「肉筆浮世絵ー美の饗宴」展 

アメリカ・シカゴの日本美術蒐集家として知られる、ロジャース・ウェストン氏所蔵の肉筆浮世絵コレクションの展覧会が2016年1月17日まで、「上野の森美術館」で開催されている。浮世絵の誕生は、私は永年「岩佐又兵衛」(1578~1650)と考えていたが、この展覧会の図録の冒頭論文「浮世絵の誕生と展開」(永田生慈氏)によれば、菱川師宣(?~1694-ひしかわもろのぶ)と考えるべきであると論じている。

それによれば、浮世絵は、古くは浄土信仰思想から憂世と記され、憂い(苦しい、つらい、無情等)世の中と捉えられいた。それが16世紀前半頃の近世初期に入り、浮世の字に置き換えられる風潮があったとしている。その浮世の主だった意味するところは、男女間の恋愛、好色。また当世風、社会的な現実生活といった点が挙げられるが、人生は深刻に考えないで浮き浮きと享楽的に過ごすべき世の中といった点が大要であろう、と述べている。浮世絵と言えば、まずイメージするのが多色刷木版画、いわゆる錦絵で、葛飾北斎や歌川広重の大量に刷れる木版画である。版画の一方で多くの浮世絵師たちは、一点ものの肉筆画も描いていた。今回出展される作品は、いずれも肉筆画の貴重なものである。豪華な肉筆浮世絵に魅せられた日本美術コレクター、ウエストン氏は1990年代(日本のバブルが弾けた時代)から、このジャンルの収集を始め,約150点の作品を集めたそうである。大きな特徴は美人画に特化していることである。しかも、17世紀から明治期に至るまで各時代の美人画を集めている。

扇舞美人図  無款   寛文年間(1661~73)頃

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扇を片手に舞う妓女(ぎじょ)は、あでやかな小袖姿である。扇には武蔵野の秋草が描かれている。上部の画賛(がさん)には三十六歌仙の一人斎宮女御(さいぐうにょうご)の「ことのねに峯の松風かようらし いつれのおりししらへめくむ」という歌が添えられている。右手後方に、歌にちなんだ筝(そうー琴)がのぞいている。

やつし琴高(きんこう)仙人図   奥村正信作  宝暦年間(1751~64)

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琴高仙人(きんこうせんにん)は「列仙傳」に出てくる中国の仙人で琴をうまく弾いた。200年ほど放浪した後、江蘇省碭山県(とうさんけん)の磴水(とうすい)に潜って龍の子を取ってくると言い残し、弟子たちは潔斎して水辺で待つように伝えた。果たして仙人は赤い鯉に乗って現れたという。この琴高仙人を、当世風の美人にやつして描いたのが本図である。女性は豪華な着物に身を固め、前で帯の太鼓を結んでいるので、どこかの遊女であろう。そうとすれば、読んでいる手紙は、なじみの客からの恋文であろうか?鯉に乗っているということは、恋文であろう。肥痩(ひそう)の強い線が特徴である。

西王母図(せいおうぼず)  喜多川歌麿作  寛政年間(1780~1801)

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中国で古代から信仰されていた「西王母」の立ち姿を色彩豊かに描いた作品で,漢画風の肥痩(ひそう)の強い描線が印象的である。中国の美人を描いた歌麿の肉筆画は例がなく、学術的にも貴重な発見となった。

遊女と禿図(かむろず)  鳥文斎栄之作  寛政年間(1789~1801)

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中央に立ち姿の道中の遊女、その陰から禿(かむろ)一人がのぞいている。大きく描かれた美人の内掛の白が印象的な作品である。豪華な細い頸の八頭身美人で、清楚で繊細な印象を醸し出している。遠くに視線を向けた遊女には、気品が漂う。英之は特に肉筆画を多く描き、独自の清麗な美人は、歌麿の美人画と拮抗したと言われる。

時世装百姿図(じせいひゃくしず) 初代歌川豊国作 文化13年(1816)

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さまざまな階層の女性たちを描き集めた画集としては、菱川師宣や西川裕信が有名であるが、豊国自身の「絵本時世装」の存在も知られている。この「百姿図」は豪華絢爛な肉筆画帖である。裕福な注文主から制作依頼を受けたものと想像される。上は官女や御殿女中から、下は最下級の遊女である夜鷹(よたか)、舟饅頭まで描かれている。この絵では、女全員が、一番憧れていた鼈甲製の簪をしており、それを手鑑に映しているところから、遊女とも思われるが、子供が一人いることから、裕福な商家に集まった女性たちとも取れる。立ち姿の女性を除いては、服装も地味である。

絵巻を見る男女  二代歌川豊国作  文政9~12年(1826~29)頃

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二代豊国は文政7年に浮世絵界に登場し、翌年にはもう二代目を襲名して、それほど時間の経っていない時期での肉筆画である。円窓らしき背景に梅が咲き、男女が逢瀬でともに画巻を眺めている様が描かれている。画巻の左端には草花が描かれているが、果たして二人が見ている箇所には何が描かれているのであろうか。開かれた画巻の下で握り合う手が二人の親密さをあらわしている。

美人愛猫図(部分) 葛飾北斎作  享和~文化年間(1801~18)

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江戸後期の巨匠、葛飾北斎(1760~1849)の作品は3図出品されている。中でも「美人愛猫図」が美しい。長身の女性が猫をかかえて立っている。宗理形美人の完成形と言っても過言ではない。町屋の娘であろうか。全体的には灰色系の抑えた色調ながら、襦袢や口紅、鈴のついた猫の首輪の赤が映える。美術史家の永田生慈氏は「猫を描くことで画面に動きが出ている。猫は獲物を狙っているような鋭い目をしている」と話す。確かに女性のおっとりとした表情とは対照的である。落款に「画境老人北斎」の署名は摺物「盆踊り図」に見られる。印章の「亀毛蛇足」から享和・文化年間に描かれた作品と見られる。(落款部分は省略されている)

橋上美人図  岸駒(がんく)作   寛政年間(1789~1801)

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岸駒(がんく)は花鳥画、動植物、特に虎を描くことに優れた画家として知られる。円山派に連なる岸派の祖であり、応挙の画法などに学び、様々な絵を描いた。本図では、動きのある動物を描くことに秀でた絵師らしく、ほとんど描かない美人表現においても、日常の一瞬を捉えた描写を成立させている。橋の上で美人が緩んだ帯を締め直している。着物は特に上等のものではなく、岸駒の主な活動拠点であった京都に日常的にみられる女性を描いた。浮世絵以外の絵師が描いた風俗をあらわす美人図としても貴重な作例である。

一休禅師地獄太夫図  河鍋暁斎作    明治18~22年(1885~89)

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河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は、「ジャポニズムの画家」として知られている。何故「ジャポニズムの画家」と呼ぶかというと、幕末の「狂斎」時代からそのユニークな作風で外国人の目にとまる存在であった。維新後は万国博覧会への出品で名声を得るほか、フランス人やイギリス人らと接していた。特にイギリス人建築家ジョサイヤ・コンドルは、暁斎に入門して「堯英」の号も授かっている。地獄太夫とは、室町時代に堺の高須町の遊郭にいた遊女のことで、現世の不幸は前世での行いが悪かったからだとして自ら地獄と称した。ある時,堺に立寄った一休禅師が遊女の美貌に驚き「聞きしより見て美しき地獄かな」と詠むと、大夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と返句したという。圧倒的な密度で書きこまれた着物の柄、生き生きとした(?)骸骨たちの狂態、いずれも暁斎の画境の高さを物語っている。暁斎人気が活躍当時から今日まで西洋人の間で高い証拠であろう。

 

この「肉筆浮世絵ー美の饗宴」を見学して、まず驚いたことは、肉筆浮世絵の保管状態が極めて良好であることである。肉筆浮世絵は、当然一点物であるから貴重かつ高価であり、それらの主な享受層は裕福な商人や上流階級であった。しかし、愛好するだけに掛軸として掛けたり、親しんだりしたため、かなり保管状態が悪化しがちである。例えば、三鷹市美術ギャラリーの「写楽と豊国」展に、豊国らの肉筆画10点が展示されていた。美しい掛軸であったが、保管状態は良くなかった。肉筆画の掛軸の運命と思っていたが、このウエストンコレクションの保管状態は抜群に良好であった。しかも、蒐集は1990年頃からと言われると,余程のコレクションをまとめて入手したものであろうか。是非、日本の富豪の方々も、日本の美術品の蒐集に力を入れて頂きたい。確かに、東京国立博物館が所蔵する「見返り美人図」は、肉筆画の掛軸装であるが、保管状態は極めて良い。日本でも、所蔵する機関によって保管の状態が変わるのであろう。改めて美術品の保管状態の良好であることが、美術品の生命を左右することを強く感じた。

また浮世絵と言えば、江戸でもてはやされた錦絵を中心に考えていたが、今回の展示会で、浮世絵の誕生(16世紀前半)から17世紀半ば頃までは、上方京都で新たな題材が絵画化されていったのである。当初は「彦根屏風」等、大名などの権力者の依頼によって、大画面の屏風絵が制作されたが、寛永年間(1624~44)から寛文年間(1661~44)頃に入ると、富裕な商人層からの注文に移り、歌舞伎や遊里も描かれるようになり、作品も小型化して掛軸装の一人美人図を生み出すようになった。17世紀中頃、上方の風俗絵画の展開は終盤に入り、江戸では菱川師宣が登場し、肉筆画とともに一枚絵や版本などを精力的に発表し、浮世絵を専業とする浮世絵師という職業が確立した。これまでは、上方の動きを「浮世絵前夜」と理解していたが、やはり浮世絵の早い段階の確立と見た方が妥当と感じた。初期浮世絵が京都を中心とする上方であったことも、新しい知識となった。

 

(本稿は図録「肉筆浮世絵ー美の饗宴」、図録「写楽と豊国 2015年」、図録「大浮世絵 2014年」、図録「ダブルインパクトー明治日本の美 2015年」辻惟雄「奇想の系譜」、岩切友利子「国芳」、日経新聞「特集」2015年11月14日、日経2015年11月20日「文化事業」を参照した)

智積院  等伯一門の障壁画と名庭園

 京都で3時間程度余裕が出来ると、私は必ず市バスの三十三間堂前で降りて、智積院、妙法寺、養源院、三十三間堂、更に京都国立博物館を周ることにしている。
わずか、3時間程度で700年前の仏像や、寺院を幾つも拝観することが出来、かつ京博も見物できれば、極めて効率的に京のお寺や文化財を見る機会となる。
振り返ると、何十回と拝観したような気がする。中でも智積院(ちしゃくいん)には、私の好きな長谷川等伯(1538~1610)と弟子たちによる国宝障壁画が常時拝観できる。長谷川等伯は、能登出身の田舎絵師であり、かつ桃山時代を代表する画家である。
この時代の絵画の世界の頂点であった狩野永徳(1543~1590)と鋭く対立し、その模様は安倍竜太郎氏の描く「等伯」(2巻)に詳しい。
空海が密教を日本へ伝えてからおよそ300年後、空海の開いた高野山は次第に活力を失いつつあった。その頃、高野山に登った興教大師(こうきょうだいし)覚鑁(かくばんー1095~1143)は、教学振興のため尽力して、高野山は活気を取り戻した。
覚鑁は自らは紀州(和歌山県)根来寺(ねごろじ)に移り、教学の振興を図り、後に「新義」といわれる真言教学を確立し、真言宗智山派はこの「新義」に属する。
やがて天正13年(1585)巨大な伽藍と力を持っていた根来寺(ねごろじ)は、その力を恐れた豊臣秀吉によって攻められ、全山灰燼に帰した。その時の学頭の一人、玄宥(げんゆう)は京都地積院に逃れ、智山派(ちざんは)の基礎を築いた。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、玄宥が申し入れていた寺領下賜の許しが徳川家康により出て、豊国神社の土地と建物の一部が与えられ、遂に「根来寺智積院」(ねごろじちしゃくいん)が再興されたのである。元和元年(1615)、大阪城落城とともに、豊臣時代が終り、3歳で亡くなった息子鶴丸(つるまる)の菩提を弔うため、秀吉が建立した祥雲禅寺(しょうんぜんじ)が智積院に与えられ、その寺にあった等伯一門の障壁画が智積院に移ったのである。
智積院朱印所を入ると、拝観受付と収蔵庫が見える。

国宝 松に立葵図     長谷川等伯作           桃山時代(16世紀)
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 斜めに伸びる実物大以上の松樹のかたわらに芙蓉(ふよう)、すすき、菊などの秋草が配されるが、とりわけ芙蓉は闊達な筆致で描かれ、やや様式化された松に対して新鮮な表現となっている。錯綜する諸題材を明快にさばく筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現や画格の高さから、私は等伯の手になるものと思う。

 国宝  楓図(かえでず)  四面の内   長谷川等伯作            桃山時代(16世紀)
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 狩野永徳は天正15年(1691)9月に突然死亡し、狩野派が動揺している時に、祥雲寺障壁画制作の機会を長谷川等伯が握ったことは、桃山時代の日本絵画の大きなチャンスであった。
 楓(かえで)の大木は永徳様式の「檜図屏風」を彷彿とさせるダイナミックな形態であるが、本作品の空間には永徳風の吹く抜けていくような風のイメージはなく、静かに立ち込める空気を感じさせる繊細さがある。木犀(もくせい)と楓のカラフルな色の対比はナイーブで、いかにも幼児の死を悼むような胸が詰まる思いを抱かせる。当時の狩野派の画にはない豊かな情感を湛えた名品である。

 国宝  松に秋草図  四曲一双  長谷川等伯作    桃山時代(16世紀)
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巨大な松を画面の対角線に沿って大胆に描き、その下に白い花をつけた立葵を配している。雄大な松の生き生きとした姿もさることながら、驚くべき均整を無視して大きく描いた立葵である。この思い切った筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現技巧や画格の高さから、私はまぎれもなく等伯の手になるものと断じたい。

 国宝  桜図  四面  長谷川久蔵作         桃山時代(16世紀)
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  楓図に隣接する桜図はまた春爛漫の風情をたたえている。
  桜樹は二株あり、背後の一つはしだれ桜となっていて、あたかも二重映像の如く、満開の桜表現に深さと変化を与えている。桜花は一つ一つ丹念に胡粉の盛上げを行って、やまと絵風の花文に仕立て上げ、それらが繊細な枝ぶりや若葉の素直な描写と釣合いをみせている。桜花の背地をなす金雲は、下辺においてわずかに水辺をふくめた大地のひろがりをのぞかせる。
 作者については、長谷川久蔵とする意向が定説化されつつある。

名勝庭園   大書院の奥(築山部分)           桃山時代(16~17世紀)
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 大書院の東に高い築山を配した名勝庭園がある。庭には利休好みの庭園と言われ、中国の廬山(ろざん)を形どって造られたと伝えられている。この築山は、当初は池を掘り上げた土で、小山を築いただけであったが、桃山から江戸時代にかけて築山技術が発達し、築山自体の美を楽しむようになったようである。

 名勝庭園  大書院の奥(庭園全体)           桃山時代(16~17世紀)
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 庭園全体の写真である。土地の高低を利用して築山を造り、庭木を刈り込み、その前面に池を掘って、山の中服や山裾に石組を配し石塔・鉢・垣などを組み合わせて変化をつけている。李休好みの庭園と言われる。
 この庭は築山・泉水庭の先駆をなしたものとして、貴重な遺産となっている。

 長谷川等伯と言えば、東京国立博物館の所蔵する「松林図屏風」を代表作とするのが定説であり、これにいささかの異論もない。しかし、私の好みからすれば、長谷川等伯及び一門の絵画は、ここ智積院の松、桜、秋草などの障壁画を頂点とする。
 理由は、等伯の美しさに接した最初の絵画であること、何時でも見られること、一番回数多く見ている事、そして如何にも桃山時代を表現する大胆な障壁画であるからである。
 美しさ、剛毅さ、繊細さを見事に表現している、智積院の障壁画は私が最も愛する長谷川等伯の絵画の頂点であると思う。 比較的観光客の少ない智積院の収蔵庫の中で、時には1時間も2時間もかけてゆったりと桃山時代を代表する長谷川一門の名画と接することが出来るのは、私にとって至福の時間であり、場合によっては床に腰を下ろし、対面する歓び、酔う時間は
最高の時間であり、何物にも替えがたい贅沢である。 

(本稿は図録「総本山智積院」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、原色日本の美術「第13巻障壁画」、安倍竜太郎「等伯上下」、図録「長谷川等伯 2010年」、探訪日本の古寺「第7巻 洛東」を参照した。