私の履歴書(1)  黒川孝雄

幼年時代・小学校時代

私は昭和9年(1934)1月17日に、父黒川武雄、母親みつの次男として生まれた。兄弟は姉、兄、私、妹の4名である。平凡な幼年時代を送った。当時、この田舎には幼稚園はなく、兄弟4名とも幼稚園には通園していない。生まれた場所は愛知県海部郡永和村大字大井であり、現在は愛知県愛西市大井町である。

黒川家は江戸時代から隣町の蟹江町から次男が移り住み、300年以上の歴史がある。兄がまとめた「黒川家の歴史」によれば、黒川家は元々百姓であったが、二代目黒川武兵衛(ぶひょうえ)は商才に長けており、藍玉の商いや、日光川の河川整備、築堤に成功し、尾張藩から苗字帯刀を許されたそうである。私の祖先で、そんなに商才に長けた人が居たのかと不思議に思う。二代目武兵衛が、その後の黒川家の財産の基礎を築いた人となった。

話は変わるが、昭和34年に尾西地方は伊勢湾台風により、大水害を被ったことがあった。私は、その時、北海道根室に住んでいたが、母親や兄を見舞いに訪れたところ、名古屋から蟹江駅までは関西線が走っていたが、そこら先は徒歩で永和村に向かったが、歩けたのは日光川までで、そこから先は一面の海であった。私は日光川の堤防に立ち、成る程「俺の先祖は、かくも頑丈な堤防を築いたのか」と感激したことを覚えている。さて黒川家の先祖の話に戻るが、その後も土地を買い増し、大地主となったそうである。

元々、尾西地区は木綿織物が盛んな地域であったが、私の4代前の先祖(3代目黒川武兵衛)は、木綿織物の工場建設に出資し、自ら取締役に名を連ね、綿織物工業に参加し、津島紡績を設立したそうである。しかし、日露戦争の終わった翌年津島紡績の経営は苦しくなり、三重紡績に併合され、大正になってその三重紡績も大阪紡績に合併し、東洋紡績が誕生し今に至っている。ところで、三重紡績大への売却は満足のいく条件で出来て、三重紡績の株主総会で取締役黒川源之亟への感謝状が出され軸装になって残っている。さて、黒川源之亟は明治39年に津島織布(オリフ)株式会社を100%出資で設立し(羊毛の布物)、明治44年以降は、長男黒川源之亟(3代目)を社長として経営に当たらさせた。この仕事は順長に軌道に乗った。私が小学校の頃、女子行員が200名程度の規模であった。

父の黒川武雄は、津島中学を卒業後、盛岡高等農林学校に進学し、卒業後愛知県庁に努め技手(ぎて)として勤務し、その後我が家の祖業である津島織布株式会社の社長を継ぎ、私の幼年時代には、毎日自伝車で津島市まで(約4キロ)通勤していた。まだ戦時中で自動車は普及しておらず、自伝車通勤でああった。毎日、晴れの日も雨の日も4キロの自伝車通勤はさぞ辛かったであろうと思った。

私は、昭和9年(1934)1月に母みつとの次男として生まれた。生まれた時は4キログラムの大きな子供であり、難産だったそうである。兄は長男で黒川家を継ぐが、私は次男で、何等財産の無い貧乏人であることは、幼少期から祖母を通じて教えられていた。

私の幼年期は、真に粗野な少年で、毎日付近の川で泳ぎ魚を釣り、野生溢れて、かつ健康な毎日であった。遊び相手は付近の子供たちで、粗野な言葉使いで遊んでいた。当時永和村には幼稚園は無く、6歳まで集団教育を受けたことは無かった。しかし、幼稚園に通学したことが無い子供時代で、その後、マイナスになったことは無い。むしろ野生溢れた川泳ぎは、私に取って実に懐かしい思い出である。

さて6歳で永和南小学校に入学しが、小学校1年生の成績は、極めて不良で、母親が「黒川家にかって無い成績不良な子供」と嘆いたことをかすかに覚えている。しかし、学校の先生に恵まれ、小学校3年生の時、女の担任の先生に特別可愛がられ、思いがけない優秀な成績をつけてもらった。それに対して私は何とか先生の思いやりに報いる必要があると思い、勉強するようになった。お陰で、2学期には、クラスで1番となり3学期の級長となったが、やがて名古屋から疎開する生徒が増え、どうしてもクラス(学年)で2番の成績しか取れなくなり、6年生の卒業式の学年総代にはなれず、2番で全員を代表して卒業証書をもらう役割であった。母親が大変嘆いたことを覚えている。

卒業前に大事件があった。昭和20年(1945)8月15日、天皇陛下の玉音放送が正午から有り、姿勢を正して聞き入った所、敗戦のお知らせであり、太平洋戦争は敗戦に終わったことを知った。あまり大きなショックは無かったが、戦争に負けた国の先行きについては、全くわからなかった。

9月1日に学校へ行くと、校長先生が、「戦争に負けた。悔しいが負けた」と演説された。これから先どうなるかは何も語らら無かった。校長もどうすれば良いか判断できなかったのであろう。その翌日から、教科書に墨を塗り、鬼畜米英とか日本は神国等を消し、殆ど内容の無い教科書を使用することになった。

それ以上深刻な事態が生まれた。父親黒川武雄が42歳の若さで、心臓病で亡くなった。昭和20年11月のことであり、兄が中学2年生、私が小学校6年生の時であった。

米占領軍は、農地解放を行い、地主から土地を開放し、耕作している農家に無償に近い価格で売渡を命じた。黒川家は、いまだに大地主であり、何百町歩という大地主であったが、一夜にして財産を失った。父は、相当前から敗戦は予想していたようであるが、まさか農地を無償に近い価格で奪われるとは思っていなかったと思う。敗戦以上に父の病死の方が、大きな影響があった。

私の家は、祖母、母、姉、兄、私、妹の6人家族であり、地主の土地を奪われれば、生きていく方法がなかった。そこから先は「売り食い」であり、先祖伝来の財産を売り、それで食いつないでいく生活であった。幸い、父がいろんな物を買い集めており、それが生活費に変わっていった。ひょつとしたら、父は戦争に負けることを予想していたのかも知れない。父は, 昭和10年代にドイツの敗戦後の模様を書いた本読んでおり、タバコ3本とグランドピアノ1台が交換された写真を、私は見たことがあった。第一次世界大戦に敗北したドイツを研究していたことは、良く知っている。そこからすれば、日本がアメリカに負けた時のインフレ、食料不足は予想していたであろう。しかし農地解放、預金封鎖、その後の預金の取り上げ(それによる戦争国債の償還)までは予測していなかったであろう、

乳を失い、田地を失い、我が家の柱が無くなってしまったが、黒川家の財産は、その後10年余の「売り食い」生活を支えてくれた。父親の先見の明に感謝しても,仕切れない思いである。父親の先見の明が無かったら、私たちは、大学は元より、t高校さえ通えなかった知れない。父親に感謝である。

幼児時代、小学校時代の写真は、尾西地区を襲った大洪水のため、すべて流れしまったので、この項の写真はない。ご了承いただきたい。

 

 

 

 

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