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私の履歴書(3) 黒川孝雄

昭和24年4月に新制津島高校1年生に編入された。中学校からは無試験であった。同じ校舎、同じ生徒で、あまり高校生になったという自覚は無かった。                高校生になって特段に勉強した自覚は無いが、成績は中学時代に比べれば格段に進歩し、実力試験は悪くとも学年で5番以内(学年)、良い時は1~2番に食い込むことがあった。比較的「良く出来る生徒」の一人となった。中学1年生の時の120番からは格段の進歩があった。特別勉強した訳では無かったが、友人に恵まれた。新しく津金沢君が加わり、それに中学時代からの山中君、清水君と私を含めて4名が仲良しであった。敢えて言えば津金沢君が加わり、全体の1~2番を争う良く出来る友人が出来て、山中君と私の2人の成績を引っ張ってくれた。高校時代を通じて得意な学科は、英語・国語・数学等であり、不得意な科目は理科・化学・体育等っであったが、成績の上では、体育を除き、すべて「優」であったと思う。特に英語は得意で、恐らく学年でも1~2番を争う成績であったと思う。特に橋本先生(女性)には、お世話になり、格段に目を掛けて頂いたと自覚しているが、先生は津島女学校を卒業後、津田塾に進まれた才媛であった。私の伯母と女学校が同期であり、そんな関係もあって、特段に目を掛けられたと自覚している。私自身も英語は得意科目であり、橋本先生が好きであり、英語の勉強には熱が入った。我々より成績が良かったのは横井君と云う熱田中学から転校してきた生徒であった。何横井君の成績が良かったのか判らないが、実力試験では何時も彼に一番を奪われたものである。高校1年生になると、実力試験では、津金沢、山中、黒川の3名が必ず5番以内に入るようになったが、残念ながら1番は何時も横井君に奪われたものである。  私と山中君は、授業を離れても仲が良かった。夏になると2キロ程離れた木曽川に行き、良く泳いだものである。向こう岸の三重県側まで泳ぎ、更に長良川を泳ぎ三重県側まで渡り、そこから引き返すという、学校では禁じられていた泳ぎをしたものである。津金沢君は、父親が津島高校の生後の教師ということもあり、私たちはこのような学校で禁じられていた泳ぎには津金座君は誘わなかった。山中君と2人だけで、三重県側まで泳ぐことが得意であった。こんなことは、高校時代には誰にも話さなかったが、米寿に達した今では、話しても大丈夫だろう。 津金沢君、山中君は理科系、化学系には強く、将来理科系大学に進学することが予想された。私が文系の進路を選ぶこともほぼ確定していた。しかし進路を異にするとは言え、3人は大の仲良しであり、共に今日に至るまで親友の仲である。   女子生徒との同学は、中学時代とは大きな差であった。特に女子生徒に興味があり、良く話題にした、かつ女子生徒とも話したものである。当時の津島高校では、女子生徒と話すだけでも話題になり、噂を呼んだものである。噂を恐れず、女子生徒と話す私は、異常な興味を持って見られたものである。           勉強だけでなく、私は実に良く本を読んだ。文学・歴史が多かったが、特に文学は読みまくったものである。中学の部でも触れたが、私の家には父親が買い残した「明治・大正・昭和文学全集 全60巻」が誰にも読まれず、倉に終われていたものを発見し、全冊を丁寧に読んだ。本が売っていない時代に、この文學全集の発見と読書は、私に計り知れない影響を与えた。明治初年から昭和10年頃までの文学作家の作品をほぼすべて揃えて読むことが出来た。本の無い時代に、この全集が自宅から出てきたことは、私の人生の大きな出来事であった。             従って私は良く本を読んだ。文学・歴史が多かったが、中でも文学は「全60巻」を始め、手当たり次第に読んだ。歴史書にも興味があり、読みまくったものである。

高校2年生の秋に、「文学界」に掲載された井上靖という新人が「猟銃」という作品を発表した。私は、この作家の優れた詩人性に強く惹かれ、全く新しい新人現ると思った。この文学界の「猟銃」の発表で、井上氏は一躍有名になった。私は、一読して、溢れる詩情と、物語性に曳きつけられた。何と、若々しい詩情か、何と、素晴らしい言葉使いか、と感激した。次作は文学界12月号に発表された「闘牛」で、昭和25年2月に芥川賞を受賞した。私は、「闘牛」よりも処女作の「猟銃」を高く評価したが、文学賞は、次作の「闘牛」に輝いた。私の文学評も的を得るようになり、自信を得た。「田舎の高校生の文学評も、まともになった」と鼻を高くしたものである。

高校3年生の私と先生と友人達

(向かって下段右橋本先生、左黒川、上段左より山中君、津金沢君、二人の友人)

文学青年である私は、高校3年生のの夏、高熱にうなされる数日を送った。愛知県海部郡には、通常「おこり」と呼ばれる風土病があった。蚊が媒介する伝染病で、高熱、汗、低熱を繰り返し、3日、4日で治る風土病であり、蚊が媒介する伝染病で、海部郡の風土病であり、4日もすれば治る病気である。ところが、私が高校3年生の夏休みに罹った「おこり」は単純な風土病ではなかった。治るまでに1ケ月以上懸かり、熱も35度まで上がる完全な「マラリヤ熱」であったと思う。思うに、戦争中南方に転戦し、マラリヤに感染した人が、戦後私の家の近くに移り、私は「おこり」ではなく、「マラリヤ」に侵されたのである。高温と低温を繰り返し、激しい疲労に悩まされた私は、完全な熱病患者となった。内地の医師は「マラリヤ病」を知らず、「おこりの薬」しか調合しなかったのである。治るまでに1ケ月以上懸かり、かつ治療後も、頭痛、悪寒にさいなまれ、とても2学期の学校に登校できる状態ではなかった。やや、フテ腐れた私は、2学期を全部休み、3学期になっても登校する気になれなかった。休校中に津金沢君や山中君が心配し、訪ねて来てくれた。感謝しても感謝しきれない気持ちで、今も感謝している。3月期も休み続けた私に、高校の先生は業を煮やし、学校の小遣いさんが「明日から出席しないと学校は卒業出来ない」と通知してきた。私は苦しい体を引きずって、不本意ながら出席した。当然のことながら成績はガクンと下がった。同級生は「黒川君は気が狂った」とまで言われた。何と言われようと、体調は悪く、特に頭脳明晰ではなかった。万一、この時に実力試験が行われたなら、何十番という低位の成績で終わったであろう。しかし、高校3年生の3学期の2月頃に今で云う共通一次試験の第1回全国共通試験が行われた。私の点数は84点であった。津島高校ではダントツの一番であった。先生の話では、私の点数は、愛知県内で10番以内、全国でも80番以内程度とのことであった。「気が狂った」とまで言われた私は、相変わらず学年で1,2位を争う秀才と評価されるようになった。その共通一次試験とは積木の計算をするようなつまらない試験であったが、採点されれば、現実である。一橋大学では、60点で足切りをした。東大や名大では200点満点で加算された。つまらない問題ではあったが、結果は思いがけないものとなった。私は再び秀才となり、一橋大学を受験した人は、受験すらできなかった。私には思いがけない助け舟であり、ある人にとっては思いがけない災難であった。一番最初の全国共通一次テストは忘れられない思い出である。

さて、津島高校の卒業式生代表の答辞や、卒業証書の代表者は誰であったか、全く覚えていない。少なくとも私でないことは間違いない。多分、津金沢君辺りかも知れないが、全く記憶にない。一つ記憶に残っていることは、高校3年生3学期の成績表はすべて5であり、最高ランクであった。体操など不得意な科目まで最高の5であった。小学校以来、このような好成績は一度もなかった。学年代表にも選ばれなかった代わりに成績表で、思い掛けない得点を呉れたのであろうか。今でも不思議である。偏に三輪先生(担任)の学恩と深く感謝している。

 

私の履歴書 (4)       黒川孝雄

昭和27年4月1日に名古屋大学経済学部に入学した。入学試験の成績は判らないが、比較的高く悪くとも4~5番以内(経済学部)で入学したと思う。奨学資金の推薦順位が4番であり、父親が死亡していることや、入学共通試験が200点満点で計算されていることを考えれば4~5番と云うのは、それ程的外れではないと思う。                                   教養部は、旧制八高の校舎であり、多分先生も旧制八高の先生が大半を占めていたと思う。教養部では、第二外国語としてドイツ語を選択したが、その後の人生を振り返っても、殆ど役に立たなかった。むしろ英語をもっと勉強すれば、少しは役に立つレベルまで進歩したのではないかと思う。しかし、大学の教養部ともなれば、やたらと第二外国語、場合によっては第三外国語としてフランス語を学ぶ人もいて、やたらと教養の広さを求めた人もいた。ドイツ語、フランス語とも全く役に立たず、英語も満足に話せない外国語音痴のまま、大学を卒業し、今日に至っている。                                   教養部の時代にヨット部に入り、名古屋港でヨットの基礎を練習した経験がある。私は、中学時代からボートを数隻保有し、毎日近所の川でボートを漕いで遊んでいた。それは、たまたま戦争中に津島港に係留されていたボートが、戦争で貸し出せなくなり、父親がまとめて15艘のボートを買ってきたからである。ボートというものは、手入れをし、パテをしっかり詰めないと、水漏れがして使い物にならない。父親は、その辺は知らずに買ったらしく、結局1艘のみにパテを詰めて、小学校5年生から高校生にかけて、毎日のように付近の川で漕いで楽しんでいた。従ってボート漕ぎには、絶対の自信があったが、ヨットは初めての経験であり、実に楽しい思い出である。しかし、波に揺れた体感が夜まで続き、夜、体が揺れて、満足に眠れない症状に襲われ、ヨット部は残念ながら半年で退部した。残念であった。   3年生になると、経済学部は、旧制名古屋高商の校舎に移った。名古屋大学は、昭和24年(新制大学発足)から昭和31年まで、東山に新校舎が完成するまで、旧制八高とか旧制名古屋高商とか、昔の陸軍の建物(例えば文学部、法学部等)を使用する等、酷い校舎事情であったが、卒業後、昭和32年頃には東山に新校舎が完成し、そちらに文系は全部移転したそうである。尚、私は新校舎を見たことは無い。写真で知るのみであり、私達には無縁な校舎であり、一口で言えば、酷い環境で大学を卒業した。                             3年生になると学部に進学する訳であるが、ここは教養部と違い、専ら経済学及びその関係学問を勉強することになった。新しい経済学部は旧制名古屋高商の校舎に移った。大学は昭和20年代から30年初期にかけて、満足な校舎も無、醜い環境であった。                                ゼミナールは、私は古典経済学のアダム・スミスを専攻したと思っていたが、担任の水野助教授が、アダム・スミス研究のため、英国に留学され、水野ゼミの募集は無かったため受講できなかった。そのため、経済史を専攻することとし、四方教授のゼミを選んだ。四方先生のゼミは13名で、成績の良い人も、悪い人も含んだ面白いゼミであった。                            ゼミの進め方は、英語の「イギリス経済史」を各自が読んで、読みながら質疑を交わし、13名は非常に仲が良く、先生を交え奈良へ遊びにいったことがある。  卒業後も、同窓会をしばしば開き、私が京都支店長をしている時, 京都で同窓会が開かれ、お昼に馴染みの京都の有名料亭へ案内したところ、そこでは気を使って、一番良い部屋を用意してくれたことを覚えている。同級生は、「流石に明治乳業の支店長だけのことはある」と褒めてくれたことを思い出す。

四方ゼミの同窓生の写真

四方ゼミの同級生は、どういう訳か短命者が多く、現在まで生きているのは私を含めて3名程度である。四方ゼミの亡くなった同級生に深く哀悼の意を表したい。私の卒論は、「イギリスにおける綿織物工業の資本主義的発展について」というテーマで、珍しい論文であった。イギリス経済では、毛織物工業の発展については、実に著作物が多いが、綿織物工業の資本主義的発展については、実に著作物が少なく、私の知る限りでは、当時(昭和31年頃)北大の教授が、北大の雑誌に論文を発表されていた程度であり、極めて珍しい研究であったと思っている。私が、あえて、毛織物工業では無く、綿織物工業を選んだのは、黒川家が明治時代に地主的資本から綿織物工業に発展したが、大資本に苦しまされ、その株式を日本の大資本に売却したことがあり、綿織物工業には、非常に興味があったからである。黒川家の綿織物工業の資本は、現在の東洋紡に受け継がれた。             大学3年生になると、就職が一番大きな問題であった。当時は朝鮮動乱が終わり、日本経済は低迷の時期であり、就職先は非常に厳しい選択を問われた。私は、名古屋に住む理由は無く(次男のため)大阪でも東京でも、日本全国どこでも良かった。名古屋に本社地を求めるケースは厳しい選択を問われたと思う。就職難ではあったが、全国どこでも勤務できる場合は、選択肢が多く、結局私は、明治乳業と経済専門誌(本社・東京)の2社の内定を得ることが出来た。四方先生に相談したら「君なら無条件に経済雑誌社を勧める」と、一言の下に助言された。母親は、「是非、一部上場の明治乳業に入りなさい。迷う余地は無いでしょう」と明言した。結局、私は、四方先生の助言を入れず、母親の指示に従い、明治乳業に入社することにした。この決定は、私の運命を大きく左右することとなった。後年、結婚をする時、現在の妻と見合いし、結婚することを決めたが、家内は、私が雑誌社を選んでいたら、絶対私とは結婚しなかった、と言った。就職先を決める場合は、結婚相手まで変えるのかと実感した。結論として明治乳業は、私にとって、非常に良い就職先であった。転々と勤務地は変わったが、人間関係に恵まれ、良き仲間、良き上司に恵まれたサラリーマン人生であった。給料はさほど高くないが(世間並)、ボーナスは驚くほど高く、1年後の夏のボーナスは100万円以上の手取り額であり、もらった私が驚くほどの金額であった。私は、この会社で様々な知識と能力を身につけ,定年後(63歳まで子会社の社長)3年間の子会社の社長を継続して勤務し、その間に、縁あって一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会会長を務めることになった。全国社団法人の会長は、黒川家では私が最初であり、親戚から東山魁夷の絵画を記念品として頂いて、毎日眺めているのである。思えば恵まれた人生のスタートは、戦後の名古屋高商と八高の校舎で学んだ結果であった。

一つ忘れられない記憶がある。私が大学3年生の秋、兄(高校教師)と2人で、鈴鹿山脈の一峰に登ったところ、驟雨に見舞われ、日帰り予定が、帰れなくなり、登山小屋(無人)を見つけて2泊することとなった。3日目の朝、好天となり山から帰山して、バスに乗ったところ、青年団が山狩りに出かけようとした所へ、バスで帰山した2人が乗っていることを発見して、山狩りを中止する事となり、大きな問題もなく帰ることができた。

四方ゼミの同級生は、どういう訳か短命が多く、現在まで生きているのは私を含めて3名程度である。四方ゼミの亡くなった同級生に深く哀悼の意を表したい。  私の卒論は、「イギリスにおける綿織物工業の資本主義的発展について」というテーマで珍しい論文であった。イギリス経済では、毛織物工業の発展については、世界的にも素晴らしい著作物が多いが、綿織物工業の資本主義的発展については、実に著作数が少なく、絶無と言って言い過ぎでは無いほどであった。あえて、毛織物工業では無く、綿織物工業を選んだのは、黒川家が明治時代に地主的資本から綿織物工業に発展したが、大資本に苦しまされ、その株式を日本の大資本に売却したことがあり、綿織物工業には非常に興味があったからである。黒川家の綿織物工業の資本は、現在の東洋紡に受け継がれた。その工場は、私が大学生の頃まで存在していたが、現在はどうなっているかは知らない。                大学3年生の後期になると、就職が一番大きな問題であった。当時は朝鮮動乱が終わり、日本経済は低迷期であり、就職先は非常に厳しい選択がを問われた。   私は、名古屋に住む理由は無く(次男のため)、大阪でも東京でも、日本全国どこでも良かった。名古屋に本社所在地を求めるケースは厳しい選択を迫られたと思う。就職難ではあった、全国どこでも勤務できる場合は、選択肢が多く、結局私は、明治乳業(現在の明治)と経済専門誌(本社・東京)の2社の内定を得ることが出来た。四方先生に相談したら、「君なら無条件に経済雑誌社を勧める」と、一言の下にじょげんされた。母親は、「是非、一部上場の明治乳業に入りなさい。迷う余地は無いでしょう」と一言の下に名言された。結局、私は、四方先生の助言を入れず、母親の懇望に従い、明治乳業に入社することにした。         この決定は、私の運命を大きく左右することとなった。後年、結婚する時、現在の妻と見合いし、結婚することを決めたが、家内は、私が雑誌社を選んでいたら、絶対私とは結婚しなかった、と言った。就職先を決める場合は、結婚相手まで変えることを実感した。結論として明治乳業は、私にとって、非常に良い就職先であった。転々と勤務地は変わったが、人間関係に恵まれ、良き仲間、良き上司に恵まれたサラリーマン人生であった。                       給料はさほど高くないが、ボーナスは驚くほど高く、1年後の夏のボーナスは100万円以上の手取り額であり、もらった私が驚くほどの金額であった。     私は、この会社で驚くほどの知識を身に着け、定年後3年間は子会社の社長を継続して勤務し、その間、縁あって一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会の会長を2年間務めることになった。全国社団法人の会長は、黒川家では私が最初であり、親戚から東山魁夷の絵画を記念品として頂いて、今も毎日眺めている。   思えば恵まれた人生のスタートは、戦後の八高と名古屋高商の校舎で学んだ結果であった。                                 一つ忘れられない記憶がある。私が大学3年生の秋、兄(高校教師)と2人で、鈴鹿山脈の一峰に登ったところ、驟雨に見舞われ、日帰り予定が、帰れ無くなり、登山小屋を見つけて2泊することとなった。3日目の朝、好天となり山から帰山してバスに乗ったところ、青年団が山狩りに出かけようとした所へ、バスで帰山した2人が乗っていることを発見して、山狩りを中止する事となり、大きな問題も無く帰ることができた。しかし、心配した母親は、新聞社の勧めに従い「兄弟2名、鈴鹿山脈で遭難か」との記事になり、大勢の方に迷惑をかけ、中でも母親が如何に心配したかを思い、「申し訳ないことをした」と心底から感じた事件がった。大学ではあまり気付く人もいなかったが、高校時代の友人が何人か心配して尋ねてきてくれて、心配を掛けたことは、私の生涯の最大の不祥事であった。大学生の私は心配事で済んだが、社会人とんった兄上には,大変大きな迷惑を掛け、かつ母親がどんなに心配したか、申し訳ない事件であった。                  卒論も提出し、3学期最後の試験も受けて、無事大学を卒業した。山登り、スキーに明け暮れた4年間であった。

私の履歴書(2)  黒川孝雄  

中学校時代(旧制)

私は昭和21年4月1日に(旧制)津島中学校に入学した。私の父も、兄も津島中学卒で、いわば黒川家の定番中学校であった。1年生の生徒数は220名であったと記憶している。私の小学校からの受験者は4名で、合格は2名であった。当時の津島中学は決して優秀な中学校ではなく、ごく普通のレベルの中学校であり、その中学校に半分しか合格しなかったのは、如何に永和南小学校のレベルが低かったのかを証明している様に思う。但し、名古屋から疎開してきた人達は、名古屋の有名中学校を受験し、合格している。従って、津島中学への受験成績が悪かったとは言え、小学校のレベルが低かったとは一概に言えないだろう。

さて、私の入学した成績は、220名中120番程度であり、正に中の中という成績であった。後年、親友となる山中君は200番(本人から聞いた話)、津金沢君は2番(私の記憶)であった。思えば、中学校の劣等生と優等生の組み合わせが、後年、高校3年生の実力試験で1番~3番の実力を競う中となったのである。

津島中学校の校門

津島中学生の記憶はあまり無い。戦争に敗れ、満足な教科書も無く、先生も代用教員が多く、あまり優れた教育を受けた記憶は無い。私自身の勉強は、英語、国語、数学には熱心であった。特に記憶に残る授業は、2年生の時の藤井先生による「東洋史」の時間である。1週間に1時間、1年間続いた授業であるが、これが一番記憶に残る授業であった。「東洋史」というテーマであったが、事実上は「中国史」のみであり、「朝鮮史」「印度史」には、全く触れない「東洋史」であった。しかし、ここで学んだ「東洋史」は生涯の記憶に残った。以来、高校でも大学でも「東洋史」または「中国史」という科目は受けたことが無かった。後年、社会人になったから、「中国史」「朝鮮史」は、美術を理解するために、熱心に本を読んだが、やはり基本になる知識は、藤井先生の「東洋史」の記憶が一番である。藤井先生の学恩に心から感謝したい。

私自身は、あまり目立たない、特別優秀でもなく、さりとて特段の劣等生でもなく、ごく普通の目立たない生徒であったと思う。特に勉強したのは英語であり、英語については常にクラス一番を目指し、ほぼその通りの結果となった。3年間の成績を自分で採点すれば、上の中位の成績であったと思う。親友は山中君、津金沢君、清水君の3名であった。清水君は洋服屋の長男で、高卒で祝った。彼は小遣いをふんだんに持っており、新刊本を良く買って、自分が読む前に私に読ませてくれる、真の親友であった。お陰で井上靖や阿川弘之、阿部公房、大江健三郎など新進作家の作品を一番最初に読ませてくれて、文学好きの私を満足させてくれた。そのお礼をどれだけしたか、不安である。本人は亡くなり、今更お礼を申し上げ、新刊本を献上する機会も無い。一度、私の大学時代に、室生寺を案内したことが唯一のお礼とった。清水君には今でも恩義を感じている。

私の家には、父親が買った「明治・大正・昭和文学全集」全60冊が全巻揃って門の近くの建物の2階にあった。誰も知らない場所に、全く読まれないまま保管されていた。これが文学に飢えていた私を強く引き付けた。昭和の初め頃、「円本時代」と呼ばれる時代があり、いろんな全集が1冊1円で販売されていたそうである。その円本の見本とも言うべき「明治・大正・唱和文学全集」全60巻が手つかずのまま、私の目の前に現れた。小学校5年生で本に飢えていた私は戦中で新刊本は全く手に入らず、友人の家で「家の光」や、古い時代小説を借りて読んでいたが、文学書は全くなく、この全集を発見した時は、実に宝物を発見したような気持ちであった。

全集は明治時代の仮名書露文(かながきろぶん)から始まり、文学者の名前を知っているのは第15巻位からであった。しかし、読書欲旺盛な私は第1巻から第60巻まで一気に読んでしまった。多分半年ほどかかったであろう。全部読んで、これでは駄目だと思い、作者別に好きな作家を選び、好きな作家を選び、好きな作家の本を繰り返し読むことにした。この文学全集を全部読んだことは私の大きな武器となった。殆ど誰も知らない日本文学の明治の初期の作家を読んだことは、多分「文学部」の学生さんよりも私の方が沢山読んでいると思う。

一番、何回も読んだのは黒岩涙庚も「嗚呼無常」であった。何のことは無い「ジァンバルジャン物語」であったが、音白くて面白くて、夜を徹して読んでしまい、多分50回以上飛んだと思う。金が無い、新刊本が無い時代は、古い本を繰り返し読むことが肝要であった。それから面白かったのは、島崎藤村、夏目漱石、白樺派作家などに強く惹かれた。読んでも読んでも中々読み切れない全集に出会えたことは、文学に飢えていた私に大きな影響を与えた。森鴎外、幸田露伴、国木田独歩、永井荷風、二葉亭四迷、田山花袋、樋口一葉など明治文学でも、面白い作家が揃っていた。

小学校高学年から中学生にかけて、文字に飢えていた私は、暇さえあれば、この文学全集を読み耽っていた。本が売っていない時代は良いことであった。どんなに古い文学全集でも2回~3回と読む程に理解が進み、分かって来るものだ。この宝庫のような文学全集は80歳を過ぎた私にも、良い思い出として残り、私の人生の中で一番本を読んだ時代であった。読書に飢えることは、素晴らしい体験であった。お陰で私は、15歳くらいの時には思いがけない知識を発揮することもあった。社会科の先生(氷室先生)からコ・エドケーションとは何かと質問され、答えられたのは私一人で「男女共学」と答えたことを覚えている。また新憲法の中に出てくる天皇の地位について、「象徴とは何か」と問われ、英語の「シンボル」の日本語で、天皇の地位を示す新憲法上の位置づけであると答え、非常に褒められたことを覚えている。要するに、あまり熱心に勉強する生徒ではないが、本をよく読み、田舎の中学生にしては、世間のことを良く知っている生徒として記憶されたと思う。

中学校時代の最大の思い出は3年生の2学期から男女共学が始まったことである。すぐ目の前に女子生徒がいることは何と素晴らしいことであったか、まるで昨日のように新鮮に覚えている。

さて私の中学3年生の頃の成績は、英語・国語・社会にはベラボウに強い反面、体育、理科、数学ではごく普通の成績であり、多分400名中(共学のため200名ほど増えている)20番程度ではなかったかと思う。決して良い成績ではないが、入学時の120番よりは増しな成績であった。父を小学校6年生で亡くし、農地解放、財産税、旧円無効など、様々な占領政策に翻弄されて、非常に経済的に苦しい時代であった。

 

私の履歴書(1)  黒川孝雄

幼年時代・小学校時代

私は昭和9年(1934)1月17日に、父黒川武雄、母親みつの次男として生まれた。兄弟は姉、兄、私、妹の4名である。平凡な幼年時代を送った。当時、この田舎には幼稚園はなく、兄弟4名とも幼稚園には通園していない。生まれた場所は愛知県海部郡永和村大字大井であり、現在は愛知県愛西市大井町である。

黒川家は江戸時代から隣町の蟹江町から次男が移り住み、300年以上の歴史がある。兄がまとめた「黒川家の歴史」によれば、黒川家は元々百姓であったが、二代目黒川武兵衛(ぶひょうえ)は商才に長けており、藍玉の商いや、日光川の河川整備、築堤に成功し、尾張藩から苗字帯刀を許されたそうである。私の祖先で、そんなに商才に長けた人が居たのかと不思議に思う。二代目武兵衛が、その後の黒川家の財産の基礎を築いた人となった。

話は変わるが、昭和34年に尾西地方は伊勢湾台風により、大水害を被ったことがあった。私は、その時、北海道根室に住んでいたが、母親や兄を見舞いに訪れたところ、名古屋から蟹江駅までは関西線が走っていたが、そこら先は徒歩で永和村に向かったが、歩けたのは日光川までで、そこから先は一面の海であった。私は日光川の堤防に立ち、成る程「俺の先祖は、かくも頑丈な堤防を築いたのか」と感激したことを覚えている。さて黒川家の先祖の話に戻るが、その後も土地を買い増し、大地主となったそうである。

元々、尾西地区は木綿織物が盛んな地域であったが、私の4代前の先祖(3代目黒川武兵衛)は、木綿織物の工場建設に出資し、自ら取締役に名を連ね、綿織物工業に参加し、津島紡績を設立したそうである。しかし、日露戦争の終わった翌年津島紡績の経営は苦しくなり、三重紡績に併合され、大正になってその三重紡績も大阪紡績に合併し、東洋紡績が誕生し今に至っている。ところで、三重紡績大への売却は満足のいく条件で出来て、三重紡績の株主総会で取締役黒川源之亟への感謝状が出され軸装になって残っている。さて、黒川源之亟は明治39年に津島織布(オリフ)株式会社を100%出資で設立し(羊毛の布物)、明治44年以降は、長男黒川源之亟(3代目)を社長として経営に当たらさせた。この仕事は順長に軌道に乗った。私が小学校の頃、女子行員が200名程度の規模であった。

父の黒川武雄は、津島中学を卒業後、盛岡高等農林学校に進学し、卒業後愛知県庁に努め技手(ぎて)として勤務し、その後我が家の祖業である津島織布株式会社の社長を継ぎ、私の幼年時代には、毎日自伝車で津島市まで(約4キロ)通勤していた。まだ戦時中で自動車は普及しておらず、自伝車通勤でああった。毎日、晴れの日も雨の日も4キロの自伝車通勤はさぞ辛かったであろうと思った。

私は、昭和9年(1934)1月に母みつとの次男として生まれた。生まれた時は4キログラムの大きな子供であり、難産だったそうである。兄は長男で黒川家を継ぐが、私は次男で、何等財産の無い貧乏人であることは、幼少期から祖母を通じて教えられていた。

私の幼年期は、真に粗野な少年で、毎日付近の川で泳ぎ魚を釣り、野生溢れて、かつ健康な毎日であった。遊び相手は付近の子供たちで、粗野な言葉使いで遊んでいた。当時永和村には幼稚園は無く、6歳まで集団教育を受けたことは無かった。しかし、幼稚園に通学したことが無い子供時代で、その後、マイナスになったことは無い。むしろ野生溢れた川泳ぎは、私に取って実に懐かしい思い出である。

さて6歳で永和南小学校に入学しが、小学校1年生の成績は、極めて不良で、母親が「黒川家にかって無い成績不良な子供」と嘆いたことをかすかに覚えている。しかし、学校の先生に恵まれ、小学校3年生の時、女の担任の先生に特別可愛がられ、思いがけない優秀な成績をつけてもらった。それに対して私は何とか先生の思いやりに報いる必要があると思い、勉強するようになった。お陰で、2学期には、クラスで1番となり3学期の級長となったが、やがて名古屋から疎開する生徒が増え、どうしてもクラス(学年)で2番の成績しか取れなくなり、6年生の卒業式の学年総代にはなれず、2番で全員を代表して卒業証書をもらう役割であった。母親が大変嘆いたことを覚えている。

卒業前に大事件があった。昭和20年(1945)8月15日、天皇陛下の玉音放送が正午から有り、姿勢を正して聞き入った所、敗戦のお知らせであり、太平洋戦争は敗戦に終わったことを知った。あまり大きなショックは無かったが、戦争に負けた国の先行きについては、全くわからなかった。

9月1日に学校へ行くと、校長先生が、「戦争に負けた。悔しいが負けた」と演説された。これから先どうなるかは何も語らら無かった。校長もどうすれば良いか判断できなかったのであろう。その翌日から、教科書に墨を塗り、鬼畜米英とか日本は神国等を消し、殆ど内容の無い教科書を使用することになった。

それ以上深刻な事態が生まれた。父親黒川武雄が42歳の若さで、心臓病で亡くなった。昭和20年11月のことであり、兄が中学2年生、私が小学校6年生の時であった。

米占領軍は、農地解放を行い、地主から土地を開放し、耕作している農家に無償に近い価格で売渡を命じた。黒川家は、いまだに大地主であり、何百町歩という大地主であったが、一夜にして財産を失った。父は、相当前から敗戦は予想していたようであるが、まさか農地を無償に近い価格で奪われるとは思っていなかったと思う。敗戦以上に父の病死の方が、大きな影響があった。

私の家は、祖母、母、姉、兄、私、妹の6人家族であり、地主の土地を奪われれば、生きていく方法がなかった。そこから先は「売り食い」であり、先祖伝来の財産を売り、それで食いつないでいく生活であった。幸い、父がいろんな物を買い集めており、それが生活費に変わっていった。ひょつとしたら、父は戦争に負けることを予想していたのかも知れない。父は, 昭和10年代にドイツの敗戦後の模様を書いた本読んでおり、タバコ3本とグランドピアノ1台が交換された写真を、私は見たことがあった。第一次世界大戦に敗北したドイツを研究していたことは、良く知っている。そこからすれば、日本がアメリカに負けた時のインフレ、食料不足は予想していたであろう。しかし農地解放、預金封鎖、その後の預金の取り上げ(それによる戦争国債の償還)までは予測していなかったであろう、

乳を失い、田地を失い、我が家の柱が無くなってしまったが、黒川家の財産は、その後10年余の「売り食い」生活を支えてくれた。父親の先見の明に感謝しても,仕切れない思いである。父親の先見の明が無かったら、私たちは、大学は元より、t高校さえ通えなかった知れない。父親に感謝である。

幼児時代、小学校時代の写真は、尾西地区を襲った大洪水のため、すべて流れしまったので、この項の写真はない。ご了承いただきたい。