鳥獣戯画  京都高山寺の至宝  乙、丙、丁巻

乙巻は甲巻から一転して、動物図鑑のような様相を呈する。16種の動物が描かれているが、擬人化された動物は一切登場しない。巻頭の馬にはじまり、前半は牛、鷹、犬、鶏、鷲、隼といった日本にも生息している動物が描かれている。後半は犀、麒麟、豹、山羊といった日本には生息しない、あるいは空想上の霊獣を描いている。単なる動物図鑑とは異なり、背景が描き込まれている。親子連れの動物たちが多く描かれており、「鑑賞画」の様相を示している。丙巻は前半に「人物戯画」、後半には「動物戯画」という、まったく異なる論理の画面が配されている。「平成の修理」により、この謎を解くヒントが見えてきた。「人物戯画」と「動物戯画」は、もともと料紙の表裏に描かれており、「相剥ぎ(あいへぎ)」という技術により一枚の紙の表裏を二枚に分け、つなぎ合わせたというのである。つまり建長の頃には十四紙あったものが、伝来の過程で四紙が抜け落ち十紙となり、「相剥ぎ」により最終的に現状の二十紙となったということである。丁巻は、人物主体の巻である。侏儒、験競べ、法会、流鏑馬などが描かれている。甲巻及び乙巻に描かれているさまざまなモチーフを踏まえて描いており、動物たちが演じていた儀礼や遊戯を、人間が演じるというその逆説性がこの巻の真骨頂ということができる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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霊獣の麒麟である。徳の高い君主の治世に現れるという。中国の「礼記」という書物に説かれる瑞獣(ずいじゅう)である。

国宝  鳥獣戯画  乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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二つの図で、愛らしにあふれる虎の親子を表す。こちらも日本には生息しておらず、白描図像などをもとに描かれたとみられる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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今度は空想上の動物である獅子が登場。蝶を威嚇したり、伸びをしたり、その姿は犬のようである。

国宝  鳥獣戯画 丙巻  紙本墨画  鎌倉時代(13世紀)  高山寺

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猿の乗る鹿の蹄をのぞきこむ蛙。甲巻同様に丙巻でも、鹿は擬人化されないままである。

国宝  鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画    鎌倉時代(13世紀)  高山寺

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山車に見立てた荷車を引く行列、祭りの熱気が伝わってくるかのようである。牛もまた擬人化されていない。

国宝  鳥獣戯画   丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

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甲巻に描かれている猿の法会のさらなるパロディー。こちらの本尊は蛙とも、何等かの虫にもみえる。

国宝 鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

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甲巻でも蛙が編木(びんぎさら)を手にしている田楽の場面である。太鼓、鼓、笛などを手にした楽人が拍子を合せて演奏している。

 

鳥獣戯画の制作された意図や目的は何であったのであろうか。この時代(平安時代から鎌倉時代初期)の最高レベルの技術を持った絵師が、この「鳥獣戯画」を手がけている。絵仏師あるいは、宮廷繪所の絵師という高い階層に属したものが、高い地位にある人物から注文を受けて「鳥獣戯画」を描いたのであって、絵師のただの筆遊び(すさび)ではなく、何等かの目的をもって制作されたと考えるのが妥当だろう。描かれた背景は謎が多い。平安時代末期に仏教が乱れるなか、僧や公家を風刺したとの説もあるが、誰がどんな目的で描いたのかは、はっきりしない。ただ、「墨だけでこれほどの躍動感いっぱいに描くことは、相当な力量の持ち主が、楽しんで描いたのでしょう。」(東京大学・坂倉聖哲教授)一方、図録の中に「鳥獣戯画がマンガを生んだのか?」を執筆された松島雅人氏(東京国立博物館教育講座室長)の「源平の戦乱の中で非業の死を遂げた高貴な人物として、幼くして死んだ安徳天皇の慰霊」という説は捨てがたい魅力がある。今日のアニメの原型と考えれば、安徳帝の慰霊こそ、安心できる仮設である。今後の研究をまちたい。

 

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝 2015年」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第8巻 絵巻物」、日経「おとなのOFF2014年10月号」を参照した)

鳥獣戯画  京都高山寺の至宝 甲巻

九州国立博物館の外観

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高山寺に伝わる平安、鎌倉時代の絵巻「鳥獣戯画」全四巻と、国内外に流失した断簡五紙が、すべて揃って出展される鳥獣戯画展は、2016年10月4日から、九州国立博物館で開催される。昨年、東京国立博物館で開催されたものと、同じであるがあえて、九州博物館まで見学に行き、再現した。鳥獣戯画と聞けば遊びに動物たちを描いた甲巻を思い浮かべるが、専門家たちがこれを「国宝中の国宝」とする理由も、甲巻の魅力に凝縮される。動物を擬人化し、彼らがさまざまな遊戯や儀礼に興ずる様子を描いている。物語は右から左へ進む。絵巻物に付きものの「詞書き」は無い。「日本美術が大陸文化を模倣し、発展してきたことは間違いないが、この見事な擬人化と融通無碍(ゆうづうむげ)な面白さは中国にはまねの出来ないもの。建前重視の中国美術ではこうした戯画は少ないし、あっても価値はないとされます」(東京大学東洋文化研究所教授板倉聖哲氏)。戯画の名を冠しているが、これは単に「戯れ描いた」と理解するのは大きな誤解である。各巻の画風もだいぶ異なる。丙、丁巻などはラフなスケッチ風にも見えるが、よくよく画面を観察してみると確かな技量を持った人物によって描かれたことが窺える。この絵巻は少なくとも「戯れ」に描かれたものではない。鳥獣戯画は、平成20年(2009)から4年かけて解体修理が行われ、その過程でさまざまな新事実も確認された。成立から八百年近くたつた鳥獣戯画の新たな謎解きへの一歩を踏み出す展覧会である。まずは、甲巻から見ていきたい。

国宝 鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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鹿に乗る兎に水をかける猿。鹿は、甲巻のなかで擬人化されていない、数少ない動物の一つである。

国宝  鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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弓をつがえる兎の表情は真剣そのもの。弓の調子を整える蛙の姿も見える。

国宝 鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画    平安時代(12世紀) 高山寺

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扇を振り、なにやら差し招いている兎。その先には、次の会が続く。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

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兎が差し招く先(先の図)。その先には、荷物を運ぶ両陣営の動物たち。これは賭弓(とゆみ)の勝者に与えられる品だろう。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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逃げる猿を追いかける兎と蛙。鳥獣戯画でも著名なシーンの一つである。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

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ひっくり返っている蛙。兎や蛙が取り囲むが、そこには緊迫感は感じられないように見える。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀)  高山寺

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場面は一転、相撲のシーンへ。相撲はもともと秋に行われる神事だった。兎の耳に噛みつく蛙。禁じ手である。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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甲巻の山場。蛙の本尊を前にした猿の法会。袈裟を掛けた兎や狐も読経している。涙を拭う老齢と思われる猿はまだしも、狐や兎、鼬は遊んでいるこのようだ。

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法会も終わり、猿にさまざまな供物が捧げられる。兎の持つ虎皮は貴重な舶来の品。

 

甲巻は四巻のうち最も知名度の高い巻である。甲巻には、兎、蛙、猿といった主要登場動物を含め、実に11種の動物が登場する。この三巻のほか、鹿、狐、猪、猫、鼠、雉、鼬(いたち)梟(ふくろう)で、いずれも、平安時代に日本で目にすることのできた動物たちである。これらの中で、鹿と猪、梟は擬人化されておらず、動物のままの姿で描かれている。その違いは二足歩行が可能か、あるいは二足歩行で描くことに違和感のない動物か否かという点に求められるかも知れないが、作画の論理の真意は不明である。「まず墨で描かれた素描による風刺画として、時代の新しい自由な雰囲気を感じさせるものがる。甲巻の内容は、猿、兎、蛙の中で一番負けた猿が、最も勝った蛙を殺し、その供養を猿僧正の下で行うという、ひとつの風刺が、画面に一貫した緊張感を与えているからだろう。詞書きもないままこれだけの風刺絵画を描けるのは相当な知的人物に違いないだろう。」(日本美術史全史)「甲巻は特に優れ、動物の姿態と、背景をなす風景や草木の配置がぴったりと調和し、なんら矛盾するところはない。濃淡の墨色の使い分け、細かく太くアクセントを変化させる線描のはたらきも、画家の統一的な意図になるものと思われる。」(絵巻物)甲巻の作者は、永らく、平安時代後期の天台僧、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)筆と伝えられてきた。鳥羽僧正は「古今著聞集」では「近き世にならびなき絵描き」と評されるなど、画技にも長けていたとみられている。ただ鳥羽僧正筆という説は近世以降に作られたものと解することができる。鳥獣戯画の制作圏に関しては、これまで二つの有力な説が提出されている。一つが、白線図像や仏画を描く、寺院に属する絵仏師だったとする説である。いま一つが主に世俗画を描いた宮廷繪所(えどころ)絵師だったとする説である。図録の中で土屋貴裕氏(東京国立博物館研究員)は、面白い仮設を述べている。それによれば「平安時代後期、絵画の制作と享受において、寺院と世俗が交叉するような場。そのような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい」として、「一つの推測として”仁和寺”を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。」と述べている。出所の可能性としては面白い意見であるが、具体的な仁和寺にいた絵仏師ということであろうか。今後の研究が待たれる。私は、「黒川孝雄の美」で、仁和寺を近く取り上げてみたい。

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝 2015年」、日経「おとなのOFF2014年10月号」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術「第8巻  絵巻物」を参照した)

平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち

滋賀県甲賀市に存在する櫟野寺(らくやじ)は、延暦11年(792)に最澄(さいちょう)が延暦寺の建立に必要な良材を求めて櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだことが、そのはじまりと伝わる天台宗の古刹(こさつ)である。日本仏教の母山と仰がれる比叡山延暦寺の末寺であり、地元では「いちいの観音さん」と呼ばれ親しまれている。このお寺には巨大な本尊を含めて20躯の平安仏が祀られていることで有名である。この櫟野寺を、最初に広く紹介したのが白洲正子氏の「かくれ里」であった。「かくれ里」は、昭和44年(1969)から芸術新潮に2年間に亘り連載された。このため、京都を拠点にして、畿内の村落をくまなく歩いた。「かくれ里」は昭和46年(1971)に新潮社より刊行され、多くの読者を得た。白洲氏は、最初から櫟野寺を知って出かけた訳ではなく、博物館で見た能の面を所有する「油日神社」を訪れた時に、宮司さんから「ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像が沢山あります」と教えられて、櫟野寺へ来たのである。以下「かくれ里」から引用してみる。「櫟野寺はイチイノテラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槇も立っている。いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現れ、宝物殿(大悲閣)の扉を開いて下さった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のため失われ、さいわい仏像は新しい宝物殿の方に移してあったので助かりました。申し訳ないことです、と坊さんはしきりに恐縮されるが。」いずれにしても、天台宗の寺院であり、最盛期の櫟野寺には七つの坊があったというから、大変な大寺であったと思う。(東京国立博物館で12月11日まで公開)

櫟野寺の本堂(火災の後に再建された本堂)

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立派な仁王門のある古刹であり、甲賀市の中心的な寺院であったことは間違いない。重要文化財に指定される平安時代の仏像が、20躯も残っているのは、長浜のお寺とは格の違うお寺であったであろう。この20躯の仏像のうち実に12躯が観音像(聖観音が8躯、十一面観音が4躯)である。この櫟野寺とその周辺の塔頭は、観音の聖地と呼ぶにふさわしい場所である。寺伝によれば、延暦11年(792)に伝教大師最澄(766~822)が、延暦寺を建立するために良材を求めてこの地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことが当寺の始まりと伝えている。何故観音が選ばれたのかということについては、残念ながら明確ではない。最澄が良材を求めてこの地を訪れたという伝承からも、このあたりは奈良の寺院や延暦寺の造営にあたっては、良質な材木の供給地(杣山ーそまやま)であったと思われる。観音信仰と山岳や樹木へ結びつきやすく、当時この地が観音の聖地であると認識される可能性は十分あったのであろう。

重要文化財 十一面観音菩薩坐像 木造、漆箔・彩色 像高312cm平安時代(10世紀)

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櫟野寺の本尊である。重要文化財に指定された像の中では日本最大の十一面観音菩薩坐像である。平安時代後期、洛中を中心に藤原摂関家や天皇、上皇の発願によって巨像が多数造られたが、この像はそれをさかのぼる時期に都から少し離れた甲賀に造られたことが注目される。巨像を造るには人手と資金が必要であり、それを供給する力がこの地に注がれたのである。甲賀は、日本の仏像史上の重要な出来事があった場所である。やや離れるが、奈良時代の天平14年(742)に造営が始まった紫香楽宮(しがらきのみや)が群内にあり、聖武天皇は天平15年(743)に、そこにあった甲賀寺で「大仏建立の詔」を出して大仏の建立を始めたのである。事業は、奈良の東大寺に引き継がれたが、大仏はもともと甲賀でつくり始められたのである。この坐像仏は、秘仏であり、何時も厨子の中に納められている。白洲氏も拝観できていない。この大仏が寺外に出るのは、今回が初めてであり、次回の公開は2018年(平成30年)秋で、33年ぶりの公開だそうである。巨大仏で、台から光背までの高さは531cmであり、日本でも有数の巨大仏である。像高は471cmである。これでも大きい。像の高さを示す、座から髪際までの高さは、239cmである。一般に「丈六仏」(じょうろくぶつ)は4.8m(坐像で2.4M)であり、正にこの秘仏は丈六仏として造られたものである。一木造で、頭部から体幹まで、すべてヒノキの一木で造られている。寺伝ではイチイの木の一木造とされているが、イチイの木と言う言葉は、広く用いられ、実際はヒノキの一木造である。

重要文化財 薬師如来坐像 木造、漆箔 像高 222.0cm 平安時代(12世紀)

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左手に薬壷を持つ薬師如来であり、病気平癒や延命長寿をつかさどる如来である。この仏像は寄木造の技法を用いており、平等院の定朝(じょうちょう)様式に似ている。正面の髪際の高さが約1.9Mであることから、中国・周時代に用いられた周尺で一丈六尺に該当する「丈六仏」である。丈六は、経典に説かれる仏像の理想的な大きさと考えられており、仏像は本来その大きさにつくられるべきであるとされている。光背は像と同時期に造られたものである。本尊とは異なり、ふっくらとした頬に丸みのある顔、なだらかな肉体表現で、まさに定朝様式である。本像は、櫟野寺の奥院とされる詮住寺(せんじゅうじ)の本尊であったと伝えられている。

重要文化財 地蔵菩薩坐像 木造、漆箔 像高 110.8cm 平安時代(12世紀)

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地蔵菩薩は通常青年の僧侶の姿をし、右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが基本形である。しかし、この地蔵尊は、もっと年若い少年のように見える。頭部から体幹まで一材で彫り出している。台座は後補であるが、光背は制作当時の姿を保っている。この像で注目されるのは、内刳り(うちぐり)の施された像内に墨書で銘文が記されていることである。それによると、文治3年(1187)に勧進上人(かんじんしょうにん)の蓮生(れんしょう)という僧侶が「現世安穏後生菩提」(げんせあんのんごしょうぼだい)を祈願し、数千人の人々に協力を請い造像されたと言う。浄財を募り、仏への結縁を望む人々の協力を求める「勧進」による造仏は、中世以降に一般化するが、この像はその早い例である。なお、本像はもと櫟野寺の末寺とされる寛沢寺(かんたくじ)に伝わったとされる。像に金箔が残るが、これは明治期の修理の際に施されたものである。

重要文化財 毘沙門天立像 木造 像高 163.0cm 平安時代(10~11世紀)

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寺伝によれば、延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂(たむろまろ)が、この地にやってきて、櫟野観音のご加護によって鈴鹿の賊を討伐した。その戦勝を祝い、ここに七堂伽藍を建て、自ら像を彫って本尊の傍らに祀ったとされる。「田村毘者門天」とも呼ばれている。胸板が厚くどっしりとしたその姿は、数々の戦いで勝利を挙げた武将にふさわしい堂々たるものである。甲冑を身に付け、左手に宝塔を捧げ持ち、右手に宝棒を構えるのは、日本では四天王のうち北方を守る多聞天(たもんてん)とされる。四天王のなかでも特に人気が高く、単独で信仰されることが多い。その場合は毘沙門天と呼ばれる。護法神としての性格から、日本では武家による信仰が篤い。

重要文化財 地蔵菩薩立像 木造、漆箔・彩色 像高 97.1cm 平安時代(10世紀)

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頭を剃髪し、袈裟を身につけることから地蔵菩薩として信仰されているが、衣の襟(えり)を立てるところが珍しく、注目されている。これは僧襟と呼ばれる着衣であり、地蔵ではなく僧侶の姿に表した神像とみる見解もある。出家修行する神の姿を、僧侶のかたちを借りて表現したものを僧形神像と呼ぶが、本像については確証はないが、可能性はある。一つの木材から全身を彫り出し、内刳りを施さないところは、櫟野寺の仏像に共通する。

重要文化財 観音菩薩立像 木造、彩色 像高 170.3cm 平安時代(10~11世紀)

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等身の大きさの観音立像である。目尻を吊り上げた険しい顔つきに、細身で長身のプロポーションの美しい観音である。一つの木材から左手の肘までと右手の手首までを含む全身を彫り出し、内刳りを施していない。本像で注目すべきは、耳のかたちである。耳の中央を三弁の花形にしているが、これは本尊の頭上面の耳も同じ形であることから、耳についても本尊坐像を参考にしているのであろう。

 

 

本寺の来歴については、最澄と坂上田村麻呂の2名が挙げられている。これについて、白洲正子氏は「かくれ里」の中で、次のようにまとめている。卓見と思うので、紹介したい。「延暦11年3月、田村麻呂は木工頭(こだくのかみ)に任ぜられた。造営にたずさわる官職で、大工を統率したり、用材を集めたりする役目である。当時は長岡京につづいて平安京の建設に忙しく、これは重要な仕事だったに相違ない。材木を求めに甲賀地方へも出張したであろう。延暦11年と言えば、最澄もこの辺にいた筈で、二人が出会わない方が不自然だ。櫟野寺の創建にまつわる数々の伝説は、暗にそういうことを物語っているのではあるまいか。寺は最澄が創立したとしても、田村麻呂が後援したことは確かである。土山の近くには、田村神社もあり、甲賀の周辺にその遺跡が多いのは、当然のことと言えよう。職掌がら、ここには長い間滞在し、村人たちの尊敬と信頼を集めたに違いない。彼が睨みを利かせているだけで、鈴鹿山の山賊共はちじみ上がったことであろう。」

 

(本稿は,図録「平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち 2016年」、古寺巡礼「近江若狭の仏像」、白洲正子「かくれ里」を参照した)

鈴木其一(きいつ)  江戸琳派の旗手(掛軸)

いわゆる琳派の装飾的な絵画は、日本美術の持つ本来の特色をいちばん純粋に、鮮明に発揮したものとして、高い評価を受けている。このような形の美術が出てくるには、その美術を生み出す適切な母胎が必要であった。その母胎となったものは、日本の近世を生み出した根本の勢力と言っても良い京都を中心とする新興の商業ブルジョアジーであった。これらの富商階層は、当時は町衆と呼ばれたが、町衆は応仁、文明の乱以降、急速に富力を増し、実力を失った足利幕府に代わって自治能力をもそなえてきた自由な階層であり、彼らは没落した宮廷貴族を保護することによって、富力という現実の地盤の上にさらに日本の古典文化の教養を移し入れ、独自の町衆文化を作り出したていった。時代の主勢力が桃山から江戸にうつり、徳川政権がしだいに堅固な藩制をしいて封建的支配体制をつようめるようになると、これら上方の町衆は、江戸幕府に対抗するに至った。琳派は江戸時代中頃から、酒井抱一、その弟子の鈴木其一などいわゆる江戸琳派に移行することになった。ここでは、江戸琳派の旗手としての鈴木其一の作品(掛軸)を解説する。

蔬菜群虫図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期   出光美術館

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茄子と胡瓜が実り、添木とされた竹に雀が止まり、蜻蛉や蛾や蜂が群がる。不思議な秋の菜園を描くこの作品は、植物の下方に穴のあいた病巣が描かれるなど、伊藤若冲の作品との関連が指摘されている。人工的なモチーフの形と色彩は、まるで造り物の植物や昆虫が生き物のようにみえるという倒錯した感覚を与える。独特の造形感覚を色濃く示して、同時代絵画のなかで異彩を放つ。

群禽図  鈴木其一筆  二幅  江戸時代後期   個人蔵

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左右幅にそれぞれ13種・13羽、合計26羽の鳥が描かれる。興味深いのは、ほとんどの鳥が、博物学的正確さこそところどころ欠けるものの、ほぼ種が同定できるほどリアルに描かれていることである。左幅はミミズクを中心に猛禽類などを描いている。そのような光景を実際に見て興味をひかれたのか、あるいはそのような鳥の行動を知っていて何らかの意味を込めたのか。ただし、鳥そのものは前に厳密に写生したものとはいいがたく、屋久島以南の南方の鳥も含んでいることから、先行する何等かの写生図譜、粉本のようなものを参考にしたものと考えられる。其一がのびのびと画風を展開していく40歳代後半の作品と見られる。

白椿に楽茶碗図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  個人蔵

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黒楽茶碗に白椿の折枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品83筆を貼り込んだ画帳の一葉である。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを利かせたうるおいある筆で表されている。黒楽茶碗の右脇に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。

紫陽花四季草花図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  細見美術館

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紫陽花、撫子、薄、朝顔、水仙などを一図に描く四季花草図である。中でも江戸琳派が好んで描いた紫陽花はことさら大きく、中央に堂々と描かれ、水色の花弁もさまざまに彩色して色代わりする紫陽花の美しさを表している。

藤花図(とうかづ) 鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期 細見美術館

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青い花房をひたすら連ねた藤図である。本図では其一は真直ぐに下がる三本の花房に、細い蔓でS字を描いて画面に動きを与えている。さらに花弁の一枚一枚を付立による微妙な色使いで繊細に描き、清新で優美な印象をもたらしている。

向日葵(ひまわり)図  鈴木其一筆 一幅  江戸時代後期  畠山記念館

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本作は抱一の作と比べると、其一の独自性がよくあらわれている。太陽に向かって真直ぐに伸びた茎と、その頂に陽光を浴びた黄金色の花が咲く。花は真正面を向いて開花したものを中央に、横向きに咲きかけのものを蕾に合わせ、葉もバランス良く配置する。画面いっぱいに大きく描くこの大胆な画面構成と明快な描写からは、装飾的な印象を受け、近代絵画に通じる要素が窺われる。

雪中竹梅小禽図(ちくばいしょうきん)鈴木其一筆双幅江戸時代後期 細見美術館

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紅梅と竹が雪化粧するなかで、雀が戯れている。花鳥図に小禽が飛ぶ作品を抱一は十二ケ月花鳥図としてしばしば描いたが、其一はそこに雨や風を取り入れる。さらに対幅とした作品で、各々に時候の花鳥を取り込んで、雨風といった気象は共通させながら、季節を対比させるように描く。ここでは雪に注目した季節感を一層先鋭に表現している。

白椿に鶯図  鈴木其一筆  一幅 江戸時代後期  細見美術館

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白椿に留まる鶯は、花の蜜を吸おうと身を乗り出している。椿の葉の濃い緑の陰影による艶々とした質感、黄色い芯も鮮やかな白い花が対照的である。

四季歌意 在原業平(部分) 鈴木其一筆 江戸時代後期  細見美術館

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在原業平、柿本人麻呂、西行、藤原定家の4人がそれぞれ詠んだ和歌の風景の中に描くものである。縦横比例が一対十四にもなる異例の横長画面に収めた機知と工夫に富んだ作品である。本作は、在原業平の歌をモチーフにしたものである。その歌は下記の歌である。(春・在原業平 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし)

 

「蔬菜群虫図」で、伊藤若冲作品との関連を述べたが、果たして19世紀の江戸画壇に伊藤若冲の作品は知られていたのであろうか?詳細は不詳であるが、図録で其一の経歴を調べて見ると、「天保4年(1833)の2月から11月まで、表向きは京都の土佐家へ修行という名目で酒井家に暇を願い出て、京都・奈良・滋賀はもとより国元の姫路、さらには讃岐や厳島、太宰府や九州各所をめぐっての大旅行を行っている。その道中を記した記録(西遊日記)によれば、各地で写生や古画の鑑賞を行い、其一の生涯のなかでも最も心涌きたつ日々であったと思われる」と記されている。京都で古画の鑑賞を行ったということは、「平安人物志」の中で、京都で2番目の人気画家であった伊藤若冲の作品を鑑賞したことは当然考えらる。鈴木其一は、伊藤若冲の作品に学び、「蔬菜群虫図」を描いたというのは、必ずしも空想では無い気がするが如何であろうか。

 

(本稿は、図録「鈴木其一 2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典  2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、図録「與衆愛玩 琳派 2007年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術史入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

鈴木其一(きいつ)江戸琳派の旗手(屏風・襖絵)

琳派という名称が用いられた背景には、この流派が直接的な子弟関係を持たない時代を隔てた私淑の関係によって形づくられているという特殊性という意識が反映してように思う。琳派は、江戸時代初期の本阿弥光悦や俵谷宗達(17世紀前期に活躍した)、江戸時代中期の尾形光琳(1658~1716)、尾形乾山らにより京都で確立された。酒井抱一(1761~1828)は姫路藩主酒井忠以(ただまさ)の弟として江戸に生まれ、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ、さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけでは無く、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくり上げたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人・鈴木其一(1796~1858)は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)抱一没後、その個性を開花させ、独特の作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風も吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚に見られる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。さらに其一は、息子の鈴木守一(しゅいつ)や多くの弟子たちを育成し、現代まで続く琳派の様式の継承を促し、正に江戸琳派の旗手として目覚ましい活躍をした。(サントリー美術館9月10日=10月30日)

群鶴図屏風  鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 ファインバーグ・コレクション

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真鶴の図案化した姿態を横一列に並べる作品は、光琳が生み出したものとしてフリア美術館に所蔵される作品に見られる。師の抱一の作品にはウースター美術館所蔵の作品に見られる。琳派の絵師たちが継承してきた画題である。しかし、これらの図と比べれば、この作品は行儀よく同じ方向に顔を向けて進む鶴ではなく、さまざまな姿であちらこちらに首を向ける姿となっている。水流の形も一部変えて、其一独自の自由な解釈によって描かれた群鶴図と言えよう。

三十六歌仙・檜図屏風  鈴木其一筆 八曲一双 天保6年(1835) 個人蔵

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三十六歌仙とは、平安時代の藤原公任が選出した優れた三十六人の歌人のことで、古来「歌聖」として尊敬を集めたものである。三十六歌仙図は尾形光琳以降、琳派において継承された画題の一つである。其一が光琳の「三十六歌仙屏風」を、ほぼそのまま踏襲しながら、八曲一双屏風という横長のゆったりと歌仙を配している。歌仙らの品格や優美さを際立たせている。これと対になる「檜図屏風」には金地に墨一色で檜が描かれるが、これは「噲々」(かいかい)落款時代に開化した琳派学習の成果を物語る作品と言えよう。なお、本作には付属品として「金地三十六歌仙之図 金地墨絵檜図 鈴木其一元長筆」と蓋表に記されている。私は、「三十六歌仙図」と「檜図屏風」とは、制作の意図も絵の調子も違うことから、この二つの小型屏風がセットで出展されることには違和感があったが、この付属品の其一の箱書きを読んで、個人からの制作依頼が、二つの画題であったことが判り、これがセットで陳列される意味が分かった。

夏秋渓流図屏風  鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 根津美術館

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私が、初めて本作品を見たのは根津美術館で平成25年の5月に恒例の琳派展を拝観した時である。勿論、尾形光琳の国宝「燕子花屏風図」を拝観する目的であったが、併せてこの「夏秋渓流図屏風」を拝観し、驚いた。これだけの作品を描く琳派画家がいたことを改めて認識した。その時の記録では、昭和50年代にこの作品が広く知られるようになり、其一の評価を決定的になったそうである。檜の森と、そこを流れる渓流が主題であり、地面は一続きであるが、右隻は白い山百合の花が咲く夏、左隻は桜の葉が紅葉に染まる秋に、それぞれ設定されている。両隻とも左右両方の奥から渓流が流れ来て、絵のこちら側に流れ落ちるかのように描かれている。光景それ自体にはなんの変哲もないが、鮮やかに群青を平塗りしたうえに粘るような筆使いで金泥を引いた渓流の、軟体動物めいた表現にまずおどろかされた。左隻の中ほどの檜には真横向きに蝉が一匹とまるが、これもまた奇妙な静寂感を画面に与えている。現代感覚に近い色彩を感じた。

萩月図襖  鈴木其一筆 四面  江戸時代後期   東京富士美術館

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この襖絵は2008年の「大琳派展」でお目に掛かっている。画面右から伸びる薄紅色の花房を付けた萩の枝は、ゆるやかな夜風に揺れるようにカーブを描いている。その枝に呼応するように左側の白萩は配置されている。絹地の画面全体に銀泥を刷いて、鈍く柔らかい月光に満たされた空間をつくりだしている。萩の花房と葉を、繊細に色調を変えながら綿密に描き別けて秋の夜の儚さを感じさせる。白い月が、強く印象に残る。

風神雷神図襖  鈴木其一筆  八面  江戸時代後期  東京富士美術館

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この襖絵は2014年6月に、東京富士美術館の「江戸絵画の神髄」で初めて見た。宗達、光琳、抱一という琳派の先達によって受け継がれてきた風神雷神と言う画題を、其一は屏風ではなく襖の大画面に移し替えた。元は二曲一双の屏風から、それぞれ左右に余白を加えた襖八面に画面が拡張されている。絹地の上に、滲みを利かせた黒雲を描くが、風神を載せる雲は下から勢いよく噴き上げる風を感じさせ、対する雷神を取り囲む黒雲は、いかにも稲妻が走りそうな雨をはらんだ雲に見える。其一40代前半の作と推定される。

水辺家鴨図(あひるず)屏風 鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 細見美術館

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丸みのある愛嬌のあるしぐさの家鴨を描く。其一は琳派の絵師が描き繼いだ鶴図を「群鶴図屏風」のように独自の解釈で変奏したが、さらにここでは鶴を家鴨に転生させている。画面左端に群青の水流を描くことが残った金箔地が不思議な形の地面(州浜)となった。その地面はあたかも左へ向かう矢印のような形となって、その方向へ家鴨が進んでいき、左にいる二羽が後姿でその動きを受け止めている。家鴨の群れはそれぞれ勝手きままな仕種をとっており、餌をついばむような姿のものもいる。ユーモラスな作品であるが其一の形態感覚がいかんなく発揮されている作品である。

芒野(すすきの)図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 千葉市美術館

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二曲一双の画面に芒の生い茂る野原が広がる。芒の穂先が形作る線は単調でありながら、しなやかで心地よいリズムを奏でる。中央にたなびく霞は、銀白地の上に銀泥と墨を使い分けることによって表現されており、月光と霞によって幽暗な光がたちこめる芒野の静けさを醸し出している。其一の理知的なデザイン感覚を雄弁に物語る、印象的な屏風である。因みに、千葉市美術館は江戸絵画(含む浮世絵)の名品を多数保有する美術館である。

朝顔図屏風  鈴木其一筆  六曲一双 江戸時代後期 メトロポリタン美術館

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夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風である。うねるような朝顔の緑色の蔓や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのよう描かれた青い朝顔の花を眺めると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。金地を背景に、群青による朝顔の花と群青による羽を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。この其一が選んだ朝顔という植物には文学的背景は稀薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明かにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無碍に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには植物の持つ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式をたえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。

富士千鳥筑波白鷺図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 個人蔵

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富士に千鳥を金箔地に、筑波に白鷺を銀白地のそれぞれ二曲屏風に描き、一双とする作品である。富士と筑波は江戸の東西に臨む山として人々の信仰を集めた。光琳にも富士山を描く作例があるが、江戸琳派でさらに筑波と組み合わせた図様も多い。この屏風は、晩年の規一が多様な試みを行ったことを示す意欲作である。雪を頂く富士には緑豊かな松を配し、千鳥の群れが羽を連ねて旋回するさまを描く。其一は堂々たる富士に、小さな千鳥を数多く描き、画面に躍動感を与えた。千鳥は同じように見えるが、一羽一羽表情も足先も微妙に違え、類型化を回避している。筑波の山は、銀地に青々とした山の姿を描き、麓には水墨で立木を配す。三羽の白鷺は風に身を任せるかのように同様のポーズで描かれ、画面は静寂である。其一は金と銀、濃彩と水墨、大小の鳥とを巧みに対比させた。二曲屏風ながら堂々たる「江戸」の琳派を象徴する制作である。

 

私は琳派の作品は、屏風、襖絵等の大作が特に好きである。光琳、抱一、其一もそれぞれ屏風、襖絵の大作を残している。本来なら、其一の年齢順に並べるべきであろうが、今回は敢えて屏風・襖絵をまず取り上げ、その解説を試みた。次回は、掛軸など一枚物を取り上げたい。琳派については、いろんなところで意見を述べているので、今回は鈴木其一について述べてみたい。其一は抱一の弟子として修行を積んだが、師の築いた江戸琳派の画風を守るにとどまらず、さまざまな画風・画題に挑んでいる。同時代の江戸の画壇には、同世代の広重や歌川邦芳がおり、少し年上に歌川豊国もいた。抱一と同世代ながら長壽であった葛飾北斎(1706~1849)、谷文晁(1763~1840)の存在も大きかった。そうした江戸画壇の中で、其一はどのような位置にいたのであろうか。其一の画風の特徴として、第一に挙げられるのは光琳画からの引用と応用である。例えば「夏秋渓流図屏風」は、金箔の背景に群青、群緑、墨などさまざまな形を成して迫って来る迫力に富む作品である。この力強い画風を支えているのが檜の樹林である。其一はまず「三十六歌仙・檜図屏風」において、金箔地に水墨でこれを試した。その試みが爆発的に展開したのが「夏秋渓流図屏風」である。琳派で描き継がれてきた画題を選択しながら、その枠組みには全くとらわれず、むしろ北斎や円山派など同時代の傾向も取り入れて、新たな其一画風を構築している。第二は、抱一様式への共感と洗練である、「風神雷神図」も琳派の象徴ともいえる「風神・雷神」を主題としながら、其一は正に、雨雲に乗り、風雲を操る二神を描いている。絹の地にたっぷりと水墨を滲ませ湿潤な大気の中を駆け巡る姿は、宗達、光琳、抱一と描かれたどの風神雷神よりも軽やかに空を駆けている。其一は敢えて抱一の風神雷神図を模すことなく、むしろ二神の拠りどころである風や雨の表出に心を砕いた。自然の風趣に関心を抱き、それを実像より瀟洒に描くのは、江戸琳派様式を確立した師・抱一の開いた道である。其一はそれをさらに洗練させ、淡雅な画風を其一流に創り込んだのである。

 

 

(本稿は、図録「鈴木其一  2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典 2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

銀 閣 寺   東 山 文 化 の 地

日本歴史の中で一番国民に残虐な生活を強いた時代は何時だろうか?私は、やはり先の大戦の本土空襲による焦土化、原子爆弾被爆、沖縄戦争下の日本人の死亡、更に戦後昭和23年頃までの飢餓状態を上げざるを得ないと思う。これと同等、もしくはそれ以上に苛烈な体験を強いたのは、応仁の乱と、その前後の室町時代ではなかと思う。応仁の乱は応仁元年(1467)、将軍後継者を巡って、細川勝元と山名持豊が争い、京の都を焦土と化した戦いであり、戦いが終わったのは文明9年(1477)で、実に11年に亘って京の都を焦土と化した戦いである。この時の足利将軍は八代将軍・足利義正(1436~1490)であり、もともとの原因は足利家の内紛であった。寛政6年(1465)、義政夫人の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生んだ。その1年前に、夫婦はもう男の子は生まれないとして弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を無理に還俗させて義視(よしみ)と名乗らせ、養子とした。義尚(よしひさ)を将軍にしたいと願う富子と義視(よしみ)の間には、たちまち対立が生まれ、それが細川勝元と山名持豊の対立となって、応仁の乱となった。応仁の乱は、京都のみではなく、都市、農村に飢餓、悪政、党争を興し、大乱となった。将軍義政は、妻富子の間に感情のもつれが大きくなり、文明5年(1473)12月に、義政は無責任に第八代将軍を辞し、まだやっと9歳になった義尚(よしひさ)を元服させ、第九代将軍に就かせた。義政は、東山に銀閣寺(滋照寺)を造ることに専念したかったのである。

銀閣寺垣

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総門を入ると、銀閣寺垣と二重の大刈込みにはさまれた直線の導入部となる。突き当たって左に曲がる。この道は飾り気がなく、しかも計算された清らかなデザインであり、重厚であると思う。

銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)      江戸時代後期

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銀閣寺(滋照寺)の最大の特徴は、庭園にある。まず唐門を入ると目に付くのは銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)である。多分、日本の庭園を巡っても、この白砂の積み上げられた銀沙灘にお目に掛かることは無いだろう。一段と高く砂を積み上げた壇が向月台である。銀沙灘の高さは約65cm、向月台は約180cmの高さである。これが室町時代の庭園かと思ったが、実はこの白砂の庭園は江戸時代後期の作庭であり、義政好みではない。荒廃に向かっていた銀閣寺の旧観を取り戻す計画が着手されたのは元和元年(1615)6月だった。宮城丹波守豊森(みやぎたんばのかみとよもり)を奉行として大々的な修理作業が行われた。その白砂は、庭の池から組み出した白砂であったそうである。月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しいそうである。

国宝 銀閣と錦鏡池(きんきょうち)                  室町時代(15世紀)

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庭の中心が錦鏡池であり、池を正面にして銀閣が東向きに建ち、四季折々に閑静な風情を見せてくれる。「陰涼軒目録」(おんりょうけんもくろく)によれば長享3年(1489)の上棟になることがわかり、明治33年(1900)に国宝に指定されている。銀閣(観音殿)は、宝形造(ほうぎょうつくり)、杮葺(こけらぶき)。二重の殿閣(でんかく)である。一層を心空殿(しんくうでん)、二層を潮音殿(ちょうおんでん)と名付けられている。心空殿は書院造の住宅風で、軽快な構造である。潮音殿は、禅宗の仏殿風で、東に三つ、南の戸口両脇に火灯(花頭)窓を配する。四周には縁がめぐり、先端に和風の高覧を置く。内部は板敷で、中央に須弥壇を置き、木造観世音菩薩を安置しているそうである。(内部は公開していない)銀閣には、義政によって創建時に銀箔で荘厳されていたと伝わっているが、近年の研究の結果では、銀は全く検出されていないそうである。健築に当たって義政は、北山鹿苑寺(金閣)にしばしば出かけ、金閣にのぼったとされる。義政が新たな山荘を建てる殿閣ー銀閣の下見であったとする説が多い。庭の中心部を占める錦鏡池(きんきょうち)には、天下の名石が集められている。赤松正則は、庭園のために名石、名木を献上している。銀閣や錦鏡池を造営するための費用は諸国に段銭(たんせん)をかけてまかなった。朝倉氏影、土岐成頼、山名政豊、吉川経基等が段銭を徴収して協力している。

国宝  東求堂(とうぐどう)        文明18年(1486)

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境内の最も東に建つているのが、足利義政の持仏堂(じぶつどう)東求堂(とうぐどう)である。三間半四方の正方形面で、入母屋造、桧肌葺(ひはだぶき)である。文明18年(1486)の建立で、名前の由来は義政の側近の禅僧横川景三(おうせんけいさん)に諮問して、仏典「六祖壇経」(ろくそだんきょう)の一節「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」にちなんで名付けられた。正面に義政の筆になる「東求堂」の扁額が懸けられている。(現在架っているのは明和4年(1767)の複製)

同仁斎(どうじんさい)             室町時代(15世紀)

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東求堂(とうぐどう)の内部の東北にあるのが書斎同仁斎(どうじんさい)である。同仁斎は四畳半で北に一間の付書院(つけしょいん)と半間の違い棚(ちがいだな)を縁に張り出して設ける。書院の名は義政が横川景三に諮問し、中唐を代表する文人韓愈(かんゆ)の「原人」の一節「聖人は一視して同仁」から取ったそうである。弥陀の前では分け隔てなく皆平等であるとの意があるとされる。相阿弥(そうあみ)の「御飾記(おかざりき)」によれば、付書院の上に筆・硯などの文具や書物、違い棚に茶道具類が置かれていたそうである。この同仁斎は、四畳半の書院座敷として現在最古の遺構である。この時期、応仁、文明の乱(1467~77)前後から戦国時代初期にかけて四畳半志向とも言うべきたしかな動きがあった。四畳半は、今日の私達日本人にとっても身近な生活空間であり、その端緒はこの時期にあったと思われる。この同仁斎こそ、床の間、違い棚に示される日本の書院造りの走りであり、現在の日本間の起源と言えよう。この話をある人にしたら、今のマンションでは、床の間も違い棚も無いと言われ、この同仁斎は、現代ではなく、近代日本の書院造りの起源であると言い直さなければならないかも知れない。

銀閣寺型手水鉢(ちょうずはち)            室町時代(15世紀)

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方丈から東求堂へ渡る間に「銀閣寺型」と称される手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。各面正方形で上面の水溜を円形とする。僧侶の袈裟の文様を連想させることから袈裟型手水鉢とも言う。後に千利休が写(うつし)を造ったと伝えられているので、創建当初のものと思われている。

唐物小丸壺茶入 足利義政所持 付属 青貝盆     南宋時代

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足利義政遺愛のいわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)の茶入である。中国伝来の書画や道具類は唐物と称されて武将らの好尚の対称となった。この中国伝来の茶入は全体に茶地色で正面に乳白の釉がひっそりとかかり、いかにも愛らしい風情は好感が持てる。青貝螺鈿(らでん)の黒漆角盆も同じく唐物で、茶入とよく合っている。

 

足利将軍が所蔵していた美術工芸品、いわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)は、室町時代に鑑賞された造形美の頂点を示している。「東山」とは、室町時代の八代将軍義政が月待山を背景とした東山の佳境を愛して、文明14年(1482)から東山殿(ひがしやまどの)(山荘)の造営に着工し、応仁の乱を経て、文明18年(1486)に東求堂が完成し、長享3年(1489)に観音堂(銀閣)の上棟が行われた。義政はその年の10月に持病が悪化し、55歳の生涯を閉じた。死の直前、義政は山荘を禅寺とするよう遺命し、翌3年(1490)3月東山殿滋照寺と改められた。相国寺の塔頭の一つとされた。ところで、足利義政は「東山御物」と呼ばれる絵画や工芸品など中国伝来の文物、いわゆる「唐物」(からもの)を収集したことでも知られる。今では、その多くは諸方に散逸している。それが根津美術館、三井記念美術館、畠山記念館、徳川美術館、五島美術館などに収集されている。2014年10~11月に、三井記念美術館で「東山御物の美」として100点余が展示され、多くの観客を集めた。この滋照寺(銀閣、東求堂、錦鏡池など)の建設や、庭園作庭、果ては東山御物の収集には、義政が特に重用した、善阿弥の存在が大きい。当時、工事に携わった身分の低い人達であってもすぐれた技能を持った技術者が現れ、義政は、こうした人々を同朋衆(どうぼうしゅう)として用いた。善阿弥、能阿弥などが知られている。いずれも時宗の信者であるのも不思議である。(勿論、反対意見もある)今日、東山文化として、日本の美意識や、今日の生活様式にまで大きな影響を残している。滋照寺は、銀閣寺という観光地のみではなく、日本文化の大きな発信地としても理解する必要がある。司馬遼太郎が「この国のかたち」第1巻で次のように述べている。東山文化の本質をついた言葉として紹介したい。「かりに北条早雲を野暮の代表とすれば、かれと同時代の将軍である足利義政はまことにいきなものであった。義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、いっさい手を打とうとしなかった。この人物は、そういうわが身の無為無策にあせりなげきもしていない。どういう神経なのか、東山の山荘(銀閣寺)に超然として風流三昧のくらしをつづけたのである。かれはおそらく美的なものを鑑賞する能力においては室町時代きっての人物であったろう。文化史上の区分けである”東山文化”は、むろんこの人物の存在と感覚を外しては成り立たない。」

 

(本稿は、新版 古寺巡礼「京都 第11巻 銀閣寺」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、探訪日本の庭「京都Ⅰ」、図録「東山御物の美ー足利将軍の至宝 2014年」、司馬遼太郎「この国のかたち第1巻」を参照した)

相国寺  伊藤若冲の生前墓

京都の真中を縦貫する大通り、京都駅の真ん前の烏丸通りを北上するとほぼ京都の中心あたりに京都御所がある。その御所の北約300メートルほどのところに位置するのが相国寺(しょうこくじ)である。正式には「萬年山相国承天禅寺」といい、京都の有名寺院のほとんどが観光寺院として賑わっているのに対し、相国寺は独り、広い境内に人影はなく、静寂な寺院であり、京都では数少ない貴重な存在である。相国寺は、足利三代将軍義満(よしみつ)によって建立された禅宗寺院であり、永禄2年(1382)から10年の歳月をかけて建立された。明徳3年(1392)に完成し、京都五山の第二位となり、勧請開山夢想礎石、第二世である事実上の開山春屋妙葩(しゅんおくみょうは)禅師とし、京都の叢林の中枢として隆盛を極めた禅寺である。創建時の総面積は140万坪と伝わるが、天明の大火や明治維新後の廃絶した寺院跡が同志社大学等になり、現在の面積は4万5千坪と言われる。末寺として鹿苑寺(金閣寺)、滋照院(銀閣寺)、真如堂など全国百ケ寺を擁し、臨済宗相国寺派の大本山である。しかし、戦火により幾度も焼失し、今日に至っている。相国寺の中心寺院である法堂(はっとう)も4度焼失し、桃山時代に豊臣秀頼の寄進により完成し、今は仏殿の役目も果たしている。京都五山制度の確立とともに、僧録司(そうろくし)が設けられた。春屋が初代僧録司に任命された。僧録は、臨済宗五山派寺院を支配統括する機関であるばかりでなく、平安時代の遣唐使派遣途絶以来、途絶えていた中国との国交が義満によって回復されりとともに外交業務、外交文書の作成を行い、まさしく外務官僚の役割を果たし、春屋以来230年余りにわたって、相国寺がこの僧録司を独占してきたのである。また明徳4年(1392)には、画期的な七重塔の着工がはじまり、百九メートルという天下の大塔、七重塔の建立である。しかし、京の街の中心地に位置する相国寺は、大小17回の火災に遭い、再建に次ぐ再建の歴史であった。

重要文化財  法堂 単層切妻      慶長10年(1605)桃山時代

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法堂(はっとう)は桃山時代に再建された禅宗様建築では、最大最優作と呼べる堂である。豊臣秀頼の寄進で、慶長10年(1605)建立の建物である。現在は仏殿がないため仏殿も兼ね「本堂」と言っている。中心部の桁行五間、梁間四間で、これに一間通りの裳階(もこし)がめぐっているので、外観は正面七間、側面六間を数える。相国寺法堂は仏殿や法堂など禅宗様仏殿のうち、現在最大のものである。無為堂(むいどう)とも称し、本来畏れることなく法を説く行動的役割を果たしている。

法堂内部 蟠龍図(約9M経)  狩野光信作    桃山時代

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法堂の内部は、禅宗寺院ならではの荘厳な佇まいである。鏡天井一面には巨大な蟠龍図が描かれている。龍は仏法を守る守護神であり水を司る神でもある。火事から護るという意味から、禅宗の法堂の天井には龍がよく描かれている。慶長10年(1605)相国寺の法堂が再建なった際に、狩野光信によって描かれた。光信は狩野永徳の長男として生まれ、父とともに信長、秀吉に仕えた。光信はこれを描き上げた3年後に没しており、本図は光信にとって最後の大きな仕事となった。天井は中央が少し盛り上がった「むくり天井」になっている。そのため、蟠龍図の下で手を叩くと反響して音がかえってくる。このことから「鳴き龍」とも呼ばれる。

方丈   単層入母屋造り             文化4年(1807)再建

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禅宗建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北に真直ぐに並んで建てられるのが特徴である。相国寺も同様に法堂の北に法丈がある。現在の建物は文化4年(1807)に開山堂、庫裏とともに再建された。中国宋代の名筆家・帳即子(ちょうそくし)の扁額が掲げられている。構造は単層入母屋造りの桟瓦葺である。

開山堂  単層入母屋造り       文化4年(1807)再建

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開山夢想国師像を安置するため、開山塔(開山堂)と呼ばれる。法堂の東に位置し境内で最も大切な場所である。開山塔の庭は白砂が敷き詰めた真の庭に石を、奥に奇石を配して樹木が植えられている。創建当時、上加茂から水を引き、丁度この庭の中を通して御所に流して御用水としていたため、裏庭の無い変則的な造りになったと言う。

庫裏(くり)「香積院」 切妻入        文化4年(1807)再建

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大きな禅宗の本山でも塔頭(たつちゅう)でも、現在では方丈に続いて庫裏があるのが一般であり、これは事務所であり、台所でもある。大きい本山ではごく大規模の庫裏があり、当山もそうした一つである。禅宗寺院の庫裏は大小にかかわらず型が決まっていて、切妻妻入(屋根の三角形の見える方が正面で出入口のあるもの)で、大きい破風や壁面が印象的である。入口を入れば広い土間で、大きな竈(かまど)などもあり、見上げる天井は高く、複座に組まれた巨材が縦横に通っていて遥か上に煙り出しを仰ぐ。香積院(こうしゃくいん)とも呼ぶ。

鐘楼(しぉゆろう)「洪音楼」         寛永6年(1629)再建

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開山堂の南、法堂の東南に大きい鐘楼がある。この鐘楼は「洪音楼」(こうおんろう)と号し、裳階付のものでは大型のもので、裳階の下に花崗岩の壇を持ち、内部は階段により鐘を吊った上の重(かみのじゅう)へ上るようになった型通りのものである。寛永6年は法堂のできた慶長10年から24年後であるから、その後の災害をすべて免れてきたものである。

経蔵                      創建 万延元年(1860)

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経蔵は安政6年(1859)第百二十世和尚の寄進により、万延元年(1860)に創建されたもので、高麗版一切経(一部宋版を含む)650巻余が納められている。幕末争乱の時期に、よくぞ経典を入手し、経蔵を創ったものだと感心する。日本の文化の逞しさを痛感した。

承天閣美術館 鉄筋コンクリート造平屋建て(一部二階)昭和59年(1984)

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収蔵庫、展示室、講堂の3棟からなる。同寺に伝わる国宝、重要文化財に指定される相国寺の数千点の文書、墨跡、茶器、絵画の名品などの什器を展示し、調査研究することを目的としている。応永3年(1398)建造の金閣寺の古材でしつらえた茶室夢中庵は見逃がせない。すべて同寺に伝わる文化財を展示している。伊藤若冲「釈迦如来三尊像」、長谷川等伯「竹林猿猴図」なども含まれる。

斗米庵若冲居士の墓(左)と大典の碑文(右3面)    明和3年(1766)

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相国寺の墓地に残る若冲のお墓は、生前の明和3年(1766)51歳の時に造ったお墓であり、寿蔵(生前墓)である。この寿蔵の側面(2面)と背面(1面)に大典禅師の碑文が刻み込まれている。これは51歳の若冲が、妻子も無く、跡を継がせようとした末弟にも先立たれたいう事情から、生前に自分の墓を建てておくことを思い立ち、親交のあった大典禅師に碑文を依頼したものである。若冲の人生、人柄や制作態度などについて貴重な証言がそこに残されている。よほど良い石材が使ってあるのだろうか、この刻文は、250年後の今でも読み取れる。大典の碑文については、石碑の3面に刻文を写真として写した。全文は大典の詩文集「小雲棲稿」に乗せられている。また、「若冲展」の図録に全文、読み下し文、訳文が掲載されている。

釈迦如来三尊像  伊藤若冲作        明和2年(1765)

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釈迦如来三尊像3幅と「動稙綵絵」24幅を、明和3年に相国寺に寄進した。「動稙綵絵」は明和7年(1770)に全30幅が寄進された。明治22年に「動稙綵絵」は、金1万円の下賜金の謝礼として皇室に献納され、今日に至っている。相国寺に残る三尊像は、いずれも正面を向いているのが特徴である。驚くべき綿密さで、精魂を傾けた力作である。明和2年(1765)の寄進状(相国寺蔵)によると「かって張思恭画の参尊像参幅を観てその巧妙無比なのに感動して、その心要を募倣(ぼほう)し、ついに三尊三幅を完成したのだ」と述べている。張思恭は中国の著名な仏画師であり、ラマ教的なところを取り入れた異色のものであるが、若冲はむしろそれを完全に超越した独自のものを作り上げたのである。毎年6月17日に相国寺で行われた法要、観音繊法(せんぽう)(観音に懺悔する法要)では、「釈迦如来三尊像」3幅を正面中央に掲げ、その東西左右に15幅ずつ対になるように掛け並べられた。三十三幅という観音繊法に使用するための掛幅画の総数は、観音菩薩が「三十三応身」して衆生を救うという教えが意識されたのかも知れない。先の「若冲展」の展示の仕方は、この観音繊法に倣ったものであったのである。

重要文化財竹林猿猴図屏風(右隻)長谷川等伯作 紙本墨色六曲一双 桃山時代

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等伯は、能登から京都に進出後、中国・南宋時代の著名な牧谿(もっけい)筆「観音・猿鶴図」三幅対(大徳寺)と出会う。薄明にただよう微妙な光、湿潤な大気の表現という、牧谿画の持つ優れた稀有の表現を直接学習する機会を得たのであった。その成果として生まれたのが一連の猿猴図、竹鶴図などである。本作は、左隻に竹林、右隻に猿猴を描いた屏風であるが、「観音・猿鶴図」学習が端的に表れている。優品である。

 

人気(ひとけ)のまるでない相国寺を訪れたのは正直言って、伊籐若冲が「動稙綵絵」30巻、「釈迦如来三尊像」3巻を納め、平安人物史にゆるぎない地位を確保した場所を確認するというのが目的であった。しかし、壮大な敷地と伽藍を有し、金閣寺、銀閣寺を塔頭として持つ、足利時代を代表する足利義満公が開祖となった相国寺は、予想以上に大きな力を政治に発揮した寺院であった。僧録司という、僧侶の人事権や、対明貿易(朝貢貿易)の外務官僚のような仕事をして、義満の頭脳の部分を果たしていたことが明らかになってきた。しかし、目的の若冲の生前墓(寿蔵)と、大典の碑文を拝読できたことは、「若冲の旅」を志した私に取っては、大きな収穫であった。承天閣美術館で、相国寺の宝物を拝観する機会には恵まれなかったが、せめて2点の美術品(若冲展と長谷川等伯展で観た物)を参考として紹介することができた。尚、同寺には若き日の雪舟や作家水上勉の話があるが、今回は見送ったので、ご了承頂きたい。

 

(本稿は、新版古寺巡礼 京都8「相国寺」、古寺巡礼「相国寺」、図録「長谷川等伯展  2010年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、図録「若冲展 2016年」を参照した)

大徳寺の塔頭      聚光院

大徳寺の塔頭に聚光院(じゅこういん)というお寺がある。永年、非公開のお寺であったが、今年の3月から約1年間の予定で、一般公開されることになった。これは聚光院創建450年を記念した特別公開である。聚光院は永禄9年(1566)、戦国武将三好義継(みよしよしつぐ)が、義父長慶(ながとし)の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)である。簡単に言えば、大徳寺(本坊)に付属した寺院のことである。付属と言うと、何やら小さい感じがするが、この隣が総見院と言って、織田信長の塔頭である。大徳寺の塔頭は格が高いのである。開祖は大徳寺第百七世住職笑嶺宗斳(しょうれいそうきん)である。聚光院の名は三好長慶の戒名によるものである。笑嶺和尚が千利休の参禅の師であったことから、利休は聚光院を自らの菩提所とした。千利休は多額の浄財を喜捨し、またここを一族の菩提寺とした。現在、利休が書いた寄進状が残っている。また、利休の流れを汲む茶道三家(表千家、裏千家、武者小路千家)歴代の墓所ともなっている。方丈(本堂)は、創建時(1566年、戦国時代)の姿が残る建物であるが、そこには狩野松栄(1519~92)、狩野永徳(1543~90)による障壁画四十六面が納められ、その全てが国宝指定されている。この国宝障壁画は、長年に亘って私が是非拝見したい絵画であったため、今年6月の梅雨時にも関わらず、拝観した次第である。

国宝 花鳥図(全図)方丈室中 狩野永徳筆 室町時代、永禄9年頃(1566)

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室町時代の最末期ではあるが、この聚光院の障壁画は、むしろ桃山時代の到来を端的に示す作品である。狩野元信によってうちだされた大画面構成の障壁画様式が、ここにゆるぎない確実な姿で提示されることになった。しかも、その原動力は、主として図に見るような、若年期の永徳の手腕によるところが大きい。この襖絵制作では、父松栄は仏事などが行われるもっとも重要な中央の部屋(室中)の揮毫を弱冠24歳の長男永徳に譲り、みずからは衣鉢の間や礼の間を担当して脇役にまわっている。息子の実力と名声が父に勝ることを承知の上での対処であったのだろう。部屋の東、北、西の3面を囲むコの字形に配置された襖絵は、梅の老木が広げた枝の下を早春の雪解け水が生きよいよく流れる東の4面に始まり、松の枝越しには遠く雪を戴いた峰、枝の下には優美に羽を休める鶴、そして鳴き交わす落鴈(らくがん)と季節の移ろいが水流とともに、ぐるりと部屋をひと巡りしている。正に「桃山の光景」である。

国宝花鳥図(右側面4図)方丈室中狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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そして永徳は父の期待にみごとに応えて、新しい時代の到来を告げるような、ダイナミックで生命感あふれる花鳥図を描いたのであった。実際、この四季花鳥図襖絵には、巨大性、開放性、躍動感、覇気といった、のちに桃山の「大画」として結実する永徳芸術の特質がすべて、初々しいかたちで姿をみせている。まさに”出発点は聚光院にありき”なのである。室中の三方襖16面にわたって繰り広げられる一大パノラマは、東側「梅に水禽」に始まるが、もっとも見応えあるのが、この梅である。激しく身をよじりながら伸展していく梅の巨木は、自己の内面に抑えきれないほどの表現意欲を潜めた永徳その人の姿である。鋭く跳ねだした枝先や咲き誇る梅の小花に春のめぐりの歓びがあふれ、金泥の霞が画面に明るい光を与えている。昭和54年(1979)にパリのルーブル美術館から「モナリザ」が来日したが、その返礼としてフランスで展示されたのが、この聚光院の本堂の障壁画であった。正に日本美術の粋として選ばれたのである。

国宝 琴棋書画図 壇那(だんな)の間 狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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琴棋書画図(きんきしよがず)は画題的には人物図の範疇に入るが、画面の構成はむしろ山水的要素が濃厚である。左方では琴にあたる場景、右方には図のごとく水亭における囲碁人物と背後の衝立画によって棋と画がしめされ、読書する人物も描かれている。山水花鳥とは区別される真体(しんたい)をもって描かれているのと、濃い墨調に濃淡を加えた結果、背景の余白に金泥引きを行っている。的確ではあるが、やや硬さが見られる。士君子たちが琴・棋・書・画に興ずる姿を描いている。水墨のみの「四季花鳥図襖絵」と違い、こちらでは花木や人物の着衣に、朱や緑青、代赭(たいしゃ)などの色彩が加えられている。このように部屋ごとに筆法や画題、手法をかえるのは、室町時代の障壁画制作の約束ごとであり、絵師がどのような画題や画体でも臨機応変に描きこさなければならなかった。室中でさっそうとした自由な筆さばきを見せた永徳が、この「琴棋書画襖絵」では硬質の息の短い線を使うのも、真体画の制約ゆえである。それにしてもなんと力のこもった筆線と運筆であろうか、紙が破れんばかりである。

国宝 遊猿図 方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代永禄9年頃(1566)

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父の松栄作の遊猿図である。筆致はおだやかで、この種の画題にありがちな威圧的印象はあたえない。ことに遊猿図は、水辺の岩上や樹幹にたわむれる親子連れの一群をとらえ、温かみのあるなごやかな雰囲気をあらわしている。筆写である松栄の人間的な円熟を物語るものかも知れない。

国宝 虎図  方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代 永禄9年頃(1566)

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竹林と虎図である。典型的な様式であるが、この時代にしては、良く虎の威風を表している。傑作と言えよう。松栄の描く広々とした奥行きのあっ作風は、狩野元伸が確立した大画面構成を継承したものと言われ、部屋を落ち着いた雰囲気にしている。永徳の若画きと言える山水花鳥図などとは対照的である。

花頭窓より庭園を望む

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花頭窓の付いた唐門から、庭園を望むと聚光院方丈の前庭が見える。花頭窓に区切られた不思議な庭園に見える。

聚光院の庭園              室町時代 永禄9年頃(1566)

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作庭は、この方丈の造られたのと同時期と判断するのが妥当だろう。この方丈前庭には別名「百積庭」(ひゃくせきのにわ)とも呼ばれる。広さは約53坪であり、南部の生垣に沿って直線状に石が並んでいる。中央の石橋をはさんで両側に集団石組があったと考えられているが、いずれもかなり荒廃している。向かって右手前の石組がやや完全な形で元の姿を残している。しかし、この庭は、いまの形でも他の庭に見られない厳しさと優しさを備えている。解説者は、この庭園の、本堂室中の襖絵「花鳥図」と相対する関係にあると説明された。私が、この庭の持つ厳しさと優しさを指摘したが、方丈の狩野永徳、松栄の親子の障壁画が影響しているのかも知れない。また、庭園西側には千利休が沙羅の木を植えたと伝わる。現在の木は3代目とのことであった。平家物語の巻一の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(せいじゃひっすい)のことわりをあらわす。」とある。正に、沙羅の樹が、この沙羅双樹である。

沙羅の花

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沙羅の花は白色で、6月の朝に開花し、午後になると落花する。沙羅の木の植わる庭は、京都では少ない。薄明の意味があるのだろうか?ハラハラと落ちる沙羅の花は美しく、儚い人生を意味するのであろう。枯山水の庭にには不向きと思うが、千利休の手植えと伝えられている。

重要文化財 茶室 閑陰席(かんいんせき)外観と路地  江戸時代(1741)

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千利休は、秀吉の不興をかい、天正19年(1591)に切腹させられた。没後150年を記念して、この閑陰席と枡床席が建設された。聚光院と茶道三家との関わり合いを最も如実に伝えるものが、閑陰席、枡床席の二つの茶室である。

重要文化財  茶室  閑陰席(内部)     江戸時代(1741)

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茶室・閑陰席は千利休百五十回忌の際に、表千家七代如心斎の寄進によって建てられたもので、ここで朝茶を開いたことが記録に残っている。利休の精神を汲み、明かりが極度に制限され、簡素で緊張感のある設えがほどこされている。水処を挟んで、枡床席が設けられたのは、その約70年後と伝えられる。閑陰席の三畳に対して四畳半で作られており、その半畳は踏込み式の床の間となっている。この正方形の床の間を「枡床」と呼ぶが、これは表千家六代覚々斎が考案したと伝わっている。天井も閑陰席よりやや高く、貴人口を設けるなど、明るくのびやかな設えがされている。

千利休(左)と三好長慶の墓

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前庭の生垣の外に(総見院の鐘楼横)、千利休と三好長慶の墓が並んで立っている。このお寺の持つ歴史や文化を物語るものである。

書院と千住博画伯の襖絵               平成25年

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平成25年(2013年)秋に建て替えを行った書院は、千住博画伯による障壁画が奉納された。納められた「瀧」、「春夏崖図」、「秋冬崖図」のうち、今公開では「瀧」が初の一般公開となった。構想から完成まで16年間を費やした大作で、鮮やかな群青から真っ白な瀧が浮かび上がる姿は壮観である。千住博はお寺から大書院の襖絵を10年以上前から以来されていた。千住は語る。「南米アマゾンに何ケ月も滞在して素描を重ね、多様なモチーフで描くも、得心がいかず幾度も破棄し、4度目でついに辿りついた。戦国時代に永徳は、花と鳥で儚い時の流れを描いた。現代を生きる僕は宇宙的な時の流れ、地球という奇跡の宝石で描こう」と。地球の奇跡。それは水と重力。これを端的に表すのが瀧だ。「瀧が表すのは時間。猛スピードで流れ去り、二度と戻らない。これまで数々の瀧を描いてきたけれど、時の流れを象徴するモチーフとして再発見できた」と振り返る。宇宙の宝石とは、吸い込まれるような群青の岩絵具のこと。「岩絵具は46億年前に原始惑星が衝突して地球が誕生したときのかけらそのもの。あの青は星の色」。

狩野松栄、狩野永徳の襖絵は、全42枚が全て国宝に指定され、通常は京都国立博物館に寄託されている。しかし、創建450年記念として、今年の3月から約1年間公開されることとなった。襖絵をすべて国宝に切り替えて、松栄、永徳の襖絵が公開されたのである。この聚光院は、千利休の墓所でもあり、茶を嗜む人にとっては、大切なお寺である。室町時代末期から桃山時代にかけて、政治と同様文化にも大きな変動が起こった時代であった。地方に多くの英雄が出現すると共に、華やかな地方文化が花開いたのである。伝統を尊重する京の文化も、やはりその影響を受けつつあった。この頃から大徳寺にも戦国武将の創立する塔頭小院が増え、それに茶趣味というものが加わってくる。(私は、この時代を「日本のルネサンス」と呼んでいる。)聚光院は、戦国武将として名高い三好長慶の養子義継が、父の菩提を弔うために創立したもので、永禄9年(1566)大徳寺第百七世笑嶺宗訴(しぉゆれいそうきん)禅師が開祖である。この笑訴は千利休の参禅の師でもあって、そのようなところから、この寺は利休との関係深く、墓地には立派な利休墓の宝塔があることは良く知られている。狩野永徳(1543~1590)は桃山時代を代表する画家である。例えば、雪舟の水墨画が室町文化を代表する画家であるとすると、正に狩野永徳は、桃山時代を代表する画家であり、唐獅子図(宮内庁、それまでは毛利家所蔵)、檜図屏風(東京国立博物館)等が代表作であろう。狩野永徳は、時の権力と結びつき、信長の安土城、秀吉の大阪城等の障壁画を沢山描いたが、いずれも戦火に焼かれ、残る作品数は少ない。この数少ない永徳の作品がまとまっているのが聚光院である。今回、この聚光院が1年に亘り公開されることは、私に取って大変な朗報であり、幸いにも六月の梅雨の中でも、拝観する機会に恵まれた。今後、この作品に逢うことは無いだろうと思い、熱心に説明を聞き、襖絵を丁寧に見学し、たいへん満足した。今年、一番の収穫であった。(ここまで書いて、11月に京都へ行く機会があるので、もう一回拝観したいとという思いが強くなった。)現在JR東海のPRとして、聚光院の狩野永徳の「花鳥図襖」が頻繁に放映されている。多分、日本中で見られる映像であろうと思う。(なお、拝観を希望する方は、聚光院のHPから「拝観願い」を申し込んで、希望の日、希望の時間を確定しておくと、並ばずに入館できる。7月、8月の日曜日は、予約で満杯のようであるが、当日いけば、うまくすれば入館できることもある。)

(本稿は、パンフレット「創建450年記念特別公開 大徳寺聚光院」、新潮美術文庫「狩野永徳」、吉川功「京の庭」、立原正明「日本の庭」、探訪日本の庭「第6巻 京都Ⅱ 洛中・洛北」、探訪日本の古寺「第6巻 京都Ⅰ 比叡・拓北」、現色日本の美術「第13巻 障壁画」、日経新聞2016年9月3日「プロムナード」を参照した)

山種美術館  浮世絵の競演

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山種美術館には約100枚の浮世絵コレクションがある。決して多い数では無いが、優品が多い。今回は六大絵師として晴信・清永など6名の絵師の秀作が並んだが、私の好みで、写楽と北斎、広重の保永堂版東海道五十三次の3種に絞らせて頂いた。あくまでも私の好みの話で、他意はない。山種美術館の浮世絵コレクションは、摺りの早いものが多い。かつ保管状態が極めて良い。正に「粒より」と呼んでも差し支えないと思う。また浮世絵の初期から末期まで、まんべんなく系統的に集められたものではない。役者絵で注目したいのは、東洲斎写楽の大判大首絵が三図所蔵されていることである。残存枚数が少なく、わずか百枚のコレクションの中で3枚の写楽が含まれていることには驚いた。風景画(名所絵)では、葛飾北斎と歌川広重というこの分野での両巨頭の作品が蒐集されている。北斎のコレクションは、彼の代表作の「赤富士」の通称を持つ「凱風快晴」1枚のみである。このコレクションの選択の鋭さを感じる。広重作品は極めて多い。保永堂版「東海道五十三次」は完全なセットで揃っている。その他「近江八景」、「木曽街道六十九次」からは「洗馬」、「江戸名所百景」からは「大はしけあたけの夕立」が1枚含まれている。(9月29日まで)

二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉  東洲斎写楽筆  寛政6年(1794)

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東洲斎写楽(生没年不詳)は、江戸後期の浮世絵師で寛政6年(1794)5月の江戸三座の舞台に取材した大判雲母摺(きらもずり)の役者大首絵二十八図でデビューを飾り、翌年正月の舞台に取材した作品を最後にわずか十ケ月で画壇から姿を消した。特に寛政6年5月の作品(28図)は戯画性を示し、役者似顔絵の歴史の中で異彩を放つ存在である。その正体に関しては諸説あるが、北斎の儀名説、阿波候の能楽師斉藤十郎兵衛(1763~1820)であるとの説が最近有力視されている。この絵は寛政6年5月都座「花菖蒲文禄曽我」の舞台に取材したものである。石部金吉は金貸し役で、描かれたのは主君の仇討を助けるために浪人して貧苦にあえぐ田辺文蔵のもとに、借金を取り立てに来た場面である。借り手の事情にお構いなく返済を迫る強欲さが、良く表れている。

三代目坂田半五郎の藤川水右衛門 東洲斎写楽筆  寛政6年(1794)

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「花菖蒲永禄曽我」第三幕の坂東三津五郎の石井源蔵とその妻千束を返り討ちにする場面だとされている。水右衛門は敵役である。親の敵を討ちに彼に挑む石井源蔵を返り討ちにする場面で、不敵な表情の水右衛門のどこか頼りなさ気な源蔵が向かい合う構成となる。悪党の憎々しさを描き出す写楽の腕は冴える。

富嶽三十六景 凱風快晴  葛飾北斎筆   文政13年頃(1830)

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この「赤富士」については、何度も触れている。ここではプルシアン・ブルーについて述べたい。この空を彩る青色は「プルシアン(プロイセン)・ブルー」略称「ベロ」である。この青色は1704年に、遠くプロイセン王国の都市ベルリンで偶然合成に成功し、長崎経由で輸入された人工顔料「プルシアン(プロイセンの)・ブルー」だったのである。これが日本国内に持ち込まれたのは宝暦2年(1752)頃だと考えられる。ベロを実際に使った作品は、伊籐若冲、平賀源内、小野田直武、佐野曙山ら、洋風画の分野中心に表れ、次いでより安価な、木版の浮世絵に広がっていった。この舶来の顔料は、水に良く溶け、光や酸素に対して安定し、青の発色が鮮やかで、グラデーションが容易にできる、といいことずくめであった。ベルリンがなまって「ベロ」と通称されたプルシアン・ブルーを生かし、北斎「富嶽三十六景」シリーズの刊行が始まった。このシリーズで北斎は、輪郭線には従来の藍を、鮮やかな青色のぼかしにベロを用いて、濃く、明るく、透明感の強い青に彩られた風景の魅力を見せつけた。これが浮世絵ではマイナーな存在だった「風景画」というジャンルの起爆剤となり、やはりベロを効果的に使った歌川広重の「東海道五十三次」という傑作を得て、役者絵、美人画に続く浮世絵の主要ジャンルへ、一気に成長していったのである。

東海道五十三次扉  歌川広重作       江戸時代(19世紀)

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山種美術館のコレクションには題字を記した扉が付属することから、もともと画帳仕立のものがまとまって残った数少ないものと考えられている。この揃いには、初摺りとされる摺りの特徴を持つ図が数多く含まれ、保永堂版の美的特質を考える上で重要な揃いとして注目されている。

東海道五十三次 原  歌川広重筆    天保4年~7年頃(1833~36)

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五十三次のうちでも最も富士山を近くに見、その美しい姿をまのあたりにするのが原宿である。枠外へ飛び出した富士の頂を描いている。この特殊な構成は、富士の美しさと大きさを強調したものであろう。保永堂版は3人の人物と満目蕭條(まんもくしょうじょう)たる枯野原の2羽の鳥を配し、風景と人物の渾然と調和した画面をなしている。

東海道五十三次 蒲原  歌川広重筆   天保4年~7年(1833~36)

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私は、この絵を見る度に、温暖な駿河国に大雪が降るのは事実とは違うのでは無いかと感ずる。しかし、保永堂版ではこのシリーズの圧巻と言われる名作とされる。雪が小振りとなったのを見計らって家路を辿る人々を描いたものであろう。傘や蓑に雪を積もらせ、ひっそりと静まり返った宿場の道を、足元も危なげに歩みを進めている。積雪の山や家々のふっくらとした姿に、静寂な姿を描き、濃墨と淡墨のみごとな調和によって深々と更け行く夜の、無音の空間を絶妙に表している。

東海道五十三次丸子(鞠子)茶店 歌川広重筆天保4年~6年(1833~36)

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丸子は鞠子とも書かれた。名物は「とろろ汁」で、江戸時代から麦飯に青のりととろろをかけたものであったらしい。芭蕉に「うめ若菜 丸子の宿の とろろ汁」の一首があり、また十返舎一九の「東海道膝栗毛」の弥次と喜多の道中にも、この宿での「とろろ汁」が出てくる。作中の2名は、弥次、喜多の2名をモデルにしているのではないかと思う。保永堂版は静かな田舎の雰囲気をよく表した作品で、去りゆく農民が画中に生き続けている。現在も同じ場所に「とろろ汁」を名物とする茶店があり、私は静岡に行く度に、そこで「とろろ汁」を食べることにしている。なお、初版は「丸子」となっているが、その後の版では「鞠子」に改められている。

東海道五十三次四日市・三重川 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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山種の図録では、「四日市は伊勢参宮の旅人も行き来して栄えた宿場であり、また港町でもあった。本図に描かれた鄙びた風景は、いささか賦に落ちない」と解説している。私も現地を見ているので、何故こんなに田舎じみた光景にしたのか、不思議である。しかし、この絵はクロード。モネの「トルーヴィールの海岸」(1881年)の、構図の取り方に堅著な影響を与えていると思う。モネは遠近法と陰影法の使用を遠ざけ、表情豊かに烈しく描写された1本の木を、中央に配し、鮮やかな色彩を帯状に配して、1本の木の激しい揺れを表現している。これは、モネが広重の「四日市・三重川」から構図を借用したものと見ている。モネは西洋の風景画に新しい概念を持ち込んだ作品であると、私は評価している。全く関係ない話であるが、四日市の名物に「なが餅」という商品があり、私の好物である。そこの「なが餅笹井屋」の商品の上に、この広重の作品が印刷されている。

東海道五十三次 庄野・白雨 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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このシリーズの中で3本の指に入る不朽の名作である。白雨はにわか雨のこと。強風に大揺れする竹やぶを3段にわけて描き、横なぐりの雨はこまかな斜線にその激しさを表している。この吹きすさぶ豪雨の中に描かれる人物は駕籠を担ぐ2人は平然と他の3人は体をよじ曲げて必死に風雨を防ぎ駆け散じている。この自然と人物の描写が一体になって効果を高めている。雨しぶきに煙る竹林の遠近感が薄墨の巧みな使用法によって見事に表されている。

東海道五十三次大津・走井茶店 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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大津は北越や近江国の産物魚類を船で運び込んでくるところで、毎日市が立ち、その多くの荷が人馬や牛車に積まれて京都へ運送されていた。走井とは、大津と山科の境の峠道である。ここに描かれた走井茶店は、この名を取って餅屋を営む店である。この逢坂峠の茶店に憩を求める人は多かっただろう。現在は、茶店は存在しないが、ここで作られた名物「走井餅」は現在でも大津の名物であり、京都駅でも買える。私の京都土産の定番である。

 

100種類ほどある浮世絵の中で、選び出した10枚は、写楽2枚、北斎1枚、広重の東海道五十三次の7枚となった。北斎と言うよりは、西洋から伝来した「ベロ」の使用例と、特に赤富士の雲の色を述べることに尽きる。正直言って、「ベロ」の使用例は、北斎の「神奈川沖浪浦」を説明する際に、最も説得性が高い。しかし、山種には「神奈川沖浪浦」が無いため、「赤富士」の雲の色を説明するのに「ベロ」の効用を延々と述べたのである。また、東海道五十三次は、必ずしも名画は選ばない、むしろ個人的思い出の強い作品を選びたかったが、「庄野・白雨」は、どうしても外せない1品となった。浮世絵における風景画のジャンルが確立された背景として「ベロ」の使用を述べたが、これは日経2016年8月13日の「プロムナード」から、引用させていただいた。目を開く思いをして読んだこの記事に厚くお礼申し上げたい。また、書いている中に、食べ物の記事になった事例が多いが、私の故郷の思い出に繋がるので、ご容赦いただきたい。

 

(翻稿は、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画」、図録「山種コレクショイン浮世絵名品集」、図録「大浮世絵展  2014年」、図録「ボシトン美術館 華麗なるジャポニズム2014年」、図録「写楽 2011年」、図録「大写楽展 2011年」 1995年」、日経新聞2016年8月13日「プロムナード」を参照」した)

等 持 院   足利一族の菩提寺

室町時代は、南北朝が対立し、日本史上でも判り難い時代である。足利尊氏は、自分の屋敷内に幕府の政庁を開き、かつ、そこに「等持寺」という寺院も在ったというからややこしい。尊氏は足利家の菩提寺として、まず「二条高倉」の京屋敷に、寺院の役割を兼ねさせ、「等持寺」と名付けた。その後、北朝の応暦4年(1341)、足利尊氏が無窓礎石を開基として、衣笠山(きにがさやま)のふもとに「等持院」を創建した。衣笠山は標高200メートルに過ぎないが、古くから多くの人が称賛してやまない美しい山である。等持院は、この衣笠山の眺望の美をひとり占めする、贅沢なロケーションである。等持院の規模は、かって壮大であった。伽藍の建物は、仏殿・大方丈・御殿・大庫裏・鐘楼・宝蔵など26の建物が威容を誇ったという。格としては天龍寺の末寺ということになる。延文3年(1358)4月29日に足利尊氏が亡くなり、等持院に葬られ、芙蓉池と心字池との間に尊氏の墓がたてられた。尊氏の葬儀を行ったあと、歴代将軍の葬儀は等持院でおこなわれるしきたりとなった。三代将軍義満によって、五山に続く十刹(じゅっせつ)の首位となった。26の伽藍を誇った等持院は、火災で大半を失い、長禄元年(1457)の尊氏没後百年祭までは粗末な伽藍のまま耐えることを余儀なくされた。尊氏百年祭を挙行したのは八代将軍足利義政である。義政は尊氏百年祭を盛大に行うことで等持院の復興を実現した。その後、再建、火災を繰り返し、文化5年(1808)4月に、等持院は3度目の火災をうけ、すべてを失った。10年の歳月を費やし、文政元年(1818)に復興事業がおわった。この時、妙心寺の塔頭・海福院の法丈が等持院に移され、本堂となった。海福院の方丈は福島正則が造営・寄進したもので、現存する建物のうちの最古のものだと言われる。

表門  切妻造、本瓦葺                江戸時代

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山門から入って進むと庫裏(くり)の玄関に入る表門がある。一門一戸の薬医門で、切妻造り、保瓦葺きで、文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。「等持院」の名称が記憶に残る、大きな文字である。

庫裏(くり)  切妻造 本瓦葺           江戸時代

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表門をくぐると、庫裏の玄関になる。左手が住職の住まいとなり、庫裏は御勝手、住居、事務所である。文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。後ろに衣笠山の美しい姿が見える。棟に煙出し盧を乗せている。拝観の受付場所であり、ここで入山料500円を支払う。他の寺に比較して、何時も安いと思う。それだけ、知名度が低く、観光客が少ない寺院である。しかし、私は、この等持院の持つ雰囲気が好きで、毎年のように訪ねている。「庫裏が玄関」という構造も好きである。如何にも禅寺らしい。この寺には、国宝、重要文化財の建物がない。檀家もない。入山料も高く取れない。そんな事情があったのか、映画の撮影場として珍重されていた。小さな禅寺の運営はさぞかし大変だろうと思う。しかし、室町時代230年間は、相国寺、等持院、等持寺の三ケ寺は別格であった。それは相国寺は教団統括の僧録司を抱えており、等持院と等持寺は将軍墓所、葬礼の寺であったからである。等持院の室町盛期の収入は千石を超えたと言われる。(大名クラス)諸国にまたがる膨大な寺領は”東班衆”(とうばんしゅう)と呼ばれた会計専門の禅僧がこれを管理していた。東班(とうばん)衆はお経よりも算盤が出来なければ務まらなかった。ともかく、東班衆と言えば室町時代では有能な管理者として引っ張り凧で、ただ単に禅宗寺院に留まらず、あらゆる造営事業に広く活躍していた。”不立文字”(ふりゅうもんじ)の禅僧が、計数に明るく、算盤に強かったというのは信じがたい話であるが、室町時代の禅僧の半数は、実はこの東班衆だったのである。近世の日本では数学が相当普及していたが(和算のたぐい)、それも実は室町時代の東班衆という基礎があっての事かも知れない。

方丈と庭園                  元和2年(1616頃)

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方丈前には庭園があり、勅使門がある。

霊光殿内部                 江戸時代

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方丈の東にある霊光殿は、足利将軍家歴代の肖像彫刻を安置している。その奥の内陣には、中央に利運地蔵(りうんじぞう)と呼ばれる地蔵菩薩立像を本尊として祀り、向って左側には禅宗の始祖である達磨大師像、右側には開山の無窓礎石像を祀っている。霊光殿脇壇には、室町幕府初代将軍足利尊氏像など歴代将軍像が祀られている。但し、五代義量(よしかず)像、14代義栄(よしひで)像を欠いている。等持院の足利将軍木像は、幕末に盗まれている。文久3年(1863)2月22日の夜、尊王攘夷派の志士が等持院に侵入して、尊氏、義詮、義満の木造の首をひきぬき、三条大橋の下で曝した。首にはそれぞれ位牌を掛け、「逆賊」と題した宣告分の立札がそえられていたという。

芙蓉池と本堂                 江戸時代

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庫裏から書院に廻ると、芙蓉池(ふよういけ)が見える。この庭園(西の庭園)は、私は好きである。おとなしくて控えめな庭園であり、庭園として強く主張しない点が好きである。室町幕府を開き、日本文化史上に極めて大きな役割を果たした十五代に及ぶ足利将軍家の文化史上の事績を思えば、その菩提寺の庭園は、もっと注目を浴びるべきであると、専門家は指摘する。西の芙蓉池については、銀閣寺を建てた足利義政が尊氏の百年忌のため、長禄元年(1457)等持院を再興した際に、かなり手を加えたのではないかという説がある。しかし、庭園は手の入れようで大きく変わることがある。私自身は、江戸時代に現在の庭園が完成したと思っている。池の真中に島があり、島と庭園をつながりは、一本の石の橋があるのみである。躑躅の低い樹に覆われている。正面右手に見えるのが本堂である。この本堂は、桃山・江戸初期の武将福島正則によって創建された妙心寺塔頭である海福院(かいふくいん)の客殿として、元和2年頃(1616頃)に建てられた。その後、文化5年(1808)の火災によって等持院方丈が焼失したため、同9年(1809)に移築され、文政元年(1818)に竣工したものである。等持院では一番古い建物である。

芙蓉池(ふようち)と清蓮亭(せいれんてい)      江戸時代

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芙蓉池に、一面に躑躅が咲いた景色であり、あれほど平凡に見えた庭に活気が着く。遥かに庭を隔てて、清蓮亭(茶室)が見える。これが等持院の、私の好きなお庭である。こうやって茶亭を眺めると、庭全体が茶の湯の空間である。書院から見た茶室と築山の配合の妙、数多く配置されたとび石、回遊の心地よい園路などを備えた茶庭と見えるのである。この庭園では茶室建築としての数寄屋建物の役割が大きい。これによって庭園全体の雰囲気が生まれる。利休の侘び茶以前の大らかさ、明るさが、私は好きである。出来れば、この茶室でお茶を飲んでみたい。

池から眺めた清蓮亭                  江戸時代

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現在の庭園は江戸時代中期に整備されたものとされている。小高い丘に茅葺屋根と桟瓦葺の二棟続きのお洒落な茶室・清蓮亭がある、寺伝では、長禄2年(1458)に足利義政が等持院を復興した際に茶室清蓮亭を造営したとされるが、現在は江戸時代中期に庭園が整備された頃の様式であるとされる。

「清蓮亭」上段一畳貴人床           明治時代

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明治時代に付け加えられた上段一畳貴人床である。果たして、こんな床が必要だったのであろうか。私から見ると、余分な建物のような気がする。

心字池と半夏生(下は半夏生に囲まれた池)         江戸時代

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東の心字池(しんじいけ)を中心とする庭園は、庭園関係者の間では夢窓国師が創った池の面影が残るとされる。等持寺の西に真如寺という名の寺があった。真如寺は足利尊氏の側近である高諸直(こうのもろなお)が康営元年(1342)開山を無窓国師の請うて開いた寺である。この真如寺の庭園が、何時か、等持院の東側の庭園に組み込まれたとされる。確かに西の芙蓉池と、東の庭園とは違う雰囲気がある。寺伝の通り、別の庭園を付け加え、東の庭園にしたのかも知れない。芙蓉池に比較すると、やや暗い印象は免れない。池の周りは、夏になると白い葉を付ける半夏生(はんげしょう)で囲まれる。(半夏生とはドクダミ科の多年草で、水辺に生ずる。夏、茎の頂きに白色の葉を生じ、その䈎腋に白色の穂状花を綴る)

足利尊氏公の墓                    室町時代

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芙蓉池と心字池の真中辺りに、足利尊氏公の墓がある。延文3年(1358)の銘がある。足利将軍の墓にしては、小さいような気もする。確かに足利尊氏は延文3年(1358)に、亡くなった。太平記によれば、背の「廱痩」(ようそう)が悪化し、本道・外科の医師が手を尽くし治療にあたったが及ばず、54歳で亡くなったとされている。

 

島崎藤村の大作「夜明け前」の第1部上巻第6章(和宮御降下の下り)に、この等持院・霊光院の尊氏他3人の首を抜き、三条河原に晒した事件が出てくる。第1巻の山場である。文久3年(1863)2月末に、青山半蔵の自宅に一人の訪問者がひっそりと訪ねてくる。平田門人の先輩、「暮田正香」であった。半蔵は、暮田が幕府の探偵につけられていることを察し、土蔵の中へ隠す。そこで、暮田は「平田門人ら9人が、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木造の首を抜き取って、23日の夜にそれを三条河原に晒しものにしたという。暮田に言わせると、徳川将軍の上洛の日も近い。三条河原の光景は、これに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である」。島崎藤村は、足利将軍の木造の首を抜いて三条河原に晒した歴史上の事実を、国学者の仕業にしたものであろう。

 

(本稿は、パンフレット「等持院」、古寺巡礼 京都「第34巻 等持院」、日本の歴史 佐藤進一「第9巻 南北朝の動乱」、永井路子「太平記ー古典を読む」、島崎藤村全集「夜明け前 第2巻」を参照した)