藤田嗣冶展  美術学校から戦争絵画まで

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藤田嗣冶は、1886年(明治19)に東京府牛込区(現新宿区)に生まれた。藤田家は房州長男藩本田家の家老職の家柄であった。父藤田嗣章は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を務めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は、旧幕臣小栗信の次女である。嗣治はこの両親の次男であった。画家への道へ進みたいという嗣冶の希望が許されたのは、彼が次男であったからであろう。藤田が格式を備えたブルジョアの家庭に育ったということには意味がある。かれの生涯を見る上で重要である。藤田は晩年に日本を捨てフランス国籍を取得し、カトリックに帰依する際、洗礼名に「レオナルド」という一般には少ない名前を選んでいるが、このイタリア・ルネサンスの偉大な人物を意識してものと私は思う。藤田は暁星中学の夜学でフランス語を学び、1905年には東京美術学校西洋画科に入学した。美術学校の主任教授は黒田清輝のいわゆるフランス帰りの「外光派」理論とはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子と結婚したが、これは恋愛結婚であった。そして藤田は1913年(100年以上前)にパリへ単身で、私費留学生として渡仏したが、彼が妻に送った179通に及ぶ書簡が1980年頃に鴇田家から発見され、逐次刊行された。パリのモンパルナスに住んだ藤田は、モディリアーニとスーチンに合った。間もなくピカソを家に訪れ、そこでアンリ・ルソーの傑作を見ている。藤田は稀な日本人画家である。彼は、第一次世界大戦と第二次世界大戦をともにフランスで体験した希少な芸術家である。(府中市美術館にて10月1日より12月11日まで)

自画像  布・油彩   1910年       東京芸術大学

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やや斜めに構えたポーズや、見下ろす視線は、自画像の典型の一つであるが、画家として身を立てていこうとする若者らしい気負いも感じられる絵である。東京美術学校の卒業制作として提出される3点のうちの一つで、自画像は必修課題であった。後に藤田は、西洋画科の主任教授であった黒田から、自分の卒業制作を「悪い例」として示された、と回想している。色彩がやや暗いと言う点が、黒田の眼鏡にかなわなかったかもしれない。しかし、全体的に落ち着いた色調で、酷評されるような作品ではない。私は、むしろ後年の藤田に較べれば、むしろ「極めてまともな」基礎的技術をきちんと積み上げた作品ではないかと思う。卒業時の成績は30人中16番くらいという平凡なもので、卒業後も若手画家の登竜門とされた文展への落選が続いた。日本では全く芽が出なかったのである。

パリ風景  布・油彩   1918年     東京国立近代美術館

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パリの南のはずれ、地下鉄13号線に「ヴァンヴ門」という駅がある。ここはかってパリを囲んでいた市壁に設けられた門の一つで、第一次世界大戦が終わる頃までは税官吏が立ち、市内に入る物資に税金を徴収していたそうである。この作品が描かれたのは1月のことである。空も樹も道も人影も色を失って灰色である。奇妙な静けさに包まれている。アンリ・ルソー(1844~1910)の影響を受けているそうだ。正当な美術教育を受けず日曜画家として描き始めたルソーは、朴訥な表現を大真面目に描いた人物である。彼の作品をいち早く注目したのが、ピカソや詩人アポリネールだった。藤田はピカソのアトリエを訪ねた時、そこで目にしたルソーの人物画に衝撃を受けたというが、より直接的な影響が見られるのは風景画である。アカデミックな規範から外れたルソーの作品に、強い感銘を受けた藤田が目指したのが、素朴な味わいの表現であった。後に本人も「パリの城壁には、自分が少年時代に親しんだ東京の「見附」(つまり江戸城の城門跡)にも通じるものがあった」と述べているが、「異邦人の目で捉えたノスタルジックなパリの風景」として新鮮に映ったのであろう。「ルソーの後継者」という好評にもつながったのである。こうした風景画は、一部の美術愛好家の間で、藤田の名が知られるようになるきっかけを作ったのである。この時代の絵画は殆ど残っていない。藤田は500枚にも上る、自分の作品を焼却処分していたのである。

バラ   布・油彩   1922年     ユニマットグループ

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私は、この「バラ」を見て、まず乳白色のバックに引き付けられた.1920年代の藤田は、まさに画壇の寵児と言う言葉がふさわしい活躍ぶりであった。まばらに「生けた花」というモチーフは、乳白色の下地に流麗な線で描く技法を生み出しつつあった時期に、「線」の表現を追求する中で興味を持ったモチーフだったと考えられる。水指の下に敷かれた花柄の布も、特徴的である。やがて布は人物の肌を引き立てさせる役割を意識して描かれるようになるが、それ以前の貴重な作例であると思う。

アントワープ港の眺め  布・油彩  1923年    島根県立石見術館

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ベルギー、アントワープの銀行家ポール・フィーランの注文で、彼の自宅を飾る7点の装飾画として描かれた作品の一つである。藤田は、既に乳白色の下地のスタイルで人気が出始めた頃だったが、隣国ベルギーの評価も高かったため、こうした依頼にもつながったのであろう。この作品にえがかれているのは、アントワープの黄金時代であった16世紀から17世紀頃の様子である。つまり、中央の川は貿易港の繁栄を支えたスヘルデ川、中央の高い建物はノートル=ダムの大聖堂の塔である。大型の帆船は大航海時代を象徴しているのである。藤田は取材のため現地を訪れたが、昔日の隆盛を表すために、当時の景観図や文献、銅版の風景画などを参照したらしい。予定通り7枚すべて描かれたらしいが、現在知られているのは、この1点のみである。注文主のフィーランが破産したため、画料もほとんど払われないうちに、7点がばらばらばらに人手に渡ってしまつたようである。

五人の裸婦  布・油彩    1923年     東京国立近代美術館

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藤田は1920年代のパリで大成功を収めた。人気の秘密は、まるで日本画のようなしっとりとした白い下地と美しい墨色の描線で、この作品にもその特徴がよくうかがわれる。この白い下地の秘密は、下地の最表層から「タルク」と呼ばれる物質が検出されたことにより、藤田の絵画技法の解明が急速に進んだ。藤田がこのタルクを、油性地の上に墨で線をひくための画材として使用していることが確認されたのである。タルクは「滑石粉」とも呼ばれ、ベビーパウダーの主な成分として、乳幼児の湿疹などを防止する効果があることで知られている。土門拳氏(1909~1990)が1941年夏から1949年3月までのおよそ8年間、藤田のアトリエを撮影していた。そこには画家ばかりでなく、その制作過程に使用した画材、旧作、日用品などをはっきり映し出していた。その中に和光堂の「シッカロール」という文字が写っていたのである。(図録「レオナール・フジタ 2013年」)五人の女性はそれぞれ、布を持つ=蝕角、耳を触る=聴覚、口を指す=味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表すとも言われる。中央を占める女性は、絵画にとって一番重要な視覚を表すというわけである。藤田が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだ作品は、彼のそれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値をつけたのであった。それはピカソやマチスに匹敵する価格であったと言われている。

坐る女性と猫  布・油彩   1923年    鹿児島県立美術館

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この頃の藤田は、パリ画壇の寵児と言われ、裸婦の絵画が多い。1924年の渡仏以来住み慣れたモンパルナスを離れ、高級住宅街の16区に移り、糟糠の妻とも言うべき2番目の妻フェルナンデスと別れて21歳のリュシー・パドウ(ユキ)と暮らし始めた。運転手付の高級車を乗り回し、社交界の花形として夜毎にパーティーに繰りだたのもこの頃からである。おかっぱ頭のロイド眼鏡、ちょび髭にイヤリングといった強烈な自己演出によって様々な場所に出没し、画家の枠を超えたパリのアイドルとして認識されたのである。この絵は、薄青色のワンピースの女性が、左手を上げて髪を整えるような仕種をしている。上目遣いにこちらを見るキジトラ模様の猫のそろえた前足がかわいらしい。同じ時期に制作された「タピスリーの裸婦」(京都国立近代美術館)と良く似たポーズで、モデルも猫も同じである。本作ではワンピースの青色以外はほぼモノトーンで色調を抑えている。女性の表情も寂しげで物憂げな表情が印象的である。藤田の絵具も独得の技法で用いられている。ワンピースの薄青色を通して、下地の色がはっきりと感じられるのである。

自画像  布・油彩   1929年     東京国立近代美術館

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藤田の最も得意とする白地の女性像(額入り)と猫と共に描いた自画像である。藤田の宣伝用の像とも言えよう。1919年にサロン・ドートンヌに6点全点が入選し、かつサロンの会員となり、成功の鍵を掴んだ。1921年、35歳にして、サロン・ドートンヌの出品作品が高額で売れて、その後1928年まで、各種サロンに出品しながら、ヨーロッパ各地で個展を開いた絶頂期であった。彼の画家の枠を超えた活動には、逆に彼の画家としての評価に疑問を投げかける結果を一部にもたらした。派手な私生活をとらえて、宣伝屋、ハッタリヤ、お調子者のレッテルを貼り、作品の評価もろともに引きずり降ろそうとする人々が日本人の中に登場した。藤田と日本の間の亀裂が次第に大きくなっていった。第一次世界大戦の束の間の平和と繁栄を謳歌した1920年代は終わり、ニューヨークの株価暴落から世界恐慌、そして戦争へと向かう激動の時代を迎えて、藤田の生活と創作も大きく揺れ動いた。

青いドレスの女  布・油彩   1939年    島根県立美術館

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西洋の女性をモデルに描いた1939年の作品であり、本作は東京で描かれたものである。この絵のモデルは、2番目の妻マドレーヌ・ユキの面差しに似ている。マドレーヌは1936年に急逝しているので、描きためたスケッチを元にして描いたのであろう。

猫  布・油彩   1940年        東京国立近代美術館

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14匹の様々な種類の猫が組んずほぐれつの喧嘩をしているように見える。1940年の制作ということもあって、時局を反映した殺伐とした空気を表現しているという解釈もある。背景を黒く塗りつぶす手法は、画題に関係なく若い頃から何度も使われているが、ここでも極めて効果的である。飛び上がる猫の姿をくっきりと浮かび上がらせ、なおかつ下辺がやや斜めになっていることによって、画面の感動を一層強めている。14匹の猫は8の字を描くように配置され、これも画面のスピード感と動きの連続性を増している。

アッツ島玉砕  布・油彩  1943年(昭和18)  東京国立近代美術館

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1943年(昭和18)5月29日、アリューシャン島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した事件を描いた絵画である。レオナルド・ダヴィンチ等泰西の戦争名画から学んだ技法を駆使し、三角形を積み重ねた技法である。昭和18年5月と言えば、私は小学校4年生であり、ハッキリこの玉砕事件は記憶している。何故、アリューシャン島という孤島で全員玉砕したのだろうかと不思議に思った。要するに戦略的重要性について、まるで理解できていなかったからである。それは、今でも不思議に思っている。玉砕という全員死亡事件には、前途に不安を感じた記憶がある。この絵画の暗い色は、一体何を描きたかったのだろうか?2006年に国立近代美術館で「藤田嗣冶展覧会」が開催され、それを高校時代の同窓生と観覧したことがある。その時に、藤田の戦争画を初めて見て、強烈な印象が残っている。この絵が、戦意高揚に繋がるとは、到底思えない。厭戦思想が涌くものの、戦意高揚には程遠い絵画であると感じたし、今回も同じ印象を持った。藤田は陸軍や海軍の依頼を受けて何点もの作戦記録画を描いているが、この作品は依頼によるものではなく藤田が自発的に描いてその後陸軍に献納され、9月の国民総力決戦美術展に出品されるという経過をたどっている。調べてみると、陸軍は当初、この作品を公開することに躊躇していたという話がある。(図録より)北の孤島における日本軍全滅の悲劇を生々しく伝える画面が、国民の戦争に対する士気を低下させるのではないかという危惧は当然のことである。しかし国民の反応は全く逆だった。玉砕し軍神となった兵隊たちの最後の瞬間に直面することにより、敵である鬼畜米英に対する怒りや憎しみはさらに増したのである。展示された作品の横には「脱帽」の二文字が大書され、賽銭箱が置かれ、絵に向かって手を合わせて拝む人が後を絶たなかったという。藤田自身がそれらの老若男女の姿を目にして「生まれて初めて自分の絵がこれほどまでに感銘を与え拝まれたことはいまだかってない異例さに驚き」「この絵だけは、数多くかいた絵の中の尤も快心の作だった」と後に記している。

 

今回展示された藤田の絵画は158点に及び、日本全国の地方美術館を含め、ほぼ日本中にある藤田作品を網羅したばかりでなく、フランスのランス美術館からも多数出展された素晴らしい展覧会であった。府中市美術館の総力を挙げた展覧会であり、図録の内容も、従来の図録を上回る内容であった。未公開作品も多数含まれた本展が、藤田芸術の新たな解釈と理解につながることを強く期待する。

 

(本稿は、図録「藤田嗣冶展ー東と西を結ぶ絵画 2016年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示 2015年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に 2013年」、図録「コレクター鈴木常司ー美へのまなざし 2012年」を参照した)

お江戸散歩  小伝馬町より京橋まで

昔の勤務先(明治乳業)の管理職OBグループ有志で、毎年秋に行う「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。参加者は約30人、1時間半をかけて約4キロの道程を歩いた。東京は世界の都市で3番目に魅力ある都市に数えられ、ロンドン、ニューヨークに続く都市だそうである。しかし、毎回の「お江戸散歩」に参加して、400年の歴史が残り、丁寧に道標等が残されて、地域住民に愛され、親しまれている様子を見るにつけ、むしろ東京が世界一の魅力を発揮する時代がすぐ目の前に近づいていると思った。

石町(こくちょう)時の鐘         日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

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江戸ではじめて千代田城で太鼓をたたいて時刻を知らせていたが、のちに江戸の町内の各方面につぎつぎと鐘撞堂が建てられた。江戸には9ケ所の鐘があったと伝えられている。現在残っているのは4ケ所とされる。「石町(こくちょう)の時の鐘」は本石町(ほんこくちょう))(日本橋室町四丁目)に二代将軍秀忠のときに建てられた。「石町時の鐘」は、鐘撞きであった辻玄七の書上によると、寛永3年(1626)に本石町三丁目へ鐘撞堂を建てて鐘を撞いたことがしるされており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていたそうである。本石町に設置された時の鐘は、何度かの火災で破損したために修理や改鋳が行われた。現在の銅鐘には寛永8年(1711)に鋳造された銘文が刻まれている。「石町は江戸を寝せたり起したり」と川柳にも詠まれたが、この鐘は、明治を迎え廃止されたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っている。

伝馬町牢屋敷跡             日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

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十思(じっし)公園あたりは、伝馬町牢屋敷があったところである。牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷刑務所にうつされて廃止になり、ながい間荒れていたが、寺や小学校敷地に整備された。牢屋敷であるから、罪人を留置する場所であった。この牢屋敷跡を掘り出した所、このような石が多数発見された。牢屋敷を取り巻く、石塀の一部であった。幕末の安政大獄に連座した吉田松陰・梅田雲品ら多くの志士が収容され獄死した。ここには「松陰先生終焉の地」と辞世の句碑がある。句碑には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置(とどめおか)まし大和魂」とある。小伝馬町、伝馬町とは荷物運送のお伝馬役人や馬が配置された所である。

椙の森神社        小伝馬町駅から水天宮に向かって徒歩5分の場所

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この椙森(すぎのもり)神社は、1千年の昔、まだ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建と伝える。江戸時代は江戸三森の一つであり、また、江戸商人の発祥の地としても栄えて来た。神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられる程多くの富籤が興業された事が記録に残されている。この富籤興業は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができる。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されたが、関東大震災によって、倒壊した。その後、冨塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの冨塚である。この冨塚は他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物である。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている程である。なお、神社には「正月恵方詣 日本橋七福神 恵比寿神 椙森神社」というお目出度い札が下がっていた。

人形町通り       小伝馬町駅より水天宮に向かって約10分歩いた所

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地下鉄人形町駅の交差点近くには、芝居の切られ与三(よさ)「与話情(よはなさけ)浮名横櫛(うきなよこぐし)」の玄治店(げんやだな)がある。江戸初期の幕府はお抱えの名医岡本玄治が拝領した屋敷地で、一体の町家を後に玄治店と呼ぶようになった。甘酒横丁は水天宮の手前の下町情緒漂う場所である。この「人形町通り」の櫓も美しい。

谷崎潤一郎生誕の地         水天宮駅下車1分 甘酒横丁の入口

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人形町東南側(浪速町)一帯は元吉原跡地で、アシ・ヨシのおいしげる沼地二町四方をかこって郭町(くるわ)とし、明暦の大火のあと日本堤の新吉原に移るまで遊女町としてにぎわった。吉原の名は現在、芳町に残っており、芳町一丁目四に「谷崎潤一郎生誕地」の碑があるが、その作品では少年時代はさびしい場所だったと書かれている。細雪(ささめゆき)という羊羹を売っていたが、買うと遅れるので、見送った。残念であった。因みに、谷崎潤一郎は明治29年(1896)に生まれ、春琴抄、細雪、少将滋幹の母、等の作品を表し、昭和40年(1965)に没している。戦争中には「細雪」の執筆を軍部に止められ、戦後全巻を発表した芯のある作家として有名である。私は昭和26年、高校2年の時に学校の図書館で発見して、息もつかず3巻を読破した記憶がある。正に、昭和の王朝文学である。

小網神社                 甘酒横丁を抜けて1分             img_3343

稲荷大神を主祭とし、約550年前に鎮座した強運厄除けの古社である。総檜造りの重厚な彫刻が施された社殿と神楽殿を備える。都内の神社で、総檜の社殿は珍しい。中央区指定文化財になっている。福禄寿は福徳長寿の神、弁財天は商売繁盛、学芸成就の神で、庶民の篤い信仰を得ている。

鎧の渡し跡    小網神社から歩いて1分  日本橋川の渡し場(現在は橋)

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鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しである。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の地誌にも多く記載されている。伝説によると、かってこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・激浪にあい、その船が沈まんとしたため鎧一領を海中に投じて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われている。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことにより無くなったが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図絵」などにも描かれており、また俳句や狂歌などにも詠まれている。縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし 話朝亭国盛

銀行発祥の地                 日本橋川に架かる江戸橋南詰め

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昭和通りが日本橋川に掛る前に「銀行発祥の地」がある。ここは明治6年(1873)に三井組・小野組が創立したわが国最初の第一国立銀行があった「銀行発祥の地」である。初代総監役(後の頭取)は渋沢栄一である。この銀行は第一国立銀行ー第一銀行ー第一勧業銀行ーみずほ銀行の歴史となる。現在は「みずほ銀行」の支店として営業している。

「熙代勝覧(きだいしょうらん)絵巻」 日本橋三越本店の地下街(三越前駅) 日本橋の眺め(富士山が大きい)  日本橋北詰の様子(日本橋魚河岸)

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今から200年前、文化2年(1805)の江戸の、日本橋から神田今側橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰描写した作品である。肉筆の錦絵と思ってもらえば、判り易い。世界に一つしかない絵画である。現在はベルリン国立美術館に所蔵されている。絵師は不明であるが、温かみを感じさせる作品である。作品には88軒の問屋や店、1671人の身分も職もさまざまな人々や、犬20匹、牛4頭、猿1匹、鷹2羽など生き生きと描かれている。絵巻のタイトル「熙代勝覧」は「熙(かがや)ける御代の勝れたる大江戸の景観」という意味であろう。江戸東京博物館の全体監修のもと約17メートルの複製絵巻を制作・設置したものである。絵巻の絵画部分は原画を約1.4倍に拡大してあり、非常に見易い。これは、三越の地下1階の外側(地下鉄三越前)にあるので、何時でも拝観できる。

日本橋と国道元標                 日本橋南詰

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日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長3年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交叉する点として江戸経済の中心となっている。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。幕末の様子は安藤広重の錦絵で描かれている。現在の日本橋は東京市により石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成した。道路原票は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを機に、昭和47年に柱からプレートに変更された。平成11年に、橋は国の重要文化財に指定された。

ヤン・ヨーステン記念碑        八重洲通りのグリーンベルト内

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東京駅八重洲口が、現在は丸の内をしのぐ表口となっている。この地名はオランダ人ヤン・ヨーステンに由来する。ヤン・ヨーステンは、オランダ東印度商会所属のリーフデ号の航海士であった。ヤン・ヨーステンは家康に用いられ、日本に永住した。ヤン・ヨーステンの記念碑である。VOCはオランダ東印度商会の商標である。

 

東京の旧跡を歩くと、実に整備され、名所には詳しい解説が施されている。大半が江戸時代以降のものであるが、それ以前のものもあり、日本人の「物持ちの良さ」を再発見した。特に「熙代勝覧絵巻」は、全く知らないものであったので、非常に勉強になった。この「お江戸散歩」に参加して、企画を立てた方の事前の綿密な調査と、豊富な資料には感心した。今回が5回目の「お江戸散歩」であり、今後も続くと思うが、来年も是非参加したいと思う。

 

(本稿は、「中央区ふれあい街歩きマップ 4,1」、東京都歴史教育研究会「東京都の歴史散歩・上」、図録「熙代勝覧絵巻」、各名所の案内板を参照した)

鳥獣戯画  京都高山寺の至宝  乙、丙、丁巻

乙巻は甲巻から一転して、動物図鑑のような様相を呈する。16種の動物が描かれているが、擬人化された動物は一切登場しない。巻頭の馬にはじまり、前半は牛、鷹、犬、鶏、鷲、隼といった日本にも生息している動物が描かれている。後半は犀、麒麟、豹、山羊といった日本には生息しない、あるいは空想上の霊獣を描いている。単なる動物図鑑とは異なり、背景が描き込まれている。親子連れの動物たちが多く描かれており、「鑑賞画」の様相を示している。丙巻は前半に「人物戯画」、後半には「動物戯画」という、まったく異なる論理の画面が配されている。「平成の修理」により、この謎を解くヒントが見えてきた。「人物戯画」と「動物戯画」は、もともと料紙の表裏に描かれており、「相剥ぎ(あいへぎ)」という技術により一枚の紙の表裏を二枚に分け、つなぎ合わせたというのである。つまり建長の頃には十四紙あったものが、伝来の過程で四紙が抜け落ち十紙となり、「相剥ぎ」により最終的に現状の二十紙となったということである。丁巻は、人物主体の巻である。侏儒、験競べ、法会、流鏑馬などが描かれている。甲巻及び乙巻に描かれているさまざまなモチーフを踏まえて描いており、動物たちが演じていた儀礼や遊戯を、人間が演じるというその逆説性がこの巻の真骨頂ということができる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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霊獣の麒麟である。徳の高い君主の治世に現れるという。中国の「礼記」という書物に説かれる瑞獣(ずいじゅう)である。

国宝  鳥獣戯画  乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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二つの図で、愛らしにあふれる虎の親子を表す。こちらも日本には生息しておらず、白描図像などをもとに描かれたとみられる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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今度は空想上の動物である獅子が登場。蝶を威嚇したり、伸びをしたり、その姿は犬のようである。

国宝  鳥獣戯画 丙巻  紙本墨画  鎌倉時代(13世紀)  高山寺

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猿の乗る鹿の蹄をのぞきこむ蛙。甲巻同様に丙巻でも、鹿は擬人化されないままである。

国宝  鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画    鎌倉時代(13世紀)  高山寺

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山車に見立てた荷車を引く行列、祭りの熱気が伝わってくるかのようである。牛もまた擬人化されていない。

国宝  鳥獣戯画   丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

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甲巻に描かれている猿の法会のさらなるパロディー。こちらの本尊は蛙とも、何等かの虫にもみえる。

国宝 鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

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甲巻でも蛙が編木(びんぎさら)を手にしている田楽の場面である。太鼓、鼓、笛などを手にした楽人が拍子を合せて演奏している。

 

鳥獣戯画の制作された意図や目的は何であったのであろうか。この時代(平安時代から鎌倉時代初期)の最高レベルの技術を持った絵師が、この「鳥獣戯画」を手がけている。絵仏師あるいは、宮廷繪所の絵師という高い階層に属したものが、高い地位にある人物から注文を受けて「鳥獣戯画」を描いたのであって、絵師のただの筆遊び(すさび)ではなく、何等かの目的をもって制作されたと考えるのが妥当だろう。描かれた背景は謎が多い。平安時代末期に仏教が乱れるなか、僧や公家を風刺したとの説もあるが、誰がどんな目的で描いたのかは、はっきりしない。ただ、「墨だけでこれほどの躍動感いっぱいに描くことは、相当な力量の持ち主が、楽しんで描いたのでしょう。」(東京大学・坂倉聖哲教授)一方、図録の中に「鳥獣戯画がマンガを生んだのか?」を執筆された松島雅人氏(東京国立博物館教育講座室長)の「源平の戦乱の中で非業の死を遂げた高貴な人物として、幼くして死んだ安徳天皇の慰霊」という説は捨てがたい魅力がある。今日のアニメの原型と考えれば、安徳帝の慰霊こそ、安心できる仮設である。今後の研究をまちたい。

 

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝 2015年」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第8巻 絵巻物」、日経「おとなのOFF2014年10月号」を参照した)

鳥獣戯画  京都高山寺の至宝 甲巻

九州国立博物館の外観

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高山寺に伝わる平安、鎌倉時代の絵巻「鳥獣戯画」全四巻と、国内外に流失した断簡五紙が、すべて揃って出展される鳥獣戯画展は、2016年10月4日から、九州国立博物館で開催される。昨年、東京国立博物館で開催されたものと、同じであるがあえて、九州博物館まで見学に行き、再現した。鳥獣戯画と聞けば遊びに動物たちを描いた甲巻を思い浮かべるが、専門家たちがこれを「国宝中の国宝」とする理由も、甲巻の魅力に凝縮される。動物を擬人化し、彼らがさまざまな遊戯や儀礼に興ずる様子を描いている。物語は右から左へ進む。絵巻物に付きものの「詞書き」は無い。「日本美術が大陸文化を模倣し、発展してきたことは間違いないが、この見事な擬人化と融通無碍(ゆうづうむげ)な面白さは中国にはまねの出来ないもの。建前重視の中国美術ではこうした戯画は少ないし、あっても価値はないとされます」(東京大学東洋文化研究所教授板倉聖哲氏)。戯画の名を冠しているが、これは単に「戯れ描いた」と理解するのは大きな誤解である。各巻の画風もだいぶ異なる。丙、丁巻などはラフなスケッチ風にも見えるが、よくよく画面を観察してみると確かな技量を持った人物によって描かれたことが窺える。この絵巻は少なくとも「戯れ」に描かれたものではない。鳥獣戯画は、平成20年(2009)から4年かけて解体修理が行われ、その過程でさまざまな新事実も確認された。成立から八百年近くたつた鳥獣戯画の新たな謎解きへの一歩を踏み出す展覧会である。まずは、甲巻から見ていきたい。

国宝 鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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鹿に乗る兎に水をかける猿。鹿は、甲巻のなかで擬人化されていない、数少ない動物の一つである。

国宝  鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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弓をつがえる兎の表情は真剣そのもの。弓の調子を整える蛙の姿も見える。

国宝 鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画    平安時代(12世紀) 高山寺

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扇を振り、なにやら差し招いている兎。その先には、次の会が続く。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

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兎が差し招く先(先の図)。その先には、荷物を運ぶ両陣営の動物たち。これは賭弓(とゆみ)の勝者に与えられる品だろう。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

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逃げる猿を追いかける兎と蛙。鳥獣戯画でも著名なシーンの一つである。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

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ひっくり返っている蛙。兎や蛙が取り囲むが、そこには緊迫感は感じられないように見える。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀)  高山寺

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場面は一転、相撲のシーンへ。相撲はもともと秋に行われる神事だった。兎の耳に噛みつく蛙。禁じ手である。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

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甲巻の山場。蛙の本尊を前にした猿の法会。袈裟を掛けた兎や狐も読経している。涙を拭う老齢と思われる猿はまだしも、狐や兎、鼬は遊んでいるこのようだ。

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法会も終わり、猿にさまざまな供物が捧げられる。兎の持つ虎皮は貴重な舶来の品。

 

甲巻は四巻のうち最も知名度の高い巻である。甲巻には、兎、蛙、猿といった主要登場動物を含め、実に11種の動物が登場する。この三巻のほか、鹿、狐、猪、猫、鼠、雉、鼬(いたち)梟(ふくろう)で、いずれも、平安時代に日本で目にすることのできた動物たちである。これらの中で、鹿と猪、梟は擬人化されておらず、動物のままの姿で描かれている。その違いは二足歩行が可能か、あるいは二足歩行で描くことに違和感のない動物か否かという点に求められるかも知れないが、作画の論理の真意は不明である。「まず墨で描かれた素描による風刺画として、時代の新しい自由な雰囲気を感じさせるものがる。甲巻の内容は、猿、兎、蛙の中で一番負けた猿が、最も勝った蛙を殺し、その供養を猿僧正の下で行うという、ひとつの風刺が、画面に一貫した緊張感を与えているからだろう。詞書きもないままこれだけの風刺絵画を描けるのは相当な知的人物に違いないだろう。」(日本美術史全史)「甲巻は特に優れ、動物の姿態と、背景をなす風景や草木の配置がぴったりと調和し、なんら矛盾するところはない。濃淡の墨色の使い分け、細かく太くアクセントを変化させる線描のはたらきも、画家の統一的な意図になるものと思われる。」(絵巻物)甲巻の作者は、永らく、平安時代後期の天台僧、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)筆と伝えられてきた。鳥羽僧正は「古今著聞集」では「近き世にならびなき絵描き」と評されるなど、画技にも長けていたとみられている。ただ鳥羽僧正筆という説は近世以降に作られたものと解することができる。鳥獣戯画の制作圏に関しては、これまで二つの有力な説が提出されている。一つが、白線図像や仏画を描く、寺院に属する絵仏師だったとする説である。いま一つが主に世俗画を描いた宮廷繪所(えどころ)絵師だったとする説である。図録の中で土屋貴裕氏(東京国立博物館研究員)は、面白い仮設を述べている。それによれば「平安時代後期、絵画の制作と享受において、寺院と世俗が交叉するような場。そのような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい」として、「一つの推測として”仁和寺”を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。」と述べている。出所の可能性としては面白い意見であるが、具体的な仁和寺にいた絵仏師ということであろうか。今後の研究が待たれる。私は、「黒川孝雄の美」で、仁和寺を近く取り上げてみたい。

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝 2015年」、日経「おとなのOFF2014年10月号」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術「第8巻  絵巻物」を参照した)

平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち

滋賀県甲賀市に存在する櫟野寺(らくやじ)は、延暦11年(792)に最澄(さいちょう)が延暦寺の建立に必要な良材を求めて櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだことが、そのはじまりと伝わる天台宗の古刹(こさつ)である。日本仏教の母山と仰がれる比叡山延暦寺の末寺であり、地元では「いちいの観音さん」と呼ばれ親しまれている。このお寺には巨大な本尊を含めて20躯の平安仏が祀られていることで有名である。この櫟野寺を、最初に広く紹介したのが白洲正子氏の「かくれ里」であった。「かくれ里」は、昭和44年(1969)から芸術新潮に2年間に亘り連載された。このため、京都を拠点にして、畿内の村落をくまなく歩いた。「かくれ里」は昭和46年(1971)に新潮社より刊行され、多くの読者を得た。白洲氏は、最初から櫟野寺を知って出かけた訳ではなく、博物館で見た能の面を所有する「油日神社」を訪れた時に、宮司さんから「ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像が沢山あります」と教えられて、櫟野寺へ来たのである。以下「かくれ里」から引用してみる。「櫟野寺はイチイノテラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槇も立っている。いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現れ、宝物殿(大悲閣)の扉を開いて下さった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のため失われ、さいわい仏像は新しい宝物殿の方に移してあったので助かりました。申し訳ないことです、と坊さんはしきりに恐縮されるが。」いずれにしても、天台宗の寺院であり、最盛期の櫟野寺には七つの坊があったというから、大変な大寺であったと思う。(東京国立博物館で12月11日まで公開)

櫟野寺の本堂(火災の後に再建された本堂)

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立派な仁王門のある古刹であり、甲賀市の中心的な寺院であったことは間違いない。重要文化財に指定される平安時代の仏像が、20躯も残っているのは、長浜のお寺とは格の違うお寺であったであろう。この20躯の仏像のうち実に12躯が観音像(聖観音が8躯、十一面観音が4躯)である。この櫟野寺とその周辺の塔頭は、観音の聖地と呼ぶにふさわしい場所である。寺伝によれば、延暦11年(792)に伝教大師最澄(766~822)が、延暦寺を建立するために良材を求めてこの地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことが当寺の始まりと伝えている。何故観音が選ばれたのかということについては、残念ながら明確ではない。最澄が良材を求めてこの地を訪れたという伝承からも、このあたりは奈良の寺院や延暦寺の造営にあたっては、良質な材木の供給地(杣山ーそまやま)であったと思われる。観音信仰と山岳や樹木へ結びつきやすく、当時この地が観音の聖地であると認識される可能性は十分あったのであろう。

重要文化財 十一面観音菩薩坐像 木造、漆箔・彩色 像高312cm平安時代(10世紀)

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櫟野寺の本尊である。重要文化財に指定された像の中では日本最大の十一面観音菩薩坐像である。平安時代後期、洛中を中心に藤原摂関家や天皇、上皇の発願によって巨像が多数造られたが、この像はそれをさかのぼる時期に都から少し離れた甲賀に造られたことが注目される。巨像を造るには人手と資金が必要であり、それを供給する力がこの地に注がれたのである。甲賀は、日本の仏像史上の重要な出来事があった場所である。やや離れるが、奈良時代の天平14年(742)に造営が始まった紫香楽宮(しがらきのみや)が群内にあり、聖武天皇は天平15年(743)に、そこにあった甲賀寺で「大仏建立の詔」を出して大仏の建立を始めたのである。事業は、奈良の東大寺に引き継がれたが、大仏はもともと甲賀でつくり始められたのである。この坐像仏は、秘仏であり、何時も厨子の中に納められている。白洲氏も拝観できていない。この大仏が寺外に出るのは、今回が初めてであり、次回の公開は2018年(平成30年)秋で、33年ぶりの公開だそうである。巨大仏で、台から光背までの高さは531cmであり、日本でも有数の巨大仏である。像高は471cmである。これでも大きい。像の高さを示す、座から髪際までの高さは、239cmである。一般に「丈六仏」(じょうろくぶつ)は4.8m(坐像で2.4M)であり、正にこの秘仏は丈六仏として造られたものである。一木造で、頭部から体幹まで、すべてヒノキの一木で造られている。寺伝ではイチイの木の一木造とされているが、イチイの木と言う言葉は、広く用いられ、実際はヒノキの一木造である。

重要文化財 薬師如来坐像 木造、漆箔 像高 222.0cm 平安時代(12世紀)

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左手に薬壷を持つ薬師如来であり、病気平癒や延命長寿をつかさどる如来である。この仏像は寄木造の技法を用いており、平等院の定朝(じょうちょう)様式に似ている。正面の髪際の高さが約1.9Mであることから、中国・周時代に用いられた周尺で一丈六尺に該当する「丈六仏」である。丈六は、経典に説かれる仏像の理想的な大きさと考えられており、仏像は本来その大きさにつくられるべきであるとされている。光背は像と同時期に造られたものである。本尊とは異なり、ふっくらとした頬に丸みのある顔、なだらかな肉体表現で、まさに定朝様式である。本像は、櫟野寺の奥院とされる詮住寺(せんじゅうじ)の本尊であったと伝えられている。

重要文化財 地蔵菩薩坐像 木造、漆箔 像高 110.8cm 平安時代(12世紀)

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地蔵菩薩は通常青年の僧侶の姿をし、右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが基本形である。しかし、この地蔵尊は、もっと年若い少年のように見える。頭部から体幹まで一材で彫り出している。台座は後補であるが、光背は制作当時の姿を保っている。この像で注目されるのは、内刳り(うちぐり)の施された像内に墨書で銘文が記されていることである。それによると、文治3年(1187)に勧進上人(かんじんしょうにん)の蓮生(れんしょう)という僧侶が「現世安穏後生菩提」(げんせあんのんごしょうぼだい)を祈願し、数千人の人々に協力を請い造像されたと言う。浄財を募り、仏への結縁を望む人々の協力を求める「勧進」による造仏は、中世以降に一般化するが、この像はその早い例である。なお、本像はもと櫟野寺の末寺とされる寛沢寺(かんたくじ)に伝わったとされる。像に金箔が残るが、これは明治期の修理の際に施されたものである。

重要文化財 毘沙門天立像 木造 像高 163.0cm 平安時代(10~11世紀)

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寺伝によれば、延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂(たむろまろ)が、この地にやってきて、櫟野観音のご加護によって鈴鹿の賊を討伐した。その戦勝を祝い、ここに七堂伽藍を建て、自ら像を彫って本尊の傍らに祀ったとされる。「田村毘者門天」とも呼ばれている。胸板が厚くどっしりとしたその姿は、数々の戦いで勝利を挙げた武将にふさわしい堂々たるものである。甲冑を身に付け、左手に宝塔を捧げ持ち、右手に宝棒を構えるのは、日本では四天王のうち北方を守る多聞天(たもんてん)とされる。四天王のなかでも特に人気が高く、単独で信仰されることが多い。その場合は毘沙門天と呼ばれる。護法神としての性格から、日本では武家による信仰が篤い。

重要文化財 地蔵菩薩立像 木造、漆箔・彩色 像高 97.1cm 平安時代(10世紀)

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頭を剃髪し、袈裟を身につけることから地蔵菩薩として信仰されているが、衣の襟(えり)を立てるところが珍しく、注目されている。これは僧襟と呼ばれる着衣であり、地蔵ではなく僧侶の姿に表した神像とみる見解もある。出家修行する神の姿を、僧侶のかたちを借りて表現したものを僧形神像と呼ぶが、本像については確証はないが、可能性はある。一つの木材から全身を彫り出し、内刳りを施さないところは、櫟野寺の仏像に共通する。

重要文化財 観音菩薩立像 木造、彩色 像高 170.3cm 平安時代(10~11世紀)

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等身の大きさの観音立像である。目尻を吊り上げた険しい顔つきに、細身で長身のプロポーションの美しい観音である。一つの木材から左手の肘までと右手の手首までを含む全身を彫り出し、内刳りを施していない。本像で注目すべきは、耳のかたちである。耳の中央を三弁の花形にしているが、これは本尊の頭上面の耳も同じ形であることから、耳についても本尊坐像を参考にしているのであろう。

 

 

本寺の来歴については、最澄と坂上田村麻呂の2名が挙げられている。これについて、白洲正子氏は「かくれ里」の中で、次のようにまとめている。卓見と思うので、紹介したい。「延暦11年3月、田村麻呂は木工頭(こだくのかみ)に任ぜられた。造営にたずさわる官職で、大工を統率したり、用材を集めたりする役目である。当時は長岡京につづいて平安京の建設に忙しく、これは重要な仕事だったに相違ない。材木を求めに甲賀地方へも出張したであろう。延暦11年と言えば、最澄もこの辺にいた筈で、二人が出会わない方が不自然だ。櫟野寺の創建にまつわる数々の伝説は、暗にそういうことを物語っているのではあるまいか。寺は最澄が創立したとしても、田村麻呂が後援したことは確かである。土山の近くには、田村神社もあり、甲賀の周辺にその遺跡が多いのは、当然のことと言えよう。職掌がら、ここには長い間滞在し、村人たちの尊敬と信頼を集めたに違いない。彼が睨みを利かせているだけで、鈴鹿山の山賊共はちじみ上がったことであろう。」

 

(本稿は,図録「平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち 2016年」、古寺巡礼「近江若狭の仏像」、白洲正子「かくれ里」を参照した)

鈴木其一(きいつ)  江戸琳派の旗手(掛軸)

いわゆる琳派の装飾的な絵画は、日本美術の持つ本来の特色をいちばん純粋に、鮮明に発揮したものとして、高い評価を受けている。このような形の美術が出てくるには、その美術を生み出す適切な母胎が必要であった。その母胎となったものは、日本の近世を生み出した根本の勢力と言っても良い京都を中心とする新興の商業ブルジョアジーであった。これらの富商階層は、当時は町衆と呼ばれたが、町衆は応仁、文明の乱以降、急速に富力を増し、実力を失った足利幕府に代わって自治能力をもそなえてきた自由な階層であり、彼らは没落した宮廷貴族を保護することによって、富力という現実の地盤の上にさらに日本の古典文化の教養を移し入れ、独自の町衆文化を作り出したていった。時代の主勢力が桃山から江戸にうつり、徳川政権がしだいに堅固な藩制をしいて封建的支配体制をつようめるようになると、これら上方の町衆は、江戸幕府に対抗するに至った。琳派は江戸時代中頃から、酒井抱一、その弟子の鈴木其一などいわゆる江戸琳派に移行することになった。ここでは、江戸琳派の旗手としての鈴木其一の作品(掛軸)を解説する。

蔬菜群虫図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期   出光美術館

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茄子と胡瓜が実り、添木とされた竹に雀が止まり、蜻蛉や蛾や蜂が群がる。不思議な秋の菜園を描くこの作品は、植物の下方に穴のあいた病巣が描かれるなど、伊藤若冲の作品との関連が指摘されている。人工的なモチーフの形と色彩は、まるで造り物の植物や昆虫が生き物のようにみえるという倒錯した感覚を与える。独特の造形感覚を色濃く示して、同時代絵画のなかで異彩を放つ。

群禽図  鈴木其一筆  二幅  江戸時代後期   個人蔵

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左右幅にそれぞれ13種・13羽、合計26羽の鳥が描かれる。興味深いのは、ほとんどの鳥が、博物学的正確さこそところどころ欠けるものの、ほぼ種が同定できるほどリアルに描かれていることである。左幅はミミズクを中心に猛禽類などを描いている。そのような光景を実際に見て興味をひかれたのか、あるいはそのような鳥の行動を知っていて何らかの意味を込めたのか。ただし、鳥そのものは前に厳密に写生したものとはいいがたく、屋久島以南の南方の鳥も含んでいることから、先行する何等かの写生図譜、粉本のようなものを参考にしたものと考えられる。其一がのびのびと画風を展開していく40歳代後半の作品と見られる。

白椿に楽茶碗図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  個人蔵

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黒楽茶碗に白椿の折枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品83筆を貼り込んだ画帳の一葉である。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを利かせたうるおいある筆で表されている。黒楽茶碗の右脇に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。

紫陽花四季草花図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  細見美術館

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紫陽花、撫子、薄、朝顔、水仙などを一図に描く四季花草図である。中でも江戸琳派が好んで描いた紫陽花はことさら大きく、中央に堂々と描かれ、水色の花弁もさまざまに彩色して色代わりする紫陽花の美しさを表している。

藤花図(とうかづ) 鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期 細見美術館

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青い花房をひたすら連ねた藤図である。本図では其一は真直ぐに下がる三本の花房に、細い蔓でS字を描いて画面に動きを与えている。さらに花弁の一枚一枚を付立による微妙な色使いで繊細に描き、清新で優美な印象をもたらしている。

向日葵(ひまわり)図  鈴木其一筆 一幅  江戸時代後期  畠山記念館

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本作は抱一の作と比べると、其一の独自性がよくあらわれている。太陽に向かって真直ぐに伸びた茎と、その頂に陽光を浴びた黄金色の花が咲く。花は真正面を向いて開花したものを中央に、横向きに咲きかけのものを蕾に合わせ、葉もバランス良く配置する。画面いっぱいに大きく描くこの大胆な画面構成と明快な描写からは、装飾的な印象を受け、近代絵画に通じる要素が窺われる。

雪中竹梅小禽図(ちくばいしょうきん)鈴木其一筆双幅江戸時代後期 細見美術館

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紅梅と竹が雪化粧するなかで、雀が戯れている。花鳥図に小禽が飛ぶ作品を抱一は十二ケ月花鳥図としてしばしば描いたが、其一はそこに雨や風を取り入れる。さらに対幅とした作品で、各々に時候の花鳥を取り込んで、雨風といった気象は共通させながら、季節を対比させるように描く。ここでは雪に注目した季節感を一層先鋭に表現している。

白椿に鶯図  鈴木其一筆  一幅 江戸時代後期  細見美術館

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白椿に留まる鶯は、花の蜜を吸おうと身を乗り出している。椿の葉の濃い緑の陰影による艶々とした質感、黄色い芯も鮮やかな白い花が対照的である。

四季歌意 在原業平(部分) 鈴木其一筆 江戸時代後期  細見美術館

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在原業平、柿本人麻呂、西行、藤原定家の4人がそれぞれ詠んだ和歌の風景の中に描くものである。縦横比例が一対十四にもなる異例の横長画面に収めた機知と工夫に富んだ作品である。本作は、在原業平の歌をモチーフにしたものである。その歌は下記の歌である。(春・在原業平 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし)

 

「蔬菜群虫図」で、伊藤若冲作品との関連を述べたが、果たして19世紀の江戸画壇に伊藤若冲の作品は知られていたのであろうか?詳細は不詳であるが、図録で其一の経歴を調べて見ると、「天保4年(1833)の2月から11月まで、表向きは京都の土佐家へ修行という名目で酒井家に暇を願い出て、京都・奈良・滋賀はもとより国元の姫路、さらには讃岐や厳島、太宰府や九州各所をめぐっての大旅行を行っている。その道中を記した記録(西遊日記)によれば、各地で写生や古画の鑑賞を行い、其一の生涯のなかでも最も心涌きたつ日々であったと思われる」と記されている。京都で古画の鑑賞を行ったということは、「平安人物志」の中で、京都で2番目の人気画家であった伊藤若冲の作品を鑑賞したことは当然考えらる。鈴木其一は、伊藤若冲の作品に学び、「蔬菜群虫図」を描いたというのは、必ずしも空想では無い気がするが如何であろうか。

 

(本稿は、図録「鈴木其一 2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典  2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、図録「與衆愛玩 琳派 2007年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術史入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

鈴木其一(きいつ)江戸琳派の旗手(屏風・襖絵)

琳派という名称が用いられた背景には、この流派が直接的な子弟関係を持たない時代を隔てた私淑の関係によって形づくられているという特殊性という意識が反映してように思う。琳派は、江戸時代初期の本阿弥光悦や俵谷宗達(17世紀前期に活躍した)、江戸時代中期の尾形光琳(1658~1716)、尾形乾山らにより京都で確立された。酒井抱一(1761~1828)は姫路藩主酒井忠以(ただまさ)の弟として江戸に生まれ、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ、さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけでは無く、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくり上げたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人・鈴木其一(1796~1858)は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)抱一没後、その個性を開花させ、独特の作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風も吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚に見られる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。さらに其一は、息子の鈴木守一(しゅいつ)や多くの弟子たちを育成し、現代まで続く琳派の様式の継承を促し、正に江戸琳派の旗手として目覚ましい活躍をした。(サントリー美術館9月10日=10月30日)

群鶴図屏風  鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 ファインバーグ・コレクション

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真鶴の図案化した姿態を横一列に並べる作品は、光琳が生み出したものとしてフリア美術館に所蔵される作品に見られる。師の抱一の作品にはウースター美術館所蔵の作品に見られる。琳派の絵師たちが継承してきた画題である。しかし、これらの図と比べれば、この作品は行儀よく同じ方向に顔を向けて進む鶴ではなく、さまざまな姿であちらこちらに首を向ける姿となっている。水流の形も一部変えて、其一独自の自由な解釈によって描かれた群鶴図と言えよう。

三十六歌仙・檜図屏風  鈴木其一筆 八曲一双 天保6年(1835) 個人蔵

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三十六歌仙とは、平安時代の藤原公任が選出した優れた三十六人の歌人のことで、古来「歌聖」として尊敬を集めたものである。三十六歌仙図は尾形光琳以降、琳派において継承された画題の一つである。其一が光琳の「三十六歌仙屏風」を、ほぼそのまま踏襲しながら、八曲一双屏風という横長のゆったりと歌仙を配している。歌仙らの品格や優美さを際立たせている。これと対になる「檜図屏風」には金地に墨一色で檜が描かれるが、これは「噲々」(かいかい)落款時代に開化した琳派学習の成果を物語る作品と言えよう。なお、本作には付属品として「金地三十六歌仙之図 金地墨絵檜図 鈴木其一元長筆」と蓋表に記されている。私は、「三十六歌仙図」と「檜図屏風」とは、制作の意図も絵の調子も違うことから、この二つの小型屏風がセットで出展されることには違和感があったが、この付属品の其一の箱書きを読んで、個人からの制作依頼が、二つの画題であったことが判り、これがセットで陳列される意味が分かった。

夏秋渓流図屏風  鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 根津美術館

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私が、初めて本作品を見たのは根津美術館で平成25年の5月に恒例の琳派展を拝観した時である。勿論、尾形光琳の国宝「燕子花屏風図」を拝観する目的であったが、併せてこの「夏秋渓流図屏風」を拝観し、驚いた。これだけの作品を描く琳派画家がいたことを改めて認識した。その時の記録では、昭和50年代にこの作品が広く知られるようになり、其一の評価を決定的になったそうである。檜の森と、そこを流れる渓流が主題であり、地面は一続きであるが、右隻は白い山百合の花が咲く夏、左隻は桜の葉が紅葉に染まる秋に、それぞれ設定されている。両隻とも左右両方の奥から渓流が流れ来て、絵のこちら側に流れ落ちるかのように描かれている。光景それ自体にはなんの変哲もないが、鮮やかに群青を平塗りしたうえに粘るような筆使いで金泥を引いた渓流の、軟体動物めいた表現にまずおどろかされた。左隻の中ほどの檜には真横向きに蝉が一匹とまるが、これもまた奇妙な静寂感を画面に与えている。現代感覚に近い色彩を感じた。

萩月図襖  鈴木其一筆 四面  江戸時代後期   東京富士美術館

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この襖絵は2008年の「大琳派展」でお目に掛かっている。画面右から伸びる薄紅色の花房を付けた萩の枝は、ゆるやかな夜風に揺れるようにカーブを描いている。その枝に呼応するように左側の白萩は配置されている。絹地の画面全体に銀泥を刷いて、鈍く柔らかい月光に満たされた空間をつくりだしている。萩の花房と葉を、繊細に色調を変えながら綿密に描き別けて秋の夜の儚さを感じさせる。白い月が、強く印象に残る。

風神雷神図襖  鈴木其一筆  八面  江戸時代後期  東京富士美術館

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この襖絵は2014年6月に、東京富士美術館の「江戸絵画の神髄」で初めて見た。宗達、光琳、抱一という琳派の先達によって受け継がれてきた風神雷神と言う画題を、其一は屏風ではなく襖の大画面に移し替えた。元は二曲一双の屏風から、それぞれ左右に余白を加えた襖八面に画面が拡張されている。絹地の上に、滲みを利かせた黒雲を描くが、風神を載せる雲は下から勢いよく噴き上げる風を感じさせ、対する雷神を取り囲む黒雲は、いかにも稲妻が走りそうな雨をはらんだ雲に見える。其一40代前半の作と推定される。

水辺家鴨図(あひるず)屏風 鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 細見美術館

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丸みのある愛嬌のあるしぐさの家鴨を描く。其一は琳派の絵師が描き繼いだ鶴図を「群鶴図屏風」のように独自の解釈で変奏したが、さらにここでは鶴を家鴨に転生させている。画面左端に群青の水流を描くことが残った金箔地が不思議な形の地面(州浜)となった。その地面はあたかも左へ向かう矢印のような形となって、その方向へ家鴨が進んでいき、左にいる二羽が後姿でその動きを受け止めている。家鴨の群れはそれぞれ勝手きままな仕種をとっており、餌をついばむような姿のものもいる。ユーモラスな作品であるが其一の形態感覚がいかんなく発揮されている作品である。

芒野(すすきの)図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 千葉市美術館

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二曲一双の画面に芒の生い茂る野原が広がる。芒の穂先が形作る線は単調でありながら、しなやかで心地よいリズムを奏でる。中央にたなびく霞は、銀白地の上に銀泥と墨を使い分けることによって表現されており、月光と霞によって幽暗な光がたちこめる芒野の静けさを醸し出している。其一の理知的なデザイン感覚を雄弁に物語る、印象的な屏風である。因みに、千葉市美術館は江戸絵画(含む浮世絵)の名品を多数保有する美術館である。

朝顔図屏風  鈴木其一筆  六曲一双 江戸時代後期 メトロポリタン美術館

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夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風である。うねるような朝顔の緑色の蔓や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのよう描かれた青い朝顔の花を眺めると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。金地を背景に、群青による朝顔の花と群青による羽を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。この其一が選んだ朝顔という植物には文学的背景は稀薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明かにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無碍に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには植物の持つ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式をたえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。

富士千鳥筑波白鷺図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 個人蔵

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富士に千鳥を金箔地に、筑波に白鷺を銀白地のそれぞれ二曲屏風に描き、一双とする作品である。富士と筑波は江戸の東西に臨む山として人々の信仰を集めた。光琳にも富士山を描く作例があるが、江戸琳派でさらに筑波と組み合わせた図様も多い。この屏風は、晩年の規一が多様な試みを行ったことを示す意欲作である。雪を頂く富士には緑豊かな松を配し、千鳥の群れが羽を連ねて旋回するさまを描く。其一は堂々たる富士に、小さな千鳥を数多く描き、画面に躍動感を与えた。千鳥は同じように見えるが、一羽一羽表情も足先も微妙に違え、類型化を回避している。筑波の山は、銀地に青々とした山の姿を描き、麓には水墨で立木を配す。三羽の白鷺は風に身を任せるかのように同様のポーズで描かれ、画面は静寂である。其一は金と銀、濃彩と水墨、大小の鳥とを巧みに対比させた。二曲屏風ながら堂々たる「江戸」の琳派を象徴する制作である。

 

私は琳派の作品は、屏風、襖絵等の大作が特に好きである。光琳、抱一、其一もそれぞれ屏風、襖絵の大作を残している。本来なら、其一の年齢順に並べるべきであろうが、今回は敢えて屏風・襖絵をまず取り上げ、その解説を試みた。次回は、掛軸など一枚物を取り上げたい。琳派については、いろんなところで意見を述べているので、今回は鈴木其一について述べてみたい。其一は抱一の弟子として修行を積んだが、師の築いた江戸琳派の画風を守るにとどまらず、さまざまな画風・画題に挑んでいる。同時代の江戸の画壇には、同世代の広重や歌川邦芳がおり、少し年上に歌川豊国もいた。抱一と同世代ながら長壽であった葛飾北斎(1706~1849)、谷文晁(1763~1840)の存在も大きかった。そうした江戸画壇の中で、其一はどのような位置にいたのであろうか。其一の画風の特徴として、第一に挙げられるのは光琳画からの引用と応用である。例えば「夏秋渓流図屏風」は、金箔の背景に群青、群緑、墨などさまざまな形を成して迫って来る迫力に富む作品である。この力強い画風を支えているのが檜の樹林である。其一はまず「三十六歌仙・檜図屏風」において、金箔地に水墨でこれを試した。その試みが爆発的に展開したのが「夏秋渓流図屏風」である。琳派で描き継がれてきた画題を選択しながら、その枠組みには全くとらわれず、むしろ北斎や円山派など同時代の傾向も取り入れて、新たな其一画風を構築している。第二は、抱一様式への共感と洗練である、「風神雷神図」も琳派の象徴ともいえる「風神・雷神」を主題としながら、其一は正に、雨雲に乗り、風雲を操る二神を描いている。絹の地にたっぷりと水墨を滲ませ湿潤な大気の中を駆け巡る姿は、宗達、光琳、抱一と描かれたどの風神雷神よりも軽やかに空を駆けている。其一は敢えて抱一の風神雷神図を模すことなく、むしろ二神の拠りどころである風や雨の表出に心を砕いた。自然の風趣に関心を抱き、それを実像より瀟洒に描くのは、江戸琳派様式を確立した師・抱一の開いた道である。其一はそれをさらに洗練させ、淡雅な画風を其一流に創り込んだのである。

 

 

(本稿は、図録「鈴木其一  2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典 2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

銀 閣 寺   東 山 文 化 の 地

日本歴史の中で一番国民に残虐な生活を強いた時代は何時だろうか?私は、やはり先の大戦の本土空襲による焦土化、原子爆弾被爆、沖縄戦争下の日本人の死亡、更に戦後昭和23年頃までの飢餓状態を上げざるを得ないと思う。これと同等、もしくはそれ以上に苛烈な体験を強いたのは、応仁の乱と、その前後の室町時代ではなかと思う。応仁の乱は応仁元年(1467)、将軍後継者を巡って、細川勝元と山名持豊が争い、京の都を焦土と化した戦いであり、戦いが終わったのは文明9年(1477)で、実に11年に亘って京の都を焦土と化した戦いである。この時の足利将軍は八代将軍・足利義正(1436~1490)であり、もともとの原因は足利家の内紛であった。寛政6年(1465)、義政夫人の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生んだ。その1年前に、夫婦はもう男の子は生まれないとして弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を無理に還俗させて義視(よしみ)と名乗らせ、養子とした。義尚(よしひさ)を将軍にしたいと願う富子と義視(よしみ)の間には、たちまち対立が生まれ、それが細川勝元と山名持豊の対立となって、応仁の乱となった。応仁の乱は、京都のみではなく、都市、農村に飢餓、悪政、党争を興し、大乱となった。将軍義政は、妻富子の間に感情のもつれが大きくなり、文明5年(1473)12月に、義政は無責任に第八代将軍を辞し、まだやっと9歳になった義尚(よしひさ)を元服させ、第九代将軍に就かせた。義政は、東山に銀閣寺(滋照寺)を造ることに専念したかったのである。

銀閣寺垣

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総門を入ると、銀閣寺垣と二重の大刈込みにはさまれた直線の導入部となる。突き当たって左に曲がる。この道は飾り気がなく、しかも計算された清らかなデザインであり、重厚であると思う。

銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)      江戸時代後期

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銀閣寺(滋照寺)の最大の特徴は、庭園にある。まず唐門を入ると目に付くのは銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)である。多分、日本の庭園を巡っても、この白砂の積み上げられた銀沙灘にお目に掛かることは無いだろう。一段と高く砂を積み上げた壇が向月台である。銀沙灘の高さは約65cm、向月台は約180cmの高さである。これが室町時代の庭園かと思ったが、実はこの白砂の庭園は江戸時代後期の作庭であり、義政好みではない。荒廃に向かっていた銀閣寺の旧観を取り戻す計画が着手されたのは元和元年(1615)6月だった。宮城丹波守豊森(みやぎたんばのかみとよもり)を奉行として大々的な修理作業が行われた。その白砂は、庭の池から組み出した白砂であったそうである。月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しいそうである。

国宝 銀閣と錦鏡池(きんきょうち)                  室町時代(15世紀)

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庭の中心が錦鏡池であり、池を正面にして銀閣が東向きに建ち、四季折々に閑静な風情を見せてくれる。「陰涼軒目録」(おんりょうけんもくろく)によれば長享3年(1489)の上棟になることがわかり、明治33年(1900)に国宝に指定されている。銀閣(観音殿)は、宝形造(ほうぎょうつくり)、杮葺(こけらぶき)。二重の殿閣(でんかく)である。一層を心空殿(しんくうでん)、二層を潮音殿(ちょうおんでん)と名付けられている。心空殿は書院造の住宅風で、軽快な構造である。潮音殿は、禅宗の仏殿風で、東に三つ、南の戸口両脇に火灯(花頭)窓を配する。四周には縁がめぐり、先端に和風の高覧を置く。内部は板敷で、中央に須弥壇を置き、木造観世音菩薩を安置しているそうである。(内部は公開していない)銀閣には、義政によって創建時に銀箔で荘厳されていたと伝わっているが、近年の研究の結果では、銀は全く検出されていないそうである。健築に当たって義政は、北山鹿苑寺(金閣)にしばしば出かけ、金閣にのぼったとされる。義政が新たな山荘を建てる殿閣ー銀閣の下見であったとする説が多い。庭の中心部を占める錦鏡池(きんきょうち)には、天下の名石が集められている。赤松正則は、庭園のために名石、名木を献上している。銀閣や錦鏡池を造営するための費用は諸国に段銭(たんせん)をかけてまかなった。朝倉氏影、土岐成頼、山名政豊、吉川経基等が段銭を徴収して協力している。

国宝  東求堂(とうぐどう)        文明18年(1486)

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境内の最も東に建つているのが、足利義政の持仏堂(じぶつどう)東求堂(とうぐどう)である。三間半四方の正方形面で、入母屋造、桧肌葺(ひはだぶき)である。文明18年(1486)の建立で、名前の由来は義政の側近の禅僧横川景三(おうせんけいさん)に諮問して、仏典「六祖壇経」(ろくそだんきょう)の一節「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」にちなんで名付けられた。正面に義政の筆になる「東求堂」の扁額が懸けられている。(現在架っているのは明和4年(1767)の複製)

同仁斎(どうじんさい)             室町時代(15世紀)

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東求堂(とうぐどう)の内部の東北にあるのが書斎同仁斎(どうじんさい)である。同仁斎は四畳半で北に一間の付書院(つけしょいん)と半間の違い棚(ちがいだな)を縁に張り出して設ける。書院の名は義政が横川景三に諮問し、中唐を代表する文人韓愈(かんゆ)の「原人」の一節「聖人は一視して同仁」から取ったそうである。弥陀の前では分け隔てなく皆平等であるとの意があるとされる。相阿弥(そうあみ)の「御飾記(おかざりき)」によれば、付書院の上に筆・硯などの文具や書物、違い棚に茶道具類が置かれていたそうである。この同仁斎は、四畳半の書院座敷として現在最古の遺構である。この時期、応仁、文明の乱(1467~77)前後から戦国時代初期にかけて四畳半志向とも言うべきたしかな動きがあった。四畳半は、今日の私達日本人にとっても身近な生活空間であり、その端緒はこの時期にあったと思われる。この同仁斎こそ、床の間、違い棚に示される日本の書院造りの走りであり、現在の日本間の起源と言えよう。この話をある人にしたら、今のマンションでは、床の間も違い棚も無いと言われ、この同仁斎は、現代ではなく、近代日本の書院造りの起源であると言い直さなければならないかも知れない。

銀閣寺型手水鉢(ちょうずはち)            室町時代(15世紀)

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方丈から東求堂へ渡る間に「銀閣寺型」と称される手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。各面正方形で上面の水溜を円形とする。僧侶の袈裟の文様を連想させることから袈裟型手水鉢とも言う。後に千利休が写(うつし)を造ったと伝えられているので、創建当初のものと思われている。

唐物小丸壺茶入 足利義政所持 付属 青貝盆     南宋時代

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足利義政遺愛のいわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)の茶入である。中国伝来の書画や道具類は唐物と称されて武将らの好尚の対称となった。この中国伝来の茶入は全体に茶地色で正面に乳白の釉がひっそりとかかり、いかにも愛らしい風情は好感が持てる。青貝螺鈿(らでん)の黒漆角盆も同じく唐物で、茶入とよく合っている。

 

足利将軍が所蔵していた美術工芸品、いわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)は、室町時代に鑑賞された造形美の頂点を示している。「東山」とは、室町時代の八代将軍義政が月待山を背景とした東山の佳境を愛して、文明14年(1482)から東山殿(ひがしやまどの)(山荘)の造営に着工し、応仁の乱を経て、文明18年(1486)に東求堂が完成し、長享3年(1489)に観音堂(銀閣)の上棟が行われた。義政はその年の10月に持病が悪化し、55歳の生涯を閉じた。死の直前、義政は山荘を禅寺とするよう遺命し、翌3年(1490)3月東山殿滋照寺と改められた。相国寺の塔頭の一つとされた。ところで、足利義政は「東山御物」と呼ばれる絵画や工芸品など中国伝来の文物、いわゆる「唐物」(からもの)を収集したことでも知られる。今では、その多くは諸方に散逸している。それが根津美術館、三井記念美術館、畠山記念館、徳川美術館、五島美術館などに収集されている。2014年10~11月に、三井記念美術館で「東山御物の美」として100点余が展示され、多くの観客を集めた。この滋照寺(銀閣、東求堂、錦鏡池など)の建設や、庭園作庭、果ては東山御物の収集には、義政が特に重用した、善阿弥の存在が大きい。当時、工事に携わった身分の低い人達であってもすぐれた技能を持った技術者が現れ、義政は、こうした人々を同朋衆(どうぼうしゅう)として用いた。善阿弥、能阿弥などが知られている。いずれも時宗の信者であるのも不思議である。(勿論、反対意見もある)今日、東山文化として、日本の美意識や、今日の生活様式にまで大きな影響を残している。滋照寺は、銀閣寺という観光地のみではなく、日本文化の大きな発信地としても理解する必要がある。司馬遼太郎が「この国のかたち」第1巻で次のように述べている。東山文化の本質をついた言葉として紹介したい。「かりに北条早雲を野暮の代表とすれば、かれと同時代の将軍である足利義政はまことにいきなものであった。義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、いっさい手を打とうとしなかった。この人物は、そういうわが身の無為無策にあせりなげきもしていない。どういう神経なのか、東山の山荘(銀閣寺)に超然として風流三昧のくらしをつづけたのである。かれはおそらく美的なものを鑑賞する能力においては室町時代きっての人物であったろう。文化史上の区分けである”東山文化”は、むろんこの人物の存在と感覚を外しては成り立たない。」

 

(本稿は、新版 古寺巡礼「京都 第11巻 銀閣寺」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、探訪日本の庭「京都Ⅰ」、図録「東山御物の美ー足利将軍の至宝 2014年」、司馬遼太郎「この国のかたち第1巻」を参照した)

相国寺  伊藤若冲の生前墓

京都の真中を縦貫する大通り、京都駅の真ん前の烏丸通りを北上するとほぼ京都の中心あたりに京都御所がある。その御所の北約300メートルほどのところに位置するのが相国寺(しょうこくじ)である。正式には「萬年山相国承天禅寺」といい、京都の有名寺院のほとんどが観光寺院として賑わっているのに対し、相国寺は独り、広い境内に人影はなく、静寂な寺院であり、京都では数少ない貴重な存在である。相国寺は、足利三代将軍義満(よしみつ)によって建立された禅宗寺院であり、永禄2年(1382)から10年の歳月をかけて建立された。明徳3年(1392)に完成し、京都五山の第二位となり、勧請開山夢想礎石、第二世である事実上の開山春屋妙葩(しゅんおくみょうは)禅師とし、京都の叢林の中枢として隆盛を極めた禅寺である。創建時の総面積は140万坪と伝わるが、天明の大火や明治維新後の廃絶した寺院跡が同志社大学等になり、現在の面積は4万5千坪と言われる。末寺として鹿苑寺(金閣寺)、滋照院(銀閣寺)、真如堂など全国百ケ寺を擁し、臨済宗相国寺派の大本山である。しかし、戦火により幾度も焼失し、今日に至っている。相国寺の中心寺院である法堂(はっとう)も4度焼失し、桃山時代に豊臣秀頼の寄進により完成し、今は仏殿の役目も果たしている。京都五山制度の確立とともに、僧録司(そうろくし)が設けられた。春屋が初代僧録司に任命された。僧録は、臨済宗五山派寺院を支配統括する機関であるばかりでなく、平安時代の遣唐使派遣途絶以来、途絶えていた中国との国交が義満によって回復されりとともに外交業務、外交文書の作成を行い、まさしく外務官僚の役割を果たし、春屋以来230年余りにわたって、相国寺がこの僧録司を独占してきたのである。また明徳4年(1392)には、画期的な七重塔の着工がはじまり、百九メートルという天下の大塔、七重塔の建立である。しかし、京の街の中心地に位置する相国寺は、大小17回の火災に遭い、再建に次ぐ再建の歴史であった。

重要文化財  法堂 単層切妻      慶長10年(1605)桃山時代

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法堂(はっとう)は桃山時代に再建された禅宗様建築では、最大最優作と呼べる堂である。豊臣秀頼の寄進で、慶長10年(1605)建立の建物である。現在は仏殿がないため仏殿も兼ね「本堂」と言っている。中心部の桁行五間、梁間四間で、これに一間通りの裳階(もこし)がめぐっているので、外観は正面七間、側面六間を数える。相国寺法堂は仏殿や法堂など禅宗様仏殿のうち、現在最大のものである。無為堂(むいどう)とも称し、本来畏れることなく法を説く行動的役割を果たしている。

法堂内部 蟠龍図(約9M経)  狩野光信作    桃山時代

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法堂の内部は、禅宗寺院ならではの荘厳な佇まいである。鏡天井一面には巨大な蟠龍図が描かれている。龍は仏法を守る守護神であり水を司る神でもある。火事から護るという意味から、禅宗の法堂の天井には龍がよく描かれている。慶長10年(1605)相国寺の法堂が再建なった際に、狩野光信によって描かれた。光信は狩野永徳の長男として生まれ、父とともに信長、秀吉に仕えた。光信はこれを描き上げた3年後に没しており、本図は光信にとって最後の大きな仕事となった。天井は中央が少し盛り上がった「むくり天井」になっている。そのため、蟠龍図の下で手を叩くと反響して音がかえってくる。このことから「鳴き龍」とも呼ばれる。

方丈   単層入母屋造り             文化4年(1807)再建

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禅宗建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北に真直ぐに並んで建てられるのが特徴である。相国寺も同様に法堂の北に法丈がある。現在の建物は文化4年(1807)に開山堂、庫裏とともに再建された。中国宋代の名筆家・帳即子(ちょうそくし)の扁額が掲げられている。構造は単層入母屋造りの桟瓦葺である。

開山堂  単層入母屋造り       文化4年(1807)再建

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開山夢想国師像を安置するため、開山塔(開山堂)と呼ばれる。法堂の東に位置し境内で最も大切な場所である。開山塔の庭は白砂が敷き詰めた真の庭に石を、奥に奇石を配して樹木が植えられている。創建当時、上加茂から水を引き、丁度この庭の中を通して御所に流して御用水としていたため、裏庭の無い変則的な造りになったと言う。

庫裏(くり)「香積院」 切妻入        文化4年(1807)再建

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大きな禅宗の本山でも塔頭(たつちゅう)でも、現在では方丈に続いて庫裏があるのが一般であり、これは事務所であり、台所でもある。大きい本山ではごく大規模の庫裏があり、当山もそうした一つである。禅宗寺院の庫裏は大小にかかわらず型が決まっていて、切妻妻入(屋根の三角形の見える方が正面で出入口のあるもの)で、大きい破風や壁面が印象的である。入口を入れば広い土間で、大きな竈(かまど)などもあり、見上げる天井は高く、複座に組まれた巨材が縦横に通っていて遥か上に煙り出しを仰ぐ。香積院(こうしゃくいん)とも呼ぶ。

鐘楼(しぉゆろう)「洪音楼」         寛永6年(1629)再建

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開山堂の南、法堂の東南に大きい鐘楼がある。この鐘楼は「洪音楼」(こうおんろう)と号し、裳階付のものでは大型のもので、裳階の下に花崗岩の壇を持ち、内部は階段により鐘を吊った上の重(かみのじゅう)へ上るようになった型通りのものである。寛永6年は法堂のできた慶長10年から24年後であるから、その後の災害をすべて免れてきたものである。

経蔵                      創建 万延元年(1860)

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経蔵は安政6年(1859)第百二十世和尚の寄進により、万延元年(1860)に創建されたもので、高麗版一切経(一部宋版を含む)650巻余が納められている。幕末争乱の時期に、よくぞ経典を入手し、経蔵を創ったものだと感心する。日本の文化の逞しさを痛感した。

承天閣美術館 鉄筋コンクリート造平屋建て(一部二階)昭和59年(1984)

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収蔵庫、展示室、講堂の3棟からなる。同寺に伝わる国宝、重要文化財に指定される相国寺の数千点の文書、墨跡、茶器、絵画の名品などの什器を展示し、調査研究することを目的としている。応永3年(1398)建造の金閣寺の古材でしつらえた茶室夢中庵は見逃がせない。すべて同寺に伝わる文化財を展示している。伊藤若冲「釈迦如来三尊像」、長谷川等伯「竹林猿猴図」なども含まれる。

斗米庵若冲居士の墓(左)と大典の碑文(右3面)    明和3年(1766)

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相国寺の墓地に残る若冲のお墓は、生前の明和3年(1766)51歳の時に造ったお墓であり、寿蔵(生前墓)である。この寿蔵の側面(2面)と背面(1面)に大典禅師の碑文が刻み込まれている。これは51歳の若冲が、妻子も無く、跡を継がせようとした末弟にも先立たれたいう事情から、生前に自分の墓を建てておくことを思い立ち、親交のあった大典禅師に碑文を依頼したものである。若冲の人生、人柄や制作態度などについて貴重な証言がそこに残されている。よほど良い石材が使ってあるのだろうか、この刻文は、250年後の今でも読み取れる。大典の碑文については、石碑の3面に刻文を写真として写した。全文は大典の詩文集「小雲棲稿」に乗せられている。また、「若冲展」の図録に全文、読み下し文、訳文が掲載されている。

釈迦如来三尊像  伊藤若冲作        明和2年(1765)

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釈迦如来三尊像3幅と「動稙綵絵」24幅を、明和3年に相国寺に寄進した。「動稙綵絵」は明和7年(1770)に全30幅が寄進された。明治22年に「動稙綵絵」は、金1万円の下賜金の謝礼として皇室に献納され、今日に至っている。相国寺に残る三尊像は、いずれも正面を向いているのが特徴である。驚くべき綿密さで、精魂を傾けた力作である。明和2年(1765)の寄進状(相国寺蔵)によると「かって張思恭画の参尊像参幅を観てその巧妙無比なのに感動して、その心要を募倣(ぼほう)し、ついに三尊三幅を完成したのだ」と述べている。張思恭は中国の著名な仏画師であり、ラマ教的なところを取り入れた異色のものであるが、若冲はむしろそれを完全に超越した独自のものを作り上げたのである。毎年6月17日に相国寺で行われた法要、観音繊法(せんぽう)(観音に懺悔する法要)では、「釈迦如来三尊像」3幅を正面中央に掲げ、その東西左右に15幅ずつ対になるように掛け並べられた。三十三幅という観音繊法に使用するための掛幅画の総数は、観音菩薩が「三十三応身」して衆生を救うという教えが意識されたのかも知れない。先の「若冲展」の展示の仕方は、この観音繊法に倣ったものであったのである。

重要文化財竹林猿猴図屏風(右隻)長谷川等伯作 紙本墨色六曲一双 桃山時代

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等伯は、能登から京都に進出後、中国・南宋時代の著名な牧谿(もっけい)筆「観音・猿鶴図」三幅対(大徳寺)と出会う。薄明にただよう微妙な光、湿潤な大気の表現という、牧谿画の持つ優れた稀有の表現を直接学習する機会を得たのであった。その成果として生まれたのが一連の猿猴図、竹鶴図などである。本作は、左隻に竹林、右隻に猿猴を描いた屏風であるが、「観音・猿鶴図」学習が端的に表れている。優品である。

 

人気(ひとけ)のまるでない相国寺を訪れたのは正直言って、伊籐若冲が「動稙綵絵」30巻、「釈迦如来三尊像」3巻を納め、平安人物史にゆるぎない地位を確保した場所を確認するというのが目的であった。しかし、壮大な敷地と伽藍を有し、金閣寺、銀閣寺を塔頭として持つ、足利時代を代表する足利義満公が開祖となった相国寺は、予想以上に大きな力を政治に発揮した寺院であった。僧録司という、僧侶の人事権や、対明貿易(朝貢貿易)の外務官僚のような仕事をして、義満の頭脳の部分を果たしていたことが明らかになってきた。しかし、目的の若冲の生前墓(寿蔵)と、大典の碑文を拝読できたことは、「若冲の旅」を志した私に取っては、大きな収穫であった。承天閣美術館で、相国寺の宝物を拝観する機会には恵まれなかったが、せめて2点の美術品(若冲展と長谷川等伯展で観た物)を参考として紹介することができた。尚、同寺には若き日の雪舟や作家水上勉の話があるが、今回は見送ったので、ご了承頂きたい。

 

(本稿は、新版古寺巡礼 京都8「相国寺」、古寺巡礼「相国寺」、図録「長谷川等伯展  2010年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、図録「若冲展 2016年」を参照した)

大徳寺の塔頭      聚光院

大徳寺の塔頭に聚光院(じゅこういん)というお寺がある。永年、非公開のお寺であったが、今年の3月から約1年間の予定で、一般公開されることになった。これは聚光院創建450年を記念した特別公開である。聚光院は永禄9年(1566)、戦国武将三好義継(みよしよしつぐ)が、義父長慶(ながとし)の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)である。簡単に言えば、大徳寺(本坊)に付属した寺院のことである。付属と言うと、何やら小さい感じがするが、この隣が総見院と言って、織田信長の塔頭である。大徳寺の塔頭は格が高いのである。開祖は大徳寺第百七世住職笑嶺宗斳(しょうれいそうきん)である。聚光院の名は三好長慶の戒名によるものである。笑嶺和尚が千利休の参禅の師であったことから、利休は聚光院を自らの菩提所とした。千利休は多額の浄財を喜捨し、またここを一族の菩提寺とした。現在、利休が書いた寄進状が残っている。また、利休の流れを汲む茶道三家(表千家、裏千家、武者小路千家)歴代の墓所ともなっている。方丈(本堂)は、創建時(1566年、戦国時代)の姿が残る建物であるが、そこには狩野松栄(1519~92)、狩野永徳(1543~90)による障壁画四十六面が納められ、その全てが国宝指定されている。この国宝障壁画は、長年に亘って私が是非拝見したい絵画であったため、今年6月の梅雨時にも関わらず、拝観した次第である。

国宝 花鳥図(全図)方丈室中 狩野永徳筆 室町時代、永禄9年頃(1566)

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室町時代の最末期ではあるが、この聚光院の障壁画は、むしろ桃山時代の到来を端的に示す作品である。狩野元信によってうちだされた大画面構成の障壁画様式が、ここにゆるぎない確実な姿で提示されることになった。しかも、その原動力は、主として図に見るような、若年期の永徳の手腕によるところが大きい。この襖絵制作では、父松栄は仏事などが行われるもっとも重要な中央の部屋(室中)の揮毫を弱冠24歳の長男永徳に譲り、みずからは衣鉢の間や礼の間を担当して脇役にまわっている。息子の実力と名声が父に勝ることを承知の上での対処であったのだろう。部屋の東、北、西の3面を囲むコの字形に配置された襖絵は、梅の老木が広げた枝の下を早春の雪解け水が生きよいよく流れる東の4面に始まり、松の枝越しには遠く雪を戴いた峰、枝の下には優美に羽を休める鶴、そして鳴き交わす落鴈(らくがん)と季節の移ろいが水流とともに、ぐるりと部屋をひと巡りしている。正に「桃山の光景」である。

国宝花鳥図(右側面4図)方丈室中狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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そして永徳は父の期待にみごとに応えて、新しい時代の到来を告げるような、ダイナミックで生命感あふれる花鳥図を描いたのであった。実際、この四季花鳥図襖絵には、巨大性、開放性、躍動感、覇気といった、のちに桃山の「大画」として結実する永徳芸術の特質がすべて、初々しいかたちで姿をみせている。まさに”出発点は聚光院にありき”なのである。室中の三方襖16面にわたって繰り広げられる一大パノラマは、東側「梅に水禽」に始まるが、もっとも見応えあるのが、この梅である。激しく身をよじりながら伸展していく梅の巨木は、自己の内面に抑えきれないほどの表現意欲を潜めた永徳その人の姿である。鋭く跳ねだした枝先や咲き誇る梅の小花に春のめぐりの歓びがあふれ、金泥の霞が画面に明るい光を与えている。昭和54年(1979)にパリのルーブル美術館から「モナリザ」が来日したが、その返礼としてフランスで展示されたのが、この聚光院の本堂の障壁画であった。正に日本美術の粋として選ばれたのである。

国宝 琴棋書画図 壇那(だんな)の間 狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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琴棋書画図(きんきしよがず)は画題的には人物図の範疇に入るが、画面の構成はむしろ山水的要素が濃厚である。左方では琴にあたる場景、右方には図のごとく水亭における囲碁人物と背後の衝立画によって棋と画がしめされ、読書する人物も描かれている。山水花鳥とは区別される真体(しんたい)をもって描かれているのと、濃い墨調に濃淡を加えた結果、背景の余白に金泥引きを行っている。的確ではあるが、やや硬さが見られる。士君子たちが琴・棋・書・画に興ずる姿を描いている。水墨のみの「四季花鳥図襖絵」と違い、こちらでは花木や人物の着衣に、朱や緑青、代赭(たいしゃ)などの色彩が加えられている。このように部屋ごとに筆法や画題、手法をかえるのは、室町時代の障壁画制作の約束ごとであり、絵師がどのような画題や画体でも臨機応変に描きこさなければならなかった。室中でさっそうとした自由な筆さばきを見せた永徳が、この「琴棋書画襖絵」では硬質の息の短い線を使うのも、真体画の制約ゆえである。それにしてもなんと力のこもった筆線と運筆であろうか、紙が破れんばかりである。

国宝 遊猿図 方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代永禄9年頃(1566)

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父の松栄作の遊猿図である。筆致はおだやかで、この種の画題にありがちな威圧的印象はあたえない。ことに遊猿図は、水辺の岩上や樹幹にたわむれる親子連れの一群をとらえ、温かみのあるなごやかな雰囲気をあらわしている。筆写である松栄の人間的な円熟を物語るものかも知れない。

国宝 虎図  方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代 永禄9年頃(1566)

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竹林と虎図である。典型的な様式であるが、この時代にしては、良く虎の威風を表している。傑作と言えよう。松栄の描く広々とした奥行きのあっ作風は、狩野元伸が確立した大画面構成を継承したものと言われ、部屋を落ち着いた雰囲気にしている。永徳の若画きと言える山水花鳥図などとは対照的である。

花頭窓より庭園を望む

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花頭窓の付いた唐門から、庭園を望むと聚光院方丈の前庭が見える。花頭窓に区切られた不思議な庭園に見える。

聚光院の庭園              室町時代 永禄9年頃(1566)

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作庭は、この方丈の造られたのと同時期と判断するのが妥当だろう。この方丈前庭には別名「百積庭」(ひゃくせきのにわ)とも呼ばれる。広さは約53坪であり、南部の生垣に沿って直線状に石が並んでいる。中央の石橋をはさんで両側に集団石組があったと考えられているが、いずれもかなり荒廃している。向かって右手前の石組がやや完全な形で元の姿を残している。しかし、この庭は、いまの形でも他の庭に見られない厳しさと優しさを備えている。解説者は、この庭園の、本堂室中の襖絵「花鳥図」と相対する関係にあると説明された。私が、この庭の持つ厳しさと優しさを指摘したが、方丈の狩野永徳、松栄の親子の障壁画が影響しているのかも知れない。また、庭園西側には千利休が沙羅の木を植えたと伝わる。現在の木は3代目とのことであった。平家物語の巻一の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(せいじゃひっすい)のことわりをあらわす。」とある。正に、沙羅の樹が、この沙羅双樹である。

沙羅の花

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沙羅の花は白色で、6月の朝に開花し、午後になると落花する。沙羅の木の植わる庭は、京都では少ない。薄明の意味があるのだろうか?ハラハラと落ちる沙羅の花は美しく、儚い人生を意味するのであろう。枯山水の庭にには不向きと思うが、千利休の手植えと伝えられている。

重要文化財 茶室 閑陰席(かんいんせき)外観と路地  江戸時代(1741)

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千利休は、秀吉の不興をかい、天正19年(1591)に切腹させられた。没後150年を記念して、この閑陰席と枡床席が建設された。聚光院と茶道三家との関わり合いを最も如実に伝えるものが、閑陰席、枡床席の二つの茶室である。

重要文化財  茶室  閑陰席(内部)     江戸時代(1741)

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茶室・閑陰席は千利休百五十回忌の際に、表千家七代如心斎の寄進によって建てられたもので、ここで朝茶を開いたことが記録に残っている。利休の精神を汲み、明かりが極度に制限され、簡素で緊張感のある設えがほどこされている。水処を挟んで、枡床席が設けられたのは、その約70年後と伝えられる。閑陰席の三畳に対して四畳半で作られており、その半畳は踏込み式の床の間となっている。この正方形の床の間を「枡床」と呼ぶが、これは表千家六代覚々斎が考案したと伝わっている。天井も閑陰席よりやや高く、貴人口を設けるなど、明るくのびやかな設えがされている。

千利休(左)と三好長慶の墓

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前庭の生垣の外に(総見院の鐘楼横)、千利休と三好長慶の墓が並んで立っている。このお寺の持つ歴史や文化を物語るものである。

書院と千住博画伯の襖絵               平成25年

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平成25年(2013年)秋に建て替えを行った書院は、千住博画伯による障壁画が奉納された。納められた「瀧」、「春夏崖図」、「秋冬崖図」のうち、今公開では「瀧」が初の一般公開となった。構想から完成まで16年間を費やした大作で、鮮やかな群青から真っ白な瀧が浮かび上がる姿は壮観である。千住博はお寺から大書院の襖絵を10年以上前から以来されていた。千住は語る。「南米アマゾンに何ケ月も滞在して素描を重ね、多様なモチーフで描くも、得心がいかず幾度も破棄し、4度目でついに辿りついた。戦国時代に永徳は、花と鳥で儚い時の流れを描いた。現代を生きる僕は宇宙的な時の流れ、地球という奇跡の宝石で描こう」と。地球の奇跡。それは水と重力。これを端的に表すのが瀧だ。「瀧が表すのは時間。猛スピードで流れ去り、二度と戻らない。これまで数々の瀧を描いてきたけれど、時の流れを象徴するモチーフとして再発見できた」と振り返る。宇宙の宝石とは、吸い込まれるような群青の岩絵具のこと。「岩絵具は46億年前に原始惑星が衝突して地球が誕生したときのかけらそのもの。あの青は星の色」。

狩野松栄、狩野永徳の襖絵は、全42枚が全て国宝に指定され、通常は京都国立博物館に寄託されている。しかし、創建450年記念として、今年の3月から約1年間公開されることとなった。襖絵をすべて国宝に切り替えて、松栄、永徳の襖絵が公開されたのである。この聚光院は、千利休の墓所でもあり、茶を嗜む人にとっては、大切なお寺である。室町時代末期から桃山時代にかけて、政治と同様文化にも大きな変動が起こった時代であった。地方に多くの英雄が出現すると共に、華やかな地方文化が花開いたのである。伝統を尊重する京の文化も、やはりその影響を受けつつあった。この頃から大徳寺にも戦国武将の創立する塔頭小院が増え、それに茶趣味というものが加わってくる。(私は、この時代を「日本のルネサンス」と呼んでいる。)聚光院は、戦国武将として名高い三好長慶の養子義継が、父の菩提を弔うために創立したもので、永禄9年(1566)大徳寺第百七世笑嶺宗訴(しぉゆれいそうきん)禅師が開祖である。この笑訴は千利休の参禅の師でもあって、そのようなところから、この寺は利休との関係深く、墓地には立派な利休墓の宝塔があることは良く知られている。狩野永徳(1543~1590)は桃山時代を代表する画家である。例えば、雪舟の水墨画が室町文化を代表する画家であるとすると、正に狩野永徳は、桃山時代を代表する画家であり、唐獅子図(宮内庁、それまでは毛利家所蔵)、檜図屏風(東京国立博物館)等が代表作であろう。狩野永徳は、時の権力と結びつき、信長の安土城、秀吉の大阪城等の障壁画を沢山描いたが、いずれも戦火に焼かれ、残る作品数は少ない。この数少ない永徳の作品がまとまっているのが聚光院である。今回、この聚光院が1年に亘り公開されることは、私に取って大変な朗報であり、幸いにも六月の梅雨の中でも、拝観する機会に恵まれた。今後、この作品に逢うことは無いだろうと思い、熱心に説明を聞き、襖絵を丁寧に見学し、たいへん満足した。今年、一番の収穫であった。(ここまで書いて、11月に京都へ行く機会があるので、もう一回拝観したいとという思いが強くなった。)現在JR東海のPRとして、聚光院の狩野永徳の「花鳥図襖」が頻繁に放映されている。多分、日本中で見られる映像であろうと思う。(なお、拝観を希望する方は、聚光院のHPから「拝観願い」を申し込んで、希望の日、希望の時間を確定しておくと、並ばずに入館できる。7月、8月の日曜日は、予約で満杯のようであるが、当日いけば、うまくすれば入館できることもある。)

(本稿は、パンフレット「創建450年記念特別公開 大徳寺聚光院」、新潮美術文庫「狩野永徳」、吉川功「京の庭」、立原正明「日本の庭」、探訪日本の庭「第6巻 京都Ⅱ 洛中・洛北」、探訪日本の古寺「第6巻 京都Ⅰ 比叡・拓北」、現色日本の美術「第13巻 障壁画」、日経新聞2016年9月3日「プロムナード」を参照した)