私の履歴書 (4)       黒川孝雄

昭和27年4月1日に名古屋大学経済学部に入学した。入学試験の成績は判らないが、比較的高く悪くとも4~5番以内(経済学部)で入学したと思う。奨学資金の推薦順位が4番であり、父親が死亡していることや、入学共通試験が200点満点で計算されていることを考えれば4~5番と云うのは、それ程的外れではないと思う。                                   教養部は、旧制八高の校舎であり、多分先生も旧制八高の先生が大半を占めていたと思う。教養部では、第二外国語としてドイツ語を選択したが、その後の人生を振り返っても、殆ど役に立たなかった。むしろ英語をもっと勉強すれば、少しは役に立つレベルまで進歩したのではないかと思う。しかし、大学の教養部ともなれば、やたらと第二外国語、場合によっては第三外国語としてフランス語を学ぶ人もいて、やたらと教養の広さを求めた人もいた。ドイツ語、フランス語とも全く役に立たず、英語も満足に話せない外国語音痴のまま、大学を卒業し、今日に至っている。                                   教養部の時代にヨット部に入り、名古屋港でヨットの基礎を練習した経験がある。私は、中学時代からボートを数隻保有し、毎日近所の川でボートを漕いで遊んでいた。それは、たまたま戦争中に津島港に係留されていたボートが、戦争で貸し出せなくなり、父親がまとめて15艘のボートを買ってきたからである。ボートというものは、手入れをし、パテをしっかり詰めないと、水漏れがして使い物にならない。父親は、その辺は知らずに買ったらしく、結局1艘のみにパテを詰めて、小学校5年生から高校生にかけて、毎日のように付近の川で漕いで楽しんでいた。従ってボート漕ぎには、絶対の自信があったが、ヨットは初めての経験であり、実に楽しい思い出である。しかし、波に揺れた体感が夜まで続き、夜、体が揺れて、満足に眠れない症状に襲われ、ヨット部は残念ながら半年で退部した。残念であった。   3年生になると、経済学部は、旧制名古屋高商の校舎に移った。名古屋大学は、昭和24年(新制大学発足)から昭和31年まで、東山に新校舎が完成するまで、旧制八高とか旧制名古屋高商とか、昔の陸軍の建物(例えば文学部、法学部等)を使用する等、酷い校舎事情であったが、卒業後、昭和32年頃には東山に新校舎が完成し、そちらに文系は全部移転したそうである。尚、私は新校舎を見たことは無い。写真で知るのみであり、私達には無縁な校舎であり、一口で言えば、酷い環境で大学を卒業した。                             3年生になると学部に進学する訳であるが、ここは教養部と違い、専ら経済学及びその関係学問を勉強することになった。新しい経済学部は旧制名古屋高商の校舎に移った。大学は昭和20年代から30年初期にかけて、満足な校舎も無、醜い環境であった。                                ゼミナールは、私は古典経済学のアダム・スミスを専攻したと思っていたが、担任の水野助教授が、アダム・スミス研究のため、英国に留学され、水野ゼミの募集は無かったため受講できなかった。そのため、経済史を専攻することとし、四方教授のゼミを選んだ。四方先生のゼミは13名で、成績の良い人も、悪い人も含んだ面白いゼミであった。                            ゼミの進め方は、英語の「イギリス経済史」を各自が読んで、読みながら質疑を交わし、13名は非常に仲が良く、先生を交え奈良へ遊びにいったことがある。  卒業後も、同窓会をしばしば開き、私が京都支店長をしている時, 京都で同窓会が開かれ、お昼に馴染みの京都の有名料亭へ案内したところ、そこでは気を使って、一番良い部屋を用意してくれたことを覚えている。同級生は、「流石に明治乳業の支店長だけのことはある」と褒めてくれたことを思い出す。

四方ゼミの同窓生の写真

四方ゼミの同級生は、どういう訳か短命者が多く、現在まで生きているのは私を含めて3名程度である。四方ゼミの亡くなった同級生に深く哀悼の意を表したい。私の卒論は、「イギリスにおける綿織物工業の資本主義的発展について」というテーマで、珍しい論文であった。イギリス経済では、毛織物工業の発展については、実に著作物が多いが、綿織物工業の資本主義的発展については、実に著作物が少なく、私の知る限りでは、当時(昭和31年頃)北大の教授が、北大の雑誌に論文を発表されていた程度であり、極めて珍しい研究であったと思っている。私が、あえて、毛織物工業では無く、綿織物工業を選んだのは、黒川家が明治時代に地主的資本から綿織物工業に発展したが、大資本に苦しまされ、その株式を日本の大資本に売却したことがあり、綿織物工業には、非常に興味があったからである。黒川家の綿織物工業の資本は、現在の東洋紡に受け継がれた。             大学3年生になると、就職が一番大きな問題であった。当時は朝鮮動乱が終わり、日本経済は低迷の時期であり、就職先は非常に厳しい選択を問われた。私は、名古屋に住む理由は無く(次男のため)大阪でも東京でも、日本全国どこでも良かった。名古屋に本社地を求めるケースは厳しい選択を問われたと思う。就職難ではあったが、全国どこでも勤務できる場合は、選択肢が多く、結局私は、明治乳業と経済専門誌(本社・東京)の2社の内定を得ることが出来た。四方先生に相談したら「君なら無条件に経済雑誌社を勧める」と、一言の下に助言された。母親は、「是非、一部上場の明治乳業に入りなさい。迷う余地は無いでしょう」と明言した。結局、私は、四方先生の助言を入れず、母親の指示に従い、明治乳業に入社することにした。この決定は、私の運命を大きく左右することとなった。後年、結婚をする時、現在の妻と見合いし、結婚することを決めたが、家内は、私が雑誌社を選んでいたら、絶対私とは結婚しなかった、と言った。就職先を決める場合は、結婚相手まで変えるのかと実感した。結論として明治乳業は、私にとって、非常に良い就職先であった。転々と勤務地は変わったが、人間関係に恵まれ、良き仲間、良き上司に恵まれたサラリーマン人生であった。給料はさほど高くないが(世間並)、ボーナスは驚くほど高く、1年後の夏のボーナスは100万円以上の手取り額であり、もらった私が驚くほどの金額であった。私は、この会社で様々な知識と能力を身につけ,定年後(63歳まで子会社の社長)3年間の子会社の社長を継続して勤務し、その間に、縁あって一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会会長を務めることになった。全国社団法人の会長は、黒川家では私が最初であり、親戚から東山魁夷の絵画を記念品として頂いて、毎日眺めているのである。思えば恵まれた人生のスタートは、戦後の名古屋高商と八高の校舎で学んだ結果であった。

一つ忘れられない記憶がある。私が大学3年生の秋、兄(高校教師)と2人で、鈴鹿山脈の一峰に登ったところ、驟雨に見舞われ、日帰り予定が、帰れなくなり、登山小屋(無人)を見つけて2泊することとなった。3日目の朝、好天となり山から帰山して、バスに乗ったところ、青年団が山狩りに出かけようとした所へ、バスで帰山した2人が乗っていることを発見して、山狩りを中止する事となり、大きな問題もなく帰ることができた。

四方ゼミの同級生は、どういう訳か短命が多く、現在まで生きているのは私を含めて3名程度である。四方ゼミの亡くなった同級生に深く哀悼の意を表したい。  私の卒論は、「イギリスにおける綿織物工業の資本主義的発展について」というテーマで珍しい論文であった。イギリス経済では、毛織物工業の発展については、世界的にも素晴らしい著作物が多いが、綿織物工業の資本主義的発展については、実に著作数が少なく、絶無と言って言い過ぎでは無いほどであった。あえて、毛織物工業では無く、綿織物工業を選んだのは、黒川家が明治時代に地主的資本から綿織物工業に発展したが、大資本に苦しまされ、その株式を日本の大資本に売却したことがあり、綿織物工業には非常に興味があったからである。黒川家の綿織物工業の資本は、現在の東洋紡に受け継がれた。その工場は、私が大学生の頃まで存在していたが、現在はどうなっているかは知らない。                大学3年生の後期になると、就職が一番大きな問題であった。当時は朝鮮動乱が終わり、日本経済は低迷期であり、就職先は非常に厳しい選択がを問われた。   私は、名古屋に住む理由は無く(次男のため)、大阪でも東京でも、日本全国どこでも良かった。名古屋に本社所在地を求めるケースは厳しい選択を迫られたと思う。就職難ではあった、全国どこでも勤務できる場合は、選択肢が多く、結局私は、明治乳業(現在の明治)と経済専門誌(本社・東京)の2社の内定を得ることが出来た。四方先生に相談したら、「君なら無条件に経済雑誌社を勧める」と、一言の下にじょげんされた。母親は、「是非、一部上場の明治乳業に入りなさい。迷う余地は無いでしょう」と一言の下に名言された。結局、私は、四方先生の助言を入れず、母親の懇望に従い、明治乳業に入社することにした。         この決定は、私の運命を大きく左右することとなった。後年、結婚する時、現在の妻と見合いし、結婚することを決めたが、家内は、私が雑誌社を選んでいたら、絶対私とは結婚しなかった、と言った。就職先を決める場合は、結婚相手まで変えることを実感した。結論として明治乳業は、私にとって、非常に良い就職先であった。転々と勤務地は変わったが、人間関係に恵まれ、良き仲間、良き上司に恵まれたサラリーマン人生であった。                       給料はさほど高くないが、ボーナスは驚くほど高く、1年後の夏のボーナスは100万円以上の手取り額であり、もらった私が驚くほどの金額であった。     私は、この会社で驚くほどの知識を身に着け、定年後3年間は子会社の社長を継続して勤務し、その間、縁あって一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会の会長を2年間務めることになった。全国社団法人の会長は、黒川家では私が最初であり、親戚から東山魁夷の絵画を記念品として頂いて、今も毎日眺めている。   思えば恵まれた人生のスタートは、戦後の八高と名古屋高商の校舎で学んだ結果であった。                                 一つ忘れられない記憶がある。私が大学3年生の秋、兄(高校教師)と2人で、鈴鹿山脈の一峰に登ったところ、驟雨に見舞われ、日帰り予定が、帰れ無くなり、登山小屋を見つけて2泊することとなった。3日目の朝、好天となり山から帰山してバスに乗ったところ、青年団が山狩りに出かけようとした所へ、バスで帰山した2人が乗っていることを発見して、山狩りを中止する事となり、大きな問題も無く帰ることができた。しかし、心配した母親は、新聞社の勧めに従い「兄弟2名、鈴鹿山脈で遭難か」との記事になり、大勢の方に迷惑をかけ、中でも母親が如何に心配したかを思い、「申し訳ないことをした」と心底から感じた事件がった。大学ではあまり気付く人もいなかったが、高校時代の友人が何人か心配して尋ねてきてくれて、心配を掛けたことは、私の生涯の最大の不祥事であった。大学生の私は心配事で済んだが、社会人とんった兄上には,大変大きな迷惑を掛け、かつ母親がどんなに心配したか、申し訳ない事件であった。                  卒論も提出し、3学期最後の試験も受けて、無事大学を卒業した。山登り、スキーに明け暮れた4年間であった。

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