右手の小指を組む参世印は、この尊像を強く印象付ける。他の指には三鼓杵(さんこしょ)や弓、矢などの武器を執る。ヒンドゥー教の神の姿を取りいれたものである。

国宝  梵天(ぼんてん)坐像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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須弥壇に向かって右端に梵天、左端に帝釈天が安置される。梵天は左右にも面があり、四本の腕という異形で、上半身には条帛(じょうはく)という帯状の衣しか着けない。胸部は広く、厚く表され、腹部に向かって細く括られる。たくましく、また肉感的な体型である。脚は崩して蓮華上に座る。これらの表現は、高雄曼荼羅の身体表現に近似している。蓮華座は、四羽のガチョウに支えられる。

国宝 帝釈天(たいしゃくてん)半跏像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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帝釈天は、上半身を甲で被い、その上に丈帛を着ける。下半身には裙(くん)を着け、象の上に左脚を垂加して座る。頭部は後世に造り直されているが、端正な顔立ちである。2011年の密教美術展で、東寺の立体曼荼羅が多数並んだ時に、「一番のイケメン像」として、女性の人気N0.1であった。45度前の角度から朝10時頃の太陽光で見ると、一番美しいそうである。梵天と帝釈天は奈良時代以来の尊像であるが、奈良時代のものは立像で、鳥獣を台座にするものはない。伝統的な尊像でありながら、姿や表現は新しいものに変わっている。その姿の原型は空海が将来したと言われる京都・醍醐寺の「十天形像」中の梵天と帝釈天と酷似すると言われる。

国宝  四天王 持国天立像  木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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持国天は右手を振り上げ、右足を上げて邪鬼を踏み付ける。顔は斜めに下方に向け、目を見開く。その、目は瞋目で、口は大きく開けて威嚇する。面部は怒りで筋が隆起する。法隆寺の日本最古の四天王像は直立して、顔に怒りを表さないが、奈良時代を通じて四天王の怒りの度合いは増していき、この像でそれが頂点に達した感がある。本像は日本でも最も恐ろしい四天王と言って良いだろう。

国宝 四天王 増長天立像  木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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増長天は頭部を左方に向け、面部の筋はやはり怒りで隆起している。目は瞋目(しんもく)で持国天よりも大きく見開き、開口はしないが上歯列をむき出しにする。右手はあげて戟(げき)、左手は腰の辺りで剣を執る。右手は挙げ面部を左方に向ける姿勢は、それまでに造られてきた姿勢である。本像のように、台座に正対すると頭部はほぼ右側面をみせる大胆な表現には、目を見張るものがある。瞋目という形式は、奈良時代には四体のうち最も強い怒りを示す1体、もしくはそれに準じるものも含め二体に採用されているが、この時期以降、全像に瞋目を採用するのが一般的となった。

 

空海がもたらした新着の密教の神髄は、この東寺の講堂に収まっている。私は、空海の密教を少しでも理解したいと思い、昭和55年から57年(1980~82)まで毎日曜日に、この講堂に通った。結論から言えば、密教は満足に理解できていない。その中で、不思議な体験をした。昭和56年(1981)秋(9月頃か)に、東寺講堂で、この仏像群に詣でた時に、一番奥の五大明王の後ろ(その当時は、仏像の裏側まで公開していたが、現在は、管理の都合であろうが、前面のみを公開している。仏像はすべて前面を向いているので、この状態でも特別に不都合なことはない)で、若い女性(27歳位の美人)が、涙を流し、さめざめと泣いていた。幼い子供を失ったのか、恋する男性との別れがあったのか、理由は分からないが、長い時間涙していた。何とも言えない不思議な体験である。仏像の前で、涙を流す人はいる。確かに感激して、私自身も涙を流したことはある。しかし、あの憤怒の五大明王の後ろで、涙を流すだろうか?理解は出来なかったが、よくよくの深い事情があったのであろう。以来、東寺の講堂の仏像群は、私に取っては、その思い出と共に甦る。

 

(本稿は、小学館「古寺を行く 第3巻東寺」、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち1,2巻」を参照した)

東寺  講堂の立体曼荼羅(1)

空海は御請来目録の中で「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らない者に開き示す」と述べている。密教における造形の重要性を説くもので、東寺講堂の立体曼荼羅は、このような考えに基づいて造られたものである。講堂はおよそ幅34メートル、奥行15メートルの堂で、中央に幅24メートル、奥行6.8メートル、高0.9メートルの壇が築かれている。壇上には中央に大日如来を中心に五体の如来グループ(5仏)、その向かって右に金剛波羅密(こんごうはらみ)を中心に5体の菩薩グループ、その向かって左に不動を中心に5体の明王グループ(五大明王)、壇の右側左縁右縁にそれぞれ梵天と帝釈天、そして壇四隅に四天王の合計21体が安置される。各グループの尊像の間には密切な関係がある。その様子はまさに立体で表された曼荼羅で、堂内に入ると他では経験できない雰囲気に包まれる。

東寺講堂内部の諸尊像の配置

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中央に五智如来(5体)、右側(東側)に五菩薩(5体)、左側(西側)に五大明王が並び、東西の両端に梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四隅に四天王が配されている。文明の土一揆(1486)で、講堂は焼失し、尊像は、僧侶達の必死の運びだしで助かったが、扉が東西(右、左)二方向にしかなかったため、中央の五智如来の5仏と五菩薩の中応仏である金剛波羅密菩薩は焼失し、後世の補作である。

重要文化財  五智如来像(ごちにょらいぞう)  室町時代、江戸時代

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中央に位置する五智如来とは、密教の中心仏である大日如来の智(総徳)を5つに分け、それぞれの智を「金剛頂経」(こんごうちょうきょう)に説かれる大日、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀、不空成就(ふくうじょうじゅ)の五如来、すなわち金剛界(こんごうかい)の5仏を配したものを言う、大日如来を中心とする最重要の尊像である。五智如来は後世のものである。阿弥陀如来だけは、平安末頃の制作になるもので、その他の諸像も、この寺が京都の市中にあるため火災や地震などにより損傷を受け、補修の部分も極めて多い。にも拘わらずこれらの諸尊像中には、制作当初の様式を持ち続けたものが何体かあることはまことに貴重である。

国宝  五菩薩像   承和6年(839)   平安時代(9世紀)

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五菩薩(五大菩薩)は、これを一組として説く経典はないが、教化(きょうけ)を重視した空海の密教的解釈から工夫された一群の仏とされる。仏法そのものを備える五智如来の示す正法(しょうぼう)を衆生に説く菩薩のことで、実際に衆生を教え導く姿を取る。東寺では、五菩薩の名を金剛波羅密多(こんごうはらみた)・金剛薩埵(さった)・金剛宝(ほう)・金剛業(ごう)と伝えている。補作の中尊・金剛波羅密多を除く4体が国宝に指定されている。

国宝五大明王像(ごだいみょうおうぞう)承和6年(839)平安時代(9世紀)

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不動明王と、それを中心に東西南北に配された四明王を指す。四明王は多面多臂(ためんたひ)。加持祈祷(かじきとう)に験力(げんりき)を発揮すべく、それまでの仏像に較べ著しく怪奇な容貌と姿をしている。私が、馴染めない仏像と言うのは、主としてこの明王像である。五仏ともすべて国宝である。

重要文化財  大日如来坐像    室町時代

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大日如来は「大日経」「金剛頂経」の本尊となり、十方諸仏を包括し、仏法そのものを示す「法身仏」(ほっしんぶつ)の地位を得た仏で、太陽にもたとえられ、万物を慈悲と知恵の光であまねく照らすとされる。像容は、如来であるが、宝冠・瓔珞など各種装身具で身を飾り、一種の王者の姿を取る。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を右手で包む智拳印(ちけんいん)を結ぶ。

国宝  金剛法菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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創建当時からの4体は、一木造り、漆箔(しっぱく)仕上げの像で、天平彫刻の均整のとれた作風を示している。金剛法菩薩を除いて、坐像にも関わらず、膝前から台座の蓮肉(れんにく)まで共木(ともき)で彫りだし、頭髪や碗釧(わんせん)などの細かい部分は、木心乾漆の技法で補足している。全体として女性的なやさしい顔貌(がんぼう)としなやかな体つきが強調されている。この印象は五菩薩すべてに共通しており、仏の慈悲を示そうとする構想に相応しい。天平彫刻の伸びやかで官能的な姿態表現を追求したものであろう。

国宝  金剛業菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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金剛業菩薩は、左手は全指を伸ばして掌を上に向け、右手は全指を伸ばして掌を前に向ける、天平時代までの尊像にはない密教独特の印である。髻(けい)を高く結い、髪筋が丁寧に表される。面長で、頬が締まって精悍な顔立ちである。蓮華座に座るが、脚は左右に大きく張って、膝が台座から飛び出す。以上の表現は、空海が将来した図像の表現を取り入れたものと考えられる。この筋肉質の身体表現の起源はインドの仏像に求められる。

 

 

 

司馬遼太郎は「この国のかたち」第二巻で、次のように述べている。「空海が展開した真言密教は、紀元5,6世紀ごろにインドで成立したもので、教主を釈尊ではな大日如来という非実在者としている点でいえば、仏教とはいいにくい。が、密教もまた空の思想をもち、解脱を目的としている点からみると、濃密に仏教といえる。」言い得て妙であると思った。「続日本後紀」承和6年(839)6月15日条に「公卿が皆東寺に集まった。天皇発願の諸仏の開眼のためである」という記述があり、それが講堂諸像の開眼のことと考えられている。空海は承和2年(835)に高野山で入定するので完成を見ることは無かった。なお5体の如来と金剛波羅密菩薩は、文明18年(1486)にあった土一揆で堂とともに焼失し、その後に造像されたものである。(だから重要文化財に留まっているのであろう)講堂の尊像は昭和40年(1965)まで秘仏であったので、色彩が鮮やかに残っている。

 

 

 

(本稿は小学館「古寺を行く第3巻東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、探訪日本の古寺「第8巻京都Ⅲ」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち第二巻」を参照した)

 

東寺   お堂と塔

私は、昭和55年(1980)から2年半京都に住んだ経験がある。東寺の五重塔を新幹線から見ると、京都に帰ってきたという思いが何時もする。京都と言えば東寺である。毎日曜日には,東寺の講堂を拝みに毎日のように行っていた。京都で一番懐かしいお寺が東寺である。この五重塔が最初に竣工したのは元慶7年(883)で、現在の塔は五代目で江戸時代の再建である。京都のシンボルである五重塔は、もともと平安京の都市計画の一環として建てられた官寺であった。延暦13年(794)に桓武天皇により平城京遷都。その2年後から東寺と西寺の造営が始まった。平城京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると道幅84メートルの朱雀(すざく)大路が北へ延び、その右手に東寺、左手に西寺が建っていた。東寺はこの平城京の寺域をそのまま引き継いでいる。京都は、その後多くの戦乱や災害に遭い、京都御所ですら何度も動いたが、東寺は全く寺域を動かなかった。東寺の正面は九条通りの南大門である。五重塔が東に、西に灌頂院(かんじょういん)が並ぶ。南大門を入ると正面に金堂、その中心線上に講堂、食堂(じきどう)が並んでいる。これらの建物はすべて後世の再建によるものであるが、位置や規模は創建時とほとんど変わらない。東寺は平城京の威風を伝える唯一の空間である。だからこそ、世界文化遺産に登録されているのである。

重要文化財  南大門  九条通りから南大門を望む  桃山時代(16世紀)

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正面の門であり、創建時の位置のままである。この門は蓮華王院から移築された桃山時代の建物である。この門から望む東寺の景観は、平安初期の雰囲気を唯一残すものであり、私は好きである。

国宝  五重塔    寛永2年(1644)再建    江戸時代(17世紀)

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五重塔は、境内の東南偶にあり、伽藍配置から見ると、東塔の位置に聳え建つ。西塔の位置には塔ではなく、灌頂院(かんじょういん)が建っている。塔の高さは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高の塔である。空海は天長3年(826)に塔の造立を願い出るが、創建は平安初期の原慶7年(883)ころとみられる。その後、落雷などにより何回も焼失と復興を繰り返し、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光の寄進により再建された五代目の塔である。京都は、50年前には高い建物が無く、市中は元より、遠く洛南の農村地帯から、この五重塔を望むことができた。桃山時代から江戸時代にかけて、しばしば描かれた「洛中洛外図」は、この東寺五重塔からの眺めと言われる。

国宝  金堂   慶長8年(1603)再建    江戸時代(17世紀)

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金堂は、空海が東寺を勅賜されたときには、すでに完成していた。現在の金堂は、大きさは5間×3間の母屋(もや)に裳階(もこし)をめぐらせた堂々とした大建築である。講堂とともに文明の土一揆(どいっき)(1486)で炎上し、創建当初のものは失われた。講堂は室町時代に再建されたが、金堂は工事が進まず、豊臣家の援助により慶長8年(1603)に復興された。薬師三尊が広い金堂の内部に安置されている。

重要文化財  講堂  延徳3年(1491)再建    室町時代(15世紀)

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金堂の北に位置する講堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失し、延徳3年(1491)に再建される。入母屋造り、創建当初の基壇、礎石の上に建てられた。東寺は、はじめ鎮護国家を祈る諸宗兼学の官寺であった。東寺を勅賜され、造東寺別当(べっとう)に就任した空海は真言密教の根本道場にしたい旨、嵯峨天皇に要請して、50人の定額僧(じょうがくそう)を置いて真言密教専修の寺とした。空海は密教の曼荼羅世界を講堂に実現しようとしたのである。

国宝  御影堂(みえどう) 康暦2年(1380)再建 室町時代(14世紀)

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御影堂は域内の西北偶に建ち、屋根は入母屋造り桧皮葺(ひはだふき)と、諸堂の中でも和風で優美である。桁行7間、梁間8間、前堂、後堂、中門からなり、極めて洗練された建物である。御影堂のある西院は、東寺造営にあたって空海が住んだ建物であり、はじめ空海の念持仏の不動明王が安置され、ついで鎌倉期に、仏師康正(こうしょう)の彫った空海の木造が祀られるようになり、以後、御影堂あるいは大師堂と呼ばれている。現在の建物は、室町幕府3代将軍足利義満と公家の援助により,康暦2年(1380)に再建されたもので、さらに明徳元年(1390)に一部改造して、北面に前堂と中門を付加している。

重要文化財  灌頂院  寛永11年(1634)江戸時代(17世紀)

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南大門を入って左手にある灌頂院(かんじょういん)は、密教の修法や伝法灌頂の儀式が行われる、真言密教において、もっとも重要とされる堂舎である。建物は瓦葺きの正堂(しょうどう)と板敷の礼堂(らいどう)からなり、その間を1間の相の間で繋いでいる。正面の身舎(もや)の板壁には両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を掛けるようになっている。また三方の壁には真言八祖像が描かれている。他の仏堂には無い独特の雰囲気を持つお堂である。また毎年、正月の八日から一四日にかけての七日間後七日御修法(ごしちにちみしほ)が行われる。これは、出仕する一五人の僧と承仕(じょうじ)以外,堂内に入ることが許されない秘法である。御修法(みしほ)の目的は、国家安穏、五穀豊穣、玉体(天皇)安穏などを祈ることにあり、現在でも皇室から勅使が派遣されている。「冬の京都」の催しとして、三月八日まで、灌頂院が公開されている。

重要文化財  北総門   鎌倉時代(14世紀)

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平城京条坊の八条大路の南側に建ち、外郭築地塀(ついじべい)に開く唯一の四脚門である。板扉は平安時代、鎌倉時代初期のものを転用しており、修理にあたって再利用された。

 

東寺は、京都のお寺の中で一番平安の趣を備えたお寺であり、常に歴史の中で、大きな役割を果たしてきた。私は、長年慣れ親しんだ天平仏からあまりかけ離れた東寺の仏像類に強い違和感を持ち、京都在住の2年半(昭和55年から昭和57年9月まで)の間、毎日曜日に、この東寺にお参りにきた。講堂の立体曼荼羅には、なかなか馴染めなかったが、2年半も通うと、その異様な仏像にも慣れ親しむようになった。仏像類については,次回以降に丁寧に説明したいが、天平仏とはまるで違う密教仏である。今でも違和感は残るが、密教の底の深い教理には興味も湧く。いずれにしても,兎に角、東寺を拝観しないと多分理解出来ないと思う。

 

 

(本稿は小学館「古寺をゆく 3巻 東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、図録「高野山の名宝 2014年」司馬遼太郎「空海の風景上下」を参照した)

始皇帝と大兵馬俑ー「永遠」を守る軍団

兵馬俑は始皇帝の墳丘から東へ1.5キロ離れた「兵馬俑抗」から出土したものである。極めて写実的に表現されており、約8,000体ありながら、1体ずつ違う顔の造形には、実在の将兵をモデルにしたものと考えられている。1974年3月に、この地の農民が井戸を掘っていて、偶然一山の粉々になった陶俑の破片を発見したことから、井戸を掘る工事は直ちに中止され、中央および陜西省の文物部門の指導者と考古学の専門家が現地に駆け付けて調査をした。1年余の調査・発掘を経て、ここが始皇帝陵墓の大型の兵馬俑抗であり(1号俑抗)、周囲は14,260平方メートル、中には陶俑と陶製に馬が約6,000体、木製戦車40輌あまり、各種青銅武器数万点が埋まっていることが判った。更に、1976年には2号兵馬俑が発見され、発掘の結果、面積は6,000平方メートル、中には陶俑、陶製の馬1,300体あまり、それに大量の青銅器武器が収められていた。それは1号兵馬俑抗の内容に比べても、さらに精彩を放ち、多数の騎兵、80輌あまりの木製戦車,跪車(きしゃ)、立射「(りつしゃ)など各様のポーズをとった歩兵俑が発見された。

2号兵馬俑に続き、1976年5月には3号兵馬俑が発見された。面積は約520平方メートル、中には木製戦車1輌、陶窯と陶製の馬72体が納められていた。3号俑抗の形態は複雑であり、一目でこれが警備の厳重な兵馬俑の指揮部であることがわかった。極めて注目に値することは、この地下に埋もれた8,000体の兵馬軍団については、関連の史書の中に全く記載を探し出すことができないことである。このため、兵馬俑軍団は一層神秘的な色合いを増している。兵馬俑抗以外にも「馬厩抗」(ばきゅうこう)、雑技俑を埋めた「K9908」など200基近い大小の陪葬抗(ばいそうこう)が配されていた。1980年には「銅車馬抗」が発掘された。形状と出土位置から,生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられる。始皇帝を永遠に守る軍団を階層別に説明するが、いずれも「秦始皇帝陵墓博物院」に帰属するものなので、いちいち説明しない。

将軍俑(しょうぐんよう) 秦時代(前3世紀) Ⅰ号兵馬俑出土

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冠をかぶり、鎧を見につけた武将の俑である。顔立ちは面長で四角く、額は広い。顎はがっちりしており、髭が長く口は大きく、唇は厚い。重ねた両手の下に剣を立てていたとされる。湘軍俑の左肘内側に空いた楕円形の隙間がある。ここに鞘ごと剣を指しこみ、両手は指揮用馬車の側板に添え置いた可能性も考えられる。兵馬俑の兵種としては最も数が少なく、戦闘指揮用の馬車付近で出土した例が複数ある。

軍史俑(ぐんりよう)  秦時代(前3世紀)   1号兵馬俑で出土

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高く結い上げた髷の根元に帯をつけている。鎧はまとわず、右前合わせの上着を着用している。布製の腰帯を結ぶ代わりに革帯と金具を使って留めるなど、動きやすく工夫されている。膝丈のズボンを履き、箙(えびら)を背負っていたと推定される。左手は革製の盾を持っていたことも推測されている。

立射俑(りっしゃよう)  秦時代(前3世紀)  2号兵馬俑抗

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手には弩級を持ち、矢をつがえて攻撃命令を待つ兵士の姿である。元来、矢入れを背負っていたものと思われる。半身に構え、上からみた時に足をL字型に開く姿勢は、命中精度を高めるのに適したものである。装備はすね当てをつけ,革製の靴を履いている点を除けば、歩兵俑と同じ服装である。

騎射俑(きしゃよう)  秦時代(前3世紀) 2号兵馬俑出土

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体には長い上着を着て、外側に肩当ての付いた鎧を着けている。下にはズボンを履き、足には口の部分が四角い履物を履いている。右肘を地面に付けており、左の脚を曲げて立てている。、右腕は後ろに引いて曲げており、手は拳を半ば握っており、親指を立てている。左手は胸の前に当てており、指をわずかに曲げている。両手を体の右側に置いており、弓を手にして、矢を放つ準備をしているようである。

御者俑(ぎょしゃよう)  秦時代(前3世紀)   Ⅰ号兵馬俑出土

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体には膝丈の長い上着を着ており、外側に鎧を着け、下に膝当てを着け、足には口の部分が四角く、爪先が真直ぐな履物を履いている。背筋を真直ぐにして立ち、両腕を前に伸ばし、両手は拳を半ば握り、拳の中心を上に向け、親指をわずかに立てている。両目は真直ぐ前方を見ており、全神経を集中させ,手綱を引き御している。

馬丁俑(ばていよう)  秦時代(前3世紀)   馬厩抗出土

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秦始皇帝陵の東側で、死後の世界における厩舎のような竪穴列が見つかった。場骨とともに置かれていたことから、馬の世話をする馬丁と判断される。兵馬俑抗の俑がほぼ実物大と考えられるのに対し、馬丁俑は、実物より小ぶりに作られている。

雑技俑(ざつぎよう)  秦時代(前3世紀)  K9901抗出土

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K9901抗から併せて11体の陶俑が出土した。本作ではでっぷちとした体格の男子で、上半身は裸、下半身には短い袴(はかま)のようなものを身につけている。雑技俑と名付けられるが、実のところ、不明な点が多い。

兵馬俑(へいばよう)5体   秦時代(前3世紀)

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向かって左から立射俑、歩兵俑、軍利俑、将軍俑、騎射俑の5体を並べたものである。最後の会場の後ろに、この五体の人物像が数多く並んでいる。(但し、会場に並べられているのは複製であった。自由に写真が撮影できるコーナーも用意されていた)

1号銅馬車   秦時代(前3世紀)展示品は複製    銅馬車抗出土

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1980年、始皇帝の墳丘すぐ西側で「銅馬車抗」が発掘された。中には、御者の像とともに二輌の銅馬車が西向きに配置されていた。生前に始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと思われる。実物の1/2のサイズの模型であった。始皇帝は生前、5回の全国巡行をしている。最後に,巡遊先の砂丘で50歳の生涯を終えている。この銅馬車は、四頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型である。1号馬車には車與には車蓋を立てている。御者は直立して手綱を引いている。将軍俑と同じような冠をつけ、腰帯に儀剣を差し、単なる1兵卒ではなく相応の身分であることを示している。この馬車が軽装で美麗であることから、軍事用ではなく、特定の儀礼の先導の役割を果たしたと思わせる。

2号馬車  秦時代(前3世紀)  展示品は模型    銅馬車出土抗

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御者は輿の前面に坐して手綱を操り、腰には儀剣を差す。輿には前面と両側面に窓があり、後方に扉がある。紗丘で崩じた始皇帝の亡骸は轀輬車(おんりょうしゃ)に載せたとの記録がある。これが始皇帝の御用車であることを推定させる。なお、「轀輬車」とは、窓を閉じれば暖かく、開ければ涼しいことに由来するものである。私は、1984年に始皇帝の大兵馬俑を見学した時、記念品としてこの2号銅馬車を4,000円程度で購入したが、今回の展示会場では、1.2万円で売っていた。元が強くなったのか,円が弱くなったのか、時代の差を感じた。

将兵の背の高さは、概ね180~190cmである。果たして、こんなに大きな人物が8千人もいたのであろうか?疑問に思う。兵馬俑は高い規格性を持っており、かつそれは「等身大」であると考えられている。秦は確かに全国から体格の良い兵士を徴用したのであろうが、これが現実の軍団とは思い難い。また、俑の生産効率を考えると、一人が1体づつ作っていくよりも,各部位の単位で規格を設け、分業体制で専従にして作る方が効率的であり、かつ正確である。研究者によれば、兵馬俑の破片から、脚、胴体、腕、頭部などを別作りとなって、それらを合せて焼成しているそうである。始皇帝は、不老長寿の仙薬を求めて徐福を東海の山神山に向かわせたと伝えられている。思うに、始皇帝は仙人に出会うことを求めていたのでは無いだろうか?即ち、始皇帝は神秘の世界に住む、永久不滅の存在である仙人と出会い、自らも永久不滅の存在になりたいと考え、この兵馬俑抗などを、生前に造らせたのではないだろうか。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2015年」、図録「秦の始皇帝とその時代 1994年」、図録「美の粋 1996年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」陳舜臣著中国の歴史「第2巻 大統一時代」、NHK取材班 故宮ー至宝が語る中華5千年「第1巻 皇帝天下を制す他」参照した)