私の履歴書(3) 黒川孝雄

昭和24年4月に新制津島高校1年生に編入された。中学校からは無試験であった。同じ校舎、同じ生徒で、あまり高校生になったという自覚は無かった。                高校生になって特段に勉強した自覚は無いが、成績は中学時代に比べれば格段に進歩し、実力試験は悪くとも学年で5番以内(学年)、良い時は1~2番に食い込むことがあった。比較的「良く出来る生徒」の一人となった。中学1年生の時の120番からは格段の進歩があった。特別勉強した訳では無かったが、友人に恵まれた。新しく津金沢君が加わり、それに中学時代からの山中君、清水君と私を含めて4名が仲良しであった。敢えて言えば津金沢君が加わり、全体の1~2番を争う良く出来る友人が出来て、山中君と私の2人の成績を引っ張ってくれた。高校時代を通じて得意な学科は、英語・国語・数学等であり、不得意な科目は理科・化学・体育等っであったが、成績の上では、体育を除き、すべて「優」であったと思う。特に英語は得意で、恐らく学年でも1~2番を争う成績であったと思う。特に橋本先生(女性)には、お世話になり、格段に目を掛けて頂いたと自覚しているが、先生は津島女学校を卒業後、津田塾に進まれた才媛であった。私の伯母と女学校が同期であり、そんな関係もあって、特段に目を掛けられたと自覚している。私自身も英語は得意科目であり、橋本先生が好きであり、英語の勉強には熱が入った。我々より成績が良かったのは横井君と云う熱田中学から転校してきた生徒であった。何横井君の成績が良かったのか判らないが、実力試験では何時も彼に一番を奪われたものである。高校1年生になると、実力試験では、津金沢、山中、黒川の3名が必ず5番以内に入るようになったが、残念ながら1番は何時も横井君に奪われたものである。  私と山中君は、授業を離れても仲が良かった。夏になると2キロ程離れた木曽川に行き、良く泳いだものである。向こう岸の三重県側まで泳ぎ、更に長良川を泳ぎ三重県側まで渡り、そこから引き返すという、学校では禁じられていた泳ぎをしたものである。津金沢君は、父親が津島高校の生後の教師ということもあり、私たちはこのような学校で禁じられていた泳ぎには津金座君は誘わなかった。山中君と2人だけで、三重県側まで泳ぐことが得意であった。こんなことは、高校時代には誰にも話さなかったが、米寿に達した今では、話しても大丈夫だろう。 津金沢君、山中君は理科系、化学系には強く、将来理科系大学に進学することが予想された。私が文系の進路を選ぶこともほぼ確定していた。しかし進路を異にするとは言え、3人は大の仲良しであり、共に今日に至るまで親友の仲である。   女子生徒との同学は、中学時代とは大きな差であった。特に女子生徒に興味があり、良く話題にした、かつ女子生徒とも話したものである。当時の津島高校では、女子生徒と話すだけでも話題になり、噂を呼んだものである。噂を恐れず、女子生徒と話す私は、異常な興味を持って見られたものである。           勉強だけでなく、私は実に良く本を読んだ。文学・歴史が多かったが、特に文学は読みまくったものである。中学の部でも触れたが、私の家には父親が買い残した「明治・大正・昭和文学全集 全60巻」が誰にも読まれず、倉に終われていたものを発見し、全冊を丁寧に読んだ。本が売っていない時代に、この文學全集の発見と読書は、私に計り知れない影響を与えた。明治初年から昭和10年頃までの文学作家の作品をほぼすべて揃えて読むことが出来た。本の無い時代に、この全集が自宅から出てきたことは、私の人生の大きな出来事であった。             従って私は良く本を読んだ。文学・歴史が多かったが、中でも文学は「全60巻」を始め、手当たり次第に読んだ。歴史書にも興味があり、読みまくったものである。

高校2年生の秋に、「文学界」に掲載された井上靖という新人が「猟銃」という作品を発表した。私は、この作家の優れた詩人性に強く惹かれ、全く新しい新人現ると思った。この文学界の「猟銃」の発表で、井上氏は一躍有名になった。私は、一読して、溢れる詩情と、物語性に曳きつけられた。何と、若々しい詩情か、何と、素晴らしい言葉使いか、と感激した。次作は文学界12月号に発表された「闘牛」で、昭和25年2月に芥川賞を受賞した。私は、「闘牛」よりも処女作の「猟銃」を高く評価したが、文学賞は、次作の「闘牛」に輝いた。私の文学評も的を得るようになり、自信を得た。「田舎の高校生の文学評も、まともになった」と鼻を高くしたものである。

高校3年生の私と先生と友人達

(向かって下段右橋本先生、左黒川、上段左より山中君、津金沢君、二人の友人)

文学青年である私は、高校3年生のの夏、高熱にうなされる数日を送った。愛知県海部郡には、通常「おこり」と呼ばれる風土病があった。蚊が媒介する伝染病で、高熱、汗、低熱を繰り返し、3日、4日で治る風土病であり、蚊が媒介する伝染病で、海部郡の風土病であり、4日もすれば治る病気である。ところが、私が高校3年生の夏休みに罹った「おこり」は単純な風土病ではなかった。治るまでに1ケ月以上懸かり、熱も35度まで上がる完全な「マラリヤ熱」であったと思う。思うに、戦争中南方に転戦し、マラリヤに感染した人が、戦後私の家の近くに移り、私は「おこり」ではなく、「マラリヤ」に侵されたのである。高温と低温を繰り返し、激しい疲労に悩まされた私は、完全な熱病患者となった。内地の医師は「マラリヤ病」を知らず、「おこりの薬」しか調合しなかったのである。治るまでに1ケ月以上懸かり、かつ治療後も、頭痛、悪寒にさいなまれ、とても2学期の学校に登校できる状態ではなかった。やや、フテ腐れた私は、2学期を全部休み、3学期になっても登校する気になれなかった。休校中に津金沢君や山中君が心配し、訪ねて来てくれた。感謝しても感謝しきれない気持ちで、今も感謝している。3月期も休み続けた私に、高校の先生は業を煮やし、学校の小遣いさんが「明日から出席しないと学校は卒業出来ない」と通知してきた。私は苦しい体を引きずって、不本意ながら出席した。当然のことながら成績はガクンと下がった。同級生は「黒川君は気が狂った」とまで言われた。何と言われようと、体調は悪く、特に頭脳明晰ではなかった。万一、この時に実力試験が行われたなら、何十番という低位の成績で終わったであろう。しかし、高校3年生の3学期の2月頃に今で云う共通一次試験の第1回全国共通試験が行われた。私の点数は84点であった。津島高校ではダントツの一番であった。先生の話では、私の点数は、愛知県内で10番以内、全国でも80番以内程度とのことであった。「気が狂った」とまで言われた私は、相変わらず学年で1,2位を争う秀才と評価されるようになった。その共通一次試験とは積木の計算をするようなつまらない試験であったが、採点されれば、現実である。一橋大学では、60点で足切りをした。東大や名大では200点満点で加算された。つまらない問題ではあったが、結果は思いがけないものとなった。私は再び秀才となり、一橋大学を受験した人は、受験すらできなかった。私には思いがけない助け舟であり、ある人にとっては思いがけない災難であった。一番最初の全国共通一次テストは忘れられない思い出である。

さて、津島高校の卒業式生代表の答辞や、卒業証書の代表者は誰であったか、全く覚えていない。少なくとも私でないことは間違いない。多分、津金沢君辺りかも知れないが、全く記憶にない。一つ記憶に残っていることは、高校3年生3学期の成績表はすべて5であり、最高ランクであった。体操など不得意な科目まで最高の5であった。小学校以来、このような好成績は一度もなかった。学年代表にも選ばれなかった代わりに成績表で、思い掛けない得点を呉れたのであろうか。今でも不思議である。偏に三輪先生(担任)の学恩と深く感謝している。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です