ボッティチェリ展

サンドロ・ボッティチェリがフィレンツェに誕生したのは、1445年であった。イタリアで1400年代の都市国家フィレンツェの経済的興隆と、それとともに展開していった文化、なんずく美術、工芸作品、絵画が、最も美しく開花した時代であった。産業活動の面で、1400年代に典型的な成功例がメディチ家であった。「祖国の父」と称されたコジモ・メジチ(1389~1464)の時代には、「大アルテ」と呼ばれていた同業組合の力が、土地貴族階級の力を凌駕するに至った。つまり農村に対し都市が優位を誇り、商工業を経営する都市のブルジョアが政治を動かす力を担うかたちになってきた。その中心人物がコジモ・メディチであった。フィレンツエは共和国であったが、彼は政治の中心的地位に立とうとはしなかった。政治を動かす組織はメデェチ家一統に占められていた。ボッティチェリが誕生した頃、コジモ・メディチは55歳となっており、彼の権勢がまさに安定期にあたっていた。ボッティチェリの父は皮なめしの職人であり、15歳になった息子のサンドロが当時活躍の最盛期を迎えていたメディチ家の信頼も篤いフラ・フィリップ・リッピ(1406~1469)に弟子入りしたのは、当然のなりゆきであった。師の寵愛を受け,師の没後には、その息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)を弟子として一流の画家に育て上げた。フィレンツェを中心とするトスカーナ地方は、新たな遠近法の発明とヴェネチェアにおける複式簿記の発明(ルカ・パツィオロ)との関係は強調されるべきであろう。ボッティチェリと言えば、私は中学時代に親しんだ世界美術全集の彼の「ヴィーナスの誕生」や「春」を思い浮かべる。(今回は2作品とも出展されていない)ヴィーナスは、海の底から生まれ、貝に乗り、春風の息吹に送られて、いまにも岸辺に着こうととしている。さざ波の模様化された美しさ、いまにも消えそうなヴィーナスの身体と風に吹き流される金髪。長い中世の暗い絵画に比較して、何と明るい絵画だろうと思い、これこそルネサンスの象徴だろうと思ったものである。この展覧会は、東京都美術館で16年4月3日まで開催されている。

ラーマ家の東方三博士の礼拝 サンドロ・ボッティチェリ作 1475~76年頃

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この作品はボッティチェリの手になる「東方三博士の礼拝」図としては、最も名高い作品である。この作品では、地面が奥に向かって傾斜することにより、図面上半分に厩(うまや)が設定されている。この結果聖母子が一段高いところに描かれることになり、ピラミッド型構図になっている。小振りな板絵ながら、堂々たるモニュメンタリティを獲得している。ここに登場する人物は、メディチ家の人々であり、画面左端の黄色いガウンをまとった男はボッティチェリの自画像である。

聖母子(書物の聖母) サンドロ・ボッティチェリ作 1482~83年頃

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聖母が幼児イエスを膝に抱いている。聖母の伏し目がちな顔は思いにふける表情を湛えており人類救済のためにわが子に運命づけられた来たるべき受難を予知しているようだ。幼児の右手は、書物の上に置かれた聖母の右手に重ねられ、母子の親密さをうかがわせる。この書物は祈祷書とみられるが、完全には判読できない。キリストは左手に金鍍金された3本の釘を持ち,茨の冠を腕に通し、将来の受難を予知している。本作は極度に緻密に仕上げ、金箔やラビスラズリなど高価な材質の多用から、当時人気の量産された個人の礼拝用絵画に属するが、極めて重要な注文による制作だったことが推測される。

聖母と4人の天使(バラの聖母) サンドロ・ボッチィチェリ作 1490年代

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本作品はトレンドと飛ばれる円形のフォーマットに聖母とキリストや天使たちを描いたもので、周りに極めて豪華な額縁が用いられている。本作の画面には、いくつかの花が咲き、まだ蕾のままのバラの高い茂みの前に設定されている。通称「バラの聖母」は、これらのバラに由来する。画面の中央には跪く聖母マリアが位置し、彼女は手を合わせて小さなイエスの方を向く。イエスは母の方に手を伸ばす様子で、二人の天使広げる布で支えられている。マリアの後ろにも二人の天使がいる。個人的な礼拝に用いられていたものであるが、1631年にトスカーナ大公フェルデイナンド2世の時に、古物商から購入されたものである。

美しきシモネッタの肖像 サンドロ・ボッティチェリ作 1480~85年

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シモネッタ・ウエスブッチは、結婚前の名前をシモネッタ・カッターネオといい、1454年にジェノヴァ近郊の港町ポルト・ヴェーネレの富商の娘として生まれた。1468年頃にレンツェのマルコ・ヴェスプッチと結婚したが、1476年に若くして世を去った。本作品は、フィレンツェ一番の美人とされたシモネッタを理想化し、美しい女性の常套表現として描いたものである。このシモネッタの肖像は、彼の描く女性像に、共通する特徴がある。それは面長で目鼻立ちが似ている。もし、彼の近辺にいた特定の女性がモデルならば、正にこの「美しきシモネッタの肖像」の本人ではないだろうか?日本に渡った、唯一のボッティチェリの作品である。(丸紅の保有である)

書斎の聖アウグスティヌス サンドロ・ボッティチェリ作 1490~94年頃

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本作品では丹念で精緻な描写がおこなわれている。聖人は、向って左に書棚がカーテン超しに見える、ヴォールト天上の狭い僧坊に正面向きに座り、鵞鳥ペンを手に本に書き付けている。机の下には書き損じの紙屑と鵞鳥の羽が散らばっている。この場面設定の異例の遠近法的な効果や労を惜しまぬ精緻な細部描写は、ボッティチェリの光学的な妙技と教養ある知性に帰されるという。

磔刑のキリスト サンドロ・ボッティチェリ作  1496~98年頃

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本作品は、十字架上で処刑されるキリストの姿を表したもので、十字架とキリストの体に沿って切り取られた板の側面に描かれている。本作品の描かれた時代のプラートでは、1496年にサン・ドメニコ聖堂でジローラモ・サボナローラが説教を行ったことが知られている。サボナローラはドメニコ会修道士であり、15世紀末のフィレンツェを中心として活躍した。メディチ家時代のフィレンツェの華美な文化を批判し、1949年のメディチ家のフィレンツェ追放以後は政治的にも大きな影響力を持った。この時代のボッチィチェリの作品には、サボナローラの支持者たちのために制作されたと考えられる作品も多い。

オリーブ園の祈り サンドロ・ボッティチェリ作  1495~1500年頃

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この作品は、オリーブ園で祈るキリストを描いている。岩の多い断崖として表されたオリーヴ山の上で、キリストは跪き、ルカ福音書の語る通り、天使から犠牲の聖杯を受け取る。岩の下部には洞窟があり、キリストの死後の復活を暗示する石棺が見える。画家のサボナローラ帰依に結びついた特徴がある。遠近法がまるで使われていない。

 

ルネサンスと言う言葉は、もともとフランス語の「再生」という意味である。この言葉が歴史上の概念として使われ始めたのは、19世紀のことである。つまり中世の「暗黒時代」が去って、人々が人間性を尊重し、現実主義、合理主義にのっとって生きようとし出した時、かってそういう立場で輝かしい文化と社会を築いてきたギリシャ、ローマ時代を再現しようとした運動のことである。14世紀のイタリアに始まって、全ヨーロッパに広がったこの古典復興という運動を「ルネサンス」と名付け、その盛んな時代をルネサンス時代と呼んだのである。単に精神運動だけではなく、ひろくそういう精神を生んだ社会を考察すると、次ように言えるあろう。領主対農民という社会関係が中心で、キリスト教思想がその精神内容である。その中世社会が、農民上層部の上昇と、都市の発展つまり市民階級の興隆という新事態に対応できなくなったとき、ルネサンスという文化運動が起こったことがはっきりしたのである。フィレンツェで花開いたルネサンスは、メディチ家の没落と同時に、中心地はローマに移動し、更にヴェネチャに移動し、約200年間続いて、フランス、ドイツへ移動した。日本にも、非常によく似た時代があったと私は思う。日本の室町時代末期から桃山時代のころと、ヨーロッパのルネサンス時代とである。ここまでとく似た道を歩んできたヨーロッパと日本が、全く運命を分かったのである。ヨーロッパはその後、近代的な社会を急速に発展させていったのに対し、日本が再び封建社会が作られて、世界の発展から大きく取り残されてしまったのである。ルネサンスと言う言葉を聞くと、日本の遅れたことがある意味で意義のあることだったと思う。

 

(本稿は図録「ボッティチェリ展 2016年」、図録「ボッティチェリとルネサンス 2015年」、塩野七生「ルナサンスとは何であったのか」、松田智雄編「世界の歴史第7巻」、「日経大人のOFF2016年1月号」、2016年1月3日日経「美の美」を参照した)

 

 

勝川春章と肉筆美人画

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」が2016年3月27日まで開催されている。勝川春章(1726~92、享保11~寛政4)は、江戸中期の浮世絵師であり、50歳頃から肉筆の美人画家として著名な人である。浮世絵は、美しい女性画と、華やかな歌舞伎の舞台で演技する男性役者絵とを、2本の主要な柱として展開した。中でも美人画は浮世絵の華と言ってよく、菱川師宣に始まり宮川豊信に至る初期(1670年代~1764)、鈴木晴信、鳥居清長、喜多川歌麿、勝川春章らが黄金時代を築いた中期(1675~1806)、葛飾北斎、歌川國貞、歌川国芳らの後期(1807~58)、そして葛飾応為、月岡放念らの幕末明治の終期(1859~1900)と,全期に亘って各時代の中心的な絵師が多彩に活動した。勝川春章は、当初役者絵版画、相撲絵版画などで一躍時代の寵児となったが、50歳以降没年まで肉筆美人画の制作に没頭し、数々の名品を残している。

勝川春章が活躍した時代は18世紀後期・和暦では明和・安永・天明・寛政期にあたる。その頃、欧米ではアメリカの独立宣言、イギリスの産業革命の本格化、フランス革命などが次々と起こった激動の時代であった。鎖国下の日本では,京の都で応挙が写生画を立上げ、それが近代日本画に繋がる動きとなった時代である。(出所が記載していない図は出光美術館所蔵)

雪中傘持美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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水分を含んだ雪を、女性が傘から振り落とそうとして、傘の先を下に向けている。春章の描く女性像は、彼の創意にあふれている。長袖の黒い地色は、白銀の中に強いコントラストを運び込むことでいっそう映え、袖と裾にほどこされた模様は鮮やかな色彩を伝えている。画業の全盛期を迎えた春章画の美質が伝わる作品である。

桜下三美人図  勝川春章作  天明7,8年(1787,88年)頃

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満開の桜の側を蛇行しながら小川が流れ、その下に三人の女性の姿をとらえている。女性たちの背後に群生する土筆やたんぽぽの描写は微細を極めている。この絵の圧倒的な植物の描写は、春の訪れをことほぐ「若菜摘み」を風俗画の中に写したものである。

桜下遊女図  勝川春章作  天明3-7年(1783~88年)頃 千葉市美術館

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吉原中之街の桜が霞のなかに満開の花をあらわす。その下では、一人で歩く遊女の姿が捉えられる。左足はつま先だけを地面に接し、右足をぐっと踏み出した様子を伝える。鏑木清方(かぶらぎきよかた)の旧蔵品で、みずから箱書をしたためている。

婦人風俗十二か月 端午  勝川春章作  寛政元~4年(1789~92)千葉市美術館

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十二か月の風俗をひと月ずつ、十二枚の画面に描きわけた一連の作品である。この形式の絵は「月次絵」(つきなみえ)と呼ばれ、その歴史は古く、11世紀頃にはやまと絵の基本的な型の一つとして普及していた。浮世絵にも例は多い。これは端午の節句の様子を描いたものである。朱鍾馗と宝尽くしの幟が立っており、粗放な筆触を強調した鍾馗図の表現は、その異形を強調するのみならず、春章の画技のバラエティを示すものである。

美人鑑賞図 勝川春章作 寛政2~4年(1790~92)頃64.9×123.2cm

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美人画としては破格に大きな画絹の上に、おもいおもいに時を過ごす十一人の女性の群像が描かれている。屋外の庭園風景は、輪郭を目立たせず、絹地が透けて見えるほどに淡薄な彩色によって、みずみずしく澄んだ自然景観が描かれている。この絵画は、かねてより春章の作品を愛好したことで知られる大和郡山藩主・柳沢信穐(やまぎさわのぶとき)の古稀をことほぐためと考えられる。庭園は信穐(のぶとき)が隠居後に過ごした駒込・六義園(りくぎえん)に似ている。また屋舎の釘隠しの意匠が柳沢家の花菱紋であることからも推察できる。華やかさと伝統的な大和絵を思わせる古典的な文化の息吹を感じさせる名品である。勝川春章の最後の傑作であろう。

娘と童子図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年(1792)、春章がこの世を去ったまさに直後に、浮世絵界に華々しく登場してくるのが、喜多川歌麿(1756~1829)や鳥文斎栄之(1756~1829)など、浮世絵史上にその名をとどろかせる絵師たちである。春章スタイルの美人画が、どのように後世の浮世絵へ受け継がれたのかが窺える。この絵は、桜の模様を散らした振袖をまとい、いまだに十歳代とも思える女性がてまりをもてあそんでいるのを、童子が右手を伸ばしてそれを欲しがっている様子を映したものである。二人の関係は姉と弟と推測される。

重要文化財  更衣美人図  喜多川歌麿作  江戸時代(19世紀前期)

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寛政4年に春章が世を去ったのち、まさにそれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品は歌麿の美人画の中で、最も成功した事例であろう。

月下歩行美人図  葛飾北斎作  江戸時代(19世紀前期)

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葛飾北斎(1760~1849)が、絵を学ぶべくはじめて門を叩いたのが、勝川春章であり、当時春朗と称していた。入門以降、名所絵や役者絵を手がけたのち、春章没後の寛政6年(1794)に勝川派を去った。北斎について語る必要は無いであろう。

 

 

肉筆浮世絵はこれで2回目となるが、いずれも保管状態が良く、かつ70点に及ぶ収集が主として出光美術館で行われていた。今回は「勝川春章生誕190年記念」として、春章を中心に取り上げたが、多数の肉筆画の画家の絵が出品されていた。シカゴ ウエストンコレクションと比較しても劣らない優品であり、日本にもこれだけ多数の肉筆浮世絵があることを知り安心した。

 

(本稿は図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、図録「肉筆浮世絵ー美の饗宴  2016年」、図録「大浮世絵展  2014年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

東寺  1200年の宝物

東寺には、秘法の国宝両界曼荼羅図(りょうかいまんだらづ)を始めとして、密教にかかわる絵画、工芸品、書跡など多数の宝物がある。昭和40年(1965)、宝物館が館内北側に新設された。兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像など、数々の秘宝が安置されている。春・秋に2回展示されるので、是非開扉を確かめて拝観して頂きたい。

宝物館(写真)   境内の北側

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昭和40年(1965)に、東寺の秘宝を公開する方針に転じ、講堂、金堂、食堂の公開と併せて、宝物館を新設し、東寺の秘宝を公開する方針に転じた。東寺の方針転換に心から敬意を表する。

国宝 兜跋毘沙門天立像  木造   中国・唐代(9世紀)

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四天王のうち多聞天が単独で造られると毘沙門天と呼ばれるが、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)はそのなかで、地天女の掌の上に立つ形式のものを呼ぶ。この像は唐代に中国で造られたと考えられるが、その像は特異で、鎖を編んで作られる裾長の金鎖甲をまとい、腕には海老の甲のような籠手を付ける西域風である。中世の記録では、この像は、もともと平安京の出入口であった羅生門に安置され、王城の守護神としての信仰を集めていたという。羅生門が倒壊したので、近くの東寺に移されたものとみられる。正域の兜跋国に出現した毘沙門天の姿を模したとされ、兜跋毘沙門天の名で知られる。エキゾチックでスマートなお姿である。

国宝  真言七祖像  李真筆写  空海将来  唐代(9世紀)

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「御請来目録」に記載された、空海の師・恵果(けいか)が、空海に与えるため唐の宮廷画家・李真等に制作させた善無畏(ぜんむい)など5人の密教祖師像の一つである。空海が直接係った根本の祖師像で、唐代宮廷画家の手になる本格的な絹本色彩の肖像画遺品であり、現存する唯一の画像である。

国宝  御請来目録  空海選  最澄筆   平安時代(9世紀)

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空海が中国・唐から請来した新訳本247巻等、合計461巻に曼荼羅、阿闍梨御影など十鋪、密教の道具など九種十八個等を記載した目録で、天台宗の開祖最澄が空海より借用して写したものと考えられている。(「空海の風景」に記載あり)これらの品々のうち現在に伝わる物も多いことから、空海入唐中の密教研究の事績・成果物として理解されるとともに、日本の真言密教の始まりを示す重要な資料である。

国宝 密教法具  空海請来    唐代(9世紀)

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弘法大師空海は、唐で密教を学ぶと共に、数多くの仏画、仏像、経典、法具類を持ち帰った。その法具の一つと伝えられているもので、五鈷鈴(ごこれい)・御鈷杵(ごこしょ)とこれを法安する金剛盤(こんごうばん)の三点からなる組法具である。

国宝 両界曼荼羅図(りょうかいまんだら)(胎蔵界曼荼羅)平安時代(9世紀)灌頂院

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上記と並んで保管される胎蔵界曼荼羅であり、唐で作られたものという意見もある。「曼荼羅」を日本美術辞典で調べてみると、概ね次のように記している。「古インド語の音訳で、意義は輪廻具足または聚集のことを示し、即ち渾然とした一つの体系を意味し、それを具体的に示したものから壇または道場の意味もある。曼荼羅の語を専ら用いているのは密教であって、経意を壇の形式に象って図示したものをいい、各種の形式がある」佐和隆研氏の「仏教美術入門」には、次のように記されている。「曼荼羅といえば、現在では広い画面に多数の仏・菩薩などを並列して描かれている特殊な形式の仏画を思い起こす。しかし曼荼羅とういう言葉の中には聚集・壇・円満具足等の意味がある。これは現在我々がみる曼荼羅の歴史を思いださせるのである」要するに「仏教世界の表現」を曼荼羅と呼んだのである。胎蔵界曼荼羅は「理の世界」を示す。

国宝 両界曼荼羅図  金剛界曼荼羅      平安時代(9世紀)灌頂院

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金剛界曼荼羅の金剛とはダイヤモンドのこと。人間の悟りの心がまるでダイヤモンドのように堅固であることを、この図は表現している。「会」(え)という9つの区画からなり、そのため金剛界曼荼羅を九会(くえ)曼荼羅とも呼ばれる。曼荼羅は古代インドで生まれたものだが、ここで見る胎蔵界・金剛界のように左右均等の形に整えれたのは中国に伝わってからである。空海は中国で盛行したその最新の曼荼羅を描かせ、日本にもたらしたが、空海請来の曼荼羅は現存しない。この二つの曼荼羅は現存最古の彩色曼荼羅である。

国宝  天蓋(てんがい) 木製彩色    平安時代(9世紀)

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木製彩色、区内に八葉蓮華をすえ、中央に圏帯(けんたい),外区に八葉蓮華弁帯を廻している。材は檜である。御影堂に安置される国宝・不動明王坐像(9世紀)の上に掲げられていたものである。

国宝  東寺百合文書  (奈良、平安、中世)

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東寺が、中世、どのようであったかを知る資料として東寺百合文書(奈良・平安時代の文書も含まれている)がある。江戸時代に100個の桐箱に納めて保存されたので「百合文書」と称される。文書は約2万4000通に及び、現在は京都府立総合資料館が所蔵し、国宝の指定を受けている。東寺の荘園関係、法令仏事の文書を中心として、百姓申状(もうしじょう)や注進状など、当時の荘園のありさまや民衆の生活ぶりをいきいきと伝える資料が豊富に含まれていて、中世史研究にとって欠かすことが出来ない貴重な文書群である。世界記憶遺産の指定を受けている。

 

空海の存在は余りにも大きく、空海の思想は完璧であった。その為か、後進に独創的な思想を考える人は出なかった。せいぜい、空海を師とし、仰ぎ見る弟子ばかりであった。しかし、空海は「お大師様」として、現在でも大衆から親しまれている。四国八十八カ寺の巡礼は今でも盛んである。一方、同時代の最澄は顕教であり、顕教は読んで判るものであった。最澄は、日本における一代精神文化財とも言うべき叡山を開いた。没後300年後には、13世紀の鎌倉仏教が開花した。法然が浄土宗を、日蓮が法華宗を、そして親鸞が浄土真宗を起した。今日の日本仏教は叡山から生まれた。

 

 

(本稿は、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、小学館「古寺を行く 「第3巻東寺」、野間清六「日本美術辞典」、佐和隆研「仏教美術入門」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国にかたち」第2巻を参照した)

東寺   講堂と立体曼荼羅(2)

彫像・塑像などの立体物で構成する曼荼羅は、普通、羯磨曼荼羅(かつままんだら)と呼ばれる。密教では、そこに真理が存在する以上、それはかならず形をとって表現されなければならない、というのを基本理念としている。空海の代表的な営みが講堂内に密教彫像をもって形成した立体曼荼羅である。中でも特異な仏像類は、一番奥(向かって左側)の五大明王(ごだいみょうおう)像で、これらは密教伝来による新しい仏像類である。天平物仏に慣れ親しんだ私にとって、特に違和感を強く感じたのは、この五大明王像であり、中々理解できず、何回もお詣りし、少しでも近づけるように努力したものだが、未だに、その意義が十分理解出来ていない。五大明王はすべて平安仏であり、国宝指定を受けている。

国宝  不動明王坐像  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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五大明王の中心に位置し、保存状態は一番良い。両眼をかっと開け、上下歯牙(しが)で下唇(したくちびる)を噛みしめた表情はいかにも力強い。「大師様」(だいしよう)とも呼ばれる不動明王のスタイルであり、その後の規範となっている。頭髪を総髪に、左耳の辦髪を垂らすのは、初期不動明王の特徴である。躍動的な行動の群像のなにあって、静かな憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべて座すその姿は、主尊としての威厳に満ちている。不動明王像の特徴は「高雄曼荼羅」(たかおまんだら)(神護寺蔵)の胎蔵界の不動と一致している。「高雄曼荼羅」は、空海が師の恵果(けいか)から与えられた両界曼荼羅(現図曼荼羅)を在世中に映させたもの。原図曼荼羅は失われてしまったが、それを立体的に表現したこの像によって、後世まで不動明王の手本とされた。

国宝 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)木造承和6年(839)平安時代(9世紀)

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明王は密教固有の尊像で、密教の教えを聞こうとしないものを教化するために、その妨げとなる煩悩や欲望などを力づくで調伏する憤怒の仏である。五大明王のひとつで、東北方に配される北方尊である。三面六臂と、密教特有の多面多臂仏である。しかも、中央の面は眼が5つ、左右の面は3つと、顔が異様である。六臂にはそれぞれ独鈷(とっこ)や矢など法具・武器を持っており、今にも飛び掛かってきそうな躍動感が感じられる。これらの明王像はみな針葉樹の一木(いちぼく)造りで、衣の一部や臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん)などの装身具は、乾漆(かんしつ)を盛り上げて成形されている。奈良時代の伝統的技法である乾漆を用いて、新来の密教尊像の特異な姿を表したものである。

国宝 大威徳明王騎像(きぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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大威徳明王は、頭上の3つを含め6つの面、六本の腕、六本の足を有する異形の姿である。六本足から六足尊とも呼ばれる。六面とも額にも目がある。左右の第一手は胸前で両手の指を組み各第三指を立てる。やはり密教独特の複雑な形である。他の手には剣や法棒などの武器を執る。水牛を座とするが、その水牛はヒンドュー教の死の神のヤマを表し、その上に大威徳明王が座るということは調伏を意味する。

国宝 降三世明王立像(ごうさんせいみょうおうりつぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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降三世明王は、正・左・右・背面のそれぞれ顔がある。眼は四面とも、目頭部弧状の縁のある瞋目(しんもく)と呼ばれる形式が採用され、見開いて吊り上り、上の歯列と牙を剥き出しにする憤怒の相である。焔髪(えんぱつ)と呼ばれる逆立つ髪も怒りを表している。腕は八本で、胸前で左右手の小指を組む参世印は、この尊像を強く印象付ける。他の指には三鼓杵(さんこしょ)や弓、矢などの武器を執る。ヒンドゥー教の神の姿を取りいれたものである。

国宝  梵天(ぼんてん)坐像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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須弥壇に向かって右端に梵天、左端に帝釈天が安置される。梵天は左右にも面があり、四本の腕という異形で、上半身には条帛(じょうはく)という帯状の衣しか着けない。胸部は広く、厚く表され、腹部に向かって細く括られる。たくましく、また肉感的な体型である。脚は崩して蓮華上に座る。これらの表現は、高雄曼荼羅の身体表現に近似している。蓮華座は、四羽のガチョウに支えられる。

国宝 帝釈天(たいしゃくてん)半跏像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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帝釈天は、上半身を甲で被い、その上に丈帛を着ける。下半身には裙(くん)を着け、象の上に左脚を垂加して座る。頭部は後世に造り直されているが、端正な顔立ちである。2011年の密教美術展で、東寺の立体曼荼羅が多数並んだ時に、「一番のイケメン像」として、女性の人気N0.1であった。45度前の角度から朝10時頃の太陽光で見ると、一番美しいそうである。梵天と帝釈天は奈良時代以来の尊像であるが、奈良時代のものは立像で、鳥獣を台座にするものはない。伝統的な尊像でありながら、姿や表現は新しいものに変わっている。その姿の原型は空海が将来したと言われる京都・醍醐寺の「十天形像」中の梵天と帝釈天と酷似すると言われる。

国宝  四天王 持国天立像  木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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持国天は右手を振り上げ、右足を上げて邪鬼を踏み付ける。顔は斜めに下方に向け、目を見開く。その、目は瞋目で、口は大きく開けて威嚇する。面部は怒りで筋が隆起する。法隆寺の日本最古の四天王像は直立して、顔に怒りを表さないが、奈良時代を通じて四天王の怒りの度合いは増していき、この像でそれが頂点に達した感がある。本像は日本でも最も恐ろしい四天王と言って良いだろう。

国宝 四天王 増長天立像  木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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増長天は頭部を左方に向け、面部の筋はやはり怒りで隆起している。目は瞋目(しんもく)で持国天よりも大きく見開き、開口はしないが上歯列をむき出しにする。右手はあげて戟(げき)、左手は腰の辺りで剣を執る。右手は挙げ面部を左方に向ける姿勢は、それまでに造られてきた姿勢である。本像のように、台座に正対すると頭部はほぼ右側面をみせる大胆な表現には、目を見張るものがある。瞋目という形式は、奈良時代には四体のうち最も強い怒りを示す1体、もしくはそれに準じるものも含め二体に採用されているが、この時期以降、全像に瞋目を採用するのが一般的となった。

 

空海がもたらした新着の密教の神髄は、この東寺の講堂に収まっている。私は、空海の密教を少しでも理解したいと思い、昭和55年から57年(1980~82)まで毎日曜日に、この講堂に通った。結論から言えば、密教は満足に理解できていない。その中で、不思議な体験をした。昭和56年(1981)秋(9月頃か)に、東寺講堂で、この仏像群に詣でた時に、一番奥の五大明王の後ろ(その当時は、仏像の裏側まで公開していたが、現在は、管理の都合であろうが、前面のみを公開している。仏像はすべて前面を向いているので、この状態でも特別に不都合なことはない)で、若い女性(27歳位の美人)が、涙を流し、さめざめと泣いていた。幼い子供を失ったのか、恋する男性との別れがあったのか、理由は分からないが、長い時間涙していた。何とも言えない不思議な体験である。仏像の前で、涙を流す人はいる。確かに感激して、私自身も涙を流したことはある。しかし、あの憤怒の五大明王の後ろで、涙を流すだろうか?理解は出来なかったが、よくよくの深い事情があったのであろう。以来、東寺の講堂の仏像群は、私に取っては、その思い出と共に甦る。

 

(本稿は、小学館「古寺を行く 第3巻東寺」、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち1,2巻」を参照した)

東寺  講堂の立体曼荼羅(1)

空海は御請来目録の中で「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らない者に開き示す」と述べている。密教における造形の重要性を説くもので、東寺講堂の立体曼荼羅は、このような考えに基づいて造られたものである。講堂はおよそ幅34メートル、奥行15メートルの堂で、中央に幅24メートル、奥行6.8メートル、高0.9メートルの壇が築かれている。壇上には中央に大日如来を中心に五体の如来グループ(5仏)、その向かって右に金剛波羅密(こんごうはらみ)を中心に5体の菩薩グループ、その向かって左に不動を中心に5体の明王グループ(五大明王)、壇の右側左縁右縁にそれぞれ梵天と帝釈天、そして壇四隅に四天王の合計21体が安置される。各グループの尊像の間には密切な関係がある。その様子はまさに立体で表された曼荼羅で、堂内に入ると他では経験できない雰囲気に包まれる。

東寺講堂内部の諸尊像の配置

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中央に五智如来(5体)、右側(東側)に五菩薩(5体)、左側(西側)に五大明王が並び、東西の両端に梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四隅に四天王が配されている。文明の土一揆(1486)で、講堂は焼失し、尊像は、僧侶達の必死の運びだしで助かったが、扉が東西(右、左)二方向にしかなかったため、中央の五智如来の5仏と五菩薩の中応仏である金剛波羅密菩薩は焼失し、後世の補作である。

重要文化財  五智如来像(ごちにょらいぞう)  室町時代、江戸時代

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中央に位置する五智如来とは、密教の中心仏である大日如来の智(総徳)を5つに分け、それぞれの智を「金剛頂経」(こんごうちょうきょう)に説かれる大日、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀、不空成就(ふくうじょうじゅ)の五如来、すなわち金剛界(こんごうかい)の5仏を配したものを言う、大日如来を中心とする最重要の尊像である。五智如来は後世のものである。阿弥陀如来だけは、平安末頃の制作になるもので、その他の諸像も、この寺が京都の市中にあるため火災や地震などにより損傷を受け、補修の部分も極めて多い。にも拘わらずこれらの諸尊像中には、制作当初の様式を持ち続けたものが何体かあることはまことに貴重である。

国宝  五菩薩像   承和6年(839)   平安時代(9世紀)

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五菩薩(五大菩薩)は、これを一組として説く経典はないが、教化(きょうけ)を重視した空海の密教的解釈から工夫された一群の仏とされる。仏法そのものを備える五智如来の示す正法(しょうぼう)を衆生に説く菩薩のことで、実際に衆生を教え導く姿を取る。東寺では、五菩薩の名を金剛波羅密多(こんごうはらみた)・金剛薩埵(さった)・金剛宝(ほう)・金剛業(ごう)と伝えている。補作の中尊・金剛波羅密多を除く4体が国宝に指定されている。

国宝五大明王像(ごだいみょうおうぞう)承和6年(839)平安時代(9世紀)

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不動明王と、それを中心に東西南北に配された四明王を指す。四明王は多面多臂(ためんたひ)。加持祈祷(かじきとう)に験力(げんりき)を発揮すべく、それまでの仏像に較べ著しく怪奇な容貌と姿をしている。私が、馴染めない仏像と言うのは、主としてこの明王像である。五仏ともすべて国宝である。

重要文化財  大日如来坐像    室町時代

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大日如来は「大日経」「金剛頂経」の本尊となり、十方諸仏を包括し、仏法そのものを示す「法身仏」(ほっしんぶつ)の地位を得た仏で、太陽にもたとえられ、万物を慈悲と知恵の光であまねく照らすとされる。像容は、如来であるが、宝冠・瓔珞など各種装身具で身を飾り、一種の王者の姿を取る。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を右手で包む智拳印(ちけんいん)を結ぶ。

国宝  金剛法菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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創建当時からの4体は、一木造り、漆箔(しっぱく)仕上げの像で、天平彫刻の均整のとれた作風を示している。金剛法菩薩を除いて、坐像にも関わらず、膝前から台座の蓮肉(れんにく)まで共木(ともき)で彫りだし、頭髪や碗釧(わんせん)などの細かい部分は、木心乾漆の技法で補足している。全体として女性的なやさしい顔貌(がんぼう)としなやかな体つきが強調されている。この印象は五菩薩すべてに共通しており、仏の慈悲を示そうとする構想に相応しい。天平彫刻の伸びやかで官能的な姿態表現を追求したものであろう。

国宝  金剛業菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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金剛業菩薩は、左手は全指を伸ばして掌を上に向け、右手は全指を伸ばして掌を前に向ける、天平時代までの尊像にはない密教独特の印である。髻(けい)を高く結い、髪筋が丁寧に表される。面長で、頬が締まって精悍な顔立ちである。蓮華座に座るが、脚は左右に大きく張って、膝が台座から飛び出す。以上の表現は、空海が将来した図像の表現を取り入れたものと考えられる。この筋肉質の身体表現の起源はインドの仏像に求められる。

 

 

 

司馬遼太郎は「この国のかたち」第二巻で、次のように述べている。「空海が展開した真言密教は、紀元5,6世紀ごろにインドで成立したもので、教主を釈尊ではな大日如来という非実在者としている点でいえば、仏教とはいいにくい。が、密教もまた空の思想をもち、解脱を目的としている点からみると、濃密に仏教といえる。」言い得て妙であると思った。「続日本後紀」承和6年(839)6月15日条に「公卿が皆東寺に集まった。天皇発願の諸仏の開眼のためである」という記述があり、それが講堂諸像の開眼のことと考えられている。空海は承和2年(835)に高野山で入定するので完成を見ることは無かった。なお5体の如来と金剛波羅密菩薩は、文明18年(1486)にあった土一揆で堂とともに焼失し、その後に造像されたものである。(だから重要文化財に留まっているのであろう)講堂の尊像は昭和40年(1965)まで秘仏であったので、色彩が鮮やかに残っている。

 

 

 

(本稿は小学館「古寺を行く第3巻東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、探訪日本の古寺「第8巻京都Ⅲ」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち第二巻」を参照した)

 

東寺   お堂と塔

私は、昭和55年(1980)から2年半京都に住んだ経験がある。東寺の五重塔を新幹線から見ると、京都に帰ってきたという思いが何時もする。京都と言えば東寺である。毎日曜日には,東寺の講堂を拝みに毎日のように行っていた。京都で一番懐かしいお寺が東寺である。この五重塔が最初に竣工したのは元慶7年(883)で、現在の塔は五代目で江戸時代の再建である。京都のシンボルである五重塔は、もともと平安京の都市計画の一環として建てられた官寺であった。延暦13年(794)に桓武天皇により平城京遷都。その2年後から東寺と西寺の造営が始まった。平城京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると道幅84メートルの朱雀(すざく)大路が北へ延び、その右手に東寺、左手に西寺が建っていた。東寺はこの平城京の寺域をそのまま引き継いでいる。京都は、その後多くの戦乱や災害に遭い、京都御所ですら何度も動いたが、東寺は全く寺域を動かなかった。東寺の正面は九条通りの南大門である。五重塔が東に、西に灌頂院(かんじょういん)が並ぶ。南大門を入ると正面に金堂、その中心線上に講堂、食堂(じきどう)が並んでいる。これらの建物はすべて後世の再建によるものであるが、位置や規模は創建時とほとんど変わらない。東寺は平城京の威風を伝える唯一の空間である。だからこそ、世界文化遺産に登録されているのである。

重要文化財  南大門  九条通りから南大門を望む  桃山時代(16世紀)

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正面の門であり、創建時の位置のままである。この門は蓮華王院から移築された桃山時代の建物である。この門から望む東寺の景観は、平安初期の雰囲気を唯一残すものであり、私は好きである。

国宝  五重塔    寛永2年(1644)再建    江戸時代(17世紀)

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五重塔は、境内の東南偶にあり、伽藍配置から見ると、東塔の位置に聳え建つ。西塔の位置には塔ではなく、灌頂院(かんじょういん)が建っている。塔の高さは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高の塔である。空海は天長3年(826)に塔の造立を願い出るが、創建は平安初期の原慶7年(883)ころとみられる。その後、落雷などにより何回も焼失と復興を繰り返し、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光の寄進により再建された五代目の塔である。京都は、50年前には高い建物が無く、市中は元より、遠く洛南の農村地帯から、この五重塔を望むことができた。桃山時代から江戸時代にかけて、しばしば描かれた「洛中洛外図」は、この東寺五重塔からの眺めと言われる。

国宝  金堂   慶長8年(1603)再建    江戸時代(17世紀)

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金堂は、空海が東寺を勅賜されたときには、すでに完成していた。現在の金堂は、大きさは5間×3間の母屋(もや)に裳階(もこし)をめぐらせた堂々とした大建築である。講堂とともに文明の土一揆(どいっき)(1486)で炎上し、創建当初のものは失われた。講堂は室町時代に再建されたが、金堂は工事が進まず、豊臣家の援助により慶長8年(1603)に復興された。薬師三尊が広い金堂の内部に安置されている。

重要文化財  講堂  延徳3年(1491)再建    室町時代(15世紀)

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金堂の北に位置する講堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失し、延徳3年(1491)に再建される。入母屋造り、創建当初の基壇、礎石の上に建てられた。東寺は、はじめ鎮護国家を祈る諸宗兼学の官寺であった。東寺を勅賜され、造東寺別当(べっとう)に就任した空海は真言密教の根本道場にしたい旨、嵯峨天皇に要請して、50人の定額僧(じょうがくそう)を置いて真言密教専修の寺とした。空海は密教の曼荼羅世界を講堂に実現しようとしたのである。

国宝  御影堂(みえどう) 康暦2年(1380)再建 室町時代(14世紀)

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御影堂は域内の西北偶に建ち、屋根は入母屋造り桧皮葺(ひはだふき)と、諸堂の中でも和風で優美である。桁行7間、梁間8間、前堂、後堂、中門からなり、極めて洗練された建物である。御影堂のある西院は、東寺造営にあたって空海が住んだ建物であり、はじめ空海の念持仏の不動明王が安置され、ついで鎌倉期に、仏師康正(こうしょう)の彫った空海の木造が祀られるようになり、以後、御影堂あるいは大師堂と呼ばれている。現在の建物は、室町幕府3代将軍足利義満と公家の援助により,康暦2年(1380)に再建されたもので、さらに明徳元年(1390)に一部改造して、北面に前堂と中門を付加している。

重要文化財  灌頂院  寛永11年(1634)江戸時代(17世紀)

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南大門を入って左手にある灌頂院(かんじょういん)は、密教の修法や伝法灌頂の儀式が行われる、真言密教において、もっとも重要とされる堂舎である。建物は瓦葺きの正堂(しょうどう)と板敷の礼堂(らいどう)からなり、その間を1間の相の間で繋いでいる。正面の身舎(もや)の板壁には両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を掛けるようになっている。また三方の壁には真言八祖像が描かれている。他の仏堂には無い独特の雰囲気を持つお堂である。また毎年、正月の八日から一四日にかけての七日間後七日御修法(ごしちにちみしほ)が行われる。これは、出仕する一五人の僧と承仕(じょうじ)以外,堂内に入ることが許されない秘法である。御修法(みしほ)の目的は、国家安穏、五穀豊穣、玉体(天皇)安穏などを祈ることにあり、現在でも皇室から勅使が派遣されている。「冬の京都」の催しとして、三月八日まで、灌頂院が公開されている。

重要文化財  北総門   鎌倉時代(14世紀)

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平城京条坊の八条大路の南側に建ち、外郭築地塀(ついじべい)に開く唯一の四脚門である。板扉は平安時代、鎌倉時代初期のものを転用しており、修理にあたって再利用された。

 

東寺は、京都のお寺の中で一番平安の趣を備えたお寺であり、常に歴史の中で、大きな役割を果たしてきた。私は、長年慣れ親しんだ天平仏からあまりかけ離れた東寺の仏像類に強い違和感を持ち、京都在住の2年半(昭和55年から昭和57年9月まで)の間、毎日曜日に、この東寺にお参りにきた。講堂の立体曼荼羅には、なかなか馴染めなかったが、2年半も通うと、その異様な仏像にも慣れ親しむようになった。仏像類については,次回以降に丁寧に説明したいが、天平仏とはまるで違う密教仏である。今でも違和感は残るが、密教の底の深い教理には興味も湧く。いずれにしても,兎に角、東寺を拝観しないと多分理解出来ないと思う。

 

 

(本稿は小学館「古寺をゆく 3巻 東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、図録「高野山の名宝 2014年」司馬遼太郎「空海の風景上下」を参照した)

始皇帝と大兵馬俑ー「永遠」を守る軍団

兵馬俑は始皇帝の墳丘から東へ1.5キロ離れた「兵馬俑抗」から出土したものである。極めて写実的に表現されており、約8,000体ありながら、1体ずつ違う顔の造形には、実在の将兵をモデルにしたものと考えられている。1974年3月に、この地の農民が井戸を掘っていて、偶然一山の粉々になった陶俑の破片を発見したことから、井戸を掘る工事は直ちに中止され、中央および陜西省の文物部門の指導者と考古学の専門家が現地に駆け付けて調査をした。1年余の調査・発掘を経て、ここが始皇帝陵墓の大型の兵馬俑抗であり(1号俑抗)、周囲は14,260平方メートル、中には陶俑と陶製に馬が約6,000体、木製戦車40輌あまり、各種青銅武器数万点が埋まっていることが判った。更に、1976年には2号兵馬俑が発見され、発掘の結果、面積は6,000平方メートル、中には陶俑、陶製の馬1,300体あまり、それに大量の青銅器武器が収められていた。それは1号兵馬俑抗の内容に比べても、さらに精彩を放ち、多数の騎兵、80輌あまりの木製戦車,跪車(きしゃ)、立射「(りつしゃ)など各様のポーズをとった歩兵俑が発見された。

2号兵馬俑に続き、1976年5月には3号兵馬俑が発見された。面積は約520平方メートル、中には木製戦車1輌、陶窯と陶製の馬72体が納められていた。3号俑抗の形態は複雑であり、一目でこれが警備の厳重な兵馬俑の指揮部であることがわかった。極めて注目に値することは、この地下に埋もれた8,000体の兵馬軍団については、関連の史書の中に全く記載を探し出すことができないことである。このため、兵馬俑軍団は一層神秘的な色合いを増している。兵馬俑抗以外にも「馬厩抗」(ばきゅうこう)、雑技俑を埋めた「K9908」など200基近い大小の陪葬抗(ばいそうこう)が配されていた。1980年には「銅車馬抗」が発掘された。形状と出土位置から,生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられる。始皇帝を永遠に守る軍団を階層別に説明するが、いずれも「秦始皇帝陵墓博物院」に帰属するものなので、いちいち説明しない。

将軍俑(しょうぐんよう) 秦時代(前3世紀) Ⅰ号兵馬俑出土

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冠をかぶり、鎧を見につけた武将の俑である。顔立ちは面長で四角く、額は広い。顎はがっちりしており、髭が長く口は大きく、唇は厚い。重ねた両手の下に剣を立てていたとされる。湘軍俑の左肘内側に空いた楕円形の隙間がある。ここに鞘ごと剣を指しこみ、両手は指揮用馬車の側板に添え置いた可能性も考えられる。兵馬俑の兵種としては最も数が少なく、戦闘指揮用の馬車付近で出土した例が複数ある。

軍史俑(ぐんりよう)  秦時代(前3世紀)   1号兵馬俑で出土

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高く結い上げた髷の根元に帯をつけている。鎧はまとわず、右前合わせの上着を着用している。布製の腰帯を結ぶ代わりに革帯と金具を使って留めるなど、動きやすく工夫されている。膝丈のズボンを履き、箙(えびら)を背負っていたと推定される。左手は革製の盾を持っていたことも推測されている。

立射俑(りっしゃよう)  秦時代(前3世紀)  2号兵馬俑抗

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手には弩級を持ち、矢をつがえて攻撃命令を待つ兵士の姿である。元来、矢入れを背負っていたものと思われる。半身に構え、上からみた時に足をL字型に開く姿勢は、命中精度を高めるのに適したものである。装備はすね当てをつけ,革製の靴を履いている点を除けば、歩兵俑と同じ服装である。

騎射俑(きしゃよう)  秦時代(前3世紀) 2号兵馬俑出土

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体には長い上着を着て、外側に肩当ての付いた鎧を着けている。下にはズボンを履き、足には口の部分が四角い履物を履いている。右肘を地面に付けており、左の脚を曲げて立てている。、右腕は後ろに引いて曲げており、手は拳を半ば握っており、親指を立てている。左手は胸の前に当てており、指をわずかに曲げている。両手を体の右側に置いており、弓を手にして、矢を放つ準備をしているようである。

御者俑(ぎょしゃよう)  秦時代(前3世紀)   Ⅰ号兵馬俑出土

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体には膝丈の長い上着を着ており、外側に鎧を着け、下に膝当てを着け、足には口の部分が四角く、爪先が真直ぐな履物を履いている。背筋を真直ぐにして立ち、両腕を前に伸ばし、両手は拳を半ば握り、拳の中心を上に向け、親指をわずかに立てている。両目は真直ぐ前方を見ており、全神経を集中させ,手綱を引き御している。

馬丁俑(ばていよう)  秦時代(前3世紀)   馬厩抗出土

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秦始皇帝陵の東側で、死後の世界における厩舎のような竪穴列が見つかった。場骨とともに置かれていたことから、馬の世話をする馬丁と判断される。兵馬俑抗の俑がほぼ実物大と考えられるのに対し、馬丁俑は、実物より小ぶりに作られている。

雑技俑(ざつぎよう)  秦時代(前3世紀)  K9901抗出土

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K9901抗から併せて11体の陶俑が出土した。本作ではでっぷちとした体格の男子で、上半身は裸、下半身には短い袴(はかま)のようなものを身につけている。雑技俑と名付けられるが、実のところ、不明な点が多い。

兵馬俑(へいばよう)5体   秦時代(前3世紀)

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向かって左から立射俑、歩兵俑、軍利俑、将軍俑、騎射俑の5体を並べたものである。最後の会場の後ろに、この五体の人物像が数多く並んでいる。(但し、会場に並べられているのは複製であった。自由に写真が撮影できるコーナーも用意されていた)

1号銅馬車   秦時代(前3世紀)展示品は複製    銅馬車抗出土

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1980年、始皇帝の墳丘すぐ西側で「銅馬車抗」が発掘された。中には、御者の像とともに二輌の銅馬車が西向きに配置されていた。生前に始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと思われる。実物の1/2のサイズの模型であった。始皇帝は生前、5回の全国巡行をしている。最後に,巡遊先の砂丘で50歳の生涯を終えている。この銅馬車は、四頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型である。1号馬車には車與には車蓋を立てている。御者は直立して手綱を引いている。将軍俑と同じような冠をつけ、腰帯に儀剣を差し、単なる1兵卒ではなく相応の身分であることを示している。この馬車が軽装で美麗であることから、軍事用ではなく、特定の儀礼の先導の役割を果たしたと思わせる。

2号馬車  秦時代(前3世紀)  展示品は模型    銅馬車出土抗

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御者は輿の前面に坐して手綱を操り、腰には儀剣を差す。輿には前面と両側面に窓があり、後方に扉がある。紗丘で崩じた始皇帝の亡骸は轀輬車(おんりょうしゃ)に載せたとの記録がある。これが始皇帝の御用車であることを推定させる。なお、「轀輬車」とは、窓を閉じれば暖かく、開ければ涼しいことに由来するものである。私は、1984年に始皇帝の大兵馬俑を見学した時、記念品としてこの2号銅馬車を4,000円程度で購入したが、今回の展示会場では、1.2万円で売っていた。元が強くなったのか,円が弱くなったのか、時代の差を感じた。

将兵の背の高さは、概ね180~190cmである。果たして、こんなに大きな人物が8千人もいたのであろうか?疑問に思う。兵馬俑は高い規格性を持っており、かつそれは「等身大」であると考えられている。秦は確かに全国から体格の良い兵士を徴用したのであろうが、これが現実の軍団とは思い難い。また、俑の生産効率を考えると、一人が1体づつ作っていくよりも,各部位の単位で規格を設け、分業体制で専従にして作る方が効率的であり、かつ正確である。研究者によれば、兵馬俑の破片から、脚、胴体、腕、頭部などを別作りとなって、それらを合せて焼成しているそうである。始皇帝は、不老長寿の仙薬を求めて徐福を東海の山神山に向かわせたと伝えられている。思うに、始皇帝は仙人に出会うことを求めていたのでは無いだろうか?即ち、始皇帝は神秘の世界に住む、永久不滅の存在である仙人と出会い、自らも永久不滅の存在になりたいと考え、この兵馬俑抗などを、生前に造らせたのではないだろうか。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2015年」、図録「秦の始皇帝とその時代 1994年」、図録「美の粋 1996年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」陳舜臣著中国の歴史「第2巻 大統一時代」、NHK取材班 故宮ー至宝が語る中華5千年「第1巻 皇帝天下を制す他」参照した)

始皇帝と大兵馬俑ー天下統一 

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紀元前247年、西の大国秦(しん)に始皇帝が登場し、法家の思想を政治の場で実践した。黄土高原に生まれた秦は,周代に馬の飼育に長けた一族として頭角を現した。戦国時代半ばには、身分制度や刑罰に法家の思想を取り入れて、強力な中央集権国家に成長した。富国強兵に成功した秦は、始皇帝の時代には、全国の富の半ばを占めるまでになった。統一後、始皇帝は、焚書興坑儒(ふんしょうこうじゅ)と呼ばれる思想の弾圧を行い、さまざまな思想が噴出した百家争鳴と呼ばれる時代は終わった。皇帝は天の神に代わって天下を治める「天子」と同義語であるが、造語した本人はこれとは異なる意味を持たせたようである。始皇帝にとっての「皇帝」は、「天子」を超えた概念であり、「天子」を超越すること、そこにはもはや神秘の領域となる。始皇帝は、この神秘の領域に誰よりも近づこうとしたのである。秦は天下を統一(前221年)すると同時に、それまで国によって異なっていた度量衡、漢字の形、貨幣の統一し、全国に浸透させよとした。また、有力な貴族や功臣に王が一定の領地を与えて統治を委ねる統治方法を改め、地方に中央から官僚を派遣して、皇帝の意志を法令によって隅々にまで実現させるようにした。始皇帝は全国を五度も巡行してその威光を示した。その他、巨大な宮殿や長城の構築など統一後に始皇帝が行った事業は枚挙にいとまがない。

両詔権(りょうしょうけん) 青銅 秦時代(紀元前3世紀) 秦始皇帝陵博物院

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始皇帝は天下を統一すると,秦の重量制度を全国各地に普及させるため、重量の基準となる権(分銅)を多数製造させている。本品はその一つである。この分銅には側面に始皇帝とその子二世皇帝の詔(しょうー皇帝の命令)に関する銘文が刻まれている。この分銅は、当時の単位でⅠ鈞(きん)という重さの権であったと考えられている。

両詔両(りょうしょうりょう) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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青銅製の升で、側面には両詔権と同じ銘文を刻んだものである。また底には二世皇帝元年の銘文を刻んでいる。この升の容量は当時の2升半に当たると考えられ、当時の平士に配給するひとり1日分の穀物を計るのに用いられたと思われる。

半両銭母范(はんりょうせんぼはん) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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范は鋳型、母范は鋳型を作るのに用いられる型である。青銅製で14枚の銭の形や青銅で流れる経路(湯道)が浮彫で表されている。これで半両銭が造られた。これにより鋳型の大量生産が可能になった。こうした母范(ぼはん)が作られるようになったということは、大量の半両銭が必要になったのであろう。正に、通貨の統一である。「両」は古代中国の重量の単位で、秦漢時代の1両は15グラム強で、半量は約8グラムとなる。当時、貨幣経済が発達していたのであろうか。「前221年の天下統一後、中国全土で広く用いられるようになった」と図録では解説しているが、果たして本当かどうかは不明である。

瓦当(がとう) 陶製 戦国時代(前5~4世紀) 陜西省考古研究所

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この鹿文、虎雁文、狩猟文の瓦当は,前5世紀から前4世紀にかけて,秦の中心地が陜西省西部あった頃の瓦当である。いずれも戦国時代の他の国でが類例がない、秦国独自の文様であった。当時、瓦はまだk王朝の重要な建物にしか用いることができない特別な資材であったと考えられる。瓦当文様には、建物の安全や国家の繁栄を祈る気持ちが込められていたと想像できるが、本当の意味は今後の研究課題である。

水道の取水口 L字型水道管、水道管 陶製戦国~秦時代(前3世紀)秦咸陽宮遺跡博物館

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組み合わせ式の陶製の水道管である。漏斗状の大きな受け皿とL字型連結し、さらに円筒上状の菅を横方向に連続させて地下に水を流したものである。これらは咸陽宮出土である。この導水施設は始皇帝の地下世界を水害から守る治水対策に用いられたものであろう。この高度に発達した陶器製造の技術が、兵馬俑を作る技術に転用されているのであろう。

水鳥  青銅  彩色  秦時代(前3世紀) 陜西省考古博物館

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青銅製の水鳥で、鋳造後に表面全体をやすりがけして肌理(きめ)を粗くし、そこに下地となる漆を塗ったものである。鶴、白鳥、鵞鳥などもあり、皇帝祭祀に供されるために飼育していた水禽を表現したものであろう。

始皇帝陵

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始皇帝陵の周囲には、内外2重に巡らされた牆壁も発見されており、内城の周囲は3,807m、外城の周囲は6,210mである。牆壁は版築によって作られており、現在はその基礎が残っているだけである。内外の牆壁の4面には門があり、門の上には望楼があった。陵内の地上建築物は火を受けて、現存しておらず、磚(せん)や瓦の破片などが僅かに残っているに過ぎない。始皇帝陵はあたかも豊かな文化財を納めた地下の宝庫のようである。始皇帝陵を中心とする2キロメートルの中心区内には、地上、地下ともに様々な珍しい遺構や遺物が密集して分布している。中心区の外の周辺56.25キロ平方メートルの範囲内では、長年にわたって始皇帝の時代の遺跡、遺物の発見が続いている。始皇帝の建造物の配置や副葬物はいずれも生前に倣ったものであり、地下の王国は地上の王国の再現であった。あの大きな陵墓や地下宮殿は生前に住んでいた咸陽宮のようである。始皇帝陵は、中国の歴代皇帝陵の中でも最大規模を誇り、埋蔵物が最も豊富な大型陵墓である。現在、考古学的調査を経て知られている遺構、遺跡はその一部に過ぎないと思う。今後,更に多くの珍しく、貴重な遺物が発見されるであろう。

始皇帝兵馬俑抗  第1号抗   一部の写真

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私は1994年(平成6年)に,始めて私用で中国の観光旅行をした。万里の長城や故宮博物院等初めて観るものが多かったが、一番大きな衝撃を受けたのは、この始皇帝の兵馬俑抗であった。まるで、巨大な体育館のような建物の中で、兵馬俑を見学した思い出は、忘れることが出来ない。紀元前3世紀と言えば、日本では弥生前期であり、文字も無い時代であり、中国との歴史の差が余りにも大きいので,驚愕したことが記憶に強く残っている。それ以来、兵馬俑が展示される展覧会には必ず見学するようにしている。考古学的研究も進み、20年前には不明であったことが色々判ってきた。もう一度現場に臨むことは無いだろうが、兵馬俑を見る度に感激を新たにする。

日本に与えた始皇帝の影響は多岐に亘が、私はまず第一に徐福の話である。不老長寿の仙薬を求めて、徐福に3千人の童男、童女や技術者をひきつれ五穀の種子をたずさえて、東海の中の三神山に向かわせた。しかし、徐福は仙薬を入手できず、始皇帝の下へは戻らないで、平原、廣澤の地に住むつき、その子孫が繁栄したという。その徐福の辿りついた所が日本であるとして、和歌山県新宮や佐賀県諸冨町をはじめ全国各地(80ケ所以上ある)に徐福伝説が残っている。私自身も、三重県の太平洋岸の徐福上陸地点の碑を見たことがある。徐福の日本渡来は伝説として受け止められているが、時期は弥生時代の初めに当たっており、稲作文化の渡来を暗示する話にも思える。

弥生時代を特徴づける墳丘墓、方形周溝墓は、その祖形が咸陽時代の秦東陵園にみられることから、徐福の一行に加わった秦人が日本へ伝えたのではないかという説もある。応神朝に来日したと言われる弓月君は、始皇帝の長子、扶蘇(ふそ)の子孫と言われており、帰化人の中の有力勢力である秦氏(はたし)の存在にもあるいは影響が及んでいるかも知れない。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2016年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」、図録「中国・美の粋 1996年」、図録「秦の始皇帝とその時代展 1994年」、陳舜臣著中国の歴史「第2巻大統一時代」,NHK取材班「故宮第1巻 至宝が語る中華5千年・1」を参照した)

 

大徳寺の塔頭   龍源院・興臨院

京の西北に聳える七堂伽藍とそれを取り巻く二十三の塔頭寺院、これこそ中世以来700年間、日本文化の中枢として禅文化を創造し育成してきた紫野(むらさきの)の大徳寺である。塔頭(たっちゅう)という単語を、日本美術辞典で調べたら、次のように定義している。「祖師の塔の有る所と言う意味で、一寺院の地域内に建てられた本坊に付属した寺院を言う。主に禅宗寺院で用いられ、子院(しいん)とも呼ぶ。支院は本坊即ち本寺と別の地にあって、従属関係にある寺院である。」即ち、禅宗の寺院ならば、どこでも塔頭があるが、特に大徳寺の塔頭が有名である。江戸時代には50ケ寺を超えたそうであるが、御多分にもれず明治の廃仏稀釈令で、減少し、現在は23ケ寺であるそうだ。大徳寺塔頭の中には、拝観を拒絶しているところが多い。そんな中で季節を限って、拝観を許す寺院もある。今回は龍源院と興臨院を訪ねてみた。

重要文化財  龍源院方丈            室町時代(16世紀)

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大徳寺の塔頭の中では一番古い寺であるそうだ。今から500年前、文亀2年(1520)大徳寺の開祖・大燈国師より第八代の法孫である東渓宗牧禅師を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公により創建された。方丈は、室町時代の禅宗方丈建築としては、その遺構を完全に止める唯一の建物であるそうだ。一重入母屋造,檜皮葺きである。

方丈前石庭  一枝担(いっしたん)     室町時代(16世紀)

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方丈前石庭を一枝担(いっしたん)という。これは、開祖の東渓禅師(1454~1518)が、釈尊の粘華微笑(ねんげみしょう)という一則の因縁によって大悟され、その師、実伝和尚より賜った室号の霊山一枝之軒(りょうざんいっしのけん)より銘名されたものである。庭の中央右よりの石組が蓬莱山(ほうらいさん)を表し、仙人の住む不老長寿の吉祥の島である。右隅の石組が鶴島であり、中央の丸い苔に覆われたものが亀島であり、白砂は大海原を現わしている。作庭は室町時代のものであるが、作庭家の名前は伝わっていない。その時代の作庭者は阿弥号を名乗る時衆であろう。

方丈東側庭園  東滴壺(とうてきつぼ)     室町時代(16世紀)

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方丈の東にある有名な坪庭で、わが国では最も小さく、底知れぬ深淵に吸い込まれる感じのする,格調高い石庭である。

方丈北側の石庭  竜吟庭(りゅうぎんてい)    室町時代(16世紀)

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簡素な中に力強さを秘めた庭である。方丈書院の後庭(北庭)にあたり、東北西の三方は土塀で囲まれ、広さが約80坪である。全面に敷き詰めた苔が美しく、その緑が石組をグンと引き立てている。とりわけ中央部の石組は力強い表現となっている。この、一種の三尊石組は枯滝石組とも、須弥山(しゅみせん)石組とも考えられている。手前の一石は水分石であろうか。全体に比類の無い枯山水である。開祖の東渓和尚は、大仙院の開山古岳和尚の法兄にあたる。この兄弟は共に作庭に熱心であった。

開祖堂                      昭和時代(20世紀)

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開祖東渓禅師の塔所で、昭和の唐様式木造建築物の代表作である。一重入母屋造。桧皮葺き。

重要文化財  興臨院   本堂       室町時代(16世紀)

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この塔頭は、室町時代の大永年中(1520年代)能登の守護畠山左衛門佐義総によって建立され、以後畠山家の菩提寺となっている。畠山氏は足利幕府官領の畠山基国を中興とする後裔で、武門の名門である。義総の法号興臨院殿翁徳胤居士から寺名が付けられた。開祖は大徳寺八十六世の小渓和尚である。ここの本堂は、創建直後に焼失し直ぐ再建されたため、現本堂は天文2年(1533)頃のものである。又、畠山家没落後、天正9年(1581)前田利家公により本堂屋根の修複が行われ、以後前田家の菩提寺となった。

重要文化財  興臨院  唐門        室町時代(16世紀)

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唐破風、桧皮葺きで室町時代の特徴を良く表し、波型の連子窓、客待ちの花頭窓等は禅宗の建築様式をよく表している。

興臨院  庭園(方丈前)         江戸時代(17世紀)

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方丈前庭は、方丈の解体修理完了に際して、資料を基に復元されたものである。この庭は中国の寒山・拾得が生活していた天台山の国清寺の石橋を模し、大石、松をあしらって理想的な蓬莱の世界を表現している。

塔頭は数が多く、かつ非公開の寺院が多い。毎度同じことを述べるが、国宝、重要文化財には、われわれ庶民の税金が当てられているのであり、もし、僧門を閉じて一切公開しないならば、国の補助金は断り、檀家からの謝礼のみで、運営すべきである。この子供のような意見をあらゆる場所、機会に述べてきたが、長年拝観謝絶を続けた聚光院(じゅこういん)が、来年3月から概ね1年間開扉するそうである。狩野永徳の国宝3図があり、一度是非拝観したいと思っていたが、念願かない1年間とは言え、開扉するそうなので、是非紅葉の時期に訪れてみたい。馬鹿馬鹿しい子供のような意見でも、言い続ければ、どこかで人の目に触れるものであると感じた。

 

(本稿は古寺巡礼京都「17巻 大徳寺」、原色日本の美術「第17巻障壁画」、探訪日本の古寺「第6巻京都 比叡・洛北」、探訪「日本の庭第六巻 洛中・洛北」、各寺のパンフレットを参照した)

大徳寺と塔頭・大仙院

紫野(むらさきの)の大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山であり、洛陽十刹(らくようじゅさつ)の筆頭に相応しい堂々たる風格を持つ寺院であり、三門,仏殿、法堂(ほっとう)、庫裏(くり)が一直線上に並ぶすっきりとした伽藍配置であり、禅寺らしい落ち着きが漲っているお寺である。大徳寺の創建は正和4年(1315)の鎌倉時代に遡り、開祖は大燈国師(1282~1337)である。13世紀に日本は大変革を来した。武家の封建国家樹立と共に禅宗国家を理想とし、一は道元の曹同宗と臨済宗が中国・南宋より将来され、曹同宗は主に地方に伝播し宗勢は極めて強かった。一方の臨済宗は北条時頼・時宗が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と無学祖源(むがくそげん)を招聘(しょうへい)して、建長寺と円覚寺を創めて開山に請じ、自ら参禅して武士を鍛えた。丁度,元が日本を襲った蒙古来襲の時代であり、一遍が全国の寺社仏閣を遊行した時代であった。それから50年、鎌倉禅が漸く京都に浸透した。南禅寺、東福寺、建仁寺、大徳寺が創建されたのである。ことに、江戸時代寛文年間の再建ながら、重要文化財に指定されている仏殿、法堂のたたずまいは、荘重で森厳である。また23寺の塔頭(たつちゅう)と呼ばれる戦国大名の寺院には、優れた茶室、美術品を所蔵している。

重要文化財  三門(金毛閣)         桃山時代(16世紀)

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三門は山門とも書く。左右には山廊(さんろう)を伸ばした重層・入母屋造りの、立派な楼門である。この門は大永年中(1521~28)に連歌師の宗長(そうちょう)が創建しかけて、工事なかばで投げ出したという、いわくが付いている。資金が続かなかったのであろう。本来、重層であるべき三門が、初層だけ出来上がったまま放置されているのは、いかにも見苦しい。中途半端である。そこで天正17年(1589),天下一の茶人の千利休(1522~1591)が私財を投じて、二階の部分を造らせ、重層の楼門として完成させた。落慶を祝い、利休はこの門の楼上に釈迦三尊など定めの仏像の他、等伯の壁画、自らの肖像を彫らせて安置した。これが、時の天下人、豊臣秀吉の怒りに触れ、利休の失脚、賜死へと繋がったと言われている。私は、この俗説には組しない。これは単なる言いがかりであり、本質的には「美の世界の王者」と「権力世界の王者」の反発であり、もっと言えば、国内統一を成し遂げた秀吉には、この時点では海の向うの異国に向けられ、堺衆の軍需商人としての役目は終わったのである。代わって、福岡の新興商人が、海外との取引に精通ししていたのである。かって焦茶色であった三門は何時の間にか緋色(ひいろ)に塗り替えられ、今では丹塗りに見えて,秋には映える色となった。

重要文化財  仏殿       寛文5年(1665) 江戸時代

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三門の北に並んで建つのが仏殿である。一重裳階(もこし)付き入母屋造、本瓦建築である。文明11年(1479)に堺の豪商尾和宗臨が一休禅師の請いを受け寄進し、さらに寛文5年(1665)169世の天佑紹杲(てんゆうしょうこう)の時、京都の豪商難波屋常佑(じょうゆう)によって再建されたもので、典型的な禅宗様(唐様)である。

重要文化財  法堂(はっとう)   寛永13年(1636)江戸時代

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仏殿の後ろに続いて建つのが、修行者に法を説くための法堂で、寛永13年(1636)開山大燈国師参百年遠忌に際して再建されたものである。一重裳階付き入母屋造り。本瓦葺で仏殿と同様に禅宗様建築であるが、裳階部分は7間6間となり、大徳寺伽藍の中で最もおおきな建造物である。大徳寺の仏殿や法堂・本坊本丈への立ち入りが禁止されている。塔頭の中にも、例えば黄梅院,真珠庵、聚光院、総見院、弧篷庵など門を閉ざして、拝観を拒絶しているところが少なくない。国宝、重要文化財は国民の税金で保護されているのだから、季節を限って拝観を許可する等の配慮があっても良いだろう。単に宗教のための寺院なら、その宗教を信ずる人だけの寄進の上で成り立つようにするべきであろう。すばらしい茶室や寺宝を持ち、それぞれに歴史的な由緒もありながら、全面禁止は如何なものかと思う。

国宝  大仙院  本堂    永承6年(1509)室町時代

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開祖大聖国師(だいしょうこくし)が、創建された当時のままの姿を残す室町時代の代表的方丈建築である。この本堂は禅生活が日本人の日常に浸透する過程を如実に伝える最古の貴重な遺構でもある。玄関も同時期の建築であり、国宝に指定されている。

大仙院  「礼の間」前の小庭         室町時代(16世紀)

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大仙院を創建したのは大聖国師古嶽宗亘(こがくそうこう)であるが、作庭は宗阿弥とする説があるが、これは信用できない。京の庭では「伝宗阿弥作庭」というものが、昔から数が多い。私は、阿弥号を持つ、時衆の作庭家で、室町時代の作家であると考えている.先ず眼を引くのは舟石である。縦に縞目の見える舟石は、実にしっかりとした形を見せていて、重量感にあふれた堂々たる姿である。小石を敷き詰めて広い水を表現したこの矩形の庭の、左手奥に位置していて、その先、白い築地塀の下にはいくつかの石が点在する。石はほとんど阿波の青石であり、緑色の華麗な石には多くの縦の縞がある。

大仙院 「書院の間」前の庭     室町時代(16世紀)

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この庭の石は非常に多い。庭の東方隅は、小さな台地になっていて、植込みが深い。椿の花が、赤い斑を散らしていた。右奥、石組の間から、枯滝が三段になって流れ落ちている。この石組を、多くの歴史学者、庭園研究家が、豪気、壮大、華麗、巧緻と賛辞を呈するが、私には、やや「狭い庭に石を詰め込み過ぎた庭」という感じがする。立原正秋氏は「北宋画のような絵画的な構成だが、龍安寺のよう庭のように美しくもない」と評している。もっともである。

大仙院 方丈東庭全景(前の二つの庭をまとめた写真)  室町時代(16世紀)

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二つの庭を方丈東庭の全景として眺めてみると、この写真のようになる。真中渡り廊下は、後から付けたものではないかと思う。水は左手から右手に流れると感ずると、これはこれで、充分満足できる作庭である。奈良本達也氏は、この大仙院の庭から宋元風の墨絵の山水を連想すると言われ、中でも雪舟の「慧可断碑図」(えかだんぴのず)を考えさせるという。「慧可断碑図」というは、慧可という男が入門の意志の強さを表すために、自分の腕を斬り落し、それを捧げて達磨を訪ねていく場面を描いた図である。険しい洞窟の中で座禅を組んでいる禅宗始祖の姿と、その後方に歩み寄る慧可の,凄まじいばかりの求道の心を示す墨絵である。確かに、大仙院の庭は、その石組は、「慧可断碑」の厳しさを見せているかも知れない。ここの庭の石には、すべて名前が付いているそうだ。

大仙院  方丈前の庭        室町時代(16世紀)

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方丈の前庭を目にすると、思わず「ほう」という声が出る。塀に囲まれた砂礫の庭に一木一石もないのである。全体的に清浄感がただよっている。見渡す限りは、砂紋の描かれた白砂の海である。左手に二つの砂盛りが美しい。石の多い枯山水の庭を見てきた目には、言いようもない清々しい。「無の美しさ」を感ずる。

大仙院 書院の間の西側の庭          室町時代(16世紀)

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眼の前に古い井戸があり、そこから南へ小石が続く。椿の花が美しく咲いている。枯山水の庭から、突然華やかな椿の花には驚かされる。

大仙院庫裏の入口には、「何妨」という二字の記された扁額が掲げられている。これは「なんぞさまたげん」と読まれて、いわば来たる者は拒まずという意味であろう。つまり禅の世界が門を開いて誰をも受け入れようとする姿勢であろう。考えてみれば、僧侶はお経を読み座禅を組む時は、決して庭の方に面して座ることはない。禅僧にとって、庭はそれ自体を眺め、それ自体を鑑賞するものではないのである。だからかれらにとって庭というものは、現実には見えていない遥かな世界であり、彼らの祈りや信仰を背後から支えるための一つの想像の世界ーあるいは想像や空想をひき起こすための、一つの媒体ということになるのではないか。このように考えると、庭は、その寺の住職がさほど情熱をもって作り上げる必要はなくなるであろう。つまり、人手に委ねてもいいと、私には考えられる。大仙院のチラシには作庭は「大聖国師」と書かれているが、私は無名の作庭家(時衆)が造ったとしか映らない。さて、文学者で大徳寺を訪れた人は多い。島崎藤村は昭和7年(1932)6月11日に和辻哲郎の案内で大徳寺の塔頭真珠庵を訪ねている。(「京都日記」より)丁度、藤村文学の集大成となる「夜明け前」と向き合っていた頃であった。大徳寺は茶の湯と縁の深い寺である。司馬遼太郎は「街道を行く」の中で次のように述べている。「大徳寺の特徴は、大燈国師以来のきびしい禅風をまもるべく、できるだけ世塵から超越しているところにある。ただ、東山・桃山時代以来、俗権とのかかわりをもったのは、茶を通じてであった。村田珠江(しゅこう)・千利休以来、茶道の本山として知られてきたために、「大徳寺の茶づら」と呼ばれた。禅僧でありながらしきりに茶の話をする、というところから付いた綽名だろうが、このことが大徳寺のえがたい個性をも作ったようである」

 

(本稿は古寺巡礼京都「第17巻大徳寺」、探訪日本の寺「6巻京都二」、立原正秋「日本の庭」、吉河功「京に庭」、島崎藤村「桃の雫」を参照した)